Coolier - 新生・東方創想話

にわかにキョンシー

2013/02/20 16:22:56
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 山犬がやたらに吠えるから、庭に下りてみたのだ。
 ついでに、ぬか床に足す青菜と大根を抜いてくるつもりだった。美味しいからもっとちょうだい、とねだる霊夢に分け与えていたら、自分が食べる分がなくなってしまった。
 畝三本のつましい菜園の前まで来て、華扇はぎょっと立ち止まった。
 畑から腕が生えている。
 思わず、華扇は包帯を巻いた右腕の感触を確かめてしまう。しかし大根の隣に生えている腕は二本ある。
「あーくしゅ」
 もののためしに。
 ぎゅっと握り返された。
「うわあっ! 気持ち悪い!」
 足がもつれて転んでしまう。握手をしたままだった。
「うんとこどっこいしょー」
 勢いよく、土を跳ね上げて現れた腕の持ち主が、その場に踏ん張ってくれたおかげで倒れこまずに済む。
「お怪我はありませんか?」
「あら」
 淑女である。土にまみれているが。
 華扇を引き起こした手を前に伸ばしたまま、娘はニコニコしている。帽子のひさしに、抜けた生姜をのせて。
「おはよう!」
「あ、ええ、おはよう」
「さ、あるじ。ケアしてー」
「え?」 
「う?」
 きょとんと首を傾けた拍子に、娘の額にたらりと札が垂れて、ついでに生姜がずり落ちてくる。
「おはようのカリカリ挨拶したらもぐもぐケアしてくれるじゃないかー、いつもゴックン」
「食べない食べない。それうちの生姜だから」
「お? おー……」
 娘の視線がふらふらとさまよう。
(殭屍か)
 まじない札の文字を読み取るまでもなく、華扇には、相手の正体に見当がついていた。
 それは死体をあやつる冒涜の秘術である。
(あの仙人ね……) 
「お……」
 庭を一周して戻ってきた眼差しに、急速に光が戻る。
「お?」
「お前は誰だ!」
 死体、が叫んだとたん、山犬の遠吠えがぴたりと止み、屋敷の屋根にとまっていた大鷲の竿打が、驚いて空に舞い上がった。



 ひとまず全身の土をきれいに払ってやり、屋敷に入れた。蒸した包子を四つ五つ口に押し込んでやると、芳香と名乗ったキョンシーは、ぺろり飲み込んで満足そうにしている。
「うまいな!」
「そう?」
「うん。華扇はいい奥様になれるぞぅ」
「ふふふ」
「さ、ごはんも終わったから、ケアしてー」
「いや、だからね……」
 招き入れる前にいくつか質問したが、どうにも要領を得ない。なぜ庭に埋まっていたのか、主人は彼女になんと命じたのか、覚えていないようなのだ。
 もっとも、キョンシーというものが意思疎通できるような存在でないと思っていた華扇にすれば、芳香は驚きである。彼女が特別なのか、操者の技量が優れているゆえか。
「なんでー? 華扇も、仙人なのであろう」
「仙人なら、キョンシーの世話ができて当然、だと言うのですか?」
「できないのか?」
 死体を蘇らせ、意のままに使役する邪悪な方術などに興味はないが、できない、と素直に認めるには、華扇は少しばかり修行が足りなかった。
「はっ! もしや、華扇」
 がっくんと芳香の頭が跳ね上がる。未熟さを見抜かれたかと、華扇はどきりとした。
「おぬしもしや、しかいせん……ぞな?」
「尸解仙も、仙人ですよ。私と同じ」
「ぞなもし?」
 丸窓から、竿打が興味津々と芳香を見つめている。カラスほどではないにせよ、竿打もなかなか珍しいものが好きだ。
(……食欲?)
 気のせいだと思いたい。死体をついばむような子に育てた覚えはない。
「ねーケアしてー、お手入れしてよー、あるじー」
 上体をごろりと卓に投げ出して、芳香は伸ばした腕をバタバタさせる。
「主、ではないと言ってるでしょうに」
「そうだったな……」
 なぜ遠い目をする。
「ケアして、ということですが、ケアしないとどうなるんですか?」
「腐るね」
 なんでもないことのように、芳香は即答した。
 食器を脇に寄せ向かいに腰を下ろすと、難しい顔をしている。
「芳香?」
「……念のため言っておくが、人生に腐るとかそういうことじゃないぞ?」
「わかってますよ! そんなこと」
 死者と話すのは疲れる。外の世界でイタコが減るわけである。
「腐敗が進行するのですね」
「うん。くさるくさる。ものすっごく腐るよ。まあ、死んでるからなー」
 からからと歯をむいて笑う。
 芳香を置いて、華扇は館をかこむ回廊へ出た。目を閉じ感覚を研ぎ澄ましても、動く気配は獣か鳥たちのものだけだ。
 どうやら、自分から出てくるつもりはないらしい。
(いったい、どういうつもり? 青娥さん)
 少しばかり前の里での出来事を、華扇は思い出していた。
 



 ところで、芳香が屋敷に来て少しして、華扇には気づいたことがあった。
 漬物がうまく漬かるのだ。
 芳香を掘り出したついでに畑からもいで、ぬかに漬けた小茄子が、今朝にはみごとな色に漬かっていた。
 かじってみると味も申し分ない。一日ちょっと漬けただけなのに、古漬けのような深みがある。
 ただの偶然かもしれないが、華扇にはそう思えなかった。
 長椅子で休ませた芳香の様子を見に行く。本人がいらないと言ったのだが、毛布もなしに横向きに寝ている姿は、やはり寒そうだ。
 まぶたを固く閉ざしていると、完全無欠の死体にも見える。
「竿打」
 小声で大鷲を呼ぶ。椅子の背もたれに舞い降りた竿打は、寝ている芳香にぐいと嘴を寄せると、前髪をくわえて引っ張った。
 芳香の額に、細かいしわが寄る。
「これこれ、やめなさい」
 華扇はがっくり落胆する。やっぱり、食欲か。味見だけでもしようというのか。
「さあ、あなたには、仕事があるのよ」
 女仙、霍青娥の特徴を簡単に教える。見つけても手を出さず知らせに戻るよう言い含めて、窓から送り出した。
 芳香は身じろぎひとつしない。晩春の日差しが彼女の目元まで伸びてきている。華扇は御簾を下ろして、光をさえぎった。
 聖人の復活とともに、神社に顔を出すようになったもう一人の仙人と、華扇はしばらくすれ違いが続いていた。死者をあやつる邪悪という事前に聞いていた話とは裏腹に、対面した青娥はにこにこ愛想よく、華扇に名刺を渡しただけだった。
 再会は先日、里の雑貨屋である。
 商売上手な店主が、朝夕の二度、時間を区切って特定の商品を安売りをする。その日の特売は卵だった。つかみ合い一歩手前の争奪戦を繰り広げるおかみさんの合間を仙人ステップで華麗にくぐり、華扇の手が難なく厚紙のパックをつかもうとした刹那。
 反対側から伸びた手が、ほとんど同着に同じパックをぎゅっとつかんだのである。
「むっ」
「あら?」
 腕をたどって顔をあげると、柔和だがどこか剣呑な微笑が華扇を出迎える。
「お久しぶりですわ」
 丁寧に会釈しつつも、青娥の手は華扇の握ったパックをつかんで離そうとしない。
「すみませんが、譲っていただけないかしら。私の方が先だったわよ」
 僅差だが。
「ええ、百も承知ですわ。人のものになったところで奪い取るからこそ楽しいんじゃありませんか」
 この一言で敵認定である。
 無言の戦いは熾烈をきわめた。客でごった返すおしくら饅頭状態から、お互い腕一本突き出して、押しては引き、弾いては払い、常人の目には留まらぬ一進一退の攻防である。
 長きにわたる、実質三分に満たない均衡が崩れた。重量級で定評のある金物屋の今井さん(124キロ)の横からの突進で、さしもの華扇の仙人腰もよろめき、手が離れてしまう。
 勝った、と青娥は思っただろう。
 悠々と持ち直そうとした目の前で、思わぬ角度から包帯を巻いた手があらわれ、卵パックをかっさらっていったのだ。
 唖然と見上げたその先に、高々とパックを掲げる華扇の姿があった。
「くにへ かえるんだな おまえにも ごうぞくが いるだろう……」
 これはちょっと調子に乗りすぎた。
 客をはさんで対峙した青娥の、刃の背のような目つきの下で、唇が動いていた。
『ふふ。強い方は大好きよ』
 華扇は、そう読み取った。
 まさか、アレの仕返しだろうか。だとしたら、あまりに大人気の無い……。
 うなりを上げて後頭部に刺さったブーメランに、華扇は気づかないふりをする。
「うう」
 芳香がうめいた。両のまぶたがくわ! っと開き、ほの赤い瞳の焦点がぼんやりと結び目を探してうろつく。
「せーが?」
「いいえ。違います」
「かせん」
「はい」
 ぎこちない笑みが、ゆっくり形作られる。彼女なりの愛想笑いかと、華扇は思った。
「おはよう」
「はい、おはよう」
「私、まだ生きてるか?」
「ええ、変わらず死んでいるわね」
「おお」
 芳香は口をつぐむ。全体あどけない顔立ちに、黙れば知性が優美な曲線を浮かべる。
 芳香の主人を竿打が見つけることに、華扇は期待していなかった。張り巡らされた結界をくぐり、華扇に気づかれずに庭に入り込んで、芳香を埋めていくような相手なのだ。ドジっ子大鷲には荷が重かろう。
 青娥が芳香を残していった意図に、華扇は挑戦的なものを感じ取っていた。
 安売り卵につづく、これはきっと第二ラウンドに違いない。華扇が芳香をもてあますと見越して、ひとつ困らせてやろうという魂胆なのだ。
(ふん。負けるもんですか)
 キョンシーの「お手入れ」くらい、ひとりでできるもん!



 無理でした。

「華扇さんや。いままでよくしてくれた。もう十分、ありがとう、もういいんじゃ……」
「そんな、まだいけるはずよ、諦めちゃ駄目、芳香!」
 がぶり。
 お代わりの肉まんを皿に盛ると、芳香は嬉々として両手を投げ出してかぶりつく。
「お腹いっぱいだと思ったけど、まだまだ食えるぞー」
 ひとまず食欲には衰えは見られない。軽く安堵のため息を、華扇は漏らす。
 ここ数日の間、思いつく方法を、次々試してみた。
 書物を調べ、あれこれ食べさせ、薬膏を塗りつけ、マッサージをする。
(文字通り)灸をすえる。闘魂……ではなく練った気を注入する。
 エトセトラ。
 結果として、芳香の関節はわずかに柔らかくなったが、それだけ。
 何をしてやっても「ありがと、それじゃケアしてー」となる。
 竿打は青娥を見つけられず、業を煮やして華扇は自らも探しに出たが、彼女はおろか仲間の聖人たちにも出くわさない。
「み、みこえもーん!」
 人目をはばかり、森に入って叫んでもみたが、山彦妖怪が律儀に復唱してくれただけ。おのれ阿礼乙女、適当なことを書きおって。
「ねえ芳香。思い出さない? 青娥さんがどうやってあなたの世話をしていたのか」
 恥をしのんで、直接尋ねるのも何度目かである。
「うーん。バッとやってジャッとして、グイッとな」
 曲がらない手足を振り乱して説明してくれるが、結局なんだか分からない。
 衣服をめくって調べても死斑が広がったりしている様子もないし、ひとまず華扇は焦らないことにした。当てずっぽうに施した手立ての一つが効果を発揮していることだって、ありうる。
「あ、おかえりー」
 屋敷に帰ってくると、庭先までぴょんぴょん跳ね出てきて芳香が迎えてくれる。キョンシーのいる生活にも、華扇はだいぶ慣れてきた。
 芳香はノリもいいし、愛嬌もある。
 こちらが黙っていて欲しいときは完全に気配を殺してくれるし、いつぞや迷い込んだ霧雨魔理沙よりも手がかからない。虎をはじめ、放し飼いにしている他の動物たちともおおむね仲良くやっているようである。
「かーまーれーたー」
 竿打だけはなぜか、しつこく彼女の味を確かめようとしていたが。
 そしてやっぱり漬物が美味い。
 日が落ちて青い夕間暮れ、華扇は鍛錬をこなして湯浴みを済ませた。たまに芳香も入浴させてやろうとするのだが、
「自分で洗える、からー」
 とこればかりは愚図る。洗えているわけがないが、放っておいても汚れているようでもないし、好きにさせておこうと華扇は思っていた。
 湯上りに、あめ色に漬かったかぶの薄切りと酒を盆にのせて階上へ上がると、菜園に面した高欄に庇と一体になった影が佇んでいる。
「華扇」
 明かりを灯そうとすると、芳香は小さくかぶりを振った。
「どうしたの?」
「こんなにいい夜なんだ。明るくしたら、もったいないぞ」
 籐椅子にかけた華扇に近寄って、癖のついた前髪の下から芳香は覗き込んでくる。
「風流なことを言うじゃない」
「夜にもいろいろある」いつになくしっかりした声だった。「水みたいな夜、ごわごわの夜、透明な闇。黒にもいろいろだ。椿が咲けば赤く、老人が嘆けば青くなる」
 杯に酒をついで差し出すと、ぺろりと舌先を浸した芳香は、器用に片目をつぶってみせた。
「芳香は、夜が好き?」
「夜起きてばっかだからな! だが気をつけろ、夜は怖い。夜死ぬ女は多いぞ」
 半月が遠く森の上に霞む。そよそよと風が渡った。
「ねえ、青娥さんに会いたくならないの?」
 そう尋ねると、赤く縁取られた芳香の瞳の奥で、別の色がひらめいたように思えた。
「誰だっけ」
「あなたの主人でしょう」
「なんだと!」
「従っていて、つらくはないの。彼女を、憎んではいないのかしら?」
「歴史的には意義のある女なんだが」死人は肩をリズムカルに波打たせている。「革命家は女じゃ嫌われる。ニュアンスの問題だなー」
 かみ合わない会話が、華扇は不思議と楽しかった。すでに漬物は平らげ、手酌でずいぶん飲んでしまっている。
「うおぉ! 華扇」
 唸るような芳香の声に、しばらく黙り込んでいたと気づく。
「どうしたのです」
「お前、腕はどうした?」
「え?」
 右腕の包帯はほどけていない。芳香は穴が開くほどに見つめてくる。強く握ったりしなければ実体がないと確かめられないはずだが、さりとて隠しているつもりもない。
「もげたか?」
「ああ……。いえ、元からよ」
「なんだそうかー。よかった」
 空を見上げた芳香の頬っぺたに夜明かりが弧を描く。もう一つの月みたいだ。
「私の腕でよければ、あげるぞ?」
 でも腐っちゃう前になー、と笑っている。
 そんな冗談も言えるものだと華扇は感心する。なんだか、古い友人と打ち解けているみたいだ。
 新しい酒をこぽこぽ、杯に溜めた。

 異変が起きたとしたらこの夜だろう。翌日の日が昇り、暮れてまた昇っても、芳香は長椅子に横たわったまま、目覚めなくなってしまったのだ。




          



「青娥さん! 霍青娥!」
 叫んで、谷を飛び越える。
 夕日があかあかと、山肌を照らしていた。
「どうせ、どこかで見ているのでしょう! 出てきなさい!」
(いけないいけない)
 ついいつもの調子が出てしまった。出て来い、は無し。
「お願いだから出てきて、あの子を助けてあげて!」
 通りがかった河童がぎょっと見上げてくるが、構ってはいられない。
「青娥さん!」
 まるまる二日、芳香はただの死体だった。
 芳香の額の符、青娥の書いた命令を参考に、華扇は独自に札を作り上げていた。血に飢えた人喰いの性質を一時的に高め、暴走させるものだが、制御できなくなって襲ってくる恐れもあった。いよいよとなったら使おうと準備していたのだ。
 覚悟して貼り付けてみたものの、何事も起こらない。閉じたまぶたがぴくぴく動いて、それっきりである。
 八方ふさがりに竹林の医者を訪ねてもみた。しかし、いざ中へ通されて「どうしました」と訊かれると返答に詰まる。
「あの……。死体が、起きないんです」
 なるべくシンプルに説明したつもりである。
 永琳は笑顔で、診察室から華扇を追い出した。
 うな垂れて屋敷に戻り、書物と首っ引きでまんじりともせず朝を迎える。ふと、気配を感じて振り向くと、長椅子の上で光る目が、華扇を見つめていた。
「芳香、気がついたの!?」
 駆け寄って腕をさする。「うう」とうめいて、芳香は浮かせた足を力なく落とした。
「待っていて、青娥さんを探してきます」
「間に合わない」
 かすれて、いつもより平坦な声に、なぜか感情がこもって感じられた。
「きっと青娥は、私がいらなくなったんだ」
「そんなこと……」
「ベトナム帰りはいつもこうだ。婚期を逃した者の、末路だ。まあ仕方が無い」
 亡羊とした顔つきに穏やかな笑みが広がっていく。
「年貢の納め時、だなあ……。いくらかな?」
 握った手の中で芳香の指が動いた。屋根の上で竿打がしきりに啼いている。
「ごめんなさい、私の力が足りないばかりに」
 あふれた涙を、華扇は押し当てた袖に吸わせた。まだ諦めるわけにはいかない。
「待っていてね、芳香!」
「華扇のせいじゃないぞ。華扇はよくしてくれた、強いていえば古代日本の死体が、ちょっと古すぎたというか……」
 ぶつぶつつぶやく芳香を背に、屋敷を飛び出した。
「どこにいるのよ……」
 それから、青娥を探し回ってもう半日になる。里へ降りると聖人が近日訪れたと聞いたので気配を辿ったものの、森の手前で途切れてしまう。湖をまわり、地底へ降りようかと逡巡してとりやめ、山の上の神社まで足を伸ばした。
「青娥さん! 返事して!」
 いい加減、声も枯れた。
 こうしている間にも、芳香の体は手足の先から腐り始めているかもしれない。そう思うとむやみに焦った。日も暮れたし、一旦様子を確かめようと、華扇は屋敷のある仙界への経路を辿る。
 外は風が吹き出していたが、彼女の屋敷はねっとりと静かな闇に覆われていた。芳香の埋まっていた畑の前に立ち、明かりの灯っていない屋敷を見上げているうちに、目が慣れる。
「闇にも、いろいろある、ぞ」
 すぐ前に、じっとうつむいて芳香が立っていた。
「芳香! あなた、立っても大丈夫なの」
「華扇。……さん」
 帽子のつばを跳ね上げた下に現れたのは、芳香がこれまで浮かべたこともない、複雑で明確な表情――嘲りの笑いだった。
「あなたには、失望しましたわ」
 その言葉を、華扇が理解するより早く。
 勢いよく土を跳ね除けて現れた腕が、背後からがっちりと華扇を押さえつけた。



 隠形の術というものがある。体を透明にしたり、風景に溶け込んだりして身を隠すものだが、獣や家具に姿を変えて目を誤魔化す変化術をも含むことがある。
 長い歴史の中で、仙術はおびただしい土着のまじない、原初的魔術妖術のたぐいを吸収しており、その全容は杳として知れず、全容のわからないことが俗化の排除にもつながっている。仙人一人ひとりにそれぞれ得意とする技があるくらいで、分身や変化と一口に言っても、研究や修行の程度によって発揮される効果も違ってくるのだ。青娥の身に付けた隠形術は、華扇の知識としてあるそれをはるかに上回る、巧妙で完成度の高いものだった。
「あなたは……」
 もちろん、術者がうまく演じてこその話だが。
 身動きのとれない華扇の前で、芳香だったものはじわじわ輪郭をゆるめ、青衣をまとった姿が浮き上がってくる。
「彼女」が一緒に入浴するのを嫌がったわけも、今なら指摘できる。浴場に等身大の鏡があることを、知っていたのだろう。変化術のいくつかは、大きな鏡に映されると正体が露見してしまうのだ。
(と、いうことは)
 首を後ろにねじ向けると、出会ったときと同じ土まみれのキョンシーが、うつろな瞳で華扇を見下ろしていた。
「わたくし。長いこと仙人をやっておりますが」羽衣を肩にかけ、青娥はゆっくり華扇に近寄ってきた。「修行という修行が嫌いなのです」
 芳香とは似つかない、ぼってりとして潤んだ唇から、白い歯がのぞく。
「だって、面倒ですもの」
「けしからん」
「でしょうねえ。華扇さんのような真面目な方なら、いずれ天人にも列せられましょう。お望みなら、ですが」
 にっこり微笑んだ。死体に化けていたと思えないほどに柔らかい表情、だがその下には毒水が伏している。
「さて。あくせく修行に励んだなら、いずれ修得する奥義といったものがあります。仙人のうちでもごく一握りの者しか到達できない境地、その技は無から有を生み、地形をも変え、死者を蘇らせる力を持つと。……すごいですわね。是非とも拝見したいものですわあ」
 手をあわせて華扇の鼻先に擦り寄ってくる。肌についた香りだけは、華扇の屋敷のものなのが少し奇妙である。
「なるほど」
 芳香の腕の力は緩まない。伸ばした腕で挟まれているだけなのに、万力のようだ。
(よかった)
 こんな場合なのに、彼女がどうやらキョンシーとして「健康」なことに、華扇はかすかに安堵してしまう。 
「つまりは私にその奥義とやらを使わせるため、こんな面倒なことを仕掛けたのですね」
「理解が早くて助かります」
「私が、芳香を」名前を口にするとき、華扇はわずかに緊張する。「見捨てるとは思わなかったんですか」
「こう見えても、人を見る目には自信がありますのよ」
 背後の芳香が一切反応を示さないことが、華扇は複雑だった。屋敷で面倒を見ていたのは青娥であり、本物の芳香は、ずっと畑に埋まって出番を待っていたのだろうから、当然ではあるが。
「残念ながら。私はそういう、特別の技を身に付けてはいません。いまだ修行は途上にあるのです」
「で、しょうねえ。うすうす気づいてましたわ。だから期待はずれと」
「と言いたいところですが」気を送り込んで突っ張らせていた右腕から、力を抜く。包帯がほどけて下に落ちた。「貴女には、仕置きという術を見せる必要があるようですね」
「うお?」
 消えた腕の分だけ緩んだ縛めから、するりと華扇は抜け出した。きょとんとする芳香の帽子にのった土を軽く払ってやる。
「親切なお前は、誰だー?」
「華扇よ。茨木華扇」
「かせん?」
 芳香は大きく首をかしげた。
 羽衣を翻して、青娥が浮き上がる。空中で寝そべるように、見上げる華扇と対峙する。
「さて。特売卵のリベンジといきましょうか」
 言うなり、ほの青く光る妖弾が矢のようにふりかかる。
 芳香と青娥の連携に、華扇は苦戦を強いられた。青娥はわざと隙を作り、誘い込まれて一撃くわえようとすれば、芳香が楽しげに立ちふさがる。どうしてもそこで、攻撃をためらってしまうのだ。
 何度目かの被弾に腰が砕け、華扇は膝をついた。
 さかさまになった青娥が、ふわふわ降りてくる。
「華扇さん。その子、欲しい?」
「何が言いたいの?」
 せーがー、このひと捕まえた方がいいのかー? と華扇に近寄って腕を振る芳香に、青娥は指先を向けた。いつかの刃物のような目をしている。
「いえね。華扇さんがあんまり至れりつくせりで私を世話してくださるから。芳香もその方が幸せかもしれないって、思うようになったのよ」
 私を、の部分に力を入れてくる。
「本音を言いなさい!」
「ふふふ。食えない方」邪仙は歌うようにつづけた。「幻想郷は平和すぎました。思っていたよりね。だから正直、芳香みたいなのはね、ちょっと邪魔なの。もういらないかなあ、なんて思ったりして」
 がちり、と華扇の奥底で火花が散った。
 古き歯車が厳かにかみ合い、枯野に炎を放つように、手足の先まで熱が充足してゆく。
「霍青娥」
 髪が逆立ち、シニヨンキャップが血の色に染まった。息を呑んだ青娥が大きく飛び退る。
『私を怒らせましたね』
 華扇の声は万雷のごとく響いた。穏やかだった庭に風が渦を巻き、漆黒の雲がもくもくと湧き起こる。夜が濁っていく。
「え?」
 青娥はあたりを見回した。地面に落ちた包帯を残し、華扇の姿はかき消えている。庭の隅に逃げ込んだ虎が唸り、大ケヤキにとまっていた鳥たちがあわてふためいて逃げ出す。
 黒雲から突如巨大な手が突き出した。
「はぁっ!?」
 五指に握り締められるところ間一髪、青娥は逃れる。
 ゆっくりとぐろを巻いてたなびく闇の奥で、ぎらぎらと二つの眼が赤光を放っている。空に向かって細かい稲妻が、ぱりぱりと根を張っていく。
「華扇さん、あなた一体……。 芳香!」
「呼んだか?」
 怒りに全身を満たしつつも、華扇は主を守って立ちふさがる芳香を、うらやましく見つめていた。いらないなどと言われても、まったく動じずこちらを見返す彼女は美しい。
(ごめんね、芳香。ちょっと我慢して)
 投げつけた札は狙いあまたず、芳香の額の符に重なり上書きされる。
「お、お……」
「どうしたの?」
「オオオッ!」
 振り返るなり、いきなり襲い掛かってきた芳香から首筋をかばいつつ、青娥は驚愕に目を丸くしていた。華扇手製の札は確かに効力を発揮したのだ。
『助けてあげますよ、青娥さん』続けてこう言わせたのは一抹の嫉妬である。『その哀れな死体を消し去ってあげましょう。全身全霊の一撃で、復活も転生もない、無の地平へ飛ばしてあげます。跡形も、塵も残さずにね』
 黒煙は竜巻となってそびえ、岩の転がるような轟音があたりを満たす。青娥は血相を変え、芳香を突き放した。乱杭歯をむき出したまま、どこか途方に暮れたように佇むキョンシーの面前に、風が一気に収束していく。
「やめて!」
 轟音が地を揺らす。まばゆい光が二度三度、あらゆる影を追放して迸った。
 やがてゆっくり夜が戻ってくる。
 怪しい雲は、一筋も残さずすべて消え去っていた。
「試させてもらいました。でも、あなたがいけないのよ、青娥さん?」
 芳香を前から抱きしめて、背を晒して青娥は座り込んでいた。庭に降り立った華扇は苦笑いして、ぼうっとこちらを見上げている芳香の額から札をはがすと、手の中でくしゃりと丸めた。


  




        



 勝手知ったる足取りで台所へ入っていった青娥は、土間の奥から木桶を引き出し蓋を取り除け、白い指を無造作にぬか床に突っ込んだ。
「ね?」
 得意げに大根をつかみあげた手は、ほの赤く光っている。
「私の編み出したこの秘術を用いたならば、漬けたばかりの野菜もたちどころに美味しく、色よく仕上がるの。ぬかの匂いもつかないし、一石二鳥ですわ」
 心底あきれて、華扇は大きく嘆息した。
「こんなことで怪しまれたら、元も子もないでしょうに」
 芳香の能力で美味くなったのかと思っていたら何のことは無い、華扇の目を盗み青娥がせっせと手を加えていただけだったらしい。
「私、漬物が美味しくないのだけは我慢できないの。だいたい華扇さん、ぬかの混ぜ方がいい加減すぎます。桶のふちのところ拭き取り忘れているし、早々に傷んでしまいますわよ?」
 なぜか叱られる。
 座敷に戻って華扇は茶をいれた。擦り傷を手当てしたり、あれこれ話しているうち夜もだいぶ更けている。
 板庇を上げた回廊に、芳香が立って庭を見下ろしていた。近くの手すりに竿打がゆっくり舞い降りて、大きな翼を広げて喉を鳴らす。
「なんだ、私を食べたいのかー? 腹、壊すぞぅ」
 どうやら竿打だけは、芳香の姿をした何者か、と怪しんでいたようなのだ。まだ若くて未熟と思っていたけれど、評価を改めねばならないだろう。
「芳香。飲む?」
 湯呑みを握り、少し冷えたのを確かめてから華扇は芳香の前に歩いていった。
「気が利くなー、かせん!」
 よろこんで芳香が喉を鳴らす。
「なんだかほんと、すっかり馴染んでしまわれたのね」
 振り返ると、呆れたような、可笑しさをこらえたような顔が頬杖をついている。華扇は気恥ずかしかったが、つとめて平静を装った。
「じゃあ、この子くださいな」
「あげませんわ」
「いらないって言ったじゃないですか」
「女の子をくださいなんて。華扇さんの人間性を疑いますわ」
「怒りますよ?」
 食えない女はどっちだ、と華扇は思った。
 夜の明ける前に、青娥は芳香を連れて去っていった。結界の経路をいじって「鍵」をかけなおしたが、青娥がその気になればまたやすやすと入ってこられるだろう。芳香に化けるような真似は、もうしないだろうが。
 曙光の差し込む部屋に一人座っていると、なんだか妙に広く感じられた。青娥=芳香を横たえた長椅子に腰かけ、少し乾いた大根漬けに胡麻をふりかけ、ぱりりと噛む。
『私の腕でよければ、あげるぞ?』
 横顔の芳香をふと思い出す。
(……って。あれは青娥、青娥さんじゃないの)
 頭を振って記憶を転がした。しばらくは軽い混乱に悩まされるかもしれない。





【了】
幻想郷で暮らしていれば、キョンシーも発酵の神様とかにランクアップしたりしないかな? と思います。
芳香ちゃんがかもされちゃったら困りますが。

お読みいただき、ありがとうございます。
鹿路
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コメント



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8.90yosei削除
最初で一人称なのか三人称なのかわからず混乱しました。
でも、読み進めれば独特の雰囲気が崩れず続き、ギャグのような読みやすい
地の文が先へと引いてくれました。

ひっこ抜かれてなつく芳香(にせ)に、ピクミンみたいだと思ってみたり、
それが偽物なのだとわかってびっくりしてみたり。
というか、びっくりして、すぐに残念なような、悔しいような気持ちになりました。

戦いの中の緊張と動きも感じられて良かったです。
卵パックが争う理由というのがなんだかまが抜けていますが、
最後には丸く収まって良かったです。
9.100名前が無い程度の能力削除
行動主体がころころ変わるせいでお世辞にも読みやすいとはいえませんが、
それ以上にホンワカした(これ以上の説明は私には無理)日常風景に和まされました。
世間離れした三人ならではの奇妙な三角関係(?)も良かったです。
10.80奇声を発する程度の能力削除
雰囲気が良く面白くて読み続けられました
12.90名前が無い程度の能力削除
そうなるのか、という感じ。
最後に綺麗にまとめられててよかった。
16.100名前が無い程度の能力削除
芳香が妙に人間味溢れてるなあと違和感を覚えていたら、ああなるほどといった感じでw
個人的にはせいよしの要素がすごいグッと来ました。面白いなあ。
18.100euclid削除
あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
『おれは芳香ちゃん矢鱈と可愛いなと思ってたら青娥さんだった』
な… 何を言ってるのかはわかると思うが
読み返して2度楽しかった…
19.80ぴよこ削除
漬物が食べたくなりました。
22.90名前が無い程度の能力削除
キャラが生き生きしていて、読んでいて楽しかったです。
23.90名前が無い程度の能力削除
仙人sの新たな魅力を見た気がします。
28.100名前が無い程度の能力削除
華扇さんが心綺楼に出たら確実に「にぎりつぶす」が技の中に入ると思う
芳娥可愛いよ青香…ん?
29.100パレット削除
 面白かったです!
30.100名前が無い程度の能力削除
そうそう、芳香ちゃんは腐ってるんじゃなくて発酵してるといい
31.80名前が無い程度の能力削除
芳香はかわいいなあ
ん?青娥?
35.100名前が無い程度の能力削除
登場人物に魅力あふれる。
ご馳走様。
41.100Admiral削除
ヒューッ!これはよいお話。
かせんよしかと見せかけて実はトライアングルとは。
にゃんにゃんも華扇ちゃんも芳香もかわいすぐるでしょう?
竿打も渋いですねー。
作者様の作品は初めて読ませていただきますが、小回りのきいたネタ、表現力が素晴らしいです。
文章を読むだけでその情景が目の前に見えるよう。
過去作品も読んできます!良作ありがとうございました!
44.100名前が無い程度の能力削除
なにこれすごい。好き。
45.100名前が無い程度の能力削除
これはいいなぁ、個人的には仙人組にはそこそこ仲良くしていて欲しい。
漬物を美味しくする秘術は是非ご教授賜りたいww
49.100名前が無い程度の能力削除
芳香はかわえーのう、と思ったら(ry な、何を(ry

芳香にしては物言いが所々不自然ではあっても予測は不可能だったように思うけど、騙されたので持ってけ。
それにしても、仙人ズがやたらおばさ……おや、誰か来たようだ……
50.100名前が無い程度の能力削除
みんな可愛くて大好きになりました
これは良いSS
52.90名前が無い程度の能力削除
行を空けずに展開が飛んだりちょっと混乱しましたが 惹き込まれるモノがありました
次回も楽しみにしてます!
55.100名前が無い程度の能力削除
漬物のくだりが雰囲気出ててよかった
59.無評価鹿路削除
わかりにくいところがあったみたいですね。申し訳ないです。
三人の絡みは、公式でも二次創作でも、もっと見てみたいところですねー。
63.100名前が無い程度の能力削除
偽芳香も含め三人とも素敵ですねぇ
戦いはしましたけど、
華扇と青娥の敵とも味方ともつかない関係が面白かったですし、もっと見てみたいと思いました
67.100名前が無い程度の能力削除
セイガの言い回しがいちいちツボに入りました。
こういう食えないキャラクターは物語を不思議と奥深くしてくれますね
70.1003削除
芳香がここまで魅力あるキャラだとは……(半分は青娥ですが)
読んでいてワクワクしました。この話はどう収まるんだろうと。
77.100クソザコナメクジ削除
面白かったです。
78.90名前が無い程度の能力削除
皆可愛い! 良かったです。