いつものように神社の縁側で紫とのんびりお茶を飲んでいた時のことである。湯飲みを置いた紫が、少し緊張した面持ちで口を開いた。
「霊夢。大事な話があるんだけれど」
「何よ。異変でも起きたの?」
「霊夢……結婚しない?」
「ぶはぁっ!」
突然の発言に私は飲んでいたお茶を思い切り噴きだした。
「もう、きたない」なんて紫は暢気に言っているけど、私の頭の中は完全に混乱していた。
結婚? 何でこのタイミングで? さすがに冗談よね。ね、紫?
きっと冗談だと信じて隣に座る紫の顔を覗いてみると、どこか憂うような切ない表情をしている。いつも持ち歩いている傘の柄をぼんやりと見つめながらくるくると回している。
いやおかしいって。何その態度。何その「もう付き合って何年も経つのに、霊夢は結婚のことなんか考えてないのかしら。そろそろプロポーズしてきてもいいじゃない」と言いたげな表情。倦怠期のカップルじゃないんだから。
ここまでの話の中に伏線があったとでも言うのか。いやいや、紫はさっき来たばっかりで、もう冬眠終わったんだとか、今日は暖かいねえとか、そういう世間話しかしていない。
紫は「結婚しない?」と言った。「結婚しない?」である。文字の意味としてのみ捉えれば、結婚しないのですか? という否定疑問文だ。この場合は、「はい」か「いいえ」と答えればそれで終わりだが、紫の言葉はきっとそういう意味ではないだろう。
つまり、「結婚しませんか?」という提案である。この場合、押しは少し弱いがプロポーズにも受け取れる。「結婚しよう」という言葉を提案するように言って相手の同意を得ようとしているのだ。
ここまでの思考時間、約五秒。
あまり黙っていては紫に動揺を悟られるので、とりあえず言葉を返す。
「あのさ、ちょっと唐突すぎない?」
「そんなことないわ。ずっと前から考えてはいたの。ただ、なかなか言い出せなくて……」
申し訳無さそうにうなだれる紫。紫の言葉に重みが増していくように思える。
待てよ。そもそも紫は本当に「結婚しない?」と言ったのだろうか。もしかしたら私の聞き間違いかもしれない。
「ねえ紫。あんたがさっき言ったのって『結婚しない?』で合ってる?」
「そう言ったわ」
「結婚って、あの結婚よね?」
「どの結婚か分からないけど、夫婦となって共同生活を営んで家庭を築くことよ」
やっぱり私の思っていた結婚で間違いはなかった。しかし、疑問は一向に尽きない。
「そろそろ結婚してもいいと思うの」
そろそろって何。私達ってそんなに長い付き合いだっけ。
初めて出会ったのは随分昔かもしれないけど、でも私が紫に好意を抱くようになったのはここ数年だし。そもそも私達交際しているわけでもないのに。さらに言えば、紫が私のことを好きだと言ったことはない。よく神社に来るだけで、私が片想いしているだけなのだ。まさかそんな私の気持ちを、紫は汲み取っているとでも言うのか。
「霊夢は結婚したくないの?」
紫が切なげな瞳でこちらを見つめてくる。
「ち、違う。そういう意味じゃなくて……さっきも言ったけど唐突なんだってば」
「私は去年から考えていたの。でも霊夢に言おうか悩んでるうちに冬眠しちゃったから……。だから目覚めてすぐに来たのよ」
そんな身勝手な。私にだって心の準備期間がほしい。やっぱり紫は私の都合なんてお構いなしなのか。いつも予告無しに現れて、いつの間にかいなくなって。来てほしくない時に勝手に来て、傍にいてほしい時はいつもいない。そんな紫が、いきなり結婚しようだなんて。
嬉しさと戸惑いと若干の違和感とで、私は複雑な思いになった。こんな大事な話をする心の準備ができていなかった。
そもそも博麗の巫女と妖怪が結婚してもいいのか。それ以前に、紫は私のことを本当に好きだと思っているのだろうか。私の中にいくつもの疑問が浮かぶ。
何よりまず、紫の気持ちが知りたい、とそう思った。
「やっぱりいきなり結婚っておかしいわ。それに……相手の気持ちも分からないのに結婚なんてできないわ」
敢えて気持ちを探るような言葉を投げかけた。隣に座る紫と目が合う。紫は妖艶な笑みを浮かべてこう言った。
「ああ、その件なら問題ないわ」
「え?」
紫は傘の柄で遊んでいた手をピタリと止めた。静かな神社に吹いた一陣の風が止むのを待ち、紫はやや勿体ぶるようにして紫は続けた。
「ちゃんと、霊夢のことが好きだから」
「えっ――」
微笑みながらの紫の言葉に、時が止まったような錯覚を覚えた。紫の放った言葉が頭の中で繰り返される。心臓の鼓動が早くなり、頭に血が上る。胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
私はどんな顔をしたらいいか分からず、頬を染めながら俯きながら震え声で言った。
「そ、それ、ほんとなの?」
「私がこんなことで嘘を言うとでも?」
あんたなら言いかねない、と一瞬思ったが、口に出さずに言葉を飲み込んだ。私に向けられた紫からの気持ちを否定するような言葉は言いたくなかったのだ。
「でも、それにしたっていきなり結婚っていうのは」
「結婚が唐突だと言うなら、結婚を前提にお付き合いから初めてみる? 同棲なんかもしてみないと分かんないだろうし」
「お、お付き合いに、同棲? 同棲って、一緒に神社に住むの?」
「そうよ」
それはつまり、紫と一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、一緒に寝るということ? 神社にはお布団が一組しかないから、同じ布団で寄り添いあって……。
そんな幸せな想像をしてしまって私はさらに興奮して顔を赤らめた。
「しばらくお付き合いをしてから同棲という手もあるわよ」
「いや、もう早速でいいわ」
私は妄想を頭に描きながら即答した。
「いいの? いきなり寝食を共にしても」
「うん」
「分かったわ」
紫は胸につかえてたものを取れたようなホッとした表情をしていた。私はといえば、相変わらず顔が赤いままで、紫からの突然の告白の言葉を思い返していた。
紫の言葉が夢のように思えた私は、最後にもう一度だけ紫の気持ちを確かめたいと思った。
「本当に私のことが好きなの?」
「間違いないわ」
紫の言葉をしっかり耳と胸で受け止める。その言葉だけで胸がいっぱいになって息苦しくなるような気がした。今だけは巫女とか妖怪とか、そんなことはどうでもいいと思えた。
「それじゃあ、行きましょうか」
「え? どこに?」
「人里よ」
「どうして?」
いきなり結婚しようと言って今度は人里に行こうと言って、紫には前触れとか準備とか伏線とか、そういうものがないのだろうか。
私が突拍子の無さに辟易していると、そんな私を見て紫は不思議そうな表情を浮かべた。
「どうしても何も、霊夢の結婚相手に会いに行くのよ」
「は?」
私の結婚相手はあんたでしょ。何を言っているんだこのスキマ妖怪は。
「相手は霊夢がよく行く和菓子屋の店長の息子さんよ。いかにもな好青年で、霊夢にぴったりじゃない。同棲するなら色々と準備が必要でしょ。早く済ませておかないと」
「ちょっとまったああああ!」
大声で叫びながら飛び立とうとする紫を、怒りを込めてお札で打ち落とした。
「痛いじゃない。何よ、さっき同棲するって言ったのに」
「違う! 問題はそこじゃないでしょ! 何、何で私が和菓子屋の青年と結婚することになってんのよ!」
「何でって、さっきからずっと話してたじゃない。『霊夢結婚しない?』って。そろそろ次代の博麗の巫女を育てようと思って」
激昂する私に対し、何でもないように紫は言い放った。そこでようやく、最初から話が食い違っていたことを理解した。
「じゃ、じゃあ……さっきからずっとその話をしてたの?」
力なく尋ねると紫は当たり前じゃないと言いたげな顔をした。
「むしろ霊夢は何の話だと思っていたのかしら。誰との結婚を提案されたと思ったの?」
「そ、それは……」
私は今までの勘違いを思い返して顔を真っ赤にした。紫からのプロポーズだと思っていた言葉が、ただの縁談の話だったなんて。そんな……さっきまであんなに喜んでいた自分が馬鹿みたいじゃない。
「と言うことは、さっきのあれも?」
「あれって?」
「ほら、『ちゃんと霊夢のことが好きだから』っていうあの言葉も」
「あれは『和菓子屋の青年は霊夢のことが好き』って意味よ」
「何よそれ! 期待させといて!」
「何でそんなに怒るのよ」
「そりゃあ怒るわよ! よくも分かりづらい言い回ししてくれたわね!」
怒りに任せてもう二枚、お札を使って懲らしめようとする。今度はかわされてしまった。紫は私の態度の変化を不思議そうに見ながら放たれるお札を避けていたが、私の怒った態度を見てふいに何かに気付いたようにニヤリと笑った。
「もしかして霊夢、私と結婚するつもりだったの?」
ニヤニヤと薄笑いを浮かべながらこちらを見てくる。私は羞恥心で血が逆流して顔が熱くなった。
「まあ図星なのね。さっきも私が好きって言ったと勘違いしてたのね。霊夢ったら可愛い。そんなに私のことが好き?」
「うるさい! 紛らわしい言い方してきたあんたが悪いのよ! 紫のばーか!」
恥ずかしさに任せて紫の肩を両手で何度も叩いた。「痛い痛い」と紫は漏らしているが、構わず続けた。叩き続けているうちに恥ずかしさや怒りだけでなく、何だか悲しさと虚しさまで芽生えてきた。紫の思いだと思っていたあの『霊夢のことが好きだから』という言葉が、そうでなかったと気付いてしまったせいだ。
「だから痛いってば」
紫が私の両手を強く掴んだ。力ずくで両手を上げさせられる格好になり、その体勢で紫と目があった。私は紫への思いを弄ばれたような気分で今にも泣きそうになっていた。
やがて、紫が掴んでいた手を離し、私の背中に腕を回して身体を包み込んだ。
「何よ。また唐突に」
涙目になりながら、紫の腕に包まれながら言った。すると紫は私を落ち着かせながら耳元で静かに語り始めた。
「この話はずっと前から考えていたって言ったでしょ。でも実際に行動に移すのに随分時間が掛かってしまった。それには理由があるの」
「理由って?」
私が紫の胸元で尋ねると、紫は抱きしめる腕の力を少し強くし、情動的な口調で言った。
「ほんとは、霊夢に結婚なんてしてほしくなかったの。何故なら、私だって霊夢のことが好きだったから」
「え……」
今、紫が好きって。言った?
「最初はただのお気に入りだったのだけれど、いつの間にか大切な存在になっていたのよ。でも私は妖怪であなたは博麗の巫女。幻想郷の維持という観点から、決して結ばれてはいけない関係なの。そう頭では理解していても、事実を受け入れるのに私は多くの時間を費やした。霊夢に会いに来るたびにずっと悩まされてきたの。でも、今日決意した。霊夢に結婚話を持っていって、もう霊夢のことは諦めようって」
紫は涙ぐむ私を慈愛に満ちた表情で私を見下ろしていた。
「でも、あなたの態度を見て気が変わったわ」
「それって……」
「結婚の話はなかったことにしましょう」
「いいの? そんな簡単に決めて」
紫は柔らかな笑みをこぼしながら言った。
「よくはないわね」
「おい」
「これは私のわがままよ。霊夢、もう少しだけこういう関係でいさせて頂戴。あなたのそんな顔見せられたら、お嫁になんて出せやしないわ」
紫は気持ちを抑え切れないのか腕の力をより強めてきた。私のことを思ってくれているということがひしひしと伝わってきた。紫のことが少しだけ母親のように思えた。
「こういう関係って言っても、結構曖昧な関係よね」
「いっそのこと恋人にでもなる?」
「そ、それは、そんな恋人だなんて……」
私はそんな紫の言葉を鵜呑みにして照れてしまったが、直後に紫はさらっと前言を撤回した。
「冗談よ。恋人になんかなっちゃったらきっと霊夢のこと手放せなくなってしまうわ」
「もう。また期待させるだけさせておいて」
私は頬をふくらませた。紫は可愛いと言って私の頬を人差し指でつついた。
「この気持ちはきっと恋愛感情ではないのよ。例えるなら、家族愛のようなもの。慈しみ大切にしたいという感情なの。だから私達は恋人というよりも家族という関係に近いのよ」
「ふーん。紫が家族ねえ。考えたことも無かった」
「そういえば霊夢。まだあなたの思いを聞いてなかったわよね?」
「は?」
「私は霊夢のこと好きって言ったのに、霊夢だけ言わないのはずるいと思うの」
「言う必要がないじゃない。もう紫は分かってるんでしょ?」
「分かっていても口に出してほしいことはあるの」
「いやよ恥ずかしい」
私はあしらうような口調で言った。すると紫はわざとらしく悲しそうな声を出した。
「そう……。霊夢がそう言うなら私にも考えがあるわ。もう今後数年くらいは会いに来てあげないんだから」
「どうせ口だけでしょ」
脅しなんかに負けるもんですか。どうせ数日経てばひょっこり出てくるくせに。
「ほんとにいいの? 今ならまだ許してあげるけど」
私だってこんなに意地を張るのはかっこ悪いと思っている。しかし、一度強く出た以上、紫相手に妥協するのは癪にさわる。そして何よりも、紫を目の前にして「好き」だなんて、恥ずかしくて言えるはずが無い。
「そう。それじゃあ数年後に会いましょう」
そう言ってあっさりと紫はスキマの中に入っていった。どうせしばらくしたら出てくるわ。そうに違いない。こんなあっさりとした別れで、数年間過ごせだなんてそんなの許さない。
神社に静寂が訪れる。微かな風が髪を揺らすだけだ。私は直前までスキマがあった空間に向かって一人ポツンと呟いた。
「私だって好きよ」
でも、私のこの気持ちは家族愛とかではなくて、本当の恋愛感情だと思う。勿論大切に思っているのは確かだけど、それだけではなくて、紫に会いたいし声は聞きたい。傍にいたいしいてほしい。家族がどのようなものかは分からないから家族愛も分からないけど、きっとこれは恋愛感情だと思う。
「ふふ、私が消えた途端にそんな素直になるなんてね」
突然後ろから声がしたと思って振り返れば、そこにはスキマから半身を出した紫の姿があった。ニヤニヤと笑っているところを見ると、私の独り言を聞いていたらしい。
「あ、ああ――あんた盗み聞きしたのね!」
「私に対する言葉なんだから盗み聞きじゃないわ」
独り言を聞かれた私は恥ずかしさのあまり悶えながら叫んだ。
「バカ! 盗み聞きする紫なんか嫌い!」
独り言を紫に聞かれるなんて一生の恥。私はすぐにでもこの場を去りたいと思った。
しかし、紫に背を向けて縁側から部屋に入ろうとしたとき、今度は後ろから紫に抱きすくめられた。
紫の身体を背中越しに感じる。肩と腰に回された腕は、私の力では振り解けそうにない。そんな体勢の中で紫は甘えるような口調で耳元で囁く。
「ほんとに私のこと嫌い?」
「きらいよ」
「私は霊夢のこと好きよ? こんな私が嫌い?」
「……きらい」
「好きって言うまで離さない」
「…………」
そんなの、ずるいわ。ずるい。紫はいつもずるい。
それからしばらくの沈黙が二人の間に流れた。紫の息遣いを耳元で感じていた私はとうとう痺れを切らして、背中越しの紫に向かって叫んだ。
「もう! 好きよばか!」
言った瞬間、顔だけでなく全身が熱くなるのを感じた。密着している紫に気付かれないかと思うと心臓の鼓動が激しくなった。それすらも紫に悟られそうで、私は紫から身体を離そうとしたが、紫の腕はそれを許してくれなかった。
「ちょっと、離しなさいよ」
「だーめ。今度は言葉だけじゃなくて行動で示してもらうわ」
紫は私の肩を両手で掴んで身体を回転させ、向き合うようにした。それから目を閉じ、唇をちょこんとこちらに突き出した。明らかにキスを要求している格好だった。
まただ。また紫はずるい。私がこんなことできないって分かってるのに要求してくる。
背中越しに好きって言うだけでこんなに恥ずかしいのに、キスなんてできるわけないでしょ……。
私は紫のことをずるいと思うし、意地悪だとも思う。けど、そんな紫を許してしまう自分がここにいることに気付いて、改めて私は紫のことが好きなんだと思った。
「霊夢。大事な話があるんだけれど」
「何よ。異変でも起きたの?」
「霊夢……結婚しない?」
「ぶはぁっ!」
突然の発言に私は飲んでいたお茶を思い切り噴きだした。
「もう、きたない」なんて紫は暢気に言っているけど、私の頭の中は完全に混乱していた。
結婚? 何でこのタイミングで? さすがに冗談よね。ね、紫?
きっと冗談だと信じて隣に座る紫の顔を覗いてみると、どこか憂うような切ない表情をしている。いつも持ち歩いている傘の柄をぼんやりと見つめながらくるくると回している。
いやおかしいって。何その態度。何その「もう付き合って何年も経つのに、霊夢は結婚のことなんか考えてないのかしら。そろそろプロポーズしてきてもいいじゃない」と言いたげな表情。倦怠期のカップルじゃないんだから。
ここまでの話の中に伏線があったとでも言うのか。いやいや、紫はさっき来たばっかりで、もう冬眠終わったんだとか、今日は暖かいねえとか、そういう世間話しかしていない。
紫は「結婚しない?」と言った。「結婚しない?」である。文字の意味としてのみ捉えれば、結婚しないのですか? という否定疑問文だ。この場合は、「はい」か「いいえ」と答えればそれで終わりだが、紫の言葉はきっとそういう意味ではないだろう。
つまり、「結婚しませんか?」という提案である。この場合、押しは少し弱いがプロポーズにも受け取れる。「結婚しよう」という言葉を提案するように言って相手の同意を得ようとしているのだ。
ここまでの思考時間、約五秒。
あまり黙っていては紫に動揺を悟られるので、とりあえず言葉を返す。
「あのさ、ちょっと唐突すぎない?」
「そんなことないわ。ずっと前から考えてはいたの。ただ、なかなか言い出せなくて……」
申し訳無さそうにうなだれる紫。紫の言葉に重みが増していくように思える。
待てよ。そもそも紫は本当に「結婚しない?」と言ったのだろうか。もしかしたら私の聞き間違いかもしれない。
「ねえ紫。あんたがさっき言ったのって『結婚しない?』で合ってる?」
「そう言ったわ」
「結婚って、あの結婚よね?」
「どの結婚か分からないけど、夫婦となって共同生活を営んで家庭を築くことよ」
やっぱり私の思っていた結婚で間違いはなかった。しかし、疑問は一向に尽きない。
「そろそろ結婚してもいいと思うの」
そろそろって何。私達ってそんなに長い付き合いだっけ。
初めて出会ったのは随分昔かもしれないけど、でも私が紫に好意を抱くようになったのはここ数年だし。そもそも私達交際しているわけでもないのに。さらに言えば、紫が私のことを好きだと言ったことはない。よく神社に来るだけで、私が片想いしているだけなのだ。まさかそんな私の気持ちを、紫は汲み取っているとでも言うのか。
「霊夢は結婚したくないの?」
紫が切なげな瞳でこちらを見つめてくる。
「ち、違う。そういう意味じゃなくて……さっきも言ったけど唐突なんだってば」
「私は去年から考えていたの。でも霊夢に言おうか悩んでるうちに冬眠しちゃったから……。だから目覚めてすぐに来たのよ」
そんな身勝手な。私にだって心の準備期間がほしい。やっぱり紫は私の都合なんてお構いなしなのか。いつも予告無しに現れて、いつの間にかいなくなって。来てほしくない時に勝手に来て、傍にいてほしい時はいつもいない。そんな紫が、いきなり結婚しようだなんて。
嬉しさと戸惑いと若干の違和感とで、私は複雑な思いになった。こんな大事な話をする心の準備ができていなかった。
そもそも博麗の巫女と妖怪が結婚してもいいのか。それ以前に、紫は私のことを本当に好きだと思っているのだろうか。私の中にいくつもの疑問が浮かぶ。
何よりまず、紫の気持ちが知りたい、とそう思った。
「やっぱりいきなり結婚っておかしいわ。それに……相手の気持ちも分からないのに結婚なんてできないわ」
敢えて気持ちを探るような言葉を投げかけた。隣に座る紫と目が合う。紫は妖艶な笑みを浮かべてこう言った。
「ああ、その件なら問題ないわ」
「え?」
紫は傘の柄で遊んでいた手をピタリと止めた。静かな神社に吹いた一陣の風が止むのを待ち、紫はやや勿体ぶるようにして紫は続けた。
「ちゃんと、霊夢のことが好きだから」
「えっ――」
微笑みながらの紫の言葉に、時が止まったような錯覚を覚えた。紫の放った言葉が頭の中で繰り返される。心臓の鼓動が早くなり、頭に血が上る。胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
私はどんな顔をしたらいいか分からず、頬を染めながら俯きながら震え声で言った。
「そ、それ、ほんとなの?」
「私がこんなことで嘘を言うとでも?」
あんたなら言いかねない、と一瞬思ったが、口に出さずに言葉を飲み込んだ。私に向けられた紫からの気持ちを否定するような言葉は言いたくなかったのだ。
「でも、それにしたっていきなり結婚っていうのは」
「結婚が唐突だと言うなら、結婚を前提にお付き合いから初めてみる? 同棲なんかもしてみないと分かんないだろうし」
「お、お付き合いに、同棲? 同棲って、一緒に神社に住むの?」
「そうよ」
それはつまり、紫と一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、一緒に寝るということ? 神社にはお布団が一組しかないから、同じ布団で寄り添いあって……。
そんな幸せな想像をしてしまって私はさらに興奮して顔を赤らめた。
「しばらくお付き合いをしてから同棲という手もあるわよ」
「いや、もう早速でいいわ」
私は妄想を頭に描きながら即答した。
「いいの? いきなり寝食を共にしても」
「うん」
「分かったわ」
紫は胸につかえてたものを取れたようなホッとした表情をしていた。私はといえば、相変わらず顔が赤いままで、紫からの突然の告白の言葉を思い返していた。
紫の言葉が夢のように思えた私は、最後にもう一度だけ紫の気持ちを確かめたいと思った。
「本当に私のことが好きなの?」
「間違いないわ」
紫の言葉をしっかり耳と胸で受け止める。その言葉だけで胸がいっぱいになって息苦しくなるような気がした。今だけは巫女とか妖怪とか、そんなことはどうでもいいと思えた。
「それじゃあ、行きましょうか」
「え? どこに?」
「人里よ」
「どうして?」
いきなり結婚しようと言って今度は人里に行こうと言って、紫には前触れとか準備とか伏線とか、そういうものがないのだろうか。
私が突拍子の無さに辟易していると、そんな私を見て紫は不思議そうな表情を浮かべた。
「どうしても何も、霊夢の結婚相手に会いに行くのよ」
「は?」
私の結婚相手はあんたでしょ。何を言っているんだこのスキマ妖怪は。
「相手は霊夢がよく行く和菓子屋の店長の息子さんよ。いかにもな好青年で、霊夢にぴったりじゃない。同棲するなら色々と準備が必要でしょ。早く済ませておかないと」
「ちょっとまったああああ!」
大声で叫びながら飛び立とうとする紫を、怒りを込めてお札で打ち落とした。
「痛いじゃない。何よ、さっき同棲するって言ったのに」
「違う! 問題はそこじゃないでしょ! 何、何で私が和菓子屋の青年と結婚することになってんのよ!」
「何でって、さっきからずっと話してたじゃない。『霊夢結婚しない?』って。そろそろ次代の博麗の巫女を育てようと思って」
激昂する私に対し、何でもないように紫は言い放った。そこでようやく、最初から話が食い違っていたことを理解した。
「じゃ、じゃあ……さっきからずっとその話をしてたの?」
力なく尋ねると紫は当たり前じゃないと言いたげな顔をした。
「むしろ霊夢は何の話だと思っていたのかしら。誰との結婚を提案されたと思ったの?」
「そ、それは……」
私は今までの勘違いを思い返して顔を真っ赤にした。紫からのプロポーズだと思っていた言葉が、ただの縁談の話だったなんて。そんな……さっきまであんなに喜んでいた自分が馬鹿みたいじゃない。
「と言うことは、さっきのあれも?」
「あれって?」
「ほら、『ちゃんと霊夢のことが好きだから』っていうあの言葉も」
「あれは『和菓子屋の青年は霊夢のことが好き』って意味よ」
「何よそれ! 期待させといて!」
「何でそんなに怒るのよ」
「そりゃあ怒るわよ! よくも分かりづらい言い回ししてくれたわね!」
怒りに任せてもう二枚、お札を使って懲らしめようとする。今度はかわされてしまった。紫は私の態度の変化を不思議そうに見ながら放たれるお札を避けていたが、私の怒った態度を見てふいに何かに気付いたようにニヤリと笑った。
「もしかして霊夢、私と結婚するつもりだったの?」
ニヤニヤと薄笑いを浮かべながらこちらを見てくる。私は羞恥心で血が逆流して顔が熱くなった。
「まあ図星なのね。さっきも私が好きって言ったと勘違いしてたのね。霊夢ったら可愛い。そんなに私のことが好き?」
「うるさい! 紛らわしい言い方してきたあんたが悪いのよ! 紫のばーか!」
恥ずかしさに任せて紫の肩を両手で何度も叩いた。「痛い痛い」と紫は漏らしているが、構わず続けた。叩き続けているうちに恥ずかしさや怒りだけでなく、何だか悲しさと虚しさまで芽生えてきた。紫の思いだと思っていたあの『霊夢のことが好きだから』という言葉が、そうでなかったと気付いてしまったせいだ。
「だから痛いってば」
紫が私の両手を強く掴んだ。力ずくで両手を上げさせられる格好になり、その体勢で紫と目があった。私は紫への思いを弄ばれたような気分で今にも泣きそうになっていた。
やがて、紫が掴んでいた手を離し、私の背中に腕を回して身体を包み込んだ。
「何よ。また唐突に」
涙目になりながら、紫の腕に包まれながら言った。すると紫は私を落ち着かせながら耳元で静かに語り始めた。
「この話はずっと前から考えていたって言ったでしょ。でも実際に行動に移すのに随分時間が掛かってしまった。それには理由があるの」
「理由って?」
私が紫の胸元で尋ねると、紫は抱きしめる腕の力を少し強くし、情動的な口調で言った。
「ほんとは、霊夢に結婚なんてしてほしくなかったの。何故なら、私だって霊夢のことが好きだったから」
「え……」
今、紫が好きって。言った?
「最初はただのお気に入りだったのだけれど、いつの間にか大切な存在になっていたのよ。でも私は妖怪であなたは博麗の巫女。幻想郷の維持という観点から、決して結ばれてはいけない関係なの。そう頭では理解していても、事実を受け入れるのに私は多くの時間を費やした。霊夢に会いに来るたびにずっと悩まされてきたの。でも、今日決意した。霊夢に結婚話を持っていって、もう霊夢のことは諦めようって」
紫は涙ぐむ私を慈愛に満ちた表情で私を見下ろしていた。
「でも、あなたの態度を見て気が変わったわ」
「それって……」
「結婚の話はなかったことにしましょう」
「いいの? そんな簡単に決めて」
紫は柔らかな笑みをこぼしながら言った。
「よくはないわね」
「おい」
「これは私のわがままよ。霊夢、もう少しだけこういう関係でいさせて頂戴。あなたのそんな顔見せられたら、お嫁になんて出せやしないわ」
紫は気持ちを抑え切れないのか腕の力をより強めてきた。私のことを思ってくれているということがひしひしと伝わってきた。紫のことが少しだけ母親のように思えた。
「こういう関係って言っても、結構曖昧な関係よね」
「いっそのこと恋人にでもなる?」
「そ、それは、そんな恋人だなんて……」
私はそんな紫の言葉を鵜呑みにして照れてしまったが、直後に紫はさらっと前言を撤回した。
「冗談よ。恋人になんかなっちゃったらきっと霊夢のこと手放せなくなってしまうわ」
「もう。また期待させるだけさせておいて」
私は頬をふくらませた。紫は可愛いと言って私の頬を人差し指でつついた。
「この気持ちはきっと恋愛感情ではないのよ。例えるなら、家族愛のようなもの。慈しみ大切にしたいという感情なの。だから私達は恋人というよりも家族という関係に近いのよ」
「ふーん。紫が家族ねえ。考えたことも無かった」
「そういえば霊夢。まだあなたの思いを聞いてなかったわよね?」
「は?」
「私は霊夢のこと好きって言ったのに、霊夢だけ言わないのはずるいと思うの」
「言う必要がないじゃない。もう紫は分かってるんでしょ?」
「分かっていても口に出してほしいことはあるの」
「いやよ恥ずかしい」
私はあしらうような口調で言った。すると紫はわざとらしく悲しそうな声を出した。
「そう……。霊夢がそう言うなら私にも考えがあるわ。もう今後数年くらいは会いに来てあげないんだから」
「どうせ口だけでしょ」
脅しなんかに負けるもんですか。どうせ数日経てばひょっこり出てくるくせに。
「ほんとにいいの? 今ならまだ許してあげるけど」
私だってこんなに意地を張るのはかっこ悪いと思っている。しかし、一度強く出た以上、紫相手に妥協するのは癪にさわる。そして何よりも、紫を目の前にして「好き」だなんて、恥ずかしくて言えるはずが無い。
「そう。それじゃあ数年後に会いましょう」
そう言ってあっさりと紫はスキマの中に入っていった。どうせしばらくしたら出てくるわ。そうに違いない。こんなあっさりとした別れで、数年間過ごせだなんてそんなの許さない。
神社に静寂が訪れる。微かな風が髪を揺らすだけだ。私は直前までスキマがあった空間に向かって一人ポツンと呟いた。
「私だって好きよ」
でも、私のこの気持ちは家族愛とかではなくて、本当の恋愛感情だと思う。勿論大切に思っているのは確かだけど、それだけではなくて、紫に会いたいし声は聞きたい。傍にいたいしいてほしい。家族がどのようなものかは分からないから家族愛も分からないけど、きっとこれは恋愛感情だと思う。
「ふふ、私が消えた途端にそんな素直になるなんてね」
突然後ろから声がしたと思って振り返れば、そこにはスキマから半身を出した紫の姿があった。ニヤニヤと笑っているところを見ると、私の独り言を聞いていたらしい。
「あ、ああ――あんた盗み聞きしたのね!」
「私に対する言葉なんだから盗み聞きじゃないわ」
独り言を聞かれた私は恥ずかしさのあまり悶えながら叫んだ。
「バカ! 盗み聞きする紫なんか嫌い!」
独り言を紫に聞かれるなんて一生の恥。私はすぐにでもこの場を去りたいと思った。
しかし、紫に背を向けて縁側から部屋に入ろうとしたとき、今度は後ろから紫に抱きすくめられた。
紫の身体を背中越しに感じる。肩と腰に回された腕は、私の力では振り解けそうにない。そんな体勢の中で紫は甘えるような口調で耳元で囁く。
「ほんとに私のこと嫌い?」
「きらいよ」
「私は霊夢のこと好きよ? こんな私が嫌い?」
「……きらい」
「好きって言うまで離さない」
「…………」
そんなの、ずるいわ。ずるい。紫はいつもずるい。
それからしばらくの沈黙が二人の間に流れた。紫の息遣いを耳元で感じていた私はとうとう痺れを切らして、背中越しの紫に向かって叫んだ。
「もう! 好きよばか!」
言った瞬間、顔だけでなく全身が熱くなるのを感じた。密着している紫に気付かれないかと思うと心臓の鼓動が激しくなった。それすらも紫に悟られそうで、私は紫から身体を離そうとしたが、紫の腕はそれを許してくれなかった。
「ちょっと、離しなさいよ」
「だーめ。今度は言葉だけじゃなくて行動で示してもらうわ」
紫は私の肩を両手で掴んで身体を回転させ、向き合うようにした。それから目を閉じ、唇をちょこんとこちらに突き出した。明らかにキスを要求している格好だった。
まただ。また紫はずるい。私がこんなことできないって分かってるのに要求してくる。
背中越しに好きって言うだけでこんなに恥ずかしいのに、キスなんてできるわけないでしょ……。
私は紫のことをずるいと思うし、意地悪だとも思う。けど、そんな紫を許してしまう自分がここにいることに気付いて、改めて私は紫のことが好きなんだと思った。
甘くてよかったです
甘味は中和だッ(混乱
和菓子屋の青年なんていらんかったんや!
紫と霊夢のカップリングを甘く書きたいという試みには成功していると思います。
ホイップクリームは甘いのですが、私としてはスポンジや苺も食べたいなあと思うわけです。
また、些事ではありますが、当て馬にされた和菓子屋の青年のところでは今回の縁談がどの程度の話になっているのか、というのが気になってしまいました。
文章に特筆すべき点はありませんが、
>私はどんな顔をしたらいいか分からず、頬を染めながら俯きながら震え声で言った。
>涙目になりながら、紫の腕に包まれながら言った。
こういった部分の「ながら」の多用が多少目につきました。
勝手に上から目線で色々言われてもいいお気持ちがしないでしょうが、点数評価をする上での判断基準を記しました。
次の作品を楽しみにしております。
感情を表に滅多に出さない霊夢だからこそ、彼女の心情を地の文でもっと描けたら良かったかなぁと。
>大声で叫びながら飛び立とうとする紫を、怒りを込めてお札で打ち落とした。
この文章、話の流れ的には「霊夢が大声で叫んだ」んでしょうけれど
この書き方だと「紫が大声で叫んでいる」ように捉えて一瞬混乱してしまうかも。
他人の恋愛話ってそんなものだよね、という点ではリアリティがあると言えるかもしれません
完全に当て馬だよ。
やっぱりどうあっても名前の通り、霊夢を逃がしたくないんですね。
2度読み返して、百合の難しさを知りました