※このSSは、作品集176に収められている、
冬眠前の戯れ ~私が教えてあげましょうか?~ の続編となっております。
先に前作を読んでからどうぞ。
また、激しい百合表現がありますので、苦手な方はご注意ください。
目を覚ますとそこには見慣れた天井が広がっていた。
また朝が来たのね、と幽々子は静かに呟いた。
「また、いつもの朝……」
布団から身体を出すと、冬の朝の冷たい空気が身に刺さる。それでも幽々子は一抹の希望を胸に秘めて、寝室の障子をゆっくりと開いた。
「ゆき……ゆきね」
外では雪がしんしんと舞い落ちてきていた。目覚めた時に感じた空気の冷たさで幽々子は勘付いてはいたけど、それでも希望を持たずにはいられなかった。
寒さのピークはもう過ぎたというのに、幻想郷は未だ雪化粧を帯びていた。春がやってくる様子は微塵も感じられない。
春が来ないということはつまり、八雲紫は冬眠から目覚めてはこないということだ。私の、愛しくて、大切な紫が。
幽々子は落ちてくる白い結晶を、哀しげに見つめながら口を開いた。
「雪降るを憂しとぞ思ふ愛しきと別れし折は望みしものを」
その歌を紡いだ幽々子の透き通った声は、空を覆う雪雲に吸い込まれて消えていった。
雪が降るのを見ると、恨めしいと思ってしまう。愛しいあなたと別れたあの時は、雪が降るのを望んでいたというのに。幽々子はそういう意味を込めて歌を詠んだ。
「だって、雪が降ってる間は、あなたは目覚めてこないもの」
未だ中庭にうっすらと残るこの雪も、空から絶え間なく落ちてくるこの雪も、全て無くなってしまえばいいのに。
白くぼやける空を恨めしげに見ていると、妖夢が寒そうに身を縮こませてやって来た。
「幽々子さま、お目覚めになりましたか」
「ええ。おはよう、妖夢」
「おはようございます。朝食の準備ができていますよ」
「着替えたら行くわ」
そう言うと妖夢はお辞儀だけをして、何も言わずに行ってしまった。私は就寝時の服装から普段着に着替える。今着ていた服は紫と共に夜を過ごした時の服で、あの日以来眠る時は常に身につけている。だけど、あれから何回もの夜を越して、もう紫の匂いなんて雀の涙ほども感じられない。
着替え終わった幽々子は朝食を済ませ、また退屈で辛い一日を過ごすのだった。
次の日の朝も、冬らしい冷え込みで寝室の空気は冷やされていた。それでも幽々子はささやかな望みを持って障子を開けに向かう。それは、紫が冬眠する前にある約束を取り付けたからだった。
『ねえ紫。もしあなたが冬眠から目覚めたら、真っ先に私のところに来てくれる?』
『いいわよ。朝一番に行って『おはよう』って言ってあげるわ』
『ほんとに? 約束よ?』
『ええ。約束よ』
けれどもやっぱりそこに紫の姿はなかった。中庭の日陰の部分にはまだ雪が溶けずに残っている。紫が目覚めるのはもう少し先になりそうだ。そう幽々子は思った。
中庭の雪面に、二人で足跡を残した時の光景が思い起こされる。あの時も同じ冷たい朝で、しかし繋いでいた手だけは温かかったのだった。
これ以上思い返していると切なくなってしまう。そう思い、着替えるためにたんすに向かおうとした時、突然幽々子の視界が暗く塞がれ、耳元で小さな声が発せられた。
「おはよう、幽々子」
「きゃっ、紫!?」
幽々子が振り返ると、そこには確かに紫がいた。冬の間ずっと待ち焦がれていた、あの愛しい紫が目の前に――。幽々子が感極まって何も言えずにいると、代わりに紫が口を開いた。
「ほら幽々子、目を瞑って。お目覚めのキスをするわよ」
「えっ、ちょっと、きゃっ」
紫が幽々子の身体を抱き寄せようとすると、唐突な行為に驚いた幽々子は、躓いて頭から畳に突っ込んでしまった。
畳に打ち付けた額をさすりながら身を起こそうとする。しかし何度起き上がろうとしても、何故か起き上がることができない。
「あれ、おかしいわね」
ふと気付くと、畳ではなく見慣れた天井が眼前に広がっていた。
目の前に現れた紫は夢の中の出来事だったのだ。幽々子はこうしてまた孤独な朝を迎えた。
「ゆめ……なの?」
それが夢だと脳が理解するまで、幽々子は少しの時間を要した。夢と現実の境界が曖昧な状態が続いた。しばらくして、今自分が布団で横たわっている世界が、紫のいない現実世界だと理解して、いつもの目覚めよりも余計に虚しく感じてしまった。
空っぽになった胃がきゅっと縮んでいくような感覚を抱きながら、やはり幽々子は障子を開けて外の様子を確認した。
中庭の雪はもう残っていなかった。少しは春が近付いたのかもしれないという淡い希望が胸の中に生まれる。けれども、約束した『おはよう』はどこからも聞こえてこなかった。
幽々子は今になってあの約束を恨めしいと思った。朝に来るという約束だから、その日の朝のうちに紫がやって来ないことが分かってしまい、憂鬱な一日を過ごすことになってしまうからだ。
こうして幽々子は朝起きて紫がいないことを確認し、落胆するというのが最近の一日の始まりだった。
そんな主人の様子を、妖夢は廊下の向こう側で苦々しい気持ちで見ていた。落ち込む主人を慰めようとあれやこれやと考えた。しかし、実際に行動に移すことはなかった。幽々子さまが求めているのは慰めではなく、ましてや自分でもない。ただひたすらに、八雲紫という存在を追っているだけだと気付いていたからだった。
その日の夕食の席でも、幽々子と妖夢はほとんど言葉を交わさなかった。幽々子はただただ料理を口に運び、妖夢は傍らに仕えるだけといった感じだ。
食事は娯楽だと言っていた幽々子だが、今はその意味も満たさずにただの作業のように手を動かしている。
「ごちそうさま」
幽々子が箸を静かに置いて席を立った。そこで幽々子が部屋を出る直前に、妖夢が意を決して幽々子を呼び止めた。
「幽々子さま」
「なあに? 妖夢」
「私は……幽々子さまの前から姿を消したりしません。ずっと、ずっとお傍にお仕えします!」
妖夢はどうしてもこれだけは、という思いで自分の考えを叫んだ。その言葉で幽々子はあることに気付かされた。
「ありがとう、妖夢。最近の私が全然あなたのことを見ていなかったから不安になったのね」
「そ、そんな、不安になんかなってない、です」
幽々子はあたふたとする妖夢に近付き、優しく抱擁してあげた。妖夢は驚いたように目を見開いたが、やがて落ち着いて幽々子に体重を預けた。
「ごめんなさいね妖夢」
「謝らないでください。私はただ、何もできない自分がふがいなくて、だから、せめて何か私にできることはないかと考えて――」
幽々子は腕の力を強くして妖夢に囁きかけた。
「大丈夫。妖夢はずっと私の家族よ」
「……はい。幽々子さま」
夕食後、幽々子は何をするわけでもなく寝室に向かった。早い時間のせいでまだ布団が敷かれていない。幽々子は自分で布団を敷き、そこにだらりと転がった。
まだ妖夢を抱きしめた時の感触が腕に残っている。それなのに、隣には誰もいないことにとても虚しさを感じる。またこの冷たく静かな場所で夜を迎えないといけないのか。そう考えると少し瞳が潤んでしまいそうになる。
紫と過ごしたあの夜のことは今でも思い出せる。けれど、紫と抱き合った時の感触や、声や、匂いはもう思い出せない。
「明日も、夢に出てきてくれるかしら。ねえ、紫。夢でもいいから、会いに来てほしい。隣で一緒に眠ってほしいわ……」
静かな部屋には自身の声だけが響く。夢でもいいから、という言葉が、紫が来ないことを悟ってしまっているような気がして、もの悲しくなってしまった。
涙がこぼれないように仰向けになる。ぼやける天井を感傷的になりながら見つめていると、やがてまどろみ始め、意識が遠のいていった。
静かなはずの寝室に、誰かの声が響いていた。幽々子は微かに聞こえるその声でおもむろに目を覚ました。覚醒しきっていない夢のような心地で、上半身を起こして声のするほうを探そうとする。
一人で寝るにはいささか広い十二畳の寝室。その寝室の端のところに声の主がいた。声の主は幽々子が起きたことに気付くと慌てて声を止めた。
「そこにいるのは誰?」
幽々子が寝ぼけ眼で声をかけるが、返事がない。
その人物はおもむろに幽々子のほうへ歩き出した。その歩調は本当にゆっくりで、一歩一歩踏みしめるように、そして焦らすように幽々子に近付いていった。
やがて、月明かりに照らされ、その姿が幽々子の目の前で露わになった。
「――っ」
幽々子は驚いて何も口にできなかった。
「おはよう。幽々子」
そこにいたのは紛れもなく八雲紫であった。
まだ二月の半ば、寒さが続く時季の、冷え込んだ夜に。
八雲紫は幽々子の目の前に現れた。
「おはよう。そして久しぶり」
紫はいつもの妖艶な笑顔を作ってみせた。約束の『おはよう』も忘れずに言ってみせた。月明かりに照らされた紫はどこか神々しい雰囲気さえ醸し出している。そんな雰囲気も相まってか、幽々子はまだ声を出すことができなかった。
紫が帰ってきた。目覚めてくれた。冬の間、ずっと待ち望んでいた、紫の目覚め。嬉しいのに、嬉しいのに――。
「あ、――んっ」
どうしても言葉が出てこなかった。言葉より感情が先走ってしまい、胸から、喉から、声が出てこない。
幽々子は布団を蹴飛ばし、勢いに任せて紫の身体にすがりついて涙を流し始めた。紫は幽々子の心中を推し量って、幽々子の感情を代弁してあげた。
「ずっと待っててくれたのね。この寒い冬の間」
「うん」
「この冷たい部屋でいつも一人で寂しかったのね」
「うん」
「今は私に会えて嬉しい?」
「うん……」
「それで、気持ちがいっぱい溢れてきて、何も言えなくなったのね」
「そう……」
「ずっと待たせてごめんなさい、なんて言葉はいらない?」
「うん。いらない……。なんにもいらない」
幽々子は気持ちを汲んでくれた紫に対して、何度も何度も頷いた。紫は自身も少し胸を詰まらせながらも、幽々子が泣き止むまでずっと幽々子の頭を撫でてあげた。
きっとこの涙には、悲しみの感情も込められているのだろう。そう紫は思っていた。謝罪の言葉はいらないと幽々子は言ったけれど、ここまで涙を流す幽々子への罪悪感はどうしても生まれてしまう。力を維持するために必要とはいえ、やはり冬眠は幽々子に対して大きな罪となっているように思えた。
こんなことで罪滅ぼしになるのなら、いくらでもやってあげるわ。紫はそんな思いを抱きながら、涙を流す幽々子の身体を優しく抱擁してあげた。
障子越しに月明かりを受け、寄り添う二人の少女の影は、まるで生き別れて数十年越しに再会した姉妹のようだった。
幽々子の寝室は、もはや冷たく寂しい部屋ではなくなっていた。
どれくらい経っただろうか。涙と共に溢れる感情を全て吐き出し、落ち着きを取り戻した幽々子が、まだ潤んだままの瞳で紫の顔を見上げた。
「落ち着いた?」
「うん。ありがとう紫。それとおはよう」
「おはよう。満月が上っていく夜だけど」
「朝一番に来てくれるって言ってたから、余計に驚いちゃった。どうしてこんな夜に目覚めたの?」
「あら。私は妖怪よ。本来昼間は眠っていて夜になると目覚めるの。きっと週間付いてる夜に目覚めたのよ。でも、朝まで待つなんて私にはできなかった。早く幽々子に会いたかったもの。だから、こんな夜に来たのよ」
「さっき、部屋の端っこで何してたの? 何だか声が聞こえた気がしたんだけど」
「私は声なんて出してないわよ。夢の中と勘違いしたんじゃない?」
紫はしらばっくれるように横を向く。そんな紫に幽々子はどこか不自然を感じた。
「ほんとに? 私にはすすり泣きのような声が聞こえたんだけど」
「寝ぼけてたんじゃない。それより幽々子に一つお願いがあるの」
「何かしら」
「お風呂を貸して欲しいの。実は、冬眠から目覚めて真っ先にここに来たから、ほら、汗かいてるし、髪の毛はぱさぱさだし。幽々子の前ではいつも綺麗でいたいの」
そう言って紫はいつもの笑顔を作る。幽々子は断る理由がないと思ってお風呂の利用を了承した。
「そういえば、私も今日はお風呂に入ってないわ」
「あら。じゃあ一緒に入る?」
「ば、ばかじゃないの! そんな恥ずかしい!」
「あはは。幽々子は恥ずかしがりやねえ。でも、白玉楼のお風呂は一人で入るには大きくて寂しいのよ」
「私が恥ずかしがりやなら紫は寂しがりやじゃない。ほら行って。私も後で入るから」
「私の入浴中に?」
「あんたが上がってきてからよ!」
「ふふ。幽々子は照れやさんねえ。それじゃあお先に頂きますわ」
紫は大人の余裕を主張するような笑顔で立ち上がった。子ども扱いをする紫に幽々子はふくれっ面だった。
「あっ、ちょっと待ちなさい紫!」
「何よ大声出して」
紫が立ち去る際に、一瞬その顔が月明かりに照らされた。幽々子はその瞬間を見逃さなかった。幽々子は紫の腕を強引に引っ張って明るいところまで連れて行く。
「ちょっとこっち来て」
「もう、幽々子はいつからこんなに強引になったの」
幽々子は紫の両頬を両手で押さえて、その顔をじっと見つめた。まるでこれから口付けでも交わすかのようなポーズだ。
「ちょっ、幽々子待って。そういうのはお風呂の後に……」
「黙って」
紫は意外なほど強引な幽々子に呆気に取られてしまい、抵抗できなかった。幽々子は月明かりに照らされた紫の目をじっと見続けた。
紫が覚悟を決めて目を閉じた。すると、幽々子は紫の意に反して、両手を紫の頬から離してしまった。
「えっ? ちょっと、どういうこと?」
幽々子は少し勝ち誇ったような表情を見せ、その後にやりと笑った。紫はその笑顔の意味を理解できない。
「何でもないわよ。ほら、お風呂入るんでしょう?」
「な、何でもないって何よ。幽々子がついに強引になったと思って覚悟したのに。乙女の純情を弄ぶのはよくないわ」
「あんたが言う台詞じゃないわ」
後で教えてあげるわよ、と幽々子は言った。いつも子ども扱いされる幽々子が、紫に対して優位に立てる、そんな要素を見つけてしまったのだった。
紫は不満を抱きながらも渋々お風呂へと向かった。途中、先ほど幽々子にされたことを思い返していた。
幽々子は純情な乙女だから、やっぱりそういうことをしようとしたわけじゃなさそうね。となると、私の顔に何か付いていたのかしら。
紫は脱衣所にある鏡で自分の顔を見つめたが、特に変わったところはないように思えた。さらに近付いて顔を隅々まで確認すると、ようやく幽々子の行動が理解できる要素を発見した。
「あらあら。私としたことが。まさか隠しきれてなかったとは」
髪の毛もだけど、顔もちゃんと洗わなきゃね、と紫は静かに呟いた。
幽々子は紫の去った寝室に一人で残った。しかし、以前のような寂しさはもう感じられなかった。これからは紫が隣にいてくれる。一緒に眠ってくれると思うと嬉しくてたまらなかった。
冬眠前のあの夜のことを、幽々子は今でも鮮明に覚えている。あのような夜をもう一度過ごせるのかと妄想すると顔が熱くなってしまった。
「あの時は抱き合って一緒に眠っただけだったけど、今夜はもしかしたら……」
その先まで、と考えると顔から火が出そうになるくらい恥ずかしい。とは言っても、幽々子はその先をほとんど知らない。抱き合って、見詰め合って、そして、口付けを――。
「だめだわ。今からこんなことを考えてたらとても気が持たないわ」
幽々子は頭をぶんぶんと振る。少し頭を冷やそうと、障子を開けて中庭を眺めることにした。
今宵は陰りのない満月だった。どうりで月明かりが明るいはずだ。
「綺麗な満月ね」
「あ、もう上がってたの」
「ええ、いいお湯だったわ」
紫は幽々子の隣に並んで満月を見上げる。まだ冬眠から目覚めたばかりだというのに、もう随分と力が戻っているように感じられた。やはりこれも満月の影響だろう、と紫は考えていた。
幽々子が紫の腕を取って静かに寄り添う。紫の髪から香るシャンプーの香りが鼻をくすぐった。隣に紫がいること、そして紫に触れられることへの嬉しさで胸が満たされる。幽々子は陰りが全くない満月を瞳に映しながら呟いた。
「如月の望月ね――。歌聖の歌ではないけど、私は今なら死んでもいいと思えるくらい幸せよ」
「私は死にたいとは思わないわ。それでも、今幸せなのは間違いないわ」
しばらく二人で満月を見上げ、その美しさに心を傾けていた。やがて満足した幽々子は紫の腕を離した。
「さて、私もお風呂に行ってくるわ」
幽々子が障子の傍から離れて部屋を出て行こうとすると、今度はその腕を紫が掴んで足を止めさせた。幽々子は不思議そうに紫のほうへ振り返る。
「どうしたの?」
「幽々子って、いくら食べても体形が変わらないわよね?」
「え、ええ、そうだけど。いきなりどうしたの?」
「じゃあお風呂に入らなくても十分綺麗よね?」
「えっ、まあ、そうかもしれないけど……。ほら、気分的なものがあるし。お風呂入ったらさっぱりするじゃない」
紫はどこか切なげな目で幽々子の顔を見つめた。幽々子にはどうして紫がそんな目をするのかが分からない。紫は、幽々子が分かってくれないと判断してその手を静かに離した。
「変なことを言ってごめんなさい。私、自分のお布団敷いて待ってるから、できるだけ早く上がってきてね」
「ええ。私はお風呂短いほうだから」
そう言って寝室を後にした。風呂場まで行く途中に、幽々子は先ほどの紫の不思議な言動について思い返す。
まるで幽々子がお風呂に入ることを嫌がるような態度だった。いや、お風呂云々よりも、一人になってしまうことが嫌だったのだろうか。そう考えれば、早く上がってきてね、という紫の言葉も筋が通るかもしれない。そうだ、きっとそうに違いない。紫のためにも、今日はいつもより早めに済ませて早く寝室に戻ろう。
そんなことを考えながら、幽々子はお風呂場に入っていった。
紫は押入れからもう一組の布団を取り出し、既に敷いてある幽々子の布団の隣に並べて敷いた。そうして、先ほどから火照ったままの身体を冷たい布団に預けた。布団の冷たさが肌に心地よい。下は布団に、上は冬の冷たい空気に挟まれているが、一向に身体が冷やされる様子が見られない。
「はあ。よりにもよって、今宵は満月なのね」
ほとんどの妖怪は満月によって何らかの影響を受ける。紫も例外ではない。しかし、長く行き続けた紫がそれを経験していないはずがない。それなのに、紫には今までに感じたことの無い影響を受けているように思えた。
「幽々子の影響もあるのかしら……。満月の夜に感情が高ぶったせいかしら」
先ほど幽々子が去ってしまう時、離れていくのがとても辛く感じた。それどころか、幽々子の腕を掴んだ時、そのまま布団に押し倒してしまいたい衝動に紫は襲われたのだった。
「もしかして私、発情しちゃったのかしら」
未だ熱を帯びている両頬に両手を当てる。赤くなっていないだろうか、と心配になってしまった。
もし発情してしまったら、幽々子と最後までしちゃうかもしれない。そんな妄想が脳内で繰り広げられ、紫は枕に顔を埋めて足をばたつかせた。
「紫、布団着ないで寒くないの?」
「あ、幽々子。早いわね」
「私は短いほうなんだってば」
幽々子は普段着よりも締め付けが少なくゆるそうな、浴衣のようなものに着替えていた。普段着よりも首筋や胸元などの露出が若干多い。幽々子がそんなことをするはずがないとは分かっているものの、『その服は誘っているの?』と紫は聞きたくなってしまう。
「この部屋ってこんなに暖かかったのね。どうしてかしら。紫がそこにいてくれるだけで、この部屋全体が温まっているような気がするわ」
「そりゃあ、私は体温を持った妖怪だからね」
幽々子は紫を真似するように掛け布団の上に横たわり、布団から伝わる冷気で身体を冷やしていた。すると、ふいに幽々子が紫のほうを見て口を開いた。
「ねえ、一つ疑問があるんだけど」
「なあに?」
「どうして今年はこんなに早く冬眠から目覚めたの? いつもは三月に入ってからだったのに」
紫が帰ってきたことに歓喜してすっかり忘れていたことを、幽々子はお風呂で思い出したのだった。例年よりも早い目覚めは確かに嬉しいことだが、それが紫の妖力の維持に影響を及ぼさないのかが心配であった。
「聞きたい?」
「うん」
「きっと、幽々子への気持ちが強すぎたのよ」
「そ、それは嬉しいけど、さすがに奇麗事でしょう?」
「うん。でも、あながち間違いではないと思うの。私がこんなに早く冬眠から目覚めたのは、幽々子の夢を見たから」
「私の夢?」
そう、と紫は呟いて掛け布団の内側に入った。やっと身体の火照りが収まってきたらしい。幽々子も紫を真似て掛け布団に潜り込む。
「ええ。私は冬眠している間、ずっと意識が無いわけではないの。たまに意識が戻ることがあって、そしてまた何もせずに眠りにつくの。これを外が暖かくなるまで繰り返すのが私の冬眠。そして、私は意識が戻る時に必ず夢を見るの。冬眠中に見た夢の数と内容を、私は全て覚えている。全部で七回だったのだけれど、全て幽々子が出てきたわ」
「七回とも、全て?」
「ええ。一回目と二回目は幽々子とお酒を飲む夢。三回目と五回目は、幽々子と冥界の桜を眺める夢。四回目と六回目は、冬眠の直前に幽々子と過ごしたあの夜の夢。六回目までは、全て楽しくて、本当に夢のような夢だった。でも、七回目だけは違った。ほんの数時間前、私が目覚める直前に見た夢では……」
紫はそこで突然悲しげな表情に変わった。その表情に幽々子も表情を曇らせる。
「そんな顔しないで」
「だって、紫が悲しげな表情するから」
「……七回目の夢では、幽々子が泣いてたの。冬眠前、二人で過ごしたこの部屋で、冷たくて寂しいこの部屋で、幽々子は一人で泣いてたの。『ゆかり』『ゆかり』って何度も私の名前を呼びながらね。そんな悲しくて切ない夢を見て私は目覚めたの。もう一度眠ることなんて、私にはできなかったわ」
だから、そんな泣きそうな顔をしないで、と紫は言った。幽々子は疑問が解決したすっきりした感じと、紫の悲しい話への辛い感情とが混ざって複雑な心境になった。
そして、幽々子の中ではもう一つ別の疑問が解決した。
「だから、あの時泣いていたのね」
「えっ?」
あの時、と聞いて紫はどの時かしらと思い返した。そしてすぐに思い当たる節を見つけた。
「やっぱり、気付いてたのね」
「だって、涙の跡が拭いきれてなかったもの」
幽々子がまどろみながら何かの声で目覚めたあの時だ。あの声は紫が泣いている声だったのだ。月明かりに照らされた紫の目元には、わずかに涙が通った跡が残されていた。それを幽々子は見逃さなかったのだった。
「でも、泣いていた理由はその夢ではないわ。幽々子が悲しみに暮れているかもしれないと思って、急いでここにやってきた時までは泣いてなかったのよ」
「じゃあ、どうして泣いてたの?」
「幽々子が泣きながら眠っていたからよ。手を祈るように組んで仰向けに寝ていた幽々子は、悲しそうに泣いてたの」
「寝ながら泣いてたの?」
「ええ」
幽々子には全く自覚が無かった。ただ、思い返してみると、紫は夢の中にしか現れないと悟ってしまって、悲しくなって涙がこぼれそうになった記憶がある。きっと、まどろんでそのまま眠ってしまったのだろう、と幽々子は結論付けた。
「あなたの泣き顔を見るのはとても辛かったの。だって、あなたを悲しませているのは、どう考えても私しかいないから。私が眠って、あなたとの楽しい夢を見ている間に、あなたが現実で悲しんでいたんだと考えたら、堪えきれなくなったの」
だから、と紫は左手を幽々子の頬へと伸ばす。紫の熱を持った指先が、幽々子の少し冷たい頬に触れる。
「だから、これからはあなたの傍にいるから、もう悲しい顔をしないで」
「しないわよ。ほら、紫が傍にいてくれるなら、私はずっと笑っていられるわよ」
そう言って幽々子は紫に微笑みかけた。紫は嬉しさと切なさで胸がいっぱいになり、感極まって何も言えなくなってしまった。そんな紫に、幽々子は横になったまま近付いていって、その身体を強く抱きしめた。
「んっ」
「…………」
身体を密着させ、お互いの体温を分かち合う。足の先から頭の先まで、心地よい熱に包まれる。全身で感じる柔らかい感触が、目の前にいる相手が夢ではなく現実であることを証明してくれる。お互い、呼吸に伴う小さな動きだけを感じていた。相手の髪からは、自分と同じシャンプーの香りがした。
こうやって抱き合うのは何ヶ月ぶりだろう。あの時とやっていることは同じなのに、離れていた時間のおかげで、今ここにある幸せがより一層大きなもののように幽々子は感じた。
もっと、もっと愛を感じたいと幽々子は思った。そして、もっと、もっと紫へ愛を伝えたいと思った。会えなかった時間の中で蓄積していった想いを、全てぶつけたいと思った。
幽々子は以前紫がそうしたように、抱きしめながら紫の金色の髪を優しく撫でてあげた。まだ乾ききっていない紫の髪が、幽々子の指の間を通り抜けていく。紫は幽々子からの愛撫に初めは少し驚いたものの、やがて幽々子に身を委ねていった。愛しい人に髪を撫でられるのがこんなに気持ちのいいことなのか、と紫は初めての感覚に酔っていた。
ふいに幽々子の手が止まった。
紫が、どうしたの、と聞こうとした次の瞬間、幽々子は紫の頭を自らのほうへ寄せ、耳元でそっと囁いた。
「愛してるわ、ゆかり」
「――あっ」
耳元で発せられたその声は音となり、紫の鼓膜に響き、まるで血液のように全身を駆け巡った。紫はその声だけで全身が溶けてしまうような未知の感覚を味わった。
幽々子は自らの愛情表現が紫に伝わったことに気付いて満足げな表情だった。腕の中の紫は小刻みに身体を揺らしている。
「ちょっ、ちょっと幽々子。それは、反則よ」
「え? あ、ごめんなさい。私何か悪いこと」
「違う。そういう意味じゃなくて……もう! ちょっと一度腕を離して!」
紫は幽々子の腕を振り解き、布団の上に座り、乱れた呼吸を整えるために深呼吸をした。
幽々子は紫の態度がまるで抱擁を拒絶するかのようだったので、何か悪いことをしてしまったのかと不安を抱いてしまう。
「違うの。そんな不安そうな目をしないで。幽々子は何も悪くないの」
「ほんとに?」
「ええ」
紫は落ち着きを取り戻してから幽々子に説明した。
「まさか、あなたに先に言われるとは思ってなかったのよ。その、愛してるだなんて……」
「……ああ、そういうことだったの。ごめんなさい、その、紫のことが愛しくて、自然と口に出てしまったの」
「し、自然とですって?」
「そうよ。嘘じゃないわ」
何という天然だろう、と紫は天井を仰いだ。そんなに自然に愛の言葉が言えたら苦労しないわよ、と嘆きたくなった。しかし幽々子は、紫が何を思い嘆いているのか皆目見当が付いていなかった。そんな幽々子の様子を悟った紫は投げやりに言い放った。
「何だかばかばかしくなってきたわ。いい意味でね」
「どういうこと?」
「私だって色々考えて思い悩んでいたというのに、あなたったら何も考えてないんだもの」
「そ、そんなことないわよ。私だってちゃんと考えてるわよ。さっきのは本当に自然と口をついただけだけど……。ちゃんと考えてるの! 紫と抱き合って、口付けをして、ほら、その先に進むのかどうかとか」
「その先まで進みたいの?」
ばかばかしくなった紫はストレートに幽々子に聞いてみた。この天然娘相手に、いちいち気を揉んでいても仕方が無いように思えたのだった。すると幽々子は意外にも素早く返事をした。
「そりゃあ進んでみたいと思うわよ。今の紫となら、どこまででも」
どこまででも進みたい、と言った。紫はその言葉を素直に受け止める。それはつまり、最後までしちゃってもいいってことよね、と考えた。
「どこまでも行くの。怖くない?」
「怖いけど、紫と一緒なら大丈夫だと思う」
「例えそれで境界を越えてしまったとしても?」
「何の境界か分からないけど、きっと大丈夫よ」
幽々子はどこまでも楽観的で、本当に怖いと思っているのか、紫には分からなかった。
今宵は満月。妖怪である自身は、感情の高ぶりと共に、恐らく感覚神経が敏感になっている。つまり、五感がいつもより発達している。触覚の発達によって普段より刺激に敏感になっている今では、幽々子と共に未知の感覚まで味わうことになるかもしれない。そう紫は考えた。
つまり、一度行ってしまえば、後戻りはできないということ。しかし紫は、それでも幽々子がそこまで言うなら、と決意を固めた。
「幽々子が言うなら、行きましょう。どこまでも。その境界の向こう側まで。境界がなくなるまで――」
一緒に、快楽の向こう側まで――。
紫は座った状態の幽々子を膝の上に乗せて抱きしめた。普通の抱擁と違ってより身体が密着する。その状態で紫は幽々子への愛撫を始めた。
まずは頭と髪を撫でる。幽々子が身を委ねた頃合いを見計らい、幽々子の耳の裏を優しく撫でる。
「んっ」
「気持ちいい?」
「うんっ」
耳元でわざと息を吹きかけるように囁くと、幽々子は身体を震わせながら頷いた。そのまましばらくの間、耳や首筋を指でなぞるように撫でていった。
時折幽々子が発する小さな声を聞くと、愛撫されていない自らの興奮も高まっていく。そうしてお互いの興奮が高まったところで、紫は一旦愛撫を止めた。
手を止めた紫に対して、幽々子は物欲しげな瞳で見つめ返す。
そしてついに、一つの境界を越えるときがやってきた。
「幽々子。目を閉じて。肩の力を抜いて楽にして」
「分かったわ」
幽々子は言われたとおりに目を閉じ、強張っていた肩の筋肉を緩めた。闇の向こう側で紫が何をしているのかは分からないが、微かな息遣いだけは伝わってきている。紫の指が幽々子の顎を少し持ち上げる。
直後に、幽々子の唇に熱く柔らかいものが触れた。
紫が自身の唇を幽々子の唇に押し付けたのだ。
「ん……」
「…………」
紫と幽々子は、初めての口付けを交わした。
目を閉じていた幽々子は少し驚いた後に全てを悟り、唇に触れる柔らかい感触を静かに感じていた。
紫は数秒で唇を離し、幽々子に目を開けるように言った。
「どう?」
「どうって、それを私に言わせるの?」
「初めてをもらったんだから、感想くらい聞かせてくれたっていいじゃない」
「……柔らかくて、熱くて。胸に得体の知れないものがこみ上げて来て――」
「うん」
「とても気持ちよかったわ」
幽々子は最後だけ恥ずかしがりながら感想を口にした。そんな幽々子の姿に紫はさらに愛らしさを感じてしまう。
「もう一回する?」
「……うん」
「じゃあ、目を閉じて」
幽々子は指示に従う。紫は今度は幽々子の頬と後頭部を支え、口付けと同時に幽々子の頭を引き寄せた。
先ほどより強い感触が唇に生まれる。それも、柔らかい感触が何度も強く押し付けられた。
「んっ。んん……ゆかり、ん、好き……」
「ゆゆこ……んっ。好きよ、ゆゆこ」
唇が重なる度に、相手への愛しさが増していくような感覚に陥る。唇が押し付けられるたびに、もっと強く、もっと長くと思ってしまう。
「愛してるわ、幽々子」
先ほど先を越された言葉を伝える。幽々子は熱っぽい瞳で「私もよ」と返事をした。
「ねえ、もう一回」
欲張りな幽々子が子どものように口付けをねだる。紫は唇を重ね、今度は幽々子の唇を少しついばむようにしてみた。すると幽々子は唇を閉じたまま、「んっ……んっ……」と喉の奥から声にならない声を出す。そんな声すらも、紫には愛しく感じられ、さらに興奮が高まっていった。
「もう一回……」
「…………」
「もう一回……」と幽々子がねだると、紫はその分だけ口付けをしてあげた。時には数秒で終わらせてしまったり、呼吸が続く限り長い口付けを交わしてみたりした。そのどれもが愛しくて、切なくて、そして気持ちよかった。
誰も入ることができない、二人だけの世界がそこにあった。
紫は一度口付けをやめて幽々子を抱きしめた。幽々子は抱擁を受けながらも不満げに言った。
「紫? どうしてやめるの?」
「同じことばかりじゃ飽きちゃうでしょ」
「でも、もっとして欲しい」
「ふふ。分かってる」
「じゃあ、なんで」
熱を帯びた瞳で紫に口付けをねだる。しかし、紫はその期待には応えようとはせず、不敵な笑みを浮かべて言った。
「幽々子の弱点でも探そうと思ってね」
耳元で囁いた紫はそのまま幽々子の耳たぶを優しく口に咥えた。
「ひゃうぅ」
「やっぱり耳が弱いのね」
幽々子は耳元で囁く紫の声で、全身がぞくぞくと不思議な感覚に陥っている。そして耳の裏を撫でられながら耳たぶを甘噛みされると、意図せず甘い声が出てしまう。
唇だけを使っていた紫が、今度は舌まで使って耳を攻める。艶かしい音が直接耳に入るせいで、幽々子は余計に高ぶってしまう。
紫はさらに弱点を開発しようと、空いている手で幽々子の大髄あたりを撫で始めた。するとすぐに幽々子の悶えが大きくなり、甘い声が発せられる。
「だめっ、ゆかり、そこは、はうぅ」
「ここも弱いの? 幽々子ったら弱点ばっかりじゃない」
悪戯っぽく見つめながら言うと、幽々子は違うの、と言い逃れしようとする。
「何が違うの? こんなに震えてるくせに」
「だめ、一度、離して……」
幽々子には抵抗する十分な力が無く、やっとの思いで紫の手を払いのけた。呼吸を整え、心臓の鼓動を抑え、とろけたような瞳で紫を見つめながら言った。
「私をそんないやらしい女みたいな言い方しないで」
「だって、幽々子ったらどこ触っても敏感なんだもの。弱点だらけじゃない」
違うもん、と幽々子は紫の胸に寄りかかる。そしておもむろに紫の顔を見上げ、先ほどと同じとろんとした瞳で、紫に対して上目遣いで言った。
「紫に触られるから、感じちゃうの。私は、”紫に”弱いの」
紫の中で理性を支える糸が一本切れてしまった瞬間であった。
愛しい人が上目遣いでこんなことを言ってきたら興奮するに決まってるじゃない。これも天然だと思うと……幽々子は恐ろしい子ね、と紫は密かにおののいた。
もっと進もう。もう一つ、いいえ、二つでも三つでも、幽々子と境界を越えたい、と紫は思った。
「もう一つ、境界を越えてみる?」
「うん」
「じゃあ、目を閉じて、舌を出して」
「舌ってこれのこと?」
幽々子がさんざん口付けを交わしたその唇の間から、ぺろりと血色のいい赤い舌を出した。それよ、と紫が頷く。幽々子はこの行為が何を意味するものなのか理解していないようだった。
紫は幽々子が目を閉じたのを確認し、その赤い舌を甘噛みするように上唇と下唇の間に挟んだ。
「へゃっ、んんっ――はへ……」
予想外の出来事に幽々子は嬌声を上げる。それでも紫は想定内とばかりに混乱する幽々子を攻め立てる。自らの舌を幽々子の口腔内へ差し込み、歯茎など敏感な部分を探して攻める。
「あっ……ん、んはぁっ、ゆかひ……」
息苦しそう喘ぐ幽々子の声が、紫を更なる興奮へ導く。紫も幽々子も、頭の中は愛しさと快楽でいっぱいだった。
攻め立てを終えた紫が舌を引き抜く。幽々子の口腔内から紫の舌先へ細い糸が繋がっていた。
「ゆ、かり? 今のは」
「ふふ。大人のキスというやつよ」
呼吸を乱し、だらしなく舌を出している幽々子は、まだ何が起きたのかよく分かっていない。やや酸欠ぎみの幽々子の頭では、現状の理解に追いつくのが難しかった。
あまりにも幽々子が放心していたので、紫は少し不安になって幽々子を気遣う。
「怖かった?」
「ううん……怖くはなかった。けど、何て言うか。すごかった」
「びっくりしちゃった?」
「うん。でも、ほんとに怖くはなかったわ」
「じゃあ、気持ちよかった?」
幽々子は耳まで真っ赤にして俯きながら「うん」と恥ずかしそうに頷いたのだった。
「それに、ほら」
「なあに?」
幽々子は見つめてくる紫の顔を一度見つめ返したが、さすがに正面を切っては言えないと思い、どこかに視線を逸らしながら照れるように呟いた。
「その……境界を越えるのも、悪くないかなって思ったの」
その言葉で、紫の理性を支えていた糸が完全に切れてしまった。幽々子を見つめる紫の目つきに、野性的なものが混じった瞬間であった。
「そう。なら一緒に行きましょう。愛しさと、快楽の境界の向こう側まで」
そう言って紫は幽々子を抱きしめ、首筋にキスを落とした。幽々子が快感に悶えている間に、紫は肩口から幽々子の服をどんどんはだけさせていった。
「ちょっ、紫、あんっ、どこまで、いくつもりなの?」
「最後まで。いいえ、どこまでもよ」
いけるところまでいくの、と紫は呟き、快感に震える幽々子の身体を抱いた。
二人の愛情表現はもう止まらなかった。
お互いの手を、痛みを感じるほど強く握り締める。未知の感覚が押し寄せてくるにつれ、二人の身体はガクガクと震えた。
その境界の向こう側へ。二人で一緒に。
「あっ――」
「んっ――」
愛し合う二人の嬌声が、静かな寝室に響き渡った。
翌朝。幽々子が目覚めると、もう随分と日が高くなっていた。
幽々子は覚醒しきっていない脳を使って状況を把握しようとする。隣には、一糸纏わぬ姿の紫が眠っていた。大事なところは布団で隠れてはいるが。
「これ、妖夢に何て言い訳をしようかしら」
こんなところを見られてしまったら、もう言い訳なんて通じないだろう。傍から見れば完全に事後の二人である。妖夢に見られたらそれまでだ、と幽々子は思考を放棄した。
「んんっ。ゆゆこ?」
「ごめんなさい。起こしちゃったわね」
「寒いわ幽々子。掛け布団めくらないで」
「はいはい」
幽々子は再び身体を横にして掛け布団の内側に入る。すると紫が身体を横に向け、幽々子の身体をまじまじと見つめ始める。
「あんまりじろじろ見ないで。恥ずかしいじゃない」
「何を今更。昨夜さんざん見たじゃない」
「あの時は暗かったし、それに夢中になってたからよかったの。もう、こっち見ないで。仰向けになって」
幽々子は紫の身体の向きを無理矢理変えさせた。そうして、自身も仰向けに寝転ぶ。目の前にはいつもの天井が広がったが、紫が隣にいるおかげで、幽々子はちっとも寂しいとは想わなかった。
「私、もうあなたのところにしかお嫁に行けないわ」
「ふふ。それなら幽々子は私が貰ってあげるわよ」
「結婚する?」
「籍を入れるわけにいかないから、代わりに誓いの口付けを交わしましょう」
そう言って紫は幽々子を見つめ、顎を支えて優しく口付けをする。幽々子は幸せに満ちた表情で口付けを受け取った。
「子どもは何人欲しい?」
幽々子がお腹をさすりながらおどけて尋ねてみせる。
「二人くらいかしら」
「それなら妖夢を入れて五人家族ね」
幽々子は自身のお腹を、まるで子どもを授かっているかのように撫でていた。すると、さすがにそのリアクションはオーバーでしょ、と紫が取り立てた。
「そんなことないわよ。昨夜あれだけ愛し合ったんですもの。子どもを授かっていてもおかしくないじゃない」
「え?」
幽々子は幸せそうに自身のお腹を撫でている。そんな幽々子を見て、紫はまさかと思い、その不可解な幽々子の言動を咎めた。
「幽々子。あなたもしかして勘違いしてるんじゃない?」
「え? 何が?」
「口付けをしただけでは赤ちゃんはできないのよ」
「え? そうなの?」
大真面目にお腹を撫でていた幽々子は、紫から教えられた真実に驚きを隠せなかった。みっともなく口をぽかんと開けている。
こんな天然な娘、もう私が貰うしかないじゃない……。と、紫は溜息交じりに呟き、幽々子の頭をぽんぽんと子どもをあやすように撫でてあげた。
冬眠前の戯れ ~私が教えてあげましょうか?~ の続編となっております。
先に前作を読んでからどうぞ。
また、激しい百合表現がありますので、苦手な方はご注意ください。
目を覚ますとそこには見慣れた天井が広がっていた。
また朝が来たのね、と幽々子は静かに呟いた。
「また、いつもの朝……」
布団から身体を出すと、冬の朝の冷たい空気が身に刺さる。それでも幽々子は一抹の希望を胸に秘めて、寝室の障子をゆっくりと開いた。
「ゆき……ゆきね」
外では雪がしんしんと舞い落ちてきていた。目覚めた時に感じた空気の冷たさで幽々子は勘付いてはいたけど、それでも希望を持たずにはいられなかった。
寒さのピークはもう過ぎたというのに、幻想郷は未だ雪化粧を帯びていた。春がやってくる様子は微塵も感じられない。
春が来ないということはつまり、八雲紫は冬眠から目覚めてはこないということだ。私の、愛しくて、大切な紫が。
幽々子は落ちてくる白い結晶を、哀しげに見つめながら口を開いた。
「雪降るを憂しとぞ思ふ愛しきと別れし折は望みしものを」
その歌を紡いだ幽々子の透き通った声は、空を覆う雪雲に吸い込まれて消えていった。
雪が降るのを見ると、恨めしいと思ってしまう。愛しいあなたと別れたあの時は、雪が降るのを望んでいたというのに。幽々子はそういう意味を込めて歌を詠んだ。
「だって、雪が降ってる間は、あなたは目覚めてこないもの」
未だ中庭にうっすらと残るこの雪も、空から絶え間なく落ちてくるこの雪も、全て無くなってしまえばいいのに。
白くぼやける空を恨めしげに見ていると、妖夢が寒そうに身を縮こませてやって来た。
「幽々子さま、お目覚めになりましたか」
「ええ。おはよう、妖夢」
「おはようございます。朝食の準備ができていますよ」
「着替えたら行くわ」
そう言うと妖夢はお辞儀だけをして、何も言わずに行ってしまった。私は就寝時の服装から普段着に着替える。今着ていた服は紫と共に夜を過ごした時の服で、あの日以来眠る時は常に身につけている。だけど、あれから何回もの夜を越して、もう紫の匂いなんて雀の涙ほども感じられない。
着替え終わった幽々子は朝食を済ませ、また退屈で辛い一日を過ごすのだった。
次の日の朝も、冬らしい冷え込みで寝室の空気は冷やされていた。それでも幽々子はささやかな望みを持って障子を開けに向かう。それは、紫が冬眠する前にある約束を取り付けたからだった。
『ねえ紫。もしあなたが冬眠から目覚めたら、真っ先に私のところに来てくれる?』
『いいわよ。朝一番に行って『おはよう』って言ってあげるわ』
『ほんとに? 約束よ?』
『ええ。約束よ』
けれどもやっぱりそこに紫の姿はなかった。中庭の日陰の部分にはまだ雪が溶けずに残っている。紫が目覚めるのはもう少し先になりそうだ。そう幽々子は思った。
中庭の雪面に、二人で足跡を残した時の光景が思い起こされる。あの時も同じ冷たい朝で、しかし繋いでいた手だけは温かかったのだった。
これ以上思い返していると切なくなってしまう。そう思い、着替えるためにたんすに向かおうとした時、突然幽々子の視界が暗く塞がれ、耳元で小さな声が発せられた。
「おはよう、幽々子」
「きゃっ、紫!?」
幽々子が振り返ると、そこには確かに紫がいた。冬の間ずっと待ち焦がれていた、あの愛しい紫が目の前に――。幽々子が感極まって何も言えずにいると、代わりに紫が口を開いた。
「ほら幽々子、目を瞑って。お目覚めのキスをするわよ」
「えっ、ちょっと、きゃっ」
紫が幽々子の身体を抱き寄せようとすると、唐突な行為に驚いた幽々子は、躓いて頭から畳に突っ込んでしまった。
畳に打ち付けた額をさすりながら身を起こそうとする。しかし何度起き上がろうとしても、何故か起き上がることができない。
「あれ、おかしいわね」
ふと気付くと、畳ではなく見慣れた天井が眼前に広がっていた。
目の前に現れた紫は夢の中の出来事だったのだ。幽々子はこうしてまた孤独な朝を迎えた。
「ゆめ……なの?」
それが夢だと脳が理解するまで、幽々子は少しの時間を要した。夢と現実の境界が曖昧な状態が続いた。しばらくして、今自分が布団で横たわっている世界が、紫のいない現実世界だと理解して、いつもの目覚めよりも余計に虚しく感じてしまった。
空っぽになった胃がきゅっと縮んでいくような感覚を抱きながら、やはり幽々子は障子を開けて外の様子を確認した。
中庭の雪はもう残っていなかった。少しは春が近付いたのかもしれないという淡い希望が胸の中に生まれる。けれども、約束した『おはよう』はどこからも聞こえてこなかった。
幽々子は今になってあの約束を恨めしいと思った。朝に来るという約束だから、その日の朝のうちに紫がやって来ないことが分かってしまい、憂鬱な一日を過ごすことになってしまうからだ。
こうして幽々子は朝起きて紫がいないことを確認し、落胆するというのが最近の一日の始まりだった。
そんな主人の様子を、妖夢は廊下の向こう側で苦々しい気持ちで見ていた。落ち込む主人を慰めようとあれやこれやと考えた。しかし、実際に行動に移すことはなかった。幽々子さまが求めているのは慰めではなく、ましてや自分でもない。ただひたすらに、八雲紫という存在を追っているだけだと気付いていたからだった。
その日の夕食の席でも、幽々子と妖夢はほとんど言葉を交わさなかった。幽々子はただただ料理を口に運び、妖夢は傍らに仕えるだけといった感じだ。
食事は娯楽だと言っていた幽々子だが、今はその意味も満たさずにただの作業のように手を動かしている。
「ごちそうさま」
幽々子が箸を静かに置いて席を立った。そこで幽々子が部屋を出る直前に、妖夢が意を決して幽々子を呼び止めた。
「幽々子さま」
「なあに? 妖夢」
「私は……幽々子さまの前から姿を消したりしません。ずっと、ずっとお傍にお仕えします!」
妖夢はどうしてもこれだけは、という思いで自分の考えを叫んだ。その言葉で幽々子はあることに気付かされた。
「ありがとう、妖夢。最近の私が全然あなたのことを見ていなかったから不安になったのね」
「そ、そんな、不安になんかなってない、です」
幽々子はあたふたとする妖夢に近付き、優しく抱擁してあげた。妖夢は驚いたように目を見開いたが、やがて落ち着いて幽々子に体重を預けた。
「ごめんなさいね妖夢」
「謝らないでください。私はただ、何もできない自分がふがいなくて、だから、せめて何か私にできることはないかと考えて――」
幽々子は腕の力を強くして妖夢に囁きかけた。
「大丈夫。妖夢はずっと私の家族よ」
「……はい。幽々子さま」
夕食後、幽々子は何をするわけでもなく寝室に向かった。早い時間のせいでまだ布団が敷かれていない。幽々子は自分で布団を敷き、そこにだらりと転がった。
まだ妖夢を抱きしめた時の感触が腕に残っている。それなのに、隣には誰もいないことにとても虚しさを感じる。またこの冷たく静かな場所で夜を迎えないといけないのか。そう考えると少し瞳が潤んでしまいそうになる。
紫と過ごしたあの夜のことは今でも思い出せる。けれど、紫と抱き合った時の感触や、声や、匂いはもう思い出せない。
「明日も、夢に出てきてくれるかしら。ねえ、紫。夢でもいいから、会いに来てほしい。隣で一緒に眠ってほしいわ……」
静かな部屋には自身の声だけが響く。夢でもいいから、という言葉が、紫が来ないことを悟ってしまっているような気がして、もの悲しくなってしまった。
涙がこぼれないように仰向けになる。ぼやける天井を感傷的になりながら見つめていると、やがてまどろみ始め、意識が遠のいていった。
静かなはずの寝室に、誰かの声が響いていた。幽々子は微かに聞こえるその声でおもむろに目を覚ました。覚醒しきっていない夢のような心地で、上半身を起こして声のするほうを探そうとする。
一人で寝るにはいささか広い十二畳の寝室。その寝室の端のところに声の主がいた。声の主は幽々子が起きたことに気付くと慌てて声を止めた。
「そこにいるのは誰?」
幽々子が寝ぼけ眼で声をかけるが、返事がない。
その人物はおもむろに幽々子のほうへ歩き出した。その歩調は本当にゆっくりで、一歩一歩踏みしめるように、そして焦らすように幽々子に近付いていった。
やがて、月明かりに照らされ、その姿が幽々子の目の前で露わになった。
「――っ」
幽々子は驚いて何も口にできなかった。
「おはよう。幽々子」
そこにいたのは紛れもなく八雲紫であった。
まだ二月の半ば、寒さが続く時季の、冷え込んだ夜に。
八雲紫は幽々子の目の前に現れた。
「おはよう。そして久しぶり」
紫はいつもの妖艶な笑顔を作ってみせた。約束の『おはよう』も忘れずに言ってみせた。月明かりに照らされた紫はどこか神々しい雰囲気さえ醸し出している。そんな雰囲気も相まってか、幽々子はまだ声を出すことができなかった。
紫が帰ってきた。目覚めてくれた。冬の間、ずっと待ち望んでいた、紫の目覚め。嬉しいのに、嬉しいのに――。
「あ、――んっ」
どうしても言葉が出てこなかった。言葉より感情が先走ってしまい、胸から、喉から、声が出てこない。
幽々子は布団を蹴飛ばし、勢いに任せて紫の身体にすがりついて涙を流し始めた。紫は幽々子の心中を推し量って、幽々子の感情を代弁してあげた。
「ずっと待っててくれたのね。この寒い冬の間」
「うん」
「この冷たい部屋でいつも一人で寂しかったのね」
「うん」
「今は私に会えて嬉しい?」
「うん……」
「それで、気持ちがいっぱい溢れてきて、何も言えなくなったのね」
「そう……」
「ずっと待たせてごめんなさい、なんて言葉はいらない?」
「うん。いらない……。なんにもいらない」
幽々子は気持ちを汲んでくれた紫に対して、何度も何度も頷いた。紫は自身も少し胸を詰まらせながらも、幽々子が泣き止むまでずっと幽々子の頭を撫でてあげた。
きっとこの涙には、悲しみの感情も込められているのだろう。そう紫は思っていた。謝罪の言葉はいらないと幽々子は言ったけれど、ここまで涙を流す幽々子への罪悪感はどうしても生まれてしまう。力を維持するために必要とはいえ、やはり冬眠は幽々子に対して大きな罪となっているように思えた。
こんなことで罪滅ぼしになるのなら、いくらでもやってあげるわ。紫はそんな思いを抱きながら、涙を流す幽々子の身体を優しく抱擁してあげた。
障子越しに月明かりを受け、寄り添う二人の少女の影は、まるで生き別れて数十年越しに再会した姉妹のようだった。
幽々子の寝室は、もはや冷たく寂しい部屋ではなくなっていた。
どれくらい経っただろうか。涙と共に溢れる感情を全て吐き出し、落ち着きを取り戻した幽々子が、まだ潤んだままの瞳で紫の顔を見上げた。
「落ち着いた?」
「うん。ありがとう紫。それとおはよう」
「おはよう。満月が上っていく夜だけど」
「朝一番に来てくれるって言ってたから、余計に驚いちゃった。どうしてこんな夜に目覚めたの?」
「あら。私は妖怪よ。本来昼間は眠っていて夜になると目覚めるの。きっと週間付いてる夜に目覚めたのよ。でも、朝まで待つなんて私にはできなかった。早く幽々子に会いたかったもの。だから、こんな夜に来たのよ」
「さっき、部屋の端っこで何してたの? 何だか声が聞こえた気がしたんだけど」
「私は声なんて出してないわよ。夢の中と勘違いしたんじゃない?」
紫はしらばっくれるように横を向く。そんな紫に幽々子はどこか不自然を感じた。
「ほんとに? 私にはすすり泣きのような声が聞こえたんだけど」
「寝ぼけてたんじゃない。それより幽々子に一つお願いがあるの」
「何かしら」
「お風呂を貸して欲しいの。実は、冬眠から目覚めて真っ先にここに来たから、ほら、汗かいてるし、髪の毛はぱさぱさだし。幽々子の前ではいつも綺麗でいたいの」
そう言って紫はいつもの笑顔を作る。幽々子は断る理由がないと思ってお風呂の利用を了承した。
「そういえば、私も今日はお風呂に入ってないわ」
「あら。じゃあ一緒に入る?」
「ば、ばかじゃないの! そんな恥ずかしい!」
「あはは。幽々子は恥ずかしがりやねえ。でも、白玉楼のお風呂は一人で入るには大きくて寂しいのよ」
「私が恥ずかしがりやなら紫は寂しがりやじゃない。ほら行って。私も後で入るから」
「私の入浴中に?」
「あんたが上がってきてからよ!」
「ふふ。幽々子は照れやさんねえ。それじゃあお先に頂きますわ」
紫は大人の余裕を主張するような笑顔で立ち上がった。子ども扱いをする紫に幽々子はふくれっ面だった。
「あっ、ちょっと待ちなさい紫!」
「何よ大声出して」
紫が立ち去る際に、一瞬その顔が月明かりに照らされた。幽々子はその瞬間を見逃さなかった。幽々子は紫の腕を強引に引っ張って明るいところまで連れて行く。
「ちょっとこっち来て」
「もう、幽々子はいつからこんなに強引になったの」
幽々子は紫の両頬を両手で押さえて、その顔をじっと見つめた。まるでこれから口付けでも交わすかのようなポーズだ。
「ちょっ、幽々子待って。そういうのはお風呂の後に……」
「黙って」
紫は意外なほど強引な幽々子に呆気に取られてしまい、抵抗できなかった。幽々子は月明かりに照らされた紫の目をじっと見続けた。
紫が覚悟を決めて目を閉じた。すると、幽々子は紫の意に反して、両手を紫の頬から離してしまった。
「えっ? ちょっと、どういうこと?」
幽々子は少し勝ち誇ったような表情を見せ、その後にやりと笑った。紫はその笑顔の意味を理解できない。
「何でもないわよ。ほら、お風呂入るんでしょう?」
「な、何でもないって何よ。幽々子がついに強引になったと思って覚悟したのに。乙女の純情を弄ぶのはよくないわ」
「あんたが言う台詞じゃないわ」
後で教えてあげるわよ、と幽々子は言った。いつも子ども扱いされる幽々子が、紫に対して優位に立てる、そんな要素を見つけてしまったのだった。
紫は不満を抱きながらも渋々お風呂へと向かった。途中、先ほど幽々子にされたことを思い返していた。
幽々子は純情な乙女だから、やっぱりそういうことをしようとしたわけじゃなさそうね。となると、私の顔に何か付いていたのかしら。
紫は脱衣所にある鏡で自分の顔を見つめたが、特に変わったところはないように思えた。さらに近付いて顔を隅々まで確認すると、ようやく幽々子の行動が理解できる要素を発見した。
「あらあら。私としたことが。まさか隠しきれてなかったとは」
髪の毛もだけど、顔もちゃんと洗わなきゃね、と紫は静かに呟いた。
幽々子は紫の去った寝室に一人で残った。しかし、以前のような寂しさはもう感じられなかった。これからは紫が隣にいてくれる。一緒に眠ってくれると思うと嬉しくてたまらなかった。
冬眠前のあの夜のことを、幽々子は今でも鮮明に覚えている。あのような夜をもう一度過ごせるのかと妄想すると顔が熱くなってしまった。
「あの時は抱き合って一緒に眠っただけだったけど、今夜はもしかしたら……」
その先まで、と考えると顔から火が出そうになるくらい恥ずかしい。とは言っても、幽々子はその先をほとんど知らない。抱き合って、見詰め合って、そして、口付けを――。
「だめだわ。今からこんなことを考えてたらとても気が持たないわ」
幽々子は頭をぶんぶんと振る。少し頭を冷やそうと、障子を開けて中庭を眺めることにした。
今宵は陰りのない満月だった。どうりで月明かりが明るいはずだ。
「綺麗な満月ね」
「あ、もう上がってたの」
「ええ、いいお湯だったわ」
紫は幽々子の隣に並んで満月を見上げる。まだ冬眠から目覚めたばかりだというのに、もう随分と力が戻っているように感じられた。やはりこれも満月の影響だろう、と紫は考えていた。
幽々子が紫の腕を取って静かに寄り添う。紫の髪から香るシャンプーの香りが鼻をくすぐった。隣に紫がいること、そして紫に触れられることへの嬉しさで胸が満たされる。幽々子は陰りが全くない満月を瞳に映しながら呟いた。
「如月の望月ね――。歌聖の歌ではないけど、私は今なら死んでもいいと思えるくらい幸せよ」
「私は死にたいとは思わないわ。それでも、今幸せなのは間違いないわ」
しばらく二人で満月を見上げ、その美しさに心を傾けていた。やがて満足した幽々子は紫の腕を離した。
「さて、私もお風呂に行ってくるわ」
幽々子が障子の傍から離れて部屋を出て行こうとすると、今度はその腕を紫が掴んで足を止めさせた。幽々子は不思議そうに紫のほうへ振り返る。
「どうしたの?」
「幽々子って、いくら食べても体形が変わらないわよね?」
「え、ええ、そうだけど。いきなりどうしたの?」
「じゃあお風呂に入らなくても十分綺麗よね?」
「えっ、まあ、そうかもしれないけど……。ほら、気分的なものがあるし。お風呂入ったらさっぱりするじゃない」
紫はどこか切なげな目で幽々子の顔を見つめた。幽々子にはどうして紫がそんな目をするのかが分からない。紫は、幽々子が分かってくれないと判断してその手を静かに離した。
「変なことを言ってごめんなさい。私、自分のお布団敷いて待ってるから、できるだけ早く上がってきてね」
「ええ。私はお風呂短いほうだから」
そう言って寝室を後にした。風呂場まで行く途中に、幽々子は先ほどの紫の不思議な言動について思い返す。
まるで幽々子がお風呂に入ることを嫌がるような態度だった。いや、お風呂云々よりも、一人になってしまうことが嫌だったのだろうか。そう考えれば、早く上がってきてね、という紫の言葉も筋が通るかもしれない。そうだ、きっとそうに違いない。紫のためにも、今日はいつもより早めに済ませて早く寝室に戻ろう。
そんなことを考えながら、幽々子はお風呂場に入っていった。
紫は押入れからもう一組の布団を取り出し、既に敷いてある幽々子の布団の隣に並べて敷いた。そうして、先ほどから火照ったままの身体を冷たい布団に預けた。布団の冷たさが肌に心地よい。下は布団に、上は冬の冷たい空気に挟まれているが、一向に身体が冷やされる様子が見られない。
「はあ。よりにもよって、今宵は満月なのね」
ほとんどの妖怪は満月によって何らかの影響を受ける。紫も例外ではない。しかし、長く行き続けた紫がそれを経験していないはずがない。それなのに、紫には今までに感じたことの無い影響を受けているように思えた。
「幽々子の影響もあるのかしら……。満月の夜に感情が高ぶったせいかしら」
先ほど幽々子が去ってしまう時、離れていくのがとても辛く感じた。それどころか、幽々子の腕を掴んだ時、そのまま布団に押し倒してしまいたい衝動に紫は襲われたのだった。
「もしかして私、発情しちゃったのかしら」
未だ熱を帯びている両頬に両手を当てる。赤くなっていないだろうか、と心配になってしまった。
もし発情してしまったら、幽々子と最後までしちゃうかもしれない。そんな妄想が脳内で繰り広げられ、紫は枕に顔を埋めて足をばたつかせた。
「紫、布団着ないで寒くないの?」
「あ、幽々子。早いわね」
「私は短いほうなんだってば」
幽々子は普段着よりも締め付けが少なくゆるそうな、浴衣のようなものに着替えていた。普段着よりも首筋や胸元などの露出が若干多い。幽々子がそんなことをするはずがないとは分かっているものの、『その服は誘っているの?』と紫は聞きたくなってしまう。
「この部屋ってこんなに暖かかったのね。どうしてかしら。紫がそこにいてくれるだけで、この部屋全体が温まっているような気がするわ」
「そりゃあ、私は体温を持った妖怪だからね」
幽々子は紫を真似するように掛け布団の上に横たわり、布団から伝わる冷気で身体を冷やしていた。すると、ふいに幽々子が紫のほうを見て口を開いた。
「ねえ、一つ疑問があるんだけど」
「なあに?」
「どうして今年はこんなに早く冬眠から目覚めたの? いつもは三月に入ってからだったのに」
紫が帰ってきたことに歓喜してすっかり忘れていたことを、幽々子はお風呂で思い出したのだった。例年よりも早い目覚めは確かに嬉しいことだが、それが紫の妖力の維持に影響を及ぼさないのかが心配であった。
「聞きたい?」
「うん」
「きっと、幽々子への気持ちが強すぎたのよ」
「そ、それは嬉しいけど、さすがに奇麗事でしょう?」
「うん。でも、あながち間違いではないと思うの。私がこんなに早く冬眠から目覚めたのは、幽々子の夢を見たから」
「私の夢?」
そう、と紫は呟いて掛け布団の内側に入った。やっと身体の火照りが収まってきたらしい。幽々子も紫を真似て掛け布団に潜り込む。
「ええ。私は冬眠している間、ずっと意識が無いわけではないの。たまに意識が戻ることがあって、そしてまた何もせずに眠りにつくの。これを外が暖かくなるまで繰り返すのが私の冬眠。そして、私は意識が戻る時に必ず夢を見るの。冬眠中に見た夢の数と内容を、私は全て覚えている。全部で七回だったのだけれど、全て幽々子が出てきたわ」
「七回とも、全て?」
「ええ。一回目と二回目は幽々子とお酒を飲む夢。三回目と五回目は、幽々子と冥界の桜を眺める夢。四回目と六回目は、冬眠の直前に幽々子と過ごしたあの夜の夢。六回目までは、全て楽しくて、本当に夢のような夢だった。でも、七回目だけは違った。ほんの数時間前、私が目覚める直前に見た夢では……」
紫はそこで突然悲しげな表情に変わった。その表情に幽々子も表情を曇らせる。
「そんな顔しないで」
「だって、紫が悲しげな表情するから」
「……七回目の夢では、幽々子が泣いてたの。冬眠前、二人で過ごしたこの部屋で、冷たくて寂しいこの部屋で、幽々子は一人で泣いてたの。『ゆかり』『ゆかり』って何度も私の名前を呼びながらね。そんな悲しくて切ない夢を見て私は目覚めたの。もう一度眠ることなんて、私にはできなかったわ」
だから、そんな泣きそうな顔をしないで、と紫は言った。幽々子は疑問が解決したすっきりした感じと、紫の悲しい話への辛い感情とが混ざって複雑な心境になった。
そして、幽々子の中ではもう一つ別の疑問が解決した。
「だから、あの時泣いていたのね」
「えっ?」
あの時、と聞いて紫はどの時かしらと思い返した。そしてすぐに思い当たる節を見つけた。
「やっぱり、気付いてたのね」
「だって、涙の跡が拭いきれてなかったもの」
幽々子がまどろみながら何かの声で目覚めたあの時だ。あの声は紫が泣いている声だったのだ。月明かりに照らされた紫の目元には、わずかに涙が通った跡が残されていた。それを幽々子は見逃さなかったのだった。
「でも、泣いていた理由はその夢ではないわ。幽々子が悲しみに暮れているかもしれないと思って、急いでここにやってきた時までは泣いてなかったのよ」
「じゃあ、どうして泣いてたの?」
「幽々子が泣きながら眠っていたからよ。手を祈るように組んで仰向けに寝ていた幽々子は、悲しそうに泣いてたの」
「寝ながら泣いてたの?」
「ええ」
幽々子には全く自覚が無かった。ただ、思い返してみると、紫は夢の中にしか現れないと悟ってしまって、悲しくなって涙がこぼれそうになった記憶がある。きっと、まどろんでそのまま眠ってしまったのだろう、と幽々子は結論付けた。
「あなたの泣き顔を見るのはとても辛かったの。だって、あなたを悲しませているのは、どう考えても私しかいないから。私が眠って、あなたとの楽しい夢を見ている間に、あなたが現実で悲しんでいたんだと考えたら、堪えきれなくなったの」
だから、と紫は左手を幽々子の頬へと伸ばす。紫の熱を持った指先が、幽々子の少し冷たい頬に触れる。
「だから、これからはあなたの傍にいるから、もう悲しい顔をしないで」
「しないわよ。ほら、紫が傍にいてくれるなら、私はずっと笑っていられるわよ」
そう言って幽々子は紫に微笑みかけた。紫は嬉しさと切なさで胸がいっぱいになり、感極まって何も言えなくなってしまった。そんな紫に、幽々子は横になったまま近付いていって、その身体を強く抱きしめた。
「んっ」
「…………」
身体を密着させ、お互いの体温を分かち合う。足の先から頭の先まで、心地よい熱に包まれる。全身で感じる柔らかい感触が、目の前にいる相手が夢ではなく現実であることを証明してくれる。お互い、呼吸に伴う小さな動きだけを感じていた。相手の髪からは、自分と同じシャンプーの香りがした。
こうやって抱き合うのは何ヶ月ぶりだろう。あの時とやっていることは同じなのに、離れていた時間のおかげで、今ここにある幸せがより一層大きなもののように幽々子は感じた。
もっと、もっと愛を感じたいと幽々子は思った。そして、もっと、もっと紫へ愛を伝えたいと思った。会えなかった時間の中で蓄積していった想いを、全てぶつけたいと思った。
幽々子は以前紫がそうしたように、抱きしめながら紫の金色の髪を優しく撫でてあげた。まだ乾ききっていない紫の髪が、幽々子の指の間を通り抜けていく。紫は幽々子からの愛撫に初めは少し驚いたものの、やがて幽々子に身を委ねていった。愛しい人に髪を撫でられるのがこんなに気持ちのいいことなのか、と紫は初めての感覚に酔っていた。
ふいに幽々子の手が止まった。
紫が、どうしたの、と聞こうとした次の瞬間、幽々子は紫の頭を自らのほうへ寄せ、耳元でそっと囁いた。
「愛してるわ、ゆかり」
「――あっ」
耳元で発せられたその声は音となり、紫の鼓膜に響き、まるで血液のように全身を駆け巡った。紫はその声だけで全身が溶けてしまうような未知の感覚を味わった。
幽々子は自らの愛情表現が紫に伝わったことに気付いて満足げな表情だった。腕の中の紫は小刻みに身体を揺らしている。
「ちょっ、ちょっと幽々子。それは、反則よ」
「え? あ、ごめんなさい。私何か悪いこと」
「違う。そういう意味じゃなくて……もう! ちょっと一度腕を離して!」
紫は幽々子の腕を振り解き、布団の上に座り、乱れた呼吸を整えるために深呼吸をした。
幽々子は紫の態度がまるで抱擁を拒絶するかのようだったので、何か悪いことをしてしまったのかと不安を抱いてしまう。
「違うの。そんな不安そうな目をしないで。幽々子は何も悪くないの」
「ほんとに?」
「ええ」
紫は落ち着きを取り戻してから幽々子に説明した。
「まさか、あなたに先に言われるとは思ってなかったのよ。その、愛してるだなんて……」
「……ああ、そういうことだったの。ごめんなさい、その、紫のことが愛しくて、自然と口に出てしまったの」
「し、自然とですって?」
「そうよ。嘘じゃないわ」
何という天然だろう、と紫は天井を仰いだ。そんなに自然に愛の言葉が言えたら苦労しないわよ、と嘆きたくなった。しかし幽々子は、紫が何を思い嘆いているのか皆目見当が付いていなかった。そんな幽々子の様子を悟った紫は投げやりに言い放った。
「何だかばかばかしくなってきたわ。いい意味でね」
「どういうこと?」
「私だって色々考えて思い悩んでいたというのに、あなたったら何も考えてないんだもの」
「そ、そんなことないわよ。私だってちゃんと考えてるわよ。さっきのは本当に自然と口をついただけだけど……。ちゃんと考えてるの! 紫と抱き合って、口付けをして、ほら、その先に進むのかどうかとか」
「その先まで進みたいの?」
ばかばかしくなった紫はストレートに幽々子に聞いてみた。この天然娘相手に、いちいち気を揉んでいても仕方が無いように思えたのだった。すると幽々子は意外にも素早く返事をした。
「そりゃあ進んでみたいと思うわよ。今の紫となら、どこまででも」
どこまででも進みたい、と言った。紫はその言葉を素直に受け止める。それはつまり、最後までしちゃってもいいってことよね、と考えた。
「どこまでも行くの。怖くない?」
「怖いけど、紫と一緒なら大丈夫だと思う」
「例えそれで境界を越えてしまったとしても?」
「何の境界か分からないけど、きっと大丈夫よ」
幽々子はどこまでも楽観的で、本当に怖いと思っているのか、紫には分からなかった。
今宵は満月。妖怪である自身は、感情の高ぶりと共に、恐らく感覚神経が敏感になっている。つまり、五感がいつもより発達している。触覚の発達によって普段より刺激に敏感になっている今では、幽々子と共に未知の感覚まで味わうことになるかもしれない。そう紫は考えた。
つまり、一度行ってしまえば、後戻りはできないということ。しかし紫は、それでも幽々子がそこまで言うなら、と決意を固めた。
「幽々子が言うなら、行きましょう。どこまでも。その境界の向こう側まで。境界がなくなるまで――」
一緒に、快楽の向こう側まで――。
紫は座った状態の幽々子を膝の上に乗せて抱きしめた。普通の抱擁と違ってより身体が密着する。その状態で紫は幽々子への愛撫を始めた。
まずは頭と髪を撫でる。幽々子が身を委ねた頃合いを見計らい、幽々子の耳の裏を優しく撫でる。
「んっ」
「気持ちいい?」
「うんっ」
耳元でわざと息を吹きかけるように囁くと、幽々子は身体を震わせながら頷いた。そのまましばらくの間、耳や首筋を指でなぞるように撫でていった。
時折幽々子が発する小さな声を聞くと、愛撫されていない自らの興奮も高まっていく。そうしてお互いの興奮が高まったところで、紫は一旦愛撫を止めた。
手を止めた紫に対して、幽々子は物欲しげな瞳で見つめ返す。
そしてついに、一つの境界を越えるときがやってきた。
「幽々子。目を閉じて。肩の力を抜いて楽にして」
「分かったわ」
幽々子は言われたとおりに目を閉じ、強張っていた肩の筋肉を緩めた。闇の向こう側で紫が何をしているのかは分からないが、微かな息遣いだけは伝わってきている。紫の指が幽々子の顎を少し持ち上げる。
直後に、幽々子の唇に熱く柔らかいものが触れた。
紫が自身の唇を幽々子の唇に押し付けたのだ。
「ん……」
「…………」
紫と幽々子は、初めての口付けを交わした。
目を閉じていた幽々子は少し驚いた後に全てを悟り、唇に触れる柔らかい感触を静かに感じていた。
紫は数秒で唇を離し、幽々子に目を開けるように言った。
「どう?」
「どうって、それを私に言わせるの?」
「初めてをもらったんだから、感想くらい聞かせてくれたっていいじゃない」
「……柔らかくて、熱くて。胸に得体の知れないものがこみ上げて来て――」
「うん」
「とても気持ちよかったわ」
幽々子は最後だけ恥ずかしがりながら感想を口にした。そんな幽々子の姿に紫はさらに愛らしさを感じてしまう。
「もう一回する?」
「……うん」
「じゃあ、目を閉じて」
幽々子は指示に従う。紫は今度は幽々子の頬と後頭部を支え、口付けと同時に幽々子の頭を引き寄せた。
先ほどより強い感触が唇に生まれる。それも、柔らかい感触が何度も強く押し付けられた。
「んっ。んん……ゆかり、ん、好き……」
「ゆゆこ……んっ。好きよ、ゆゆこ」
唇が重なる度に、相手への愛しさが増していくような感覚に陥る。唇が押し付けられるたびに、もっと強く、もっと長くと思ってしまう。
「愛してるわ、幽々子」
先ほど先を越された言葉を伝える。幽々子は熱っぽい瞳で「私もよ」と返事をした。
「ねえ、もう一回」
欲張りな幽々子が子どものように口付けをねだる。紫は唇を重ね、今度は幽々子の唇を少しついばむようにしてみた。すると幽々子は唇を閉じたまま、「んっ……んっ……」と喉の奥から声にならない声を出す。そんな声すらも、紫には愛しく感じられ、さらに興奮が高まっていった。
「もう一回……」
「…………」
「もう一回……」と幽々子がねだると、紫はその分だけ口付けをしてあげた。時には数秒で終わらせてしまったり、呼吸が続く限り長い口付けを交わしてみたりした。そのどれもが愛しくて、切なくて、そして気持ちよかった。
誰も入ることができない、二人だけの世界がそこにあった。
紫は一度口付けをやめて幽々子を抱きしめた。幽々子は抱擁を受けながらも不満げに言った。
「紫? どうしてやめるの?」
「同じことばかりじゃ飽きちゃうでしょ」
「でも、もっとして欲しい」
「ふふ。分かってる」
「じゃあ、なんで」
熱を帯びた瞳で紫に口付けをねだる。しかし、紫はその期待には応えようとはせず、不敵な笑みを浮かべて言った。
「幽々子の弱点でも探そうと思ってね」
耳元で囁いた紫はそのまま幽々子の耳たぶを優しく口に咥えた。
「ひゃうぅ」
「やっぱり耳が弱いのね」
幽々子は耳元で囁く紫の声で、全身がぞくぞくと不思議な感覚に陥っている。そして耳の裏を撫でられながら耳たぶを甘噛みされると、意図せず甘い声が出てしまう。
唇だけを使っていた紫が、今度は舌まで使って耳を攻める。艶かしい音が直接耳に入るせいで、幽々子は余計に高ぶってしまう。
紫はさらに弱点を開発しようと、空いている手で幽々子の大髄あたりを撫で始めた。するとすぐに幽々子の悶えが大きくなり、甘い声が発せられる。
「だめっ、ゆかり、そこは、はうぅ」
「ここも弱いの? 幽々子ったら弱点ばっかりじゃない」
悪戯っぽく見つめながら言うと、幽々子は違うの、と言い逃れしようとする。
「何が違うの? こんなに震えてるくせに」
「だめ、一度、離して……」
幽々子には抵抗する十分な力が無く、やっとの思いで紫の手を払いのけた。呼吸を整え、心臓の鼓動を抑え、とろけたような瞳で紫を見つめながら言った。
「私をそんないやらしい女みたいな言い方しないで」
「だって、幽々子ったらどこ触っても敏感なんだもの。弱点だらけじゃない」
違うもん、と幽々子は紫の胸に寄りかかる。そしておもむろに紫の顔を見上げ、先ほどと同じとろんとした瞳で、紫に対して上目遣いで言った。
「紫に触られるから、感じちゃうの。私は、”紫に”弱いの」
紫の中で理性を支える糸が一本切れてしまった瞬間であった。
愛しい人が上目遣いでこんなことを言ってきたら興奮するに決まってるじゃない。これも天然だと思うと……幽々子は恐ろしい子ね、と紫は密かにおののいた。
もっと進もう。もう一つ、いいえ、二つでも三つでも、幽々子と境界を越えたい、と紫は思った。
「もう一つ、境界を越えてみる?」
「うん」
「じゃあ、目を閉じて、舌を出して」
「舌ってこれのこと?」
幽々子がさんざん口付けを交わしたその唇の間から、ぺろりと血色のいい赤い舌を出した。それよ、と紫が頷く。幽々子はこの行為が何を意味するものなのか理解していないようだった。
紫は幽々子が目を閉じたのを確認し、その赤い舌を甘噛みするように上唇と下唇の間に挟んだ。
「へゃっ、んんっ――はへ……」
予想外の出来事に幽々子は嬌声を上げる。それでも紫は想定内とばかりに混乱する幽々子を攻め立てる。自らの舌を幽々子の口腔内へ差し込み、歯茎など敏感な部分を探して攻める。
「あっ……ん、んはぁっ、ゆかひ……」
息苦しそう喘ぐ幽々子の声が、紫を更なる興奮へ導く。紫も幽々子も、頭の中は愛しさと快楽でいっぱいだった。
攻め立てを終えた紫が舌を引き抜く。幽々子の口腔内から紫の舌先へ細い糸が繋がっていた。
「ゆ、かり? 今のは」
「ふふ。大人のキスというやつよ」
呼吸を乱し、だらしなく舌を出している幽々子は、まだ何が起きたのかよく分かっていない。やや酸欠ぎみの幽々子の頭では、現状の理解に追いつくのが難しかった。
あまりにも幽々子が放心していたので、紫は少し不安になって幽々子を気遣う。
「怖かった?」
「ううん……怖くはなかった。けど、何て言うか。すごかった」
「びっくりしちゃった?」
「うん。でも、ほんとに怖くはなかったわ」
「じゃあ、気持ちよかった?」
幽々子は耳まで真っ赤にして俯きながら「うん」と恥ずかしそうに頷いたのだった。
「それに、ほら」
「なあに?」
幽々子は見つめてくる紫の顔を一度見つめ返したが、さすがに正面を切っては言えないと思い、どこかに視線を逸らしながら照れるように呟いた。
「その……境界を越えるのも、悪くないかなって思ったの」
その言葉で、紫の理性を支えていた糸が完全に切れてしまった。幽々子を見つめる紫の目つきに、野性的なものが混じった瞬間であった。
「そう。なら一緒に行きましょう。愛しさと、快楽の境界の向こう側まで」
そう言って紫は幽々子を抱きしめ、首筋にキスを落とした。幽々子が快感に悶えている間に、紫は肩口から幽々子の服をどんどんはだけさせていった。
「ちょっ、紫、あんっ、どこまで、いくつもりなの?」
「最後まで。いいえ、どこまでもよ」
いけるところまでいくの、と紫は呟き、快感に震える幽々子の身体を抱いた。
二人の愛情表現はもう止まらなかった。
お互いの手を、痛みを感じるほど強く握り締める。未知の感覚が押し寄せてくるにつれ、二人の身体はガクガクと震えた。
その境界の向こう側へ。二人で一緒に。
「あっ――」
「んっ――」
愛し合う二人の嬌声が、静かな寝室に響き渡った。
翌朝。幽々子が目覚めると、もう随分と日が高くなっていた。
幽々子は覚醒しきっていない脳を使って状況を把握しようとする。隣には、一糸纏わぬ姿の紫が眠っていた。大事なところは布団で隠れてはいるが。
「これ、妖夢に何て言い訳をしようかしら」
こんなところを見られてしまったら、もう言い訳なんて通じないだろう。傍から見れば完全に事後の二人である。妖夢に見られたらそれまでだ、と幽々子は思考を放棄した。
「んんっ。ゆゆこ?」
「ごめんなさい。起こしちゃったわね」
「寒いわ幽々子。掛け布団めくらないで」
「はいはい」
幽々子は再び身体を横にして掛け布団の内側に入る。すると紫が身体を横に向け、幽々子の身体をまじまじと見つめ始める。
「あんまりじろじろ見ないで。恥ずかしいじゃない」
「何を今更。昨夜さんざん見たじゃない」
「あの時は暗かったし、それに夢中になってたからよかったの。もう、こっち見ないで。仰向けになって」
幽々子は紫の身体の向きを無理矢理変えさせた。そうして、自身も仰向けに寝転ぶ。目の前にはいつもの天井が広がったが、紫が隣にいるおかげで、幽々子はちっとも寂しいとは想わなかった。
「私、もうあなたのところにしかお嫁に行けないわ」
「ふふ。それなら幽々子は私が貰ってあげるわよ」
「結婚する?」
「籍を入れるわけにいかないから、代わりに誓いの口付けを交わしましょう」
そう言って紫は幽々子を見つめ、顎を支えて優しく口付けをする。幽々子は幸せに満ちた表情で口付けを受け取った。
「子どもは何人欲しい?」
幽々子がお腹をさすりながらおどけて尋ねてみせる。
「二人くらいかしら」
「それなら妖夢を入れて五人家族ね」
幽々子は自身のお腹を、まるで子どもを授かっているかのように撫でていた。すると、さすがにそのリアクションはオーバーでしょ、と紫が取り立てた。
「そんなことないわよ。昨夜あれだけ愛し合ったんですもの。子どもを授かっていてもおかしくないじゃない」
「え?」
幽々子は幸せそうに自身のお腹を撫でている。そんな幽々子を見て、紫はまさかと思い、その不可解な幽々子の言動を咎めた。
「幽々子。あなたもしかして勘違いしてるんじゃない?」
「え? 何が?」
「口付けをしただけでは赤ちゃんはできないのよ」
「え? そうなの?」
大真面目にお腹を撫でていた幽々子は、紫から教えられた真実に驚きを隠せなかった。みっともなく口をぽかんと開けている。
こんな天然な娘、もう私が貰うしかないじゃない……。と、紫は溜息交じりに呟き、幽々子の頭をぽんぽんと子どもをあやすように撫でてあげた。
前作から楽しみに待っていました。
しかし、こんなに甘いものになるとは・・・!
しかし、このシリーズの三作目は、そそわに書けない話しになりそうで、そこが残念。
私も貴女と共にいろんな事をしたいですーーーー!
そんな願望を抱いてしまった今作。とっても素晴らしかったです。
紫とゆゆさまの互いを想う強さは幻想郷一だと思います。
個人的にはゆゆさまが妖夢を抱きしめる場面が一番良かったです。
だけど妖夢の台詞の中で一部、ゆゆさまの名前に「さま」がついていないのが少し残念です。
いやー本当に良い作品でした。