「―――アイツは!」
襤褸襤褸(ぼろぼろ)の布を頭から被り、藪の中に身を隠した人影が思わず声を漏らす。
すでに西の空に日が落ちてから数刻。
天空に蒼い真円が浮かぶ深い森の中、木々の隙間から漏れる蒼光のみを道標に当てもなく彷徨って
いた人影が、川のせせらぎを耳にそちらへ足を向けた時。
―――それに出会った。
その視線の先には、蒼く輝く月明かりの下に一糸纏わず水浴びをする女の姿。
輝くような白い裸身
少女のような肉付きの薄い身体
絹のように滑らかな腰まで届く黒髪
惜しげもなく月に裸身を晒し
冷たい水の感触を愉しむかのように恍惚とした表情で
緩やかな清流の中に、澄み渡る清涼な空気の中に、女は両手を広げ立っていた。
女は瞳を閉じたまま、仰向けにその身体をゆっくりと水面へと預ける。
傾ぐ(かしぐ)身体、ぱしゃん という微かな水音、水面へ広がる幾何学模様。
広がる波紋に包まれて、女は仰向けのまま水面に浮かぶ。
その白い貌(かお)には夢見るように微かな微笑が浮かんでいた。
人里離れた深く昏い森
取り残された緩やかな清流
蒼い月が織り成す静寂のカーテン
全てから解き放たれて水面に浮かぶ女。
それはまさに―――幻想。
影は言葉を失くす。
痴呆のように、只々その幻想を見つめている。
どれくらいそうしていたのだろう。
影が自分を取り戻した時、女は清流から上がろうとしていた。
激しく首を振り、網膜に焼き付いた幻想を振り払う。
深呼吸を一つ。
念の為にもう一つ。
更にもう一つ深呼吸して、やっと覚悟が決まった。
腰に手をやり、固い柄の感触を確かめる。
身体を僅かに前に倒すと一気に藪から踊り出る!
「お前! 何でこんなとこ―――っが!」
それは瞬間。
女が掛けられた声に振り向くと同時に、それを遮るかのように現れたもう一つの影。
弓を構え、矢を番え(つがえ)、引き分け、会(かい)し、放ち、中る(あたる)。
神事としての射法八節を略した実戦の弓。一連の動作でありながら全てが同時。
藪から飛び出した影は、寸毫の狂いもなく心臓を打ち貫かれ仰向けに倒れる。
確かめるまでもなく既に絶命していた。
女は邪気のないきょとんとした顔で、倒れ伏した影を見つめる。
女の側に現れた影―――水面からの月光の照り返しにより顕わとなった影。
赤と青に等分され星をあしらった特徴的な服装。輝く白髪に知的な美貌。長弓を片手に油断なく
倒れ伏した影を見つめる眼差しは、まるで物を見るような無機質さ。
今まさに一人の生命を奪ったというのに、その表情には細波(さざなみ)程の揺らぎもない。
「永琳、それ何?」
「さて、ただの覗きではなさそうですが……」
「ふーん? まぁいいわ。着替えは?」
「はい、こちらに」
女はすでに影への興味を無くしたように、身体を拭いて手渡された衣服を身に着けていく。
永琳と呼ばれた者は、影を貫いた矢を回収すべく歩を進め―――途中で歩みを止めた。
「姫、あれを……」
「ん? どうしたの」
着替えを終えた女は掛けられた声に振り向き―――そしてそれを見た。
仰向けに倒れ伏した影の胸元から伸びる一本の矢。
それがまるで生きているかの如く徐々に押し上げられ―――ついに抜け落ちる。
影は間違いなく絶命している。いや、していた。
言葉もなく立ち竦む二人の耳に、弱々しくも活動を再開した心音が響く。
「蓬莱人……」
思わず永琳の口から言葉が漏れた。
先程までの無機質な表情はすでになく驚愕に目を見開いている。
呆然と見ている間にも心音は徐々に力強さを増していく。
くす、くすす……
その響きに、弾かれたように永琳が振り向く。
ころころと鈴が鳴るような声で、子供のような無邪気な顔で、
女―――蓬莱山 輝夜が笑っている。
永琳はその童女のような笑みを見て、
ぞくり、と
背中に氷の柱を入れられたかの如く身を震わせた。
「ひ、姫?」
輝夜はその笑みのままで、永琳へと瞳を向ける。
「信じられない。まさかこんな所で同朋(はらから)に出会えるなんて、ね」
心から楽しそうに歌うように言葉を紡ぐ。
くすくすという笑い声が天上の雅楽のように旋律を刻む。
蒼い月明かりに照らされたこの空間へと流れていく。
輝夜は両手を広げくるくると回りながら、ころころと笑いながら、
己の喜びを歌に、舞に、形にする。
「あぁ……何という奇遇。何という縁(えにし)。何という奇跡。この地上に留まり幾百年。
このような粋な計らいを行うとは―――天も中々捨てたものじゃない」
輝夜は回っている。輝夜は笑っている。
「私達以外に永遠の牢獄に捕われた者がいるなんて。無限の無為を過ごす者がいるなんて。
あぁ……どうしよう永琳、私、自分が抑えられそうにないわ」
くるくると、ころころと
「貴方はどんな人かしら―――男? 女? 老人? 子供? あぁ、胸が弾けそう―――」
狂狂(くるくる)と、殺殺(ころころ)と、
輝夜は回りながら、笑いながら、影へと近づいていく。
「姫……」
永琳の痛ましげな声、それは何処にも誰にも届かず―――夜空へ消えていく。
「貴方は一体、何処のだぁれ?」
輝夜は影を覆っている襤褸布(ぼろぬの)を一気に剥ぎ取った。
放り捨てられた襤褸布は風に乗り、夜の彼方へ運ばれる。
「あらあら、これはまた随分と可愛らしいお仲間ね」
そこには銀髪のまだあどけない少女の姿。
死から開放された少女は、まるで苦悶するかのように眉を顰め―――ただ、眠っていた。
『螺旋遊戯(前編)』
「ん……」
障子と白壁で仕切られた和室に、柔らかな朝の日差しが差し込んでいる。
部屋の中央に敷かれた真新しい布団、それ以外には箪笥も何もない。
埃こそ溜まっていないがこの部屋が普段使われていない事は明白だった。
こんもりとした布団の膨らみ。声はそこから聞こえてくるが、頭から布団を被っているため
髪の色さえ定かでない。
「んぅ……むくぅ……ふゅー」
布団の山の主は起きているようだが、暖かい布団の呪縛から逃れられないと言ったところか。
もぞもぞと布団の膨らみが動いている。だが如何せん戦況は不利。ヒュプノスの甘い囁きに
再び陥落しそうになった時、
「あら? まだ寝てるの?」
いきなり障子を開けて掛けられる凛とした理知的な声。
『八意 永琳』
昨夜と同じく赤と青に等分された特徴的な服装。
声だけでなく瞳にも理知的な輝きがあった。
「んあ?」
布団から顔を出す長い銀髪の少女。寝ぐせでボサボサ、瞼は半開き、とても年頃の娘が他人に
見せられる顔ではない。
だが少女はそのような事、まるで頓着せずに右手の甲で瞼をこしこしと擦る。
「んー? ここ何処……ふっくぁああああああ………あふ……」
呟きと合わせて大欠伸。喉の奥まで見せる様はとても年頃の(以下略)
「良く眠れたようね。昨夜の事覚えてる?」
「ん? んんん…………ん? あっ! アイツはっ!」
少女は布団を跳ね除けるといきなり立ち上がり部屋を飛び出そうとした。
永琳の脇を通り過ぎようとした瞬間、
「え?」
少女の世界が回る。障子から天井そして再び布団へと。
くるんと回り布団へうつ伏せになるまで、自分が投げられた事すら判らなかった。
「若い娘がはしたないわよ。少し落ち着きなさい」
少女は、水を掛けられた猫のように目を丸くしながらも現状把握に努めた。
昨夜の事
今までの事
あの時の事―――
「……あぁ、思い出してきたよ。アンタだね。昨日私を殺してくれたのは」
少女の身体に敵意が満ちる。ボサボサの髪と相まって美しい野生の獣のよう。
「それについては……そうね、悪かったわ。てっきり覗きか何かだと思ったから」
「覗きは殺しても良いのかい?」「良いのよ」
即答。一も二もない即答。
「まぁ良いや。それで……アイツは何処?」
少女の瞳に敵意を超えた殺意が灯る。
永琳はその殺気を事もなく受け流すと、溜息を付きながら問い掛ける。
「改めて聞くのも何だけど……貴方、誰? 姫の知り合いなんてこちらにいる訳ないんだけど……
それに貴方―――不死よね。それは生まれつき? それとも後天的?」
「……私は藤原 妹紅。アイツに恥を掻かされた男の娘よ」
「藤原? あぁ あの男……」
永琳は右手の指先をこめかみに当て考え込む。
「狙いは蓬莱の玉の枝かしら? あれから幾百年も経つというのに……」
「違う! そんなものどうでも良い! 私はアイツに詫びを入れさせないと気が済まないんだよっ!」
「それこそ今更よね。もうその男も死んでいるんでしょ? 墓参りでもさせたいの?」
「う……違う……私は……」
言葉に詰まった妹紅を見て永琳は呆れたような顔をする。
「全く……もう少し考えてから発言しなさいな。で、改めて聞くけどその身体、どうしたの?」
「……これは……その……薬で……」
「薬? まさか蓬莱の薬!?」
こくん、と妹紅が気まずそうに頷く。
信じられない、と永琳が呟く。
「あの薬は竹取の翁に姫自ら渡したはず。何故貴方が?」
「…………」
黙り込む妹紅に、永琳は悟ったかのように頷く。
「奪ったのね……殺したの?」
「違う! 盗ったのは本当だけど、私は殺してなんかいない! 私は殺してなんか……」
何かに怯えるようにがたがたと震えだす妹紅。
その様に、これ以上聞いても無駄だと永琳は判断する。
「まぁ良いわ、どちらにせよ終わった話―――それより貴方、起きたのなら早く此処からお逃げなさい。
今ならまだ間に合うわ」
「え?」
妹紅はきょとんとした顔で永琳を見つめる。
「今なら姫様は寝ている。まだ今なら……間に合うのよ……」
永琳の白い貌(かお)に影が差す。
それは永遠の苦難を刻み付けた彫刻のようで
それは解けない命題に苦悩する数学者のようで
それは幼子を心配する―――――――――母親のようだった。
妹紅は言葉も出さず、ただ永琳の顔を見つめる。
どれだけ時間が経ったのだろう。沈黙の壁が二人を別って(わかって)から。
あるいは千年?
それとも一瞬?
どちらにせよ、沈黙を破ったのは二人ではなく―――
「あら、永琳。勝手な事をされちゃ困るわね」
「姫!」「輝夜!」
相変わらずにこにこと笑みを絶やさぬ涼しげな様。
長い黒髪を流れに任せてなびかせて、縁側の廊下を静々と歩み来る足運び。
気品溢れるその姿は、まさに『姫』と呼ばれるに相応しい。
蓬莱山 輝夜はころころと鈴が鳴るような声で、永琳に向かって問い掛ける。
「どういうつもりかしら? 私がその娘が目を覚ますのをどれだけ楽しみにしていたか、
貴方は知っていると思ったんだけど」
「いえ、その……」
「私は貴方に言ったわよね。その娘が起きたら部屋まで呼んできてって。言ってなかったかしら?」
「いえ……伺っております……」
「そうよね。ひょっとしたら私が言い忘れていたのかと心配しちゃったじゃない。駄目よ、永琳」
「は……申し訳ありません……」
「それとも私の言う事なんか聞いてられないのかしら? 自業自得とはいえ悲しいわね」
「いえ! そのような事は!」
「あらそう? じゃあ、どうしてその娘を……ぶっ!」
「いい加減にしろ」
妹紅の投げ付けた枕は、寸分違わず輝夜の鼻っ面にめり込む。
枕とはいえ蕎麦殻が一杯に詰まっており当たると痛い。
「ひ、姫!」
ずるり、と輝夜の顔面から枕が外れる。ぽたりぽたりと赤い血がその小さな鼻から零れる。
なのに輝夜は笑ったまま。それは下手な怒り顔より何十倍も怖かった。
「あの……姫? その……落ち着いてくださいね?」
永琳が緊張した面持ちで輝夜を宥める。額から汗が一筋流れる。
「あらあら、私は落ち着いているわよ? この程度の事で……わぷっ!」
「無視してんじゃねーよ」
今度は丸めた掛け布団を輝夜の顔面に投げ付ける。ぶつけた掛け布団は輝夜の顔面で一度跳ねた後、
空中で網のように広がり輝夜の頭を覆った。
永琳はその暴挙に声も失くしていた。
「やっと会えたってのに……ネチネチと手下苛めてんじゃねーよ。この性悪が」
妹紅は立ち上がる。まだ温もりの残った布団の上に仁王立ち。
そこには先程までの逡巡や迷いはない。純粋な怒りの表情があった。
「お前、輝夜だよな? 竹取の姫の。月に帰ったんじゃなかったのかよ?」
妹紅はわざと斜っぽく(はすっぽく)喋る。
女一人で生きていくにははったりも必要。生きていく為に身に付けた術(すべ)
だがむしろそれこそが彼女の地。
可愛らしい外見にそぐわぬ炎のような気性。
それこそが藤原 妹紅だった。
うふ、うふふふふふ……
布団の中から漏れ聴こえる含み笑い。
それを聞いて永琳はそれとなく後ろに下がる。額を流れる汗は二筋に増えていた。
「―――まさかねぇ。まさかこんな仕打ちを受けるとは思ってもみなかったわ。
本当に人生って何があるか判らないものね」
輝夜は布団を被ったまま。ただ布団の中から溢れ出す、どうしようもない何か。
「本当に面白い。本当に興味深い。私の目利きは間違っていなかったわね」
「あ? 何言ってんだ? お前」
「判らない? 判らないかしら……貴方に合わせて言うならね……」
輝夜は布団を跳ね除ける。爛々と輝く瞳が妹紅を刺す!
「その喧嘩、買ってやるって言ってんのよ!」
「上等っ!」
かくて輝夜と妹紅の、その後も続く争いの最初の幕が開かれた―――
「天に唾吐くその行為! その結末を噛み締めなさいっ!」
輝夜の手に握られた五色の玉の枝。それを振るう度に虹色に輝く光の弾が生まれ、妹紅に向かって
一斉に放たれる。
鮮やかな光の渦。畳を壁を天井を、穿ち引き裂き破壊する。
輝夜が指揮者のように枝を振るう度に万雷の拍手のような鮮光が舞い踊る!
「ちぃ! 怪しげな術を!」
対する妹紅は、持ち前の反射神経と山猫のような身のこなしで放たれた七色の弾幕を避わす。
だが狭い室内では圧倒的不利。縁側に輝夜が陣取っており庭に逃げる事もままならぬ。
妹紅は襲い掛かる弾幕に背を向けると、反対側の襖を蹴破った。
敵に背を向けるは最低の愚策、だがそれ故に生み出される活路。妹紅の背を赤青ニ色の光が穿つも
足は止めない。不死の肉体を頼りにした強引な突破口。廊下を駆け抜けるその背に響く轟音にも
振り返りはしない!
長い廊下を直走る(ひたはしる)。地の利がない以上、迂闊に部屋へは飛び込めぬ。
だが直線であるならば……
「逃がさないわ……この子もお腹を空かせているの……喰らいなさい! 龍の顎(あぎと)!」
輝夜の手に現れた蒼く輝く水晶玉。それが一際強く輝くと共に鋭い牙のような光条が、幾本も幾本も
走り、疾り、奔る(はしる)! 追い縋る龍の牙。床を、壁を、天井を貪欲に抉り取りながら妹紅の背に迫る!
「南無三!」
龍の牙が妹紅の首を噛み切ろうとした瞬間、慣性を殺さぬまま横っ飛びで襖をぶち破ると手近な部屋
へと転がり込んだ。
「痛ぅ! ここは……」
そこは納戸のように古びた道具が積まれた光差さぬ部屋。三方を白壁に覆われており、妹紅は袋小路に
追い込まれた事を知る。
「糞っ! こんな所に!」
妹紅は腹立ち紛れに壁を蹴る。びりびりと室内が揺れるが壁に罅一つ入らない。
何か手はないか、暗い室内をきょろきょろと見回していると―――
「くす、くすす……どうしたの? 鬼ごっこはここまでかしら?」
振り返るまでもない。妹紅はそれを見るまでもなく知っている。
そこにいつも通り笑みを浮かべた輝夜が立っている事なんて、生まれる前から知っている。
だから妹紅は振り向かない。
振り向かないまま―――
後頭部から思いっきり輝夜へと突っ込んだ!
「え? ―――ぐふっ!」
狙いも付けず放たれた頭突きは、輝夜の鳩尾に突き刺さる。
思わず前のめりに倒れ込む輝夜へ肘を落とそうとするも、輝夜は身を捩ってそれを避わす。
妹紅は深追いせず廊下を再び駆け出した。
女一人で彷徨うならば荒事に巻き込まれた事など数え切れぬ。
不死である事など意味はない。死なずとも捕らえられれば只の娘と変わりはせぬ。
妹紅がここまで旅を続けてこれたのは、野生の獣のような状況に対する判断力。
追う時は追い、逃げる時は逃げる。
その見切りの早さが妹紅の唯一の武器。
妹紅は逃げる。背後から放たれる光弾など気にも止めない。
腕を、足を、光弾が掠め抉ろうとも足は止めない。
そしてついに最初の部屋に戻ると、障子を蹴破り庭へと転げ出る事に成功した。
庭は妹紅の想像以上に広く、白砂の敷かれた庭内は良く手入れされている。
こんな状況でもなければ、お茶でも飲みながらゆっくりと庭を愉しみたいところだ。
無論、今はそんな余裕などない。
「あらあら、逃げ回るばかりでは面白くなくてよ」
縁側に佇む輝夜。庭に転がり膝を付く妹紅。
その視線の違いが、高低差が、二人の力の違いを如実に示している。
いかに妹紅が不死身とはいえ所詮只の人間に過ぎない。先程光弾で抉られた傷はすでに治りかけて
いるとはいえ、あんな弾幕(もの)を何度も喰らっては堪らない。
妹紅はぎりっと奥歯を噛む。
(どうする? あんな非常識な攻撃、いつまでも避わせない。こっちには武器はコイツしかないって
のに!)
さりげなく妹紅は腰に手を回す。堅い柄の感触を確かめる。
先程、輝夜に体当たりをした時、倒れながらも輝夜の目は妹紅の目から離れていなかった。
下手に深追いをすれば反撃は必至。故に妹紅は逃走を選択した。
だが、あの時仕掛けなかった事で輝夜は油断している。
妹紅には攻撃の手段がない、と。
不死がバレてからというもの一つ処に留まる事が出来ず、必然的に野宿が必要となった。
身を守るため、狩りをするため、調理をするため、当然のように刃物の扱いに慣れていった。
腰に仕込んでいるのは小振りな鉈。寝る時も肌身離さず持っている自分の牙。
だがあんな化物じみた力を持つ相手に、こんな物でどうしようというのか。
迷いは一瞬。一瞬で妹紅は決断を下す。
妹紅は再び闘志を秘めた瞳で輝夜を睨んだ。
(やるしかないでしょ!)
「さぁ、私を楽しませて頂戴な。退屈していたのよ………ずっと、ずっと、ず―っとね。
貴方の本気を、貴方の想いを、貴方の魂の燃焼を、私に魅せて頂戴」
輝夜は冷たい月の如く超然とした瞳で妹紅を見下ろす。
「あぁ、魅せてやるよ。私の本気を、私の怒りを、私の燃える魂を……その身体に叩き込んでやる!」
妹紅は燃え上がる紅蓮の炎をその瞳に宿し輝夜を見上げる。
二人の視線が交差する。
そして―――激闘の第二幕が開く。
「ふふっ こんなのはどうかしら?」
輝夜がその両手を掬い上げるように掲げると、その両手に薄汚れた石鉢が現れた。
くすんだ色の歪(いびつ)な鉢。だがこれも神宝の幻想が一つ。
輝夜がその石鉢に甘く吐息を吹き掛ける。
吐息は石鉢の中で一筋の光明と化し、乱れ弾かれ乱反射してついに光が溢れ出す!
「くぉあ!」
妹紅の脇腹を掠める光。
五月雨に流れる光は直線で構成された幾何学模様を成し光線で編まれた結界を生む。
周囲を光線で区切られ妹紅の逃げ場は失われた。
そこに追い討ちのように輝夜の右手が振られる。
逃げ場を失った妹紅に襲い掛かる光の弾。避わす術は皆無。
「それなら!」
妹紅は敢えて光線の密度の高い区域に飛び込む。光線に触れぬよう身を捩るが、凄まじい熱量に
肌が焦げ肉の焼ける嫌な臭いが充満する。
妹紅に追い迫る光の弾幕。
しかし意思無きそれらは、妹紅の狙い通り光線の結界に阻まれ塵と消える!
驚きを隠せない輝夜。
それを見た妹紅は腰に差した鉈を手に取り、力一杯輝夜に向けて投げ付けた!
唸りを挙げて飛び来る凶器に輝夜は思わず身を捩るが、普段の不養生のせいか裾が縺れて(もつれて)
無様に尻餅を付く。
縁側の柱に深々とめり込む鉈。
もともと適当な狙いで投擲されたもの。輝夜が避わすまでもなく当たる筈もない。
だが、そこに生まれた刹那の隙。光線の結界が途切れる瞬間を妹紅は見逃さない。
「うぉぉおおおおおおっ!!」
雄叫びを上げて駆ける妹紅。十間以上あった間合いを一息で詰め、倒れ伏す輝夜の顔面を思いっ切り
蹴り飛ばした!
「くっ!」
輝夜は咄嗟に両手を交差させて蹴りを受けるも、その細い身体では衝撃を殺す事が出来ない。
ごろごろと転げ、ずん、と壁に叩き付けられた音が邸内に響く。
ぼろぼろと白い土壁が罅割れ(ひびわれ)剥がれ落ちる中、妹紅は縁側に足を掛け柱に刺さった鉈を
抜き取ると大股で室内に足を踏み入れた。
崩壊した土壁に半分埋もれた輝夜の姿。すでにぴくりとも動かない。
「気ぃ失ってんのか?」
妹紅の声にも反応はない。
妹紅は警戒を解かぬまま、ゆっくりと輝夜に近づく。
完全に気を失っているのを確かめると、妹紅は改めて鉈を握り直した。
動かぬ輝夜の脳天に鉈を振り上げる。
後は一直線に振り下ろす、ただそれだけの事。
それだけで終わる。
それだけなのに………
妹紅の表情に躊躇いが浮かんだ。
もともと妹紅に、輝夜を殺したい程憎む理由はない。
ただ……詫びて欲しかった……
身分の低い娘に求婚し、財を注ぎ込んで蓬莱の玉の枝を探させ、あげくに袖(そで)にされた父。
輝夜が悪い訳ではない。それは妹紅にも解っている。
決して自分に向けられる事のなかった父の眼差しと、それを独占した輝夜。
これはつまらない嫉妬。それもまた妹紅にも解っている。
不死と成りて幾百年。
生きていくのに精一杯で、父も輝夜の事もついぞ思い出す事もなかった。
だけど昨夜、蒼い月光の下の美しき幻想を見た時、
自分の中に湧き上がる言葉に出来ぬ感情を、
妹紅は『憎しみ』だと思った―――そう思うしかなかった。
この混沌とした感情、それに相応しい名前を妹紅は知らなかった。
それが美しきものに対する『憧憬』だという事に―――気付けなかった。
くす、くすくすくす……
思考の海に沈んでいた妹紅は、はっと顔を上げる。
瓦礫の下から漏れ聴こえる笑い声。
「凄いわね……いかに不死とはいえ、人間がここまでやるなんて……」
それは鈴の転がるような透き通った響きと、
「あぁ……ぞくぞくする。ここまで感情が昂ぶる時が来るなんて……」
氷雪のような凍てつく冷気と、
「貴方に解る? 本当に退屈だったのよ……不死を得る前も……その後も……」
吐き気のするような禍々しさが溢れ出す。
瓦礫を掻き分け輝夜が身を起こす。
ぽんぽんと埃を払いながら、ゆらりと立ち上がる。
その瞳は固く閉じられており、整えられた艶やかな前髪がその表情を覆い隠す。
「…………輝夜」
妹紅の呟き、それが震えていたのは気のせいか。
「受けとめてね。私のこの想い……」
輝夜の目が開かれる。
吸い込まれそうな黒くて大きな瞳。
―――それが妹紅の見た最期の映像だった。
「永琳、後片付けよろしくね」
輝夜は埃に塗れた服を気にしながら永琳に声を掛ける。
「……はい。あの娘は如何しましょうか?」
「そうね。山にでも捨てたら? 山犬達の良い餌になるでしょ」
「……ですが、あの娘は不死。たとえ山犬に喰われようと蘇りますよ」
永琳の言葉には言外に非難するような響きがある。
その響きを輝夜は気付いているのか、いないのか。
どちらにせよ答えは同じ。いつものように童女のような無邪気な笑顔を浮かべて……
「その方が面白いじゃない」
―――そう、言った。
真夜中の山中に呻き声が響く。
「ぅく……くあぅ……」
ずるずると、地上を這う音。
「く、くはっ……か、ぐっ!」
のたうち、もがく音。
「……か、かぐ、や……げほっ! か、ぐや……」
ずるずると、ずるずると、地上をのたうち、もがく音。
「……殺して……や、る……こ、ろしてやる……殺し、てやる……」
山中に響く怨嗟の声。
「この手で……殺して……」
獣の足音が聞こえる。一つ、二つ、どんどん増える。
獣達は足早にその声を追い掛ける。
「ゆる、さ……ない……あ、いつ……よくも……こん、な……」
獲物にはすでに抵抗する術がない事を悟っているのか、獣達は怖れもなく地面をのたうつ
肉塊に近づいていく。
「こ、ろして……」
這いずるものは獣の存在も認識していない。何処に向かっているのかも知らないままに、
ただ這い進んでいく。
そして獣達が牙を剥く。基本を忠実に守り三方から同時に獲物へと喰らい付こうとした時―――
『轟』と唸りと共に、闇が炎で薙がれた。
紅蓮の炎は獣達の鼻先を焦がし、獣達は慌てて飛びすがる。
いきなり目の前に現れた影。
その影に獣達は襲うが退くか逡巡するが、
「去ね」
影の一言に、その眼光に圧され、獣達は逃げ出した。
影は目の前に倒れている娘に目をやる。
左腕は捥がれ、両足は潰され、全身が穴だらけ。
銀髪は血に染まり、両目は塞がれ、飛び出た腸(はらわた)が足元に垂れ下がっている。
もはや意識もなく微動だにしない。
それでも心臓だけが、とくんとくんと弱々しく生命の存在を告げている。
「ふむ」
影はその娘の身体をひょいと軽々抱え、夜の森を飄々と歩き出す。
血塗れの死に掛けの少女とそれを救った影。
その行方を―――月だけが見ていた。
~続く~
にこにこと笑いながら、無慈悲な輝夜にゾクゾクします。
後編頑張ってください。
後編も頑張っておりますので、是非ともお見捨てなきようお願いします!