幻想郷にあるのか。それともまったく別の次元にあるのか。
どこぞと知れない屋敷の庭先で、今まさに
「くちんっ!」
その体躯からは想像できない、可愛らしいくしゃみが出た。
お天道様が高くのぼり、空も晴れ晴れとしてはいるが季節は冬。
屋敷から見える風景全てに薄い雪が積もっていた。
肌を刺す寒さは、八雲家も例外ではない。
そんな中、庭先で紫と向き合う藍は、濡れそぼった尻尾をふるふると震わせながら、ぎゅっとその身体を自分自身で抱きしめる。
「……だらしないわねぇ。私が眠っている間に鈍ってしまったかしら?」
「い、いえ、決してそのようなことは、結界の修繕作業は毎日しっかりと、入念に行っておりますし、肉体の鍛錬の方も充分に」
だが、底冷えするはずの気温の中で、藍は汗だく。衣服が身体に張り付いてしまうほどだ。おかげで扇情的な身体の起伏がはっきりと見て取れて、どことなく気恥ずかしくなる藍であった。
はやく屋敷に入ろう、そう全身で訴える藍の前。
寒さに弱い紫は身体のほとんどをスキマの中に隠しつつ、手の中の閉じた扇子の先を藍へ向ける。
「そうかしら? では、その鍛錬はちゃんと一人でやっていた?」
「う゛……」
その手の先で、藍が不自然な声を上げ、
「橙と一緒に、気を緩ませながら身体を動かしていたのでは?」
「……い、いえ、決してそのようなことは……」
「だからこそ、余計なお肉がついてきているとか?」
「あは、はははは……」
すーっと藍の視線が紫から逃げていく。
おもしろいくらいに、はっきりと。
「……はぁ、よくわかりましたわ。駄目とは言わないけれど、私が居ないからといって気を抜くのは本末転倒。橙との訓練でも、それを肝に銘じておくように」
「申し訳ありません。厳しくしなければいけないのはわかっているのですが……」
ついつい甘やかしてしまい。
一緒になって休んでしまう。
その余計な贅肉が汗の原因と、藍も理解しているようで、それでも困ったように苦笑するのは……、おそらく、橙に注意できる自信がないからだろう。
「まったく、眠っている間に成長をみせてくれると嬉しいのだけれど」
「そんな無茶を申されましても……」
その言葉通り、この大妖怪。八雲紫は冬眠する。
ただし、
『紅魔館でパーティーがある日と、博麗神社で新年会があるときは絶対起こしなさい』
そんな伝言を残して眠るモノだから、残された藍は毎年困惑していた。
本来3ヶ月以上ぐっすりと、気持ちよく眠って春を迎えるのが紫のサイクルなのだが、それを無視して起こせ。
そう命令されるのだから。
ただ、その起こし方でちょっとでも失敗すると……
「……はぁ」
「あら? 何か言いたいことでも?」
「い、いえ? 特に何も……」
むっとした目付きで布団から起き上がり、
『私が眠っていた間、ちゃんとやっていたか試しましょうか』
などと言って、いきなりかなりきつめの八つ当た――、『訓練』を不機嫌なまま実施するのも、藍が汗だくな原因の一つではあるのだが。
はっきりと言えない式の身の狭さ。
それを実感するとなんだか気が重くなり、藍の濡れた身体が余計に寒さを訴え始める。
「あの、紫様……そろそろ」
「そうね、もうすぐ準備をしないといけないわね。濡れたままというのも式にとってマイナス面が大きいから。耐水処理を施してから湯に浸かっていらっしゃい」
「はいっ!」
やっとお許しが出た。
藍は震える身体に力を込めて、軽く飛び上がると、中庭と繋がっている廊下の中央に着地。そして、とにかく囲炉裏であったまっている部屋の中へと入ろうとフスマを横に動かしたところで、
「藍様~~っ! 紫様~~っ!」
元気な声に呼び止められ、振り返る。
するとそこには、雪の上を身長に歩いてくる橙が居た。
両手で皿を持ち、何かを大事そうに運んでいるようだったが、
「……木の枝?」
皿の上には、遠目では食べ物に見えない焦げ茶色の物質がちょこんっと乗っていた。
「ブッシュ・ド・ノエル? ですか?」
「ぶっしゅ、ど、のえる? ですか?」
質の違う、二つの疑問の声が重なった。
もちろんその疑問の発生源は、橙が持ってきた奇妙な太い枝のような。
今、囲炉裏から少し離れた畳の上に置かれた、円柱を横にした形のもの。
「ええ、そうよ。確か外の世界の欧州といった地方で使われる言語の一つ。ブッシュは丸太、ノエルはクリスマス、でそれを繋ぐのが『ド』ね」
「つまり、クリスマスの丸太、ということですか?」
「そういうことね」
お風呂に浸かるのは後にして、藍は顔や前髪にこびりついた汗を拭き取りつつ、その茶色い物体を訝しげに見る。
遠くから見れば丸太に見えなくもないが、こう手に取れるほど近くにあると、何であるかは大体見当がついていたからだ。
「この甘い匂い、やはり菓子の部類ですか」
「やったっ!」
藍の言葉を聞いた橙の耳が、元気よく跳ね上がる。
目を輝かせる橙が、四つん這いになって藍の後ろを通り、そのお菓子に触れようとする。しかし藍は何故か、橙の首根っこのあたりの服を掴んで持ち上げると、自分のすぐ横に座らせた。
お預けという意味か、と。橙が正座しながら不満そうに見上げてくるが、
「橙、たぶんこのお菓子は私達の身体に良くないモノが含まれているよ」
「え?」
「わかりやすく言うなら、毒かな」
「ど、毒っ!?」
帽子を脱ぎ、湿った狐耳の毛並みを気にしながら、藍が答える。
「そうだよ、その茶色はおそらく、チョコレートというものと何かを混ぜ合わせてある。そのチョコレートの中の成分が、私達の中で悪さをするらしい」
そうやって悠々と語るが。
「……と、経験者は語る」
「ゆ、紫様っ!」
思わぬ横やりに、大慌て。一気に頬を赤くする。
「え? 藍様食べたことあるんですか? 毒なのに?」
「そうよ、橙が藍の式になる前だったかしら? 私が外の世界でいろいろ仕入れてきて戻ったとき、一口で食べられる大きさのチョコレートも一緒に持ってきたのだけれど。藍ってば、私と一緒のものを食べたいって聞かなくてね~」
「う~」
控えめな唸り声で、やめて、と訴えてみるモノの。
それを紫が聞き入れるはずもなく。
紫はにやにやと笑いながら、橙に耳打ちするように顔を近づけて。
「……半日くらい、厠から出てこなかったのよ」
「ゆ、紫様っ!」
橙だけでなく、しっかり藍にも届くように言う。
素敵なご主人様であった。
「そ、そんな昔のことは置いておくとしてですよ! こ、このような毒物を橙に持たせると言うことは、その相手に何か意図があったはずです。それを探るのが優先ではないかと、提案します!」
「まあ、必死になっちゃって♪」
「提案っ!」
「はいはい、わかったわよ。この話はもう終わりね」
くすくす、と。紫は微笑みを藍へと向けた後、
「ねえ、橙? このお菓子、どこで貰ったの?」
「えっと、ですね。人里で、新しく出来たお店がありまして、そこがお祝いだからって配ってて」
「橙も貰ってきたのね?」
「はい、でも変な名前だったから覚えられなくて、たぶんさっきの、ぶっしゅどのえる、っていうのだったと思います」
「そう……、新しいお店、ね」
「……? どうかしましたか、紫様?」
新装開店のお祝いにケーキのサービス。
かなりの損失かもしれないが、大々的なキャンペーンとしては悪くない。藍は素直にそう感じていた。
だから違和感は特に覚えなかったのだが、
「さっきも言った通り、このお菓子に使われている言葉は、現在の幻想郷の中にないものなのよ」
「……そういえば、先ほどそのようなことを」
「ということは、つまり。レミリア・スカーレットのような外の異国の妖怪や人間を引き寄せた可能性があるということね」
「この菓子の作り方だけを知っていた。というのが可能性としては大きいと思いますが」
「それでも、ゼロではない。そういったものと手早く意思疎通できなければ、新たな異変にもなりかねない。私の式であるなら、それくらい先読みして欲しいモノなのだけれど?」
「……えっと、先読みしたので、敢えて言いたくないというのは」
「あら、お利口ね♪」
紫の言い回し方。
そして、うっすらと微笑みを残したままの表情。
その全てが、藍が導き出した結論を肯定していた。
「藍、フランス語を学習してきなさい」
「……」
あまりに予想通り過ぎて、ため息だけが零れる。
「紫様、口振りからすると、フランス語、多少はおわかりになるんですよね?」
「ええ、仕入れのために外の言語は概ね理解しているわね」
「それならば、紫様が私の式に細工を施して、話せるようにすれば良いだけでは……」
「……藍、私を失望させないでくれる?」
うんざりとした表情で、藍が肩を落とすと。
嘆かわしい、と訴えるように紫が天井を仰ぐ。
「私の式である貴方が、努力を怠り楽な道を選ぼうとする。そんな状態で橙が良い子に育つと思っているの!」
「いやいや、私は効率の視点から提案しているだけで……」
「ねえ、橙? 藍ってば、勉強するのが嫌だからサボりたいって言うのよ? どう思う?」
「そういうの良くないと思います!」
「ちぇ、橙、だからね、そういう話じゃなくてっ」
「藍様! 苦手なことでもガンバレって! 昨日私に言ってました!」
「あ~もぉ~……、ちぇ~~ん……」
藍は瞳に涙を浮かべつつ、耳をぺたんっと倒した。
あきらかに面白がっているだけなのに、橙は素直に乗せられてしまう。
それが可愛いところでもあるのだが……
今のように橙まで利用されては、藍に逃げ場などあるはずもなく。
「……わかりました! やります、学習すればいいのでしょう!」
「橙、ほら、こうやって式は成長していくの」
「さすが紫様!」
「これ以上おかしな知識を橙に詰め込まないで下さい! で、決まったからには徹底的にやる所存ですが、教材や資料などはどうすれば?」
半ばやけくそになって、藍が承諾すると。
紫は片目だけ閉じて、
「外界のことは、それを知る人物に尋ねるのが一番ね。もしくはそれが記された書物」
「……なるほど、そちらの地方から来たと思われる紅魔館の助力を願えと。講師はパチュリー・ノーレッジというところでしょうか」
「そうね。寺子屋、紅魔館支店。といったところかしら。橙も来年の春から寺子屋に通うからちょうど良いじゃない」
「それって、一緒にして良いんでしょうか」
「いいのよ」
「はぁ……」
「やった、一緒ですね! 藍様!」
「うん、まあ、そうなんだけどね……」
喜んで良いのか、悲しんで良いのか。
はしゃぐ橙の横で、藍は頭を抱えることしかできない。
「ぴっかぴっかの、一年生ってやつよ」
「ぴっかぴかですか!」
この年になって、入学生。
そう考えるだけで藍の頭痛は大きくなるというものだ。
濡れたままの服がさらに重くなったように、全身が沈んだようにも見えた。
「橙の入学用の道具も外界から取り寄せ済み。ふふ、あの半人半妖も目を丸くするかしら」
「あ、藍様が持ってきてくれたアレのことですね!」
「そうね、アレよ」
ただ、そんな落ち込んだ状態であってもだ。
橙のアレを背負った姿を想像しただけで、尻尾が揺れだし、耳が上がり始め。少しずつ精神的に回復していくのがさすが藍といったところか。
ただ、そんな微かな表情の変化すら遊びに取り入れる立派な主人が居るわけで。
「……藍にも必要かしら」
「っ!?」
直後。
藍がもの凄い速度で畳の上を滑り、紫から距離を取る。
ずざざっ
と、畳の表面が焼き切れてしまうんじゃないかと言うくらい。
本気の速度であった。
「……冗談、ですよね?」
アレを身に付ける。
それだけで苦行以外の何ものでもない。
ただし、それを行おうとしているのが紫なのだ。
アレを背負うだけで終わるはずがない。
「仮にも、私は九尾という。それなりの年齢を重ねた妖狐であって、やはりソレに見合った居住まいでいることが正しいと思うわけです。ええ、そうでなければならないというか。紫様の式としての威厳が保てなくなるゆえ紫様にも迷惑が掛かるのではないかと思う次第でありまして、そのような暴挙は賛同しかねると申しますか、えっと、その――」
しどろもどろになりながら、紫の説得を試みる。
が、藍は紫の口元がどんどんと笑みの形になっていくのを見逃さなかった。
そして、ソレと同時に行われるはずの残虐非道の行為に思い当たってしまう。
それを考えただけで、訓練の時とは違う脂汗が全身からこぼれ落ちて……
「橙?」
「なんですか? 紫様」
もちろん、その残虐行為とは。
外の世界の、ぴっかぴっかの一年生用のアレ。
『ランドセル』という罪深き業を背負わせる同時に、
「藍を脱がしちゃいなさい」
「はいっ!」
「な、ななななななっ!?」
子供用の服を着せること。
死ぬ。
そんなことをされると、精神的に死ぬ。
そう悟った藍は慌てて部屋を飛び出そうとするが。
身体能力で劣るはず橙にあっさり組み付かれ、畳の上に転がされてしまう。
そんな馬鹿な、と。
目を見開き、なんとか上半身だけ起こして紫の方を見ると。
慌てて、スキマから指を引き抜いているところだった。
「紫様?」
「何かしら?」
「何かしましたね?」
「していないわ」
「そうですか、式の干渉すごいですね」
「それほどでもないわ」
「してるじゃないですかっ! 馬鹿ですか、いえ、紫様は馬鹿です! 非常時でもないのに私の式を弄ってまで何をしているのですか!」
「暇つぶし♪」
「素敵な笑顔で言い切らないで下さいっ!」
その間にも橙は命令通り藍の服を脱がそうとしてくる。
橙としてはじゃれついているだけなのだろうが、藍としてはもう死活問題。
九尾の存在意義を掛けた聖戦であった。
「観念しなさい、藍……、あなたを立派な一年生にするために必要なことなのよ」
「遠慮しますっ! やっぱり学習なんてどうでもいいのでっ!」
「なるほど、『どう』に『でも』して『良い』のね!」
「ゲスの極みっ!」
必死になればなるほど、泥沼に潜り込んでいく気がするが。
もう引くことなどできない。
「ランドセルルックなど! 死んでも拒否します!」
藍は言い切り、紫をキッと睨む。
しかし、紫は。
「……なんのこと?」
本当にわけがわからないと言うような顔で、首を傾げるばかりだった。
それでも橙の手は止まらず、藍の服を奪い取っていく。
なんだろうかこの矛盾。
「とぼけないでください。ならば何故、橙に私の服を脱がせているのですか!」
「あらあら、藍。それは勘違いというモノだわ。私は着替えさせるために脱がせているのではないの。今の藍の衣服が必要だから脱がせているのです」
「余計に訳がわかりません!」
「仕方ないわねぇ……、それくらい私の式なら察して欲しいのだけれど。さっきフランス語の話をしたでしょう?」
「言葉遊びなど無理です! その言語自体よく知らないとお答えしたではありませんか!」
「……それもそうね」
いつもの外衣を剥ぎ取られ、下地の着物だけになった藍を前に紫は唇に指を当て、
「目の付け所は良いのだけれど、言語を知らなかった故に考えつかなかった。それならば仕方ない」
「ですから、もうちょっとわかりやすい説明を!」
残りの衣服まで奪おうとする橙に抵抗しつつ、藍が苛立つ声を上げると。
「塩」
「は?」
「塩なのよ」
余計に意味がわからなくなって、藍の目が点になる。
「で、ブッシュ、ド、ノエル」
「……」
加えて話がそこまで戻るらしい。
もう、藍の頭は混乱を通り越して、錯乱状態で――
ぴん、ときた。
何かが降りてきた感覚と同時に、藍の頭に一つの答えが浮かび上がる。
単純で、
馬鹿馬鹿しくて、
まったくもってくだらない。
本当に考えたくもない結論であったが、
おそらくそれが答えなのだろうと、確信してしまう。
「わかったかしら?」
「ええ、不本意ですが……」
運動と、
精神的なプレッシャー、
それにより、たっぷり藍の汗を吸い取った衣服。
そのエキスを抽出することでできる可能性がある物質。
その単語をフランス語でこう呼ぶのなら、
それこそが――
『藍、ド、セル』(塩の藍)
つまり、藍風味の塩。
そう理解して。
「はははははっ」
藍は笑った。
「あはは、あはははははっ」
脱がされ続けつつ、紫に笑顔を振りまき続ける。
「うふふ、面白いでしょう? でも、藍の塩だと、なんだか卑猥――」
翌年の春、
紫の食事から塩分が消えた。