夕食の時間なのにさとり様が一階に降りてこない。「うーんなんか最近魚料理ばっかじゃない? もっとパンチのあるもの食べたいんだけどなあ」なんてことを言うので今夜はカレーを作ってやったのに。パンチがほしいって言ったから嫌がらせのように死ぬほど辛くしてやったのに。
またファミコンでもしているのだろう。まったくどうしてあんなに同じゲームばかりダラダラできるんだろう。
仕方なくよそったカレーを持って部屋のドアを開けてみると、さとり様はえぐえぐ泣きながら部屋の真ん中で椅子に乗って、天井に引っ掛けられたナワで首を吊ろうとしていた。
「も、もう死ぬ! 死ぬしかないじゃない!」
またか。
「今度はなんですか。ひきこもって毎日毎日飽きもせず同じようなゲームとか本とか映画をダラダラみてたりする非生産的な生活を『ニート乙w』とか誰かに心のなかで笑われたんですか。それともスーパーに行ったら久しぶりに他人と会話したのでレジでキョドッてしまって『なにこの不審者ww』と心のなかで笑われたとか?」
「ち、違うよっ。もっとつらいことがあったのっ。もう死にたいって思うくらいのことよ!」
「今の状況より死にたいと思うことなんてあるんすか。マジさとり様って強いと尊敬しますよ。あたいだったら暇すぎて発狂してます」
「ぐっ……お、おりん、もうちょっと優しい言葉をかけてもいいんじゃないの……?」
「まあ、とにかくごはんを食べながら話しましょう。ほら、カレーですよ」
カレーと聞いて、さとり様の鼻がひくついた。
「……まあ、そうね」
さとり様は素直に椅子から降りて、カレーを受け取った。もぐもぐと食べながら、
「……なんかぬるいんだけど」
ペットに食わせてもらってる飼い主のくせに、相変わらず口が減らない。
「あたいの舌にあわせてるので、ごはんは冷や飯です」
「ペットに冷や飯を食わされた……死にたい」
「勝手に死んでください。で、どうして死にたいと思ったのですか?」
「……こいしが」
ほろり、とさとり様は、涙をこぼした。
「こいしが! 家出しちゃったのよ!」
「こいし様が家出? それって、いつものことじゃないですか?」
こいし様はなんていうかフリーダムなひとで、カレーを寿司にぶっかけて食ったり、野良猫とジャンケンをしたり、居眠りしながらプロレスをしたりとまったく行動が読めない。しかも気配を消してしまうので、フラフラとよくどっかに消えてしまうのだ。
「この前だって一週間くらいどっか行ってましたけど、名状しがたき形状の生き物と仲良く手をつないで帰ってきましたし。大丈夫ですよ」
「違うの。いつものこいしとは、違うのよ。だって、スーパーマリオをやってるわたしをみて、『お姉ちゃん、それ、ほんとうにそんなにおもしろいの?』って聞いてきたのよ!」
「……いや、めっちゃ正論じゃないすか。さとり様、それ10年くらいやってますよね?」
「いつもなら『キンタマリオ! キンタマリオやって!』ってニコニコかわいらしく笑っているのに! 超泣きたくなったけど、わたしはそこでグッとこらえたの。わたしはお姉ちゃんなんだから、ここはお姉ちゃんらしく気さくなやり方で他の楽しいことを提案しなければってね。で、『じゃあ、映画でも観る?』って、誘ったのよ。一方的に自分の好きな映画を押し付けるのはよくないから、『男たちの挽歌』で二丁拳銃のすばらしさをたっぷり堪能するか、『プロジェクトA』でラスボスの海賊を簀巻きにして爆殺するシーンに燃えるかどっちがいい? と聞いてね」
「いやどっちも似たようなもんじゃないすか。香港映画だし」
「何言ってるのよ! ジャッキー映画とジョン・ウー映画をいっしょくたにするなんて、だからおりんは人気が無いのよ!」
人気は関係ないだろ……ちくしょう。
「そしたら、そしたら……こいしが、こいしがああああ」
「何いきなり泣き出してるんすか」
「こいしが言ったの……『お姉ちゃんの人生、すごく、つまんなさそう』って。『わたし、そんなのイヤだから。ここを出て地上に行くよ』って!」
……確かにいつものこいし様とは違っていた。こいし様はこの姉にしてこの妹ありというか、そんな風にさとり様にまっとうな意見を言ったりしないし、建設的な行動もしない。まったくふたりそろって不毛な姉妹なのだ。
よくわからないが、こいし様は姉のダラケっぷりを見て突然その不毛さに気付き、これではいかんと開眼したのではないのだろーか。となると、本気の家出かもしれん。うーむ……でも、それはいいことかもしれないな。
「ちょ、ちょっと待って。なんでおりんってばさっきからこいしが家出したことに対してそんなに冷静なの? 心配じゃないの? そんなクール気取りだからあなたは人気が出ないのよ!」
「だから人気の話はやめろってんだよちくしょう。……こいし様のことは確かに心配ですけど、こいし様の主張は全然間違ってないじゃないですか」
「……わたしの人生がつまんないって言うの?」
「そうです」
うわああああっとさとり様は両手で頭を抱えて悶えた。
「ひ、ひどい! なんでもうちょっとオブラートに包んだ言い方ができないのよ!」
「だって、どうせ心を読むから本心がわかるじゃないすか……」
「違う! どーしておりんはわたしをいたわるような言葉をかけてくれないのよ! わたしが求めているのは優しさなのよ! 思いやりってやつなのよ! ちょ、ちょっと待って……お願いだからそんなかわいそうなひとをみるような目で見ないでくれるかな? すごい傷つくから」
「でも、どうせ心を読むから」
「あああああだからそうじゃなくて! せ、せめて……せめて、外面だけでもとりつくろってくれない?」
「さとり様……どんだけ優しさに飢えてるんすか」
「だって、みんな優しくないんだもん……」
「とにかく、こいし様はさとり様の不毛で怠惰な生活っぷりをみるのがイヤになって家出してしまったというわけですね」
さとり様はぐうう、と下唇を噛んだ。すごい目で、こっちを凝視してくる。恨みがましい目で見ているつもりのようだけど、なんかお菓子のおあずけを食らっているこどもくらいにしかみえない。
「……教えてほしいんだけど。わたしの人生の、どのあたりがつまんなさそうなの?」
「……えっ?」
ストレートな質問だった。しかし悩んでもさとり様にはどうせごまかしはきかないのでストレートに返すことにした。
「全部ですね。全部つまんなさそうです」
うぎゃあああああっとさとり様は頭を抱えて地面に転がりながら足をばたばたさせた。
「か、飼い猫が……飼い猫がいじめるよう……」
「いじめてないですよ。部屋にひきこもって、ゲームをして、テレビをみて、マンガを読んで、またゲームをして。毎日毎日かわりばえのない、ただ同じところをグルグルグルグルまわっているだけの生活のどこが楽しげですか? そんなお姉さんを見てもこいし様もイヤになるってもんです」
「じゃ、じゃあ、わたしに外に出ろっていうの?」
「よくわからないのですけど、こいし様は、それを望んでいるのでしょう?」
「だ、だって……だって、みんな『覚り』のわたしが外に出ると、すごく気まずいじゃないの。イヤな気分になるじゃないの。だからわたしは仕方なくひきもってやっているのよ……世界の平穏のために!」
「世界はさとり様ぐらいでビクともしません。さあ、まずはゲームや映画を捨てて町に出ましょう」
あたいは寝転がってるさとり様の手を引っ張って起こそうとすると、ぎょっとした顔でイヤイヤしている。
「ま、待って。こ、心の準備がまだできてないから。たくさんのひとの前に立つと、いろんな心が一気にわたしに向けられるじゃない。あれが怖いのよ」
「またーそんな自意識過剰な中学生みたいなことを。ちょっとかわいいからってなめんなよ」
「い、いや、そういうのじゃなくて……その、ちょっとでもおかしなことをすると、誰かに嫌われるんじゃないかなって思って、すごく疲れるの」
でた。さとり様の「嫌われたくない病」だ。
心を読めるから、そのひとが嫌だと思っていることができない。嫌われたくないと思ってしまうから、したくもないことまでやってしまう。
「誰かも知らないひとにまで気を遣っていたらそりゃ疲れますよ。ビョーキになります。無視すればいいんですよ」
「でも……聞こえちゃうんだもの。聞こえちゃうと、無視できないじゃない」
「……でも、一歩も外に出なければ、嫌われるもクソもありませんよ」
「それでいいもん。おりんとかこいしがいればわたしは……あっ」
「そーです。こいし様は、そんなさとり様がイヤでいなくなっちゃったんでしょう? 今まで通りじゃダメだってことですよ」
「う、うー……ど、どうすればいいっていうの?」
「大丈夫、要は嫌われなきゃいいんですよね。じゃあ、とりあえずオシャレをするために洋服屋さんに行きましょうか!」
「な、なんか前もそう言ってたよね」
「だって、絶対かわいくなりますよ。めっちゃかわいくなりますよ。かわいければどんなにアレな性格だって絶対嫌われませんってマジで。ほらこの前あたいが見せた雑誌に載ってるかっこうとかどうですか? 町で見かけたメイド長とかいって載ってたやつです」
「えー……あ、あれ、スカート短すぎない?」
「いいじゃないですか。さとり様は足も……そんなにすらっとしてませんが……腰のくびれも……そんなにありませんが……でも、いいじゃないですか」
「な。何がいいのよっ。どこもちっともよくないじゃない!」
「さ、さとり様がミニスカメイドになることがいいんですよ!」
あたいが帰るとさとり様がこう言って出迎えてくれるのだ。「ペットのお燐様、お帰りなさいませ」って。ぺこりとお辞儀すると、スカートがふわん、と上がっちゃって、なんかすごいふとももみえまくり! うおー! うおー! ああまずい。想像しただけで発情してきた。
気付くと、さとり様はずいぶんあたいから遠ざかっていた。怯えた目で、こちらを見ている。
「……じょ、冗談ですよ」
こほん、と、咳払いをして、
「で、結局どうするのですか。きっと、さとり様が地上に行ってこいし様を連れて帰る、ってことが、さとり様が変わった! ってことを知らしめるのにベストだと思うのですが。ついでに服装もイメチェンしてオシャレにすればなおグッド」
「ぐっ……」
「まあ、どうしてもさとり様がイヤだって言うのなら、あたいが行ってきましょうか? こういう姿になる前……つまりただの猫だったときには地上に住んでましたし。何も知らないさとり様よりはマシだと思いますよ」
さとり様は、ぎょっと目をむいた。
「だ、ダメよ! そんなの!」
「へ? 行かなくていいのですか?」
「だ、だって……地上って怖いじゃないの! おくうだって二度と帰ってこなくなっちゃったし……」
おくう。
あたいも、おくうのことは気にかかっている。「ウチ、ヒーローになってくるよ」とよくわからないことを言って地霊殿を出たまま、ずっと帰ってこないのだ。あいつは鳥頭で記憶が三日くらいしか持続しないので、今ごろ地霊殿にいたことも忘れているかもしれない。
あのときもさとり様の落ち込みようはひどかったけど……なるほど、おくうのことがあったから、今回もすごく心配しているのか。
「地上は……この地下よりも、もっときらびやかで、誘惑が多いところよ。おりん、あなたまで引っかかっちゃったら……」
さとり様……あたいがいなくなっちゃうことをそんなに心配して……。
「……わたしの部屋を掃除したり、ごはん作るひとがいなくなっちゃうじゃない」
「そんなこったろうと思いましたよちくしょう」
「ああ、でも、こいしもそういうのに引っかかって戻ってこなくなっちゃったら……ああああ」
「あたいもさとり様も地上に行かないとなると、他にこいし様を探すひとがいませんよ」
「……いや。まだ方法は、あるわ」
「というと」
「自分たちで地上で行かなくても、すでに住んでいるひとにお願いすればいいのよ」
さとり様は部屋の隅に置いてあるパソコンの電源を入れた。
「こんなときに、またくだらない拳法映画とかでも観るつもりですか」
「わ、わたしのジャッキーチェンをバカにしないでよ! 確かにそういう使い方もしてるけど、パソコンはそれだけじゃないのよ。インターネットにつながれば、部屋にいながら外のいろんなひとと接触したり会話できたりするのよ。ステキでしょう!」
そういえば昔、さとり様は電話魔だった。地霊殿にきた最初の頃は携帯を持たされて、お互い地霊殿にいるのにわざわざ電話を鳴らし、「買い物に行くときにとんがらし麺とうまい棒の納豆味とドクペを買ってきて」とか言ってきたのだ。食事もわざとずらしてひとりで食べるか、こいし様と食べるか。一ヶ月くらい顔をあわせなかったりしたときもあった。そんなコミュニケーション力が絶望的に欠如しているさとり様にとっては、パソコンというのはまさにうってつけの機械なのだろう。
さとり様はパスワードを入力してパソコンを立ち上げると、いろいろとキーボードをカチカチ叩いた。するとディスプレイに文字があらわれた。
さとり>お久しぶりです
あや>おや珍しい。地下の幼女さんじゃないですか。今日のパンツは何色ですか?
さとり>白です
「ちょっと待ってください。なにナチュラルに教えているんですか」
さとり様は「ふふふ」と笑いながらドヤ顔で、
「天狗の世界だと、こういう挨拶みたいなのよ。おりん、あなたは知らないでしょうけどね」
「それ、間違いなくだまされてますよ」
「ふっ、わたしをただのひきこもりだとおもってあなどっていたでしょ! 実はあなたよりも外のことをたくさん知っているんだからね」
「だからだまされているって言ってるじゃないですか」
あや>また目つきの鋭い悪辣な猫の話ですか? 今度はどんなひどい目にあったんですかね。
「さとり様。説明を求めてもいいですか」
「ち、違う、違うのよ。だからそんな鋭い目で見ないで。どうせ相手もこっちも誰だかわからないんだから、ちょっと自分の設定を変えてみたくてね。わたしは地下に囚われた悲しき美少女っていう設定でね」
「さとり様は勝手に部屋に閉じこもっているだけじゃないですか。よくそんなに都合よく自分を美化できますね」
「い、いいじゃないの。妄想しているだけなら誰も迷惑かけてないし」
「あたいがめっちゃ迷惑受けてるじゃないですか」
さとり様は返事をせず、キーボードをたかたか叩きはじめた。都合が悪くなってきたからスルーするつもりだ。物理的に聞こえなくても心の声でバッチリ聞こえるくせに……ちくしょう。
さとり>実はお願いしたいことがありまして。わたしの妹を探してほしいのです
あや>以前お話していた、食べちゃいたいくらいかわいい妹さんのことですね。では写真を送ってください。
さとり様は「こいし」フォルダをクリックした。ものすごい数のファイルがずらりと並んでいる。どうやらそれはすべてこいし様の写真だった。なかには風呂場の写真っぽいのまである。そんなヤバい写真をあたいに隠そうともせずに、「うーんどれがいいかなあ」とさとり様は吟味していた。ああ、犯罪者ってのは、こうやって常識がだんだん無くなってどんどん大胆になって捕まるもんなのだろう。もしかするとこいし様が家を出ていったのも、こんな姉がキモかったからかもしれないな……。
すると、いつの間にかさとり様が涙目になってこちらをにらみつけていた。
「い、妹を愛でることがっ……! どうしてキモいのよ……っ! あなたには親族の情ってものがないの……この悪党猫っ……! おまえのせいでわたしはこんな地下室に閉じ込められているのよっ……!」
「脳内設定とリアルをごっちゃにしないでください。第一なんですかこの写真は。あなたこいし様の部屋に隠しカメラでも仕込んでいるんですか」
「そんなの当たり前じゃないの! あの子はフラフラどっかいっちゃうクセがあるから、四六時中見張ってないと……」
「風呂場までカメラ入れる必要がどこにあるんですか。警察呼びますよ」
っていうかあたいもその風呂に入っているので、いつの間にかさとり様に見られていたってわけか?
「大丈夫よ。わたし、おりんにはぜんぜん興味が無いし」
こ、このシスコン変態ニート……悪気なくひとの心を抉りやがって。
「え? どういうこと? わたし、何か変なこと言った?」
「……もういいです。黙ってください。……どうせあたいは性悪猫ですよ」
さとり様が写真を送ると、すぐに反応があった。
あや>おお……これは。さとりさんもすばらしい容姿をお持ちですが……そうですね。こういうギャップが好きな紳士にはたまらない逸材ですね。
「……まるでさとり様の姿を知っているような口ぶりですが」
「ええ。最初にわたしの写真を送ったの。天狗の世界じゃまずは写真の交換からはじまるのよ。知らなかったの?」
「……まただまされたんですね」
「だ、だまされてないわよ。ほら、これがあやの写真よ」
「めっちゃ遠くてほとんど米粒じゃないすか……それと交換にさとり様も写真を送ったというわけですね……って、ちょっとなんですかこの写真は? ランドセルしょったり水着着たり」
「き、着てくれってわざわざ送ってきたのよ……。は、恥ずかしかったけど、で、でも、やっぱりそういう変わった趣味とかを受け入れることから友達になれるんじゃないかな?」
チャットでは遠すぎて相手の心は読めない。心が読めないさとり様は、ただの世間知らずのコミュ障だった。
悪いやつに引っかかったら、簡単に嫌われたくないっていう気持ちをいいように利用されてしまう。
「……あたいは断言しますけど、こいつとは友達になるどころか、距離を置いたほうがいいタイプですよ。今すぐ関わりあいになるのをやめましょう」
「あ、あやは……そんなひとじゃないよ! だって、わたしにコンタクトをしてくれてチャットしてくれたし!」
「いや……どんだけさとり様の自己評価って低いんすか。その理屈だとさとり様と毎日会話してるあたいは神ですよ。もっと大切にしてくださいよちくしょう」
「おりんは……ええと……ペットだし……優しくないし……」
その気持ちが性悪猫につながるわけか……あたいはいつだって正論を言ってるだけなのに。くうううっ。
「まあ、おりんがそんなにあやのことを疑うなら聞いてみるよ」
さとり>ねえ、ペットの猫がね、あやがわたしをだましてるって言うんだけど。そうじゃないよね?
あや>違いますよ。私は幼女好きではないし、さとりさんの写真をそういった性癖のひとたちに売りつけたりなんて決してしてません。
「ほら! やっぱり違うし!」
「何言ってるんですか。どうみても悪党じゃないですかこいつ」
「なんでおりんはひとの言葉を素直に信じられないの?」
あや>妹さんならすぐに見つかりますよ。幻想郷には無数の同胞がいますからね。ふふふふ。
「うーん、頼もしいわー」
「……あたいは、こいし様を逆に危険に追い込んだ気がします」
*******
それから三日間、さとり様は部屋から出なかった。しょうがなくあたいが部屋までカレーを持っていってもドアごしに「そこにおいといてー」と虚ろな声で返事があるだけだった。一体全体部屋に閉じこもって何をしているのか。例のやつからこいし様の報告はあったのだろうか。
四日目になり、さすがにあたいも我慢できなくなった。ドアをドンドン叩く。
「さとり様? 開けますよ。もう洗濯物もけっこうあるでしょう。パンツとか。下着とか。あたいが洗いますから持っていきますよ」
「ちょ、ちょっとタンマ」
もしかして着替えタイムだろーか。そりゃチャンスだぜ。
聞こえなかったふりをして合鍵でドアを開けると、さとり様はパソコンのディスプレイの前に座っていた。なんだくそー普通じゃん。だけどさとり様はこちらを振り向いてぎょっとしている。
「た、タンマって言ったじゃん! 何ふつーに鍵開けて入ってくるの!」
「いや……なんでそんな顔しているんですか。あたいに見られちゃまずいものでもあるんですか」
「い、いやー。そんなもの何もないよ? わたしは普通にパソコンを眺めていただけだから」
「パソコンに見られちゃまずいものがあるんですね」
「な、何で、そ、そんなことを……ま、まさかあなた、あなたも覚りだったの? 猫のふりをしてわたしをだましていたの?」
「アホなこと言わないでください。さとり様の顔をみれば一発ですよ」
ぎゃーぎゃー叫ぶさとり様を抑えつけながらあたいは画面をみた。
そこには地上のどこかで歩いているこいし様の写真があった。相変わらず魂が抜けたようなぼんやりとした顔……ではなかった。なんか微妙に魂入ってるというか、キリッとしている。もしかしてこいし様はほんとに真妖怪に生まれ変わったのだろうか?
まあ、それはいい。問題は、その写真が、まるでこいし様の足元から見上げたようにローアングルだったことだ。当然、スカートのなかまでまるみえだ。
「お、おりん、喜んで! 例のあやがこいしの写真をさっそく送ってきてくれたの! あの子、無事だったのよ! それでわたし嬉しくて……ずっと見入っちゃったのよ」
あたいはディスプレイに「こいし2」という、ほかのとちょっと離れているフォルダを見つけたので、そいつを開いてみた。たくさんの隠し撮りされたこいし様の写真があらわれた。どれも見事にローアングルだった。
「な、なんで、そんなヒトデナシを見るような目でこっちを見るのよっ……」
「妹の盗撮写真を一日中眺めて過ごすひとは間違いなくヒトデナシですよ。てゆーかですね、大量のあられもない姿を盗撮された妹の写真を眺めて、あなたはなんとも思わないのですか?」
「お、思ったわよ! やっぱりこいしって超かわいい!」
「あんたアホですか? いいですか、この写真があるってことは、こいし様は誰ともわからぬ地上の輩にこんな姿を盗み見られているってわけですよ!」
さとり様の顔が、途端に蒼白に染まった。
「な、なんてことなの……わたしのこいしが!」
まじで一秒もそんな考えに至らなかったのかこのひと。どんだけ盗撮写真に脳を持ってかれてんだ。
「とにかくこいし様がいる場所はこれでわかったんですよね。今すぐ地上に行って連れ戻しましょう」
あや>うーん、場所ですか。それはまた難しいですね。
「何を言ってるんだこいつは」
写真をこれだけ送ってるのに場所がわからないだと? そんなわけがあるかこのどあほ。
あや>おそらく何故だ、と思われるでしょう。実は、確かに写真は送られてくるのですが……それが誰なのかわからないのです。
さとり>ど、どういうことですか?
あや>この写真を送ってくるメールアドレスは、登録されていないのです。匿名の誰かが、こいしさんの写真を募集しているのを聞きつけ、送ってきているのです。ただ、我が同胞達は基本的に世を忍んで活動する者が多いので、こういう写真を匿名で送ってくることはそれほど珍しいことではないのです。まあ、ただ匿名ですと報酬も差し上げられないので、そのうちコンタクトが取れる同胞からも写真が寄せられるとは思うのですがね。ここまで登録済みの同胞から写真が来ないのは珍しいのですよ。……報酬が悪いわけではないと思うのですが。
さとり様は、焦った顔のまま、キーボードに手を走らせる。
さとり>わ、わたしの写真だけじゃ、足りませんか? もうちょっとキワドいのでも、我慢しますけど。
「おい何をやってるんだあんた」
「おりんは知らないだろうけど、天狗の世界では写真が通貨単位なのよ。ちょっと恥ずかしい写真ほど価値があるから、が、がんばらないと……」
「ものの見事に騙されているのがわかりませんか。あなたがどんな格好をした写真を送ったのかわかりませんが、こいつらはただ単に好き好んでこいし様のパンチラ写真を撮ってて、それをあなたに渡してさらにあなたの写真を手に入れる。まさに丸儲けですよ。だから心配したのです! ちくしょう、あたいにもその送った写真をよこせ!」
まじでどんな写真を送ったんだ? このひと世間知らずなせいで変に大胆というか、すぐのせられてアホなことをしかねない。このあやというヤツはさとり様の発育不良ボディに興奮する類の変態だから、とんでもない格好とかさせられたりしてないだろうか。
「だ、大丈夫よ、おりんが今考えているようなヘンタイじみたえっちい格好はしてないから」
「え。いや、そんなに変態ですかね。裸エプロンとか裸ニーソックスとか」
「……うん。いくらなんでも普通しないよ……そんな格好」
「あたいアリだと思いますけどね。さとり様の裸ニーソックス。想像するだけで発情しちゃいそうです」
「……おりんって、たまにガチで怖いんだけど……」
妹の盗撮写真を三日間眺めていたひとにドン引きされるなんて……死にたい。
あや>うーん。確かにあなたの写真は魅力的です。幼女のコスプレ写真で新聞部数もうなぎのぼりでウハウハ、じゃなくて、大変価値ある写真を送ってくださるのはありがたいのですが……ただ、仮にそれでこいしさんの居場所がわかったとします。そして連れ戻したとして……それで、ほんとうに解決になるのでしょうか?
しばらくして、
「……あ」と、さとり様が、声をあげた。
……なるほど。変態のくせに、まっとうな感覚は持っているらしい。
そう。ただ、見つけるだけでは意味が無いのだ。
確かに、根本の原因が取り除かれない限り。
つまり、さとり様が変わらない限り。
何度でも、こいし様は繰り返すだけだろう。
そんなことはわかっている。だけど、わかっていればすぐに治せるのなら、さとり様はいまでもひきこもってなんかいない。
「……わたしが変わらないと、こいしは、戻ってこないのね」
「まあ。そういうことです」
「……つまり、たくさんひとがいる行事に気兼ねなく参加して。そこでも近所のひとと挨拶して。距離感をきっちり保った害のないおしゃべりをキョドったりせずスマートにして。気持ちのいい別れの挨拶をして……そんなことを、たわいもなくやれるようにする。そういう姉を、こいしは、望んでいるってことなのね?」
さとり様は、疲れたような笑みを浮かべた。目が死んでいる。
「こんなの、普通のひとは普通にやってることなんだよね……」
「……ま、まあ、まずは一歩からですよ。外に出ることからはじめれば」
「外に出るのもイヤだとか言ってるヤツにそんなの無理に決まってるじゃん。ジャングルジムも登れないのにロッククライミングをやろうとするようなもんだよ」
正論だった。確かにそんなよくできたさとり様はまるで想像できない。
だけど、だけど、そうじゃないんだ。
「……あたいは思うのですが。こいし様は、そういって努力もしないさとり様がイヤになったのではないのでしょうか? いつまでも同じことをただ繰り返すだけの姿がイヤだったんじゃないでしょうか?」
「……」
さとり様は、押し黙ってしまった。
「……でも。どうすればいいの? 頑張ったとしても、それをこいしに見せないといけないじゃない。……わかっているよ。そんなこと考えて止まること自体がいけないんだって。肝心なのはわたしがふんぎりをつけて、前に飛ぶことだって。だけど飛ぶためには、やっぱり……その方法が欲しいよ」
わかっている。落ちる痛みを知っていながら、ただ、漠然と、飛べ、飛べ、と言っても、飛べるはずがないのだ。
道を、飛ぶための道を、方法を、さとり様に伝えなければならない。
そう何か、こいし様にさとり様が変わった、もしくは変わろうとしている姿をビビッと見せ付けられる方法。
あや>私に考えがあります。あなたが変わった姿を、幻想郷にいるこいしさんにお見せする方法が。
「……なんだと? それはどんな方法だって」
思わず反応してしまい、それからすぐに気づいた。
ただの観客である部外者ならなんとでもいえるのだ。その方法が間違っていようが失敗しようがリスクは無いのだから。
だけどこっちはそうはいかない。ここで失敗したら、こいし様は戻ってこないし……さとり様の心は根元から折れて、二度と立ち直れなくなる。
そもそもこのどうみても悪党が、ただの善意で教えるわけがなかった。裏に何かあるに決まっているのだ。
「さとり様。こいつの言葉に簡単にのらないでくださいっ」
だけど、さとり様はもうキーボードを叩いていた。
さとり>教えてください! その方法を!
「さ、さとり様。落ち着いてください。こいつはあなたをだまくらかそうとしている。急にこんなことを言い始めたのは、こちらを絶望させて、ワラにもすがる気持ちにさせることがこいつの狙いですよ。そのワラに何かを仕込んでいるはずだ」
「ど、どうしてそんなにあやを信じないのよ! 頭ごなしに決め付けて!」
「客観的にみてあたいは判断しています」
くそっ。さとり様は心が読める状況でもコロッとだまされたりするひとなのに。心が読めないこの状況じゃ絶望的だ。
「だ、だまされたりしないじゃないのっ。おりんはいつもそうだ。わたしをバカにして!」
「だまされてることも気づいていないだけです!」
落ち着け。落ち着くんだ火焔猫燐。きっとこれからヤツは言葉巧みに表面上ではうまい方法を提案するだろう。だけどそのなかには毒や罠が仕組まれている。おまえはこのダメダメな主人の代わりに見つけなければならないのだぞ!
あたいは緊張しながら、ディスプレイに注視した。
あや>ラーメンです。
「……は?」
想像もしなかった単語に、思わず声が出てしまった。
あや>さとりさん、ラーメンバトルに参加しませんか。
ラーメンバトル。
このバカバカしく非日常的な単語の威力にやられ、ツッコミを入れる間もなかった。
あや>以前、あなたがたはインスタントラーメンを発売したことがあったでしょう。あのラーメン、実は通のなかじゃ有名でしてね。パッケージも味もあれだけトンガったラーメンはなかった、と今でも話題にのぼるほどなんですよ。
ラーメン。そう、たしかにさとり様はラーメンを作った。それどころか売り出した。「地霊殿ラーメン」という名前だった。たしか、部屋にこもってカップラーメンばかり食ってるさとり様に「そんなものばかり食べてるからいつまでたってもちんちくりんな体型なんですよ」とか言ったところ、「わたしは! これから成長期なの! ラーメンをバカにすんな! ちっくしょー!」と突然何かをスイッチが入ってしまったのだ。
そしてどういうわけか「地霊ラーメン」なるカップラーメンができてしまった。さとり様がありあまるヒマにあかせ、相変わらず部屋から一歩も出ずに必要な情報をすべてネットからかき集めて完成させてしまったのだ。
まったく売れなかった。さとり様が描いたパッケージ(なんとかカラスと猫と判別できる黒い物体が、血のように真っ赤な色の温泉に浸かり、そこでバケツみたいなドンブリのなかに入っている白いミミズ状のものをすすっているという、アウトサイダーアートじみた絵だった)も強烈だったが、致命的なのは味だった。何か分量を間違ったとしかおもえない強烈な辛さだった。
……あんなものを食い物と認識できるひとたちがいるのだから、ほんとうに世の中は広い。
さとり様も予想外の言葉にうまく対応できてないのか、しばらくぼんやりしていたけど、
「わ、わたしの作ったものを好きだって言ってくれるひとがたくさん地上にいるの……?」
そう、ウットリとした目でつぶやいた。
まずい。普段ひとから好かれたり褒められたりしていないさとり様は、ちょっとひとから肯定されるとコロッとだまされてしまうのだ!
「さとり様。そういうひともいるってだけです。全然売れなかったじゃないですかあのラーメン。おぼえてますか。ほら、不良在庫になって戻ってきた大量のラーメンを仕方なく地上のみんなに配ったときですよ。毒蜘蛛妖怪が『こ、これは毒だ! 猛毒だ!』と叫んで倒れて、鬼が『これがお前らの宣戦布告か』とか言って危うく地霊殿を潰されるところだったじゃないですか」
「み、みんなツンデレ体質なのよ。心じゃ『すごくおいしいけど素直に告白するのは恥ずかしいな☆』って思ってたの、わたし知ってるよ?」
「一秒でバレるウソつかないでください。あの鬼、マジに鬼の形相だったじゃないですか。さとり様だって腰抜かしてもらしちゃったじゃないですか」
途端にさとり様は顔を真っ赤にした。
「な、何言ってんのよ! もももらしてななんかないんだから!」
やっぱりもらしていたのか……。
「もらしてないって言ってるじゃないのこの性悪猫! くうううううっ」
「泣かないでください。とにかくあんなラーメンが好きだ、って言うひとは普通の食に飽きてゲテモノに手をつけだしたひとか、もともと味覚が壊れているひとしかいないですよ」
「ち、違うよ! いいよ、あやに聞いてみるもん!」
さとり>わたしのラーメン、知ってるんですか?
あや>もちろん。時代を先取りしすぎたハイセンスなラーメンだと思いますよ。
さとり>あやも、おいしいと思ってくれてるの?
あや>おいしいと聞いたことがありますよ。
さとり>ほ、ほんと? おいしいと思うの?
あや>おいしいという話ならおいしいんでしょうね。
さとりはくるりとこちらを振り向いて、にしし、と含み笑いを浮かべた。
「ほっらねー。あやだっておいしいと言ってるじゃん。確かにここじゃわたしのハイセンスなラーメンは理解されないかもだけど、地上にはわかってくれるひとがいるみたいね」
「寝言言わないでください。こいつどうみても自分で食ってないじゃないですか」
「……おりんは地下にずっと住んでる猫だからね、ちょっとわからないのよね……」
……どうしてこんな世間知らずのニートにかわいそうなひとを見る目で見られないといけないんだ。ノリノリでキーボードを叩いている姿を見ながら、もうこのひとを見捨ててもいいような気がしてきた。
さとり>ラーメンバトルってどういうものなんですか?
あや>はい。今要綱をお送りします。
文字列の最後にウェブのアドレスが載っている。さとり様はそのアドレスをクリックした。
すると、チラシがディスプレイに映し出された。
第一回幻想郷ラーメンバトル
伝統のラーメンバトルがここに開催
いま、幻想郷の命運を賭けた最後の聖戦がはじまる
名にしおう幻想郷のラーメンバカが一同に集う天下分け目の戦い
輝かしき栄冠は誰の手に
ああラーメンよ永遠なれ
皆様お気軽にご参加ください
初心者未経験者大歓迎!
主催 幻想ギョーザ連盟
協賛 幻想第一テレビ 大日本天狗党
想像以上というしかなかった。これ以上ないくらいうさんくさかった。ツッコミどころが多すぎて何も言えないくらいだ。こんなアホなチラシを見て参加するやつがいるのだろうか?
「……すごいわ」
「まあ、たしかにすごいですね」
「こんなすごい大会があるなんて……想像するだけでゾクゾクしてくるわ」
「いやちょっと待て。なにうっとりしてるんですかあなた」
「だって、伝統のラーメンバトルなのよ?」
「第一回ですけどね」
「最後の聖戦なのよ?」
「第一回だから、第二回もあるんじゃないですか?」
「天下分け目の戦いなのよ?」
「初心者も大歓迎らしいですけどね」
「きっとラーメンに命を賭けたようなラーメン狂いが仕掛けたのね。地下闘技場トーナメントの徳川のおっちゃんみたいな」
「主催はギョーザ連盟ですけどね。ねえ……さとり様マジでしっかりしてくださいよ。なんでこんなあからさまにうさんくさいのにもわからないのですか?」
「おりんにはわからないのよ……」
「だからそのドヤ顔をやめてください。マジで殴りますよ」
「そ、そうやって暴力を使うと、すぐPTAとかが来るよ」
「あたいはさとり様の先生ですか」
「おりんは前もそうだったわ。わたしのボディをバカにして、カップラーメンをバカにしていた! だからラーメンに命を張るようなバトルをバカにしてるんでしょう! だから人気が無いんだよ!」
「あまりにツッコミどころが目にあまるだけです! あと次人気のこと言ったらマジで殴るからな」
あや>で、ここからが本題です。重要なのは、これが幻想郷全域に放映される全国テレビ放送企画ってところです。
なん……だと? このバカバカしい企画が、全国放送?
あや>確かに一昔前まではこんな素人がラーメンでバトルするなどというだけの番組では全国放送は難しかったでしょう。しかし今幻想郷は一大ギョーザブームでして、いまや「朝ギョー」「立ちギョー」は当たり前、喫茶店でもギョーザ、バーでもギョーザ、みそ汁の具にギョーザ、おやつにギョーザと、ギョーザの消費量が昨年に比べて千三百倍にも増加したのです。結果、ギョーザ連盟は押しも押されもしない超一流企業。文字通り金が捨てるほどある状態なのです。そして税金対策として、ギョーザとセットについてくるラーメンに目をつけた、というわけです。いまや幻想郷の王であるギョーザ連盟が企画した番組なら、バンバン宣伝もされるでしょうし、話題で持ちきりになるでしょう。おそらく視聴率も五十パーセントはくだらないでしょうね。
……一体全体地上で何が起こってるのかわからないが……話の筋としては通っていた。
あや>だから、だからですよ。もしこれにさとりさんが参加すれば……そのガンバってる姿も当然幻想郷中に行き渡ります。万が一実際に観ずとも、間違いなく一度は噂で聞くでしょう。そう……幻想郷のどこかにいるこいしさんにもね。
「……!」
さとり様は、目を見開いた。
まずい。
「さとり様! ちょっと待ってください! はやまるのはやめて」
さとり>参加します。
さすがに使い慣れてるだけあって、さとり様のタイピングは速かった。
あや>即答バロスwwwww ああすみませんあまりに嬉しくて下品な言葉を使ってしまいました。いやあ私もさとりさんがとても頭が弱い、じゃなくて物分りがいい方だと感じてましたが、こんなにすぐさまだませる、じゃなくて理解していただけるだなんて! ほんとwwww笑いが止まりませんよwwwwでは参加手続きはこちらで進めますので。会場でwwwwwwお会いしましょうwwww
「さ、さとり様! 今すぐ撤回してください! こいつ、本音がボロボロ出かかってるじゃないですか!」
さとり様があたいの顔をちらり、と見てから、しばらく押し黙ったあと、キーボードに再び指をすべらした。
さとり>はい。ありがとうございます。よろしくお願いします。
「どうして! どうしてこんなうさんくさいやつの持ってきたうさんくさい企画に参加するんですか! さとり様にコンタクトを取ってきたことだって今考えればあやしいものだ。最初からさとり様の素性を知ってこのバカげた企画に乗せることを虎視眈々と狙っていたかもしれないじゃないですか」
「だってえ。おりんってばなんでもかんでも否定するばっかじゃないの」
そう言って、そっぽを向いて頬を膨らませている。こ、この飼い主マジでお子様かっ。
「もっとちゃんと考えてください。ラーメンバトルってたくさんのお客さんの前でラーメンを作るんですよね? それにきっとマイクで話したりとかするんですよね? さとり様、あなた、ちゃんとできるんですか?」
さとり様は、う、と声を詰まらせた。
ようやくまずいことになったとわかってきたらしい。ただでさえ白い顔がもっと白くなってきている。
「あわわわ……ど、どうしようおりん」
「どーもこーもありません。今すぐあやにコンタクトを取って、やっぱ止めますと伝えるのです」
あや>どうしたんですか?
さとり>ええと、ちょっとさっきのことで、お話があるんです。
あや>いいですよ。どういった話でしょうか?
さとり>あの、実は。
あや>あのーもしかしてやっぱり止めますだなんてそんな私をガッカリさせるような話じゃないですよね?
さとり>……ええと。
あや>あはは、冗談ですよ冗談。いやーたまにいるんですよそういうひと。私、世の中で一番嫌いなひとって、一度言ったことをすぐにホイホイ撤回するようなひとなんですよ。自分の発言に責任が持てないひとって最低ですよね。さとり様もそう思いません?
さとり>……そ、そうですよね。
あや>まあさとり様はそんなひとじゃないですものね。私の友人ですからね。
さとり様は、泣きそうな顔のまま、石のように固まっている。
「さとり様、こいつからはゲロ以下のにおいがプンプンします! さとり様が嫌われると断れないってことを知ってあえてこう言ってるんですよ! こんな外道と仲良くなる必要は一切ありません。『やっぱやめました。ごめんねーてへぺろ』って打てばいいだけじゃないですか? さとり様っ」
さとり様は、ついにキーボードを叩いた。
さとり>あの……あの……おやつにバナナは……含まれるのでしょうか?
さとり様は、あたいの前でじっ、と動かないまま、押し黙っている。
あたいも何も喋らなかった。別に話す必要はない。言いたいことはどうせ全部さとり様に伝わっている。
「……わかっているよ」
さとり様は、ぽつり、とつぶやいた。
「だけど、ダメなんだよ。ひとのイヤなことや嫌われることとか、どうしてもできないんだよ。そのくせいつも良かれと思ったことは全部裏目に出るんだよ。地下であまった地霊殿ラーメンをふるまったときだってそうだよ。わたしはただみんなをハッピーな気持ちにしたかったのに、殺伐とした戦場みたいな雰囲気にしちゃったもんね。ほんと笑っちゃうよね」
さとり様の声が、だんだん涙で濁ってきた。
「わたしはこれだけ嫌われないように嫌われないようにしているはずなのにね。なんでいつもこうなんだろう? 全然わからないよ。でもきっとこうしたらうまくいく、ということが、おりんとか他のひとなら当然のようにわかるんだろうね。それがわからないから、わたしはいつまでも嫌われ者だし、ひとりぼっちなんだよね」
……まずい。すべての心の言葉を勝手にネガに受け取り、さらにネガを呼ぶ。さとり様ならではの鬱のスパイラルに、入り込んでいる。
「さとり様。もういいです。反省してるのはわかりましたから。もうこの話はやめましょう」
「おりん。ごめんね。めんどくさくてごめんね」
「いや。あたいは別に」
口をつぐむ。まなじっか心の声が聞こえるさとり様には、慰めの言葉は白々しい言葉にしかならない。
うーむ。どうすればいいのだ。考えろ、おまえは優秀なペットたる火焔猫燐だろう。
ふいに、昔あたいが猫で、飼い主が人間だったときのことを思い出した。
人間というのは猫より頑丈なからだを持っているけど、猫よりずっと脆い心を持っていた。お互いに傷つくのを知ってるのにひとりぼっちが嫌いで、さびしがりやなのだ。
……そうだ。こういうときに必要なのは言葉じゃない。
そして……昔と違うのは、昔は抱きしめられたけど、今は抱きしめられるようになったことだ。
そーだ。やるか。やっちゃうかこのヤロー。フラグ立ってるぜおい。
「さ、さとり様。あの……その、抱きしめていいですかっ」
「い、いや。なんかおりん、ちょっと鼻息荒くて、怖いよ」
「じゃ、じゃあ、抱きしめてください。猫を抱くと落ち着きますよ。ほらほら」
「い、いや、あなた別にモフモフしてないじゃない。顔も吊り目で怖いし」
「猫だって吊り目じゃないすか! も、モフモフじゃなくったって……あたいこうみてもわりとスタイルいいんですからねっ」
あたいがジョジョ立ちとかしてスタイルの良さをアピールしてると、
「い、いや。うん……なんか落ち着いたから。大丈夫」
「そ、そうすか。それは残念……じゃなかった、よかったっす」
するとさとり様は、小さく微笑んだ。
「おりん。ほんとに、いつも元気にしてくれて、ありがと」
特に何もしてないのだが、ほめられることは決して嫌いじゃないのであえて否定しなかった。願わくばハグさせてほしいのだが。
「まあ。とにかくやるんですよね。やるからには、生半可な気持ちじゃ、トラウマもののひどい目にあわされますよ」
「わかっている。わたし……やるよ! こいしのためにも、そして、自分のためにも。だからおりん、お願いね」
そう言ってこちらをみるさとり様の目は、久しぶりに生き生きとしていた。
確かに必要なのは、きっかけだった。さとり様には、寝癖のついた頭にパジャマ姿でボーッと映画やゲーム画面ばかりみている生活より、もっと似合うものがあるはずなのだ。ちゃんとすればきれいなレディにもなるし、この地底を統べる女王のような威厳ももてるのだ。たぶん。
きっと、こいし様もそれを望んで、あえて外に出ていったのだ。たぶん。
ほんと、そのきっかけが、ラーメンバトルなどというふざけたものじゃなければなおよかったのだけど。
*******
二週間が経った。
またしてもさとり様は部屋にずっとこもっていた。あたいがカレーやハンバーグを持ってきても部屋に入れてくれなかった。
いつの間にか鍵を変えていたせいで、あたいが持ってる鍵では開けることもできない。
「強くなるためには山籠もりをしなきゃならないの。あの大山倍達みたいに!」などとよくわからないことを言い、旅に出るかと思いきや、逆に部屋に引きこもってしまったのだ。どうやら山とはネットのことらしい。そんなことで強くなれたら世界中の引きこもりは今頃みんなスーパーサイヤ人くらいになっている。相変わらずさとり様はさとり様だった。
しかし、一体何をやっているのか。本当にネットをしているだけなのか。また淡々と送られてくるこいし様の写真に耽溺しているわけじゃあるまいな、とつらつら思いつつ、その日も掃除を終えてお昼近くになり、朝食の残りから、ほどよく冷めたご飯に、身をほぐしたアジをふりかけて、ぬるいみそ汁をかけた「おりんりん特製ねこまんま」を作り、台所のテーブルで食べようとしていると、
「おりん」
慌てて振り向くと、そこにはさとり様がいた。
何故かダボダボの上下黄色いジャージを着ている。その姿はまるきり田舎のイモジャージ中学生だった。
部屋着をパジャマからジャージにしたのだろうか。それにしてはイモすぎるジャージだ。より一層女子力を失った気がする。とても悲しかった。
「さとり様……学生時代のジャージなんか着るのはさすがに乙女としてどうかと思うのですが」
「違うよ! わ、わたしだってそんな昔の服はもう着れないんだからね!」
「いや絶対着れるだろあんた」
「こ、これは……正装よ。これから戦場に赴く人間が、覚悟を決めて着る服なのよ」
「……まただまされたのですか?」
「違う! おりん、あなたはブルースリーを知らないの? ユマ・サーマンだって着ているのよ」
「……また映画の話ですか?」
「あーっ! おりん、今あなた、わたしを『現実と空想の世界の区別もできないかわいそうなひと』だって思ってるでしょ! 『これだから世間知らずのひきこもりは困るな』って思ってるでしょ!」
「……思ってるっすけど」
さとりは、ぴたり、と突然黙った。そして、下唇を噛みながら、うううううと目に涙をためはじめた。
「そ、そこまで思わなくてもいいじゃないのっ……わ、私だって、好きでひきこもっているわけじゃないのにっ……く、くううううっ」
「な、なに自分で喋っておいて自爆してるんすか……。ねえさとり様、ホントに強くなったんですか?」
「だ、大丈夫よ。今わたしにはブルース・リーの魂が乗り移ってるんだから……大丈夫。大丈夫、大丈夫なんだから……」
涙でにじんでいるさとり様の眼はうつろに泳いでいる。ちっとも大丈夫そうにみえない。
「わたしは強くなったの。だからあんな性悪猫に絶対負けたりしないんだから……」
だからなんであたいが敵なんだよ。
すると、さとり様が拳をにぎって「ほああああっ」とおかしな声を上げた。ついにひきこもりがたたって頭がおかしくなってしまったのかな。かわいそうに……。
「違う! これは気合よ。ブルース・リーのような、怪鳥のおたけびなの!」
「おたけびというより……まるで発声練習に失敗した合唱部ですよ。ジャージだし」
「……ぐっ」
さとり様はまだ何かを言いたい顔をしていたけど、諦めたようにいったん口をつぐんでから、
「おりん。これからラーメンを作るから、台所を貸してちょうだい」
ふざけた格好をしているが、どうやらさとり様としてはかなりマジらしい。若干泳ぎ気味だったけどその目は、ハラキリしにいくサムライのように真剣だった。
ラーメンを完成させたのだ。そしてそれをあたいに食べさせようとしている。
その出来いかんによって、ラーメンバトルに参加すべきか否かを決するつもりなのだ。
やむなく食べかけの猫まんまをおあずけしながら、あたいは猛烈に嫌な予感がしていた。
あたいが来た当初、地霊殿のごはんはなんとあのこいし様が作っていた。さすが、こいし様の料理はプログレッシブというか前衛的というかとにかくすごい料理ばかりだった。おうどんのなかにみかんやキウイフルーツが浮かんでいたり、みそ汁なのにみその代わりにミルクコーヒーだったり、チャーハンの具が金平糖だったりした。さとりはそんな妹の料理を「お、おいしいよ。私、こいしの作ったものならいくらでも食べちゃう!」と言いながら食べて、あとでトイレにこもったりしてたのだ。
そんな苦行のようなことを続けていた理由として浮かぶのはひとつだけ。おそらく、いや間違いなく、さとり様の料理のお手前は、こいし様以下なのだ。
ぞっとする。あれ以下となると……「チャーハンのもと」を使ったチャーハンすら生物兵器としてしまうような、ある意味天才的な味オンチなのではないのだろーか。以前作ったカップラーメンがクソ辛かったのもそれで納得できる。
台所からは、異様な湯気がもうもうとたちこめてきた。
その湯気があたいをとりかこんだ瞬間、がつん、と鼻に杭か何かを打ち込まれたような感覚がした。
いや、ただにおうだけじゃない。鼻と目がしみて痛いのだ。
……あたいは何を食わされるんだ?
恐ろしかった。さとり様に対して恐怖を抱いたのははじめてだった。いつも視線が泳いでいる挙動不審なかわいい生き物だなあとしか思わなかったのに。こういう感情を何と言うのだろう。下克上?
「げ、下克上じゃないよっ」
台所の湯気のなかから、にゅっ、とさとり様が顔を出した。相変わらず黄色い田舎ジャージを着ている。
「せっかく飼い主のわたしが料理を作ってるんだから、もっと喜ぶべきじゃないの。なんでキョーフとか下克上とかなのよっ」
「……あの、何かの化学実験でもしているんですか」
さとり様は何故かドヤ顔でふふん、と鼻を鳴らした。
「あらら、おりん知らないのー? 台所でやることと言えば、お料理でしょ?」
「……さっさと心を読んでくださいよ。こんな異様な匂いを発散させてるからこっちは心配してるんすよ」
「わ、わかってるわよ。そ、そんな怖い顔するの禁止、ね?」
「で、そのさとり様が仰るラーメンというのは食い物なんですか。それとも化学式で表されるような物質なんですか」
「なーに言ってるのよおりん。ラーメンといえばつるつる食べられる超おいしい食べ物に決まってるじゃないのっ」
「皮肉を言ってるんですよ。ちゃんと心を読んでください」
「まあ確かにおりんが面食らうのも仕方ないわね。今までのラーメンとはひと味もふた味も違うのだから」
「……なんかそういうレベルじゃないと思うのですが……」
「さあ、準備は整ったわ。台所のテーブルで座ってなさい。もののじっぷんであなたは味のファンタジーゾーンにトリップしちゃうのよ!」
さとり様の言葉は、不安しか生み出さなかった。
痛みを伴う湯気を手で振り払いながら、なんとかテーブルに腰をすえる。
地霊殿の地熱コンロは四つもある。昔はもっとひとがたくさんいたらしいけど、あたいがここに来た頃にはこいし様とさとり様だけで、ちょっと前まで、それにおくうが加わっただけだ。だから、今までふたつしかコンロを使ったことがない。
そのコンロが、今、全部使用されている。ふたつはもうもうと湯気を噴き上げているでかい寸胴鍋で、ひとつの鍋にはふちに振りザルがひっかけてあり、もうひとつはオタマが突っ込まれている。その奥にはおたまが中に入っている大きめの鍋。最後のコンロの前で、今、さとり様はフライパンを振っていた。気合を入れているつもりなのか、時折「ほあっ」と鳴いている。ぱっと見は子どもがおままごとをしているっぽいけど、振り方自体はなかなか堂に入っている。じゅわあ、と音の立つフライパンに、傍らの見たことのない赤い調味料を入れたり菜箸でかき混ぜている。なかなかの手つきだ。
意外ッ! さとり様は、ほんとうに料理が得意なのだ。
では、何故にこいし様に料理させるというデンジャラスなルーレットに身をゆだねていたのは何故だろう?
「よーし、できたぞっ」
さとりはフライパンの火を止めると、寸胴鍋からふたつの振りザルを引っこ抜いた。なかにはメンが入っている。そのまま流しの上に持っていき、ちゃっちゃっ、と振って水を飛ばし、どんぶりのなかにメンを入れた。そしてもうひとつの鍋のなかをおたまで一度かき混ぜると、なかの液体をすくいとってどんぶりにかけた。次にフライパンをどんぶりの上でかたむけ、なかに入っている炒めたひき肉をどんぶりにおんまけた。
とてもおいしそうだ。なんだーさとり様もやるじゃないか。こんな家庭的な女子とは知らなかったよホントに。ジャージじゃなくてエプロンとかにしてくれれば幼な妻ってかんじだったのに残念だよ。ほら、あたいたちふたりっきりで夫婦みたいだしね。エプロン……さとり様のはだかエプロンか……。うわ。すごい。想像するだけですごいよ。ああまずいまた発情してきた。あれ、なんだこの刺激的な湯気は?
さとり様は、最後に大ぶりの鍋からおたまで何かをすくいとった。
ドロドロしたその液体は、血のように真っ赤で、まるで溶岩のようだった。
それをおもいきりどんぶりのうえに落とす。
たちまちどんぶりのなかは血の海のように真っ赤になった。
瞬間、台所に入ってきたときにかんじた刺激臭が、ものすごい勢いで鼻孔を直撃した。
あれだ。あの赤いドロドロのものが、この湯気の正体なんだ
なんだあれは。
一体、何を入れたんだ?
「じゃーん。おまたせっ」
さとり様はラーメンをあたいのテーブルの前に置いた。
妙にテンションが高いところをみると、きっと思ったようにうまくいったのだろう。
この真っ赤なスープで満たされた刺激臭あふれるラーメンが、さとり様の求めていたラーメンの正しき形なのだ。マジか。
さとり様の顔をちらとみる。期待でキラキラした目でこちらを見つめている。
正直食べるのが怖いけど、あんな目で見られたら食べるしかない。
……ここであたいがこのラーメンにダメだしをしたら、さとり様はラーメンバトルを今度こそ諦めるのだろうか。ラーメンバトルにさとり様を参加させたくない気持ちは消えていない。さとり様がやってみるべきことはラーメンよりもっとふさわしいものがある気がする。もっとふんわかしてたりオシャレだったりするやつだ。
すると、さとり様の眼が、疑惑のジト目に変わった。
「ねえおりん。うそっこはなしだからね」
「わ、わかってますよ。ただ……とても辛そうなもんですから」
「でも、辛いのっておいしいじゃない? それにぶわーっと汗が出るから、くあー食ったなあ、私って生きてるんだなあ! ってスガスガしい気分になるじゃないの」
「いや、そんな充足感は要らないんすけど……」
「大丈夫よ。その赤いのは自家製タンタンメンのタレなの。ただ辛いだけじゃなくて、いろんな材料をこねくりあわせて作ったやつなの。いわゆる甘辛ってやつ? おりんには悪いけど、刺激が足りないときにこっそり野菜炒めとかの上にかけて食べたりしてたわ」
うーむ。ということはさとり様は実際にいつも食べているのだ。
と、すると、見た目真っ赤だったり刺激臭があったりするけどやっぱりおいしいのだろうか? そうだよな。さっき見たように慣れた手つきなんだから舌だけぶっちぎりでイカれてるってこともないよな。
ハシでメンを引っ張ってみた。赤いドロドロがメンに絡みついてくる。
念入りにふーふーしたあと、メンを口にいれてみた。つるつるつる、とすすって噛んでみた。
あれ、確かにアーモンドみたいなこってりした味がして甘いかも。何か変わった香辛料の味がするけど、これはこれでアリかも。
と一瞬思ったが、たちまち猛烈な辛さが口に充満してきた。
「か、からーーい! からいからいからいー!」
慌てて台所に駆け込んだ。コップに入れてる時間ももったいないのでそのまま蛇口のしたに顔を突っ込んでじかに水を受けた。それでも辛さはなかなかひかない。
まるで部活が終わった中学生のようにがぶがぶ飲んで、ようやく辛さがひいた。
ぜえぜえ、と荒れる息を落ち着けると、あたいはさとり様をにらみつけた。
「やっぱり死ぬほど辛いっす! こんなの食べられるわけないでしょーが!」
さとり様は一瞬ぬぐぐと泣きそうになったが、ぐ、と持ち直して、何故かくふふふと笑った。
「う、うそっこね。わたしをラーメンバトルに参加させたくないんでしょ」
「ちゃんと心を読んでくださいよ! これが演技に見えますか?」
「あなたの心はすべてまるっとお見通し……『ちょっと辛いけどおいしいな☆』と思っているわ」
「ひとの心を捏造しないでください!」
「う、うそお、そんなに辛いかなあ。分量間違ってた?」
どんぶりをつかむと、さとり様はハシをグーで持ち、メンを少したぐると、どんぶりに顔を近づけて、一気にずるずるずるとメンをすすった。そのまま二口、三口。
信じられなかった。あんなもの腹に入れて大丈夫なのか? たちまちさとり様の顔に、尋常じゃない汗がにじみ出てきた。見ているこちらがお腹が痛くなりそうだった。だけどメンをたぐる手は止まらなかった。仕上げにそのままどんぶりを持ち上げると、あの地獄のようなスープをずずずーっと飲み干してしまった。カラになったどんぶりをテーブルに叩きつけるように置くと、
「くあーっ! うまいっ!」
そう叫び、玉のような額の汗をぬぐうと、「ほああああっ」と叫んだ。たぶん喜びのおたけびだ。
……あたいは、すべてを悟った。さとり様が料理を作らなくなった、いや、作らせなかった理由。
さとり様の舌は、ぶっちぎりでイカれているのだ。
「な、なんで返品しろって言うのよ!」
あたいとさとり様の面前には屋台がある。ちょっとした屋根がついた、車輪のつきの、木製でやたら渋い色あいの、無骨極まりない純和風のリアカー式屋台だった。
ネットで旅をしていたときに見つけて買ったらしい。
どうやらさとり様は、このラーメンで屋台をすることまで計画しているらしい。まあ、確かにいきなりわけのわからない会場にぽーんと放り込まれたら、きっとさとり様はいろんなひとたちの勝手きままな感情にさらされて怯えた子犬のようにブルブル震えて縮こまってしまうだろう。
だからその前哨戦をするのはいい。
だけど今回は、使う武器が悪すぎる。
「だから……何度も言ったじゃないですか。こんなラーメン売ってたら、また前と同じことを繰り返すって。ヤマメや勇儀は顔なじみだったから何とか大事にならなかったんすよ。これがぼっちの地上で起こったら、ただじゃすまない。嫌われるどころか生物兵器をばらまいたといって通報されますよ」
「そ、そんなことないよ。わたしはおいしいと思っているんだから、わたしと同じような味覚のひとはおいしいと思うんじゃない?」
あたいはため息をついた。
「……あの、昔、さとり様が料理したものを食べたときのみんなは、どうでした?」
「……ええと、みんな遠慮して、あまり食べなかったのよ」
「いやいやいや心の声聞こえてましたよね?」
さとり様は目を反らしてひくついた笑みを浮かべながら、
「き、聞いてたよっ。『うわー、こんなおいしい料理はじめてだなあ。もったいなくて食べられないよ』とか言ってたし」
「だから心の声を捏造しないでください! ぜったい言ってないでしょそんなこと!」
「そ、そうね。ちょ、ちょっと、辛かったかなあ、とか言ってた、かな?」
「どうしてさとり様に料理をさせなかったんすか?」
「わ、わたしが言ったのよ。こいしにレディのたしなみとして料理を習わせたかったからね。あえて妹のために身を引く姉の謙虚さってやつ?」
「違うでしょう。みんながやめてくれって言ったんじゃないっすか?」
「ど、どうしておりんはわたしを信用しないのよ! ほ、ほんとうかも知れないじゃん!」
「かもしれない」って……やっぱりほんとうじゃないってことだよね……。
あたいはため息をついた。
「……はっきり言いましょう。こんなの食べられるさとり様がおかしいんです。さとり様の味覚はほかのひとと全然違う。さとり様が料理がヘタだとは言いません。ただ、そのおいしさの基準が違うんです。だから、さとり様の料理は、みんなに受け入れられないのです」
さとり様は、押し黙った。
どうしたのだろう、と思っていると。
いつの間にか、ううううう、と涙を流しそうになっている。
「どうして……? どうしていつもよかれと思ってやることが裏目に出るの? だから私は嫌われ者なのかなあ……? 『部屋に引きこもってて刺激もないからおかしな食事が好きになるんだ』って? そうよ、どうせ私は引きこもりで汗なんてこうでもしないとかけないのよっ……」
心がダークサイドに堕ちていたらしい。ほんとにめんどくさいひとだ。しかしさとり様はそんな心も読んでさらにずううんと落ち込んでいくのだからほんとうにめんどくさい。あ、また思っちゃった。ああくそ、ほんとにめんどくさいなあ!
どよーんと落ち込んでいるさとり様をみてあたいは、うむむ、と下っ腹に力を入れて気合いを入れた。
今度こそさとり様の説得に成功させてみせる……それがさとり様のためにもなるのだ!
「さとり様、落ち着いて聞いてください」
こどもに語り掛けるように、ゆっくりと声をかけた。
「ラーメンを諦めたとしても、別にほかに方法はいくらでもあります。正直ラーメン屋はさとり様にはレベルが高いと思うのです。ラーメン屋って、だいたい男のひとがやってるじゃないですか。あれってやっぱり体力的にきついからだと思うんですよ。ほぼ立ちっぱでスピード重視でぱぱぱっと作らなきゃならないし。だから引きこもりニート……じゃなくてインドア派のさとり様にはちょっと厳しいと思うんです」
「だ、だから、こんなこともあろうかと、ずっと『燃えよドラゴン』のテーマを聞きながら部屋のなかで腕立て伏せとかルームランナーで走りこみをやってたのよ。それにね。このカッパ製の屋台、ボタン一つでお湯きりとかチャーシュー切るとか自動でできるし」
カッパめ……何故そんなムダにハイテクなものを作るのか。
「ラーメン屋って客層がアレじゃないですか、ツナギやニッカポッカを着たごっついおっさんとか、ストレスを抱えたサラリーマンとか、行き場のないような冴えない目をした若者とか、そういった輩がフラリと入ってビールを片手にギョーザをつつきラーメンをすする、みたいなかんじじゃないですか。そんなむさくるしい空間で耐えられるんですか?」
「い、いいじゃないの。そういう荒んだ雰囲気とかジメジメした空気とかわたしにピッタリじゃない」
そういう話じゃねえっつうの。
もういい。あたいは話の内容に切り込むことにした。
「あの、さとり様のメンタル上、ちょっとそういうクセのある客が来るのはよくないとおもうんです。もっとその、ふわふわしたワタアメみたいな心を持つ客がくるようなお店がいいんじゃないでしょうか」
「……どんなお店なの?」
「そ、そうですね。さとり様はその、もっとかわいらしいお店がいいと思うんです! パステルカラーのアイスクリームを売るお店とか、ふんわりしたファンシーショップとか! そ、それで、さとり様もフリフリしたかわいらしい服を着ちゃったりするんすよ。歩くだけでフワフワ揺れるスカートとか! 胸元も大胆に開けちゃったりして! うわー! すげえ! 超かわいい! サイコー! あたいもう発情しちゃう!」
さとり様は「うーん」と首をひねった。何故ラーメンがオッケーでファンシーショップがダメなんだよちくしょう。
「あー、どうせやるならスパルタンXみたいなハンバーガー屋がいいかな。勿論注文はローラースケートはいてスイーッと取ったりしてね」
「……自分の運動神経を考えてものを言ってくださいよ。あと発想を香港から離れてください!」
「大体さー、ファンシーショップって何を売るの? 映画でも観たことないんだけど。香港に無いの?」
「ふ、ファンシーショップとは、なんかいろんなかわいいアイテムを売ってる店ですよ。だ、大丈夫ですってあたいこう見えてもゴスロリとかに詳しいんです。いつも服とかアクセを買ってる店の店長さんにいろいろノウハウを聞いてみましょう。ゴスロリテイストなファンシーショップ! これでキマリです! イケますって絶対!」
「ゴスロリファッション? どういうの?」
「ええと、あたいが着ているような黒を基調としたフリフリのあるような服です」
さとり様は「えー」と、露骨に嫌そうな声をあげた。
「おりんみたいな服? その地味な服ってこと?」
……地味な服? 地味な服と言ったのかこの黄色ジャージ女……。
「だって、そのなんかぱっと見おばあちゃんが着てそうな服でしょ? おりんが人気出ないのってその地味な服のせいなんじゃないかなってわたしずっと」
ぷちん、とあたいの頭のどっかが切れた。
ああ。これが堪忍袋の緒ってやつなんだな、と、あたいはおもった。
あたいの変化に気付いたさとり様の表情が、みるみるひきつっていく。
きっとあたいはこれからさとり様にバイオレンスなことをしちゃうのだろう。
でも、仕方ないよね。
*******
一緒に住んでいたにんげんが突然いなくなってから、何も食べなくなった「あいつ」はどんどん痩せていった。
「これだけが私の財産なの」と、あれだけ毎日しっかり手入れをしていたからだもほったらかしで、きれいだった黒髪は脂っぽくなり、からだは腐ったようなすっぱいにおいがしはじめた。携帯電話(その頃はわからなかったけど、あれは電話だったのだろう)も最初の頃はよく鳴っていたが、彼女が出ないでいると、そのうちぴたり、と鳴らなくなった。
「あいつ」とは、お互い小さいときからの付き合いだった。あたいは彼女の家の敷地のなかで生まれた。あたいの親はすぐに死んだ。そんなあたいを、「あいつ」が拾ったのだ。
もともと「あいつ」は劣っていた。からだも、こころも、弱かった。猫なら、真っ先に間引きされるタイプだ。そこにさまざまな不幸があって、あいつは家族を失なった。ひとりぼっちとなった彼女は、弱い部分をつかまされ、ひとりのにんげんにだまされ、利用され続けたあげく、簡単に裏切られた。
そして、心が壊れてしまった。
だけど彼女は死ねなかった。にんげんの世界は、簡単に死ねないようになっている。心が死んでいるのに生かされているなんて、とても不合理だと思う。
あいつは一日中、ひび割れの入った窓から、ぼおっ、と空をながめていた。
じきにあいつは死ぬ。自然の摂理によって、「間引き」される。
だから自分は外に出て、食事を探さなければならない。ずっと本能がそう言っている。そうしなければ、死ぬと。
だけどここで自分が出れば、彼女は死ぬだろうな、と思っている。
猫も人間も、死ぬときはひとりだ。そんなことはわかっている。
だけどたぶん、あいつはひとりぼっちで死ぬのは、とてもいやだろうな。彼女は、とてもさびしがりやだから。誰もいない部屋で、よくあたいを抱いていたから。
空腹よりも死にかけた飼い主を選ぶだなんて、猫としては異常だ。あの頃、もう自分は猫ではなくなっていた。尻尾もふたつに分かれかけていたし、彼女の言葉もわかるようになっていた。
あるとき、久しぶりにあいつが風呂に入った。
それきり出てこない。
ねえ。おりん。こっちきて。ねえ。
あたいは耳をぴくぴくさせると、すっくと立ち上がる。空腹のせいか、伸びをしようとしたときにふらついてしまった。
風呂場は暗かった。電気がついていないのだ。
白い湯気といっしょに、あの、腐ったものがすかすかに乾いたような、カビたにおいが鼻をついた。
死のにおいだった。生き物が生きることをあきらめたにおいだった。
彼女は、まっくらな風呂場で、コールタールのようにまっくろにみえる湯船に浸かっていた。
彼女は、あたいをみると、ざば、と湯船から立ち上がる。彼女の傷だらけのしろいからだは、骨や内臓が透けてみえるくらい、やせていた。
そのすじばった腕が、湯とは違う、どろどろした液体にまみれていた。手首がぱっくりと割れていて、そこからぶくぶくとあふれている。もうひとつの手には、刃物が握られている。
きてくれて、ありがとう。と、あいつは言った。
ねえ。わたしの、さいごのねがいを、きいてくれるかしら。
わたしは、もうじき、しぬの。
だから、わたしを、たべてよ。
おりんはたったひとりの、さいごの、わたしのかぞくなの。
そうすれば、どんなことがあっても、わたしたち、ずっといっしょでしょ?
ねえ。おりんもおなか、すいてるでしょ?
たべやすいように、これからきざんであげるからね。
あたいは、濡れた彼女の顔をみる。
表情の失せた、まっしろな顔は。涙を流しながらわらっているその顔は。
――さとり様だった。
「うわああああああああああああっ!」
自分の叫び声で、あたいは自分が布団から跳ね起きたことに気づいた。
――夢だ。久しぶりにみる、あの悪夢だ。もう終わってしまった過去のことだ。
そう理解したあとも、手の震えが止らない。まるで風邪を引いたように、額から冷たい汗が染み出してくる。
電気をつける。DVDやらマンガやらがごっちゃごちゃに積まれている、さとり様の部屋。だけどそこに主の姿は無い。
――さとり様が地霊殿を去ってから、何日経ったんだ?
あの日、あまりのさとり様の暴言にプッツンしてしまったあたいは、さとり様をボコボコにしたあと、「ラーメンやるなら勝手にしやがれ」と吐き捨てた……と思う。思う、というのはそのあとあたいはその勢いでマタタビ酒をかっくらって、ヤケになって屋台を好き放題にペインティングしたあと、気付いたら外で下着姿で眠っていたからだ。慣れない酒を飲んだせいで二日酔いで死ぬほど不快な気分のなか、テーブルにさとり様の書置きをみつけた。「わたしは おりんが おばあちゃんの服を着てても 大丈夫です ゆるしてください」とあたいの感情をさらにサカ撫でするような文章のあと、「わたし ラーメン屋台 がんばってきます」と、なぜかカタコトで書いてあった。
どうせすぐに帰ってくる。たかをくくって放っておいたけど、まったく帰ってこない。
もしかしてラーメン屋がうまくいってるのだろうか?
いや、そんなわけがない。
だって、あのさとり様だ。あたいと話していてもよく情緒不安定になるのに、まったく初対面のひととまともに話せるわけがない。知りたくもない他人の心の声を聞いて、バキバキ心が折られているだろう。
しかも、あの地上にいるのだ。「あいつ」が裏切られ、だまされ、殺された地上に。
今頃は身ぐるみはがされ、地霊殿に戻りたくても戻れず、公園の障害者用トイレのなかでブルブル震えていたり、ブルーシートのなかでダンボールにくるまって泣いているかも知れない。いや、生きているならまだいい。まだましだ。
さとり様が、耐え切れないほどの精神にダメージを負ってしまえば。
心が、壊されてしまったら。
カレンダーを確認する。
あの日から、一週間。
一週間も放っておいたのか。あたいは、バカだ!
さとり様のパソコンの電源を入れる。パスワード入力画面が現れたので、あたいは以前さとり様が入力していたパスワードを打ち込む。この猫の目の動体視力を甘くみてもらっては困るのだ。
「KOISHI」と打ち込むと、あっさりとパソコンは立ち上がった。
さて、このなかを探れば、どこかにさとり様がどこに行ったのかのヒントが出てくるかも知れない。
ちなみに、あれからもこいし様の写真は定期的に送られていたらしい。もう「こいし」フォルダのなかはおそろしい数の画像ファイルで埋め尽くされている。相変わらずローアングルが多くてぱんつはよくみえるが、顔はよくみえない。最初観たときは衝撃的だったが、だんだん神経が麻痺してきたのか、こいし様ってわりと大人びたのをはいているなあ、わりとメリハリがきいててかっこいいお尻だなあ、などと普通に見れるようになった。だけど妹のぱんつ写真にまみれている姉のパソコンというのはやはりおかしい。そしてこんな写真を淡々と送ってくる地上はマジでどんなところになっちゃっているんだろう。さとり様が心配だ。
……ちょっと待てよ。例えばこいつにお願いすれば、さとり様のこういう写真も送ってきてくれるのだろうか。た、たとえばさとり様のこういう写真がばんばん送られてくれば、それに映った背景とかからアタリをつけるのが一番の早道かもしれない。
……さとり様のこういう写真か。
いやいや待て待てこんな怪しいやつにさとり様のぱんつを写させるつもりか。
いや、だが、今は一刻を争うのだ火焔猫燐よ。さとり様を見つけるために、たまたまさとり様のぱんつがみえたところでそれはやむをえない代償だ。さとり様だって許してくれるだろう。写真に写ればさとり様がとりあえず無事だということも確認できるしね!
さとり>お忙しいところ失礼します。
あや>これはさとりさん。今日のパンツの色はなんですか?
さとり>……黒です。
あや>おや、さとりさんではありませんね。となると……性悪猫さんですね?
こいつ、どうしてぱんつの色を聞いただけでそこまでわかるんだ?
そうか……さとり様はいつも白だからか。ひとりで買い物なんてまず行かないさとり様のを買うのはいつもあたいだし、あたいは白以外を認めてないからだ。さとり様は白でなければならない。それは宇宙の真理なのだ。
……こいし様がいなくなった今、さとり様の話に登場した者のうち、最後に残った者が「性悪猫」ってわけか。
こいつ、変態だが……宇宙の真理を理解している点といい、なかなか鋭いやつだ。
さとり>……まあそうです。実は、さとり様もラーメン屋台をするんだって地上に行ってしまいまして。探しているのです。
あや>さとりさんが地上でラーメン屋台wwwwwwww ああすみませんそれは面白そう、ではなく心配でしょう。いいですよ。写真が欲しいのでしょう? 本来なら報酬を請求するのですが、今回はいいネタをくれた、じゃなくてさとりさんを心配しているあなたの心意気に免じて無償で請け負いましょう。
さっそく次の日から、さとり様の写真が送られてきた。まったくこいつらの情報収集能力には頭が下がるぜ。
それからあたいは写真を分析する日々を送った。どうやらいつも同じビルが映るところをみると、だいたい同じ場所にいるようだ。夜は近くのホテルに泊まっている。あと、さとり様はやっぱり白だ。地上に行ってグレたりはしてないようだ。でも、こんなところにほくろがあるのは知らなかったなー。場所的に本人も気づいていないかもね。あたいはさとり様も知らないさとり様のからだのことを知っちゃったわけだ。ふ、ふふふふふ。っていうかここまで見えちゃってるってことは、サイズが微妙に小さいってこと? あーさとり様ってば太っちゃったんだなあ。運動不足だしねー。恥ずかしいから言えなかったのねー。あは、あはははははあはあはあはあはあはあ
やばい。今のあたいすげえ変態っぽい。でもさー、見えちゃうんだからしょうがないじゃん。いやいやいやこれじゃこの「あや」ってヤツの同類じゃん! あたいは変態じゃないんだ淑女なんだ。火焔猫燐よ背景を確認するんだ! ああ猫神様、あたいに強い意志を! ぱんつに打ち克つ強い意志を!
こうしてまさに苦行の一週間が経った。
おおよそのアタリはついた。そしてさとり様のお尻に誰よりも詳しくなった。さとり様のお尻について一晩語れる自信はある。
さとり様、待っていてください。今このおりんがあなたを助けにいきます! 今のお尻にぴったりのぱんつもお持ちしますからね!
「確かこのあたりなんだけど……」
まわりはでかいビルが立ち並ぶ電気街だった。幻想郷の人間の里も最近は発展著しいようで、昼も夜も関係なく明かりがともっている。年がら年中暗い地底と違って、地上は年がら年中いつも明るくなったらしい。
屋台はあっけなく見つかった。間違いなくさとりの屋台だった。酔っぱらったあたいが腹いせに無骨な屋台をピンク色に塗りたくって、のれんに真っ赤なハートマークとともに「さとりんの地霊ラーメン(はあと」と丸文字で書いたのだからもう間違えるはずがない。
そう、間違いないのだけど、あたいは目を疑ってしまった。
その屋台は、電気屋に置いてあるテレビに映っていた。
……どうしてあの屋台が放映されているの? まるでわからない。
だが、とにかくラーメン屋は盛況だった。少なくともテレビ画面を見る限り、席にはすべて客が座っている。みんなむさ苦しい男なのがイヤだが、ラーメン屋だから仕方ない。
……もしかして、最近人気のラーメン屋の紹介、みたいな番組なのだろうか?
……まさか、あの辛いラーメンが地上でうけているの? ホントに?
じわじわと、感動がおしよせてきた。
ああ、間違っているのはあたいだったのかもしれない!
そうだよ、さとり様だって見込みがあったからこそはじめたんだよ! 正直今までひとと出会うだけで勝手にトラウマを背負う生活能力ゼロのめんどくさい引きこもりだと思っていたけど、料理が作れるだなんて思いもしなかったし、ちゃんと自活する能力も持ち合わせていたんだよ。かわいいだけが取り柄じゃないんだよ!
無駄足に終わったかも知れないけど、心はとても晴れやかだ。自分の子どもがはじめてのおつかいをミッションコンプリートしたときも、こんな気持ちになるのかもしれない。
テレビには出されたラーメンをすするおっさんの姿がある。
「ええい、おっさんはいい! さとり様を映せさとり様を!」
テレビにかじりついていると、テレビに映るおっさんが突然「ぐふ」とうめき、ハシがとまった。
「ぐ……ぐ……ぐう……ぐはっ」
目を見開くと、突然ラーメンを吐き出し、そのままカウンターに突っ伏した。おっさんの顔のまわりから、吐き出した真っ赤なスープがひろがってカウンターを汚していく。
「おーっと! 残念! 今回の挑戦者も完食ならず! メンを食べきることもできませんでしたーッ!」
マイクを握った天狗が叫んだ。
大日本天狗テレビのレポーターの射命丸文だった。昼間っから妖精たちが泥んこ遊びをしてるさまをひたすら流している意味のわからない番組や、博麗神社に泊り込んで誰がその貧困生活に最も耐え切るかを競うという殺伐とした番組、金髪人形使いが飲み会に参加したり自己アピールをして友達を見つけようとがんばるという、見ているこちらがいたたまれなくなる番組といったキワモノ系のレポーターをしている。
……何かイヤな予感がしてきた。挑戦者ってなんだ? 一体これは何の番組なんだ?
「究極の辛さを誇る『地霊ラーメン』、今日も挑戦者を次々と打ち砕いていきます! いやあさとりさん。ついに残り一人になってしまいましたね。さすが地獄送りの地霊ラーメンですね!」
席に座っているおっさんどもの半数がぴくりとも動かないことに気づく。
おとなしくラーメンを待っていると思ったが……まさか、動かないのではなく……動けないのか?
カメラがカウンターの奥に移動する。おー、やっとさとり様が映るぞ!
「そ、そう……ですね」
あれ、なんかへんだぞ? どうしてそんなに笑顔がおそろしくひきつっているんだ。
「だけど、最後の挑戦者はすごいですよ」
一番はしには、ちょんまげを結ったむくつけきおっさんが座っていた。
「この挑戦に命を賭けているそうです」
おっさんは、鋭い目で、さとり様を睨みつけている。
さとり様は、ひいいい、と鳴いて、後ずさりした。ほとんど泣きそうな顔だった。尋常じゃない怯え方だった。一体何に怯えているのだろう?
「な、なんで。なんでみんな、そこまでして……」
「山があれば、山に登るまで」とおっさんは低い声で言った。
「さあさとりさん! ラーメンの用意を! 地獄への片道キップを!」
ノリノリの天狗に、さとり様は何かを言おうとしたけど、その声を押し込んでうなづくと、ラーメンを作り始めた。なんだかひどくぎこちない。理由はすぐにわかった。片腕で何故かずっとエプロンを引っ張っているのだ。そんなさとり様の姿を鋭いおっさんの目が追いかけている。おっさんの視線が怖いのか、時折さとり様は振り向いておっさんを確認すると、身を縮みこませている。
できあがったラーメンを震える手でおっさんの前に置く。
おっさんは、目を閉じると、両手をあわせ、何かお経のようなものをぶつぶつつぶやきはじめた。
「さとりんの前に散っていった無数の英霊たちよ、我に力を! いまこそパワーをひとつに!」
くわ、と目を開けると、おっさんは一気にラーメンをかきこみはじめた。
あっという間にその顔は汗にまみれ、真っ赤になり、よりいっそうむさくるしくなる。時折「ブフォ、ブフォ」と肺でも患ったかのような音を立ててむせていた。
「すごい! すごいです! 挑戦者、一気にラーメンを吸い込んでいきます! 辛さを口が感じる前に入れてしまおうという作戦か! あっという間にメンが無くなった! 残りはスープのみ!」
おっさんはどんぶりを持ち上げ、必死になってスープを飲み込んでいる。そしてそれを見るさとり様も、めちゃくちゃ必死だった。なんていうか、瀕死になったゴキブリが最後の力を振り絞ってこちらへ羽ばたこうとしているのをみながら、死んで、頼むからそこで死んで、と祈っているようなまなざしだった。
おっさんがどんぶりを持ち上げたまま「ぐふ」とうめいた。ゆらり、と体が揺れる。崩れ落ちるとおもいきや、そこで踏みとどまると、おっさんはどんぶりを叩きつけるようにカウンターに置いた。
「おおおォーっ! の、飲み干しているーッ! またひとつ! またひとつ、壁を撃破したぞーッ!」
おっさんは血を吐くようなものすごい咳をすると、
「……地霊ラーメン、おかわり」
「おおー! そして、そしてーッ! 迷うことのないおかわりコールーッ! これぞ漢ッ! まぎれもない漢だーッ!」
天狗はプロレスの実況ばりに絶叫している。
「い、いやああああああっ」
さとり様が悲鳴をあげた。顔が真っ青だった。
「も、もうやめようよ。こんなの絶対おかしいよ。ラーメンはおいしく食べるものだよ? 無理して食べるものじゃないよっ」
おっさんはニヒルに笑った。
「なあに。私の体は心配ござらん。おかわり、と言っているでござろう?」
「な、なんて笑顔をこのひとはするのでしょう……まさに死地に赴くサムライの笑みです! 我々は今ここにこの男が確かに存在しているという奇跡に感謝しなければならないッ!」
天狗はそこまで言うと、にやあり、と笑った。
邪悪そのものの笑みだった。みているだけでドス黒い気分になって汗がふき出してくるような、ゲロ以下のにおいがプンプンする笑み。
……いや。こいつ。まさか。
「いや! その前に! 忘れてはならない! 報酬! この勇者への報酬をッ! 勇気に値する対価をッ! もみもみ、カメラをさとりさんにズームアップだッ! ショータイムのはじまりですよッ!」
はいはい、と投げやりな声がかすかに聞こえると、カメラがズームアップしていき、さとり様の全身を映し出した。
両手でエプロンをつかみ、下に引っ張っている理由がわかった。さとり様はスカートをはいてなかったのだ。なるほど、スカートをはいてないとパンツまるみえになっちゃうもんね。
「ふ、ふ、ふざけんなあっ」
さとり様の白はあたいだけのパンツだったのに……なんで地上波で絶賛放映中になってんの? なんで? ナンデ? ああ、さとり様は地上の風にやられて痴女になってしまわれたのでしょうか。あ、でも、痴女のさとり様もアリかも。「ペットのおりん様っ、こ、こんなはずかしいかっこうしてる飼い主をいじめてくださいっ」とか言っちゃって。うひー!
じゃなくて。発情してる場合じゃないぞ火焔猫燐。
「いやー、こんなに食べてもらえるなんてラーメン屋冥利に尽きるってものですね。さとりさん、今のご心境を!」
さとり様は、死んだような笑顔のまま、
「こ、ここまでた、食べてくれるの、す、すごく……うれしいです……ううっ」
「おおっと、あまりの感激に泣いてしまいました! いやあ、企画を立てた我々もうれしい限りですね! ではもみもみ、そろそろコールをお願いします」
やれやれ、という誰かのため息が聞こえると、
「ぬーげ。ぬーげ。ぬーげ。ぬーげ」
……え?
「ぬーげ。ぬーげ。ぬーげ。ぬーげ」
……なんなの? このコールは?
「は、はい……」
さとり様は、ぶるぶると震える手を後ろにまわし、エプロンを外し始めた。
「あのー。先に断っておきますけど」
天狗は、ひどく冷たい目で言う。
「この勇敢な行為に対して、まーさーかーエプロン一枚、ってわけはないですよねー?」
さとり様のからだが、びくり、と跳ねた。
「あとー、そんなしけた顔じゃ目の前の勇者に失礼じゃないですか。いつものようにアレをやらないと」
「で、でも、手を離しちゃうと……その、おパンツが」
天狗は、あはは、と笑う。ひどく残酷な笑みで。
「どうせ脱いだら全部丸見えじゃないですかー。いまさら押さえても意味ないですよね?」
「そ、そ、そう……ですね」
さとり様は両手をエプロンから離すと、震わせながら自分の頭あたりまで持ち上げる。
「い、いえーい」
ダブルピースをして、無理やり笑う。あふれた涙が頬を伝う。
「わ、わたしのラーメンを食べてくれてありがとう。と、とってもうれしいなっ。で、でも、ラーメンだけじゃなくて、わ、わたしも、食べてほしいかなっ。な、なんてねっ」
うおおおおっ、とちょんまげのおっさんが叫んだ。
「それがし、感激! 命を賭けた甲斐があった!」
「感激するのはまだ早いですよっ。これからが本番……!」
さとり様は、ぐすぐす、と鼻をすすりながら、
「だ、だから、わたしがもっとよくわかるように、し、しちゃうからねっ」
どアップで映し出されたさとり様の顔で、目が、完全に覚めた。
その顔は、ガチで泣いていた。
……確かに途中まで、あたいは目がくらんでいたよ。はっきりいうと、さとり様のあられもない姿を見たいなあ、とか思ってしまっていた。ぶっちゃけ恥ずかしがってるさとり様をみてちょっとむらむらしてきちゃったよ。
どんな理由でこんなハメになったのかあたいにはわからない。けど、たぶんさとり様のことだ、嫌われたくないって心を見透かされ、だまされてると知ってむざむざ罠にはまったんだ。
そんなさとり様を利用して、こんなことをさせている。
あいつらは鬼だ。外道そのものだ。
っていうかなー、さとり様を泣かすやつは、誰だって許せねーんだ!
あたいは駆けた。目指すは、さとり様のぱんつの背景に映っていたビルだ。失敗したパーマみたいな妙な髪形をしている緑色の髪の巫女が、棒立ちで突っ立ったままドヤ顔をしている写真の下に「そんな貧相な神社で大丈夫ですか」「お参り・お祓い・妖怪退治は守矢神社へ」と描かれた、どでかい看板がかかっている緑色のビルだ。すぐにわかった。
そのビルのふもとに、異様なひとのかたまりがあった。
まさか。
あの真ん中に、さとり様がいるのか? そこで、公開脱ぎ脱ぎタイムをさせられてるのか?
きっとあいつらはさとり様に向けて汚い欲望をかきたててるに違いない。それもすべてさとり様は読み取ってしまうのだ。
あのさとり様が、耐え切れるはずがなかった。
さとり様! 今すぐ飼い主、じゃなかった、ペットのあたいがお助けするぜー!
「うおおおおーっ! どけどけどけー! 邪魔するやつはみんなぶっさらうぞーー!」
あたいはそのまま人ごみのなかに突っ込んでいこうとした。
そのときだった。異変が起こったのは。
「う、うわあああああっ!」「ひいいいいいっ!」
ひとかたまりになっていた人間が、悲鳴をあげながら散り散りになっていく。どいつもこいつも恐怖で歪んだ顔をして、必死になって逃げ出そうとしている。腰が抜けて、四つんばいで離れようとするやつもいる。
よくわからないまま、あたいは逃げていく人間たちの群れを逆走していく。
何か、おかしなにおいがした。かぐわしいような、だけど、とてもきついにおいだ。
屋台がみえてきて、あのちょんまげのおっさんと天狗もみえる。ふたりとも、腰を抜かしたようにへたりこんでいる。
その視線の先に、さとり様がいた。顔を伏せて、うずくまっている。なんだどうしたんだ。間に合わなかったのか? あられもない姿に剥かれちゃったのか。
「さ、さとり様ー!」
さとり様がゆっくりと立ち上がって。こちらを向いた。
さっきかいだにおいが、急に強まってくる。
――これは、バラのにおい?
そのときだった。
さとり様の顔が、ずろり、と溶けた。まるでアイスクリームのように。
みるみるうちにからだもどろどろになり、垂れ落ちていく。
その下からあらわれたものは。
「あいつ」だった。あたいの……前の、飼い主だった人間だった。
濡れた腕に鋭いナイフを持ち、やつれた笑顔でこちらを見下ろしていた。
「わたし、きいたことがあるの。ばけねこって、ひとをたべるんだよね。おりんもなれるよ。それでわたしたち、ずっといっしょ。おりんのなかで、ずっといっしょ」
そう言って、あいつは自分の脇腹にナイフを刺した。そのまま横に引こうとして、途中でつっかえたのか、うんうんうなっている。
「ああ。おもったより切れないのね。けっこうお腹の肉って硬いんだなあ。うーん。どうすればおりんがたべやすくなるのかな?」
やめろ。
「あ。そうか。落ちればいいんだ。ここ、五階だもんね」
やめてくれ。
「そうすればぐちゃぐちゃのミンチみたいになるよね。うん。それだ」
なまぬるい湯気がまとわりついてくる。
気付けば、あたいはあの真っ赤な風呂場のなかにいた。
裸のあいつが、こちらに向かって駆けてきた。
その顔には、吹っ切れたような微笑みが浮かんでいた。その目は、はるか遠くに焦点をあわせていた。
あたいは、あいつが自分の横を通り過ぎ、窓に向かっていくのを、ただ、追いかけて、見つめることしかできなかった。
あいつが窓を開ける。ぶわり、と冷たい風が、濡れた毛をなでる。
「ちゃんと来てくれたんだね」
ベランダで振り向くと、目の前にあたいがいるのを確認して、あいつは笑う。
「わたしのことばがわかるあなたは、やっぱり、ばけねこだったのね」
ちがう。
「じゃあ、わたしをたべるんだね」
ちがう。ちがう。ちがう!
「じゃあね。したで、まってるからね。約束だよ」
あたいが駆け出そうとしたとき、彼女のからだが、ベランダから消えた。
「うわああああああああっ!」
――気付くと、あたいは地獄の淵にいた。
切り立った崖の下には、赤く輝く溶岩がうごめいている。
――忘れるわけがない。ここは、あいつが眠っている――
「……ほら、これで食べやすくなったでしょ?」
振り向くと、あいつがいた。
真っ赤なトマトみたいにつぶれてばらばらになった、あいつが。
へしゃげ、砕けた顔が、無表情で、こちらを見ていた。
「なのに。どうして、食べてくれなかったの?」
「あなたはどうして、わたしを捨ててしまったの?」
「わたしは今でもあの地獄の溶岩のしたで、ひとりぼっちでいるのに」
「あなたは楽しそうに今でも生きている」
あいつが近づいてくる。赤い肉片をぼとぼとこぼしながら、ゆっくりと。
あたいは叫んだ。叫びながら、後ずさりしようとして、背後が崖であることを思い出し、そこでバランスを崩して足を滑らせ、尻もちをついてしまう。
ごめんよ。ごめんよ。
あたいはあんたの希望を叶えようとした。冷たい部屋に置かれたあんたの死体をさらったんだ。そうしたら急に見たことのない灼熱の世界に飛ばされてしまったんだ。きっと猫の本分を逸脱してしまったから、世界から追放されたんだろう。
溶岩の中にあんたを落としたあと、あたいも飛び込むつもりだったんだよ。
そうすればいっしょになれるかな、って思ったんだ。
なのにどうしてそうしないのかって?
そうだよね。ごめんよ。はやくそうすべきだったんだ。
あいつが近づいてくる。あたいは逃げられない。おそるおそる顔をあげる。
真っ赤な口があった。あいつが開けているんだ。
代わりにあたいを食べようとしているの? それで許してくれるの?
ぱあん、と音がした。
気づくと、あのピンク色の屋台が目の前にあった。
――え?
さっきのは、なんだ?
だけど、その疑念は、目の前で起こっていることのせいで、たちまち消えた。
屋台の前にはさとり様がいて――こいし様がいた。
さとり様と背丈は同じくらい、顔のパーツも当然似ている、違うのは胸のあたりがさとり様よりおっきいくらい。
そう、間違いなく、こいし様のはず、なのだ。
だけど、あたいが知っているこいし様とは、まるで違う雰囲気だった。こいし様は何を考えているのかわからないふにゃふにゃした笑顔で、そこらへんをフラフラしているようなひとだった。それは、まるでミドリムシみたいに外界の刺激に反応して動いているようにみえたし、いつも大きく見開かれた瞳をみても、何を考えているのかよくわからなかった。そんな、まるでクラゲのようなひとだったのだ。
だけど今、あたいの前にいるこいし様は、まるで違う。目は冷たく光り、まるで何かもを見透かしているように、さとり様を見据えている。その笑みは、からっぽの笑みじゃない。品定めするような、不敵な笑みだった。
――そして、その胸のあたりからコードでぶらさがっている「第三の目」が、閉じているはずのその目が、今、少しだけ開いている。まるで、咲きかけた花みたいに。
こいし様は今、そんな笑みを、さとり様に向けていた。
「お姉ちゃんにはたかれるなんて、久しぶりだね。うれしいな」
――なんだって?
まさか……あのさとり様が、こいし様を、はたいたのか? おおよそ怒ったことを見たことのない甘々シスコンさとり様が、まさか?
さとり様は、自分がやったことにようやく気づいたのか、自分の右手を呆然と見つめていた。
それから、ひどく後悔するような顔を浮かべた。
こいし様は、そんなさとり様の表情を見ながら、とてもうれしそうだった。
「そんなにイヤなの? もう一度、この『ぼく』と会うのは」
「そうじゃ……ないよ。ただ、こいしがわたしを……」
「だけどさ。お姉ちゃん、もうちょっとでこいつらのせいでひどい目にあわされてたんだよ?」
こいし様は、地面に転がってるものをガツガツと蹴った。血だるまになったちょんまげのおっさんだった。
「や、やめなよ。こいし、蹴りすぎだよ。もう気絶しちゃってるじゃない」
「大丈夫だよ。このひと、ぼくに蹴られて喜んでたんだから。お姉ちゃんだってわかってるでしょ?」
確かにおっさんは、満足げな笑みを浮かべていた。まじで救いようのない変態だ。
「ほんとうはあの天狗を蹴りたかったんだけどな。あいつら、逃げ足が速いんだよねー。お姉ちゃんを見て、あっという間だったもんね。あはは、あの天狗、お姉ちゃんのことこれで嫌いになったかもね?」
さとり様は、傷ついたように顔をゆがめた。こいし様は、あはっ、と笑う。
「冗談だよ。あの天狗はよっぽどお姉ちゃんのことが気になったと思うよ。ただの世間知らずのお嬢様だと思っていたら実は得体が知れない牙が生えていたんだ。その牙の正体が気になってしょうがないはずよ。あの天狗は、そういう奴なの」
「そ、そう」
こいし様は、あーあ、と声を上げた。
「なんでそこでホッとしちゃうの? あいつのせいで、危うく公開生着替えをさせられるところだったんだよ。っていうか、もうほとんどアウトじゃない。そんなえっちい格好させられてさー」
さとり様は、スカートははいてなくて、上着もボタンが外れて白のキャミソールがまるみえの状態だった。ようやくそのことを思い出したのか、うわっ、と叫んで上着を覆って座り込む。
「もー、そんなんだから変な写真を撮られてるのにも気づかないんだよ」
「変な写真?」
「そ。こういうの」
こいし様は、ちょんまげのおっさんのズボンのポケットをまさぐった。
「あ、あふううん」
おっさんが変な声をあげて悶えた。こいし様がサッカーボールのように思い切りおっさんの顔面を蹴りあげると、幸せそうな声をあげて昏倒した。
こいし様が取り出したのはカメラだった。それをいじくると、うずくまっているさとり様に渡す。
それを見たさとり様の顔が、みるみる驚きから恥ずかしさで真っ赤になっていった。
「な、なんでこのひと、こんな……わ、わたしの写真を」
「天狗の仕業だよ。ぼくのところも撮ろうとしたやつがやってきたよ。別に撮られても減るもんじゃないからいいだけどね。だけどこっちだけ撮られるのって不公平じゃん? だから、後をついてやって、そいつと一緒に部屋に入っちゃった」
こいし様は、無意識を統べる能力がある。他人の意識の外に抜け出して、認識できなくなるなんてことは朝飯前だった。
「でね、ぼくの写真を使って何をするのかをずっと観察しちゃったの」
こいし様は、むくく、と思い出し笑いをした。
「いやー、すごいよ。マジどうしようかと思っちゃったよ。でもすんごく楽しそうなのね。で、あんまり楽しそうにするからさ、こいつ理性飛ばしちゃったらどうなるのかなあ、って思ったの」
さとり様は、蒼白になっている。
「こいし……まさか」
「うん。頭を意識から解放させてやったの。理性の下に抑え込まれていたモノをね、ぱーんとおおっぴらに開けてやったの」
こいし様は、あはははは、と声を出して笑っていた。
「すっごいたのしかったよー。裸になっておっぱいおっぱい叫びながら道路で一人チークダンスを踊ったり、電信柱に抱きついて腰を振ったりとかさ。ケダモノだってモノに発情したりしないからケダモノ以下だよねー。残念だけどたいしたこともできずにすぐに警察に捕まっちゃったんだけどね。でもさ、おかしいと思わない? みんなそんなケダモノ以下のきたない欲を隠してもってるくせにさ、その欲を必死になって抑え込もうとしててさ」
「こ、こいし。あなた、その能力を」
「いいじゃーん。やりたいことをやれるようにしてやったんだから。それにお姉ちゃんにとってはそのほうが気楽でしょう? みんなが正直になってくれれば、何の不都合もないもんね」
こいし様は上着をからだに掛けてうずくまっているさとり様に近づくと、前屈みになってさとり様を見下ろした。うっとりとした目で、微笑んでいた。
「それよりもさ。お姉ちゃん。ぼくの写真、見たんでしょ?」
「……え?」
さとり様の顔色が、みるみる赤くなってきた。こいし様は、うれしそうににこり、と笑う。
「ああ、やっぱりそうなんだね! なんとなくそんな気がしたから、逮捕されちゃった奴の代わりにぼくが写真を送ってやったの」
……代わりに、写真を送った? 自分のパンツ写真を、送った、っていうのか?
「なんていうの、お姉ちゃんとは運命の糸で繋がってるゆえのカン? っていうのかな。この写真は、お姉ちゃんに見てもらえるもんだな! ってビビビってきたの。まあ、ぶっちゃけそいつのパソコンのなかにボクの写真が保存されていたからなんだけどね。もう絶対地霊殿にいるひとじゃないと撮れないような写真だったからさー。あーでもよかったお姉ちゃんで。お姉ちゃんにだったらコッソリ撮られても全然いいからね」
「……」
さとり様は、顔を真っ赤にしたまま、うつむいている。
「その顔。さては、お姉ちゃんもぼくの写真を使ってみたりしちゃったね?」
「つ、使う、って、な、何になの」
「お姉ちゃんはマジメだなあ。そこはさ。うまく切り替えしてよ。ほら、本物のほうに興味がわいたとか。触ってみたくなったとか。それとも、もっとすごいこととかね」
「こ、こいし……や、やめてよ、そんなこと、言うの」
「ふーん。まーでもお姉ちゃんってムッツリだからなー。ぼくのこといつも見張ってるくせに、襲ったりはしてくんないんだもの」
「お、襲うだなんて、な、何を言ってるのよっ」
「あはは……まあ、ぼくの写真なんて何に使われようが別にいいんだけどさ」
突然、こいし様の気配が、豹変した。
「だけど、お姉ちゃんは別だよね」
――いつの間にかこいし様が、こちらを見つめていた。
「ぼくのお姉ちゃんが、こんな写真を撮らされていただなんて。八つ裂きにしても絶対に許せない」
無表情のその目に、おぞけが走った。
……まさか。気づいているのか? それを天狗に頼んだのがあたいだって。何故?
いや――わかるわけない。
いや……だけどあの目。あたいを見る目。開きかけた第三の目。
――わかっているのだ。すべて。こいし様は、自分が撮られていたことを気づき、その写真がさとり様のもとに行くことも気づいていた。つまり、あたいたちが天狗に依頼していることを知っていた。あたいたちとは、さとり様と、あたいだ。
そこまで気づいているのなら、さとり様の写真をゲットしようとその手法を踏襲できる者が誰かは、後は消去法だ。
さとり様本人を引いて残るのは、あたいだけ。
え、もしかしてさとり様のぱんつのせいであたい八つ裂きにされるの? マジで? ま、まー怒るのはわかるけど。そりゃ悪いことをしたと思うけど……でも、でもでももともとの原因はこいし様じゃないのさ。
「そうだね。そもそも私が家出しなければお姉ちゃんもこんな目にあわなかった。それはすごく、正論だよ」
――第三の目は開きかけだけど、このひとあたいの心がわかるのか?
「その顔。やーっぱりそう思っていたのねー。ということは、ぜんぶぜんぶビンゴってわけね」
……かまをかけたのか?
あたいが気づいたと思い、それからこいし様を非難するところまでシュミレートしたうえで。
「じゃあ、殺しちゃおっかなー」
軽い口調だけど、こいし様の目は、マジだった。
殺される、と思った。
「こ、こいし。おりんは悪くないよ。わ、わたし、別に気にしてないし」
「お姉ちゃんが甘いから、いつもみんながつけあがるんだ。ほんとうは『無敵』なのに。まあ、でも今回はぼくも悪いんだからなんにもしないよ。あはは。……だけど、やろうと思えば、ぼくは誰にも気づかれずに近づけるし、いつでも『頭を開ける』ことができる、ってことは覚えていてほしいかな。要は、これ以上お姉ちゃんを汚したら殺す」
獲物を狙う爬虫類みたいな目で、こちらをにらみつけている。超怖い。
「こ、こいし。もうわかったから。わかったから、お姉ちゃんと一緒に帰ろう? ね?」
「うーん。悪いけど、まだ帰れないの」
こいし様の一言に、さとり様の顔が絶望にゆがんだ。
「そ、そんなに……わたしといっしょが嫌なの……?」
さとり様は、うずくまったまま半泣きになっている。
「……お姉ちゃん」
こいし様は、そんなさとり様に、うっとりした目を向けていた。
「ごめんね。お姉ちゃん」
上から覆いかぶさるようにして、さとり様に抱きついた。ちょうどこいし様の、見た目不相応におおきな胸のあたりがさとり様の顔をむぎゅ、と押しつぶす格好になった。
「こ、こいし、く、苦しいっ」
「ぼくはお姉ちゃんが大好きだよ。世界で一番好きだよ。だけど。わかっちゃったんだよ。このままじゃ、お姉ちゃんはずっと救われないって。スーパーに行くと『どうしてそんなこと考えてるんですか? 変態さんですか?』とか思わず言っちゃってボゴボゴにされたりとか、『みんながわたしのパンツ見ようとするんです! 怖い!』と警察に駆け込んで精神病院に入れられたりとか、そんなことばっかりじゃないの。それはね、お姉ちゃんは読みたくもない心が読めるから。きたない心にお姉ちゃんの心が穢されてしまうから」
こいし様は、自分の胸をさとり様にぐりぐり押し付けながら、とろけた目で遠くを見ている。
「じゃあ、どうすればいいと思う? ぼくはわかった。やるべきことがわかったの。こうやって地上に出て、よくわかったの。お姉ちゃんが苦しんでいるのは、この世界がきたないから。お姉ちゃんが悪いんじゃない。悪いのは、この世界なの。だからこの世界はきれいにしないといけない」
「こ、こいし、だめ。だめよ、」
「だからお姉ちゃんはもっと能力を使ってもいいの。お姉ちゃんは『無敵』なんだから。『正義』なんだから。だから、腐ったやつら、きたないやつらを引き裂いてやって、ぐちゃぐちゃに切り刻んで、」
こいし様は、自分の言葉に興奮しているのか、さとり様の顔を自分の胸にこすりつけながら、はあはあと荒い息をあげている。
「世界で必要なのはお姉ちゃんだけなの。ほかはみんな死んじゃえばいい。あはは、死ね、死ね、死んじゃえ死んじゃえ」
「……こいし様。おやめください」
あたいの言葉に、こいし様の言葉が、止まった。
「あんまり物騒なこと言うのは、やめてください。さとり様が、悲しんでいます」
こいし様は、胸からさとり様を引き離した。
さとり様は、今にも泣きそうな顔をして、震えていた。
ふん、とこいし様は鼻を鳴らす。
「邪魔したのは、ほんとにそっちの理由なのかなー?」
「……何を言ってるんですか。とにかくどこのアニメかマンガから影響を受けたのか知りませんが、セカイとかセイギとかシネとかそーいう厨二病チックな物言いはやめてくださいよ。ほらそこにマジメに受け取っちゃって泣いてる子だっているんですよ」
「ふうん。おりんはぼくがマジメに話していないって思っているのね。ふうん」
……さっきからいちいち引っかかる言い方を。あたいが知ってるこいし様は確かにふにゃふにゃした子だったけど、こんなに反抗的じゃなかったのに。
「まあいいや。じゃあさ。おりんはお姉ちゃんがこのままでいいって思うの? 何にも面白くない生活を続けることがいいっていうの?」
「あなたの考えているやり方がおかしいって言ってるんです」
「おりんは、まだこの世界をわかっちゃいないのねー。お姉ちゃんみたいなきれいなものは、汚い世界には棲めないの」
「だから、世界を変える、っていうんですか? 世界はそれを厨二病って呼ぶんですよ」
「お姉ちゃんだったら。できるよ」
……さとり様だったら?
「まーおりんは知らないだろうけどねっ。お姉ちゃんの能力はね」
「こいし。やめて。やめてよ」
さとり様が、横に顔をそむけたまま、小声で言った。
「そのことを言うのは、やめて。お願い」
こいし様は、そんなさとり様を暫く見下ろしていたけど、
「ふうん。まだわかってくれないんだね。『その力』はとても素敵なものなのに。まあいいや。それよりもさ」
ふふ、と笑い、一枚のチラシを取り出した。
「さっき天狗が配っていたの。この番組、これの宣伝も兼ねていたんだねー。あいつって、ほんとうに抜け目がないよね」
ラーメンバトルのチラシだった。
「お姉ちゃん、ぼくのために、こんなのに出ることになっちゃったの? まーた口車に乗せられてだまされちゃったのね」
「だ、だまされてないよ」
「ぼくにはわかるよ。汚い奴らに囲まれて、お姉ちゃんの綺麗な心が、めちゃくちゃにされちゃうのがね」
こいし様は、相変わらず微笑んだまま言う。
「お姉ちゃん、今度こそ、立ち直れなくなるかもしんないね」
さとり様が、ごくり、と唾をのみこむ音が聞こえた。
「……こ、こいしが帰れば、わたしは出ないよ」
「うん。そうだろうね」
そこで「んふふー」と鼻で笑うと、
「でも、ダーメ。お姉ちゃんは出るの。どうしてって? ぼくも出場することに決めたから」
さとり様は、愕然とした顔で、こいし様を見た。
「……え? な、なんで? なんでこいしが出るの?」
「さあ。なんでだろうねー」
こいし様は、相変わらず底がみえない笑顔のまま、
「じゃあ、勝負しようよ。お姉ちゃんが勝ったら、ぼくは地霊殿へ帰る。二度とこんなことはしないよ。ぼくが勝ったら……じゃあ、お姉ちゃんは、ぼくのものになってもらおっかな」
「こいしのもの、って……」
「そ。ぼくのもの。つまりペットだね。あはは」
さとり様を……ペットにするんだって? いくらこいし様でも横暴だ。さとり様は、さとり様は……あたいのペットなんだぞ!
「や、やだよっ。こいしと勝負なんてしたくないよっ」
さとり様の側に座り込んでいたこいし様は、さとり様の手をにぎった。
「お姉ちゃんは、ぼくに約束したんじゃないの?」
そして、さとり様の手をそのまま、自分の胸のあたりまで持っていった。
ふたつのふくらみの間に挟まれるように、こいし様の第三の目が、そこにはあった。
さとり様は、蒼白になった顔で、自分の手に触れている半開きの眼球を、凝視していた。
「思い出してくれたんだね。うれしい」
「……忘れるわけ、ないよ」
「お姉ちゃん。ゴメンね。卑怯なやり方だと思うけど。どうしても、お姉ちゃんには出てほしいの」
「……何を考えているの? わ、わたし、もう、誰も傷つけたくないよ」
「確かにそれは痛みを伴うかも知れない。でも、それはしあわせになるための代償なの」
「……?」
そして、にっこり笑った。
「じゃあお姉ちゃん、勝負する前にさ。傷がついてないか、ちょっと確かめさせてね」
こいし様はちょっとだけ横に移動した。ちょうどあたいとさとり様の間で、さとり様のからだはこいし様に隠れてあたいからは見えなくなった。
「き、傷? な、なにをいってるの?」
「ずっと心配していたの。ぼくもおくうもいなくなったあそこには、お姉ちゃんとそこの年中発情猫だけじゃないの。だから、キズモノじゃないかだけ確認したいの」
「え、ち、ちょっや、やめっ」
さとり様の両のふとももが、こいし様のからだの脇から投げ出された。これがどういう状況かというと、つまり、さとり様は、こいし様の前で両足をくぱあと広げているわけだ。つまりこれがほんとうのさとりをひらく。
「ちょっと何やってるんですかー!」
「だあって、ぼくのものにしたのにキズモノだったらすごくがっかりするじゃないの」
「こ、こいしっ。は、はずかしいよおっ」
「こんなんで恥ずかしがってちゃダメだよ。ぼくのものになったらぜーんぶ見せてもらうもんね。あ、お姉ちゃんってこんなところにほくろがあるんだー」
「ちょ、そんなところさわら、んあっ」
投げ出されたさとり様の足がびくん、と跳ねた。
ほくろは、あたいが見つけたほくろだ。あの、お尻の内側の、かなり危ういところにある……ちょっとまじなにやってんのこの妹。
「ちょ、ちょっと待った! どっちが発情してるんですかー! 姉妹といっても限度ってもんがあるでしょう!」
いきなりこいし様がこちらを振り向いた。あざけるように笑っている。
「なんかさー、さも自分は清廉潔白みたいな顔してるけど、お姉ちゃんのぱんつ写真をお願いしたのは誰なの?」
「あ、あれは……理由あってのことです!」
「素直に言えばいいじゃないの。お姉ちゃんの今のかっこうが気になってしょうがないって」
「……いや、そりゃ確かにさとり様のはしたない姿を見たいと思ってますよ。めっちゃ見たいですよ!」
「うわほんとに素直に言った」
「でも、さとり様が嫌がることは、あたい絶対やりませんからね! こいし様は欲望を隠し持ってること自体をきたないみたいに言ってますけど、そういった欲望を持ちながら相手のために世間のために我慢する、ってことが、どこが悪いのかあたいにはさっぱりわかりません。そうやってさとり様が嫌がってるのに無理やり恥ずかしい格好させてるほうが、よっぽどひどいんじゃないですか?」
こいし様は、あたいを凝視して、しばらく押し黙っていた。
笑顔は失せて、見開かれたふたつの瞳は、憎んでいるような、悲しんでいるような、不思議な色をしていた。
「……そうよ。ぼくもよごれているの」
再び、口元に笑みが浮かぶ。張り付いたような、口だけの笑み。
「この世できれいなのは、お姉ちゃんだけ。でもこの世でお姉ちゃんといっしょにいられるのは、ぼくだけなの。選ばれたぼくはお姉ちゃんのために、お姉ちゃんが棲めるような澄み切った世界にしないといけない」
「……何言ってるかさっぱりわかりません。頭でも打ったんですか? あたいの必殺猫パンチでもう一度打ってやりましょうか?」
「ま、待って、ふたりとも、ケンカはやめてよ。わ、悪いのはわたしなんだから、わたしが変われば、んんんっ」
「お姉ちゃんは悪くないの。少しも悪くないの。……でも、まあいいや。あとで、きっとわかってもらえるからね」
こいし様の気配が、まるで蜃気楼のように薄れていく。認識の埒外に移動しはじめたのだ。
「ボクのものになるまえに、キズモノにならないでね。お姉ちゃん」
そして、完全に消えた。
「だ、大丈夫ですか? さとり様!」
さとり様は、股を広げたまま、はあはあ、と荒い息をしながらくったりと地面に横たわっている。上着ははだけ、おへそまでみえている。
うわー、これやばくね? どうみても犯罪でしょう。犯罪誘発罪だよ。理性吹っ飛ぶよ。ああまずい、あたい発情しちゃう! このままアレだ、さとり様を抱き起すふりをしていろんな部位にさわっちゃったりガン見したりして、
突然肩を叩かれた。
くそーこんなときに邪魔すんなよ、と振り向くと、制服姿の警官さんが立っていた。
「君。こんなところで何をやっているんだね」
「な、何って、その……」
「さっき通りすがりのお嬢さんから、ここで百合乱暴を働く狼藉者がいると聞いたのだが」
「……」
今はっきりわかった。
今のこいし様は、だいっきらいだあああっ!
さとり様が「おりんはまだ何もしていません! ……でもえっちなことしたいとは考えていました」とかぬかすので、あやうく未遂罪で投獄されるところだったけど、なんとか警察の誤解は解けた。
「つまり、あの中二病変態ボクっ子が、本来のこいし様だと。いうことですか?」
あたいは湯気の立つメンを念入りにふーふーしながら、隣に座るさとり様に言った。
いろんなことが一気に起こって飽和状態だし、とりあえずお腹も空いたしで、あたいとさとり様は屋台のラーメンを食べていた。
あたいは当然あの激辛の元抜きだ。味無しもやむなしと思っていたけど、思ったよりスープも下味がついていてなかなかいける。「きっとこっちのほうが売れますよ」と伝えたが、「赤いのが無いと地霊殿ラーメンじゃないもん」と即却下された。つくづく残念なひとだと思う。もしかするとDNAレベルでまっとうな人生を歩めないように定められているのかもしれない。
屋台の丸椅子は、なんだか立てつけが悪くて、さとり様もあたいも時折ガタガタ揺れている。
「ま、まあ、その言い方はどうかと思うけど……あれが目を失う前のこいしなの。わたしも最初にこいしの目が開きかけているのに気付けばよかったんだけど、ただ、急に冷たくなって『家を出る』って言われちゃったから、もうびっくりしちゃって……」
「……とすると、こいし様は、自分の目が戻りかけているのを、確信的にさとり様へ伝えなかった、ってことですね。さとり様がキョドってこいし様の変化に気付かないことも計算づくで。で、勘違いしたさとり様が必死になって地上まで自分を追いかけてくるように仕向けた」
でもその理由が、いまいちよくわからない。さとり様に苦難の道へとあえて誘っているようにしかみえないのだ。
それがさとり様の怠惰な人生を改めるための愛のムチというわけではなく、むしろ「今度こそ立ち直れなくなるかもね」と絶望するのを望んでいるようにみえる。
こいし様はさとり様が嫌いになった? そんなわけじゃない。それどころかもはや「さとりお姉ちゃん教」の狂信者といえるくらいだ。
さとり様を絶望させて、自分だけのものにしたいのか? でも、「お姉ちゃんが負けたらぼくのもの」ってのはその場でとってつけたように思えるんだよなー。
うーん……なんだかぜんぜんわからない。
「わかりますか。さとり様は」
「……」
あ。これは、わかってる顔だぜ。
「……なんですぐわかるの? やっぱりおりんって覚りなの?」
「だからそんなに顔に出してればわかりますって……で。どうわかってるんですか」
「……ねえ。わたしに近づいたとき、おかしなものを見なかった?」
「……おかしなもの?」
「おりんが思い出したくもない、いやな過去」
――何もできないあたいの目の前で、ベランダから姿を消した長髪の少女。ひしゃげてつぶれた頭蓋。あちこちがばらばらに飛び散ったからだ――
「ごめん!」
さとり様があたいの手を取って、ようやく我も返った。
「いやなもの、思い出させちゃったね。あれは、わたしの力なの」
「……さとり様の力?」
「心の奥底に隠し持っているそのひとの持つトラウマ。わたしは、それを引っ張り出すことができるの」
ちょっと考えたくて、あたいはさとり様から視線をそらして見下ろした。半透明のスープで満たされたラーメンがうつり、あたいはハシでそのなかに漂うメンをゆるゆるとかきまぜる。
……あれが、さとり様の力だって?
あのとき、たくさんの人間が逃げていくのを見たけど……あれもみんな、その力のせいだっていうのか?
「でもね。それだけじゃない。わたしは、引っ張り出して、むきだしにされた心を、むさぼり食ってしまうの」
「……心を、食べる?」
「心が食われたひとは、心を無くしてしまう。つまり、こいしみたいになってしまう。いつもニコニコしているけど、本当は何も考えていない。まるでこどもか動物みたいに、ただ、なんとなく反射的に動くだけ。そんな、ひととして大切な部分が抜け落ちてしまうの」
――あのとき、確かに「あいつ」はあたいを食べようとしていた。
食われていたら。あたいは心を失っていたのか?
「……バラのにおいがしなかった? あれは、こいしの力なの。こいしの力は、無意識を操るもの。心を裸にしてしまい、理性や感情で普段隠し持っている欲望をさらけだしてしまう。たとえるなら、行動にまったく制約のない夢遊病のひとに『一番やりたがっていること』を無理やりにでもさせてしまうようなものよ」
「……」
「つまりね。わたしは、こいしのその力に引っかかってしまい、もう少しで、おりんの心を、食べるところだったのよ」
「……」
あたいは、さすがに、すぐに言葉を出すことができない。
……つまり、どういうことだってばよ。さとり様は、ホントはあたいを心を食べたくなるほど嫌いだってのか? うおおおお……めちゃショックなんすけど。
「そうじゃないの。たまたまおりんが近くに寄ってきたから、今回はおりんを食べようとしただけ。わたしは、本当のわたしはね、この世界のすべてが嫌いなのよ。だから、近くにあるものを無差別に食ってしまうの」
「……えっ? せ、世界が、嫌い?」
「そうよ。わたしは、この世界すべてが、嫌いなの。ひどい悪夢を見せつけるのも、心を食べるのも、全部嫌いだからなの」
さとり様の顔は、ひどく暗かった。
「なにひとつ自分の思い通りにいかない、イヤなことばかり続くこの世界をね。ほんとうは消してしまいたがっているの。そして、実際にわたしはそうできるの。とてもひどいやつでしょう? ドン引きでしょう?」
「……もしかして、さとり様は、だから、外に出たくなかったりもするんですか。さとり様としては、本当は傷つけたくないけど……そうやりかねない自分が怖いから、だったら誰とも会わないほうがいいや、って思ってたんですか?」
これ以上嫌いたくないからシャットダウンする。
これはとてもシンプルな解決方法だ。
だけど、とても、さびしいやり方だった。
「……」
さとり様は、押し黙っている。
……もしかすると、こいし様は、それを知って……
さとり様の幸せのために。
嫌いな世界を変えようと、しているのか?
……だけど、どうやって?
「こいしは、わたしの力を……特別なものだとおもっているの」
……さとり様を「無敵」と言っていた、こいし様。
「ちょ、ちょっと待ってください。ということは、そのさとり様の力がラーメンバトルのときに発動したら。さとり様にテレビで頭がパーンってさせられたひとが幻想郷全国に放送されるってわけですか。んなことになったら放送禁止レベルどころじゃない。戦争でもおっぱじまりますよ!」
あたいの言葉を聞くさとり様は、傷ついたような表情で、黙っている。
……え?
まさか、それが狙いなの?
世界を変えるために、世界を相手にしてたったふたりで戦争をおっぱじめるつもりなの?
いや、どう考えても頭がおかしいだろ。さとり様の力がいくら凶悪だったって、いくらなんでも、無茶だ。どんだけ無双すれば勝てると思っているんだよ!
「さとり様! こいし様はアホです。とっとと連れて帰りましょう」
「無理だよ。こいしは逃げようと思えば、いくらでも逃げられる。おりんも知ってるでしょう? それに連れ帰ったとしてずっと監禁するの? どっかの吸血鬼はそうやってるみたいだけど……できないよ、そんなこと」
「じゃ、じゃあ、ラーメン大会に出るっていうんですか! これだけわかってるのに! なんで、なんでいつもさとり様は……そんなにわかっていながら落とし穴にみすみすはまるようなことばっかりしようとするんですか!」
「ごめんね。おりん。だけど、こうするしかないの」
「……こいし様との約束のため、なんですか?」
こいし様が、胸元の第三の目をさとり様に触れさせながら、何かをつぶやいていたのを思い出しながら、あたいは言う。
「どんな約束か知りませんが、その約束は、世界と釣り合うものなんですか」
「そうよ」と、さとり様はきっぱりと言った。
「こいしが行くのなら、わたしも、行かなければならないの」
「どうして!」
「こいしは……わたしのために、目を捨てたから」
さとり様は、ドンブリをつかんだまま、遠くを見ていた。
「だからわたしは、こいしの目にならないといけないの。いつでも近くにいないといけないの」
――あたいは。
さとり様の顔をみて、それ以上のことを、何も言えなくなった。
だめだ。この目は、この顔は、何を言っても聞かない顔だ。こうみてもさとり様はおそろしく頑固なのだ。
「……ラーメンで地霊殿は滅びましただなんて、まったく笑えないんですけど」
「わかっている。でも、あの子を止めるためにも、行かなきゃならないの。こいしのあの力は、怖い力よ。あれを無差別に使っていたら……いったいどうなるのかわからない」
「いや……あたいは正直、こいし様にさとり様があわさって爆弾がふたつに増えるよーにしかみえないのですが。嫌われたくないので引きこもっていたさとり様に、不特定多数の前に立ちながら、こいし様の策に溺れずに耐え抜く精神力があるんですか?」
あたいの言ってることは、まったく正論のはずだ。さとり様もぐうの音が言えず、詰まっている。
「だ、大丈夫よ」
ぎこちなく笑って、さとり様は言う。
「ほら、今回のラーメン屋だっていろいろあったけどうまくいったしね。もっとサイテーかと思ってビクビクしていたけど」
「脱衣ラーメン屋台にさせられて生脱ぎを地上波に流された時点で十分サイテーですよ」
「ま、まあ確かにひどい目にはあったけど……けっこうたのしかったし」
「たのしい。生脱ぎショー、たのしかったんですか?」
「い、いやいやそこじゃないからそんなに鼻息荒くしないでよっ。ほ、ほら、ひとと接すること、って、や、やっぱりいいなあ、と思ってさ」
「接したのは変態野郎ばかりじゃないですか」
「だ、だから……大丈夫だから。おりんは安心して地霊殿を守っていて。ちゃんとこいしを連れて帰るからさ?」
「……ひとりで、行くつもりつもりなんすか」
「うん。大丈夫だから。ほんとに、大丈夫だから」
あたいはしばらく押し黙って、さとり様を見つめた。
さとり様は、作り笑いを浮かべているけど、不安を押し殺そうと超がんばってるのがみえみえだった。
あーもー、こんなに大丈夫じゃない笑顔ってないよなー。なんでこのひとって他人の心が読めるくせに。嘘をつくのがヘタなんだろうね。
「……あたいも一緒に出ますよ」とあたいは言った。
「地霊殿は『特攻野郎☆ゾンビフェアリー』に任せておきましょう。金さえもらえば何でも引き受け、不可能も可能にする、神出鬼没の頼れる妖精集団ですよ」
「だ、ダメだよ!」
さとり様はカウンターをばんと叩くようにして両肘を立てた。ラーメンが揺れた。
「わ、わたしの能力は無差別なのよ。だから、力が発動したら、さっきみたいに……。わたし、おりんの心を、食べたくないよっ」
「でも、どーせそうなったら地霊殿はおしまいじゃないすか。地上のやつらの頭をパーンさせて『やりすぎちゃったーごめんねてへぺろ☆』ってしてもきっと許してくれないでしょうし」
「に、逃げればいいんだよ。おりんだって、今回でわかったでしょ? わたしと一緒に住めば、いつか、心を、食べられるのよ。今、この瞬間だって……そうなるかもしんないんだよ。わたしはそうする力があるし、ほんとうは、それを、望んでいるんだよ」
「……」
「おりんはもともと地霊殿にいたわけじゃない。どこに行くのも自由だよ。だって、あなたは猫だから。そ、それにわたしと違って世間慣れしているし、なんでもスマートにこなすし、妖精の扱いだってうまいもの。きっと、どこへだってうまくやっていけるよ。わ、わたしみたいなコミュ障の引きこもりよりいい飼い主なんてたくさんいるしね。だ、だから、」
「あまり悲しいことを言わないでください」
さとり様は、驚いた顔を、あたいに向けている。
「さとり様」
「は、はい」
「あたいの心は、読んでいるんでしょう?」
「……うん」
「じゃあ。それ以上何も言わないでください。どこへでも行けだなんて、もう、言わないでください。あたいの居場所は地霊殿だけです。そして、あたいのペットはさとり様だけなんですから」
「……か、飼い主の間違いだよね?」
「細かいところをツッコまないでください。あたい今いいこと言ったんですから」
あたいは残りのメンをすすると、どんぶりを持ち上げて、ぬるくなったスープを一気に飲み干した。
どん、とカウンターに置いて、まだハトが豆鉄砲をくらったような顔をしているさとり様に、
「こいし様は、自分が負けたら帰るって言ってました。要は勝てばいいんですよ。だから、二人で、勝ちましょう。そして、こいし様と一緒に帰りましょう。それでこのバカバカしい騒動はおしまいです。わかりましたか?」
「……ふたりで」
「そうです。ひとりよりは、なんぼかマシでしょう?」
さとり様は、やっと、ほっ、としたような顔をして、少しだけ、ほほ笑んだ。
だけど、またしてもその笑顔が崩れてくる。たちまち涙が溢れてくる。ラーメンのスープのなかに、ぽたり、ぽたり、としずくが落ちていく。
あたいは、白いハンカチを差し出した。さとり様はそれを受け取ると、顔を覆って、
「う、ううううううううっ。うううううううううっ」
……まったくよく泣くひとだ。と、思った。
「だ、だって……ほ、ほんとうはっ……心細かったんだものっ……ひ、ひとりでラーメン屋やるのだってっ……毎日毎日おかしな客から気持ち悪い心を見せられて吐きそうだったし……あ、あんな真似させられても、誰も助けてくれないしっ……」
「……泣くほど嫌なら、そんなに我慢せずにやめればよかったじゃないすか」
「だ、だって……だってっ……こ、これで、あやまでいなくなっちゃったら、わたし、ほんとにひとりぼっちでっ……」
あんのやろー。さとり様の心細い気持ちも利用してあんな真似をさせやがったんだな……マジで許さん。
「だ、だから、毎日毎日、おりんがいればよかったなあ、って思ってたの。そ、それが、やっと今ね、本当におりんがここにいるんだ、ってわかって、わたし、ひとりじゃないって思ったら、もう安心しちゃって、ごめんね、何言ってるのかわかんなくて……」
「……わかりますから、大丈夫ですよ」
うーむ。そこまで自分の存在を認めてくれてるなんて。あたいちょっときゅんときてしまったぞ。っていうかなんかこれってフラグ立ってんじゃね? ついに燐さとの時代がやってきたんじゃね? うおおおっ。うおおおおっ。
と思いつつさとり様を見て、さとり様の顔を覆っているのが白いハンカチじゃなくて持ってきた替えのぱんつなことに気づいた。
「……」
「……」
あ、フラグが消えた。
心が読めるって、ホントこういうときに融通が利かないよね……。
またファミコンでもしているのだろう。まったくどうしてあんなに同じゲームばかりダラダラできるんだろう。
仕方なくよそったカレーを持って部屋のドアを開けてみると、さとり様はえぐえぐ泣きながら部屋の真ん中で椅子に乗って、天井に引っ掛けられたナワで首を吊ろうとしていた。
「も、もう死ぬ! 死ぬしかないじゃない!」
またか。
「今度はなんですか。ひきこもって毎日毎日飽きもせず同じようなゲームとか本とか映画をダラダラみてたりする非生産的な生活を『ニート乙w』とか誰かに心のなかで笑われたんですか。それともスーパーに行ったら久しぶりに他人と会話したのでレジでキョドッてしまって『なにこの不審者ww』と心のなかで笑われたとか?」
「ち、違うよっ。もっとつらいことがあったのっ。もう死にたいって思うくらいのことよ!」
「今の状況より死にたいと思うことなんてあるんすか。マジさとり様って強いと尊敬しますよ。あたいだったら暇すぎて発狂してます」
「ぐっ……お、おりん、もうちょっと優しい言葉をかけてもいいんじゃないの……?」
「まあ、とにかくごはんを食べながら話しましょう。ほら、カレーですよ」
カレーと聞いて、さとり様の鼻がひくついた。
「……まあ、そうね」
さとり様は素直に椅子から降りて、カレーを受け取った。もぐもぐと食べながら、
「……なんかぬるいんだけど」
ペットに食わせてもらってる飼い主のくせに、相変わらず口が減らない。
「あたいの舌にあわせてるので、ごはんは冷や飯です」
「ペットに冷や飯を食わされた……死にたい」
「勝手に死んでください。で、どうして死にたいと思ったのですか?」
「……こいしが」
ほろり、とさとり様は、涙をこぼした。
「こいしが! 家出しちゃったのよ!」
「こいし様が家出? それって、いつものことじゃないですか?」
こいし様はなんていうかフリーダムなひとで、カレーを寿司にぶっかけて食ったり、野良猫とジャンケンをしたり、居眠りしながらプロレスをしたりとまったく行動が読めない。しかも気配を消してしまうので、フラフラとよくどっかに消えてしまうのだ。
「この前だって一週間くらいどっか行ってましたけど、名状しがたき形状の生き物と仲良く手をつないで帰ってきましたし。大丈夫ですよ」
「違うの。いつものこいしとは、違うのよ。だって、スーパーマリオをやってるわたしをみて、『お姉ちゃん、それ、ほんとうにそんなにおもしろいの?』って聞いてきたのよ!」
「……いや、めっちゃ正論じゃないすか。さとり様、それ10年くらいやってますよね?」
「いつもなら『キンタマリオ! キンタマリオやって!』ってニコニコかわいらしく笑っているのに! 超泣きたくなったけど、わたしはそこでグッとこらえたの。わたしはお姉ちゃんなんだから、ここはお姉ちゃんらしく気さくなやり方で他の楽しいことを提案しなければってね。で、『じゃあ、映画でも観る?』って、誘ったのよ。一方的に自分の好きな映画を押し付けるのはよくないから、『男たちの挽歌』で二丁拳銃のすばらしさをたっぷり堪能するか、『プロジェクトA』でラスボスの海賊を簀巻きにして爆殺するシーンに燃えるかどっちがいい? と聞いてね」
「いやどっちも似たようなもんじゃないすか。香港映画だし」
「何言ってるのよ! ジャッキー映画とジョン・ウー映画をいっしょくたにするなんて、だからおりんは人気が無いのよ!」
人気は関係ないだろ……ちくしょう。
「そしたら、そしたら……こいしが、こいしがああああ」
「何いきなり泣き出してるんすか」
「こいしが言ったの……『お姉ちゃんの人生、すごく、つまんなさそう』って。『わたし、そんなのイヤだから。ここを出て地上に行くよ』って!」
……確かにいつものこいし様とは違っていた。こいし様はこの姉にしてこの妹ありというか、そんな風にさとり様にまっとうな意見を言ったりしないし、建設的な行動もしない。まったくふたりそろって不毛な姉妹なのだ。
よくわからないが、こいし様は姉のダラケっぷりを見て突然その不毛さに気付き、これではいかんと開眼したのではないのだろーか。となると、本気の家出かもしれん。うーむ……でも、それはいいことかもしれないな。
「ちょ、ちょっと待って。なんでおりんってばさっきからこいしが家出したことに対してそんなに冷静なの? 心配じゃないの? そんなクール気取りだからあなたは人気が出ないのよ!」
「だから人気の話はやめろってんだよちくしょう。……こいし様のことは確かに心配ですけど、こいし様の主張は全然間違ってないじゃないですか」
「……わたしの人生がつまんないって言うの?」
「そうです」
うわああああっとさとり様は両手で頭を抱えて悶えた。
「ひ、ひどい! なんでもうちょっとオブラートに包んだ言い方ができないのよ!」
「だって、どうせ心を読むから本心がわかるじゃないすか……」
「違う! どーしておりんはわたしをいたわるような言葉をかけてくれないのよ! わたしが求めているのは優しさなのよ! 思いやりってやつなのよ! ちょ、ちょっと待って……お願いだからそんなかわいそうなひとをみるような目で見ないでくれるかな? すごい傷つくから」
「でも、どうせ心を読むから」
「あああああだからそうじゃなくて! せ、せめて……せめて、外面だけでもとりつくろってくれない?」
「さとり様……どんだけ優しさに飢えてるんすか」
「だって、みんな優しくないんだもん……」
「とにかく、こいし様はさとり様の不毛で怠惰な生活っぷりをみるのがイヤになって家出してしまったというわけですね」
さとり様はぐうう、と下唇を噛んだ。すごい目で、こっちを凝視してくる。恨みがましい目で見ているつもりのようだけど、なんかお菓子のおあずけを食らっているこどもくらいにしかみえない。
「……教えてほしいんだけど。わたしの人生の、どのあたりがつまんなさそうなの?」
「……えっ?」
ストレートな質問だった。しかし悩んでもさとり様にはどうせごまかしはきかないのでストレートに返すことにした。
「全部ですね。全部つまんなさそうです」
うぎゃあああああっとさとり様は頭を抱えて地面に転がりながら足をばたばたさせた。
「か、飼い猫が……飼い猫がいじめるよう……」
「いじめてないですよ。部屋にひきこもって、ゲームをして、テレビをみて、マンガを読んで、またゲームをして。毎日毎日かわりばえのない、ただ同じところをグルグルグルグルまわっているだけの生活のどこが楽しげですか? そんなお姉さんを見てもこいし様もイヤになるってもんです」
「じゃ、じゃあ、わたしに外に出ろっていうの?」
「よくわからないのですけど、こいし様は、それを望んでいるのでしょう?」
「だ、だって……だって、みんな『覚り』のわたしが外に出ると、すごく気まずいじゃないの。イヤな気分になるじゃないの。だからわたしは仕方なくひきもってやっているのよ……世界の平穏のために!」
「世界はさとり様ぐらいでビクともしません。さあ、まずはゲームや映画を捨てて町に出ましょう」
あたいは寝転がってるさとり様の手を引っ張って起こそうとすると、ぎょっとした顔でイヤイヤしている。
「ま、待って。こ、心の準備がまだできてないから。たくさんのひとの前に立つと、いろんな心が一気にわたしに向けられるじゃない。あれが怖いのよ」
「またーそんな自意識過剰な中学生みたいなことを。ちょっとかわいいからってなめんなよ」
「い、いや、そういうのじゃなくて……その、ちょっとでもおかしなことをすると、誰かに嫌われるんじゃないかなって思って、すごく疲れるの」
でた。さとり様の「嫌われたくない病」だ。
心を読めるから、そのひとが嫌だと思っていることができない。嫌われたくないと思ってしまうから、したくもないことまでやってしまう。
「誰かも知らないひとにまで気を遣っていたらそりゃ疲れますよ。ビョーキになります。無視すればいいんですよ」
「でも……聞こえちゃうんだもの。聞こえちゃうと、無視できないじゃない」
「……でも、一歩も外に出なければ、嫌われるもクソもありませんよ」
「それでいいもん。おりんとかこいしがいればわたしは……あっ」
「そーです。こいし様は、そんなさとり様がイヤでいなくなっちゃったんでしょう? 今まで通りじゃダメだってことですよ」
「う、うー……ど、どうすればいいっていうの?」
「大丈夫、要は嫌われなきゃいいんですよね。じゃあ、とりあえずオシャレをするために洋服屋さんに行きましょうか!」
「な、なんか前もそう言ってたよね」
「だって、絶対かわいくなりますよ。めっちゃかわいくなりますよ。かわいければどんなにアレな性格だって絶対嫌われませんってマジで。ほらこの前あたいが見せた雑誌に載ってるかっこうとかどうですか? 町で見かけたメイド長とかいって載ってたやつです」
「えー……あ、あれ、スカート短すぎない?」
「いいじゃないですか。さとり様は足も……そんなにすらっとしてませんが……腰のくびれも……そんなにありませんが……でも、いいじゃないですか」
「な。何がいいのよっ。どこもちっともよくないじゃない!」
「さ、さとり様がミニスカメイドになることがいいんですよ!」
あたいが帰るとさとり様がこう言って出迎えてくれるのだ。「ペットのお燐様、お帰りなさいませ」って。ぺこりとお辞儀すると、スカートがふわん、と上がっちゃって、なんかすごいふとももみえまくり! うおー! うおー! ああまずい。想像しただけで発情してきた。
気付くと、さとり様はずいぶんあたいから遠ざかっていた。怯えた目で、こちらを見ている。
「……じょ、冗談ですよ」
こほん、と、咳払いをして、
「で、結局どうするのですか。きっと、さとり様が地上に行ってこいし様を連れて帰る、ってことが、さとり様が変わった! ってことを知らしめるのにベストだと思うのですが。ついでに服装もイメチェンしてオシャレにすればなおグッド」
「ぐっ……」
「まあ、どうしてもさとり様がイヤだって言うのなら、あたいが行ってきましょうか? こういう姿になる前……つまりただの猫だったときには地上に住んでましたし。何も知らないさとり様よりはマシだと思いますよ」
さとり様は、ぎょっと目をむいた。
「だ、ダメよ! そんなの!」
「へ? 行かなくていいのですか?」
「だ、だって……地上って怖いじゃないの! おくうだって二度と帰ってこなくなっちゃったし……」
おくう。
あたいも、おくうのことは気にかかっている。「ウチ、ヒーローになってくるよ」とよくわからないことを言って地霊殿を出たまま、ずっと帰ってこないのだ。あいつは鳥頭で記憶が三日くらいしか持続しないので、今ごろ地霊殿にいたことも忘れているかもしれない。
あのときもさとり様の落ち込みようはひどかったけど……なるほど、おくうのことがあったから、今回もすごく心配しているのか。
「地上は……この地下よりも、もっときらびやかで、誘惑が多いところよ。おりん、あなたまで引っかかっちゃったら……」
さとり様……あたいがいなくなっちゃうことをそんなに心配して……。
「……わたしの部屋を掃除したり、ごはん作るひとがいなくなっちゃうじゃない」
「そんなこったろうと思いましたよちくしょう」
「ああ、でも、こいしもそういうのに引っかかって戻ってこなくなっちゃったら……ああああ」
「あたいもさとり様も地上に行かないとなると、他にこいし様を探すひとがいませんよ」
「……いや。まだ方法は、あるわ」
「というと」
「自分たちで地上で行かなくても、すでに住んでいるひとにお願いすればいいのよ」
さとり様は部屋の隅に置いてあるパソコンの電源を入れた。
「こんなときに、またくだらない拳法映画とかでも観るつもりですか」
「わ、わたしのジャッキーチェンをバカにしないでよ! 確かにそういう使い方もしてるけど、パソコンはそれだけじゃないのよ。インターネットにつながれば、部屋にいながら外のいろんなひとと接触したり会話できたりするのよ。ステキでしょう!」
そういえば昔、さとり様は電話魔だった。地霊殿にきた最初の頃は携帯を持たされて、お互い地霊殿にいるのにわざわざ電話を鳴らし、「買い物に行くときにとんがらし麺とうまい棒の納豆味とドクペを買ってきて」とか言ってきたのだ。食事もわざとずらしてひとりで食べるか、こいし様と食べるか。一ヶ月くらい顔をあわせなかったりしたときもあった。そんなコミュニケーション力が絶望的に欠如しているさとり様にとっては、パソコンというのはまさにうってつけの機械なのだろう。
さとり様はパスワードを入力してパソコンを立ち上げると、いろいろとキーボードをカチカチ叩いた。するとディスプレイに文字があらわれた。
さとり>お久しぶりです
あや>おや珍しい。地下の幼女さんじゃないですか。今日のパンツは何色ですか?
さとり>白です
「ちょっと待ってください。なにナチュラルに教えているんですか」
さとり様は「ふふふ」と笑いながらドヤ顔で、
「天狗の世界だと、こういう挨拶みたいなのよ。おりん、あなたは知らないでしょうけどね」
「それ、間違いなくだまされてますよ」
「ふっ、わたしをただのひきこもりだとおもってあなどっていたでしょ! 実はあなたよりも外のことをたくさん知っているんだからね」
「だからだまされているって言ってるじゃないですか」
あや>また目つきの鋭い悪辣な猫の話ですか? 今度はどんなひどい目にあったんですかね。
「さとり様。説明を求めてもいいですか」
「ち、違う、違うのよ。だからそんな鋭い目で見ないで。どうせ相手もこっちも誰だかわからないんだから、ちょっと自分の設定を変えてみたくてね。わたしは地下に囚われた悲しき美少女っていう設定でね」
「さとり様は勝手に部屋に閉じこもっているだけじゃないですか。よくそんなに都合よく自分を美化できますね」
「い、いいじゃないの。妄想しているだけなら誰も迷惑かけてないし」
「あたいがめっちゃ迷惑受けてるじゃないですか」
さとり様は返事をせず、キーボードをたかたか叩きはじめた。都合が悪くなってきたからスルーするつもりだ。物理的に聞こえなくても心の声でバッチリ聞こえるくせに……ちくしょう。
さとり>実はお願いしたいことがありまして。わたしの妹を探してほしいのです
あや>以前お話していた、食べちゃいたいくらいかわいい妹さんのことですね。では写真を送ってください。
さとり様は「こいし」フォルダをクリックした。ものすごい数のファイルがずらりと並んでいる。どうやらそれはすべてこいし様の写真だった。なかには風呂場の写真っぽいのまである。そんなヤバい写真をあたいに隠そうともせずに、「うーんどれがいいかなあ」とさとり様は吟味していた。ああ、犯罪者ってのは、こうやって常識がだんだん無くなってどんどん大胆になって捕まるもんなのだろう。もしかするとこいし様が家を出ていったのも、こんな姉がキモかったからかもしれないな……。
すると、いつの間にかさとり様が涙目になってこちらをにらみつけていた。
「い、妹を愛でることがっ……! どうしてキモいのよ……っ! あなたには親族の情ってものがないの……この悪党猫っ……! おまえのせいでわたしはこんな地下室に閉じ込められているのよっ……!」
「脳内設定とリアルをごっちゃにしないでください。第一なんですかこの写真は。あなたこいし様の部屋に隠しカメラでも仕込んでいるんですか」
「そんなの当たり前じゃないの! あの子はフラフラどっかいっちゃうクセがあるから、四六時中見張ってないと……」
「風呂場までカメラ入れる必要がどこにあるんですか。警察呼びますよ」
っていうかあたいもその風呂に入っているので、いつの間にかさとり様に見られていたってわけか?
「大丈夫よ。わたし、おりんにはぜんぜん興味が無いし」
こ、このシスコン変態ニート……悪気なくひとの心を抉りやがって。
「え? どういうこと? わたし、何か変なこと言った?」
「……もういいです。黙ってください。……どうせあたいは性悪猫ですよ」
さとり様が写真を送ると、すぐに反応があった。
あや>おお……これは。さとりさんもすばらしい容姿をお持ちですが……そうですね。こういうギャップが好きな紳士にはたまらない逸材ですね。
「……まるでさとり様の姿を知っているような口ぶりですが」
「ええ。最初にわたしの写真を送ったの。天狗の世界じゃまずは写真の交換からはじまるのよ。知らなかったの?」
「……まただまされたんですね」
「だ、だまされてないわよ。ほら、これがあやの写真よ」
「めっちゃ遠くてほとんど米粒じゃないすか……それと交換にさとり様も写真を送ったというわけですね……って、ちょっとなんですかこの写真は? ランドセルしょったり水着着たり」
「き、着てくれってわざわざ送ってきたのよ……。は、恥ずかしかったけど、で、でも、やっぱりそういう変わった趣味とかを受け入れることから友達になれるんじゃないかな?」
チャットでは遠すぎて相手の心は読めない。心が読めないさとり様は、ただの世間知らずのコミュ障だった。
悪いやつに引っかかったら、簡単に嫌われたくないっていう気持ちをいいように利用されてしまう。
「……あたいは断言しますけど、こいつとは友達になるどころか、距離を置いたほうがいいタイプですよ。今すぐ関わりあいになるのをやめましょう」
「あ、あやは……そんなひとじゃないよ! だって、わたしにコンタクトをしてくれてチャットしてくれたし!」
「いや……どんだけさとり様の自己評価って低いんすか。その理屈だとさとり様と毎日会話してるあたいは神ですよ。もっと大切にしてくださいよちくしょう」
「おりんは……ええと……ペットだし……優しくないし……」
その気持ちが性悪猫につながるわけか……あたいはいつだって正論を言ってるだけなのに。くうううっ。
「まあ、おりんがそんなにあやのことを疑うなら聞いてみるよ」
さとり>ねえ、ペットの猫がね、あやがわたしをだましてるって言うんだけど。そうじゃないよね?
あや>違いますよ。私は幼女好きではないし、さとりさんの写真をそういった性癖のひとたちに売りつけたりなんて決してしてません。
「ほら! やっぱり違うし!」
「何言ってるんですか。どうみても悪党じゃないですかこいつ」
「なんでおりんはひとの言葉を素直に信じられないの?」
あや>妹さんならすぐに見つかりますよ。幻想郷には無数の同胞がいますからね。ふふふふ。
「うーん、頼もしいわー」
「……あたいは、こいし様を逆に危険に追い込んだ気がします」
*******
それから三日間、さとり様は部屋から出なかった。しょうがなくあたいが部屋までカレーを持っていってもドアごしに「そこにおいといてー」と虚ろな声で返事があるだけだった。一体全体部屋に閉じこもって何をしているのか。例のやつからこいし様の報告はあったのだろうか。
四日目になり、さすがにあたいも我慢できなくなった。ドアをドンドン叩く。
「さとり様? 開けますよ。もう洗濯物もけっこうあるでしょう。パンツとか。下着とか。あたいが洗いますから持っていきますよ」
「ちょ、ちょっとタンマ」
もしかして着替えタイムだろーか。そりゃチャンスだぜ。
聞こえなかったふりをして合鍵でドアを開けると、さとり様はパソコンのディスプレイの前に座っていた。なんだくそー普通じゃん。だけどさとり様はこちらを振り向いてぎょっとしている。
「た、タンマって言ったじゃん! 何ふつーに鍵開けて入ってくるの!」
「いや……なんでそんな顔しているんですか。あたいに見られちゃまずいものでもあるんですか」
「い、いやー。そんなもの何もないよ? わたしは普通にパソコンを眺めていただけだから」
「パソコンに見られちゃまずいものがあるんですね」
「な、何で、そ、そんなことを……ま、まさかあなた、あなたも覚りだったの? 猫のふりをしてわたしをだましていたの?」
「アホなこと言わないでください。さとり様の顔をみれば一発ですよ」
ぎゃーぎゃー叫ぶさとり様を抑えつけながらあたいは画面をみた。
そこには地上のどこかで歩いているこいし様の写真があった。相変わらず魂が抜けたようなぼんやりとした顔……ではなかった。なんか微妙に魂入ってるというか、キリッとしている。もしかしてこいし様はほんとに真妖怪に生まれ変わったのだろうか?
まあ、それはいい。問題は、その写真が、まるでこいし様の足元から見上げたようにローアングルだったことだ。当然、スカートのなかまでまるみえだ。
「お、おりん、喜んで! 例のあやがこいしの写真をさっそく送ってきてくれたの! あの子、無事だったのよ! それでわたし嬉しくて……ずっと見入っちゃったのよ」
あたいはディスプレイに「こいし2」という、ほかのとちょっと離れているフォルダを見つけたので、そいつを開いてみた。たくさんの隠し撮りされたこいし様の写真があらわれた。どれも見事にローアングルだった。
「な、なんで、そんなヒトデナシを見るような目でこっちを見るのよっ……」
「妹の盗撮写真を一日中眺めて過ごすひとは間違いなくヒトデナシですよ。てゆーかですね、大量のあられもない姿を盗撮された妹の写真を眺めて、あなたはなんとも思わないのですか?」
「お、思ったわよ! やっぱりこいしって超かわいい!」
「あんたアホですか? いいですか、この写真があるってことは、こいし様は誰ともわからぬ地上の輩にこんな姿を盗み見られているってわけですよ!」
さとり様の顔が、途端に蒼白に染まった。
「な、なんてことなの……わたしのこいしが!」
まじで一秒もそんな考えに至らなかったのかこのひと。どんだけ盗撮写真に脳を持ってかれてんだ。
「とにかくこいし様がいる場所はこれでわかったんですよね。今すぐ地上に行って連れ戻しましょう」
あや>うーん、場所ですか。それはまた難しいですね。
「何を言ってるんだこいつは」
写真をこれだけ送ってるのに場所がわからないだと? そんなわけがあるかこのどあほ。
あや>おそらく何故だ、と思われるでしょう。実は、確かに写真は送られてくるのですが……それが誰なのかわからないのです。
さとり>ど、どういうことですか?
あや>この写真を送ってくるメールアドレスは、登録されていないのです。匿名の誰かが、こいしさんの写真を募集しているのを聞きつけ、送ってきているのです。ただ、我が同胞達は基本的に世を忍んで活動する者が多いので、こういう写真を匿名で送ってくることはそれほど珍しいことではないのです。まあ、ただ匿名ですと報酬も差し上げられないので、そのうちコンタクトが取れる同胞からも写真が寄せられるとは思うのですがね。ここまで登録済みの同胞から写真が来ないのは珍しいのですよ。……報酬が悪いわけではないと思うのですが。
さとり様は、焦った顔のまま、キーボードに手を走らせる。
さとり>わ、わたしの写真だけじゃ、足りませんか? もうちょっとキワドいのでも、我慢しますけど。
「おい何をやってるんだあんた」
「おりんは知らないだろうけど、天狗の世界では写真が通貨単位なのよ。ちょっと恥ずかしい写真ほど価値があるから、が、がんばらないと……」
「ものの見事に騙されているのがわかりませんか。あなたがどんな格好をした写真を送ったのかわかりませんが、こいつらはただ単に好き好んでこいし様のパンチラ写真を撮ってて、それをあなたに渡してさらにあなたの写真を手に入れる。まさに丸儲けですよ。だから心配したのです! ちくしょう、あたいにもその送った写真をよこせ!」
まじでどんな写真を送ったんだ? このひと世間知らずなせいで変に大胆というか、すぐのせられてアホなことをしかねない。このあやというヤツはさとり様の発育不良ボディに興奮する類の変態だから、とんでもない格好とかさせられたりしてないだろうか。
「だ、大丈夫よ、おりんが今考えているようなヘンタイじみたえっちい格好はしてないから」
「え。いや、そんなに変態ですかね。裸エプロンとか裸ニーソックスとか」
「……うん。いくらなんでも普通しないよ……そんな格好」
「あたいアリだと思いますけどね。さとり様の裸ニーソックス。想像するだけで発情しちゃいそうです」
「……おりんって、たまにガチで怖いんだけど……」
妹の盗撮写真を三日間眺めていたひとにドン引きされるなんて……死にたい。
あや>うーん。確かにあなたの写真は魅力的です。幼女のコスプレ写真で新聞部数もうなぎのぼりでウハウハ、じゃなくて、大変価値ある写真を送ってくださるのはありがたいのですが……ただ、仮にそれでこいしさんの居場所がわかったとします。そして連れ戻したとして……それで、ほんとうに解決になるのでしょうか?
しばらくして、
「……あ」と、さとり様が、声をあげた。
……なるほど。変態のくせに、まっとうな感覚は持っているらしい。
そう。ただ、見つけるだけでは意味が無いのだ。
確かに、根本の原因が取り除かれない限り。
つまり、さとり様が変わらない限り。
何度でも、こいし様は繰り返すだけだろう。
そんなことはわかっている。だけど、わかっていればすぐに治せるのなら、さとり様はいまでもひきこもってなんかいない。
「……わたしが変わらないと、こいしは、戻ってこないのね」
「まあ。そういうことです」
「……つまり、たくさんひとがいる行事に気兼ねなく参加して。そこでも近所のひとと挨拶して。距離感をきっちり保った害のないおしゃべりをキョドったりせずスマートにして。気持ちのいい別れの挨拶をして……そんなことを、たわいもなくやれるようにする。そういう姉を、こいしは、望んでいるってことなのね?」
さとり様は、疲れたような笑みを浮かべた。目が死んでいる。
「こんなの、普通のひとは普通にやってることなんだよね……」
「……ま、まあ、まずは一歩からですよ。外に出ることからはじめれば」
「外に出るのもイヤだとか言ってるヤツにそんなの無理に決まってるじゃん。ジャングルジムも登れないのにロッククライミングをやろうとするようなもんだよ」
正論だった。確かにそんなよくできたさとり様はまるで想像できない。
だけど、だけど、そうじゃないんだ。
「……あたいは思うのですが。こいし様は、そういって努力もしないさとり様がイヤになったのではないのでしょうか? いつまでも同じことをただ繰り返すだけの姿がイヤだったんじゃないでしょうか?」
「……」
さとり様は、押し黙ってしまった。
「……でも。どうすればいいの? 頑張ったとしても、それをこいしに見せないといけないじゃない。……わかっているよ。そんなこと考えて止まること自体がいけないんだって。肝心なのはわたしがふんぎりをつけて、前に飛ぶことだって。だけど飛ぶためには、やっぱり……その方法が欲しいよ」
わかっている。落ちる痛みを知っていながら、ただ、漠然と、飛べ、飛べ、と言っても、飛べるはずがないのだ。
道を、飛ぶための道を、方法を、さとり様に伝えなければならない。
そう何か、こいし様にさとり様が変わった、もしくは変わろうとしている姿をビビッと見せ付けられる方法。
あや>私に考えがあります。あなたが変わった姿を、幻想郷にいるこいしさんにお見せする方法が。
「……なんだと? それはどんな方法だって」
思わず反応してしまい、それからすぐに気づいた。
ただの観客である部外者ならなんとでもいえるのだ。その方法が間違っていようが失敗しようがリスクは無いのだから。
だけどこっちはそうはいかない。ここで失敗したら、こいし様は戻ってこないし……さとり様の心は根元から折れて、二度と立ち直れなくなる。
そもそもこのどうみても悪党が、ただの善意で教えるわけがなかった。裏に何かあるに決まっているのだ。
「さとり様。こいつの言葉に簡単にのらないでくださいっ」
だけど、さとり様はもうキーボードを叩いていた。
さとり>教えてください! その方法を!
「さ、さとり様。落ち着いてください。こいつはあなたをだまくらかそうとしている。急にこんなことを言い始めたのは、こちらを絶望させて、ワラにもすがる気持ちにさせることがこいつの狙いですよ。そのワラに何かを仕込んでいるはずだ」
「ど、どうしてそんなにあやを信じないのよ! 頭ごなしに決め付けて!」
「客観的にみてあたいは判断しています」
くそっ。さとり様は心が読める状況でもコロッとだまされたりするひとなのに。心が読めないこの状況じゃ絶望的だ。
「だ、だまされたりしないじゃないのっ。おりんはいつもそうだ。わたしをバカにして!」
「だまされてることも気づいていないだけです!」
落ち着け。落ち着くんだ火焔猫燐。きっとこれからヤツは言葉巧みに表面上ではうまい方法を提案するだろう。だけどそのなかには毒や罠が仕組まれている。おまえはこのダメダメな主人の代わりに見つけなければならないのだぞ!
あたいは緊張しながら、ディスプレイに注視した。
あや>ラーメンです。
「……は?」
想像もしなかった単語に、思わず声が出てしまった。
あや>さとりさん、ラーメンバトルに参加しませんか。
ラーメンバトル。
このバカバカしく非日常的な単語の威力にやられ、ツッコミを入れる間もなかった。
あや>以前、あなたがたはインスタントラーメンを発売したことがあったでしょう。あのラーメン、実は通のなかじゃ有名でしてね。パッケージも味もあれだけトンガったラーメンはなかった、と今でも話題にのぼるほどなんですよ。
ラーメン。そう、たしかにさとり様はラーメンを作った。それどころか売り出した。「地霊殿ラーメン」という名前だった。たしか、部屋にこもってカップラーメンばかり食ってるさとり様に「そんなものばかり食べてるからいつまでたってもちんちくりんな体型なんですよ」とか言ったところ、「わたしは! これから成長期なの! ラーメンをバカにすんな! ちっくしょー!」と突然何かをスイッチが入ってしまったのだ。
そしてどういうわけか「地霊ラーメン」なるカップラーメンができてしまった。さとり様がありあまるヒマにあかせ、相変わらず部屋から一歩も出ずに必要な情報をすべてネットからかき集めて完成させてしまったのだ。
まったく売れなかった。さとり様が描いたパッケージ(なんとかカラスと猫と判別できる黒い物体が、血のように真っ赤な色の温泉に浸かり、そこでバケツみたいなドンブリのなかに入っている白いミミズ状のものをすすっているという、アウトサイダーアートじみた絵だった)も強烈だったが、致命的なのは味だった。何か分量を間違ったとしかおもえない強烈な辛さだった。
……あんなものを食い物と認識できるひとたちがいるのだから、ほんとうに世の中は広い。
さとり様も予想外の言葉にうまく対応できてないのか、しばらくぼんやりしていたけど、
「わ、わたしの作ったものを好きだって言ってくれるひとがたくさん地上にいるの……?」
そう、ウットリとした目でつぶやいた。
まずい。普段ひとから好かれたり褒められたりしていないさとり様は、ちょっとひとから肯定されるとコロッとだまされてしまうのだ!
「さとり様。そういうひともいるってだけです。全然売れなかったじゃないですかあのラーメン。おぼえてますか。ほら、不良在庫になって戻ってきた大量のラーメンを仕方なく地上のみんなに配ったときですよ。毒蜘蛛妖怪が『こ、これは毒だ! 猛毒だ!』と叫んで倒れて、鬼が『これがお前らの宣戦布告か』とか言って危うく地霊殿を潰されるところだったじゃないですか」
「み、みんなツンデレ体質なのよ。心じゃ『すごくおいしいけど素直に告白するのは恥ずかしいな☆』って思ってたの、わたし知ってるよ?」
「一秒でバレるウソつかないでください。あの鬼、マジに鬼の形相だったじゃないですか。さとり様だって腰抜かしてもらしちゃったじゃないですか」
途端にさとり様は顔を真っ赤にした。
「な、何言ってんのよ! もももらしてななんかないんだから!」
やっぱりもらしていたのか……。
「もらしてないって言ってるじゃないのこの性悪猫! くうううううっ」
「泣かないでください。とにかくあんなラーメンが好きだ、って言うひとは普通の食に飽きてゲテモノに手をつけだしたひとか、もともと味覚が壊れているひとしかいないですよ」
「ち、違うよ! いいよ、あやに聞いてみるもん!」
さとり>わたしのラーメン、知ってるんですか?
あや>もちろん。時代を先取りしすぎたハイセンスなラーメンだと思いますよ。
さとり>あやも、おいしいと思ってくれてるの?
あや>おいしいと聞いたことがありますよ。
さとり>ほ、ほんと? おいしいと思うの?
あや>おいしいという話ならおいしいんでしょうね。
さとりはくるりとこちらを振り向いて、にしし、と含み笑いを浮かべた。
「ほっらねー。あやだっておいしいと言ってるじゃん。確かにここじゃわたしのハイセンスなラーメンは理解されないかもだけど、地上にはわかってくれるひとがいるみたいね」
「寝言言わないでください。こいつどうみても自分で食ってないじゃないですか」
「……おりんは地下にずっと住んでる猫だからね、ちょっとわからないのよね……」
……どうしてこんな世間知らずのニートにかわいそうなひとを見る目で見られないといけないんだ。ノリノリでキーボードを叩いている姿を見ながら、もうこのひとを見捨ててもいいような気がしてきた。
さとり>ラーメンバトルってどういうものなんですか?
あや>はい。今要綱をお送りします。
文字列の最後にウェブのアドレスが載っている。さとり様はそのアドレスをクリックした。
すると、チラシがディスプレイに映し出された。
第一回幻想郷ラーメンバトル
伝統のラーメンバトルがここに開催
いま、幻想郷の命運を賭けた最後の聖戦がはじまる
名にしおう幻想郷のラーメンバカが一同に集う天下分け目の戦い
輝かしき栄冠は誰の手に
ああラーメンよ永遠なれ
皆様お気軽にご参加ください
初心者未経験者大歓迎!
主催 幻想ギョーザ連盟
協賛 幻想第一テレビ 大日本天狗党
想像以上というしかなかった。これ以上ないくらいうさんくさかった。ツッコミどころが多すぎて何も言えないくらいだ。こんなアホなチラシを見て参加するやつがいるのだろうか?
「……すごいわ」
「まあ、たしかにすごいですね」
「こんなすごい大会があるなんて……想像するだけでゾクゾクしてくるわ」
「いやちょっと待て。なにうっとりしてるんですかあなた」
「だって、伝統のラーメンバトルなのよ?」
「第一回ですけどね」
「最後の聖戦なのよ?」
「第一回だから、第二回もあるんじゃないですか?」
「天下分け目の戦いなのよ?」
「初心者も大歓迎らしいですけどね」
「きっとラーメンに命を賭けたようなラーメン狂いが仕掛けたのね。地下闘技場トーナメントの徳川のおっちゃんみたいな」
「主催はギョーザ連盟ですけどね。ねえ……さとり様マジでしっかりしてくださいよ。なんでこんなあからさまにうさんくさいのにもわからないのですか?」
「おりんにはわからないのよ……」
「だからそのドヤ顔をやめてください。マジで殴りますよ」
「そ、そうやって暴力を使うと、すぐPTAとかが来るよ」
「あたいはさとり様の先生ですか」
「おりんは前もそうだったわ。わたしのボディをバカにして、カップラーメンをバカにしていた! だからラーメンに命を張るようなバトルをバカにしてるんでしょう! だから人気が無いんだよ!」
「あまりにツッコミどころが目にあまるだけです! あと次人気のこと言ったらマジで殴るからな」
あや>で、ここからが本題です。重要なのは、これが幻想郷全域に放映される全国テレビ放送企画ってところです。
なん……だと? このバカバカしい企画が、全国放送?
あや>確かに一昔前まではこんな素人がラーメンでバトルするなどというだけの番組では全国放送は難しかったでしょう。しかし今幻想郷は一大ギョーザブームでして、いまや「朝ギョー」「立ちギョー」は当たり前、喫茶店でもギョーザ、バーでもギョーザ、みそ汁の具にギョーザ、おやつにギョーザと、ギョーザの消費量が昨年に比べて千三百倍にも増加したのです。結果、ギョーザ連盟は押しも押されもしない超一流企業。文字通り金が捨てるほどある状態なのです。そして税金対策として、ギョーザとセットについてくるラーメンに目をつけた、というわけです。いまや幻想郷の王であるギョーザ連盟が企画した番組なら、バンバン宣伝もされるでしょうし、話題で持ちきりになるでしょう。おそらく視聴率も五十パーセントはくだらないでしょうね。
……一体全体地上で何が起こってるのかわからないが……話の筋としては通っていた。
あや>だから、だからですよ。もしこれにさとりさんが参加すれば……そのガンバってる姿も当然幻想郷中に行き渡ります。万が一実際に観ずとも、間違いなく一度は噂で聞くでしょう。そう……幻想郷のどこかにいるこいしさんにもね。
「……!」
さとり様は、目を見開いた。
まずい。
「さとり様! ちょっと待ってください! はやまるのはやめて」
さとり>参加します。
さすがに使い慣れてるだけあって、さとり様のタイピングは速かった。
あや>即答バロスwwwww ああすみませんあまりに嬉しくて下品な言葉を使ってしまいました。いやあ私もさとりさんがとても頭が弱い、じゃなくて物分りがいい方だと感じてましたが、こんなにすぐさまだませる、じゃなくて理解していただけるだなんて! ほんとwwww笑いが止まりませんよwwwwでは参加手続きはこちらで進めますので。会場でwwwwwwお会いしましょうwwww
「さ、さとり様! 今すぐ撤回してください! こいつ、本音がボロボロ出かかってるじゃないですか!」
さとり様があたいの顔をちらり、と見てから、しばらく押し黙ったあと、キーボードに再び指をすべらした。
さとり>はい。ありがとうございます。よろしくお願いします。
「どうして! どうしてこんなうさんくさいやつの持ってきたうさんくさい企画に参加するんですか! さとり様にコンタクトを取ってきたことだって今考えればあやしいものだ。最初からさとり様の素性を知ってこのバカげた企画に乗せることを虎視眈々と狙っていたかもしれないじゃないですか」
「だってえ。おりんってばなんでもかんでも否定するばっかじゃないの」
そう言って、そっぽを向いて頬を膨らませている。こ、この飼い主マジでお子様かっ。
「もっとちゃんと考えてください。ラーメンバトルってたくさんのお客さんの前でラーメンを作るんですよね? それにきっとマイクで話したりとかするんですよね? さとり様、あなた、ちゃんとできるんですか?」
さとり様は、う、と声を詰まらせた。
ようやくまずいことになったとわかってきたらしい。ただでさえ白い顔がもっと白くなってきている。
「あわわわ……ど、どうしようおりん」
「どーもこーもありません。今すぐあやにコンタクトを取って、やっぱ止めますと伝えるのです」
あや>どうしたんですか?
さとり>ええと、ちょっとさっきのことで、お話があるんです。
あや>いいですよ。どういった話でしょうか?
さとり>あの、実は。
あや>あのーもしかしてやっぱり止めますだなんてそんな私をガッカリさせるような話じゃないですよね?
さとり>……ええと。
あや>あはは、冗談ですよ冗談。いやーたまにいるんですよそういうひと。私、世の中で一番嫌いなひとって、一度言ったことをすぐにホイホイ撤回するようなひとなんですよ。自分の発言に責任が持てないひとって最低ですよね。さとり様もそう思いません?
さとり>……そ、そうですよね。
あや>まあさとり様はそんなひとじゃないですものね。私の友人ですからね。
さとり様は、泣きそうな顔のまま、石のように固まっている。
「さとり様、こいつからはゲロ以下のにおいがプンプンします! さとり様が嫌われると断れないってことを知ってあえてこう言ってるんですよ! こんな外道と仲良くなる必要は一切ありません。『やっぱやめました。ごめんねーてへぺろ』って打てばいいだけじゃないですか? さとり様っ」
さとり様は、ついにキーボードを叩いた。
さとり>あの……あの……おやつにバナナは……含まれるのでしょうか?
さとり様は、あたいの前でじっ、と動かないまま、押し黙っている。
あたいも何も喋らなかった。別に話す必要はない。言いたいことはどうせ全部さとり様に伝わっている。
「……わかっているよ」
さとり様は、ぽつり、とつぶやいた。
「だけど、ダメなんだよ。ひとのイヤなことや嫌われることとか、どうしてもできないんだよ。そのくせいつも良かれと思ったことは全部裏目に出るんだよ。地下であまった地霊殿ラーメンをふるまったときだってそうだよ。わたしはただみんなをハッピーな気持ちにしたかったのに、殺伐とした戦場みたいな雰囲気にしちゃったもんね。ほんと笑っちゃうよね」
さとり様の声が、だんだん涙で濁ってきた。
「わたしはこれだけ嫌われないように嫌われないようにしているはずなのにね。なんでいつもこうなんだろう? 全然わからないよ。でもきっとこうしたらうまくいく、ということが、おりんとか他のひとなら当然のようにわかるんだろうね。それがわからないから、わたしはいつまでも嫌われ者だし、ひとりぼっちなんだよね」
……まずい。すべての心の言葉を勝手にネガに受け取り、さらにネガを呼ぶ。さとり様ならではの鬱のスパイラルに、入り込んでいる。
「さとり様。もういいです。反省してるのはわかりましたから。もうこの話はやめましょう」
「おりん。ごめんね。めんどくさくてごめんね」
「いや。あたいは別に」
口をつぐむ。まなじっか心の声が聞こえるさとり様には、慰めの言葉は白々しい言葉にしかならない。
うーむ。どうすればいいのだ。考えろ、おまえは優秀なペットたる火焔猫燐だろう。
ふいに、昔あたいが猫で、飼い主が人間だったときのことを思い出した。
人間というのは猫より頑丈なからだを持っているけど、猫よりずっと脆い心を持っていた。お互いに傷つくのを知ってるのにひとりぼっちが嫌いで、さびしがりやなのだ。
……そうだ。こういうときに必要なのは言葉じゃない。
そして……昔と違うのは、昔は抱きしめられたけど、今は抱きしめられるようになったことだ。
そーだ。やるか。やっちゃうかこのヤロー。フラグ立ってるぜおい。
「さ、さとり様。あの……その、抱きしめていいですかっ」
「い、いや。なんかおりん、ちょっと鼻息荒くて、怖いよ」
「じゃ、じゃあ、抱きしめてください。猫を抱くと落ち着きますよ。ほらほら」
「い、いや、あなた別にモフモフしてないじゃない。顔も吊り目で怖いし」
「猫だって吊り目じゃないすか! も、モフモフじゃなくったって……あたいこうみてもわりとスタイルいいんですからねっ」
あたいがジョジョ立ちとかしてスタイルの良さをアピールしてると、
「い、いや。うん……なんか落ち着いたから。大丈夫」
「そ、そうすか。それは残念……じゃなかった、よかったっす」
するとさとり様は、小さく微笑んだ。
「おりん。ほんとに、いつも元気にしてくれて、ありがと」
特に何もしてないのだが、ほめられることは決して嫌いじゃないのであえて否定しなかった。願わくばハグさせてほしいのだが。
「まあ。とにかくやるんですよね。やるからには、生半可な気持ちじゃ、トラウマもののひどい目にあわされますよ」
「わかっている。わたし……やるよ! こいしのためにも、そして、自分のためにも。だからおりん、お願いね」
そう言ってこちらをみるさとり様の目は、久しぶりに生き生きとしていた。
確かに必要なのは、きっかけだった。さとり様には、寝癖のついた頭にパジャマ姿でボーッと映画やゲーム画面ばかりみている生活より、もっと似合うものがあるはずなのだ。ちゃんとすればきれいなレディにもなるし、この地底を統べる女王のような威厳ももてるのだ。たぶん。
きっと、こいし様もそれを望んで、あえて外に出ていったのだ。たぶん。
ほんと、そのきっかけが、ラーメンバトルなどというふざけたものじゃなければなおよかったのだけど。
*******
二週間が経った。
またしてもさとり様は部屋にずっとこもっていた。あたいがカレーやハンバーグを持ってきても部屋に入れてくれなかった。
いつの間にか鍵を変えていたせいで、あたいが持ってる鍵では開けることもできない。
「強くなるためには山籠もりをしなきゃならないの。あの大山倍達みたいに!」などとよくわからないことを言い、旅に出るかと思いきや、逆に部屋に引きこもってしまったのだ。どうやら山とはネットのことらしい。そんなことで強くなれたら世界中の引きこもりは今頃みんなスーパーサイヤ人くらいになっている。相変わらずさとり様はさとり様だった。
しかし、一体何をやっているのか。本当にネットをしているだけなのか。また淡々と送られてくるこいし様の写真に耽溺しているわけじゃあるまいな、とつらつら思いつつ、その日も掃除を終えてお昼近くになり、朝食の残りから、ほどよく冷めたご飯に、身をほぐしたアジをふりかけて、ぬるいみそ汁をかけた「おりんりん特製ねこまんま」を作り、台所のテーブルで食べようとしていると、
「おりん」
慌てて振り向くと、そこにはさとり様がいた。
何故かダボダボの上下黄色いジャージを着ている。その姿はまるきり田舎のイモジャージ中学生だった。
部屋着をパジャマからジャージにしたのだろうか。それにしてはイモすぎるジャージだ。より一層女子力を失った気がする。とても悲しかった。
「さとり様……学生時代のジャージなんか着るのはさすがに乙女としてどうかと思うのですが」
「違うよ! わ、わたしだってそんな昔の服はもう着れないんだからね!」
「いや絶対着れるだろあんた」
「こ、これは……正装よ。これから戦場に赴く人間が、覚悟を決めて着る服なのよ」
「……まただまされたのですか?」
「違う! おりん、あなたはブルースリーを知らないの? ユマ・サーマンだって着ているのよ」
「……また映画の話ですか?」
「あーっ! おりん、今あなた、わたしを『現実と空想の世界の区別もできないかわいそうなひと』だって思ってるでしょ! 『これだから世間知らずのひきこもりは困るな』って思ってるでしょ!」
「……思ってるっすけど」
さとりは、ぴたり、と突然黙った。そして、下唇を噛みながら、うううううと目に涙をためはじめた。
「そ、そこまで思わなくてもいいじゃないのっ……わ、私だって、好きでひきこもっているわけじゃないのにっ……く、くううううっ」
「な、なに自分で喋っておいて自爆してるんすか……。ねえさとり様、ホントに強くなったんですか?」
「だ、大丈夫よ。今わたしにはブルース・リーの魂が乗り移ってるんだから……大丈夫。大丈夫、大丈夫なんだから……」
涙でにじんでいるさとり様の眼はうつろに泳いでいる。ちっとも大丈夫そうにみえない。
「わたしは強くなったの。だからあんな性悪猫に絶対負けたりしないんだから……」
だからなんであたいが敵なんだよ。
すると、さとり様が拳をにぎって「ほああああっ」とおかしな声を上げた。ついにひきこもりがたたって頭がおかしくなってしまったのかな。かわいそうに……。
「違う! これは気合よ。ブルース・リーのような、怪鳥のおたけびなの!」
「おたけびというより……まるで発声練習に失敗した合唱部ですよ。ジャージだし」
「……ぐっ」
さとり様はまだ何かを言いたい顔をしていたけど、諦めたようにいったん口をつぐんでから、
「おりん。これからラーメンを作るから、台所を貸してちょうだい」
ふざけた格好をしているが、どうやらさとり様としてはかなりマジらしい。若干泳ぎ気味だったけどその目は、ハラキリしにいくサムライのように真剣だった。
ラーメンを完成させたのだ。そしてそれをあたいに食べさせようとしている。
その出来いかんによって、ラーメンバトルに参加すべきか否かを決するつもりなのだ。
やむなく食べかけの猫まんまをおあずけしながら、あたいは猛烈に嫌な予感がしていた。
あたいが来た当初、地霊殿のごはんはなんとあのこいし様が作っていた。さすが、こいし様の料理はプログレッシブというか前衛的というかとにかくすごい料理ばかりだった。おうどんのなかにみかんやキウイフルーツが浮かんでいたり、みそ汁なのにみその代わりにミルクコーヒーだったり、チャーハンの具が金平糖だったりした。さとりはそんな妹の料理を「お、おいしいよ。私、こいしの作ったものならいくらでも食べちゃう!」と言いながら食べて、あとでトイレにこもったりしてたのだ。
そんな苦行のようなことを続けていた理由として浮かぶのはひとつだけ。おそらく、いや間違いなく、さとり様の料理のお手前は、こいし様以下なのだ。
ぞっとする。あれ以下となると……「チャーハンのもと」を使ったチャーハンすら生物兵器としてしまうような、ある意味天才的な味オンチなのではないのだろーか。以前作ったカップラーメンがクソ辛かったのもそれで納得できる。
台所からは、異様な湯気がもうもうとたちこめてきた。
その湯気があたいをとりかこんだ瞬間、がつん、と鼻に杭か何かを打ち込まれたような感覚がした。
いや、ただにおうだけじゃない。鼻と目がしみて痛いのだ。
……あたいは何を食わされるんだ?
恐ろしかった。さとり様に対して恐怖を抱いたのははじめてだった。いつも視線が泳いでいる挙動不審なかわいい生き物だなあとしか思わなかったのに。こういう感情を何と言うのだろう。下克上?
「げ、下克上じゃないよっ」
台所の湯気のなかから、にゅっ、とさとり様が顔を出した。相変わらず黄色い田舎ジャージを着ている。
「せっかく飼い主のわたしが料理を作ってるんだから、もっと喜ぶべきじゃないの。なんでキョーフとか下克上とかなのよっ」
「……あの、何かの化学実験でもしているんですか」
さとり様は何故かドヤ顔でふふん、と鼻を鳴らした。
「あらら、おりん知らないのー? 台所でやることと言えば、お料理でしょ?」
「……さっさと心を読んでくださいよ。こんな異様な匂いを発散させてるからこっちは心配してるんすよ」
「わ、わかってるわよ。そ、そんな怖い顔するの禁止、ね?」
「で、そのさとり様が仰るラーメンというのは食い物なんですか。それとも化学式で表されるような物質なんですか」
「なーに言ってるのよおりん。ラーメンといえばつるつる食べられる超おいしい食べ物に決まってるじゃないのっ」
「皮肉を言ってるんですよ。ちゃんと心を読んでください」
「まあ確かにおりんが面食らうのも仕方ないわね。今までのラーメンとはひと味もふた味も違うのだから」
「……なんかそういうレベルじゃないと思うのですが……」
「さあ、準備は整ったわ。台所のテーブルで座ってなさい。もののじっぷんであなたは味のファンタジーゾーンにトリップしちゃうのよ!」
さとり様の言葉は、不安しか生み出さなかった。
痛みを伴う湯気を手で振り払いながら、なんとかテーブルに腰をすえる。
地霊殿の地熱コンロは四つもある。昔はもっとひとがたくさんいたらしいけど、あたいがここに来た頃にはこいし様とさとり様だけで、ちょっと前まで、それにおくうが加わっただけだ。だから、今までふたつしかコンロを使ったことがない。
そのコンロが、今、全部使用されている。ふたつはもうもうと湯気を噴き上げているでかい寸胴鍋で、ひとつの鍋にはふちに振りザルがひっかけてあり、もうひとつはオタマが突っ込まれている。その奥にはおたまが中に入っている大きめの鍋。最後のコンロの前で、今、さとり様はフライパンを振っていた。気合を入れているつもりなのか、時折「ほあっ」と鳴いている。ぱっと見は子どもがおままごとをしているっぽいけど、振り方自体はなかなか堂に入っている。じゅわあ、と音の立つフライパンに、傍らの見たことのない赤い調味料を入れたり菜箸でかき混ぜている。なかなかの手つきだ。
意外ッ! さとり様は、ほんとうに料理が得意なのだ。
では、何故にこいし様に料理させるというデンジャラスなルーレットに身をゆだねていたのは何故だろう?
「よーし、できたぞっ」
さとりはフライパンの火を止めると、寸胴鍋からふたつの振りザルを引っこ抜いた。なかにはメンが入っている。そのまま流しの上に持っていき、ちゃっちゃっ、と振って水を飛ばし、どんぶりのなかにメンを入れた。そしてもうひとつの鍋のなかをおたまで一度かき混ぜると、なかの液体をすくいとってどんぶりにかけた。次にフライパンをどんぶりの上でかたむけ、なかに入っている炒めたひき肉をどんぶりにおんまけた。
とてもおいしそうだ。なんだーさとり様もやるじゃないか。こんな家庭的な女子とは知らなかったよホントに。ジャージじゃなくてエプロンとかにしてくれれば幼な妻ってかんじだったのに残念だよ。ほら、あたいたちふたりっきりで夫婦みたいだしね。エプロン……さとり様のはだかエプロンか……。うわ。すごい。想像するだけですごいよ。ああまずいまた発情してきた。あれ、なんだこの刺激的な湯気は?
さとり様は、最後に大ぶりの鍋からおたまで何かをすくいとった。
ドロドロしたその液体は、血のように真っ赤で、まるで溶岩のようだった。
それをおもいきりどんぶりのうえに落とす。
たちまちどんぶりのなかは血の海のように真っ赤になった。
瞬間、台所に入ってきたときにかんじた刺激臭が、ものすごい勢いで鼻孔を直撃した。
あれだ。あの赤いドロドロのものが、この湯気の正体なんだ
なんだあれは。
一体、何を入れたんだ?
「じゃーん。おまたせっ」
さとり様はラーメンをあたいのテーブルの前に置いた。
妙にテンションが高いところをみると、きっと思ったようにうまくいったのだろう。
この真っ赤なスープで満たされた刺激臭あふれるラーメンが、さとり様の求めていたラーメンの正しき形なのだ。マジか。
さとり様の顔をちらとみる。期待でキラキラした目でこちらを見つめている。
正直食べるのが怖いけど、あんな目で見られたら食べるしかない。
……ここであたいがこのラーメンにダメだしをしたら、さとり様はラーメンバトルを今度こそ諦めるのだろうか。ラーメンバトルにさとり様を参加させたくない気持ちは消えていない。さとり様がやってみるべきことはラーメンよりもっとふさわしいものがある気がする。もっとふんわかしてたりオシャレだったりするやつだ。
すると、さとり様の眼が、疑惑のジト目に変わった。
「ねえおりん。うそっこはなしだからね」
「わ、わかってますよ。ただ……とても辛そうなもんですから」
「でも、辛いのっておいしいじゃない? それにぶわーっと汗が出るから、くあー食ったなあ、私って生きてるんだなあ! ってスガスガしい気分になるじゃないの」
「いや、そんな充足感は要らないんすけど……」
「大丈夫よ。その赤いのは自家製タンタンメンのタレなの。ただ辛いだけじゃなくて、いろんな材料をこねくりあわせて作ったやつなの。いわゆる甘辛ってやつ? おりんには悪いけど、刺激が足りないときにこっそり野菜炒めとかの上にかけて食べたりしてたわ」
うーむ。ということはさとり様は実際にいつも食べているのだ。
と、すると、見た目真っ赤だったり刺激臭があったりするけどやっぱりおいしいのだろうか? そうだよな。さっき見たように慣れた手つきなんだから舌だけぶっちぎりでイカれてるってこともないよな。
ハシでメンを引っ張ってみた。赤いドロドロがメンに絡みついてくる。
念入りにふーふーしたあと、メンを口にいれてみた。つるつるつる、とすすって噛んでみた。
あれ、確かにアーモンドみたいなこってりした味がして甘いかも。何か変わった香辛料の味がするけど、これはこれでアリかも。
と一瞬思ったが、たちまち猛烈な辛さが口に充満してきた。
「か、からーーい! からいからいからいー!」
慌てて台所に駆け込んだ。コップに入れてる時間ももったいないのでそのまま蛇口のしたに顔を突っ込んでじかに水を受けた。それでも辛さはなかなかひかない。
まるで部活が終わった中学生のようにがぶがぶ飲んで、ようやく辛さがひいた。
ぜえぜえ、と荒れる息を落ち着けると、あたいはさとり様をにらみつけた。
「やっぱり死ぬほど辛いっす! こんなの食べられるわけないでしょーが!」
さとり様は一瞬ぬぐぐと泣きそうになったが、ぐ、と持ち直して、何故かくふふふと笑った。
「う、うそっこね。わたしをラーメンバトルに参加させたくないんでしょ」
「ちゃんと心を読んでくださいよ! これが演技に見えますか?」
「あなたの心はすべてまるっとお見通し……『ちょっと辛いけどおいしいな☆』と思っているわ」
「ひとの心を捏造しないでください!」
「う、うそお、そんなに辛いかなあ。分量間違ってた?」
どんぶりをつかむと、さとり様はハシをグーで持ち、メンを少したぐると、どんぶりに顔を近づけて、一気にずるずるずるとメンをすすった。そのまま二口、三口。
信じられなかった。あんなもの腹に入れて大丈夫なのか? たちまちさとり様の顔に、尋常じゃない汗がにじみ出てきた。見ているこちらがお腹が痛くなりそうだった。だけどメンをたぐる手は止まらなかった。仕上げにそのままどんぶりを持ち上げると、あの地獄のようなスープをずずずーっと飲み干してしまった。カラになったどんぶりをテーブルに叩きつけるように置くと、
「くあーっ! うまいっ!」
そう叫び、玉のような額の汗をぬぐうと、「ほああああっ」と叫んだ。たぶん喜びのおたけびだ。
……あたいは、すべてを悟った。さとり様が料理を作らなくなった、いや、作らせなかった理由。
さとり様の舌は、ぶっちぎりでイカれているのだ。
「な、なんで返品しろって言うのよ!」
あたいとさとり様の面前には屋台がある。ちょっとした屋根がついた、車輪のつきの、木製でやたら渋い色あいの、無骨極まりない純和風のリアカー式屋台だった。
ネットで旅をしていたときに見つけて買ったらしい。
どうやらさとり様は、このラーメンで屋台をすることまで計画しているらしい。まあ、確かにいきなりわけのわからない会場にぽーんと放り込まれたら、きっとさとり様はいろんなひとたちの勝手きままな感情にさらされて怯えた子犬のようにブルブル震えて縮こまってしまうだろう。
だからその前哨戦をするのはいい。
だけど今回は、使う武器が悪すぎる。
「だから……何度も言ったじゃないですか。こんなラーメン売ってたら、また前と同じことを繰り返すって。ヤマメや勇儀は顔なじみだったから何とか大事にならなかったんすよ。これがぼっちの地上で起こったら、ただじゃすまない。嫌われるどころか生物兵器をばらまいたといって通報されますよ」
「そ、そんなことないよ。わたしはおいしいと思っているんだから、わたしと同じような味覚のひとはおいしいと思うんじゃない?」
あたいはため息をついた。
「……あの、昔、さとり様が料理したものを食べたときのみんなは、どうでした?」
「……ええと、みんな遠慮して、あまり食べなかったのよ」
「いやいやいや心の声聞こえてましたよね?」
さとり様は目を反らしてひくついた笑みを浮かべながら、
「き、聞いてたよっ。『うわー、こんなおいしい料理はじめてだなあ。もったいなくて食べられないよ』とか言ってたし」
「だから心の声を捏造しないでください! ぜったい言ってないでしょそんなこと!」
「そ、そうね。ちょ、ちょっと、辛かったかなあ、とか言ってた、かな?」
「どうしてさとり様に料理をさせなかったんすか?」
「わ、わたしが言ったのよ。こいしにレディのたしなみとして料理を習わせたかったからね。あえて妹のために身を引く姉の謙虚さってやつ?」
「違うでしょう。みんながやめてくれって言ったんじゃないっすか?」
「ど、どうしておりんはわたしを信用しないのよ! ほ、ほんとうかも知れないじゃん!」
「かもしれない」って……やっぱりほんとうじゃないってことだよね……。
あたいはため息をついた。
「……はっきり言いましょう。こんなの食べられるさとり様がおかしいんです。さとり様の味覚はほかのひとと全然違う。さとり様が料理がヘタだとは言いません。ただ、そのおいしさの基準が違うんです。だから、さとり様の料理は、みんなに受け入れられないのです」
さとり様は、押し黙った。
どうしたのだろう、と思っていると。
いつの間にか、ううううう、と涙を流しそうになっている。
「どうして……? どうしていつもよかれと思ってやることが裏目に出るの? だから私は嫌われ者なのかなあ……? 『部屋に引きこもってて刺激もないからおかしな食事が好きになるんだ』って? そうよ、どうせ私は引きこもりで汗なんてこうでもしないとかけないのよっ……」
心がダークサイドに堕ちていたらしい。ほんとにめんどくさいひとだ。しかしさとり様はそんな心も読んでさらにずううんと落ち込んでいくのだからほんとうにめんどくさい。あ、また思っちゃった。ああくそ、ほんとにめんどくさいなあ!
どよーんと落ち込んでいるさとり様をみてあたいは、うむむ、と下っ腹に力を入れて気合いを入れた。
今度こそさとり様の説得に成功させてみせる……それがさとり様のためにもなるのだ!
「さとり様、落ち着いて聞いてください」
こどもに語り掛けるように、ゆっくりと声をかけた。
「ラーメンを諦めたとしても、別にほかに方法はいくらでもあります。正直ラーメン屋はさとり様にはレベルが高いと思うのです。ラーメン屋って、だいたい男のひとがやってるじゃないですか。あれってやっぱり体力的にきついからだと思うんですよ。ほぼ立ちっぱでスピード重視でぱぱぱっと作らなきゃならないし。だから引きこもりニート……じゃなくてインドア派のさとり様にはちょっと厳しいと思うんです」
「だ、だから、こんなこともあろうかと、ずっと『燃えよドラゴン』のテーマを聞きながら部屋のなかで腕立て伏せとかルームランナーで走りこみをやってたのよ。それにね。このカッパ製の屋台、ボタン一つでお湯きりとかチャーシュー切るとか自動でできるし」
カッパめ……何故そんなムダにハイテクなものを作るのか。
「ラーメン屋って客層がアレじゃないですか、ツナギやニッカポッカを着たごっついおっさんとか、ストレスを抱えたサラリーマンとか、行き場のないような冴えない目をした若者とか、そういった輩がフラリと入ってビールを片手にギョーザをつつきラーメンをすする、みたいなかんじじゃないですか。そんなむさくるしい空間で耐えられるんですか?」
「い、いいじゃないの。そういう荒んだ雰囲気とかジメジメした空気とかわたしにピッタリじゃない」
そういう話じゃねえっつうの。
もういい。あたいは話の内容に切り込むことにした。
「あの、さとり様のメンタル上、ちょっとそういうクセのある客が来るのはよくないとおもうんです。もっとその、ふわふわしたワタアメみたいな心を持つ客がくるようなお店がいいんじゃないでしょうか」
「……どんなお店なの?」
「そ、そうですね。さとり様はその、もっとかわいらしいお店がいいと思うんです! パステルカラーのアイスクリームを売るお店とか、ふんわりしたファンシーショップとか! そ、それで、さとり様もフリフリしたかわいらしい服を着ちゃったりするんすよ。歩くだけでフワフワ揺れるスカートとか! 胸元も大胆に開けちゃったりして! うわー! すげえ! 超かわいい! サイコー! あたいもう発情しちゃう!」
さとり様は「うーん」と首をひねった。何故ラーメンがオッケーでファンシーショップがダメなんだよちくしょう。
「あー、どうせやるならスパルタンXみたいなハンバーガー屋がいいかな。勿論注文はローラースケートはいてスイーッと取ったりしてね」
「……自分の運動神経を考えてものを言ってくださいよ。あと発想を香港から離れてください!」
「大体さー、ファンシーショップって何を売るの? 映画でも観たことないんだけど。香港に無いの?」
「ふ、ファンシーショップとは、なんかいろんなかわいいアイテムを売ってる店ですよ。だ、大丈夫ですってあたいこう見えてもゴスロリとかに詳しいんです。いつも服とかアクセを買ってる店の店長さんにいろいろノウハウを聞いてみましょう。ゴスロリテイストなファンシーショップ! これでキマリです! イケますって絶対!」
「ゴスロリファッション? どういうの?」
「ええと、あたいが着ているような黒を基調としたフリフリのあるような服です」
さとり様は「えー」と、露骨に嫌そうな声をあげた。
「おりんみたいな服? その地味な服ってこと?」
……地味な服? 地味な服と言ったのかこの黄色ジャージ女……。
「だって、そのなんかぱっと見おばあちゃんが着てそうな服でしょ? おりんが人気出ないのってその地味な服のせいなんじゃないかなってわたしずっと」
ぷちん、とあたいの頭のどっかが切れた。
ああ。これが堪忍袋の緒ってやつなんだな、と、あたいはおもった。
あたいの変化に気付いたさとり様の表情が、みるみるひきつっていく。
きっとあたいはこれからさとり様にバイオレンスなことをしちゃうのだろう。
でも、仕方ないよね。
*******
一緒に住んでいたにんげんが突然いなくなってから、何も食べなくなった「あいつ」はどんどん痩せていった。
「これだけが私の財産なの」と、あれだけ毎日しっかり手入れをしていたからだもほったらかしで、きれいだった黒髪は脂っぽくなり、からだは腐ったようなすっぱいにおいがしはじめた。携帯電話(その頃はわからなかったけど、あれは電話だったのだろう)も最初の頃はよく鳴っていたが、彼女が出ないでいると、そのうちぴたり、と鳴らなくなった。
「あいつ」とは、お互い小さいときからの付き合いだった。あたいは彼女の家の敷地のなかで生まれた。あたいの親はすぐに死んだ。そんなあたいを、「あいつ」が拾ったのだ。
もともと「あいつ」は劣っていた。からだも、こころも、弱かった。猫なら、真っ先に間引きされるタイプだ。そこにさまざまな不幸があって、あいつは家族を失なった。ひとりぼっちとなった彼女は、弱い部分をつかまされ、ひとりのにんげんにだまされ、利用され続けたあげく、簡単に裏切られた。
そして、心が壊れてしまった。
だけど彼女は死ねなかった。にんげんの世界は、簡単に死ねないようになっている。心が死んでいるのに生かされているなんて、とても不合理だと思う。
あいつは一日中、ひび割れの入った窓から、ぼおっ、と空をながめていた。
じきにあいつは死ぬ。自然の摂理によって、「間引き」される。
だから自分は外に出て、食事を探さなければならない。ずっと本能がそう言っている。そうしなければ、死ぬと。
だけどここで自分が出れば、彼女は死ぬだろうな、と思っている。
猫も人間も、死ぬときはひとりだ。そんなことはわかっている。
だけどたぶん、あいつはひとりぼっちで死ぬのは、とてもいやだろうな。彼女は、とてもさびしがりやだから。誰もいない部屋で、よくあたいを抱いていたから。
空腹よりも死にかけた飼い主を選ぶだなんて、猫としては異常だ。あの頃、もう自分は猫ではなくなっていた。尻尾もふたつに分かれかけていたし、彼女の言葉もわかるようになっていた。
あるとき、久しぶりにあいつが風呂に入った。
それきり出てこない。
ねえ。おりん。こっちきて。ねえ。
あたいは耳をぴくぴくさせると、すっくと立ち上がる。空腹のせいか、伸びをしようとしたときにふらついてしまった。
風呂場は暗かった。電気がついていないのだ。
白い湯気といっしょに、あの、腐ったものがすかすかに乾いたような、カビたにおいが鼻をついた。
死のにおいだった。生き物が生きることをあきらめたにおいだった。
彼女は、まっくらな風呂場で、コールタールのようにまっくろにみえる湯船に浸かっていた。
彼女は、あたいをみると、ざば、と湯船から立ち上がる。彼女の傷だらけのしろいからだは、骨や内臓が透けてみえるくらい、やせていた。
そのすじばった腕が、湯とは違う、どろどろした液体にまみれていた。手首がぱっくりと割れていて、そこからぶくぶくとあふれている。もうひとつの手には、刃物が握られている。
きてくれて、ありがとう。と、あいつは言った。
ねえ。わたしの、さいごのねがいを、きいてくれるかしら。
わたしは、もうじき、しぬの。
だから、わたしを、たべてよ。
おりんはたったひとりの、さいごの、わたしのかぞくなの。
そうすれば、どんなことがあっても、わたしたち、ずっといっしょでしょ?
ねえ。おりんもおなか、すいてるでしょ?
たべやすいように、これからきざんであげるからね。
あたいは、濡れた彼女の顔をみる。
表情の失せた、まっしろな顔は。涙を流しながらわらっているその顔は。
――さとり様だった。
「うわああああああああああああっ!」
自分の叫び声で、あたいは自分が布団から跳ね起きたことに気づいた。
――夢だ。久しぶりにみる、あの悪夢だ。もう終わってしまった過去のことだ。
そう理解したあとも、手の震えが止らない。まるで風邪を引いたように、額から冷たい汗が染み出してくる。
電気をつける。DVDやらマンガやらがごっちゃごちゃに積まれている、さとり様の部屋。だけどそこに主の姿は無い。
――さとり様が地霊殿を去ってから、何日経ったんだ?
あの日、あまりのさとり様の暴言にプッツンしてしまったあたいは、さとり様をボコボコにしたあと、「ラーメンやるなら勝手にしやがれ」と吐き捨てた……と思う。思う、というのはそのあとあたいはその勢いでマタタビ酒をかっくらって、ヤケになって屋台を好き放題にペインティングしたあと、気付いたら外で下着姿で眠っていたからだ。慣れない酒を飲んだせいで二日酔いで死ぬほど不快な気分のなか、テーブルにさとり様の書置きをみつけた。「わたしは おりんが おばあちゃんの服を着てても 大丈夫です ゆるしてください」とあたいの感情をさらにサカ撫でするような文章のあと、「わたし ラーメン屋台 がんばってきます」と、なぜかカタコトで書いてあった。
どうせすぐに帰ってくる。たかをくくって放っておいたけど、まったく帰ってこない。
もしかしてラーメン屋がうまくいってるのだろうか?
いや、そんなわけがない。
だって、あのさとり様だ。あたいと話していてもよく情緒不安定になるのに、まったく初対面のひととまともに話せるわけがない。知りたくもない他人の心の声を聞いて、バキバキ心が折られているだろう。
しかも、あの地上にいるのだ。「あいつ」が裏切られ、だまされ、殺された地上に。
今頃は身ぐるみはがされ、地霊殿に戻りたくても戻れず、公園の障害者用トイレのなかでブルブル震えていたり、ブルーシートのなかでダンボールにくるまって泣いているかも知れない。いや、生きているならまだいい。まだましだ。
さとり様が、耐え切れないほどの精神にダメージを負ってしまえば。
心が、壊されてしまったら。
カレンダーを確認する。
あの日から、一週間。
一週間も放っておいたのか。あたいは、バカだ!
さとり様のパソコンの電源を入れる。パスワード入力画面が現れたので、あたいは以前さとり様が入力していたパスワードを打ち込む。この猫の目の動体視力を甘くみてもらっては困るのだ。
「KOISHI」と打ち込むと、あっさりとパソコンは立ち上がった。
さて、このなかを探れば、どこかにさとり様がどこに行ったのかのヒントが出てくるかも知れない。
ちなみに、あれからもこいし様の写真は定期的に送られていたらしい。もう「こいし」フォルダのなかはおそろしい数の画像ファイルで埋め尽くされている。相変わらずローアングルが多くてぱんつはよくみえるが、顔はよくみえない。最初観たときは衝撃的だったが、だんだん神経が麻痺してきたのか、こいし様ってわりと大人びたのをはいているなあ、わりとメリハリがきいててかっこいいお尻だなあ、などと普通に見れるようになった。だけど妹のぱんつ写真にまみれている姉のパソコンというのはやはりおかしい。そしてこんな写真を淡々と送ってくる地上はマジでどんなところになっちゃっているんだろう。さとり様が心配だ。
……ちょっと待てよ。例えばこいつにお願いすれば、さとり様のこういう写真も送ってきてくれるのだろうか。た、たとえばさとり様のこういう写真がばんばん送られてくれば、それに映った背景とかからアタリをつけるのが一番の早道かもしれない。
……さとり様のこういう写真か。
いやいや待て待てこんな怪しいやつにさとり様のぱんつを写させるつもりか。
いや、だが、今は一刻を争うのだ火焔猫燐よ。さとり様を見つけるために、たまたまさとり様のぱんつがみえたところでそれはやむをえない代償だ。さとり様だって許してくれるだろう。写真に写ればさとり様がとりあえず無事だということも確認できるしね!
さとり>お忙しいところ失礼します。
あや>これはさとりさん。今日のパンツの色はなんですか?
さとり>……黒です。
あや>おや、さとりさんではありませんね。となると……性悪猫さんですね?
こいつ、どうしてぱんつの色を聞いただけでそこまでわかるんだ?
そうか……さとり様はいつも白だからか。ひとりで買い物なんてまず行かないさとり様のを買うのはいつもあたいだし、あたいは白以外を認めてないからだ。さとり様は白でなければならない。それは宇宙の真理なのだ。
……こいし様がいなくなった今、さとり様の話に登場した者のうち、最後に残った者が「性悪猫」ってわけか。
こいつ、変態だが……宇宙の真理を理解している点といい、なかなか鋭いやつだ。
さとり>……まあそうです。実は、さとり様もラーメン屋台をするんだって地上に行ってしまいまして。探しているのです。
あや>さとりさんが地上でラーメン屋台wwwwwwww ああすみませんそれは面白そう、ではなく心配でしょう。いいですよ。写真が欲しいのでしょう? 本来なら報酬を請求するのですが、今回はいいネタをくれた、じゃなくてさとりさんを心配しているあなたの心意気に免じて無償で請け負いましょう。
さっそく次の日から、さとり様の写真が送られてきた。まったくこいつらの情報収集能力には頭が下がるぜ。
それからあたいは写真を分析する日々を送った。どうやらいつも同じビルが映るところをみると、だいたい同じ場所にいるようだ。夜は近くのホテルに泊まっている。あと、さとり様はやっぱり白だ。地上に行ってグレたりはしてないようだ。でも、こんなところにほくろがあるのは知らなかったなー。場所的に本人も気づいていないかもね。あたいはさとり様も知らないさとり様のからだのことを知っちゃったわけだ。ふ、ふふふふふ。っていうかここまで見えちゃってるってことは、サイズが微妙に小さいってこと? あーさとり様ってば太っちゃったんだなあ。運動不足だしねー。恥ずかしいから言えなかったのねー。あは、あはははははあはあはあはあはあはあ
やばい。今のあたいすげえ変態っぽい。でもさー、見えちゃうんだからしょうがないじゃん。いやいやいやこれじゃこの「あや」ってヤツの同類じゃん! あたいは変態じゃないんだ淑女なんだ。火焔猫燐よ背景を確認するんだ! ああ猫神様、あたいに強い意志を! ぱんつに打ち克つ強い意志を!
こうしてまさに苦行の一週間が経った。
おおよそのアタリはついた。そしてさとり様のお尻に誰よりも詳しくなった。さとり様のお尻について一晩語れる自信はある。
さとり様、待っていてください。今このおりんがあなたを助けにいきます! 今のお尻にぴったりのぱんつもお持ちしますからね!
「確かこのあたりなんだけど……」
まわりはでかいビルが立ち並ぶ電気街だった。幻想郷の人間の里も最近は発展著しいようで、昼も夜も関係なく明かりがともっている。年がら年中暗い地底と違って、地上は年がら年中いつも明るくなったらしい。
屋台はあっけなく見つかった。間違いなくさとりの屋台だった。酔っぱらったあたいが腹いせに無骨な屋台をピンク色に塗りたくって、のれんに真っ赤なハートマークとともに「さとりんの地霊ラーメン(はあと」と丸文字で書いたのだからもう間違えるはずがない。
そう、間違いないのだけど、あたいは目を疑ってしまった。
その屋台は、電気屋に置いてあるテレビに映っていた。
……どうしてあの屋台が放映されているの? まるでわからない。
だが、とにかくラーメン屋は盛況だった。少なくともテレビ画面を見る限り、席にはすべて客が座っている。みんなむさ苦しい男なのがイヤだが、ラーメン屋だから仕方ない。
……もしかして、最近人気のラーメン屋の紹介、みたいな番組なのだろうか?
……まさか、あの辛いラーメンが地上でうけているの? ホントに?
じわじわと、感動がおしよせてきた。
ああ、間違っているのはあたいだったのかもしれない!
そうだよ、さとり様だって見込みがあったからこそはじめたんだよ! 正直今までひとと出会うだけで勝手にトラウマを背負う生活能力ゼロのめんどくさい引きこもりだと思っていたけど、料理が作れるだなんて思いもしなかったし、ちゃんと自活する能力も持ち合わせていたんだよ。かわいいだけが取り柄じゃないんだよ!
無駄足に終わったかも知れないけど、心はとても晴れやかだ。自分の子どもがはじめてのおつかいをミッションコンプリートしたときも、こんな気持ちになるのかもしれない。
テレビには出されたラーメンをすするおっさんの姿がある。
「ええい、おっさんはいい! さとり様を映せさとり様を!」
テレビにかじりついていると、テレビに映るおっさんが突然「ぐふ」とうめき、ハシがとまった。
「ぐ……ぐ……ぐう……ぐはっ」
目を見開くと、突然ラーメンを吐き出し、そのままカウンターに突っ伏した。おっさんの顔のまわりから、吐き出した真っ赤なスープがひろがってカウンターを汚していく。
「おーっと! 残念! 今回の挑戦者も完食ならず! メンを食べきることもできませんでしたーッ!」
マイクを握った天狗が叫んだ。
大日本天狗テレビのレポーターの射命丸文だった。昼間っから妖精たちが泥んこ遊びをしてるさまをひたすら流している意味のわからない番組や、博麗神社に泊り込んで誰がその貧困生活に最も耐え切るかを競うという殺伐とした番組、金髪人形使いが飲み会に参加したり自己アピールをして友達を見つけようとがんばるという、見ているこちらがいたたまれなくなる番組といったキワモノ系のレポーターをしている。
……何かイヤな予感がしてきた。挑戦者ってなんだ? 一体これは何の番組なんだ?
「究極の辛さを誇る『地霊ラーメン』、今日も挑戦者を次々と打ち砕いていきます! いやあさとりさん。ついに残り一人になってしまいましたね。さすが地獄送りの地霊ラーメンですね!」
席に座っているおっさんどもの半数がぴくりとも動かないことに気づく。
おとなしくラーメンを待っていると思ったが……まさか、動かないのではなく……動けないのか?
カメラがカウンターの奥に移動する。おー、やっとさとり様が映るぞ!
「そ、そう……ですね」
あれ、なんかへんだぞ? どうしてそんなに笑顔がおそろしくひきつっているんだ。
「だけど、最後の挑戦者はすごいですよ」
一番はしには、ちょんまげを結ったむくつけきおっさんが座っていた。
「この挑戦に命を賭けているそうです」
おっさんは、鋭い目で、さとり様を睨みつけている。
さとり様は、ひいいい、と鳴いて、後ずさりした。ほとんど泣きそうな顔だった。尋常じゃない怯え方だった。一体何に怯えているのだろう?
「な、なんで。なんでみんな、そこまでして……」
「山があれば、山に登るまで」とおっさんは低い声で言った。
「さあさとりさん! ラーメンの用意を! 地獄への片道キップを!」
ノリノリの天狗に、さとり様は何かを言おうとしたけど、その声を押し込んでうなづくと、ラーメンを作り始めた。なんだかひどくぎこちない。理由はすぐにわかった。片腕で何故かずっとエプロンを引っ張っているのだ。そんなさとり様の姿を鋭いおっさんの目が追いかけている。おっさんの視線が怖いのか、時折さとり様は振り向いておっさんを確認すると、身を縮みこませている。
できあがったラーメンを震える手でおっさんの前に置く。
おっさんは、目を閉じると、両手をあわせ、何かお経のようなものをぶつぶつつぶやきはじめた。
「さとりんの前に散っていった無数の英霊たちよ、我に力を! いまこそパワーをひとつに!」
くわ、と目を開けると、おっさんは一気にラーメンをかきこみはじめた。
あっという間にその顔は汗にまみれ、真っ赤になり、よりいっそうむさくるしくなる。時折「ブフォ、ブフォ」と肺でも患ったかのような音を立ててむせていた。
「すごい! すごいです! 挑戦者、一気にラーメンを吸い込んでいきます! 辛さを口が感じる前に入れてしまおうという作戦か! あっという間にメンが無くなった! 残りはスープのみ!」
おっさんはどんぶりを持ち上げ、必死になってスープを飲み込んでいる。そしてそれを見るさとり様も、めちゃくちゃ必死だった。なんていうか、瀕死になったゴキブリが最後の力を振り絞ってこちらへ羽ばたこうとしているのをみながら、死んで、頼むからそこで死んで、と祈っているようなまなざしだった。
おっさんがどんぶりを持ち上げたまま「ぐふ」とうめいた。ゆらり、と体が揺れる。崩れ落ちるとおもいきや、そこで踏みとどまると、おっさんはどんぶりを叩きつけるようにカウンターに置いた。
「おおおォーっ! の、飲み干しているーッ! またひとつ! またひとつ、壁を撃破したぞーッ!」
おっさんは血を吐くようなものすごい咳をすると、
「……地霊ラーメン、おかわり」
「おおー! そして、そしてーッ! 迷うことのないおかわりコールーッ! これぞ漢ッ! まぎれもない漢だーッ!」
天狗はプロレスの実況ばりに絶叫している。
「い、いやああああああっ」
さとり様が悲鳴をあげた。顔が真っ青だった。
「も、もうやめようよ。こんなの絶対おかしいよ。ラーメンはおいしく食べるものだよ? 無理して食べるものじゃないよっ」
おっさんはニヒルに笑った。
「なあに。私の体は心配ござらん。おかわり、と言っているでござろう?」
「な、なんて笑顔をこのひとはするのでしょう……まさに死地に赴くサムライの笑みです! 我々は今ここにこの男が確かに存在しているという奇跡に感謝しなければならないッ!」
天狗はそこまで言うと、にやあり、と笑った。
邪悪そのものの笑みだった。みているだけでドス黒い気分になって汗がふき出してくるような、ゲロ以下のにおいがプンプンする笑み。
……いや。こいつ。まさか。
「いや! その前に! 忘れてはならない! 報酬! この勇者への報酬をッ! 勇気に値する対価をッ! もみもみ、カメラをさとりさんにズームアップだッ! ショータイムのはじまりですよッ!」
はいはい、と投げやりな声がかすかに聞こえると、カメラがズームアップしていき、さとり様の全身を映し出した。
両手でエプロンをつかみ、下に引っ張っている理由がわかった。さとり様はスカートをはいてなかったのだ。なるほど、スカートをはいてないとパンツまるみえになっちゃうもんね。
「ふ、ふ、ふざけんなあっ」
さとり様の白はあたいだけのパンツだったのに……なんで地上波で絶賛放映中になってんの? なんで? ナンデ? ああ、さとり様は地上の風にやられて痴女になってしまわれたのでしょうか。あ、でも、痴女のさとり様もアリかも。「ペットのおりん様っ、こ、こんなはずかしいかっこうしてる飼い主をいじめてくださいっ」とか言っちゃって。うひー!
じゃなくて。発情してる場合じゃないぞ火焔猫燐。
「いやー、こんなに食べてもらえるなんてラーメン屋冥利に尽きるってものですね。さとりさん、今のご心境を!」
さとり様は、死んだような笑顔のまま、
「こ、ここまでた、食べてくれるの、す、すごく……うれしいです……ううっ」
「おおっと、あまりの感激に泣いてしまいました! いやあ、企画を立てた我々もうれしい限りですね! ではもみもみ、そろそろコールをお願いします」
やれやれ、という誰かのため息が聞こえると、
「ぬーげ。ぬーげ。ぬーげ。ぬーげ」
……え?
「ぬーげ。ぬーげ。ぬーげ。ぬーげ」
……なんなの? このコールは?
「は、はい……」
さとり様は、ぶるぶると震える手を後ろにまわし、エプロンを外し始めた。
「あのー。先に断っておきますけど」
天狗は、ひどく冷たい目で言う。
「この勇敢な行為に対して、まーさーかーエプロン一枚、ってわけはないですよねー?」
さとり様のからだが、びくり、と跳ねた。
「あとー、そんなしけた顔じゃ目の前の勇者に失礼じゃないですか。いつものようにアレをやらないと」
「で、でも、手を離しちゃうと……その、おパンツが」
天狗は、あはは、と笑う。ひどく残酷な笑みで。
「どうせ脱いだら全部丸見えじゃないですかー。いまさら押さえても意味ないですよね?」
「そ、そ、そう……ですね」
さとり様は両手をエプロンから離すと、震わせながら自分の頭あたりまで持ち上げる。
「い、いえーい」
ダブルピースをして、無理やり笑う。あふれた涙が頬を伝う。
「わ、わたしのラーメンを食べてくれてありがとう。と、とってもうれしいなっ。で、でも、ラーメンだけじゃなくて、わ、わたしも、食べてほしいかなっ。な、なんてねっ」
うおおおおっ、とちょんまげのおっさんが叫んだ。
「それがし、感激! 命を賭けた甲斐があった!」
「感激するのはまだ早いですよっ。これからが本番……!」
さとり様は、ぐすぐす、と鼻をすすりながら、
「だ、だから、わたしがもっとよくわかるように、し、しちゃうからねっ」
どアップで映し出されたさとり様の顔で、目が、完全に覚めた。
その顔は、ガチで泣いていた。
……確かに途中まで、あたいは目がくらんでいたよ。はっきりいうと、さとり様のあられもない姿を見たいなあ、とか思ってしまっていた。ぶっちゃけ恥ずかしがってるさとり様をみてちょっとむらむらしてきちゃったよ。
どんな理由でこんなハメになったのかあたいにはわからない。けど、たぶんさとり様のことだ、嫌われたくないって心を見透かされ、だまされてると知ってむざむざ罠にはまったんだ。
そんなさとり様を利用して、こんなことをさせている。
あいつらは鬼だ。外道そのものだ。
っていうかなー、さとり様を泣かすやつは、誰だって許せねーんだ!
あたいは駆けた。目指すは、さとり様のぱんつの背景に映っていたビルだ。失敗したパーマみたいな妙な髪形をしている緑色の髪の巫女が、棒立ちで突っ立ったままドヤ顔をしている写真の下に「そんな貧相な神社で大丈夫ですか」「お参り・お祓い・妖怪退治は守矢神社へ」と描かれた、どでかい看板がかかっている緑色のビルだ。すぐにわかった。
そのビルのふもとに、異様なひとのかたまりがあった。
まさか。
あの真ん中に、さとり様がいるのか? そこで、公開脱ぎ脱ぎタイムをさせられてるのか?
きっとあいつらはさとり様に向けて汚い欲望をかきたててるに違いない。それもすべてさとり様は読み取ってしまうのだ。
あのさとり様が、耐え切れるはずがなかった。
さとり様! 今すぐ飼い主、じゃなかった、ペットのあたいがお助けするぜー!
「うおおおおーっ! どけどけどけー! 邪魔するやつはみんなぶっさらうぞーー!」
あたいはそのまま人ごみのなかに突っ込んでいこうとした。
そのときだった。異変が起こったのは。
「う、うわあああああっ!」「ひいいいいいっ!」
ひとかたまりになっていた人間が、悲鳴をあげながら散り散りになっていく。どいつもこいつも恐怖で歪んだ顔をして、必死になって逃げ出そうとしている。腰が抜けて、四つんばいで離れようとするやつもいる。
よくわからないまま、あたいは逃げていく人間たちの群れを逆走していく。
何か、おかしなにおいがした。かぐわしいような、だけど、とてもきついにおいだ。
屋台がみえてきて、あのちょんまげのおっさんと天狗もみえる。ふたりとも、腰を抜かしたようにへたりこんでいる。
その視線の先に、さとり様がいた。顔を伏せて、うずくまっている。なんだどうしたんだ。間に合わなかったのか? あられもない姿に剥かれちゃったのか。
「さ、さとり様ー!」
さとり様がゆっくりと立ち上がって。こちらを向いた。
さっきかいだにおいが、急に強まってくる。
――これは、バラのにおい?
そのときだった。
さとり様の顔が、ずろり、と溶けた。まるでアイスクリームのように。
みるみるうちにからだもどろどろになり、垂れ落ちていく。
その下からあらわれたものは。
「あいつ」だった。あたいの……前の、飼い主だった人間だった。
濡れた腕に鋭いナイフを持ち、やつれた笑顔でこちらを見下ろしていた。
「わたし、きいたことがあるの。ばけねこって、ひとをたべるんだよね。おりんもなれるよ。それでわたしたち、ずっといっしょ。おりんのなかで、ずっといっしょ」
そう言って、あいつは自分の脇腹にナイフを刺した。そのまま横に引こうとして、途中でつっかえたのか、うんうんうなっている。
「ああ。おもったより切れないのね。けっこうお腹の肉って硬いんだなあ。うーん。どうすればおりんがたべやすくなるのかな?」
やめろ。
「あ。そうか。落ちればいいんだ。ここ、五階だもんね」
やめてくれ。
「そうすればぐちゃぐちゃのミンチみたいになるよね。うん。それだ」
なまぬるい湯気がまとわりついてくる。
気付けば、あたいはあの真っ赤な風呂場のなかにいた。
裸のあいつが、こちらに向かって駆けてきた。
その顔には、吹っ切れたような微笑みが浮かんでいた。その目は、はるか遠くに焦点をあわせていた。
あたいは、あいつが自分の横を通り過ぎ、窓に向かっていくのを、ただ、追いかけて、見つめることしかできなかった。
あいつが窓を開ける。ぶわり、と冷たい風が、濡れた毛をなでる。
「ちゃんと来てくれたんだね」
ベランダで振り向くと、目の前にあたいがいるのを確認して、あいつは笑う。
「わたしのことばがわかるあなたは、やっぱり、ばけねこだったのね」
ちがう。
「じゃあ、わたしをたべるんだね」
ちがう。ちがう。ちがう!
「じゃあね。したで、まってるからね。約束だよ」
あたいが駆け出そうとしたとき、彼女のからだが、ベランダから消えた。
「うわああああああああっ!」
――気付くと、あたいは地獄の淵にいた。
切り立った崖の下には、赤く輝く溶岩がうごめいている。
――忘れるわけがない。ここは、あいつが眠っている――
「……ほら、これで食べやすくなったでしょ?」
振り向くと、あいつがいた。
真っ赤なトマトみたいにつぶれてばらばらになった、あいつが。
へしゃげ、砕けた顔が、無表情で、こちらを見ていた。
「なのに。どうして、食べてくれなかったの?」
「あなたはどうして、わたしを捨ててしまったの?」
「わたしは今でもあの地獄の溶岩のしたで、ひとりぼっちでいるのに」
「あなたは楽しそうに今でも生きている」
あいつが近づいてくる。赤い肉片をぼとぼとこぼしながら、ゆっくりと。
あたいは叫んだ。叫びながら、後ずさりしようとして、背後が崖であることを思い出し、そこでバランスを崩して足を滑らせ、尻もちをついてしまう。
ごめんよ。ごめんよ。
あたいはあんたの希望を叶えようとした。冷たい部屋に置かれたあんたの死体をさらったんだ。そうしたら急に見たことのない灼熱の世界に飛ばされてしまったんだ。きっと猫の本分を逸脱してしまったから、世界から追放されたんだろう。
溶岩の中にあんたを落としたあと、あたいも飛び込むつもりだったんだよ。
そうすればいっしょになれるかな、って思ったんだ。
なのにどうしてそうしないのかって?
そうだよね。ごめんよ。はやくそうすべきだったんだ。
あいつが近づいてくる。あたいは逃げられない。おそるおそる顔をあげる。
真っ赤な口があった。あいつが開けているんだ。
代わりにあたいを食べようとしているの? それで許してくれるの?
ぱあん、と音がした。
気づくと、あのピンク色の屋台が目の前にあった。
――え?
さっきのは、なんだ?
だけど、その疑念は、目の前で起こっていることのせいで、たちまち消えた。
屋台の前にはさとり様がいて――こいし様がいた。
さとり様と背丈は同じくらい、顔のパーツも当然似ている、違うのは胸のあたりがさとり様よりおっきいくらい。
そう、間違いなく、こいし様のはず、なのだ。
だけど、あたいが知っているこいし様とは、まるで違う雰囲気だった。こいし様は何を考えているのかわからないふにゃふにゃした笑顔で、そこらへんをフラフラしているようなひとだった。それは、まるでミドリムシみたいに外界の刺激に反応して動いているようにみえたし、いつも大きく見開かれた瞳をみても、何を考えているのかよくわからなかった。そんな、まるでクラゲのようなひとだったのだ。
だけど今、あたいの前にいるこいし様は、まるで違う。目は冷たく光り、まるで何かもを見透かしているように、さとり様を見据えている。その笑みは、からっぽの笑みじゃない。品定めするような、不敵な笑みだった。
――そして、その胸のあたりからコードでぶらさがっている「第三の目」が、閉じているはずのその目が、今、少しだけ開いている。まるで、咲きかけた花みたいに。
こいし様は今、そんな笑みを、さとり様に向けていた。
「お姉ちゃんにはたかれるなんて、久しぶりだね。うれしいな」
――なんだって?
まさか……あのさとり様が、こいし様を、はたいたのか? おおよそ怒ったことを見たことのない甘々シスコンさとり様が、まさか?
さとり様は、自分がやったことにようやく気づいたのか、自分の右手を呆然と見つめていた。
それから、ひどく後悔するような顔を浮かべた。
こいし様は、そんなさとり様の表情を見ながら、とてもうれしそうだった。
「そんなにイヤなの? もう一度、この『ぼく』と会うのは」
「そうじゃ……ないよ。ただ、こいしがわたしを……」
「だけどさ。お姉ちゃん、もうちょっとでこいつらのせいでひどい目にあわされてたんだよ?」
こいし様は、地面に転がってるものをガツガツと蹴った。血だるまになったちょんまげのおっさんだった。
「や、やめなよ。こいし、蹴りすぎだよ。もう気絶しちゃってるじゃない」
「大丈夫だよ。このひと、ぼくに蹴られて喜んでたんだから。お姉ちゃんだってわかってるでしょ?」
確かにおっさんは、満足げな笑みを浮かべていた。まじで救いようのない変態だ。
「ほんとうはあの天狗を蹴りたかったんだけどな。あいつら、逃げ足が速いんだよねー。お姉ちゃんを見て、あっという間だったもんね。あはは、あの天狗、お姉ちゃんのことこれで嫌いになったかもね?」
さとり様は、傷ついたように顔をゆがめた。こいし様は、あはっ、と笑う。
「冗談だよ。あの天狗はよっぽどお姉ちゃんのことが気になったと思うよ。ただの世間知らずのお嬢様だと思っていたら実は得体が知れない牙が生えていたんだ。その牙の正体が気になってしょうがないはずよ。あの天狗は、そういう奴なの」
「そ、そう」
こいし様は、あーあ、と声を上げた。
「なんでそこでホッとしちゃうの? あいつのせいで、危うく公開生着替えをさせられるところだったんだよ。っていうか、もうほとんどアウトじゃない。そんなえっちい格好させられてさー」
さとり様は、スカートははいてなくて、上着もボタンが外れて白のキャミソールがまるみえの状態だった。ようやくそのことを思い出したのか、うわっ、と叫んで上着を覆って座り込む。
「もー、そんなんだから変な写真を撮られてるのにも気づかないんだよ」
「変な写真?」
「そ。こういうの」
こいし様は、ちょんまげのおっさんのズボンのポケットをまさぐった。
「あ、あふううん」
おっさんが変な声をあげて悶えた。こいし様がサッカーボールのように思い切りおっさんの顔面を蹴りあげると、幸せそうな声をあげて昏倒した。
こいし様が取り出したのはカメラだった。それをいじくると、うずくまっているさとり様に渡す。
それを見たさとり様の顔が、みるみる驚きから恥ずかしさで真っ赤になっていった。
「な、なんでこのひと、こんな……わ、わたしの写真を」
「天狗の仕業だよ。ぼくのところも撮ろうとしたやつがやってきたよ。別に撮られても減るもんじゃないからいいだけどね。だけどこっちだけ撮られるのって不公平じゃん? だから、後をついてやって、そいつと一緒に部屋に入っちゃった」
こいし様は、無意識を統べる能力がある。他人の意識の外に抜け出して、認識できなくなるなんてことは朝飯前だった。
「でね、ぼくの写真を使って何をするのかをずっと観察しちゃったの」
こいし様は、むくく、と思い出し笑いをした。
「いやー、すごいよ。マジどうしようかと思っちゃったよ。でもすんごく楽しそうなのね。で、あんまり楽しそうにするからさ、こいつ理性飛ばしちゃったらどうなるのかなあ、って思ったの」
さとり様は、蒼白になっている。
「こいし……まさか」
「うん。頭を意識から解放させてやったの。理性の下に抑え込まれていたモノをね、ぱーんとおおっぴらに開けてやったの」
こいし様は、あはははは、と声を出して笑っていた。
「すっごいたのしかったよー。裸になっておっぱいおっぱい叫びながら道路で一人チークダンスを踊ったり、電信柱に抱きついて腰を振ったりとかさ。ケダモノだってモノに発情したりしないからケダモノ以下だよねー。残念だけどたいしたこともできずにすぐに警察に捕まっちゃったんだけどね。でもさ、おかしいと思わない? みんなそんなケダモノ以下のきたない欲を隠してもってるくせにさ、その欲を必死になって抑え込もうとしててさ」
「こ、こいし。あなた、その能力を」
「いいじゃーん。やりたいことをやれるようにしてやったんだから。それにお姉ちゃんにとってはそのほうが気楽でしょう? みんなが正直になってくれれば、何の不都合もないもんね」
こいし様は上着をからだに掛けてうずくまっているさとり様に近づくと、前屈みになってさとり様を見下ろした。うっとりとした目で、微笑んでいた。
「それよりもさ。お姉ちゃん。ぼくの写真、見たんでしょ?」
「……え?」
さとり様の顔色が、みるみる赤くなってきた。こいし様は、うれしそうににこり、と笑う。
「ああ、やっぱりそうなんだね! なんとなくそんな気がしたから、逮捕されちゃった奴の代わりにぼくが写真を送ってやったの」
……代わりに、写真を送った? 自分のパンツ写真を、送った、っていうのか?
「なんていうの、お姉ちゃんとは運命の糸で繋がってるゆえのカン? っていうのかな。この写真は、お姉ちゃんに見てもらえるもんだな! ってビビビってきたの。まあ、ぶっちゃけそいつのパソコンのなかにボクの写真が保存されていたからなんだけどね。もう絶対地霊殿にいるひとじゃないと撮れないような写真だったからさー。あーでもよかったお姉ちゃんで。お姉ちゃんにだったらコッソリ撮られても全然いいからね」
「……」
さとり様は、顔を真っ赤にしたまま、うつむいている。
「その顔。さては、お姉ちゃんもぼくの写真を使ってみたりしちゃったね?」
「つ、使う、って、な、何になの」
「お姉ちゃんはマジメだなあ。そこはさ。うまく切り替えしてよ。ほら、本物のほうに興味がわいたとか。触ってみたくなったとか。それとも、もっとすごいこととかね」
「こ、こいし……や、やめてよ、そんなこと、言うの」
「ふーん。まーでもお姉ちゃんってムッツリだからなー。ぼくのこといつも見張ってるくせに、襲ったりはしてくんないんだもの」
「お、襲うだなんて、な、何を言ってるのよっ」
「あはは……まあ、ぼくの写真なんて何に使われようが別にいいんだけどさ」
突然、こいし様の気配が、豹変した。
「だけど、お姉ちゃんは別だよね」
――いつの間にかこいし様が、こちらを見つめていた。
「ぼくのお姉ちゃんが、こんな写真を撮らされていただなんて。八つ裂きにしても絶対に許せない」
無表情のその目に、おぞけが走った。
……まさか。気づいているのか? それを天狗に頼んだのがあたいだって。何故?
いや――わかるわけない。
いや……だけどあの目。あたいを見る目。開きかけた第三の目。
――わかっているのだ。すべて。こいし様は、自分が撮られていたことを気づき、その写真がさとり様のもとに行くことも気づいていた。つまり、あたいたちが天狗に依頼していることを知っていた。あたいたちとは、さとり様と、あたいだ。
そこまで気づいているのなら、さとり様の写真をゲットしようとその手法を踏襲できる者が誰かは、後は消去法だ。
さとり様本人を引いて残るのは、あたいだけ。
え、もしかしてさとり様のぱんつのせいであたい八つ裂きにされるの? マジで? ま、まー怒るのはわかるけど。そりゃ悪いことをしたと思うけど……でも、でもでももともとの原因はこいし様じゃないのさ。
「そうだね。そもそも私が家出しなければお姉ちゃんもこんな目にあわなかった。それはすごく、正論だよ」
――第三の目は開きかけだけど、このひとあたいの心がわかるのか?
「その顔。やーっぱりそう思っていたのねー。ということは、ぜんぶぜんぶビンゴってわけね」
……かまをかけたのか?
あたいが気づいたと思い、それからこいし様を非難するところまでシュミレートしたうえで。
「じゃあ、殺しちゃおっかなー」
軽い口調だけど、こいし様の目は、マジだった。
殺される、と思った。
「こ、こいし。おりんは悪くないよ。わ、わたし、別に気にしてないし」
「お姉ちゃんが甘いから、いつもみんながつけあがるんだ。ほんとうは『無敵』なのに。まあ、でも今回はぼくも悪いんだからなんにもしないよ。あはは。……だけど、やろうと思えば、ぼくは誰にも気づかれずに近づけるし、いつでも『頭を開ける』ことができる、ってことは覚えていてほしいかな。要は、これ以上お姉ちゃんを汚したら殺す」
獲物を狙う爬虫類みたいな目で、こちらをにらみつけている。超怖い。
「こ、こいし。もうわかったから。わかったから、お姉ちゃんと一緒に帰ろう? ね?」
「うーん。悪いけど、まだ帰れないの」
こいし様の一言に、さとり様の顔が絶望にゆがんだ。
「そ、そんなに……わたしといっしょが嫌なの……?」
さとり様は、うずくまったまま半泣きになっている。
「……お姉ちゃん」
こいし様は、そんなさとり様に、うっとりした目を向けていた。
「ごめんね。お姉ちゃん」
上から覆いかぶさるようにして、さとり様に抱きついた。ちょうどこいし様の、見た目不相応におおきな胸のあたりがさとり様の顔をむぎゅ、と押しつぶす格好になった。
「こ、こいし、く、苦しいっ」
「ぼくはお姉ちゃんが大好きだよ。世界で一番好きだよ。だけど。わかっちゃったんだよ。このままじゃ、お姉ちゃんはずっと救われないって。スーパーに行くと『どうしてそんなこと考えてるんですか? 変態さんですか?』とか思わず言っちゃってボゴボゴにされたりとか、『みんながわたしのパンツ見ようとするんです! 怖い!』と警察に駆け込んで精神病院に入れられたりとか、そんなことばっかりじゃないの。それはね、お姉ちゃんは読みたくもない心が読めるから。きたない心にお姉ちゃんの心が穢されてしまうから」
こいし様は、自分の胸をさとり様にぐりぐり押し付けながら、とろけた目で遠くを見ている。
「じゃあ、どうすればいいと思う? ぼくはわかった。やるべきことがわかったの。こうやって地上に出て、よくわかったの。お姉ちゃんが苦しんでいるのは、この世界がきたないから。お姉ちゃんが悪いんじゃない。悪いのは、この世界なの。だからこの世界はきれいにしないといけない」
「こ、こいし、だめ。だめよ、」
「だからお姉ちゃんはもっと能力を使ってもいいの。お姉ちゃんは『無敵』なんだから。『正義』なんだから。だから、腐ったやつら、きたないやつらを引き裂いてやって、ぐちゃぐちゃに切り刻んで、」
こいし様は、自分の言葉に興奮しているのか、さとり様の顔を自分の胸にこすりつけながら、はあはあと荒い息をあげている。
「世界で必要なのはお姉ちゃんだけなの。ほかはみんな死んじゃえばいい。あはは、死ね、死ね、死んじゃえ死んじゃえ」
「……こいし様。おやめください」
あたいの言葉に、こいし様の言葉が、止まった。
「あんまり物騒なこと言うのは、やめてください。さとり様が、悲しんでいます」
こいし様は、胸からさとり様を引き離した。
さとり様は、今にも泣きそうな顔をして、震えていた。
ふん、とこいし様は鼻を鳴らす。
「邪魔したのは、ほんとにそっちの理由なのかなー?」
「……何を言ってるんですか。とにかくどこのアニメかマンガから影響を受けたのか知りませんが、セカイとかセイギとかシネとかそーいう厨二病チックな物言いはやめてくださいよ。ほらそこにマジメに受け取っちゃって泣いてる子だっているんですよ」
「ふうん。おりんはぼくがマジメに話していないって思っているのね。ふうん」
……さっきからいちいち引っかかる言い方を。あたいが知ってるこいし様は確かにふにゃふにゃした子だったけど、こんなに反抗的じゃなかったのに。
「まあいいや。じゃあさ。おりんはお姉ちゃんがこのままでいいって思うの? 何にも面白くない生活を続けることがいいっていうの?」
「あなたの考えているやり方がおかしいって言ってるんです」
「おりんは、まだこの世界をわかっちゃいないのねー。お姉ちゃんみたいなきれいなものは、汚い世界には棲めないの」
「だから、世界を変える、っていうんですか? 世界はそれを厨二病って呼ぶんですよ」
「お姉ちゃんだったら。できるよ」
……さとり様だったら?
「まーおりんは知らないだろうけどねっ。お姉ちゃんの能力はね」
「こいし。やめて。やめてよ」
さとり様が、横に顔をそむけたまま、小声で言った。
「そのことを言うのは、やめて。お願い」
こいし様は、そんなさとり様を暫く見下ろしていたけど、
「ふうん。まだわかってくれないんだね。『その力』はとても素敵なものなのに。まあいいや。それよりもさ」
ふふ、と笑い、一枚のチラシを取り出した。
「さっき天狗が配っていたの。この番組、これの宣伝も兼ねていたんだねー。あいつって、ほんとうに抜け目がないよね」
ラーメンバトルのチラシだった。
「お姉ちゃん、ぼくのために、こんなのに出ることになっちゃったの? まーた口車に乗せられてだまされちゃったのね」
「だ、だまされてないよ」
「ぼくにはわかるよ。汚い奴らに囲まれて、お姉ちゃんの綺麗な心が、めちゃくちゃにされちゃうのがね」
こいし様は、相変わらず微笑んだまま言う。
「お姉ちゃん、今度こそ、立ち直れなくなるかもしんないね」
さとり様が、ごくり、と唾をのみこむ音が聞こえた。
「……こ、こいしが帰れば、わたしは出ないよ」
「うん。そうだろうね」
そこで「んふふー」と鼻で笑うと、
「でも、ダーメ。お姉ちゃんは出るの。どうしてって? ぼくも出場することに決めたから」
さとり様は、愕然とした顔で、こいし様を見た。
「……え? な、なんで? なんでこいしが出るの?」
「さあ。なんでだろうねー」
こいし様は、相変わらず底がみえない笑顔のまま、
「じゃあ、勝負しようよ。お姉ちゃんが勝ったら、ぼくは地霊殿へ帰る。二度とこんなことはしないよ。ぼくが勝ったら……じゃあ、お姉ちゃんは、ぼくのものになってもらおっかな」
「こいしのもの、って……」
「そ。ぼくのもの。つまりペットだね。あはは」
さとり様を……ペットにするんだって? いくらこいし様でも横暴だ。さとり様は、さとり様は……あたいのペットなんだぞ!
「や、やだよっ。こいしと勝負なんてしたくないよっ」
さとり様の側に座り込んでいたこいし様は、さとり様の手をにぎった。
「お姉ちゃんは、ぼくに約束したんじゃないの?」
そして、さとり様の手をそのまま、自分の胸のあたりまで持っていった。
ふたつのふくらみの間に挟まれるように、こいし様の第三の目が、そこにはあった。
さとり様は、蒼白になった顔で、自分の手に触れている半開きの眼球を、凝視していた。
「思い出してくれたんだね。うれしい」
「……忘れるわけ、ないよ」
「お姉ちゃん。ゴメンね。卑怯なやり方だと思うけど。どうしても、お姉ちゃんには出てほしいの」
「……何を考えているの? わ、わたし、もう、誰も傷つけたくないよ」
「確かにそれは痛みを伴うかも知れない。でも、それはしあわせになるための代償なの」
「……?」
そして、にっこり笑った。
「じゃあお姉ちゃん、勝負する前にさ。傷がついてないか、ちょっと確かめさせてね」
こいし様はちょっとだけ横に移動した。ちょうどあたいとさとり様の間で、さとり様のからだはこいし様に隠れてあたいからは見えなくなった。
「き、傷? な、なにをいってるの?」
「ずっと心配していたの。ぼくもおくうもいなくなったあそこには、お姉ちゃんとそこの年中発情猫だけじゃないの。だから、キズモノじゃないかだけ確認したいの」
「え、ち、ちょっや、やめっ」
さとり様の両のふとももが、こいし様のからだの脇から投げ出された。これがどういう状況かというと、つまり、さとり様は、こいし様の前で両足をくぱあと広げているわけだ。つまりこれがほんとうのさとりをひらく。
「ちょっと何やってるんですかー!」
「だあって、ぼくのものにしたのにキズモノだったらすごくがっかりするじゃないの」
「こ、こいしっ。は、はずかしいよおっ」
「こんなんで恥ずかしがってちゃダメだよ。ぼくのものになったらぜーんぶ見せてもらうもんね。あ、お姉ちゃんってこんなところにほくろがあるんだー」
「ちょ、そんなところさわら、んあっ」
投げ出されたさとり様の足がびくん、と跳ねた。
ほくろは、あたいが見つけたほくろだ。あの、お尻の内側の、かなり危ういところにある……ちょっとまじなにやってんのこの妹。
「ちょ、ちょっと待った! どっちが発情してるんですかー! 姉妹といっても限度ってもんがあるでしょう!」
いきなりこいし様がこちらを振り向いた。あざけるように笑っている。
「なんかさー、さも自分は清廉潔白みたいな顔してるけど、お姉ちゃんのぱんつ写真をお願いしたのは誰なの?」
「あ、あれは……理由あってのことです!」
「素直に言えばいいじゃないの。お姉ちゃんの今のかっこうが気になってしょうがないって」
「……いや、そりゃ確かにさとり様のはしたない姿を見たいと思ってますよ。めっちゃ見たいですよ!」
「うわほんとに素直に言った」
「でも、さとり様が嫌がることは、あたい絶対やりませんからね! こいし様は欲望を隠し持ってること自体をきたないみたいに言ってますけど、そういった欲望を持ちながら相手のために世間のために我慢する、ってことが、どこが悪いのかあたいにはさっぱりわかりません。そうやってさとり様が嫌がってるのに無理やり恥ずかしい格好させてるほうが、よっぽどひどいんじゃないですか?」
こいし様は、あたいを凝視して、しばらく押し黙っていた。
笑顔は失せて、見開かれたふたつの瞳は、憎んでいるような、悲しんでいるような、不思議な色をしていた。
「……そうよ。ぼくもよごれているの」
再び、口元に笑みが浮かぶ。張り付いたような、口だけの笑み。
「この世できれいなのは、お姉ちゃんだけ。でもこの世でお姉ちゃんといっしょにいられるのは、ぼくだけなの。選ばれたぼくはお姉ちゃんのために、お姉ちゃんが棲めるような澄み切った世界にしないといけない」
「……何言ってるかさっぱりわかりません。頭でも打ったんですか? あたいの必殺猫パンチでもう一度打ってやりましょうか?」
「ま、待って、ふたりとも、ケンカはやめてよ。わ、悪いのはわたしなんだから、わたしが変われば、んんんっ」
「お姉ちゃんは悪くないの。少しも悪くないの。……でも、まあいいや。あとで、きっとわかってもらえるからね」
こいし様の気配が、まるで蜃気楼のように薄れていく。認識の埒外に移動しはじめたのだ。
「ボクのものになるまえに、キズモノにならないでね。お姉ちゃん」
そして、完全に消えた。
「だ、大丈夫ですか? さとり様!」
さとり様は、股を広げたまま、はあはあ、と荒い息をしながらくったりと地面に横たわっている。上着ははだけ、おへそまでみえている。
うわー、これやばくね? どうみても犯罪でしょう。犯罪誘発罪だよ。理性吹っ飛ぶよ。ああまずい、あたい発情しちゃう! このままアレだ、さとり様を抱き起すふりをしていろんな部位にさわっちゃったりガン見したりして、
突然肩を叩かれた。
くそーこんなときに邪魔すんなよ、と振り向くと、制服姿の警官さんが立っていた。
「君。こんなところで何をやっているんだね」
「な、何って、その……」
「さっき通りすがりのお嬢さんから、ここで百合乱暴を働く狼藉者がいると聞いたのだが」
「……」
今はっきりわかった。
今のこいし様は、だいっきらいだあああっ!
さとり様が「おりんはまだ何もしていません! ……でもえっちなことしたいとは考えていました」とかぬかすので、あやうく未遂罪で投獄されるところだったけど、なんとか警察の誤解は解けた。
「つまり、あの中二病変態ボクっ子が、本来のこいし様だと。いうことですか?」
あたいは湯気の立つメンを念入りにふーふーしながら、隣に座るさとり様に言った。
いろんなことが一気に起こって飽和状態だし、とりあえずお腹も空いたしで、あたいとさとり様は屋台のラーメンを食べていた。
あたいは当然あの激辛の元抜きだ。味無しもやむなしと思っていたけど、思ったよりスープも下味がついていてなかなかいける。「きっとこっちのほうが売れますよ」と伝えたが、「赤いのが無いと地霊殿ラーメンじゃないもん」と即却下された。つくづく残念なひとだと思う。もしかするとDNAレベルでまっとうな人生を歩めないように定められているのかもしれない。
屋台の丸椅子は、なんだか立てつけが悪くて、さとり様もあたいも時折ガタガタ揺れている。
「ま、まあ、その言い方はどうかと思うけど……あれが目を失う前のこいしなの。わたしも最初にこいしの目が開きかけているのに気付けばよかったんだけど、ただ、急に冷たくなって『家を出る』って言われちゃったから、もうびっくりしちゃって……」
「……とすると、こいし様は、自分の目が戻りかけているのを、確信的にさとり様へ伝えなかった、ってことですね。さとり様がキョドってこいし様の変化に気付かないことも計算づくで。で、勘違いしたさとり様が必死になって地上まで自分を追いかけてくるように仕向けた」
でもその理由が、いまいちよくわからない。さとり様に苦難の道へとあえて誘っているようにしかみえないのだ。
それがさとり様の怠惰な人生を改めるための愛のムチというわけではなく、むしろ「今度こそ立ち直れなくなるかもね」と絶望するのを望んでいるようにみえる。
こいし様はさとり様が嫌いになった? そんなわけじゃない。それどころかもはや「さとりお姉ちゃん教」の狂信者といえるくらいだ。
さとり様を絶望させて、自分だけのものにしたいのか? でも、「お姉ちゃんが負けたらぼくのもの」ってのはその場でとってつけたように思えるんだよなー。
うーん……なんだかぜんぜんわからない。
「わかりますか。さとり様は」
「……」
あ。これは、わかってる顔だぜ。
「……なんですぐわかるの? やっぱりおりんって覚りなの?」
「だからそんなに顔に出してればわかりますって……で。どうわかってるんですか」
「……ねえ。わたしに近づいたとき、おかしなものを見なかった?」
「……おかしなもの?」
「おりんが思い出したくもない、いやな過去」
――何もできないあたいの目の前で、ベランダから姿を消した長髪の少女。ひしゃげてつぶれた頭蓋。あちこちがばらばらに飛び散ったからだ――
「ごめん!」
さとり様があたいの手を取って、ようやく我も返った。
「いやなもの、思い出させちゃったね。あれは、わたしの力なの」
「……さとり様の力?」
「心の奥底に隠し持っているそのひとの持つトラウマ。わたしは、それを引っ張り出すことができるの」
ちょっと考えたくて、あたいはさとり様から視線をそらして見下ろした。半透明のスープで満たされたラーメンがうつり、あたいはハシでそのなかに漂うメンをゆるゆるとかきまぜる。
……あれが、さとり様の力だって?
あのとき、たくさんの人間が逃げていくのを見たけど……あれもみんな、その力のせいだっていうのか?
「でもね。それだけじゃない。わたしは、引っ張り出して、むきだしにされた心を、むさぼり食ってしまうの」
「……心を、食べる?」
「心が食われたひとは、心を無くしてしまう。つまり、こいしみたいになってしまう。いつもニコニコしているけど、本当は何も考えていない。まるでこどもか動物みたいに、ただ、なんとなく反射的に動くだけ。そんな、ひととして大切な部分が抜け落ちてしまうの」
――あのとき、確かに「あいつ」はあたいを食べようとしていた。
食われていたら。あたいは心を失っていたのか?
「……バラのにおいがしなかった? あれは、こいしの力なの。こいしの力は、無意識を操るもの。心を裸にしてしまい、理性や感情で普段隠し持っている欲望をさらけだしてしまう。たとえるなら、行動にまったく制約のない夢遊病のひとに『一番やりたがっていること』を無理やりにでもさせてしまうようなものよ」
「……」
「つまりね。わたしは、こいしのその力に引っかかってしまい、もう少しで、おりんの心を、食べるところだったのよ」
「……」
あたいは、さすがに、すぐに言葉を出すことができない。
……つまり、どういうことだってばよ。さとり様は、ホントはあたいを心を食べたくなるほど嫌いだってのか? うおおおお……めちゃショックなんすけど。
「そうじゃないの。たまたまおりんが近くに寄ってきたから、今回はおりんを食べようとしただけ。わたしは、本当のわたしはね、この世界のすべてが嫌いなのよ。だから、近くにあるものを無差別に食ってしまうの」
「……えっ? せ、世界が、嫌い?」
「そうよ。わたしは、この世界すべてが、嫌いなの。ひどい悪夢を見せつけるのも、心を食べるのも、全部嫌いだからなの」
さとり様の顔は、ひどく暗かった。
「なにひとつ自分の思い通りにいかない、イヤなことばかり続くこの世界をね。ほんとうは消してしまいたがっているの。そして、実際にわたしはそうできるの。とてもひどいやつでしょう? ドン引きでしょう?」
「……もしかして、さとり様は、だから、外に出たくなかったりもするんですか。さとり様としては、本当は傷つけたくないけど……そうやりかねない自分が怖いから、だったら誰とも会わないほうがいいや、って思ってたんですか?」
これ以上嫌いたくないからシャットダウンする。
これはとてもシンプルな解決方法だ。
だけど、とても、さびしいやり方だった。
「……」
さとり様は、押し黙っている。
……もしかすると、こいし様は、それを知って……
さとり様の幸せのために。
嫌いな世界を変えようと、しているのか?
……だけど、どうやって?
「こいしは、わたしの力を……特別なものだとおもっているの」
……さとり様を「無敵」と言っていた、こいし様。
「ちょ、ちょっと待ってください。ということは、そのさとり様の力がラーメンバトルのときに発動したら。さとり様にテレビで頭がパーンってさせられたひとが幻想郷全国に放送されるってわけですか。んなことになったら放送禁止レベルどころじゃない。戦争でもおっぱじまりますよ!」
あたいの言葉を聞くさとり様は、傷ついたような表情で、黙っている。
……え?
まさか、それが狙いなの?
世界を変えるために、世界を相手にしてたったふたりで戦争をおっぱじめるつもりなの?
いや、どう考えても頭がおかしいだろ。さとり様の力がいくら凶悪だったって、いくらなんでも、無茶だ。どんだけ無双すれば勝てると思っているんだよ!
「さとり様! こいし様はアホです。とっとと連れて帰りましょう」
「無理だよ。こいしは逃げようと思えば、いくらでも逃げられる。おりんも知ってるでしょう? それに連れ帰ったとしてずっと監禁するの? どっかの吸血鬼はそうやってるみたいだけど……できないよ、そんなこと」
「じゃ、じゃあ、ラーメン大会に出るっていうんですか! これだけわかってるのに! なんで、なんでいつもさとり様は……そんなにわかっていながら落とし穴にみすみすはまるようなことばっかりしようとするんですか!」
「ごめんね。おりん。だけど、こうするしかないの」
「……こいし様との約束のため、なんですか?」
こいし様が、胸元の第三の目をさとり様に触れさせながら、何かをつぶやいていたのを思い出しながら、あたいは言う。
「どんな約束か知りませんが、その約束は、世界と釣り合うものなんですか」
「そうよ」と、さとり様はきっぱりと言った。
「こいしが行くのなら、わたしも、行かなければならないの」
「どうして!」
「こいしは……わたしのために、目を捨てたから」
さとり様は、ドンブリをつかんだまま、遠くを見ていた。
「だからわたしは、こいしの目にならないといけないの。いつでも近くにいないといけないの」
――あたいは。
さとり様の顔をみて、それ以上のことを、何も言えなくなった。
だめだ。この目は、この顔は、何を言っても聞かない顔だ。こうみてもさとり様はおそろしく頑固なのだ。
「……ラーメンで地霊殿は滅びましただなんて、まったく笑えないんですけど」
「わかっている。でも、あの子を止めるためにも、行かなきゃならないの。こいしのあの力は、怖い力よ。あれを無差別に使っていたら……いったいどうなるのかわからない」
「いや……あたいは正直、こいし様にさとり様があわさって爆弾がふたつに増えるよーにしかみえないのですが。嫌われたくないので引きこもっていたさとり様に、不特定多数の前に立ちながら、こいし様の策に溺れずに耐え抜く精神力があるんですか?」
あたいの言ってることは、まったく正論のはずだ。さとり様もぐうの音が言えず、詰まっている。
「だ、大丈夫よ」
ぎこちなく笑って、さとり様は言う。
「ほら、今回のラーメン屋だっていろいろあったけどうまくいったしね。もっとサイテーかと思ってビクビクしていたけど」
「脱衣ラーメン屋台にさせられて生脱ぎを地上波に流された時点で十分サイテーですよ」
「ま、まあ確かにひどい目にはあったけど……けっこうたのしかったし」
「たのしい。生脱ぎショー、たのしかったんですか?」
「い、いやいやそこじゃないからそんなに鼻息荒くしないでよっ。ほ、ほら、ひとと接すること、って、や、やっぱりいいなあ、と思ってさ」
「接したのは変態野郎ばかりじゃないですか」
「だ、だから……大丈夫だから。おりんは安心して地霊殿を守っていて。ちゃんとこいしを連れて帰るからさ?」
「……ひとりで、行くつもりつもりなんすか」
「うん。大丈夫だから。ほんとに、大丈夫だから」
あたいはしばらく押し黙って、さとり様を見つめた。
さとり様は、作り笑いを浮かべているけど、不安を押し殺そうと超がんばってるのがみえみえだった。
あーもー、こんなに大丈夫じゃない笑顔ってないよなー。なんでこのひとって他人の心が読めるくせに。嘘をつくのがヘタなんだろうね。
「……あたいも一緒に出ますよ」とあたいは言った。
「地霊殿は『特攻野郎☆ゾンビフェアリー』に任せておきましょう。金さえもらえば何でも引き受け、不可能も可能にする、神出鬼没の頼れる妖精集団ですよ」
「だ、ダメだよ!」
さとり様はカウンターをばんと叩くようにして両肘を立てた。ラーメンが揺れた。
「わ、わたしの能力は無差別なのよ。だから、力が発動したら、さっきみたいに……。わたし、おりんの心を、食べたくないよっ」
「でも、どーせそうなったら地霊殿はおしまいじゃないすか。地上のやつらの頭をパーンさせて『やりすぎちゃったーごめんねてへぺろ☆』ってしてもきっと許してくれないでしょうし」
「に、逃げればいいんだよ。おりんだって、今回でわかったでしょ? わたしと一緒に住めば、いつか、心を、食べられるのよ。今、この瞬間だって……そうなるかもしんないんだよ。わたしはそうする力があるし、ほんとうは、それを、望んでいるんだよ」
「……」
「おりんはもともと地霊殿にいたわけじゃない。どこに行くのも自由だよ。だって、あなたは猫だから。そ、それにわたしと違って世間慣れしているし、なんでもスマートにこなすし、妖精の扱いだってうまいもの。きっと、どこへだってうまくやっていけるよ。わ、わたしみたいなコミュ障の引きこもりよりいい飼い主なんてたくさんいるしね。だ、だから、」
「あまり悲しいことを言わないでください」
さとり様は、驚いた顔を、あたいに向けている。
「さとり様」
「は、はい」
「あたいの心は、読んでいるんでしょう?」
「……うん」
「じゃあ。それ以上何も言わないでください。どこへでも行けだなんて、もう、言わないでください。あたいの居場所は地霊殿だけです。そして、あたいのペットはさとり様だけなんですから」
「……か、飼い主の間違いだよね?」
「細かいところをツッコまないでください。あたい今いいこと言ったんですから」
あたいは残りのメンをすすると、どんぶりを持ち上げて、ぬるくなったスープを一気に飲み干した。
どん、とカウンターに置いて、まだハトが豆鉄砲をくらったような顔をしているさとり様に、
「こいし様は、自分が負けたら帰るって言ってました。要は勝てばいいんですよ。だから、二人で、勝ちましょう。そして、こいし様と一緒に帰りましょう。それでこのバカバカしい騒動はおしまいです。わかりましたか?」
「……ふたりで」
「そうです。ひとりよりは、なんぼかマシでしょう?」
さとり様は、やっと、ほっ、としたような顔をして、少しだけ、ほほ笑んだ。
だけど、またしてもその笑顔が崩れてくる。たちまち涙が溢れてくる。ラーメンのスープのなかに、ぽたり、ぽたり、としずくが落ちていく。
あたいは、白いハンカチを差し出した。さとり様はそれを受け取ると、顔を覆って、
「う、ううううううううっ。うううううううううっ」
……まったくよく泣くひとだ。と、思った。
「だ、だって……ほ、ほんとうはっ……心細かったんだものっ……ひ、ひとりでラーメン屋やるのだってっ……毎日毎日おかしな客から気持ち悪い心を見せられて吐きそうだったし……あ、あんな真似させられても、誰も助けてくれないしっ……」
「……泣くほど嫌なら、そんなに我慢せずにやめればよかったじゃないすか」
「だ、だって……だってっ……こ、これで、あやまでいなくなっちゃったら、わたし、ほんとにひとりぼっちでっ……」
あんのやろー。さとり様の心細い気持ちも利用してあんな真似をさせやがったんだな……マジで許さん。
「だ、だから、毎日毎日、おりんがいればよかったなあ、って思ってたの。そ、それが、やっと今ね、本当におりんがここにいるんだ、ってわかって、わたし、ひとりじゃないって思ったら、もう安心しちゃって、ごめんね、何言ってるのかわかんなくて……」
「……わかりますから、大丈夫ですよ」
うーむ。そこまで自分の存在を認めてくれてるなんて。あたいちょっときゅんときてしまったぞ。っていうかなんかこれってフラグ立ってんじゃね? ついに燐さとの時代がやってきたんじゃね? うおおおっ。うおおおおっ。
と思いつつさとり様を見て、さとり様の顔を覆っているのが白いハンカチじゃなくて持ってきた替えのぱんつなことに気づいた。
「……」
「……」
あ、フラグが消えた。
心が読めるって、ホントこういうときに融通が利かないよね……。
作らせなかった理由→作ろうとしなかった理由
ぱんつに打ち克つ→ぱんつに打ち勝つ
お姉ちゃんが棲めるような→お姉ちゃんが住めるような(中二病設定なら元のままでもいいかも)
登場人物の日本語の学力が全く安定してません(特に漢字の使い方に関して)
コミュ障設定で漢字に不慣れなさとりはともかく、それよりマトモであるべきお燐の言葉のひらがな率が凄くてすごぶる読みづらいです
これが「ぜんまいじかけのラズベリーケーキ」の作者さんが書いた作品だとは正直信じられません、とりあえず一回全編通しで(ここ重要)再読して自分なりの日本語のルールを作られた方がいいと思います
これはギャグなの?シリアスなの?不愉快な性格にされてるやつばかりでイライラした
後半もラーメン屋がキーになるのかなぁ。
しかし文をああいうキャラにしたのは許されざるよ。
基本良い子なのに時々妄想が漏れてしまうおりんがかわいすぎるw
長めの分量に読むのが後回しになっていましたが、読み始めたら止まらないおもしろさがありますね~。
後半が楽しみです。