臓腑がひっくり返るような浮遊感と共に雪の上へとさかしまに落下した、
「はい」
次の瞬間には目の前に何の説明もなく小さな箱を突きつけられて、仙亀は判断に困った。
「これは?」
「チョコレート。お菓子」
改めて箱に目をやると、それは赤い包装紙と紅白のリボンで丁寧にラッピングされている。
それ故に仙亀は、それが目の前の巫女の手によるものではない、と判断したが、
「手作りよ、一応。包装まで」
目の動きを読まれたようだ。中腰で箱を差し出している巫女の面持ちは憤るでもなく勝ち誇るようでもなく。
それは、そう、仙亀の記憶にあるいつもの表情で機先を制してきた。
「しんじられませぬ」
「早苗がね、うるさいのよ。知ってる? 早苗」
「新しく出来た神社の、巫女様かと」
「そう、そいつがね。如月の14は練丹デーだからチョコを一緒に作りましょうって。うちにでっかい木の実抱えて乗り込んできたの」
幽香に作ってもらったんだって、なんてどうでもよさそうに呟きながら、巫女はきょろきょろと周囲に視線を巡らす。
「そこの岩など、どうでしょうか?」
「ん、確かに」
一つ頷くと巫女は己が先程ひっくり返した仙亀を引きずって小さな岩のそばまで移動し、そこに積もった雪を払ってよっこらしょと腰を下ろした。
両者が言葉を交わすそこ。博麗神社の傍にある小さな池の畔は人の手通わぬ未開の雪景色。
白い外套と手袋を纏った巫女は、赤いマフラーとリボンがなければそのまま深雪に溶け込んでいってしまうのではないか。
一瞬、抱いた愚考を振り払うように仙亀はのっそりと首を振った。
「人里でね、配るんだって。信仰獲得の一環みたい」
「それはそれは」
「曰く「美少女に笑顔と共にお菓子を手渡されれば、少なくとも意識だけはするでしょう! そこから信仰ですよ!!」だってさ」
「と、いうことは」
ふむ、と仙亀は平べったい手で顎をさする。
「殿方に、贈られるのですな」
「基本的には、そうらしいわ。女が男に渡すんだって。少なくとも幻想郷ではそうあるべきなんだってさ」
「外の世界は、違うということでしょうか?」
「かもね。よく知らない。いずれにせよ、「義理でも手を抜いては乙女の恥です!」って」
己の手で丁寧にラッピングした小箱を胡乱な表情で見つめながら、巫女は小さく溜息をついた。
「私はいい、って言ったんだけど、あいつゴリ押ししてきて。結局私と魔理沙も作る羽目になったの」
あいつも人の都合ってあんまり考えないのよね、と呟く巫女に、あと少しで仙亀は「御主人様が言う事ですか」なんて返しそうになってしまった。
「御主人様が言う事ですか」
しまった、言ってしまった。
「まあ、そうなんだけどさ」
だが、昔はわりと短気だった巫女も、今では若干の落ち着きを身につけてきたようだ。
とりあえずお咎めなし。仙亀は博麗神社の神に感謝の祈りを捧げた。
「魔理沙は、霖之助さんに渡したらしいんだけど、私はなんとなく嫌だったし」
その名前は仙亀も知っていた。確か彼女が公私共にお世話になっている、多少の自信過剰が玉に瑕ではあるものの誠実な青年であったはず。
「嫌いなのですか?彼が」
「嫌いじゃないけど、嫌なの」
友人に、遠慮したんだろうなぁと仙亀は内心ひとりごちた。
そう考えでもしなければ商品を色々盗まれるわ、服の修繕は押し付けられるわの青年が哀れすぎる。そうであってほしい。
「早苗は、わりと成功したみたい。少なくとも名前だけは売れたし。実際可愛いもんね、あいつ」
「御主人様も、可愛らしくていらっしゃいます」
「おべっかはいい。自分が可愛い性格じゃないことくらい、知ってるから」
確かにこの巫女の性格が妖怪よりも妖怪じみていることは、仙亀が誰よりもよく知っているが。
だがしかし外見は悪くないのだから、頑張れば割といけるんじゃないか、とも思うのである。
だのに、
「だからさ、一週間も悩んだのに。これ、あんた位しか渡す相手が思い浮かばなかったの」
「この、爺めに?」
「うん」
「なぜ?」
「早苗がね」
「はい」
「「一個だけしか作らなかったのなら、本命ですね!?」って」
「本命とは?」
「私もおなじこと聞いたんだけど、好きな相手だって」
成る程、と仙亀はよく透るバリトンを響かせながら重々しく頷いた。
「つまり、告白ですな。乙女チックですなぁ」
「そんな相手いる訳ないでしょ、って言ったらあいつ、なんか哀れむような目線で「それでは、恩義のある方に渡されてはいかがでしょうか」って。一個だけか、複数かで意味合いが違ってくるなんて、あいつ作り始めた時には一言も言わなかったくせに」
「……それで、この爺めに?」
「うん」
「なぜ?」
「あるでしょ、恩義」
そう返した方はなんともなしであったが、返された方はそうはいかなかった。
「……はて? 何がでしょうか」
「助けてくれてたでしょ? 色々」
――なんだ、亀か。うち落とすだけむだだったわね。
――いや、そんなこともないのか。あんた、空とべるんだし。
――うん、大きさも丁度いいし。あんた、わたしの足になんなさい。
なんて。
「御主人様には、力ずくで従えられていたような気もしますがなぁ」
「嘘つき」
ビクリ、と。
のっそりと首をすくめていた仙亀の動きが、止まる。
「……何が、ですかな?」
「霊格、あんたのほうが上じゃない。空も飛べなかった当時の私にあんたを圧倒できたはずがない。御主人様ももういいわ」
仙亀は、答えなかった。
「あんた、そういう役割なんでしょう? 会ったその時から神社や、陰陽玉にも詳しかったし」
仙亀はのっそりと首を伸ばして、巫女を見る。
仙亀の視界の中の巫女は、相変わらず逆さのまま。
いつもどおりの表情で、頬杖をついていた。
「……それを知って、なお、それを爺めに?」
「それでも、助けてもらっていたって事実に変わりはないじゃない」
ん、と。
巫女は赤い小箱を再び亀の前に差し出して。
「義理チョコ、あげる」
仙亀は言葉を返せなかった。
胸がつまされて、言葉が出てこない。
「なんで、泣いてるの?」
まぶたに涙が溜まるというのは仙亀にとっても新鮮な体験だった。
「卵でも産むの?」
「爺は、雄なので産めませぬ」
「知ってる」
さかしまに涙が流れていくというのもやはり、新鮮である。
「悲しいのです」
「何が?」
「霊夢殿に、良い人の一人もいないという事実が、哀れで、悲しいのです」
「……言われてみれば悲しいわね」
亀にチョコレートを贈っている姿は、確かにシュールで、滑稽で、見方によっては悲劇である。
うわぁ、なんて顔をしかめて巫女は苦笑した。
そんな笑顔を見ていると、仙亀のまなじりには再び涙が溢れてくるのだ。
「嘘です」
「知ってる」
はい、と手渡された手ぬぐいで、仙亀は器用に己の涙を拭った。
「嬉しくて、悲しいのです」
「何が?」
「爺は一度、お役目を放棄しました。本来なら、霊夢殿が神社の主となったその時から、霊夢殿をお守りせねばならなかったのに」
意識の底に溜まっていく、汚泥のようなもの。
「折れたのです。先代が存命のうちに次の候補が見つからなかった場合、新たな巫女を一人前になるまで、守り、育てるのが管理者の一人としてこの老体に課せられた使命であったのに」
それはじくじくと胸を焼き、侵食してくる。
「己はこの子を戦場へ送り出すために、育てているのか。一度そう思ってしまえば、それを消すことなど出来ませなんだ。爺がお役目を放棄すれば、それだけ巫女の危険は増すというのに。苦しみから、逃げたのです」
「それでも結局、心配になって私の前に現れたんでしょ? 硬いのね、意志。流石亀」
散々苦悩したのである。
亀だからの一言で片付けないで欲しい、と非難を視線に乗せてはみたものの、無重力の巫女はそれを――少なくとも表面上は――さらっと無視した。
「あんたも出来るの? 夢想封印―鈍―とか」
「見本程度には、出来ます。夢想封印―黴―とかも」
「そう。 最近、さ」
「はい」
「怪しげな宝船が、時々雲居の隙間をうろついているんだけど」
「存じております」
「撃ち落しに行かない? ツイン夢想封印で」
何気なくのお誘いをしかし、仙亀は確固たる意志でもって拒絶した。
「霊夢殿はもう、爺より速く、強く空を往けまする。爺はもう霊夢殿の足かせにしかなりませぬ」
「そういう話をしているんじゃないんだけど」
はぁ、と呆れたように巫女は溜息をついた。所詮は爬虫類である。頭の回転を期待するのが間違っているのか。
なんて考える巫女の脳内をもし魔法使いが覗いたら、「お前にそっくりだけどな」なんて笑うのだろうが。
「帰って、こないの? 神社に」
「爺は、いつもここにおります」
「ここは神社に近いけど、厳密には神社の敷地じゃない。私達の家じゃないわ」
私達、という言葉が。
仙亀の決心を揺るがすかのように、懐かしい思い出を次々と呼び起こしていく。
――ねえ、爺。さっきかぼちゃ切ってたら。
――それは力が要るでしょう。どれ、爺が代わりに。
――指も一緒に切り落としちゃって。どうしようか。
――ねえ、爺。こんなの捕まえたんだけど。
――それは幻想入りした火星人ですな。逃がしておあげなされ。
――え? さっき一匹食べちゃった。これ二匹目。
――ねえ、爺。さっき鳥居を軽く叩いてみたら。
――ああ、あれもそろそろ交換時でしょうか。結界の専門家を呼びますからしばしお待ちを。
――危なそうだったから先に倒しておいたけど、まずかった?
……色々な意味で仙亀の決意は揺らぎそうになったが、
「時たま、お茶をいただきに顔を出そうとは思います。心配ですので」
「戻っては、こないんだ」
言の葉に含まれる残念の微粒子と己の未練を、あえて無視する。
仙亀は思うのである。巫女にはもっと同年代――というか同精神年齢代――の友人達と。
霧雨の魔法使いや死の少女、件の風祝といった者達と協力して、異変解決に挑んでくれればいい、と。
己が共にあるよりも、己なんぞ無視してもっと先へ先へと進んでほしい、と。
そんな考えに理解が及ぶ日が、巫女に来るのだろうか?
そして仙亀の思考とは別に、巫女もまた一つの結論に辿りついていた。
仙亀が今後も務めを果たしていくためには、多分……
「ま、いいや。とりあえずこれは爺にあげる」
「……ありがとうございます。来年は素敵な殿方を見つけてくだされ」
「それ以前に来年はこんな面倒臭いことやんないわ」
はぁ、と溜息をついた巫女は空になった手で外套の袖から封魔針を取り出すと、熟練の早業でそれを林の中へと投擲した。
あやっ? と、小さい悲鳴があがる。
「これはこれは、気づかれてましたか」
「六日前からね」
林の中から姿を現した鴉天狗は額に刺さった針を抜くと、つまらなそうな表情でそれを投げ捨てる。
「『博麗の巫女、本命チョコの行方は?』 いいネタだったんですがねぇ。敬老の日で終わっちゃ記事になりませんよ! 私の一週間を返してください!」
「早苗か。口が軽い奴」
いやしかし、書きようによっては? なんて頭を捏ねくり始めた鴉天狗を疎ましげに眺めていた巫女だったが、ふいに目をしばたかせた後に、ふっ、と小さい笑顔を浮かべた。
◆ ◆ ◆
宝船の目撃情報入手のためにスパイとして博麗神社社務所を訪れた若い風祝は、ふと座敷の光景に軽い違和感を覚えた。が、すぐに違和感の原因を特定する。
「……霊夢さん」
「何?」
「大物、釣り上げたんですねぇ……」
和箪笥の上、一週間前にはなかったフォトフレーム。その中では涙を流す亀を羽交い締めにして直立させている巫女が、たおやかに微笑んでいる。
それは家族写真だ、と言ったら、やはり風祝は笑うのだろう。
「やっぱり、もう食べちゃったんですか? 実物を見てみたかったんですが……甲羅くらい残ってますかね」
「いつか見れるわよ。逃げられたから」
「逃がしたんですか?」
巫女は笑った。
「独り占め、しちゃいけないのよ」
最高点が100じゃなかったら、中々出てこないこの気持ちの代わりに注ぎ込んだのに。
1500点くらい。
感じられました。「老兵は死なず、ただ去りゆくのみ」とはいうけれど、
たまには一緒にお茶でも飲みたいよね。
後輩巫女も彼のサポートを受けた時期があったんでしょうね
原作に玄爺の出番はきませんかねぇ
ラストの終り方がよいからでしょうか。
二人の関係性もとても良かったです。
旧作には疎いのですが、ふたりの関係性が素晴らしく魅力的でした。
ひっくり返したのは逃さない為か、それとも? なんて考えたら、ロマンティックが止まらない。
もっとジジネタ書いてください!
玄爺と霊夢の作品にハズレを見たことない
オチまで含めて、心があったかくなりました。
思い出がひどいものばかりで笑ってしまった
とても霊夢霊夢してる霊夢がよめてうれしい!