夢を見た。
西日のあたる教室。私はそこに一人立っていて、自分の机を眺めてる。何年も使われているからか、その表面は沢山の傷でぼろぼろになっていて。誰がつけたんだろうなあとか考えて、それから顔を上げる。黒板には、沢山の落書き。消し忘れたにしては随分と派手に過ぎる。全て見る気は無いけれど、その中央に書かれた文字を見て、私は廊下へ駆け出すんだ。
誰もいない廊下。赤いリノリウムの床は西日と影で燃えているようで。遠くから、聞き慣れた声達と、後姿が見える。知っている、私はこの声の主を知っている。声を出そうとして、名前が出ないことに気づく。
彼女達が、階段へと消えていく。このままではいけない気がして、なりふりなんか構っていられなくて、私は彼女達の後を追う。階段を駆け下りて、校門を出て、見慣れた何時もの通学路を走って。そして、必ずあの坂の上で彼女たちに追いつくんだ。
彼女達は私に全く気付いていなくて、でも名前を呼ぼうにもその名前が出てこなくて。なんでもいいから声をかければいいのに、私にはそれも出来なくて。彼女達が坂の向こうへと消えていくのを、荒い息を整えながら見ることしか出来なくて。彼女達が坂の向こうへと消えたところで、ようやく私は声を出すことが出来るんだ。
「――!」
そこで、視界は見慣れた天井を映して。ようやく私はそれが夢だったと知ることが出来る。
愛用のパジャマは寝汗でぐっしょりと濡れている。このままではきっと風邪を引いてしまう。時計を見ると、普段起きる時間よりも一時間も早い。着替えるついでに、湯浴みも済ませてしまおう。普段よりも冷えている廊下を、足早に駆け抜けた。
原因は、わかっている。カレンダーを見て、私は一つ溜息を吐いた。赤い丸でつけられた日付は、もうすぐそこまで近づいていた。
着替えを済ませて朝食の準備をしようというところで、居間の卓袱台に紙が置かれているのに気がついた。やたらと達筆な神奈子様の字だ。どうやら諏訪子様と一緒に朝も早くから出かけてしまったらしい。夜には帰るとだけ書かれたその手紙を見て、寝なおそうという考えよりも、朝食を少なく作ることの面倒臭さが先に来たことに、思わず一人で笑ってしまった。
どうしようか。夢の内容は、もう思い出すことも難しい。だけれど、その内容はなんとなくわかる。夢を頻繁に見るようになってから、気分もあまり晴れない。台所からは、目を細めたくなるくらいの光が、窓から入っている。くうとお腹が鳴ったことを確認して、とりあえず朝食を作ろうと決めた。
カレンダーの赤丸。その中にあった字が、一瞬脳裏にちらついた。
『卒業式』
みんなは、一体どうしているだろうか。
マヨヒガ。まだ日も昇りきらぬ時間帯だが、その庭には一つの影が動いていた。九本の尻尾をゆらゆらと動かしながら、八雲藍は箒を動かしていた手を止めた。ふうと一息をつく、寒の戻りとでも言うべきなのだろうか、吐いた息が白く煙った。
朝食の準備は既に済んでいる。もう少ししたら主を起こしに行かなくてはならない。寝起きの悪い主は、自分から起きてくるということは全くと言っていいほどに無い。だが毎日のそんな面倒ごとも、人の営みを永く見てきた藍には幸せなことなのだと感じられる。そうでなかったら、朝食など作らぬし、庭掃除など術や式にやらせればいいのだから。
主を起こす時間まで、炬燵にでもあたっていようと思ったところで、異変を感じた。
「……何者だ?」
誰かが、この場所に入ってきたのだ。この場所は、まぐれというもので入ってこれるほど、ちゃちな術式を組んではいない。となると、それなりの力を持っているには違いない。警戒はしつつも、敵意を感じないのが、藍がその場に立ち続けた理由だろう。もし少しでも攻撃的な意思を感じたならば、その瞬間に攻撃を始めている。
空を見上げる。影が二つ、見たことのある姿だった。それらが藍の前に降り立つ。目の前に立つ二柱……八坂神奈子と洩矢諏訪子に、藍は軽く一礼した。
「朝も早くから、ごめんなさい。紫さんはいらっしゃいますか?」
今回が始めての接触というわけではない、宴会を通じて何度かこの神達を見たことがあるし、その際に話したこともある。その記憶を思い返す限りでは、目の前にいるこの神は、もっと砕けた話し方をするはずだと思ったのだが。
とりあえず思考を一旦頭の隅に追いやって、用件を窺う。神奈子は紫に用があるとしか言わなかった。
「早苗のことで、ちょっとね」
神奈子の後ろにいた諏訪子が、言葉を足す。藍が見た感じでは、二柱に焦っているような様子は見受けられない。しかし、こんな朝早くから来るということはそれなりに重要な話ではあるのだろう、特に敵意も悪意も感じられない。それらの情報を瞬時に統合して、藍は神達を紫にあわせても問題は無いという結論に達した。
構いませんよと一言、家の中に招き入れようとしたところで、藍の耳がぴんと立った。そういえば、紫はまだ布団の中だということに気がついたのだ。紫は寝起きが非常に悪い。それに比例して、自然藍の起こし方も激しくなってくる。流石に神が近くにいるような時に、幻想郷の管理者ともいえる主の醜態を見せるのはいかがなものか、威厳も何もあったものではない。かといって、仮にも客人として認めた者を寒空の下に放置するのもいただけない。どうしようかと考えていると、玄関の戸が開いた。
「何をしているの藍、早くお二方を。ようこそマヨヒガへ。朝食も一緒にいかがですか?」
既に着替えまで済ませている紫を見て、毎日誰か来てくれないだろうかと藍が思ったことを知る者は、本人を除いて誰もいなかった。
「こんなところにいたのですか。探しましたよ」
本殿裏の湖を眺めていた早苗に声をかけたのは、鴉天狗の射命丸文だった。普段ならば神奈子なり諏訪子なり、もしくは早苗本人なりが神社にいるので、神社が留守になることはそうそう無い。ごめんなさいと早苗が謝ると、文は笑いながら気にしないでくださいと返した。近日中に天狗お偉方の宴会があるので、その誘いのことだった。今は神奈子達がいないので、帰ってきたら伝えておくと早苗は返した。
「何か、あったのですか?」
「どうして、そう思うんですか」
「普段の元気が無いように思えまして。といっても、そんなに物憂げな表情をされていては、見知った仲ならだれでも変化に気付きますよ」
幻想郷に来てから、確かにここまで気分が沈んだことは無かったかも知れない。来たばかりの頃は忙しくてそれどころではなかったし、慣れてきてからは、沢山の出会いがあって楽しくないことが無かった。少しばかり、顔に出やすい自分を早苗は恨めしく思った。
文も早苗に倣い、近くの岩に腰掛けて湖を眺める。早苗はその様子を横目で見た。とがった耳に黒い羽、それさえ除けば、いやそれを含めても、射命丸文はあまりに人間に近い姿だった。だからかもしれない、ちょっと聞いてみようと思ったのだ。
「文さんは」
「はい?」
「あ、いや。天狗の皆さんには、儀式とかってあるんですか?」
「儀式、というと……?」
「なんというか、こう、大人として見られるための儀式とか、そういうのって、あるのかなあって思って」
文は、あまり早苗と親しい会話をしたことが無い。普段から彼女の周りには小うるさい神が目を見張っているというのもあるし、どちらかといえばネタは神たちのほうが提供してくれるからだ。最初に見たときは、随分と内向的に見えたものだ。生活することが出来るのだろうか、面倒ごとは起こさないだろうかと最初は思ったものだが、段々と幻想郷に馴染んで行く彼女の様子を見るのは、同じ世界に生きるものとして、純粋に嬉しいというのもあった。そんな少女が悩み、自分に聞いてくるのだ。興味が無いわけでもなかった。
「元服みたいなものですか。そうですねえ、儀式というか、ある一定の年齢に達したものは天魔様に一対一でお目通しされますが、それぐらいですね。悩んでいるのは、そういう関連ですか」
「……外の世界には、卒業式という行事があります」
「卒業式?……ああそういえば、結界が張られる前にそんなものを見たことがあるような気がします」
「外の世界には学校……ああ、この世界の寺子屋みたいなものがあるんですが、そこでは一定の期間を過ごして、充分に学んだ者は、その学校を卒業することが出来るんです」
「なるほど。周りから大人として認められる、っていう解釈で合っていますか?」
「はい。そろそろ、ここに来る前に私が通っていた学校の卒業式があるんです。それでちょっと色々と、考えていました」
「なるほど」
会話はそこで途切れた。お互いの視線は湖を向いている。波の無い湖面は、大きな鏡が横たわっているように見える。
話の内容は理解できたが、正直な感想として文には早苗の感情を理解することは難しかった。それはなにも考え方の違いとか、そういうことではない。それは、早苗と似た境遇の者にしか理解が出来ないものなのだと理解した。
文自身にも、若いころに悩んだことは沢山あった。それは今となっては笑えるものだったり、諦観してしまったものだったりと様々だが、いまはそうやって自分の中で折り合いがついている。そして、きっと早苗が今考えているのはそういうことなのだろう。それは今まさに過ぎようとしている者が必ず考えるものであり、もう過ぎてしまった者には共感が出来ないものなのだ。そして、それを口に出すほど文は愚かではなかった。
「私は妖怪ですから、きっと早苗さんの考えを完全に理解することは出来ません」
「……まあ、はい」
「ですから、もっと貴女に近しい存在、例えば霊夢さんや魔理沙さんなんかに聞いてみるのはどうでしょう。同じ人間、それに歳も近い。聞いてもらうだけも楽になると思いますよ」
一緒に共感するのではなく、より答えの近いところに導く。それが年長者の務めだと文は思っている。文の言葉を聞いて、早苗はそうですねと頷いた。これ以上長居するのも無粋だと、文は翼を広げる。巻き起こった風が、微かな波となって湖面を揺らした。
「ああ、それと」
「はい?」
「出来れば、その表情は止めたほうがいいと思いますよ。そんな表情で里を歩いていたら、男達から声をかけられて考えも纏まらなくなってしまいますから」
早苗の表情が、笑みで柔らかくなる。お互いに笑いあって文は湖を後にした。
「大人になったって思った時かあ」
早苗が最初に出会った知り合いは、魔理沙だった。里にに向かう途中で偶々出会ったのだ。里の大通りにある茶屋で団子を頬張りながら、魔理沙は空を見上げた。
「なんかいやらしい響きだな」
「ふざけないでくださいよ。真面目に聞いてるんですから」
「あはは、ごめんごめん。そうだなあ、大人になった時っていうか、認められたと思ったのは、お師匠様がいなくなったときかなあ」
緩やかにウェーブのかかった自身の金髪を、魔理沙はくしゃりと撫でる。小さな身体で団子を頬張りながらぽけぽけと空を眺めるその様子は、小動物的な庇護欲が掻き立てられる。そんなことを言ったら、きっと機嫌を損ねてしまうだろうからと、早苗はあくまで考えるだけに留めた。
「それまではお師匠様と一緒に生活してたんだけどさ、一通り魔法を教えてもらった後に、お師匠様は姿を消した。確か当時はわんわん泣いたなあ。うん」
「怒ったり、恨んだりとかはしなかったんですか?今よりも小さかったんでしょう」
「今よりも、は余計だ。そうだな、最初は私に才能が無くて捨てられたとも思った。何も言わずに書き置きも無しだったしな。けど、家事は一通り教えてもらっていたし、魔法についても基礎は叩き込まれてた。一人での生活に慣れた時に、ああ、いっぱしとして認めてもらえたんだなあと思ったよ」
「私には無理ですね。絶対に餓死しちゃいますよ」
「そういうことも何度もあった。けど、まあこうやって今も生きてるしな。問題ないさ」
何時だったかは忘れてしまったが、早苗は以前に魔理沙に年齢を聞いたことがあった。森暮らしで一々数えてはいないといったが、それでも見た感じでは自分よりも一つ二つは年下に見える。そんな少女が、まだ年端もいかない頃から一人で生活していたのだ。自分が子供の頃はどうだっただろうかと思わず考える。そこにあった思い出には、笑顔の両親と、二柱の神がいた。きっと、それは幸せなことなのだろう。幸せの形は人それぞれだと昔誰かが言っていたのを思い出したが、少なくとも家族と一緒にいられるというのは、早苗にとっては幸せだった。
ありがとうございましたと感謝を述べ、会計を済ませる。咲夜と霊夢、どちらを尋ねようかと考えていると、魔理沙が紅魔館へ行くというので一緒についていくことに決めた。どうせ時間はあるのだから。
思えば、神奈子と諏訪子のことを気にかけずに時間を過ごすというのは久しぶりだ。外の世界にいた頃は、学校までは二柱もついてこなかった。そのときのことを考え、少し気分に波が立った。
「大人になったと思った時、ね。申し訳ないけれど、私にはわかりかねるわ」
場所を紅魔館へと移した早苗は差し出されたティーカップに口をつけながら、咲夜の言葉を聞いた。魔理沙は早々に図書館へと向かってしまい、今は食堂で咲夜と二人である。突然の訪問に謝ったが、どうやら主であるレミリアは妹とチェスの真っ最中らしい。ちょうど暇だったのよという咲夜の言葉に、少しだけ救われた。
「わからない、というのは……正直、少し言いづらいのですが、咲夜さんは私の知っている人間の中では、特に大人びて見えるので」
「構わないわよ。そう言われるのは嫌いじゃないし。ただ私、自分の正確な年齢もわからないから」
咲夜の意外な言葉に、早苗は目を見開く。魔理沙だけならともかく、咲夜まで自分の年齢がわからないというのは初耳だったからだ。どうしてか尋ねようと思ったが、年齢の話だ。正直に聞くのもはばかられる。咲夜が笑っているのに気付いて、またも顔に出ていたかと少し恥ずかしくなった。どうせばれてしまっているのだ。失礼を承知で尋ねると、咲夜は自分の髪先を弄りながら口を開いた。その様子に、普段の機械的な印象ではなく、十六夜咲夜という人間のイメージを初めて抱いた。
「私、ここに来る以前の記憶が無いの。だから、正確な年齢もわからない。貴女たちとそう変わらないとは思うんだけど」
「記憶、喪失ですか」
「違うわ。自分から頼んでパチュリー様に消してもらったの」
「どうして、そのようなことを?」
「お嬢様に拾ってもらって、十六夜咲夜という名を貰った。だから、それ以前の私はもう必要ないと思ったの。もう思い出せないけれど、消してもらおうと思ったくらいなのだから、きっと碌でもない記憶だったんじゃないかしら」
「そんなことは……」
「ありがとう、けどいいのよ。私は今の生活に満足している。だから、それでいいの」
そう言われてしまっては、続く言葉も出てこない。なんと返していいのかわからず、しばらくの後に早苗から出た言葉は、すいませんだった。咲夜はくすくすと笑う。本当に気にしていないのだろうか。もしそうではなくても、きっと自分には見抜くことは出来ないだろう。空になったカップが、いつの間にか紅茶で満たされているのに気付いて、早苗はそう結論付けた。
「けど、どうして急にそんなことを。嫌らしい言い方かもしれないけれど、身体的な面も精神的な面も、貴女は充分に大人だと思うけれど」
「あ、いや。そういうことじゃなくて……」
朝に文と話した内容を伝える。静かに、けれどきちんと話を聞いている咲夜の素振りは、何時か教師と面談したときの雰囲気と似ていた。
「……なるほどね。区切り、というか、なんというか」
「本当にいきなりですいません。ただ、同じ年代の人に聞けば、何か違う考え方がみつかるかなあって」
「貴女、本当に良く謝るわね。黒白鼠に見習わせたいくらい。けれど、仕方の無いことかしら。あの子、まだ子どもっぽいし」
「子どもっぽい、ですか」
「子どもっていうより、妹」
「妹?」
「それもやたらに手のかかる」
くすくすと、二人の少女は笑いあう。ほんの少し、咲夜との距離が近くなった気がした。
しならく雑談をしていると、慌しく魔理沙が食堂へやってきた。どうやら今から魔法の実験を行うらしい。言うだけ言ってそれこそ嵐のように去っていった魔法使いの姿を見て、咲夜は早苗に向けて片目を瞑った。
「ね?」
紅魔館を後にし、博麗神社へと早苗は飛んでいた。風に身を任せるようにゆったりと飛びながら、先ほどの咲夜のことを思い返す。
きっと、彼女は既に「過ぎてしまった」者なのだ。もしかしたら間違っているのかもしれないが、多分そうだろうと早苗は考える。魔理沙もきっとそうだろう。そんなことを考え、自分と比較し、溜息を吐いた。くだらないことで悩んでいるような気がしてしまう。
ふと、外の世界にいた頃を思い出した。皆が一緒に学校生活を共有し、一緒に卒業する。皆の歩みが一緒だということに当時は何の疑問も抱かなかったが、今になってわかる。あれは優しく、そして残酷なシステムなのだと。
もし、自分が外の世界でこんな感情を抱いたら。どうなっていただろうか。それを友人達に話し、時に茶化され、時に真面目に語り合いながら、日々の生活で風化していくのだろう。それはそれで納得できるのかもしれない。だが、現にこうして自分は悩んでいるのだ。
こんな時に、外にいた友人達はなんと言ってくれるのだろうか。心の奥に残る景色を追う自分が、嫌になる。これではまるで、外の世界に戻りたがっているようではないか。不毛な考えをしていると早苗が何度目かの溜息をついたとき、博麗神社の大鳥居が見えてきた。
ふわりと境内に降り立ち、霊夢の姿を探す。ほどなくして、というよりかは案の定といったほうがいいのかもしれない。縁側で茶をすする霊夢の姿を見て、心の波が落ち着いた気がした。霊夢も来客に気がついたのか、いらっしゃいと早苗に告げる。横に置かれた盆に自分以外の湯呑みがあるのを見て、思わずくすりと笑ってしまった。
「で、何の用よ。面倒ごとは嫌よ、忙しいんだから」
「説得力ありませんよ、それ」
霊夢の横に腰掛けて、差し出された茶に口をつける。太陽は既に中天を越えている。もう少ししたら、茜空と共に烏達が鳴き始めるだろう。夕闇の時間帯によく自身に訪れる、原因の無い寂寞の気持ちが、早苗は好きだった。
「霊夢さんは」
「ん」
「自分が大人になったと自覚した時ってありますか」
「ん~……特に無いわね」
「なんとなく、そう言うと思ってました」
「なら聞かなくてもいいじゃない」
すこし不機嫌な表情を浮かべる霊夢を見て、早苗の顔には思わず笑みが浮かぶ。こういうのを自然体というのだろうか。
「大人とか、子どもとか。知ったこっちゃ無いわ。私は私よ」
「成る程」
「食べて寝てれば、身体は勝手に大きくなる。それが止まると、今度は段々小さくなっていく。そして死ぬ。人間だけじゃなくね。生き物ってそういうものだと思うのだけれど」
霊夢と個人的にこういう話をしたことは初めてだった。朝からの出来事を、早苗は順を追って話していった。卒業ということについて。文との会話、魔理沙と咲夜との話を、霊夢は時に相槌を打ち、時に薄く笑いながら、始終を聞いた。
「霊夢さんは、私のこと、どう思いますか?」
「ん?ん~……大人に見えるかってことかしら」
「私は、自分自身まだ子どもだと思っています。魔理沙さんや霊夢さんのように自分一人で生きていけるほど強くは無いと思っていますし、咲夜さんのようにもなれません。だから」
「じゃあ、子どもなんじゃない?」
意外だった。霊夢の言葉ではなく、そう言われても特に気持ちが波立たない自分が、である。
「そういうことを、他人に求めるのは良くないと思うわよ。比べるのもね」
「それは、そう、ですね」
「区切りをつけるためにどうしたらいいのか、私にはわからない。外の世界も知らないし、第一私は貴女じゃない。今日やってきたことを無駄と断ずる気は無いけれど、やっぱり、最後は貴女次第よ」
そう言うと、霊夢は境内へと歩いていく。手招きされ、早苗も着いていった。しばらく歩いた場所の先、博麗神社の裏側の森へと案内された。
「ここは?」
「この森の先は、外の世界に繋がっている。外来人が迷い込んだ際は、ここからお帰りしてもらっているわ。普段ならもっと奥まで案内するけれど、貴女なら、特に迷うことも無いでしょう」
霊夢の顔を見る。その表情からは、感情といったものは読み取れない。強いて言うなら、普段どおりの表情をしている。先程までと違い、早苗は、自身の心が急速に波立っていくのを感じた。
「この先の結界を出れば、外の世界に出られるわ。ただ、その後戻ってこれる可能性は、ほぼ無い。ここを出るということは、貴女がそう思っていなくても、この幻想郷を否定することになる」
幻想郷に来たばかりの頃に、話だけは聞いたことがあった。だが、現実に見せられても。まったく現実感が無い。聞こえてくる霊夢の言葉を、文字通り聞くことしか出来ない。理解が出来ないのだ。
「……私は戻るわよ。お茶、冷めちゃうし」
「霊夢さん」
「出て行っても、残っても構わない。今決めろとは言わないし、そもそも私にそんな権利は無い。いつでも構わないのよ。ただ、貴女には選択肢があるっていうのを見せたかっただけ」
「霊夢さんっ」
「貴女が決めなさい。卑怯かもしれないけれど……お茶、入れなおしておくわよ」
「霊夢さん!」
何度早苗が名前を呼ぼうとも霊夢が振り返ることは無く、境内へと消えていった。気がつくと早苗は一人森の前に取り残されていた。そんな彼女の頭の中に最初に浮かんだのが、神奈子と諏訪子の顔だった。
そうだ、まずお二方に話をしてからじゃないと。そう考えた自身の心を、もう一人の自分が否定する。
お前は、自分では何も決められないのか?
重要な決断をする際に、他の者に意見を聞くことは重要なことである。しかし、そんな当たり前のことがわからないほどに、早苗は動揺していた。
森を見、神社を振り返り。そんなことを何度も繰り返しているうちに、自然、涙が零れて来た。
「卑怯だよ、こんなの」
誰が卑怯か、何が卑怯なのか。そんなことは早苗自身にもわからない。ただ早苗に出来たことは、その場で涙を流すことだけであり、日も暮れてしばらくした頃に早苗は縁側へと足を向けるのだった。
日も既に暮れ、寒さが厳しくなっているのにも拘らず、霊夢は未だに茶を啜っていた。その姿を見て、またも視界が歪む。何も言うことが出来なくて、早苗は霊夢の胸元に抱きつき、再び泣いた。
「……紫に、神奈子への書置きを頼んでおいたわ。この前少し多めに味噌を貰ったの。お味噌汁、飲んでいきなさい」
早苗は頷く。早苗が泣き止むまで霊夢は何度もその背をさすり、よしよしと声をかける。その度に早苗は頷いた。
その夜、二人は一緒に夕食を摂り、共に裏手の温泉に入り、一つの布団で寝た。その間霊夢は特に何も言わず、それが早苗の高ぶった感情を静めていった。一緒に寝ようと誘ったときは流石に不機嫌な顔をしていたが、そんな、普段と変わらぬ霊夢の態度に早苗は感謝していた。
隣では、既に霊夢が微かな寝息を立てている。起こさぬように気を払いながら、横を向いていた自分の身体を仰向けにした。
寝る直前に霊夢が言っていたが、明日は夜から宴会らしい。理由を聞くと、少し早い花見とのことだった。本当に騒いでばかりの知り合いたちの顔を思い浮かべ、早苗は一人笑う。
段々と意識が眠気に奪われていく。思いっきり泣いた所為もあるのかもしれない。やたらと身体が疲れていた。
目を閉じる。意識が遠のく直前に、外の世界のことを思い出した。
私は、外の世界に行きたいのか。行ったとして、何がしたいのだろうか。その答えは、手放した意識と共に闇の中に消えていった。
明日は宴会。その次の日は、卒業式だ。
次の日の夜、博麗神社の境内は、様々な人妖でごったがえしていた。それに比例するように、調理場も慌しい。その中で、早苗は調理の手伝いをしていた。
朝起きたときは自分の痴態を思い返して恥ずかしくなったが、特に変わらぬ霊夢の態度のおかげか、今は気持ちも落ち着いている。
鍋に入れる食材を切っていると、第一陣の配膳を終えたのだろう、咲夜が調理場へと入ってくる。お互いに目を合わせ、軽く笑いあった。
「結局、何かわかったの?」
「いいえ、何もわかりませんでした」
「そう、そうね。そんなものよ、きっと」
お互いに視線は食材に向けたまま、言葉を交わす。勝手口に作った臨時の調理場では、妖夢が何者かをたしなめる声が聞こえてくる。気がつくと、調理場には人間達が集まっていた。境内の方からは、何をやっているのだろうか妖怪たちの歓声が聞こえてくる。いい迷惑だわと霊夢が溜息混じりに呟くのを見て、調理場の住人達は笑った。
「そういや妖夢がさっき言ってたぜ。どうして私は聞かれなかったんだろうかってさ」
「ちょっ、魔理沙。その話は言わないでってさっき……」
「どうせこの後酒が入るんだ。誰も憶えちゃいないさ」
「魔理沙に言った貴女のミスね、妖夢。この子に餌をあげちゃ駄目よ。なんでも齧るから」
「齧る?」
「鼠だから」
肩をすくめながらの咲夜の切り返しに、霊夢が違いないわねと追い討ちをかける。皆が笑い合う雰囲気は、早苗にとっては居心地のいいものだった。
料理を一通り出し終え、早苗達も宴会の席に加わる。しばらくの間様々な人妖と話していたが、不意に神奈子と諏訪子に呼ばれた。
やかましい境内に比べると、居間は随分と静かに感じられる。そういえば昨日は書置きだけで勝手に家を空けてしまった。そのことについて二柱に謝る。外の世界にいた頃に比べたら可愛いもんさという諏訪子の言葉に、思わず下を向いてしまった。
おもむろに、神奈子が一杯のコップを早苗に差し出した。受け取ると、酒気が鼻を突く。どうみても酒だった。
「明日、卒業式でしょ」
「外の世界じゃあ違反だけど、ここは幻想郷だしね。ちゃんと早苗にも呑めるように、いっとう美味しいのを選んできたのだ」
早苗は、神奈子達に今回の悩みを打ち明けてはいなかった。心配をさせたくなかったというのもあったが、なんだか、悪い気がしたからだ。二柱なりに考えての、この酒なのだろう。中々年頃の娘に勧めるものではないのかもしれないが、その野暮ったさが逆に嬉しかった。
ありがとうございますという感謝の言葉と共に嚥下した酒は、酒を得意としない早苗からしても、確かに呑みやすかった。食道が燃えるように熱を持つ。次いで胃袋が熱くなった。
「卒業、おめでとう」
「おめでとう、早苗」
きっと単位が足りないだろう。だが、そういう返しは今は無粋だ。コップを空にすると、もう一杯を諏訪子に注がれる。二日酔いの感覚は嫌いだが、今日くらいは構わない。差し出された酒を呑み、昨日の出来事を二柱に話す。思い出話に花を咲かせる早苗達の姿は、誰が見ても家族の団欒に見えただろう。
その内に、自分の意識があやふやになっていくのがわかった。自分が今、どんな顔をしているのかもわからない。神奈子に身体を横たえられる。見上げた二柱の顔はどんな表情なのだろうか、酔った早苗にはわからない。
「いい夢を」
そう言ったのは、神奈子か、諏訪子か。最早それすらもわからず、早苗の意識は落ちていった。
夢を見た。
早苗がまず感じたのは、違和感だった。何か普段服を着ているときと感覚が違う。どことなく懐かしいその感覚に戸惑いながら己の腕を見る。腕を通していたのは、幻想郷に行ってからは着ていない、制服だった。
「……?」
辺りを見渡す。鉄筋コンクリートのビルに、くすんだ庇をした個人商店。いくらか景色は変わっていたが、ここは間違いなく外の世界であり、早苗が依然通っていた学校のある街だった。
何故自分はここにいるのか。しばらく辺りを眺めながらそんなことを考えていると、見知った顔が見えた。商店街の女将である。学校から帰る時に、良く言葉を交わしていたのを思い出して、早苗は声をかけた。が、いくら呼びかけても反応は無い。意を決してその肩を叩いたが、その手は見事に女性の身体を透過し、バランスを崩した早苗はそのまま女性の身体をすり抜けながら転んでしまった。
「……見えないんだ。私が」
ショックは一瞬だった。あまり今の事態に混乱せずにいられるのも、幻想郷に馴染んだからかもしれない。夢なのかもしれないが、それにしてはいやに現実感がある。
どうしてここに自分はいるのか。その考えを早苗は放棄した。夢なら夢で楽しめばいいのだし、もし現実に起こっていることだとしても、結局自分の姿は他人には見えないのだ。結局夢と変わらない。
しばらくの間町並みを眺めていると、聞き慣れた音が聞こえた。商店街に設置されている大時計の音だ。それが十一回鳴ったのを確認してから、気付き、早苗は駆け出した。
夢じゃない。これはきっと現実なのだ。夢の中に出てきた景色は、常に茜空だった。
走り出してから、どこかの店なり家なりで日付を確認すればよかったと思ったが、その必要はないと確信していた。何でかはわからないが、まだ少し肌寒い空気を掻き分ける感触がやたらと鋭敏だ。肉体があるかのように、足を上げるたびに身体が激しく脈を打つ。
商店街を抜ける。学校からの帰り際、摂取カロリーと争いながら買い食いをしていた記憶が、どこか気の抜ける夕暮れ時のメロディが、早苗の脳裏をすり抜ける。
再開発された住宅街を抜ける。綺麗な住宅が立ち並ぶ中、一軒の古民家を見た。そこに住んでいるのは老夫婦。いつも二人仲良く手を繋ぎ、散歩をしている姿を見て、少しだけ未来に希望を持ったことを思い出した。今も元気なのだろうか、走る足を止めて家の中に入ればいい、それだけのことだ。だが、早苗はそれをしない。それは、きっとしてはいけないことだから。二人の幸せを願いながら、更に速度を上げていく。
息が上がる。多分、以前に登校していた時も、ここまで必死に通学路を走ったことは無いだろう。
十字路を曲がる。冬の日に先にあるコンビニで肉まんを食べながら歩いていると、近所の子どもに笑われた。
コンビニを通り過ぎる。ここで働いていた大学生がかっこよくて、友人達とよく話していた。
駆ける。自分の記憶が正しければ、今日は昼過ぎで終わるはずだ。
自分の息切れが激しく耳に響く。その音の中に、微かに違うものが混ざり始めた。わかる。歌だ。聞いたことがある。歌った事だってある。
「っ、はあっ、はあ、はあっ」
その場所にたどり着く。自分が通っていた頃と、学び舎の姿は少しも変わっていなかった。校門には、看板が立てられている。
『卒業式』
その単語だけ確認して息を整えながら、早苗はとある場所へと足を向ける。多分今は式の最中だろう、体育館だった。
歌声が、段々と大きくなっていく。懐かしい歌を口ずさみながら、早苗は体育館の入り口前で、その足を止めた。錆の付いた、大きな引き戸。今はその錆すらも、懐かしい記憶を呼び覚ます。
この扉の向こうでは、今まさに式が行われている。
扉を開けたい衝動が、早苗の手を引き戸の取っ手にかけさせる
一度手に力を込めて、
その手を離した。
その場に膝をつく。
この扉は開けられないのだ。開けては、いけないのだ。
わかっていた。もしかしたら、そのまま気付かれぬように扉を開けて、皆の顔を見て、懐かしみ、少しの寂しさと大量の思い出に包まれながら、式を見ることが出来たのかもしれない。だがこの扉の前に立ち、手をかけて、自分の気持ちが初めてわかった。
何で、こんなにも卒業という単語に悩んだのか。その理由がわかって、早苗は涙を流したのだ。
その場を離れる。涙はもう、止まっていた。わかったのだ、自分が何をしたいのか。多分、それが自分なりの『卒業』なのだろう。静かな校舎へ、早苗は歩いていく。
最初に訪れたのは、自分が通っていた教室。朝のうちに書いたのだろう、黒板には大小様々、クラスメイト達の言葉が並んでいる。己の夢を書いた者、クラスの思い出を書いた者。好きな子への気持ちまで書いている者もいた。
「馬鹿ばっかだなあ」
そう呟く早苗の顔は、非常に穏やかだった。慈しみ、愛おしさ。今胸の内にある感情は、そういうものなのかもしれない。寄せ書きの中に、友人達のものがあった。どうやら何人かはこの町を離れることになるらしい。少しだけ、寂しくなる。
かつて自分が座っていた席の前に立つ。窓際のこの席は、早苗のお気に入りだった。窓から入ってくる日の光が、机をきらきらと照らす。
自分は、ここにいたのだ。ここで授業を受け、窓から空を眺め、未来に思いを馳せていたのだ。
心に波が立つ。だがそれは今までのような激情ではなく、それはまるで漣のように、ひどく穏やかなものだ。あの頃の自分がまだここにいるような気がして。
「……」
教卓を見る。音一つない静謐の中、一礼をする。自分なりの、考えられる限りの感謝だった。
教室を後にする。向かった先は屋上だった。普段ならば開放されていないが、この身体ならばもしかしたら入れるかもしれない。そんな気持ちからだった。早苗の考えは見事に当たり、その身体は鍵のかかった扉をするりと抜ける。手入れなどはしていないのだろう。雑草の生えたアスファルトを踏みしめ、錆だらけのフェンスに指をかける。
「……うわあ」
タイトルは忘れてしまったが、子供の頃に読んだ少女漫画で、屋上のシーンがあった。自分も何時かこんなことをしてみたい。子どもらしい、ささやかなその願いが、ようやく叶ったのだ。
眼下に広がるのは、見慣れたはずの町並み。だが、それを高い視点で眺めるのは初めてで、新鮮だった。
雲ひとつない青い空は、まるで一枚の天井のようにも感じられて。まるで今にも落ちてきそうなそれを見上げる。考えてみれば、空を飛びたいと思ったこともあった。今でこそ慣れてしまったが、初めて空を飛んだ時は、感動よりも恐怖が勝っていたのを思い出し、目が細まる。
どれほどの時間そうしていただろうか、外の喧騒に気付いた。見ると、ちらほらと校門を出て行く生徒達の姿が見える。式も終わり、帰り始めているのだろう。
泣いているのだろうか、足を止める者、校舎を振り返る者。未練が無いのか、さっさと帰っていくもの。多種多様な者たちを見ながら、友人達の姿を探す。だが、いくら待ってもその姿を見つけることが出来ない。焦りが、早苗を突き動かした。
扉を抜け、階段を駆け下りる。幾人かの生徒をすり抜けながら教室へ行くと、すでに誰の姿も、否、一人だけ姿があった。担任だった。
大きい身体を持つ、熊のような担任は早苗が初めて見る顔をしていた。常に煩いほどに声を張り上げ、陰のある態度などついぞ見たことの無かった男が、肩を落として教室を見回しているのだ。仕事をやり終えたからか、寂しさなのか。その様子は思わず足を止めてしまうには充分だった。
教師は黒板消しを持ちその手を掲げると、溜息をついて、その手を下ろした。それは見てはいけないものなのかもしれない。
「先生」
きっと聞こえない。だけど、言っておくべきだ。
「ありがとう、ございました」
一礼と共に言ったその声は、届いたのだろうか。教師は突如として振り返る。しばらく辺りを見回し、早苗がいる方向を見たのだ。それだけで充分だった。もう一度礼をして、早苗は教室を後にした。
先ほど通った通学路を、再び走る。寄り道とかをされていたら、アウトだ。段々と募る焦りは、心臓の鼓動と共に大きくなる。あの夢のようだ。そうだ、結局自分はあの坂まで友人達を見つけられず。
「……!」
あそこだ。あの坂へ、早苗は走った。
まだだ。まだ終わってくれるな。まだ、遣り残したことがあるのだ。恥も外聞も無い。全力で早苗は駆ける。
途中で、何度も転びそうになった。きっとだ。きっといる。果たして、坂道の途中に、皆がいた。
夢なのか、夢じゃないのか。もうそんなことはどうでもよかった。必死に息を整え、坂の上の友人達を見上げる。張り裂けそうな肺よ、心臓よ。もう少しだけ付き合ってと、早苗は大きく息を吸い込んだ。
「おうい、みんなあ!」
ぎゅっと目を瞑りながら、早苗は叫んだ。届いてくれと願いを込めて。
「卒業、おめでとおう!」
届いたのか、届くといいな。膝に手をつき、息を整える。見上げた先には、奇跡が待っていた。
皆が、こちらを振り返ったのだ。間違いなく、自分の存在を認識していた。友人達は一様にぽかんとしていたが、自分達の学校の制服を確認したのだろう。
ありがとう!
そう、返してくれたのだ。
それが只々嬉しくて、早苗は両手を何度も振った。おめでとうと叫びながら。友人達は笑いながら手を掲げ、坂の向こうへと消えていった。
人のいなくなった坂の下で、早苗はその場にへたり込んだ。
「おめでとう、みんな」
自分の本能は区切りがついていた。早苗は、ただ、友人達を祝福したかった。それが、早苗の『卒業』だった。
立ち上がり、服を何度か払う。視線の先には、坂がある。この坂の向こうには、自分の慣れ親しんだ町がある。そこから見る景色が、早苗はいっとう好きだった。
「上らないのですか?」
不意だった。驚き振り返る。まだ一日と経っていないのに、その顔がひどく懐かしく思えた。
「紫、さん」
微笑を崩さぬままに、紫は指を鳴らす。早苗の頭上に隙間が開き、何かが重なった。
「私の、身体」
「ええ。ここにいるのは肉体を持つ貴女。さっきの友人達だけではない。誰もが、貴女を認識することが出来るでしょう。もっとも、今は術をかけているのでまだ人目には見えませんが」
もう一度、紫は指を鳴らす。坂の上と早苗の背後に『ゆらぎ』のようなものが現れた。
「この坂の上の境界を通ると、この世界に戻ることが出来ます。山の二柱も了承済みです」
「……」
「背後にある境界は、幻想の世界へと続く道です」
「選べ、と」
「どちらを選ぶのも自由です、二柱もそうおっしゃっていました。貴女が、決めるのです……少し卑怯かもしれませんが」
くすりと早苗が笑うのを見て、紫は思わず目を丸くした。早苗が笑ったのは、似ていたからだ。言い方が、霊夢に。
迷わずに、早苗は背後の境界を通り抜けた。
「……いいのですか?」
「もう、別れは済ませました。素敵な卒業式を、ありがとうございました」
「そう」
「本当は、わかっていたみたいです。私の居場所はもう、ここではないんだって」
紫は早苗に近づくと、その身体を抱き寄せた。その感覚があまりにも霊夢に似ていて、早苗は紫に微笑んだ。
「貴女に健やかな身体を与えてくれた両親に、感謝を。貴女に強き心を授け、見守ってくれた二柱の神に感謝を。そして、あなたのこれからに、祝福を」
「紫さん」
「早苗。卒業、おめでとう」
紫の身体を抱き返し、早苗はありがとうございますと呟く。その顔には、涙は無かった。
頬に当たる感触で早苗は目を覚ました。どうやら卓袱台に突っ伏していたらしい。見回すと、開かれた障子の先では、未だ境内に死屍累々と転がる人妖の姿があった。
夢、だったのだろうか。思い返そうとしたところで、霊夢に呼びかけられた。どうやら、起きているのは自分達だけらしい。まさか咲夜までやられるとはねという言葉を聞き、隣の客間を見ると、妖夢と共に眠る咲夜の姿がそこにはあった。
片付ける前に、少しの間いいですかと霊夢に許可を貰い、早苗は外へ出た。向かった先は、裏手の森だ。
到着し、森を見る。しばらくの間佇んでいたが、心はとても穏やかだった。
「行かないの?」
振り返ると、霊夢が立っていた。その言葉を聞いて、行きませんと早苗は返す。そう、とだけ言って、霊夢は神社へと戻っていく。その後ろをついていきながら、早苗は今までのことを考えていた。
過去を前向きに乗り越えた魔理沙。
過去を切り捨てた咲夜。
過去に執着しない霊夢。
みんな、それぞれ違う方法で『卒業』していったのだ。
自分は全てを抱えよう。重くなって辛くなったら、少し置いて休憩して、また歩き出そう。そんな生き方をしていこう。
「……え、早苗」
「え、あ、はい?」
「私は食器の片づけるから。アンタはあいつら起こしといて」
「……起きますかね?」
「起こすのよ。もう昼過ぎだっていうのに、全く」
その言葉を聞いて、早苗は時計を見た。そして確信した。あれは、夢ではなかったのだと。
頼んだわよと言いながら、山ほどの食器を抱えて、霊夢は調理場へと姿を消した。どうしようかと早苗は考える。一匹ずつ起こしていっては時間がかかる。皆を起こす前に、早苗は辺りを見渡す。ある一点で、視線が止まる。そこにいたのは神奈子と諏訪子。きっとあの日は、紫の家に行っていたのだろう。ありがとうございますと一礼をした。
こういうのは思い切りが大事なのだ。大きく息を吸って、早苗は思いっきり叫んだ。
おきてくださあい!
少しだけ大人になった奇跡の少女は、これからも幻想郷を生きていく。これは、そんなお話。
なんだか、涙がこぼれてしまいました。素敵なお話しをありがとうございました。
早苗さんの葛藤も、その解消され方にも納得し満足しました。
全体的に優しい雰囲気で非常に好みの作品でした。
今後も期待していますので、よろしくお願いします。
臭味を最低限に抑えながらもほのかに匂わす巧さがあります
奇をてらったところの無いシンプルさがマッチしてますね
次作も楽しみにしております
良い雰囲気のお話でした。
(霊夢さんと紫さまはやっぱり素敵ですね!)
素敵な話をありがとう!
ありがとうございます