完璧な虹を見ることは難しい。
例え雨上りの空に虹の存在を見付けることが出来たとしても、多くの場合はその弧が途中で途切れていたり、遮蔽物に阻まれて全体像が見えなくなっていたりする。
地平線から延びるその七色の帯が、悠然と空を渡って再び地平線へと消え入るような。
そんな美しい光景に立ち会える機会が、人間の短い一生の内で一体どれだけ準備されているのだろうか。
もしかすると、完璧な虹などというものは、人間の心像風景の中だけでしか見ることが出来ないのではとすら思えてくる。
そして本当に、滅多に見ることが出来ないからこそ、人はそれを〝幻想的〟と感じるのかもしれない。
『虹』の漢字が虫偏なのは『蛇』に由来するということもまた、それと無関係ではないだろう。
蛇は不老不死の象徴であり、生命の源である水との関連が深い。
また『虹』を英訳した『rainbow』は、『雨の弓』を意味する。
まさに――〝幻想的〟だ。
しかし八雲紫にとって、その言葉の捉え方は少し間違っているように思えた。
完璧な虹は現実に存在する。
現実に存在する時点で、それはもう〝幻想〟ではない。
だから、だろうか。
その日、紫は絵に描いたような完璧な虹を目の当たりにしたが、その時彼女の胸にこれと言った感慨が込上げてくるようなことは決してはなかった。
時刻は夕刻の少し前。〝式〟に呼ばれて当時住んでいた屋敷の庭先に出てみると、空に巨大な虹が掛かっていた。
今日は朝からずっと小雨が降っていたのだが、どうやらそれも数分前に止んだようだった。
薄い雨雲の切れ間から、太陽の光が浅黄色のカーテンのように差し込んで、雨に濡れた深緑の幻想郷を優しく照らしている。
そしてその淡い光を受けながら、半円弧の頂点が遥か天界まで届いてしまいそうな程の見事な虹が、完全なアーチ状となって彼女の前に広がっていた。
ふと耳を澄ませば、家の屋根や木々の枝葉からポタポタと水滴の落ちる音が聞こえ、湿り気のある風は濃い青草の匂いを孕んで彼女の後方へと流れて行った。
それは恐らくこれ以上ないほどの荘厳な光景ではあったが、この時点では、彼女はそれが何か特別なものであるようには思えなかった。
その虹も、彼女にとっては大気中の水分によって分解された、ただの可視光線でしかなかった。
しかし、その虹を生み出すに至った自然の背景――雨の上がるタイミングや、その時の太陽の位置。気圧、風向、気温、湿度など――が、天文学的な偶然の確立によって重なり、一連の現象となってこの地上に顕現しているのだと考えた時、そこで初めて紫はこの世界の秩序とも呼べるその壮大なシステムに、身震いするほどの畏敬の念を覚えた。
そして、自分も何ともつまらない〝大人〟になってしまったのだな、とも。
――と。
「わあーっ! 凄いですね紫様!」
足元から少女の嬉々とした声が聞こえるのと同時に、紫は自分の着ていた導師服に引っ張られるような重みを感じて下を見た。
するとそこにはまだ幼い九尾の式――藍が紫のスカート部の裾に、しがみ付くように掴まっていた。
「ほら、藍。水溜りがあるから気を付けなさい」
紫は言うと、腰を折って藍を抱き上げた。
今の藍ほどの年頃はまだ式としての自覚が薄く、少し水に濡れただけでも式神が剥がれてしまう。
しかし、そんな紫の心配を余所に、藍は目の前に広がる光景にすっかり夢中になっているようだった。
穢れを知らない藍の金色の瞳が、そこに映る全てのものに魅入られてキラキラと輝いて見える。
この薄汚れた主人から、それが生まれたとは到底思えないな、と紫は内心でほくそ笑んだ。
いや或いは、自分が藍を生み出す時。彼女に式としての〝心〟を与えた時。それまで自分の中にあった、なけなしの綺麗な部分を、私はごっそり彼女に与えてしまったのかもしれない。
そう思うと、紫は藍に例えようのない愛おしさが込上げてきて、彼女を抱く腕に少しだけ力を籠めた。
自分の思弁の中から生まれた藍はある意味で、彼女の分身と言っても良い。
その藍が、こんなにも純粋無垢でいることが、紫には何よりも嬉しかった。
だが、いずれはこの子も自分のようになってしまうのかと思うと、紫は途端に怖くなった。
紫は黙ったまま、藍の顔を覗き見た。
藍はそれがまさに童心といった様子で、嬉しそうに虹を見つめている。
目に見える、全てのものが大発見で。
これから訪れる、あらゆる未来が未知の経験で。
しかしそんな彼女も、いつかは氷のように冷たい目をして、無感動に日々を送るようになってしまうのだろうか?
――この子に出会う前の、自分のように。
決してこの子には、自分のようにはなってほしくない。
紫は空いていた左手を伸ばして、そっと藍の頬に触れた。
藍は気持ちよさそうに目を細め、やがて自分の方から紫の掌に頬ずりし始めた。
この純真な彼女に、この世界の汚れた負の部分など見せたくない。
紫は心からそう思った。
そんなものなど知らずに、生きていてほしい。
綺麗なもの、美しいものだけを見て育ってほしい。
この、地上で最後の理想郷で――。
それはある日の昼下がり。
スキマ妖怪の式――八雲藍は屋敷の縁側で読書に没頭する主人の傍らに立ちながら、静かに物思いに耽っていた。
そこは幻想郷のどこかに存在するという、八雲紫の邸宅。
しかしそれが、この幻想郷の一体どこに存在するのかを知る者は一人もいなかった。
博麗神社と同じく、幻想郷と外の世界の狭間に存在していると言う者もいれば、艮の方角に存在していると言う者もいる。
実際のところ、そこに住まう藍自身にも、ここが幻想郷のどこに位置しているのかなど全く検討も付かなかった。
いや、本当はこの場所は、幻想郷のどこにも存在していないのではないかと藍は思っていた。
何故なら、境界や結界によって隔離された空間にしては、ここの風景はあまりにも〝完璧〟だったからだ。
吹き抜けるような高い青空の下、生い茂る木々は風と戯れ、どこか楽しげに枝を揺らす。
仄かに香る花の甘さに目を閉じれは、風の囁きの奥に、優しく響く小川のせせらぎを聞き取ることも出来る。
これほどまでに自然の壮美を凝縮させたような空間が、本当に天然のものだとは藍にはどうしても思えなかった。
そう。これは高度に計算化された、気の遠くなるような原因と結果の連続。その演算の果てに生まれた〝形作られた世界〟なのではないか。
そう考える方が、藍にとっては自然だった。
そしてそう考えれば考えるほど、藍は自らの主人である紫に対して、深い尊敬の念を抱かずにはいられない。
藍は無言のまま、先程からじっと本に目を落とす、紫の様子を盗み見た。
光沢のあるブロンドの長髪に、端正な目鼻立ち。思慮深い瞳を文面に向けて、品性の感じられる淑やか仕草で頁を繰るその姿は、匂い立つような優美さがあった。
太陽の下で映えるその純白の導師服も、彼女の女性的な魅力をより引き出しているようにも思える。
もしも幻想郷の住人が今の彼女の姿を目の当たりにしたならば、その誰しもが、彼女の持つ〝妖怪の賢者〟の二つ名の正しさを思い知ったことだろう。
尤も、これが驚異の二〇時間睡眠の後であることを度外視すれば、だが。
「紫様」
それまでの静寂を破って、藍は紫に声を掛けた。
紫は本に顔を向けたまま、
「何かしら」
と素っ気なく答えた。
「つかぬ事を訊いてもよろしいでしょうか?」
「ええ。いいわよ」
簡素とも言える紫の返事。
しかし藍は若干顔を強張らせて、やがて意を決したように言った。
「どうして紫様は、橙に〝八雲〟の姓を名乗らせることを許しては下さらないのですか?」
それは予てから、藍が胸の内に秘めていた一つの疑問だった。
藍がその能力によって使役する、黒猫の式神――橙。
まだ幼い子供ではあるが、式として扱う限りは、八雲の式としての自覚と誇りを持たせてやりたい。
藍はずっと前からそう考えていた。
しかしどういう訳か、紫は橙に〝八雲〟の姓を名乗らせようとはしない。
それはもしや、自らの主である紫が、橙のことを疎ましく思っているのではないかと考えると、藍は居ても立ってもいられない気持ちになるのだった。
紫の返答を、固唾を飲んで待つ藍。
彼女はそれまで本の文脈を追っていた紫の瞳が、一瞬だけ止まったことを見逃さなかった。
それから少し間があって、紫は一言だけ答えた。
「……橙にはまだ必要ないわ」
「どうしてなのですか?」
藍は思わず、捲し立てるように言った。
「確かに橙はまだ幼い式ですが、それでも立派な妖獣です。私はあの子に、誉れ高い〝八雲〟の姓を与え、自らの存在に自信を持たせてやりたいのです。そうすれが、橙もその名に恥じぬ式を目指し、より一層の精進を――」
橙のことになると、ついつい感情的になってしまうのが藍の悪癖だった。
しかしそこまで言いかけて、藍は口を噤んだ。
紫が苛立った様子で、それまで読んでいた本をパタンと音を立てて閉じたのだ。
「くどいわよ、藍」
「……しかし」
「私の言ったことが分からない?」
「……いえ」
語気を強めた紫に、藍は恭しく頭を垂れた。
到底納得は出来ないが、今は従う他ない。
そうしてそのまま藍が押し黙っていると、紫が大きく溜息を吐いた。
「確か、今日は貴女に白玉楼に向かうよう言いつけていたはずだけど?」
「はい。ですが――」
「すぐに行きなさい」
それは暗に、もうこの話はこれで終いであるという紫の意志が込められていた。
またいつになく厳しい口調になった紫に、藍は自分がそんなに声を荒げさせるほど、彼女の琴線に触れるようなことを言ったのだろうか、と思った。
しかし、ここは触らぬ神に祟りなしだ。
藍は改めて一礼すると、そのまま紫の側を辞した。
告知していた時刻にはまだ少し早いが、白玉楼の住人とは長い付き合いだ。
ちゃんと理由を説明すれば、幽々子への謁見の時間まで中で待たせてもらえるだろう。
藍は屋敷の玄関から外に出ると、勢いよく飛翔して冥界の白玉楼へと向かった。
「……まったく。藍ったら」
幻想郷の空を風上に、幽明結界を越えた先に冥界は存在する。
そこは閻魔の裁きを受けた霊魂が、成仏するか転生するかを待つ間に駐屯する場所であり、その最奥部にはこの冥界の管理者である西行寺幽々子の住まう日本屋敷――白玉楼があった。
藍はそこで働く小間使いの幽霊によって、白玉楼の中庭に面した和室の一つに通された。
そこは広さが十五畳ほどの畳敷きの小部屋で、中央には雅な漆塗りの座卓が鎮座している。
藍がそこに正座して座ると、それまで藍を案内していた幽霊は静かに部屋から退出し、それと入れ替わるような格好で、この白玉楼の半人半霊の庭師――魂魄妖夢が湯呑の乗ったお盆を持って現れた。
「すまないな、予定よりこんなに早くて」
藍が言うと、妖夢は笑みを返した。
「いえ、構いませんよ」
そして妖夢はそのまま座卓の前まで進み、藍にお茶を出してから、自分は座卓を挟んで藍の対面に座った。
そこで初めて藍は気付いたのだが、今藍の座っている方が、この部屋の上座だった。
藍は出されたお茶をまず一口啜り、少し照れたように言った。
「こうして客人扱いされるのは、慣れないものだな」
すると妖夢は小さく笑って、
「かもしれませんね。あ、部屋のお香は消した方が良いですか?」
「お香?」
妖夢に言われて藍が部屋中を見渡すと、その隅の方でお香が焚かれているのが目に入った。
恐らく、鼻の利く自分を気遣ってのことだろう。
藍は妖夢に向き直ると、首を振って答えた。
「いや、大丈夫だ。本当にすまないな」
言いながらも、藍はこの白玉楼の住人の行き届いた気配りと持て成しに、只々感心する一方だった。
それが延いては幽々子の評判に関わることを、それぞれが十分に理解しているのだろう。
自らも主に仕える一人の従者として、藍はその心持ちを維持し続けることがどれだけ大変なことかを知っていた。
「それで? 藍さんがこうして予定を繰り上げて参られたのにも、何か理由があるのでしょう?」
と、どこか期待するような声色で妖夢が言った。
藍は頷き、
「ああ。実はな……」
そして藍は、ここに至るまでの紫とのやり取りについて話し始めた。
妖夢はそれに興味津々といった様子で耳を傾けながら、時折藍に相槌を入れる。
こんな井戸端会議にも似た、互いの主人に対する愚痴の溢し合いや相談をすることの楽しさも、従者同士だからこそ分かり合えるものの一つだった。
一通りの事の顛末を藍が話し終えると、妖夢は難しい顔で腕を組んだ。
「〝八雲〟の姓……ですか」
「ああ。どうして紫様は、橙にそれを名乗ることを許して下さらないのだろうか……」
嘆くように藍が言うと、妖夢が腕を組んだまま言った。
「私も、魂魄家に代々伝わる白楼剣を帯刀することを許された時は、流石に身に余る思いでいっぱいでした。今でも、あの柄に手を掛ける時は神経が張り詰めるような感覚を覚えます。『これを抜くからには』、と」
成程、と藍は頷いた。
確かに妖夢は本来二刀流の使い手だが、普段の弾幕ごっこでは楼観剣のみで立ち回っている。白楼剣を抜くのは、特別な【スペルカード】を使用する時くらいのものだ。
妖夢は続けた。
「きっと紫様も、今の橙さんには〝八雲〟の姓を名乗るのはまだ荷が重いと思っているのですよ。藍さんがそれを許されたのはいつぐらいの時なのですか?」
言われてみれば、と藍は思い出したように言った。
「あれは確か、私が橙を式として迎えた頃だったな」
「ほらやっぱり」
嬉しそうに顔を綻ばせた妖夢。
しかし藍はまだ納得のいかない様子で、
「だが、それなら紫様も、そうだと素直に言って下さると思うんだ。なのにあの怒りよう。私には、他にまだ理由があるとしか思えないんだよ」
そしてそのまま、藍は「ん~」と低く唸りながら座卓に突っ伏した。
妖夢も再び考え込み、そのまま暫く無言の時間が流れた。
数分が経ち、先に口を開いたのは妖夢だった。
「少し空気を換えましょうか」
言いながら妖夢は立ち上がると、和室の中庭に面した方の障子を開けた。
そこで藍も顔を上げ、中庭の方を見やる。
そこにはいつもながら見事に整備された、枯山水の庭園が広がっていた。
枯れた山水と書くその名の如く、枯山水は水を一滴も使わずに、水の流れを表現した様式のことを指す。
庭一面に敷かれた砂利には水流を表す幾本もの筋が引かれており、それが効果的に配置された石や松などを避けるようにして流れる様子は、まさに川の流れのそれに近かった。
そしてその柔らかいタッチと、全体性を伴った造形美は、この庭を愛する主人の趣の深さを感じさせる。
しかしそれは白玉楼の庭師たる妖夢の功績であり、藍は彼女の労を讃える意味で、
「いつ見ても、美しい庭だな」
と言った。
しかし妖夢はにっこりとほほ笑んで、
「はい。幽々子様のお気に入りのお庭ですから」
と答えた。
藍は思わず失笑した。
(相変わらずだな、妖夢は)
しかし、そういうところが妖夢らしいと言えば妖夢らしい。
(それに比べて私ときたら……)
藍は座卓に頬杖を突いて、黙考した。
(私は紫様を疑い過ぎなんだろうか……?)
余りにも従者然とした妖夢の姿に、藍はそう思った。
少し、紫様のことを勘繰り過ぎたのかもしれない。
紫様には紫様のお考えがあるのだろうし、それを私が自らの領分も弁えず、出過ぎた発言をしたのがいけなかった。
きっとそれが、紫様を怒らせてしまった原因なのだろう。
そう考えると、藍は胸に閊えていた思いが晴れた気がして、つい安堵の息が漏れた。
そして藍は、妖夢に礼を言おうとして――。
「あらあら~。誰かと思えば紫の式じゃない」
和室の戸口から聞こえてきた声に、肩をビクンと震わせた。
藍と妖夢が驚いてその声のした方向を見ると、そこには白玉楼の主であり、亡霊の西行寺幽々子が立っていた。
「幽々子様、いつからそこに!?」
「ふふふ~。いつからでしょう?」
仰天した様子の妖夢に、意味深な笑みで返す幽々子。
妖夢が慌てて言った。
「すぐに幽々子様の分のお茶もご用意しますね!」
そしてそれを言い終えるかしない内に、部屋を飛び出して言った妖夢。藍はその間にも、席を立って幽々子に上座を譲った。
幽々子は妖夢の背中を目で追ってから、藍に向き直って、
「温めておいてくれたのかしら?」
「ええ。この自慢の尻尾で入念に」
答えながらも、藍は内心で戦戦恐恐としていた。
無理もない。紫とは旧知の仲である幽々子に、自分の紫に対する愚痴を聞かれていたかもしれないのだから。
しかし幽々子はそんな藍の焦燥感を弄ぶように言った。
「でも残念。私って、体温無いから」
その返事を、藍は〝心無い〟の比喩と捉えて気が遠くなる思いがした。
藍が去ってから、紫はそれで何度目かの溜息を漏らした。
先程の藍とのやり取りが、胸に引っ掛かって仕方がない。
(少し大人気なかったかしら?)
紫はそれまで読み進めていた本を一先ず閉じて、伸びをした。
(でも、藍も藍よね)
紫は先の藍の台詞を思い返す。
〝八雲〟の姓。それを〝誉れ〟や〝誇り〟と絡めて語られたことが、紫は実に気に食わなかった。
確かにそれらと結び付けて考えてしまうのも仕方がないが、紫は藍だけには、〝八雲〟の姓をそういう風に解釈してほしくなかった。
それを考えると、少し力を持ち過ぎたのだろうかとすら思えてくる。
紫はまた再び、深い深い溜息を吐いた。
強過ぎる力や輝かしい功績は、それを持つ者にも、人並みの〝心〟が備わっていることを忘れされてしまう。
どんな偉人賢人も、嬉しければ笑い、悲しければ泣くのだ。
そして〝八雲〟の姓に込められた意味もまた、それと同じ。
紫は決して、そこにそんな大仰な意味合いを持たせたつもりはない。
そこにあるのはもっと単純で、もっと大切な、彼女のたった一つの〝願い〟だ。
(自分でも、大層女々しいことだと思うわよ。でも――)
紫は空を仰いだ。
(これ以上に尊いことなんて、他に何があると言うの?)
紫は立ち上がると、目の前に移動用の〝スキマ〟を開いた。
こんな気持ちを、いつまでも抱えてはいられない。
紫は口元を引き締めると、その〝スキマ〟を潜った。
行先は、彼女とのあの思い出の場所――。
幽々子の登場により、白玉楼の一室は独特の雰囲気をもつ空間に様変わりしていた。
座卓を挟んで、その上座には妖夢を背後に控えさせた幽々子が、下座にはすっかり畏まった様子の藍が座っている。
幽々子は妖夢の淹れてきた緑茶を少し飲んでから、ころころと笑った。
「そんなこと言って、紫が怒るのも無理もないわ」
「……はい」
藍はしょんぼりと答え、幽々子の後ろの妖夢の顔を見つめた。
妖夢は姿勢を崩さずに、顔だけで「すみません」と訴えてくる。
先程の妖夢との話を、幽々子から紫に告げられてしまっては、その先自分がどうなるか。
藍はその耳も尻尾も力なく、だらりと寝かせて肩を落とした。
いや、厳密にはあの話の内容自体には毒は無い。しかしそれを伝える過程で、それがまるで伝言ゲームのように、過大表現や様々な脚色が施されてしまうのは〝よくあること〟だ。
(今日は只でさえ紫様の機嫌を損ねてしまったというのに、その上こんなことになってしまっては……)
藍は明日の我が身の健在を祈った。
「幽々子様は、紫様のお怒りの原因を知っておられるのですか?」
と、そこで話を前に進めるべく妖夢が発言した。
半ば自暴自棄になっていた藍にとっては、有り難いフォローだった。
妖夢の言葉に、幽々子は「まぁね」と短く答えてから、少し考える素振りを見せた。
「簡単に説明しようと思えば一言で済むのだけど、それも面白味がないわね」
そして幽々子は徐に右手を伸ばし、その人差し指を後ろの妖夢に向けた。
「ピチューン」
若干の沈黙。
「妖夢は死にました。1ボスの私に敗れて」
「ええっ!?」
たちまち妖夢が素っ頓狂な声を上げた。
藍は顔を引き攣らせながら、
「幽々子様、貴女様がそれを言うと全く洒落になりません。妖夢、そんな足を探さなくても大丈夫だ」
幽々子は未だ錯乱する妖夢の様子を楽しげに見ながら、語り部口調で、
「ああ可哀想な妖夢。彼女の葬儀はしめやかに執り行われます」
「……続けるのですか」
「白玉楼の麗しい主は言いました。『妖夢は天に召されたのね』」
「貴女が妖夢を殺めたのでしょう? それに、召される先もこの冥界では?」
幽々子はそこで一旦言葉を切り、試すような目付きになって藍を見た。
「藍、気付いたかしら?」
突然そんな視線を向けられても、と藍は困った顔で答えた。
「何にですか?」
幽々子は急に厳かな声色になって、
「妖夢の魂は三途の川を渡って彼岸へと向かい、肉体だけがこの現世に残る。だけど一体誰が、地上に残されたその肉体を指して、それを妖夢だと呼ぶかしら?」
「それはあくまで〝妖夢の〟肉体だと?」
「そうよ」
幽々子は頷いた。
「肉体は結局は器。その本質である魂が失われたとき、肉体はただの物体でしかない。そしてそれは、決して妖夢ではない。妖夢の魂は天に召されたのだから。つまり人物にとっての〝名〟とは、その〝魂〟に付けられた名ということなの」
力強く言った幽々子。しかし藍は頭上に疑問符を浮かべた。
確かに遠大で為になる話かもしれないが、ここで議論されるべきは〝姓〟であり〝名〟ではない。
その者の名が魂に付けられたものであるのは良いとして、では果たして〝姓〟とは何なのか。
藍は幽々子の言葉を待った。
「そして今度は〝姓〟の方だけど、妖夢の肉体は死後、どうなるのかしら?」
「それは埋葬されるでしょう」
藍は事も無げに答えた。
「どこのお墓に?」
「それは〝魂魄家〟の……あっ!」
はっとした藍に、幽々子は言った。
「そう。つまり〝姓〟とは、その肉体に付けられるもの。しかし肉体が個人によって個別なのは明白。だからその意味で〝姓〟とは、家系や血脈などの〝繋がり〟を示す一種の付箋の役割を果たす。――さぁここからが問題よ、藍」
幽々子は言うと、懐から扇を取り出してそれを開いた。
そしてそれを自分の口の前へと持っていき、顔の下半分を隠す。
幽々子の知的な双眸が、藍の胸を射抜いた。
「紫は貴女と、〝姓〟を分けることで〝繋がり〟を求めた。〝八雲〟という枠組みの中に、貴女を招いたと言っても良い。それは何故だと思う?」
幽々子に尋ねられて、藍は頭を大車輪のように回転させて熟考した。
しかし分からない。紫が自分に何を求めたかなど、それは本人にしか分からないことだ。
悩む藍に、幽々子が助け船を出した。
「聞き方を変えましょう。貴女は〝八雲〟の姓を受けて、紫と同じ枠組みの中に入った。でも、橙はまだその枠には入れない。考えて、藍。貴女と紫にあって、橙に無いものを。その違いこそが、〝八雲〟の姓の証明するところのものなのだから」
(私と紫様にあって、橙に無いもの?)
藍は自分の知る、橙のあらゆる部分を列挙してそれを自分と照らし合わせた。
しかし、やっぱり答えは出てこない。
藍は橙を生み出すとき、彼女を自分に似せて生み出した。
藍は橙の思考ルーチンもアルゴリズムも、全て理解している。
だからこそ、これだけはハッキリ分かっているのだ。
橙に、自分と比べて足りないものは何も無いと。
もしそれがあるとするならば、それは〝個性〟の違い。
(まさか紫様、貴女は〝個性〟の問題で橙を、〝八雲〟の枠から外そうと言うのですかっ!!)
途端に、藍の胸に激しい怒りの感情が爆発的に広がっていった。
血液が沸き立つように煮えあがり、怒りが沸点を越えて藍の脳内を掻き乱す。
しかしそこに冷や水を掛けたのは、例によって幽々子だった。
「藍、落ち着きなさい。あまり私を失望させないで」
幽々子は言うと、藍の頬にその冷たい掌を当てた。
亡霊の掌の冷たさは、まさに冷や水と同じだった。藍は我に返り、目を白黒させる。
幽々子は呟くように言った。
「知らぬは亭主ばかりなり、ね」
「どういうことなのですか幽々子様」
詰め寄るように言った藍に、幽々子は微笑を浮かべた。
「ずっと気が付かなかったのね、藍。貴女が橙を見る時の顔、貴女がまだ橙くらいの年頃だった時の、紫の顔にそっくりよ?」
瞬間、藍の意識は弾けた。
(ああ――)
紫様は凄いの。
藍に出来ないことも全部出来て、藍が知らないことは何でも知ってるの。
それにすっごく優しいの。
藍が初めて妖術に成功した時も、いっぱい褒めてくれたの。
藍が初めて風邪をひいた時も、ずっと側で看病してくれたの。
紫様は藍のご主人様だけど、まるで――。
――まるで藍のお母さんみたい。
紫様に手を引かれながら歩く、いつもの散歩道。
私は少し前を行く紫様を見つめながら、その日の出来事を報告した。
私の歩く速度に歩調を合わせながら、紫様は笑顔で私の話を聞いてくれた。
「今日は幽香様の向日葵畑で、幽香様に紫様のお話をいっぱいしたんですよ」
「あら、どんなことを話したの?」
「えへへ。内緒です」
それを紫様に言うのは何だかすごく気恥ずかしくて、私ははにかんだ。
すると紫様は「もー」と、しかしとても嬉しそうに答えた。
紫様のそんな嬉しそうな顔を見ていると、不思議と私も嬉しくなって、私はついつい紫様と繋いだ手を大きく何度も振った。
遠心力が、私達の手に圧を掛ける。
しかし紫様はその大きな手で私の手をしっかりと包み込んで、離れないように繋ぎ止めてくれている。
そのことがまた嬉しくて、握られる手が温かくて。
それがさっき、幽香様に話した紫様のことと重なって。
だからつい、口を突いて出てしまったのだ。
「あの、お母さ――」
そこまで言いかけて、私は咄嗟に語尾を濁した。
恥ずかしくて恥ずかしくて、私は顔を伏せた。
いや、厳密には、怒られるのでは、と思った。
私が紫様を母親のように思っていたのは事実だったが、紫様が私の主人なのだという認識もまた、私の中にはあった。
そしてそれが、とても大事なことなのだとも。
そんな大事なことを言い間違えて、紫様は怒っていないだろうか?
私が黙り込んでいると、紫様が口を開いた。
「どうしたの藍? いいのよ?」
そして紫様は膝を曲げて、私の顔を下から覗き込むように見た。
私は慌てて顔を背けた。
紫様は言った。
「藍、私の顔を見て御覧なさい? 怒ってるように見える?」
紫様に促されて、私は恐る恐る紫様の顔を見て、そして息が詰まった。
紫様は、笑っていた。とても幸せそうな顔で。今まで見たこともないほどの、満面の笑みで。
その顔を見ていると、どういう訳か、私は涙が溢れてきて、それが止められなくなって。
ただ漠然と嬉しかった。それ以外、言葉にしようが無かった。
私はまるでそう誘われたかのように、紫様に抱き着いた。
紫様は優しく私を抱き留め、宥めるように背中を摩ってくれた。
いつまでもいつまでも、私が泣き止むまで。
あの時の紫の顔は、今でも鮮明に覚えている。
『貴女が橙を見る時の顔、貴女がまだ橙くらいの年頃だった時の、紫の顔にそっくりよ?』
幽々子のその言葉が、藍の頭の奥で何度も反復された。
(紫様……)
気が付いた時、藍は泣いていた。
幽々子と妖夢の目があるのにも関わらず、藍は泣いていた。
(貴女は――)
――あの時、本当に幸せだったのですね……。
そして藍はそのままその場に泣き崩れた。
自分が橙の側にいて感じる感情。幸福感。それと同じものをあの日、紫も同様に感じていたのだ。
藍は感極まって、もうどうしようもなく涙が溢れてきた。
この涙で、式神が剥がれてしまったらどうしよう。
そう思うと、また胸が締め付けれる思いがして、藍は漏れ出る嗚咽を止めることが出来なかった。
気が付くと、もう夕暮れになっていた。
紫はそれまで自分が腰掛けていた切り株から腰を上げた。
そこは太陽の畑と人間の里とを結ぶ、一本の道。
他のどこにでもありそうな何の変哲もない道ではあったが、紫にとっては思い出深い場所だった。
この道を、いつまでも泣き止まない藍を抱っこしながら歩いたことを、今でも昨日のことのように覚えている。
と、紫はその道の先に、見慣れた人影を見付けた。
沈みゆく茜色の太陽に照らされながらそこにいたのは、白玉楼に遣いに出したはずの藍だった。
「やはりここにいたのですね、紫様」
紫が藍に近付くと、藍はぎこちなく笑って言った。
紫はそんな藍の顔に、涙の跡を見付けて、理解した。
彼女にはそれで十分だった。
「幽々子が喋ったのね」
紫が問い掛けると、藍は頷いた。
「はい」
「……そう」
紫は言うと、藍を見て、空を見て、そしてまた藍を見て息を吐いた。
そして彼女に向って、少し控えめに手を伸ばす。
「帰りましょうか、藍」
「……はい」
藍は答えると、紫の手を取った。
こうして二人並んで歩くのは、何百年振りだろうか。
紫はあの日を記憶に想いを馳せた。
あの日の藍の言葉を――。
ようやく泣き止んだ藍は、紫の肩に顎を乗せ、未だ上ずった声で言った。
「紫様……」
「なに? 藍」
紫が返事をすると、彼女は自分の首元に回された藍の腕に、僅かに力が籠ったのを感じた。
「藍も、いつかは紫様のような優しいお母さんになりたいです」
「ええ。藍ならきっとなれるわ」
紫は、本心からそう思って答えた。
あれから数百年。
紫は隣を歩く藍の顔を盗み見た。
藍、貴女は私以上に、立派なお母さんになったわ。
その証として、〝八雲〟の姓(こんなもの)しか与えられなくてごめんなさい。
だけど忘れないで。
貴女が例え幾つになっても、貴女は私の娘なのよ?
紫は心の中で、そっと藍に語り掛けた。
貴女が私をお母さんと呼んでくれた時、私は本当に嬉しかった。
そして藍。私は貴女とは決して血は繋がっていないけれど、私は時に、私と貴女はへその緒で繋がっていたんじゃないかと思うことがある。
貴女が橙を通して、私が知る、この世界で最も美しいものを通して幸せを感じる時、その幸せは私と貴女の間にあるその見えない絆を通じて、私にも伝わるわ。
だからどうか藍。いつの日か私がこの世界から姿を消しても、〝八雲〟の姓は、しっかりと後世に残してほしい。
貴女が私といて感じた、そして橙といて感じている幸せを、そこに添えて――。
例え雨上りの空に虹の存在を見付けることが出来たとしても、多くの場合はその弧が途中で途切れていたり、遮蔽物に阻まれて全体像が見えなくなっていたりする。
地平線から延びるその七色の帯が、悠然と空を渡って再び地平線へと消え入るような。
そんな美しい光景に立ち会える機会が、人間の短い一生の内で一体どれだけ準備されているのだろうか。
もしかすると、完璧な虹などというものは、人間の心像風景の中だけでしか見ることが出来ないのではとすら思えてくる。
そして本当に、滅多に見ることが出来ないからこそ、人はそれを〝幻想的〟と感じるのかもしれない。
『虹』の漢字が虫偏なのは『蛇』に由来するということもまた、それと無関係ではないだろう。
蛇は不老不死の象徴であり、生命の源である水との関連が深い。
また『虹』を英訳した『rainbow』は、『雨の弓』を意味する。
まさに――〝幻想的〟だ。
しかし八雲紫にとって、その言葉の捉え方は少し間違っているように思えた。
完璧な虹は現実に存在する。
現実に存在する時点で、それはもう〝幻想〟ではない。
だから、だろうか。
その日、紫は絵に描いたような完璧な虹を目の当たりにしたが、その時彼女の胸にこれと言った感慨が込上げてくるようなことは決してはなかった。
時刻は夕刻の少し前。〝式〟に呼ばれて当時住んでいた屋敷の庭先に出てみると、空に巨大な虹が掛かっていた。
今日は朝からずっと小雨が降っていたのだが、どうやらそれも数分前に止んだようだった。
薄い雨雲の切れ間から、太陽の光が浅黄色のカーテンのように差し込んで、雨に濡れた深緑の幻想郷を優しく照らしている。
そしてその淡い光を受けながら、半円弧の頂点が遥か天界まで届いてしまいそうな程の見事な虹が、完全なアーチ状となって彼女の前に広がっていた。
ふと耳を澄ませば、家の屋根や木々の枝葉からポタポタと水滴の落ちる音が聞こえ、湿り気のある風は濃い青草の匂いを孕んで彼女の後方へと流れて行った。
それは恐らくこれ以上ないほどの荘厳な光景ではあったが、この時点では、彼女はそれが何か特別なものであるようには思えなかった。
その虹も、彼女にとっては大気中の水分によって分解された、ただの可視光線でしかなかった。
しかし、その虹を生み出すに至った自然の背景――雨の上がるタイミングや、その時の太陽の位置。気圧、風向、気温、湿度など――が、天文学的な偶然の確立によって重なり、一連の現象となってこの地上に顕現しているのだと考えた時、そこで初めて紫はこの世界の秩序とも呼べるその壮大なシステムに、身震いするほどの畏敬の念を覚えた。
そして、自分も何ともつまらない〝大人〟になってしまったのだな、とも。
――と。
「わあーっ! 凄いですね紫様!」
足元から少女の嬉々とした声が聞こえるのと同時に、紫は自分の着ていた導師服に引っ張られるような重みを感じて下を見た。
するとそこにはまだ幼い九尾の式――藍が紫のスカート部の裾に、しがみ付くように掴まっていた。
「ほら、藍。水溜りがあるから気を付けなさい」
紫は言うと、腰を折って藍を抱き上げた。
今の藍ほどの年頃はまだ式としての自覚が薄く、少し水に濡れただけでも式神が剥がれてしまう。
しかし、そんな紫の心配を余所に、藍は目の前に広がる光景にすっかり夢中になっているようだった。
穢れを知らない藍の金色の瞳が、そこに映る全てのものに魅入られてキラキラと輝いて見える。
この薄汚れた主人から、それが生まれたとは到底思えないな、と紫は内心でほくそ笑んだ。
いや或いは、自分が藍を生み出す時。彼女に式としての〝心〟を与えた時。それまで自分の中にあった、なけなしの綺麗な部分を、私はごっそり彼女に与えてしまったのかもしれない。
そう思うと、紫は藍に例えようのない愛おしさが込上げてきて、彼女を抱く腕に少しだけ力を籠めた。
自分の思弁の中から生まれた藍はある意味で、彼女の分身と言っても良い。
その藍が、こんなにも純粋無垢でいることが、紫には何よりも嬉しかった。
だが、いずれはこの子も自分のようになってしまうのかと思うと、紫は途端に怖くなった。
紫は黙ったまま、藍の顔を覗き見た。
藍はそれがまさに童心といった様子で、嬉しそうに虹を見つめている。
目に見える、全てのものが大発見で。
これから訪れる、あらゆる未来が未知の経験で。
しかしそんな彼女も、いつかは氷のように冷たい目をして、無感動に日々を送るようになってしまうのだろうか?
――この子に出会う前の、自分のように。
決してこの子には、自分のようにはなってほしくない。
紫は空いていた左手を伸ばして、そっと藍の頬に触れた。
藍は気持ちよさそうに目を細め、やがて自分の方から紫の掌に頬ずりし始めた。
この純真な彼女に、この世界の汚れた負の部分など見せたくない。
紫は心からそう思った。
そんなものなど知らずに、生きていてほしい。
綺麗なもの、美しいものだけを見て育ってほしい。
この、地上で最後の理想郷で――。
それはある日の昼下がり。
スキマ妖怪の式――八雲藍は屋敷の縁側で読書に没頭する主人の傍らに立ちながら、静かに物思いに耽っていた。
そこは幻想郷のどこかに存在するという、八雲紫の邸宅。
しかしそれが、この幻想郷の一体どこに存在するのかを知る者は一人もいなかった。
博麗神社と同じく、幻想郷と外の世界の狭間に存在していると言う者もいれば、艮の方角に存在していると言う者もいる。
実際のところ、そこに住まう藍自身にも、ここが幻想郷のどこに位置しているのかなど全く検討も付かなかった。
いや、本当はこの場所は、幻想郷のどこにも存在していないのではないかと藍は思っていた。
何故なら、境界や結界によって隔離された空間にしては、ここの風景はあまりにも〝完璧〟だったからだ。
吹き抜けるような高い青空の下、生い茂る木々は風と戯れ、どこか楽しげに枝を揺らす。
仄かに香る花の甘さに目を閉じれは、風の囁きの奥に、優しく響く小川のせせらぎを聞き取ることも出来る。
これほどまでに自然の壮美を凝縮させたような空間が、本当に天然のものだとは藍にはどうしても思えなかった。
そう。これは高度に計算化された、気の遠くなるような原因と結果の連続。その演算の果てに生まれた〝形作られた世界〟なのではないか。
そう考える方が、藍にとっては自然だった。
そしてそう考えれば考えるほど、藍は自らの主人である紫に対して、深い尊敬の念を抱かずにはいられない。
藍は無言のまま、先程からじっと本に目を落とす、紫の様子を盗み見た。
光沢のあるブロンドの長髪に、端正な目鼻立ち。思慮深い瞳を文面に向けて、品性の感じられる淑やか仕草で頁を繰るその姿は、匂い立つような優美さがあった。
太陽の下で映えるその純白の導師服も、彼女の女性的な魅力をより引き出しているようにも思える。
もしも幻想郷の住人が今の彼女の姿を目の当たりにしたならば、その誰しもが、彼女の持つ〝妖怪の賢者〟の二つ名の正しさを思い知ったことだろう。
尤も、これが驚異の二〇時間睡眠の後であることを度外視すれば、だが。
「紫様」
それまでの静寂を破って、藍は紫に声を掛けた。
紫は本に顔を向けたまま、
「何かしら」
と素っ気なく答えた。
「つかぬ事を訊いてもよろしいでしょうか?」
「ええ。いいわよ」
簡素とも言える紫の返事。
しかし藍は若干顔を強張らせて、やがて意を決したように言った。
「どうして紫様は、橙に〝八雲〟の姓を名乗らせることを許しては下さらないのですか?」
それは予てから、藍が胸の内に秘めていた一つの疑問だった。
藍がその能力によって使役する、黒猫の式神――橙。
まだ幼い子供ではあるが、式として扱う限りは、八雲の式としての自覚と誇りを持たせてやりたい。
藍はずっと前からそう考えていた。
しかしどういう訳か、紫は橙に〝八雲〟の姓を名乗らせようとはしない。
それはもしや、自らの主である紫が、橙のことを疎ましく思っているのではないかと考えると、藍は居ても立ってもいられない気持ちになるのだった。
紫の返答を、固唾を飲んで待つ藍。
彼女はそれまで本の文脈を追っていた紫の瞳が、一瞬だけ止まったことを見逃さなかった。
それから少し間があって、紫は一言だけ答えた。
「……橙にはまだ必要ないわ」
「どうしてなのですか?」
藍は思わず、捲し立てるように言った。
「確かに橙はまだ幼い式ですが、それでも立派な妖獣です。私はあの子に、誉れ高い〝八雲〟の姓を与え、自らの存在に自信を持たせてやりたいのです。そうすれが、橙もその名に恥じぬ式を目指し、より一層の精進を――」
橙のことになると、ついつい感情的になってしまうのが藍の悪癖だった。
しかしそこまで言いかけて、藍は口を噤んだ。
紫が苛立った様子で、それまで読んでいた本をパタンと音を立てて閉じたのだ。
「くどいわよ、藍」
「……しかし」
「私の言ったことが分からない?」
「……いえ」
語気を強めた紫に、藍は恭しく頭を垂れた。
到底納得は出来ないが、今は従う他ない。
そうしてそのまま藍が押し黙っていると、紫が大きく溜息を吐いた。
「確か、今日は貴女に白玉楼に向かうよう言いつけていたはずだけど?」
「はい。ですが――」
「すぐに行きなさい」
それは暗に、もうこの話はこれで終いであるという紫の意志が込められていた。
またいつになく厳しい口調になった紫に、藍は自分がそんなに声を荒げさせるほど、彼女の琴線に触れるようなことを言ったのだろうか、と思った。
しかし、ここは触らぬ神に祟りなしだ。
藍は改めて一礼すると、そのまま紫の側を辞した。
告知していた時刻にはまだ少し早いが、白玉楼の住人とは長い付き合いだ。
ちゃんと理由を説明すれば、幽々子への謁見の時間まで中で待たせてもらえるだろう。
藍は屋敷の玄関から外に出ると、勢いよく飛翔して冥界の白玉楼へと向かった。
「……まったく。藍ったら」
幻想郷の空を風上に、幽明結界を越えた先に冥界は存在する。
そこは閻魔の裁きを受けた霊魂が、成仏するか転生するかを待つ間に駐屯する場所であり、その最奥部にはこの冥界の管理者である西行寺幽々子の住まう日本屋敷――白玉楼があった。
藍はそこで働く小間使いの幽霊によって、白玉楼の中庭に面した和室の一つに通された。
そこは広さが十五畳ほどの畳敷きの小部屋で、中央には雅な漆塗りの座卓が鎮座している。
藍がそこに正座して座ると、それまで藍を案内していた幽霊は静かに部屋から退出し、それと入れ替わるような格好で、この白玉楼の半人半霊の庭師――魂魄妖夢が湯呑の乗ったお盆を持って現れた。
「すまないな、予定よりこんなに早くて」
藍が言うと、妖夢は笑みを返した。
「いえ、構いませんよ」
そして妖夢はそのまま座卓の前まで進み、藍にお茶を出してから、自分は座卓を挟んで藍の対面に座った。
そこで初めて藍は気付いたのだが、今藍の座っている方が、この部屋の上座だった。
藍は出されたお茶をまず一口啜り、少し照れたように言った。
「こうして客人扱いされるのは、慣れないものだな」
すると妖夢は小さく笑って、
「かもしれませんね。あ、部屋のお香は消した方が良いですか?」
「お香?」
妖夢に言われて藍が部屋中を見渡すと、その隅の方でお香が焚かれているのが目に入った。
恐らく、鼻の利く自分を気遣ってのことだろう。
藍は妖夢に向き直ると、首を振って答えた。
「いや、大丈夫だ。本当にすまないな」
言いながらも、藍はこの白玉楼の住人の行き届いた気配りと持て成しに、只々感心する一方だった。
それが延いては幽々子の評判に関わることを、それぞれが十分に理解しているのだろう。
自らも主に仕える一人の従者として、藍はその心持ちを維持し続けることがどれだけ大変なことかを知っていた。
「それで? 藍さんがこうして予定を繰り上げて参られたのにも、何か理由があるのでしょう?」
と、どこか期待するような声色で妖夢が言った。
藍は頷き、
「ああ。実はな……」
そして藍は、ここに至るまでの紫とのやり取りについて話し始めた。
妖夢はそれに興味津々といった様子で耳を傾けながら、時折藍に相槌を入れる。
こんな井戸端会議にも似た、互いの主人に対する愚痴の溢し合いや相談をすることの楽しさも、従者同士だからこそ分かり合えるものの一つだった。
一通りの事の顛末を藍が話し終えると、妖夢は難しい顔で腕を組んだ。
「〝八雲〟の姓……ですか」
「ああ。どうして紫様は、橙にそれを名乗ることを許して下さらないのだろうか……」
嘆くように藍が言うと、妖夢が腕を組んだまま言った。
「私も、魂魄家に代々伝わる白楼剣を帯刀することを許された時は、流石に身に余る思いでいっぱいでした。今でも、あの柄に手を掛ける時は神経が張り詰めるような感覚を覚えます。『これを抜くからには』、と」
成程、と藍は頷いた。
確かに妖夢は本来二刀流の使い手だが、普段の弾幕ごっこでは楼観剣のみで立ち回っている。白楼剣を抜くのは、特別な【スペルカード】を使用する時くらいのものだ。
妖夢は続けた。
「きっと紫様も、今の橙さんには〝八雲〟の姓を名乗るのはまだ荷が重いと思っているのですよ。藍さんがそれを許されたのはいつぐらいの時なのですか?」
言われてみれば、と藍は思い出したように言った。
「あれは確か、私が橙を式として迎えた頃だったな」
「ほらやっぱり」
嬉しそうに顔を綻ばせた妖夢。
しかし藍はまだ納得のいかない様子で、
「だが、それなら紫様も、そうだと素直に言って下さると思うんだ。なのにあの怒りよう。私には、他にまだ理由があるとしか思えないんだよ」
そしてそのまま、藍は「ん~」と低く唸りながら座卓に突っ伏した。
妖夢も再び考え込み、そのまま暫く無言の時間が流れた。
数分が経ち、先に口を開いたのは妖夢だった。
「少し空気を換えましょうか」
言いながら妖夢は立ち上がると、和室の中庭に面した方の障子を開けた。
そこで藍も顔を上げ、中庭の方を見やる。
そこにはいつもながら見事に整備された、枯山水の庭園が広がっていた。
枯れた山水と書くその名の如く、枯山水は水を一滴も使わずに、水の流れを表現した様式のことを指す。
庭一面に敷かれた砂利には水流を表す幾本もの筋が引かれており、それが効果的に配置された石や松などを避けるようにして流れる様子は、まさに川の流れのそれに近かった。
そしてその柔らかいタッチと、全体性を伴った造形美は、この庭を愛する主人の趣の深さを感じさせる。
しかしそれは白玉楼の庭師たる妖夢の功績であり、藍は彼女の労を讃える意味で、
「いつ見ても、美しい庭だな」
と言った。
しかし妖夢はにっこりとほほ笑んで、
「はい。幽々子様のお気に入りのお庭ですから」
と答えた。
藍は思わず失笑した。
(相変わらずだな、妖夢は)
しかし、そういうところが妖夢らしいと言えば妖夢らしい。
(それに比べて私ときたら……)
藍は座卓に頬杖を突いて、黙考した。
(私は紫様を疑い過ぎなんだろうか……?)
余りにも従者然とした妖夢の姿に、藍はそう思った。
少し、紫様のことを勘繰り過ぎたのかもしれない。
紫様には紫様のお考えがあるのだろうし、それを私が自らの領分も弁えず、出過ぎた発言をしたのがいけなかった。
きっとそれが、紫様を怒らせてしまった原因なのだろう。
そう考えると、藍は胸に閊えていた思いが晴れた気がして、つい安堵の息が漏れた。
そして藍は、妖夢に礼を言おうとして――。
「あらあら~。誰かと思えば紫の式じゃない」
和室の戸口から聞こえてきた声に、肩をビクンと震わせた。
藍と妖夢が驚いてその声のした方向を見ると、そこには白玉楼の主であり、亡霊の西行寺幽々子が立っていた。
「幽々子様、いつからそこに!?」
「ふふふ~。いつからでしょう?」
仰天した様子の妖夢に、意味深な笑みで返す幽々子。
妖夢が慌てて言った。
「すぐに幽々子様の分のお茶もご用意しますね!」
そしてそれを言い終えるかしない内に、部屋を飛び出して言った妖夢。藍はその間にも、席を立って幽々子に上座を譲った。
幽々子は妖夢の背中を目で追ってから、藍に向き直って、
「温めておいてくれたのかしら?」
「ええ。この自慢の尻尾で入念に」
答えながらも、藍は内心で戦戦恐恐としていた。
無理もない。紫とは旧知の仲である幽々子に、自分の紫に対する愚痴を聞かれていたかもしれないのだから。
しかし幽々子はそんな藍の焦燥感を弄ぶように言った。
「でも残念。私って、体温無いから」
その返事を、藍は〝心無い〟の比喩と捉えて気が遠くなる思いがした。
藍が去ってから、紫はそれで何度目かの溜息を漏らした。
先程の藍とのやり取りが、胸に引っ掛かって仕方がない。
(少し大人気なかったかしら?)
紫はそれまで読み進めていた本を一先ず閉じて、伸びをした。
(でも、藍も藍よね)
紫は先の藍の台詞を思い返す。
〝八雲〟の姓。それを〝誉れ〟や〝誇り〟と絡めて語られたことが、紫は実に気に食わなかった。
確かにそれらと結び付けて考えてしまうのも仕方がないが、紫は藍だけには、〝八雲〟の姓をそういう風に解釈してほしくなかった。
それを考えると、少し力を持ち過ぎたのだろうかとすら思えてくる。
紫はまた再び、深い深い溜息を吐いた。
強過ぎる力や輝かしい功績は、それを持つ者にも、人並みの〝心〟が備わっていることを忘れされてしまう。
どんな偉人賢人も、嬉しければ笑い、悲しければ泣くのだ。
そして〝八雲〟の姓に込められた意味もまた、それと同じ。
紫は決して、そこにそんな大仰な意味合いを持たせたつもりはない。
そこにあるのはもっと単純で、もっと大切な、彼女のたった一つの〝願い〟だ。
(自分でも、大層女々しいことだと思うわよ。でも――)
紫は空を仰いだ。
(これ以上に尊いことなんて、他に何があると言うの?)
紫は立ち上がると、目の前に移動用の〝スキマ〟を開いた。
こんな気持ちを、いつまでも抱えてはいられない。
紫は口元を引き締めると、その〝スキマ〟を潜った。
行先は、彼女とのあの思い出の場所――。
幽々子の登場により、白玉楼の一室は独特の雰囲気をもつ空間に様変わりしていた。
座卓を挟んで、その上座には妖夢を背後に控えさせた幽々子が、下座にはすっかり畏まった様子の藍が座っている。
幽々子は妖夢の淹れてきた緑茶を少し飲んでから、ころころと笑った。
「そんなこと言って、紫が怒るのも無理もないわ」
「……はい」
藍はしょんぼりと答え、幽々子の後ろの妖夢の顔を見つめた。
妖夢は姿勢を崩さずに、顔だけで「すみません」と訴えてくる。
先程の妖夢との話を、幽々子から紫に告げられてしまっては、その先自分がどうなるか。
藍はその耳も尻尾も力なく、だらりと寝かせて肩を落とした。
いや、厳密にはあの話の内容自体には毒は無い。しかしそれを伝える過程で、それがまるで伝言ゲームのように、過大表現や様々な脚色が施されてしまうのは〝よくあること〟だ。
(今日は只でさえ紫様の機嫌を損ねてしまったというのに、その上こんなことになってしまっては……)
藍は明日の我が身の健在を祈った。
「幽々子様は、紫様のお怒りの原因を知っておられるのですか?」
と、そこで話を前に進めるべく妖夢が発言した。
半ば自暴自棄になっていた藍にとっては、有り難いフォローだった。
妖夢の言葉に、幽々子は「まぁね」と短く答えてから、少し考える素振りを見せた。
「簡単に説明しようと思えば一言で済むのだけど、それも面白味がないわね」
そして幽々子は徐に右手を伸ばし、その人差し指を後ろの妖夢に向けた。
「ピチューン」
若干の沈黙。
「妖夢は死にました。1ボスの私に敗れて」
「ええっ!?」
たちまち妖夢が素っ頓狂な声を上げた。
藍は顔を引き攣らせながら、
「幽々子様、貴女様がそれを言うと全く洒落になりません。妖夢、そんな足を探さなくても大丈夫だ」
幽々子は未だ錯乱する妖夢の様子を楽しげに見ながら、語り部口調で、
「ああ可哀想な妖夢。彼女の葬儀はしめやかに執り行われます」
「……続けるのですか」
「白玉楼の麗しい主は言いました。『妖夢は天に召されたのね』」
「貴女が妖夢を殺めたのでしょう? それに、召される先もこの冥界では?」
幽々子はそこで一旦言葉を切り、試すような目付きになって藍を見た。
「藍、気付いたかしら?」
突然そんな視線を向けられても、と藍は困った顔で答えた。
「何にですか?」
幽々子は急に厳かな声色になって、
「妖夢の魂は三途の川を渡って彼岸へと向かい、肉体だけがこの現世に残る。だけど一体誰が、地上に残されたその肉体を指して、それを妖夢だと呼ぶかしら?」
「それはあくまで〝妖夢の〟肉体だと?」
「そうよ」
幽々子は頷いた。
「肉体は結局は器。その本質である魂が失われたとき、肉体はただの物体でしかない。そしてそれは、決して妖夢ではない。妖夢の魂は天に召されたのだから。つまり人物にとっての〝名〟とは、その〝魂〟に付けられた名ということなの」
力強く言った幽々子。しかし藍は頭上に疑問符を浮かべた。
確かに遠大で為になる話かもしれないが、ここで議論されるべきは〝姓〟であり〝名〟ではない。
その者の名が魂に付けられたものであるのは良いとして、では果たして〝姓〟とは何なのか。
藍は幽々子の言葉を待った。
「そして今度は〝姓〟の方だけど、妖夢の肉体は死後、どうなるのかしら?」
「それは埋葬されるでしょう」
藍は事も無げに答えた。
「どこのお墓に?」
「それは〝魂魄家〟の……あっ!」
はっとした藍に、幽々子は言った。
「そう。つまり〝姓〟とは、その肉体に付けられるもの。しかし肉体が個人によって個別なのは明白。だからその意味で〝姓〟とは、家系や血脈などの〝繋がり〟を示す一種の付箋の役割を果たす。――さぁここからが問題よ、藍」
幽々子は言うと、懐から扇を取り出してそれを開いた。
そしてそれを自分の口の前へと持っていき、顔の下半分を隠す。
幽々子の知的な双眸が、藍の胸を射抜いた。
「紫は貴女と、〝姓〟を分けることで〝繋がり〟を求めた。〝八雲〟という枠組みの中に、貴女を招いたと言っても良い。それは何故だと思う?」
幽々子に尋ねられて、藍は頭を大車輪のように回転させて熟考した。
しかし分からない。紫が自分に何を求めたかなど、それは本人にしか分からないことだ。
悩む藍に、幽々子が助け船を出した。
「聞き方を変えましょう。貴女は〝八雲〟の姓を受けて、紫と同じ枠組みの中に入った。でも、橙はまだその枠には入れない。考えて、藍。貴女と紫にあって、橙に無いものを。その違いこそが、〝八雲〟の姓の証明するところのものなのだから」
(私と紫様にあって、橙に無いもの?)
藍は自分の知る、橙のあらゆる部分を列挙してそれを自分と照らし合わせた。
しかし、やっぱり答えは出てこない。
藍は橙を生み出すとき、彼女を自分に似せて生み出した。
藍は橙の思考ルーチンもアルゴリズムも、全て理解している。
だからこそ、これだけはハッキリ分かっているのだ。
橙に、自分と比べて足りないものは何も無いと。
もしそれがあるとするならば、それは〝個性〟の違い。
(まさか紫様、貴女は〝個性〟の問題で橙を、〝八雲〟の枠から外そうと言うのですかっ!!)
途端に、藍の胸に激しい怒りの感情が爆発的に広がっていった。
血液が沸き立つように煮えあがり、怒りが沸点を越えて藍の脳内を掻き乱す。
しかしそこに冷や水を掛けたのは、例によって幽々子だった。
「藍、落ち着きなさい。あまり私を失望させないで」
幽々子は言うと、藍の頬にその冷たい掌を当てた。
亡霊の掌の冷たさは、まさに冷や水と同じだった。藍は我に返り、目を白黒させる。
幽々子は呟くように言った。
「知らぬは亭主ばかりなり、ね」
「どういうことなのですか幽々子様」
詰め寄るように言った藍に、幽々子は微笑を浮かべた。
「ずっと気が付かなかったのね、藍。貴女が橙を見る時の顔、貴女がまだ橙くらいの年頃だった時の、紫の顔にそっくりよ?」
瞬間、藍の意識は弾けた。
(ああ――)
紫様は凄いの。
藍に出来ないことも全部出来て、藍が知らないことは何でも知ってるの。
それにすっごく優しいの。
藍が初めて妖術に成功した時も、いっぱい褒めてくれたの。
藍が初めて風邪をひいた時も、ずっと側で看病してくれたの。
紫様は藍のご主人様だけど、まるで――。
――まるで藍のお母さんみたい。
紫様に手を引かれながら歩く、いつもの散歩道。
私は少し前を行く紫様を見つめながら、その日の出来事を報告した。
私の歩く速度に歩調を合わせながら、紫様は笑顔で私の話を聞いてくれた。
「今日は幽香様の向日葵畑で、幽香様に紫様のお話をいっぱいしたんですよ」
「あら、どんなことを話したの?」
「えへへ。内緒です」
それを紫様に言うのは何だかすごく気恥ずかしくて、私ははにかんだ。
すると紫様は「もー」と、しかしとても嬉しそうに答えた。
紫様のそんな嬉しそうな顔を見ていると、不思議と私も嬉しくなって、私はついつい紫様と繋いだ手を大きく何度も振った。
遠心力が、私達の手に圧を掛ける。
しかし紫様はその大きな手で私の手をしっかりと包み込んで、離れないように繋ぎ止めてくれている。
そのことがまた嬉しくて、握られる手が温かくて。
それがさっき、幽香様に話した紫様のことと重なって。
だからつい、口を突いて出てしまったのだ。
「あの、お母さ――」
そこまで言いかけて、私は咄嗟に語尾を濁した。
恥ずかしくて恥ずかしくて、私は顔を伏せた。
いや、厳密には、怒られるのでは、と思った。
私が紫様を母親のように思っていたのは事実だったが、紫様が私の主人なのだという認識もまた、私の中にはあった。
そしてそれが、とても大事なことなのだとも。
そんな大事なことを言い間違えて、紫様は怒っていないだろうか?
私が黙り込んでいると、紫様が口を開いた。
「どうしたの藍? いいのよ?」
そして紫様は膝を曲げて、私の顔を下から覗き込むように見た。
私は慌てて顔を背けた。
紫様は言った。
「藍、私の顔を見て御覧なさい? 怒ってるように見える?」
紫様に促されて、私は恐る恐る紫様の顔を見て、そして息が詰まった。
紫様は、笑っていた。とても幸せそうな顔で。今まで見たこともないほどの、満面の笑みで。
その顔を見ていると、どういう訳か、私は涙が溢れてきて、それが止められなくなって。
ただ漠然と嬉しかった。それ以外、言葉にしようが無かった。
私はまるでそう誘われたかのように、紫様に抱き着いた。
紫様は優しく私を抱き留め、宥めるように背中を摩ってくれた。
いつまでもいつまでも、私が泣き止むまで。
あの時の紫の顔は、今でも鮮明に覚えている。
『貴女が橙を見る時の顔、貴女がまだ橙くらいの年頃だった時の、紫の顔にそっくりよ?』
幽々子のその言葉が、藍の頭の奥で何度も反復された。
(紫様……)
気が付いた時、藍は泣いていた。
幽々子と妖夢の目があるのにも関わらず、藍は泣いていた。
(貴女は――)
――あの時、本当に幸せだったのですね……。
そして藍はそのままその場に泣き崩れた。
自分が橙の側にいて感じる感情。幸福感。それと同じものをあの日、紫も同様に感じていたのだ。
藍は感極まって、もうどうしようもなく涙が溢れてきた。
この涙で、式神が剥がれてしまったらどうしよう。
そう思うと、また胸が締め付けれる思いがして、藍は漏れ出る嗚咽を止めることが出来なかった。
気が付くと、もう夕暮れになっていた。
紫はそれまで自分が腰掛けていた切り株から腰を上げた。
そこは太陽の畑と人間の里とを結ぶ、一本の道。
他のどこにでもありそうな何の変哲もない道ではあったが、紫にとっては思い出深い場所だった。
この道を、いつまでも泣き止まない藍を抱っこしながら歩いたことを、今でも昨日のことのように覚えている。
と、紫はその道の先に、見慣れた人影を見付けた。
沈みゆく茜色の太陽に照らされながらそこにいたのは、白玉楼に遣いに出したはずの藍だった。
「やはりここにいたのですね、紫様」
紫が藍に近付くと、藍はぎこちなく笑って言った。
紫はそんな藍の顔に、涙の跡を見付けて、理解した。
彼女にはそれで十分だった。
「幽々子が喋ったのね」
紫が問い掛けると、藍は頷いた。
「はい」
「……そう」
紫は言うと、藍を見て、空を見て、そしてまた藍を見て息を吐いた。
そして彼女に向って、少し控えめに手を伸ばす。
「帰りましょうか、藍」
「……はい」
藍は答えると、紫の手を取った。
こうして二人並んで歩くのは、何百年振りだろうか。
紫はあの日を記憶に想いを馳せた。
あの日の藍の言葉を――。
ようやく泣き止んだ藍は、紫の肩に顎を乗せ、未だ上ずった声で言った。
「紫様……」
「なに? 藍」
紫が返事をすると、彼女は自分の首元に回された藍の腕に、僅かに力が籠ったのを感じた。
「藍も、いつかは紫様のような優しいお母さんになりたいです」
「ええ。藍ならきっとなれるわ」
紫は、本心からそう思って答えた。
あれから数百年。
紫は隣を歩く藍の顔を盗み見た。
藍、貴女は私以上に、立派なお母さんになったわ。
その証として、〝八雲〟の姓(こんなもの)しか与えられなくてごめんなさい。
だけど忘れないで。
貴女が例え幾つになっても、貴女は私の娘なのよ?
紫は心の中で、そっと藍に語り掛けた。
貴女が私をお母さんと呼んでくれた時、私は本当に嬉しかった。
そして藍。私は貴女とは決して血は繋がっていないけれど、私は時に、私と貴女はへその緒で繋がっていたんじゃないかと思うことがある。
貴女が橙を通して、私が知る、この世界で最も美しいものを通して幸せを感じる時、その幸せは私と貴女の間にあるその見えない絆を通じて、私にも伝わるわ。
だからどうか藍。いつの日か私がこの世界から姿を消しても、〝八雲〟の姓は、しっかりと後世に残してほしい。
貴女が私といて感じた、そして橙といて感じている幸せを、そこに添えて――。
よい話をありがとうございました
暖かい気持ちになった。
もうこれは100点を入れざるを得ない!