真夜中の博麗神社。
こっそりと忍び込んできた人影が玄関を無視して縁側から上がり込むと、待ちかまえていたかのように障子の陰からにゅっと出てきた、白いそれ。
「はい」
目前に差し出されたのはちっちゃな手のひら。
咲夜は特に驚くこともなく、水仕事で荒れた自分の手とは全然ちがう、丸みとしなやかさを併せもったそれを綺麗だなあと眺める。
眺めて、それから自身の右手をその上に置いた。ぽふ。
「誰がお手をしろと」
「お代わりもできますわ。待ても、伏せも、ちんち」
「不法侵入した挙句にいきなり下ネタとは恐れ入るわ」
「法律のないこの郷で不法も何もない気はするけど……どうすれば見逃してくれるのかしら」
「そうねぇ……とりあえず、今日が何の日か忘れたなんて言わせないわよ」
悪魔の狗の「お手」を振り払い、ずずいと迫るのはこの神社の巫女・博麗霊夢。三白眼で腰に手を当てたガラの悪い彼女は、巫女というよりは強請りにきたチンピラかなにかのようだったが。
しかしそれでもピンとこないのか、咲夜は首を傾げつつとぼけた顔で今度は左手を置いた。お代わりである。
「……お誕生日おめでとう?」
「ちがうっての」
「トリック オア トリート?」
「惜しい。今日は素敵な巫女さんに日頃の感謝を込めておいしいものを納める日よ。他の奴らは皆もう持ってきて、あんたが最後なんだから」
「なんのことかよくわからないけど、騙されてる気がするわね。……だけどまあ、そういうことなら、はい」
咲夜の左手の下から出てきたのは、小さな包み紙。かわいいリボンで巾着のように縛ってあるそれはいくら小さいとはいえそこそこの重みがあり、とても手の中に隠しておけるようなサイズではないのだが、そこは彼女お得意のタネなし手品を使ったのだろう。
霊夢は特に驚きもせず、さっさとリボンを外して中身を確認した。
のぞきこむ瞳に一瞬、落胆の色がよぎる。
「なにこれ?」
「見たまんまクッキーですわ。ちょっと作りすぎちゃったからお裾分け」
「……なんでよりによって今日クッキーかなあ。しかもお裾分けって、あんた今何時だと思ってんのよ。もうすぐ日付変わるわよ」
「あら、うちのお屋敷ではこれからが活気づく時間だからうっかりしてたわ。うっかりついでに忍び込むつもりだったのに、まさか霊夢がこんな時間まで起きてるだなんてホントうっかり」
「迷惑な奴ねえ。泥棒は白黒ネズミ一匹で充分だってのに」
わざとなのか、天然なのか。のらりくらりとかわす咲夜に霊夢はため息を吐きつつ、無造作にクッキーをつかみ口に放り込んだ。
さくさく咀嚼するうちに、不機嫌そうだった三白眼がくるりと丸くなる。
「あれ。あんまり甘くないのね」
「ソルトクッキーだからね。甘さ控えめ大人の味よ」
「ちょうどよかったわ、お昼ご飯も晩ご飯もチョコレートだったから胸焼けしてたのよ。そういう日だとはいえ、どいつもこいつも持ってくるのは揃ってチョコチョコチョコチョコ……おかげでしばらく食べるものには困らないけど」
「人気者は大変ねえ」
他人事みたいに笑う咲夜。
霊夢の目つきがまた険しくなって、腹立ち紛れにクッキーをいっぺんに頬張った。
「……あんたは持ってきてないわけ?」
「なにを?」
「別に。あー、せっかくだしお茶でも飲んでく? こんな夜更けに来た非常識な客にも親切にしてあげる良心的な神社よ、ここは」
「せっかくだけどまだ仕事が残ってるから」
「いやクッキー食べたら咽喉乾いたのよ。お茶でも淹れてよメイドでしょ」
「メイドであろうと余所様のお宅では客ですもの。そんな不作法はできませんわ」
「いいのよそんな自分の家だと思ってよ。そんでお茶ちょーだい」
それに咲夜が淹れた方がおいしいし、と霊夢は小さく付け足した。
お世辞など言うタイプではないだろうに、珍しいこともあるものだと咲夜は聞こえなかったふりをした。咲夜にしてみれば紅茶はともかく緑茶なら、自分よりも霊夢が淹れた方がずっとおいしいと前々から思っていたのだ。
夜中の縁側で押し問答。
冬本番の今、屋根の下とはいえ吹きさらしでこれはちょっと辛い。咲夜は赤いマフラーに顔を埋め、冷たくなった鼻先を覆った。
「また今度ね。私まだこれからお嬢様たちのデザートを作らないといけないから」
「デザートって……もうクッキー作ったんでしょ?」
「いえ、今日はチョコレートプディングにチョコスコーン、チョコファッジ、それと飲み物はホットチョコレート」
「……」
「なあに?」
「いや、なんか、あんたもしかして私のこと嫌い?」
じとりと睨まれ、それでも咲夜は何食わぬ顔。
けれど横目で持参した包みが空になっているのを見て、こっそり笑った。
「霊夢も食べたかったの? でももうチョコはお腹いっぱいなんじゃなかったかしら」
「えーそりゃもう見たくもないくらいよ。それより私は餡こがいいわ、ああ饅頭こわい饅頭こわい」
「そ。こわぁいクッキーもやっつけられちゃったみたいだし、私はそろそろお暇いたしますわ」
咲夜はスカートをちょいとつまみ、様になりすぎるカーテシーで別れを告げる。それは瀟洒を通り越して嫌味なくらい完璧で、慇懃無礼とはこのことかと霊夢は舌打ちした。
腹が立ったので無防備な頭頂部にチョップ一発。「あいた」と咲夜らしからぬ間抜けな声が上がったのでいくらか溜飲を下げ、霊夢は「ちょっと待ってなさい」と言い残し室内に引っ込んだ。
いくらも経たないうちに再び現れた彼女の手には、五寸四方ほどの薄い箱がひとつあった。真っ白で何の飾り気もないその箱を咲夜の胸元に押しつける。
「お裾分け返しよ。いっぱいありすぎて食べきれないから一個持ってって」
「持ってって、て……いやでもこれ、誰かが霊夢に贈ったものなんでしょう?」
「私が持ってんだから私宛てに決まってるでしょうが」
「貰えないわよ、そんなもの」
「どうして? あんた、今日が何の日かわからないんでしょう? だったらこんなものに意味なんてないじゃない」
探るような、挑むような眼で刺され、咲夜はぐっと言葉に詰まる。
にらみ合ったまま、五秒、十秒。このまま時間止めて逃げちゃおうかしらとも考えたが、しかし相手はあの博麗の巫女だ。下手に背中など見せれば逆上して体中の穴という穴にチョコを詰め込まれるかもしれない。
懐中時計の秒針が三十回鳴ったところで咲夜は観念し、渋々その箱を受け取った。
「……申し訳ないなあ」
「せいぜい味わって食べなさい」
「いやあなたには全然申し訳なくないから」
仕方ない、これは自分用のおやつとさせてもらおう。咲夜は箱を手提げに仕舞い、地面を蹴った。
予定よりも随分と長居してしまった。霊夢はこれで案外早寝早起きなので、とうに寝ている時分だろうと踏んでいたのだ。吸血鬼でない咲夜は招かれていない家に侵入るのもお手のもの、セキュリティーもプライバシーも筒抜けな日本家屋なら尚更容易だったはずなのに――
ふと振り返る。
手を振りもせずこちらを見上げる霊夢に、咲夜は思わず問いかけた。
「ねえ霊夢。もしかして今日、私が来るの、待ってた?」
自分でも驚くくらい、素の声が出てしまった。ハッとして口をつぐんでも発した言葉はもう帰ってこない。
かわりに返ってきたのは、いつでも素な霊夢の簡潔なひと言だけだった。
「馬鹿じゃないの」
*
西の夜空に白っぽい点が消えていく。
遠ざかる咲夜の背中を見えなくなるまで見送って、霊夢はひとつため息を吐いた。
「……ばっかみたい」
こんな夜更けにこんな寒い場所で何をやっていたんだろう。かじかむ両手をすり合わせ、布団の憂鬱な冷たさを想像しながら寝室を目指す。
布団が冷たいと切ない。洋式便座が冷たかったときと同じくらい切ない。だから霊夢はいつも寝る少し前から布団の中に湯たんぽを入れるようにしているのだが、今日はそれができなかった。
――日付が変わるまでは、粘ってみよう。
そう思い珍しく夜更かしをして、いつ来るかわからない、どころか来ないかもしれない客人にそなえて湯たんぽに入れるための湯を沸かすこともできず、なのに、このザマだ。
馬鹿だなあ、と思う。
「ていうか、あいつホント何しに来たのよ。こんなギリギリに現れたと思ったらすっとぼけた顔でクッキーって」
握りしめた包み紙がくしゃりと泣く。
泣きたいのはこっちよ、と思うものの、考えるほどに腹が立ってきて泣くどころではなかった。
「まったく、なにがバレンタインだってーの。早苗がわけのわからんイベントを中途半端に布教するもんだからこんな――あん?」
今日の失敗をすべて巫女2号に押しつけ、愚痴りながら通過した居間。
いつもご飯を食べているお馴染みの卓袱台に違和感を覚え、後ろ歩きで三歩戻ってみる。
視線をやれば、よくよく見るまでもなく明らかなその異物。
四角い机のど真ん中に、赤より紅いバラの花束が横たわっていた。茨の森で眠る姫君のように美しいその佇まいは、しかし和風丸だしの庶民的な卓袱台とは破滅的に相性が悪かった。
「……なにこれ。いつの間に?」
おそるおそる抱えてみれば、花の濃厚な香りとわずかな青臭さが空気に溶ける。
なんとなく回して外観を眺めてみると、花束の中からするりと紙片が落ちた。
厚紙でできたそれはどうやらカードらしい。拾って裏返すと、そこには差出人の名前もなく、ただ一行短いメッセージが記されていた。
「私、横文字読めないんだけど」
左から右へと流れるように綴られた言葉は、霊夢には理解できないものだった。一片の詩かもしれないしインクの試し書きかもしれないそれは、読めないのなら意味なんてないのと同じで自分にとっては天井の染みと大差ない。
霊夢はここは幻想郷なんだから日本語で書きなさいよと某白黒のようなことを思いつつそれを捨てようとし、けれどわずかに逡巡して懐に仕舞った。そのうち気が向いたときにでも、魔理沙かアリスあたりに見せてみれば読んでくれるかもしれない。
「……わけわかんないけど、まあ。とりあえずは花瓶を探さなきゃね」
花弁をいじり深く息を吸い込むと、こんな情熱を形にしたような色などまるで似合わない、冬の月色をした後ろ姿が見えた気がした。
*
「馬鹿じゃないの、ねえ……」
まったくもってその通りだと、咲夜はもう見えなくなった東の神社を振り返る。
寒空の身を切るような鋭さも、鈍くなったこの心までもは刻めまい。やっぱりやめておけばよかったのにと、咲夜はひとり後悔ばかりしていた。
行くべきか、行かざるべきか。悩みに悩んでこんな時間になってしまうくらいに悩んで、やっとのことで館を出てきたというのに。
大事な仕事をほっぽり出してまで、いったい何をやっているんだろう。
「……期待してたわけじゃないけど。どうせ不可能なら、赤じゃなくて青いバラにでもすればよかったかしら」
自嘲し、お裾分けされてしまった誰のものとも知れない箱を取り出す。
簡素な見た目だし、義理(というか見かじめ料)として渡されたのかもしれないけれど、だからといって無関係な咲夜が貰っていいようなものではない。
届かなかった誰かの想い。供養するつもりで咲夜は箱を開けた。
「……まったく。あなたもひどい相手に惚れたものね」
苦笑まじりに語りかける箱の中には、少々不格好な黒いかたまりが乱雑に詰まっていた。
月は白く輝いているものの、草木もうたた寝をするこの時刻。闇の中ではそれがどんな種類のチョコレートなのか判別できないが、しかしこの見た目ではやはり義理か、あるいは試作品なのかもしれない。
そう思いつつ指先でつまんでみたとき、ちょうど帰る方向から低い鐘の音が聞こえてきた。
深夜零時にだけ鳴る紅魔館の時計塔。今日が昨日になり、明日が今日になる境界の時間。
紅魔館のバレンタインは昨夜のうちに済ませてあるけれど、しかし何でもない日だっておいしいお菓子が好きな姉妹がいるのだ、そろそろ待ちくたびれている頃だろう。
そんなことを考えながら何気なくチョコを口に入れ、しかし、咲夜の思考は一瞬にして乱れた。予想していた味や食感と、口の中のものとがことごとく異なり、自分が何を食べているのかわからなくなる。
いや、わからなくなったのではなく、初めからわかっていなかった。
「これ……餡こ?」
舌で転がすそれは、そもそもチョコレートですらない。
黒いかたまりに見えたこれは、餡だ。それも中に餅の入ったあんころ餅。
咲夜の中から言葉が消える。おいしいだとか、変な形だとか、なにも言えないまま手だけが動いてあんころ餅をまたひとつ口に運ぶ。
甘さ控えめ、あの子好みのこわいこわい餡。
「お裾分け、ねえ」
こんな日にこんなものを贈る物好きがいったいどこにいるって言うのかしら。
時計塔の鐘がまた鳴って、咲夜の意識を引き戻す。
時を止めて、今日という日が終わらないうちに、誰かが誰かへ向けた想いを味わった。
こっそりと忍び込んできた人影が玄関を無視して縁側から上がり込むと、待ちかまえていたかのように障子の陰からにゅっと出てきた、白いそれ。
「はい」
目前に差し出されたのはちっちゃな手のひら。
咲夜は特に驚くこともなく、水仕事で荒れた自分の手とは全然ちがう、丸みとしなやかさを併せもったそれを綺麗だなあと眺める。
眺めて、それから自身の右手をその上に置いた。ぽふ。
「誰がお手をしろと」
「お代わりもできますわ。待ても、伏せも、ちんち」
「不法侵入した挙句にいきなり下ネタとは恐れ入るわ」
「法律のないこの郷で不法も何もない気はするけど……どうすれば見逃してくれるのかしら」
「そうねぇ……とりあえず、今日が何の日か忘れたなんて言わせないわよ」
悪魔の狗の「お手」を振り払い、ずずいと迫るのはこの神社の巫女・博麗霊夢。三白眼で腰に手を当てたガラの悪い彼女は、巫女というよりは強請りにきたチンピラかなにかのようだったが。
しかしそれでもピンとこないのか、咲夜は首を傾げつつとぼけた顔で今度は左手を置いた。お代わりである。
「……お誕生日おめでとう?」
「ちがうっての」
「トリック オア トリート?」
「惜しい。今日は素敵な巫女さんに日頃の感謝を込めておいしいものを納める日よ。他の奴らは皆もう持ってきて、あんたが最後なんだから」
「なんのことかよくわからないけど、騙されてる気がするわね。……だけどまあ、そういうことなら、はい」
咲夜の左手の下から出てきたのは、小さな包み紙。かわいいリボンで巾着のように縛ってあるそれはいくら小さいとはいえそこそこの重みがあり、とても手の中に隠しておけるようなサイズではないのだが、そこは彼女お得意のタネなし手品を使ったのだろう。
霊夢は特に驚きもせず、さっさとリボンを外して中身を確認した。
のぞきこむ瞳に一瞬、落胆の色がよぎる。
「なにこれ?」
「見たまんまクッキーですわ。ちょっと作りすぎちゃったからお裾分け」
「……なんでよりによって今日クッキーかなあ。しかもお裾分けって、あんた今何時だと思ってんのよ。もうすぐ日付変わるわよ」
「あら、うちのお屋敷ではこれからが活気づく時間だからうっかりしてたわ。うっかりついでに忍び込むつもりだったのに、まさか霊夢がこんな時間まで起きてるだなんてホントうっかり」
「迷惑な奴ねえ。泥棒は白黒ネズミ一匹で充分だってのに」
わざとなのか、天然なのか。のらりくらりとかわす咲夜に霊夢はため息を吐きつつ、無造作にクッキーをつかみ口に放り込んだ。
さくさく咀嚼するうちに、不機嫌そうだった三白眼がくるりと丸くなる。
「あれ。あんまり甘くないのね」
「ソルトクッキーだからね。甘さ控えめ大人の味よ」
「ちょうどよかったわ、お昼ご飯も晩ご飯もチョコレートだったから胸焼けしてたのよ。そういう日だとはいえ、どいつもこいつも持ってくるのは揃ってチョコチョコチョコチョコ……おかげでしばらく食べるものには困らないけど」
「人気者は大変ねえ」
他人事みたいに笑う咲夜。
霊夢の目つきがまた険しくなって、腹立ち紛れにクッキーをいっぺんに頬張った。
「……あんたは持ってきてないわけ?」
「なにを?」
「別に。あー、せっかくだしお茶でも飲んでく? こんな夜更けに来た非常識な客にも親切にしてあげる良心的な神社よ、ここは」
「せっかくだけどまだ仕事が残ってるから」
「いやクッキー食べたら咽喉乾いたのよ。お茶でも淹れてよメイドでしょ」
「メイドであろうと余所様のお宅では客ですもの。そんな不作法はできませんわ」
「いいのよそんな自分の家だと思ってよ。そんでお茶ちょーだい」
それに咲夜が淹れた方がおいしいし、と霊夢は小さく付け足した。
お世辞など言うタイプではないだろうに、珍しいこともあるものだと咲夜は聞こえなかったふりをした。咲夜にしてみれば紅茶はともかく緑茶なら、自分よりも霊夢が淹れた方がずっとおいしいと前々から思っていたのだ。
夜中の縁側で押し問答。
冬本番の今、屋根の下とはいえ吹きさらしでこれはちょっと辛い。咲夜は赤いマフラーに顔を埋め、冷たくなった鼻先を覆った。
「また今度ね。私まだこれからお嬢様たちのデザートを作らないといけないから」
「デザートって……もうクッキー作ったんでしょ?」
「いえ、今日はチョコレートプディングにチョコスコーン、チョコファッジ、それと飲み物はホットチョコレート」
「……」
「なあに?」
「いや、なんか、あんたもしかして私のこと嫌い?」
じとりと睨まれ、それでも咲夜は何食わぬ顔。
けれど横目で持参した包みが空になっているのを見て、こっそり笑った。
「霊夢も食べたかったの? でももうチョコはお腹いっぱいなんじゃなかったかしら」
「えーそりゃもう見たくもないくらいよ。それより私は餡こがいいわ、ああ饅頭こわい饅頭こわい」
「そ。こわぁいクッキーもやっつけられちゃったみたいだし、私はそろそろお暇いたしますわ」
咲夜はスカートをちょいとつまみ、様になりすぎるカーテシーで別れを告げる。それは瀟洒を通り越して嫌味なくらい完璧で、慇懃無礼とはこのことかと霊夢は舌打ちした。
腹が立ったので無防備な頭頂部にチョップ一発。「あいた」と咲夜らしからぬ間抜けな声が上がったのでいくらか溜飲を下げ、霊夢は「ちょっと待ってなさい」と言い残し室内に引っ込んだ。
いくらも経たないうちに再び現れた彼女の手には、五寸四方ほどの薄い箱がひとつあった。真っ白で何の飾り気もないその箱を咲夜の胸元に押しつける。
「お裾分け返しよ。いっぱいありすぎて食べきれないから一個持ってって」
「持ってって、て……いやでもこれ、誰かが霊夢に贈ったものなんでしょう?」
「私が持ってんだから私宛てに決まってるでしょうが」
「貰えないわよ、そんなもの」
「どうして? あんた、今日が何の日かわからないんでしょう? だったらこんなものに意味なんてないじゃない」
探るような、挑むような眼で刺され、咲夜はぐっと言葉に詰まる。
にらみ合ったまま、五秒、十秒。このまま時間止めて逃げちゃおうかしらとも考えたが、しかし相手はあの博麗の巫女だ。下手に背中など見せれば逆上して体中の穴という穴にチョコを詰め込まれるかもしれない。
懐中時計の秒針が三十回鳴ったところで咲夜は観念し、渋々その箱を受け取った。
「……申し訳ないなあ」
「せいぜい味わって食べなさい」
「いやあなたには全然申し訳なくないから」
仕方ない、これは自分用のおやつとさせてもらおう。咲夜は箱を手提げに仕舞い、地面を蹴った。
予定よりも随分と長居してしまった。霊夢はこれで案外早寝早起きなので、とうに寝ている時分だろうと踏んでいたのだ。吸血鬼でない咲夜は招かれていない家に侵入るのもお手のもの、セキュリティーもプライバシーも筒抜けな日本家屋なら尚更容易だったはずなのに――
ふと振り返る。
手を振りもせずこちらを見上げる霊夢に、咲夜は思わず問いかけた。
「ねえ霊夢。もしかして今日、私が来るの、待ってた?」
自分でも驚くくらい、素の声が出てしまった。ハッとして口をつぐんでも発した言葉はもう帰ってこない。
かわりに返ってきたのは、いつでも素な霊夢の簡潔なひと言だけだった。
「馬鹿じゃないの」
*
西の夜空に白っぽい点が消えていく。
遠ざかる咲夜の背中を見えなくなるまで見送って、霊夢はひとつため息を吐いた。
「……ばっかみたい」
こんな夜更けにこんな寒い場所で何をやっていたんだろう。かじかむ両手をすり合わせ、布団の憂鬱な冷たさを想像しながら寝室を目指す。
布団が冷たいと切ない。洋式便座が冷たかったときと同じくらい切ない。だから霊夢はいつも寝る少し前から布団の中に湯たんぽを入れるようにしているのだが、今日はそれができなかった。
――日付が変わるまでは、粘ってみよう。
そう思い珍しく夜更かしをして、いつ来るかわからない、どころか来ないかもしれない客人にそなえて湯たんぽに入れるための湯を沸かすこともできず、なのに、このザマだ。
馬鹿だなあ、と思う。
「ていうか、あいつホント何しに来たのよ。こんなギリギリに現れたと思ったらすっとぼけた顔でクッキーって」
握りしめた包み紙がくしゃりと泣く。
泣きたいのはこっちよ、と思うものの、考えるほどに腹が立ってきて泣くどころではなかった。
「まったく、なにがバレンタインだってーの。早苗がわけのわからんイベントを中途半端に布教するもんだからこんな――あん?」
今日の失敗をすべて巫女2号に押しつけ、愚痴りながら通過した居間。
いつもご飯を食べているお馴染みの卓袱台に違和感を覚え、後ろ歩きで三歩戻ってみる。
視線をやれば、よくよく見るまでもなく明らかなその異物。
四角い机のど真ん中に、赤より紅いバラの花束が横たわっていた。茨の森で眠る姫君のように美しいその佇まいは、しかし和風丸だしの庶民的な卓袱台とは破滅的に相性が悪かった。
「……なにこれ。いつの間に?」
おそるおそる抱えてみれば、花の濃厚な香りとわずかな青臭さが空気に溶ける。
なんとなく回して外観を眺めてみると、花束の中からするりと紙片が落ちた。
厚紙でできたそれはどうやらカードらしい。拾って裏返すと、そこには差出人の名前もなく、ただ一行短いメッセージが記されていた。
「私、横文字読めないんだけど」
左から右へと流れるように綴られた言葉は、霊夢には理解できないものだった。一片の詩かもしれないしインクの試し書きかもしれないそれは、読めないのなら意味なんてないのと同じで自分にとっては天井の染みと大差ない。
霊夢はここは幻想郷なんだから日本語で書きなさいよと某白黒のようなことを思いつつそれを捨てようとし、けれどわずかに逡巡して懐に仕舞った。そのうち気が向いたときにでも、魔理沙かアリスあたりに見せてみれば読んでくれるかもしれない。
「……わけわかんないけど、まあ。とりあえずは花瓶を探さなきゃね」
花弁をいじり深く息を吸い込むと、こんな情熱を形にしたような色などまるで似合わない、冬の月色をした後ろ姿が見えた気がした。
*
「馬鹿じゃないの、ねえ……」
まったくもってその通りだと、咲夜はもう見えなくなった東の神社を振り返る。
寒空の身を切るような鋭さも、鈍くなったこの心までもは刻めまい。やっぱりやめておけばよかったのにと、咲夜はひとり後悔ばかりしていた。
行くべきか、行かざるべきか。悩みに悩んでこんな時間になってしまうくらいに悩んで、やっとのことで館を出てきたというのに。
大事な仕事をほっぽり出してまで、いったい何をやっているんだろう。
「……期待してたわけじゃないけど。どうせ不可能なら、赤じゃなくて青いバラにでもすればよかったかしら」
自嘲し、お裾分けされてしまった誰のものとも知れない箱を取り出す。
簡素な見た目だし、義理(というか見かじめ料)として渡されたのかもしれないけれど、だからといって無関係な咲夜が貰っていいようなものではない。
届かなかった誰かの想い。供養するつもりで咲夜は箱を開けた。
「……まったく。あなたもひどい相手に惚れたものね」
苦笑まじりに語りかける箱の中には、少々不格好な黒いかたまりが乱雑に詰まっていた。
月は白く輝いているものの、草木もうたた寝をするこの時刻。闇の中ではそれがどんな種類のチョコレートなのか判別できないが、しかしこの見た目ではやはり義理か、あるいは試作品なのかもしれない。
そう思いつつ指先でつまんでみたとき、ちょうど帰る方向から低い鐘の音が聞こえてきた。
深夜零時にだけ鳴る紅魔館の時計塔。今日が昨日になり、明日が今日になる境界の時間。
紅魔館のバレンタインは昨夜のうちに済ませてあるけれど、しかし何でもない日だっておいしいお菓子が好きな姉妹がいるのだ、そろそろ待ちくたびれている頃だろう。
そんなことを考えながら何気なくチョコを口に入れ、しかし、咲夜の思考は一瞬にして乱れた。予想していた味や食感と、口の中のものとがことごとく異なり、自分が何を食べているのかわからなくなる。
いや、わからなくなったのではなく、初めからわかっていなかった。
「これ……餡こ?」
舌で転がすそれは、そもそもチョコレートですらない。
黒いかたまりに見えたこれは、餡だ。それも中に餅の入ったあんころ餅。
咲夜の中から言葉が消える。おいしいだとか、変な形だとか、なにも言えないまま手だけが動いてあんころ餅をまたひとつ口に運ぶ。
甘さ控えめ、あの子好みのこわいこわい餡。
「お裾分け、ねえ」
こんな日にこんなものを贈る物好きがいったいどこにいるって言うのかしら。
時計塔の鐘がまた鳴って、咲夜の意識を引き戻す。
時を止めて、今日という日が終わらないうちに、誰かが誰かへ向けた想いを味わった。
最高でした
admirerをadmireと見間違えたから最初は意味がわからなかった
咲霊万歳!!!
素晴らしい咲霊をごちそうさまです。
バレンタインの最後の最後にいいもの読ませて頂きました。
素晴らしい咲霊ですね。最高です
そこがまた良いのですが
あまり見ない咲霊ですが、なかなか良かったと思います。