京都へ引き移るにあたって、ある人の好意から、伊織町に下宿を紹介してもらった。なんでも古い建物らしく、ぼろ屋のつぐないにその家賃が素敵に安い。家具は先方で最低限の用意があるので、着る物だけ持ち込めばすぐにも落ち着けるという。写真を見せてもらうと、趣味の良い洋館造りのアパートメントが写っていた。正面口をとり守るようになって騒々しく繁る植え込みの左から、一本痩せたしだれ桜が大きくせり出して、字の剥げ落ちた看板の上に品の良い花を飾っている。この桜のすぐ上に写っているのが下宿する部屋の窓らしい。私は大いに気に入ってここへ住んでみる気になった。
かばんを引いて新居を探す京都の春はまだ寒かった。鴨川を渡って向こう左岸に踏み込むと、案内だらけで地図の上を歩くようだった道が途端に無愛想になる。疎水に沿って歩きながら折れ角を数えて着いた下宿は、門前に立つと古い木の香りがした。読みづらい看板の上に写真で見たままのしだれ桜が蕾を下げているのを認めると、私は思わず嬉しくなった。
両開きの扉を押していよいよ中へ入ろうとした時、その建てつけの悪いことに驚かされた。鍵の開いた押し戸を押して開かない道理はないだろうと、意地になって揺すぶってみたが、はめ硝子がカチャカチャ音をたてるばかりで戸は依然として動かない。よく注意して見ると、右の門柱が手前に傾いて戸口を歪めているらしい。「ごめんくださあい」と人を呼んでみたが虚しかった。おもてをくぐってからはあたりが急に静かになった気がする。戸口の三角屋根はただ黙然と陰気な顔をして来客を拒んでいる。
どうしたものかと腕を組んでいると、ふいに頭の上でカラカラカラと乾いた音がした。見上げると、桜の枝に赤いリボンが色気なく結ばれており、そこへ何のためか仙花紙で組んだかざぐるまを差して中空に留めてあった。カラカラカラと鳴りながら大して風もない中で不思議なほどよく回っている。何となく気になって見上げていると、垂れ下がった枝を通して見える二階の窓、私が移るはずの部屋のカーテンが細く開いて、年の若い女性が顔を出した。小さな口が動いて何か言った。「どなた」と訊かれたように見えたが、窓を閉めていては聞こえるはずがない。
「ごめんくださあい。今日移る予定の宇佐見でえす」
私が名乗ると、女性はにわかに綺麗な歯を見せて笑い、白い手を出して窓を開けた。
「下の木枠を踏んで押さえながら右の戸を押してください。左の戸は曲がっています」
鳥のような声でそれだけ言って、女性はカーテンの向こうに隠れた。
言われたとおり試みて押すと、戸は可笑しいほど簡単に開いた。
中は暗い。玄関燈は埃を被っていて見るからにも点きそうにない。入るとすぐ右の壁に沿って階段があった。左は通路になって先の方まで部屋を並べている。
トランクを抱えて階段を上ると、足元へ気を向けていた視界に丈の高いブーツが現れて「先ほどは大変失礼しました。なにぶん古いもので」と丁寧に詫びた。私は帽子をとりながら「宇佐見です」と改めて言った。
「ここの家主です。鍵山と申します」
しとやかに一礼して、鍵山さんはまた薄く笑った。なんだか廃墟に来て幽霊に笑われたような気持ちがする。
鍵山さんはつやのある髪を左右の肩から胸元へまとめて赤いリボンで結んでいる。ブーツをはいている割に目線の位置は私とそう違わない。大きく潤んだ目が強烈に人を見る。裾にフリルを縫いつけた赤一色のワンピースは、しかし薄暗い中でこの人に着せると、喪服を連想するほどくすんで見える。人形のような人だと思った。この建物には似合いのオーナーだと思った。
「お部屋のお掃除を済ませておきました」
「それは……、どうもご親切ありがたいです」
「なにぶん古いもので、どうしてもご不便はお掛けすることと思いますが、何かあれば私は一階に居ります。お気軽におっしゃってください」
鍵山さんは「古いもの」をまた繰り返す。
「こんな良い立地に安く暮らすのに贅沢は言いません。お風呂が無いことは承知で来ました。銭湯通いの夢が叶います。流しも御手洗いも共同で構いません。片付ける手間が減って嬉しいくらいです」
「もうしわけありません、なにぶん古いもので」
「それはもう重々聞いていますが、一体、これで築何年目でしょうか」
「それは、あちこち改修工事がありましたから、古さも所によりますが、なんでも最初に建てられたのは大正時代だと聞いています」
私はこの返事にまったく恐れ入った。京都にいくら歴史があるといって、大正建築に下宿する学生はそうそう無いだろうと思う。開門の不自由などはむしろありがたいものと心得た。
案内された下宿部屋は、京間に押入れがあるのみの簡素な所だったが、空調装置だけは新しいようで安心した。
「冷蔵庫は管理室に使われていない物が一台ありますので、後ほどお持ちします。古いものですが……」
言って鍵山さんは階段の方へ消えていった。私はまたも鍵山さんの「古いもの」を聞いて、まさか大正時代の冷蔵庫が運ばれて来はしないかなどと下らないことを考えながら荷物を解いた。
窓の外では枝に留められたかざぐるまが相変わらずカラカラと鳴っていた。
この下宿に暮らし始めて、まず不思議に思ったのは自分と家主の他に人の姿を見ないことだった。館内の戸を残りなく叩いてみても、粗品の紅茶葉に貰い手がない。このことについて訊ねてみると、「宇佐見さんの他にはお貸ししていません」と言って鍵山さんは事も無げに笑った。私はこの事実に驚きながらも、初めてここを訪れた時から感じていた、廃墟に特有の寒さについて納得を得たような気がした。
また、鍵山さんは水を打ったような通路に立って、染みだらけの天井を見上げながらこの下宿の衰亡を語った。かつては私のような学生にも多く利用されていたこと、老朽化が進行するにつれ住人が去っていったこと、既にほとんどの部屋は隙間風が吹き込んで人の住める状態にないこと、鍵山さんは薄く笑いながら語った。
「去年の秋に最後の方が出てしまわれて、それからは入居者がありませんでした。そこの出町柳には立派なマンションまで完成してしまって、……うちは半ば廃業していたところなんです」
「どうも世知辛いようですね」
「お気になさらず。これでもたくわえがありますから……」
「しかし、なんというか、二人で暮らすには広すぎますね。静かなのは良いけれど、物寂しい感じがします」
こう言った後、私は自分の口から不用意に出た言葉が少し露骨過ぎてはいなかったかと後悔したが、鍵山さんはべつだん嫌な顔をするではなく、急にもじもじしながら「ええ、このとおり寂しい家ですから、どうぞいつでも部屋へ遊びにいらしてください。何かお話でもしましょう」と、親切のような希望のようなことを言った。私は「是非そうしましょう」と請合って、東京から持って来た茶葉をみんなあげてしまった。
鍵山さんはこれを大変喜んでくれた。
以来は講義の無い日に窓辺で本を読んでいたりなどすると、例のかざぐるまのカラカラ鳴る下へ出てきて「お茶はいかがですか」とお誘いをいただくようになった。鍵山さんの淹れる紅茶は妙に渋い味がしてひかえめにも美味しいものとは言えなかったが、この陰気な家を独りで守っている鍵山さんの寂しさを思うと、なるべくならお呼ばれになろうと心がけた。
こうして親しく付き合ってみると、鍵山さんは非常に懐っこい人で、入居して二ヶ月ほど経つ頃になると、わざわざ部屋を訪ねて来て汁物の余りなどを分けてくれるようになった。これらの御裾分けもまた、紅茶と同様の渋い味がしたが、手元にお金の無い時期にはすこぶるありがたかった。夏になると暑気払いに西瓜をご馳走してもらう夕もあった。かぶりついてみると、これもやはりと言うべきか、渋い味がして私はだいぶん気が落ちた。
夏の終わり、土用の丑の日の夜、メリーが下宿にやって来た。
秘封倶楽部二人して下鴨神社で夏越しの祓えを見た帰り道、近くまで来たついでだから話に聞く「古いもの」を一目見たいとねだられて、部屋に一晩泊めることになったのだ。
「あら、素敵じゃない」
メリーは門前のしだれ桜を見てしきりに褒めた。
「細いけど枝ぶりが良くて立派だわ。知られざる名木かしら」
「最初はこの桜を気に入ってここに決めたの」
「でも来てみると戸が開かなかった」
「慣れればどうってことないわ。最近は普通の戸じゃ物足りないくらいよ」
「戸は良いけれど、シャワーが無いのだけは許せないわ。明日は朝一番で銭湯行こうっと」
「中は隙間風で涼しいよ。私の部屋はそこの窓」
「来年はこの桜で花見しましょうよ」
「春にはまだ気が早いんじゃないの」
「じゃあ近いところで月見にしましょう。星もとっても良く見えるわ」
そう言って空を仰いだ二人の頭上で、ふいにカラカラカラと乾いた音がした。
「蓮子、あのかざぐるまは何のためにあるの」
メリーが不審げな声で言った。「さあ知らないわ」と私が答えると、メリーは急に眉根を寄せて、腕を組んで、そうしてそれきり黙ってしまった。「どうかしたの」と訊いてみても返事をしない。桜に回るかざぐるまをじっと睨んで立ち尽くしている。正面口の戸をカチャカチャ揺すぶって見せても喜ばない。手を引いてやるとようやく歩き出した。
メリーを引っ張って中へ入ると、通路の向こうから床を軋ませながら鍵山さんが出迎えた。
「こんばんは。そちらの方は、宇佐見さんのお友達ですか」
切れかかった灯りのもとで見るといつものワンピースがほとんど赤黒く見えた。私は握っていたメリーの手を取り上げて「大学のサークル仲間です」と紹介したが、メリーは相変わらず口を閉ざして鍵山さんの顔を見ようともしなかった。
部屋へ入って戸を閉めると、メリーはようやく口を利いた。
「不気味なところね」
「メリー怖いの?」
冗談半分だったが、メリーは一向真面目な顔で「少しね」と答える。
「怖いし、不吉な感じがしないかしら」
メリーの言葉は私にそれを問いかけるより、説得するような調子を多く含んでいた。
「大丈夫だよ。今のところ霊障の類は無いし」
「ちがうの蓮子、これは、そういうことじゃなくて、たぶん空気の問題なのよ」
「なにぶん古いもので……」
「環境が情動を圧迫してるわ」
「メリーの精神学かしら」
「聞いて蓮子……ここに住む人は、きっと、不幸福な人よ。ここは世間に冷たくされたりとか、誰かに追われていたりとか、苦しくって仕方がない人が最後に集まってくる場所なのよ。幸福な人は普通、ここには決して住まないわ」
言いながら京間を見回すメリーの顔は、軽蔑するよりむしろ気の毒そうに見えた。薄暗い部屋の中でメリーの目は鏡のように光っている。
「……よそへ移った方が良いかしら?」
「ええ、それがいいと思うわ」
メリーは思い切ったように言った。
「何も無くても寂しいでしょう? お天気の日でも暗いでしょう? ご飯も美味しくないでしょう? 家賃のことなんかより、もっと気持ちの良いところに住んだ方が健全だわ。蓮子は鈍感すぎるのよ」
メリーがまた口を閉じてしまうと、窓の外でカラカラカラとかざぐるまが鳴った。その他の音は一切消えて、私はこの世界に生きている人間が自分とメリーだけになったような気がした。
その晩メリーは布団を敷いても眠ろうとせず、翌朝には居なくなっていた。
後になってからメリーの言ったことをよく考えてみると、どうも真実らしい点が少なからずあるようだった。
私は、寒々しい通路を避けながら、気付けば広い洋館に居苦しく住んでいる。外からこの下宿に帰って来ると、あらゆる気分が静寂に呑み込まれてしまう。呑み込まれるまま身に染み付いて解らなくなっていた物寂しさが、親友の指摘によってようやく自覚できた。私は呆然となって京間に残されている自分を見た。もはや休日に鍵山さんと向き合ってほの暗い部屋で渋い紅茶を飲む親しみなどは、侘しい優しさを塗り込め合うだけの不吉な遊びとしか思われなかった。
悶々としながら暮らすうちに季節はいつの間にか冬となった。
京都の寒さに慣れのなかった私は、あるとき風邪をこじらせて寝込んだ。静かな、暗い、寒い、狭い部屋に独り床をのべて、かざぐるまの音を聞いていると、心細いという感じを芯から覚えた。私はつくづくこの下宿に暮らしてきた半年間の異常さを知った。
昼になるとそこへ、例のごとく薄い笑みを浮かべた鍵山さんが訪ねてきた。「体調が良くないようなので雑炊を作りました。どうぞ食べてください」と懐っこい声で親切を言う。しかし、この時の私は鍵山さんの料理などはとても食べる気になれなかった。なんとも答えず黙っている私を、鍵山さんは潤んだ目でまじまじと見つめていたが、やがて枕元に正座してぽつりと「ここを出て行かれるのですね」とだしぬけなことを言い出した。私が何か言おうとすると、鍵山さんはさっと白い手を出して制した。
「出た方がご自身のためでしょう。ここに居ても何も良いことはありませんよ。私のことならお気になさらず、いつでもおっしゃってください」
「私は、そんなことは一言も……」
「でも考えていらっしゃる」
鍵山さんの声には詰問的な色は一切無かった。ただ、私の胸の奥から直接私の意を汲み上げて煎じ詰めたような、全ての煩悶の過程を省略して二人の間に横たわる問題の核を取り出したような、どこまでも剥き身の言葉がその場に並んでいた。
「鍵山さん、寂しいでしょう」
「宇佐見さん、ここへ来てから痩せましたね」
私は返す言葉が無かった。鍵山さんもそれ以上は何も言わなかった。私は痩せた。そうして我知らず疲れていた。鍵山さんは薄く笑っている。なんだか大きな声で泣き出したくなった。そのうちに窓の外は初雪が降りだして、寒さはいよいよ身に食い込んでくるような気がした。鍵山さんは無言で私の枕元を立つと、雑炊の鍋を持って帰っていった。
私がこの下宿を出て行くことになるのは、その日から一週間後のことだった。最後の日、鍵山さんは門前で少しうつむいて、しかし「ご達者で」と言い見送ってくれた。私は桜の枝のかざぐるまを見上げながら、ここでメリーと花見をせずにしまったことを少しだけ残念に思った。
その後、私は のマンションに引き移った。金庫のように無表情な建物だったが、以前に比べれば万倍も気分が良かった。シャワーを浴びて清潔感のあるベッドに眠ると翌朝は清々した。やがて鍵山さんのことなどは夢にさえ思い出すことはなくなっていった。
ただ一度だけ、あの下宿のことを強烈に思い出したことがあった。それは翌年の春、桃の節句の日のことで、私はメリーと二人で糺の森を散歩しながら取りこぼした単位の数などについて話をしていた。参道をみたらしの川の末流に差し掛かった時、その細い流れの上を大きなものが通り過ぎた。
流し雛であった。桟俵に乗せられた雛は人間の身代わりに災厄を背負って川へ流される。雛はくるくると回りながらゆっくりと下流へ流されていった。
「下鴨の神事で流したんだね」
「上流で回収されなかったのかしら」と言ってメリーが首をかしげた。私は、だんだん遠くなっていく流し雛の赤い着物を見つめながら、鍵山さんの赤いワンピースを思い出した。またそれに引きずられるようにして、ほの暗い部屋や、窓から見えたしだれ桜や、耳をくすぐるかざぐるまの音や、不思議に渋い紅茶の味や、あの下宿に暮らした半年間の記憶がよみがえってきた。そうした記憶のうちに現れる家主の表情のことごとく全ては、薄く寂しげに笑っていた。
「でも、考えてみればかわいそうよね。捨てられちゃうんだもの」
メリーが何気なく言った。
私はこの言葉を聞いてハッとなった。「捨てられる」という言葉が、何か怖ろしい威力を持って私の上にのしかかった。私はあの下宿を出た時、確かに鍵山さんを捨てたのだ。私は私の受けた好意の全てを反故にして、彼女を寂しい家に独り残して去った。私は川沿いを歩きながら、どうして自分にこんな不人情な不義理なことができたのだろう思うと、まったく不思議でならなかった。
メリーがまた言った。
「あのお雛様は、きっと逃げ出したのね。回収されると人間に災いがおよぶから。立派ね」
私はあの日痩せた桜とかざぐるまの下に立って自分を見送ってくれた鍵山さんの心を想像すると、たまらない思いがした。私は鍵山さんの心に感謝した。そうして、もしかすると世の中に片付かないでうずくまっている人々の寂しさとは、本当はどれも彼女のような優しく気高い心の影ではないだろうかと考えた。
古い時代の夢のような洋館を背に、鍵山さんは「ご達者で」と送り出してくれた。
私は忘れない。
かばんを引いて新居を探す京都の春はまだ寒かった。鴨川を渡って向こう左岸に踏み込むと、案内だらけで地図の上を歩くようだった道が途端に無愛想になる。疎水に沿って歩きながら折れ角を数えて着いた下宿は、門前に立つと古い木の香りがした。読みづらい看板の上に写真で見たままのしだれ桜が蕾を下げているのを認めると、私は思わず嬉しくなった。
両開きの扉を押していよいよ中へ入ろうとした時、その建てつけの悪いことに驚かされた。鍵の開いた押し戸を押して開かない道理はないだろうと、意地になって揺すぶってみたが、はめ硝子がカチャカチャ音をたてるばかりで戸は依然として動かない。よく注意して見ると、右の門柱が手前に傾いて戸口を歪めているらしい。「ごめんくださあい」と人を呼んでみたが虚しかった。おもてをくぐってからはあたりが急に静かになった気がする。戸口の三角屋根はただ黙然と陰気な顔をして来客を拒んでいる。
どうしたものかと腕を組んでいると、ふいに頭の上でカラカラカラと乾いた音がした。見上げると、桜の枝に赤いリボンが色気なく結ばれており、そこへ何のためか仙花紙で組んだかざぐるまを差して中空に留めてあった。カラカラカラと鳴りながら大して風もない中で不思議なほどよく回っている。何となく気になって見上げていると、垂れ下がった枝を通して見える二階の窓、私が移るはずの部屋のカーテンが細く開いて、年の若い女性が顔を出した。小さな口が動いて何か言った。「どなた」と訊かれたように見えたが、窓を閉めていては聞こえるはずがない。
「ごめんくださあい。今日移る予定の宇佐見でえす」
私が名乗ると、女性はにわかに綺麗な歯を見せて笑い、白い手を出して窓を開けた。
「下の木枠を踏んで押さえながら右の戸を押してください。左の戸は曲がっています」
鳥のような声でそれだけ言って、女性はカーテンの向こうに隠れた。
言われたとおり試みて押すと、戸は可笑しいほど簡単に開いた。
中は暗い。玄関燈は埃を被っていて見るからにも点きそうにない。入るとすぐ右の壁に沿って階段があった。左は通路になって先の方まで部屋を並べている。
トランクを抱えて階段を上ると、足元へ気を向けていた視界に丈の高いブーツが現れて「先ほどは大変失礼しました。なにぶん古いもので」と丁寧に詫びた。私は帽子をとりながら「宇佐見です」と改めて言った。
「ここの家主です。鍵山と申します」
しとやかに一礼して、鍵山さんはまた薄く笑った。なんだか廃墟に来て幽霊に笑われたような気持ちがする。
鍵山さんはつやのある髪を左右の肩から胸元へまとめて赤いリボンで結んでいる。ブーツをはいている割に目線の位置は私とそう違わない。大きく潤んだ目が強烈に人を見る。裾にフリルを縫いつけた赤一色のワンピースは、しかし薄暗い中でこの人に着せると、喪服を連想するほどくすんで見える。人形のような人だと思った。この建物には似合いのオーナーだと思った。
「お部屋のお掃除を済ませておきました」
「それは……、どうもご親切ありがたいです」
「なにぶん古いもので、どうしてもご不便はお掛けすることと思いますが、何かあれば私は一階に居ります。お気軽におっしゃってください」
鍵山さんは「古いもの」をまた繰り返す。
「こんな良い立地に安く暮らすのに贅沢は言いません。お風呂が無いことは承知で来ました。銭湯通いの夢が叶います。流しも御手洗いも共同で構いません。片付ける手間が減って嬉しいくらいです」
「もうしわけありません、なにぶん古いもので」
「それはもう重々聞いていますが、一体、これで築何年目でしょうか」
「それは、あちこち改修工事がありましたから、古さも所によりますが、なんでも最初に建てられたのは大正時代だと聞いています」
私はこの返事にまったく恐れ入った。京都にいくら歴史があるといって、大正建築に下宿する学生はそうそう無いだろうと思う。開門の不自由などはむしろありがたいものと心得た。
案内された下宿部屋は、京間に押入れがあるのみの簡素な所だったが、空調装置だけは新しいようで安心した。
「冷蔵庫は管理室に使われていない物が一台ありますので、後ほどお持ちします。古いものですが……」
言って鍵山さんは階段の方へ消えていった。私はまたも鍵山さんの「古いもの」を聞いて、まさか大正時代の冷蔵庫が運ばれて来はしないかなどと下らないことを考えながら荷物を解いた。
窓の外では枝に留められたかざぐるまが相変わらずカラカラと鳴っていた。
この下宿に暮らし始めて、まず不思議に思ったのは自分と家主の他に人の姿を見ないことだった。館内の戸を残りなく叩いてみても、粗品の紅茶葉に貰い手がない。このことについて訊ねてみると、「宇佐見さんの他にはお貸ししていません」と言って鍵山さんは事も無げに笑った。私はこの事実に驚きながらも、初めてここを訪れた時から感じていた、廃墟に特有の寒さについて納得を得たような気がした。
また、鍵山さんは水を打ったような通路に立って、染みだらけの天井を見上げながらこの下宿の衰亡を語った。かつては私のような学生にも多く利用されていたこと、老朽化が進行するにつれ住人が去っていったこと、既にほとんどの部屋は隙間風が吹き込んで人の住める状態にないこと、鍵山さんは薄く笑いながら語った。
「去年の秋に最後の方が出てしまわれて、それからは入居者がありませんでした。そこの出町柳には立派なマンションまで完成してしまって、……うちは半ば廃業していたところなんです」
「どうも世知辛いようですね」
「お気になさらず。これでもたくわえがありますから……」
「しかし、なんというか、二人で暮らすには広すぎますね。静かなのは良いけれど、物寂しい感じがします」
こう言った後、私は自分の口から不用意に出た言葉が少し露骨過ぎてはいなかったかと後悔したが、鍵山さんはべつだん嫌な顔をするではなく、急にもじもじしながら「ええ、このとおり寂しい家ですから、どうぞいつでも部屋へ遊びにいらしてください。何かお話でもしましょう」と、親切のような希望のようなことを言った。私は「是非そうしましょう」と請合って、東京から持って来た茶葉をみんなあげてしまった。
鍵山さんはこれを大変喜んでくれた。
以来は講義の無い日に窓辺で本を読んでいたりなどすると、例のかざぐるまのカラカラ鳴る下へ出てきて「お茶はいかがですか」とお誘いをいただくようになった。鍵山さんの淹れる紅茶は妙に渋い味がしてひかえめにも美味しいものとは言えなかったが、この陰気な家を独りで守っている鍵山さんの寂しさを思うと、なるべくならお呼ばれになろうと心がけた。
こうして親しく付き合ってみると、鍵山さんは非常に懐っこい人で、入居して二ヶ月ほど経つ頃になると、わざわざ部屋を訪ねて来て汁物の余りなどを分けてくれるようになった。これらの御裾分けもまた、紅茶と同様の渋い味がしたが、手元にお金の無い時期にはすこぶるありがたかった。夏になると暑気払いに西瓜をご馳走してもらう夕もあった。かぶりついてみると、これもやはりと言うべきか、渋い味がして私はだいぶん気が落ちた。
夏の終わり、土用の丑の日の夜、メリーが下宿にやって来た。
秘封倶楽部二人して下鴨神社で夏越しの祓えを見た帰り道、近くまで来たついでだから話に聞く「古いもの」を一目見たいとねだられて、部屋に一晩泊めることになったのだ。
「あら、素敵じゃない」
メリーは門前のしだれ桜を見てしきりに褒めた。
「細いけど枝ぶりが良くて立派だわ。知られざる名木かしら」
「最初はこの桜を気に入ってここに決めたの」
「でも来てみると戸が開かなかった」
「慣れればどうってことないわ。最近は普通の戸じゃ物足りないくらいよ」
「戸は良いけれど、シャワーが無いのだけは許せないわ。明日は朝一番で銭湯行こうっと」
「中は隙間風で涼しいよ。私の部屋はそこの窓」
「来年はこの桜で花見しましょうよ」
「春にはまだ気が早いんじゃないの」
「じゃあ近いところで月見にしましょう。星もとっても良く見えるわ」
そう言って空を仰いだ二人の頭上で、ふいにカラカラカラと乾いた音がした。
「蓮子、あのかざぐるまは何のためにあるの」
メリーが不審げな声で言った。「さあ知らないわ」と私が答えると、メリーは急に眉根を寄せて、腕を組んで、そうしてそれきり黙ってしまった。「どうかしたの」と訊いてみても返事をしない。桜に回るかざぐるまをじっと睨んで立ち尽くしている。正面口の戸をカチャカチャ揺すぶって見せても喜ばない。手を引いてやるとようやく歩き出した。
メリーを引っ張って中へ入ると、通路の向こうから床を軋ませながら鍵山さんが出迎えた。
「こんばんは。そちらの方は、宇佐見さんのお友達ですか」
切れかかった灯りのもとで見るといつものワンピースがほとんど赤黒く見えた。私は握っていたメリーの手を取り上げて「大学のサークル仲間です」と紹介したが、メリーは相変わらず口を閉ざして鍵山さんの顔を見ようともしなかった。
部屋へ入って戸を閉めると、メリーはようやく口を利いた。
「不気味なところね」
「メリー怖いの?」
冗談半分だったが、メリーは一向真面目な顔で「少しね」と答える。
「怖いし、不吉な感じがしないかしら」
メリーの言葉は私にそれを問いかけるより、説得するような調子を多く含んでいた。
「大丈夫だよ。今のところ霊障の類は無いし」
「ちがうの蓮子、これは、そういうことじゃなくて、たぶん空気の問題なのよ」
「なにぶん古いもので……」
「環境が情動を圧迫してるわ」
「メリーの精神学かしら」
「聞いて蓮子……ここに住む人は、きっと、不幸福な人よ。ここは世間に冷たくされたりとか、誰かに追われていたりとか、苦しくって仕方がない人が最後に集まってくる場所なのよ。幸福な人は普通、ここには決して住まないわ」
言いながら京間を見回すメリーの顔は、軽蔑するよりむしろ気の毒そうに見えた。薄暗い部屋の中でメリーの目は鏡のように光っている。
「……よそへ移った方が良いかしら?」
「ええ、それがいいと思うわ」
メリーは思い切ったように言った。
「何も無くても寂しいでしょう? お天気の日でも暗いでしょう? ご飯も美味しくないでしょう? 家賃のことなんかより、もっと気持ちの良いところに住んだ方が健全だわ。蓮子は鈍感すぎるのよ」
メリーがまた口を閉じてしまうと、窓の外でカラカラカラとかざぐるまが鳴った。その他の音は一切消えて、私はこの世界に生きている人間が自分とメリーだけになったような気がした。
その晩メリーは布団を敷いても眠ろうとせず、翌朝には居なくなっていた。
後になってからメリーの言ったことをよく考えてみると、どうも真実らしい点が少なからずあるようだった。
私は、寒々しい通路を避けながら、気付けば広い洋館に居苦しく住んでいる。外からこの下宿に帰って来ると、あらゆる気分が静寂に呑み込まれてしまう。呑み込まれるまま身に染み付いて解らなくなっていた物寂しさが、親友の指摘によってようやく自覚できた。私は呆然となって京間に残されている自分を見た。もはや休日に鍵山さんと向き合ってほの暗い部屋で渋い紅茶を飲む親しみなどは、侘しい優しさを塗り込め合うだけの不吉な遊びとしか思われなかった。
悶々としながら暮らすうちに季節はいつの間にか冬となった。
京都の寒さに慣れのなかった私は、あるとき風邪をこじらせて寝込んだ。静かな、暗い、寒い、狭い部屋に独り床をのべて、かざぐるまの音を聞いていると、心細いという感じを芯から覚えた。私はつくづくこの下宿に暮らしてきた半年間の異常さを知った。
昼になるとそこへ、例のごとく薄い笑みを浮かべた鍵山さんが訪ねてきた。「体調が良くないようなので雑炊を作りました。どうぞ食べてください」と懐っこい声で親切を言う。しかし、この時の私は鍵山さんの料理などはとても食べる気になれなかった。なんとも答えず黙っている私を、鍵山さんは潤んだ目でまじまじと見つめていたが、やがて枕元に正座してぽつりと「ここを出て行かれるのですね」とだしぬけなことを言い出した。私が何か言おうとすると、鍵山さんはさっと白い手を出して制した。
「出た方がご自身のためでしょう。ここに居ても何も良いことはありませんよ。私のことならお気になさらず、いつでもおっしゃってください」
「私は、そんなことは一言も……」
「でも考えていらっしゃる」
鍵山さんの声には詰問的な色は一切無かった。ただ、私の胸の奥から直接私の意を汲み上げて煎じ詰めたような、全ての煩悶の過程を省略して二人の間に横たわる問題の核を取り出したような、どこまでも剥き身の言葉がその場に並んでいた。
「鍵山さん、寂しいでしょう」
「宇佐見さん、ここへ来てから痩せましたね」
私は返す言葉が無かった。鍵山さんもそれ以上は何も言わなかった。私は痩せた。そうして我知らず疲れていた。鍵山さんは薄く笑っている。なんだか大きな声で泣き出したくなった。そのうちに窓の外は初雪が降りだして、寒さはいよいよ身に食い込んでくるような気がした。鍵山さんは無言で私の枕元を立つと、雑炊の鍋を持って帰っていった。
私がこの下宿を出て行くことになるのは、その日から一週間後のことだった。最後の日、鍵山さんは門前で少しうつむいて、しかし「ご達者で」と言い見送ってくれた。私は桜の枝のかざぐるまを見上げながら、ここでメリーと花見をせずにしまったことを少しだけ残念に思った。
その後、私は のマンションに引き移った。金庫のように無表情な建物だったが、以前に比べれば万倍も気分が良かった。シャワーを浴びて清潔感のあるベッドに眠ると翌朝は清々した。やがて鍵山さんのことなどは夢にさえ思い出すことはなくなっていった。
ただ一度だけ、あの下宿のことを強烈に思い出したことがあった。それは翌年の春、桃の節句の日のことで、私はメリーと二人で糺の森を散歩しながら取りこぼした単位の数などについて話をしていた。参道をみたらしの川の末流に差し掛かった時、その細い流れの上を大きなものが通り過ぎた。
流し雛であった。桟俵に乗せられた雛は人間の身代わりに災厄を背負って川へ流される。雛はくるくると回りながらゆっくりと下流へ流されていった。
「下鴨の神事で流したんだね」
「上流で回収されなかったのかしら」と言ってメリーが首をかしげた。私は、だんだん遠くなっていく流し雛の赤い着物を見つめながら、鍵山さんの赤いワンピースを思い出した。またそれに引きずられるようにして、ほの暗い部屋や、窓から見えたしだれ桜や、耳をくすぐるかざぐるまの音や、不思議に渋い紅茶の味や、あの下宿に暮らした半年間の記憶がよみがえってきた。そうした記憶のうちに現れる家主の表情のことごとく全ては、薄く寂しげに笑っていた。
「でも、考えてみればかわいそうよね。捨てられちゃうんだもの」
メリーが何気なく言った。
私はこの言葉を聞いてハッとなった。「捨てられる」という言葉が、何か怖ろしい威力を持って私の上にのしかかった。私はあの下宿を出た時、確かに鍵山さんを捨てたのだ。私は私の受けた好意の全てを反故にして、彼女を寂しい家に独り残して去った。私は川沿いを歩きながら、どうして自分にこんな不人情な不義理なことができたのだろう思うと、まったく不思議でならなかった。
メリーがまた言った。
「あのお雛様は、きっと逃げ出したのね。回収されると人間に災いがおよぶから。立派ね」
私はあの日痩せた桜とかざぐるまの下に立って自分を見送ってくれた鍵山さんの心を想像すると、たまらない思いがした。私は鍵山さんの心に感謝した。そうして、もしかすると世の中に片付かないでうずくまっている人々の寂しさとは、本当はどれも彼女のような優しく気高い心の影ではないだろうかと考えた。
古い時代の夢のような洋館を背に、鍵山さんは「ご達者で」と送り出してくれた。
私は忘れない。
ところで、『宇佐美』ではなく『宇佐見』ですよ。細かいかもですが。
厄神という性質を不吉な建物へと変換して京都の街並みにするりと同化させた手腕に、
思わず唸らされてしまいました。
住民が不幸になると知りつつも下宿の管理人をする鍵山さんは、やはり人間の事が好きなんだなと思いました。
蓮子に引っ越しを進める彼女の口ぶりには、何か長い年月で堆積した彼女の深く、そして何度も何度も繰り返し煩悶したような、そんな思いが感じられました。
とても面白かったです。
ただ、初っ端の宇佐美もそうなんですが、「ここでメリーと花見をせずにしまったことを少しだけ残念に思った。」とか、「その後、私は のマンションに引き移った。」とか、短さの割りに校正部分(とちょびっと推敲部分?)で抜けが多いような印象があって、そこはちょっと残念でした。
そんで読みおわると、部屋に遊びにきて話をしようともじもじしながら言った鍵山さんを思い返していっそう寂しくなりました。
ちなみに二個の、「ここでメリーと花見をせずにしまったことを少しだけ残念に思った。」という文を指摘しておられる方、たぶん「せずにしまった」という部分のことを言ってるんだと思うんですが、これは少し古いけれど昔から表現として広く認められていますです。漱石のおっさんなんかがまれによく使ってた気が。
朝から読めて幸せでした
この蓮子と結婚したい、、。
そう思ってしまうくらい、蓮子の存在を感じます。人肌の肉の暖かさを感じさせられます。すごいなあ。
頭の中にはっきりと光景が浮かびました。
静かな、しかし染み入る話をありがとうございます。
人間のために厄を引き受けても捨てられる。それでも人間が好きな雛といった表現に、侘しい情緒を感じました。
今度、垂れ桜の洋館を探して、鴨川の向こうを散策したく思います。
自分もこんな文章を書けるようになりたいものだ…
この夕日が似合いそうな世界観はたまりません
不幸にするとしって猶下宿をやっているのは人恋しさ故か・・・
ふんい
雰囲気が良かったです。
洋館に寂しげな雰囲気が非常によく伝わってきました。
入居者が下宿の空気に慣れれば慣れるほど、
入居者は不幸福になるのね
しんみりした雰囲気が良かったです
良かったのですが、ひとつだけ表現に気になるところが。作者様が間違っているというものではなく、自分がどうにも気になるものというものですが。
「水を打ったような通路」という表現に、ちょっと違和感を感じてしまいました。
「水を打ったよう」のイメージは、元来うるさい性質を持つものが、静かになっている状態だと私は感じるんですよね。
元から静かな通路にはちょっと変な表現じゃないかなぁと。
最後の一行「私は忘れない」、その前の「ただ一度だけ、あの下宿のことを強烈に思い出したことがあった」。この二つを考え合わせると、宇佐見は、思い出したし、忘れないと心に決めたけれど、結局は忘れてしまったのではないか、と思わざるを得ません。
流し雛は厄を流すのと同時に、悪い記憶をも流してしまうものなのかもしれない…などと夢想しました。
これは至りませんで・・・・・・。
おそらくですが、「思い出すことはなくなったけれども忘れはしなかった」の意味だったのではないでしょうか。
読みづらい文をお詫びします。
ご指摘はきっと以後の投稿に活かしたいと思います。
お話の出来もさることながら、地の文から滲み出る知識量には感嘆の一言です。
前作に引き続き、素敵な作品をありがとうございました。
圧倒的筆力。憧れます。
この淋しさはすごいなぁ。
京の四季を廻りながらも、井戸水のように冷ややかな廃洋館の雰囲気に心乱れた。
あなたの書く幻想郷キャラと秘封倶楽部のシリーズは面白いです。
なんだかんだで人々を見守ってくれてる雛様最高