「今日はバレンタインなんですよ、屠自古」
「……はぁ」
お茶を呑み一息ついた神子が笑顔でそう言うと、屠自古は微かに眉を潜ませた。
一縷の風も吹かないような広い道場内で、神子はさもわくわくというように両手の拳を屠自古の前で握っている。
屠自古は旦那の不可解な投げかけに思わず「は?」と言わなくて良かったと思いつつ、嘆息を交えながら神子に向き直る。
「バレンタインですよ、バレンタイン。世の一部の男子達がそわそわしているという」
「お言葉ですが太子様、太子様は今女ではありませんか」
「私は旦那ですよ。それとも屠自古、本当に何も用意してないの?」
「そもそも私は、そのヴァーレンハイト……じゃない、バレンタインなんて知りませんし」
屠自古の返答に神子はんまっと手を口に当てるやいなや、しゅーんと落ち込んでしまった。
先程まで稲穂の先端のように揺れていた耳毛が、今では豪雨にうたれたかのようにしおれてしまっている。
その様子に屠自古は、仕方ないじゃないですかと心中で毒づいた。
大体この旦那、言うことが唐突すぎるのである。
自分一人で何でも出来てしまうからか、政策も即日実行であった神子は、事の前でも助言すらしないというはた迷惑なことをちょくちょくやらかしている。
それは紛れもなく無自覚で、かつ無遠慮だったのだ。
そういえば布都が何かと喚いていたような、と今はいない宿敵のことを思い浮かべつつ、落ち込む神子の頭をぽんと叩いてやった。
神子はそっとしなだれると、すうと屠自古の香りを嗅ぐ。
洗髪に使ったのであろう、若い竹の香りがした。
「太子様、蘇なら作ってあげますから。お時間を少々いただきますが」
「はぁぁ。蘇と言われましてもねえ、あれ牛乳を煮詰めて煮詰めて煮詰めただけのものじゃない。幻想郷には手間もかからず美味しいものがありますしー」
「あんまりワガママ言うと、屠自古怒っちゃいますよ」
「屠自古自身の蘇が食べたい」
「はぁ!? な、何を言ってるんですかっ!」
「ちょばばばば!?」
そのまま子犬のように言うことを聞いてくれるかと思えば、神子はぷうと頬を膨らませた。
神子は神子で屠自古が「冗談ですよ。はい、これがチョコです。屠自古の愛をありったけ込めて……♪」と言うのを期待していた上に、実は隠し持っているのではと内心思っていた。
そんな彼女の願望を突っぱねるように、屠自古は浮ついたことを言う神子に雷を落とす。
いや、厳密には落としてしまった。あまりにもびっくりしたためである。
屠自古は自身の凶行に一瞬顔を青ざめるが、すぐさまつんとした表情を取り戻した。
「た、太子様が悪いんですからね。そんな破廉恥な事を閨の外でも言うお方だったとは……!」
「おや、屠自古。閨の中なら言ってもいいのかい?」
「言っていいわけあるかアホ!」
「ぎゃあ理不尽ですー!?」
そして、二度目の雷が落ちてしまった。
ばちばちばちと鈍い音がすると、神子はばったりと床に伏してしまう。
神子のビジョンでは今頃甘くとろけるようなチョコが口の中で転がっている頃だったのだが、過ぎた言動のせいで冷たい床と接吻することとなってしまった。
戸解仙となるための長い眠りは、神子の頭を大幅に怠けさせてしまったのである。
暫く顔を紅潮させ肩で息をしていた屠自古であったが、やがて自分の所業を恐ろしく思い、そそくさとこの場から離脱していく。
「ううぅ、屠自古、とじこー……どこに行くのとじこ~……」
まるで怨霊のような声をあげながら啜り泣く神子を背に、屠自古は逃げるように道場を後にするのだった。
◆
長く暗い道場の出口を通ると、屠自古は人里の瓶からにゅるりとはい出た。仙界に存在している神子の道場はどこにでも繋がっているのだ。
たまたま瓶の近くで串団子を食べていた里人がぽろりと串をこぼすのを横目で見ると、ふんと鼻を鳴らす。
彼女とて神子の妻である。故に旦那に泣かれると胸が痛いのだ。
道場の出口から出る時もそうである、暗く細い道はまるで今の神子の心を表しているかのようで、気にくわなかった。
屠自古は自分が悪くないと思っておきながら、同時に虫の居所が悪くなっていた。
「バレンタインバレンタインって、何よ。そんなに言われたら気になるじゃないの」
人目に付くことを構わず、屠自古は人混みの中を通っていく。
いつもは中々寄る機会がない人里であったが、屠自古の記憶の中でこんなに人混みがあっただろうか。
これもそのバレンタインという記念日が原因なのだろうか。
溢れ返る民衆を避けていくと、屠自古は段々息苦しさを覚えていた。
周りに見える人々の生き生きとした姿。
遠くから見ても分かる、生きている人達。
そんな中で自分だけが死に、今こうして民衆に揉まれていようとは。
私は一体、何をしているのだろうと、屠自古はわけが分からない感情に振り回される。
そんな頭の中に浮かぶのは、神子がバレンタインなんですよと言った時の笑顔だった。
「全くなんだっていうんよ……いたっ」
「おわっ?」
自然と俯き調子となっていた屠自古が、はっと顔を上げた。
誰かに正面からぶつかってしまったのだ。
いけない、色々考えていて周りが見えていなかったのだろう。
そう思い反射的にぶつかった人に頭を下げる屠自古であったが、そこには見知った顔が下から明るい顔を見せていた。
「おう、屠自古ではないか! どうしたのだ、そんな辛気くさい顔をして」
「布都……お前か」
ぶつかり尻餅をついていた布都は元気よく立ち上がると、スカートについていた土を手で払った。
物部布都。神子や屠自古と同時に戸解仙として眠った人物であり、屠自古の生を奪った張本人でもある。
屠自古はそんな布都の行動を訝しく思いながら、もう片方の手に持っていた紙袋を見つける。
恐らくあれもチョコなのだろうと思うと、気が滅入る思いがした。
布都は屠自古の視線に気づくと、悪びれずに首を傾げた。
「おぬしはもう太子様にチョコ渡したのか?」
「渡してるわけないじゃない。欲しいとも言われなかったし、用意もしてないし」
「なんと、それは良くない! 太子様の妻たるもの、夫を喜ばせることが至上の喜びよ。なれば、如何なる状況にも対応出来てこそではないか?」
「……それは、そうかもしれんが」
布都の純粋な言葉が、心に響く。
普段こそトラブルメイクの達人である彼女だが、やる時はやる人物なのだ。
そうでないと、神子と一緒に戸解仙にはなれなかっただろう。逆に言えば、布都が優秀だからこそ今こうして笑っていられるのだ。
霊足を絡ませながら思い悩む屠自古だったが、不意に手を引っ張られる。
まるで遊びに行こうと言わんばかりに、布都が引っ張ったのだ。
「ほれ、今ならまだ間に合う。太子様のためにチョコを作れば良いではないか」
「……作れたら苦労はしないわよ」
「……」
「そんな顔をすんなこっちが不安になるだろうが!」
まるで「え? それじゃもうダメなんじゃないの?」とでも言わんばかりに顔面蒼白となった布都に、屠自古が吼える。
神子の前では極力抑えているのだが、本来の屠自古は気がかなり短く、また口調が荒い。
ガラが悪いところも魅力の一つですよ、と神子は考え、布都はむしろ腹を割って話せるから楽、と考えていた。
要するに彼女の特徴なのである。
「ま、まあそれはおいおいということで、な。とりあえず菓子屋にでも行ってみようではないか!」
「おいっ、ちょっと待ちやがれ布都っ! 一人で歩けるからそんな引っ張るなっての!」
「よいではないかよいではないか」
「これは見せ物じゃねーんだよ! 離せ、離せえええぇっ!」
さて、このまま人里で騒動を起こされてもと考えたのか、布都は顔色を変え屠自古を連れていく。
あれよあれよと引っ張られていった屠自古は、ふよふよ宙を舞うことになってしまった。
そして勿論民衆が見逃すわけがなく、視線がこちらに集中するのが分かる。
第三者から見ればまるで風船のようであり、お母さんあれ買ってーという子供の声が遠くから聞こえる中、視線に耐えかねた屠自古は言葉の雷を何度も落とすのだった。
◆
「ほれ、ついたぞ。我らが太子様のために選ぶが良い! 我お気に入りの店でもあるからな」
「ち、畜生……覚えてろよ、布都ぉ……!」
こうしてお菓子屋に着く頃には、屠自古はぼろぼろになってしまったのだった。
物珍しさと白い霊足で入道屋と間違われてしまい、道行く人にぺたぺた触られてしまったのである。
コノウラミハラサデオクベキカと呪詛を唱える屠自古を置き去りにして、布都は店内に入っていった。
何時になく意気揚々としている布都に何であいつあんなに元気なんだよとぼやきつつ、屠自古も続いて暖簾を潜る。
「いらっしゃいませー♪」
中に入ると白いエプロンを身に纏い、髪下ろしした長い青髪が映える店員がにこやかな笑顔を浮かべた。
他に従業員や客がいない上に、入った左手に木製の簡素なレジ、右手にずらりと商品が並んでいる、平々凡々の店だった。
それと確認すると同時に、鼻孔をふっと甘ったるいチョコの香りで擽られ、思わずぶると身震いしてしまった。
経験したことのない感覚。言うなれば飛鳥の時代に薬味として使う山葵を間違えて食べた時のような衝撃。
屠自古が気づいた時には、口の中では温かい液体が氾濫してしまっていた。
唾液である。
「ち、ちょっと、布都っ」
「店主よ、これはおいくらかの。……おお、試供品とな! それでは二つ程いただけるかな」
過敏になる感覚に不安を感じ始めた屠自古は、くいくいと布都の袖を引っ張り訴える。
異世界だった。何もかもが異常だった。
この蘇我屠自古という人物は、生まれてこの方甘味は蘇や季節ごとに穫れる果物しか食べたことがなかったのである。
加えて、屠自古は欲が薄い女であった。
普通の食事をし、蘇我の女として少し裕福な生活をし、質素に暮らしてきたのだ。
神子に会うまでは、という言葉も加えておこう。
「なんぞ? ……急に、大人しゅうなったな」
「私、こんな甘い香りする食べ物知らない」
「そうか、なれば初体験であるな! ほれ、屠自古。あーん」
「自分で食べられるわ気持ち悪いっ!」
にやつきながら試供品のチョコを渡してくる布都をぺしと叩きながらも、半ば奪うようにして屠自古はじっくりとそれを眺めた。
かたい。台形。茶色い。何かつやつやしてる。
そして、先ほど鼻を通った心地よい香り。
神子が尸解仙になるための偽りの病に伏せた時に飲んでいた薬にそっくりという感想が出たが、あれは食べるものではなかった。
一息置き口に放り込むと、チョコが溶け舌全体が甘い液体に覆われていく。
カカオと砂糖の海が生まれ、中に入っていた何かが舌に伝う。
その何かは溢れる甘さの中で懐かしく、またどこかで食べたような味だった。
濃厚な牛乳の香りと、ほんのちょっぴりの甘さ。
しかしそれはほんの一瞬であり、舌先から根元まで到達したかと思うと、すっと溶けてしまった。
やや拍子抜けしていると、近づいて来た布都が見上げてくる。
あの時の神子は犬であったが、こっちは猫のように思えた。
「いかがであったかな? 初めてのチョコは」
「……油っぽい」
「ふふふ。その油っこさが後々忘れられなくなってくるぞ?」
「何だ、それじゃあ毒みたいものじゃないの」
「そうであるな。万人を魅了して止まない魔性の毒よ」
そのまま屠自古の頬を緩んでおるしなと言おうとした布都であったが、電撃が落ちることを想定してやめた。
さすがにお店に迷惑がかかる上に、運悪く焼失しては勿体無い。
布都が惜しむ程の味を体感した屠自古は、改めて舌先で甘い残り香を味わおうとする。
しかし殆ど残っておらず、ただただ伸びた舌が咥内が這いずり回るだけ。
屠自古はちっ、と口の中で舌うちをすると、布都を押し一緒に店主の元へと近づいていく。
チョコの香りの中に、店員が付けていたのであろう柑橘系の香水の香りが混ざった。
「わわ、何事か?」
「布都、あんた買うんじゃないの」
「我はもう別のを買っておるからな。何故我を連れていくのだ」
「……買って」
「え?」
「あれを太子様にやるから、布都が買って」
屠自古の珍妙な提案にきょとんとする布都であったが、やがて自信に満ちた顔で屠自古の頬をつつく。
いつもは外す彼女の読みであったが、今回ばかりは間違えようが無かった。
無言で瞳を逸らす屠自古に対し、耳元でぽそりと呟いた。
「おぬし……恥ずかしいのだな?」
「…………」
「無言は肯定の意味であるが」
「布都、お前私に雷落とさせたいのか……?」
「はっはっは、屠自古はかわいいのう! あいわかった、だからその静電気を引っ込めよ。髪が乱れる」
ぱちぱちと音がたつ程の静電気を帯電していた屠自古は、ふんと赤らめた顔を隠すようにそっぽを向いた。
布都は手櫛で髪を軽く整えると、屠自古の視線を背に受けながら上機嫌に店員の元へと歩いていく。
自分が頼られてるという純粋な嬉しさと、やっと素直になってくれたという安堵感と胸に留めながら。
「店主ー、これをくれ! 我も食べたいから二つ!」
「はーい。……あら、もしかしてコレですか?」
「うんにゃ、我ではないのだ。ちょいと連れの者がな」
「おいコラ布都ぉ!」
段々調子に乗り始めた布都を諌めようと屠自古が声を出すと、店主は首を伸ばし離れていた彼女を一目見る。
そしてすぐに柔和な笑みを浮かべると、チョコが入ったピンク色の箱を緑や黄のリボンで何重にもラッピングし始めた。
店主のささやかなサービスである。
「まあまあ、可愛らしい亡霊さんですね。頑張ってくださいまし♪」
「~~っ! ほら買えるもの買ったらさっさと帰るぞ!」
「ま、待て待て待て、まだお代を払っておらんぞ!? すまぬ店主よ、また今度払いに来るからなー!」
「うふふ。その必要はありませんよ」
いてもたってもいられなくなったのか、屠自古が財布を持ったままの布都をずるずると引っ張り店を出ていってしまった。
店主は軽く礼をしつつ、布都と屠自古を見送る。
客がいなくなり瞬く間に店が静かになると、改めて騒がしい光景を振り返り、笑みを深くする。
そして途中まで結んであった白いリボンを解くと、そっとレジの上に置いて呟く。
「お店は、今日でおしまいですもの」
後ろで留めていた髪留めが、ころんと地面を転がった。
◆
「はあ……屠自古はいないし、布都もいない。青娥はいつものようにどこかに行ったと」
夕方にさしかかり、二度の雷撃を受けた神子は立ち上がれる程度には回復した。
しかし、体は良くても心が粉々となってしまっては、さほど喜びを感じられない。
神子がそっと床を撫でると、床に付着した焦げが無くなり、元の歪みの無い木目の板が姿を表した。
心もこのようにリセット出来れば良いのになと考え、有りもしない考えを一笑に伏した。
出来ないことを考えても仕方がない。そう割り切り、今日は自分が夕食を用意しようかなと思い立つ。
すると、耳につけていたヘッドホンが聞き慣れた声をキャッチした。
「と、屠自古! さすがにもう良いのではないかっ、そんなに引っ張らなくてもあだだだだ! 綺麗な床な分擦れて熱いいいいい!?」
「うるせえっ、私に恥をかかせたお前が悪いんだよ! 全く余計なことを……」
二人が道場に帰って来たのである。
何やらどたどたと騒がしい音を立てていたが、独りだった神子にとっては些細な問題だった。
こうしてはいられないと思った神子は、改めて椅子に座り直す。
未だに心についた傷は癒されていないのだが、最低限の体裁は保ちたいのである。
やがて二人の姿が見えてくると、神子も音の正体を理解するのだった。
「あ、太子様。まだいて良かったです」
「おぉぉ……おぬし、我のこと考えておらんだろ……」
「一体どうしたのですか。そんな無理に布都を引っ張ってきて」
「え? あー……その、こいつが駄々をこねまして」
床で青魚のように体をくねらせる布都であったが、やがて少し休むと言い二人から距離をおく。
これは勿論嘘であり、屠自古と神子のお膳たてをするためである。
二人の仲を取り持つためには、自分が少々泥を被っても構わない。布都はそう考えていたのだ。
さて、騒がしい音も無くなり、屠自古は神子と向き合う。
屠自古は神子を見ると、申し訳なさそうに視線を下に向けた。
旦那に二度も雷を落としてしまった。そんな自らの愚かしい行為に再び胸を痛めてしまっていた。
「太子様、今朝は本当にすみませんでした」
「いや、屠自古が悪く思う必要は無い。また君を悲しませてしまったね」
「いいえ。妻たるもの、旦那のどんな願いも叶えてやるべきだったと……人里を歩いて思っていたのです」
神子は欲を読む。
自分の前では正直な屠自古が嘘をつくはずは無いと思っていたのだが、自然と読んでしまっていた。
屠自古の中では確かに、呵責と無念の気持ちが渦巻いていた。
しかしそれは、一人で抱え込むには大きすぎる。
そう察した神子は、手を伸ばし迷う彼女の頬に触れる。壊さないように、優しく。
話している間も目を伏せていた屠自古であったが、神子の手の温度を感じるととくんと胸が痛んだ。
「うん、ありがとう。でもね屠自古。私達は夫婦だ」
「ええ」
「屠自古だけが抱える必要はない。私達二人で喜びも悲しみも、苦しみも抱えてこそだと思わないかな?」
「……はい。すみませんでした」
「謝る必要はないよ。斯様な些細なことで仲が崩れるほど、私は気が小さくはないから」
屠自古は引っ張られる感覚を感じると、神子の胸に埋まっていた。
硬いような、柔らかいような、温かいような感触。
そのまま頭を撫でられると、屠自古は不意に涙腺が緩みそうになった。
幾千年前に置いてきた、両親と共にいるような感覚。忘れかけていた温もり。
神子は小さく震える屠自古を撫でたまま、あやすように背中を撫でる。
子供のように丸くなった背中を、つぅと神子の手が愛撫した。
「もっと私を頼ってほしい。そしてもう一度、同じ道を歩いてほしい」
「太子様、私は……歩きたい。いえ、歩かせてください」
「屠自古」
「それで、太子様。私は今朝のことがどうしても頭が離れなくて」
「何、気にすることはな……」
鼻がつんと痛むのを堪えて、意を決した屠自古はピンク色の箱を神子の前に差し出した。
黄と緑のリボンが揺れ、それが神子のセピアの瞳の中に吸い込まれていく。
すると、先程まで紡いでいた言葉がぱったりと止んでしまった。
その時の静けさはしんとした道場内をも上回るような、ピアノの糸のような緊張を孕んでいて。
屠自古は顔をあげ、ん、と念を押しながら箱を神子に押し付ける。
箱を挟んで見つめる両者の顔は、赤く染まっていた。
「え、あの。とじこ」
「……受け取ってください」
「あのっ」
「受け取ってください! 何にも言わずに!」
「え、あっ。はいっ」
神子は恐る恐る箱を受けとると、努めて自然に笑おうとした。
しかし、それは出来なかった。チョコの箱を渡されて、漸く喜びの実感が湧いてきたのである。
その結果、とてもぎこちないものとなってしまった。
「あ、ありがとう、とじこ」
「……ふふっ」
「なっ! 何で笑うことがありますか!」
「神子様、かわいいです」
「それは君が言っていいことではないっ、ああもう!」
「ひゃっ? あ……」
ぱふと顔を上気させた神子が箱が潰れそうになるのも構わず、屠自古を抱きとめる。
屠自古は目を丸くさせたかと思うと、直ぐにうっとりとした顔になり背中へと手を回した。
これ以上の言葉はいらない。二人はそう考え、ただ無言で体を密着させていた。
遠巻きの布都が安堵する中、ふと気配を感じた彼女が横を見ると、邪仙が姿を表しているのだった。
青娥娘々。彼女は変わらず、胡散臭い作り笑顔を浮かべている。
「ふう、これで一安心であるな。全く手間がかかる……んな!?」
「御機嫌よう。お楽しみ中みたいで」
「すわ、一体いつから。んまあ、少し色々あったのだ」
「そうでしたか。ですがその様子では、私の心配は杞憂だったみたいですわね」
青娥が静かな愛を育む二人を見ながら、そう呟く。
何があったか知らなかったけれど、心配をしていた?
鋭い布都は矛盾に気つきこそしたが、それ以上の言及はしない。
薄い笑みを浮かべる彼女、青娥は何を考えているか分からない上、下手に付けこむと後が怖いのである。
ある意味最も女らしい女だと、布都はそう思っていた。
と、彼女がそこまで考えたところで、あの店主のにこやかな顔が浮かぶ。
大事なことを忘れておったと布都が手を叩く中、青娥は興味無さげに目の前の光景を見ていた。
「そうであった。あの菓子屋にお代を渡さないといけないのであった」
「菓子屋? ……ああ、あの古びた洋菓子屋のことですか」
「知っておるのか? ふむ、おぬしもあのお店の虜……だな?」
「あのお店、閉店したそうですわよ」
「え?」
青娥がそう素っ気なく言うと、布都はぴしりと固まってしまった。
それもそのはず、店主は今日も変わらない笑顔で何事も無かったかのように振舞っていたのだ。
となれば、最後の最後まで閉店を隠していたということになる。
贔屓にしており店主との仲も良好であった布都としては、まさしく寝耳に水な話であった。
青娥は流水のように澱みない言葉を続けながら、道場の出口へと歩いて行く。
面食らっていた布都もそれに続いた。
「何でも製造過程に時間がかかり過ぎる上に、あんまり売れていなかったんですってね」
「そんな馬鹿な、あの店の味は天下一品であるぞ!?」
「布都様が昔の人だからです。あの味は古臭く、また布都様達が最も慣れ親しんだ味でした」
「古臭いとな……そういえば、あれは」
「何れにせよ、あのお店は役目を終えた。それだけのことです」
青娥に贔屓の味を貶され怒りを隠せない布都であったが、はたとあの味を思い出す。
チョコの中に入っていた、牛乳を数時間以上煮込んだような、淡白なチーズのような味わい。
布都もその味にどこか懐かしさを感じ、また気に入っていたのだ。
あれは、紛れも無く千四百年前に食べた経験のある味だった。
布都が歩みを止める中、道場の出口まで差し掛かった青娥は首を曲げ布都を見る。
そして寂しく笑うと、一言呟いて外へと出て行くのだった。
「あのお店もチョコだったのですわ。一時の味を楽しんだら、すぐに消えてしまうのですから」
「……はぁ」
お茶を呑み一息ついた神子が笑顔でそう言うと、屠自古は微かに眉を潜ませた。
一縷の風も吹かないような広い道場内で、神子はさもわくわくというように両手の拳を屠自古の前で握っている。
屠自古は旦那の不可解な投げかけに思わず「は?」と言わなくて良かったと思いつつ、嘆息を交えながら神子に向き直る。
「バレンタインですよ、バレンタイン。世の一部の男子達がそわそわしているという」
「お言葉ですが太子様、太子様は今女ではありませんか」
「私は旦那ですよ。それとも屠自古、本当に何も用意してないの?」
「そもそも私は、そのヴァーレンハイト……じゃない、バレンタインなんて知りませんし」
屠自古の返答に神子はんまっと手を口に当てるやいなや、しゅーんと落ち込んでしまった。
先程まで稲穂の先端のように揺れていた耳毛が、今では豪雨にうたれたかのようにしおれてしまっている。
その様子に屠自古は、仕方ないじゃないですかと心中で毒づいた。
大体この旦那、言うことが唐突すぎるのである。
自分一人で何でも出来てしまうからか、政策も即日実行であった神子は、事の前でも助言すらしないというはた迷惑なことをちょくちょくやらかしている。
それは紛れもなく無自覚で、かつ無遠慮だったのだ。
そういえば布都が何かと喚いていたような、と今はいない宿敵のことを思い浮かべつつ、落ち込む神子の頭をぽんと叩いてやった。
神子はそっとしなだれると、すうと屠自古の香りを嗅ぐ。
洗髪に使ったのであろう、若い竹の香りがした。
「太子様、蘇なら作ってあげますから。お時間を少々いただきますが」
「はぁぁ。蘇と言われましてもねえ、あれ牛乳を煮詰めて煮詰めて煮詰めただけのものじゃない。幻想郷には手間もかからず美味しいものがありますしー」
「あんまりワガママ言うと、屠自古怒っちゃいますよ」
「屠自古自身の蘇が食べたい」
「はぁ!? な、何を言ってるんですかっ!」
「ちょばばばば!?」
そのまま子犬のように言うことを聞いてくれるかと思えば、神子はぷうと頬を膨らませた。
神子は神子で屠自古が「冗談ですよ。はい、これがチョコです。屠自古の愛をありったけ込めて……♪」と言うのを期待していた上に、実は隠し持っているのではと内心思っていた。
そんな彼女の願望を突っぱねるように、屠自古は浮ついたことを言う神子に雷を落とす。
いや、厳密には落としてしまった。あまりにもびっくりしたためである。
屠自古は自身の凶行に一瞬顔を青ざめるが、すぐさまつんとした表情を取り戻した。
「た、太子様が悪いんですからね。そんな破廉恥な事を閨の外でも言うお方だったとは……!」
「おや、屠自古。閨の中なら言ってもいいのかい?」
「言っていいわけあるかアホ!」
「ぎゃあ理不尽ですー!?」
そして、二度目の雷が落ちてしまった。
ばちばちばちと鈍い音がすると、神子はばったりと床に伏してしまう。
神子のビジョンでは今頃甘くとろけるようなチョコが口の中で転がっている頃だったのだが、過ぎた言動のせいで冷たい床と接吻することとなってしまった。
戸解仙となるための長い眠りは、神子の頭を大幅に怠けさせてしまったのである。
暫く顔を紅潮させ肩で息をしていた屠自古であったが、やがて自分の所業を恐ろしく思い、そそくさとこの場から離脱していく。
「ううぅ、屠自古、とじこー……どこに行くのとじこ~……」
まるで怨霊のような声をあげながら啜り泣く神子を背に、屠自古は逃げるように道場を後にするのだった。
◆
長く暗い道場の出口を通ると、屠自古は人里の瓶からにゅるりとはい出た。仙界に存在している神子の道場はどこにでも繋がっているのだ。
たまたま瓶の近くで串団子を食べていた里人がぽろりと串をこぼすのを横目で見ると、ふんと鼻を鳴らす。
彼女とて神子の妻である。故に旦那に泣かれると胸が痛いのだ。
道場の出口から出る時もそうである、暗く細い道はまるで今の神子の心を表しているかのようで、気にくわなかった。
屠自古は自分が悪くないと思っておきながら、同時に虫の居所が悪くなっていた。
「バレンタインバレンタインって、何よ。そんなに言われたら気になるじゃないの」
人目に付くことを構わず、屠自古は人混みの中を通っていく。
いつもは中々寄る機会がない人里であったが、屠自古の記憶の中でこんなに人混みがあっただろうか。
これもそのバレンタインという記念日が原因なのだろうか。
溢れ返る民衆を避けていくと、屠自古は段々息苦しさを覚えていた。
周りに見える人々の生き生きとした姿。
遠くから見ても分かる、生きている人達。
そんな中で自分だけが死に、今こうして民衆に揉まれていようとは。
私は一体、何をしているのだろうと、屠自古はわけが分からない感情に振り回される。
そんな頭の中に浮かぶのは、神子がバレンタインなんですよと言った時の笑顔だった。
「全くなんだっていうんよ……いたっ」
「おわっ?」
自然と俯き調子となっていた屠自古が、はっと顔を上げた。
誰かに正面からぶつかってしまったのだ。
いけない、色々考えていて周りが見えていなかったのだろう。
そう思い反射的にぶつかった人に頭を下げる屠自古であったが、そこには見知った顔が下から明るい顔を見せていた。
「おう、屠自古ではないか! どうしたのだ、そんな辛気くさい顔をして」
「布都……お前か」
ぶつかり尻餅をついていた布都は元気よく立ち上がると、スカートについていた土を手で払った。
物部布都。神子や屠自古と同時に戸解仙として眠った人物であり、屠自古の生を奪った張本人でもある。
屠自古はそんな布都の行動を訝しく思いながら、もう片方の手に持っていた紙袋を見つける。
恐らくあれもチョコなのだろうと思うと、気が滅入る思いがした。
布都は屠自古の視線に気づくと、悪びれずに首を傾げた。
「おぬしはもう太子様にチョコ渡したのか?」
「渡してるわけないじゃない。欲しいとも言われなかったし、用意もしてないし」
「なんと、それは良くない! 太子様の妻たるもの、夫を喜ばせることが至上の喜びよ。なれば、如何なる状況にも対応出来てこそではないか?」
「……それは、そうかもしれんが」
布都の純粋な言葉が、心に響く。
普段こそトラブルメイクの達人である彼女だが、やる時はやる人物なのだ。
そうでないと、神子と一緒に戸解仙にはなれなかっただろう。逆に言えば、布都が優秀だからこそ今こうして笑っていられるのだ。
霊足を絡ませながら思い悩む屠自古だったが、不意に手を引っ張られる。
まるで遊びに行こうと言わんばかりに、布都が引っ張ったのだ。
「ほれ、今ならまだ間に合う。太子様のためにチョコを作れば良いではないか」
「……作れたら苦労はしないわよ」
「……」
「そんな顔をすんなこっちが不安になるだろうが!」
まるで「え? それじゃもうダメなんじゃないの?」とでも言わんばかりに顔面蒼白となった布都に、屠自古が吼える。
神子の前では極力抑えているのだが、本来の屠自古は気がかなり短く、また口調が荒い。
ガラが悪いところも魅力の一つですよ、と神子は考え、布都はむしろ腹を割って話せるから楽、と考えていた。
要するに彼女の特徴なのである。
「ま、まあそれはおいおいということで、な。とりあえず菓子屋にでも行ってみようではないか!」
「おいっ、ちょっと待ちやがれ布都っ! 一人で歩けるからそんな引っ張るなっての!」
「よいではないかよいではないか」
「これは見せ物じゃねーんだよ! 離せ、離せえええぇっ!」
さて、このまま人里で騒動を起こされてもと考えたのか、布都は顔色を変え屠自古を連れていく。
あれよあれよと引っ張られていった屠自古は、ふよふよ宙を舞うことになってしまった。
そして勿論民衆が見逃すわけがなく、視線がこちらに集中するのが分かる。
第三者から見ればまるで風船のようであり、お母さんあれ買ってーという子供の声が遠くから聞こえる中、視線に耐えかねた屠自古は言葉の雷を何度も落とすのだった。
◆
「ほれ、ついたぞ。我らが太子様のために選ぶが良い! 我お気に入りの店でもあるからな」
「ち、畜生……覚えてろよ、布都ぉ……!」
こうしてお菓子屋に着く頃には、屠自古はぼろぼろになってしまったのだった。
物珍しさと白い霊足で入道屋と間違われてしまい、道行く人にぺたぺた触られてしまったのである。
コノウラミハラサデオクベキカと呪詛を唱える屠自古を置き去りにして、布都は店内に入っていった。
何時になく意気揚々としている布都に何であいつあんなに元気なんだよとぼやきつつ、屠自古も続いて暖簾を潜る。
「いらっしゃいませー♪」
中に入ると白いエプロンを身に纏い、髪下ろしした長い青髪が映える店員がにこやかな笑顔を浮かべた。
他に従業員や客がいない上に、入った左手に木製の簡素なレジ、右手にずらりと商品が並んでいる、平々凡々の店だった。
それと確認すると同時に、鼻孔をふっと甘ったるいチョコの香りで擽られ、思わずぶると身震いしてしまった。
経験したことのない感覚。言うなれば飛鳥の時代に薬味として使う山葵を間違えて食べた時のような衝撃。
屠自古が気づいた時には、口の中では温かい液体が氾濫してしまっていた。
唾液である。
「ち、ちょっと、布都っ」
「店主よ、これはおいくらかの。……おお、試供品とな! それでは二つ程いただけるかな」
過敏になる感覚に不安を感じ始めた屠自古は、くいくいと布都の袖を引っ張り訴える。
異世界だった。何もかもが異常だった。
この蘇我屠自古という人物は、生まれてこの方甘味は蘇や季節ごとに穫れる果物しか食べたことがなかったのである。
加えて、屠自古は欲が薄い女であった。
普通の食事をし、蘇我の女として少し裕福な生活をし、質素に暮らしてきたのだ。
神子に会うまでは、という言葉も加えておこう。
「なんぞ? ……急に、大人しゅうなったな」
「私、こんな甘い香りする食べ物知らない」
「そうか、なれば初体験であるな! ほれ、屠自古。あーん」
「自分で食べられるわ気持ち悪いっ!」
にやつきながら試供品のチョコを渡してくる布都をぺしと叩きながらも、半ば奪うようにして屠自古はじっくりとそれを眺めた。
かたい。台形。茶色い。何かつやつやしてる。
そして、先ほど鼻を通った心地よい香り。
神子が尸解仙になるための偽りの病に伏せた時に飲んでいた薬にそっくりという感想が出たが、あれは食べるものではなかった。
一息置き口に放り込むと、チョコが溶け舌全体が甘い液体に覆われていく。
カカオと砂糖の海が生まれ、中に入っていた何かが舌に伝う。
その何かは溢れる甘さの中で懐かしく、またどこかで食べたような味だった。
濃厚な牛乳の香りと、ほんのちょっぴりの甘さ。
しかしそれはほんの一瞬であり、舌先から根元まで到達したかと思うと、すっと溶けてしまった。
やや拍子抜けしていると、近づいて来た布都が見上げてくる。
あの時の神子は犬であったが、こっちは猫のように思えた。
「いかがであったかな? 初めてのチョコは」
「……油っぽい」
「ふふふ。その油っこさが後々忘れられなくなってくるぞ?」
「何だ、それじゃあ毒みたいものじゃないの」
「そうであるな。万人を魅了して止まない魔性の毒よ」
そのまま屠自古の頬を緩んでおるしなと言おうとした布都であったが、電撃が落ちることを想定してやめた。
さすがにお店に迷惑がかかる上に、運悪く焼失しては勿体無い。
布都が惜しむ程の味を体感した屠自古は、改めて舌先で甘い残り香を味わおうとする。
しかし殆ど残っておらず、ただただ伸びた舌が咥内が這いずり回るだけ。
屠自古はちっ、と口の中で舌うちをすると、布都を押し一緒に店主の元へと近づいていく。
チョコの香りの中に、店員が付けていたのであろう柑橘系の香水の香りが混ざった。
「わわ、何事か?」
「布都、あんた買うんじゃないの」
「我はもう別のを買っておるからな。何故我を連れていくのだ」
「……買って」
「え?」
「あれを太子様にやるから、布都が買って」
屠自古の珍妙な提案にきょとんとする布都であったが、やがて自信に満ちた顔で屠自古の頬をつつく。
いつもは外す彼女の読みであったが、今回ばかりは間違えようが無かった。
無言で瞳を逸らす屠自古に対し、耳元でぽそりと呟いた。
「おぬし……恥ずかしいのだな?」
「…………」
「無言は肯定の意味であるが」
「布都、お前私に雷落とさせたいのか……?」
「はっはっは、屠自古はかわいいのう! あいわかった、だからその静電気を引っ込めよ。髪が乱れる」
ぱちぱちと音がたつ程の静電気を帯電していた屠自古は、ふんと赤らめた顔を隠すようにそっぽを向いた。
布都は手櫛で髪を軽く整えると、屠自古の視線を背に受けながら上機嫌に店員の元へと歩いていく。
自分が頼られてるという純粋な嬉しさと、やっと素直になってくれたという安堵感と胸に留めながら。
「店主ー、これをくれ! 我も食べたいから二つ!」
「はーい。……あら、もしかしてコレですか?」
「うんにゃ、我ではないのだ。ちょいと連れの者がな」
「おいコラ布都ぉ!」
段々調子に乗り始めた布都を諌めようと屠自古が声を出すと、店主は首を伸ばし離れていた彼女を一目見る。
そしてすぐに柔和な笑みを浮かべると、チョコが入ったピンク色の箱を緑や黄のリボンで何重にもラッピングし始めた。
店主のささやかなサービスである。
「まあまあ、可愛らしい亡霊さんですね。頑張ってくださいまし♪」
「~~っ! ほら買えるもの買ったらさっさと帰るぞ!」
「ま、待て待て待て、まだお代を払っておらんぞ!? すまぬ店主よ、また今度払いに来るからなー!」
「うふふ。その必要はありませんよ」
いてもたってもいられなくなったのか、屠自古が財布を持ったままの布都をずるずると引っ張り店を出ていってしまった。
店主は軽く礼をしつつ、布都と屠自古を見送る。
客がいなくなり瞬く間に店が静かになると、改めて騒がしい光景を振り返り、笑みを深くする。
そして途中まで結んであった白いリボンを解くと、そっとレジの上に置いて呟く。
「お店は、今日でおしまいですもの」
後ろで留めていた髪留めが、ころんと地面を転がった。
◆
「はあ……屠自古はいないし、布都もいない。青娥はいつものようにどこかに行ったと」
夕方にさしかかり、二度の雷撃を受けた神子は立ち上がれる程度には回復した。
しかし、体は良くても心が粉々となってしまっては、さほど喜びを感じられない。
神子がそっと床を撫でると、床に付着した焦げが無くなり、元の歪みの無い木目の板が姿を表した。
心もこのようにリセット出来れば良いのになと考え、有りもしない考えを一笑に伏した。
出来ないことを考えても仕方がない。そう割り切り、今日は自分が夕食を用意しようかなと思い立つ。
すると、耳につけていたヘッドホンが聞き慣れた声をキャッチした。
「と、屠自古! さすがにもう良いのではないかっ、そんなに引っ張らなくてもあだだだだ! 綺麗な床な分擦れて熱いいいいい!?」
「うるせえっ、私に恥をかかせたお前が悪いんだよ! 全く余計なことを……」
二人が道場に帰って来たのである。
何やらどたどたと騒がしい音を立てていたが、独りだった神子にとっては些細な問題だった。
こうしてはいられないと思った神子は、改めて椅子に座り直す。
未だに心についた傷は癒されていないのだが、最低限の体裁は保ちたいのである。
やがて二人の姿が見えてくると、神子も音の正体を理解するのだった。
「あ、太子様。まだいて良かったです」
「おぉぉ……おぬし、我のこと考えておらんだろ……」
「一体どうしたのですか。そんな無理に布都を引っ張ってきて」
「え? あー……その、こいつが駄々をこねまして」
床で青魚のように体をくねらせる布都であったが、やがて少し休むと言い二人から距離をおく。
これは勿論嘘であり、屠自古と神子のお膳たてをするためである。
二人の仲を取り持つためには、自分が少々泥を被っても構わない。布都はそう考えていたのだ。
さて、騒がしい音も無くなり、屠自古は神子と向き合う。
屠自古は神子を見ると、申し訳なさそうに視線を下に向けた。
旦那に二度も雷を落としてしまった。そんな自らの愚かしい行為に再び胸を痛めてしまっていた。
「太子様、今朝は本当にすみませんでした」
「いや、屠自古が悪く思う必要は無い。また君を悲しませてしまったね」
「いいえ。妻たるもの、旦那のどんな願いも叶えてやるべきだったと……人里を歩いて思っていたのです」
神子は欲を読む。
自分の前では正直な屠自古が嘘をつくはずは無いと思っていたのだが、自然と読んでしまっていた。
屠自古の中では確かに、呵責と無念の気持ちが渦巻いていた。
しかしそれは、一人で抱え込むには大きすぎる。
そう察した神子は、手を伸ばし迷う彼女の頬に触れる。壊さないように、優しく。
話している間も目を伏せていた屠自古であったが、神子の手の温度を感じるととくんと胸が痛んだ。
「うん、ありがとう。でもね屠自古。私達は夫婦だ」
「ええ」
「屠自古だけが抱える必要はない。私達二人で喜びも悲しみも、苦しみも抱えてこそだと思わないかな?」
「……はい。すみませんでした」
「謝る必要はないよ。斯様な些細なことで仲が崩れるほど、私は気が小さくはないから」
屠自古は引っ張られる感覚を感じると、神子の胸に埋まっていた。
硬いような、柔らかいような、温かいような感触。
そのまま頭を撫でられると、屠自古は不意に涙腺が緩みそうになった。
幾千年前に置いてきた、両親と共にいるような感覚。忘れかけていた温もり。
神子は小さく震える屠自古を撫でたまま、あやすように背中を撫でる。
子供のように丸くなった背中を、つぅと神子の手が愛撫した。
「もっと私を頼ってほしい。そしてもう一度、同じ道を歩いてほしい」
「太子様、私は……歩きたい。いえ、歩かせてください」
「屠自古」
「それで、太子様。私は今朝のことがどうしても頭が離れなくて」
「何、気にすることはな……」
鼻がつんと痛むのを堪えて、意を決した屠自古はピンク色の箱を神子の前に差し出した。
黄と緑のリボンが揺れ、それが神子のセピアの瞳の中に吸い込まれていく。
すると、先程まで紡いでいた言葉がぱったりと止んでしまった。
その時の静けさはしんとした道場内をも上回るような、ピアノの糸のような緊張を孕んでいて。
屠自古は顔をあげ、ん、と念を押しながら箱を神子に押し付ける。
箱を挟んで見つめる両者の顔は、赤く染まっていた。
「え、あの。とじこ」
「……受け取ってください」
「あのっ」
「受け取ってください! 何にも言わずに!」
「え、あっ。はいっ」
神子は恐る恐る箱を受けとると、努めて自然に笑おうとした。
しかし、それは出来なかった。チョコの箱を渡されて、漸く喜びの実感が湧いてきたのである。
その結果、とてもぎこちないものとなってしまった。
「あ、ありがとう、とじこ」
「……ふふっ」
「なっ! 何で笑うことがありますか!」
「神子様、かわいいです」
「それは君が言っていいことではないっ、ああもう!」
「ひゃっ? あ……」
ぱふと顔を上気させた神子が箱が潰れそうになるのも構わず、屠自古を抱きとめる。
屠自古は目を丸くさせたかと思うと、直ぐにうっとりとした顔になり背中へと手を回した。
これ以上の言葉はいらない。二人はそう考え、ただ無言で体を密着させていた。
遠巻きの布都が安堵する中、ふと気配を感じた彼女が横を見ると、邪仙が姿を表しているのだった。
青娥娘々。彼女は変わらず、胡散臭い作り笑顔を浮かべている。
「ふう、これで一安心であるな。全く手間がかかる……んな!?」
「御機嫌よう。お楽しみ中みたいで」
「すわ、一体いつから。んまあ、少し色々あったのだ」
「そうでしたか。ですがその様子では、私の心配は杞憂だったみたいですわね」
青娥が静かな愛を育む二人を見ながら、そう呟く。
何があったか知らなかったけれど、心配をしていた?
鋭い布都は矛盾に気つきこそしたが、それ以上の言及はしない。
薄い笑みを浮かべる彼女、青娥は何を考えているか分からない上、下手に付けこむと後が怖いのである。
ある意味最も女らしい女だと、布都はそう思っていた。
と、彼女がそこまで考えたところで、あの店主のにこやかな顔が浮かぶ。
大事なことを忘れておったと布都が手を叩く中、青娥は興味無さげに目の前の光景を見ていた。
「そうであった。あの菓子屋にお代を渡さないといけないのであった」
「菓子屋? ……ああ、あの古びた洋菓子屋のことですか」
「知っておるのか? ふむ、おぬしもあのお店の虜……だな?」
「あのお店、閉店したそうですわよ」
「え?」
青娥がそう素っ気なく言うと、布都はぴしりと固まってしまった。
それもそのはず、店主は今日も変わらない笑顔で何事も無かったかのように振舞っていたのだ。
となれば、最後の最後まで閉店を隠していたということになる。
贔屓にしており店主との仲も良好であった布都としては、まさしく寝耳に水な話であった。
青娥は流水のように澱みない言葉を続けながら、道場の出口へと歩いて行く。
面食らっていた布都もそれに続いた。
「何でも製造過程に時間がかかり過ぎる上に、あんまり売れていなかったんですってね」
「そんな馬鹿な、あの店の味は天下一品であるぞ!?」
「布都様が昔の人だからです。あの味は古臭く、また布都様達が最も慣れ親しんだ味でした」
「古臭いとな……そういえば、あれは」
「何れにせよ、あのお店は役目を終えた。それだけのことです」
青娥に贔屓の味を貶され怒りを隠せない布都であったが、はたとあの味を思い出す。
チョコの中に入っていた、牛乳を数時間以上煮込んだような、淡白なチーズのような味わい。
布都もその味にどこか懐かしさを感じ、また気に入っていたのだ。
あれは、紛れも無く千四百年前に食べた経験のある味だった。
布都が歩みを止める中、道場の出口まで差し掛かった青娥は首を曲げ布都を見る。
そして寂しく笑うと、一言呟いて外へと出て行くのだった。
「あのお店もチョコだったのですわ。一時の味を楽しんだら、すぐに消えてしまうのですから」
支払い損ねた店が辞めたって中々後味悪そうですねw
しかし、蘇は実際どのような味をしているのか気になるところです
しかし太子は自分のことを女体化した男だと思っているのでしょうかね
だとしたら幻想郷生活楽しめるだろなあ
昔ながらのチョコねぇ。どんな味がするのでしょうか。