河童のお寿司屋さん
こんにちは。今日は河童のお寿司屋さんに行きます。
河童のお寿司屋さんは妖怪の山を源流にする大きな川を上流に向かって少し歩くとあります。最近になって新しく開店したばかりなのですが、人里からもこれないことは無いので、お昼時はいくらか人間がいますし、逢魔が時を越えれば、妖怪にも大人気のお店になります。
河童のお寿司屋さんはお店に入るとお寿司が回っています。お寿司が回っているというのは、お寿司のお皿が回っているのではなくて、いやお寿司のお皿が回っているのですが、お寿司が回っているというのは、お寿司がその場で回転しているのではなく、お店の中を順々と堂々めぐりしている感じで、お店の中のお客さん皆の前を通過するので、お客さんは自分の好みのお寿司が回ってきたらそれを取ることができるように、お寿司が回っているのです。
お寿司というのは、みなさんが想像した通り、酢飯の上に魚のネタを乗せて握った食品ですが、河童のお寿司屋さんのお寿司は、酢飯の上に何か白い塊が乗っているものです。白い塊は見た感じイカに見えますので、河童のお寿司屋さんではなく普通のお寿司屋さんでこの光景と出会ったら、このお寿司屋さんはイカしかないのかと笑うところで、とても面白いのですが、河童のお寿司屋さんでは、このイカに見える白い塊は、全部寿司のネタなので、笑うところではありません。
つまりどういうことかと言いますと、この塊の乗ったお皿には「まぐろ風」「たまご風」と書いてありまして、お客さんはそれを見て自分の好みのお寿司が回ってきたらそれを取ることができるのです。まぐろ風の白い塊にはまぐろの味が付いておりまして、まぐろが食べたい私はまぐろ風のお皿を取って食べるのですが、白い塊はまさしくまぐろの味がして、とてもおいしいです。河童のお寿司屋さんは、この味付けのやり方をして、海のない幻想郷で手軽にお寿司を楽しめるようにしたということであります。
河童のお寿司屋さんは、お客さんの健康にも気を使っていまして、壁に「お客様に安全な食事を」と書いた貼り紙が貼ってありますように、この白い塊には保存料という河童が独自に開発したお薬が使われているそうです。この保存料というものがふんだんに使われているおかげで、この白い塊は、なんということでしょう、三日三晩そのへんにぽいと置きっぱなしにしてあっても、普通の魚のように腐ったりせず、変わらないおいしさのまま楽しむことができるのです。絶対に腐らないというのはとても安心なことで、私も安心してお寿司を食べることができます。
河童のお寿司屋さんのお店の店員さんは、当然河童です。河童のお寿司屋さんという名前のお寿司屋さんは河童の物で、河童の物のお寿司屋さんを河童がやっているというのは、頭痛のせいで頭が痛い人が、間違えて「頭痛が痛い」と言ってしまって、本当は頭が痛いで、頭痛は痛いから頭痛だから頭痛が痛いのは当たり前なのに頭痛が痛いと間違えて言ってしまうのと同じような面白さがありますので、私はいつも河童のお寿司屋さんに行くと笑いそうになってしまいますが、お店に入って白い塊が回っているのが全部イカに見えても、このお店はそういうお店なので、笑うところではないのと同じで、河童のお寿司屋さんはそういうお店の名前なので、笑うところではありません。
河童のお寿司屋さんは、普段は三人か四人の河童が切り盛りしています。河童を数える時は、人じゃないのに人と数えていいのかと思うことも時々ありますが、人型の物を人と数えるのは正しいと思います。しかも、私はカカシのことを人とは数えないので、多分足が二本あるものが人なのだと思いますし、人という字にも足が二本あるので、正しいと思います。河童たちは、働くのが好きなのでしょうね、いつもせかせか働いて大変そうなのですが、それでも楽しそうにしています。先ほども説明したとおり、河童のお寿司屋さんは白い塊をネタとして使っているので、お魚を切る必要がありません。白い塊は、お店の奥の方にある大きな四角い機械が吐き出してきますので、それを酢飯に乗せてお皿に乗せて回していくのが、河童たちの主な仕事です。あとは、お客さんにお茶を出したり、お客さんが立った後の席からお皿を片付けたりしています。河童たちは、人見知りして、人里に下りてこないようなところがありますが、自分たちの領地で自分たちの決まりに従って物事を行えるとなると、とたんにしゃきしゃき働き出しますので、いうならば歯車のようなものなのですかね。
お品書きには「何々風」「何々風」の文字ばかり踊っていますが、一つだけ「何々風」ではないものがあります。何だと思いますか。そうです。お店で一番気合の入ったメニューの、河童巻きです。河童巻きは、おなじみの巻き寿司で、海苔と酢飯で胡瓜を巻いたものなのですが、胡瓜は河童と切っても切れないというか、前世の縁ですかね、河童は胡瓜が大好きなので、それだけは唯一白い塊を使わずに、そのままの胡瓜を使って提供しています。しかしですね、これは案外こう思っている人が多いと思いますが、胡瓜をお米と一緒にお醤油につけて食べるというのは、そこまでおいしいものではないですよね。胡瓜はお味噌だと思いますし、お米とは合いません。河童はそれが好きらしいですが。でも、時々好き好んで河童巻きを食べたがる方もいらっしゃいますね。やはり蓼食う虫も好き好きというか、理解できないことも多い世の中でございます。私が河童巻きが好きな人を理解できないのと同じで、どれだけ詳細に説明しても私の好きな物を理解してくれない方もいらっしゃいますことですし、どうにも心というものは度し難いものでございます。
そうこうしているうちに、私の前にもそこそこにお寿司のお皿が積み上がって参りました。河童のお寿司屋さんでは、お寿司は全部同じ値段で提供されています。お腹がいっぱいになったところで、店員の河童を呼びますと、河童が空になったお皿の枚数を数えて、枚数に応じた金額を提示し、私がそれに見合った金額を支払ったところで、お会計が完了となりますので、私は河童を呼び出して、お皿の枚数を数えてもらい、それに見合った額を払おうと思います。
さて、河童のお寿司屋さんも堪能したことですし、今度は少しばかり足を伸ばして、山頂の方にある神社にでも行ってみましょう。
山頂の方に向かうには、天狗たちが管理する地区を通って行かなくてはなりませんが、天狗たちは侵入者に対して大げさに警戒するので、少しでも怪しまれるようなことをするとすぐに御用です。人間が捕まってしまうと、縛り上げられてお空に投げられ、風に飛ばされてどこかに消えてしまうとかなんとか、噂は絶えません。もっとも、山に入ったきり帰ってこなくなってしまう人間はとても多いので、噂は噂ではなく真実である可能性もかなりありますので、私も気を付けて進んでいこうと思います。
一応山道のようなものはあります。ありますのでその上を進んでいきます。雑草の生えるがままになった地面の一部分だけが踏み固められて道を成しているのです。進んでいきますと、あたりはどんどん深い木々に覆われていきまして、そして周りから誰かの気配がしてきます。おそらく、白狼天狗の類でしょうね。そんなに警戒するなら、関門か何かを設置して、通る人通る人全員の顔を確認したりしてしまえばいいのに、よほど大袈裟が好きなのでしょう。
山を登りながらあたりに目を向けますと、といってもあまりきょろきょろしすぎると天狗の気に障るのできょろきょろはできないのですが、それでもきょろきょろしますと、迷いの森とはまた違ったダイナミックな自然の風景が広がっております。木々が多いことは他ならないですが、山の斜面からそりたつ岩、そこに巻きつく蔓、岩を割らんばかりの根っこなど、鬱蒼とした感じの森より力強い自然の姿がありますので、私はこの道を通って神社に参詣するのが好きなのであります。
姿の見えないお付きの者に囲まれてずいずい進んでいきますと、そろそろ足も疲れてきた辺りで、ようやく木が減ってきて、湿り気の多かった山の中腹から、辺りが見渡せる山の上部へとたどり着いたことが判ります。このあたりになると、神社の屋根なども見えたりしまして、疲れも忘れたように足が動きます。息が上がりますが、海抜も上がります。石ころばかりだった道が石畳に変わり、私は神社の鳥居の下をくぐります。
ここの神社を切り盛りしておられるのは、巫女で、なおかつ現人神でもあります、東風谷早苗さんです。緑色の不思議な髪の毛をした若い女性です。私がこの神社に訪れると時々麦茶をご馳走してくれる良い方です。どうも今日はいないようですが、この神社に巫女がいることは意外と少ないかもしれません。よく里に下りているのを見かけますし、最近は異変があると飛んで行って解決することもしばしばあります。
妖怪の参拝客は多めです。妖怪の山にある分、参拝しやすいのでしょうね。もっとも、かの有名な博麗神社に行くと、よほどの妖怪でない限り簡単に退治されてしまいますし、退治されずに好き好んで通っているような参拝常連の妖怪たちは、よほどの妖怪なので、妖怪の山に多い天狗レベルの妖怪では、よほどの妖怪には頭が上がりませんので、あちらの神社に通うのは避けるようになってしまうようです。
おっと、早苗さんが奥から出てきました。会釈をされたので会釈を返します。今日はどこかにお出かけですかと声をかけると、何も返事をしません。おそらく聞こえなかったようなのでもう一度声をかけますと、こっちを振り向き、神妙な顔のような顔で、ええ、とだけ答えました。彼女は緊張しているようです。なぜ緊張しているかというと、おそらく私に気があるからでしょう。よく私に麦茶をくれますし、神社の建物の中に入って歩いていますと、いきなり後ろから声をかけてきて、麦茶をくれましたから、私に気があるのでしょうね。私ならば、もし誰かが自分の家の中にいたら、声をかけるのをためらいますし、声をかけるとしたら、無断で入ったことを咎めて早急に外に追い出すでしょうね。それにしても、あの時の麦茶の味が忘れられないです。終始神妙な顔のような無表情で麦茶の味を心配しているような彼女に、おいしいですよと声をかけると、彼女はええと小さく言って、では、それでは、と私を外へと追い出しましてね。一緒の卓につくのを緊張しているのが手に取るようにわかり愛らしかった。そんな思い出があります。
ここで、私は彼女に渡すためのお供え物を携えてくるのを忘れたことを思い出しました。いつもは、いつも忙しそうにしている彼女のために、お弁当を作ってきて差し上げたり、彼女の美しい姿を恥ずかしながら自力で絵に写し取って差し上げたりするのですが、今日は何も持っていません。いつも彼女はありがとうございますと言ってくれるので、彼女が喜ぶならと、私も毎回欠かさず何かを見繕ってきていたのですが、今日ばかりは何も持っていません。しまったと思った時には彼女はもう舞いあがり、緑の光を散らしながら、限りなく広がる空へ、小さくなって消えました。里へのお出かけでしょうか。いつもなら、出会ってすぐに何か贈り物をしているのですが、今日はそれができずに、残念。
しかし、良いことを思いつきました。巫女という生物のくくりに漏れず、早苗さんを神社で見る時はいつでも境内の掃除をしています。巫女というものはきれい好きなのでしょう。なので、巫女をやるということはきれい好きということで、彼女もまたきれい好きである確率は限りなく十割に近く、よって私は彼女のために掃除をしてあげるのが最も良い贈り物になるのではないかと考えました。そのように考えましたので、いざ掃除を始めようかと、彼女がいつも箒をしまう物置へと足を進める途中、神社の建物の中が見えまして、私の頭にさらに良い考えが閃きました。
彼女はいつも神社の境内を掃除しています。なので今も神社の境内はそこそこにきれいに保たれています。ですが彼女が神社の建物の中を掃除している姿は見たことがありません。毎日のように守矢神社に通っている私が見たことがないということは、神社の建物の中を掃除していることは殆どないということでしょう。ああ何故今の今まで気が付かなかったのか。今日の私は冴えています。彼女のいない間に彼女の部屋をきれいにしておくことで、きれい好きな彼女が喜ぶことはもう間違いないですね。
神社の建物の中へと上がりこんだ私はまずはじめに彼女の部屋へと向かいました。今までにも何度か足を踏み入れているだけあって、私の足はよどみなく進みます。今回の掃除は早苗さんへの贈り物という位置づけに置かれるものなので、念入りに掃除をしなくてはなりません。彼女の部屋の位置は知っていますので、まっすぐそちらへと向かいます。フローリングの敷かれた廊下をまっすぐ進み、トイレの曲がり角を右へ、その奥のドアカバーのついたドアが彼女の部屋の入口です。ガチャリとドアを開け、久しぶりにこの部屋へと帰って参りますと、まあこれはいつもより汚れていますね。掃除をしようとして途中でほうりだしたような、雑誌や、棚の中にあった雑誌や、服や、本やアルバムや、文房具や机やベッドなどが、元あった位置から大きくずれています。私は神経質な方で、平行や直角というものを好むので、壁から妙にずれた位置にある机や、そのほか色々が気になって気になって、体がむずむずしてしまいます。ですから、このずれにずれた部屋をまずどうにかしようと思います。
机とベッドを壁にぴったりとつけ、布団の四隅を正し、甘い香りがする古っぽいジャージーの皺を払って壁にかけ、あどけなさの残る彼女の写ったアルバムを棚に戻し、カラフルな服がたくさんの雑誌を番号順に並べ直し、この雑誌の折り目のついているページにある服はどれも幻想郷では手に入らないような不思議なデザインのものばかりですね、枕についた髪の毛を拾い、あらゆる場所の埃をはらい、埃まみれの机をきれいにし、布団の埃をはらい、埃ばかり浮いている空気を入れ替えるために窓を開けました。
私がせっせと働いておりますと、鍵のかかった引き出しがあったので、私は机の天板の裏に貼り付けられた鍵で引き出しを開けますと、そのの中に妙に見覚えのある機械を見つけました。携帯電話によく似たそれをしばらく弄っておりますと、ピピと音が鳴り、形態が変わりました。ああこれはデジカメというものですね。天狗の人たちが持っているようなカメラを機械の力で動かせるものです。大きな画面が付いていて、今までに写した景色をそこに表示できるという優れものです。私は昔これが欲しかったような気がして、だんだん使い方を思い出して、今までに写した景色を大きな画面に表示させました。
そこには幻想郷ではないような景色が広がっていました。おそらく外の世界なのでしょう。楽しそうな建物。きらびやかな夜景。なにやら大きな耳の妖怪と手をつないで楽しそうな早苗さん。場所が変わる。懐かしいような、見覚えのある店。湯呑み。回るお皿に鮮やかな魚。醤油差し、わさび。頬が触れ合わんばかりに顔を近づけて笑顔の早苗さんと私。
私?
私は何か重要でなおかつ見てはいけないものを見てしまった気がして、デジカメを手放しました。嫌な汗が背中を濡らし、こんなはずではなかったという言葉がぐるぐると頭の中を回り始めて、急に視界が暗転して、オルゴールのねじが巻かれたかのように、目の前に昔の記憶がよみがえってきました。
偶然が偶然を呼んだのか、はたまたこれは必然だったのか、二つの線は最初、寄り添うように描かれていた。でも、ほんの小さなずれが生じてしまった。なぜずれが生じたかはわからない。出会いの不思議と同様に、別れもまた霧の中だ。ぴったり並行で描かれていた二つの線が、徐々に徐々に離れていった。もちろん、私は彼女を追いかけた。追いかけて追いかけて、追いかけすぎて、結果私は自分が何をしているのか、自分が誰だかわからなくなった。自分が誰なのか、わからない。そのまま流れ着いたこの場所で、いまだに彼女を追いかけて、それでも彼女は二度と私を見ることはなく、長い時間が過ぎたような、過ぎていないかもしれないような。
思えば無為な努力をずっと重ねていたような気がします。少しでも気を引こうと、少しでも関わろうと、こんなわけのわからぬ風になるまで、毎日毎日、彼女のことだけを思い続け、その思いは私自身の存在がなくなってしまうほどでした。しかし、彼女はうわべだけの付き合いを続け、微妙な距離を保ったまま、決して私に心を開こうとせず、私の気持ちをわかっているくせに、無機質に。対話の一つもないまま、時間だけが過去を風化させ、今ではただの知り合いの位置に落ち着いてしまった。
そのうち私は好意の裏返しの怒りが湧いてきて(あの女。ふざけやがって。人より少し顔が良いからって何だ。人より少し愛嬌があるからって何だ。その可愛い顔を盾に好き放題やりやがって。俺はお前が好きだ。心の底から大好きだ。だけどその汚い部分が大嫌いだ。死んでほしい。死んで詫びてほしい。お前が今まで迷惑をかけたすべてに。お前が今までに傷つけたすべてに。薄汚いその心が、黒板を爪でこすったような嫌な音を立てて、嫌な音を立てて。お前は裏切る。そういう生き物だ。裏切りの上に立って人生を歩んでいる。お前は俺に何もわかっていないと言うだろう。しかし俺はお前のことをわかっている。その浅すぎる心の内なんて簡単に全部見てしまえる。嘘で塗り固めた、嘘で塗り固めた、嘘で塗り固めたその心の内は、全部が全部わかっている。お前は汚い。この世で一番汚い。優越感と自尊心の上でしか自己同一性を得られない女なんだ。そんなこと、昔から明白。お前自身感づいているだろう。自分は優れているということに。優れているからこそ、諸々が許され、お前は汚い人生を歩み、そして少しばかり疎まれた。そんなこと、わからないやつはいない。だが、それでも、お前は美しい。貴女は美しい。どうしようもない。変えようがない事実。圧倒的真実。ああ、神はなぜこの女に美貌を与えたのか。私は、貴方より美しい人間を見たことがない。好きだ。貴女が好きだ。その汚い部分全てを塗り替えるほどあなたが好き。貴女の為にならこの命を捧げることができる。汚くて汚くて汚くて美しい女性。可愛いんだ。可愛すぎる。好きで好きで仕方がない。悔しい。自分が失われる。俺は何のために生きているか忘れる。貴女のために生きたい。貴女の為に死にたい。ただ単純に貴女と話がしたい。触れ合いたい。触れ合いたい。それだけで僕は幸せだ。幸せなんだ。それだけで。薄汚れた私は幸せなんだ)と思いましたが、心を落ち着けて部屋を出ました。私の掃除はほとんど終わっていて、心残りもあまりありません。デジカメは元の位置に戻しました。
境内へ出ると、日差しは傾き茜色に染まり、山風がうっすらと冬の空気を運んできて、ツンと鼻を突くセンチメンタルに、すこしうつむいて歩き出します。死神が姿を見せたとしても、もう夕食の時間ですよ。不意に私はお寿司が食べたくなりました。
でもさようなら、私は河童のお寿司屋さんへ行きます。
こんにちは。今日は河童のお寿司屋さんに行きます。
河童のお寿司屋さんは妖怪の山を源流にする大きな川を上流に向かって少し歩くとあります。最近になって新しく開店したばかりなのですが、人里からもこれないことは無いので、お昼時はいくらか人間がいますし、逢魔が時を越えれば、妖怪にも大人気のお店になります。
河童のお寿司屋さんはお店に入るとお寿司が回っています。お寿司が回っているというのは、お寿司のお皿が回っているのではなくて、いやお寿司のお皿が回っているのですが、お寿司が回っているというのは、お寿司がその場で回転しているのではなく、お店の中を順々と堂々めぐりしている感じで、お店の中のお客さん皆の前を通過するので、お客さんは自分の好みのお寿司が回ってきたらそれを取ることができるように、お寿司が回っているのです。
お寿司というのは、みなさんが想像した通り、酢飯の上に魚のネタを乗せて握った食品ですが、河童のお寿司屋さんのお寿司は、酢飯の上に何か白い塊が乗っているものです。白い塊は見た感じイカに見えますので、河童のお寿司屋さんではなく普通のお寿司屋さんでこの光景と出会ったら、このお寿司屋さんはイカしかないのかと笑うところで、とても面白いのですが、河童のお寿司屋さんでは、このイカに見える白い塊は、全部寿司のネタなので、笑うところではありません。
つまりどういうことかと言いますと、この塊の乗ったお皿には「まぐろ風」「たまご風」と書いてありまして、お客さんはそれを見て自分の好みのお寿司が回ってきたらそれを取ることができるのです。まぐろ風の白い塊にはまぐろの味が付いておりまして、まぐろが食べたい私はまぐろ風のお皿を取って食べるのですが、白い塊はまさしくまぐろの味がして、とてもおいしいです。河童のお寿司屋さんは、この味付けのやり方をして、海のない幻想郷で手軽にお寿司を楽しめるようにしたということであります。
河童のお寿司屋さんは、お客さんの健康にも気を使っていまして、壁に「お客様に安全な食事を」と書いた貼り紙が貼ってありますように、この白い塊には保存料という河童が独自に開発したお薬が使われているそうです。この保存料というものがふんだんに使われているおかげで、この白い塊は、なんということでしょう、三日三晩そのへんにぽいと置きっぱなしにしてあっても、普通の魚のように腐ったりせず、変わらないおいしさのまま楽しむことができるのです。絶対に腐らないというのはとても安心なことで、私も安心してお寿司を食べることができます。
河童のお寿司屋さんのお店の店員さんは、当然河童です。河童のお寿司屋さんという名前のお寿司屋さんは河童の物で、河童の物のお寿司屋さんを河童がやっているというのは、頭痛のせいで頭が痛い人が、間違えて「頭痛が痛い」と言ってしまって、本当は頭が痛いで、頭痛は痛いから頭痛だから頭痛が痛いのは当たり前なのに頭痛が痛いと間違えて言ってしまうのと同じような面白さがありますので、私はいつも河童のお寿司屋さんに行くと笑いそうになってしまいますが、お店に入って白い塊が回っているのが全部イカに見えても、このお店はそういうお店なので、笑うところではないのと同じで、河童のお寿司屋さんはそういうお店の名前なので、笑うところではありません。
河童のお寿司屋さんは、普段は三人か四人の河童が切り盛りしています。河童を数える時は、人じゃないのに人と数えていいのかと思うことも時々ありますが、人型の物を人と数えるのは正しいと思います。しかも、私はカカシのことを人とは数えないので、多分足が二本あるものが人なのだと思いますし、人という字にも足が二本あるので、正しいと思います。河童たちは、働くのが好きなのでしょうね、いつもせかせか働いて大変そうなのですが、それでも楽しそうにしています。先ほども説明したとおり、河童のお寿司屋さんは白い塊をネタとして使っているので、お魚を切る必要がありません。白い塊は、お店の奥の方にある大きな四角い機械が吐き出してきますので、それを酢飯に乗せてお皿に乗せて回していくのが、河童たちの主な仕事です。あとは、お客さんにお茶を出したり、お客さんが立った後の席からお皿を片付けたりしています。河童たちは、人見知りして、人里に下りてこないようなところがありますが、自分たちの領地で自分たちの決まりに従って物事を行えるとなると、とたんにしゃきしゃき働き出しますので、いうならば歯車のようなものなのですかね。
お品書きには「何々風」「何々風」の文字ばかり踊っていますが、一つだけ「何々風」ではないものがあります。何だと思いますか。そうです。お店で一番気合の入ったメニューの、河童巻きです。河童巻きは、おなじみの巻き寿司で、海苔と酢飯で胡瓜を巻いたものなのですが、胡瓜は河童と切っても切れないというか、前世の縁ですかね、河童は胡瓜が大好きなので、それだけは唯一白い塊を使わずに、そのままの胡瓜を使って提供しています。しかしですね、これは案外こう思っている人が多いと思いますが、胡瓜をお米と一緒にお醤油につけて食べるというのは、そこまでおいしいものではないですよね。胡瓜はお味噌だと思いますし、お米とは合いません。河童はそれが好きらしいですが。でも、時々好き好んで河童巻きを食べたがる方もいらっしゃいますね。やはり蓼食う虫も好き好きというか、理解できないことも多い世の中でございます。私が河童巻きが好きな人を理解できないのと同じで、どれだけ詳細に説明しても私の好きな物を理解してくれない方もいらっしゃいますことですし、どうにも心というものは度し難いものでございます。
そうこうしているうちに、私の前にもそこそこにお寿司のお皿が積み上がって参りました。河童のお寿司屋さんでは、お寿司は全部同じ値段で提供されています。お腹がいっぱいになったところで、店員の河童を呼びますと、河童が空になったお皿の枚数を数えて、枚数に応じた金額を提示し、私がそれに見合った金額を支払ったところで、お会計が完了となりますので、私は河童を呼び出して、お皿の枚数を数えてもらい、それに見合った額を払おうと思います。
さて、河童のお寿司屋さんも堪能したことですし、今度は少しばかり足を伸ばして、山頂の方にある神社にでも行ってみましょう。
山頂の方に向かうには、天狗たちが管理する地区を通って行かなくてはなりませんが、天狗たちは侵入者に対して大げさに警戒するので、少しでも怪しまれるようなことをするとすぐに御用です。人間が捕まってしまうと、縛り上げられてお空に投げられ、風に飛ばされてどこかに消えてしまうとかなんとか、噂は絶えません。もっとも、山に入ったきり帰ってこなくなってしまう人間はとても多いので、噂は噂ではなく真実である可能性もかなりありますので、私も気を付けて進んでいこうと思います。
一応山道のようなものはあります。ありますのでその上を進んでいきます。雑草の生えるがままになった地面の一部分だけが踏み固められて道を成しているのです。進んでいきますと、あたりはどんどん深い木々に覆われていきまして、そして周りから誰かの気配がしてきます。おそらく、白狼天狗の類でしょうね。そんなに警戒するなら、関門か何かを設置して、通る人通る人全員の顔を確認したりしてしまえばいいのに、よほど大袈裟が好きなのでしょう。
山を登りながらあたりに目を向けますと、といってもあまりきょろきょろしすぎると天狗の気に障るのできょろきょろはできないのですが、それでもきょろきょろしますと、迷いの森とはまた違ったダイナミックな自然の風景が広がっております。木々が多いことは他ならないですが、山の斜面からそりたつ岩、そこに巻きつく蔓、岩を割らんばかりの根っこなど、鬱蒼とした感じの森より力強い自然の姿がありますので、私はこの道を通って神社に参詣するのが好きなのであります。
姿の見えないお付きの者に囲まれてずいずい進んでいきますと、そろそろ足も疲れてきた辺りで、ようやく木が減ってきて、湿り気の多かった山の中腹から、辺りが見渡せる山の上部へとたどり着いたことが判ります。このあたりになると、神社の屋根なども見えたりしまして、疲れも忘れたように足が動きます。息が上がりますが、海抜も上がります。石ころばかりだった道が石畳に変わり、私は神社の鳥居の下をくぐります。
ここの神社を切り盛りしておられるのは、巫女で、なおかつ現人神でもあります、東風谷早苗さんです。緑色の不思議な髪の毛をした若い女性です。私がこの神社に訪れると時々麦茶をご馳走してくれる良い方です。どうも今日はいないようですが、この神社に巫女がいることは意外と少ないかもしれません。よく里に下りているのを見かけますし、最近は異変があると飛んで行って解決することもしばしばあります。
妖怪の参拝客は多めです。妖怪の山にある分、参拝しやすいのでしょうね。もっとも、かの有名な博麗神社に行くと、よほどの妖怪でない限り簡単に退治されてしまいますし、退治されずに好き好んで通っているような参拝常連の妖怪たちは、よほどの妖怪なので、妖怪の山に多い天狗レベルの妖怪では、よほどの妖怪には頭が上がりませんので、あちらの神社に通うのは避けるようになってしまうようです。
おっと、早苗さんが奥から出てきました。会釈をされたので会釈を返します。今日はどこかにお出かけですかと声をかけると、何も返事をしません。おそらく聞こえなかったようなのでもう一度声をかけますと、こっちを振り向き、神妙な顔のような顔で、ええ、とだけ答えました。彼女は緊張しているようです。なぜ緊張しているかというと、おそらく私に気があるからでしょう。よく私に麦茶をくれますし、神社の建物の中に入って歩いていますと、いきなり後ろから声をかけてきて、麦茶をくれましたから、私に気があるのでしょうね。私ならば、もし誰かが自分の家の中にいたら、声をかけるのをためらいますし、声をかけるとしたら、無断で入ったことを咎めて早急に外に追い出すでしょうね。それにしても、あの時の麦茶の味が忘れられないです。終始神妙な顔のような無表情で麦茶の味を心配しているような彼女に、おいしいですよと声をかけると、彼女はええと小さく言って、では、それでは、と私を外へと追い出しましてね。一緒の卓につくのを緊張しているのが手に取るようにわかり愛らしかった。そんな思い出があります。
ここで、私は彼女に渡すためのお供え物を携えてくるのを忘れたことを思い出しました。いつもは、いつも忙しそうにしている彼女のために、お弁当を作ってきて差し上げたり、彼女の美しい姿を恥ずかしながら自力で絵に写し取って差し上げたりするのですが、今日は何も持っていません。いつも彼女はありがとうございますと言ってくれるので、彼女が喜ぶならと、私も毎回欠かさず何かを見繕ってきていたのですが、今日ばかりは何も持っていません。しまったと思った時には彼女はもう舞いあがり、緑の光を散らしながら、限りなく広がる空へ、小さくなって消えました。里へのお出かけでしょうか。いつもなら、出会ってすぐに何か贈り物をしているのですが、今日はそれができずに、残念。
しかし、良いことを思いつきました。巫女という生物のくくりに漏れず、早苗さんを神社で見る時はいつでも境内の掃除をしています。巫女というものはきれい好きなのでしょう。なので、巫女をやるということはきれい好きということで、彼女もまたきれい好きである確率は限りなく十割に近く、よって私は彼女のために掃除をしてあげるのが最も良い贈り物になるのではないかと考えました。そのように考えましたので、いざ掃除を始めようかと、彼女がいつも箒をしまう物置へと足を進める途中、神社の建物の中が見えまして、私の頭にさらに良い考えが閃きました。
彼女はいつも神社の境内を掃除しています。なので今も神社の境内はそこそこにきれいに保たれています。ですが彼女が神社の建物の中を掃除している姿は見たことがありません。毎日のように守矢神社に通っている私が見たことがないということは、神社の建物の中を掃除していることは殆どないということでしょう。ああ何故今の今まで気が付かなかったのか。今日の私は冴えています。彼女のいない間に彼女の部屋をきれいにしておくことで、きれい好きな彼女が喜ぶことはもう間違いないですね。
神社の建物の中へと上がりこんだ私はまずはじめに彼女の部屋へと向かいました。今までにも何度か足を踏み入れているだけあって、私の足はよどみなく進みます。今回の掃除は早苗さんへの贈り物という位置づけに置かれるものなので、念入りに掃除をしなくてはなりません。彼女の部屋の位置は知っていますので、まっすぐそちらへと向かいます。フローリングの敷かれた廊下をまっすぐ進み、トイレの曲がり角を右へ、その奥のドアカバーのついたドアが彼女の部屋の入口です。ガチャリとドアを開け、久しぶりにこの部屋へと帰って参りますと、まあこれはいつもより汚れていますね。掃除をしようとして途中でほうりだしたような、雑誌や、棚の中にあった雑誌や、服や、本やアルバムや、文房具や机やベッドなどが、元あった位置から大きくずれています。私は神経質な方で、平行や直角というものを好むので、壁から妙にずれた位置にある机や、そのほか色々が気になって気になって、体がむずむずしてしまいます。ですから、このずれにずれた部屋をまずどうにかしようと思います。
机とベッドを壁にぴったりとつけ、布団の四隅を正し、甘い香りがする古っぽいジャージーの皺を払って壁にかけ、あどけなさの残る彼女の写ったアルバムを棚に戻し、カラフルな服がたくさんの雑誌を番号順に並べ直し、この雑誌の折り目のついているページにある服はどれも幻想郷では手に入らないような不思議なデザインのものばかりですね、枕についた髪の毛を拾い、あらゆる場所の埃をはらい、埃まみれの机をきれいにし、布団の埃をはらい、埃ばかり浮いている空気を入れ替えるために窓を開けました。
私がせっせと働いておりますと、鍵のかかった引き出しがあったので、私は机の天板の裏に貼り付けられた鍵で引き出しを開けますと、そのの中に妙に見覚えのある機械を見つけました。携帯電話によく似たそれをしばらく弄っておりますと、ピピと音が鳴り、形態が変わりました。ああこれはデジカメというものですね。天狗の人たちが持っているようなカメラを機械の力で動かせるものです。大きな画面が付いていて、今までに写した景色をそこに表示できるという優れものです。私は昔これが欲しかったような気がして、だんだん使い方を思い出して、今までに写した景色を大きな画面に表示させました。
そこには幻想郷ではないような景色が広がっていました。おそらく外の世界なのでしょう。楽しそうな建物。きらびやかな夜景。なにやら大きな耳の妖怪と手をつないで楽しそうな早苗さん。場所が変わる。懐かしいような、見覚えのある店。湯呑み。回るお皿に鮮やかな魚。醤油差し、わさび。頬が触れ合わんばかりに顔を近づけて笑顔の早苗さんと私。
私?
私は何か重要でなおかつ見てはいけないものを見てしまった気がして、デジカメを手放しました。嫌な汗が背中を濡らし、こんなはずではなかったという言葉がぐるぐると頭の中を回り始めて、急に視界が暗転して、オルゴールのねじが巻かれたかのように、目の前に昔の記憶がよみがえってきました。
偶然が偶然を呼んだのか、はたまたこれは必然だったのか、二つの線は最初、寄り添うように描かれていた。でも、ほんの小さなずれが生じてしまった。なぜずれが生じたかはわからない。出会いの不思議と同様に、別れもまた霧の中だ。ぴったり並行で描かれていた二つの線が、徐々に徐々に離れていった。もちろん、私は彼女を追いかけた。追いかけて追いかけて、追いかけすぎて、結果私は自分が何をしているのか、自分が誰だかわからなくなった。自分が誰なのか、わからない。そのまま流れ着いたこの場所で、いまだに彼女を追いかけて、それでも彼女は二度と私を見ることはなく、長い時間が過ぎたような、過ぎていないかもしれないような。
思えば無為な努力をずっと重ねていたような気がします。少しでも気を引こうと、少しでも関わろうと、こんなわけのわからぬ風になるまで、毎日毎日、彼女のことだけを思い続け、その思いは私自身の存在がなくなってしまうほどでした。しかし、彼女はうわべだけの付き合いを続け、微妙な距離を保ったまま、決して私に心を開こうとせず、私の気持ちをわかっているくせに、無機質に。対話の一つもないまま、時間だけが過去を風化させ、今ではただの知り合いの位置に落ち着いてしまった。
そのうち私は好意の裏返しの怒りが湧いてきて(あの女。ふざけやがって。人より少し顔が良いからって何だ。人より少し愛嬌があるからって何だ。その可愛い顔を盾に好き放題やりやがって。俺はお前が好きだ。心の底から大好きだ。だけどその汚い部分が大嫌いだ。死んでほしい。死んで詫びてほしい。お前が今まで迷惑をかけたすべてに。お前が今までに傷つけたすべてに。薄汚いその心が、黒板を爪でこすったような嫌な音を立てて、嫌な音を立てて。お前は裏切る。そういう生き物だ。裏切りの上に立って人生を歩んでいる。お前は俺に何もわかっていないと言うだろう。しかし俺はお前のことをわかっている。その浅すぎる心の内なんて簡単に全部見てしまえる。嘘で塗り固めた、嘘で塗り固めた、嘘で塗り固めたその心の内は、全部が全部わかっている。お前は汚い。この世で一番汚い。優越感と自尊心の上でしか自己同一性を得られない女なんだ。そんなこと、昔から明白。お前自身感づいているだろう。自分は優れているということに。優れているからこそ、諸々が許され、お前は汚い人生を歩み、そして少しばかり疎まれた。そんなこと、わからないやつはいない。だが、それでも、お前は美しい。貴女は美しい。どうしようもない。変えようがない事実。圧倒的真実。ああ、神はなぜこの女に美貌を与えたのか。私は、貴方より美しい人間を見たことがない。好きだ。貴女が好きだ。その汚い部分全てを塗り替えるほどあなたが好き。貴女の為にならこの命を捧げることができる。汚くて汚くて汚くて美しい女性。可愛いんだ。可愛すぎる。好きで好きで仕方がない。悔しい。自分が失われる。俺は何のために生きているか忘れる。貴女のために生きたい。貴女の為に死にたい。ただ単純に貴女と話がしたい。触れ合いたい。触れ合いたい。それだけで僕は幸せだ。幸せなんだ。それだけで。薄汚れた私は幸せなんだ)と思いましたが、心を落ち着けて部屋を出ました。私の掃除はほとんど終わっていて、心残りもあまりありません。デジカメは元の位置に戻しました。
境内へ出ると、日差しは傾き茜色に染まり、山風がうっすらと冬の空気を運んできて、ツンと鼻を突くセンチメンタルに、すこしうつむいて歩き出します。死神が姿を見せたとしても、もう夕食の時間ですよ。不意に私はお寿司が食べたくなりました。
でもさようなら、私は河童のお寿司屋さんへ行きます。
だが勢いに負けて100点。
河童のお寿司屋さんは掴みとしては良いですが、この作品に必要な要素なのかどうか私には理解出来ませんでした。
何かの隠喩なのかとは思いますが、そうした意味では作品を本来的に楽しめなかったということで半分の点数で失礼します。
一部くどいような気がしましたが、講談調で淡々と進んでいく文体は凄く好みです。
次回作も楽しみにしています。
私はとあるゲーム系個人サイトの文体が非常に好きなのですが、そこのテキストを彷彿とさせる狂気を感じます。
好きすぎてラーメン食べます。俺超マジグイグイ。
キャラクターや幻想郷へのこだわりがあって、単なる独りよがりになっていないのも良い点ではないでしょうか。
しかし、裏を返すと非常に癖があって読みづらい作品とも言えます。
適切ではないかもしませんが、個人的には全体的にボリュームを落としてスマートにしても良いかなという気がしました。
次の作品も楽しみです。からあげ食べました。
サッパリ分からん!
河童の寿司と主人公の関連性も見えないし、何にも分からん!
何か屈折した感情があるらしいが、バックボーンが無いから話の筋がヘニョヘニョで分からん!
でも一つだけ分かった事としては、早苗さんがマクガフィンだって事だな。
多分だけど、里に住んでいた頃の魔理沙とか、月にいた頃の優曇華とかが登場人物でも話の流れは変わらないんだろう。
つまり……分からん!
分からんからこの点数で失礼。
私の心には何も響かなかったよ!
まあ冗談はこれくらいにしまして、一人称モノとしては良く出来ている作品だと思います。
視点、叙述の形、心情の描写に手抜かりはなさそうです。
ただ一人称モノであるがゆえの消化不良といいますか、早苗の思考がわからないんですね。
当然「私」には早苗の思考がわからないので仕方が無いのですが、読者としては欲求不満が残ります。
早苗の行動原理がわからない。幻想郷に来た時に外の諸々を切る事に決めていて、「私」の存在に動揺しているという事なんですかね。
「私」側を深読みすれば取りようはいくらでもあるのですが、読む端緒もありません。
文章を書くことにはある程度慣れておられると見えますので、また三人称モノを読ませていただきたいと思います。