走る走る走る走る。
人里の家と家の間に作られた真っ暗な路地の間。
ソレはそこを駆け抜けていた。
走る走る走る走る走る。
足の裏に力を込め、走ると言うよりは前方に向かって跳躍する感覚で駆け抜ける。
走る走る走る走る走る走る。
踏み切った足とは反対の膝に力を溜め、その足の着地と同時に地面を踏み砕くつもりで駆け抜ける。
走る走る走る走る走る走る走る。
両脇の壁が黒く塗りつぶされた一枚の板だと錯覚するほどの速度で駆け抜ける。
走る走る走る走る走る走る走る走る。
路地が途切れ人々の行き交う大通りに出るが、速度を緩めたりはしない。
むしろ更に足に力を込め、驚愕の表情を浮かべる人々をすり抜けると別の路地に入り駆け抜ける。
走る走る走る走る走る走る走る走る走る。
もう走る理由もなくなっているかも知れないと思いながらも、それでも両足の動きを止める気にはならなかった。
走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る。
出切る事なら背後を振り返って確認したかったが、そんな度胸は持ち合わせてはいなかった。
もしも後ろから追いかけて来るモノが見えてしまったら……
そう考えるだけで、そう考えてしまったらこそ、その考えを振り払うために走る事しか考えたくは無かった。
走る走る走る……
「やっと追いついた」
呟きの様なその声は、しかし暴風以上の響きを伴って聞こえた気がした。
「まったく、弱いくせに逃げ足は速いんだから参ったよ。少しは追いかける方の身にもなって欲しいもんだね全くさぁ」
そう言いながら前から真っ直ぐにこちらへ向かって来る人影に、ようやく自分はいつの間にか足を止めてしまっていた事に気付いた。
「こっちもそんなに走るのは得意じゃないってのに、考えなしに里中走り回られたらそれだけで負担が増えるって事分かって欲しいよ」
そいつが何を言っているのか分からないが、自分が追い詰められてしまったという事だけは分かる。
再び逃げようにも、蛇に睨まれた蛙の様に手足は震えるばかりで動くことは無い。
何かを言おうにも、口の中はカラカラに干上がり頭の中でさえ言葉がまとまらない。
「それでもこうして捕まえたんだから、これでようやく今日のお仕事も終わりだ」
「待っ……」
とっさに言おうとした一言は、続けて告げられた言葉により永遠にかき消された。
『フジヤマヴォルケイノ』
◇
「……確かに私は里の内部で人を襲った妖怪を退治してくれとお前に頼んだが、誰も両脇の民家を焦がしてくれと頼んだ記憶は無いぞ妹紅」
苦虫を噛み潰した様な顔で小火現場を見つめるのは人里の寺子屋教師、上白沢慧音。
「そうは言ってもな、とんでもなく逃げ足の速い奴だったから一撃で仕留めないとどこへ逃げてしまうのか分からなかったんだよ」
とは言え、それでも気まずいのか目を泳がせながら答えるのは竹林の案内人にして慧音の友人の藤原妹紅。
「確かに、あの手の手合いは動きを封じて逃げ場の無い攻撃をするのが有効だが、少しは加減をしろ」
「いや、あれでも加減したつもりなんだけど……」
「尚更だ。里ではお前のように戦える力を持っている人間の方が少ないんだぞ」
それに返そうとして、妹紅は口をつぐんだ。
戦える力を持った人間の例を挙げようとして思い浮かんだのが神社の巫女を筆頭とした非常識集団だったから。
「それにしても、これで七件目か……」
「あ~、確かに最近多いよな」
慧音の口から漏れたのは妹紅の起こした小火に対しての言葉ではない。
でなければ、彼女の無責任な発言に対して特大の頭突きが炸裂しているのだから。
「垢なめのように里に出る妖怪は前からいたけど、最近の『新種』連中は問答無用で人に襲い掛かってくるもんな」
「そうだな。幸い今までは何とか死傷者は出ていないが、それも時間の問題だろう」
「こりゃ、一回集会でも開いて対策でも練るかい?」
「そうだな。ちょうどこれから神社にも行くし、巫女と魔法使いにも声をかけるか」
「……別にいいけど、あいつらの話が参考になるかねぇ」
「……一応巫女の方は妖怪退治の専門家だぞ。最近忘れられているのは否定出来んが」
互いに真顔で小火の後を眺めながら交わされるその会話は、傍から見ている者にとってはえらく滑稽に映ったが当人達は至って真剣である。
だからこそ余計に滑稽さが増しているともいえるのだが。
「慧音がそうするのなら別に止めはしないけど、寺や道場の連中はどうする?」
「今回は見送ることにするよ。以前の集会でもあの面子は人の側よりも妖怪の立場になって話していたみたいだしな」
以前の集会とは、あの山の神を交えた会談のことだろうか。
妹紅は気になったが、あえて口に出すのは止めておいた。
出した所で変わる物でもないし、何よりも自分が『力有る者』の側に居る事を自覚していたからだ。
「そっか。まぁそういったことは人との付き合いに慣れている慧音に任せるよ」
だから自分は慧音の為に力を使えばいい。
この半獣の友人と付き合い始めたときからそう割り切っている。
当の友人本人はこういった言い方をする度に何とも言えない表情をするのだが、これはもう自分の性分なのでそう割り切ってもらうしかない。
そう思っていても、中々そうだと伝える機会も無いまま今に至るのだが。
「っと、自警団の連中も来たみたいだし、私はひとまず帰らせてもらうよ」
「……立ち会わないのか?」
「いんや、これでも忙しい身でね。今回だって家を焦がしてしまったから、また暫く炭焼き小屋の手伝いをしなきゃなんないのさ」
そう、妹紅はなぜか律儀に自分が燃やしてしまった建物の弁償をしているのだ。
妖怪を退治してもらったからその必要は無いと慧音も自警団も言っていたのだが、何度言っても代金を置いていく彼女に根負けして今では黙って受け取っている。
妖怪討伐の代価分はちゃんと引いていると本人は言っているが。
だから、今回も慧音は黙って見送る事にした。
「……会議の日が決まったら知らせる」
必要最低限の事だけを告げて。
「ああ。そしたら私も予定を合わせるよ」
またな、と言い残して片手をヒラヒラさせながら去っていくその背中に、慧音はとうとう何と声をかけたらいいのか分からなかった。
◇
人とあやかしが奇妙な形で共存する地、幻想郷。
その中核を成す博麗神社に、二つの人影が向かい合っていた。
「手合わせ?」
ある日の博麗神社の境内で、人里の寺子屋で教師をしている慧音が神社の巫女の霊夢にそんな事を申し出てきた。
「ああ。それもスペルカードルールではない組み手式のやり方で試合って欲しい」
霊夢はその言葉に怪訝な顔をする。
人とあやかしが対等な条件で戦えるようにする為に考案されたのがスペルカードルールであり、現在の幻想郷では主流の問題解決方法である。
それに依らない試合など、まず滅多に起こるものではない。
慧音は巫女の表情から察したのか、それともそう思われることは考えていたのかすぐに理由を話し出す。
「いや、実は最近外の世界から流れてくる妖怪が増えたみたいなのだが、何でか知らんが人里の通りや寺子屋の中に好んで出てくる奴らが多いんだ」
「ああ、そう言えば紫もこの前『古くからの伝承どころか学校の七不思議まですぐに廃れてしまう時代になってしまうとは嘆かわしい限りですわ』何て愚痴っていたわね。聞いた時は何言っているのか分からなかったけど、つまりは人の多い所に出る妖怪が忘れられて来たって事か」
「そういうことだろう。それにここだけの話、私が見かけた新参の連中は一見すると人に紛れてしまう外見をした奴が多い。正直な話、人間に襲い掛かっている姿を見ても妖気を感じなかったら物盗りと区別がつかなかった位だ」
「へぇ、そりゃまた厄介なのがやって来たわね」
口調こそ暢気なものだが、その目元は逆に鋭さを増していた。
無理も無い、彼女は妖怪退治を生業とする博麗の巫女だ。
だが、その解決方法は基本的に勘と運任せのやり方が目立つ為、人間に紛れてしまう妖怪の出現は彼女の今までのやり方が通じなくなってしまう事を意味している。
それでも適当に目星を付けてしばき倒したら『当り』を引いていそうな気がするのも霊夢が霊夢たる所以だろう。
話が少々逸れてしまったか。
「そういうわけで、そんな奴等と里の中で出くわした際に対処できるようにこうして稽古をつけてもらいに来たわけだ」
そう告げると、慧音は深々と頭を下げて頼み込む。
「嫌よ、面倒くさい」
それでも一言で切って捨てるのが霊夢という少女であった。
「ここまで頼んでもか」
「そうよ。第一組み手が本来の目的ではないでしょう?」
そして、勘が鋭いのも霊夢という少女であった。
「……」
「大方里の人間の前で半妖怪化した自分と戦うことで妖怪への対処法を覚えてもらおうとしているんでしょうけど、そんなのあまり意味が無いわ」
「やれやれ、そこまでお見通しか」
「あんたの考えそうなことだからね」
気心の知れた相手に掛けるような言葉ではないが、これでも巫女にしては親しみを込めた話し方をしている。
「妖怪相手に有効な自衛の手段を教えるってのは悪くないと思うわよ。でも、それはある程度の地力を持っている事が前提になるわ」
特に、と一拍置いてから巫女は続ける。
「子供相手に妖怪用の護身術を教えるなんて危なっかしくて仕方ないわよ」
「そうか? 実際に妖怪の力を見るのは自衛の為にも良いかと思ったのだが……」
その言葉に霊夢は溜め息を一つ吐き。
「慧音って、生真面目すぎて考えが足りなくなるわね」
その言葉に怒るでもなく疑問を感じるのは、ひとえに慧音の人柄であろう。
「考えても見なさいよ。下手に妖怪と戦える方法を教えたら実際に使いたくなっちゃうでしょうが」
「あ。」
そうだ、自分は何を考えていたのか。
妖怪に対抗できる方法、つまりは戦う方法を知った子供、特に男の子がその力を試そうとするのは当り前ではないか。
この前も、妖夢が戦っている姿を偶然見かけたとか言ってその真似をしてチャンバラをやっていた生徒達を叱ったばかりだというのに。
「生兵法は怪我の元、ってよく言うでしょ。中途半端に力を持っちゃう方が危ないのよ」
「そうか……そうだな。よし、この案は廃案としよう」
「そうした方がいいわね」
意外と思い切りの良い物言いに、霊夢も同意する。
「そうさせてもらうよ。やれやれ、それにしても実行に移す前に話してみてよかった。教えてしまってからでは遅かったからな」
自分で納得するように頷いてから、ではどうしようかと頭をひねる。
護身術を教えるのは無しにしても、それでも自衛の手段は教えておきたい。
相変わらず生真面目に悩むその姿を見かねたのか、霊夢はある事を決めた。
「しょうがないわね、私が小さかった頃に教えられた事でよければ話すわよ」
その言葉に、慧音は喜んで乗ることにした。
◇
視界の端に星空が映る。
だが、ソレを悠長に眺める訳にも行かない。
妹紅はひたすらに視線を下に向けると、大通りを走り回る犬に似た妖怪を追う。
飛び石を渡る様な感覚で一歩毎に屋根を一つ足場にして駆け抜ける彼女の姿は、その速度故に道を行き交う人々には突風としか認識されていなかった。
追われている妖怪の方は速度こそ突風には及ばぬもののパッと見ただけでは普通の犬とそう変わらず、異形の頭部は一瞬しか人の目には映らぬためにやはり「今、何か変な犬が走ってった?」という程度の認識でしかなかった。
追い付きそうで追い付かないその鬼ごっこはいつまでも続くかのように思われたが、それも里の外れまで来た所で終わりを迎えた。
「さぁて、此処まで来たのなら遠慮はしないよ。お前をほっとくわけにもいかないんでね」
そう宣言するのと同時に屋根を踏み切り板代わりに跳躍すると、地面を走る妖怪目掛けて彼女は力を解放する。
「不死『火の鳥‐鳳翼天翔‐』(弱)」
振り下ろされた手の先に、言葉通りの火の鳥が現れて一瞬で妖怪を灰にした。
その速さは、妹紅が地面に着地する頃にはその灰さえも風に吹き散らされていた程に。
威力もそうだが、それを操る技量も並大抵の物ではなかった。
ましてや互いにかなりの速度で移動していたのだが、それも彼女にとってはそれ程苦にはならない程度の事だったらしい。
現に周囲に被害が及ばないように威力を抑えながらでも勝てたのだから。
「やれやれ、今回は上手く行ったな」
今までは毎回周辺の建物に被害を出しては慧音に怒られていただけに、安堵の息も出ようというものだ。
「そうですね。流石のお手並みと言いましょうか」
不意に背後から掛けられたその声に、しかし驚きはしなかった。
「ああ。これでお前がこの場に居なければ更に上出来だったんだけどな」
そうだろう、と妹紅が振り向いた先には、おかっぱ頭に花飾りを着けた着物姿の少女が立っていた。
その少女に向けて、更に口調を強めて。
「稗田家の当主様がこんな場所に一人で居るなんて随分と無用心じゃあないか?」
その発言に怒るでもなく、その少女‐九代目の阿礼乙女にして幻想郷縁起の編纂者、稗田阿求は微笑を浮かべながら。
「いえいえ、そんなわけにも行きませんよ。私を誰だと思っているんですか? 妖怪の記録を書き記すのが生業なのに里に出る妖怪をほっとくなんて出来ませんよ」
「いや、何でお前が此処で待ち伏せていたのかを聞きたいんだが」
「それこそ何を言っているんですか。里の中から敵を追い詰めるのに適した場所を私が知らないとでも思っているんですか?」
そう言いながらも、その表情を苦笑に変える。
「最も、他にも何箇所か追い込みやすい場所があったのでここに妹紅さんが来たのは運の助けもあったんですけどね」
外れなくてよかったですと気楽に呟く少女の姿はどこか微笑ましいものを感じさせるが、妹紅は逆に警戒を強めていった。
「そうか。私にとってはむしろ運が悪かったと言いたいよ」
「いやいや、そんな怖い声を出さないで下さいよ。そんな『目撃者は消せ』見たいな事を言われると私みたいな力を持たない小娘は震えるしか出来ないんですから」
いけしゃあしゃあと語るその言葉に毒気を抜かれたのか、妹紅の全身から放たれていた重圧が路地裏の影に溶け込むようにして消えていった。
「じゃあ質問を戻すが、だったら何で一人で来た? 妖怪の事を知りたいのなら後日私を呼んで聞き出すなり他に方法はいくらでもあるだろうに」
その問いかけに、阿求は少しだけ考える素振りを見せる。
「そうですね、より正確に言うのであれば妖怪の情報と、貴女の変化についても知りたかったからですよ」
「だったら他に行け。私は何も話すつもりは無い」
即答に近い形で告げると、それで話は終わりだとばかりに背を向けて歩き出した。
それに慌てるかと思いきや、稗田家の当主は落ち着いた口調で語りかける。
「わかりました。それではあなたが弁償した家の持ち主達に聞いて見ます」
それは何でも無い一言であったはずなのだが、なぜかその一言は立ち去ろうとしていた少女の足を止めるのには十分な重さを持っていた。
「そうですね、まずはこの事件が起き始めた一件目、最初の『被害者』から話を聞いてみましょうか」
「分かった。私が答えられる事でよければ答えよう」
◇
博麗神社の居間で、霊夢と慧音は向かい合っていた。
「つまり、先代から最初に教えられたのは『逃げる事』と『耐え抜くこと』だったと言うのだな」
二人の間のちゃぶ台には、それぞれ湯気を立てる湯飲みが置かれていた。
だが、その中身がそれぞれ半分以下になっているところを見るに、それなりの時間話していたようだ。
そもそも、そのお茶にしても何杯目なのかは当人達も忘れているかも知れない。
「ええそうよ。そもそも素手の人間が妖怪と戦うなんて、その為の修行を積んだ人でもなければまず無理よ。実際私だって道具も無しに戦うなんて滅多にしないし」
ここでやらないと言わないのが霊夢らしいが、それは今口を挟む事では無いと考えた寺子屋教師は黙って続きを聞くことにした。
「ましてやろくに戦う力も無い子供が害意を持った妖怪と出くわしてしまったらそれ位しかできないからね」
そう、それこそが問題の焦点なのだ。
力がないから、妖怪に対抗する手段が欲しい。
中途半端な手段では、妖怪に対抗できない。
それで延々と考えが堂々巡りを起こしてしまっているのだ。
「ならばどうすればいいのだ。どうした所で手段は必要なのだぞ」
「死ぬ気で頑張るしかないわね」
あっさりと、それこそ他人事の様に言い放つ巫女に対して激昂するかと思われた教師だが、予想に反して先を促すように沈黙していた。
「そもそも妖怪ってのは人間の恐怖が形を成したモノがほとんどなんだから。連中が人間を襲うのも、怖がらせてより自分の形を確かなものにしたいからよ。ほら、人間を殺して食べる何かって、いかにも怖そうじゃない」
「ならば聞くが、『何を』死ぬ気で頑張ればいいんだ?」
「決まっているわ。生きることよ」
「生きること?」
余りにも当り前すぎる言葉を聞かされた為、慧音は鸚鵡返しに答える事しか出来なかったのだが、それでも何かが分かった様な気がした。
「そう。死ぬ気で逃げ延びて、死ぬ気で耐え抜いて、死ぬ気で生き抜こうとする。妖怪にとってはそうされてしまう事が何よりも困ることなのよ。死ぬ気で生きている人間は怖がっている暇なんて無いんだから」
そこまで言うと、霊夢は喉が渇いたのか一口お茶を啜った。
その対面にいる慧音はというと、聞かされた事に呆然としながらも何とか考えをまとめ上げ、理解しているようだった。
「つまり何だ、霊夢が、いや、歴代の巫女が最初に教わる事はつまり……」
「そう、心の持ち方よ。技も術もその後から教わることになるわ」
何でも無いように告げる霊夢にとって、それは何でも無い位に当たり前の事なのだろう。
つまりはそれ程に自分の一部として根付いていると言う事だ。
同時に、納得もした。
霊夢はどんな場合であっても霊夢らしさを失わないからこそ強いのだろうと。
「……普段の霊夢を見ていると、とてもそうは見えないのだがな」
それでも日常の霊夢を知る慧音としては、彼女がそんなに必死になって何かをしている所など見たことが無い。
だから思わず出てしまった呟きに、霊夢は怒るでもなく当然の顔で。
「あら。私はいつだって死ぬ気で生きているわよ」
いつも通りに返すのだった。
◇
稗田家の客間では、一触即発の空気が流れている。
それぞれの前に置かれたお茶には一切手を付けられた様子も無く、湯気も消えて暫く経っているのが分かるほどだった。
「あの……何で私はここに居るんでしょうか?」
落ち着かない様子で阿求に話しかけるのは、妖怪の山にある神社の風祝、東風谷早苗。
妹紅がリボンを、阿求が花の髪飾りを着けている様に、蛙と蛇を模した髪飾りをそれぞれ着けているのだが、それはこの場に居る理由とはまるで関係が無いことだろう。
「いえ、せっかく我が家を訪ねて来て下さった巫女様を何時までも待たせるわけには行きませんでしたので」
「いえ、そりゃ最近の人里内での妖怪発生について話を聞こうとはしていましたけど、先約があるのでしたらまた後日でも構わなかったんですけど……」
「それなら問題は無い。私も関係者だ」
その疑問に答えたのは、阿求では無く今まで無言でいた妹紅であった。
「そうなんですか?」
「ああ。ここ最近人里に出た妖怪は私か慧音、そうでなければ輝夜の所の兎が退治しているからな」
意外な面子が入っていたことに驚いたが、それは今は関係ないだろう。
「その中でも一番多く退治しているのが妹紅さんですからね」
「へぇ、珍しいですね。あまり顔を会わせる機会が無かったのもありますけど、妹紅さんってあんまりこういう事には関わらない方だと思っていましたよ」
「そうですね。彼女も狙われやすいのが子供でなければこうも関わろうとはしなかったかも知れません」
その言葉に妹紅の周りの空気が更に鋭さを増したが、そこは幻想郷縁起を執筆している稗田家の当主らしく、あっさりと流す。
早苗も妹紅の隣に座っていたのでその気配をもろに受けているはずなのだが、彼女は彼女で博麗の巫女に喧嘩を売った過去があるだけに、何気に図太い性格をしていたりするので我関せずを平然と貫いていた。
そんな周囲の様子に怒ることも馬鹿馬鹿しくなったのか、妹紅も殺気を納める。
座って話しているだけの短時間でかなりの修羅場があったようだが、全員そんな事でいちいち気にするような繊細な精神の持ち主では無い為にあっさりと水に流すことにした。
「そういえば、最初に被害に逢ったのって寺子屋帰りの男の子でしたよね」
山の上の巫女も自分が居る理由が分かった途端に神経の太さを発揮しているのだし。
「ご存知なのでしたら話は早いですね。その子が逃げ回っている途中でたまたま慧音さんに会いに来ていた妹紅さんに発見され、事無きを得たというのが私の聞いた話です」
「あ、それは私も聞きました。その時にその妖怪ごと後ろの民家の壁に大穴を開けてしまったので、弁償のために炭焼き小屋でアルバイトを始めたとも聞きましたけど」
「……ああそうだよ。不可抗力とは言え、流石に悪い事しちゃったなって思ったからさ」
何故か不機嫌そうな声で答える妹紅に、早苗は首を傾げた。
確かに民家の壁に穴を開けてしまうのはやりすぎだとしても、その事自体を何時までも引きずる様な神経の持ち主など、自分の周りには居ないだけに妙に気になった。
「私もそこは気になっているんですよ。普通ならそこで弁償して終わりのはずなのに、妹紅さんはその後もよくその周辺を中心として里の中の見回りをしています。そのお陰で現在に至るまで死者や重傷者は出ていません。ですが、あなたは今まで積極的に里の人達とは関わらないようにしていたはずです。なのに、あの一件以来あなたは明らかに関わるようになっていますから」
流れるような阿求の言葉であったが、それは妹紅の頭にきちんと届いていた。
だからこそ、それに対してどう答えようか迷っているらしく、頭を掻き、上を見上げ、隣に座っている早苗の顔をチラチラと気にして、目を閉じて額に手を当てながら唸ってみると、観念したかのように阿求へと視線を戻した。
「あ~、なるべくなら話したくはなかったんだけどな。どうも既に色々知られているみたいだから言うよ」
だからお前も出来れば黙っていてくれと早苗に一言告げると、妹紅は話し出した。
◇
あれは知っての通り慧音に用事があって里に来たときの事だ。
約束の時間よりもちょいと早めに来てしまったこともあって、里の裏通り辺りをぶらついていたのさ。
あそこらへんは人通りもほとんどないから物騒な反面、私みたいな性格の奴には落ち着く場所でもあるからな。
いや、あの時は本当に人っ子一人歩いていなかったんでちょっと変だなとは思っていたんだが、それもすぐに気にしなくなったな。
その原因が正面から走ってきたからさ。
最初に見たのは子供だったんで、鬼ごっこでもしているのかと思ったんだが違ったよ。
何しろ、必死の形相で逃げていたんだからな。
後ろから追ってくる、本物の鬼に。
ああ、鬼とは言っても角のある方じゃない、古い言い方で魑魅魍魎や妖怪変化を意味する方の鬼だよ。これはちょっと関係なかったな。
とにかくだ、人通りが無いのはソイツの仕業だと分かったのだから、後は子供を助けるだけだ。
別に大した事はせず、走って近寄ってソイツの横っ面に炎を纏った回し蹴りを叩き込んでブッ飛ばせばそれで終わりだったからな。
だけど、それで事態は終わってはくれなかったんだ。
いや、鬼を退治できなかった訳では無いんだ。
実際ソイツは叩きつけられた民家の壁をぶち抜いた所で消滅したからな。
問題はそのぶち抜かれた民家の方だったんだ。
運悪く大穴を開けられてしまった民家には婆さんが一人で暮らしていて、いきなりの出来事にアゴを外して腰を抜かしてしまっていたんだが、それは私が何とかした。
これでも長生きしているからね。外れたアゴや抜けた腰への対処方法は知っている。
だけど、へたり込んでしまった老婆の励まし方だけは知らなかったんだ。
最初はてっきり火達磨になった妖怪が壁をぶち抜いて来たせいだと思ったんだけど、話を聞いてみるとその婆さんは昔は旦那さんと一緒に退治屋をやっていたらしくて今更この程度のことでは驚かなかったらしい。
じゃあ、何で腰を抜かしたのかって?
それは私が家を壊してしまったからだよ。
何でもあの家は亡くなった旦那さんと稼いだ金で建てた思い出の家で、今じゃあ形見の一つだったらしい。
それに大穴を開けられたんで落ち込んでいたんだ。
当然その穴はもう塞いだんだけど、その壁の部分はもう元通りの家じゃあ無いからだろうな、その部分に手を当てて悲しそうにしていたんだ。
子供を助けるためだったんだから気にしなくていいと言ってくれてはいたんだが、あの元気を無くした顔がどうも気になってね。
なるべく様子を見に来るようにしていたら、また妖怪に襲われている人間を見かけることもあったんで行きがかり上倒していたら今日この家に招かれたって訳だ。
◇
話しの終わった客間には、微妙な空気が流れていた。
妹紅の語った言葉に何と言えばいいのか、二人ともすぐには思いつかなかったから。
だが、そこは幻想郷縁起の執筆者だけあり、素早く自分の中で言葉を纏める。
「つまり、そのお婆さんが心配だったから来ていたということですか」
「その通りだよ。だからお前があの婆さんの所にまで話を聞きに行くのを止めたんだ。辛い事まで思い出させそうだったからな」
若干不機嫌そうな色を出すのは、阿求のやり方に対する不満だろう。
それを感じ取ったのか、彼女も素直に頭を下げた。
「それに関しては申し訳ありませんでした。私も里の有力者として目に見えた変化については知っておく必要がありましたので」
「いや、それは分かっている。あんたがそれなりに苦労しているってのは慧音からも聞いているからな。不機嫌なのは私だけの問題で、別に気にする必要は無い」
そうですか、と安堵の息を吐く阿求の様子を確認したのか、早苗が恐る恐るといった様子で話に加わってくる。
「それでは、別に里の見回りをしていたつもりでは無いという事ですか?」
「いや、それはそれとして一応里に来たらやるようにしている。流石に自分の近くで襲われている人間を見捨てるのは寝覚めが悪すぎるからな」
「まぁ、普段から竹林の案内人をしている位ですからね」
納得したように頷く山の神社の巫女。
本人に聞こえたら『風祝です!』と言われそうだが、ソレを突っ込むような機会はこの場ではついに訪れなかった。
「ああ。それに、最初に助けた少年も、中々見所がある奴だったからな」
ただし、別の突っ込みどころは訪れたが。
「おや? 妹紅さんは年下好みなのですか?」
阿求がそう尋ねた瞬間、早苗の表情も一気に輝いた。
そのまま何か言おうとしたのを咄嗟に妹紅が遮って。
「違う、妖怪に対抗する基本を弁えていたって言う意味で、だ」
遮られた早苗が不満そうな顔をするが、とりあえず話題を変えることには成功したらしく、蒸し返すようなことはしなかった。
「基本とは何ですか? その子は必死になって逃げていただけだと聞きましたが……」
「だから、必死になって逃げていたことがさ」
ますます分からないという顔をする早苗に、逆に阿求は納得顔をする。
妹紅はその様子を見て、仕方無く説明してやることにした。
「妖怪に対抗するには術や能力を使うというのがお前らの認識だろうが、そういったのが使えない人間はどうすればいい? とにかく必死で抵抗するしかない。そして妖怪ってのは人間の恐怖を元に生まれているだけに、必死で生きようとする力って奴に弱いのさ」
「それと逃げていたこととどう関係があるんですか?」
「大有りさ。あの子はただ逃げていたんじゃあない。向かっていた先は元退治屋の婆さんの家だ。後で聞いてみればあの家に行けば昔使っていた武器があると知っていたから、そこを目指していたらしい。つまり、戦うために逃げていたってわけだ」
早苗はその言葉に驚いて良いのか呆れれば良いのか分からなかった。
「だからこそ私と会うまで生き延びられた。妖怪と渡り合うにはそうした『生き延びてやるっ!』という感情が不可欠だからな」
そこまで聞いて、何となくだが現代っ子の早苗にも分かるような気がした。
彼女も自分が仕える二柱の存在の為に生まれ育った世界を離れて来たのだから。
「それが、基本ですか」
「ああ。あの婆さんもそいつの胆の据わりっぷりに笑っていたくらいだったからな。その時は壊れてしまった壁のことも忘れられるみたいだから、なるべくそういった連中の話をするようにしているんだよ」
「それにしても随分気にかけているんですね。そのお婆さんのこと」
「あ~、まぁ何だ。流石に私が原因の一端だったからな。なるべく早くあの壁も思い出になるようにしてやりたいんだよ」
それに、と続けるその声は、不思議な重さを持って聞いていた二人の耳に届いた。
「家が壊れてしまうというのは、つらいもんだからな」
何でも無い事の様に言う彼女の内心を理解できるのは、おそらく彼女だけだろう。
夜も深まりそうな時間帯になり、その日はそれで解散となった。
ひとまず里の妖怪への対策は、後日行われる集会で語りあうことになるだろう。
その時には、もう一度妹紅と話をしてみたいと早苗は考えていた。
後日談
「『噂』を核にした妖怪ならある程度はどうにかできるわね」
新参の妖怪たちに対処する話し合いの場で、霊夢がそんな事を言い出した。
「あの新種たちは外の世界で忘れられた噂話が核になっているわ。まぁ妖怪なんて大体がそんなものなんだけど、あいつらは比較的語られてきた歴史が浅いから、噂を付け足すだけでどうとでも行動を縛れるわよ」
要するに、発生自体は防げないが『夕方一人で道を歩いていると出くわす妖怪』から、『夕方一人で”鈴を鳴らしながら”道を歩いていると出くわす妖怪』に変化させる事は可能だということらしい。
これが何十年も前から延々と語り継がれてきた妖怪だと人々のイメージが固定されてしまっている為に無理なのだそうだ。
確かに、鬼や天狗が十字架を怖がるという設定を追加したとしても、それを信じるのは難しいだろう。
それがどんな妖怪なのかが曖昧なモノであった場合は、確実な弱点が追加出来ない代わりに行動や出現場所をある程度決められるものらしい。
よくは分からんが、何とかなるのなら文句は無い。
が、それでも発生することは止められないので、何時何処に発生させるかで揉めたのだが、それは早苗の案を採用することになった。
曰く、「新種たちが里に入るには月末の夜に正面から進入する必要があるということにしましょう。そうすればその日の夜に戦える人を集めておけば一気に済みますし。ギルド戦みたいで燃えるじゃないですか」という発言に、それは楽そうだと賛成の声が多数上がったのだ。ギルド戦というのもよく分からなかったのだが。
あとの流れはそんなに難しいものでもない。
『月末の夜に新種の妖怪達が里の入り口から入り込もうとしている』という話を里全体に流し、より多くの人に信じさせればいいからだ。
そうして今に至るわけだが、どうしても言いたいことがあるので私の前で顔を引きつらせている博麗の巫女に話しかけることにした。
「なあ、噂を流すのはいいが、それに尾ひれが付く事は考えていなかったのか?」
「うるさいわね、分かっているわよ。ちょっと失敗しちゃったかなって」
この場には一応他にも白黒の魔法使いやら山の上の巫女といった戦力がいるのだが、皆一様に顔が引きつっている。
「なぁ……あれってどんだけいるんだ?」
「て……敵が七分に地面が三分といった所でしょうか……」
そう、早苗が魔理沙に答えたように、異常なまでの数の妖怪が迫ってきているのだ。
回覧板などを用いて広めた噂だったのだが、それが井戸端会議などで話題に上がる内に『大量の妖怪が月末に押し寄せてくる』という話に変わってしまったらしく、気付いたときには既に手遅れになってしまっていたのだ。
「まずいな、雑魚とは言え侵入されたらそれなりの被害が出てしまうぞ」
流石にこの異変を聞きつけたらしく、寺や道場からも助っ人が来てくれているのだが、それで防ぎきれるとは思えない位の数がこちらへと向かっている。
慧音も何とか里の歴史を隠そうとしているのだが、あの妖怪達が『里に侵入する』性質を持っているせいか、どうも上手く行かないらしい。
つまり、私達であの群れをどうにかしないといけないということだ。
だが、あの数では流石に全部は……
「皆さん、こちらは準備が出来ましたよ」
そう考えていると、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
振り返ってみると、そこに居るのは稗田家の当主が立っている。
その顔を見るなり、霊夢はほっとしたような表情になった。
「よかった、そっちは間に合ったのね」
「はい。戦えない人達は寺子屋に集まって、男の人達は自警団を中心に守りを固めていますので少しくらいなら進入されても何とかなります」
「そう。それなら後はあいつらにひたすらスペルカードを撃ち込んでやればいいってわけね」
「ええ。思いっきりやっちゃって下さい」
その言葉に、緊張していた場に安堵の空気が流れる。
この事態が分かった時点で大急ぎで迎撃体制を整え始めたのだが、正直間に合うか微妙なところだったので不安だったが、ひとまずは何とかなりそうだ。
「それじゃ一番槍は私がもらったぁっ!!」
現金な性格をしている魔法使いが飛び出し、他の連中もそれに続き出した。
ならば私もと言うところで、後ろから呼び止められる。
「それと、元退治屋のお婆さんから伝言です。『思いっきりやってきなさい。帰ってきたらあの壁の前であなたの活躍を聞きたいから』だそうです」
その言葉に、胸の使えが取れたような気がした。
「ああ……戻って分かったと伝えてくれ。ここもそろそろ安全とは言えないからな」
頷き、里の中へと戻っていく背中を見送ると私も力を込めて地面を蹴り、参戦の為に空を翔ける。
「そういやそうだったな。妖怪退治は気合が大事! 一匹残らず蹴散らす気でいるのが基本!! ソレをうっかり忘れていたよ」
既に空にも大地にも魔砲が、札が、風が、光が踊り狂っている。
そこに私の炎も参加させてもらおう。
だから叫ぶ、そのスペルの名を――
◇
その日の夜押し寄せてきた妖怪たちは、結局一匹たりとも里に侵入することは適わなかったという。
一晩中続いたという防衛戦の中で最も際立っていたのは、巨大な火の鳥だったと多くの者が証言していた。
それ以降、里の中を歩く長い白髪の少女の姿がよく目撃されるようになったというが、それはまた別の場所で語られることだろう。
一先ずこの話はここで終しまい。
了
人里の家と家の間に作られた真っ暗な路地の間。
ソレはそこを駆け抜けていた。
走る走る走る走る走る。
足の裏に力を込め、走ると言うよりは前方に向かって跳躍する感覚で駆け抜ける。
走る走る走る走る走る走る。
踏み切った足とは反対の膝に力を溜め、その足の着地と同時に地面を踏み砕くつもりで駆け抜ける。
走る走る走る走る走る走る走る。
両脇の壁が黒く塗りつぶされた一枚の板だと錯覚するほどの速度で駆け抜ける。
走る走る走る走る走る走る走る走る。
路地が途切れ人々の行き交う大通りに出るが、速度を緩めたりはしない。
むしろ更に足に力を込め、驚愕の表情を浮かべる人々をすり抜けると別の路地に入り駆け抜ける。
走る走る走る走る走る走る走る走る走る。
もう走る理由もなくなっているかも知れないと思いながらも、それでも両足の動きを止める気にはならなかった。
走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る。
出切る事なら背後を振り返って確認したかったが、そんな度胸は持ち合わせてはいなかった。
もしも後ろから追いかけて来るモノが見えてしまったら……
そう考えるだけで、そう考えてしまったらこそ、その考えを振り払うために走る事しか考えたくは無かった。
走る走る走る……
「やっと追いついた」
呟きの様なその声は、しかし暴風以上の響きを伴って聞こえた気がした。
「まったく、弱いくせに逃げ足は速いんだから参ったよ。少しは追いかける方の身にもなって欲しいもんだね全くさぁ」
そう言いながら前から真っ直ぐにこちらへ向かって来る人影に、ようやく自分はいつの間にか足を止めてしまっていた事に気付いた。
「こっちもそんなに走るのは得意じゃないってのに、考えなしに里中走り回られたらそれだけで負担が増えるって事分かって欲しいよ」
そいつが何を言っているのか分からないが、自分が追い詰められてしまったという事だけは分かる。
再び逃げようにも、蛇に睨まれた蛙の様に手足は震えるばかりで動くことは無い。
何かを言おうにも、口の中はカラカラに干上がり頭の中でさえ言葉がまとまらない。
「それでもこうして捕まえたんだから、これでようやく今日のお仕事も終わりだ」
「待っ……」
とっさに言おうとした一言は、続けて告げられた言葉により永遠にかき消された。
『フジヤマヴォルケイノ』
◇
「……確かに私は里の内部で人を襲った妖怪を退治してくれとお前に頼んだが、誰も両脇の民家を焦がしてくれと頼んだ記憶は無いぞ妹紅」
苦虫を噛み潰した様な顔で小火現場を見つめるのは人里の寺子屋教師、上白沢慧音。
「そうは言ってもな、とんでもなく逃げ足の速い奴だったから一撃で仕留めないとどこへ逃げてしまうのか分からなかったんだよ」
とは言え、それでも気まずいのか目を泳がせながら答えるのは竹林の案内人にして慧音の友人の藤原妹紅。
「確かに、あの手の手合いは動きを封じて逃げ場の無い攻撃をするのが有効だが、少しは加減をしろ」
「いや、あれでも加減したつもりなんだけど……」
「尚更だ。里ではお前のように戦える力を持っている人間の方が少ないんだぞ」
それに返そうとして、妹紅は口をつぐんだ。
戦える力を持った人間の例を挙げようとして思い浮かんだのが神社の巫女を筆頭とした非常識集団だったから。
「それにしても、これで七件目か……」
「あ~、確かに最近多いよな」
慧音の口から漏れたのは妹紅の起こした小火に対しての言葉ではない。
でなければ、彼女の無責任な発言に対して特大の頭突きが炸裂しているのだから。
「垢なめのように里に出る妖怪は前からいたけど、最近の『新種』連中は問答無用で人に襲い掛かってくるもんな」
「そうだな。幸い今までは何とか死傷者は出ていないが、それも時間の問題だろう」
「こりゃ、一回集会でも開いて対策でも練るかい?」
「そうだな。ちょうどこれから神社にも行くし、巫女と魔法使いにも声をかけるか」
「……別にいいけど、あいつらの話が参考になるかねぇ」
「……一応巫女の方は妖怪退治の専門家だぞ。最近忘れられているのは否定出来んが」
互いに真顔で小火の後を眺めながら交わされるその会話は、傍から見ている者にとってはえらく滑稽に映ったが当人達は至って真剣である。
だからこそ余計に滑稽さが増しているともいえるのだが。
「慧音がそうするのなら別に止めはしないけど、寺や道場の連中はどうする?」
「今回は見送ることにするよ。以前の集会でもあの面子は人の側よりも妖怪の立場になって話していたみたいだしな」
以前の集会とは、あの山の神を交えた会談のことだろうか。
妹紅は気になったが、あえて口に出すのは止めておいた。
出した所で変わる物でもないし、何よりも自分が『力有る者』の側に居る事を自覚していたからだ。
「そっか。まぁそういったことは人との付き合いに慣れている慧音に任せるよ」
だから自分は慧音の為に力を使えばいい。
この半獣の友人と付き合い始めたときからそう割り切っている。
当の友人本人はこういった言い方をする度に何とも言えない表情をするのだが、これはもう自分の性分なのでそう割り切ってもらうしかない。
そう思っていても、中々そうだと伝える機会も無いまま今に至るのだが。
「っと、自警団の連中も来たみたいだし、私はひとまず帰らせてもらうよ」
「……立ち会わないのか?」
「いんや、これでも忙しい身でね。今回だって家を焦がしてしまったから、また暫く炭焼き小屋の手伝いをしなきゃなんないのさ」
そう、妹紅はなぜか律儀に自分が燃やしてしまった建物の弁償をしているのだ。
妖怪を退治してもらったからその必要は無いと慧音も自警団も言っていたのだが、何度言っても代金を置いていく彼女に根負けして今では黙って受け取っている。
妖怪討伐の代価分はちゃんと引いていると本人は言っているが。
だから、今回も慧音は黙って見送る事にした。
「……会議の日が決まったら知らせる」
必要最低限の事だけを告げて。
「ああ。そしたら私も予定を合わせるよ」
またな、と言い残して片手をヒラヒラさせながら去っていくその背中に、慧音はとうとう何と声をかけたらいいのか分からなかった。
◇
人とあやかしが奇妙な形で共存する地、幻想郷。
その中核を成す博麗神社に、二つの人影が向かい合っていた。
「手合わせ?」
ある日の博麗神社の境内で、人里の寺子屋で教師をしている慧音が神社の巫女の霊夢にそんな事を申し出てきた。
「ああ。それもスペルカードルールではない組み手式のやり方で試合って欲しい」
霊夢はその言葉に怪訝な顔をする。
人とあやかしが対等な条件で戦えるようにする為に考案されたのがスペルカードルールであり、現在の幻想郷では主流の問題解決方法である。
それに依らない試合など、まず滅多に起こるものではない。
慧音は巫女の表情から察したのか、それともそう思われることは考えていたのかすぐに理由を話し出す。
「いや、実は最近外の世界から流れてくる妖怪が増えたみたいなのだが、何でか知らんが人里の通りや寺子屋の中に好んで出てくる奴らが多いんだ」
「ああ、そう言えば紫もこの前『古くからの伝承どころか学校の七不思議まですぐに廃れてしまう時代になってしまうとは嘆かわしい限りですわ』何て愚痴っていたわね。聞いた時は何言っているのか分からなかったけど、つまりは人の多い所に出る妖怪が忘れられて来たって事か」
「そういうことだろう。それにここだけの話、私が見かけた新参の連中は一見すると人に紛れてしまう外見をした奴が多い。正直な話、人間に襲い掛かっている姿を見ても妖気を感じなかったら物盗りと区別がつかなかった位だ」
「へぇ、そりゃまた厄介なのがやって来たわね」
口調こそ暢気なものだが、その目元は逆に鋭さを増していた。
無理も無い、彼女は妖怪退治を生業とする博麗の巫女だ。
だが、その解決方法は基本的に勘と運任せのやり方が目立つ為、人間に紛れてしまう妖怪の出現は彼女の今までのやり方が通じなくなってしまう事を意味している。
それでも適当に目星を付けてしばき倒したら『当り』を引いていそうな気がするのも霊夢が霊夢たる所以だろう。
話が少々逸れてしまったか。
「そういうわけで、そんな奴等と里の中で出くわした際に対処できるようにこうして稽古をつけてもらいに来たわけだ」
そう告げると、慧音は深々と頭を下げて頼み込む。
「嫌よ、面倒くさい」
それでも一言で切って捨てるのが霊夢という少女であった。
「ここまで頼んでもか」
「そうよ。第一組み手が本来の目的ではないでしょう?」
そして、勘が鋭いのも霊夢という少女であった。
「……」
「大方里の人間の前で半妖怪化した自分と戦うことで妖怪への対処法を覚えてもらおうとしているんでしょうけど、そんなのあまり意味が無いわ」
「やれやれ、そこまでお見通しか」
「あんたの考えそうなことだからね」
気心の知れた相手に掛けるような言葉ではないが、これでも巫女にしては親しみを込めた話し方をしている。
「妖怪相手に有効な自衛の手段を教えるってのは悪くないと思うわよ。でも、それはある程度の地力を持っている事が前提になるわ」
特に、と一拍置いてから巫女は続ける。
「子供相手に妖怪用の護身術を教えるなんて危なっかしくて仕方ないわよ」
「そうか? 実際に妖怪の力を見るのは自衛の為にも良いかと思ったのだが……」
その言葉に霊夢は溜め息を一つ吐き。
「慧音って、生真面目すぎて考えが足りなくなるわね」
その言葉に怒るでもなく疑問を感じるのは、ひとえに慧音の人柄であろう。
「考えても見なさいよ。下手に妖怪と戦える方法を教えたら実際に使いたくなっちゃうでしょうが」
「あ。」
そうだ、自分は何を考えていたのか。
妖怪に対抗できる方法、つまりは戦う方法を知った子供、特に男の子がその力を試そうとするのは当り前ではないか。
この前も、妖夢が戦っている姿を偶然見かけたとか言ってその真似をしてチャンバラをやっていた生徒達を叱ったばかりだというのに。
「生兵法は怪我の元、ってよく言うでしょ。中途半端に力を持っちゃう方が危ないのよ」
「そうか……そうだな。よし、この案は廃案としよう」
「そうした方がいいわね」
意外と思い切りの良い物言いに、霊夢も同意する。
「そうさせてもらうよ。やれやれ、それにしても実行に移す前に話してみてよかった。教えてしまってからでは遅かったからな」
自分で納得するように頷いてから、ではどうしようかと頭をひねる。
護身術を教えるのは無しにしても、それでも自衛の手段は教えておきたい。
相変わらず生真面目に悩むその姿を見かねたのか、霊夢はある事を決めた。
「しょうがないわね、私が小さかった頃に教えられた事でよければ話すわよ」
その言葉に、慧音は喜んで乗ることにした。
◇
視界の端に星空が映る。
だが、ソレを悠長に眺める訳にも行かない。
妹紅はひたすらに視線を下に向けると、大通りを走り回る犬に似た妖怪を追う。
飛び石を渡る様な感覚で一歩毎に屋根を一つ足場にして駆け抜ける彼女の姿は、その速度故に道を行き交う人々には突風としか認識されていなかった。
追われている妖怪の方は速度こそ突風には及ばぬもののパッと見ただけでは普通の犬とそう変わらず、異形の頭部は一瞬しか人の目には映らぬためにやはり「今、何か変な犬が走ってった?」という程度の認識でしかなかった。
追い付きそうで追い付かないその鬼ごっこはいつまでも続くかのように思われたが、それも里の外れまで来た所で終わりを迎えた。
「さぁて、此処まで来たのなら遠慮はしないよ。お前をほっとくわけにもいかないんでね」
そう宣言するのと同時に屋根を踏み切り板代わりに跳躍すると、地面を走る妖怪目掛けて彼女は力を解放する。
「不死『火の鳥‐鳳翼天翔‐』(弱)」
振り下ろされた手の先に、言葉通りの火の鳥が現れて一瞬で妖怪を灰にした。
その速さは、妹紅が地面に着地する頃にはその灰さえも風に吹き散らされていた程に。
威力もそうだが、それを操る技量も並大抵の物ではなかった。
ましてや互いにかなりの速度で移動していたのだが、それも彼女にとってはそれ程苦にはならない程度の事だったらしい。
現に周囲に被害が及ばないように威力を抑えながらでも勝てたのだから。
「やれやれ、今回は上手く行ったな」
今までは毎回周辺の建物に被害を出しては慧音に怒られていただけに、安堵の息も出ようというものだ。
「そうですね。流石のお手並みと言いましょうか」
不意に背後から掛けられたその声に、しかし驚きはしなかった。
「ああ。これでお前がこの場に居なければ更に上出来だったんだけどな」
そうだろう、と妹紅が振り向いた先には、おかっぱ頭に花飾りを着けた着物姿の少女が立っていた。
その少女に向けて、更に口調を強めて。
「稗田家の当主様がこんな場所に一人で居るなんて随分と無用心じゃあないか?」
その発言に怒るでもなく、その少女‐九代目の阿礼乙女にして幻想郷縁起の編纂者、稗田阿求は微笑を浮かべながら。
「いえいえ、そんなわけにも行きませんよ。私を誰だと思っているんですか? 妖怪の記録を書き記すのが生業なのに里に出る妖怪をほっとくなんて出来ませんよ」
「いや、何でお前が此処で待ち伏せていたのかを聞きたいんだが」
「それこそ何を言っているんですか。里の中から敵を追い詰めるのに適した場所を私が知らないとでも思っているんですか?」
そう言いながらも、その表情を苦笑に変える。
「最も、他にも何箇所か追い込みやすい場所があったのでここに妹紅さんが来たのは運の助けもあったんですけどね」
外れなくてよかったですと気楽に呟く少女の姿はどこか微笑ましいものを感じさせるが、妹紅は逆に警戒を強めていった。
「そうか。私にとってはむしろ運が悪かったと言いたいよ」
「いやいや、そんな怖い声を出さないで下さいよ。そんな『目撃者は消せ』見たいな事を言われると私みたいな力を持たない小娘は震えるしか出来ないんですから」
いけしゃあしゃあと語るその言葉に毒気を抜かれたのか、妹紅の全身から放たれていた重圧が路地裏の影に溶け込むようにして消えていった。
「じゃあ質問を戻すが、だったら何で一人で来た? 妖怪の事を知りたいのなら後日私を呼んで聞き出すなり他に方法はいくらでもあるだろうに」
その問いかけに、阿求は少しだけ考える素振りを見せる。
「そうですね、より正確に言うのであれば妖怪の情報と、貴女の変化についても知りたかったからですよ」
「だったら他に行け。私は何も話すつもりは無い」
即答に近い形で告げると、それで話は終わりだとばかりに背を向けて歩き出した。
それに慌てるかと思いきや、稗田家の当主は落ち着いた口調で語りかける。
「わかりました。それではあなたが弁償した家の持ち主達に聞いて見ます」
それは何でも無い一言であったはずなのだが、なぜかその一言は立ち去ろうとしていた少女の足を止めるのには十分な重さを持っていた。
「そうですね、まずはこの事件が起き始めた一件目、最初の『被害者』から話を聞いてみましょうか」
「分かった。私が答えられる事でよければ答えよう」
◇
博麗神社の居間で、霊夢と慧音は向かい合っていた。
「つまり、先代から最初に教えられたのは『逃げる事』と『耐え抜くこと』だったと言うのだな」
二人の間のちゃぶ台には、それぞれ湯気を立てる湯飲みが置かれていた。
だが、その中身がそれぞれ半分以下になっているところを見るに、それなりの時間話していたようだ。
そもそも、そのお茶にしても何杯目なのかは当人達も忘れているかも知れない。
「ええそうよ。そもそも素手の人間が妖怪と戦うなんて、その為の修行を積んだ人でもなければまず無理よ。実際私だって道具も無しに戦うなんて滅多にしないし」
ここでやらないと言わないのが霊夢らしいが、それは今口を挟む事では無いと考えた寺子屋教師は黙って続きを聞くことにした。
「ましてやろくに戦う力も無い子供が害意を持った妖怪と出くわしてしまったらそれ位しかできないからね」
そう、それこそが問題の焦点なのだ。
力がないから、妖怪に対抗する手段が欲しい。
中途半端な手段では、妖怪に対抗できない。
それで延々と考えが堂々巡りを起こしてしまっているのだ。
「ならばどうすればいいのだ。どうした所で手段は必要なのだぞ」
「死ぬ気で頑張るしかないわね」
あっさりと、それこそ他人事の様に言い放つ巫女に対して激昂するかと思われた教師だが、予想に反して先を促すように沈黙していた。
「そもそも妖怪ってのは人間の恐怖が形を成したモノがほとんどなんだから。連中が人間を襲うのも、怖がらせてより自分の形を確かなものにしたいからよ。ほら、人間を殺して食べる何かって、いかにも怖そうじゃない」
「ならば聞くが、『何を』死ぬ気で頑張ればいいんだ?」
「決まっているわ。生きることよ」
「生きること?」
余りにも当り前すぎる言葉を聞かされた為、慧音は鸚鵡返しに答える事しか出来なかったのだが、それでも何かが分かった様な気がした。
「そう。死ぬ気で逃げ延びて、死ぬ気で耐え抜いて、死ぬ気で生き抜こうとする。妖怪にとってはそうされてしまう事が何よりも困ることなのよ。死ぬ気で生きている人間は怖がっている暇なんて無いんだから」
そこまで言うと、霊夢は喉が渇いたのか一口お茶を啜った。
その対面にいる慧音はというと、聞かされた事に呆然としながらも何とか考えをまとめ上げ、理解しているようだった。
「つまり何だ、霊夢が、いや、歴代の巫女が最初に教わる事はつまり……」
「そう、心の持ち方よ。技も術もその後から教わることになるわ」
何でも無いように告げる霊夢にとって、それは何でも無い位に当たり前の事なのだろう。
つまりはそれ程に自分の一部として根付いていると言う事だ。
同時に、納得もした。
霊夢はどんな場合であっても霊夢らしさを失わないからこそ強いのだろうと。
「……普段の霊夢を見ていると、とてもそうは見えないのだがな」
それでも日常の霊夢を知る慧音としては、彼女がそんなに必死になって何かをしている所など見たことが無い。
だから思わず出てしまった呟きに、霊夢は怒るでもなく当然の顔で。
「あら。私はいつだって死ぬ気で生きているわよ」
いつも通りに返すのだった。
◇
稗田家の客間では、一触即発の空気が流れている。
それぞれの前に置かれたお茶には一切手を付けられた様子も無く、湯気も消えて暫く経っているのが分かるほどだった。
「あの……何で私はここに居るんでしょうか?」
落ち着かない様子で阿求に話しかけるのは、妖怪の山にある神社の風祝、東風谷早苗。
妹紅がリボンを、阿求が花の髪飾りを着けている様に、蛙と蛇を模した髪飾りをそれぞれ着けているのだが、それはこの場に居る理由とはまるで関係が無いことだろう。
「いえ、せっかく我が家を訪ねて来て下さった巫女様を何時までも待たせるわけには行きませんでしたので」
「いえ、そりゃ最近の人里内での妖怪発生について話を聞こうとはしていましたけど、先約があるのでしたらまた後日でも構わなかったんですけど……」
「それなら問題は無い。私も関係者だ」
その疑問に答えたのは、阿求では無く今まで無言でいた妹紅であった。
「そうなんですか?」
「ああ。ここ最近人里に出た妖怪は私か慧音、そうでなければ輝夜の所の兎が退治しているからな」
意外な面子が入っていたことに驚いたが、それは今は関係ないだろう。
「その中でも一番多く退治しているのが妹紅さんですからね」
「へぇ、珍しいですね。あまり顔を会わせる機会が無かったのもありますけど、妹紅さんってあんまりこういう事には関わらない方だと思っていましたよ」
「そうですね。彼女も狙われやすいのが子供でなければこうも関わろうとはしなかったかも知れません」
その言葉に妹紅の周りの空気が更に鋭さを増したが、そこは幻想郷縁起を執筆している稗田家の当主らしく、あっさりと流す。
早苗も妹紅の隣に座っていたのでその気配をもろに受けているはずなのだが、彼女は彼女で博麗の巫女に喧嘩を売った過去があるだけに、何気に図太い性格をしていたりするので我関せずを平然と貫いていた。
そんな周囲の様子に怒ることも馬鹿馬鹿しくなったのか、妹紅も殺気を納める。
座って話しているだけの短時間でかなりの修羅場があったようだが、全員そんな事でいちいち気にするような繊細な精神の持ち主では無い為にあっさりと水に流すことにした。
「そういえば、最初に被害に逢ったのって寺子屋帰りの男の子でしたよね」
山の上の巫女も自分が居る理由が分かった途端に神経の太さを発揮しているのだし。
「ご存知なのでしたら話は早いですね。その子が逃げ回っている途中でたまたま慧音さんに会いに来ていた妹紅さんに発見され、事無きを得たというのが私の聞いた話です」
「あ、それは私も聞きました。その時にその妖怪ごと後ろの民家の壁に大穴を開けてしまったので、弁償のために炭焼き小屋でアルバイトを始めたとも聞きましたけど」
「……ああそうだよ。不可抗力とは言え、流石に悪い事しちゃったなって思ったからさ」
何故か不機嫌そうな声で答える妹紅に、早苗は首を傾げた。
確かに民家の壁に穴を開けてしまうのはやりすぎだとしても、その事自体を何時までも引きずる様な神経の持ち主など、自分の周りには居ないだけに妙に気になった。
「私もそこは気になっているんですよ。普通ならそこで弁償して終わりのはずなのに、妹紅さんはその後もよくその周辺を中心として里の中の見回りをしています。そのお陰で現在に至るまで死者や重傷者は出ていません。ですが、あなたは今まで積極的に里の人達とは関わらないようにしていたはずです。なのに、あの一件以来あなたは明らかに関わるようになっていますから」
流れるような阿求の言葉であったが、それは妹紅の頭にきちんと届いていた。
だからこそ、それに対してどう答えようか迷っているらしく、頭を掻き、上を見上げ、隣に座っている早苗の顔をチラチラと気にして、目を閉じて額に手を当てながら唸ってみると、観念したかのように阿求へと視線を戻した。
「あ~、なるべくなら話したくはなかったんだけどな。どうも既に色々知られているみたいだから言うよ」
だからお前も出来れば黙っていてくれと早苗に一言告げると、妹紅は話し出した。
◇
あれは知っての通り慧音に用事があって里に来たときの事だ。
約束の時間よりもちょいと早めに来てしまったこともあって、里の裏通り辺りをぶらついていたのさ。
あそこらへんは人通りもほとんどないから物騒な反面、私みたいな性格の奴には落ち着く場所でもあるからな。
いや、あの時は本当に人っ子一人歩いていなかったんでちょっと変だなとは思っていたんだが、それもすぐに気にしなくなったな。
その原因が正面から走ってきたからさ。
最初に見たのは子供だったんで、鬼ごっこでもしているのかと思ったんだが違ったよ。
何しろ、必死の形相で逃げていたんだからな。
後ろから追ってくる、本物の鬼に。
ああ、鬼とは言っても角のある方じゃない、古い言い方で魑魅魍魎や妖怪変化を意味する方の鬼だよ。これはちょっと関係なかったな。
とにかくだ、人通りが無いのはソイツの仕業だと分かったのだから、後は子供を助けるだけだ。
別に大した事はせず、走って近寄ってソイツの横っ面に炎を纏った回し蹴りを叩き込んでブッ飛ばせばそれで終わりだったからな。
だけど、それで事態は終わってはくれなかったんだ。
いや、鬼を退治できなかった訳では無いんだ。
実際ソイツは叩きつけられた民家の壁をぶち抜いた所で消滅したからな。
問題はそのぶち抜かれた民家の方だったんだ。
運悪く大穴を開けられてしまった民家には婆さんが一人で暮らしていて、いきなりの出来事にアゴを外して腰を抜かしてしまっていたんだが、それは私が何とかした。
これでも長生きしているからね。外れたアゴや抜けた腰への対処方法は知っている。
だけど、へたり込んでしまった老婆の励まし方だけは知らなかったんだ。
最初はてっきり火達磨になった妖怪が壁をぶち抜いて来たせいだと思ったんだけど、話を聞いてみるとその婆さんは昔は旦那さんと一緒に退治屋をやっていたらしくて今更この程度のことでは驚かなかったらしい。
じゃあ、何で腰を抜かしたのかって?
それは私が家を壊してしまったからだよ。
何でもあの家は亡くなった旦那さんと稼いだ金で建てた思い出の家で、今じゃあ形見の一つだったらしい。
それに大穴を開けられたんで落ち込んでいたんだ。
当然その穴はもう塞いだんだけど、その壁の部分はもう元通りの家じゃあ無いからだろうな、その部分に手を当てて悲しそうにしていたんだ。
子供を助けるためだったんだから気にしなくていいと言ってくれてはいたんだが、あの元気を無くした顔がどうも気になってね。
なるべく様子を見に来るようにしていたら、また妖怪に襲われている人間を見かけることもあったんで行きがかり上倒していたら今日この家に招かれたって訳だ。
◇
話しの終わった客間には、微妙な空気が流れていた。
妹紅の語った言葉に何と言えばいいのか、二人ともすぐには思いつかなかったから。
だが、そこは幻想郷縁起の執筆者だけあり、素早く自分の中で言葉を纏める。
「つまり、そのお婆さんが心配だったから来ていたということですか」
「その通りだよ。だからお前があの婆さんの所にまで話を聞きに行くのを止めたんだ。辛い事まで思い出させそうだったからな」
若干不機嫌そうな色を出すのは、阿求のやり方に対する不満だろう。
それを感じ取ったのか、彼女も素直に頭を下げた。
「それに関しては申し訳ありませんでした。私も里の有力者として目に見えた変化については知っておく必要がありましたので」
「いや、それは分かっている。あんたがそれなりに苦労しているってのは慧音からも聞いているからな。不機嫌なのは私だけの問題で、別に気にする必要は無い」
そうですか、と安堵の息を吐く阿求の様子を確認したのか、早苗が恐る恐るといった様子で話に加わってくる。
「それでは、別に里の見回りをしていたつもりでは無いという事ですか?」
「いや、それはそれとして一応里に来たらやるようにしている。流石に自分の近くで襲われている人間を見捨てるのは寝覚めが悪すぎるからな」
「まぁ、普段から竹林の案内人をしている位ですからね」
納得したように頷く山の神社の巫女。
本人に聞こえたら『風祝です!』と言われそうだが、ソレを突っ込むような機会はこの場ではついに訪れなかった。
「ああ。それに、最初に助けた少年も、中々見所がある奴だったからな」
ただし、別の突っ込みどころは訪れたが。
「おや? 妹紅さんは年下好みなのですか?」
阿求がそう尋ねた瞬間、早苗の表情も一気に輝いた。
そのまま何か言おうとしたのを咄嗟に妹紅が遮って。
「違う、妖怪に対抗する基本を弁えていたって言う意味で、だ」
遮られた早苗が不満そうな顔をするが、とりあえず話題を変えることには成功したらしく、蒸し返すようなことはしなかった。
「基本とは何ですか? その子は必死になって逃げていただけだと聞きましたが……」
「だから、必死になって逃げていたことがさ」
ますます分からないという顔をする早苗に、逆に阿求は納得顔をする。
妹紅はその様子を見て、仕方無く説明してやることにした。
「妖怪に対抗するには術や能力を使うというのがお前らの認識だろうが、そういったのが使えない人間はどうすればいい? とにかく必死で抵抗するしかない。そして妖怪ってのは人間の恐怖を元に生まれているだけに、必死で生きようとする力って奴に弱いのさ」
「それと逃げていたこととどう関係があるんですか?」
「大有りさ。あの子はただ逃げていたんじゃあない。向かっていた先は元退治屋の婆さんの家だ。後で聞いてみればあの家に行けば昔使っていた武器があると知っていたから、そこを目指していたらしい。つまり、戦うために逃げていたってわけだ」
早苗はその言葉に驚いて良いのか呆れれば良いのか分からなかった。
「だからこそ私と会うまで生き延びられた。妖怪と渡り合うにはそうした『生き延びてやるっ!』という感情が不可欠だからな」
そこまで聞いて、何となくだが現代っ子の早苗にも分かるような気がした。
彼女も自分が仕える二柱の存在の為に生まれ育った世界を離れて来たのだから。
「それが、基本ですか」
「ああ。あの婆さんもそいつの胆の据わりっぷりに笑っていたくらいだったからな。その時は壊れてしまった壁のことも忘れられるみたいだから、なるべくそういった連中の話をするようにしているんだよ」
「それにしても随分気にかけているんですね。そのお婆さんのこと」
「あ~、まぁ何だ。流石に私が原因の一端だったからな。なるべく早くあの壁も思い出になるようにしてやりたいんだよ」
それに、と続けるその声は、不思議な重さを持って聞いていた二人の耳に届いた。
「家が壊れてしまうというのは、つらいもんだからな」
何でも無い事の様に言う彼女の内心を理解できるのは、おそらく彼女だけだろう。
夜も深まりそうな時間帯になり、その日はそれで解散となった。
ひとまず里の妖怪への対策は、後日行われる集会で語りあうことになるだろう。
その時には、もう一度妹紅と話をしてみたいと早苗は考えていた。
後日談
「『噂』を核にした妖怪ならある程度はどうにかできるわね」
新参の妖怪たちに対処する話し合いの場で、霊夢がそんな事を言い出した。
「あの新種たちは外の世界で忘れられた噂話が核になっているわ。まぁ妖怪なんて大体がそんなものなんだけど、あいつらは比較的語られてきた歴史が浅いから、噂を付け足すだけでどうとでも行動を縛れるわよ」
要するに、発生自体は防げないが『夕方一人で道を歩いていると出くわす妖怪』から、『夕方一人で”鈴を鳴らしながら”道を歩いていると出くわす妖怪』に変化させる事は可能だということらしい。
これが何十年も前から延々と語り継がれてきた妖怪だと人々のイメージが固定されてしまっている為に無理なのだそうだ。
確かに、鬼や天狗が十字架を怖がるという設定を追加したとしても、それを信じるのは難しいだろう。
それがどんな妖怪なのかが曖昧なモノであった場合は、確実な弱点が追加出来ない代わりに行動や出現場所をある程度決められるものらしい。
よくは分からんが、何とかなるのなら文句は無い。
が、それでも発生することは止められないので、何時何処に発生させるかで揉めたのだが、それは早苗の案を採用することになった。
曰く、「新種たちが里に入るには月末の夜に正面から進入する必要があるということにしましょう。そうすればその日の夜に戦える人を集めておけば一気に済みますし。ギルド戦みたいで燃えるじゃないですか」という発言に、それは楽そうだと賛成の声が多数上がったのだ。ギルド戦というのもよく分からなかったのだが。
あとの流れはそんなに難しいものでもない。
『月末の夜に新種の妖怪達が里の入り口から入り込もうとしている』という話を里全体に流し、より多くの人に信じさせればいいからだ。
そうして今に至るわけだが、どうしても言いたいことがあるので私の前で顔を引きつらせている博麗の巫女に話しかけることにした。
「なあ、噂を流すのはいいが、それに尾ひれが付く事は考えていなかったのか?」
「うるさいわね、分かっているわよ。ちょっと失敗しちゃったかなって」
この場には一応他にも白黒の魔法使いやら山の上の巫女といった戦力がいるのだが、皆一様に顔が引きつっている。
「なぁ……あれってどんだけいるんだ?」
「て……敵が七分に地面が三分といった所でしょうか……」
そう、早苗が魔理沙に答えたように、異常なまでの数の妖怪が迫ってきているのだ。
回覧板などを用いて広めた噂だったのだが、それが井戸端会議などで話題に上がる内に『大量の妖怪が月末に押し寄せてくる』という話に変わってしまったらしく、気付いたときには既に手遅れになってしまっていたのだ。
「まずいな、雑魚とは言え侵入されたらそれなりの被害が出てしまうぞ」
流石にこの異変を聞きつけたらしく、寺や道場からも助っ人が来てくれているのだが、それで防ぎきれるとは思えない位の数がこちらへと向かっている。
慧音も何とか里の歴史を隠そうとしているのだが、あの妖怪達が『里に侵入する』性質を持っているせいか、どうも上手く行かないらしい。
つまり、私達であの群れをどうにかしないといけないということだ。
だが、あの数では流石に全部は……
「皆さん、こちらは準備が出来ましたよ」
そう考えていると、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
振り返ってみると、そこに居るのは稗田家の当主が立っている。
その顔を見るなり、霊夢はほっとしたような表情になった。
「よかった、そっちは間に合ったのね」
「はい。戦えない人達は寺子屋に集まって、男の人達は自警団を中心に守りを固めていますので少しくらいなら進入されても何とかなります」
「そう。それなら後はあいつらにひたすらスペルカードを撃ち込んでやればいいってわけね」
「ええ。思いっきりやっちゃって下さい」
その言葉に、緊張していた場に安堵の空気が流れる。
この事態が分かった時点で大急ぎで迎撃体制を整え始めたのだが、正直間に合うか微妙なところだったので不安だったが、ひとまずは何とかなりそうだ。
「それじゃ一番槍は私がもらったぁっ!!」
現金な性格をしている魔法使いが飛び出し、他の連中もそれに続き出した。
ならば私もと言うところで、後ろから呼び止められる。
「それと、元退治屋のお婆さんから伝言です。『思いっきりやってきなさい。帰ってきたらあの壁の前であなたの活躍を聞きたいから』だそうです」
その言葉に、胸の使えが取れたような気がした。
「ああ……戻って分かったと伝えてくれ。ここもそろそろ安全とは言えないからな」
頷き、里の中へと戻っていく背中を見送ると私も力を込めて地面を蹴り、参戦の為に空を翔ける。
「そういやそうだったな。妖怪退治は気合が大事! 一匹残らず蹴散らす気でいるのが基本!! ソレをうっかり忘れていたよ」
既に空にも大地にも魔砲が、札が、風が、光が踊り狂っている。
そこに私の炎も参加させてもらおう。
だから叫ぶ、そのスペルの名を――
◇
その日の夜押し寄せてきた妖怪たちは、結局一匹たりとも里に侵入することは適わなかったという。
一晩中続いたという防衛戦の中で最も際立っていたのは、巨大な火の鳥だったと多くの者が証言していた。
それ以降、里の中を歩く長い白髪の少女の姿がよく目撃されるようになったというが、それはまた別の場所で語られることだろう。
一先ずこの話はここで終しまい。
了
大半がその妖怪の生態についての語りになってるのが勿体無いのと、
妖怪との戦いをもうちょい付け加えてドラマを膨らませればいいのになー、と思ったがそれじゃ冗長かね、難しいとこですな
「命令は3つ。死ぬな。死にそうになったら逃げろ。そんで隠れろ。運がよければ不意をついてぶっ殺せ。あ、これじゃ4つか」
「生きることから逃げるな」
まさしく、この話を分かりやすく表現した台詞だと思います。
結局一番大切なのは、生きようとする意志なんでしょうね。
とても良かったです
SFで言う精神寄生生命体が実体をまとった存在