妹紅は寝ていた。
庵の床に無防備に投げ出されたその姿を見ながら、上白沢 慧音はふっと微笑んだ。なるほどどうして可愛いものではないか。音を立てないように履物を脱ぐと、床の軋みにも気を配りながら庵に上がりこんだ。
妹紅の来訪は珍しいものでは無い。場所が近いだけあって、妹紅は慧音の庵をよく訪れる。慧音が在宅の時もあれば、今日のように不在のときもある。特に後者の場合、妹紅の行う行動には多様なものがあった。ある時は夕餉の準備をしていたり、ある時は表を掃いていたり、ある時はのんびりと寛ぎながら帰宅した慧音に労いの言葉をかけたり、といった具合である。慧音はその風景が好きだった。切り出したように暖かい風景だったからかもしれない。
妹紅の側にまで近寄ると、慧音は妹紅の額にかかった髪をどけてやった。妹紅の顔が覗く。まだ少女のあどけなさを残したその目鼻立ちに、慧音は少し胸が高鳴るように感じた。静かに眠る彼女の頬はほんのりと赤く、その肌は確かに暖かかった。
妹紅も一応は庵住まいである。竹林の奥深くにそれなりのものを構えているのだが、慧音がそこを訪れるといったケースは稀であった。それは妹紅が慧音の来訪を拒むというからではなく、ただ単に妹紅の方から頻繁に訪れるというだけの話であった。
取り出した布団を妹紅に掛けてやると、慧音もその横に寝転がった。疲れているのか、睡魔はすぐにやってきた。
……庵に帰ると妹紅が寝ている。慣れた風景であった。珍しくは無い。珍しくは無い……のだが、慧音は何故か今日に限り一つのことを強く思った。
ああ、寝ているのだな……と。
「……んっ?」
微かな気配を感じ慧音は静かに目を開いた。辺りは暗闇。その中でごそごそと動くものがあった。妹紅は隣にいる。となれば……
「おい」
低い声でその影に呼びかける。影は身を強張らせ、慧音の方をちらと見た。
「起こしちまったかな?」
「いや、正解だ。家捜しをするなら家主に許可をもらってからだ」
するつもりもないがな、と付け加えると、慧音はそばにあった灯りに火を点した。ポウと光が広がる。出来るだけ妹紅には当たらないようにと、自ら壁になるように努めながら、再び屋荒らしの方に向き直った。
「それで何をしに来たんだ、霧雨 魔理沙?」
「おいおい、そりゃ無いぜ」
真夜中の来訪者、霧雨 魔理沙はどかと胡坐をかくと、慧音を強く指差した。
「お前な、約束忘れてるだろう?」
「約束?」
はぁと頭を抱える魔理沙。
「米だよ、米。今日届けてくれるはずだったんだろう?」
「米……?」
「おいおい、マジかよ。対価は前払いのはずだぜ。とっておきの丹を煉ってやったじゃないか。まさか忘れたとは言わせないぜ」
「ううむ、受け取ったような、受け取ってないような……」
「受け取ったんだよ。しっかりしてくれよ、知識人」
心底呆れた表情を浮かべる魔理沙を見ながら、慧音はいよいよ自分の記憶に自身がなくなってきていた。
「まあ、忘れたんならそれでもいいけどさ、こっちは前払いをしたんだからしっかりと米はもらっていくぜ」
「うむ、まあ、いいだろう」
嘘をついてるという感じではなかったので、受諾せざるを得なかった。
「それじゃあ、早速頼むよ」
「ああ、待ってろ」
慧音は重い腰を上ると、2、3度体を解した。血の巡りをよく感じた。
「起こしてくれればよかったものを」
「思ったさ。思ったけど……」
「けど?」
「あんなに気持ちよさそうに眠ってるのを起こすのは忍びなくてな」
「一応、その心遣いには感謝しておくよ」
「それにあんなに仲良さそうに眠ってたからな」
魔理沙はちらと妹紅に目配せをすると、くくと含み笑いをした。
「……いい心遣いだ、本当に」
「お前等って本当に仲が良いよな。あながち”通い妻”って噂も……」
「本当だ」
「……マジか?」
「ああ、そう言わせてせたほうが都合がいい」
「何だ、そういうことかよ」
「お前達が勝手に作った噂だ。私にだって引っ掻き回す権利だってある」
「へいへい、私が悪うござんした」
くさる彼女の声を背に受けながら慧音は木戸を横に引いた。
「静かに待ってろよ」
「OK。あんたの相棒を起こさないように、だろ?」
「わかってるじゃないか。そこまでわかっているなら、ついでに灯りも消しておいてくれよ」
「了解。まったく、過保護な事で」
灯りが落ちたのを確認すると、慧音は裏手に回った。つんであった米を適当に見繕うと表に運び出し、準備が出来た旨を魔理沙に告げた。
その後、分配のことで少しばかりもめたが、それ以外に問題は無かった。「最初からお前が持ってきてくれれば楽だったのにな」と零しながら、不恰好に麻袋を背負った魔理沙が夜の空に消えていった。それを見送ると慧音は庵に戻った。
妹紅は寝ていた。抑えていたとはいえそれなりの騒音ではあったはず。にもかかわらず、依然として妹紅は眠ったままであった。図太いのとか、はたまた疲れているだけなのか。どちらにしろ、瑣末事には違いなかった。眠りたいのならばそれでいいでは無いか。再び妹紅の隣に寝転がり、慧音は静かに目を閉じた。目が覚めても妹紅が居たらいいな。そんなことを思いながら、眠りの海に沈んでいった。
差し込む陽光に目を瞬かせながら慧音はゆっくりと覚醒した。霧が晴れつつある頭で隣を見る。妹紅は寝ていた。寝相すらも崩さず、それこそ彫像のように静かに眠っていた。その頭を一撫ですると、慧音は身支度を整え、里に下りる準備をした。
庵を出る段になって、そろそろ起こしてやろうかと思った。しかしながら、今日の作業量を考えれば帰宅は其処まで遅くはならない。ならば帰ってからでも、というのが彼女の結論だった。もう一度彼女を一瞥すると、慧音は戸をくぐった。
「早く起きろよ、妹紅」
かける言葉はこれだけで十分であった。
畦道を通ると、慧音に気付いた農作業中の村人たちが頭を下げる。一人一人手で挨拶を返しながら慧音は集落の方へと足を運んでいった。
村での作業は二通りしかない。すなわち、”する作業”か、”いる作業”かのどちらかである。前者は主に農作業。雨季には土嚢積み、冬季には雪下ろしなどの作業もこなす。後者は村の警護。村に潜り込み人間に被害を与えるような妖怪を見張っている。いるだけで威力になるので、こちらはそこまで骨の折れる作業ではない。大抵の場合、村に下りる度その両方をこなすのだが、非収穫期などの落ち着いた時期には、後者を優先して行うのである。
ただ、今日に限ってはそのどちらにも当てはまらなかった。
「邪魔するよ」
苫屋にはすでに大勢の村人が集まり、一つの布団を囲んでいた。一様に疲れた顔をしていたが、漂う雰囲気は穏やかだった。そうか上手くいったのか。自然と慧音の顔も綻んだ。
「慧音様」
一人の男が立ち上がり、深々と慧音に頭を下げた。
「産まれたんだな?」
「はい、おかげ様で。子供もあいつも問題無いです」
「何よりだ。そうか、お前も父親なんだな」
「まだ実感も沸かないですけど」
「そういうものだよ」
その夫婦は若かった。男は十七かそこら、女は十五にもなっていなかった。元々、二人は幼馴染で、小さい頃は兄妹のようでもあった。それがいつから恋仲になったのか。幼い頃から二人を知っているだけに、初めて二人の関係を聞いた時には慧音も驚いたものだった。
だからとは言わないが、二人の結婚は円滑とは言い難いものであった。俗な言い方をしてしまえば、男が女を孕ませたのである。当然、女の父親は怒り狂い、堕胎の話も挙がった。二人が慧音を頼みにしてきたのも当然の流れかもしれなかった。
慧音はまず村長に嘆願し、その後で女の父親を説き伏せに言った。ある程度落ち着いたところで、二人を呼び、その覚悟を述べさせた。ところが、引き合わせたまではいいが、父親は一貫として男の話を聞こうともしなかった。男は何度も頭を下げ、女はそれを見守っていた。それが三ヶ月ほど続いた。
女の父親がやっとのことで口を開いたのは、女の臨月が迫った頃であった。もういい、と。その一言だけであった。
「今日、義父殿は?」
「いえ……」
男の顔が曇る。
「そういうことなのでしょうか?」
「早計だ。目に見えるものだけで推し量ろうとするな」
「はい。でも……」
「少なくとも、これだけの村人は集まっている。お前と彼女と子供のために、だ」
苫屋には乳母をはじめ、男の両親、村長、それに近隣の住民が集まっていた。
「難産だったそうだな?」
「はい……」
「忘れるな。お前達は支えられて生きている。それは目に見えることもあれば、見えないこともある」
「……」
「大丈夫だ。祝福されない命なんて無いよ」
男の肩をポンと叩く。
「良い父親になれ。それが一番の恩返しだ」
「はい……ありがとうございます」
力は無いが優しい笑みだった。もう一度男の肩を叩くと、慧音は布団のほうへ向かった。
「調子はどうだ?」
「慧音様……ですか?」
「ああ、頑張ったな」
「……はい」
女の顔は疲労で包まれていた。どちらかといえば小柄なほうである。その身に掛かる負担も一入であったのであろう。
「それで、男の子か女の子か?」
「女の子です」
女は隣にいる赤ん坊を愛しそうに撫でた。
「今は静かに眠ってますけど、さっきまではずっと泣きっぱなしだったんですよ」
「疲れるもんだろう?」
「はい。でも……」
「でも?」
「幸せ……です」
「……ああ、そうだな。それが一番だ」
ほんのりと上気した赤ん坊の頬を撫でながら慧音は優しく微笑んだ。
慧音が苫屋を出る頃には、あたりには夜の帳が下りていた。二人に挨拶だけをすまして帰ろうと思っていたのだが、それだけでは済まないのが付き合いというものである。めでたい席ということもあり、小規模の宴会が開かれ、慧音も半ば強制的にそれに参加させられたのだ。
席での皆の様子を思い出しながら、慧音は少し暖かい気持ちになった。村人達はあの二人の、そして新たに生まれた命を祝福している。無論、皆が皆諸手をあげてというわけではなかったが、少なくとも頭ごなしに非難するような者は一人もいなかった。……それは娘の父親に言えるかもしれない。彼には彼の義があり、当然それを押し通す権利もある。でも、それだけの話である。慧音は覚えている。あの時、男に対して「もういい」と言い放った娘の父親の顔を。『祝福されない命なんて無いよ』。慧音が男にかけたこの言葉は、何も伊達や酔狂で口にしたわけではない。そこには確かな確信があったのである。
畦道ではやかましいぐらいに蛙が鳴いていた。少数なら風情があるかもしれないが、さすがにこの数にもなるとそう呑気に構えてもいられない。慧音は少し歩を早めた。思いのほか酒が入っているのか、踏み出した足が一瞬もつれそうになった。
慧音は床に伏せていた女の顔を思い出した。『幸せです』、そう呟く女の顔は輝いているように見えた。自分にもあのような顔が出来る日がくるのだろうか、もしくは誰かにそうさせるような日がくるのであろうか。
「幸せ、か」
誰とも無く呟いた独り言は、静かに闇に呑まれて消えていった。
庵に灯の様子はなかった。予め予想はしていたものの、実際目の当たりにすると寂しいものがあった。さすがに帰ったのであろう。遅くなったことを少し後悔しながら、慧音はほの暗い庵の中へ入っていった。
灯した明かりに庵の内部が照らされる。
妹紅はいない。そう思っていた。
「……何だって言うんだ」
妹紅は寝ていた。今朝から何一つ変わった様子もなく、相も変わらず庵の床に身を横たえていた。布団の整い方から見ても、起きたという様子は全く見られない。ずっと寝ていたのである。今朝、いや昨日からずっとだ。
「……妹紅」
呼びかける。返事は返ってこなかった。
「妹紅」
今度ははっきりと声を発する。返事は返ってこなかった。
「おい、妹紅」
焦りのせいか、語気が強まった。やはり返事は返ってこなかった。
「……っ」
妹紅に駆け寄る。履物を履いたままだが、気にしている暇はなかった。
「妹紅、妹紅!」
2、3度肩を揺するが反応は無かった。無機物のように揺れるだけであった。
「何だって……言うんだ」
先ほどと同じ言葉を零しながら、慧音は妹紅の頬に触れてみた。
違和が奔る。
とっさに妹紅の首筋に手を伸ばす。感覚を指先に総動員しながらその反応を待った。
「……」
待った。
「……」
……待った。
「……」
……ゆっくりと手を離しながら、慧音は頭を抱えた。再度確かめるように首筋に手を伸ばし、何の拍動も感じないのを確かめると今度は大きく息を吐いた。
死んでいる。妹紅は死んでいる。慧音はくしゃくしゃと頭を掻いた。ああ、原因は何だろうか?餓死?過労死?衰弱死?……何にせよ、こんな死に方は初めてだった。
死んだように眠る妹紅は、その実、眠るように死んでいたのだ。
to be continued……
無理をいう気はありませんが、できるだけ早く続きをお願いします。
村での慧音のやり取りや、前作「ある妹紅の死」とかから
様々な妄想が溢れてきてしまって眠れないっす。