5/
えーん えーん えーん えーん
少女は、泣き声が嫌いだった。苛苛して、なにもかも滅茶苦茶に壊したくなるから。
目を閉じて、眠りに落ちるまでの僅かな空隙に、いつもこびりついて響く声。
それは誰でもない、少女自身が紡いだ叫びだ。
“ごめんなさい”“もうしません”“お外に出して”“お姉様!”
仕置きに暗い部屋へ閉じ込められて、幾つの悲鳴を上げただろう。
窓さえない部屋で生まれた声は、天井、壁、床に跳ね返って、少女自身に降り注ぐ。
涙は酸。悲鳴は棘。身体に留め置けないから吐き出すのに、それがまた自分を苛む。
だから少女は、泣き声が螺旋を描くこの牢屋を、憎んでいた。
悪いことをしたと思う。でも、仕方ないのだ。
少女の周りにあるものは、本当に本当に弱くて、注意しないと触れただけでも簡単に壊
れてしまう。この前だって、コロス気なんてなかった。触ったら“壊れた”だけだ。
いい子でいるためには、いつも自分を抑えていなければならない。
やんちゃ盛りの少女にとって、それは極めて深刻なストレスだった。
お姉様に、嫌われたくない――
でも、これ以上自分の声に突き刺されるのも、耐えられない――
長い長い、数えるのも面倒なくらいの時間を葛藤して、少女はついに飛び出した。
そこで、出会った。
触れても折れない花。思いの丈をぶつけても、折れない魂。
いつも閉ざされ、塞ぎこみ、羽ばたくことのできなかった少女が、すべてを広げられる
その人に。
少女は今、戦っている。両手を広げ、声を張り上げ、魔力の限りに!
6/
「――4・2・1・9・5個の土砂降り流星ッ!」
「――ツェペシュの朱き槍列!」
頭に浮かんだ言葉を、弾に変えて放つ魔法使いの即興撃(アドリヴ)。
魔理沙の全身を包んだ魔法陣から、星を模した弾幕が怒涛を成して奔る。
対するフランは、大人の丈ほどもあろうかという朱槍の群れで、襲い来る流星を貫いて
は打ち砕く。
互いにあちこち傷が開き、魔弾が震わせた空気に乗って、紅いものが空に舞う。
だが、二人は些かも萎えていない。瞳はぎらついて、呼吸は熱く燃える。
「あはははははは! 最っ、高ぉ――っ!」
無数の弾幕が起こす大爆発の中を、フランドールが踊るように飛ぶ。
僅かに遅れて、色濃い黒煙から魔理沙と箒が顔を出す。
煤で汚れた顔には、まだ無尽蔵の元気が漲っていた。
敵はしぶとく、意気軒昂。そのふてぶてしい笑顔が、フランドールにも勝手に笑顔を作
らせるのだ。
「楽しいよ、魔理沙! パチェをからかうより、ずっと楽しい!」
「そりゃ、万年病人からかって愉しむんじゃ、歪んでるからな。健全に行こうぜ!」
「やぁよ。ふふふっ、今度は、ちょっとズルするんだからっ!」
「あー?」
追い縋る魔理沙を振り返って、フランドールが呪符を突き出した。
発動を待ちきれないとでも言いたげに、丸みを帯びた足が、そわそわと揺れる。
三角帽子が僅かに身じろいだ時、鼓膜を痙攣させる破裂音と共に、世界が強く白む。
「うぐっ……! なんだっ!?」
目を庇いながら、魔理沙は魔力の逆風に煽られて後退った。
頭の中まで突き抜けた閃光で、視界のあちこちが、零れたように白く濁る。
「いつまで目ぇ擦ってるのよっ、トロいんだから!」
「なに言ってるの、可愛いよ~」
「でも、ごめんね……魔理沙は、もう逃げられないよ?」
「じゃじゃーん♪」
まったく別の方角から、まったく同じ声が四つ。
「なっ……?」
世界をぐるりと見回すことで、魔理沙はそれが意味するものを理解する。
少し、眩暈を感じながら。
「……おいおい、レミリア入れたら五人姉妹だったのか? どこがちょっとだ、こいつぁ
若草どころか、松に届くぜ」
東西南北、どこぞのケダモノどものように凄然と、四人のフランドールが魔理沙を取り
囲んでいる。もう一度目を擦ってみても、やはり影は四つ。
そういうスペルなのか、或いは、よくできたまやかしか。
試す方法は一つ。幻想郷で最も正直なのは、弾幕。弾だけは嘘をつかない!
「「「「さあ、やっつけてごらん!」」」」
四方に魔力の胎動を感じる。幻とは思えない、強烈なうねり。
自分の感覚を信じて、魔理沙は箒を真上に走らせる。
「うおっ……!?」
眼下の光景は凄まじいものだった。それぞれ姿の違う四種の弾幕が一点に降り注ぎ、互
いに誘爆して四散する。中心の空気が紅く燃え上がり、網膜が焼かれる。
つまりは、四つとも本物。弾もフランドールも、リアルの四倍算ということ。
魔理沙の肝は冷えるのか? いやいや、炎よりも燃えるのさ。
「ぃよっしゃあ! 狩るっ!」
「いらっしゃい、人間♪ 吸ってあげる!」
魔理沙が放った弾幕を、最前衛のフランドールがすかさず迎撃する。
四人に分かれても、弾の質は落ちていない。
鋭く抉りこんでくる連打を掻い潜って、魔理沙は箒に加速命令を出すが、
「うわあっ!?」
前に進むどころか、箒はつんのめって後ろへ引きずられた。
勢いあまって振り落とされそうになるのを、あわやで耐えて覗いた足元に――
「行っちゃやだよ。ねえ、私と遊んで?」
甘えるように、別のフランドールが箒の柄を握り締めていた。
見た目は子供の細い腕なのに、いくら火力を上げても、まるで振り解けない!
暴れる魔理沙を見て、悪魔は箒を掴んだまま、野放図にその腕を振り上げる。
「逃げないで。ほら――たかいたかい、ってしてあげるからっ!」
「うわぁぁぁぁっ!?」
台風のような気流に跳ね上げられ、魔理沙は箒ごと真上に放り投げられた。
風を切る身体に異様な負荷がかかって、まともに身動きも取れない。
壊れた玩具のようにもがく身体へ、どこからか魔力の波動が狙いを定める。
「う、イカンっ!?」
「そぉれ、たーまやーっ!」
殺意を乗せた光の群れが、宙を泳ぐ魔理沙を狙って襲い来る。
「ち……くしょうッ!」
渦巻く大気が身体に絡む。頭も身体もシェイクされて、まるで寝惚けているようだ。
盲滅法に弾幕を放つが、あらぬほうへと飛ぶばかりで、盾の役目も果たしてくれない。
「が……! あ、がぁぁぁっ!」
額を、二の腕を、脇腹を、鳩尾を、鋼にも似た感触が殴りつける。
痛みで覚めた視界が、今度は零れた涙で蕩けてしまう。
下腹に沈んだ一撃で、息が詰まる。踏ん張りがきかない――
「残念。もう少しは愉しませてくれると思ったのに――」
「じゃあねー!」
吹き飛ぶ魔理沙を追って、雷鳴のように迫る二つの影。
衝撃に仰け反る胸元へ、鏡像の悪魔が爪を突き立てる。つむじを巻く空気に、鮮血が舞
う。十字の傷を胸に刻んだ魔理沙は、轟音とともに紅魔館の壁へ深々と減り込んだ。
「ガ……はっ!」
喉から血の固まりを吐き出して、魔理沙の首がぐったりと項垂れた。
黒く汚れた意識で、魔理沙は苦々しく敵の力を実感する。
強い。ただでも埒外が、それも四人集まると、ここまで圧倒されるものか。
こんなに全身ボロクソにされたのは、久しぶりだ。かえって清清しい。
「口ほどにもない。まあ、四人がかりじゃ、人間なんてこんなものね」
「――っ」
特に好戦的だったフランドールが、失望気味に漏らす。
ああ、なるほど。がっかりだろうさ。
自分の血と埃でどろどろのまま、魔理沙はひっそりと苦笑する。
なにしろ、まだ一発も決めてやっていないんだ。溜息が出るのも仕方ない。
このまま、マグロで終わるなら。
「ぐ、ふ……」
魔理沙は背中を張って、標本状態から放った箒に飛び降りる。
獲物はへばったと思い込んでいた連中は、先を争って魔理沙に襲いかかる。
並び並んだ金太郎、四つ揃った同じ顔。
――遠慮もなしにボコりやがって。おまけに、好き放題言ってくれたな。
いいぜ、やってやる。一つになるまで、殴りまくってやろうじゃないか……!
血に汚れたまま、少女は笑った。――獅子のように、凶暴に!
「食らい――やがれっ!」
快刀よろしく取り出した符が、七色の光を処構わず撒き散らす。
光条は留まるところを忘れて、部屋全体が霞むほどの白熱に覆われる。
出力制御、標的補正一切無し!
これぞパチュリー直伝(教わってないが)、
出たとこ勝負の、有象無象乱撃(ノン・ディレクショナル・レーザー)!
「うぁうっ!」
「目潰し!? こ……のっ、古典的な真似を!」
魔理沙に意識を集中していた四人は、閃光をまともに食らって悶絶する。
その隙を逃さず、魔理沙は箒を走らせながら、さらにスペルを紡ぐ。
「こうなりゃ、大盤振舞だっ……!」
右手で印を結び、詠唱完了。堤防無用の天の川(ミルキーウェイ)、発射!
左でおまけに、マジックミサイルどんぶらこ!
星の津波に流されたフランドール達へ、時間差で魔法爆雷が降り注ぐ。
「きゃああああああっ!?」
「うわーっはっはっはっはっ! ざまぁーみやがれっ!」
混乱する四つの人影を見下ろして、魔理沙は高らかに声を上げる。
無数の傷も何処へやら、なにやら前より元気に見える。
爆風の弱い場所にいた一人が、ほうほうの体で煙を避けて――その先で、魔理沙と目が
合った。
「あ……」
「よう」
白い歯を剥き出しに爽やかに笑い、魔理沙は三つ目の呪印を箒に刻んだ。
途端に、部屋を荒らし続ける天の川が、意を得たように箒の尻へと集っていく。
箒ごと回転を始めた魔理沙の周囲を、マナの光と星屑が包み込む。
仇は四人、一つたりとも逃しはしない。
さあ、魔法のネジを巻いて、限界まで引きつけて、目が回るくらいの星屑幻想を。
――食らわせてやる!
「YEAHHHHHHHHH!!!!」
咆哮とともに、音速と化した魔理沙が吸血鬼を撥ね飛ばした。
衝突しても勢いはまるで衰えず、振り返る途中だった二人目も巻き込んで轢いた。
「「ああああああっ!」」
霧のように、フランドールが掻き消える。
まだ、魔理沙は止まらない。三体目が張り巡らせた弾幕に、正面から突入する。
肌のあちこちが裂かれるが、手持ちの傷に比べれば、まさしくカスリだ。
纏った星屑の勢いで弾幕を打ち破り、三つ目の影を打ち砕けば――リーチ!
「さぁて――試してみようぜ! 私が“どんなもん”だかなぁっ!」
「こん、のぉおっ!」
心臓目掛けて杭のように突っ込んできた魔理沙を、最後のフランドールが両手で阻む。
――まただ。異様な腕力で突進を遮りながら、少女の足は忙しなく空を踏み鳴らす。
定まらない苛立ちをぶつけるように、強く激しく。
だが、煮えくり返っているのは、魔理沙も同じだ!
吹き上げる膨大な魔力の波動が、箒の先に集ったエネルギーと衝突し、火花を散らす。
どちらも退かない。譲らない。威力は互角。強烈な摩擦音と拮抗が続く。
「――えっ!?」
激突の最中、フランドールは我が目を疑った。
一瞬目を放した隙に、箒の上から魔理沙が忽然と消えている。
「どこに――」
「これが人類の知恵、って奴だぜ!」
声は、真上から降り注いだ。即座に顔を上げるフランドールを、マジックミサイルを装
填した指先がぴたりと捉える。
頬が引き攣るのに合わせて、魔術は、無防備な少女の頭上で派手に爆発した。
フランドールの障壁が綻んで、
力が 突き 抜け る――!
「いやぁぁぁあっ――!」
爆炎に包まれ、スペルの崩壊とともにフランドールが跳ね飛ばされた。
魔力の残滓を撒き散らしながら、墜落していく。
「ぐぅぅ、っ!?」
落下を見届けられず、魔理沙は身体を折ってまた血を吐き出した。
濃厚なアドレナリンで押し切っていたダメージが、一気にぶり返してくる。
危うく果てそうな意識を繋ぎとめ、煙を上げる大地へ目を凝らす。
……これで、終わりか?
いや、霊夢と戦ったレミリアは、こんなもんじゃなかった。
来るんだろ? さあ、来い!
魔理沙は墜落地点へ掌を向け、八卦炉に意識を集中する。
そして――もう一度、地が吼えた。
「……信じられない。フォーオブアカインドまで破るなんて。あなた、本当に人間?」
「ああ、普通に強い人間だぜ」
「強いね。すっごく。私とこんなに遊んでくれた人は、初めてだよ!」
「いっ!?」
フランドールは幾重にも巡らせた魔法陣を解き放ち、生身で魔理沙を目掛けて飛んでく
る。吸血鬼の体当たりは、大砲の直撃にも等しい威力を持つのだ。
魔理沙は、痛みで動きが鈍っている。――かわせない!
「くっ!」
思わず目を見開く魔理沙の眼前で、
「あはっ――魔理沙ぁ!」
フランドールは、妖精のようにくるりと一回転して、空中に静止した。
「……? おい、なんで攻撃しない?」
「弾幕ごっこは、ちょっと休憩。魔理沙とお話したくなったの、すっごく!」
「休憩だぁ!? おい、寝惚けたこと言ってるなよ?」
「寝惚けてないっ!」
怒号じみた剣幕に、責めた魔理沙のほうが気圧される。
フランドールはどこか悲しげに、訴えるような瞳を見せた。
「ホントに……ホントに久しぶりなんだから。私ね、もう何百年も、誰かと話したことな
いんだよ。だから……お願い、魔理沙」
「……」
弾幕勝負に、中断などありえない。
一度飛び出した弾は、なにかに当たるまで止まらない。
けれど。フランドールの消え入りそうな声と、ポケットの中に眠る495年という膨大
な刻が、魔理沙に重く圧し掛かる。
――こいつはド豪く頑丈だが、独りの痛みは、人も妖怪も同じか。
「……ったく、なに考えてんだか。いいぜ、わかったよ」
「えへへっ、ありがとう魔理沙!」
「弾幕ごっこに休憩なんざ、私もヤキが回ったぜ。この際、恥ずかしいとこまで全部聞か
せてもらうからな」
「なんでも話してあげるよ。私、ずっとずっとこうしたかったもの」
飢えた獣のようだった剥き出しの戦意が消え、フランドールは外見相応の少女に変わっ
た。こうなっては、魔理沙も緊張状態を続けるのが馬鹿馬鹿しくなる。
身体中の痛みも手伝って、半ば投げ遣りに魔法陣を解除する。
「誰とも話したことがない、って言ったな。フランドールは、ずっと独りだったのか?
なんで姉のレミリアと話さない? 咲夜だって、パチュリーだっているだろ?」
「私は、495年もずっと館の一番底にいたの。閉じ込められてたの」
「誰だよ、そんな酷い真似をするのは?」
「酷くないよ。お姉様が私に与えた、これは罰だから。私は、なんでも壊しちゃう悪い子
なんだって」
酷くない、と言いながら、魔理沙の弾幕にも怯まなかった少女は、涙を流さずに泣いて
いた。そんな顔で振り返る過去が、正しいはずがない。
「……だから、文句も言わずに500年近く、セミみたいに潜ってたのか?」
「……ホントは、駄目なんだけど。でも、やっぱり寂しいんだもん。嫌なんだもん。
堪らなくなった時は、今日みたいに飛び出して暴れるの。すぐ、連れ戻されるけど」
誰だってそうする。魔理沙も、勉強で缶詰にされた時は、よく父の目を盗んで逃げ出し
たものだ。決まって霖之助が庇ってくれたのも、懐かしい記憶。
だからこそ、フランドールの泣き出しそうな顔に、無性に腹が立った。
「あんまりな罰じゃないか。そこまで悪いこと、したのかよ?」
「……人間を殺したの。たくさん、たくさん、たくさんね。悪い子でしょ?」
「だったら、私も悪い子だ。鳥も獣も魚も殺さなきゃ、生きていけない。おまえだけが責
められる謂れはないぜ」
「でも、お姉様がしたことだよ。お姉様は、間違ってないよ」
「なんだそりゃ? 理由になるか、そんなもん。大体考えてもみろ、人間は吸血鬼のエサ
だぜ? レミリアが今まで食った分だけ、同じように償わなきゃ筋が通らないだろうが。
妹をペテンにかけるなんざ、最低だ。見損なったぜ」
「――お姉様が、なんですって?」
場の空気を根こそぎに凍てつかせる、暗く重い声。
魔理沙の言葉に、フランドールの瞳の中で、なにかが変わった。
紅い血が。吸血鬼の魔力の輝きが、蘇る。
殺意すら孕んだ視線を浴びながら、魔理沙はもう何度目かの床を打つ音を聴く。
かつん、かつん、かつん。
次第に加速するリズムは、沸騰していくフランドールの感情を表すのか。
「お姉様を、馬鹿にしないで」
「いや、するね。レミリアだって、物を壊す。なのに、お前みたいに閉じ込められない。
何故? うまく壊せば芸術点か? おまえは下手糞を咎められて、懲役500年?
くだらないぜ。そういうのを、馬鹿の屁理屈っていうんだよ」
「黙れっ! お姉様を悪く言うと、許さないんだからっ!」
「盲目で非生産的! 言ったろ、健全になれってなぁっ!」
新たな符を取り出し、臨戦態勢に入るフランドール。
髪が逆立つような緊張感に、魔理沙は生き返った心地になる。
湿っぽい時間なんて邪道だ。こうでなければ、つまらない!
「――思い知らせてやる」
地の底から低く響くような声で、吸血鬼は呪いの言葉を紡ぐ。
瞳から噴出す憎悪が、言葉に篭った怒りが、右手の呪符に溶け込むかのようだ。
おお――ん――
不快な耳鳴りとともに、スペルが発動した。
フランドールの背から、腥い突風が嵐のように魔理沙を襲う。
異臭と風圧に弄ばれる魔理沙の視界で、フランドールの輪郭が点滅する。
不確かな目が見せる錯覚か、次第にその姿が、風景に融けて――
「!?」
錯覚ではない。僅かな瞬きの後、フランドールは魔理沙の前から消滅してしまった。
「な、に? 何処へ――」
「私はここだよ、魔理沙」
辺りを見回しても、何処にも姿はない。声だけが残っている。
そもそも、今のは、部屋の何処から聞こえてきた?
「きょろきょろして、私を探してるの? いないよ、ここにはもう、魔理沙だけ!」
困惑を隠せず目を泳がせる魔理沙に、フランドールの嬌声が降り注ぐ。
やはり、いる。あの紅い目が、慌てる自分を何処かで眺めて、にやついている。
「これは、お姉様を貶めた罰だよ。魔理沙、あなたを、閉じ込めてあげる」
「……そいつはどーも。だが、この部屋は退屈だな。勝手に、出て行かせてもらうぜ」
「寂しい? 退屈? いいよ、じゃあ、弾幕をあげる!」
孤独の空間に、フランドールの声が反響する。
いや、聴こえる。空を裂いて迫る鋭い耳鳴りが、魔理沙の後方から。
「――!?」
飛び退くのと、束になった幼虫のような魔弾が通過するのは、ほぼ同時だった。
有機的に蠢く、蒼い弾の群れ。弾幕だけが忽然と、閉ざされた部屋に現れる。
「なにっ!?」
魔理沙を捉え損ねたかに思われた弾幕が、唐突に向きを変えて戻ってくる。
跳ね返ったのではなく、明らかに、魔理沙を追跡する軌道で。
骨を投げられた犬のように貪欲に、じわじわと速度を上げて獲物に迫る。
弾幕に――意思がある!?
「これで、スリルが出たんじゃない? さあ、このスペルが終わったら――部屋から、誰
もいなくなるかしら?」
「あぁ?」
誰もいなくなるか、だと?
――その質問には、覚えがある。
――その命題には、答えがある。
魔理沙にとっては、聞き覚えのありすぎるフレーズだ。
フランドールよりもずっと前に、魂を削って戦った相手だから。
眩暈と頭痛、嫌すぎる共同戦線に悩まされながら、どうにか一つの実を結んだ。
願ってもない機会だ。そいつが食えるのか、それとも腐って役に立たないのか。
答え合わせをさせてもらおう!
「いいぜ。こんなケチなスペルで、落とせるもんなら落としてみやがれ!」
追い縋る弾幕を、八卦炉のブーストで一気に引き離す。
どうせ、諦めはしないだろう。へばるまで連れまわしてやる。
魔理沙は奥歯をきつく噛み合わせて、巨大な部屋の中を高速飛翔する。
甚だ奇妙な、弾幕との鬼ごっこが始まった。
人魂のように伸びた弾幕は、尻尾からぼろぼろと弾を零しながら魔理沙を追う。
多少加速はするものの、その動きは極めて緩慢で規則的。
このまま逃げ切るだけなら、難はないが――案の定、弾の群れに変化が生じた。
「げっ、増えた!?」
弾幕は尾から千切れるように三つに分かれ、それぞれが別方向から魔理沙に迫る。
おまけに散弾を吐き続けるから、部屋の中は瞬く間に弾塗れだ。
魔理沙の逃げ場が、急速に塞がっていく。
――嘗めるな。極小(ドット)の隙間さえあれば、事は足りる!
弧を描くように室内を疾走しながら、魔理沙の脳内で術の論理が巡る。
スペルは、無敵足り得ない。無敵である必要がない。
弾は放ち、描き、語るための手段だから。
それ故に、スペルの発動には、強い制約が伴う。
その一つが、展開時間。ここにもまた、無限は存在し得ない。
「ぬ……!」
ただし、制約は同時に誓約である。リスクの裏にメリットあり。
戒めの中で、弾幕は時を経る毎に、強く激しく暴れだすのだ。
「じゃあ、こんなのはどう?」
人魂が消滅すると同時、四方八方から強烈な光が溢れる。
壁という壁、天上という天井から、輝く弾幕が次々に飛び出してくる。
ギアが、一つ上がったらしい。
格段に速く、鋭く、隙間が狭く交わし辛い!
「あぶないあぶないっ! あははははははっ!」
「うあっ!」
大砲のような弾幕が、魔理沙の頭を深く掠める。
衝撃は頭蓋から脳までを突き抜けて、魔理沙の意識を瞬時に淡くする。
「が……ぁっ」
箒を握る手が震える。世界が激しく上下に揺れている。
また弾幕が来る。さっきの二倍も三倍もある。本物はどれだ?
こめかみが熱い。頬をなまぬるい血が伝う。ずきずきずきずき。頭に、来る。
敵が見えないというだけで、こんなにも苛立つものなのか。
「――ああ。だからあいつらも、イラついて怖がって、狂っていったのか。
だったら、私はそれを全部しない。見えない首根っこ掴んで、引きずり出すぜ!」
意識が冴えれば、目も冴える。ぶれた世界が、一つに癒える!
魔理沙は胸を柄に押しつけて、伏せるように箒と密着する。
そのまま弾けるほどの加速で、弾と弾の僅かな隙間に飛び込んでいく。
「くっ……う、おぉっ!」
予想以上に幅が狭い。回転する魔力の塊が、魔理沙を押し潰そうと迫る。
狭い道なんて慣れっこだ。四人でリンチに比べれば、怖くもない!
瞬きもせず走り抜けながら、魔理沙は耐え切れず叫びだす。
「さっきからなぁ、ウザいんだよ! なんなんだ、このしみったれた弾幕は!」
「なんですって……!?」
「さっきのは良かったぜ? 四人がかりで派手にやっつけてくれやがって、こちとら危う
く死ぬところだ! それがなんだ? 今度は隠れてネチネチトロトロ! 幻滅だぜ!」
フランドールの答えはない。変わりに、新たに生まれた弾幕が、魔理沙を襲う。
これも同じく隙間を潜ってやり過ごされる。しかも、魔理沙はまだ早くなる。
「ハクが足りねえ! アンヨはとろい! おまけにアンチョコ作りやすい! 術者不在の
欠点なんざ、腐るほどにあるんだ! もう少しビビらせてみろっ!」
「なにも、知らないくせに……! 私には、これだけなの! どんなに思い出をひっくり
返したって、私には、この魔法の牢獄だけよ! 魔理沙なんかに、どんなに辛いか、わか
るわけないっ……!」
「ほーお、こいつが引きこもり少女の妄想の果てか! 道理で癖も味もないっ!
それだけの時間があって、人間以上に力もあって……なのに不貞腐れてただけか!?
動きもしないで同じものばかり見てるから、こんなパターン尽くめの弾幕作るんだっ!」
「……うるさいっ! うるさいうるさい、魔理沙はうるさいっ……!」
姿のない絶叫だけが、ノイズとなって部屋に響き渡る。
フランドールの激情を表すかのように、弾幕は忙しなくその姿を変えていく。
集束、放射、反転、交差。煌びやかなく光が、ネオンのように美しく戦場を照らす。
ただし、数学的なまでに鋭く精密な弾幕は、隙間を含めてその美を表現するものだ。
魔理沙の目が、それを見逃すはずもない。
「は! だったらもっと五月蝿くして――やるぜっ!」
吼えながら、魔理沙は無人の空間へ向けて閃光を放つ。
標的を失ったレーザーは、ただでも半壊していた壁に突き刺さって轟音を生む。
魔理沙が望む、立て続けの喧騒を。
「まだわからないのかっ! このスペルは、500年モノ間近の大魔術なんかじゃない!
夢は成らない! この部屋から、誰もいなくなりゃしないっ!
こいつは、術者のおまえ自身に否定されてるんだからなぁっ!」
「えっ――!?」
弾幕に焼かれる空気の悲鳴、魔理沙に打ち砕かれる館の嗚咽。
それらの中でも、魔理沙の叫びは霞まない。
二挺拳銃さながらに両手から魔術を放ちながら、飛び続ける。
「半端なんだよ。姿だけ消してどうする! 消えるなら、おまえ自身が跡形もなく消えれ
ば解決だ! ここから誰もいなくなる、それが一番の近道だぜっ!
なのに弾幕を残したのは、消えたくないって悲鳴のつもりか? 寂しいのかよ!」
「そんな……そんなの、違うっ!」
「今更どもるなっ! 消えたくないんだろうが! 生きてたいんだろうがっ!
カマトトぶんな、好きだろ、姉貴が! ずっと一緒にいたいって思っ――ぶぐがっ!」
頭の中が沸騰した魔理沙は、舌を噛んで、操舵を誤って、顔から弾に衝突する。
それでも怯まない。頭突きでそいつを押し退けて、また飛び出す、また叫ぶ!
「んべべべ……! おいこら言えっ! 好きだろうが、お姉様がっ!
わかってんだよっ! ああもう、家族のために本気でブチキレやがって――おまえの何
処が破壊の化身だ、この馬鹿野郎がーーーーっ!」
最後は何故か笑顔で、魔理沙は喉を震わせる。
言葉は弾に跳ね返り、何倍にも拡声されて、今や館そのものであるフランドールにも突
き刺さった。
突き抜ける余韻とともに、紅魔館へ僅かに静寂が戻る。
――だが!
「~~っ! そんなの……魔理沙なんかに言われなくたって! 好きに決まってるじゃな
いっ! 大好きよ! だから絶対、お姉様を傷つける奴なんか、許さないんだからぁぁ!」
天を軋ませるような怒号が跳ね返って、魔理沙の顔が、さらにくしゃくしゃになった。
「だったら落としてみせな! 時間はまだある、おまえの敵は健在だぜ!」
「あああああああっ!」
それからは、一秒刻みの意地の張り合いだった。
明確な意思を持ったフランドールの弾は、もはやスペルの体裁を成してはいない。
ただ、はっきりと生きている。活きている。がっついて魔理沙を狙ってくる。
それが怖い。怖くて楽しい。
だから、魔理沙は撃ちまくる。罅割れかけたスペルを、粉々にするために!
「さあさあタイムオーバー! かくれんぼなんざ終わりだ! 出てきやがれぇっ――!」
身体に溜まった熱を、ろくに狙いもつけずに放り投げる。
それで十分。拗ねた女を燻り出すには、歌って騒ぐのが古来からの慣しだ。
もう、感じている。くすぶる気持ち、震える喉。伸ばしたがっている、小さな手。
「そ・こ・かぁぁぁっ!」
勘に任せて、魔理沙は極太のレーザーを発射する。
光の矢は弾幕を砕き、瓦礫を弾き飛ばし、空間を切り裂いて――
フランドールのスペルさえも、快音とともに木っ端微塵に破壊した。
周囲の魔素が人の形に集い、震える掌が、止まらない魔術の閃光へと伸びる。
獣の声にも似た、ひときわ高い衝突音。魔理沙のレーザーが、砕けて消える。
「――どうして、あなたは」
「よう、会いたかったぜ」
魔術を受けた掌を見つめながら、フランドールは力なく呟く。
まるで、泣き出しそうな子供。でも、これがきっと彼女の素顔だ。
「う……っ、あ――」
身体中の力が抜けて、魔理沙は箒から転げ落ちそうになる。
柄を掴んだ指は、噴出した異常な量の汗に滑る。
それでも、魔理沙は笑みを絶やさない。羽ばたき飛び続ける。
「どうして、そんなに一生懸命なの? ぼろぼろじゃない。私なんか放って、帰ればいい
じゃない」
「けっ、寝惚けるなよ? おまえが売った喧嘩だぜ。私はそれを買って、一発撃った。
今更後に引けるかよ」
「それ以上血が出たら、死んじゃうよ! 人間は弱いんだからっ! なんで自分を見ない
の? なんで自分より――私に思いっきり怒るのよっ!」
「お前の存在が気に入らん。よって、私好みに調教する。文句があるか? 大体な、私の
ことなんざ、見なくても私が一番わかってるぜ」
「っ……バ、カっ。ほんとに、おかしいよっ……」
「ほっとけ。つーか、そんなに止めたきゃ降参しろよ。私は、勝つまでやめないぜ?
おまえを弄りたくて、うずうずしてるんだからな」
箒の上で両手を卑猥に動かして、魔理沙はにやけ顔を見せる。
見るに耐えなかったのか、フランドールは身体を折って魔理沙に顔を背けた。
いや――唇はまだ、話したがっているようだ。
「ねえ、魔理沙は――」
「ああ? 聞こえないって――」
茶化そうとしたまま、魔理沙の全身がひくりと引き攣る。
フランドールの手の中に、いつの間にか一枚のスペルカードが現れたのだ。
「魔理沙は、これも跳ね返せる? 出来ないなら……その時は、
“Q”uod “E”rat “D”emonstrandum.(私の証明が終わる)」
「なんの証明だい?」
「私が――私の力が、すべてを壊さずにはいられないって証明。だから、495年もすべ
てから閉ざされていたんだ、って証明だよ。
魔理沙でも駄目なら、私はきっと誰の手も握れない……でも、もしこれを破れるなら、
魔理沙は、もしかしたら、私の初めてのっ――!」
「はっ、バーカ」
涙混じりの嗚咽を、魔理沙は肩を竦めて笑い飛ばす。
辛気臭いのは嫌いだ。俯いてるな。顔上げろ!
「自分が悪い子だって決めつけたい? マゾか? ナンセンス、馬鹿馬鹿しいぜ」
「マ……」
「そう、マ。魔! 私は魔法使いなんだぜ、フラン。だから――そんな下らない戯言は、
一文字だ。たった一文字加えるだけで、否定してやる」
「え、えっ……?」
スペルを放つのも忘れて狼狽するフランドールを、魔理沙の指が真っ向捉える。
三角帽子がぴんと立ち、ミニ八卦炉に魔力のマグマが滾る。
「答えはこうさ。私は壊れないし、死なない。反対におまえの寂しい過去をぶっ壊して、
“Q”ue “E”n “P”az “D”escanse.(ご冥福をお祈りするぜ!)」
叫びながら、魔理沙はフランドールから大きく距離を取る。
魔術の詠唱、突進の助走、すべてが最高の威力を発する間合いを。
さあ、いよいよ千秋楽だ!
「おしゃべりは終わりだ、思いっきりかかってきな。でなきゃ――友達になんか、なって
やらないぜ!」
「あ――うんっ!」
言い切れなかった言葉のカケラを、魔理沙が継いでくれた。
それでもう、迷いはない。すべてを、ぶつけよう!
フランドールは元気に翼を羽ばたかせ、館の天井目がけて舞い上がる。
相手にとって不足はないと、魔理沙も傷だらけの身体に力を巡らせ――
痺れるような寒気を覚えて、周囲の異変に気づいた。
「これは――マナが、減っていく……!?」
――否、減ってなどいない。紅魔館を破裂させんばかりの魔力が、今まさに魔理沙の頭
上で生まれつつある。フランドールの呪符が、凄まじい勢いで部屋中のエネルギーを吸収
しているのだ。
「すごいぜ……これだけの魔力を溜め込んで、一体どんなスペルを食らわせる気だ?
まあ、なにが来ようとぶっ飛ばすだけだ!」
アホ面をさげて棒立ちしていられるほど、魔理沙にも余裕はない。
凍てつく天球と化したフランドールへ、先手必勝で飛び込んでいく!
「――行くよ、魔理沙!」
尽きない魔力を従え、脇目も降らずに向かってくる魔理沙。
世界の中心にその姿を見据えて、フランドールは自分の内なる扉を開く。
――歪み。衝撃。金切り声。無限連鎖。それは、悠久の時から溢れ出す、弾幕の波紋!
「なにぃっ……!?」
現れた“怪物”に、魔理沙は思わず大声で悲鳴を吐き出した。
身体が自然に、そうさせた。
見渡す限りの弾、弾、弾。群れを成し列を組んだ、それはまさに弾幕の壁。
空間を埋め尽くす黒い津波が、魔理沙に向けて巨大な口を開ける。
――呑まれる。迫る暗黒に、心が恐れを抱くより前に――身体で動け!
「よぉし、かかってきやがれっ!」
魔理沙は退かない。相手が世界なら、世界を倒すだけ。
真っ向勝負で、弾幕の隙間へと走りこむ。
「――く! っ、ぁう……!」
並み居る弾は桁外れに鋭く、掠めたつもりが肌に紅い線が走る。
加減を誤ったら、骨ごとバラバラにされてしまいそうだ。
狂おしいまでの殺傷能力。吸血鬼の宝刀に相応しい。
だが、避けられない速度ではない。薄皮を裂かれながら、貫く隙間もある。
規模こそ桁違いだが、魔理沙を閉じ込めたあのスペルと同じように、凄みの芯がない。
――おかしい。あんな顔して撃ったスペルが、こんなにお行儀いいわけがない。
言葉に出来ない靄を抱えながら、魔理沙は襲い来る弾幕から大きく旋回する。
迷いは捨てろ。壁を踏み台にして、一気にフランの懐を抉る!
「はぁぁぁぁぁっ!」
甲高いフランドールの咆哮が、スペルに活力を注ぎ込む。
走る魔理沙に先んじて、蠢く波紋が一斉にその性質を変えた。
――速い! 弾幕の速度が、二段、いや、三段飛びに跳ね上がる。
「ぐ……おっ……! やっぱさっきと同じで、一筋縄じゃないか……!」
だが、最後の大一番に、魔理沙の気合も一味違う。
目を見開き、爪の先までビリビリと痺れる集中力で、刃の嵐を掻い潜る。
あと少し。壁の反動と八卦炉の噴射で、分厚い壁をぶち抜いてやる!
「――なにっ!?」
“空では人生鉄砲玉”が信条の魔理沙が、絶叫とともに身を竦ませる。
そこでは異様な現象が、魔理沙の目を侵していた。
連なった魔法の結晶が、壁に、床に、天井に――突き刺さらず、跳ね返ったのだ。
弾幕は衝突の反動でさらに加速して、四方八方から再び魔理沙に食らいつく。
「バ、馬鹿なっ……! やばいっ……!」
自らも反動を狙って壁に突進していたのが災いして、魔理沙は急停止できない。
必死にブレーキをかけても、身体が箒ごと前に押される。
頭が混乱して、まともな思考ができない。そも、“反射する弾幕”などという奥の手が、
魔理沙の認識を超えていた。
それでも。相手が弾なら、勝負を投げるわけには行かない!
「今から避けてる暇はねえ……! 一か八かだ、こっちも新技試してやる!」
全方位から空間を埋め尽くす弾幕に、魔理沙は一枚の符を突きつける。
奥の手は奥の手同士。ぶっつけ本番だが、出し惜しみよりはマシだ。
冷えた肝を魔力で暖め、一瞬で覚悟を決めた。
残った力のすべてを、指先から呪符へと。最大最後のスペルに――
「行くぜ!」
ド クン
「……! が、っ!?」
魔理沙の心臓が、嫌な音を立てて軋んだ。
魔力が回転しない――身体の中で、線が一つ一つ千切れていく。
手足が鉛のように重い。震える指から、呪符が滑り落ちる。
「ぐっ……う、ぅ……っ!」
無限に近い魔力を備えようと、魔理沙は少女。
その肉体は、度重なるスペルの連発でダメージの限界を超えていた。
曲げるのもままならない指が、空に舞うカードを必死に追いかける――だが。
――部屋に流れ続けた時間が、ゆっくりと停まる。
何者にも憚らず飛び続けた、黒い魔法使い。
その腕を、胸を、足を、肩を。悪魔の剣と化した弾幕が、無残に貫通した。
不快な水音が響いて、空に、鮮やかな紅い花が咲く。
「……ぁ……」
血に濡れた指から、箒が滑り落ちる。
翼を失い、スペルを失い、魔力も尽きて。
空に嫌われた魔理沙は、綿のように舞いながら地面に堕ちていく。
「――いやぁぁぁぁぁぁっ……!」
フランドールの悲鳴が遠い。悲鳴。悲鳴。反響する悲鳴――
……そうか。スペルは術者の心象。心に秘めた声色。
暗く寒い部屋に閉ざされて、フランはいつだって大声で泣いて。
でも、閉じた部屋には逃げ場がない。投げた悲鳴は、壁にぶつかり跳ね返る。
無限に加速し、閉じこもった自分自身に降り注ぐ鋭利な刃。
このスペルは、フランドールが叫び続けた495年そのものだ――。
「……なるほど、最悪、だぜ――」
もう、落ちてくる瞼を支えきれない。
身体の奥底に灯った火が、消えていく。
寒い。爪先から、壊死していくような気分だ。
――まだ、終われない。こいつを破らなきゃ、フランは笑えない!
なのにどうして、この指が動かない――!
意識を繋ぐ最後の糸が切れる。
悔しくて零した涙が、空に残ったまま遠ざかる。
目を閉じた先に広がる闇へ、魔理沙は流れ星のように墜ちていった。
7/
ゆっくりと、果てしなく、闇の中を堕ちていく。
下に向かっているのに、身体は浮き上がるように軽い。というより、身体がそこにある
という実感が淡い。ひょっとして、幽霊にでもなったんだろうか。
――おいおい。それじゃ、私はとうとう死んじまったのか?
目も開かない、手足の感覚もない、なんとなく落ちているのだけは理解できる。
生死はさておき、一つだけわかったことがある。
自分は、フランドールに敗れたのだ。
あの地獄のようなスペルに、叩き潰されたのだ。
――ちくしょう。
感覚など殆ど残っていないのに、目の辺りが熱くなるのはわかる。
悔しい。敗北より、自分の苦痛を曝け出したフランを助けてやれなかった、自分が情け
ない。
――ちくしょう!
僅かに光の差した視界は、溢れた涙でぐちゃぐちゃだった。
帰りたい。あの光へ。もう一度舞い上がって、フランに手を伸ばしたい。
友達になるんだ。握手をするんだ。あいつの地獄なんて、魔砲で吹き飛ばして。
――そうだ、握手だ。諦めないで、遠くまでずっと手を伸ばせ。
そうすれば、掴めないものなんてない。
ずっと昔、私にそんなことを言った奴がいたっけ――
8/
あれは、いつの空だったか。
家をこっそり抜け出して、少し涼しい寝間着のまま、お気に入りの叢に寝転んで。
星も朧な暗い夜に、幾つもの光線を天に向かって撃ち続けた。
覚えたばかりの魔法は、流れ星にすらなれずに闇の中で燃え尽きる。
空は遠い。星は遠い。伸ばしてみても、幼い少女の手は短すぎる。
それが悔しくて、小さな魔理沙は空に向かって泣いていた。
「そろそろ泣き止まないかい、お嬢」
空に割り込むようにして、とぼけた眼鏡が景色を塞ぐ。
魔理沙は頬を膨らませて、いっそう不機嫌に闖入者を睨みつける。
「うるさい香霖」
「魔法使いだって、なにもいきなり魔法が使えるわけじゃない。今日出来ないからといっ
て、落ち込むことはない」
「うるさい、香霖」
不平は無視して、霖之助は諭すように魔理沙の上から語りかける。
言っても無駄だとわかっているから、魔理沙は不貞腐れて草の上に寝転ぶ。
上のほうで溜息が聞こえる。大きな足が草を踏みしめて、頭の前まで来た。
「ここに座るよ。やあ、なかなかいい場所だな。天然の座布団だ」
いいとは言ってないのに、霖之助は魔理沙の後ろへ悠々と腰を下ろした。
草の具合がいいなんて、魔理沙が一番知っている。
だからわざわざ、ここに星を見に来たんだ。
秘密の場所を取られたような気がして、なんだか無性に頭に来た。
「おい、香霖。あぐら」
「胡坐ならかいているが。それがどうした?」
「だから、私にするんだっ。枕がほしい」
「……自分で腕枕、という選択肢はないのかね?」
「あれは、びりびりするから嫌いだ。だから、あぐらだ」
「やれやれ。仕方ない、自慢の足を提供するよ」
頭のすぐ先に硬いものが寄ってきて、魔理沙は鼻を鳴らして、それを枕にする。
霖之助の膝枕も、ずいぶん久しぶりだった。
あまり心地好いとはいえない感触も、ちょっとした慰めになる。
さっきより近づいた霖之助の顔が、いつもより少し優しげに見えた。
「さて、嬢はなにを見てたんだい?」
「……星。きょう、打ち落とせなかったやつ」
「星を撃つ、ね。なかなかに浪漫のある話だが、君のご両親でも出来るかどうか……で、
撃ってみたのかい?」
頭の上で、霖之助が半ば呆れ顔で空を指差す。
指先を追いかけて夜空を見上げると、また悔しさがこみ上げる。
「やった。昨日より光がずっと伸びたのに、ぜんぜん届かなかった」
「まあ、星はお嬢が思うより、ずっと高いところに浮いているからね。雲を掴もうとする
ようなものだ」
「馬鹿にすんな、そんなの知ってる! 次は――ぜったい、打ち落としてやるっ」
溜まり溜まった鬱憤を晴らすつもりで、魔理沙はまた指先で星に狙いを定める。
その人差し指を、霖之助が不意に柔らかく指で包んだ。
「あっ……」
「まあ、待ちなさい。届かないものに闘志を剥き出しても、仕方ないだろう?」
「だから、届かせるんだ……こら、はなせはなせっ」
「そう、そこから始めてみるといい。まずは、触れるのを目標に。いきなり殴りつけよう
なんて、野蛮だからね」
ばたつく魔理沙から手を離して、霖之助は足に乗せた金髪を丁寧に梳く。
怒りの矛先を見失って、魔理沙は結局頬を膨らませるだけだ。
「握手をするようなものだな。お嬢の手は小さいが、君達魔法使いには、魔法という長い
手があるじゃないか。それを高く遠く伸ばして、あの星を握るのさ」
「握手……パンチじゃなくて、シェイクハンド。んー、そうか。香霖はそうやって考える
のか」
「僕は魔法使いじゃないから、魔法使い的とはいえないが。まあ、たまには外様の作法も
いいだろう?」
星を落とす、が握手になっただけで、随分と身近になった気がする。
もちろん、難しいことに変わりはないのだけど、気負いが違う。
なんだか、ムキになっていたのが馬鹿みたいだ。
「まあ、気長にやりたまえよ。相手は星だ、逃げはしない。手を伸ばし続ければ、そのう
ち届いているさ。諦めずに夢に挑むのは、魔法使いの得意分野だろう?」
「あー、そうだな。わかった香霖、やってみるぜ」
頭に渦巻いていたものを全部取り払って、魔理沙は白い心で星を見る。
気がつかなかった。落ちついて見れば、きらきら光ってすごく綺麗だ。
あいつを、ぎゅっと掴めたら。そう思うと、胸が高鳴る。
きっとそれは、魔理沙が感じた、生まれて初めての恋心だった。
――掴みたい。あの、輝く小さな星を――
9/
瞬きをした、と胡乱に感じた時、世界に光が戻った。
ゆっくりと開けていく世界の一番先に、あの星が見える。
思わず、全神経を総動員して空へ手を伸ばす。
「――!」
天を向いた指先が、動いた。ぎしぎしと軋む全身を、冷たい風が撫でる。
すべてが覚めた。世界から落ちていく自分を、魔理沙ははっきりと再認する。
いつかの夜から舞い戻った身体に、僅かな灯火が蘇る。
「ぐ……あ……っ」
竜巻のような気流が全身を蝕む。魔理沙は、今も落ち続けている。
――つまり、落ちきっていない。まだ、終わってはいない!
見下ろせば、地面は僅かに遠い。かろうじてだが、手足も動く。
そして、胸の奥に残っている。“霧雨魔理沙そのもの”が。
だったら!
「ああ。抱えたままじゃ、落ちられない……ぜぇっ!」
風に逆らい、真横へじわじわと腕を伸ばす。
弾幕にしこたま殴られても自分を離さず、ひっついて落ちてきた愛しい箒へ。
ああ、おまえがいなきゃ空も飛べない。八卦炉がなきゃ魔砲も撃てない。
私は弱いな。だから、もう一度、力を貸してくれ!
祈りながら――その指が、力強く柄を掴んだ。引き寄せる。自分だけの翼を。
「ぬうううううぁっ……!」
箒を手繰りながら、魔理沙は墜落を続ける。
波紋に貫かれた傷は深く鋭く、力を篭めるとあちこちから血が噴出す。
「っく……! 痛ぇぇっ! けど、なっ……!」
身体中を穴だらけにしてくれた、フランドールの最秘奥。彼女の痛みそのもの。
このまま落ちれば――スペルを破れなければ――少女は、あの部屋に逆戻りだ。
そしてまた何百年も、自分の涙に溺れ続けるんだろう。
「そんなのはっ! くそくらえだぁーっ――!!」
目の前に地面。だが、おまえはお呼びじゃない。
魔理沙はぎろりと瞳を尖らせ、怒りを魔力に換えて大地に叩きつける。
紅魔館を強烈な縦の振動が襲い、黒い星が再び空へと飛び立つ。
「フラァァァァァァンッ!」
「あっ……!」
光を撒き散らしながら、魔理沙が鬼の形相で空を昇ってくる。
ちょっとしたトラウマになりそうなその姿に、フランの瞳は瞬く間に潤んだ。
零れ落ちる涙は、重力に引かれて魔理沙の頬に落ちる。
塩辛い雫を舌で拭って、魔砲使いは獅子の如くに吼えた。
「私は生きてるぞ、フラン! そんな泣きべそで、壊せると思うなぁっ!」
「魔理沙っ……!」
「もっと泣き叫べ! おまえを閉じ込めてた部屋が砕けるくらいに、大声でなっ!」
「うん……うんっ!」
泣き笑いのフランドールに、再び膨大な魔力が集う。
魔理沙の全身が粟立つ。来る。フランドールの真骨頂。そのまた一つ極まった一撃が。
となれば、こちらもただの奥の手では、怒涛の内に呑まれて消える。
絶体絶命、満身創痍の四面楚歌。けれど、唇は何故か緩んでいる。
「……ああ。わかってるぜ香霖。ピンチの時は、初めて星を掴んだ夜を思い出せ、だろ」
恐怖はない。なにしろ、今からこいつを破るのだ。
二度も負けたら、魔法使いの看板を下ろさなければならない。
血に滑る指を懐に差し込み、撃ち損ねた奥の手を掴む。
その時――天を埋め尽くす波紋を掻い潜って、小さな流れ星が降るのを見た。
思わず手を伸ばしたのは、自分を探しているように思えたからだ。
「あ……おまえ」
流れ星は、少し破れて汚れたスペルカード。
途中下車をしかけた魔理沙の手から滑り落ちた、一度目の魔砲。
許してくれるのか。もう一回、遣り直していいのか。
「――じゃあ、まとめていっちまうか?」
両手で握る、二つの魔砲。威力は二倍じゃすまない、霧雨の波動砲。
すべてをぶち壊すには、これしかない!
最後の波紋がやってくる。グダグダ揉める暇はない。
今度こそ、この先にいるあいつの手を掴むんだ。
「全部、吹き飛ばしてやる!」
決意とともに、魔法使いは天高く両手を翳した。
その手に、鏡合わせの二枚の呪符が輝く。
魔理沙は紡ぐ、破壊を呼ぶ言葉を。
「ダブル――」
魔力が暴走し、右手首からエプロンドレスが無残に裂けて飛び散る。
傷だらけの体内を、熱い奔流が台風のように暴れ回る。
「がっ……! あ……ぐ、さすがに、吹き飛んじまいそう、だ、ぜ……!」
喉から気合を搾り出し、魔理沙はスペルを二重に起動した。
足元に発生した魔法陣、刻まれた文字の一つ一つが、地響きを上げて帯電していく。
左腕にも裂傷が走り、魔理沙の全身が激しく蠕動する。
「う……ぐ……! ぐ、ぬぅっ……!」
「――はぁぁぁぁぁっ!」
苦しげに揺らぐ魔理沙へ――しかし、フランドールはさらに魔力の放出を強めた。
弾幕が活性し、跳弾を繰り返しながら、稲妻のように魔理沙へ迫る。
刻一刻と増していくスペルの負荷。だが、魔理沙の震えは少しずつ消えていく。
そうだ、それでいい。心配すんな。もう二度と、落としたりしないから。
脂汗を垂らしながら魔理沙は笑い、二つの手を、一つに重ねる。
「――&、ダブルスパァァァァクっ!」
暴れ狂うエネルギーを握り拳に包んで、真上に放つ。
八卦炉の中で、溶解寸前まで膨れ上がった四つの極大閃光。
煌く龍を思わせる魔砲は互いに絡み合い、一つになって波紋へ直撃する!
――星と星とが衝突したかのような大音声。
相干渉する魔力がエメラルドグリーンの陽炎を生み、紅魔館の中心に竜巻が生じた。
「がぁぁぁぁぁっ!」
「あううううっ!」
激突するスペルの反動は凄まじく、臓腑を掻き回す螺旋の衝撃に、魔理沙もフランドー
ルも悶絶する。
だが、痩せ我慢は魔理沙の十八番。白い歯をぎゅっと噛み締めて、痛みを誤魔化す。
フランドールも、負けてはいない。ぼろぼろの羽根を天空に雄雄しく広げ、鮮血と涙を
飛ばしながら、更なる波紋を次々に飛ばしてくる。
「うわあああああああっ――!」
それは、魔力を帯びたウォー・クライ。絶叫は弾幕を尖らせ、天井も壁も無差別に破壊
していく。なんて力強く、前向きな生のエネルギー。これが、フランドールだ!
これだ。これを待っていた。背筋も凍る攻撃が、魔理沙にさえも力をくれる。
「そうだ! 破壊屋だってんなら、もっとらしくしろっ! 狭いところで泣いてるな!
周りの壁をぶん殴れ! おまえの腕は、パワフルなんだろうがっ……!」
おまえを縛るものなんてない。邪魔する奴は、全部その力でやっつけろ。
おまえは、嵐でいい。悪魔でいい。破壊神だって構わない。
おまえがなんであろうが、どんな力を持っていようが、
そいつを根こそぎ押し切って勝つのが、友達(ワタシ)だ!
「全部! 壊しちまえっ……!」
「全部! 壊れちゃえっ……!」
魔砲と波紋は、際限なく風船のように膨張する。
飽和した魔力は小爆発と紫電を誘発し、紅魔館の中で俄かに地獄の蓋が開く。
服はぼろぼろ、顔はどろどろ、魔法少女達は可愛くも儚くもなく、どうしようもないお
転婆同士。
だからこそ、身体が死にかけだろうと、スペルが終わるまでは、一歩も退かない!
「ぐ……くっ! ちくしょうめ……やれば出来るじゃないか、フラン! しかし、これじ
ゃ、埒が、開かないっ……ぜ!」
編隊で襲い来る波紋を、魔砲の光条が根こそぎに呑み込む。
かと思えば、死角から現れた別働隊が、魔力の塊をチーズのように切り裂いて貫く。
一長一短、完全な膠着状態。このままでは、良くて共倒れだ。
――それじゃ、駄目だ。私は、フランの手を握るんだ。
あと一歩が足りない。今度は宇宙の果てじゃなく、すぐ先に目指すものがあるのに。
伸ばせば届く場所に、フランはいる。だったら、いっそ――
最後の賭けだ。下腹に力を篭めて、魔理沙は一瞬だけ瞼を伏せる。
八卦炉と、世話焼きのあいつと、自分の名前に必勝祈願。
「――いいこと考えたっ! ようし、今からそこまで行く、ぜ、っ……!」
魔理沙はスパークを維持したまま急速浮上して、波紋の向こうにフランドールを睨む。
瞳を真紅に染め、完全にスペルトランス状態の少女へ、魔砲を浴びせて怒鳴りつける。
「そうだ押せ押せ、扉も壁も天井も、邪魔する部屋ごとぶち壊して飛び出せ!
そしたら私がケツを蹴っ飛ばして、今度は空の果てまで吹き飛ばしてやるからさっ!」
「っ! なぁっ……!?」
世界を撼す弾幕音頭の中でも、この一言は、何故かフランドールに深々と刺さった。
幼い顔が耳の先まで真っ赤になって、魔力の彩光まで怒りの朱に染まる。
両手が魔理沙を真似るようにエネルギーを持ち上げ、波紋全体に煽りがかかる。
そうして、フランドールは溜め込んだ感情を爆発させた。
「触らせるもんですかぁっ! そういうのは、お姉様がいいって言ってからなんだからぁ
っ……!」
花も恥らう少女の顔で、フランドールは万歳のポーズから渾身の波紋をぶちまけた。
拡散していた弾幕が、一点に集って魔理沙を貫こうと降り注ぐ。
――それが、魔理沙の待ちわびた瞬間だ。
「ああそーかいっ! それじゃ後ほど、二人で挨拶に行こうぜ、お姉様になぁっ――!」
叫びながら、魔理沙は腕を突き出したまま、独楽のように身体を回転させた。
魔砲が逆転し、箒の背に、幻想郷最大級のロケットエンジンが出現する。
一秒さえためらわず、魔理沙はそのまま空へと飛び立った。
――星屑を撒き散らしながら、熱く燃える彗星が、あらゆる物質を焼き尽くす!
箒だけを支えに、光と化した魔理沙が天を食らっていく。
魔剣の如き波紋さえ、氷のように儚く砕かれ、輝く星の尾に呑まれて融ける。
ミニ八卦炉は完全に暴走状態。魔理沙もスペルをまったく制御できず、振り落とされな
いように耐えるので必死だ。
「うぅおおおおおおおっ……!」
波紋の壁を掘り進み、魔理沙は猛烈な熱の先に、フランドールを感じた。
だが、両手は魔砲の放出で、完全に固まってしまっている。
未完成のスペルに暴れ馬のように振り回されて、手を伸ばすことも出来ない。
「……しょうがねえ、南無三、体当たりだっ!」
魔力の鎧の中で身を強張らせた魔理沙の眼前で、ついに495年の波紋が貫かれた。
すべてが晴れ渡る。なにもかも、よく見える。捜し求めていた奴が、目の前にいる。
「魔理沙――!」
ずっと聴きたかった声が、すぐそばで呼んでいる。
嬉しいような、驚いたような、どっちにせよあまりに可愛らしい顔が、そこにある。
だから、あとは迷わず。
「いちばん星、見ーつけたぁっ!」
魔理沙はその小さな胸に、頭から思いっきり飛び込んだ。
世界が点滅して、すべての魔力が音を立てて爆発する。
魔理沙とフランドールのスペルが、互いに溶け合うように消滅していく。
――ざまあみろ。やっと、掴んでやったぜ――
頭に突き刺さったフランドールの矮躯が、力を失って墜落を始める。
それを確かめて、魔理沙も重力の誘惑へ身を任せた。
10/
「――がはっ!」
久方ぶりに、魔理沙は両足で大地を踏みしめる。
その反動は凄まじく、全身の隅々までを大きな縦揺れの波が駆け巡る。
無数の傷口がぎしりと軋んで、腰から下の震えが止まらない。
それでも、どうにかこうにか地上に立つことができた。
「危ない危ない……帰ってこれない場所へ、行くところだったぜ」
額に浮かんだ汗を拭おうと伸ばした手が、酷く湿っているのに気づく。
「――うわ。ひどいな、こりゃ」
後先を考えずに撃った二つのスペルは、魔理沙の両肘から先を、鮮やかな真紅に染め上
げていた。おそらく、中では血管があまり想像したくないことになっているのだろう。
幸いなのは、あまりに傷つきすぎて、それらの痛みも感じないことだ。
「にしても、なんでだ……?」
静まり返った紅魔館で、魔理沙は俯きながらぶつぶつと自問する。
半開きのその目は、壊れたように痙攣を続ける二つの足に注がれていた。
――なーんで、今のでぶっ倒れないかな?
もう全部終わったろ? このまま気が済むまで、ぐっすり寝ちまっていいんだろ?
フランドールとの戦いは終わった。もう、ここでやるべきことは残っていない。
そのはずなのに、どうして足はまだ頑張っているのか。
遣り残しがある。頭の奥に、なにかが引っかかっている。
「あぐっ……」
「お、生きてたな。ご苦労ご苦労」
瓦礫の山が崩れて、服も身体もぼろぼろのフランドールが、顔を出す。
こっちも千鳥足で、徹夜明けのような目をして、辛うじて立っている。
「……こんなに痛い思いをしたの、初めてだよ」
「よかったな、初体験だ。大人になったな」
「うん。でも、今はすっごく気持ちいいんだ。頭の中、すっきりしてるの」
泥と傷にまみれても、フランドールの笑顔は、あどけなく眩しい。
両手を振り上げたガッツポーズも可愛らしく、奇妙に曲がりくねった魔杖は、その姿に
奇妙な味を添えて――
「あ」
魔理沙の意識が、一気に晴れ渡る。頭が冴える。小骨が取れる。
二つの足が意固地に頑張っている理由が、やっとわかった。
「そうだよフラン、まだ終わってないんだ」
「え?」
思い出した。ムカついていたんだ。
あの、どうしようもなく凶暴で、夢のように鮮やかな輝きに。
なるほど、アイツを片づけないままじゃ、終われない。
アレは、霧雨魔理沙のアイデンティティーへの、挑戦だから。
「――なーんだ、アレか。そうかそうか、そうだったか」
名探偵魔理沙、開眼。謎はすべて解けた。
ついでに、フィニッシュホールドも大決定だ。
長らく続いた弾幕騒ぎも、ようやく綺麗に幕が下ろせそうだ。
「なあ、フラン。私達はまだ立ってる。綺麗に決着をつけられなかったらしい。だから、
あと一回だけ――やってみないか?」
「……いいよ。魔理沙、すっごくやりたがってるみたいだから」
「鏡を見てから言えよ。その顔は、イエスと取るぜ?」
「うん、お受けしますわ」
さっきまで立つことさえ難儀していた二人は、いつの間にかだらしなくにやけていた。
二人揃って、生粋の弾幕好き。撃てると決まれば、勝手に力が湧いてくるのだ。
「その一発なんだが――最後は、派手にチャンバラといこうぜ。フラン、レーヴァテイン
で来い」
「チャンバラって……魔理沙もできるの、レーヴァテイン?」
「無理だぜ。だが、おまえに負けないくらい、すごいカタナは出せるな」
「……わかった。しよう、チャンバラ!」
迷わないまっすぐな肯定に、魔理沙は心から感謝した。
最後の心残りを消してくれるのは、彼女だけだ。
吐き出そう。フランのように真っ白になって、この戦いに幕を下ろすんだ。
「私は、いつでもいいよ。……来て、魔理沙」
「ああ、行くさ。けど、その前に一つだけいいか?」
「なに?」
「おまえの495年間は、終わった。しみったれた過去は、リセット完了だ。でも、これ
で最後じゃないだろ? さあ、もう一度始めるんだ。最初(ゼロ)から仕切り直しだぜ」
「……うんっ。決めた! やっぱり、私から行くよ、魔理沙!」
「――お」
――フランドールの足踏みが、止まった。
忙しなく、不安定で、居場所を決め損ねていた二つの足が、力強く大地を踏んだ。
不安とストレスで辟易していた迷子の少女は、もういない。
「くくっ……こいつぁ、痺れたぜ!」
爽やかで凛々しい戦乙女の笑顔は、魔理沙を恍惚の電撃で突き刺した。
生まれゆくスペル。世界は大きな紅い心臓になり、フランのために鼓動する。
――嵐が来る。紅い嵐だ。天地開闢の如き猛威で、すべてを焦がしにやってくる!
「さあ、おいで、私の紅。――レーヴァテイン!」
主の声に応え、遥けきムスペルヘイムから劫火が現れる。
巨大な地割れから、少女の魔杖を目がけて天衝く炎が踊る。
二度くらいじゃ免疫のつかない、本能をびりびりと刺激する紅き死の壁。
部屋の半分をごっそりと灼熱で包むその姿に、魔理沙は深い溜息を漏らす。
「そうだな、私もそいつが、一番嫌いだぜ」
魔理沙の中から、あらゆる澱みが消え失せる。
そう、会いたかったのは、鼻持ちならなかったのは、この害成す魔杖だった。
――怖かったんじゃない。悔しかった。
こいつは、私の魔砲によく似ている。その上ド派手で、しかも縦横無尽に飛び回る。
踊り子のように、華やかに舞う魔力の輝き。それが羨ましくて、堪らなかった。
私もそいつを、思う存分振り回してみたくなったんだ。
だから――今。その夢を、魔法に変える。
「……世話ぁかけるな、おまえにも、香霖にもさ。でも、あと一回だけ、頼むぜ」
気がつけば、ミニ八卦炉はひしゃげて焦げて、またポンコツ同然。
大事にしてやろうと思うけど、気がつけば、いつもこうだ。
だから、この傷が無駄にならないように――信じたことを、最後までしよう。
心は、どこまでも澄んでいる。魔砲を撃つには、最高のコンディション。
魔理沙は目を閉じ、残った魔力を胸の八卦炉へ注ぎ込む。
穏やかな鼓動とともに、唇は秘蹟を紡いでいく。
八卦炉にそっと囁く、魔理沙だけの、恋の呪文。
――Love Is A GoGo !(恋は、いけいけ!)
それは、最後の鍵。少女を縛る最後の鎖。外れてしまえば、後は飛び出すだけだ。
魔理沙は両手を天に上げ、フランドールの正面で高らかに叫ぶ。
「さあ、飛び出せ! これが最後の(ファイナル)――マスタースパークだっ!」
ミニ八卦炉が吼え、魔力の激流が天に向かって炸裂する。
無限の推進エネルギーであるマスタースパークを垂直放射し、その状態で放出を維持す
る。結果生まれたのは、レーヴァテインにも迫るほどの、空を貫く巨大な魔砲。
フランドールも、魔杖を掴んだままで、その姿に僅か見惚れる。
「……すごい。まるで剣みたい。あ、だからチャンバラなんだね!」
「そーゆーことだ。ま、ヒントはフランのスペルだけどな」
「ふふっ……サムライ・ガールだなんて、知らなかったよ」
「女は秘密を、少女は魔法を持つものだぜ。私達は、両方さ。さあ、見せてみろ。おまえ
の、最初の一秒を」
「うんっ。がんばるから……見届けてね」
言葉の切れ目が、勝負の切れ目。
二人の魔法少女は、握り締めた奥の手、夢のたっぷり詰まった暴れん棒を、身体ごと相
手に振り切る。
「「おおおおおおっ!」」
世界を両断する二つの光条が、紅魔館の中心で激突した。
競り合いは、ほんの一瞬。衝突点に生まれた小さな火花が、すべてを巻き込んで大爆発
を起こした。恒星の炸裂にも似た閃光が、内側から紅魔館を焼き尽くしていく。
その、白い白い破壊の只中で、魔理沙とフランドールは、微笑みながら気を失った。
11/
轟音は、館の内から外までを余さず貫いた。
「……うぁぁっ! 中で、なにか……すごいのが出たわねっ……!」
伸ばした手から、パチュリーの身体の隅々にまで弾けるような衝撃が伝わる。
結界を強引に押し退けようとする、爆発的なエネルギー。
中で暴れている魔理沙とフランドールが、なにかとんでもないスペルを発動したに違い
ない。
「ちょ……冗談じゃ、ないわっ……! こっちはもう、へとへとなのよ……!」
結界の切れ目を抜けた衝撃の残滓が、パチュリーの全身を強かに打ち据える。
今度の爆発は、かなり息が長い。しかも、吹きつける激流は、これまでの比ではない。
――どちらか、いや、二人とも、最後の勝負に出た?
なんて、出鱈目な威力のぶつかり合い。疲労困憊とはいえ、あのマスタースパークです
ら押さえ込めるつもりの、分厚い結界を張っているのに。
「あぐっ! く、は、弾かれるっ……! まだ、膨れていく……!? いけない、この、
まま――じゃっ……!」
扉の向こうでエネルギーは膨張を続け、徐々にパチュリーの結界を侵食し始めている。
――まずい。身体にはもう、これを押し退けるほどの魔力が――!
不快な汗が頬を伝い、力んだ身体が、滑るように後退を始める。
「……ぅ……!」
歯を食い縛っても、身体が止まってくれない。
扉がひしゃげ、館の奥から破壊の光が漏れ出してくる。
止めなければ。こいつが牙を剥いたら、紅魔館どころか、この小島自体が消し飛びかね
ない。止まれ、止まれ、止まれ――!
「あ……あぁぁぁぁっ……!」
立て直した身体が、衝撃波の直撃でくの字に仰け反る。
――膨張が止まった。来る。溜まりに溜まった魔力が、一気に爆発する。
もう、抑えきれない。あの子は、まだ戻ってこないのか――!
「お願い、早く、来てぇっ……!」
「――はい。来ましたよ、パチュリー様」
柔らかな掌が、そっとパチュリーの肩を叩く。
それを合図に、幻想郷を流れる“時”が、臨界点のままで凍りついた。
パチュリーも、結界も、爆発も、なにもかも。
「――ふう、セーフ。完全で瀟洒な、滑り込みだわ」
凍りついた時間の中でただ一人、十六夜咲夜だけがひっそりと安堵の息をつく。
その左手は後ろへ伸び、レミリアが、霊夢が、小悪魔が、そして何故か美鈴までもが、
仲良く手で繋がっている。
つまりは、まったくもってぎりぎりセーフ。
パチュリーの賭け、小悪魔の救援は、すんでのところで実を結んでいたのだ。
「おっと……浸ってる場合じゃないわ。早くしないと、館が吹っ飛んじゃう」
停止時間の中でも、咲夜の主だけは、責めるような眼差しを背中にぶつけてくる。
動けはしないが、認識はできているのか。さすが、人外は違う。
――まあ、全部咲夜の思い込みかもしれないが。
「それじゃ――悪魔のはらわたに、飛び込みましょうかしら」
大量の道連れを抱えたまま、咲夜は自由な右手で、短く印を結ぶ。
――こちら から あちらへ。
言葉は空間を導き、崩壊寸前の扉も結界も飛び越えて、咲夜を閉ざされた戦場の中へと
移動させた。
時間停止+空間移動とは、緊急事態とはいえ、随分な荒業をさせてくれる――
しかし、目の前で刻まれた魔戦の終結図に、咲夜の頭からそんな不平は吹き飛んでしま
った。
「……こりゃ、ホントに危機一髪だわ。いいえ、半髪かも」
部屋の中心で噛み合う、魔杖と魔砲。
一体どれほどのエネルギーがそこに集っているのか、二人のスペルが放つ余波だけで、
巨大な部屋はパンク寸前だった。
この状態のまま爆発すれば、幻想郷に巨大なクレーターが出現してしまうだろう。
冷や汗混じりに、咲夜は刃のように表情を引き締める。
「――紅魔館はなんとかしますから、お二方をよろしく」
凍りついたままの主と、その手を握った憎たらしい巫女に、言葉を投げる。
止まった時間の中で、声など届くはずもないのだが――これも、思い込みか。
――なにやってるの、咲夜。サボってないで、さっさとやりなさい!
そんな声が聞こえたような気がして、恐る恐る振り向く。
そこにはやっぱり、幻想郷でいちばん怖い顔が睨んでいた。
「心得ました、お嬢様」
優雅に微笑んで、咲夜はあらゆる時空へと気丈に語りかけた。
東西南北中央余さず、ビッグバンさえ呑み込むくらいに、さあ。
は じ け と べ !
スペルが走る。罅割れた部屋の天井が、床が、壁が、一斉に咲夜から遠ざかっていく。
逃げているのではない。上下に、左右に、あらゆる方向に、紅魔館が急速に膨張してい
るのだ。時空が魔力を受け、すくすくと育つ。まるで何処かの豆の樹だ。
それも当然、ジャックの名には、色々縁の深い身ですから。
破裂しかけていた一室が、咲夜の手で街一つはあろうかという巨大な空洞に変貌する。
「……! 時が、動き出す! お嬢様、霊夢、頼みますよっ……!」
爆心地から四人を引っ張って飛び退きながら、咲夜は時計の針が動き出すのを聞いた。
待ちかねたとばかりに、互いを食らい合うスペルが臨界を越える。
鼓膜をつんざく、槍のように鋭い轟音。
天地開闢にも匹敵するほどの超爆発が、紅魔館を内側から飲み込んだ。
「くぅっ……!」
「霊夢! 黒いお友達は、任せたわよ!」
「面倒だけど、わかったわよ!」
閃光から目を庇う咲夜の背後で、レミリアと霊夢が背中合わせに飛び出す。
大空洞を蝕む破壊の渦を追い越して、一直線に何処かへ向かう。
レミリアは、煙を上げて吹き飛ぶフランドールを。
霊夢は、ぐったりと俯いたまま暴風に煽られる魔理沙を。
固い大地が二人を砕いてしまう前に、その手でしっかりと抱きとめる。
「黒いの! 妹様ぁっ! ……ああ、良かったぁ……」
美鈴が大袈裟に驚いて、咲夜の分まで気持ちを語ってくれた。
振り向くと、小悪魔の姿がない。彼女も、主の元に行ったんだろう。
ぼろぼろにはなったものの、永遠に失われたものはない。
「ふぅ……剣呑、剣呑」
どうやら、紅魔館は生きている。
それでようやく、咲夜も心からの脱力を味わえた。
「ほら、そこに寝かせて。死にかけてるから、そっとよ、そっと」
「うるさいなぁ。吸血鬼のくせに、細かいんだから……」
「差別してないで、言うとおりにしなさい。吸うわよっ」
いがみ合いながらも、二人は魔理沙とフランドールを並べて、床に横たえる。
揃って魂が抜けたように目を伏せ、身動ぎもしない。
目を尖らせていたレミリアが、フランドールの傍へ屈みこんで呟く。
「そっちのは、生きている?」
「なんとかね。身体の中から、魔力が根こそぎなくなりかけてるけど」
完全に沈黙したミニ八卦炉に顔をしかめて、霊夢はのんびりと応える。
ぼろぼろになった三角帽子を払うと、魔理沙の妙に安らいだ顔が覗いた。
「まったく……吸血鬼に人間が引き分けるなんて、非常識だわ」
「それ、人間に負けた吸血鬼が言うかしら……」
「言うわよ。この子は、人間に負けた私より強いんだから。だから、閉じ込めたの。
乱暴な手で、当主の座を奪われたくはなかったからね」
胸の内を吐き捨てるように、レミリアは険しい顔で声を重ねた。
だが、そんなレミリアを見つめる霊夢の瞳は、いつも以上に冷たい。
「吸血鬼はどうか知らないけど。人間ってさ、嘘をつくと、それを隠そうといつもよりぺ
らぺら喋るのよね。嘘を、言葉で塗り潰したいから」
「……なんで、それを今、私に?」
「ぺらぺら喋ってるからでしょ。嘘つきの妖怪さん?」
「なんだって?」
死にかけの魔理沙とフランドールの上で、にわかに険悪な空気が巻き起こる。
血走った瞳を向けるレミリアと、凍てついて白けた霊夢。
固唾を呑んで見守る咲夜と、慌てまくる美鈴。
言葉を発せない者、敢えて口を紡ぐ者、出しても声にならない者。
奇妙な静寂が、大空洞を吹き抜ける。
「……はあ。シラ切ってんじゃないわよ。ええ、妹のほうが強いから閉じ込めた。
ここまでは本当ね。でも、そこから先は、あんたの都合じゃないんじゃない?」
「他に、どんな都合があるの?」
「だから、シラ切るな。面倒臭いから、説明させないでよね。やり直すのも面倒だから、
するけど」
心底嫌そうな溜息をついて、霊夢は不意に顔つきを変えた。
睨んでいたレミリアのほうが気圧されそうな、鋭い眼差しが現れる。
「あんたが恐れていたのは、妹じゃない。妹が存在することで生じる“歪み”よ。
そいつが幻想郷に感づかれて、より大きな力で正されるのが、怖かったんでしょ」
レミリアの口からも、苦々しい吐息が漏れる。
そう。こと幻想郷において、博麗霊夢の前で、白を黒と言い張れるはずがなかった。
天地の間をどちらにも偏らずに飛んでいる霊夢は、ある意味で、幻想郷に最も近しい存
在なのだから。
幻想郷は、中庸の世界。何も拒まず、何も受け入れない。
そこに強い傾きが起これば、世界は等しい力で、歪みを元に戻そうとするだろう。
レミリアを上回るフランドールの力。もしそれが幻想郷に感知されれば、撥ね返るのは
フランドールと同等以上の反作用。
力で劣るレミリアには、その災厄から妹を守ってやる術がなかった。
「だから、あんたは隠した。幻想郷が傾く前に、影響を及ぼさないような場所へ、妹を隔
離した。騒ぎの種がそこにある、って気づかせないためにね。こんなとこでしょ?」
「……らしくないわね。霊夢こそ、今日は饒舌だわ」
「バランス取ってるだけ。一日黙ってる日もあれば、喋り捲る日もあるでしょうよ」
自分が綻びていくのを感じる。
でも、ここで“そうだ”と認めて、自分だけ肩の荷を降ろすのは卑怯だ。
だから、レミリアは意地を張り続ける。情けない嘘だとわかっていても。
「買い被りよ。手に余ったから、距離を置いただけ。そんな姉だからね、こうして寝てる
と――この子達、私よりずっと姉妹然じゃない?」
己を嘲るように、唇は皮肉な笑みを作る。
――姉としてのレミリア・スカーレットは、あまりに無情だった。
だから、せめてこんな風に自分で自分を傷つけないと、落ち着かない。
下らない代償行為。独善的なマゾヒズム。無意味で恥ずかしい、自己満足だ。
「はー……なに拗ねてんの、あんた。本っ当に子供なんだから」
半ば予想通りに、霊夢はこの自虐さえ一刀両断に切り捨てた。
だが、その言葉尻が少々引っかかる。
「子供だって? 聞き捨てならないね、霊夢」
「子供じゃ、丁寧すぎたかしら。じゃあ、餓鬼ね。下らない冗談言ってんじゃないわよ。
この子の横に並べて、あんた以上に姉妹面できる奴なんか、いないわよ。
嘘だと思ったら、そこの連中に聞いてみなさい」
「……え?」
レミリアが振り向いた先で――
「「「「……うぉっほん!」」」」
応急手当を始めていた咲夜が、
瓦礫を片づけていた美鈴が、
ガス欠の主に肩を貸した小悪魔が、
顔面蒼白でようやく中に入ってきたパチュリーが、
一斉に顔を背けて、壮絶にわざとらしい咳払いをした。
思わず頬を引き攣らせて硬直するレミリアに、霊夢は眠り続ける魔理沙を指差す。
「ありもしないこと、怖がってないで、素直になればいいだけじゃないの? ここでアホ
面さげてる、こいつみたいに」
こちらの喧騒など知ったことか、と、魔理沙はいつの間にかいびきをかいている。
何者にも縛られない、空を往く自由な風。
人間は、みんなこんな困った奴ばかりなのか。――羨ましくなるじゃないか。
「……そうね。二度も人間にしてやられるのは、癪だから。“お姉様”の座を取られない
ように、頑張るわ」
「ご心配なく。手段を問わず、完全サポートいたしますわ」
「レミィは弱点が多いしね。これは、幅広く知識を叩き込まないといけないわ」
「はい。書物の調達は、お任せくださいっ」
「もちろん、私も一生懸命手伝いますからね!」
私も私もと声が飛び、あっという間に、レミリアの周りは大騒ぎになる。
考えてみれば、紅魔館はいつもこうだ。
心配なんて最初から余計で、試してみればよかったのかもしれない。
試すことしか頭になかった、この黒い魔法使いのように。
「気づかせてもらったわ。ありがとう、今日は借りておくよ、霊夢」
「返すのは、魔理沙宛てでいいわよ」
家族達に囲まれたレミリアへ、霊夢は大げさに肩を竦める。
そうして、取り出したお払い棒で部屋の中を何度か払い、手を打った。
些細な儀式ではあったが、拍手の残響が止む頃には、誰もが理解していた。
――随分長かった一日が、ようやく終わりを告げたのだと。
EX/
――魔理沙が目を覚ましたのは、それからちょうど三日が過ぎた頃のこと。
「ううむ。いい朝だぜ……」
「私は最悪よ。起き抜けに、見たくもない顔を一番に見るんですからね」
かくいう魔理沙が顔を起こして一番に見たのも、ベッドに頬杖をついたパチュリーだっ
た。心なしか、少しやつれた気がする。
「どうやら、無事だったみたいだな。おまえも、この屋敷も」
「お蔭様でね。教えておくけど、妹様も心配要らないわ」
「……そうか。そいつは、実にゴキゲンだぜ――ん?」
開け放たれた窓から、賑やかな音楽が入り込んでくる。
どうやら、庭の辺りで誰かが腕を振るっているようだ。
「なんだか、今日は随分騒がしいな」
「この数日は、いつもこうよ。紅魔館も、少し変わったの」
射しこむ陽光に目を細めて、パチュリーも朗らかに唇を緩めた。
なんだか、寝ている間に屋敷が柔らかくなったような気がする。
不思議な居心地のよさに、魔理沙は首を傾げるばかりだ。
「レミィが、湖に船を通してね。館に客人を招くようにしたのよ。人も、獣も、妖怪も、
来る者拒まず」
「……えーと、食料?」
「客・人。招いた客に害をなす主が、どこの世界にいるのよ」
「あー、失敬だぜ。しかし、どうしてまた急に?」
「……きっと、妹様のためね。これまでずっと寂しい思いをさせたから、って」
魔理沙の顔が、ぱっと輝く。微笑を堪えきれないように、唇がつりあがる。
そうかそうか、やるじゃないか、お嬢様!
「ん? ってことは、フランはもう治ったのか?」
「あなたとは、身体の出来が違うわよ。一日ぐっすり寝たら、あとはもう連日、思いっき
り遊びまわってるわ」
「そうか……良かった」
随分ズタボロにしてしまった建前、少々その後が気になっていたのだ。
まあ、致命すれすれの大怪我は、こっちもお互い様で――
「んん?」
「どうしたの? ご飯ならまだよ?」
「違うわっ。なあ、パチュリー。私は――どうしてこんなに綺麗なんだ?」
しきりに腕や胸を眺めて首を傾げる魔理沙に、パチュリーは絶句する。
その額に汗が浮かんで、魔理沙の腕を両手でぎゅっと掴む。
「目立った傷は全部治したけど、頭の中までは手が回らなかったわ。御免なさいね……」
「失礼な、私は正常だぜ。大体にして、この手だって、中からボロクソで――」
「ええ、目も当てられなかったから、賢者の石まではたいて治したわよ。家族の恩人を、
無残な姿のまま放置すると思う? 私は、そこまで礼儀知らずじゃないのよ」
今度は、魔理沙が固まる番だった。身体を駆け巡る、鮮烈な魔力に気づいたから。
フランドールとの戦いで、魔理沙の体内からはマナが尽きかけていたはずなのに。
その矛盾を埋められるのは、絶対無比の宝具、賢者の石をおいて他にない。
「今日は、なんだかかっこいいぜ、パチュリー」
「でも、まだまだお礼は言い足りない。だから言うわ。
妹様を救ってくれて、ありがとう――魔理沙」
言葉とともに、パチュリーは深々と頭を下げた。
途端に気恥ずかしくなって、魔理沙は外の景色へ逃げながら呟く。
「勘違いするな、私は喧嘩しただけだ。フランは、全部自分でやり遂げたのさ。
ほら、あいつの能力を思い出せよ」
「ありとあらゆるものを、破壊する程度の……」
「みんな、字面でネガティブに捉え過ぎなんだよ。なんでもぶっ壊せるなら、嫌なものや
辛いものからやっつければいいんだ。フランは、気づいてそうしたんだぜ」
「……あなた、時々すごく深いわね」
「そうかね。普通だぜ」
心底感じ入った様子のパチュリーに、魔理沙は飄々と答えた。
実はちょっと照れているのだが、気づかれているのかどうか。
真偽は置き去りのまま、パチュリーは壁にかけてあった三角帽子を、持ち主へ返す。
「でもね、悔しいけど認めるわ。私じゃ、たとえ調子が良くても、妹様の本気を受け止め
きれなかった。あなただったから、すっきりできたのよ。
だから――やっぱり、ありがとう」
「なんの。こっちこそ、貴重な治療魔法をご馳走様、だぜ」
微笑を交わして、二人はこつん、と額をつき合わせた。
面倒臭い問題は、それで全部帳消しにした。
あとは、いつも通り――と、行きたいところだが。
部屋の棚に並べられた本を見て、魔理沙は最後の仕事を思い出す。
「――そうだ。あんまりバタついてて、すっかり忘れちまってた。そもそも、私はこいつ
を聞きに来たんだったぜ」
「どうしたの、魔理沙?」
「この前、外の本を貸しただろ。ちゃんと読んでくれたか?」
「はぁ……すぐに読まないのに借りていくあなたと、一緒にしないでくれるかしら。
一言一句漏らさずに、きっちり読み終えてあるわ」
ローブから件の本を取り出して、魔理沙へ差し出すパチュリー。
魔理沙はすぐに受け取らず、先にかねてからの質問を投げた。
「一緒に、謎々出したよな。あれの答え、出てるんだろ?」
「大きすぎる罪の凝った場所には、誰も生きられないのかという命題だったかしら?」
「最後には誰もいなくなるのか、って聞いたんだよ」
期待に浮かされるまま顔を突き出す魔理沙に、パチュリーは首を横に振った。
「ここからは、誰も消えてはいない。紅魔館は、賑やかになる一方だわ。
だから、答えはノーよ」
オーエンによく似た少女は、紅魔館で永いこと自分の罪に苦しんだ。
けれど、フランドールは絶望しなかった。
自分の過去と、罪と向かい合って、それを克服してみせた。
誰もいなくならない。朧に揺らいでいた影が、確かな形を得ただけ。
もう、オーエンじゃない。フランドール・スカーレットは、いつでもここに在る。
「ここは今、こんなに賑やかだ。幻想郷には人間も動物も、それに妖怪も山ほどいる。
独りになるのも難しいのに、ゼロになんて、なれるはずがないぜ」
「ええ、私達だってもう、妹様を独りぼっちにはしないわ」
「そうだぜ。振り出しから、また歩き出したんだ。あとは、色々増えていくだけさ」
魔理沙の手が古びた本を掴んで、胸へと招き入れる。
オーエン氏のステージは、終了。
あとは、クレイジー&イノセントな、可愛いあいつにお任せだ。
「さて、全部すっきりしたことだし、戦友に会いに行くかね」
「じゃあ、私もご一緒するわ」
「いいね、旅は道連れ、恋は行きずり、多いほうがフランも喜ぶぜ」
二人は立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。
ローブ一つで身軽なパチュリーを追って、魔理沙も帽子と箒を忘れずに掴んだ。
床を蹴る足音が、次第に加速する。走り出す。眩しい場所へ。
不景気な幻影は、きっともう見ない。ここで、すべてを切り替えて行く。
「以上、Q.E.D(証明終了)――だぜ。あばよ、U.N.オーエン!」
紅い扉を景気良く閉じて、魔理沙の探求は終わりを告げた。
さて、霧雨のお嬢さん。
まずは太陽輝く愛しい世界へ飛び出して、
次なる真理を探しに行くとしようか――。
【Quod Erat Demonstrandum.】
なんだかオペラを見ているようですね!
ってなかんじで
あんたは最高だ!(100点)ヾ(゜∀゜)ゝ
前後編共々血涌き肉踊るような文章!!
GJ!
語るは無粋。ただ一言、よい作品をありがとう
某部分を読んで「J9?」とか思ったり。
まさに、究極の『雨降って地固まる』ですな。
読みながら背筋がピリピリとしました。
切り口と云い語り口と云い。堪らなく燃える戦闘描写、とんでもなく綺麗なストーリーライン。お見事でした。
カッ飛んでいやがるぜ!!!こいつよぉ!!!
それでも誰もいなくなりはしない。 ならばあと495回は読み直そうか。
悪いとは言いません。寧ろこれくらいの方が良いのでしょう。
が、私にとってはそう面白く感じませんでした。
魔理沙も、あんたもな!
グゥレイトォ!!
そうだよ、俺は「こんなんできるか!」ってコントローラーを床に叩き付け
ながらも先を見たくてクリア目指して頑張ったんだよ!
そんな風に俺を熱くさせてくれたヤツラを書きたくてSS書き始めたんだよ!
初心を思い出せてくれる熱い物語をありがとうございました!
ちなみに貴方の名前は「しらすぼし」で良いのでしょうか?
魔法少女達のガチバトルはおおよそ可憐な乙女達には似合わず、まるで少年漫画ようである。
けれど、これこそが幻想郷であり、とんでもなく心地良く、清々しい気分にさせられる。
こんなにも心を揺さ振られたのは久し振りだ。
こちらからも感謝を送りたい。本当にありがとう。あんたは最高だッ!
アツい作品をご馳走様でした。
後日にちらしと共に本とひしゃげた八卦炉を取り出す魔理沙
合わせてひしゃげる香霖の表情
そんなものまで幻視してしまいました
次なる心理をお待ちしております
フランと魔理沙の掛け合いも見事。
ただ、唯一の難点は熱さと長さだと思う。
バトルシーン、長い上に同じ展開が繰り返されてるように見える。
もうちょっとぎゅっと濃縮すれば言うことはなかったのですが。
つらつら語るは末代の恥。ただ一言。これのみでしょう。
ブラボー!!!!
なんか偉そうな言い方っぽくてすみません^^;
それに対するは、短い時間を生きる人間である魔理沙の真っ直ぐな感情。
それは、家庭の事情でグレた不良と、それを立ち直らせる熱血教師の如くw
魔理沙とフランのお話としては王道ながら、フランのスペルカード名を絡めた筋立てはよかったと思います。
ただ、唐突の講談調部分。正直アレはどうかと思いました。(そこを考慮して-10点しています)
ひたすら魔理沙が格好よかったです。
それこそブレイジングスターの如く、読む方にさえ息継ぎを許さない疾走ぶり!
最後も格好良く纏まっていて読後に爽快感。
まあ一言で言ってしまえば……グレイテスト!!
3準拠の軽快軽口、ただし剣呑。
ファンファーレのあらしを私からも、一つ。
まるで彗星が傍を通り抜けたかのような業風にやられた感じです。
熱さがすごい。ほんとに、素晴らしい。
二人の魔法少女たちのこれからに、幸あれ!
展開も非常に楽しめたのですが、一つだけ。
8/は余計だったかなあ、と。勢いがぶっつり途切れてしまっているので…
そして
……こんなに痛い思いをしたの、初めてだよ
よかったな、初体験だ。大人になったな
の2文でエロスを感じた私は変態です
GJ
熱い話に自分の青い時代を思い出してしまいました。
Marvelous!!
普通の魔法使いにいじけはいらぬ。
紅い妹にゃ涙は合わぬ。
強烈な物語に、文句は要らぬ。
ともかくGJ!
なかなかイカスぜ!!
あの状態で救援を急いで呼びに行った子悪魔は、凄いと思います。
絶品のご馳走でした。
まったくもってその通りだと思ってしまいました。(笑)
すばらしい話でした。 GJです♪
U.N.オーエンは彼女なんかじゃない。
影で結構大変そうなことになってたパッチェさんwお疲れ様です。