レミリアは床に横たわっていた。
彼女のドレスは自身の血にぬれている。全身傷だらけで、腹部には人間ならば即死であろう傷口が開いていた。レミリアの自室だった部屋は、すでに荒れ果てた瓦礫の山になっている。壊れてなくなった天井には、代わりに夜の黒と満月と星が張り付いていた。紅霧異変以来の赤い満月がレミリアの瞳に映る。赤く見えるのは、間違いなく彼女自身の血のためだ。
起き上がるべく、レミリアは床に手をついた。しかし力が入らず、レミリアのぼろぞうきんのようになった体は再び床の上に沈んだ。血塗れたスカーレットの瞳が宙を泳ぐ。
「さく……や……」
従者の名を口にするも、それは夜の静寂に消えていくだけだった。このままでは『あいつ』が、間違いなくフランと接触してしまう。息を荒げながらレミリアは上半身を起こした。
「お……げえ」
のどに溜まっていた血液と胃酸を痛みとともに吐き出す。吸血鬼の再生力をもってしても治りきらないほどの傷なのだ。擦り傷の走る手がところどころ破れてしまった帽子を拾い上げ、少し癖のある髪に乗せた。
やっとのことで立ち上がり、レミリアは廊下に出る。
廊下は壊されていなかったものの、人の気配は一切ない。皆、凄まじい妖気を放つ『あいつ』を察知し、隠れているのだろう。レミリアにとって、それは二つの意味で好都合だった。
地下へと続く階段にたどり着き、壁に手をつき一段一段足を踏み外さないように降りていく。地下に向かって進むにつれて、こけと血の臭いが濃くなっていった。
そしてもう一つ。
肌を刺すような妖気も濃くなっていった。
地下にあるフランの部屋と地上を繋ぐ鉄の扉は開いていた。最近はフランが自分の力を制御できるようになったため、紅魔館内なら自由に行動して良いことにしている。そのため、地下牢とも言えるフランの部屋には封印の類を一切していなかった。
部屋の内から漏れ出す光の先端をレミリアは踏みつける。室内からフランの声が聞こえてきた。
「あなたはだぁれ?」
足音を殺し、扉に近づくとレミリアはかがむようにして部屋を覗き込む。
緋色を中心とした色調で、タンスやベッド、人一人入りそうなおもちゃ箱がまず目に入る。そして床には、おもちゃ箱の存在意義なぞまるでないほどに、動物の人形が所狭しと敷き詰められていた。
人形を踏みつけ、フランと『あいつ』が対峙している。フランは不思議そうに『あいつ』を見上げていた。
『あいつ』は、金髪をうなじ辺りまで伸ばした少女だ。フランより少し背が高く、ノースリープのワンピースの下に、長袖の白い服を着込んでいる。
『あいつ』は、ルーミアと呼ばれている妖怪だ。
本来、ルーミアの背丈はもっと小さい。また、たとえ不意打ちだとしてもレミリアを倒すほどの力は有していない。
「そう、フランは私を覚えてないのね。私はルーミア」
元のルーミアに比べ、幾分か声は低くなっている。
フランを包み込みように、ルーミアは両手を広げた。
「私はフランの――」
「やめろ!」
紅い閃光がルーミアの胸を貫く。気付けばレミリアはグングニルを召喚し、放っていた。グングニルはルーミアだけでは満足せず、フランの頬をも掠め、部屋の壁に破壊の限りを尽くす。
胸に風穴が空いたルーミアは、殺気立つレミリアとあっけに取られたフランを一度ずつ見る。
――倒れろ。
すでにレミリアにはルーミアと戦うだけの力は残っていなかった。
「私はフランの姉よ」
怪我を負っていることなぞまるで感じさせないような、はっきりした調子でルーミアは言いきった。しかし、ルーミアの体はぐらりと揺らぎ、背中から人形の上に倒れた。
下敷きにされた人形に、ルーミアの胸からあふれ出す血がしみ込んでいく。ルーミアはぴくりとも動かなくなった。けれど、死んだわけではないだろう。彼女の体からは、今だ妖気が溢れている。
「お姉様。そんな傷だらけになって……。大丈夫?」
熊の人形と、ルーミアの腕を踏みつけフランはレミリアに歩み寄ってきた。
「ええ……、大丈夫よ」
再生能力が追いついてきたものの、まだ体の節々が痛む。それらをこらえながらレミリアは一度フランの赤い瞳を見つめてから、彼女をぎゅっと抱きしめた。フランの髪から漂ってくるシャンプーの香りを吸い込みながらも、レミリアはルーミアから目を離さなかった。
ルーミアの容姿は、フランを一回り大きくしたような、そんな面影を放っていたのだった。
「あんたがフランを連れてくるなんて珍しいわね」
木枯らしの吹く神社の境内で、冬でも腋を隠さない巫女が言った。巫女、霊夢の言うとおり、レミリアがフランを外に連れ出すことはめったにない。
縁側でだべるレミリアと霊夢の背中の方にある和室で、フランは人形遊びを興じていた。
座布団の位置を手で確認しながら、霊夢はレミリアを見やる。
「しかも、いつも一緒に居る従者が居ない。いったいどんな偶然かしらねえ」
「さぁね。運命の悪戯じゃないかしら」
すまし顔で返しつつも、レミリアは内心で霊夢の勘の鋭さに舌を巻いていた。
運命を操れるやつが何を言うのか、とでも言いたそうな顔で霊夢はお茶をすする。
「運命を操るのは難しいし、完璧には無理よ」
霊夢の無言の抗議に応答したかったわけではないが、肩をすくめてレミリアはぼやいた。
フランを連れてきて、咲夜を連れて来なかったのには勿論理由がある。昨日の一件に原因があるのは言うまでもない。
まず、フランを連れてきたのは、たんに彼女をルーミアから遠ざけておきたかったからだ。そして咲夜が居ないのは、ルーミアのリボンを探しに行かせたからだった。
レミリアは動かなくなったルーミアをフランの部屋に封印した。ルーミアがあれ程の力を持ったのは頭についたリボンが取れたからだ。リボンはめったなことでは取れないし、ルーミア自身の力では取れないようにしていた。けれど、なにかのはずみで取れてしまったようだ。
とにかく、リボンを付け直せば普段の温厚なルーミアに戻る。咲夜がリボンを持ってくるまで、紅魔館から離れておきたかった。だから、今日は神社を訪れたのだ。
レミリアは湯飲みに注がれた紅茶に口をつけた。冷めて渋くなってしまった紅茶に顔をしかめる。
「ねえねえ遊ぼうよお姉様」
いつの間に近づいたのか、フランがレミリアの背後から抱きついてきた。危うく湯飲みを落としそうになり、レミリアは苦笑いする。
「ここで弾幕遊びをしたら霊夢に怒られるわよ」
「誰も弾幕遊びなんていってないよーだ」
そう言いつつ、図星だったようで、フランは頬を膨らませながらも和室へと戻っていった。そのやり取りをぼうっと見ていた霊夢が口を開く。
「思ったんだけど、あんたら姉妹って雰囲気は似てるんだけど、髪の毛の色とか、翼の形とかぜんぜん違うのよね」
今度こそレミリアの手からするりと湯飲みが落ちた。
「目元は似てるんだけど――ってなにこぼしてるのよ!?」
縁側の板に落ちた湯飲みから広がっていく紅茶に霊夢は悲鳴を上げる。
「ああ、もう!」
どたどたと霊夢は和室の奥に消えていった。レミリアのドレスがわずかに紅茶と触れる。染みがゆっくりとドレスを侵食していく。いつものレミリアならば、地団駄を踏んで騒ぐだろうが、彼女はただほうけるだけ。
ぞうきんを片手に霊夢があわただし気に戻ってきた。さっさと液体を拭き取り、一息ついて彼女は再び縁側に腰掛ける。
「ぼぅっとしてるんじゃない!」
いらいらが頂点に達したらしい霊夢が、レミリアのほっぺに針を突き刺す。それでレミリアはようやく自我を取り戻した。ちくりと痛む頬を押さえる。
「痛いじゃない!」
「こぼしといてなに言ってるの!」
「う……ごめん」
レミリアがあやまった途端、霊夢は西から満月が昇るのを見たかのように目を丸くする。それから人形遊びを興じるフランとレミリアを一度ずつ見て、なにやら一人納得し、溜め息をついた。
「……あんたも、あんたの妹もずいぶん丸くなったわね」
「太っちゃったかしら」
「そっちの丸くなったじゃない。妹の方は心なしか妖気まで弱まってる気すらするわ」
針で刺した傷がすでに跡形もなく消え去ったレミリアの頬がひくつく。上々な反応が得られたといわんばかりに霊夢はにやりと笑い、追撃に口を開こうとしたときだ。
和室の方からこほこほと咳が聞こえてきた。
「あら」と追撃のために開きかけた口を閉じ、霊夢は首を傾げる。「風邪でもひいたのかしら。吸血鬼が」
悪寒がレミリアの背中を舐める。手を着き立ち上がり、レミリアは兎の人形を手に持ったフランに歩み寄った。
「フラン。ちょっとおでこを貸してちょうだい」
「良いけど?」
髪をまくしあげ、レミリアはフランの額に自分の額をつける。明らかに常時より高い体温がレミリアに伝わってきた。
「ちょっと熱があるわ」
額を離し、レミリアは溜め息をついた。若干紅潮したフランの頬も、熱があることを物語っている。
「ふぅん。吸血鬼も風邪をひくのね。まぁ、今日は曇ってていつもより更に寒いし、早いとこ帰ったら?」
霊夢の言うとおり、空は鉛色によどんでいた。気温も、普段よりさらに低いだろう。風邪をひいても仕方のない気候ではある。しかし、レミリアは知っていた。
この程度の条件で吸血鬼が風邪をひくのはありえない。
「紅魔館から迎えを呼んでくるから、ちょっとだけフランを寝かせといてくれない?」
霊夢は露骨にめんどくさそうな顔をした。けれど、彼女が断ることはないのもレミリアは知っている。
「さっさとしなさいよ」
「ありがとう。霊夢」
日はさしていない。むしろ雨が降りそうなくらいだ。一応日傘兼雨傘を持ってレミリアは羽根をのばした。
「じゃ、おとなしく寝とくのよフラン」
「うん。早く戻ってきてね、お姉ちゃん」
「……ええ」
フランの方を見ずにそう返したレミリアは鉛色の空に飛び立ったのだった。
腰をひねり、黒塗りの剣を重心移動に乗せて扉を打った。青白い光にあっけなく剣は弾かれ、ルーミアの手から離れる。剣は空中で弧を描いてから、床にあるくまの人形の腹に突き刺さった。
「硬いわね……」
心底めんどくさそうに、ルーミアはフランと似かよった髪質の金髪を掻きあげた。髪から手を離すと、鉄の扉とにらめっこを開始する。それから少しして、人差し指を鉄の扉に突きたてた。
全てを拒絶する結界がルーミアの指を弾く。けれど、ルーミアはわずかに場所を変え、もう一度人差し指を突きたてた。またはじかれる。場所を変え、また突きたてる。ルーミアは何度もその作業を繰り返した。
痛みを伴う作業ではあったが、フランのためを思うと気にならなかった。
『お姉ちゃん』
ルーミアを呼ぶフランの声が脳内に生々しく再現されたのだった。
ルーミアとフランは元々人間の姉妹だった。辺境の地に住んでいたが、ごくごく一般的な姉妹だったのだ。
両親も居た。友達も居た。祖父母も居た。
けれどその顔を思い出すことはルーミアにはできない。
春夏秋冬。人間の頃のフランは家から出ない少女だった。昔、彼女が使っていた部屋の構図は、今でも鮮明に思い出せる。
ランプの中で油を喰らい燃え立つ炎が部屋を照らす。常に清潔に保たれたベッド。いつもクッキーが置かれたテーブル。ほこり一つ被ってない、難しい文字の背表紙が並ぶ本棚。規則正しく時を刻み続ける振り子時計。羽毛をたっぷり含ませたクッションを抱かせた安楽イス。
一見、何の過不足もない一般的な部屋である。けれど、一般的、というには一つだけ欠けている物があった。それは太陽の光だ。常に締め切られたカーテンは部屋に暗い印象を与え、フランを外の世界から遠ざけていた。
部屋に備えられている安楽イスの上で、フランは大抵の時を過ごしていたのだ。
ルーミアが部屋に入ると、フランはいつも大きな青い瞳を細めて出迎えてくれた。
人間の頃のルーミアは好奇心旺盛な女の子で、いつも外を駆け回っていた。そんな彼女は、いつもフランに外の出来事を話しては、フランを外に連れ出そうとした。しかしルーミアがフランを外に連れ出そうとしても、彼女は小さく咳をして首を横に振るのだった。
ルーミアは何よりもフランに外で遊んで欲しかった。太陽の下、両の手を伸ばして思いっきり外で遊んで欲しかったのだ。
そんな日々が続いていたある日、レミリアとルーミアの運命が交わった。
太陽が雲の裏に隠れていた日のことだ。ルーミアが自宅近辺の森を探索していたとき、何の前触れもなくレミリアが現れた。人間とは違う異形の者。恐れを知らなかったルーミアにとっては、刺激的な出会いでしかなかった。
そんな恐れを見せないルーミアに、一度だけ戸惑いを見せてから、レミリアは長い犬歯を覗かせながら笑う。
「面白い人間ね。気に入ったわ。食べずにおいてあげる」
そんなレミリアの言葉も、ルーミアには気にならなかった。
何日かおきくらいに、ルーミアとレミリアは会うようになり、しだいに親交を深めていった。そのうちに、ルーミアがレミリアを家に招待した。フランに会わせたかったのだ。
「久々に招かれたわ」とレミリアが意味深なことを言っていたが、あれは吸血鬼の弱点の一つに関わることだろう。最も、彼女には関係ないみたいだが。
ルーミアはレミリアをすぐにフランの部屋に連れて行った。
相変わらず、フランは安楽イスに座ってほうけていた。けれど、今日は調子が良いらしく、咳はしていない。
「フラン。今日は紹介したい人が居るの」
「え、どんな人なのお姉ちゃん」
顔だけルーミアの居るドアの方に向け、フランは青い瞳を輝かせた。
「入って、レミリア」
ドアのそばに待機させていたレミリアの手をルーミアが引く。これがフランとレミリアの運命が交わった瞬間だ。
「ま、人じゃないんだけどね」
フランの前で両手と対になる蝙蝠羽を広げ、レミリアはおどけて見せた。そのときのフランの驚きっぷりといったらない。背筋がピンと伸び、気色の悪かった頬が紅潮し、青い瞳が大きく見開かれた。さらに、安楽イスからずり落ちそうになったので、あわててルーミアはフランの体を支えた。
「すごいわ。お姉ちゃん」
それから三人の関係ははじまった。
ルーミアの家にたびたび訪れるようになり、レミリアはすぐに家になじんだ。辺境の地であるため、魔女狩り等の迷信の影響がなかったのが大きい。それに、ルーミアの家族も幼い容姿であるレミリアに、我が娘のように接した。そのことは覚えている。
「吸血鬼でいるってどんな感じなのレミリア?」
「それは私がフランに人間でいるのってどんな感じなの? って聞くようなものよ」
「む……そうね」
「私もレミリアみたいに空を飛べたらなあ」
「あら、お望みだったら吸血鬼にして差し上げるわよルーミア。ちょっと条件付きだけど」
「私は遠慮しとこうかな」
「ふふ、そう。フランはどうかしら」
「……私も、かな」
――正直に言おう。この時、私はどうしようもなく楽しかった。この後に待つ、出来事を知らなかったから。
その出来事が起こったのは、満月の映える夜のことだった。病に効くという薬草を摘んでいたルーミアの帰りが遅れた夜でもある。
家に着くと、ルーミアは薬草を積んだかごを片手にすぐさまフランの部屋に向かった。血に砂糖をたっぷり加えたようなレミリアの香りにルーミアは気付いていた。レミリアがフランの話し相手になってくれているのだろう。そう思い、ルーミアは薬草を持っていない方の手でフランの部屋のドアを勢いよく開ける――。
その先。
思い出すことを拒否するように、ルーミアの前頭部が痛んだ。けれど、ルーミアは結界に指を突き立てることで、痛みを痛みで誤魔化した。
レミリアと安楽イスに板ばさみにされたフラン。レミリアがフランに抱きついている。
いや、違う。
大きく見開かれたフランの瞳がルーミアを捉えた。その目は、まばたきを一つし涙を流したのだ。
ルーミアの手からかごが滑り落ちる。床に葉に赤のまだらが入った薬草が散らばった。
「レミ……リア……」
ルーミアの声に、蝙蝠羽がぴくりと動いた。レミリアの紅い瞳がルーミアを睨む。まさにそれは獣の双眸だった。本能をむき出しにした吸血鬼。フランの首筋には、吸血鬼独特の長い犬歯が突き刺さっている。にじむフランの血が、レミリアの犬歯に絡みついていた。
ごくりとレミリアがのどを鳴らすたびに、フランの力なく垂れた右手が大きく跳ねる。
「おね……ちゃ」
動くことのできないルーミアにフランがなにかを伝えようとしていた。けれど、レミリアがそれを阻止するかのように体をねじり、犬歯をさらに深く、肉に食い込ませる。フランの顔に苦悶の表情が浮かんだ。
それでも、ルーミアの体は動かなかった。
レミリアがフランから離れる。結局、レミリアの一連の行為が終わるまで、ルーミアは見ていることしかできなかった。口元についた血を、手の甲で拭うとレミリアは満足気に息をつく。
くたびれた絹の束のように安楽イスにもたれかかるフランの体は、二度と動くことはなかった。生気をまるで感じない。
ポケットからハンカチを取り出し、手の甲を拭うと、レミリアは改めてルーミアを見た。
「これからフランは、私の妹だ。ある程度落ち着いたら森にある紅い館に来ると良い」
レミリアの細い腕は、ひょいとフランの体を抱き上げる。そして背中におぶうと、すたすたと窓辺に歩いていった。レミリアは窓を隠していたカーテンを引き千切る。そして、今まで隠れていた窓を開けた。新天地を見つけた冷たい夜風が部屋を一舐めする。
「まっ……」
レミリアは軽々と窓から飛び出て、羽根を大きく広げた。
「待ちなさいよ!」
おぼつかない足取りでルーミアは窓辺にたどり着く。
ルーミアは、はじめ、そこで見た物が信じられなかった。
満月と星が踊る夜空の下。月光を帯びてさんさんと輝く七色の宝石。それが、あろうことかフランの背中に生えた生物的な羽に付いていたのだ。
レミリアの嘲笑。光る犬歯。フランの宝石に映る満月。そこで、ルーミアの記憶は一度途絶えていた。
何度繰り返しただろう。ついにルーミアの指が弾かれることなく扉に触れる。
結界の裂け目だ。
場所を覚えたルーミアは、扉から指を離す。そして結界の影響で炭化して黒くなってしまった指先に息を吹きかける。すると、煤が吹き飛ぶようにルーミアの指から黒い部分が吹き飛び、新たに新雪のようなきれいな皮膚が出てきた。
指が動くのを確認したルーミアは、くまの人形の腹に刺さっていた漆黒の剣を引き抜く。左手で照準を定めながら、右手の剣を引いた。不敵な笑みを乗せ、ルーミアは剣を突き出す。それは寸分たがわず結界の裂け目を突いた。
剣は鉄の扉とかみ合う。ルーミアにとって鉄なぞ紙のようなものだった。
扉がけたたましい悲鳴を上げる。力尽きた人間のように、鉄の塊はぐらりと揺れ、地に伏した。鉄の扉にかけられていた結界が消える。
ルーミアは悠々と部屋の外に出たのだった。
鉛の空に太陽はない。しかし、光が支配する大地。ルーミアは自らの能力を駆使し、暗闇で身を包む。紅魔館にフランの妖気がないことに気付いたルーミアは、住民に気付かれる前に外に出たのだった。
心地の良い暗闇。目は見えない。落ち葉の質感、木の根の感触から魔法の森を歩いていることは推測できた。記憶が封じ込められていたときのルーミアは、よく木に頭をぶつけていたみたいだ。けれど、今のルーミアはそんなことはなかった。理屈ではなく、何がどこにあるのかなんとなくわかるのだ。余計な視覚情報がない分、ルーミアのほかの四感は研ぎ澄まされていた。
フランはおそらく神社に居る。紅魔館には、レミリアの妖気もなかった。レミリアがフランを連れ出したことは一目瞭然。レミリアの友好関係を考えれば、神社が最も妥当なのだ。
ルーミアは神社があるであろう向きの暗闇を見つめた。過去の映像が、黒のスクリーンに映りだす。その映像から逃げるには、暗闇から出るしかないが、ルーミアはそれをしたくなかった。フランを連れ去られた後の出来事が、ルーミアの眼前でまざまざと再現されたのだった。
フランを失ったルーミアは心身ともに衰弱し、重い病にかかってしまった。そのせいで人間のルーミアが、レミリアの言った『紅い館』に行くことはついぞ叶わなかった。
本来ならば、ここで全ての物語が終わっていただろう。しかし、恨みが募ったせいか、はたまた運命の悪戯か、ルーミアは闇を操る妖怪として再び現世の土を踏んだ。妖怪の肉体を持ったルーミアは、体のうちからあふれ出してくる力を感じた。
――これならフランを助けられる。
ルーミアはそう確信した。すぐさま『紅い館』、現在の紅魔館と呼ばれている建物を見つけ出し、乗り込んだ。そして、レミリアに奇襲を仕掛けた。
怒りと、憎しみでルーミアは我を忘れ、獣の如く吠え猛る。レミリアを木っ端微塵にする勢いだった。しかし、レミリアはルーミアに奇襲されたにも関わらず、上手く攻撃を受けて、返してきた。
それからは地力での争いだ。そこで、致命的だったのが、そのころのルーミアは妖怪に慣れていなかったことだった。ルーミアがレミリアの視界を奪うつもりで使用した闇を操る能力が暴発し、ルーミア自身の視界を奪ってしまったのだ。その隙を逃すほどレミリアは甘くない。致命打を加えられ、ルーミアは半殺しにされた。
そして、動けなくなったルーミアにレミリアは一種の呪いを施した。
「これがお前を幸せにする運命のリボンだ」
そうして、ルーミアの頭には、憎々しき運命が絡みついたのだった。
闇の中で、ルーミアは自分の頭をなでる。どこぞの三妖精が悪戯でルーミアのリボンを取っていったのだ。ルーミアからすれば幸運以外のなにものでもない。そうして、今まで縛り付けられていたフランの姉としての『ルーミア』が解放されたのだ。
長年、妖怪でいたため、体はすっかり妖怪に馴染んでいた。能力のイロハも手に取るようにしてわかる。これは全てリボンを付けた状態のルーミアが学んだことだ。
今なら、レミリアをも退けられる。奇襲だが、一度それを成功させていただけに、ルーミアには自信があった。
暗闇の中、ルーミアは迷うことなく神社の方へ向かったのだった。
あり得ない。まず、レミリアはそう思った。
今にも泣き出しそうな空の下、レミリアが紅魔館に向かう最中だった。魔法の森に黒い球体が蠢いていたのだ。球体は枯れ木と、冬でも葉を伸ばす針葉樹を飲み込みながら進んでいた。ふらふらと彷徨っているように見えて、それは確実に神社の方に向かっている。
闇を操り、あのような球体を作れるのは、ルーミア以外にいない。
とめどめなく溢れてくる疑問に逡巡してしまう前に、レミリアは動いた。右手の日傘を投げ捨て、グングニルを召喚し、黒い球体に向けて放つ。紅い閃光は闇の端部分を貫いた。手ごたえはなるでない。余波で枯れ木がざわついたのみ。
闇が及ぶ一歩手前に、レミリアは降り立つ。落ち葉がぐしゃりと気味の悪い音を立てた。濃厚な妖気ときのこのかびの臭いが練り混ざる。湿っぽい空気に、澄んだ声が響いた。
「この感触は槍。レミリアね」
球体を構成する闇が霧散した。その霧散した闇がレミリアの頬をなでる。フランとよく似た顔立ちをしたルーミアが現れたのだった。
夕焼けよりも濃い、赤い瞳がレミリアを射抜く。ルーミアから迷いは一切感じられない。彼女はただ一つの目的に向かって突き進んでいた。
レミリアは戦慄する。半端な心構えだと、殺されかねない。
「フランはどこに居るの?」
まずルーミアが口を開いた。彼女は意外に落ち着いているようだ。そのことにレミリアは僅かな希望を見出した。
「教えれない」
しかしルーミアが落ち着いていようと、彼女をフランと引き合わせるわけにはいかない。レミリアがフランの居場所を教えるつもりがなかったのがわかっていたのだろう。無表情でルーミアは髪を掻くと、手近にあった枯れ木の幹を片手で掴む。
「そう。どうせ神社に居るんでしょ」
ルーミアの指が木の幹に食い込む。木々に潜んでいた鳥が、身の危険を感じ取り、鉛色の空に飛び出した。
「お前の心中は察しているつもりだ。けど、行かないくれないか。話が――」
「わかるわけない!」木の幹が雷が落ちるが如く音を立てて、千切れる。「あなたの運命にはもう従わない。私の手で壊して見せるわ。この悲しき運命を」
舌打ちを禁じえなかった。レミリアはグングニルを手元に呼び戻す。
「今、お前をフランに会わせるわけにはいかないんだ。リボンを持ってきてやるからおとなしくしてろ」
もう口での説得は無理だ。早々にそう判断したレミリアは地を蹴った。
レミリアとルーミアの間合いは十メートル。二人にとってその程度の間合いはゼロに等しい。
まばたき一つの時間でレミリアは自分より一回り大きいルーミアの懐にもぐりこむ。
短い気合を込めて、レミリアは槍を突き出した。木を武器にしようとするのは、見上げた根性、鬼のごとき怪力だが、懐に潜りこめば槍に分がある。
槍がルーミアの体を抉る寸前、俯いたフランの姿が一瞬だけレミリアの脳をよぎった。けれど、すぐに打ち消すと、グングニルを握る手にさらに力を込める。
確かな手ごたえが手に伝わってきた。服を裂き、肉を裂き、骨を砕いてグングニルはルーミアの腹を食い破る。肉が硬直を起こす前に、槍を引き抜こうとした。けれど、すでにレミリアの手札は一枚残らずルーミアに食いちぎられていたのだ。
ルーミアの右手がグングニルの柄を押さえていた。グングニルは微動だにしない。
「やっぱり、妖怪の体って丈夫ね」
腹を貫く槍を無味乾燥に見つめながら、ルーミアは右手だけでへし折った枯れ木をなぎ払う。
無慈悲な大木がレミリアの横腹に容赦なく食い込む。めきめきとあばらが音を立てる。自分の体内から響いたのだと理解するのに、レミリアは数瞬を要した。
レミリアの華奢な体が宙を舞う。口から血のしずくが舞った。何回か体は宙で回転した後、落ち葉の積もった湿っぽい地面がレミリアを出迎える。
「あっけないものね」
ルーミアは自分の腹から槍を引き抜き、捨てる。ルーミアの腰骨まで砕いた。少なくともレミリアはそのつもりだった。腹を赤く染めながらも、ルーミアは悠然と地に伏せたレミリアを見下ろしている。
「痛覚ってものはないのか」
口に入った泥を血と一緒に吐き出し、レミリアは横腹を押さえた。
「フランの痛みに比べればってやつよ。嘘吐き吸血鬼さん」
――まったくだ。
レミリアは地に片手をつき、折れたあばら骨が高速で回復していくのを感じながら立ち上がった。泥に塗れた帽子を拾い上げ、かぶる。そして、自嘲的に笑った。
――フランとルーミアの仲を引き裂いたのは、間違いなく私だ。
とめどめなく血が流れ出ている傷口を、ルーミアは手で覆う。そして何度なで、手を離すと、すでにそこに傷口はなかった。何事もなかったかのように白い肌が現れる。
「吸血が苦手で従属が作れない。嘘。フランを地下に閉じ込めていた理由も嘘。フランがあなたの妹。嘘! ぜーんぶ、フランの運命を我が物にするための嘘!」
ルーミアの右手から大木が離れる。彼女は空になった右手を前に突き出した。そこに闇が収縮していき、長剣の形を成した。レミリアも、それに対し構えを取ろうとした。が、レミリアはあることに気づいてしまった。
一歩でルーミアはレミリアとの距離を詰める。そして、レミリアの喉仏に剣を突きつけた。黒一色の瞳がレミリアを映して離さない。レミリアは動けなかった。
「あんた、ツイてないみたいよ」
今にも泣き出しそうだった空が、ついに我慢しきれずに一滴二滴と涙を流し始めた。雨はまず森の木々を濡らし、レミリアの髪を、肌を濡らしていく。流水にさらされ、吸血鬼としての力が弱まっていくことを感じながらも、レミリアはそれが気にならなかった。
雨粒が葉を叩く音の中で、レミリアは来てはならない者が到来する足音に気付いていたのだ。
直に落ち葉を踏み、泥を吸った白い靴下。揺れる赤いスカート。レミリアは目を見開いた。雨に濡れた、病的なまでに白い手がレミリアの落とした日傘を拾い上げる。その白い手に反し、潤った赤い唇が動く。
「お姉ちゃん?」
ルーミアの構えた剣がぴくりと揺れる。ついで、小刻みに震えだした。
頬が紅潮し、とろんと明らかに浮世離れをした瞳。その瞳が、レミリアとルーミアを見て不思議そうに瞬きをする。
「フラン!」
疑問と不安の嵐にまかれながらも、レミリアはルーミアの剣を無視し、フランに駆け寄った。レミリアが居たことに気付かなかったかのようにフランは首を傾げた。
「あれ、お姉様?」
かすれて消え入るような声だった。けれど、まだ『お姉様』という言葉を聞けて、レミリアは少しだけ安堵する。
「なにやってるのフラン。神社で待ってないとだめでしょ」
「だって、お姉ちゃんが戻ってくるの待てなかっただもん」
ぽろりと、フランの手からレミリアの日傘が落ちた。雨のノイズが、レミリアの頭蓋骨内に反射する。フランはすでにレミリアのことを見ていない。つかの間の安堵だった。雨に血の色が流され、青く潤んだ瞳には、すでにルーミアしか映っていなかったのだ。
「お姉ちゃん」
フランが一歩踏み出す。フランに踏まれ、日傘の骨がぽきっと軽い音を立てて折れた。夢遊病患者のような足取りで、フランはレミリアの脇を素通りした。
レミリアの視界の端で何かが光る。
フランの背中の宝石だ。本来、両翼に七つずつ付いているはずだが、各三個ずつになってしまっていた。
レミリアはそれが何を印すか知っている。宝石はフランが吸血鬼である証だ。
流水の影響のせいか、ふいにレミリアの足から力が抜けた。ぬかるみ始めた地面にレミリアは膝をつく。
フランの背中に対し、嗚咽を洩らさぬようにレミリアは両手で口を押さえたのだった。
大粒の雨に叩かれ、枯れ木たちが鳴く。
ルーミアの眼前には、待ち望んだ人が立っていた。
フランドール。
熱があるのか、彼女の頬は赤く、青い瞳は潤んでいる。
「私がわかる?」
そうルーミアは尋ねた。すると、フランのスカートが不思議がるように揺れる。
「なに言ってるの? ルーミアお姉ちゃん」
フランは砕けたりんごのような笑みを浮かべた。待ちに待った言葉が、服にしみ込む雨粒のようにルーミアの胸にしみ込んでいく。その感動は言葉にせず、代わりにフランの手を引き、肩を抱いた。
ついに運命からフランを取り戻したのだ。
平熱よりもあきらかに高いフランの熱を水のヴェールの裏からルーミアは感じ取った。早く家に帰って、昔のように看病してあげなければならない。
昔のように面倒を見てやれる。妹が病にかかっていながら、面倒が見れることに喜びを感じている自分がいるのをルーミアは否定しなかった。昔、守れなかった者を今度は守れる。
「さぁ、帰りましょう」
「うん」
どこに、とはフランは聞かなかった。リボンによって押さえつけられていたときのルーミアが住んでいた小さな家がある。これからは、そこでフランと暮らすのだ。
「おんぶしたげようか」
「……うん」
このままフランの体温を感じていたかった。けれども、フランが冬の冷たい雨にこれ以上長くうたれるのは良くない。フランの肩から名残惜しくも手を離し、ルーミアは妹から背を向ける。
そのとき、雨音の隙間を縫ってけほけほと力のない咳が響いた。
「大丈夫?」
やはり雨に長時間濡れたのがまずかった。頑張れば五分とかからず帰ることができるはずだ。首だけをまわし、ルーミアは背中に乗るように笑顔で催促する。
それと同時だ。一際大きく、フランが咳をした。
粘着質な液体が、ルーミアの頬にへばりついた。フランの口からほとばしったそれが何なのか、ルーミアには一瞬理解できなかった。アルコール中毒者のようにルーミアの手が震える。
頬についた粘着質な液体をルーミアは右手でなぞった。ルーミアの手に付いたのは、水滴だけではない。真紅の血が混ざっていた。
フランの命の源。血液。
フランの膝から力が抜ける。膝小僧から地に落ち、フランはそのまま前のめりに落ち葉に身を沈めた。眠ったのではないか。そう勘違いするほど安らかな顔をしたままで。
フランにのしかかる雨音だけがやけに大きく聞こえた。
「フラン!」
それを切り裂く、ルーミアの裏返った声。
まさか――まさか――。
不治の病に効くという葉に赤のまだらが入った薬草が床に散らばる。レミリアがフランを襲った日の映像がルーミアの脳裏に蘇った。
フランの華奢な体を抱き上げ、ルーミアはフランの名を何度も呼ぶ。けれど、冷えていくフランの体はぴくりとも動かなかった。ただむなしく、ルーミアがフランの名を呼ぶ声だけが森に木霊する。
「選べ」
フランの体よりもさらに冷めた言葉が、ルーミアの耳を突く。よれよれと顔を上げると、雨に濡れて変色した緋色のドレスがルーミアの目に入った。
あご先からしずくを滴らせたレミリアが、ルーミアを見下ろしていた。
「フランを殺すか、お前が死ぬか選べ」
レミリアの話し方は、壊れかけのオルゴールが懸命に音楽を奏でているかのようだった。
「私が死ねば、フランが助かるとでも?」
「ああ、姉としてのルーミアが死んだならな」
フランの姉の座を寄越せとも受け取れる言葉だ。しかし裏返せばこうも受け取れる。レミリアはフランを救う手段を知っている。どうしてこんなことになったのかも含めて。
そこまで考えて、ルーミアは頭痛を覚えた。
「もう気付いてるんだろう。ルーミア」
ルーミアの奥歯がきしむ。
フランが倒れた理由は、ルーミアが誰よりも知っている。そのはずだ。
フランの背中でくすんだ光を放つ宝石。これはフランの吸血鬼の証と言っても良い。それが消えかけているということは、フランが人間に戻りかけているということだろう。
フランの姉妹だったルーミアにはわかっている。人間の頃のフランの体は、不治の病に犯され、すでに体は食い荒らされていた。いくら形だけフランを外に連れ出そうとしても、彼女が外で遊べないのはわかっていたのだ。
――フランの人間としての寿命は
「フランの人間としての寿命は……、もうないってことね」
伝わってくる、弱弱しいフランの脈拍もそれを物語っていた。
「ああ、そうだ」
さばさばとした口調でレミリアは応答する。それがルーミアには気に食わなかった。
「どうしてこうなったのよ!」
ほとんど意識してないにもかかわらず、言葉がルーミアの口から飛び出た。フランの背中に抱いたまま、ルーミアは鉛色の空を仰ぐ。雨粒はひたすらにルーミアの顔を痛打するだけだった。
どうしてフランが吸血鬼から人間に戻っているのかはわからない。けれど、人間になってしまったら、フランが死ぬのは確かだ。フランを助けるには、彼女をもう一度完全な吸血鬼にしなければならない。
「私も、フランを助けたかったからだ」
「なにを言って――」
レミリアの言葉の含意にルーミアは気付く。レミリアの頬を伝うのは、雨だけではない。確実にルーミアとも通ずる何かをレミリアは持っていた。
「独占欲がなかったとは言わない。フランを助けるには吸血鬼化するしかなかった。人間としての運命が途絶えていることを、私はフランに出会った頃から知っていた」
レミリアは自分の犬歯を指差す。
「それに、吸血が苦手というのも本当だ。私は従属を作ることはできない。けどな、一つだけ条件付きで人を吸血鬼にする方法はある」
癖のある髪をかき乱し、ばつが悪そうにレミリアは言った。
「吸血鬼の、私の家族として契約することだ」
安楽イスに座るフランに噛み付くレミリア。フランが「お姉ちゃん」と言おうとしたときに彼女は体をよじった。フランが姉としてルーミアを呼ぶのを阻止しようとしていたように見えなくもない。けれど、ルーミアにとって、そんなことはどうでもよかった。
「それは、フランが吸血鬼の家族になることを承諾したってこと?」
「ああ。私の妹になり、吸血鬼として生まれ変わる。これをフランは承諾した」
「どう……して……」
腕の中のフランは、ルーミアの問いに答えず、ただ浅い呼吸を繰り返しているだけだった。
「お前がフランの姉だと、契約が破綻するんだ」
どうしてフランが人間に戻りかけているのかがわかった。
「選べ。フランを殺すか、姉としての自分を殺すか」
何を思って吸血鬼になることを望んだのか。それは生きたかったからだろう。フランが望んだのだ。ならば、ルーミア一人が姉に固執するのは間違っている。
けれど、その前にルーミアはレミリアに一つ聞いておきたいことがあった。
「フランの自由は約束してくれる?」
「今はまだ、紅魔館内でのみ自由だが……フランが吸血鬼の力を完全に自分の物にできたら本当の自由を渡す。約束しよう」
「そう……。わかったわ」
ならば何も言うことはあるまい。今にも魂が抜けてしまいそうなフランの体をルーミアは強く抱いた。
「フランを助けてちょうだい。私はどうなっても良いわ」
「わかった。咲夜」
レミリアが呼び、突然現れたメイドはその手にリボンを持っていた。彼女の頭には、包帯が幾重か巻かれている。それにルーミアは心当たりがあった。
真っ赤なリボンが、咲夜からレミリアの手に渡る。
これでまた、どこの誰でもない妖怪に戻ってしまう。
ま、それでも構わないわ。フランが助かるなら――。
リボンが頭に結び付けられた。その途端、ルーミアの体を電流が流れたような感覚が貫く。体から力が抜け、不思議な感覚がルーミアを包む。いつの間にか、ルーミアは落ち葉の上に仰向けになって倒れていた。
力を振り絞って右手を上げてみる。
すると、一回り小さくなった幼い手が、僅かに視界の端に映った。
「フラン……」
最後の力を振り絞り、ルーミアは手だけでフランを探した。ルーミアの腹の横で、フランの柔らかい髪の感触だけを感じ取る。
それを確認したルーミアは、意識を手放したのだった。
冬の幻想郷が珍しく機嫌を直し、青い空を一面に広げていた。
雪化粧を施した赤い館が湖のほとりに建っている。その館の二階の南側にあるベランダで、二人の少女が呼応茶をたしなんでいた。プラスチック製のイスに座るルーミアと、いかにも館の主が座るような豪奢な椅子に腰掛けているレミリアだった。
南側に位置するにも関わらず、屋根はベランダをすっぽり覆い、太陽を遮るように造られている。それが二人の少女にとっては快適なようだった。
相対する二人の合間にあるテーブルでは、ティーカップが二つ、湯気を立てている。
その湯気ごと飲み込むかのように、ルーミアはティーカップを口元で傾けた。
ルーミアの容姿は、レミリアよりもさらに幼く、七歳程度の少女のそれだった。金髪にはリボンが付いている。顔立ちはフランに似ているものの、とてもじゃないがフランの姉には見えない。
「これはどういうことかしら?」
ルーミアの話し方は、幼い容姿に反しはっきりしている。
「どういうことって、どういうことかしら?」
わずかに口角を引き上げ、レミリアは受け答えた。もどかしげにルーミアは地に着かない足をぶらつかせ、レミリアを睨む。
「容姿は違うけど、私には『私は私だ』って自覚があるわ。フランの姉だって自覚もね」
真実を見定めるために片目を閉じ、ルーミアは頭のリボンをなでる。以前は、リボンに触ることすらできなかった。
意識を取り戻したとき、ルーミアは紅魔館のベッドにいた。自分が自分であるという自覚がある上に目覚めた場所が『あの』紅魔館である。ルーミアは狐に包まれたような気分だった。
「咲夜にリボンを見つけさせて、パッチェに改造させたのよ。記憶の制限がなくなるように。変わるのは容姿だけになるようにね」
レミリアの方も、地にたわない足を二度三度ばたつかせる。
「私が記憶を持ってても、フランは大丈夫なの?」
記憶があるに越したことはないが、それによってフランの命に影響があるなら、本末転倒もいいところだ。
「別に大丈夫よ。フランがあなたのことを姉と思わなければ、ね」
「そういうものなのかしら……」いつの間にかテーブルに置かれていたクッキーを口にほうりこみ、噛み砕いてからルーミアは続けた。「ということは、私がフランにあなたの姉だって言わなきゃ大丈夫ってことね」
「そうね」
間髪入れずレミリアが返答してきたので、ルーミアはまたもえも知れぬ違和感に包まれた。
「なら、どうして昔こうしてくれなかったのよ」
「言っても聞かなかったでしょう?」
「……まぁね」
昔の自分に、ルーミアは苦笑する。今は昔の自分を笑えるくらいの余裕はあった。
以前、レミリアを倒そうとしていたときは、頭に血が上り、完全に盲目になっていた。しかし、今振り返ってもそれは致し方ないことだった思う。
「それに、フランの得た力が強大すぎたのよ。破壊の力を操れない状態のフランに、あなたが会ったら殺されかねなかったわ」
「え?」
思わずルーミアはレミリアの顔を凝視する。少々気恥ずかしそうにレミリアは顔を逸らしてしまった。
――レミリアは、フランの身だけじゃなく、私の身まで案じてフランと私を遠ざけていた?
「おっと」視線を逸らした先に、レミリアはなにかを見つけたようで声を上げる。
その視線の先には、紅魔館の廊下へと続く板チョコのような扉があり、それは少しだけ開いていた。その隙間には赤い瞳がうかがえる。
ルーミアの背筋が強張った。
「来ても良いわよフラン」
勢い良く扉が開き、フランが赤色のスカートを揺らしてレミリアに駆け寄った。そして「お姉様!」とレミリアの胸に飛び込む。フランの背中には、七色の宝石が綺麗に輝いていた。
ルーミアの胸で熱い物がくすぶる。記憶があることがこんなに辛いなんて。
「やっぱり……運命は残酷ね」
ぽつりとルーミアはつぶやいた。レミリアにも聞こえてしまったようで、彼女はフランの身を案じながら頬を掻く。
「まぁ、そうかもしれないわ。私には無数にある運命を全て見るのは無理だし、明確な意志を持つ者を動かすのは不可能よ。出来るのは、運命の悪戯を故意的に起こすことだけ。私も本当の意味じゃ運命なんて操れないのよ。ただ、だからこそ運命は――」
言葉を中断し、じゃれつくフランを、レミリアは苦笑交じりに押し戻した。そうして、ようやくフランはルーミアの存在に意識を向ける。
「あなたは……あれ? 前の妖? なんか小さくなってない? 私の姉とか言ってなかったっけ? 誰だっけ?」
七色の宝石がレミリアの気まずそうな表情を映し出す。フランの姉はすでにレミリアに移り変わっていた。
ルーミアの唇がわななく。喉が渇く。胸の奥でうずまく言葉の渦を丁寧に選別していく。フランの姉であるということを告げたら、だめなのだ。かろうじて残っている冷静な部分で、ルーミアはそこまで考え、至る。紅茶で唇と喉を潤してから、フランに告げた。
「私は……ルーミア」震える手で、もう一度ルーミアは紅茶を口に含む。「姉ってのは……」
覚悟は決めている。豪胆な悪魔に似つかわしくなく、レミリアの瞳は申し訳なさそうに陰っていた。
「冗談よ」
フランはその言葉にきょとんとしてから、「当然じゃない。お姉様は一人だけ。面白い妖怪ね」と言ってけたけたと笑い出した。
――こんなに元気に笑えるようになったのね。
複雑な思いで、ルーミアはフランが一通り笑い終えるのを見ていた。彼女が笑い終えると、レミリアがクッキーを一つ噛み砕いてから口を開く。
「そうだ。フラン。なんならルーミアと散歩に行ったらどうかしら?」
「え!? お外に言って良いの?」
「良いわよ。本来なら傘を持たなくちゃいけないんだけど、ね」
レミリアは意味ありげな微笑をルーミアに見せた。さっそく外に向かって駆け出そうとしたフランだが、ベランダを覆う屋根の影が途切れるところで急ブレーキをかける。
「あ、でも太陽が」
どうやら、フランは太陽が出ているときに外が出るのははじめてみたいだ。そこでルーミアはレミリアの微笑の意味を理解する。
「それなら大丈夫よ」
親指と人差し指を擦り合わせて、ルーミアは指を鳴らした。それに呼応するようにルーミアの頭上に傘の形をした闇が現れる。
「こ、これって……」
「私の能力よ。それで、外に出ても日光には当たらないわ」
わぁいと両手をひろげてフランは日の下に飛び出した。
「運命も奇怪なものよね。吸血鬼のフランに太陽の下でも思いっきり遊べるような能力をあなたに与えるなんて」
ルーミアの胸のうちに、何かがすとんと落ちた。
私が本当に望んでいたもの。
それは姉としての立場じゃない。
フランの幸せ。フランに太陽の下、両の手を伸ばして思いっきり遊んで欲しかった。
それに、姉としての立場を失っても、姉としてしてやれることはできる。私自身の力で、フランに自由を与えられる。
「ルーミア、早く!」
庭の雪の上で、地団駄を踏む幼子は今まで見たことのない世界に胸をときめかせていた。
「レミリア……あなた、もしかして最初からこうなるように……」
「さぁねぇ。少なくとも、その能力は偶然の産物よ」
見通せない赤い瞳が、まぶしそうに目を細めた。運命を見てか、過去の中で察してくれたのか、少なくともレミリアは知っていた。ルーミアの真の望みを。
――間違っていた。レミリアは今までフラン、そして私まで助けようとしてくれていた。
「なんであっても……ありがとう。それと――」
「お礼だけで良いわ。私も綺麗な手段を使ってないし、独占欲がなかったとも言えない。おあいこ」
恥ずかしそうにレミリアはそっぽを向く。
「それに、私は、フランも、出会ったときにはじめて私を恐れないで接してくれたやつのことが好きなだけ」
悪魔らしくない悪魔が居たものだった。けれど、ルーミアは敢えて何も言わなかった。
「ほら、早く行ってあげなさい」
謝意は別の方法で表すことにした。
「なに言ってるの。レミリアも行こう。昔みたいに三人で一緒に」
ルーミアは指を鳴らし、レミリアの頭上にも傘状の闇を作る。そして、ルーミアはレミリアの腕を引き、強引に外へ連れ出したのだった。
夕日が照らす中、三つの影が帰路を行っていた。
フランをはさむ形で、彼女の手を片方ずつルーミアとレミリアが握っている。
「ねぇフラン」
ルーミアが尋ねる。
「今、幸せ?」
「うん。とっても楽しいよ!」
それを聞いて、ルーミアとレミリアは顔を見合わせて共に笑ったのだった。
彼女のドレスは自身の血にぬれている。全身傷だらけで、腹部には人間ならば即死であろう傷口が開いていた。レミリアの自室だった部屋は、すでに荒れ果てた瓦礫の山になっている。壊れてなくなった天井には、代わりに夜の黒と満月と星が張り付いていた。紅霧異変以来の赤い満月がレミリアの瞳に映る。赤く見えるのは、間違いなく彼女自身の血のためだ。
起き上がるべく、レミリアは床に手をついた。しかし力が入らず、レミリアのぼろぞうきんのようになった体は再び床の上に沈んだ。血塗れたスカーレットの瞳が宙を泳ぐ。
「さく……や……」
従者の名を口にするも、それは夜の静寂に消えていくだけだった。このままでは『あいつ』が、間違いなくフランと接触してしまう。息を荒げながらレミリアは上半身を起こした。
「お……げえ」
のどに溜まっていた血液と胃酸を痛みとともに吐き出す。吸血鬼の再生力をもってしても治りきらないほどの傷なのだ。擦り傷の走る手がところどころ破れてしまった帽子を拾い上げ、少し癖のある髪に乗せた。
やっとのことで立ち上がり、レミリアは廊下に出る。
廊下は壊されていなかったものの、人の気配は一切ない。皆、凄まじい妖気を放つ『あいつ』を察知し、隠れているのだろう。レミリアにとって、それは二つの意味で好都合だった。
地下へと続く階段にたどり着き、壁に手をつき一段一段足を踏み外さないように降りていく。地下に向かって進むにつれて、こけと血の臭いが濃くなっていった。
そしてもう一つ。
肌を刺すような妖気も濃くなっていった。
地下にあるフランの部屋と地上を繋ぐ鉄の扉は開いていた。最近はフランが自分の力を制御できるようになったため、紅魔館内なら自由に行動して良いことにしている。そのため、地下牢とも言えるフランの部屋には封印の類を一切していなかった。
部屋の内から漏れ出す光の先端をレミリアは踏みつける。室内からフランの声が聞こえてきた。
「あなたはだぁれ?」
足音を殺し、扉に近づくとレミリアはかがむようにして部屋を覗き込む。
緋色を中心とした色調で、タンスやベッド、人一人入りそうなおもちゃ箱がまず目に入る。そして床には、おもちゃ箱の存在意義なぞまるでないほどに、動物の人形が所狭しと敷き詰められていた。
人形を踏みつけ、フランと『あいつ』が対峙している。フランは不思議そうに『あいつ』を見上げていた。
『あいつ』は、金髪をうなじ辺りまで伸ばした少女だ。フランより少し背が高く、ノースリープのワンピースの下に、長袖の白い服を着込んでいる。
『あいつ』は、ルーミアと呼ばれている妖怪だ。
本来、ルーミアの背丈はもっと小さい。また、たとえ不意打ちだとしてもレミリアを倒すほどの力は有していない。
「そう、フランは私を覚えてないのね。私はルーミア」
元のルーミアに比べ、幾分か声は低くなっている。
フランを包み込みように、ルーミアは両手を広げた。
「私はフランの――」
「やめろ!」
紅い閃光がルーミアの胸を貫く。気付けばレミリアはグングニルを召喚し、放っていた。グングニルはルーミアだけでは満足せず、フランの頬をも掠め、部屋の壁に破壊の限りを尽くす。
胸に風穴が空いたルーミアは、殺気立つレミリアとあっけに取られたフランを一度ずつ見る。
――倒れろ。
すでにレミリアにはルーミアと戦うだけの力は残っていなかった。
「私はフランの姉よ」
怪我を負っていることなぞまるで感じさせないような、はっきりした調子でルーミアは言いきった。しかし、ルーミアの体はぐらりと揺らぎ、背中から人形の上に倒れた。
下敷きにされた人形に、ルーミアの胸からあふれ出す血がしみ込んでいく。ルーミアはぴくりとも動かなくなった。けれど、死んだわけではないだろう。彼女の体からは、今だ妖気が溢れている。
「お姉様。そんな傷だらけになって……。大丈夫?」
熊の人形と、ルーミアの腕を踏みつけフランはレミリアに歩み寄ってきた。
「ええ……、大丈夫よ」
再生能力が追いついてきたものの、まだ体の節々が痛む。それらをこらえながらレミリアは一度フランの赤い瞳を見つめてから、彼女をぎゅっと抱きしめた。フランの髪から漂ってくるシャンプーの香りを吸い込みながらも、レミリアはルーミアから目を離さなかった。
ルーミアの容姿は、フランを一回り大きくしたような、そんな面影を放っていたのだった。
「あんたがフランを連れてくるなんて珍しいわね」
木枯らしの吹く神社の境内で、冬でも腋を隠さない巫女が言った。巫女、霊夢の言うとおり、レミリアがフランを外に連れ出すことはめったにない。
縁側でだべるレミリアと霊夢の背中の方にある和室で、フランは人形遊びを興じていた。
座布団の位置を手で確認しながら、霊夢はレミリアを見やる。
「しかも、いつも一緒に居る従者が居ない。いったいどんな偶然かしらねえ」
「さぁね。運命の悪戯じゃないかしら」
すまし顔で返しつつも、レミリアは内心で霊夢の勘の鋭さに舌を巻いていた。
運命を操れるやつが何を言うのか、とでも言いたそうな顔で霊夢はお茶をすする。
「運命を操るのは難しいし、完璧には無理よ」
霊夢の無言の抗議に応答したかったわけではないが、肩をすくめてレミリアはぼやいた。
フランを連れてきて、咲夜を連れて来なかったのには勿論理由がある。昨日の一件に原因があるのは言うまでもない。
まず、フランを連れてきたのは、たんに彼女をルーミアから遠ざけておきたかったからだ。そして咲夜が居ないのは、ルーミアのリボンを探しに行かせたからだった。
レミリアは動かなくなったルーミアをフランの部屋に封印した。ルーミアがあれ程の力を持ったのは頭についたリボンが取れたからだ。リボンはめったなことでは取れないし、ルーミア自身の力では取れないようにしていた。けれど、なにかのはずみで取れてしまったようだ。
とにかく、リボンを付け直せば普段の温厚なルーミアに戻る。咲夜がリボンを持ってくるまで、紅魔館から離れておきたかった。だから、今日は神社を訪れたのだ。
レミリアは湯飲みに注がれた紅茶に口をつけた。冷めて渋くなってしまった紅茶に顔をしかめる。
「ねえねえ遊ぼうよお姉様」
いつの間に近づいたのか、フランがレミリアの背後から抱きついてきた。危うく湯飲みを落としそうになり、レミリアは苦笑いする。
「ここで弾幕遊びをしたら霊夢に怒られるわよ」
「誰も弾幕遊びなんていってないよーだ」
そう言いつつ、図星だったようで、フランは頬を膨らませながらも和室へと戻っていった。そのやり取りをぼうっと見ていた霊夢が口を開く。
「思ったんだけど、あんたら姉妹って雰囲気は似てるんだけど、髪の毛の色とか、翼の形とかぜんぜん違うのよね」
今度こそレミリアの手からするりと湯飲みが落ちた。
「目元は似てるんだけど――ってなにこぼしてるのよ!?」
縁側の板に落ちた湯飲みから広がっていく紅茶に霊夢は悲鳴を上げる。
「ああ、もう!」
どたどたと霊夢は和室の奥に消えていった。レミリアのドレスがわずかに紅茶と触れる。染みがゆっくりとドレスを侵食していく。いつものレミリアならば、地団駄を踏んで騒ぐだろうが、彼女はただほうけるだけ。
ぞうきんを片手に霊夢があわただし気に戻ってきた。さっさと液体を拭き取り、一息ついて彼女は再び縁側に腰掛ける。
「ぼぅっとしてるんじゃない!」
いらいらが頂点に達したらしい霊夢が、レミリアのほっぺに針を突き刺す。それでレミリアはようやく自我を取り戻した。ちくりと痛む頬を押さえる。
「痛いじゃない!」
「こぼしといてなに言ってるの!」
「う……ごめん」
レミリアがあやまった途端、霊夢は西から満月が昇るのを見たかのように目を丸くする。それから人形遊びを興じるフランとレミリアを一度ずつ見て、なにやら一人納得し、溜め息をついた。
「……あんたも、あんたの妹もずいぶん丸くなったわね」
「太っちゃったかしら」
「そっちの丸くなったじゃない。妹の方は心なしか妖気まで弱まってる気すらするわ」
針で刺した傷がすでに跡形もなく消え去ったレミリアの頬がひくつく。上々な反応が得られたといわんばかりに霊夢はにやりと笑い、追撃に口を開こうとしたときだ。
和室の方からこほこほと咳が聞こえてきた。
「あら」と追撃のために開きかけた口を閉じ、霊夢は首を傾げる。「風邪でもひいたのかしら。吸血鬼が」
悪寒がレミリアの背中を舐める。手を着き立ち上がり、レミリアは兎の人形を手に持ったフランに歩み寄った。
「フラン。ちょっとおでこを貸してちょうだい」
「良いけど?」
髪をまくしあげ、レミリアはフランの額に自分の額をつける。明らかに常時より高い体温がレミリアに伝わってきた。
「ちょっと熱があるわ」
額を離し、レミリアは溜め息をついた。若干紅潮したフランの頬も、熱があることを物語っている。
「ふぅん。吸血鬼も風邪をひくのね。まぁ、今日は曇ってていつもより更に寒いし、早いとこ帰ったら?」
霊夢の言うとおり、空は鉛色によどんでいた。気温も、普段よりさらに低いだろう。風邪をひいても仕方のない気候ではある。しかし、レミリアは知っていた。
この程度の条件で吸血鬼が風邪をひくのはありえない。
「紅魔館から迎えを呼んでくるから、ちょっとだけフランを寝かせといてくれない?」
霊夢は露骨にめんどくさそうな顔をした。けれど、彼女が断ることはないのもレミリアは知っている。
「さっさとしなさいよ」
「ありがとう。霊夢」
日はさしていない。むしろ雨が降りそうなくらいだ。一応日傘兼雨傘を持ってレミリアは羽根をのばした。
「じゃ、おとなしく寝とくのよフラン」
「うん。早く戻ってきてね、お姉ちゃん」
「……ええ」
フランの方を見ずにそう返したレミリアは鉛色の空に飛び立ったのだった。
腰をひねり、黒塗りの剣を重心移動に乗せて扉を打った。青白い光にあっけなく剣は弾かれ、ルーミアの手から離れる。剣は空中で弧を描いてから、床にあるくまの人形の腹に突き刺さった。
「硬いわね……」
心底めんどくさそうに、ルーミアはフランと似かよった髪質の金髪を掻きあげた。髪から手を離すと、鉄の扉とにらめっこを開始する。それから少しして、人差し指を鉄の扉に突きたてた。
全てを拒絶する結界がルーミアの指を弾く。けれど、ルーミアはわずかに場所を変え、もう一度人差し指を突きたてた。またはじかれる。場所を変え、また突きたてる。ルーミアは何度もその作業を繰り返した。
痛みを伴う作業ではあったが、フランのためを思うと気にならなかった。
『お姉ちゃん』
ルーミアを呼ぶフランの声が脳内に生々しく再現されたのだった。
ルーミアとフランは元々人間の姉妹だった。辺境の地に住んでいたが、ごくごく一般的な姉妹だったのだ。
両親も居た。友達も居た。祖父母も居た。
けれどその顔を思い出すことはルーミアにはできない。
春夏秋冬。人間の頃のフランは家から出ない少女だった。昔、彼女が使っていた部屋の構図は、今でも鮮明に思い出せる。
ランプの中で油を喰らい燃え立つ炎が部屋を照らす。常に清潔に保たれたベッド。いつもクッキーが置かれたテーブル。ほこり一つ被ってない、難しい文字の背表紙が並ぶ本棚。規則正しく時を刻み続ける振り子時計。羽毛をたっぷり含ませたクッションを抱かせた安楽イス。
一見、何の過不足もない一般的な部屋である。けれど、一般的、というには一つだけ欠けている物があった。それは太陽の光だ。常に締め切られたカーテンは部屋に暗い印象を与え、フランを外の世界から遠ざけていた。
部屋に備えられている安楽イスの上で、フランは大抵の時を過ごしていたのだ。
ルーミアが部屋に入ると、フランはいつも大きな青い瞳を細めて出迎えてくれた。
人間の頃のルーミアは好奇心旺盛な女の子で、いつも外を駆け回っていた。そんな彼女は、いつもフランに外の出来事を話しては、フランを外に連れ出そうとした。しかしルーミアがフランを外に連れ出そうとしても、彼女は小さく咳をして首を横に振るのだった。
ルーミアは何よりもフランに外で遊んで欲しかった。太陽の下、両の手を伸ばして思いっきり外で遊んで欲しかったのだ。
そんな日々が続いていたある日、レミリアとルーミアの運命が交わった。
太陽が雲の裏に隠れていた日のことだ。ルーミアが自宅近辺の森を探索していたとき、何の前触れもなくレミリアが現れた。人間とは違う異形の者。恐れを知らなかったルーミアにとっては、刺激的な出会いでしかなかった。
そんな恐れを見せないルーミアに、一度だけ戸惑いを見せてから、レミリアは長い犬歯を覗かせながら笑う。
「面白い人間ね。気に入ったわ。食べずにおいてあげる」
そんなレミリアの言葉も、ルーミアには気にならなかった。
何日かおきくらいに、ルーミアとレミリアは会うようになり、しだいに親交を深めていった。そのうちに、ルーミアがレミリアを家に招待した。フランに会わせたかったのだ。
「久々に招かれたわ」とレミリアが意味深なことを言っていたが、あれは吸血鬼の弱点の一つに関わることだろう。最も、彼女には関係ないみたいだが。
ルーミアはレミリアをすぐにフランの部屋に連れて行った。
相変わらず、フランは安楽イスに座ってほうけていた。けれど、今日は調子が良いらしく、咳はしていない。
「フラン。今日は紹介したい人が居るの」
「え、どんな人なのお姉ちゃん」
顔だけルーミアの居るドアの方に向け、フランは青い瞳を輝かせた。
「入って、レミリア」
ドアのそばに待機させていたレミリアの手をルーミアが引く。これがフランとレミリアの運命が交わった瞬間だ。
「ま、人じゃないんだけどね」
フランの前で両手と対になる蝙蝠羽を広げ、レミリアはおどけて見せた。そのときのフランの驚きっぷりといったらない。背筋がピンと伸び、気色の悪かった頬が紅潮し、青い瞳が大きく見開かれた。さらに、安楽イスからずり落ちそうになったので、あわててルーミアはフランの体を支えた。
「すごいわ。お姉ちゃん」
それから三人の関係ははじまった。
ルーミアの家にたびたび訪れるようになり、レミリアはすぐに家になじんだ。辺境の地であるため、魔女狩り等の迷信の影響がなかったのが大きい。それに、ルーミアの家族も幼い容姿であるレミリアに、我が娘のように接した。そのことは覚えている。
「吸血鬼でいるってどんな感じなのレミリア?」
「それは私がフランに人間でいるのってどんな感じなの? って聞くようなものよ」
「む……そうね」
「私もレミリアみたいに空を飛べたらなあ」
「あら、お望みだったら吸血鬼にして差し上げるわよルーミア。ちょっと条件付きだけど」
「私は遠慮しとこうかな」
「ふふ、そう。フランはどうかしら」
「……私も、かな」
――正直に言おう。この時、私はどうしようもなく楽しかった。この後に待つ、出来事を知らなかったから。
その出来事が起こったのは、満月の映える夜のことだった。病に効くという薬草を摘んでいたルーミアの帰りが遅れた夜でもある。
家に着くと、ルーミアは薬草を積んだかごを片手にすぐさまフランの部屋に向かった。血に砂糖をたっぷり加えたようなレミリアの香りにルーミアは気付いていた。レミリアがフランの話し相手になってくれているのだろう。そう思い、ルーミアは薬草を持っていない方の手でフランの部屋のドアを勢いよく開ける――。
その先。
思い出すことを拒否するように、ルーミアの前頭部が痛んだ。けれど、ルーミアは結界に指を突き立てることで、痛みを痛みで誤魔化した。
レミリアと安楽イスに板ばさみにされたフラン。レミリアがフランに抱きついている。
いや、違う。
大きく見開かれたフランの瞳がルーミアを捉えた。その目は、まばたきを一つし涙を流したのだ。
ルーミアの手からかごが滑り落ちる。床に葉に赤のまだらが入った薬草が散らばった。
「レミ……リア……」
ルーミアの声に、蝙蝠羽がぴくりと動いた。レミリアの紅い瞳がルーミアを睨む。まさにそれは獣の双眸だった。本能をむき出しにした吸血鬼。フランの首筋には、吸血鬼独特の長い犬歯が突き刺さっている。にじむフランの血が、レミリアの犬歯に絡みついていた。
ごくりとレミリアがのどを鳴らすたびに、フランの力なく垂れた右手が大きく跳ねる。
「おね……ちゃ」
動くことのできないルーミアにフランがなにかを伝えようとしていた。けれど、レミリアがそれを阻止するかのように体をねじり、犬歯をさらに深く、肉に食い込ませる。フランの顔に苦悶の表情が浮かんだ。
それでも、ルーミアの体は動かなかった。
レミリアがフランから離れる。結局、レミリアの一連の行為が終わるまで、ルーミアは見ていることしかできなかった。口元についた血を、手の甲で拭うとレミリアは満足気に息をつく。
くたびれた絹の束のように安楽イスにもたれかかるフランの体は、二度と動くことはなかった。生気をまるで感じない。
ポケットからハンカチを取り出し、手の甲を拭うと、レミリアは改めてルーミアを見た。
「これからフランは、私の妹だ。ある程度落ち着いたら森にある紅い館に来ると良い」
レミリアの細い腕は、ひょいとフランの体を抱き上げる。そして背中におぶうと、すたすたと窓辺に歩いていった。レミリアは窓を隠していたカーテンを引き千切る。そして、今まで隠れていた窓を開けた。新天地を見つけた冷たい夜風が部屋を一舐めする。
「まっ……」
レミリアは軽々と窓から飛び出て、羽根を大きく広げた。
「待ちなさいよ!」
おぼつかない足取りでルーミアは窓辺にたどり着く。
ルーミアは、はじめ、そこで見た物が信じられなかった。
満月と星が踊る夜空の下。月光を帯びてさんさんと輝く七色の宝石。それが、あろうことかフランの背中に生えた生物的な羽に付いていたのだ。
レミリアの嘲笑。光る犬歯。フランの宝石に映る満月。そこで、ルーミアの記憶は一度途絶えていた。
何度繰り返しただろう。ついにルーミアの指が弾かれることなく扉に触れる。
結界の裂け目だ。
場所を覚えたルーミアは、扉から指を離す。そして結界の影響で炭化して黒くなってしまった指先に息を吹きかける。すると、煤が吹き飛ぶようにルーミアの指から黒い部分が吹き飛び、新たに新雪のようなきれいな皮膚が出てきた。
指が動くのを確認したルーミアは、くまの人形の腹に刺さっていた漆黒の剣を引き抜く。左手で照準を定めながら、右手の剣を引いた。不敵な笑みを乗せ、ルーミアは剣を突き出す。それは寸分たがわず結界の裂け目を突いた。
剣は鉄の扉とかみ合う。ルーミアにとって鉄なぞ紙のようなものだった。
扉がけたたましい悲鳴を上げる。力尽きた人間のように、鉄の塊はぐらりと揺れ、地に伏した。鉄の扉にかけられていた結界が消える。
ルーミアは悠々と部屋の外に出たのだった。
鉛の空に太陽はない。しかし、光が支配する大地。ルーミアは自らの能力を駆使し、暗闇で身を包む。紅魔館にフランの妖気がないことに気付いたルーミアは、住民に気付かれる前に外に出たのだった。
心地の良い暗闇。目は見えない。落ち葉の質感、木の根の感触から魔法の森を歩いていることは推測できた。記憶が封じ込められていたときのルーミアは、よく木に頭をぶつけていたみたいだ。けれど、今のルーミアはそんなことはなかった。理屈ではなく、何がどこにあるのかなんとなくわかるのだ。余計な視覚情報がない分、ルーミアのほかの四感は研ぎ澄まされていた。
フランはおそらく神社に居る。紅魔館には、レミリアの妖気もなかった。レミリアがフランを連れ出したことは一目瞭然。レミリアの友好関係を考えれば、神社が最も妥当なのだ。
ルーミアは神社があるであろう向きの暗闇を見つめた。過去の映像が、黒のスクリーンに映りだす。その映像から逃げるには、暗闇から出るしかないが、ルーミアはそれをしたくなかった。フランを連れ去られた後の出来事が、ルーミアの眼前でまざまざと再現されたのだった。
フランを失ったルーミアは心身ともに衰弱し、重い病にかかってしまった。そのせいで人間のルーミアが、レミリアの言った『紅い館』に行くことはついぞ叶わなかった。
本来ならば、ここで全ての物語が終わっていただろう。しかし、恨みが募ったせいか、はたまた運命の悪戯か、ルーミアは闇を操る妖怪として再び現世の土を踏んだ。妖怪の肉体を持ったルーミアは、体のうちからあふれ出してくる力を感じた。
――これならフランを助けられる。
ルーミアはそう確信した。すぐさま『紅い館』、現在の紅魔館と呼ばれている建物を見つけ出し、乗り込んだ。そして、レミリアに奇襲を仕掛けた。
怒りと、憎しみでルーミアは我を忘れ、獣の如く吠え猛る。レミリアを木っ端微塵にする勢いだった。しかし、レミリアはルーミアに奇襲されたにも関わらず、上手く攻撃を受けて、返してきた。
それからは地力での争いだ。そこで、致命的だったのが、そのころのルーミアは妖怪に慣れていなかったことだった。ルーミアがレミリアの視界を奪うつもりで使用した闇を操る能力が暴発し、ルーミア自身の視界を奪ってしまったのだ。その隙を逃すほどレミリアは甘くない。致命打を加えられ、ルーミアは半殺しにされた。
そして、動けなくなったルーミアにレミリアは一種の呪いを施した。
「これがお前を幸せにする運命のリボンだ」
そうして、ルーミアの頭には、憎々しき運命が絡みついたのだった。
闇の中で、ルーミアは自分の頭をなでる。どこぞの三妖精が悪戯でルーミアのリボンを取っていったのだ。ルーミアからすれば幸運以外のなにものでもない。そうして、今まで縛り付けられていたフランの姉としての『ルーミア』が解放されたのだ。
長年、妖怪でいたため、体はすっかり妖怪に馴染んでいた。能力のイロハも手に取るようにしてわかる。これは全てリボンを付けた状態のルーミアが学んだことだ。
今なら、レミリアをも退けられる。奇襲だが、一度それを成功させていただけに、ルーミアには自信があった。
暗闇の中、ルーミアは迷うことなく神社の方へ向かったのだった。
あり得ない。まず、レミリアはそう思った。
今にも泣き出しそうな空の下、レミリアが紅魔館に向かう最中だった。魔法の森に黒い球体が蠢いていたのだ。球体は枯れ木と、冬でも葉を伸ばす針葉樹を飲み込みながら進んでいた。ふらふらと彷徨っているように見えて、それは確実に神社の方に向かっている。
闇を操り、あのような球体を作れるのは、ルーミア以外にいない。
とめどめなく溢れてくる疑問に逡巡してしまう前に、レミリアは動いた。右手の日傘を投げ捨て、グングニルを召喚し、黒い球体に向けて放つ。紅い閃光は闇の端部分を貫いた。手ごたえはなるでない。余波で枯れ木がざわついたのみ。
闇が及ぶ一歩手前に、レミリアは降り立つ。落ち葉がぐしゃりと気味の悪い音を立てた。濃厚な妖気ときのこのかびの臭いが練り混ざる。湿っぽい空気に、澄んだ声が響いた。
「この感触は槍。レミリアね」
球体を構成する闇が霧散した。その霧散した闇がレミリアの頬をなでる。フランとよく似た顔立ちをしたルーミアが現れたのだった。
夕焼けよりも濃い、赤い瞳がレミリアを射抜く。ルーミアから迷いは一切感じられない。彼女はただ一つの目的に向かって突き進んでいた。
レミリアは戦慄する。半端な心構えだと、殺されかねない。
「フランはどこに居るの?」
まずルーミアが口を開いた。彼女は意外に落ち着いているようだ。そのことにレミリアは僅かな希望を見出した。
「教えれない」
しかしルーミアが落ち着いていようと、彼女をフランと引き合わせるわけにはいかない。レミリアがフランの居場所を教えるつもりがなかったのがわかっていたのだろう。無表情でルーミアは髪を掻くと、手近にあった枯れ木の幹を片手で掴む。
「そう。どうせ神社に居るんでしょ」
ルーミアの指が木の幹に食い込む。木々に潜んでいた鳥が、身の危険を感じ取り、鉛色の空に飛び出した。
「お前の心中は察しているつもりだ。けど、行かないくれないか。話が――」
「わかるわけない!」木の幹が雷が落ちるが如く音を立てて、千切れる。「あなたの運命にはもう従わない。私の手で壊して見せるわ。この悲しき運命を」
舌打ちを禁じえなかった。レミリアはグングニルを手元に呼び戻す。
「今、お前をフランに会わせるわけにはいかないんだ。リボンを持ってきてやるからおとなしくしてろ」
もう口での説得は無理だ。早々にそう判断したレミリアは地を蹴った。
レミリアとルーミアの間合いは十メートル。二人にとってその程度の間合いはゼロに等しい。
まばたき一つの時間でレミリアは自分より一回り大きいルーミアの懐にもぐりこむ。
短い気合を込めて、レミリアは槍を突き出した。木を武器にしようとするのは、見上げた根性、鬼のごとき怪力だが、懐に潜りこめば槍に分がある。
槍がルーミアの体を抉る寸前、俯いたフランの姿が一瞬だけレミリアの脳をよぎった。けれど、すぐに打ち消すと、グングニルを握る手にさらに力を込める。
確かな手ごたえが手に伝わってきた。服を裂き、肉を裂き、骨を砕いてグングニルはルーミアの腹を食い破る。肉が硬直を起こす前に、槍を引き抜こうとした。けれど、すでにレミリアの手札は一枚残らずルーミアに食いちぎられていたのだ。
ルーミアの右手がグングニルの柄を押さえていた。グングニルは微動だにしない。
「やっぱり、妖怪の体って丈夫ね」
腹を貫く槍を無味乾燥に見つめながら、ルーミアは右手だけでへし折った枯れ木をなぎ払う。
無慈悲な大木がレミリアの横腹に容赦なく食い込む。めきめきとあばらが音を立てる。自分の体内から響いたのだと理解するのに、レミリアは数瞬を要した。
レミリアの華奢な体が宙を舞う。口から血のしずくが舞った。何回か体は宙で回転した後、落ち葉の積もった湿っぽい地面がレミリアを出迎える。
「あっけないものね」
ルーミアは自分の腹から槍を引き抜き、捨てる。ルーミアの腰骨まで砕いた。少なくともレミリアはそのつもりだった。腹を赤く染めながらも、ルーミアは悠然と地に伏せたレミリアを見下ろしている。
「痛覚ってものはないのか」
口に入った泥を血と一緒に吐き出し、レミリアは横腹を押さえた。
「フランの痛みに比べればってやつよ。嘘吐き吸血鬼さん」
――まったくだ。
レミリアは地に片手をつき、折れたあばら骨が高速で回復していくのを感じながら立ち上がった。泥に塗れた帽子を拾い上げ、かぶる。そして、自嘲的に笑った。
――フランとルーミアの仲を引き裂いたのは、間違いなく私だ。
とめどめなく血が流れ出ている傷口を、ルーミアは手で覆う。そして何度なで、手を離すと、すでにそこに傷口はなかった。何事もなかったかのように白い肌が現れる。
「吸血が苦手で従属が作れない。嘘。フランを地下に閉じ込めていた理由も嘘。フランがあなたの妹。嘘! ぜーんぶ、フランの運命を我が物にするための嘘!」
ルーミアの右手から大木が離れる。彼女は空になった右手を前に突き出した。そこに闇が収縮していき、長剣の形を成した。レミリアも、それに対し構えを取ろうとした。が、レミリアはあることに気づいてしまった。
一歩でルーミアはレミリアとの距離を詰める。そして、レミリアの喉仏に剣を突きつけた。黒一色の瞳がレミリアを映して離さない。レミリアは動けなかった。
「あんた、ツイてないみたいよ」
今にも泣き出しそうだった空が、ついに我慢しきれずに一滴二滴と涙を流し始めた。雨はまず森の木々を濡らし、レミリアの髪を、肌を濡らしていく。流水にさらされ、吸血鬼としての力が弱まっていくことを感じながらも、レミリアはそれが気にならなかった。
雨粒が葉を叩く音の中で、レミリアは来てはならない者が到来する足音に気付いていたのだ。
直に落ち葉を踏み、泥を吸った白い靴下。揺れる赤いスカート。レミリアは目を見開いた。雨に濡れた、病的なまでに白い手がレミリアの落とした日傘を拾い上げる。その白い手に反し、潤った赤い唇が動く。
「お姉ちゃん?」
ルーミアの構えた剣がぴくりと揺れる。ついで、小刻みに震えだした。
頬が紅潮し、とろんと明らかに浮世離れをした瞳。その瞳が、レミリアとルーミアを見て不思議そうに瞬きをする。
「フラン!」
疑問と不安の嵐にまかれながらも、レミリアはルーミアの剣を無視し、フランに駆け寄った。レミリアが居たことに気付かなかったかのようにフランは首を傾げた。
「あれ、お姉様?」
かすれて消え入るような声だった。けれど、まだ『お姉様』という言葉を聞けて、レミリアは少しだけ安堵する。
「なにやってるのフラン。神社で待ってないとだめでしょ」
「だって、お姉ちゃんが戻ってくるの待てなかっただもん」
ぽろりと、フランの手からレミリアの日傘が落ちた。雨のノイズが、レミリアの頭蓋骨内に反射する。フランはすでにレミリアのことを見ていない。つかの間の安堵だった。雨に血の色が流され、青く潤んだ瞳には、すでにルーミアしか映っていなかったのだ。
「お姉ちゃん」
フランが一歩踏み出す。フランに踏まれ、日傘の骨がぽきっと軽い音を立てて折れた。夢遊病患者のような足取りで、フランはレミリアの脇を素通りした。
レミリアの視界の端で何かが光る。
フランの背中の宝石だ。本来、両翼に七つずつ付いているはずだが、各三個ずつになってしまっていた。
レミリアはそれが何を印すか知っている。宝石はフランが吸血鬼である証だ。
流水の影響のせいか、ふいにレミリアの足から力が抜けた。ぬかるみ始めた地面にレミリアは膝をつく。
フランの背中に対し、嗚咽を洩らさぬようにレミリアは両手で口を押さえたのだった。
大粒の雨に叩かれ、枯れ木たちが鳴く。
ルーミアの眼前には、待ち望んだ人が立っていた。
フランドール。
熱があるのか、彼女の頬は赤く、青い瞳は潤んでいる。
「私がわかる?」
そうルーミアは尋ねた。すると、フランのスカートが不思議がるように揺れる。
「なに言ってるの? ルーミアお姉ちゃん」
フランは砕けたりんごのような笑みを浮かべた。待ちに待った言葉が、服にしみ込む雨粒のようにルーミアの胸にしみ込んでいく。その感動は言葉にせず、代わりにフランの手を引き、肩を抱いた。
ついに運命からフランを取り戻したのだ。
平熱よりもあきらかに高いフランの熱を水のヴェールの裏からルーミアは感じ取った。早く家に帰って、昔のように看病してあげなければならない。
昔のように面倒を見てやれる。妹が病にかかっていながら、面倒が見れることに喜びを感じている自分がいるのをルーミアは否定しなかった。昔、守れなかった者を今度は守れる。
「さぁ、帰りましょう」
「うん」
どこに、とはフランは聞かなかった。リボンによって押さえつけられていたときのルーミアが住んでいた小さな家がある。これからは、そこでフランと暮らすのだ。
「おんぶしたげようか」
「……うん」
このままフランの体温を感じていたかった。けれども、フランが冬の冷たい雨にこれ以上長くうたれるのは良くない。フランの肩から名残惜しくも手を離し、ルーミアは妹から背を向ける。
そのとき、雨音の隙間を縫ってけほけほと力のない咳が響いた。
「大丈夫?」
やはり雨に長時間濡れたのがまずかった。頑張れば五分とかからず帰ることができるはずだ。首だけをまわし、ルーミアは背中に乗るように笑顔で催促する。
それと同時だ。一際大きく、フランが咳をした。
粘着質な液体が、ルーミアの頬にへばりついた。フランの口からほとばしったそれが何なのか、ルーミアには一瞬理解できなかった。アルコール中毒者のようにルーミアの手が震える。
頬についた粘着質な液体をルーミアは右手でなぞった。ルーミアの手に付いたのは、水滴だけではない。真紅の血が混ざっていた。
フランの命の源。血液。
フランの膝から力が抜ける。膝小僧から地に落ち、フランはそのまま前のめりに落ち葉に身を沈めた。眠ったのではないか。そう勘違いするほど安らかな顔をしたままで。
フランにのしかかる雨音だけがやけに大きく聞こえた。
「フラン!」
それを切り裂く、ルーミアの裏返った声。
まさか――まさか――。
不治の病に効くという葉に赤のまだらが入った薬草が床に散らばる。レミリアがフランを襲った日の映像がルーミアの脳裏に蘇った。
フランの華奢な体を抱き上げ、ルーミアはフランの名を何度も呼ぶ。けれど、冷えていくフランの体はぴくりとも動かなかった。ただむなしく、ルーミアがフランの名を呼ぶ声だけが森に木霊する。
「選べ」
フランの体よりもさらに冷めた言葉が、ルーミアの耳を突く。よれよれと顔を上げると、雨に濡れて変色した緋色のドレスがルーミアの目に入った。
あご先からしずくを滴らせたレミリアが、ルーミアを見下ろしていた。
「フランを殺すか、お前が死ぬか選べ」
レミリアの話し方は、壊れかけのオルゴールが懸命に音楽を奏でているかのようだった。
「私が死ねば、フランが助かるとでも?」
「ああ、姉としてのルーミアが死んだならな」
フランの姉の座を寄越せとも受け取れる言葉だ。しかし裏返せばこうも受け取れる。レミリアはフランを救う手段を知っている。どうしてこんなことになったのかも含めて。
そこまで考えて、ルーミアは頭痛を覚えた。
「もう気付いてるんだろう。ルーミア」
ルーミアの奥歯がきしむ。
フランが倒れた理由は、ルーミアが誰よりも知っている。そのはずだ。
フランの背中でくすんだ光を放つ宝石。これはフランの吸血鬼の証と言っても良い。それが消えかけているということは、フランが人間に戻りかけているということだろう。
フランの姉妹だったルーミアにはわかっている。人間の頃のフランの体は、不治の病に犯され、すでに体は食い荒らされていた。いくら形だけフランを外に連れ出そうとしても、彼女が外で遊べないのはわかっていたのだ。
――フランの人間としての寿命は
「フランの人間としての寿命は……、もうないってことね」
伝わってくる、弱弱しいフランの脈拍もそれを物語っていた。
「ああ、そうだ」
さばさばとした口調でレミリアは応答する。それがルーミアには気に食わなかった。
「どうしてこうなったのよ!」
ほとんど意識してないにもかかわらず、言葉がルーミアの口から飛び出た。フランの背中に抱いたまま、ルーミアは鉛色の空を仰ぐ。雨粒はひたすらにルーミアの顔を痛打するだけだった。
どうしてフランが吸血鬼から人間に戻っているのかはわからない。けれど、人間になってしまったら、フランが死ぬのは確かだ。フランを助けるには、彼女をもう一度完全な吸血鬼にしなければならない。
「私も、フランを助けたかったからだ」
「なにを言って――」
レミリアの言葉の含意にルーミアは気付く。レミリアの頬を伝うのは、雨だけではない。確実にルーミアとも通ずる何かをレミリアは持っていた。
「独占欲がなかったとは言わない。フランを助けるには吸血鬼化するしかなかった。人間としての運命が途絶えていることを、私はフランに出会った頃から知っていた」
レミリアは自分の犬歯を指差す。
「それに、吸血が苦手というのも本当だ。私は従属を作ることはできない。けどな、一つだけ条件付きで人を吸血鬼にする方法はある」
癖のある髪をかき乱し、ばつが悪そうにレミリアは言った。
「吸血鬼の、私の家族として契約することだ」
安楽イスに座るフランに噛み付くレミリア。フランが「お姉ちゃん」と言おうとしたときに彼女は体をよじった。フランが姉としてルーミアを呼ぶのを阻止しようとしていたように見えなくもない。けれど、ルーミアにとって、そんなことはどうでもよかった。
「それは、フランが吸血鬼の家族になることを承諾したってこと?」
「ああ。私の妹になり、吸血鬼として生まれ変わる。これをフランは承諾した」
「どう……して……」
腕の中のフランは、ルーミアの問いに答えず、ただ浅い呼吸を繰り返しているだけだった。
「お前がフランの姉だと、契約が破綻するんだ」
どうしてフランが人間に戻りかけているのかがわかった。
「選べ。フランを殺すか、姉としての自分を殺すか」
何を思って吸血鬼になることを望んだのか。それは生きたかったからだろう。フランが望んだのだ。ならば、ルーミア一人が姉に固執するのは間違っている。
けれど、その前にルーミアはレミリアに一つ聞いておきたいことがあった。
「フランの自由は約束してくれる?」
「今はまだ、紅魔館内でのみ自由だが……フランが吸血鬼の力を完全に自分の物にできたら本当の自由を渡す。約束しよう」
「そう……。わかったわ」
ならば何も言うことはあるまい。今にも魂が抜けてしまいそうなフランの体をルーミアは強く抱いた。
「フランを助けてちょうだい。私はどうなっても良いわ」
「わかった。咲夜」
レミリアが呼び、突然現れたメイドはその手にリボンを持っていた。彼女の頭には、包帯が幾重か巻かれている。それにルーミアは心当たりがあった。
真っ赤なリボンが、咲夜からレミリアの手に渡る。
これでまた、どこの誰でもない妖怪に戻ってしまう。
ま、それでも構わないわ。フランが助かるなら――。
リボンが頭に結び付けられた。その途端、ルーミアの体を電流が流れたような感覚が貫く。体から力が抜け、不思議な感覚がルーミアを包む。いつの間にか、ルーミアは落ち葉の上に仰向けになって倒れていた。
力を振り絞って右手を上げてみる。
すると、一回り小さくなった幼い手が、僅かに視界の端に映った。
「フラン……」
最後の力を振り絞り、ルーミアは手だけでフランを探した。ルーミアの腹の横で、フランの柔らかい髪の感触だけを感じ取る。
それを確認したルーミアは、意識を手放したのだった。
冬の幻想郷が珍しく機嫌を直し、青い空を一面に広げていた。
雪化粧を施した赤い館が湖のほとりに建っている。その館の二階の南側にあるベランダで、二人の少女が呼応茶をたしなんでいた。プラスチック製のイスに座るルーミアと、いかにも館の主が座るような豪奢な椅子に腰掛けているレミリアだった。
南側に位置するにも関わらず、屋根はベランダをすっぽり覆い、太陽を遮るように造られている。それが二人の少女にとっては快適なようだった。
相対する二人の合間にあるテーブルでは、ティーカップが二つ、湯気を立てている。
その湯気ごと飲み込むかのように、ルーミアはティーカップを口元で傾けた。
ルーミアの容姿は、レミリアよりもさらに幼く、七歳程度の少女のそれだった。金髪にはリボンが付いている。顔立ちはフランに似ているものの、とてもじゃないがフランの姉には見えない。
「これはどういうことかしら?」
ルーミアの話し方は、幼い容姿に反しはっきりしている。
「どういうことって、どういうことかしら?」
わずかに口角を引き上げ、レミリアは受け答えた。もどかしげにルーミアは地に着かない足をぶらつかせ、レミリアを睨む。
「容姿は違うけど、私には『私は私だ』って自覚があるわ。フランの姉だって自覚もね」
真実を見定めるために片目を閉じ、ルーミアは頭のリボンをなでる。以前は、リボンに触ることすらできなかった。
意識を取り戻したとき、ルーミアは紅魔館のベッドにいた。自分が自分であるという自覚がある上に目覚めた場所が『あの』紅魔館である。ルーミアは狐に包まれたような気分だった。
「咲夜にリボンを見つけさせて、パッチェに改造させたのよ。記憶の制限がなくなるように。変わるのは容姿だけになるようにね」
レミリアの方も、地にたわない足を二度三度ばたつかせる。
「私が記憶を持ってても、フランは大丈夫なの?」
記憶があるに越したことはないが、それによってフランの命に影響があるなら、本末転倒もいいところだ。
「別に大丈夫よ。フランがあなたのことを姉と思わなければ、ね」
「そういうものなのかしら……」いつの間にかテーブルに置かれていたクッキーを口にほうりこみ、噛み砕いてからルーミアは続けた。「ということは、私がフランにあなたの姉だって言わなきゃ大丈夫ってことね」
「そうね」
間髪入れずレミリアが返答してきたので、ルーミアはまたもえも知れぬ違和感に包まれた。
「なら、どうして昔こうしてくれなかったのよ」
「言っても聞かなかったでしょう?」
「……まぁね」
昔の自分に、ルーミアは苦笑する。今は昔の自分を笑えるくらいの余裕はあった。
以前、レミリアを倒そうとしていたときは、頭に血が上り、完全に盲目になっていた。しかし、今振り返ってもそれは致し方ないことだった思う。
「それに、フランの得た力が強大すぎたのよ。破壊の力を操れない状態のフランに、あなたが会ったら殺されかねなかったわ」
「え?」
思わずルーミアはレミリアの顔を凝視する。少々気恥ずかしそうにレミリアは顔を逸らしてしまった。
――レミリアは、フランの身だけじゃなく、私の身まで案じてフランと私を遠ざけていた?
「おっと」視線を逸らした先に、レミリアはなにかを見つけたようで声を上げる。
その視線の先には、紅魔館の廊下へと続く板チョコのような扉があり、それは少しだけ開いていた。その隙間には赤い瞳がうかがえる。
ルーミアの背筋が強張った。
「来ても良いわよフラン」
勢い良く扉が開き、フランが赤色のスカートを揺らしてレミリアに駆け寄った。そして「お姉様!」とレミリアの胸に飛び込む。フランの背中には、七色の宝石が綺麗に輝いていた。
ルーミアの胸で熱い物がくすぶる。記憶があることがこんなに辛いなんて。
「やっぱり……運命は残酷ね」
ぽつりとルーミアはつぶやいた。レミリアにも聞こえてしまったようで、彼女はフランの身を案じながら頬を掻く。
「まぁ、そうかもしれないわ。私には無数にある運命を全て見るのは無理だし、明確な意志を持つ者を動かすのは不可能よ。出来るのは、運命の悪戯を故意的に起こすことだけ。私も本当の意味じゃ運命なんて操れないのよ。ただ、だからこそ運命は――」
言葉を中断し、じゃれつくフランを、レミリアは苦笑交じりに押し戻した。そうして、ようやくフランはルーミアの存在に意識を向ける。
「あなたは……あれ? 前の妖? なんか小さくなってない? 私の姉とか言ってなかったっけ? 誰だっけ?」
七色の宝石がレミリアの気まずそうな表情を映し出す。フランの姉はすでにレミリアに移り変わっていた。
ルーミアの唇がわななく。喉が渇く。胸の奥でうずまく言葉の渦を丁寧に選別していく。フランの姉であるということを告げたら、だめなのだ。かろうじて残っている冷静な部分で、ルーミアはそこまで考え、至る。紅茶で唇と喉を潤してから、フランに告げた。
「私は……ルーミア」震える手で、もう一度ルーミアは紅茶を口に含む。「姉ってのは……」
覚悟は決めている。豪胆な悪魔に似つかわしくなく、レミリアの瞳は申し訳なさそうに陰っていた。
「冗談よ」
フランはその言葉にきょとんとしてから、「当然じゃない。お姉様は一人だけ。面白い妖怪ね」と言ってけたけたと笑い出した。
――こんなに元気に笑えるようになったのね。
複雑な思いで、ルーミアはフランが一通り笑い終えるのを見ていた。彼女が笑い終えると、レミリアがクッキーを一つ噛み砕いてから口を開く。
「そうだ。フラン。なんならルーミアと散歩に行ったらどうかしら?」
「え!? お外に言って良いの?」
「良いわよ。本来なら傘を持たなくちゃいけないんだけど、ね」
レミリアは意味ありげな微笑をルーミアに見せた。さっそく外に向かって駆け出そうとしたフランだが、ベランダを覆う屋根の影が途切れるところで急ブレーキをかける。
「あ、でも太陽が」
どうやら、フランは太陽が出ているときに外が出るのははじめてみたいだ。そこでルーミアはレミリアの微笑の意味を理解する。
「それなら大丈夫よ」
親指と人差し指を擦り合わせて、ルーミアは指を鳴らした。それに呼応するようにルーミアの頭上に傘の形をした闇が現れる。
「こ、これって……」
「私の能力よ。それで、外に出ても日光には当たらないわ」
わぁいと両手をひろげてフランは日の下に飛び出した。
「運命も奇怪なものよね。吸血鬼のフランに太陽の下でも思いっきり遊べるような能力をあなたに与えるなんて」
ルーミアの胸のうちに、何かがすとんと落ちた。
私が本当に望んでいたもの。
それは姉としての立場じゃない。
フランの幸せ。フランに太陽の下、両の手を伸ばして思いっきり遊んで欲しかった。
それに、姉としての立場を失っても、姉としてしてやれることはできる。私自身の力で、フランに自由を与えられる。
「ルーミア、早く!」
庭の雪の上で、地団駄を踏む幼子は今まで見たことのない世界に胸をときめかせていた。
「レミリア……あなた、もしかして最初からこうなるように……」
「さぁねぇ。少なくとも、その能力は偶然の産物よ」
見通せない赤い瞳が、まぶしそうに目を細めた。運命を見てか、過去の中で察してくれたのか、少なくともレミリアは知っていた。ルーミアの真の望みを。
――間違っていた。レミリアは今までフラン、そして私まで助けようとしてくれていた。
「なんであっても……ありがとう。それと――」
「お礼だけで良いわ。私も綺麗な手段を使ってないし、独占欲がなかったとも言えない。おあいこ」
恥ずかしそうにレミリアはそっぽを向く。
「それに、私は、フランも、出会ったときにはじめて私を恐れないで接してくれたやつのことが好きなだけ」
悪魔らしくない悪魔が居たものだった。けれど、ルーミアは敢えて何も言わなかった。
「ほら、早く行ってあげなさい」
謝意は別の方法で表すことにした。
「なに言ってるの。レミリアも行こう。昔みたいに三人で一緒に」
ルーミアは指を鳴らし、レミリアの頭上にも傘状の闇を作る。そして、ルーミアはレミリアの腕を引き、強引に外へ連れ出したのだった。
夕日が照らす中、三つの影が帰路を行っていた。
フランをはさむ形で、彼女の手を片方ずつルーミアとレミリアが握っている。
「ねぇフラン」
ルーミアが尋ねる。
「今、幸せ?」
「うん。とっても楽しいよ!」
それを聞いて、ルーミアとレミリアは顔を見合わせて共に笑ったのだった。
それでもこれは納得のハッピーエンド
とても良かったです
設定はなかなか刺激的というか挑戦的というか、しかしそれそのものが物語の評価を左右するものではありませんでした。
ただ、物語の進行に滑らかさが足りないように感じます。1、2の3でフランドールが熱出して、1,2の3でルーミア結界の裂け目見つけて、のような。全体にある種ご都合主義的な展開が多く、それゆえ読みながらお話に心情がついていきづらかったのです。
文章についての評価は、「面影を放つ」「遊びを興じる」という表現が出て来た時点で放棄しました。
読ませる為には、まず「読む」という行為についてご自身が意識的になる必要があろうかと思います。
次回作を楽しみにしております。
まず文章について。よく研究されてはいるが、知識の不足による誤字が多い。また、脱字の存在は推敲の姿勢に問題があったことの証左だ。しかし全体として見れば良くできていると表現すべき。90点ぐらいはあげたい。
次に設定について。「捻じ曲げた」とあるものに口出しするのは御法度であるような思いがして、これを書くのには聊かの逡巡があった。だから敢えて抽象的に述べることにする。この設定は多くの点でひどく不自然であり、望む結末のためならば強引にでも整合性をもたせようとする作者の傲慢さを感じた。40点といったところ。
自分はこういうのは特に問題なく読むタイプなので気にせず点数を入れます。