1
ある小さい庵の前で一匹の烏が翼を畳んだ。烏は一声鳴く。短い音が辺りに寂しく響いただけだった。もう一度鳴いてみるが、反応は変わらない。中は夜の森のように静かである。
庵の者は、烏が鳴いている、もう夕刻か、と思っているだけであろう。それとも本当に居ないのか。
烏は意を決したように引き戸を金色のくちばしで突く。一度ならず、二度、三度とついばむように叩く。するとようやく、中から音が聞こえた。何かを閉じる音、置く音、面倒臭そうな足音。
烏は叩くのをやめ、嬉しそうに再び鳴いた。引き戸が開いたのはその後だった。小さい、桃色の髪を二つに結った、丸々とした玉のような目をした少女が烏を見下す。
烏は何かをアピールするように足をばたつかせる。羽もばさばさと鳴り、庵の前は奇妙に騒がしくなった。
烏の足が、まだ高い日の光を受けて僅かに光る。少女はそれを見逃さず、烏に寄った。烏は未だに動く。そうすると光も少女の目から逃げるため、中々正体を掴めない。少女の丸い目に波が立つ。
「動かないでよ」
と、少女は小さく怒った。痩身と似合う遠慮がちな怒りであった。烏に伝わったのか止まった。少女は烏を見る。烏の足に小さな筒が付けられているのを発見した。少女は筒に手を伸ばし、中に入っている文を取り出した。少女が文を取ったのを目撃すると、烏は一声鳴いて、大きな音を立てて、飛ぶ。烏羽が日の光を浴び、美しく輝いていた。
2
鈴奈庵の女主人・本居小鈴は烏から文を受け取ると、室内に戻った。文は依頼であった。貸本屋を主な仕事としている小鈴の元には度々、こういう依頼が舞い込む。
度々だが、同じ客である。だから、大烏が庵を叩いた時から、こういうことになることを察していた。しかし、文の内容はそれまでと気色が違っていた。
このK――手紙の上ではKと名乗っているため、ここでもKとする――は、主に推理小説を貸してほしいと依頼したり、購入したいと書いている。ポーに始まり、次はフランス詩となり、今では論文となっている。
貸本のリストを見ると海外文学を中心に読んでいる。それも訳されたものではなく、原文のを欲しいと依頼している。Kはかなりの頭脳の持ち主なのだろう。
『拝啓。ハルトマンの『無意識の哲学』を貸してほしい。できれば原書を。原書も訳書もなければ、あなたがお薦めするのを数冊。
三日後に使いの者を出向かせるので彼女に渡してほしい。赤毛の女だから、すぐに分かると思う。念のため、彼女の口からも事を伝える。ただぶっきらぼうだから、その点は許してほしい。
それでは三日後に。敬具』
小鈴はKと会ったことがない。が、このように最近営業をはじめた小鈴のことを知っているということは、誰から聞いているのだろう。
Kは恐らく、病に伏している。身体に何らかの傷を持っている。そうでなければ、わざわざ使いの者や伝書烏を寄こさない。そういう遠回しな方法を使える、貸本をかなり利用できるということは、富家であろう。
小鈴の頭に稗田阿求の顔が浮かんだ。が、彼女はこんな手を使わない。彼女の屋敷はこの庵から近い。
小鈴は段々とこの顔も名前も性別も知らないKに好意を抱いていることを見出した。が、この好意はKに伝えられないであろう。伝えたところで、答えは得られないと思う。
Kの頭には小鈴の存在はない。Kの頭には文学や哲学のことしかないのだ。
小鈴はKの依頼した本を探しはじめた。
それから三日後、一人の女が庵にやって来た。
鼻歌交じりに庵の引き戸を開けた。Kの言葉通り、深紅の髪を左右で三つ編みにしたゴスロリを着た、西洋人形のような女である。女は猫のような深紅の瞳を高い本棚を見ている。
小鈴は一人の少女として驚きに近い喜びを覚えながら、女に声をかけた。
「あなた?」
「そそ。あった?」
小鈴は店の奥から、風呂敷に包んだ数冊の本を持ってきた。女は受け取り、中身を確認する。女は首を傾げた。
「なかった?」
「それはいつものお礼です」
「ありがとう」
女は人懐っこい笑みを浮かべて、庵から出て行った。小鈴は出て行く女に言葉を投げた。
「あの、大丈夫なんですか?」
女は何も言わず出て行った。
小鈴の胸には不安があった。Kが何者なのか知らない。知らないゆえに、自分で選んだ本に驚く。その本は『無意識の哲学』に始まり、精神や哲学しかない。今は、もう、文学を嗜むKの姿が思い描けない。
女は呆然と立ち竦む小鈴の前に戻ってきたかと思えば、こう問う。
「古明地こいしって知っている?」
小鈴は、知らなかった。
3
地霊殿の主・古明地さとりは火焔猫燐から受け取った本を全て読み終えた。それから深い思考を始める。
さとりには一人の妹がいる。古明地こいしという。
さとりは妹に会いたいと思い続けている。が、彼女は幻のように現れたかと思えば、消える。しばらく会えないと思えば、唐突に再会する。そういう妹であった。放浪癖であるわけではない。本当に、いないのである。
お空やお燐に妹のを訊いてみると、似たような答えが返ってくる。見たことがあるが、見た瞬間に消える。
『ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず』
さとりはそんな言葉を思い出した。果たして、妹は本当に存在していないのではないか。その矢先、さとりは貸本屋の存在を耳にした。さとりはそこで自分と同じような存在がいないか探しはじめた。
無意識や認識論という学問に辿り着いた。さとりはそういう本を夢中で読み漁った。が、こいしには全然会えない。むしろ、会えない時間の方が長い。そういう時間が増えると、やはり同じような疑問が生じる。古明地こいしはどこにいるのか。
4
小鈴の元にまたあの女が来た。この前貸した本を返しに来た。女は猫のように優しい微笑を浮かべていた。小鈴は何だか急に恥ずかしくなってかしこまった調子でこう尋ねた。
「次は何をお探しでしょうか?」
女はある本の文章を口にした。
「夢は私の感情である。夢の中の彼女の感情は、私がこしらえた彼女の感情である。私の感情である。そして夢には感情の強がりや見栄がないのに。
そう思って、私は寂しかった」
小鈴はこの文学者のことを知っていた。Kの貸本の中にも彼の名前があった。それから寂しそうな嬉しさを混じえてこうも言った。
「あたいはね、こいし様と夢の中で会ったんだ」
古明地こいしこそKなのか。イニシャル的に考えればKである。女の口振りから上下関係が明らかになった。この女は、こいしの従者なのだろう。
しかしそうなると、女の言葉が分からない。まるで今では会えない言い方である。Kはこいしではないのか。
小鈴は何も言わず、女の言葉を待った。女に壁を感じているわけではない。非常に親しみやすい。それでも沈黙を貫いているのは、女の言葉に何か触れられないものを感じたためである。小鈴が気易く知っていいことではないと思えた。
「ここに夢に関する本ってある?」
「明晰夢ってご存知ですか?」
「知らない」
「夢を夢だと理解してて、思い通りに夢を変えられるみたいですね」
女は目を輝かせた。深い紅の瞳に嬉しそうな色が流れた。
「できるの?」
小鈴は数冊の本を風呂敷に包んで、女に差し出した。女は晴々とした笑顔で出て行った。女と入れ違う形で、稗田阿求が驚いたように庵に入ってきた。阿求は小鈴に問いかける。
「今のって……。お燐さんですよね?」
「……誰よ?」
「猫よ」
「へぇ。で、何よ?」
「珍しいことでもあるのね」
阿求の微笑に、小鈴は困ったように眉をひそめた。それから、お燐さんのことを聞いた。
5
お燐から夢に関する本――店主曰く、夢を自由に変えられるとのことだ――を受け取った。さとりは訝しむようにお燐を見た。
「お燐、これは……」
「明晰夢っていうらしいです」
「それが何なの?」
「さとり様は、こんな言葉を知っていますか?」
お燐はそう前置きして、川端康成が書いたある一節を諳んじた。さとりは烈しい衝撃に打たれた。きっとその言葉に確証はなかった。それでも、夢に一条の可能性を見出した。
が、そこでこいしに会えたとしても、本当にこいしなのであろうか。さとりの感情が作り上げた幻だ。それでも、さとりは、そうと分かっていてなお、会いたいと思った。伝えたい言葉があった。
さとりはお燐にこういう言葉を返した。
「ねぇ、お燐、知っていて? 大切なものは、目に見えないのよ」
お燐は温かい微笑を浮かべた。果たして、お燐に向けた言葉なのか。さとりは自分自身ではっきりと否定した。伝えなければならない。
6
さとりはある夜、こんな夢を見た。
部屋のベッドで横になっていると、一人の少女がさとりを見ていた。エメラルド色の瞳が、楽しげに輝いている。胸元にある緑に瞳は、さとりとは違い、閉ざされている。少女はさとりの瞳を見ながら、静かな声でこう言った。こいしの柔らかな吐息が頬に当たった。
「お姉ちゃん」
「こいし!」
さとりは反射的に起き上がる。こいしの白い頬に触れよう手を伸ばした。冷たいものだった。さとりは一度目を伏せ、温かいものが込み上げてくるのを感じた。鼻の奥が痛くなる。
こいしはさとりの顔に無遠慮に触りながら、びっくりしたのか問う。
「……お姉ちゃん? どこか痛いの?」
さとりは何とも言えず、こいしの細い身体を抱きしめた。強く、離れないように抱きしめた。そうすることが、どんな言葉よりも行為よりも、幸せであった。清らかな香りがさとりの嗅覚に刺さる。自分とよく似た香りであった。
耐えていた嗚咽が漏れた。さとりはそれでもこいしの質問に答えた。
「嬉しいのよ」
「嬉しい?」
「そうよ」
「どうして? いつでも会っているじゃない?」
「会っていないわよ」
「え? 私はいつも皆と会っているよ?」
「馬鹿ね。本当に大切なものは目には見えないのよ。でも、こうやって会わないと、私は分からないわ」
そんなやり取りですら嬉しかった。
夢はそんなところで目覚めた。覚めたことを憎く思いながらも、堪らなく嬉しかった。言いたいことが言えず、悲しかった。
目が覚めたさとりは、自分が泣いていることに気付いた。涙を震えた指で拭いながら、無意識的に呟いた。
「愛しているわ、こいし」
「私もだよ、お姉ちゃん」
さとりは起き上がった。優しい声がした方を見る。夢の中で見て、聞き、話し、触れ、嗅いだ、自分とよく似ている少女が今、部屋に立っている。さとりは慌てて立ち上がり、こいしに触れようとした。が、こいしは幻のように消えた。
が、さとりの胸に悲しみは去来しなかった。
7
ある夜のことである。鈴奈庵の戸が開いた。小鈴は読んでいた本から目を離し、戸の方を見た。
「いらっしゃいませ――あれ?」
店内を見渡しても、誰もいなかった。小鈴は驚いたものの、大して気にせず読書を再開した。その時、本に二つ折りにされた紙がはさまっていた。小鈴がはさんだ物ではない。小鈴は紙を開けた。
『ありがとうございました。古明地こいしより』
小鈴は読書を再開した。
ある小さい庵の前で一匹の烏が翼を畳んだ。烏は一声鳴く。短い音が辺りに寂しく響いただけだった。もう一度鳴いてみるが、反応は変わらない。中は夜の森のように静かである。
庵の者は、烏が鳴いている、もう夕刻か、と思っているだけであろう。それとも本当に居ないのか。
烏は意を決したように引き戸を金色のくちばしで突く。一度ならず、二度、三度とついばむように叩く。するとようやく、中から音が聞こえた。何かを閉じる音、置く音、面倒臭そうな足音。
烏は叩くのをやめ、嬉しそうに再び鳴いた。引き戸が開いたのはその後だった。小さい、桃色の髪を二つに結った、丸々とした玉のような目をした少女が烏を見下す。
烏は何かをアピールするように足をばたつかせる。羽もばさばさと鳴り、庵の前は奇妙に騒がしくなった。
烏の足が、まだ高い日の光を受けて僅かに光る。少女はそれを見逃さず、烏に寄った。烏は未だに動く。そうすると光も少女の目から逃げるため、中々正体を掴めない。少女の丸い目に波が立つ。
「動かないでよ」
と、少女は小さく怒った。痩身と似合う遠慮がちな怒りであった。烏に伝わったのか止まった。少女は烏を見る。烏の足に小さな筒が付けられているのを発見した。少女は筒に手を伸ばし、中に入っている文を取り出した。少女が文を取ったのを目撃すると、烏は一声鳴いて、大きな音を立てて、飛ぶ。烏羽が日の光を浴び、美しく輝いていた。
2
鈴奈庵の女主人・本居小鈴は烏から文を受け取ると、室内に戻った。文は依頼であった。貸本屋を主な仕事としている小鈴の元には度々、こういう依頼が舞い込む。
度々だが、同じ客である。だから、大烏が庵を叩いた時から、こういうことになることを察していた。しかし、文の内容はそれまでと気色が違っていた。
このK――手紙の上ではKと名乗っているため、ここでもKとする――は、主に推理小説を貸してほしいと依頼したり、購入したいと書いている。ポーに始まり、次はフランス詩となり、今では論文となっている。
貸本のリストを見ると海外文学を中心に読んでいる。それも訳されたものではなく、原文のを欲しいと依頼している。Kはかなりの頭脳の持ち主なのだろう。
『拝啓。ハルトマンの『無意識の哲学』を貸してほしい。できれば原書を。原書も訳書もなければ、あなたがお薦めするのを数冊。
三日後に使いの者を出向かせるので彼女に渡してほしい。赤毛の女だから、すぐに分かると思う。念のため、彼女の口からも事を伝える。ただぶっきらぼうだから、その点は許してほしい。
それでは三日後に。敬具』
小鈴はKと会ったことがない。が、このように最近営業をはじめた小鈴のことを知っているということは、誰から聞いているのだろう。
Kは恐らく、病に伏している。身体に何らかの傷を持っている。そうでなければ、わざわざ使いの者や伝書烏を寄こさない。そういう遠回しな方法を使える、貸本をかなり利用できるということは、富家であろう。
小鈴の頭に稗田阿求の顔が浮かんだ。が、彼女はこんな手を使わない。彼女の屋敷はこの庵から近い。
小鈴は段々とこの顔も名前も性別も知らないKに好意を抱いていることを見出した。が、この好意はKに伝えられないであろう。伝えたところで、答えは得られないと思う。
Kの頭には小鈴の存在はない。Kの頭には文学や哲学のことしかないのだ。
小鈴はKの依頼した本を探しはじめた。
それから三日後、一人の女が庵にやって来た。
鼻歌交じりに庵の引き戸を開けた。Kの言葉通り、深紅の髪を左右で三つ編みにしたゴスロリを着た、西洋人形のような女である。女は猫のような深紅の瞳を高い本棚を見ている。
小鈴は一人の少女として驚きに近い喜びを覚えながら、女に声をかけた。
「あなた?」
「そそ。あった?」
小鈴は店の奥から、風呂敷に包んだ数冊の本を持ってきた。女は受け取り、中身を確認する。女は首を傾げた。
「なかった?」
「それはいつものお礼です」
「ありがとう」
女は人懐っこい笑みを浮かべて、庵から出て行った。小鈴は出て行く女に言葉を投げた。
「あの、大丈夫なんですか?」
女は何も言わず出て行った。
小鈴の胸には不安があった。Kが何者なのか知らない。知らないゆえに、自分で選んだ本に驚く。その本は『無意識の哲学』に始まり、精神や哲学しかない。今は、もう、文学を嗜むKの姿が思い描けない。
女は呆然と立ち竦む小鈴の前に戻ってきたかと思えば、こう問う。
「古明地こいしって知っている?」
小鈴は、知らなかった。
3
地霊殿の主・古明地さとりは火焔猫燐から受け取った本を全て読み終えた。それから深い思考を始める。
さとりには一人の妹がいる。古明地こいしという。
さとりは妹に会いたいと思い続けている。が、彼女は幻のように現れたかと思えば、消える。しばらく会えないと思えば、唐突に再会する。そういう妹であった。放浪癖であるわけではない。本当に、いないのである。
お空やお燐に妹のを訊いてみると、似たような答えが返ってくる。見たことがあるが、見た瞬間に消える。
『ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず』
さとりはそんな言葉を思い出した。果たして、妹は本当に存在していないのではないか。その矢先、さとりは貸本屋の存在を耳にした。さとりはそこで自分と同じような存在がいないか探しはじめた。
無意識や認識論という学問に辿り着いた。さとりはそういう本を夢中で読み漁った。が、こいしには全然会えない。むしろ、会えない時間の方が長い。そういう時間が増えると、やはり同じような疑問が生じる。古明地こいしはどこにいるのか。
4
小鈴の元にまたあの女が来た。この前貸した本を返しに来た。女は猫のように優しい微笑を浮かべていた。小鈴は何だか急に恥ずかしくなってかしこまった調子でこう尋ねた。
「次は何をお探しでしょうか?」
女はある本の文章を口にした。
「夢は私の感情である。夢の中の彼女の感情は、私がこしらえた彼女の感情である。私の感情である。そして夢には感情の強がりや見栄がないのに。
そう思って、私は寂しかった」
小鈴はこの文学者のことを知っていた。Kの貸本の中にも彼の名前があった。それから寂しそうな嬉しさを混じえてこうも言った。
「あたいはね、こいし様と夢の中で会ったんだ」
古明地こいしこそKなのか。イニシャル的に考えればKである。女の口振りから上下関係が明らかになった。この女は、こいしの従者なのだろう。
しかしそうなると、女の言葉が分からない。まるで今では会えない言い方である。Kはこいしではないのか。
小鈴は何も言わず、女の言葉を待った。女に壁を感じているわけではない。非常に親しみやすい。それでも沈黙を貫いているのは、女の言葉に何か触れられないものを感じたためである。小鈴が気易く知っていいことではないと思えた。
「ここに夢に関する本ってある?」
「明晰夢ってご存知ですか?」
「知らない」
「夢を夢だと理解してて、思い通りに夢を変えられるみたいですね」
女は目を輝かせた。深い紅の瞳に嬉しそうな色が流れた。
「できるの?」
小鈴は数冊の本を風呂敷に包んで、女に差し出した。女は晴々とした笑顔で出て行った。女と入れ違う形で、稗田阿求が驚いたように庵に入ってきた。阿求は小鈴に問いかける。
「今のって……。お燐さんですよね?」
「……誰よ?」
「猫よ」
「へぇ。で、何よ?」
「珍しいことでもあるのね」
阿求の微笑に、小鈴は困ったように眉をひそめた。それから、お燐さんのことを聞いた。
5
お燐から夢に関する本――店主曰く、夢を自由に変えられるとのことだ――を受け取った。さとりは訝しむようにお燐を見た。
「お燐、これは……」
「明晰夢っていうらしいです」
「それが何なの?」
「さとり様は、こんな言葉を知っていますか?」
お燐はそう前置きして、川端康成が書いたある一節を諳んじた。さとりは烈しい衝撃に打たれた。きっとその言葉に確証はなかった。それでも、夢に一条の可能性を見出した。
が、そこでこいしに会えたとしても、本当にこいしなのであろうか。さとりの感情が作り上げた幻だ。それでも、さとりは、そうと分かっていてなお、会いたいと思った。伝えたい言葉があった。
さとりはお燐にこういう言葉を返した。
「ねぇ、お燐、知っていて? 大切なものは、目に見えないのよ」
お燐は温かい微笑を浮かべた。果たして、お燐に向けた言葉なのか。さとりは自分自身ではっきりと否定した。伝えなければならない。
6
さとりはある夜、こんな夢を見た。
部屋のベッドで横になっていると、一人の少女がさとりを見ていた。エメラルド色の瞳が、楽しげに輝いている。胸元にある緑に瞳は、さとりとは違い、閉ざされている。少女はさとりの瞳を見ながら、静かな声でこう言った。こいしの柔らかな吐息が頬に当たった。
「お姉ちゃん」
「こいし!」
さとりは反射的に起き上がる。こいしの白い頬に触れよう手を伸ばした。冷たいものだった。さとりは一度目を伏せ、温かいものが込み上げてくるのを感じた。鼻の奥が痛くなる。
こいしはさとりの顔に無遠慮に触りながら、びっくりしたのか問う。
「……お姉ちゃん? どこか痛いの?」
さとりは何とも言えず、こいしの細い身体を抱きしめた。強く、離れないように抱きしめた。そうすることが、どんな言葉よりも行為よりも、幸せであった。清らかな香りがさとりの嗅覚に刺さる。自分とよく似た香りであった。
耐えていた嗚咽が漏れた。さとりはそれでもこいしの質問に答えた。
「嬉しいのよ」
「嬉しい?」
「そうよ」
「どうして? いつでも会っているじゃない?」
「会っていないわよ」
「え? 私はいつも皆と会っているよ?」
「馬鹿ね。本当に大切なものは目には見えないのよ。でも、こうやって会わないと、私は分からないわ」
そんなやり取りですら嬉しかった。
夢はそんなところで目覚めた。覚めたことを憎く思いながらも、堪らなく嬉しかった。言いたいことが言えず、悲しかった。
目が覚めたさとりは、自分が泣いていることに気付いた。涙を震えた指で拭いながら、無意識的に呟いた。
「愛しているわ、こいし」
「私もだよ、お姉ちゃん」
さとりは起き上がった。優しい声がした方を見る。夢の中で見て、聞き、話し、触れ、嗅いだ、自分とよく似ている少女が今、部屋に立っている。さとりは慌てて立ち上がり、こいしに触れようとした。が、こいしは幻のように消えた。
が、さとりの胸に悲しみは去来しなかった。
7
ある夜のことである。鈴奈庵の戸が開いた。小鈴は読んでいた本から目を離し、戸の方を見た。
「いらっしゃいませ――あれ?」
店内を見渡しても、誰もいなかった。小鈴は驚いたものの、大して気にせず読書を再開した。その時、本に二つ折りにされた紙がはさまっていた。小鈴がはさんだ物ではない。小鈴は紙を開けた。
『ありがとうございました。古明地こいしより』
小鈴は読書を再開した。
それと、ところどころの誤字脱字が雰囲気を損ねてる。
でもね、それでも雰囲気が良かったんだ。上手く言えないけど、凄いこと。
好きな感じ。
このSSそのものが、無意識という状態に縛られているような、そんな感じ。