命蓮寺の部屋に男が横たわっている。開け放たれた窓からは、桜の花びらがひとひら暖かい風に運ばれて入ってきた。
聖の理想と聖自身に心酔した人間だった。命蓮寺は人間に人気があると言えば聞こえはいいが、それが聖の理想を反映したものかと言われると首を傾げるしかない。妖怪に対する人間の畏怖による溝は未だ深いのだ。その男は建立の頃から命蓮寺に協力し、聖の理想のために自分を使って欲しい、と言った。早くに親を亡くしていて身寄りはいなかったらしいが、生真面目で心優しい青年は、人里でも命蓮寺でも愛されていた。
男が聖に思慕の念を抱いていたことは私から見てもよくわかった。恐らく聖も気づいていただろう。しかし男も聖もなにも言わず、男はそれでよしとしているようだった。聖がその男に恋するなんてことはありえなかっただろうが、一人の人間としては好ましく思っていたに違いない。人間との友好の象徴として、命蓮寺に住まわすことまで考えていたのだから。
――だが、所詮は人間だった。
男が体調不良を訴えたのは三日前だ。その時は最近少し体が重い、というだけの話だったので、私たちは疲れが溜まっているのだろうと結論づけた。一日ゆっくり休ませて、再び命蓮寺に現れた男が倒れたのは昨日のことだ。
慌てて呼び出された竹林の薬師は男を診ると、とりあえずこれを飲みなさい、と薬を男に渡して、聖を呼び出した。戻ってきた聖が横たわった男の横に座り笑顔で話し始めた時、私はこの男が助からないことを悟った。人里で流行っている病だと聞いた。
あれから聖と、特に男に懐いていた響子と小傘は一時も男から離れなかった。きっと二人も本能的に助からないと分かってしまったのだろう。響子は涙をボロボロと零して泣き叫び、小傘はただ静かに泣いていた。男と共に動くことが多かった一輪も沈痛な面持ちで男を見ている。
もう自分は助からないのか。そう男が問うた時、聖が必死に保っていた優しい顔が崩れた。悲壮感だけが滲み出た表情で聖は、一つだけ方法がある、と言った。
聖の秘術で"人ならざる者"になる、というのがそれだ。その代わりに男は聖のように永遠を彷徨わなければならない。だが、それはつまり聖と永遠にいられるということでもある。私はそれは男にとっては破格の条件であり、躊躇なくそれを受け容れるだろう、と予想した。
そして、その予想は間もなく裏切られた。
「人間で、なくなるのならば…………意味がない。私は……人間だからこそ、貴方の傍に……居られたのです。力なき、妖怪に……成り下がった私では…………貴方の傍に居られない」
ここは命蓮寺、男が人間でなくなったとして、"それ"を拒むことはない。しかし男は今、居られない、と言ったのだ。居ることを許されないのではなく、居られない、と。だから私たちにできることは、何もない。
「一人で、永遠の時を……刻むのは…………耐えられない」
それは、今まで頑なに何も言わなかった男の愛の告白だった。聖も何か答えを返そうと口を動かして、しかし、声にならなかった。今にも動き出しそうな手をもう片方の手で必死に押さえつけ、何かに耐えているように見えた。
男にはそれが困っているように見えたのだろう。忍び寄る死の恐怖と身体の痛みに耐え、聖を安心させるように柔からに笑った。
「貴方に…………答えを、求めたわけでは……ないのです。ただ…………知っておいて、欲しかった」
知っておいて欲しい。それが私の聞いた男の最初の我侭で――そして、最期の言葉になった。優しい男は最期まで誰かを、聖を思いやって、逝った。
響子が一層大きな声で泣き、小傘が顔を手で覆い、聖が決して触れることのなかった男の手を握った。やがてにすくっと立ち上がった聖が、私たちに背を向けたまま言う。
「葬儀の準備をします。星たちは人里への告知をお願いね」
死んだ人間は弔わなければならない。皮肉か好都合か、ここは寺であって墓地もある。死者の扱いには困らない場所だった。毅然とした態度で一輪と共に部屋を去ろうとした聖に、響子が噛み付いた。
「なんで、助けなかった!!!」
声を荒げフーフーと息巻いて、温厚で臆病な響子が私たちに初めて見せた、明確な敵意。純粋な男の声は、同じく純粋なこの幽谷響妖怪の心に強く響いたのだろう。けれど聖は向けられた敵意に一瞥もせず部屋を去って、一輪はそれを戸惑いながら追いかけた。響子もそれを追いかけようとして、襖の近くに居たムラサに腕を掴まれて止まった。
「聖が!! どんな気持ちで看取ったと思ってるの! 私たちと同じくらい、聖を慕ってたあの男が逝くのを、聖が何も思わずに見れたと思うの!?」
響子と同じように声を荒げるムラサを、今日は珍しいものがたくさん見れるな、と冷めた気持ちで見ていた。不謹慎であることなど重々承知だ。
ムラサと響子が喧嘩しようが殴り合おうが――その結果どちらの命が絶たれようが、私には関係ないことだと思う。ただ、私にはそれより気がかりなことがあったから、二人の間に割り込んだ。
「とりあえずは聖の意向を尊重しよう。私とご主人は告知の準備をするよ。ムラサは聖のほうへ行ってくれ、こっちは二人で大丈夫だ」
いつしかあの男が馴染み始めてから、二手に分かれる時は私とご主人とムラサ、聖と男と一輪という分け方が定番になっていた。あの男はもういない。この編成についてもまた考える必要があるのだろう。本当ならばあちらには雲山がいるからこのままでいいかもしれないが。
「響子と小傘はその男の傍にいてやってくれ。――ご主人様、行きますよ」
ムラサを遠ざけ、響子と小傘をこの部屋に縛り付けてご主人と二人で部屋を出た。私の呼びかけにもこくりと頷くことしかしないご主人は、昨日薬師が来た時から無表情のままだ。
二人の足元でぎしぎしと軋む音が嫌に静かな廊下に響いた。この廊下がこんなにも静かなのは記憶に無い。私は静寂を好むタイプだと思ったが、場所によりけりなようだ。命蓮寺にここまで音がないのは不気味以外の何物でもない。
「ナズーリンは、大丈夫ですか?」
久しぶりに聞いたご主人の声に後ろを振り向いた。その表情は先程よりはいくらか硬さが取れている。大丈夫だよ、とだけ返事をしてまたご主人の部屋を目指した。
私はあの男のことがなんとなく好きではなかった。嫌いなわけでは決してなかったが、気に入らないところがあったというべきか。面倒見が良いのは結構なことだが、体格だけで響子や小傘と同列に扱われてはたまったものではない。それを言うと男は謝罪したし、悪気があったわけではないのはわかるが。
そんな印象もあるし、作業なども分かれて行うことが多く交流自体が比較的少なかったと言える。だから私はあの男が逝ったことを冷静に受け止めているし、恐らくはムラサも男よりも聖を慮っていたからこそ、あの激昂に繋がったのだろう。
私たち三人とあの男は涙を流すほどの関わりがあったわけではない、と思う。ただ一点を除いては。
「少し取りに行きたいものがあるので、行ってきます」
目的の部屋に着き、ご主人だけを部屋に入れた。静かに戸を閉め廊下に立ち尽くす。
すぐに部屋の中から呻き声が聞こえてくるのは、分かりきっていたことだ。
琥珀色の瞳に涙をいっぱいに浮かべ、しかし人前でそれを流すことはない。寅丸星とはそういう方だった。決して零れ落ちないように歯を食いしばって、その牙は幾度となく彼女自身を傷つける。そんな姿を私は何度も見てきた。初めてそれを見たのは――聖が封印された時だったか。
あの頃のご主人は、憐れだった。自身を妖怪と悟られるわけにもいかず、聖のことを悲しむわけにもいかず。人も妖怪も遠ざけ独りで自らの責務を果たして、誰もいない所で泣いていた。私も妖怪だから当然表立って動くこともできない。独りで誰かのために働いて、その報いを受けることはない。本当の意味で、独りだった。
寅丸星が今、涙を流す理由。それは彼女が寅丸星だからだと私は思う。
自分との関わりは多くなく、しかし確かに共にあった。そんな男のために、あんなにも苦しげな声を上げて悲しむことができる。
あの男を救えなかった無力を、心から嘆くことができる。
そしてそれこそが、私があの方のために在りたいと思う理由でもあるのだ。
足音を立てないよう静かにその場を離れ、洗濯物が取り込まれている部屋へ行き、手ぬぐいを一つ拝借して井戸の水に乱暴に浸けて軽く絞った。ぽたぽたと手ぬぐいから垂れた水が井戸からご主人の部屋まで痕跡を残したが、私はそれを気にしないことにした。
荒々しく廊下を蹴ってご主人の部屋の前に辿り着き、入っていいですか、と尋ねた。嗄れた声で少し待って欲しい旨を伝えられる。手ぬぐいから落ちた水が拳大ほどの染みを作った頃に、入室の許可が出た。一礼して戸を開き、案の定目元を腫らしたご主人に手ぬぐいを差し出す。
「……何があったか知りませんけど、目の周り赤いですよ」
手ぬぐいを渡された直後は困惑の表情を浮かべていたが、私がそう言うと慌てて手ぬぐいを当て目を隠した。ただの花粉症ですから、という言い訳は苦し過ぎないだろうか。
せめて私には、もう少し弱みを見せて欲しいと思う。いや、他の者と比べればこれでも多いのだ。毘沙門天の代理というのは想像を絶する激務だ。だがご主人は自身の優秀さを以て、それを名目上直属の部下である私以外の誰にも悟らせずにこなしてきた。合間に見せる疲れた顔を私だけが知っているというのが少し歯痒い。
そんなこと考えても、意味はないのだけれど。
「それで、告知はどうなさいますか?」
「新聞を使いましょう。彼ならばその名前だけでも人が集まります。彼と特に親しかった人には私が直接出向きます」
聖から頼まれた案件について尋ねると、未だ目を隠したままのご主人の回答は迅速かつ的確だった。私は男の広いと思われる交友関係を一人ひとり回っていく作業を想定しうんざりしていたが、新聞を使うとは妙案だ。しかしそれだけで誠意を欠くと思われてはいけないので、親密だった人間には直接出向く。その人選は聖と共に命蓮寺のトップにあり、聖と違い寺での準備を要さないご主人。立案から人選まで理屈では文句のつけようがなかった。
あくまで理屈では、だ。
「私も行きますよ」
「ナズーリンには新聞屋のほうをお願いしたいのですが」
「それは小傘にでも任せましょう。山の神社までの連絡を考えれば彼女のほうが適任です」
嘘だ。私が小傘の名を出したのは他に候補が居なかったからにすぎない。ぬえでもマミゾウでも良かったが生憎二人は今いないし、こいしはいるかわからない。今の小傘はとてもまともに動けるような精神状態ではないし、そもそも山の神社へ連絡する義理などあるわけがない。そんなこと、ご主人でなくとも分かることのはずだった。
「成程。ではそうしましょう。ナズーリン、ついてきれくれますか?」
「勿論」
提案したのが私でなければご主人も訝しんだに違いない――というのは自惚れだろうか。謀りが露見する前に、一礼してご主人の前を去った。
男のいる部屋に戻り、小傘に用件を伝え手土産を渡す。その後、命蓮寺に泊まる際自室として割り振られている部屋へ戻って支度を済ませた。後はご主人の部屋へ戻って人里へ赴くだけ、という時に私の前に立ちはだかる影があった。
「どうかしたかい、ムラサ。何かトラブルでも?」
「準備は順調だから大丈夫。ここに来たのは個人的なお礼と、忠告にね」
忠告、という割にはムラサは穏やかな顔をしている。どうやらそこまで深刻な話題ではないらしい。こちらも緊張を解いて応対した。
「まずは、さっき私のこと止めてくれてありがとう」
「そんなことか。別にムラサのために止めたわけじゃないんだけどね」
「わかってる。私が言いたかっただけだから」
「そうか。それで、忠告というのは?」
できるだけ早く済ませたい体裁をとる。ムラサはそれに反するように、或いは私に先の言葉を刻み付けようとするように、ゆるやかに話した。
「忠告っていうか……先輩からのアドバイスかな? ――いつまでも欺いてられると、思わないことね」
心臓が一度だけ大きく跳ねた。しかし、余裕がある振りだけは崩さない。ニコニコと笑うムラサに不敵な笑みを作って返した。
「ご心配なく。あの方は欺きやすいからね」
「そうね。星は素直だし、ナズーリンのこと信頼してるもの。……けれど、もう一人のほうはどうかしらね?」
もう一人、とムラサは言った。一瞬誰かわからなかったが、聖のことだろう。ご主人が私よりも信頼しているのは、聖しかいない。ムラサたちがいくら私の嘘を暴露しようと、どうとでも言い繕うことができる。だが、聖が言えばその限りではない。
が、ムラサの当ては外れている。聖も相当なお人好しだ。千年以上ご主人に付き従った私を今更疑いはしないだろう。
「聖のことかい? そうだな、これからは少し気をつけるとするよ」
振りではない、余裕の笑みを持って答えることができた。ムラサは含みのある笑いを浮かべて、どうでしょうね、と言って自分の持ち場に戻っていった。
そうだ、今日に限ったことではない。今までも目的のためならどんな嘘もついてきた。数えきれないほどの人妖を騙してきた。口先を弄さずにあの方を支えるには、私は非力すぎるのだから。
千年以上、そうしてきた。――そして、これからも。
ムラサにもたらされた問答にケリをつけ、ご主人が待つ部屋へ向かった。
◇ ◇ ◇
思ったよりも地味な作業になった。男が話していた、或いは連れてきた人間はたくさんいたが、その人間の所在を知っているわけではない。まずはその人間の家を探さなければならなかった。
地道な聞き込みのおかげもあって、大体を特定できた。後は芋づる式で調べればいい、と結論づけて現在地から一番近い家へ向かった。やはり人間の行動範囲というのは、私たちからすれば狭く思える。この分だと晩ご飯ができる頃には命蓮寺に帰れるはずだ。自分で立てた小屋まで戻るのは億劫なので泊まって行こうと思う。
訪ねた人間の反応は様々だった。男の死を聞いて泣き崩れた者。死に際の様子を話すと、あいつらしい、と笑った者。声を震わせながら、興味無さそうに振舞った者。葬儀の告知を手伝うと言ってくれた者。又は、新聞によって既にそれを知っていた者もいた。
最後となるはずの人間は訃報を聞くと、そうか、とだけ言って難しい顔をした。ややあって決心したように私たちのほうを向くと、今から教える人にも伝えてやってくれないか、と言った。その人間の所作に嫌な予感を感じた私は咄嗟に断ろうとしたが、それよりも早くご主人が承諾してしまった。
最後となるはずだった人間と別れると、ご主人は私の賛同を得ずに申し出を受けたことを謝罪した。私が不満気な態度をしてしまったからだろうか。だが、私としてもその行動を責める理屈はない。なのに、私がいくら構わないと言っても、ご主人は申し訳なさそうにしたままだ。
これから訪ねるのは男に恋心を抱いていた女だという。男は顔立ちが整っているわけではなかったが、その内面に惹かれる者は多かったのだろう。何故嫌な予感ばかりこう当たるのか、と思わず舌打ちをしたくなった。
教えられた道を辿って、やがて何の変哲もない家の前に着いた。ご主人が呼び鈴を鳴らすのを制して、私が鳴らす。家からの返事とご主人の驚きの声が同時に耳に入った。
「ここに来たのは"命蓮寺として"ではない。それなら、私が前に出ても構わないでしょう?」
私がそう言うとご主人は、そういうものですか、と唸って私に前を譲った。また、嘘をついた。
引き戸を開けて若い女が現れた。きっとこれが件の女なのだろう。派手ではないが、人のよさそうな女だと思った。肩まで真っ直ぐ伸びた黒い髪は綺麗に揃っていて、その笑顔は傾きかけた陽の光に映えていた。
伝えなければ。この女に、男の死を。女の笑顔を壊す悪魔の呪文を、唱えなければならない。
――――――――――――。
私の口が動く。その動きを止め、口を真一文字に結んだ時には自分が発した言葉をすべて忘れていた。
女から笑顔が消え、わなわなと震わせた手を口に当てた。僅かに開いた指の隙間から見える口の動きは、うそ、と言ったように見えた。
「嘘ではありません。あの男は、――――は、亡くなりました」
その言葉があらゆる意味で引き金となった。
「嘘よ!!!」
女がヒステリックに叫んだ。何か言い前に出ようとしたご主人を手を伸ばして阻む。女の大きな声に家から――父と母だろう――年配の男女が慌てて駆けつけた。
「嘘よ……だって、一昨日会ったときは、元気だった……」
「昨日、命蓮寺で倒れたのです。手は尽くしたのですが、流行病らしく」
「……そう。倒れるまで、働かせたのね」
「…………否定は、しません」
「人殺し!!」
女の声が強く響く。後ろから、ひっ、と小さく息を呑む音が聞こえた。
「私はあの人に言ってたの! 病が流行ってるから、外に出るのは控えてって。あのお寺にも今は行かないでって。でもあの人はやめなかった。貴方たちが連れて行った! 貴方たちが、あの人を殺した!! 私は何回もあの人を止めたのに!」
言い掛かりだ、と言うことはできない。事実、あの男は聖のために命蓮寺を訪れていたのだから。流行病のことを知っていれば聖も何か言ったはずだった。しかし、あの男は何も言わなかったのだ。恐らくは、聖のために。
女の罵詈雑言は続いた。段々と支離滅裂になっているが、その中のいくつかの言葉は私の――いや、私たちの心を抉っていった。
耳を塞ぎ、女に背を向け逃げ出せば、どんなに楽だっただろう。或いは、ここに立ったままでも彼女の声を聞き流すこともできた。けれど、今の私は女から放たれるどろどろに濁った言葉をすべて受け止めなければいけないのだと思った。
後ろから小さく私の服を引く感覚がする。この方だけに、呪詛を浴びさせてはならないのだと強く思い、背筋を伸ばして女と相対した。
「何回も、何回も言った…………!」
男との最後の思い出を反芻するようにして、それきり女は何も言わなくなった。日はもう沈んでいた。
きっと女の本質は、最初に会った時私が感じたそれなのだろう。けれど、恋は恋した者を自分勝手に変える。千年以上前から、知っていたことだ。
項垂れた女を両親と思われる二人が連れて行って、私はようやく息をついた。
「…………ナズーリン。貴方はこれを、予測していたのですか?」
「まさか。予測していたらあんなことは言っていない。貧乏くじを引かされた気分だよ」
予め用意しておいた言葉を並べ立てて返した。目は合わせないまま、帰ろうか、と促すとご主人は無言で頷いた。結局、命蓮寺に戻るまで言葉が交わされることはなかった。夜の闇は沈黙を紛らわすのにいくらか役に立った。
命蓮寺で昼にあの部屋にいた小傘以外の全員が集まって晩ご飯を食べた。恐らくは、山の神社に泊まっているはずだ。響子は不満気にしながらも黙々と平らげ、ムラサは沈んだ空気を晴らそうと巫山戯て、聖が無理をして笑っていた。そんな聖を一輪は心配そうに眺め、ご主人の顔には昼と変わらない無表情があった。――私はいったいどんな顔をしていたのだろう。
私たちが帰ってきたのが遅かったので、順番に風呂に入り、最後に私が出た頃には日付を跨いでいた。湯冷めしないように体と髪を入念に拭いて外に出る。命蓮寺の裏には屋根まで登りやすく構築されている場所がある。別に飛んでもいいのだが、手足を使って登りたがるのは鼠の習性だろうか。
命蓮寺の屋根の上、そこにはまるで満月のように輝く髪を持つ虎がいる。
「風呂に入った後にこんなところにいると、風邪を引きますよ。夜はまだ寒い」
「上がったばかりで来た貴方に言われたくありませんよ」
棟の上に座っていたご主人の隣に腰掛けた。緊張から少しは解放されたか、ご主人はくすくすと笑っている。だが、その笑顔は儚げにも見えた。
「何をしていたんです?」
「今日のことを振り返っていました。…………色々、ありましたからね」
「……そうですね。久しぶりに、疲れました」
本当に、色々あった。でも、疲れを感じたのが久しぶりだったのはそれだけではないのだろう。男がいなくなって、やらなくてはいけないことも増えたからだ。直接助けられることは少なかったが、あの男が有能だったのは今更疑いようもない。
「ナズーリンはあの男の人を、どう思ってましたか」
ご主人も男のことを考えていたのだろう。どう、というのは抽象的で答えるのも難しいが。
「そうですね……。なんだかんだと言って、私たちもあの男に助けられていたのだと感じます。直接は関わらないように見えて、実はしっかり携わって、それを感じさせなかった。私たちのことも、ちゃんと見ていたのでしょうね」
私がそう答えると、ご主人はふふっ、と優しく微笑んだ。ご主人はどうです、と社交辞令的に質問を返した。
「私はナズーリンみたいだな、って思ってましたよ」
「は?」
意外な、意外すぎる答えだった。まったく予想になかったと言っていい。
「真面目で、一生懸命で、いつも聖のために動いていた人ですからね。ナズーリンも、私のためによくしてくれますから」
「……それは、買い被り過ぎだよ」
私は慌てて顔を背けた。ご主人が満足気に笑っているような気がするのが何故か気に障る。顔が熱くなっているのは褒められたからではない。私はご主人のような人だと思っていたからだ――などとは言えるはずがなかった。
私より一回り大きいご主人の掌が私の頭を優しく撫でた。くすぐったさと気恥ずかしさを覚えたが、私はじっとしているだけだった。この心地よさに溺れていたかった。
やがて、ご主人が声色を暗いものに変え、私から手を離す。
「…………あの女性には、申し訳ないことをしてしまいましたね」
「それは……仕方のないことだよ。あの男が選んだ道だ。心の内がどうであれ、あの男が笑って逝った以上それを否定するのは、あの男への冒涜にしかならない」
これが私なりに出していた結論だ。例えあの瞬間の男の心が恨みつらみに満たされていたとしても、聖のために笑おうとした意思は本物だ。その真意を私たちがとやかく言うのは、あまりにも無粋だと思った。
そうですね、と呟いたご主人はどこか遠い目をしていた。まだ何か引っ掛かるところがあるらしい、というのは長い付き合いからの経験談だ。あの男のことならば、どうか私の言葉に、騙されていて欲しい。
「…………あの女性が責めていたのは、本当に私たちだったんでしょうか?」
ようやく紡がれた言葉には疑念、困惑、躊躇など、あらゆる感情が詰め込まれているように思えた。
「私の思い過ごしであればいいんです。私たちは、責められるべきでしょうから。けれど、私には彼女の言葉が私たちだけに向かっているようには思えなかったのです」
私にはご主人の言葉が何を意味しているか分からなかった。けれど、その声質だけが微妙に変化しつつあるのだけは気づくことができた。
「彼女は、自分も責めていたのではないでしょうか。彼を止められなかった――救えなかった、無力な自分を」
はっとした。やっとご主人が言いたいことが理解できたからだ。同時に、言わせてはならなかった、という後悔の念も沸いた。
「ご主人、君は…………」
俯き、その顔を腕の中に隠したご主人の声は、まるで懺悔する者の、それだったからだ。
「貴方は、まだ悔いているのですね。あの時、聖の手を離してしまったことを」
小さく、本当に小さく頷いたのを月の明かりのお陰で確認することができた。
私はその瞬間、途轍もない物悲しさを覚えた。ご主人はあの女の喚きに、自分を重ねていたのだろう。何百年かけて聖を救って尚、たった一度の聖を救えなかった過去を、自分を責めていたのだろう。
どうして貴方が自分を責めなくてはならない? 聖は君を責めるどころか、感謝すらしているというのに。
私は貴方に、どんな言葉をかければいい? どうすれば、貴方を罪の意識から救うことができるだろう。
――ああ、そうだ。
今、確信した。
気づいて、しまった。
寅丸星は優しすぎる。――そしてそれ故に、毘沙門天の器ではないのだと。
非力な私が彼女を支えたいと思ったのは、私の傲慢でしかなかったと。
私が彼女を救える方法は唯一つ。寅丸星に毘沙門天たる資格なし、と彼女をその座から下ろす以外になかったのだと。
彼女のために在りたいと希った気持ちは、本当は彼女と共に在りたいという私の我侭でしかなかったのだと。
想いを飾って、私が私を欺けるかという勝負の帰結は、道化になりきれなかった私の負けなのだと。
――無様だな、と自嘲した。
きっとこれからも、ご主人の前には困難が立ちはだかるだろう。その優秀さを以ってしても、どうにもならないことがきっとある。
そしてその度に、どうにもできなかった自分を責めるのだろう。そんなことしなくても、貴方を責める人間はいるというのに。
「ご主人……」
彼女を、寅丸星を救いたいと、何度も思っていた。
そして自分には、それが可能だ。寅丸星に毘沙門天たる資格なし、そう告げるだけで、彼女を救うことができる。
けれど、私はそれをしない。
まだこの優しさに、触れていたいから。
「……もう少し、こうしていましょうか」
――私は卑しい鼠だな。
心の中の呟きに同意するように、バスケットにいる仲間が、ちゅう、と鳴いた。
◇ ◇ ◇
「だから言ったじゃない」
ご主人と別れ、自室へと向かっていた私を闇の中からムラサが呼び止めた。
「本当に欲しいものの前ではね、今まで積み重ねてきたものも意味を持たないの。どんなにうまく取り繕ってきた嘘も、びっくりするくらいあっさり崩れちゃうの」
盗み聞きとは趣味が悪いな、と強がろうかとも思った。だが、最早完全に負けを認めていた私ができるのは、ムラサの言葉に耳を傾けず通り過ぎること――逃げることだけだった。
「ここが考えどころよ、ナズーリン。貴方が本当に望んだものは何だったのかしら? 貴方が星に求めていたものは?」
考えるまでもないことだ。私は寅丸星を救いたかった、支えたかった。そしてその二つは、決して両立することはない。
「違うわ」
心を読んだようなその声に向き直った。一筋の光がムラサの笑った口元を暗闇の中に照らしていた。見知った者の見知った姿は、しかし暗闇と相俟って私に恐怖を感じさせた。
「貴方の考えは間違っている。また貴方は逃げた。それでは本当に欲しいものは手に入らない。気づいた時にはすべて手遅れね」
「…………何故、そんなことが言える?」
「今の貴方のことなんて可哀想なくらい分かるもの。分かっていないのは貴方だけ。何なら教えてあげましょうか? そうね、例えば……貴方がここに留まらず辺鄙なところに小屋を立てた理由、とか」
「やめろ!!」
場所も時分も考えずに大きな声を上げた。それが今の私に張れる精一杯の虚勢だった。ぼんやりと浮かぶムラサの口元をキッと睨む。その口元はもう笑っておらず、暗闇の中ではムラサの心中を推し量ることはできなかった。
月が立ち位置を変え、ムラサの顔全体を照らし始めるまで私たちは動かなかった。正確に言うと、私は動くことができなかった。蛇に睨まれた蛙のように、体を小さく震わせることしかできなかったのだ。
「――じゃあ、やめてあげる。後悔しないように頑張ってね」
平時の人懐っこい笑顔を見せてムラサは去っていった。それを確認すると私は力が抜けて、その場にぺたんと座り込んだ。まだ肌寒い夜に汗が浮かんでいた。
夜明けはもう近い。その日はもう、寝る気分にはなれなかった。
男の葬儀の日は、朝から雨が降っていた。加えて病が流行っている影響もあるのか、空席の目立つ葬儀の模様をご主人とともに受付の位置から見ていた。
葬儀も終わりに近付き、仕事もないと思われて気を抜いていたところに一人の人間が現れた。あの日、最後に訪ねた女である。私とご主人は思わず息を呑んだが、女は参列者名簿に綺麗な字で自分の名前を書き込むと、ごめんなさい、と私たちに一言だけ謝罪して葬儀に加わっていった。
あの女はもう立ち直ったのだろう。強い人だ、と感じた。私はまだ、自分でつけた傷すら治せていないというのに。
ご主人はどうなのだろう、と隣を盗み見た。同じ事を考えていたのかもしれない。ご主人の涙を浮かべた瞳と、目があった。
――ああ、またこの人を、泣かせてしまった。
「あっ、あの、私、ちょっと外しますね。ナズーリン、ここ、お願いします」
ご主人は勢い良く立ち上がり、焦りながら必要最低限のことだけ捲し立てると、止める間もなく走り去ってしまった。私はそれを反射的に追いかけようとしたが、受付に誰もいないのはまずいと思い留まる。さっきの女性のように、遅れてくる人間がいないとは限らないのだ。
「行ってきたら? ここは私が居てあげるから」
猛烈な速度で遠ざかるご主人の後ろ姿を、見ていることしかできなかった私のその後ろに、ムラサが立っていた。
一瞬、あの夜が蘇る。しかし、今のムラサが浮かべているのは、優しい笑顔だった。聖のような、ご主人のような、誰かの為にある笑顔だった。
何故。私は無意識のうちにそう尋ねていた。
「私は船長だから。航路外れたり、沈みそうになってる船はほっとけないし。……ナズーリンが私たちのことをどう思ってるかは知らないけど、私は仲間のつもりだから。ここにいるうちは貴方の船は沈ませないよ」
「……よく言うよ。沈ませるのが趣味の、舟幽霊のくせに。」
嘯いた私の言葉に、ムラサは舌を出した悪戯っぽい笑みで返した。
私のことを、仲間と言った。私はムラサを仲間と呼ぶことは、できない。過去には見捨て、今も欺き、何度も彼女を裏切ってきたからだ。そんな私が仲間と呼ぶのは、あまりにもおこがましい。
けれど。けれどムラサがそう言ってくれるのであれば。ここにいるうちは助けてくれると言ってくれるのであれば、甘えてもいいんじゃないか。もし、ムラサが許してくれるのならば。
――そうか。やっと、わかった。
私は、私が本当に望んだのは――
「…………すまない。恩に着る。ここを任せた。――ムラサ船長」
「いってらっしゃーい」
浮かんだ全ての言葉を置いて、身を翻す。ムラサの弾んだ声を背中で受けて、駆け出した。まだそこまで遠くは行っていないはずだと願いながら。
そして私は、すぐに舌打ちすることになった。ご主人は速かった。逃げ足が速いのは鼠の専売特許だろうに。虎が鼠から逃げ回ってどうする、と心の中で悪態をつく。
始めは鬼ごっこだったそれは、いつの間にかかくれんぼに変わっていた。
「…………なめるなよ。私はダウザーだぞ」
考えてみろ。こんな時、ご主人が目指す場所など一つしかない。
周りの目など気にせずに、ひたすら走った。命蓮寺で一番馴染みの深い部屋、一番見慣れた襖の前に立つ。そっと耳を当てると、中からすすり泣く声が聞こえた。いつもはここで一声かけるのだが、
「入るよ」
返事を待たずに襖を開ける。ご主人は悪戯がバレた子供のように、びくりと体を震わせた。――その反応が、私を苛立たせる。
「来ないで!!」
室内に一歩踏み出すその瞬間、はっきりと拒絶された。千年以上仕えて初めての出来事だ。当然だ、私はいつも、それがご主人のためだと己を騙し、一人にし続けたのだから。ご主人が私を拒絶する機会など、今までなかったのだから。
これは罰だ。自分に都合のいい解釈ばかりで、ご主人を見捨ててきた私への。私が傷ついた風にするは、フェアじゃない。
傷つくことを恐れるな。胸を張れ。私にはそれが、できたはずだろう。やってみせたじゃないか、あの女の前で。
「すいません、今は一人にしてください。すぐに戻りますから」
「……………………嫌だね」
ご主人の声に耳など貸さず、その肩を掴んで強引に振り向かせた。ご主人の目から涙が止めどなく溢れ、恥ずかしながら私はこの時、ご主人の涙の色は私と変わらないのだな、と間抜けなことを思った。私にとってご主人の涙とは、いつも琥珀色の瞳の浮かんでいるもので、その涙も琥珀色と言われても否定できなかったのだ。
バタバタと暴れ出してご主人の首に手を回した。癖っ毛が顔をさしてくすぐったい。ご主人はあまりに唐突な出来事に驚いたのか、動きを止めた。反面、私の心臓はかつてないほど暴れ回っている。
「…………何故君が泣く必要がある? 何故その涙を隠す必要がある?」
ご主人を落ち着かせるように、心臓の鼓動を鎮めるように、なるべく平坦な声を出す。
「わ、私は、毘沙門天の代理、で、だからっ。でも、私は、無力、で」
しどろもどろになりながら、必死に言葉を紡ぐご主人。そんな姿を見たのも初めてで、私は千年以上も何をやっていたんだと、今更ながらに思う。
きっと、ご主人も嘘をついていた。本当はこんなにもか弱い自分を見せず、毘沙門天として相応しく振舞おうと必死だった。
弱音を吐くことも、涙を見せることもできず、皆の前に在り続けた。それは、あまりにも哀しい。せめて――私にこんなことを言う資格はないが――せめて私には、その涙を見せて欲しいと思う。
「私は、また、何もできなかっ――」
「違う」
貴方は立派だと、貴方は十分頑張っていると、認めさせたかった。貴方が自分を責めるその言葉を、否定したかった。
「あの男が聖のために働けたのは、それは君のお陰だ。聖が封印されても、君が腐らずに希望を持ち続けたからだ。あの女が立ち直れたのは、あの男が自分の恋慕に殉じたと思えたからじゃないのか」
「で、でも…………」
嘘をつき続けた私の言葉は、こんなにも軽い。あの日までは、それをご主人のためだと信じて、ご主人に信じさせてきた。けれど、その信じた心すら、自分のためのものだったと分かってしまったから。
嘘にまみれた私の言葉では、ご主人を信じさせることはもうできない。
だから伝えよう。私の本当の気持ちを。
嘘をつきすぎて、自分でも分からなくなっていたその気持ちを、伝えよう。
上手く伝わるかなんて分からない。今までは、本当の気持ちが伝わらないようにしてきた。
今は、上手く伝わればいいと思う。
「君は立派だ。君の働きは十分尊敬に値する。君は強かった。誰にも涙を見せないと決めて、それを今日まで貫き通すぐらいには」
回していた手に力が入った。
怖い。今まで私を誰よりも安らぎを与えてくれたこの人を、今は誰よりも怖いと思う。
逃げ出したくなる。でも、ダメだ。最後までちゃんと伝えなくては。
「でも、私は悔しい。君が、人前で涙を見せたくないというのは、構わない。でも、せめて、私だけには、見せて欲しかった。私は、君の傷を癒すことは……できない。だから、せめて、分け合わせて欲しかった」
「ナズーリン。私は…………私は、貴方に、」
「――私は君に頼って欲しかった、のに」
いつの間にか私の涙がご主人の肩を濡らしていた。腕にさらに力を込める。その手で耳を塞いでしまわないように。
だらりと下げられたままだったご主人の手が、私の背中に回った。
「信じて、いいんですね?」
「……勿論。私が貴方に嘘をついたことがありますか?」
「ありすぎるほどあった気がしますが……」
「…………ソウデスネ」
「ふふっ。……私はナズーリンには、ううん、ナズーリンだけには頼りたくなかった」
「何故です?」
「貴方はどこまでも助けてくれるからです。私のために自分をも犠牲にしてれるから」
「それは……」
「違わないですよね? ……でも、それは私のエゴだったんでしょうね」
ご主人がゆっくり私の体を離す。顔に残った涙を拭って、こちらを見つめた時には、琥珀色の瞳に力強い光が宿っていた。
厳かな顔持ちで私を見据える。気後れしないように、強く見つめ返した。
「ナズーリン。これからは……いえ、これからも、私のことを助けてくれますか?」
「御意」
涙の跡が残る間抜けな顔で、形だけは繕おうと慣れない言葉で返して。
それがあまりにも可笑しくって。
私は、私たちは、心から笑った。
◇ ◇ ◇
――男の葬儀から、もうすぐ一ヶ月。
「ご主人!!」
開けることに躊躇もなくなった襖を壊れそうなほど強く開ける。布団に包まったご主人は、んー、とかよくわからない声を上げる。
「おい、早く起きろ!! 皆が待ってるぞ!!」
「ん~~~……あと二十分」
「地味に贅沢だな!! そんなに待てるか!!」
ご主人がこんなに寝坊助だとは知らなかった。聖を助ける前はそんなことなかったと思うが、今思えばあれも私に気を遣わせないためだったのだろう。
起こすのに四苦八苦している私を尻目に、ナズーリンが来てくれて本当に助かったわ、と言って欠伸をしながらムラサが通り過ぎる。くそ、覚えとけよ。
「…………ご主人、早く起きないと君の立派な耳が私の鼠の餌になるが」
「うわあああああああああああああああ!!!?」
やっと起きた。これは最終手段で、八割ぐらいの確率で起きる。なぜかは知らないが。
「…………はっ! ビックリした……耳が食べられて涙に暮れて声も枯れて体の色が変わる夢を見ましたよ」
「妙に具体的な夢だな……。そうなりたくなければもっと早く起きろ。ほら、聖も待ってるんだから早く行くぞ」
「…………いや、着替えるんで外出てくださいよ」
「外に出ると君はまた寝るだろう」
「嫌だなー。そんなことしませんって」
「してるんだよ!! 毎朝毎朝!! いいから早く脱げ!!」
ご主人を無理やり着替えさせて、聖、一輪、ムラサ、響子、小傘、ぬえ、マミゾウと集まっている居間へ向かう。この光景に混ざることに違和感もなくなってきた。
「おはよーございます!!」
「ああ、おはよう」
「おはようございます、響子。今日も元気がいいですね」
「ナズーリンと星もね!!」
「私はもう疲れたよ……」
「私が起こしてる時はもっと時間かかってたけどなー。ナズーリンどうやって起こしてるのよ」
「私が部屋の前通った時は『いいから早く脱げ!』って言ってた!」
「ぶっ!」
「ええええええええ!!!? ど、どっ、どういうこと!?」
「ちょっ! 誤解! 誤解だから!!! 小傘は落ち着け!!」
「ナズーリンったら大胆ねえ……」
「盛んじゃのう」
「つーかそれ朝じゃなくて夜の台詞じゃない?」
「お前らあああああああああああああ!!!!」
「わざとやってますよね!? 絶対わざとですよね!?」
「…………姐さん。あれ、いいんですか?」
「本当は良くないんだけど……元気があるのはいいことだし、今日は大目に見ましょう」
「それ、毎日言ってません……?」
あの日以来、私はここに留まることにしている。無縁塚に建てた小屋にはもうしばらく帰っていない。少ない荷物をこちらに移せば、あそこは用済みになるだろう。
「それにしても、ナズーリンが来てから随分賑やかになったわね」
「そもそもなんで最初からこっちにいなかったの?」
「えっ? いや、それは……」
「私もそれ気になってたんですよ。ナズーリンが必要な時にわざわざ呼ぶのって手間でしたし」
「はあ、すいません」
「もしかして言いづらいことでもあります? でしたら無理には聞きませんが……」
「えっ。えーっと……言いづらいわけではないですが」
「じゃあ教えてください」
「嫌です」
「えー…………」
「ほら、そんなこといいじゃないですか。早く食べないとご飯冷めますよ」
私がそう言うとご主人は渋々食事を再開する。珍しく食いついてきたが、これには苦笑いせざるを得なかった。
"言いづらい"んじゃない。
"言えない"んだよ。
――貴方に必要とされている証が欲しかった、なんて。
聖の理想と聖自身に心酔した人間だった。命蓮寺は人間に人気があると言えば聞こえはいいが、それが聖の理想を反映したものかと言われると首を傾げるしかない。妖怪に対する人間の畏怖による溝は未だ深いのだ。その男は建立の頃から命蓮寺に協力し、聖の理想のために自分を使って欲しい、と言った。早くに親を亡くしていて身寄りはいなかったらしいが、生真面目で心優しい青年は、人里でも命蓮寺でも愛されていた。
男が聖に思慕の念を抱いていたことは私から見てもよくわかった。恐らく聖も気づいていただろう。しかし男も聖もなにも言わず、男はそれでよしとしているようだった。聖がその男に恋するなんてことはありえなかっただろうが、一人の人間としては好ましく思っていたに違いない。人間との友好の象徴として、命蓮寺に住まわすことまで考えていたのだから。
――だが、所詮は人間だった。
男が体調不良を訴えたのは三日前だ。その時は最近少し体が重い、というだけの話だったので、私たちは疲れが溜まっているのだろうと結論づけた。一日ゆっくり休ませて、再び命蓮寺に現れた男が倒れたのは昨日のことだ。
慌てて呼び出された竹林の薬師は男を診ると、とりあえずこれを飲みなさい、と薬を男に渡して、聖を呼び出した。戻ってきた聖が横たわった男の横に座り笑顔で話し始めた時、私はこの男が助からないことを悟った。人里で流行っている病だと聞いた。
あれから聖と、特に男に懐いていた響子と小傘は一時も男から離れなかった。きっと二人も本能的に助からないと分かってしまったのだろう。響子は涙をボロボロと零して泣き叫び、小傘はただ静かに泣いていた。男と共に動くことが多かった一輪も沈痛な面持ちで男を見ている。
もう自分は助からないのか。そう男が問うた時、聖が必死に保っていた優しい顔が崩れた。悲壮感だけが滲み出た表情で聖は、一つだけ方法がある、と言った。
聖の秘術で"人ならざる者"になる、というのがそれだ。その代わりに男は聖のように永遠を彷徨わなければならない。だが、それはつまり聖と永遠にいられるということでもある。私はそれは男にとっては破格の条件であり、躊躇なくそれを受け容れるだろう、と予想した。
そして、その予想は間もなく裏切られた。
「人間で、なくなるのならば…………意味がない。私は……人間だからこそ、貴方の傍に……居られたのです。力なき、妖怪に……成り下がった私では…………貴方の傍に居られない」
ここは命蓮寺、男が人間でなくなったとして、"それ"を拒むことはない。しかし男は今、居られない、と言ったのだ。居ることを許されないのではなく、居られない、と。だから私たちにできることは、何もない。
「一人で、永遠の時を……刻むのは…………耐えられない」
それは、今まで頑なに何も言わなかった男の愛の告白だった。聖も何か答えを返そうと口を動かして、しかし、声にならなかった。今にも動き出しそうな手をもう片方の手で必死に押さえつけ、何かに耐えているように見えた。
男にはそれが困っているように見えたのだろう。忍び寄る死の恐怖と身体の痛みに耐え、聖を安心させるように柔からに笑った。
「貴方に…………答えを、求めたわけでは……ないのです。ただ…………知っておいて、欲しかった」
知っておいて欲しい。それが私の聞いた男の最初の我侭で――そして、最期の言葉になった。優しい男は最期まで誰かを、聖を思いやって、逝った。
響子が一層大きな声で泣き、小傘が顔を手で覆い、聖が決して触れることのなかった男の手を握った。やがてにすくっと立ち上がった聖が、私たちに背を向けたまま言う。
「葬儀の準備をします。星たちは人里への告知をお願いね」
死んだ人間は弔わなければならない。皮肉か好都合か、ここは寺であって墓地もある。死者の扱いには困らない場所だった。毅然とした態度で一輪と共に部屋を去ろうとした聖に、響子が噛み付いた。
「なんで、助けなかった!!!」
声を荒げフーフーと息巻いて、温厚で臆病な響子が私たちに初めて見せた、明確な敵意。純粋な男の声は、同じく純粋なこの幽谷響妖怪の心に強く響いたのだろう。けれど聖は向けられた敵意に一瞥もせず部屋を去って、一輪はそれを戸惑いながら追いかけた。響子もそれを追いかけようとして、襖の近くに居たムラサに腕を掴まれて止まった。
「聖が!! どんな気持ちで看取ったと思ってるの! 私たちと同じくらい、聖を慕ってたあの男が逝くのを、聖が何も思わずに見れたと思うの!?」
響子と同じように声を荒げるムラサを、今日は珍しいものがたくさん見れるな、と冷めた気持ちで見ていた。不謹慎であることなど重々承知だ。
ムラサと響子が喧嘩しようが殴り合おうが――その結果どちらの命が絶たれようが、私には関係ないことだと思う。ただ、私にはそれより気がかりなことがあったから、二人の間に割り込んだ。
「とりあえずは聖の意向を尊重しよう。私とご主人は告知の準備をするよ。ムラサは聖のほうへ行ってくれ、こっちは二人で大丈夫だ」
いつしかあの男が馴染み始めてから、二手に分かれる時は私とご主人とムラサ、聖と男と一輪という分け方が定番になっていた。あの男はもういない。この編成についてもまた考える必要があるのだろう。本当ならばあちらには雲山がいるからこのままでいいかもしれないが。
「響子と小傘はその男の傍にいてやってくれ。――ご主人様、行きますよ」
ムラサを遠ざけ、響子と小傘をこの部屋に縛り付けてご主人と二人で部屋を出た。私の呼びかけにもこくりと頷くことしかしないご主人は、昨日薬師が来た時から無表情のままだ。
二人の足元でぎしぎしと軋む音が嫌に静かな廊下に響いた。この廊下がこんなにも静かなのは記憶に無い。私は静寂を好むタイプだと思ったが、場所によりけりなようだ。命蓮寺にここまで音がないのは不気味以外の何物でもない。
「ナズーリンは、大丈夫ですか?」
久しぶりに聞いたご主人の声に後ろを振り向いた。その表情は先程よりはいくらか硬さが取れている。大丈夫だよ、とだけ返事をしてまたご主人の部屋を目指した。
私はあの男のことがなんとなく好きではなかった。嫌いなわけでは決してなかったが、気に入らないところがあったというべきか。面倒見が良いのは結構なことだが、体格だけで響子や小傘と同列に扱われてはたまったものではない。それを言うと男は謝罪したし、悪気があったわけではないのはわかるが。
そんな印象もあるし、作業なども分かれて行うことが多く交流自体が比較的少なかったと言える。だから私はあの男が逝ったことを冷静に受け止めているし、恐らくはムラサも男よりも聖を慮っていたからこそ、あの激昂に繋がったのだろう。
私たち三人とあの男は涙を流すほどの関わりがあったわけではない、と思う。ただ一点を除いては。
「少し取りに行きたいものがあるので、行ってきます」
目的の部屋に着き、ご主人だけを部屋に入れた。静かに戸を閉め廊下に立ち尽くす。
すぐに部屋の中から呻き声が聞こえてくるのは、分かりきっていたことだ。
琥珀色の瞳に涙をいっぱいに浮かべ、しかし人前でそれを流すことはない。寅丸星とはそういう方だった。決して零れ落ちないように歯を食いしばって、その牙は幾度となく彼女自身を傷つける。そんな姿を私は何度も見てきた。初めてそれを見たのは――聖が封印された時だったか。
あの頃のご主人は、憐れだった。自身を妖怪と悟られるわけにもいかず、聖のことを悲しむわけにもいかず。人も妖怪も遠ざけ独りで自らの責務を果たして、誰もいない所で泣いていた。私も妖怪だから当然表立って動くこともできない。独りで誰かのために働いて、その報いを受けることはない。本当の意味で、独りだった。
寅丸星が今、涙を流す理由。それは彼女が寅丸星だからだと私は思う。
自分との関わりは多くなく、しかし確かに共にあった。そんな男のために、あんなにも苦しげな声を上げて悲しむことができる。
あの男を救えなかった無力を、心から嘆くことができる。
そしてそれこそが、私があの方のために在りたいと思う理由でもあるのだ。
足音を立てないよう静かにその場を離れ、洗濯物が取り込まれている部屋へ行き、手ぬぐいを一つ拝借して井戸の水に乱暴に浸けて軽く絞った。ぽたぽたと手ぬぐいから垂れた水が井戸からご主人の部屋まで痕跡を残したが、私はそれを気にしないことにした。
荒々しく廊下を蹴ってご主人の部屋の前に辿り着き、入っていいですか、と尋ねた。嗄れた声で少し待って欲しい旨を伝えられる。手ぬぐいから落ちた水が拳大ほどの染みを作った頃に、入室の許可が出た。一礼して戸を開き、案の定目元を腫らしたご主人に手ぬぐいを差し出す。
「……何があったか知りませんけど、目の周り赤いですよ」
手ぬぐいを渡された直後は困惑の表情を浮かべていたが、私がそう言うと慌てて手ぬぐいを当て目を隠した。ただの花粉症ですから、という言い訳は苦し過ぎないだろうか。
せめて私には、もう少し弱みを見せて欲しいと思う。いや、他の者と比べればこれでも多いのだ。毘沙門天の代理というのは想像を絶する激務だ。だがご主人は自身の優秀さを以て、それを名目上直属の部下である私以外の誰にも悟らせずにこなしてきた。合間に見せる疲れた顔を私だけが知っているというのが少し歯痒い。
そんなこと考えても、意味はないのだけれど。
「それで、告知はどうなさいますか?」
「新聞を使いましょう。彼ならばその名前だけでも人が集まります。彼と特に親しかった人には私が直接出向きます」
聖から頼まれた案件について尋ねると、未だ目を隠したままのご主人の回答は迅速かつ的確だった。私は男の広いと思われる交友関係を一人ひとり回っていく作業を想定しうんざりしていたが、新聞を使うとは妙案だ。しかしそれだけで誠意を欠くと思われてはいけないので、親密だった人間には直接出向く。その人選は聖と共に命蓮寺のトップにあり、聖と違い寺での準備を要さないご主人。立案から人選まで理屈では文句のつけようがなかった。
あくまで理屈では、だ。
「私も行きますよ」
「ナズーリンには新聞屋のほうをお願いしたいのですが」
「それは小傘にでも任せましょう。山の神社までの連絡を考えれば彼女のほうが適任です」
嘘だ。私が小傘の名を出したのは他に候補が居なかったからにすぎない。ぬえでもマミゾウでも良かったが生憎二人は今いないし、こいしはいるかわからない。今の小傘はとてもまともに動けるような精神状態ではないし、そもそも山の神社へ連絡する義理などあるわけがない。そんなこと、ご主人でなくとも分かることのはずだった。
「成程。ではそうしましょう。ナズーリン、ついてきれくれますか?」
「勿論」
提案したのが私でなければご主人も訝しんだに違いない――というのは自惚れだろうか。謀りが露見する前に、一礼してご主人の前を去った。
男のいる部屋に戻り、小傘に用件を伝え手土産を渡す。その後、命蓮寺に泊まる際自室として割り振られている部屋へ戻って支度を済ませた。後はご主人の部屋へ戻って人里へ赴くだけ、という時に私の前に立ちはだかる影があった。
「どうかしたかい、ムラサ。何かトラブルでも?」
「準備は順調だから大丈夫。ここに来たのは個人的なお礼と、忠告にね」
忠告、という割にはムラサは穏やかな顔をしている。どうやらそこまで深刻な話題ではないらしい。こちらも緊張を解いて応対した。
「まずは、さっき私のこと止めてくれてありがとう」
「そんなことか。別にムラサのために止めたわけじゃないんだけどね」
「わかってる。私が言いたかっただけだから」
「そうか。それで、忠告というのは?」
できるだけ早く済ませたい体裁をとる。ムラサはそれに反するように、或いは私に先の言葉を刻み付けようとするように、ゆるやかに話した。
「忠告っていうか……先輩からのアドバイスかな? ――いつまでも欺いてられると、思わないことね」
心臓が一度だけ大きく跳ねた。しかし、余裕がある振りだけは崩さない。ニコニコと笑うムラサに不敵な笑みを作って返した。
「ご心配なく。あの方は欺きやすいからね」
「そうね。星は素直だし、ナズーリンのこと信頼してるもの。……けれど、もう一人のほうはどうかしらね?」
もう一人、とムラサは言った。一瞬誰かわからなかったが、聖のことだろう。ご主人が私よりも信頼しているのは、聖しかいない。ムラサたちがいくら私の嘘を暴露しようと、どうとでも言い繕うことができる。だが、聖が言えばその限りではない。
が、ムラサの当ては外れている。聖も相当なお人好しだ。千年以上ご主人に付き従った私を今更疑いはしないだろう。
「聖のことかい? そうだな、これからは少し気をつけるとするよ」
振りではない、余裕の笑みを持って答えることができた。ムラサは含みのある笑いを浮かべて、どうでしょうね、と言って自分の持ち場に戻っていった。
そうだ、今日に限ったことではない。今までも目的のためならどんな嘘もついてきた。数えきれないほどの人妖を騙してきた。口先を弄さずにあの方を支えるには、私は非力すぎるのだから。
千年以上、そうしてきた。――そして、これからも。
ムラサにもたらされた問答にケリをつけ、ご主人が待つ部屋へ向かった。
◇ ◇ ◇
思ったよりも地味な作業になった。男が話していた、或いは連れてきた人間はたくさんいたが、その人間の所在を知っているわけではない。まずはその人間の家を探さなければならなかった。
地道な聞き込みのおかげもあって、大体を特定できた。後は芋づる式で調べればいい、と結論づけて現在地から一番近い家へ向かった。やはり人間の行動範囲というのは、私たちからすれば狭く思える。この分だと晩ご飯ができる頃には命蓮寺に帰れるはずだ。自分で立てた小屋まで戻るのは億劫なので泊まって行こうと思う。
訪ねた人間の反応は様々だった。男の死を聞いて泣き崩れた者。死に際の様子を話すと、あいつらしい、と笑った者。声を震わせながら、興味無さそうに振舞った者。葬儀の告知を手伝うと言ってくれた者。又は、新聞によって既にそれを知っていた者もいた。
最後となるはずの人間は訃報を聞くと、そうか、とだけ言って難しい顔をした。ややあって決心したように私たちのほうを向くと、今から教える人にも伝えてやってくれないか、と言った。その人間の所作に嫌な予感を感じた私は咄嗟に断ろうとしたが、それよりも早くご主人が承諾してしまった。
最後となるはずだった人間と別れると、ご主人は私の賛同を得ずに申し出を受けたことを謝罪した。私が不満気な態度をしてしまったからだろうか。だが、私としてもその行動を責める理屈はない。なのに、私がいくら構わないと言っても、ご主人は申し訳なさそうにしたままだ。
これから訪ねるのは男に恋心を抱いていた女だという。男は顔立ちが整っているわけではなかったが、その内面に惹かれる者は多かったのだろう。何故嫌な予感ばかりこう当たるのか、と思わず舌打ちをしたくなった。
教えられた道を辿って、やがて何の変哲もない家の前に着いた。ご主人が呼び鈴を鳴らすのを制して、私が鳴らす。家からの返事とご主人の驚きの声が同時に耳に入った。
「ここに来たのは"命蓮寺として"ではない。それなら、私が前に出ても構わないでしょう?」
私がそう言うとご主人は、そういうものですか、と唸って私に前を譲った。また、嘘をついた。
引き戸を開けて若い女が現れた。きっとこれが件の女なのだろう。派手ではないが、人のよさそうな女だと思った。肩まで真っ直ぐ伸びた黒い髪は綺麗に揃っていて、その笑顔は傾きかけた陽の光に映えていた。
伝えなければ。この女に、男の死を。女の笑顔を壊す悪魔の呪文を、唱えなければならない。
――――――――――――。
私の口が動く。その動きを止め、口を真一文字に結んだ時には自分が発した言葉をすべて忘れていた。
女から笑顔が消え、わなわなと震わせた手を口に当てた。僅かに開いた指の隙間から見える口の動きは、うそ、と言ったように見えた。
「嘘ではありません。あの男は、――――は、亡くなりました」
その言葉があらゆる意味で引き金となった。
「嘘よ!!!」
女がヒステリックに叫んだ。何か言い前に出ようとしたご主人を手を伸ばして阻む。女の大きな声に家から――父と母だろう――年配の男女が慌てて駆けつけた。
「嘘よ……だって、一昨日会ったときは、元気だった……」
「昨日、命蓮寺で倒れたのです。手は尽くしたのですが、流行病らしく」
「……そう。倒れるまで、働かせたのね」
「…………否定は、しません」
「人殺し!!」
女の声が強く響く。後ろから、ひっ、と小さく息を呑む音が聞こえた。
「私はあの人に言ってたの! 病が流行ってるから、外に出るのは控えてって。あのお寺にも今は行かないでって。でもあの人はやめなかった。貴方たちが連れて行った! 貴方たちが、あの人を殺した!! 私は何回もあの人を止めたのに!」
言い掛かりだ、と言うことはできない。事実、あの男は聖のために命蓮寺を訪れていたのだから。流行病のことを知っていれば聖も何か言ったはずだった。しかし、あの男は何も言わなかったのだ。恐らくは、聖のために。
女の罵詈雑言は続いた。段々と支離滅裂になっているが、その中のいくつかの言葉は私の――いや、私たちの心を抉っていった。
耳を塞ぎ、女に背を向け逃げ出せば、どんなに楽だっただろう。或いは、ここに立ったままでも彼女の声を聞き流すこともできた。けれど、今の私は女から放たれるどろどろに濁った言葉をすべて受け止めなければいけないのだと思った。
後ろから小さく私の服を引く感覚がする。この方だけに、呪詛を浴びさせてはならないのだと強く思い、背筋を伸ばして女と相対した。
「何回も、何回も言った…………!」
男との最後の思い出を反芻するようにして、それきり女は何も言わなくなった。日はもう沈んでいた。
きっと女の本質は、最初に会った時私が感じたそれなのだろう。けれど、恋は恋した者を自分勝手に変える。千年以上前から、知っていたことだ。
項垂れた女を両親と思われる二人が連れて行って、私はようやく息をついた。
「…………ナズーリン。貴方はこれを、予測していたのですか?」
「まさか。予測していたらあんなことは言っていない。貧乏くじを引かされた気分だよ」
予め用意しておいた言葉を並べ立てて返した。目は合わせないまま、帰ろうか、と促すとご主人は無言で頷いた。結局、命蓮寺に戻るまで言葉が交わされることはなかった。夜の闇は沈黙を紛らわすのにいくらか役に立った。
命蓮寺で昼にあの部屋にいた小傘以外の全員が集まって晩ご飯を食べた。恐らくは、山の神社に泊まっているはずだ。響子は不満気にしながらも黙々と平らげ、ムラサは沈んだ空気を晴らそうと巫山戯て、聖が無理をして笑っていた。そんな聖を一輪は心配そうに眺め、ご主人の顔には昼と変わらない無表情があった。――私はいったいどんな顔をしていたのだろう。
私たちが帰ってきたのが遅かったので、順番に風呂に入り、最後に私が出た頃には日付を跨いでいた。湯冷めしないように体と髪を入念に拭いて外に出る。命蓮寺の裏には屋根まで登りやすく構築されている場所がある。別に飛んでもいいのだが、手足を使って登りたがるのは鼠の習性だろうか。
命蓮寺の屋根の上、そこにはまるで満月のように輝く髪を持つ虎がいる。
「風呂に入った後にこんなところにいると、風邪を引きますよ。夜はまだ寒い」
「上がったばかりで来た貴方に言われたくありませんよ」
棟の上に座っていたご主人の隣に腰掛けた。緊張から少しは解放されたか、ご主人はくすくすと笑っている。だが、その笑顔は儚げにも見えた。
「何をしていたんです?」
「今日のことを振り返っていました。…………色々、ありましたからね」
「……そうですね。久しぶりに、疲れました」
本当に、色々あった。でも、疲れを感じたのが久しぶりだったのはそれだけではないのだろう。男がいなくなって、やらなくてはいけないことも増えたからだ。直接助けられることは少なかったが、あの男が有能だったのは今更疑いようもない。
「ナズーリンはあの男の人を、どう思ってましたか」
ご主人も男のことを考えていたのだろう。どう、というのは抽象的で答えるのも難しいが。
「そうですね……。なんだかんだと言って、私たちもあの男に助けられていたのだと感じます。直接は関わらないように見えて、実はしっかり携わって、それを感じさせなかった。私たちのことも、ちゃんと見ていたのでしょうね」
私がそう答えると、ご主人はふふっ、と優しく微笑んだ。ご主人はどうです、と社交辞令的に質問を返した。
「私はナズーリンみたいだな、って思ってましたよ」
「は?」
意外な、意外すぎる答えだった。まったく予想になかったと言っていい。
「真面目で、一生懸命で、いつも聖のために動いていた人ですからね。ナズーリンも、私のためによくしてくれますから」
「……それは、買い被り過ぎだよ」
私は慌てて顔を背けた。ご主人が満足気に笑っているような気がするのが何故か気に障る。顔が熱くなっているのは褒められたからではない。私はご主人のような人だと思っていたからだ――などとは言えるはずがなかった。
私より一回り大きいご主人の掌が私の頭を優しく撫でた。くすぐったさと気恥ずかしさを覚えたが、私はじっとしているだけだった。この心地よさに溺れていたかった。
やがて、ご主人が声色を暗いものに変え、私から手を離す。
「…………あの女性には、申し訳ないことをしてしまいましたね」
「それは……仕方のないことだよ。あの男が選んだ道だ。心の内がどうであれ、あの男が笑って逝った以上それを否定するのは、あの男への冒涜にしかならない」
これが私なりに出していた結論だ。例えあの瞬間の男の心が恨みつらみに満たされていたとしても、聖のために笑おうとした意思は本物だ。その真意を私たちがとやかく言うのは、あまりにも無粋だと思った。
そうですね、と呟いたご主人はどこか遠い目をしていた。まだ何か引っ掛かるところがあるらしい、というのは長い付き合いからの経験談だ。あの男のことならば、どうか私の言葉に、騙されていて欲しい。
「…………あの女性が責めていたのは、本当に私たちだったんでしょうか?」
ようやく紡がれた言葉には疑念、困惑、躊躇など、あらゆる感情が詰め込まれているように思えた。
「私の思い過ごしであればいいんです。私たちは、責められるべきでしょうから。けれど、私には彼女の言葉が私たちだけに向かっているようには思えなかったのです」
私にはご主人の言葉が何を意味しているか分からなかった。けれど、その声質だけが微妙に変化しつつあるのだけは気づくことができた。
「彼女は、自分も責めていたのではないでしょうか。彼を止められなかった――救えなかった、無力な自分を」
はっとした。やっとご主人が言いたいことが理解できたからだ。同時に、言わせてはならなかった、という後悔の念も沸いた。
「ご主人、君は…………」
俯き、その顔を腕の中に隠したご主人の声は、まるで懺悔する者の、それだったからだ。
「貴方は、まだ悔いているのですね。あの時、聖の手を離してしまったことを」
小さく、本当に小さく頷いたのを月の明かりのお陰で確認することができた。
私はその瞬間、途轍もない物悲しさを覚えた。ご主人はあの女の喚きに、自分を重ねていたのだろう。何百年かけて聖を救って尚、たった一度の聖を救えなかった過去を、自分を責めていたのだろう。
どうして貴方が自分を責めなくてはならない? 聖は君を責めるどころか、感謝すらしているというのに。
私は貴方に、どんな言葉をかければいい? どうすれば、貴方を罪の意識から救うことができるだろう。
――ああ、そうだ。
今、確信した。
気づいて、しまった。
寅丸星は優しすぎる。――そしてそれ故に、毘沙門天の器ではないのだと。
非力な私が彼女を支えたいと思ったのは、私の傲慢でしかなかったと。
私が彼女を救える方法は唯一つ。寅丸星に毘沙門天たる資格なし、と彼女をその座から下ろす以外になかったのだと。
彼女のために在りたいと希った気持ちは、本当は彼女と共に在りたいという私の我侭でしかなかったのだと。
想いを飾って、私が私を欺けるかという勝負の帰結は、道化になりきれなかった私の負けなのだと。
――無様だな、と自嘲した。
きっとこれからも、ご主人の前には困難が立ちはだかるだろう。その優秀さを以ってしても、どうにもならないことがきっとある。
そしてその度に、どうにもできなかった自分を責めるのだろう。そんなことしなくても、貴方を責める人間はいるというのに。
「ご主人……」
彼女を、寅丸星を救いたいと、何度も思っていた。
そして自分には、それが可能だ。寅丸星に毘沙門天たる資格なし、そう告げるだけで、彼女を救うことができる。
けれど、私はそれをしない。
まだこの優しさに、触れていたいから。
「……もう少し、こうしていましょうか」
――私は卑しい鼠だな。
心の中の呟きに同意するように、バスケットにいる仲間が、ちゅう、と鳴いた。
◇ ◇ ◇
「だから言ったじゃない」
ご主人と別れ、自室へと向かっていた私を闇の中からムラサが呼び止めた。
「本当に欲しいものの前ではね、今まで積み重ねてきたものも意味を持たないの。どんなにうまく取り繕ってきた嘘も、びっくりするくらいあっさり崩れちゃうの」
盗み聞きとは趣味が悪いな、と強がろうかとも思った。だが、最早完全に負けを認めていた私ができるのは、ムラサの言葉に耳を傾けず通り過ぎること――逃げることだけだった。
「ここが考えどころよ、ナズーリン。貴方が本当に望んだものは何だったのかしら? 貴方が星に求めていたものは?」
考えるまでもないことだ。私は寅丸星を救いたかった、支えたかった。そしてその二つは、決して両立することはない。
「違うわ」
心を読んだようなその声に向き直った。一筋の光がムラサの笑った口元を暗闇の中に照らしていた。見知った者の見知った姿は、しかし暗闇と相俟って私に恐怖を感じさせた。
「貴方の考えは間違っている。また貴方は逃げた。それでは本当に欲しいものは手に入らない。気づいた時にはすべて手遅れね」
「…………何故、そんなことが言える?」
「今の貴方のことなんて可哀想なくらい分かるもの。分かっていないのは貴方だけ。何なら教えてあげましょうか? そうね、例えば……貴方がここに留まらず辺鄙なところに小屋を立てた理由、とか」
「やめろ!!」
場所も時分も考えずに大きな声を上げた。それが今の私に張れる精一杯の虚勢だった。ぼんやりと浮かぶムラサの口元をキッと睨む。その口元はもう笑っておらず、暗闇の中ではムラサの心中を推し量ることはできなかった。
月が立ち位置を変え、ムラサの顔全体を照らし始めるまで私たちは動かなかった。正確に言うと、私は動くことができなかった。蛇に睨まれた蛙のように、体を小さく震わせることしかできなかったのだ。
「――じゃあ、やめてあげる。後悔しないように頑張ってね」
平時の人懐っこい笑顔を見せてムラサは去っていった。それを確認すると私は力が抜けて、その場にぺたんと座り込んだ。まだ肌寒い夜に汗が浮かんでいた。
夜明けはもう近い。その日はもう、寝る気分にはなれなかった。
男の葬儀の日は、朝から雨が降っていた。加えて病が流行っている影響もあるのか、空席の目立つ葬儀の模様をご主人とともに受付の位置から見ていた。
葬儀も終わりに近付き、仕事もないと思われて気を抜いていたところに一人の人間が現れた。あの日、最後に訪ねた女である。私とご主人は思わず息を呑んだが、女は参列者名簿に綺麗な字で自分の名前を書き込むと、ごめんなさい、と私たちに一言だけ謝罪して葬儀に加わっていった。
あの女はもう立ち直ったのだろう。強い人だ、と感じた。私はまだ、自分でつけた傷すら治せていないというのに。
ご主人はどうなのだろう、と隣を盗み見た。同じ事を考えていたのかもしれない。ご主人の涙を浮かべた瞳と、目があった。
――ああ、またこの人を、泣かせてしまった。
「あっ、あの、私、ちょっと外しますね。ナズーリン、ここ、お願いします」
ご主人は勢い良く立ち上がり、焦りながら必要最低限のことだけ捲し立てると、止める間もなく走り去ってしまった。私はそれを反射的に追いかけようとしたが、受付に誰もいないのはまずいと思い留まる。さっきの女性のように、遅れてくる人間がいないとは限らないのだ。
「行ってきたら? ここは私が居てあげるから」
猛烈な速度で遠ざかるご主人の後ろ姿を、見ていることしかできなかった私のその後ろに、ムラサが立っていた。
一瞬、あの夜が蘇る。しかし、今のムラサが浮かべているのは、優しい笑顔だった。聖のような、ご主人のような、誰かの為にある笑顔だった。
何故。私は無意識のうちにそう尋ねていた。
「私は船長だから。航路外れたり、沈みそうになってる船はほっとけないし。……ナズーリンが私たちのことをどう思ってるかは知らないけど、私は仲間のつもりだから。ここにいるうちは貴方の船は沈ませないよ」
「……よく言うよ。沈ませるのが趣味の、舟幽霊のくせに。」
嘯いた私の言葉に、ムラサは舌を出した悪戯っぽい笑みで返した。
私のことを、仲間と言った。私はムラサを仲間と呼ぶことは、できない。過去には見捨て、今も欺き、何度も彼女を裏切ってきたからだ。そんな私が仲間と呼ぶのは、あまりにもおこがましい。
けれど。けれどムラサがそう言ってくれるのであれば。ここにいるうちは助けてくれると言ってくれるのであれば、甘えてもいいんじゃないか。もし、ムラサが許してくれるのならば。
――そうか。やっと、わかった。
私は、私が本当に望んだのは――
「…………すまない。恩に着る。ここを任せた。――ムラサ船長」
「いってらっしゃーい」
浮かんだ全ての言葉を置いて、身を翻す。ムラサの弾んだ声を背中で受けて、駆け出した。まだそこまで遠くは行っていないはずだと願いながら。
そして私は、すぐに舌打ちすることになった。ご主人は速かった。逃げ足が速いのは鼠の専売特許だろうに。虎が鼠から逃げ回ってどうする、と心の中で悪態をつく。
始めは鬼ごっこだったそれは、いつの間にかかくれんぼに変わっていた。
「…………なめるなよ。私はダウザーだぞ」
考えてみろ。こんな時、ご主人が目指す場所など一つしかない。
周りの目など気にせずに、ひたすら走った。命蓮寺で一番馴染みの深い部屋、一番見慣れた襖の前に立つ。そっと耳を当てると、中からすすり泣く声が聞こえた。いつもはここで一声かけるのだが、
「入るよ」
返事を待たずに襖を開ける。ご主人は悪戯がバレた子供のように、びくりと体を震わせた。――その反応が、私を苛立たせる。
「来ないで!!」
室内に一歩踏み出すその瞬間、はっきりと拒絶された。千年以上仕えて初めての出来事だ。当然だ、私はいつも、それがご主人のためだと己を騙し、一人にし続けたのだから。ご主人が私を拒絶する機会など、今までなかったのだから。
これは罰だ。自分に都合のいい解釈ばかりで、ご主人を見捨ててきた私への。私が傷ついた風にするは、フェアじゃない。
傷つくことを恐れるな。胸を張れ。私にはそれが、できたはずだろう。やってみせたじゃないか、あの女の前で。
「すいません、今は一人にしてください。すぐに戻りますから」
「……………………嫌だね」
ご主人の声に耳など貸さず、その肩を掴んで強引に振り向かせた。ご主人の目から涙が止めどなく溢れ、恥ずかしながら私はこの時、ご主人の涙の色は私と変わらないのだな、と間抜けなことを思った。私にとってご主人の涙とは、いつも琥珀色の瞳の浮かんでいるもので、その涙も琥珀色と言われても否定できなかったのだ。
バタバタと暴れ出してご主人の首に手を回した。癖っ毛が顔をさしてくすぐったい。ご主人はあまりに唐突な出来事に驚いたのか、動きを止めた。反面、私の心臓はかつてないほど暴れ回っている。
「…………何故君が泣く必要がある? 何故その涙を隠す必要がある?」
ご主人を落ち着かせるように、心臓の鼓動を鎮めるように、なるべく平坦な声を出す。
「わ、私は、毘沙門天の代理、で、だからっ。でも、私は、無力、で」
しどろもどろになりながら、必死に言葉を紡ぐご主人。そんな姿を見たのも初めてで、私は千年以上も何をやっていたんだと、今更ながらに思う。
きっと、ご主人も嘘をついていた。本当はこんなにもか弱い自分を見せず、毘沙門天として相応しく振舞おうと必死だった。
弱音を吐くことも、涙を見せることもできず、皆の前に在り続けた。それは、あまりにも哀しい。せめて――私にこんなことを言う資格はないが――せめて私には、その涙を見せて欲しいと思う。
「私は、また、何もできなかっ――」
「違う」
貴方は立派だと、貴方は十分頑張っていると、認めさせたかった。貴方が自分を責めるその言葉を、否定したかった。
「あの男が聖のために働けたのは、それは君のお陰だ。聖が封印されても、君が腐らずに希望を持ち続けたからだ。あの女が立ち直れたのは、あの男が自分の恋慕に殉じたと思えたからじゃないのか」
「で、でも…………」
嘘をつき続けた私の言葉は、こんなにも軽い。あの日までは、それをご主人のためだと信じて、ご主人に信じさせてきた。けれど、その信じた心すら、自分のためのものだったと分かってしまったから。
嘘にまみれた私の言葉では、ご主人を信じさせることはもうできない。
だから伝えよう。私の本当の気持ちを。
嘘をつきすぎて、自分でも分からなくなっていたその気持ちを、伝えよう。
上手く伝わるかなんて分からない。今までは、本当の気持ちが伝わらないようにしてきた。
今は、上手く伝わればいいと思う。
「君は立派だ。君の働きは十分尊敬に値する。君は強かった。誰にも涙を見せないと決めて、それを今日まで貫き通すぐらいには」
回していた手に力が入った。
怖い。今まで私を誰よりも安らぎを与えてくれたこの人を、今は誰よりも怖いと思う。
逃げ出したくなる。でも、ダメだ。最後までちゃんと伝えなくては。
「でも、私は悔しい。君が、人前で涙を見せたくないというのは、構わない。でも、せめて、私だけには、見せて欲しかった。私は、君の傷を癒すことは……できない。だから、せめて、分け合わせて欲しかった」
「ナズーリン。私は…………私は、貴方に、」
「――私は君に頼って欲しかった、のに」
いつの間にか私の涙がご主人の肩を濡らしていた。腕にさらに力を込める。その手で耳を塞いでしまわないように。
だらりと下げられたままだったご主人の手が、私の背中に回った。
「信じて、いいんですね?」
「……勿論。私が貴方に嘘をついたことがありますか?」
「ありすぎるほどあった気がしますが……」
「…………ソウデスネ」
「ふふっ。……私はナズーリンには、ううん、ナズーリンだけには頼りたくなかった」
「何故です?」
「貴方はどこまでも助けてくれるからです。私のために自分をも犠牲にしてれるから」
「それは……」
「違わないですよね? ……でも、それは私のエゴだったんでしょうね」
ご主人がゆっくり私の体を離す。顔に残った涙を拭って、こちらを見つめた時には、琥珀色の瞳に力強い光が宿っていた。
厳かな顔持ちで私を見据える。気後れしないように、強く見つめ返した。
「ナズーリン。これからは……いえ、これからも、私のことを助けてくれますか?」
「御意」
涙の跡が残る間抜けな顔で、形だけは繕おうと慣れない言葉で返して。
それがあまりにも可笑しくって。
私は、私たちは、心から笑った。
◇ ◇ ◇
――男の葬儀から、もうすぐ一ヶ月。
「ご主人!!」
開けることに躊躇もなくなった襖を壊れそうなほど強く開ける。布団に包まったご主人は、んー、とかよくわからない声を上げる。
「おい、早く起きろ!! 皆が待ってるぞ!!」
「ん~~~……あと二十分」
「地味に贅沢だな!! そんなに待てるか!!」
ご主人がこんなに寝坊助だとは知らなかった。聖を助ける前はそんなことなかったと思うが、今思えばあれも私に気を遣わせないためだったのだろう。
起こすのに四苦八苦している私を尻目に、ナズーリンが来てくれて本当に助かったわ、と言って欠伸をしながらムラサが通り過ぎる。くそ、覚えとけよ。
「…………ご主人、早く起きないと君の立派な耳が私の鼠の餌になるが」
「うわあああああああああああああああ!!!?」
やっと起きた。これは最終手段で、八割ぐらいの確率で起きる。なぜかは知らないが。
「…………はっ! ビックリした……耳が食べられて涙に暮れて声も枯れて体の色が変わる夢を見ましたよ」
「妙に具体的な夢だな……。そうなりたくなければもっと早く起きろ。ほら、聖も待ってるんだから早く行くぞ」
「…………いや、着替えるんで外出てくださいよ」
「外に出ると君はまた寝るだろう」
「嫌だなー。そんなことしませんって」
「してるんだよ!! 毎朝毎朝!! いいから早く脱げ!!」
ご主人を無理やり着替えさせて、聖、一輪、ムラサ、響子、小傘、ぬえ、マミゾウと集まっている居間へ向かう。この光景に混ざることに違和感もなくなってきた。
「おはよーございます!!」
「ああ、おはよう」
「おはようございます、響子。今日も元気がいいですね」
「ナズーリンと星もね!!」
「私はもう疲れたよ……」
「私が起こしてる時はもっと時間かかってたけどなー。ナズーリンどうやって起こしてるのよ」
「私が部屋の前通った時は『いいから早く脱げ!』って言ってた!」
「ぶっ!」
「ええええええええ!!!? ど、どっ、どういうこと!?」
「ちょっ! 誤解! 誤解だから!!! 小傘は落ち着け!!」
「ナズーリンったら大胆ねえ……」
「盛んじゃのう」
「つーかそれ朝じゃなくて夜の台詞じゃない?」
「お前らあああああああああああああ!!!!」
「わざとやってますよね!? 絶対わざとですよね!?」
「…………姐さん。あれ、いいんですか?」
「本当は良くないんだけど……元気があるのはいいことだし、今日は大目に見ましょう」
「それ、毎日言ってません……?」
あの日以来、私はここに留まることにしている。無縁塚に建てた小屋にはもうしばらく帰っていない。少ない荷物をこちらに移せば、あそこは用済みになるだろう。
「それにしても、ナズーリンが来てから随分賑やかになったわね」
「そもそもなんで最初からこっちにいなかったの?」
「えっ? いや、それは……」
「私もそれ気になってたんですよ。ナズーリンが必要な時にわざわざ呼ぶのって手間でしたし」
「はあ、すいません」
「もしかして言いづらいことでもあります? でしたら無理には聞きませんが……」
「えっ。えーっと……言いづらいわけではないですが」
「じゃあ教えてください」
「嫌です」
「えー…………」
「ほら、そんなこといいじゃないですか。早く食べないとご飯冷めますよ」
私がそう言うとご主人は渋々食事を再開する。珍しく食いついてきたが、これには苦笑いせざるを得なかった。
"言いづらい"んじゃない。
"言えない"んだよ。
――貴方に必要とされている証が欲しかった、なんて。
ド、ドラえ○ん!
可愛いナズ星でラストはニヤニヤが止まらなかったです
距離感を測りなおしたけどベッタリにはならない辺り、いい落とし所だと思います。
オリキャラについても、空気にならず、目立ち過ぎずでよい塩梅かと。
ところで響子ちゃんが聖に噛みつく場面の「この幽谷響妖怪の心に~」はもしかして誤字ですかね?
賢い嘘つきは、自身を騙す術を知っていて、賢い自分すら騙せるから他者を簡単に欺ける。
そんな賢く小狡い鼠でも、気高くあろうとするひた向きな虎の前では正しくあろうと思えたのは、彼女もまた毘沙門天の使いだからなのかなぁと。
サンサンと輝く太陽のような星くんと、太陽の光を浴びて仕方なく光ってるだけだと嘯くナズの関係が良かったです。
仲が悪いって部分を欺いてたんですね。私は最初、男に惹かれてたから死んだショックを欺いてたと思って見事に騙されました。なるほど〜と。
オリキャラが出ると聞いて避けている人にぜひ読んで欲しいですね。