人間「聖白蓮」
第一話 こいし入信
無粋な闖入者の為にお開きになった幻想郷縁起の為の対談の後、神子は稗田亭の前庭の隅で遁甲の術の為の準備をしていた。
久しぶりに聞く立場でなく話す立場に身を置けたことに神子はご機嫌だった。古い民謡を鼻歌で歌いながら、七星剣で地面にがりがりと八門を描き込んでいるところだった。
その神子の肩を、指先でちょんちょんと叩く者がいた。
振り向いて背後の人物の顔を見た途端、彼女の表情は明らかに不機嫌なものに変わる。
「………………あら、住職」
「あの、どうも……先程は失礼致しました」
そこに立つ姿は、見目年若い娘だった。しかし、実際に生きた年数はゆうに千年を超す筈だ。……かく言う神子も存在していた時間で考えれば齢にして千数百年といったところだが。
それは、人里のそばに最近建立された命蓮寺の住職にして妖の術を極めた魔法使い、聖白蓮だった。
彼女と神子は先刻の対談で、三つの新興勢力の長として火花を散らす会話を繰り広げたばかり。
そういえば、と神子は先程の対談を思い返した。対談の流れで有耶無耶になったが、彼女との『話』はまだ終わっていなかった。
神子は片方の眉を吊り上げて、件の住職の顔を睨めすえた。
「何? 早速第二ラウンド始めようっての? いいわよー、いくらでも付き合ってあげる。次は妖怪の山で天狗を司会にするなんて良いんじゃない? あのゴシップ誌にあること無いこと書いてもらいましょうよ」
白蓮は胸の前でその細い両腕をふるふると横に振り、その言葉を否定した。
「いえ、そのような意図はございません。本山である信貴山にも縁のある聖徳太子様にこうしてお目にかかれたこと、光栄に思いますわ」
対談の時とは打って変わってかしこまった様子の白蓮を見て、神子は苦笑した。その意図するところはすでに把握している。ちょっと意地悪したかっただけなのだ。
「今更おべっか使っても遅いわよ。……まあいいわ。要件もわかってる。寺の問題児たちの扱いについて相談したいのね」
白蓮はこくりと頷いた。
「話が早くて助かります」
白蓮の要件は、神子の言う通り、寺の門徒たちの問題行動についての相談だった。
彼女は神子に向かって、己の胸中も交えつつ、半ば愚痴のような形で長々と話し始めた。その内容は要するに次のようなものだった。
対談の途中、山の神である八坂神奈子や黒白の魔法使いから、弟子たちが仏教の戒律を全く守っていないことを知らされ心底ショックを受けた。泣きたい。
自分は仏法を通して彼女らにより高次の妖怪に昇格して欲しいと願っているのに、彼女たちがちっとも理解してくれていなかったことに悲しみを禁じ得ない。(これを話の途中で三回くらい繰り返した)
自分が手本となる姿勢を見せていれば弟子たちも自然とついてくると思っていた。それがこのザマである。
そもそも自分は本当は裸の僧様で、皆面と向かっては敬っていても実は裏では小馬鹿にされているのではないか。
云々。
「なにぶん、千年近く離れていたものですから、なんとなく距離を感じてしまうというか……。昔は私が妖怪たちを助ける側でしたが、今は助けられた側という立場もあって、どうしても強く接することができないのです」
白蓮はしょんぼりした様子でそう話を締めくくった。
聞き上手の神子はうんうんとしきりに頷いて白蓮の話を聞いていたが、白蓮の長話が終わるや、その細い人差し指を勢い良く白蓮の鼻先に突きつけた。
「甘いわッ! 貴女、甘すぎ! そんなことだから弟子にナメられるのよ!」
「やっぱりナメられてるんでしょうか!?」
白蓮は神子の胸ぐらを掴んでがくがくと揺さぶった。張子の虎のように神子の頭がぐらんぐらんと揺れる。
「うっさい」
神子は手に持った笏で白蓮の額をペチリと叩いた。涙目でおでこを抑える白蓮。
胸元から白蓮の手を引き離し、ふっと息をつくと、神子はにっこりと微笑んで白蓮を諭した。
「ナメられてるっていうのは冗談。私の見立てでは、貴女の弟子たちの貴方を敬う気持ちは本物よ」
にわかに安堵の表情を浮かべる白蓮。
すると神子はふいと顔を背け、突き放すような口調で話を続けた。
「……ただ問題なのは、彼女らが敬っているのはあくまで貴女であって、仏教ではない、ということね。私が対談中におままごとって言ったのはそういうこと。彼女らは白蓮様が大好きな仏教を、ごっこ遊びとして一緒になってやってるだけ」
白蓮はむっとして神子を睨んだ。
「そ、そんなことはありません! 星は毘沙門天代理として立派に役割を果たしていますし、一輪だって真面目に仏典を勉強したりしてます!」
両手を握りしめて反論する白蓮を半ば呆れた目で見やっていた神子は、
「親馬鹿っぷりも大概にしなさい」
と言って、またも額をぺちり。
「痛いです……」
白蓮の目の端から涙がこぼれた。神子はそんな様子にはお構いなし。
彼女は白蓮の鼻先に、笏の先を突きつけた。顔からはおちゃらけた雰囲気が消え、人間の指導者の表情に変わっていた。白蓮は思わず居住まいを正す。
「もう一つの問題は貴女がそうやって甘やかすこと! 弟子たちの信頼は多少のことでは揺るぎはしません。本当に理想を実現したければ、戒律破りには心を鬼にして厳しく当たりなさい」
ふむふむと頷きながら、白蓮は手に持った魔法の巻物――魔人経巻に指を走らせた。すると、巻物の表面の虹色の文字がぐるぐると動き始め、ある形に定まった所で動きを止めた。
神子は怪訝そうに眉を上げた。
「……何してるの?」
「あ、お気になさらず。これ、手帳代わりにも使えるんですよ」
公式に語られる魔人経巻の用途は、お経を記録し、魔法の自動詠唱まで行うというものだが、膨大な記憶領域の中身をちゃんと整理していればお経以外のメモや画像なども保存できるようだ。
――怪しげな魔具を使う女ねぇ。
あからさまに鼻白む神子。しかし、ここ幻想郷では常識に囚われてはいけないとも聞く。郷に入っては郷に従え。あまり気にしても仕方がないと思い直し、一つ咳払いをして目を逸らした。
彼女は顎に指をあて、少し思案してから白蓮に向き直った。
「……そうね、貴女には叱るコツというのも教えておきます。相手を叱るのは、相手が問題を起こしたその時にしなさい。時間がたってから叱っても効果はありませんよ。そして、褒めるべき時は心の底から褒めてあげなさい。褒められて嬉しいのは、人間も妖怪も変わりないのです。まあ『怖い』って言ってもらうことが褒め言葉の妖怪も居ますから、そこは相手を見てね」
神子の話を聞くうちに、頭のなかに何か妙案でも浮かんできたのだろうか、白蓮の表情に光が差してきた。
彼女は瞳を星が浮かぶくらいに輝かせ、神子の手をさっと取り、
「さすがは太子様。人妖の心の機微をよくご存知でおいでですね。雲でもかかったように翳っていた私の道が、にわかに晴れた心地です」
などと熱っぽく語り始めた。
言った傍からべた褒めされて、神子は再び苦笑した。でも悪い気はしなかったので、自然とその口元がにやつきに変わってしまう。慌てて口元を笏で隠す。
「神子様素敵です!」だとか「それでこそ人の上に立つお方!」だとか、ひとしきり褒めてもらった所で、神子は二つばかり咳払いしてすまし顔に戻った。
「まあ、今言ったことは人の上に立つ者としては基本のキ、といったところなんですけどね。貴女は遊行僧としては熟練しているようですが、組織運営に関してはきっとまだまだ学ぶべきこと多いことでしょう。何かわからないことがあったらいつでも聞きなさい。『助けて! みこえもーん』と叫んでくれればいつでも貴女の前に現れるわ」
うんうんと頷きながら神子の言葉を拝聴してた白蓮だったが、最後の言葉を聞いた途端あからさまに嫌な顔をした。
「え……それはちょっと……」
「ぬぐぐ、そこで引くんかい!」
油断していた所で上げて落とされた神子はぎりぎりと歯を食いしばり、本日初めて涙目になった。
しかも、何が悔しいって、白蓮本人に悪気が全く無い所だった。にこにこしながら神子に尊敬の眼差しを向けている。
「ほら、やることは分かったでしょ? ならさっさと行動を開始しなさい! 今頃きっと貴女の弟子たちはめいめい好き勝手に遊んでる筈なんだから!」
「はい! ご相談に乗っていただきありがとうございました!」
顔を真赤にして笏をブンブン振り回す神子を尻目に、白蓮は表情もにこやかにそそくさと稗田亭を後にした。
残された神子は、歩き去る白蓮の後ろ姿を見ていた。
その身体から立ち上る尋常ならざる気の流れも、仙人である神子の目には見えていた。
「……ほんとまあ……元人間の癖につくづく凄まじい妖気ね」
将来確実に自分の目の上のたんこぶになるだろう事実に、神子は思わず嘆息した。
「そういえば――」
神子はふと対談中の様子を思い出した。その時の情景を思い出すに連れ、彼女の表情がほころんでいく。
「稗田の子もあいつの妖気に気づいていたみたい。対談中ずっとあいつの一挙手一投足を警戒していたわね。幻想郷縁起にどんな書かれ方をするか、今から楽しみだわ。ふふ」
***
「おはよーございます!!」
命蓮寺の朝は幽谷響子の元気な挨拶から始まる。扱いとしては一番鶏と同じようなものだ。響子の声に促されて一部の人里の人間たちもごそごそと起き出してくる。
妖怪の山から毎日通ってくるこの妖怪は、毎日寺にやって来るなり門前で盛大に朝の挨拶をするのが日課なのだ。
無論、白蓮は響子が来る前から起きていて、この人畜無害な山彦妖怪がやってくるのを毎日待っている。これもまた日課だった。
「おはようございます。響子は毎日元気でよろしいですね」
「はいっ! 元気だけが取り柄ですのでっ!」
白蓮がにこにこと笑いかけると、響子も笑顔を返して小さな尻尾をパタパタさせる。
……可愛い。笑顔を見せると八重歯がこぼれ、愛嬌のある表情を更に愛らしくさせる。
白蓮は思う。こんな可愛らしい妖怪が、本当に悪さなどするのだろうか? 目の前のこの善良な姿を見る限り、到底信じられないことだった。
「住職は今日も檀家さんと会合ですか?」
白蓮の思いも知らず、響子は尊敬の眼差しで白蓮を見ている。
「いえ、今日からしばらくは会合の予定は後回しにして、お寺の管理の仕事をするつもりよ」
響子はへー、と生返事を返す。十中八九言葉の意味を理解していないと思われる。
白蓮はおほんと咳払いすると、おもむろに尋ねた。
「ね、響子ちゃん。お寺の修行は楽しい?」
「はいっ! 楽しいですっ!」
即答である。打てば響くような明瞭な返答がむしろ怪しい。
「お経唱えているだけで本当に楽しい?」
「楽しいです!」
「結跏趺坐は痛くない?」
「全然平気です!」
やはり馬鹿正直に尋ねた所で本音を見せてくれることはなさそうだった。それを本音と思ってしまったらただの愚か者だし、疑い続けたら独裁者になってしまう。上に立つ者の人間関係は本当に難しい。
「それじゃあ、私はお掃除を始めますね!」
「あ……待って、まだお話が……」
響子はぺこりと大きくお辞儀をすると、箒を取りに本堂の方へ走っていった。
避けられているような気配に、白蓮は一人ため息を付いた。
響子と別れた白蓮は、ゆっくりと参道を逍遥する。
白蓮の意図する管理の仕事とはつまり、部下の管理である。先日の鼎談で大恥をかかされた白蓮は、弟子たちの行動を徹底的に管理しようと心に誓っていた。
神子の助言を元に聖白蓮が閃いた弟子管理法。
それは、ストーキングだった。
朝の勤行が終わった後、弟子たちは各々自由に行動を始める。
白蓮は予定を全て後回しにし、彼らの行動を観察することに注力することにした。
勿論、それが仏教徒のとる行動かと問われれば、十人中十人が異を唱えるところだろう。彼女自身の心の中にも小さな罪悪感はあった。
だが、彼女は一度こうと決めたらとことんまでやらないと気が済まない質だった。
今まで弟子たちの管理ができていなかったのならば、今日からは完璧なまでに管理してみせよう。その日弟子たちの髪が何本抜けたかまで管理してみせよう。それが白蓮の心積もりだった。
さらに言えば、彼女は何事もその目で確かめなければ気が済まない性格でもある。それが弟子の悪行であるなら尚更。
人づてに聞いた話など所詮事実の前には塵芥。寺に悪意のある者が恣意的に流した噂ということだってあり得るのだ。
……もしかすると、白蓮は心の何処かで、まだ弟子たちの潔白を信じていたのかもしれない。
さて、そんな白蓮の最初の犠牲者は誰か。
白蓮は、とりあえず先日の対談で話題に上がっていた弟子たちを重点的に監視するのが良かろうと考えた。すなわち、寅丸星、雲居一輪と雲山、村紗水蜜、幽谷響子の五名が対象になる。墓地に入り浸る化け傘妖怪も白蓮にとっては家族同様だったが、正式な門徒というわけでもないのでターゲットから外すことにした。
朝靄にけむる寺の境内を本堂の石段の上から静かに見下ろしていると、白蓮は本門の辺りをコソコソと動く影があることに気づいた。
姿は薄ぼやけて判然としないが、妖気で誰かはっきりと分かる。
――村紗水蜜だ。
彼女はしばらく門の影で辺りを伺っているようだったが、周りに誰もいないことが分かると、さっと寺の外に飛び出していった。……怪しい。あからさまに怪しい。
白蓮は自らに術をかけ妖気を消すと、朝靄に身を沈めつつ村紗の後を追った。
***
深い霧が立ち込める渓谷を村紗はのんびりと歩み進んでいた。
夜も明けきったというのに濃い霧のお陰で周囲は薄ぼんやりとしている。空を見上げると、太陽の光が柔らかく輝いているのが見えた。
視界は僅かに数歩先までしかなく、周囲に屹立する苔むした岩の一つ一つさえ輪郭を失って、まるで幽霊が佇んでいるように見える。
耳を澄ましても鳥の声一つ聞こえない。死んだ魂が最初に訪れる場所だけあって、ここはいつ来ても静かなものだった。
三途の川――。妖怪の山を越えた先にある、此岸と彼岸の狭間。
村紗にとって、ここはお気に入りの場所だった。
水がある場所はどこも好きだったが、とりわけこの三途の川は居心地がいい。なぜかといえば、村紗が望む条件をこの場所は全て満たしているからだ。
その条件とは、
その1、水場があること。季節にかかわらず凍らない水場はなおよし。
その2、周囲に人や妖怪が少ないこと。
そして――。
「またあんたかい、船幽霊! しっしっ! 帰れ帰れ! またあたいの舟を沈めようって気だろう!」
その3、舟に乗る話好きな妖怪がいること。
狭い渓谷を抜けて広々とした川辺に出ると、対岸の見えない大きな川が視界の隅から隅までを埋める。
その川の岸に半分腐ったような桟橋が掛かっており、その桟橋にはこれまた頼りない小舟が寄せてある。
そして、その舟の上には一匹の妖怪が仁王立ちしており、先のような悪態を村紗に向かってついてみせていた。
彼女の姿のうちひときわ目を引くのは、頭の両側に結んで垂らした彼岸花のように真っ赤な髪と、肩に担いだ巨大な鎌だった。
ご存知、三途の川の渡にしてサボマイスターの異名を持つ死神、小野塚小町だ。
村紗は人懐っこく笑いながら、ご機嫌のあまりよろしくない死神に近づいた。
「そんなに邪険にしなくても良いじゃない。船幽霊だからってそう毎度毎度舟を沈めに来たりするもんか」
彼女は桟橋に腰を下ろし、両足の靴を脱ぐと、ゆったりと流れる三途の川の中に足を差し込んだ。ひんやりとした春の川水が村紗の白いくるぶしを撫でる。村紗は楽しそうに目を細め、足の裏に伝わる水の感触を確かめていた。
「じゃあ何しにきたのさ」
小町はむっつりとした表情で問う。村紗は笑顔のまま顔を上げた。
「水場が恋しくなってねえ。特にこの三途の川は良いね。閑静で、とても落ち着くよ。あの苔むした渓谷だって見事なもんじゃないか。幽玄という言葉がここほど似合う場所は他に無いよ」
底意の感じられない明朗な答え。小町は当然と言わんばかりに胸元で腕を組んでふんぞり返った。
「そりゃそうさ。ここは死者の魂が一番最初に辿り着く場所。死んだばかりの魂たちは混乱しているからね。彼らを世俗的な文物や喧騒から遠ざけ、自らの死を理解させ、精神を落ち着かせる必要があるんだ。この三途の川っていうのはその為の場所の一つなんだよ」
「なるほどねえ。よく考えられているもんだ。……ああ、それにこの舟もいい舟じゃないか。杉でできているね」
村紗は小町が乗っている舟のへりを撫でた。使い古されて水垢にまみれ、手入れも怠けていると見えてところどころ黒ずんでいるその舟は、贔屓目に見て、お世辞にも上等とは言えないシロモノだったが、村紗の口は軽やかに褒め称える。
小町はといえば、村紗が舟を褒め始めた途端キラキラと目を輝かせ、舟から身を乗り出した。
「おっ、あんたお目が高いね! この舟はあたいの上司であるところの四季映姫・ヤマザナドゥ様から直々に頂戴したものさ。あたいが死神稼業を始めた頃に頂いたものだから、もうかれこれ千年以上は現役だわね」
「へーえ、そんなに年季が入ったものなんだ。随分と大事にしているんだねえ。その四季映姫様っていうのはそんなに尊敬できる方なのかい?」
軽妙な相槌を打ちながらするりと舟の中に入り込む村紗。その所作は全く自然だったし、小町は既に話に夢中になりかけていて気にも留めていなかった。
小町は四季映姫の話になると俄然熱っぽくなる。
ただでさえ普段は一言も口をきかない幽霊たちを相手に一方的に話すだけだったから、聞き上手の相手が現れたことで小町はすっかり舞い上がってしまった。
だから、船に乗り込んだ村紗が後ろ手に柄杓を持ち出したことにも全く気づいていなかった。
「ああ、ああ、そりゃもうさ。映姫様は素晴らしい方だよ。そりゃちょっと説教臭いところはあるし、融通のきかないところもあるけどさ、根は全く良い方なんだよ。あたいみたいなヤクザな死神にも何かと目をかけてくれてねえ。去年の冬なんか直々に三途の川にいらっしゃって、まあ仕事の話を幾つかしたんだけどさ、帰りしなに思い出したみたいに『そうそう、季節の影響を受けにくい三途の川といっても冬場は冷えるでしょうから、差し入れを持って来ました』なんて仰って、腹巻をくださったのさ! しかもこれ見て! これ、映姫様が普段着てる服と柄がお揃いなのよ! いやあ、普段はツンツンしてばかりいるけど、あんな風にたま~にデレられちゃうと参っちゃうね、ホント」
「きゃ~、それは素敵ねえ! 良かったじゃない! ね、他には、他には?」
「うんうん、これは10年前の話なんだけどね……」
「ご機嫌ですね、ムラサ」
「ええ、そりゃもうご機嫌ですとも聖。……聖!?」
満面の笑顔で相槌を打っていた村紗の顔が、背後から掛けられた聞き慣れた声によって凍りついた。
恐る恐る振り返ると、紛うこと無い声の主・聖白蓮が舟の舳先に腰掛け、にこにこと笑いながら村紗を見下ろしていた。
夢中で話を続けていた小町もようやく白蓮の存在に気づき、慌てて襟元を正した。
「ありゃ。こりゃまた珍しい。お寺の住職さんじゃないか。こんな辺鄙な所迄何の用だい?」
「この妖怪に心を許してはなりませんよ、三途の川の死神さん」
普段と変わらないのんびりとした語り口の中にどこか冷え冷えとしたものを感じる。村紗は全身から冷や汗を出しつつも、何とかこの場を取り繕おうと食い下がった。
「そ、そんな言い方はないじゃありませんか、聖」
「そうだよ、こいつは良い奴さ。あたいが保証するよ」
破顔して自分の胸を叩く小町。この数刻の間に完全に村紗を信じてしまったようだった。
白蓮は困ったようにため息をこぼした後、その手に何かを掴み掲げながら諭すように言った。
「そうだと良かったのですけどね。船底をごらんなさい」
「「あっ」」
二人は同時に気づいた。小町は船底に水が溜まっていることに、村紗は自分の掌にあったはずの柄杓がいつの間にか白蓮の手に握られていることに。
水浸しの船底と顔面蒼白の村紗を交互に見て、小町はまだ状況を理解できないように目を瞬かせる。
白蓮は申し訳なさそうに目を伏せた。
「この子はただ水を操るだけでなく、この通り口が達者で、その上時間稼ぎをやらせたら天下一品でして。この度は大変ご迷惑をお掛け致しました。さ、ムラサ、帰りますよ」
「いだだ、聖、ごめんなさーい」
白蓮は村紗の耳を掴んで舟から引き摺り下ろした。身体強化の魔法使った上指先に法力を施してあるからべらぼうに痛い。
しばらく舟の上で呆然と佇んでいた小町だったが、はっと我に返ると、
「くそーっ、信じたあたいが馬鹿だった! 帰れ! 帰れ! もう二度とくんな!!」
二人の姿が見えなくなるまで、つけるだけの悪態をその背中に浴びせかけた。
その姿が見えなくなってもまだ、村紗の悲鳴は渓谷にこだましていた。
***
人里と博麗神社の間には比較的長い道が伸びている。
夜になるとこの道の周りには妖怪たちがたむろし、さながら妖怪大通りの様相を呈していた。
殊に今夜は妖怪の数が多い。なぜかといえば、幻想郷中から音楽好きの妖怪たちが集まってきているからだ。
お目当ては、最近売り出し中のパンクロックバンド、『鳥獣伎楽』のソロライブだった。
メンバーは長らくソロ活動を続けていた夜雀のミスティア・ローレライと、命蓮寺の新米坊主であり期待の新人、山彦の幽谷響子の二名。作曲はミスティアが担当し、作詞は響子が担当している。
本人たちはパンクロックと銘打っているが音楽性はどちらかと言えばハードコア・パンクに近く、地獄の底から響くような響子の絶叫が独特のアクセントになっている。終わりのない日常生活への反発を主題としたメッセージ性の強い歌詞が多くの妖怪、妖精と極一部の人間に受けて、カルト的な人気を博している。
道の脇のちょっとした空き地に彼女らのステージは設営されていた。設営は有志の妖精たちが済ませており、『鳥獣伎楽』と大書された看板を、無数にいる色とりどりの鬼火が煌々と照らしている。
ステージの前には数十の妖怪と多くの妖精たちがすし詰め状態になっていて、その集客を見込んだ露店まで開かれている始末。
お陰で真夜中だというのに、辺りは既にお祭りのような賑やかさだった。
と、唐突にステージの両端から二匹の妖怪が飛び出した。片方はチューニングの合っていないアコースティックギターをめちゃくちゃにかき鳴らし、もう片方は言葉にならない叫び声を上げ、ステージの上をあちらこちらへと走り回る。
彼らこそ『鳥獣伎楽』のミスティアと響子だった。
のっけからハイテンションな二人の姿を見て、観客のボルテージが一気に上昇する。
メインボーカルの響子が観客に向かって怒鳴った。
「お前らー! 今日も不満そうな顔並べてるなーっ!? 毎日は退屈かーっ!? 現実は理不尽かーっ!? そのイライラ、モヤモヤ、どこにもやり場がないのなら! 叫べっ! 私たちと一緒に叫び倒せーーーーっっっ!!!!」
騒々しい叫び声が辺りに響き渡る。満足そうにミスティアと響子は顔を見合わせる。
「じゃあ早速いくぜ~! 一曲目は皆大好き『意味あんのかそれ』!!!」
興奮の坩堝にある観客たちの歓声を押し散らすような大声で響子は歌い始めた。音圧で周囲の木々の葉がピリピリと震える。
『意味あんのかそれ』は鳥獣伎楽の記念すべき第一作で、ファンの間でも一二を争う人気を誇る曲だった。日々繰り返される意図不明な修行に対する直接的な批判が歌詞になっている。
幻想郷では知能レベルの格差が激しく、目上の者がやっていることを下の者が全く理解できないことが多い。その為、底辺で足掻く者たちは上の者の命令や指示に理不尽を感じることがままある。
そのような心理を抱える若者が鳥獣伎楽の歌詞に共感し、彼女らの曲を支持するのだ。
ライブは盛況のまま進む。人気曲の『そんな話聞いてないです』『生きてるって気がしない』と続き、観客の興奮もピークに達した所で、ミスティアが二回目のMCに入った。
「さーて、盛り上がってきたね~。さて、噂には聞いてたかも知れないけど、今日は新曲を披露しまーす!」
沸く観客たち。
「作詞は今回も響子! 現役信者による命蓮寺の内情暴露! 静謐なる寺に渦巻くドス黒い感情を聞け! 『ZAZEN』!」
ミスティアが再びギターをかき鳴らし始める。今までの曲に比べてさらに激しい演奏に興奮した観客同士が跳んだり吠えたり弾を打ち始めたりと会場が混沌とし始めた。
その混乱を突き破るのはやはり響子のシャウトだった。以下は『ZAZEN』の歌詞である。()内はミスティアのコーラスだ。
「ザゼンザゼンザゼンザゼン! ザゼンザゼンザゼンザゼン!
毎日毎日毎日毎日ザゼンザゼンザゼンザゼン! 来る日も来る日も来る日も来る日もドキョードキョードキョードキョー!
私ゃ妖怪(妖怪!)マシンじゃないし! 反復運動(運動!)マジでだるいし!
写経やっても自分で読めねえ! 掃除ばっかり上手くなる!
話相手は(じいちゃん! ばあちゃん!)
精進料理は(味しねえ!)
ざけんなーーーーーーー! ウオオオオオオオオオオオ! ボアアアアアアアアアアアアア!
ザゼン! (ポク)ザゼンザゼン!! (ポク)ザゼンザゼンザゼンザゼン!!!(ポクポクポクポクチーン)」
……ハードコアな曲調の中にとぼけた木魚とおりんの音が混じった。ミスティアと響子の二人ははっとして演奏を中断する。
殺気立った表情でミスティアと響子はお互いを見るが、どうやら音の主は別にいるようだった。
木魚の音は演奏が中断してもまだ続いていた。音のする方に振り向くと、ステージの端にちょこんと座る人影があった。
その人影をみて、響子はひっと悲鳴を上げた。そう、ご明察。そこにいたのは、聖白蓮住職その人だった。
あれだけ騒々しかった会場は今やお通夜のように静まり返り、ただ木魚とおりんだけが高らかな音を響かせていた。お通夜のように、ではなくもはやお通夜そのものである。
気に食わないのはミスティアだ。折角のライブを邪魔されて嬉しいはずもなく、足音をどかどかと立てて白蓮に近づいた。
「ちょっと! 神聖なライブを邪魔するなんてどういうつもり!? 私を夜雀のミスティアと知って――」
「喝!」
不用意に白蓮に近づいたミスティアは、座ったままの白蓮に撥で頭をぶっ叩かれてひっくり返った。
会場の観客たちがざわつき始める。
(馬鹿だ……)(馬鹿だね……)(鳥頭だから住職の顔忘れちゃったのかな……)(文字通りバチが当ったんだよ……)
一撃でのされた相方を見て、響子の膝が震えはじめた。響子は勿論白蓮の力をよく知っていた。
殺される……。
寺の門徒でありながらこのような破廉恥な行為を行なっていたことがバレた以上、破門以上は覚悟しなければならなかった。ましてやその行為が寺批判とあっては、存在そのものを消されることすらありえる。
響子の脳裏に過去の思い出が走馬灯のように駆け巡った。まだ人間がやまびこを妖怪と信じていた時のこと、棲んでいた山を追い出されて各地を転々としていた時のこと、そして幻想郷にたどり着いた日のこと……。
「響子」
「はいぃ!」
ゆらりと立ち上がり近づいてくる白蓮を見て、響子の背筋がピンと伸びる。強大な妖気を放ちながら歩み寄ってくる白蓮の姿が、響子には死神に見えた。
白蓮は響子の前に立つと、撥を持つ手をすっと上げた。
すわ公開処刑かと会場に緊張が走る。
響子はぎゅっと目を瞑る。
――さよなら幻想郷! 短い間だったけど楽しかったよ!
心の中で最後の祈りを捧げる響子の頭を、白蓮は撥でこつんと叩いた。
はっとして顔をあげる響子。
そんな響子を、白蓮はすました顔で見下ろしていた。
「リズムが悪いです。そんなことではお経も満足にあげられませんよ」
観客たちの間に安堵の雰囲気が広がる。響子はおそらく許されたのだ。
泣きそうになっている響子の頭を、白蓮はやさしく撫でた。
「真夜中に大きな音を立てる貴方たちの演奏で、人里の人間がとても迷惑しています。お寺の修行が辛いからといって、人様に迷惑をかけるのはよくありません。やるなら昼間か、人里離れた場所でやりなさい」
響子はぶんぶんと首を縦に振る。そこに、頭をさすりながらミスティアが歩み寄ってきた。
「いたた……。殴られたはずみで思い出したよ。新しくできたお寺の住職だったわね。貴女そうはいうけどさ、この狭い幻想郷で音楽やれる場所なんて無いんだよ。昼間にやればそれこそ人間の巫女あたりが飛んできて退治だ何だと面倒なことになるしさ」
それを聞いて白蓮は納得した表情になり、なんとかして彼女らに表現の場所を融通できないかと思案した。
そんなところにやってきたのは――。
「話は聞かせてもらったよ!」
「音楽をやる仲間が増えるのは嬉しい限り」
「素敵な貴方たちのために、私たちがひと肌もふた肌も脱いじゃいます!」
三位一体のポルターガイスト、プリズムリバー三姉妹が、チンドンガチャガチャと賑やかな音を立てて空から颯爽と舞い降りてきた。
三体の騒霊の姿を見て、ミスティアは露骨に嫌そうな顔をした。
「騒霊までやってきたわね。あんたらみたいな空飛ぶ騒音公害に私たちの高尚な音楽を汚されたくないわ。しっしっ! 往ね往ね!」
「随分な言い草ね、折角良いハコを用意してあげようって話なのに」
ルナサは落ち着き払った口調でそう言った。
「ハコ?」
封印時代の長かった白蓮は現代的な言葉をよく知らない。知らないことがあると白蓮は素直に聞いた。
「素敵なライブ会場のことよ~。太陽の畑って知ってる? あそこは夜になるとライブ会場になるの。今ここに集まってるよりずっとたくさんの妖怪や妖精の前で演奏できるのよ」
「パンクロックは幻想郷では珍しいからねー。きっと皆盛り上がると思うよー」
「貴方たちは新規のファンを獲得できるし、私たちもコンテンツを増やせるからWin-Winというわけね」
ミスティアは三姉妹の話を聞いてうーんと唸った。確かに悪い話ではない。しかし……。
「……そこなら当然知ってるよ。でも、あそこにはすごく怖い妖怪が居るって聞いてるから近寄らなかった」
「幽香さんのこと? あの方は音楽に理解のある方だから大丈夫よ」
「そうよ! 今まで二、三回しか虐められたことないし!」
「リリカ、そういうことは喋っちゃだめよ~」
しばらくのこと幽香とチャンスを頭の中で天秤にかけていたミスティアだったが、ついに腹を決めて顔を上げた。
ミスティアは響子に振り向いて尋ねた。
「私、この話に乗っても良いと思う。私たちはきっともっとビッグになれる筈よ。響子はどう思う?」
「勿論、私も賛成よ、みすちー。渡りに船とはこのことだわ。怖い妖怪が何よ。二人ならきっとどんな困難にだって打ち勝てるわ!」
響子は元気に頷いて笑顔を見せた。
そんな二人の間に騒霊たちが割って入った。
「ただ、私たちのステージに上るには条件があるの」
「貴方たち、リズムが酷い。あと音程も酷い」
「要するに全部酷いわね~。今のままじゃ耳の肥えた私たちのお客さんにはとても聞かせらないわ」
「やっぱりおちょくりに来たんじゃないか!」
ミスティアは憤慨して地団駄を踏んだ。
やりとりを聞いていた白蓮は、ふと妙案を思いつき、手のひらを叩いた。
「それなら、二人とも命蓮寺で練習をしなさい。ちゃんと身を入れて読経の練習をすれば、音程はともかくリズム感は自然と身につきます。それなら、響子ちゃんも修行に身が入るというものでしょう?」
「そういうことなら、私達も協力するわ! ねえ姉さん?」
「そうね。音程をとる練習は私達が協力しましょう」
「次のライブまでにはまだ間があるから、みっちり練習しちゃいましょう~♪」
「ちぇっ。しょうがないか、これもビッグスターになる為の試練よね。じゃあ、明日から私も寺に通うことにするわ。それで良い、響子?」
最初は怒られるばかりと思っていた響子は、なんだか好転していきそうな未来を感じて期待に胸を膨らませながら大きく頷いた。
***
「いつも思うんだけど、あんたのペット、器用に前足を使って酒を呑むねえ」
雲居一輪と雲山、そして体長が人間ほどもある獣一匹が人里の酒処の畳の上で卓を囲んで酒をかっくらっていると、配膳に回っていた店の主人がにこやかに話しかけてきた。
ペットと呼ばれた獣は不機嫌そうに唸ったが、一輪は気にせず笑い返した。
「うちの子は賢いからね。――あ、親父さん、こっちの瓶、お酒が切れちゃった。いつものやつ詰めといて」
一輪はそう言って卓の上に横倒しになっていた白い陶器の瓶を掴みあげ、頭の上で軽く振った。
「あいよ。しかしこの瓶は珍しい形しているね。外の世界のものかい?」
「ええ。最近寺に来た狸の妖怪がおみやげにって」
「へえ。外の世界か。その狸さんにはいつかお話を伺いたいもんだね」
「言っとくよ。あの方もお酒好きだからね」
店の主人は愛想よく会釈すると一輪から瓶を受け取って店の奥に引っ込んでいった。
それを見届けると、獣の方が一輪に鼻先を近づけて低く唸った。
そして、あろうことか人語で話し始めた。
「だーれーが、ペットだって~?」
一輪は意にも介さず、すまし顔。
「人里で酒を呑む時は、あんたは私のペットって決まりでしょ?」
獣の方はしばらくウルルルと唸っていたが、勝手知ったる相手にこれ以上威圧を加えた所で暖簾に腕押しということは分かりきっていたので、早々に引き下がり大きなため息をついた。
「くそう。毘沙門天代理なんて役職じゃなけりゃなあ」
「ご愁傷様。能ある鷹は爪を隠すって言葉をお贈りするわ」
獣の正体は命蓮寺の御本尊、寅丸星だった。彼女の場合、むしろ、獣の姿が本性と言ってもいい。
元は巨大な体躯の肉食獣だったが、時を経て妖怪化したのが彼女だ。
生まれ持った体力に加え、聖人を食って得た妖力と人間を上回る知性を持ち、かつては多くの人間を恐れさせた妖怪だったが、白蓮に敗北して以来彼女の配下に収まっている。
白蓮の弟子たちの中では随一の力を持った妖怪だった為瞬く間に頭角を現し、終には毘沙門天からその威光を借り受けられるまでに成長した。
妖怪だった当時は荒っぽかった性格も、兄弟弟子たちとの修行や人との平和裏な関わりあいの中で次第に丸くなり、今では寺を代表する人格者(妖怪格者?)と呼ばれるまでになった。
かように非の打ち所のない彼女だったが、一つだけ欠点があった。
酒癖が、悪いのだ。
ほろ酔い程度なら陽気なものだったが、酒が深くなるにしたがい段々と彼女の本性である獣性が顔を出してくる。
暴言や本音の吐露から始まり、物を投げたり壊したりする、果ては他者に危害を加えるまでになるなど、酒の量に比例して行動が荒れていくのだ。
白蓮たちが封印された後に彼女は毘沙門天から贈られた大事な宝塔を無くしたことがあったのだが、それも酒が原因だ。
仲間を失い自暴自棄になった星は人目も気にせず酒に溺れるようになり、本堂にも酒瓶がごろごろと転がる有様になった。
ある日彼女はべろんべろんに酔っ払った結果、手近にある酒瓶から何から全部外に放り投げるという暴挙に出た。その時に罰当たりなことに彼女は宝塔も一緒に投げ捨ててしまったのだ。
白蓮や仲間たちが復活した今では彼女もさすがに反省し、完全に獣と化すほど飲むことは少なくなったが、それでも折を見て寺の外にこっそり出てはちょっと一杯のつもりではしご酒に走る。
酌み交わす相手は大抵、命蓮寺の中でも酒豪の部類に入る一輪と雲山だった。
この二名、特に雲山は飲んだ傍からアルコールを分解するいわばザルだった(そもそもアルコールが効く身体なのかも怪しい)。
星自身はそれほど酒に強い方ではなかったから、半ば介抱役を任されているわけだ。
星が今獣の姿を取っているのは、介抱役兼呑み友達である一輪の提案だった。
命蓮寺本尊の姿のまま人里で酒を呑むわけにもいかないがどうすればいいかと星が一輪に相談を持ちかけたところ、身内でも知っている者の少ない獣の姿に身をやつせばいいのではないかと彼女は答えた。その案を星は採用したわけだ。
ただ、獣が一匹で人里に現れるのはまずいので、保護者の名目で一輪と雲山を連れて行くことにしたわけだ。
三名の酒の肴はもっぱら昔話だった。若い頃の雲山の話、悪かった頃の星の話、一輪が人間だった頃の話……千年以上生きていれば、話のネタは幾らでもあった。
今日も話すだけ話、満足するまで飲む。
しこたま飲んで満足した星は、畳の上で腹を見せてゴロンと寝転がった。
目をとろんとさせて喉の奥でつぶやく。
「しかしまあ、皆が帰ってきてくれて私は本当に嬉しいよ。千年も寂しい思いさせやがってさあ……」
そう言ったきり、彼女は眠りこけてしまった。一輪と雲山は顔を見合わせて笑った。
「まったく、とんだ毘沙門天様ね」
そう言って一輪は毛むくじゃらの星の腹を撫でる。かたい金色の毛を撫でていると、自然と昔のことを思い出す。
出会った当時はこの毛むくじゃらと取っ組み合いの喧嘩をしたこともあった。その頃はまだ一輪も星も精神的に幼かったように思う。
今、こうして小さいながらも立派な寺の主要な門徒となり、責任も大きくなった。
その責任を扱いきれるほどの精神性を得られるくらいは成長したのではないか。ある種の感慨と共にそう思いながら、一輪は手にした猪口を煽った。
その視界の端に、見慣れた黒衣の人影が立っているのを認め、一輪は目を疑った。
悲しそうな目をして三名を見下ろしていたのは、我らが姐さん、聖白蓮だった。
いつもなら本堂に人里の人間を集めて写経をしている時間のはず。幻覚を見るほど酔ってはいない筈だった。
白蓮は大きな溜息を一つつくと、いつも通りの柔らかい声で尋ねた。
「そこにお腹を出して寝ている妖獣はどなたですか? どこかで見たことがあるような気がしますが……」
「……さっき道端で拾った通りすがりの寅……」
一輪の言いかけた口を雲山が塞いだ。彼は聞こえるか聞こえないかという小さな声で、
「命蓮寺の御本尊にして毘沙門天代理であらせられる、寅丸星その人であります」
と馬鹿正直に報告した。彼は嘘が嫌いだった。心の中で舌打ちする一輪。
「一輪、雲山。五戒の一、不飲酒戒のこと、よもや忘れたわけではありませんね」
座敷の上に身を乗り出して静かに尋ねる白蓮。口元に笑みが浮かぶが、目は笑っていない。
一輪の背中に嫌な汗がだらだらと流れる。なんとかしてこの場を取り繕うとして、彼女は大げさに手を振りながら言い訳を始めた。
「勿論です、姐さん! これ! これを見てください!」
彼女は卓の上の陶器の瓶を掴んで白蓮の鼻先につきつけた。その白磁の瓶には草書体でこうかかれていた。
『般若湯』。
「高野山般若湯です。マミゾウが外の世界から持ってきた、由緒正しき物です。我々はこれを飲むことで、散逸する精神を平常に保つ修行をしていたのです」
一輪は努めて笑顔でそんなことをまくし立てた。
白蓮はというと瓶の表面に書かれた文字を読んで目を細めている。それは一輪の行いに喜んでいるというよりは、明らかに疑いの眼に近かった。
その時、間の悪いことに店の奥から店主が出てきて一輪たちの座る座敷までやってくると、笑顔満面で先ほど渡した白磁の瓶を掲げてみせた。
「一輪さーん、いつもどおりどぶろく詰めといたよーって……あれっ……住職、珍しいですね」
瓶には、今一輪が白蓮に見せたものと同じく『般若湯』の文字が踊っていた。
白蓮の目がますます細くなる。
一輪の顔は笑顔を張り付かせたまま、急激に青白くなっていく。
白蓮は静かに尋ねた。
「一輪、何か申し開きはありますか?」
「……ありませんすみません」
一輪は身も声も小さくして謝った。白蓮は動じずにぽつりと呟く。
「……不妄語戒」
「……あの、南無三だけは勘弁していただけますか?」
一輪は白蓮の服の袖をつまんで、必死の形相で懇願した。その様子や選んだ言葉が少し滑稽で、白蓮は思わず笑ってしまった。
「ふふ、暴力に訴えるつもりはありません。早速寺に戻って法苑珠林全百巻のおさらいをしましょうか。今夜は寝かせませんよ、うふふ」
白蓮の態度が砕けたのを一輪は見逃さなかった。彼女は座敷の上で居住まいを正し、一つ咳払いをしてから神妙な顔つきでこんな風にまくしたてた。
「……お言葉ですが姐さん、他の妖怪なら別ですが、私や星は寺にある書簡類については一字一句違わず覚えています。今更そのおさらいなどしても詮無いでしょう。それよりは、この際です、人間にとっての仏道と妖怪にとっての仏道の違いについて、徹底的に議論してみるのはいかがでしょうか」
白蓮は弟子の積極的な提案に滅法弱いようで、喜色満面にして胸の前で手のひらを合わせた。
「まあ、それは素晴らしい提案ね、一輪。それでこそ高僧命蓮の弟子というものです。良いでしょう。では今夜は貴女と私、それに星と雲山で仏道談義を行うことにいたしましょう」
さすがは一輪、転んでもただでは起きない。要領の良さで通っている妖怪だけあって、こういう場合の身の振り方をよく心得ている。
かくして、その日の夜、寺の本堂で弟子たちを集めた問答が行われることになったのだ。
***
日が落ちて間もなく、命蓮寺の本堂に主要な妖怪の弟子たちが集められた。
寅丸星を筆頭に、一輪、雲山、村紗、響子、ぬえが横並びに正座しており、それに正面から向き合う形で白蓮が座していた。
ぬえ以外全員、白蓮に悪行を目撃されているわけで、一様に判決を待つ罪人のように表情を固くしている。
そして誰一人として口を開かず、座した白蓮に注意を傾けているのだった。
高い天井の本堂に、境内に生えている木々の葉擦れの音や、遠くに鳴く梟の声が、風の様に通り抜けていく。
ひとしきりの静寂の後、白蓮がおもむろに口を開いた。
「貴方たちに今一度問います。この中に、真に悟りを求める者はいますか?」
彼女らしい、単刀直入にして無駄を削ぎ落した言葉だった。それ故に、その言葉は強い力を持って弟子たちの胸を貫く。
……誰一人として、手を挙げる者はいなかった。
僅かな希望を持って発した言葉だった。しかし、皮肉にもその言葉によって、今やその希望の灯火が消えようとしていた。
そしてあろうことか、一輪が上目遣いで白蓮を見て口を尖らせるのだ。
「……姐さんは魔界から帰ってきてから変わりましたね。以前はこんなに戒律に煩くなかったのに……」
その言葉は密かに白蓮の心を突き刺した。忌まわしい過去の記憶が奔流となって心を乱そうとするのを、彼女はなんとかして抑えこむ。
白蓮は乱れる心中をおくびにも出さずに答えた。
「千年も封印されていれば色々と考え方も変わるものです。――それが貴女の意見だというのですか、一輪?」
「姐さん、妖怪は如来にはなれませんよ。そのような話を私は寡聞にして聞きません。それは妖怪の本質が恐怖を喰うものだからです。恐怖に喰われる側である人間の本質とは真逆のものです。従って、人間の作った戒律に則っても無意味だと思うのです。もしも本当に妖怪としての涅槃の境地を望むなら、妖怪の為の戒律を設けるべきと思います」
「それでは、貴方たちはその戒律に則って行動した結果、酒を飲み、他者に迷惑をかけることになったというのですか。貴方たちの戒律とは一体どんなものですか?」
問われて、一輪は答えることが出来なかった。
白蓮の表情に明らかな落胆と悲しみがにじみ始めた。
いたたまれなくなり、星がおずおずと口を開く。
「聖、私たちは貴女のことをお慕いしております。皆、それ故に貴女の元に集っているのです。……正直に申し上げますと、私たちはそれだけで十分に幸せなのです」
星としては精一杯のフォローのつもりだった。弟子たちもその思いを汲み取ってうんうんと頷いていた。
しかし、残念ながらその言葉は白蓮の望む答えではなかった。
「それで、それ以上を望む気持ちはないと言うのですね。……貴方たちの気持ちはわかりました。しかし……」
白蓮はがっくりと肩をおとして深い溜息をつく。
弟子たちは師の気持ちを汲み取ることがどうしてもできず、互いに顔を見合わせるばかりだった。
彼女らのそんな様子を見て、白蓮は悟った。
自らの考えを改めなければならないと。
弟子たちは、自分の理想を僅かでも理解してついてきてくれているとばかり思っていた。
しかし、実際は誰一人としてその理想に追従する者はいなかったのだ。それどころか、そうした理想が存在していることすら知らない者も居るかもしれない。
ならば、詳らかにしなければいけない。自分がどんな理想を持って行動しているのかを、態度ではなく言葉をもって、含めるように教えこまなければならない。
顔を上げ、弟子質一人ひとりの顔を見る。皆、自分が何をすべきか知らないという顔をしていた。
彼女らに目的を与えなければいけない。
白蓮はすうと息を吸い込み、決然とした表情で彼女の意志を声して語りはじめた。
「今の私が貴方たちに期待しているのは、星が今言ったような馴れ合いではありません。私は貴方たちには妖怪以上を目指して欲しいと思っています。
私やムラサ、一輪は、妖であるという理由で人間に封印されました。
人間は確かに愚かです。物事の一面しか見ることができず、弱い心に突き動かされて過ちを犯すこともあります。
しかし、彼らが妖を恐れる気持ちも理解できます。人間にとって妖は死を想起させるもの。そして、人間にとって死は我を忘れるほど恐ろしいものなのです。
封印されている間、私は人間が長い年月の中でより強く成長するよう祈っていました。しかし、その祈りは虚しく、今も人間は昔と変わりないままでした。
私たち妖が封印や退治に怯えることなく平和に暮らすには、私たち自身が変わるしかないのです。
私は貴方たちに、人を恐れさせるだけの妖怪ではなく、人の幸福を手助けする妖怪、人を思いやれる妖怪になって欲しい。
己の中の業を捨て、人間から尊敬される存在に昇りつめてほしいと思っています。
私は封印前のような過ちは犯したくないのです」
白蓮の長い説教を、ある者は退屈しながら、またある者は全く理解せずに眠そうに聞いていたが、古参の弟子たちの心には響くものがあった。
封印された日のことは、弟子たちの記憶の中に鮮明に残っていた。大勢の殺気立った武士や陰陽師に取り囲まれ、暴力を振るわれ引き回された挙句、深い淵に投げ込まれたことを思い出し、村紗は身を震わせた。一輪もまた、目の前で白蓮が異界に投げ飛ばされ消滅したことを思い出し、目に涙を浮かべていた。あの時は今生の別れと思ったものだ。
弟子たちの表情が暗く沈み始めたので白蓮は心のなかで動揺した。言い過ぎたかも知れない。
彼女は咳払いをすると、今日本当に話したかったことに話題を移した。
「……地底には、悟りの境地に至ったと思われる妖怪がいると聞きます。その妖怪の姿を見れば、もしかすると貴方たちの気持ちも変わるかもしれません」
各々、白蓮の言葉を真摯に受けとめているところに、当の白蓮が突然突拍子もない事を言い出した。うんうんと頷いていた星がうん!?と顔を上げる。
地底の妖怪――。
妖怪の楽園幻想郷ですら厄介者として扱われた嫌われ者たち。
その中には、人の心を読む妖怪サトリがおり、そのサトリ妖怪の一部が心を読むことを止め、無意識を操るようになった、という噂が幻想郷に流れていた。
地底に封印されていた弟子たちも、その妖怪のことはもちろん知っていた。むしろ、白蓮よりも正確な情報を知っていると言ってもよかった。
そのため、普段は白蓮の説教を黙って聞く村紗もさすがに遠慮がちに口を挟んだ。
「聖、あの、それは多分ないかと……」
白蓮は村紗の控えめな抗議を無視してきっぱりと言い放った。
「私、決めました。その妖怪を入信させ、貴方たちの手本になってもらおうと思います」
そう言ってすっくと立つと、白蓮は正座する弟子たちの脇を抜けてすたすたと本堂を出て行ってしまった。
残された弟子たちは困惑しきり。村紗は心底困ったという顔で星を見た。
「星、どうしよう」
言われた星も困り顔だったが、やがて観念したように大きな溜息をついた。
「聖は一度決めたら絶対に覆さないからね。成り行きを見守るしかないでしょう」
一輪は正座から胡座に座り直つつ、渋い顔で話に加わった。
「姐さんが話してたのって、あのサトリ妖怪の妹の方でしょ? 地底にいたとき噂だけは聞いたことあるけど、とんでもない問題児だって話じゃない」
「そこでなんで私を見るんだよ!」
やっとのことで正座が解けて安堵の表情で本堂の床に寝そべっていたぬえは、一輪に一瞥されてむっと口を尖らせた。
「正直言って、これ以上面倒事増やしたくないの!」
「誰が面倒事だよ! はー、やだやだ、これだから凡庸な人間上がりは。器がケシ粒みたいにちっちゃいのな。ちょっとは聖を見習えってんだ」
ぬえは臥像のように肘を枕に寝そべりながら小指で耳の穴をほじった。一輪のこめかみがピクピク動くのを、傍らの雲山がハラハラと見守っていた。
一輪は押し殺した声でぬえに向かって凄んだ。
「あ? ずいぶんでかい口叩くじゃないのよ、新参者のくせにさ。あんたこそ、その身体ケシ粒くらいに潰されたい?」
言われてカチンと来ないぬえではなかった。飛び起きて一輪に歩み寄ると、胡座をかく一輪に覆いかぶさるようにして睨みつけた。
「へえ。あんたこそ、皇をビビらせたこの大妖怪に向かって大した口聞くじゃない、末端妖怪風情が。表出なよ、どっちが格上か身体に覚えさせてやる!」
「喧嘩はダメですよー!」
早くも一触即発になりかけていた二人の間に響子が大声で割って入った。高い天井に彼女の声が何度もこだまする。
鼓膜を激しく揺さぶられて、今度は一輪が耳を掻いた。
「ちぇっ、ばかばかしいや」
舌打ち一つしてぬえは本堂を出て行く。
暗雲立ち込める行く末の予兆のような騒ぎに、星は早くも頭痛を憶えていた。
***
夕暮れ時は遊びが一番楽しい時だ。
人里近くの雑木林には、里の子供たちや無害な妖怪たちが集まって、めいめい遊びに興じていた。
遊びの種類は多種多様。地面に絵を書いて遊ぶ者もあれば、鞠つき、かくれんぼなどをする者もいた。
人間の子供たちの顔ぶれは似たり寄ったりだったが、妖怪たちは個性的なものが多かった。
座敷わらしに一つ目小僧、山から降りてきた山彦なども加わって、人間の子供と同じように遊んでいる。
そして、その中に、古明地こいしも混ざっていた。
彼女は今鬼ごっこの鬼になり、外出の時にいつもかぶっている黒い帽子を草むらにほっぽり投げて子供たちを追い回していた。満面の笑顔で実に楽しそうだ。
彼女は人の心を読むさとり妖怪だったが、自ら第三の目を閉じて人の心を読む力を封印する代わりに、その存在も希薄になった。
そのため、霊感の弱くなった大人の意識には上らないが、子供たちならはっきりとその存在を認識することができた。
彼女は地底の妖怪だったが、頻繁に人里にやってきては人間の子供と日が沈むまで遊ぶのだ。
こいしは幻想郷の人間の子供たちと遊ぶのが好きだった。
子供は大人のように裏表がなく、思ったことをそのまま口にする。
大人は自分のことを嫌いだと思っていても口に出さないどころか顔にも出さない。にこにこ笑いながら、その心の中は自分への嫌悪感で一杯だったりする。
一方で、子供たちは素直だ。嫌だと思ったら嫌だと言うし、好きだと思ったら身体全体で好きを表現する。
こいしは第三の目を閉じる前、人の心を読めていた頃に、嫌というほどそれを知った。だから、彼女は子どもとだけ付き合うのだ。
「捕まえた!」
最後の一人に抱きついて、彼女は見事に鬼の役目を完遂した。子供たちが歓声を上げてこいしの元に集まってくる。
「こいしちゃんすごーい」
「こいしが鬼になったらかなわないよ。あっという間にみんな捕まえちゃうんだもの」
「次なにしよっか?」
「もう暗くなってきたし帰らない? おっ母におこられちゃう」
「そうだね、帰ろっか!」
見あげれば宵闇が空を青く染め上げている。遠く山際は、夕陽も沈みきりとうに輝きを失って、淡い肌色を残すばかりだった。
里の子供たちはてんでに別れを告げながら自分たちの家の方へ去っていった。
残された妖怪たちもお互いに顔を見合わせると、なんだか気まずくなって、すぐにそれぞれのすみかの方に消えていった。
ぽつねんと残されたこいしは寂しそうに突っ立っていたが、そうしていても仕方が無いので自分も家に帰ることにした。
帽子を拾って踵を返した時、こいしは里とは反対の方向に歩み去っていく人影を見つけた。
それは背丈が低かったのですぐに子供だと判った。それどころか、さっきまで一緒に遊んでいた子供のうちの一人だった。
こいしはその子供に駆け寄って、肩に手を乗せ呼びかけた。
「ね、どこいくの?」
子供は驚いたように振り向いて、こいしの顔をまじまじと見た。こいしも子供の顔をじっと見た。
その子は人間の里に住む男の子で、名前は、確か、葛城圭太。皆はけいちゃんと呼んでいた。
「けいちゃん、だよね。貴方はお家に帰らないの?」
もたげてきた好奇心を隠すことなく、こいしはにこやかに少年に問うた。
「何? 誰だっけ、お前」
少年は無愛想に口を尖らせて、つっけんどんに返してきた。それに怯むようなこいしではなかったが。
こいしはきょとんとして、
「あれ? さっき一緒に遊んでたじゃない。こいしだよ」
圭太少年に自己紹介した。少年は眉根を寄せて後じさった。
「……お前妖怪だろ? 俺、妖怪とは遊ばないよ」
「どうして?」
こいしは首をかしげた。少年はますます嫌悪感を顕にし、すこし怒気をはらんだ声で吐き捨てるように言った。
「妖怪が嫌いなんだよ!」
言って、彼はすぐにくるりとこいしに背を向けて走り去った。人里とは逆の方向へ。
こいしはしばらく呆然とその後ろ姿を見送っていたが、なんだか面白い事が起きそうな気がしたので、彼を追いかけようとした。
その時、こいしの背中を、かつて感じたこともないような妖気が撫でた。
危険を感じて振り向いてこいしは僅かに驚いた。浅葱色の円筒が鼻先に浮かんでいたのだ。
その円筒の側面からは七色に光る薄べったい何かがずうっと道なりに伸びており、妖気の持ち主はそのひらひらしたものの先からこいしに向かって近づいてくるようだった。
こいしは無意識に目の前の浅葱色の円筒をつかもうとしたが、円筒はするりと手の中を抜け、彼女の小さな手の甲をぺしりと叩いた。どうやらこの円筒自体が意志を持っているようだった。
と、突然、里の方から一陣の風が吹き抜けて辺りが砂埃に包まれた。
こいしは鼻から埃を吸い込んでしまい、小さくくしゃみをする。
「貴女がこいしちゃんね」
唐突に傍らから声がして、こいしはそちらの方を見た。砂煙が収まると、道の反対側に、今まで居なかった人影があった。
白いドレスの上から黒衣を身に纏った女性だった。身体から立ち上る妖気は先程背後から感じたものと同じだったが、その表情は屈託がなくにこやかだった。
そして、どうやらこの女性にはこいしのことが見えるようだった。
彼女の手には、今こいしの鼻先に浮いている円筒と同じ物が握られていて、彼女が「もういいわ、戻りなさい」と呟くと、目にも留まらぬ速さでこいしの側の円筒が女性の手元の円筒のところまで飛んでいき、二つの円筒は融け合うようにして一つの円筒に変わった。
それを見たこいしはもう楽しくて仕方なくなり、この女性のことで頭が一杯になってしまった。
こいしはその女性に笑顔を返して、まず最初にこう言った。
「その青い色した棒はなあに?」
「え? これ?」
知らない者から名を呼ばれたのにそれを気にもせず、先に経巻について尋ねられた白蓮はちょっと肩透かしを食らってしまった。
白蓮はこほんとひとつ咳払いをして、
「これは魔人経巻といって、無限にお経や呪文を記録できる道具なの。魔界の物質でできているから、無限に色々なことを記録できるのよ」
「ふーん。お姉ちゃん、誰?」
前後の文脈を無視してこいしは誰何した。なるほど確かに、無意識を操ると噂される妖怪だけあって、行動も無意識的だ。
「私は聖白蓮と申します。人里の近くにある命蓮寺で住職をしているの」
そう言って白蓮は深々と頭を下げた。こいしはもう白蓮の名前などに興味をなくしていて、その身体から立ち上る妖気の方に気持ちが移っていた。
下から覗き込むようにしてまじまじと白蓮の顔を見る。
「ふーん。お坊さんなんだ。それにしては随分と邪悪な感じがするし、それに強そうね! お空とどっちが強いかなあ」
「そのお空というのはお友達?」
「ううん、お姉ちゃんのペットだよ! 神様に力を貰ってすごく強くなったの。八咫烏の力を貰ったんだって」
白蓮は先日の対談で山の神が話していた地獄烏のことを思い出した。神の気まぐれで力を与えられた地底の妖怪に思い、白蓮の胸がうずいた。
「そう……。その子は元気にしてる?」
「うん、すっごく元気だよ! 新しい力を貰えたってはしゃいで、毎日うるさいくらい。仕事する楽しさも見つけたって言ってたよ」
「そうなの。よかった……」
白蓮はほっとして胸をなでおろした。強すぎる力は不幸を呼ぶこともある。そのことは、力の強さ故に封印された白蓮自身がよく知っていた。
そんな白蓮の気持ちなどお構いなしで、こいしは目の前にいる強そうな輩への期待感に目を輝かせていた。
「ねえ、お姉ちゃん、強いんでしょ? もう日も落ちたわ。素敵な妖怪の為の時間よ。ね、お姉ちゃん。私と恋焦がれるような弾幕勝負をしましょう?」
白蓮にとっては願ってもない申し出だった。
スペルカードルールでの弾幕勝負は、事前に勝者の報酬を決めることができる。全く後腐れなくこいしを寺に招き入れるなら、スペルカードルールでの勝負を仕掛けるのが最善手だった。
その流れに持っていく為に、白蓮はいくつかの策を考えてきていたが、それを実行する必要はなくなった。
白蓮が報酬について交渉しようと口を開きかけた時、それにかぶせるようにして、
「それで、私が勝ったら、その棒ちょうだい!」
こいしの方から要求を出してきた。
「魔人経巻のこと? いいけれど、これは私が作ったものだから、私以外には使えないわよ。それでもいいの?」
「へえ、そうなんだ。でも、頑張れば私だって使えるようになるかもしれないでしょ?」
「そうかも知れないわね。私の弟子たちの中にはこの巻物を扱えるだけの妖力と徳を持った者は居なかったけど、修行次第で貴女にも使えるようになるかも知れないわ」
老獪な白蓮はそんな風に予防線を張った。こう言っておけば、万一弾幕勝負に敗けても、こいしを入信に誘導することができると考えたのだ。
勿論、不妄語戒を実践する白蓮のことだから、この言葉に偽りが無いことも事実だった。魔人経巻は自らの意志で持ち主を選ぶ。法界の素材でできたこのマジックアイテムは、白蓮の言うとおり、使用者の魔力と僧としての徳を推し量り、適格と見た者の手の中にのみ収まる。
こいしは元々実力のある妖怪だし、修行を続ければ経巻のお眼鏡にかなうかも知れなかった。
ちなみに、現時点で白蓮の弟子の中に経巻を扱える者は居なかったが、経巻の反応を見るに、自称大妖怪のぬえと大御所化け狸のマミゾウは妖力だけなら適格と思われた。が、両者とも徳の方が絶望的だったので結局扱えず仕舞いだった。
閑話休題。
白蓮はこいしの要求に対しにこやかに首肯した。
「ええ、良いですよ。じゃあ私が勝ったら、お姉ちゃんの寺の信者になってくれる?」
「お坊さんになれって言うこと?」
「ううん、なにも出家してほしいとは言いません。在家信者といって、お家にいながら三宝に帰依することで徳を高める方法もあります」
「信者って何をするの?」
「私たちのお寺では、在家信者の方々には五戒を守ることだけをお願いしています。すなわち、生き物を殺さないこと、他者の物を盗まないこと、不倫しないこと、嘘をつかないこと、そしてお酒を飲まないこと。この五つの約束を守ることができれば、立派な信者と言えるでしょう」
出家した弟子たちの中ですら守れている者は一人も居ないわけだが。
こいしは難しい顔をして唸った。
「うーん……、生き物を殺さないのは難しいなあ……。私、気づいたら何かを殺してる時とかあるもの。他の四つは守るも何も最初から出来てるんだけどなあ」
さらりと残虐なセリフを吐くこいしに対しても、白蓮は全く怯まなかった。彼女は妖怪の性質をよく知っていた。五戒というものが妖怪にとってどれほど順守困難なものかも。
むしろ、こいしの言葉を聞いて白蓮は躍り上がるほど嬉しくなり、胸の前で手を合わせて喜んだ。
「最初から完璧にできる妖怪などいません。むしろ、他の四つを最初から守れているなんて素敵です。そんな妖怪は滅多に居ないわ。確かに、貴女にとって生き物を殺さないことはとても難しいことかも知れないけれど、何一つ克服すべき物が無いよりは、一つくらい苦手なことがあった方が、修行を通しての実りは多いものですよ。貴女なら、きっと素晴らしい信者になれると思うの」
こういう口説き文句が白蓮の口からはスラスラ出てくる。これが本心なのだから当然だった。彼女は褒めて伸ばしたがるタイプだ。星も村紗もぬえも響子も、この言葉にころりとやられてしまった。
ところが、こいしにはこの白蓮の言葉は届かなかったようだ。笑顔を張り付かせたまま「よくわかんない」と言い放って白蓮を苦笑させた。
「いいわよ、その条件で戦いましょ。欲しいものがあれば力づくで奪いなさいっておねえちゃんが言っていたもの。弾幕勝負なら合意の上でそれができるわ」
負ける気はない、ということね――。
完全に陽が落ち、今や互いの姿は月の光の中で薄ぼんやりと佇むばかりだ。
白蓮は静かに微笑んでスペルカードを提示した。呼応してこいしもスペルカードを見せる。両者はにっこりと笑いあった後、さっと空中に飛び上がった。弾幕勝負の始まりだ。
先制攻撃を仕掛けたのはこいしだった。飛び上がりざまに、白蓮に向けてハート型の弾幕をばらまく。白蓮はその弾幕を小さな動きでかわしつつ、小さな光弾を大量にばらまいた。
弾幕同士が入り乱れ、交差し、途端に夜空は華やかな光の粒で埋め尽くされた。
幻想郷ではこのような弾幕戦は日常的に昼夜を問わず行われており、その度に空に華やかな光の芸術が展開される。それはいわば幻想郷の名物となっていた。
この両者の弾幕はとりわけ美しかった。しかしその性質は対照的で、こいしの弾幕は完全に不規則でありながら、その彩りと動きで魅せるものであるのに対し、片や白蓮の弾幕は彩りこそ少ないものの、強い理性に裏打ちされた規則正しい軌道を描いて空を伝う。
戦いが始まって数分が経過した。両者はほぼ互角の戦いをしていたが、白蓮の方が若干ながら優勢だった。強大な妖力から繰り出される弾幕は速度、密度がこいしのそれよりも桁違いに大きかった。白蓮が持つ魔人経巻は自動詠唱機能を持っており、一振りするだけで巨大規模の弾幕を瞬時に構成する為、反応速度の面でも小さな差が生まれていた。こいしはそのような力の差に搦手のような弾幕で応戦し、白蓮を手こずらせていた。
戦いも中盤に差し掛かった頃、こいしの顔にふっと笑顔が浮かんだ。彼女が自らの胸に手を当てると次第にその姿が夜の闇に溶け込んでいき、ついには白蓮の意識から消えた。向かうべき相手を失い、白蓮の放っていた誘導弾幕が四散する。
無意識の力を使ったのだと白蓮は即座に理解した。彼女は精神を中庸に整え、こいしの気配を探ろうと試みた。こいしの姿はもはや、五感では認知不可能だった。精神の奥深いところにある感性を使い、自然の中に存在する筈のこいしの波動を探るしかない。白蓮は修行途上で、未だその技術を体得しては居なかった。
それこそが、白蓮が追い求める悟りという名の技術だったのだ。
「……『サブタレイニアンローズ』……」
「……!」
白蓮の背後からささやき声と共に巨大な薔薇の弾幕が出現した。身を捩りその弾幕をかわそうとしたが、間に合わない。白蓮の肩に人間の腕ほどもある太い薔薇の棘が刺さる。
白蓮は薔薇弾幕の発生源に向かって光条を放ったが、そこには既にこいしは居ないようだった。肩に刺さった薔薇の弾幕が蒸発し、傷口から血が流れだす。
未だにこいしの姿は把握できない。
手傷を負うと人間も妖怪も興奮状態に陥る。そうなれば相手の思うつぼだ。白蓮は大きく息を吐くと再び精神の統一を図った。
今の自分の力ではこいしを捉えることはできない。白蓮は戦いの中で冷静にそう判断した。
彼女との戦いの中に、悟りを得るためのヒントが豊富に潜んでいることに白蓮は既に気づいていた。できるならば勝敗を度外視しても彼女の存在を捉えることに注力してみたかった。
しかし、今は戦いに勝つことの方が重要だった。戦いに勝てば、幾らでも彼女と一緒に修行することができる。
勝つために白蓮はそれまでの戦術を変えることにした。スペルカード主体の戦いから、通常弾幕中心の戦いへ切り替えることにしたのだ。
スペルカードルールでは、カードの制限時間を過ぎた時点でそのカードでの攻撃はできなくなる。そして、カードを先に使い切った方が敗者になる。
弾幕に一切被弾することなく、通常弾幕で相手を翻弄し、相手のスペルカードを使い切らせる。以前戦った紅白巫女や金髪の魔法使いがよく使う戦術だった。
妖怪同士ではポンポンとスペルカードを使って短期間に互いの体力を削り合う戦い方が主流だが、一度の被弾が致命傷になりかねない人間は弾幕を避けることに注力する。そして、スペルカードを極力使わないようにすることで勝利の確率を上げるのだ。
この戦い方はこいしに対しても有効だった。スペルカード使用時同等の厚みと拡散範囲を持つ白蓮の通常弾幕を嫌い、こいしは次々とスペルカードを繰り出す。『嫌われ者のフィロソフィ』、心符『没我の愛』、『胎児の夢』……。気の狂いそうな程美しく濃密な弾幕が白蓮を襲うが、何故か白蓮には当たらなかった。小刻みに魔人経巻の詠唱を交えつつ、人間が認識できない刹那の間隙をすり抜けていく。
そして、戦いは決着の時は迎える。ついにこいしのが最初に宣言した枚数のスペルカードを使いきったのだ。
地に降り立って待つ白蓮の前に、こいしがぼんやりと姿を表した。その身体の所々には被弾の痕跡があり、服の一部も破れて白い肌が露わになっていた。
決闘に敗れても、こいしはご機嫌だった。満面の笑みを見せて白蓮の元に駆け寄ってくる。
「お姉ちゃん、つよーい! この間戦ったお目出度い色の巫女さんも強かったけど、同じくらい強いのね! 私、強い人、好きよ!」
こいしは目を細めてぱちぱちと手を叩いた。勝った白蓮の方は、肩の傷を法力で癒しながら、にっこりとこいしに笑いかけた。
「貴女がさっき見せた力が無意識の力ね……。気配が完全に消えて自然と一体化しているようだった……。……とても興味深いわ」
「約束通り、私、お姉ちゃんのお寺の信者になるわ。貴女と修行すれば、私、もっと強くなれるんでしょう?」
「ええ、勿論!」
白蓮の心は天にも上りそうなくらい高揚した。仏教徒になって以来久しく味わったことのない高揚だった。こんなに可愛らしい妖怪が己の悟りへの道の案内役になってくれるかもしれないという所なのだから、妖怪マニアの僧侶である白蓮にとっては無理もない話だった。
二人は手を合わせてキャッキャと喜んでいたが、ふとこいしの方が顔を曇らせた。
「でも、おねえちゃんが許してくれるかなあ……」
サトリ妖怪のこいしには姉がいた。古明地さとり。地底深く旧地獄で怨霊の管理などを行なっている地霊殿の主だ。
かつては地上で活動していたが、心を読む彼女を人妖は恐れ、忌避していた。
恐れさせることが妖怪の本分なのだから本来ならそれを喜んでも良いところだが、そのさとりという少女妖怪はやや潔癖なところがあった。
勿論、妖怪の本能として、自分への恐れや嫌悪は読んでいて心地良い感情だった。しかし、同時に彼女は自らに向けられる嫌悪感に傷つきもしていた。
理解し難い観念かもしれないが、一部の人間にも他者の命を奪って食すことに嫌悪感を抱く時期があると思う。それに似た観念だった。
こいしの入信に際し、このナーバスで扱いづらい姉の名前が上がることは白蓮も予測していた。
そして、白蓮は既に腹に決めていた。
「貴女の姉上様は、私が直接説得します。こいしちゃん、私を地霊殿に案内してくれる?」
少なくともこいしに関することでは、自らの心にやましいものはないと白蓮は確信していた。
こいしはその言葉を聞くと、ぴょんぴょんと跳ねて喜んだ。
「いいわ。いいわ。とっても素敵! 貴女に私のペットたちを紹介してあげる! そうと決まれば善は急げよ。今から行きましょう?」
彼女はぱっと白蓮の手を掴むと、強引に引っ張って走りだした。
月明かりの下を、二つの影が駆け抜ける。一路妖怪の山へ。その中腹にある地底へ続く深い深い縦穴に向かって。
第一話 こいし入信
無粋な闖入者の為にお開きになった幻想郷縁起の為の対談の後、神子は稗田亭の前庭の隅で遁甲の術の為の準備をしていた。
久しぶりに聞く立場でなく話す立場に身を置けたことに神子はご機嫌だった。古い民謡を鼻歌で歌いながら、七星剣で地面にがりがりと八門を描き込んでいるところだった。
その神子の肩を、指先でちょんちょんと叩く者がいた。
振り向いて背後の人物の顔を見た途端、彼女の表情は明らかに不機嫌なものに変わる。
「………………あら、住職」
「あの、どうも……先程は失礼致しました」
そこに立つ姿は、見目年若い娘だった。しかし、実際に生きた年数はゆうに千年を超す筈だ。……かく言う神子も存在していた時間で考えれば齢にして千数百年といったところだが。
それは、人里のそばに最近建立された命蓮寺の住職にして妖の術を極めた魔法使い、聖白蓮だった。
彼女と神子は先刻の対談で、三つの新興勢力の長として火花を散らす会話を繰り広げたばかり。
そういえば、と神子は先程の対談を思い返した。対談の流れで有耶無耶になったが、彼女との『話』はまだ終わっていなかった。
神子は片方の眉を吊り上げて、件の住職の顔を睨めすえた。
「何? 早速第二ラウンド始めようっての? いいわよー、いくらでも付き合ってあげる。次は妖怪の山で天狗を司会にするなんて良いんじゃない? あのゴシップ誌にあること無いこと書いてもらいましょうよ」
白蓮は胸の前でその細い両腕をふるふると横に振り、その言葉を否定した。
「いえ、そのような意図はございません。本山である信貴山にも縁のある聖徳太子様にこうしてお目にかかれたこと、光栄に思いますわ」
対談の時とは打って変わってかしこまった様子の白蓮を見て、神子は苦笑した。その意図するところはすでに把握している。ちょっと意地悪したかっただけなのだ。
「今更おべっか使っても遅いわよ。……まあいいわ。要件もわかってる。寺の問題児たちの扱いについて相談したいのね」
白蓮はこくりと頷いた。
「話が早くて助かります」
白蓮の要件は、神子の言う通り、寺の門徒たちの問題行動についての相談だった。
彼女は神子に向かって、己の胸中も交えつつ、半ば愚痴のような形で長々と話し始めた。その内容は要するに次のようなものだった。
対談の途中、山の神である八坂神奈子や黒白の魔法使いから、弟子たちが仏教の戒律を全く守っていないことを知らされ心底ショックを受けた。泣きたい。
自分は仏法を通して彼女らにより高次の妖怪に昇格して欲しいと願っているのに、彼女たちがちっとも理解してくれていなかったことに悲しみを禁じ得ない。(これを話の途中で三回くらい繰り返した)
自分が手本となる姿勢を見せていれば弟子たちも自然とついてくると思っていた。それがこのザマである。
そもそも自分は本当は裸の僧様で、皆面と向かっては敬っていても実は裏では小馬鹿にされているのではないか。
云々。
「なにぶん、千年近く離れていたものですから、なんとなく距離を感じてしまうというか……。昔は私が妖怪たちを助ける側でしたが、今は助けられた側という立場もあって、どうしても強く接することができないのです」
白蓮はしょんぼりした様子でそう話を締めくくった。
聞き上手の神子はうんうんとしきりに頷いて白蓮の話を聞いていたが、白蓮の長話が終わるや、その細い人差し指を勢い良く白蓮の鼻先に突きつけた。
「甘いわッ! 貴女、甘すぎ! そんなことだから弟子にナメられるのよ!」
「やっぱりナメられてるんでしょうか!?」
白蓮は神子の胸ぐらを掴んでがくがくと揺さぶった。張子の虎のように神子の頭がぐらんぐらんと揺れる。
「うっさい」
神子は手に持った笏で白蓮の額をペチリと叩いた。涙目でおでこを抑える白蓮。
胸元から白蓮の手を引き離し、ふっと息をつくと、神子はにっこりと微笑んで白蓮を諭した。
「ナメられてるっていうのは冗談。私の見立てでは、貴女の弟子たちの貴方を敬う気持ちは本物よ」
にわかに安堵の表情を浮かべる白蓮。
すると神子はふいと顔を背け、突き放すような口調で話を続けた。
「……ただ問題なのは、彼女らが敬っているのはあくまで貴女であって、仏教ではない、ということね。私が対談中におままごとって言ったのはそういうこと。彼女らは白蓮様が大好きな仏教を、ごっこ遊びとして一緒になってやってるだけ」
白蓮はむっとして神子を睨んだ。
「そ、そんなことはありません! 星は毘沙門天代理として立派に役割を果たしていますし、一輪だって真面目に仏典を勉強したりしてます!」
両手を握りしめて反論する白蓮を半ば呆れた目で見やっていた神子は、
「親馬鹿っぷりも大概にしなさい」
と言って、またも額をぺちり。
「痛いです……」
白蓮の目の端から涙がこぼれた。神子はそんな様子にはお構いなし。
彼女は白蓮の鼻先に、笏の先を突きつけた。顔からはおちゃらけた雰囲気が消え、人間の指導者の表情に変わっていた。白蓮は思わず居住まいを正す。
「もう一つの問題は貴女がそうやって甘やかすこと! 弟子たちの信頼は多少のことでは揺るぎはしません。本当に理想を実現したければ、戒律破りには心を鬼にして厳しく当たりなさい」
ふむふむと頷きながら、白蓮は手に持った魔法の巻物――魔人経巻に指を走らせた。すると、巻物の表面の虹色の文字がぐるぐると動き始め、ある形に定まった所で動きを止めた。
神子は怪訝そうに眉を上げた。
「……何してるの?」
「あ、お気になさらず。これ、手帳代わりにも使えるんですよ」
公式に語られる魔人経巻の用途は、お経を記録し、魔法の自動詠唱まで行うというものだが、膨大な記憶領域の中身をちゃんと整理していればお経以外のメモや画像なども保存できるようだ。
――怪しげな魔具を使う女ねぇ。
あからさまに鼻白む神子。しかし、ここ幻想郷では常識に囚われてはいけないとも聞く。郷に入っては郷に従え。あまり気にしても仕方がないと思い直し、一つ咳払いをして目を逸らした。
彼女は顎に指をあて、少し思案してから白蓮に向き直った。
「……そうね、貴女には叱るコツというのも教えておきます。相手を叱るのは、相手が問題を起こしたその時にしなさい。時間がたってから叱っても効果はありませんよ。そして、褒めるべき時は心の底から褒めてあげなさい。褒められて嬉しいのは、人間も妖怪も変わりないのです。まあ『怖い』って言ってもらうことが褒め言葉の妖怪も居ますから、そこは相手を見てね」
神子の話を聞くうちに、頭のなかに何か妙案でも浮かんできたのだろうか、白蓮の表情に光が差してきた。
彼女は瞳を星が浮かぶくらいに輝かせ、神子の手をさっと取り、
「さすがは太子様。人妖の心の機微をよくご存知でおいでですね。雲でもかかったように翳っていた私の道が、にわかに晴れた心地です」
などと熱っぽく語り始めた。
言った傍からべた褒めされて、神子は再び苦笑した。でも悪い気はしなかったので、自然とその口元がにやつきに変わってしまう。慌てて口元を笏で隠す。
「神子様素敵です!」だとか「それでこそ人の上に立つお方!」だとか、ひとしきり褒めてもらった所で、神子は二つばかり咳払いしてすまし顔に戻った。
「まあ、今言ったことは人の上に立つ者としては基本のキ、といったところなんですけどね。貴女は遊行僧としては熟練しているようですが、組織運営に関してはきっとまだまだ学ぶべきこと多いことでしょう。何かわからないことがあったらいつでも聞きなさい。『助けて! みこえもーん』と叫んでくれればいつでも貴女の前に現れるわ」
うんうんと頷きながら神子の言葉を拝聴してた白蓮だったが、最後の言葉を聞いた途端あからさまに嫌な顔をした。
「え……それはちょっと……」
「ぬぐぐ、そこで引くんかい!」
油断していた所で上げて落とされた神子はぎりぎりと歯を食いしばり、本日初めて涙目になった。
しかも、何が悔しいって、白蓮本人に悪気が全く無い所だった。にこにこしながら神子に尊敬の眼差しを向けている。
「ほら、やることは分かったでしょ? ならさっさと行動を開始しなさい! 今頃きっと貴女の弟子たちはめいめい好き勝手に遊んでる筈なんだから!」
「はい! ご相談に乗っていただきありがとうございました!」
顔を真赤にして笏をブンブン振り回す神子を尻目に、白蓮は表情もにこやかにそそくさと稗田亭を後にした。
残された神子は、歩き去る白蓮の後ろ姿を見ていた。
その身体から立ち上る尋常ならざる気の流れも、仙人である神子の目には見えていた。
「……ほんとまあ……元人間の癖につくづく凄まじい妖気ね」
将来確実に自分の目の上のたんこぶになるだろう事実に、神子は思わず嘆息した。
「そういえば――」
神子はふと対談中の様子を思い出した。その時の情景を思い出すに連れ、彼女の表情がほころんでいく。
「稗田の子もあいつの妖気に気づいていたみたい。対談中ずっとあいつの一挙手一投足を警戒していたわね。幻想郷縁起にどんな書かれ方をするか、今から楽しみだわ。ふふ」
***
「おはよーございます!!」
命蓮寺の朝は幽谷響子の元気な挨拶から始まる。扱いとしては一番鶏と同じようなものだ。響子の声に促されて一部の人里の人間たちもごそごそと起き出してくる。
妖怪の山から毎日通ってくるこの妖怪は、毎日寺にやって来るなり門前で盛大に朝の挨拶をするのが日課なのだ。
無論、白蓮は響子が来る前から起きていて、この人畜無害な山彦妖怪がやってくるのを毎日待っている。これもまた日課だった。
「おはようございます。響子は毎日元気でよろしいですね」
「はいっ! 元気だけが取り柄ですのでっ!」
白蓮がにこにこと笑いかけると、響子も笑顔を返して小さな尻尾をパタパタさせる。
……可愛い。笑顔を見せると八重歯がこぼれ、愛嬌のある表情を更に愛らしくさせる。
白蓮は思う。こんな可愛らしい妖怪が、本当に悪さなどするのだろうか? 目の前のこの善良な姿を見る限り、到底信じられないことだった。
「住職は今日も檀家さんと会合ですか?」
白蓮の思いも知らず、響子は尊敬の眼差しで白蓮を見ている。
「いえ、今日からしばらくは会合の予定は後回しにして、お寺の管理の仕事をするつもりよ」
響子はへー、と生返事を返す。十中八九言葉の意味を理解していないと思われる。
白蓮はおほんと咳払いすると、おもむろに尋ねた。
「ね、響子ちゃん。お寺の修行は楽しい?」
「はいっ! 楽しいですっ!」
即答である。打てば響くような明瞭な返答がむしろ怪しい。
「お経唱えているだけで本当に楽しい?」
「楽しいです!」
「結跏趺坐は痛くない?」
「全然平気です!」
やはり馬鹿正直に尋ねた所で本音を見せてくれることはなさそうだった。それを本音と思ってしまったらただの愚か者だし、疑い続けたら独裁者になってしまう。上に立つ者の人間関係は本当に難しい。
「それじゃあ、私はお掃除を始めますね!」
「あ……待って、まだお話が……」
響子はぺこりと大きくお辞儀をすると、箒を取りに本堂の方へ走っていった。
避けられているような気配に、白蓮は一人ため息を付いた。
響子と別れた白蓮は、ゆっくりと参道を逍遥する。
白蓮の意図する管理の仕事とはつまり、部下の管理である。先日の鼎談で大恥をかかされた白蓮は、弟子たちの行動を徹底的に管理しようと心に誓っていた。
神子の助言を元に聖白蓮が閃いた弟子管理法。
それは、ストーキングだった。
朝の勤行が終わった後、弟子たちは各々自由に行動を始める。
白蓮は予定を全て後回しにし、彼らの行動を観察することに注力することにした。
勿論、それが仏教徒のとる行動かと問われれば、十人中十人が異を唱えるところだろう。彼女自身の心の中にも小さな罪悪感はあった。
だが、彼女は一度こうと決めたらとことんまでやらないと気が済まない質だった。
今まで弟子たちの管理ができていなかったのならば、今日からは完璧なまでに管理してみせよう。その日弟子たちの髪が何本抜けたかまで管理してみせよう。それが白蓮の心積もりだった。
さらに言えば、彼女は何事もその目で確かめなければ気が済まない性格でもある。それが弟子の悪行であるなら尚更。
人づてに聞いた話など所詮事実の前には塵芥。寺に悪意のある者が恣意的に流した噂ということだってあり得るのだ。
……もしかすると、白蓮は心の何処かで、まだ弟子たちの潔白を信じていたのかもしれない。
さて、そんな白蓮の最初の犠牲者は誰か。
白蓮は、とりあえず先日の対談で話題に上がっていた弟子たちを重点的に監視するのが良かろうと考えた。すなわち、寅丸星、雲居一輪と雲山、村紗水蜜、幽谷響子の五名が対象になる。墓地に入り浸る化け傘妖怪も白蓮にとっては家族同様だったが、正式な門徒というわけでもないのでターゲットから外すことにした。
朝靄にけむる寺の境内を本堂の石段の上から静かに見下ろしていると、白蓮は本門の辺りをコソコソと動く影があることに気づいた。
姿は薄ぼやけて判然としないが、妖気で誰かはっきりと分かる。
――村紗水蜜だ。
彼女はしばらく門の影で辺りを伺っているようだったが、周りに誰もいないことが分かると、さっと寺の外に飛び出していった。……怪しい。あからさまに怪しい。
白蓮は自らに術をかけ妖気を消すと、朝靄に身を沈めつつ村紗の後を追った。
***
深い霧が立ち込める渓谷を村紗はのんびりと歩み進んでいた。
夜も明けきったというのに濃い霧のお陰で周囲は薄ぼんやりとしている。空を見上げると、太陽の光が柔らかく輝いているのが見えた。
視界は僅かに数歩先までしかなく、周囲に屹立する苔むした岩の一つ一つさえ輪郭を失って、まるで幽霊が佇んでいるように見える。
耳を澄ましても鳥の声一つ聞こえない。死んだ魂が最初に訪れる場所だけあって、ここはいつ来ても静かなものだった。
三途の川――。妖怪の山を越えた先にある、此岸と彼岸の狭間。
村紗にとって、ここはお気に入りの場所だった。
水がある場所はどこも好きだったが、とりわけこの三途の川は居心地がいい。なぜかといえば、村紗が望む条件をこの場所は全て満たしているからだ。
その条件とは、
その1、水場があること。季節にかかわらず凍らない水場はなおよし。
その2、周囲に人や妖怪が少ないこと。
そして――。
「またあんたかい、船幽霊! しっしっ! 帰れ帰れ! またあたいの舟を沈めようって気だろう!」
その3、舟に乗る話好きな妖怪がいること。
狭い渓谷を抜けて広々とした川辺に出ると、対岸の見えない大きな川が視界の隅から隅までを埋める。
その川の岸に半分腐ったような桟橋が掛かっており、その桟橋にはこれまた頼りない小舟が寄せてある。
そして、その舟の上には一匹の妖怪が仁王立ちしており、先のような悪態を村紗に向かってついてみせていた。
彼女の姿のうちひときわ目を引くのは、頭の両側に結んで垂らした彼岸花のように真っ赤な髪と、肩に担いだ巨大な鎌だった。
ご存知、三途の川の渡にしてサボマイスターの異名を持つ死神、小野塚小町だ。
村紗は人懐っこく笑いながら、ご機嫌のあまりよろしくない死神に近づいた。
「そんなに邪険にしなくても良いじゃない。船幽霊だからってそう毎度毎度舟を沈めに来たりするもんか」
彼女は桟橋に腰を下ろし、両足の靴を脱ぐと、ゆったりと流れる三途の川の中に足を差し込んだ。ひんやりとした春の川水が村紗の白いくるぶしを撫でる。村紗は楽しそうに目を細め、足の裏に伝わる水の感触を確かめていた。
「じゃあ何しにきたのさ」
小町はむっつりとした表情で問う。村紗は笑顔のまま顔を上げた。
「水場が恋しくなってねえ。特にこの三途の川は良いね。閑静で、とても落ち着くよ。あの苔むした渓谷だって見事なもんじゃないか。幽玄という言葉がここほど似合う場所は他に無いよ」
底意の感じられない明朗な答え。小町は当然と言わんばかりに胸元で腕を組んでふんぞり返った。
「そりゃそうさ。ここは死者の魂が一番最初に辿り着く場所。死んだばかりの魂たちは混乱しているからね。彼らを世俗的な文物や喧騒から遠ざけ、自らの死を理解させ、精神を落ち着かせる必要があるんだ。この三途の川っていうのはその為の場所の一つなんだよ」
「なるほどねえ。よく考えられているもんだ。……ああ、それにこの舟もいい舟じゃないか。杉でできているね」
村紗は小町が乗っている舟のへりを撫でた。使い古されて水垢にまみれ、手入れも怠けていると見えてところどころ黒ずんでいるその舟は、贔屓目に見て、お世辞にも上等とは言えないシロモノだったが、村紗の口は軽やかに褒め称える。
小町はといえば、村紗が舟を褒め始めた途端キラキラと目を輝かせ、舟から身を乗り出した。
「おっ、あんたお目が高いね! この舟はあたいの上司であるところの四季映姫・ヤマザナドゥ様から直々に頂戴したものさ。あたいが死神稼業を始めた頃に頂いたものだから、もうかれこれ千年以上は現役だわね」
「へーえ、そんなに年季が入ったものなんだ。随分と大事にしているんだねえ。その四季映姫様っていうのはそんなに尊敬できる方なのかい?」
軽妙な相槌を打ちながらするりと舟の中に入り込む村紗。その所作は全く自然だったし、小町は既に話に夢中になりかけていて気にも留めていなかった。
小町は四季映姫の話になると俄然熱っぽくなる。
ただでさえ普段は一言も口をきかない幽霊たちを相手に一方的に話すだけだったから、聞き上手の相手が現れたことで小町はすっかり舞い上がってしまった。
だから、船に乗り込んだ村紗が後ろ手に柄杓を持ち出したことにも全く気づいていなかった。
「ああ、ああ、そりゃもうさ。映姫様は素晴らしい方だよ。そりゃちょっと説教臭いところはあるし、融通のきかないところもあるけどさ、根は全く良い方なんだよ。あたいみたいなヤクザな死神にも何かと目をかけてくれてねえ。去年の冬なんか直々に三途の川にいらっしゃって、まあ仕事の話を幾つかしたんだけどさ、帰りしなに思い出したみたいに『そうそう、季節の影響を受けにくい三途の川といっても冬場は冷えるでしょうから、差し入れを持って来ました』なんて仰って、腹巻をくださったのさ! しかもこれ見て! これ、映姫様が普段着てる服と柄がお揃いなのよ! いやあ、普段はツンツンしてばかりいるけど、あんな風にたま~にデレられちゃうと参っちゃうね、ホント」
「きゃ~、それは素敵ねえ! 良かったじゃない! ね、他には、他には?」
「うんうん、これは10年前の話なんだけどね……」
「ご機嫌ですね、ムラサ」
「ええ、そりゃもうご機嫌ですとも聖。……聖!?」
満面の笑顔で相槌を打っていた村紗の顔が、背後から掛けられた聞き慣れた声によって凍りついた。
恐る恐る振り返ると、紛うこと無い声の主・聖白蓮が舟の舳先に腰掛け、にこにこと笑いながら村紗を見下ろしていた。
夢中で話を続けていた小町もようやく白蓮の存在に気づき、慌てて襟元を正した。
「ありゃ。こりゃまた珍しい。お寺の住職さんじゃないか。こんな辺鄙な所迄何の用だい?」
「この妖怪に心を許してはなりませんよ、三途の川の死神さん」
普段と変わらないのんびりとした語り口の中にどこか冷え冷えとしたものを感じる。村紗は全身から冷や汗を出しつつも、何とかこの場を取り繕おうと食い下がった。
「そ、そんな言い方はないじゃありませんか、聖」
「そうだよ、こいつは良い奴さ。あたいが保証するよ」
破顔して自分の胸を叩く小町。この数刻の間に完全に村紗を信じてしまったようだった。
白蓮は困ったようにため息をこぼした後、その手に何かを掴み掲げながら諭すように言った。
「そうだと良かったのですけどね。船底をごらんなさい」
「「あっ」」
二人は同時に気づいた。小町は船底に水が溜まっていることに、村紗は自分の掌にあったはずの柄杓がいつの間にか白蓮の手に握られていることに。
水浸しの船底と顔面蒼白の村紗を交互に見て、小町はまだ状況を理解できないように目を瞬かせる。
白蓮は申し訳なさそうに目を伏せた。
「この子はただ水を操るだけでなく、この通り口が達者で、その上時間稼ぎをやらせたら天下一品でして。この度は大変ご迷惑をお掛け致しました。さ、ムラサ、帰りますよ」
「いだだ、聖、ごめんなさーい」
白蓮は村紗の耳を掴んで舟から引き摺り下ろした。身体強化の魔法使った上指先に法力を施してあるからべらぼうに痛い。
しばらく舟の上で呆然と佇んでいた小町だったが、はっと我に返ると、
「くそーっ、信じたあたいが馬鹿だった! 帰れ! 帰れ! もう二度とくんな!!」
二人の姿が見えなくなるまで、つけるだけの悪態をその背中に浴びせかけた。
その姿が見えなくなってもまだ、村紗の悲鳴は渓谷にこだましていた。
***
人里と博麗神社の間には比較的長い道が伸びている。
夜になるとこの道の周りには妖怪たちがたむろし、さながら妖怪大通りの様相を呈していた。
殊に今夜は妖怪の数が多い。なぜかといえば、幻想郷中から音楽好きの妖怪たちが集まってきているからだ。
お目当ては、最近売り出し中のパンクロックバンド、『鳥獣伎楽』のソロライブだった。
メンバーは長らくソロ活動を続けていた夜雀のミスティア・ローレライと、命蓮寺の新米坊主であり期待の新人、山彦の幽谷響子の二名。作曲はミスティアが担当し、作詞は響子が担当している。
本人たちはパンクロックと銘打っているが音楽性はどちらかと言えばハードコア・パンクに近く、地獄の底から響くような響子の絶叫が独特のアクセントになっている。終わりのない日常生活への反発を主題としたメッセージ性の強い歌詞が多くの妖怪、妖精と極一部の人間に受けて、カルト的な人気を博している。
道の脇のちょっとした空き地に彼女らのステージは設営されていた。設営は有志の妖精たちが済ませており、『鳥獣伎楽』と大書された看板を、無数にいる色とりどりの鬼火が煌々と照らしている。
ステージの前には数十の妖怪と多くの妖精たちがすし詰め状態になっていて、その集客を見込んだ露店まで開かれている始末。
お陰で真夜中だというのに、辺りは既にお祭りのような賑やかさだった。
と、唐突にステージの両端から二匹の妖怪が飛び出した。片方はチューニングの合っていないアコースティックギターをめちゃくちゃにかき鳴らし、もう片方は言葉にならない叫び声を上げ、ステージの上をあちらこちらへと走り回る。
彼らこそ『鳥獣伎楽』のミスティアと響子だった。
のっけからハイテンションな二人の姿を見て、観客のボルテージが一気に上昇する。
メインボーカルの響子が観客に向かって怒鳴った。
「お前らー! 今日も不満そうな顔並べてるなーっ!? 毎日は退屈かーっ!? 現実は理不尽かーっ!? そのイライラ、モヤモヤ、どこにもやり場がないのなら! 叫べっ! 私たちと一緒に叫び倒せーーーーっっっ!!!!」
騒々しい叫び声が辺りに響き渡る。満足そうにミスティアと響子は顔を見合わせる。
「じゃあ早速いくぜ~! 一曲目は皆大好き『意味あんのかそれ』!!!」
興奮の坩堝にある観客たちの歓声を押し散らすような大声で響子は歌い始めた。音圧で周囲の木々の葉がピリピリと震える。
『意味あんのかそれ』は鳥獣伎楽の記念すべき第一作で、ファンの間でも一二を争う人気を誇る曲だった。日々繰り返される意図不明な修行に対する直接的な批判が歌詞になっている。
幻想郷では知能レベルの格差が激しく、目上の者がやっていることを下の者が全く理解できないことが多い。その為、底辺で足掻く者たちは上の者の命令や指示に理不尽を感じることがままある。
そのような心理を抱える若者が鳥獣伎楽の歌詞に共感し、彼女らの曲を支持するのだ。
ライブは盛況のまま進む。人気曲の『そんな話聞いてないです』『生きてるって気がしない』と続き、観客の興奮もピークに達した所で、ミスティアが二回目のMCに入った。
「さーて、盛り上がってきたね~。さて、噂には聞いてたかも知れないけど、今日は新曲を披露しまーす!」
沸く観客たち。
「作詞は今回も響子! 現役信者による命蓮寺の内情暴露! 静謐なる寺に渦巻くドス黒い感情を聞け! 『ZAZEN』!」
ミスティアが再びギターをかき鳴らし始める。今までの曲に比べてさらに激しい演奏に興奮した観客同士が跳んだり吠えたり弾を打ち始めたりと会場が混沌とし始めた。
その混乱を突き破るのはやはり響子のシャウトだった。以下は『ZAZEN』の歌詞である。()内はミスティアのコーラスだ。
「ザゼンザゼンザゼンザゼン! ザゼンザゼンザゼンザゼン!
毎日毎日毎日毎日ザゼンザゼンザゼンザゼン! 来る日も来る日も来る日も来る日もドキョードキョードキョードキョー!
私ゃ妖怪(妖怪!)マシンじゃないし! 反復運動(運動!)マジでだるいし!
写経やっても自分で読めねえ! 掃除ばっかり上手くなる!
話相手は(じいちゃん! ばあちゃん!)
精進料理は(味しねえ!)
ざけんなーーーーーーー! ウオオオオオオオオオオオ! ボアアアアアアアアアアアアア!
ザゼン! (ポク)ザゼンザゼン!! (ポク)ザゼンザゼンザゼンザゼン!!!(ポクポクポクポクチーン)」
……ハードコアな曲調の中にとぼけた木魚とおりんの音が混じった。ミスティアと響子の二人ははっとして演奏を中断する。
殺気立った表情でミスティアと響子はお互いを見るが、どうやら音の主は別にいるようだった。
木魚の音は演奏が中断してもまだ続いていた。音のする方に振り向くと、ステージの端にちょこんと座る人影があった。
その人影をみて、響子はひっと悲鳴を上げた。そう、ご明察。そこにいたのは、聖白蓮住職その人だった。
あれだけ騒々しかった会場は今やお通夜のように静まり返り、ただ木魚とおりんだけが高らかな音を響かせていた。お通夜のように、ではなくもはやお通夜そのものである。
気に食わないのはミスティアだ。折角のライブを邪魔されて嬉しいはずもなく、足音をどかどかと立てて白蓮に近づいた。
「ちょっと! 神聖なライブを邪魔するなんてどういうつもり!? 私を夜雀のミスティアと知って――」
「喝!」
不用意に白蓮に近づいたミスティアは、座ったままの白蓮に撥で頭をぶっ叩かれてひっくり返った。
会場の観客たちがざわつき始める。
(馬鹿だ……)(馬鹿だね……)(鳥頭だから住職の顔忘れちゃったのかな……)(文字通りバチが当ったんだよ……)
一撃でのされた相方を見て、響子の膝が震えはじめた。響子は勿論白蓮の力をよく知っていた。
殺される……。
寺の門徒でありながらこのような破廉恥な行為を行なっていたことがバレた以上、破門以上は覚悟しなければならなかった。ましてやその行為が寺批判とあっては、存在そのものを消されることすらありえる。
響子の脳裏に過去の思い出が走馬灯のように駆け巡った。まだ人間がやまびこを妖怪と信じていた時のこと、棲んでいた山を追い出されて各地を転々としていた時のこと、そして幻想郷にたどり着いた日のこと……。
「響子」
「はいぃ!」
ゆらりと立ち上がり近づいてくる白蓮を見て、響子の背筋がピンと伸びる。強大な妖気を放ちながら歩み寄ってくる白蓮の姿が、響子には死神に見えた。
白蓮は響子の前に立つと、撥を持つ手をすっと上げた。
すわ公開処刑かと会場に緊張が走る。
響子はぎゅっと目を瞑る。
――さよなら幻想郷! 短い間だったけど楽しかったよ!
心の中で最後の祈りを捧げる響子の頭を、白蓮は撥でこつんと叩いた。
はっとして顔をあげる響子。
そんな響子を、白蓮はすました顔で見下ろしていた。
「リズムが悪いです。そんなことではお経も満足にあげられませんよ」
観客たちの間に安堵の雰囲気が広がる。響子はおそらく許されたのだ。
泣きそうになっている響子の頭を、白蓮はやさしく撫でた。
「真夜中に大きな音を立てる貴方たちの演奏で、人里の人間がとても迷惑しています。お寺の修行が辛いからといって、人様に迷惑をかけるのはよくありません。やるなら昼間か、人里離れた場所でやりなさい」
響子はぶんぶんと首を縦に振る。そこに、頭をさすりながらミスティアが歩み寄ってきた。
「いたた……。殴られたはずみで思い出したよ。新しくできたお寺の住職だったわね。貴女そうはいうけどさ、この狭い幻想郷で音楽やれる場所なんて無いんだよ。昼間にやればそれこそ人間の巫女あたりが飛んできて退治だ何だと面倒なことになるしさ」
それを聞いて白蓮は納得した表情になり、なんとかして彼女らに表現の場所を融通できないかと思案した。
そんなところにやってきたのは――。
「話は聞かせてもらったよ!」
「音楽をやる仲間が増えるのは嬉しい限り」
「素敵な貴方たちのために、私たちがひと肌もふた肌も脱いじゃいます!」
三位一体のポルターガイスト、プリズムリバー三姉妹が、チンドンガチャガチャと賑やかな音を立てて空から颯爽と舞い降りてきた。
三体の騒霊の姿を見て、ミスティアは露骨に嫌そうな顔をした。
「騒霊までやってきたわね。あんたらみたいな空飛ぶ騒音公害に私たちの高尚な音楽を汚されたくないわ。しっしっ! 往ね往ね!」
「随分な言い草ね、折角良いハコを用意してあげようって話なのに」
ルナサは落ち着き払った口調でそう言った。
「ハコ?」
封印時代の長かった白蓮は現代的な言葉をよく知らない。知らないことがあると白蓮は素直に聞いた。
「素敵なライブ会場のことよ~。太陽の畑って知ってる? あそこは夜になるとライブ会場になるの。今ここに集まってるよりずっとたくさんの妖怪や妖精の前で演奏できるのよ」
「パンクロックは幻想郷では珍しいからねー。きっと皆盛り上がると思うよー」
「貴方たちは新規のファンを獲得できるし、私たちもコンテンツを増やせるからWin-Winというわけね」
ミスティアは三姉妹の話を聞いてうーんと唸った。確かに悪い話ではない。しかし……。
「……そこなら当然知ってるよ。でも、あそこにはすごく怖い妖怪が居るって聞いてるから近寄らなかった」
「幽香さんのこと? あの方は音楽に理解のある方だから大丈夫よ」
「そうよ! 今まで二、三回しか虐められたことないし!」
「リリカ、そういうことは喋っちゃだめよ~」
しばらくのこと幽香とチャンスを頭の中で天秤にかけていたミスティアだったが、ついに腹を決めて顔を上げた。
ミスティアは響子に振り向いて尋ねた。
「私、この話に乗っても良いと思う。私たちはきっともっとビッグになれる筈よ。響子はどう思う?」
「勿論、私も賛成よ、みすちー。渡りに船とはこのことだわ。怖い妖怪が何よ。二人ならきっとどんな困難にだって打ち勝てるわ!」
響子は元気に頷いて笑顔を見せた。
そんな二人の間に騒霊たちが割って入った。
「ただ、私たちのステージに上るには条件があるの」
「貴方たち、リズムが酷い。あと音程も酷い」
「要するに全部酷いわね~。今のままじゃ耳の肥えた私たちのお客さんにはとても聞かせらないわ」
「やっぱりおちょくりに来たんじゃないか!」
ミスティアは憤慨して地団駄を踏んだ。
やりとりを聞いていた白蓮は、ふと妙案を思いつき、手のひらを叩いた。
「それなら、二人とも命蓮寺で練習をしなさい。ちゃんと身を入れて読経の練習をすれば、音程はともかくリズム感は自然と身につきます。それなら、響子ちゃんも修行に身が入るというものでしょう?」
「そういうことなら、私達も協力するわ! ねえ姉さん?」
「そうね。音程をとる練習は私達が協力しましょう」
「次のライブまでにはまだ間があるから、みっちり練習しちゃいましょう~♪」
「ちぇっ。しょうがないか、これもビッグスターになる為の試練よね。じゃあ、明日から私も寺に通うことにするわ。それで良い、響子?」
最初は怒られるばかりと思っていた響子は、なんだか好転していきそうな未来を感じて期待に胸を膨らませながら大きく頷いた。
***
「いつも思うんだけど、あんたのペット、器用に前足を使って酒を呑むねえ」
雲居一輪と雲山、そして体長が人間ほどもある獣一匹が人里の酒処の畳の上で卓を囲んで酒をかっくらっていると、配膳に回っていた店の主人がにこやかに話しかけてきた。
ペットと呼ばれた獣は不機嫌そうに唸ったが、一輪は気にせず笑い返した。
「うちの子は賢いからね。――あ、親父さん、こっちの瓶、お酒が切れちゃった。いつものやつ詰めといて」
一輪はそう言って卓の上に横倒しになっていた白い陶器の瓶を掴みあげ、頭の上で軽く振った。
「あいよ。しかしこの瓶は珍しい形しているね。外の世界のものかい?」
「ええ。最近寺に来た狸の妖怪がおみやげにって」
「へえ。外の世界か。その狸さんにはいつかお話を伺いたいもんだね」
「言っとくよ。あの方もお酒好きだからね」
店の主人は愛想よく会釈すると一輪から瓶を受け取って店の奥に引っ込んでいった。
それを見届けると、獣の方が一輪に鼻先を近づけて低く唸った。
そして、あろうことか人語で話し始めた。
「だーれーが、ペットだって~?」
一輪は意にも介さず、すまし顔。
「人里で酒を呑む時は、あんたは私のペットって決まりでしょ?」
獣の方はしばらくウルルルと唸っていたが、勝手知ったる相手にこれ以上威圧を加えた所で暖簾に腕押しということは分かりきっていたので、早々に引き下がり大きなため息をついた。
「くそう。毘沙門天代理なんて役職じゃなけりゃなあ」
「ご愁傷様。能ある鷹は爪を隠すって言葉をお贈りするわ」
獣の正体は命蓮寺の御本尊、寅丸星だった。彼女の場合、むしろ、獣の姿が本性と言ってもいい。
元は巨大な体躯の肉食獣だったが、時を経て妖怪化したのが彼女だ。
生まれ持った体力に加え、聖人を食って得た妖力と人間を上回る知性を持ち、かつては多くの人間を恐れさせた妖怪だったが、白蓮に敗北して以来彼女の配下に収まっている。
白蓮の弟子たちの中では随一の力を持った妖怪だった為瞬く間に頭角を現し、終には毘沙門天からその威光を借り受けられるまでに成長した。
妖怪だった当時は荒っぽかった性格も、兄弟弟子たちとの修行や人との平和裏な関わりあいの中で次第に丸くなり、今では寺を代表する人格者(妖怪格者?)と呼ばれるまでになった。
かように非の打ち所のない彼女だったが、一つだけ欠点があった。
酒癖が、悪いのだ。
ほろ酔い程度なら陽気なものだったが、酒が深くなるにしたがい段々と彼女の本性である獣性が顔を出してくる。
暴言や本音の吐露から始まり、物を投げたり壊したりする、果ては他者に危害を加えるまでになるなど、酒の量に比例して行動が荒れていくのだ。
白蓮たちが封印された後に彼女は毘沙門天から贈られた大事な宝塔を無くしたことがあったのだが、それも酒が原因だ。
仲間を失い自暴自棄になった星は人目も気にせず酒に溺れるようになり、本堂にも酒瓶がごろごろと転がる有様になった。
ある日彼女はべろんべろんに酔っ払った結果、手近にある酒瓶から何から全部外に放り投げるという暴挙に出た。その時に罰当たりなことに彼女は宝塔も一緒に投げ捨ててしまったのだ。
白蓮や仲間たちが復活した今では彼女もさすがに反省し、完全に獣と化すほど飲むことは少なくなったが、それでも折を見て寺の外にこっそり出てはちょっと一杯のつもりではしご酒に走る。
酌み交わす相手は大抵、命蓮寺の中でも酒豪の部類に入る一輪と雲山だった。
この二名、特に雲山は飲んだ傍からアルコールを分解するいわばザルだった(そもそもアルコールが効く身体なのかも怪しい)。
星自身はそれほど酒に強い方ではなかったから、半ば介抱役を任されているわけだ。
星が今獣の姿を取っているのは、介抱役兼呑み友達である一輪の提案だった。
命蓮寺本尊の姿のまま人里で酒を呑むわけにもいかないがどうすればいいかと星が一輪に相談を持ちかけたところ、身内でも知っている者の少ない獣の姿に身をやつせばいいのではないかと彼女は答えた。その案を星は採用したわけだ。
ただ、獣が一匹で人里に現れるのはまずいので、保護者の名目で一輪と雲山を連れて行くことにしたわけだ。
三名の酒の肴はもっぱら昔話だった。若い頃の雲山の話、悪かった頃の星の話、一輪が人間だった頃の話……千年以上生きていれば、話のネタは幾らでもあった。
今日も話すだけ話、満足するまで飲む。
しこたま飲んで満足した星は、畳の上で腹を見せてゴロンと寝転がった。
目をとろんとさせて喉の奥でつぶやく。
「しかしまあ、皆が帰ってきてくれて私は本当に嬉しいよ。千年も寂しい思いさせやがってさあ……」
そう言ったきり、彼女は眠りこけてしまった。一輪と雲山は顔を見合わせて笑った。
「まったく、とんだ毘沙門天様ね」
そう言って一輪は毛むくじゃらの星の腹を撫でる。かたい金色の毛を撫でていると、自然と昔のことを思い出す。
出会った当時はこの毛むくじゃらと取っ組み合いの喧嘩をしたこともあった。その頃はまだ一輪も星も精神的に幼かったように思う。
今、こうして小さいながらも立派な寺の主要な門徒となり、責任も大きくなった。
その責任を扱いきれるほどの精神性を得られるくらいは成長したのではないか。ある種の感慨と共にそう思いながら、一輪は手にした猪口を煽った。
その視界の端に、見慣れた黒衣の人影が立っているのを認め、一輪は目を疑った。
悲しそうな目をして三名を見下ろしていたのは、我らが姐さん、聖白蓮だった。
いつもなら本堂に人里の人間を集めて写経をしている時間のはず。幻覚を見るほど酔ってはいない筈だった。
白蓮は大きな溜息を一つつくと、いつも通りの柔らかい声で尋ねた。
「そこにお腹を出して寝ている妖獣はどなたですか? どこかで見たことがあるような気がしますが……」
「……さっき道端で拾った通りすがりの寅……」
一輪の言いかけた口を雲山が塞いだ。彼は聞こえるか聞こえないかという小さな声で、
「命蓮寺の御本尊にして毘沙門天代理であらせられる、寅丸星その人であります」
と馬鹿正直に報告した。彼は嘘が嫌いだった。心の中で舌打ちする一輪。
「一輪、雲山。五戒の一、不飲酒戒のこと、よもや忘れたわけではありませんね」
座敷の上に身を乗り出して静かに尋ねる白蓮。口元に笑みが浮かぶが、目は笑っていない。
一輪の背中に嫌な汗がだらだらと流れる。なんとかしてこの場を取り繕うとして、彼女は大げさに手を振りながら言い訳を始めた。
「勿論です、姐さん! これ! これを見てください!」
彼女は卓の上の陶器の瓶を掴んで白蓮の鼻先につきつけた。その白磁の瓶には草書体でこうかかれていた。
『般若湯』。
「高野山般若湯です。マミゾウが外の世界から持ってきた、由緒正しき物です。我々はこれを飲むことで、散逸する精神を平常に保つ修行をしていたのです」
一輪は努めて笑顔でそんなことをまくし立てた。
白蓮はというと瓶の表面に書かれた文字を読んで目を細めている。それは一輪の行いに喜んでいるというよりは、明らかに疑いの眼に近かった。
その時、間の悪いことに店の奥から店主が出てきて一輪たちの座る座敷までやってくると、笑顔満面で先ほど渡した白磁の瓶を掲げてみせた。
「一輪さーん、いつもどおりどぶろく詰めといたよーって……あれっ……住職、珍しいですね」
瓶には、今一輪が白蓮に見せたものと同じく『般若湯』の文字が踊っていた。
白蓮の目がますます細くなる。
一輪の顔は笑顔を張り付かせたまま、急激に青白くなっていく。
白蓮は静かに尋ねた。
「一輪、何か申し開きはありますか?」
「……ありませんすみません」
一輪は身も声も小さくして謝った。白蓮は動じずにぽつりと呟く。
「……不妄語戒」
「……あの、南無三だけは勘弁していただけますか?」
一輪は白蓮の服の袖をつまんで、必死の形相で懇願した。その様子や選んだ言葉が少し滑稽で、白蓮は思わず笑ってしまった。
「ふふ、暴力に訴えるつもりはありません。早速寺に戻って法苑珠林全百巻のおさらいをしましょうか。今夜は寝かせませんよ、うふふ」
白蓮の態度が砕けたのを一輪は見逃さなかった。彼女は座敷の上で居住まいを正し、一つ咳払いをしてから神妙な顔つきでこんな風にまくしたてた。
「……お言葉ですが姐さん、他の妖怪なら別ですが、私や星は寺にある書簡類については一字一句違わず覚えています。今更そのおさらいなどしても詮無いでしょう。それよりは、この際です、人間にとっての仏道と妖怪にとっての仏道の違いについて、徹底的に議論してみるのはいかがでしょうか」
白蓮は弟子の積極的な提案に滅法弱いようで、喜色満面にして胸の前で手のひらを合わせた。
「まあ、それは素晴らしい提案ね、一輪。それでこそ高僧命蓮の弟子というものです。良いでしょう。では今夜は貴女と私、それに星と雲山で仏道談義を行うことにいたしましょう」
さすがは一輪、転んでもただでは起きない。要領の良さで通っている妖怪だけあって、こういう場合の身の振り方をよく心得ている。
かくして、その日の夜、寺の本堂で弟子たちを集めた問答が行われることになったのだ。
***
日が落ちて間もなく、命蓮寺の本堂に主要な妖怪の弟子たちが集められた。
寅丸星を筆頭に、一輪、雲山、村紗、響子、ぬえが横並びに正座しており、それに正面から向き合う形で白蓮が座していた。
ぬえ以外全員、白蓮に悪行を目撃されているわけで、一様に判決を待つ罪人のように表情を固くしている。
そして誰一人として口を開かず、座した白蓮に注意を傾けているのだった。
高い天井の本堂に、境内に生えている木々の葉擦れの音や、遠くに鳴く梟の声が、風の様に通り抜けていく。
ひとしきりの静寂の後、白蓮がおもむろに口を開いた。
「貴方たちに今一度問います。この中に、真に悟りを求める者はいますか?」
彼女らしい、単刀直入にして無駄を削ぎ落した言葉だった。それ故に、その言葉は強い力を持って弟子たちの胸を貫く。
……誰一人として、手を挙げる者はいなかった。
僅かな希望を持って発した言葉だった。しかし、皮肉にもその言葉によって、今やその希望の灯火が消えようとしていた。
そしてあろうことか、一輪が上目遣いで白蓮を見て口を尖らせるのだ。
「……姐さんは魔界から帰ってきてから変わりましたね。以前はこんなに戒律に煩くなかったのに……」
その言葉は密かに白蓮の心を突き刺した。忌まわしい過去の記憶が奔流となって心を乱そうとするのを、彼女はなんとかして抑えこむ。
白蓮は乱れる心中をおくびにも出さずに答えた。
「千年も封印されていれば色々と考え方も変わるものです。――それが貴女の意見だというのですか、一輪?」
「姐さん、妖怪は如来にはなれませんよ。そのような話を私は寡聞にして聞きません。それは妖怪の本質が恐怖を喰うものだからです。恐怖に喰われる側である人間の本質とは真逆のものです。従って、人間の作った戒律に則っても無意味だと思うのです。もしも本当に妖怪としての涅槃の境地を望むなら、妖怪の為の戒律を設けるべきと思います」
「それでは、貴方たちはその戒律に則って行動した結果、酒を飲み、他者に迷惑をかけることになったというのですか。貴方たちの戒律とは一体どんなものですか?」
問われて、一輪は答えることが出来なかった。
白蓮の表情に明らかな落胆と悲しみがにじみ始めた。
いたたまれなくなり、星がおずおずと口を開く。
「聖、私たちは貴女のことをお慕いしております。皆、それ故に貴女の元に集っているのです。……正直に申し上げますと、私たちはそれだけで十分に幸せなのです」
星としては精一杯のフォローのつもりだった。弟子たちもその思いを汲み取ってうんうんと頷いていた。
しかし、残念ながらその言葉は白蓮の望む答えではなかった。
「それで、それ以上を望む気持ちはないと言うのですね。……貴方たちの気持ちはわかりました。しかし……」
白蓮はがっくりと肩をおとして深い溜息をつく。
弟子たちは師の気持ちを汲み取ることがどうしてもできず、互いに顔を見合わせるばかりだった。
彼女らのそんな様子を見て、白蓮は悟った。
自らの考えを改めなければならないと。
弟子たちは、自分の理想を僅かでも理解してついてきてくれているとばかり思っていた。
しかし、実際は誰一人としてその理想に追従する者はいなかったのだ。それどころか、そうした理想が存在していることすら知らない者も居るかもしれない。
ならば、詳らかにしなければいけない。自分がどんな理想を持って行動しているのかを、態度ではなく言葉をもって、含めるように教えこまなければならない。
顔を上げ、弟子質一人ひとりの顔を見る。皆、自分が何をすべきか知らないという顔をしていた。
彼女らに目的を与えなければいけない。
白蓮はすうと息を吸い込み、決然とした表情で彼女の意志を声して語りはじめた。
「今の私が貴方たちに期待しているのは、星が今言ったような馴れ合いではありません。私は貴方たちには妖怪以上を目指して欲しいと思っています。
私やムラサ、一輪は、妖であるという理由で人間に封印されました。
人間は確かに愚かです。物事の一面しか見ることができず、弱い心に突き動かされて過ちを犯すこともあります。
しかし、彼らが妖を恐れる気持ちも理解できます。人間にとって妖は死を想起させるもの。そして、人間にとって死は我を忘れるほど恐ろしいものなのです。
封印されている間、私は人間が長い年月の中でより強く成長するよう祈っていました。しかし、その祈りは虚しく、今も人間は昔と変わりないままでした。
私たち妖が封印や退治に怯えることなく平和に暮らすには、私たち自身が変わるしかないのです。
私は貴方たちに、人を恐れさせるだけの妖怪ではなく、人の幸福を手助けする妖怪、人を思いやれる妖怪になって欲しい。
己の中の業を捨て、人間から尊敬される存在に昇りつめてほしいと思っています。
私は封印前のような過ちは犯したくないのです」
白蓮の長い説教を、ある者は退屈しながら、またある者は全く理解せずに眠そうに聞いていたが、古参の弟子たちの心には響くものがあった。
封印された日のことは、弟子たちの記憶の中に鮮明に残っていた。大勢の殺気立った武士や陰陽師に取り囲まれ、暴力を振るわれ引き回された挙句、深い淵に投げ込まれたことを思い出し、村紗は身を震わせた。一輪もまた、目の前で白蓮が異界に投げ飛ばされ消滅したことを思い出し、目に涙を浮かべていた。あの時は今生の別れと思ったものだ。
弟子たちの表情が暗く沈み始めたので白蓮は心のなかで動揺した。言い過ぎたかも知れない。
彼女は咳払いをすると、今日本当に話したかったことに話題を移した。
「……地底には、悟りの境地に至ったと思われる妖怪がいると聞きます。その妖怪の姿を見れば、もしかすると貴方たちの気持ちも変わるかもしれません」
各々、白蓮の言葉を真摯に受けとめているところに、当の白蓮が突然突拍子もない事を言い出した。うんうんと頷いていた星がうん!?と顔を上げる。
地底の妖怪――。
妖怪の楽園幻想郷ですら厄介者として扱われた嫌われ者たち。
その中には、人の心を読む妖怪サトリがおり、そのサトリ妖怪の一部が心を読むことを止め、無意識を操るようになった、という噂が幻想郷に流れていた。
地底に封印されていた弟子たちも、その妖怪のことはもちろん知っていた。むしろ、白蓮よりも正確な情報を知っていると言ってもよかった。
そのため、普段は白蓮の説教を黙って聞く村紗もさすがに遠慮がちに口を挟んだ。
「聖、あの、それは多分ないかと……」
白蓮は村紗の控えめな抗議を無視してきっぱりと言い放った。
「私、決めました。その妖怪を入信させ、貴方たちの手本になってもらおうと思います」
そう言ってすっくと立つと、白蓮は正座する弟子たちの脇を抜けてすたすたと本堂を出て行ってしまった。
残された弟子たちは困惑しきり。村紗は心底困ったという顔で星を見た。
「星、どうしよう」
言われた星も困り顔だったが、やがて観念したように大きな溜息をついた。
「聖は一度決めたら絶対に覆さないからね。成り行きを見守るしかないでしょう」
一輪は正座から胡座に座り直つつ、渋い顔で話に加わった。
「姐さんが話してたのって、あのサトリ妖怪の妹の方でしょ? 地底にいたとき噂だけは聞いたことあるけど、とんでもない問題児だって話じゃない」
「そこでなんで私を見るんだよ!」
やっとのことで正座が解けて安堵の表情で本堂の床に寝そべっていたぬえは、一輪に一瞥されてむっと口を尖らせた。
「正直言って、これ以上面倒事増やしたくないの!」
「誰が面倒事だよ! はー、やだやだ、これだから凡庸な人間上がりは。器がケシ粒みたいにちっちゃいのな。ちょっとは聖を見習えってんだ」
ぬえは臥像のように肘を枕に寝そべりながら小指で耳の穴をほじった。一輪のこめかみがピクピク動くのを、傍らの雲山がハラハラと見守っていた。
一輪は押し殺した声でぬえに向かって凄んだ。
「あ? ずいぶんでかい口叩くじゃないのよ、新参者のくせにさ。あんたこそ、その身体ケシ粒くらいに潰されたい?」
言われてカチンと来ないぬえではなかった。飛び起きて一輪に歩み寄ると、胡座をかく一輪に覆いかぶさるようにして睨みつけた。
「へえ。あんたこそ、皇をビビらせたこの大妖怪に向かって大した口聞くじゃない、末端妖怪風情が。表出なよ、どっちが格上か身体に覚えさせてやる!」
「喧嘩はダメですよー!」
早くも一触即発になりかけていた二人の間に響子が大声で割って入った。高い天井に彼女の声が何度もこだまする。
鼓膜を激しく揺さぶられて、今度は一輪が耳を掻いた。
「ちぇっ、ばかばかしいや」
舌打ち一つしてぬえは本堂を出て行く。
暗雲立ち込める行く末の予兆のような騒ぎに、星は早くも頭痛を憶えていた。
***
夕暮れ時は遊びが一番楽しい時だ。
人里近くの雑木林には、里の子供たちや無害な妖怪たちが集まって、めいめい遊びに興じていた。
遊びの種類は多種多様。地面に絵を書いて遊ぶ者もあれば、鞠つき、かくれんぼなどをする者もいた。
人間の子供たちの顔ぶれは似たり寄ったりだったが、妖怪たちは個性的なものが多かった。
座敷わらしに一つ目小僧、山から降りてきた山彦なども加わって、人間の子供と同じように遊んでいる。
そして、その中に、古明地こいしも混ざっていた。
彼女は今鬼ごっこの鬼になり、外出の時にいつもかぶっている黒い帽子を草むらにほっぽり投げて子供たちを追い回していた。満面の笑顔で実に楽しそうだ。
彼女は人の心を読むさとり妖怪だったが、自ら第三の目を閉じて人の心を読む力を封印する代わりに、その存在も希薄になった。
そのため、霊感の弱くなった大人の意識には上らないが、子供たちならはっきりとその存在を認識することができた。
彼女は地底の妖怪だったが、頻繁に人里にやってきては人間の子供と日が沈むまで遊ぶのだ。
こいしは幻想郷の人間の子供たちと遊ぶのが好きだった。
子供は大人のように裏表がなく、思ったことをそのまま口にする。
大人は自分のことを嫌いだと思っていても口に出さないどころか顔にも出さない。にこにこ笑いながら、その心の中は自分への嫌悪感で一杯だったりする。
一方で、子供たちは素直だ。嫌だと思ったら嫌だと言うし、好きだと思ったら身体全体で好きを表現する。
こいしは第三の目を閉じる前、人の心を読めていた頃に、嫌というほどそれを知った。だから、彼女は子どもとだけ付き合うのだ。
「捕まえた!」
最後の一人に抱きついて、彼女は見事に鬼の役目を完遂した。子供たちが歓声を上げてこいしの元に集まってくる。
「こいしちゃんすごーい」
「こいしが鬼になったらかなわないよ。あっという間にみんな捕まえちゃうんだもの」
「次なにしよっか?」
「もう暗くなってきたし帰らない? おっ母におこられちゃう」
「そうだね、帰ろっか!」
見あげれば宵闇が空を青く染め上げている。遠く山際は、夕陽も沈みきりとうに輝きを失って、淡い肌色を残すばかりだった。
里の子供たちはてんでに別れを告げながら自分たちの家の方へ去っていった。
残された妖怪たちもお互いに顔を見合わせると、なんだか気まずくなって、すぐにそれぞれのすみかの方に消えていった。
ぽつねんと残されたこいしは寂しそうに突っ立っていたが、そうしていても仕方が無いので自分も家に帰ることにした。
帽子を拾って踵を返した時、こいしは里とは反対の方向に歩み去っていく人影を見つけた。
それは背丈が低かったのですぐに子供だと判った。それどころか、さっきまで一緒に遊んでいた子供のうちの一人だった。
こいしはその子供に駆け寄って、肩に手を乗せ呼びかけた。
「ね、どこいくの?」
子供は驚いたように振り向いて、こいしの顔をまじまじと見た。こいしも子供の顔をじっと見た。
その子は人間の里に住む男の子で、名前は、確か、葛城圭太。皆はけいちゃんと呼んでいた。
「けいちゃん、だよね。貴方はお家に帰らないの?」
もたげてきた好奇心を隠すことなく、こいしはにこやかに少年に問うた。
「何? 誰だっけ、お前」
少年は無愛想に口を尖らせて、つっけんどんに返してきた。それに怯むようなこいしではなかったが。
こいしはきょとんとして、
「あれ? さっき一緒に遊んでたじゃない。こいしだよ」
圭太少年に自己紹介した。少年は眉根を寄せて後じさった。
「……お前妖怪だろ? 俺、妖怪とは遊ばないよ」
「どうして?」
こいしは首をかしげた。少年はますます嫌悪感を顕にし、すこし怒気をはらんだ声で吐き捨てるように言った。
「妖怪が嫌いなんだよ!」
言って、彼はすぐにくるりとこいしに背を向けて走り去った。人里とは逆の方向へ。
こいしはしばらく呆然とその後ろ姿を見送っていたが、なんだか面白い事が起きそうな気がしたので、彼を追いかけようとした。
その時、こいしの背中を、かつて感じたこともないような妖気が撫でた。
危険を感じて振り向いてこいしは僅かに驚いた。浅葱色の円筒が鼻先に浮かんでいたのだ。
その円筒の側面からは七色に光る薄べったい何かがずうっと道なりに伸びており、妖気の持ち主はそのひらひらしたものの先からこいしに向かって近づいてくるようだった。
こいしは無意識に目の前の浅葱色の円筒をつかもうとしたが、円筒はするりと手の中を抜け、彼女の小さな手の甲をぺしりと叩いた。どうやらこの円筒自体が意志を持っているようだった。
と、突然、里の方から一陣の風が吹き抜けて辺りが砂埃に包まれた。
こいしは鼻から埃を吸い込んでしまい、小さくくしゃみをする。
「貴女がこいしちゃんね」
唐突に傍らから声がして、こいしはそちらの方を見た。砂煙が収まると、道の反対側に、今まで居なかった人影があった。
白いドレスの上から黒衣を身に纏った女性だった。身体から立ち上る妖気は先程背後から感じたものと同じだったが、その表情は屈託がなくにこやかだった。
そして、どうやらこの女性にはこいしのことが見えるようだった。
彼女の手には、今こいしの鼻先に浮いている円筒と同じ物が握られていて、彼女が「もういいわ、戻りなさい」と呟くと、目にも留まらぬ速さでこいしの側の円筒が女性の手元の円筒のところまで飛んでいき、二つの円筒は融け合うようにして一つの円筒に変わった。
それを見たこいしはもう楽しくて仕方なくなり、この女性のことで頭が一杯になってしまった。
こいしはその女性に笑顔を返して、まず最初にこう言った。
「その青い色した棒はなあに?」
「え? これ?」
知らない者から名を呼ばれたのにそれを気にもせず、先に経巻について尋ねられた白蓮はちょっと肩透かしを食らってしまった。
白蓮はこほんとひとつ咳払いをして、
「これは魔人経巻といって、無限にお経や呪文を記録できる道具なの。魔界の物質でできているから、無限に色々なことを記録できるのよ」
「ふーん。お姉ちゃん、誰?」
前後の文脈を無視してこいしは誰何した。なるほど確かに、無意識を操ると噂される妖怪だけあって、行動も無意識的だ。
「私は聖白蓮と申します。人里の近くにある命蓮寺で住職をしているの」
そう言って白蓮は深々と頭を下げた。こいしはもう白蓮の名前などに興味をなくしていて、その身体から立ち上る妖気の方に気持ちが移っていた。
下から覗き込むようにしてまじまじと白蓮の顔を見る。
「ふーん。お坊さんなんだ。それにしては随分と邪悪な感じがするし、それに強そうね! お空とどっちが強いかなあ」
「そのお空というのはお友達?」
「ううん、お姉ちゃんのペットだよ! 神様に力を貰ってすごく強くなったの。八咫烏の力を貰ったんだって」
白蓮は先日の対談で山の神が話していた地獄烏のことを思い出した。神の気まぐれで力を与えられた地底の妖怪に思い、白蓮の胸がうずいた。
「そう……。その子は元気にしてる?」
「うん、すっごく元気だよ! 新しい力を貰えたってはしゃいで、毎日うるさいくらい。仕事する楽しさも見つけたって言ってたよ」
「そうなの。よかった……」
白蓮はほっとして胸をなでおろした。強すぎる力は不幸を呼ぶこともある。そのことは、力の強さ故に封印された白蓮自身がよく知っていた。
そんな白蓮の気持ちなどお構いなしで、こいしは目の前にいる強そうな輩への期待感に目を輝かせていた。
「ねえ、お姉ちゃん、強いんでしょ? もう日も落ちたわ。素敵な妖怪の為の時間よ。ね、お姉ちゃん。私と恋焦がれるような弾幕勝負をしましょう?」
白蓮にとっては願ってもない申し出だった。
スペルカードルールでの弾幕勝負は、事前に勝者の報酬を決めることができる。全く後腐れなくこいしを寺に招き入れるなら、スペルカードルールでの勝負を仕掛けるのが最善手だった。
その流れに持っていく為に、白蓮はいくつかの策を考えてきていたが、それを実行する必要はなくなった。
白蓮が報酬について交渉しようと口を開きかけた時、それにかぶせるようにして、
「それで、私が勝ったら、その棒ちょうだい!」
こいしの方から要求を出してきた。
「魔人経巻のこと? いいけれど、これは私が作ったものだから、私以外には使えないわよ。それでもいいの?」
「へえ、そうなんだ。でも、頑張れば私だって使えるようになるかもしれないでしょ?」
「そうかも知れないわね。私の弟子たちの中にはこの巻物を扱えるだけの妖力と徳を持った者は居なかったけど、修行次第で貴女にも使えるようになるかも知れないわ」
老獪な白蓮はそんな風に予防線を張った。こう言っておけば、万一弾幕勝負に敗けても、こいしを入信に誘導することができると考えたのだ。
勿論、不妄語戒を実践する白蓮のことだから、この言葉に偽りが無いことも事実だった。魔人経巻は自らの意志で持ち主を選ぶ。法界の素材でできたこのマジックアイテムは、白蓮の言うとおり、使用者の魔力と僧としての徳を推し量り、適格と見た者の手の中にのみ収まる。
こいしは元々実力のある妖怪だし、修行を続ければ経巻のお眼鏡にかなうかも知れなかった。
ちなみに、現時点で白蓮の弟子の中に経巻を扱える者は居なかったが、経巻の反応を見るに、自称大妖怪のぬえと大御所化け狸のマミゾウは妖力だけなら適格と思われた。が、両者とも徳の方が絶望的だったので結局扱えず仕舞いだった。
閑話休題。
白蓮はこいしの要求に対しにこやかに首肯した。
「ええ、良いですよ。じゃあ私が勝ったら、お姉ちゃんの寺の信者になってくれる?」
「お坊さんになれって言うこと?」
「ううん、なにも出家してほしいとは言いません。在家信者といって、お家にいながら三宝に帰依することで徳を高める方法もあります」
「信者って何をするの?」
「私たちのお寺では、在家信者の方々には五戒を守ることだけをお願いしています。すなわち、生き物を殺さないこと、他者の物を盗まないこと、不倫しないこと、嘘をつかないこと、そしてお酒を飲まないこと。この五つの約束を守ることができれば、立派な信者と言えるでしょう」
出家した弟子たちの中ですら守れている者は一人も居ないわけだが。
こいしは難しい顔をして唸った。
「うーん……、生き物を殺さないのは難しいなあ……。私、気づいたら何かを殺してる時とかあるもの。他の四つは守るも何も最初から出来てるんだけどなあ」
さらりと残虐なセリフを吐くこいしに対しても、白蓮は全く怯まなかった。彼女は妖怪の性質をよく知っていた。五戒というものが妖怪にとってどれほど順守困難なものかも。
むしろ、こいしの言葉を聞いて白蓮は躍り上がるほど嬉しくなり、胸の前で手を合わせて喜んだ。
「最初から完璧にできる妖怪などいません。むしろ、他の四つを最初から守れているなんて素敵です。そんな妖怪は滅多に居ないわ。確かに、貴女にとって生き物を殺さないことはとても難しいことかも知れないけれど、何一つ克服すべき物が無いよりは、一つくらい苦手なことがあった方が、修行を通しての実りは多いものですよ。貴女なら、きっと素晴らしい信者になれると思うの」
こういう口説き文句が白蓮の口からはスラスラ出てくる。これが本心なのだから当然だった。彼女は褒めて伸ばしたがるタイプだ。星も村紗もぬえも響子も、この言葉にころりとやられてしまった。
ところが、こいしにはこの白蓮の言葉は届かなかったようだ。笑顔を張り付かせたまま「よくわかんない」と言い放って白蓮を苦笑させた。
「いいわよ、その条件で戦いましょ。欲しいものがあれば力づくで奪いなさいっておねえちゃんが言っていたもの。弾幕勝負なら合意の上でそれができるわ」
負ける気はない、ということね――。
完全に陽が落ち、今や互いの姿は月の光の中で薄ぼんやりと佇むばかりだ。
白蓮は静かに微笑んでスペルカードを提示した。呼応してこいしもスペルカードを見せる。両者はにっこりと笑いあった後、さっと空中に飛び上がった。弾幕勝負の始まりだ。
先制攻撃を仕掛けたのはこいしだった。飛び上がりざまに、白蓮に向けてハート型の弾幕をばらまく。白蓮はその弾幕を小さな動きでかわしつつ、小さな光弾を大量にばらまいた。
弾幕同士が入り乱れ、交差し、途端に夜空は華やかな光の粒で埋め尽くされた。
幻想郷ではこのような弾幕戦は日常的に昼夜を問わず行われており、その度に空に華やかな光の芸術が展開される。それはいわば幻想郷の名物となっていた。
この両者の弾幕はとりわけ美しかった。しかしその性質は対照的で、こいしの弾幕は完全に不規則でありながら、その彩りと動きで魅せるものであるのに対し、片や白蓮の弾幕は彩りこそ少ないものの、強い理性に裏打ちされた規則正しい軌道を描いて空を伝う。
戦いが始まって数分が経過した。両者はほぼ互角の戦いをしていたが、白蓮の方が若干ながら優勢だった。強大な妖力から繰り出される弾幕は速度、密度がこいしのそれよりも桁違いに大きかった。白蓮が持つ魔人経巻は自動詠唱機能を持っており、一振りするだけで巨大規模の弾幕を瞬時に構成する為、反応速度の面でも小さな差が生まれていた。こいしはそのような力の差に搦手のような弾幕で応戦し、白蓮を手こずらせていた。
戦いも中盤に差し掛かった頃、こいしの顔にふっと笑顔が浮かんだ。彼女が自らの胸に手を当てると次第にその姿が夜の闇に溶け込んでいき、ついには白蓮の意識から消えた。向かうべき相手を失い、白蓮の放っていた誘導弾幕が四散する。
無意識の力を使ったのだと白蓮は即座に理解した。彼女は精神を中庸に整え、こいしの気配を探ろうと試みた。こいしの姿はもはや、五感では認知不可能だった。精神の奥深いところにある感性を使い、自然の中に存在する筈のこいしの波動を探るしかない。白蓮は修行途上で、未だその技術を体得しては居なかった。
それこそが、白蓮が追い求める悟りという名の技術だったのだ。
「……『サブタレイニアンローズ』……」
「……!」
白蓮の背後からささやき声と共に巨大な薔薇の弾幕が出現した。身を捩りその弾幕をかわそうとしたが、間に合わない。白蓮の肩に人間の腕ほどもある太い薔薇の棘が刺さる。
白蓮は薔薇弾幕の発生源に向かって光条を放ったが、そこには既にこいしは居ないようだった。肩に刺さった薔薇の弾幕が蒸発し、傷口から血が流れだす。
未だにこいしの姿は把握できない。
手傷を負うと人間も妖怪も興奮状態に陥る。そうなれば相手の思うつぼだ。白蓮は大きく息を吐くと再び精神の統一を図った。
今の自分の力ではこいしを捉えることはできない。白蓮は戦いの中で冷静にそう判断した。
彼女との戦いの中に、悟りを得るためのヒントが豊富に潜んでいることに白蓮は既に気づいていた。できるならば勝敗を度外視しても彼女の存在を捉えることに注力してみたかった。
しかし、今は戦いに勝つことの方が重要だった。戦いに勝てば、幾らでも彼女と一緒に修行することができる。
勝つために白蓮はそれまでの戦術を変えることにした。スペルカード主体の戦いから、通常弾幕中心の戦いへ切り替えることにしたのだ。
スペルカードルールでは、カードの制限時間を過ぎた時点でそのカードでの攻撃はできなくなる。そして、カードを先に使い切った方が敗者になる。
弾幕に一切被弾することなく、通常弾幕で相手を翻弄し、相手のスペルカードを使い切らせる。以前戦った紅白巫女や金髪の魔法使いがよく使う戦術だった。
妖怪同士ではポンポンとスペルカードを使って短期間に互いの体力を削り合う戦い方が主流だが、一度の被弾が致命傷になりかねない人間は弾幕を避けることに注力する。そして、スペルカードを極力使わないようにすることで勝利の確率を上げるのだ。
この戦い方はこいしに対しても有効だった。スペルカード使用時同等の厚みと拡散範囲を持つ白蓮の通常弾幕を嫌い、こいしは次々とスペルカードを繰り出す。『嫌われ者のフィロソフィ』、心符『没我の愛』、『胎児の夢』……。気の狂いそうな程美しく濃密な弾幕が白蓮を襲うが、何故か白蓮には当たらなかった。小刻みに魔人経巻の詠唱を交えつつ、人間が認識できない刹那の間隙をすり抜けていく。
そして、戦いは決着の時は迎える。ついにこいしのが最初に宣言した枚数のスペルカードを使いきったのだ。
地に降り立って待つ白蓮の前に、こいしがぼんやりと姿を表した。その身体の所々には被弾の痕跡があり、服の一部も破れて白い肌が露わになっていた。
決闘に敗れても、こいしはご機嫌だった。満面の笑みを見せて白蓮の元に駆け寄ってくる。
「お姉ちゃん、つよーい! この間戦ったお目出度い色の巫女さんも強かったけど、同じくらい強いのね! 私、強い人、好きよ!」
こいしは目を細めてぱちぱちと手を叩いた。勝った白蓮の方は、肩の傷を法力で癒しながら、にっこりとこいしに笑いかけた。
「貴女がさっき見せた力が無意識の力ね……。気配が完全に消えて自然と一体化しているようだった……。……とても興味深いわ」
「約束通り、私、お姉ちゃんのお寺の信者になるわ。貴女と修行すれば、私、もっと強くなれるんでしょう?」
「ええ、勿論!」
白蓮の心は天にも上りそうなくらい高揚した。仏教徒になって以来久しく味わったことのない高揚だった。こんなに可愛らしい妖怪が己の悟りへの道の案内役になってくれるかもしれないという所なのだから、妖怪マニアの僧侶である白蓮にとっては無理もない話だった。
二人は手を合わせてキャッキャと喜んでいたが、ふとこいしの方が顔を曇らせた。
「でも、おねえちゃんが許してくれるかなあ……」
サトリ妖怪のこいしには姉がいた。古明地さとり。地底深く旧地獄で怨霊の管理などを行なっている地霊殿の主だ。
かつては地上で活動していたが、心を読む彼女を人妖は恐れ、忌避していた。
恐れさせることが妖怪の本分なのだから本来ならそれを喜んでも良いところだが、そのさとりという少女妖怪はやや潔癖なところがあった。
勿論、妖怪の本能として、自分への恐れや嫌悪は読んでいて心地良い感情だった。しかし、同時に彼女は自らに向けられる嫌悪感に傷つきもしていた。
理解し難い観念かもしれないが、一部の人間にも他者の命を奪って食すことに嫌悪感を抱く時期があると思う。それに似た観念だった。
こいしの入信に際し、このナーバスで扱いづらい姉の名前が上がることは白蓮も予測していた。
そして、白蓮は既に腹に決めていた。
「貴女の姉上様は、私が直接説得します。こいしちゃん、私を地霊殿に案内してくれる?」
少なくともこいしに関することでは、自らの心にやましいものはないと白蓮は確信していた。
こいしはその言葉を聞くと、ぴょんぴょんと跳ねて喜んだ。
「いいわ。いいわ。とっても素敵! 貴女に私のペットたちを紹介してあげる! そうと決まれば善は急げよ。今から行きましょう?」
彼女はぱっと白蓮の手を掴むと、強引に引っ張って走りだした。
月明かりの下を、二つの影が駆け抜ける。一路妖怪の山へ。その中腹にある地底へ続く深い深い縦穴に向かって。
ただ言わせて貰うなら地の文がちょっと重いかなという気がしました。
六話全体のプロットだとどうなるか解らないのですが、村紗達が聖に引っ張られていくシーンはもっと勢いで突っ走ってギャグ的に纏めた方が読みやすく面白かったと思います。
あと伏線を調整する為に投稿後に変更するというのは推奨できません。もっと言うとその一言で読む人を減らす恐れがあります。
そこまで伏線が食い違う恐れがあるようでしたら全話書いて分割投稿、もしくはこれなら大丈夫と思える地点まで書いてから投稿という形にした方が吉かと思われます。
それでは長々と偉そうに失礼しました。ただ最後に……ナズーリンはどこだーー!(渾身)
テンポの良いかけあい、キャラの面白い挙動、ぐいぐい読ませるストーリーテリング、一部設定にリンクした物語の進行など、非常に面白かったのです
ただ、このサイトに続き物で投稿するのはゲンが悪いと言わざるを得ません(此処に通っている方ならば理由は想像がつくと思いますが…)
「第一話」と言うだけで「またかよ」と言って読みもせずに放置する人もいると思います
全話が一気に投稿されていれば問題は無いんですが、「続きは執筆中ですー」と言うと、どうしても読者側のイヤな予感は払拭されません
自分もあまり焦らされるのは好きではないので、できれば完成したのを一気に読みたかったのです
このクオリティが六話続くなら自分は期待しますが、あまり投稿の間が空くと、幻想郷のモノ並みに忘れ去られてしまうかもしれませんのでご注意を
既に一話を投下してしまっている以上これらは言っても詮無い事なのですが…
次の投稿予定日をお待ちしております
話の筋はあんまり好みではないのですが、続きも読ませていただきます。
最終的にグダグダになったりエターナったりする事がよくあるから困る。
話としては面白そうなので、そうならないように期待して続きを待つとします。
この規模なら全3話くらいに大筋を変更して夏前までに完結させてしまう事を推奨します
将来の自分のモチベの低下を念頭に置いて執筆できるのも一つの技能です
ただ、読んでて難しい題材に挑んでるなあと思いました。
妖怪にとっての仏教ってなんなんだろうなとか、妖怪と人間じゃ死生観が違うし寿命もあり方も違うし、
妖怪って悟れるのかとか、悟った妖怪はどうなるのかとか色々疑問が出てしまいました。
どの程度この連載の中で答えを出してくれるのか楽しみに待つ事にします。
次回を楽しみに待ってます
超めんどうくさい題材だと思いますが頑張ってください
続きお待ちしております。
とても面白かったので続き期待しております!