1
旧地獄はまさしく人の住むところではない。洞穴に響く音は地下に流れる溶岩のものか、はたまた怨霊のうめき声か。どちらにしろ、音は人を生きては返さん、死んでも逃さんとばかりに鳴り響いている。
暗い洞窟で視覚さえ制限されているというのに、聞こえてくるのはそんな音。非力な人はたちまち精神が摩耗し、我も忘れて何処かへ消えてゆく。消えると言っても無に帰す訳ではない。耳を澄ませば不吉な音に、幽かながらも新たな音が加わっている。
不吉の音の主になった者が、二度と地上に帰ることはない。日の光を避け、石の下で蠢く虫の如き存在として旧地獄に在り続ける。
一体彼らが何をしたというのか。好奇心が、探究心が、彼らをここまで罰する咎になり得るのだろうか。そうではない。
博麗の巫女や魔法の森の魔法使いは、生きて旧地獄から帰ってきた。彼女らにはそれだけの力があった。つまりは非力こそ咎であった。
旧地獄は閻魔の統制下から離れて久しい。閻魔の説く道理はあまねく地で善であるが、今の旧地獄では例外である。
今の旧地獄、忌み嫌われた者の道理とは、己の性にこそ従うこと。
彼らは己が身を悲観し、自身を否定するようなことはない。
古明地こいしという例外こそおれ、彼らは今日も己こそ善とし、人の身からすれば非道の所業をなす。
こいしは未だ人に未練のあるためか、人と相容れぬ己の性を拒んでいる。だが、覚妖怪であることが不幸であるのかと言えば、それは違う。
古明地さとりは覚妖怪であることを受け入れ、己の性に従い生きている。自身が覚りであることを嘆くようなことは決してない。むしろ、心を閉ざし己の否定に走った妹を心配するほどに彼女は覚妖怪だった。
しかしながら、こいしにとってさとりは、さとりにとってこいしはお互い相反する者同士でもあった。覚妖怪として人から恐れられなければならないさとりと、人から嫌われたくないこいし。同じ覚妖怪であっても、その在り方には大きな隔たりがあった。
覚妖怪としての宿命もあって結局さとりは覚妖怪として恐れられ、こいしは心を閉ざし、さまよい歩く身となったが、さとりにとってこの結果は是とすることのできないものだった。
さとりにとって、こいしが何故そこまで悩み、葛藤を抱え込むのかは理解し難いものだった。まだ、こいしの心が読めた時でもそれは分からないものだった。
一つ言えることとして、さとりとこいしの違いは、人に対する諦観や妖怪としての尊厳を持ち得たかどうかではなく、それよりも、人と友達になれたかどうかが、二人を分けたものとしてあるのかもしれない。
2
地霊殿の扉を開ける者は限られていて、大抵はさとりのペットかこいしであり、それ以外はというと灼熱地獄を目指す闖入者である。
家主であるさとり自身は人妖に会うのが嫌なので、ほとんど地霊殿から出ることはなかった。覚妖怪が嫌われていることを自覚しているためでもあった。
「さとり様、ちょっとよろしいでしょうか」
いつものように書斎に閉じこもり本を読んでいた時のことだった。ドアノックの返事も待たず、火焔猫燐が顔を覗かせた。
「何かしら……へえ。人間の赤ん坊を拾った?」
さとりは椅子から立ち上がることなくお燐の方を向き、目を大きく開いてそう言った。
「はい。それで」
「その必要はないわ。……まあ、とりあえず保留しときましょう。何か思いついたら伝えるから、それまで保護しといて頂戴」
「わ、わかりました」
お燐は面食らった顔で一礼すると書斎を後にした。人化してから大分経つが、未だにさとりとの会話に慣れない様子だった。だいたい覚妖怪との会話など特異中の特異であり、こういった一方的な会話で終わるのが常である。慣れないのもまた無理もない。
それよりも赤子だ。さとりはお燐の記憶を読み驚いたが、なんと人間の赤子が旧都に放置されていたというのだ。
さとりが驚いたのは二つの意味で、一つは一体どうして旧都に人間の赤子が旧都に紛れ込んだのだろうということと、もう一つはよく食われずに無事だったということだった。
運が良いのか悪いのか、旧都に放置されながらも生き延びた赤子を見捨てるのは、果たしてどうなのだろうか。さとりは読んでいた本を閉じ、本棚の方へと目をやった。
本棚に並べられた本の背表紙を眺め、思案に耽る。英雄譚や恋物語、戦記、冒険譚など様々な本が目に映る。中には聖書などと、妖怪が読むのに相応しくない本もあった。
「ねえ、どうかしたの」
急に声をかけられ、さとりは一瞬身体を強張らせたが、それが妹のこいしであることに気づくと溜息をつき、脱力した。
「驚かせないで頂戴」
「ごめんなさい。でも足音とかで気づくと思ったんだけど」
「まあ、ちょっと考え事をしていて……、そう、実は人間の赤子をどうしようかと考えていてね」
「え!? 赤ちゃんいるの? ねえどこ? どこ?」
「今はお燐に見てもらっているわ」
そう言うと、さとりは頬杖ついた。昔、まだこいしの第三の目が開いていたころは、こんな煩わしいやり取りはなかった。互いに心を読むだけで済んでいた。
「遊んできていい?」
こいしは笑顔でそう尋ねた。
「だめよ」
だが、さとりはすぐにそれを退けた。こいしが赤子と遊びたがることは心を読まずとも分かることだった。
まだ一人で立つことのできない赤子にこいしの遊び相手を務めさせるのは、あまりにも酷だった。
「だめなんだ。うーん残念」
こいしは残念がる素振りを見せた。それが本心からのものであるかどうか分からないが。
そして、少しして、こいしが書斎から去ると、元の静寂が戻ってきた。怨霊のうめき声や外の喧騒も書斎には届かなかった。
さとりは再び本棚へと目を向けた。目についたのは聖書だった。その時、どうして聖書が気になったのか、さとり自身にも分からない。聖書が主に人間の読むものだったためかもしれない。
聖書を見つめている沈黙の最中、聖書の中に出てくる楽園と赤子とが頭の中で結びついた。天啓というものだろうか。
ともかく、赤子を育てよう。覚妖怪のような忌み嫌われた存在をも受け入れるような心の持ち主に。
人に忌み嫌われ旧地獄に逃げ込む前の、かつて自身を忌避してきた人間たちを思い浮かべ、さとりはそう心に決めた。
3
赤子の心を読んでいると、その心象風景には形というものが存在せず、専ら明暗により快不快を表している。穏やかな時には、それこそ光の中にいるような心象風景が広がっているが、泣いている時などには暗闇が赤子の心を覆っている。
言葉を持たない赤子を相手にして、さとりは新鮮な気分を味わっていた。言葉を解さない動物とのコミュニケーションは今まで何度も行ってきたが、それとはまた違うものだった。
さとりがかつて相手にしてきた人間は、大人ばかりだった。退治屋であったり狩人であったり、覚妖怪の性質を知っている者ばかりだった。
そうしたこともあってか、かつて自分に黒い感情を向けてきた人間も、こういう時期があったのだろうか。さとりの顔を見て微笑む赤子をあやしつつ、一人考えていた。
赤子は書斎で育てることにした。他の部屋だとペットたちと会わざるを得ない。それは非常に都合の悪いことだった。
ペットの中には人食いをする者もいれば、人は食わないが力の加減の出来ない者もいる。万が一のことも考え、やはりさとりの私室である書斎で養育することが適当だということで落ち着いた。
そうして八年ばかり経つと、もう赤子は赤子でなく、一人で立ち、言葉を話すこともできるようになって大分経っていた。
「さとりさん」
椅子に座って本を読んでいたさとりに、少年が声をかけた。
さとりは自分のことを名前で呼ぶようにしつけた。母としてではなく、もっと別の存在として在りたかったためだ。
「どうかしたの」
「またお話を聞かせてください」
「いいわよ、それじゃあ……桃源郷の話をしましょうか」
さとりは少年に頼まれると、進んでそれに応じた。聞かせる話はいつも古今東西の楽園についてだった。いかに世の中が素晴らしいか、人々が幸福であるかを説き、少年の純真を磨いていった。
そうしたことの積み重ねもあって、少年の抱くさとりに対する印象は、信仰そのものであった。さとりは少年の心を読むと、自分の中で燻っている過去の記憶が虚構であるように感じられた。本来の自分は、少年の抱く聖なる方であり、覚妖怪としての現在の自分は、不幸な因果による所為だと思われた。
4
それから更に三年経ち、少年の背丈がさとりと同じくらいになった頃である。さとりは相変わらず少年を地霊殿の外に出すことなく、世間と隔離していた。だが、そうしたさとりの尽力もあっても、少年の心はさとりの望まない形へと育っていった。
さとりは少年に外への興味を持って欲しくなかった。非力な人間の身で旧地獄を出歩くことは危険なことであるし、何より外から色々知り得ることにより、今まで教えてきたことが、虚構であると気づかれるのが恐ろしかった。
それなのに少年は地霊殿の外に出ることを望むようになっていた。どうして外に出たいのか、さとりが少年に問うと、少年は本棚から一冊の本を手に取り、さとりに手渡した。
手渡された本はある著名な作家の冒険譚だった。そして同時に、さとりが少年に対し、読むのを禁じていた本の内の一冊でもあった。
さとりは少年に本を読むことを勧め、自分の蔵書から一部を除いて提供していた。その一部というのは、外への興味が刺激される本のことである。
「これは読んではいけないと言ったはずよ」
「ごめんなさい、で、でも……」
「世の中知らない方がいいことなんて沢山あるの。この本はあなたを幸せになんてしないわ」
「……ごめんなさい」
少年はさとりに詫びると、そのまま顔を俯かせ、虚ろなまなざしで床を見つめていた。
さとりは少年に声をかけることもなく、少年から手渡された冒険譚を本棚へと戻し、気まずさのあまり書斎を後にした。
どうして言いつけを破ったのだろう。自分の育て方が間違っていたのだろうか。さとりは自問自答を繰り返した。
少年はいつさとりを裏切ったのだろう。少年の心の中で、さとりは絶対的存在であったのに。心が嘘をつくことはない、そう考えて油断していたのもかもしれない。
しかし、現実に少年の心はさとりを欺いた。
読心は絶対であり、この力がある限り人妖問わずさとりの掌中にいる。それすらも思いこみであったとしたら。
さとりは目を瞑り、古い記憶を思い返す。
心と実際の行動が伴わない人間は、昔から確かにいた。心中は罵詈雑言で溢れているのに、口から出る言葉は聖人君子と紛う程の者。自信に溢れたもの言いをしながらも、心中は不安で崩れそうな者。
少年も彼の人々と同じなのだろうか。いや、違う。
少年のさとりに対する思いは信仰と同じだ。彼の人々のように利己心が根底にある訳ではない。少年のそれは突きつめれば、さとりのために自己犠牲も厭わない程に強固なものだ。
それなのに、どうして少年は大切なものを蔑にするような真似をしたのだろう。自らを傷つけるのだろう。心を読んでも分からなかった。
5
さとりが去った後の書斎には、少年だけでなく、もう一人いた。
「お姉ちゃんに怒られちゃったね」
こいしはそう言って、じっと床を見つめている少年に近づいた。
少年は最初こそ驚いた表情でこいしを見たが、すぐに表情を戻した。少年はこいしのことを知っていた。
二人はさとりが書斎にいない時、よく話をしていた。自分と外見上の歳の近い子供に興味を持ったこいしが、少年に話しかけたのがきっかけだった。
こいしと少年は、地霊殿の外のことを話題にするのが多かった。そうしなければ話題が尽きてしまうということもあったが、何より少年が外の話を聞きたがった。
こいしも少年が人里の子供たちと違い変わっていたので、物珍しさからよく話し相手になってあげていた。
旧都は賑やかで楽しいとか、洞窟の天井に光る苔が星みたいで綺麗だとか、人里には友達がいて楽しいなど、こいしは楽しげに少年に話した。
少年もまだ見ぬ世界の話に胸を膨らませ、いつか外を見てみたいと考えるようになった。だが、さとりのことを思い出し、こいしに自分は外に出ることを禁じられていて、さとりさんは何でも見透かしてしまうから、きっと今日のことも見透かされ怒られてしまうと告げた。
それならと、こいしは「おまじない」をしてあげると少年に言った。
こいしの「おまじない」とは、さとりの前ではこいしに関する記憶を無意識の内に忘れるというものだった。同時に、こちらは少年に内緒で、地霊殿の外に出たいと思うよう、無意識を操った。
種は撒かれていたのだった。さとりが触れることのできない場所に。
そして今、こいしが撒いた種が、実をつけるまで成長した。
「ねえ、外に遊びに行かない?」
無言でこいしを見続ける少年に、こいしは手を差し伸べた。
6
さとりは後悔に苛まれていた。精神的に疲れていたとはいえ、不穏な状態にあった少年から目を離し、外に出る機会を与えてしまうなんて。
書斎にあった書置きに、少年のさとりへの感謝と謝罪、外への思いがつづられていた。
「さとり様、元気を出してください。きっと無事に帰ってきますよ」
書斎の椅子に座り気落ちしているさとりに、お燐が言った。
「お燐……」
さとりはお燐を見ずに、独り言のように話し始めた。
「はい、何でしょう」
「あなた、好奇心強い方?」
「え、まあそうですね」
「気をつけなさい。あなた、猫なんだから」
「はあ……」
お燐は要領を得ないといった感じに、気の抜けた返事をした。
「お燐」
「はい」
さとりは、今度はお燐の顔をしっかりと見た。
「あの子を連れて帰ってきてくれないかしら」
「分かりました……」
お燐はそう言うとさとりに背を向け、猫車を押して書斎から去っていった。
一人になったさとりは、いつかのように本棚に目をやり、本の背表紙を眺めた。そして、今となっては懐かしい気持ちで聖書を手に取った。
やはり、覚妖怪と人間は相容れぬものなのだろうか。少年の心には確かに楽園があって、そこに自分もいたはずだった。
それなのに何故、さとりの築いた楽園に、蛇がいたとでも言うのだろうか。
さとりは聖書を前に黙した。
7
少年は、外に受けいれられることはなかった。
地底から来た少年に対する里人の態度は、どこかよそよそしかった。
少年はそれを察した。
こいしとも別れ、頼れる者もいないので、少年は記憶を頼りに来た道を戻っていった。
そして、洞窟の入口まで来た。
洞窟の奥から、出る時には夢中で気がつかなかったが、不思議な音が聞こえている。
少年はその音が何の音なのか、分からなかった。
ただ、少年が洞窟を前にして思ったことは、あの人に教えられた桃源郷に通じているかもしれない。
そんなことだった。
このご時世、誰もが聖書を読破している訳じゃないからね
妙な雰囲気のするSSでした。
文章そのものは割と普通なのですが、どことなくちぐはぐで、不安定なのが不思議。