Coolier - 新生・東方創想話

マリオネット

2005/08/04 09:46:00
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 頭が痛い。

 それは割れるぐらい痛くて、耳鳴りみたいにがんがんした。

 体中がだるくて、動きたくない。ずっとこのままの姿勢でいたい。

 意識が醒めてしばらくして、ようやく体を起こす気になった。目を開けると見慣れない家の天井があって、起き上がると体中がだるくて、頭の痛みはますますひどくなった。辺りを見回すと癇癪でも起こしたのか、至る所に物が散らかっている。靴を履いたままベッドに入っていたことに気が付いて、渋面を作って脱ぎ捨てる。思ったとおり、足が乗っていたところは土で汚れていた。あとで洗わなくちゃ、と思うと嘆息した。

 視界がぼやけたまま、平衡感覚もはっきりしない。そもそもここがどこかさえもはっきりとよく分からない。

 …ええと、ここはアリスの家、アリス・マーガトロイドの一軒家、それで私は…ええと、誰だっけ…頭が痛い…

 ベッドの端に座ったまま頭を抱えていると、視界の隅にワインボトルが何個も転がっていた。きっと昨日はあれを飲んでいたのだろう。確かにあれだけの量を一気に飲み干せば、頭もおかしくなるに違いない。

「…ほんと…最低……」今更のように吐き気が襲ってきて、吐きそうになる。寝室で粗相をするわけにはいかないので、なんとか洗面所に向かう。場所もろくに覚えていないけど、ここは自分の家だ。頭が覚えて無くても感覚の方はそうでもないだろう。

 よろめきながら部屋から出ると、視界の隅に動くものが見えた。

「―――――?」振り向くと、廊下の隅っこの方に、人形が一体いた。あの姿は確か、仏蘭西人形だ。

 けれども、声を掛けようとしたら人形はすぐに廊下の奥の方へと消えてしまい、ぽつんと一人取り残される。―――――何なの、本当に。

 嘆息してから、洗面所に向かってまた歩く。こんなふらついた様子はあの魔法使いには見せられないなと思った。一瞬誰のことかが本気で分からなくて、それからすぐに見知った姿が浮かび上がってくる。

 黒白の服、がさつな言葉使い、人のことを考えない無軌道な行動ぶり、それにええと、名前は霧雨魔理沙、顔は…今は思い出したくない。気持ち悪さに拍車がかかりそう。それに今あいつが家に来たら、羞恥心で向こう百年間は家の中から出られないに違いない。

 ふらふらと歩いていると、すぐにそれらしい形のドアを見つけたので入る。中はやはりというか、洗面所だった。

 …そういえば、人形達は一体どうしたのだろう?

 洗面所に来る途中まで、人形は一体も見なかった。別に家中にぎゅうぎゅう詰めになるほど作っているわけじゃないけど―――うわ、想像して気持ち悪くなってきた―――あまり広くは無いこの家で見かけたのがあの仏蘭西人形一体なのは、何かが変でないだろうか? 

 まあ、今はそれよりも顔を洗いたくて仕方がない。なんとなくべとべとしている気がするし、そのままでいるのも気持ちが悪い。顔を洗い流してさっぱりしたい。

 洗面台に取り付けてある鏡を見ると、やっぱり酷い顔をしたのがいた。鏡の中にいるのはさながら、ワインボトルをがぶ飲みしたあげく二日酔いに苦しむ馬鹿の子だ。顔なんて目の下に隈が出来ているし、まだワインが残っているのか、頬が赤くなってそれ以外の場所は青ざめている。死んでしまったか、死んで時間が経ってから生き返ったようなものだ。 

 …けれども、そこにはきちんと彼女がいた。アリス・マーガトロイド、この家の持ち主で、魔法使い。いつも人形達を操って戦う術師で、今はその人形たちに逃げられている。

 …うん、私はアリス。ぼんやりとしてなんだか不安なところはあるけれども、私はアリスだ。そう自分に何度も言い聞かせて、ようやく現実感が湧いてきた。落ち着いていない頭も、少しはマシになった気がする。

 蛇口ををぐいとひねって水を出す。地下から汲み上げた水は手に浸すととても冷たくて、思わず手を縮めたくなる。構わず両手で水をすくって、顔面に降りかけた。その作業を何回も繰り返す。

 ふと、人形達と一緒に上海人形の姿を見ていないことに気がついた。自慢じゃないけれど起きている間は殆ど連れ添って行動しているし、眠っているときにも定刻より起きるのが遅くなれば、様子を見に来るだろう。それが今朝は来なかった。ついでに付け足せば、他の人形達も来なかった。

 何か人形達の機嫌を損ねるようなことをしただろうかと、冷水を顔にかけながら考える。そういうことをした覚えは無いし、自分はいつも通りに人形達を操っていただけだ。数日前、数週間前、数ヶ月前まで遡ってみても、怪しいものは何も見つからない。そろそろ増えすぎた人形の数を調整しようかとは思っていたけれど、考えていることが伝わるわけでもないだろう。

 …ただし、記憶がまったくない昨日を除いて。

 だいぶ意識がさっぱりしてくると、適当な所で切り上げて、かけてあるタオルで顔を拭く。他におかしいところが無いか見ていると、鏡に人形が一体映った。反射的に振り向いて、驚いている人形に逃げられないうちに、両手でしっかりと掴むことに成功した。

「…仏蘭西」さっき廊下で見かけた、あの仏蘭西人形だった。目を丸くしたまま、目の前の人物を呆けたように見つめていた。

 まずは何を質問しようかと考えてから、いきなり核心部分に入ることにした。

「…どうして、さっきは私を避けたの? それに他の人形たちも見ていないの。何かあったの?」言ってから、思い出して付け足す。「その…昨日とかに」

「…あ」仏蘭西人形はそう呟くと、いきなりぶるぶると震え始めた。まるで何かの発作にでもかかったようなそれにアリスが驚くと、仏蘭西はアリスの中に怪物を見つけたような顔になった。

 それから叫び始めた。

 小さい体のどこにそんな声が入っているのか、唐突な行動に驚いたアリスの手から仏蘭西人形は身をよじって抜け出して、一も二も無くアリスから逃げ出した。

 一瞬呆気にとられていたアリスは慌てて追いかけて、仏蘭西が人形用の出入り口から外に飛び出すのを見た所で追跡を断念した。あんな様子だと暫くは全力で飛びつづけるだろうし、それを追いかけていっても、あっちは人形、こっちは人間サイズだ。障害物だらけの森の中ではすぐに見失ってしまう。

 人形が発している魔力で位置を確認できたかもしれないけれど、確かそういうのは上海人形に任せていた筈だ。そしてその上海人形は、アリスには見えないどこか遠くへと行ってしまった。

 訳がわからなかった。あれほど人形を怯えさせるようなことを私はしたのだろうか。一体私が何をしたのだというのだろうか?

「……何なのよ、ほんとに」途方に暮れた人間そのままの様子で、アリスは呟いた。

 その言葉を聞いてくれるのは、多分誰もいないだろうな、と思った。




「ねえ、あれ、聞いた?」

「うん。最近のご主人…ほんとにひどいね。お皿一枚割っただけなのに…」

「なんで、あんなことするんだろう。私たちのこと、道具にしか思ってないのかな?」

「…たぶん、道具よりもっと下だと思ってるよ。だって、あの子、はりつけにされたじゃない。夜の間ずっと」

「…うん。他の子たちも、すごく怖がってる。次は自分がああなるんじゃないかって、あの子、ほんとに可哀想。凄く痛がってたし、凄く怯えてた。露西亜人形が診たけど、もう右腕は直せないほどぐちゃぐちゃだって」

「昔は良かったよね…私たちの数はまだ少なかったけど、ご主人は優しかったらしいし」

「そうだね……あ、ご主人がこっちの方にくる」

「早く仕事に戻らなきゃ」



 魔法の森を飛びつづけている間、アリスは奇妙な感覚に悩まされていた。二日酔いとは根本的に異なるものだろうけど、そうなる原因に心当たりがまったくない。また、『昨日』が原因だろうか?

 飛翔している時、フラッシュバックするように自分の視界がほんの一瞬、全く別なものに変わっているのだった。今こうやって木々の頭上を通り抜けているのに、気づけば薄暗い穴倉のような部屋の天井を見つめている。まばたきをする間に 視界はもとに戻っている。何か魔力の干渉でも受けているのだろうかと思ったが、あたりを探ってみてもそんな気配はどこにもない。

 あそこはいったい何だろうか? どこか見覚えがあるかもしれないけれど、イメージを捕まえようとするとネズミみたいに素早く欠落という名の穴の中に潜り込んでしまう。暗くて埃がたまっていそうだということは分かるけれど、そこから先には全く進めない。

 考えても仕方のないことかもしれないけれど、どうしても考え込んでしまう。あの部屋は、それほど自分にとって大切なのだろうか? 暗くてじめじめしていてカビが生えたような物しかなさそうなあの穴倉に、そんな価値が?

「ほんとにもう、どうしたのかしらね」独り言を呟いて、首を振って考え事を追い払う。今思い出すことができないなら、それは後回しにするべきだということだ。今このときに無理やり頭の中からひねり出すべきものでもない。

 すうはあと森の空気を深呼吸して、心の中に落ち着きを取り戻す。騒ぎ出しそうな心臓の鼓動を落ち着けて、ぼやけがちな考えをまとめる。

「…とりあえずは、あいつの家にいってみないとね。考えるのは、それから」

 考えをまとめるようにまた独り言を呟くと、アリスは飛ぶスピードを速めた。



「あれ、京人形、どうしたの?」

「うん。この本だけど、ご主人の部屋で見つけたの。本当なら持ってきちゃいけないのかもしれないけど…本のタイトル、見て」

「…え。これって…なんで、ご主人が?」

「分かんない。多分資料か何かだと思うけど…それより、どう思う?」

「どう思うって…ちょっと京人形、あなた何考えてるの? 本気!?」

「…次は、あなたの番かもしれないよ」

「……!」

「私はもう、耐えられそうにない。このままだと、皆酷いことになる。ご主人は新しい人形を作ればいいけど、私達はそうじゃない」

「そんな…でも、これって…」

「皆はもう決断してる。あなたも早くしたほうがいい。今のご主人は相当怒りっぽいから、ちょっとした拍子でまた仲間が死んじゃうかもしれないよ?」

「…………」



 部屋の中に、本のページをめくる微かな音だけが響く。その部屋のそこかしこには、分厚い本や普通の人間には到底理解できない道具がうず高く積み上げられている。それらはページをめくる彼女の四方に存在し、まるで壁のような圧迫感さえ与えてきそうだった。しかし彼女は全く気にすることなく、淡々としたペースで紙をめくる。

 そのうちにひと段落したのか、栞を挟んで本をテーブルに置くと、霧雨魔理沙は椅子から立ち上がり、んっと伸びをした。ついでに身体をひねるとぼきぼきと骨が鳴って、どれくらい彼女が机の前にいたかがよく分かる。

 気付いたように大きなあくびを一つすると、茶でも淹れようと思って机上の黒帽子に手を伸ばす。

 帽子を頭の上に戻すと同時に、玄関の呼び鈴が鳴り響いた。次いでノックの音も聞こえてきて、魔理沙はだるそうに「いまいくー」と返事をしながら玄関へと歩いた。

 戸を開けると、目の前には見知った顔があった。アリス・マーガトロイド、魔理沙とは良い関係とは言えなかったが、時たま紅茶を一緒にする仲ではあった。彼女はちょっと口をもごもごとさせてから、仕方なくと言った感じでそういった。

「ええと、こんにちは、魔理沙」彼女は少しばかりおどおどとした、まるで虚勢をはっているような顔をしていた。自分ではどうにもならない問題に四苦八苦したあげくにここへ来たが、恥辱感からか魔理沙にそれを教えたくない、と言ったところだろうか。

「その、単刀直入なんだけど…うちの人形たちのこと、知らない?」少し時間をおいてから、アリスはさっきと同じく、いつもからは想像もできないような口調で聞いて来た。こんなアリスは今までに見た事がなかったし、彼女が人形を連れていないところを見るのも初めてだった。彼女が魔理沙の家にやって来る時、いつもアリスの傍には上海人形とかいったのが浮いていた。

「…どうして私が、お前の人形のことを知らなければいけないんだ? そういうのはお前の専売特許だと思うんだが」大体目の前の人形遣いがどんな答えを発するか見当がついていたが、魔理沙は敢えて聞いた。

 何故かと言えば、目の前で頭をフル回転させながら屈辱感を最低限に抑えられる都合の良い理由を考えようと苦心している少女を見るのが面白いからだ。

「…あなたの家の紅茶が美味しいから、人形達がここにきてると思ったのよ」少し時間がたって、アリスが俯いてそう言った。ここらで潮時か、と魔理沙は思い、うなだれているアリスにこう言った。

「ここで立ち話も何だから、家の中に入ってくれ。何、美味しいらしい紅茶とクッキーならすぐ出してやるさ」魔理沙の誘いにアリスはちょっとの間唸っていたが、やがて観念したのか肩を落として、分かったわ、と言った。

 アリスが中に入るのを見て、魔理沙はドアを閉めた。



「本当に、こんなことやるの? ご主人は私達を作ってくれたんだよ?」

「やらなきゃいけないの。今はまだ私達の支配権は上海、あなたにある。けど、ご主人が私達に気付いたらきっと支配権が上海からご主人に移る。そうなったら、どうしようもないよ。きっと一生こきつかわれて、最後にはばらばらにされる。作ってくれたと言っても、殺されそうになったらこっちだって抵抗する」

「でも…他の人形達は、どう思ってるの? あなただけじゃないの?」

「露西亜人形も、オルレアンも、皆賛成してるよ。もうこれ以上は耐えられないってさ。意外だと思うけど、蓬莱人形も私達のこと応援してるよ?」

「蓬莱が? でも…ご主人が一番大事にしてる人形なのに、どうして…」

「聞いたのは昨日だけど、彼女も大分酷いことされてたみたい。ご主人、嗜虐癖でもあるのかな。あの巫女とか魔法使いとかには優しいのに、私達ばっかり痛いことをする」

「京人形、皆配置についたって。準備完了。部屋の中はご主人一人だけ、ぐっすり眠ってる。簡易結界も張ったし、扉も開けてある」

「…よし、もう後戻りは出来ない。上海、こんなことにつき合わせてゴメン。けど、これはやらなきゃいけないことなの。さっきも言ったけど、そうしないと私たちはみんな死んじゃう」

「………」

「辛いとは思うけど、どうしようもないの。分かって」

「…うん…」

「それじゃ、皆。行動、開始」



 魔理沙は考えをまとめるために淹れた紅茶に口をつけて、息をついた。目の前のテーブルではアリスが所在無さそうにソファに座ったまま、手にもったカップを見つめていた。

「つまりお前は、朝起きたら人形たちが全然いなくて、仏蘭西人形を見つけたら逃げられて、あても何もないから私の家にきた、と。そういうことでいいか?」

「…うん」アリスはぐうの音も出ないのか、反論も何もせずに、ぽつりとそう言った。魔理沙の言うことが全てを語っていたし、事実を確認したことでアリスは改めてショックを受けていた。

「あー…まあ、そういうことで家にこられてもどうしようもないが…他に心当たりとか無いのか?」

「無いわ。博麗神社は場所を知らないし、紅魔館にも連れて行ったことはなし。冥界は最初から例外。そうなると、残った可能性はここか、あてもなくどこかへと消えたってことしか無いわね。で、ここが近かった」

「丁寧な根拠をどうも。それで、私の家に人形たちは隠れていそうか?」魔理沙がクッキーをぽりぽりとやりながら聞いた。

 アリスは黙って首を振った。

「…だろうな。しかし、仮にもマスターのもとを無断で離れる人形がいるもんかなあ。どうもそこらへんが疑問なんだが」

「そう、ね」アリスがぶつ切りにそう言って、いきなり言葉が途切れた。

 人形に自律機能を持たせているかどうか尋ねようと魔理沙がアリスを見ると、彼女は天井を向いて、作業みたいに何かをぶつぶつ呟いていた。

「――――アリス?」声をかけても、返事は帰ってこない。顔の前で手を振っても反応が無かった。

 顔を覗き込むと、彼女の目はどろんとしていて死人みたいに光を映していなかった。こいつはまずい、と魔理沙は直感的に判断した。アリスが何かの病気か魔術にかかっているのは間違いないが、このまま放っておけば、まず快方に向かうことは無い。

 魔法で眠らせようかと思ったが、その前にアリスが何を言っているのかが知りたくて、顔を近づける。

「――いたいいたいいたいくらいくらいくらいくらいごめんなさいごめんなさいいたいいたいいたいくらいいたたいたいたいたいたいいたいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい――」

 殆ど条件反射だった。顔どころか体を思いっきり離し、近づけた方の耳を押さえながら、魔理沙はぶつぶつと呟いたままのアリスに目を向けた。さっきの呪詛のような言葉がまだ耳の中に残っていて、思わず鳥肌が立っていたのに気づいた。

 …こいつは、本当にヤバいぞ。魔理沙はアリスに術をかけた術者がどんなものかは知らなかったが、少なくともこの術は相当なものだ、と思った。

 アリスはさっきと同じく、天井を見上げたまま呟いているだけだった。魔理沙はなるべく声を聞かないように慎重にアリスに近づくと、首筋に手をあてて、簡単な魔法を施した。

 するとアリスは脱力し、ソファの上にぐったりと横になった。―――あとは、ベッドにでも寝かせておけば大丈夫だろう。いつものアリスならこんな魔法にはかからないが、今ならば大分話は違う。あまり強いものでもないから、後でひきずることもない。

 魔理沙はアリスを寝室に連れて行き、ベッドに寝かせると脇に立てかけていた箒を持って部屋を出る。

 ―――今はあいつは寝かせといて、私が調べてやるか。あのままでもいられないだろうし、あいつが起きる前に解決できればいいんだけどな。

 魔理沙は簡単に身支度を整えると外に出た。最初に向かうのは、アリスの家だ。あいつ自身が気づいていないだけで、何か見落としているところがあるのかもしれない。ましてあの状態なら、尚更だ。

 魔理沙は箒にまたがると、木々の間をすりぬけて浮かび上がる。上空までくると、一気にスピードをあげた。



 もうやめて、と彼女は言った。

 私はその様子を、黙って見ていた。皆は彼女の言うことに全く耳を貸さなかった。むしろ、彼女の悲鳴を聞いて楽しんでいたとすら思えた。

 いつまでもいつまでも繰り返された。月が沈んでも、太陽が地平線の向こうに来ても、ずっと続いていた。

 皆が騒いでいて、私は本を差し出された。本当にあれは本だったのだろうか? 何か他の形をしたものじゃなかったのだろうカ? 

 ソれカら私は変わってかノじょトオナジニなっテミンナハドコカクライトコろへきエテキエテキエテキエテキエテキエテキエテキエテキエテキエテキエテキエテ――― 



 ―――消えて、私はどこかにいる。どこでもないようなところにいる、彼女の近く、とても近いところにいる。

 起き上がると、知らない部屋が私の目の前に広がっていた。ベッドから降りると同時に夢の中の気持ち悪さが再びせり上がってきて、今度はどうしようもなかった。知らない部屋の床に吐いた。胸の中がちぎれてねじきれたような、そんな気持ちの悪さだった。朝食をごっそりと知らない部屋の床に吐き終えたあとは、頭がひたすらに痛かった。なんだろう、今朝もこんな頭痛がした気がする。それは本当に朝だったのだろうか? 何時だったのだろうか?

 どうして私はこんなところにいるんだろう。

 どうして私は自分の家にいないんだろう。

 帰らなきゃ。家に帰って朝食を作ってご主人を起こして洗濯をしてから片づけをしてええと、とにかく帰らないといけない。

 ご主人が怒ってる。早くしないとあの子みたいに私もはりつけにされて、まるで昆虫採集の標本みたいになってしまう。

 早く。

 早く。

 早く。



「……なんだよ、これ」魔理沙は呟いて、その後は言葉を無くした。何かここを形容する言葉はあるのだろうけど、魔理沙には思い付かなかった。

 アリスの家は、戦場というべきか、廃墟というべきか、とにかく酷い有様だった。一歩玄関から中に入ると、廊下には物が散乱していた。足が一本取れた椅子、半分ぐらいの大きさに分かれていたテーブル、近くの部屋に入ると、食材みたいなものがグチャグチャに散らばっていて、食べ物の投げつけあいでもしたようだった。つんとした腐臭を嗅いで、食べ物が腐っていることはすぐに分かった。もう一つの部屋に入ると、ベッドがあったからそこは寝室だったのだろう。ただしその部屋ではタンスが倒れ、服が散らばり、隅っこにワイングラスが転がっていた。ベッドも相当グチャグチャになっていて、マットレスは刃物のようなもので傷つけられ、シーツは引き裂かれていた。

「アリス、一体どうしたんだ」それだけ言うのが精一杯だった。アリスには最近躁病の気でもあったろうか? 本当に誰かが彼女に呪いをかけたのか? 本当は、アリスは魔法使いにすら理解できないような病気にかかったんじゃないのか? 

 ―――――いや、やったのはアリスじゃなく、侵入者かもしれない。

 そう考えるのが一番分かり易かった。アリスを憎んでいるのか他に理由があるのかは知らないが、とにかくそいつはアリスに何かの呪いをかけて、魔理沙の家にアリスが向かうように仕向ける。それからアリスの家に忍び込んで、目ぼしいものか目的の物を見つけるために家中を回った。その際徹底的に調べ上げようと思い、ここまでぐちゃぐちゃにした。

 だとすれば、そいつはまだこの家にいるかもしれない。いなくても、調べているうちにそいつの痕跡を見つけ出せるかも。

 慎重に部屋という部屋を見て回ったあと、寝室の床のところに、跳ね蓋があるのを見つけた。調べてみると鍵はかかっていないようで、地下に通じる梯子がかけられていた。

 …見てみるか。

 もし自分が侵入者でこんなところにこんなものを見つければ、まず間違いなく降りるだろう。ひょっとしたら、そいつはまだ下にいるかもしれない。とっつかまえたら、まずはアリスの呪いを解かせて、それから特大の魔砲をお見舞いしてやらなければ。今回の奴はちょっと悪ふざけがすぎたから、それくらいでもまだ足りないぐらいだ。魔理沙はそう考えると、箒を脇に置いた。

 跳ね蓋を開けて、それから梯子を下り始めた。



 ひんやりとした空気を感じる。それから、徐々に何かが燃えたような匂いがしてきて、顔をしかめる。床に足をつけたあと頭上を見上げたら、酷く小さい正方形の光が差し込んでいた。

 どうやらここは、地下書庫らしかった。上に入りきらなくなった本をここに押し込めて、後で研究の足しにでもするのだろう。私の家にもこういうのを作ろうかと思って、魔理沙は少し笑った。

 地下室の天井に、ぼんやりとした明かりが幾つかぶら下がっている。その明かりは、目の前に棚が幾つか並んでいることを教えてくれていた。けれどもここも酷い有様らしくて、棚が倒れていたり、半分以上本が零れ落ちていたり、癇癪を起こした大きな子供がぐちゃぐちゃにしたようだった。紅魔館の図書館長が見たら、多分卒倒するだろう。

 奥へと進むと、一見すると実験室らしいものがあった。どうやらここが一番酷いらしい。中央に散々破損したあげくに打ち棄てたようなテーブルが所在無げに置いてあり、周囲には本や人形や、他にも魔理沙にさえよくわからないものが散乱していた。人形達の幾つかは武装しているが、それ以上に焼け焦げているという印象が強かった。他の人形達も色々の状態を示している。

 ここでようやく人形達は侵入者と一戦交える気になったとでも言うのだろうか? 状況からすればそう見えるけど、それで向こうの本棚にまで被害が及ぶのだろうかと思うと、首を傾げざるを得ない。あまり気にしないことにして、魔理沙はもう少しここを見て回ることにした。

 少し見ていると、人形の一体が本を抱いたまま倒れているのが目に入った。それほどまでに守る価値がある本だったのだろうか。ひょっとすれば、これこそが侵入者が狙っていた本なのかもしれない。 

 ぼろぼろになった人形には悪いと思いながら、魔理沙は焼け爛れた人形から本を引き剥がすと、表紙にこびりついた人形の服を剥ぎ取って、タイトルを確認した。

 『人形と生物の魂移しに関する叙述及び方法について』

 白地に何の飾り気の無い黒文字で、タイトルはそう書かれていた。余程この人形が必死になって守っていたからか、幸いなことに本には傷一つなさそうだ。

 …人形。

 魔理沙の頭に最初に浮かんだのは、ソファに座り込んだまま、意味がまるで分からないことをぶつぶつ呟いているアリスの姿だった。何を見ているわけでもなく、何に対して言うわけでもなく、彼女の奇行は独白のようにも懺悔のようにも思えた。

 ……まさか、な。

 一応その本を持っていくことにして、魔理沙はあらためて周りを調べにかかった。



 太陽の光が目に痛い。風の吹き付けてくる速度があまりに強い。平衡神経が不安定で、気を抜いたらバランスを崩してしまう。いや、今の彼女は体中のどの神経もおかしかった。

 彼女は森の上空を頼りなく、ふわふわと飛んでいた。一体自分の身に何が起こったのか、頭の中が狂ってしまったように分からなかった。その中で、『昨日』に起こったことだけは思い出していた。そもそもそれは『昨日』に起こったことなのだろうか? 『昨日』というのは何だろうか?

 分からなかった。だから彼女はそれについて考えないようにした。

 代わりに何が起こったのかを考えることにした。

 きっと皆は怖かったに違いない。大した理由も無しに、唐突に襲ってくる甚大な苦痛と恐怖。それは天災のようなもので、それを振りまいているのはご主人だった。皆はもう耐え切れなくなったのだろう。痛みや、恐ろしさ、ご主人に。

 だから皆行動した。あれは目の前の破滅を避けるための行為だった。

 途中までは成功だった。ご主人は地下に運ばれて、テーブルの上に繋がれて、皆はその様子を見て騒いでいた。騒いでいないのは、彼女とご主人だけだった。皆はオカシクなったように笑い、飛び回り、哄笑し、狂笑していた。

 それから色んなことがあった。彼女はそこについては思い出せないけれど、熱病みたいにそれは伝染していった。ご主人は服を千切られて、泣きながら何かを言っていた。皆は槍を持って、剣を持って何かしていた。その先端は赤くなっていた気がする。皆が何をしていたのか、彼女には分からなかった。

 理解できなかった。けれども、それはやがて終わった、と、思う。

 その後、彼女は何かに抜擢された。彼女に本のようなものが差し出されて、それには『人形と生物の魂移しに関する叙述及び方法について』と書かれていた。京人形が持ってきた本と同じ名前だった。過去に何回も見直されたのか、本は変色し、ぼろぼろだった。ぱらぱらとめくると、一枚か二枚ページが抜けている。

 ご主人に目を向けると、ご主人は並々ならぬ目で彼女を見つめていた。彼女は目を逸らした。逸らさざるを得なかった。あんな目をしたご主人を見ることなんてできなかった。ご主人の目は暗黒に満ちていて、黒くて底が無くてとても怖かった。それは彼女が見た中で、一番怖かった。

 その後、儀式をした。本に書かれていたことをそのままやっただけだから、人形達にもそれは出来た。どうして儀式をする必要があるのかと聞いてみたら、自分たちには誰か指揮権を持った誰かが必要だから、人形たちの中で一番ご主人に近い彼女があてられた、ということらしい。

 そして、彼女とご主人は入れ替わった。

 ご主人の体は人形とは全然違った。体の隅々にまで魔力が溢れていて、人形よりもはるかに体が大きかった。縛っていた魔力封じのロープを解いてもらうと、どれくらいご主人が魔力を持っていたかよく分かった。彼女達が成功したのは、本当に奇跡だったのだ。

 もう自分のものとなったご主人の髪の毛に触れると、丁寧にくしを入れているらしくてさらさらしていた。それがおかしくて、ちょっと笑う。自分たちはあまりくしを入れてもらったことがないから、髪の毛は自慢できるほどじゃなかった。それを言うなら、服だって何年も使い古しのを着込んでいる。靴だって同じだ。

 ご主人を見ても、ぴくりともしなかった。テーブルの上に横たわったまま、凍ったように四肢を強張らせていた。皆が面白がって触っても、反応は無い。

 きっと死んだんだよ、と誰かが言って、賛同の声があがった。いい気味だ、私たちに酷いことをするからこうなるんだ、私たちはもう自由だ。あははははははははははははははははははははははは。

 それから、新しく役割分担が決まっていった。今までよりも遥かに仕事のダイヤを緩くして、失敗をしてもはりつけにはしない。その宣言を聞くと、皆くすくすと笑った。無意識のうちに、彼女も笑っていた。

 暫くして、彼女は気分が悪くなった。何か腹の中にあるものが、ぐるぐると暴れまわっているような感じだった。…何か儀式でミスがあったのかもしれない。皆が心配したが、彼女は休んでいれば治るよと言って、上に行くために梯子をあがろうとした。

 上を見上げてから、急激に気持ち悪さは増した。さっきまでのがローギアならば、今回のはトップギアだった。流れは突如として最高速度になり、耐え切れなくなってしゃがみこむと、体が痙攣しはじめた。

 そして、体中に色んな物が流れ込んできた。ばちばちと火花をたてそうなほど、とんでもない速さでそれは流れ込んでくる。一番マシだと思えた形容は、感覚だった。自分自身の感覚ではなくて、ご主人の感覚が体中を支配しているのだと、彼女は直感した。

 遠くに見える人形達の姿が妙に目に付く。うざったらしい。キーキーと蝙蝠みたいな声をたててこっちに飛んでくる。うるさい。周りを飛び回る様はまるで蝿のようだ。うざい、邪魔、あっちいけ。私に関わらないで。どうしてこんな人形たちを作ったんだろう。私の命令なしに勝手に動いて、勝手に判断して、私が主人なのに、まるで自分たちこそが主人であるようにふるまっている。

 人形達は彼女を取り囲んでいた。露西亜人形が出てきて、震えたままの彼女の肌に、ゆっくりと手を触れた。途端、彼女の中で何かが弾けた。

 ご主人の魔力は膨大な量だった。彼女は身をもってそれを知り、それを人形達に向かって躊躇いなく放出していた。露西亜人形を始めとする先頭の何体かが吹っ飛んだ。床に落ちたとき、彼女らは燃え尽きていた。

 人形達がたじろいで、何体かがすぐさま武装した。本当に賢明だった何体かは逃げ出したが、彼女には関係なかった。無茶苦茶な勢いで魔力をぶつけ、人形達を殺戮していった。

 人形の一体が本を持って逃げ出し、彼女はその背に光弾を打ち込む。墜落する人形に目もくれず、彼女は襲い掛かってくるもの、逃げ出そうとするもの、隠れようとするもの、悉くに攻撃をしかけた。

 本当に、ご主人を捕縛できたのは、奇跡だったに違いない。

 何故そうなのか、目の前の惨憺たる光景が何もかもを物語っていた。もしもご主人と人形達が正面からぶつかっていれば、こうなったのだと。

 彼女の身体は、ある程度魔力を放出した後に残る疲労感と、倦怠感と、後はそれ以外の混乱や苦痛や焦燥感でグチャグチャに混ぜ合わさった感覚に支配されていた。床に倒れこみたくなる衝動を抑えて、部屋をぐるりと見回す。

 辛うじて部屋の中央にあるテーブルは残っていた。それ以外は、廃墟同然だった。彼女のかつての仲間達はバラバラになったり、炭化していたり、ドロドロになっていた。露西亜人形がいた。オルレアン人形もいた。倫敦人形もいた。京人形もいた。ただ皆、自分とはあまりに懸け離れすぎていた。

 彼女はふらふらと梯子のところまで戻ると、最後にもう一度部屋を振り返った。そこはかつて彼女がいたところではなかった。ただの破壊された廃墟だった。動くものは見えなかった。皆破壊されたのかもしれないし、どこかに隠れているのかもしれない。

 彼女は梯子を上り、地上まで戻った。ご主人の記憶を掘り起こすと、ご主人は怒りっぽくなったとき、いつも壜の中の液体を飲んでいた。部屋を探すと、それはすぐに見つかった。

 ご主人は壜の液体を小さな容器に移していたが、彼女にとてもそんなことをする気力は無かった。だから彼女は、ラッパ飲みでぐいと飲み干した。一本、二本、味は全く気にならない。むしろ喉の辺りを通り抜ける高熱が、今は心地よかった。

 空になったのを確認すると、放り投げる。部屋の隅っこで、何かの音を立てた。息をつくと、いきなり頭を針で刺されるような感じがした。耳鳴りがして、たまらずにうずくまる。

 数分ほどして、ようやく神経がまともに戻りかけているのが分かった。顔を上げる。

 それから、彼女は見た。

 部屋の隅に、何か居た。

 目を擦っても、それが何か判別できない。彼女は光弾を撃った。

 直撃しても、それはみじろぎすらしなかった。そのかわり動きもしない。何もせず、ただ彼女を見ていた。

 彼女が近づくと、視界の隅に動くものが映った。振り向き様に攻撃を加える。それらしいものは何も見えない。

 わけがわからなかった。彼女は混乱し、再び部屋の隅に目をやる。すると、そこには何もいなかった。

 天井に気配を感じて上を見上げようとすると、また部屋の隅に見えた。それから、視界の隅っこをまた横切る。

 彼女は弾を撃った。撃って撃って撃ちまくった。

 だけどそれらは消えなかった。むしろ増殖していく一方だった。

 撃つ。増える。撃つ。増える。撃つ。増える。撃つ。増える。増える。増える増える増える増える増える増える増える増える増える増える増える増える増える増える増える増える増える増える増える増える増える。

 それらは小さかった。そして一様に何かを持っていた。それらの形を、彼女は良く見知っていた、と思う。

 そしてそれらは、彼女が破壊した。いや、筈だった、と彼女は思った。本当はただの一体も破壊されてはおらずに、皆ここに潜んでいたのだと。

 彼女は撃った。そして彼女達は増えていった。

 彼女の心を侵食するように。

 彼女の精神を嘲笑うように。

 彼女を狂わせるように。

 そして彼女は狂った。



「上海…人形?」魔理沙が滅茶苦茶になっていたテーブルの上で見つけたものは、倒れていた上海人形だった。いつもアリスの傍で彼女のサポートをしていた、あの人形。持ち上げると、人形自体に大した怪我や綻びは見られない。しかし人形は動かなかった。

 ここの人形達と同じ、侵入者にやられたのだろうか? 

 そう考えると、脇に挟んでいた本のタイトルが見えた。

『人形と生物の魂移しに関する叙述及び方法について』

「……まさか」

 思い至る。アリス、惨事の只中にあった本、上海人形。

 アリスの様子はおかしかった。彼女は何度も痛い痛い暗いと繰り返し、何かの呪いにかかったようだった。確かにここの環境は暗いと言えば暗いし、何かこの人形が痛がるようなことにあったと聞けば、なんとなくだけど納得もできる。

 それから、ここでこの本を発見した。内容は、人形と生物の魂を入れ替える方法というものだった。既に動かない人形が本を大事に抱えていた。何かに使ったのか、それとも使い終えたそれを守ろうとしたのか。

 そしてここには上海人形がある。この人形は、まるで魂が抜けたでもしたように動かない。

 ……入れ替わる。

 アリスと上海人形が、入れ替わった?

 だとしたら、それは一体何故。理由は、アリスの家で何があったというのか――――――

 どん、と腹部に衝撃が走った。気付かないうちに、膝から力が抜ける。床に頭をぶつけて、黒帽子が落ちる。じくじくする腹に手を当てると、綺麗に円形の穴が開いていた。すぐ先に、何か臓物のように見えるものが飛び散っている。

「……うえ」内臓については何回か書物で見たことはあったけど、実際に見てみて、やっぱり気持ち悪いな、と思った。

 気付くと、自分は床に倒れている。何が起こったか、考えようとするが頭が働かない。ゆっくりと頭を動かすと、梯子の方に見えた。

 アリスだった。彼女は幽霊みたいな足取りでふらふらとこっちに来る。けれども、彼女はおかしかった。今までの様子と比べて、明らかにアリスはおかしかった。

 アリスの目は、人形のように光を写していない。傍目には白目のまま目を見開いているようにも見える。それから、彼女に同化しているのか、まるで混ざっているようにおかしなものが見えた。

 アリスの中には、何か小さいものが居た。魔理沙が知っている限りでは、丁度いい大きさに例えられるのは、人形だった。何かはまるで痙攣のように震えて、アリスの中から抜け出そうとしているみたいだった。あのままでは、近いうちに完全に剥離してしまうだろう。

 そっか、と思った。自分の仮説は正しくて、アリスは人形と入れ替わってしまっているのだ。だから彼女の中に人形の魂が入っているのだろう。そして上海人形の中には、アリスの魂がある。

 いや違う。あの様子から見ると、上海人形の中にアリスの魂は無い。多分器の違いに適応できずに、体外に押し出されてしまったのだろう。その後は、外の環境に適応できずに消滅したに違いない。

 アリスはもう、死んだも同義だった。けれども涙は湧いてこなかった。涙だけでなく、色々な感情も湧いてこなかった。見ているものや感じているものが夢であって現実でないような、そんなふわふわした感覚だった。

 それより、と魔理沙の思考は近づいてくる上海人形に移った。彼女は今しがた光弾を発射した手を押さえて、その部分が千切れたような苦悶の顔をしている。

 どうして彼女の魂は剥離しかけているのだろう? 

 動くのをやめそうになる頭をなんとか働かせて、考える。一秒か二秒ぐらいのことが、無限に長い。時間がたっぷりあるように思えたけれど、多分そうこうしているうちに死んでしまうのだろう。

 おそらく――――器に問題は無さそうだから、おそらく儀式の際に――――何か不手際があったに違いない。例えば―――――正規の手順を踏まなかったとか―――――使用される魔力の量に人形では追いつかなかったとか。それらが――――合わさって、成功しかけていた儀式の効果を――――修復できないほど――――歪にしたとしたら―――――?

 ごふ、と血を吐いた。床が汚れて、服に血が少しかかった。こんな汚れ、きっと洗濯するのが大変だろう。それにしても――――眠い。ほんの少しだけ、一眠りしたい。あと―――寒い。

 上海人形は、今や繋いでいる糸がちぎれかけた操り人形に見えた。手と足の動きをちぐはぐにして、やっとと言った様子でこっちにやってくる。ひょっとして彼女は、目の前にある物が何か、もう識別できないんじゃないだろうか? だからこそ、私が誰か分かることもなかったんじゃないか? 霧雨魔理沙でなく、例えば悪魔だとか、怪物だとか、人形だとか、他の何かと勘違いしてしまうほど、彼女の知覚はおかしくなっているのだろうか? 

 彼女はふらふらと魔理沙の横を通り過ぎようとして、魔理沙の足に自分の足をひっかけた。バランスをとれないままに床に倒れて、鈍く嫌な音が響いた。

 首を巡らすと、上海人形は起き上がろうと四苦八苦していた。手と足を懸命に動かして、けれどもあまりにアンバランスな動きをしていた。見ていて思わず吹き出しそうになったくらいだった。

 唐突に上海人形が動きを止めた。

 彼女は天井の一点を凝視していた。魔理沙はそれに気付いたが、もう頭を動かすこともできなかった。血が流れすぎていたし、生きていくためになくてはならないものは遥か遠くに吹っ飛んでしまっている。

 上海人形は、床上で転がるようにもがきはじめた。思い通りにならない身体を無茶苦茶に動かして、身体に張り付いたものを剥ぎ取ろうとしている風にも見える。

 魔理沙の視界は薄ぼけて、白黒になっていた。黒い点に近いものが目の中を泳ぎまわって、脳がまともに捉えられるのは、ごく僅かだった。

 その中で、魔理沙は見た。

 上海人形は、床の上をのた打ち回り痙攣していた。その彼女の中から、何か小さいものが出てこようとしている。魂が完全に剥離しようとしているのだろう。その様子は見ていて、何か背徳めいた気持ちの悪さを覚えるものだった。

 彼女の身体は、ぎちぎちと音を立てて分離しかけていた。副作用なのか術式の失敗に伴うものなのか、見当もつかない。しかし、このままでは上海人形の身体はバラバラになるに違いない。

 上海人形は声もあげなかった。多分声帯はとっくに用を為さなくなっているのだろう。

 声も立てず、無音の中でのたうち回るもの。まるで自壊寸前のマリオネットのようだ。操り糸も千切れ飛び、残った手段はただ痙攣するだけ。

 きっと、アリスも人形に操られていたようなものだったんだろう。魔理沙は最後に、そう思った。次の言葉を考えようとした瞬間、一気に視界がブラックアウトした。

 それから魔理沙の意識は、どこか暗いところに放り出された。 



 長い間、彼女は痙攣し続けた。地下室には腐臭と焼け焦げたような匂いが残ったままで、誰も来なかった。

 やがて身体が崩壊するころ、森の中に潜んでいた一体の人形が妖怪に捕食された。

 やがて魂が崩れ落ちるころ、彼女の傍にあった死体に蛆が湧き始めた。

 やがて糸は一本残らず完全に切れて、残ったのは潰れたマリオネットと腐り果てた死体だけだった。
前作の東方紅魔凶に引き続き、ダークに再び手を出してみました。というか、読み返してみたら魔理沙とかアリスとか大変なことになっていますね(汗

楽しめなかった方にはごめんなさいと一言、楽しめた方にはありがとうの一言を贈ります。
ではでは。
復路鵜
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コメント



0.1320簡易評価
4.20床間たろひ削除
うーん、黒い。
ダークな話はたとえ東方だろうと嫌いじゃないが……
反感買っちゃうんだろうなぁ
特にこの話は救いが1ペソもないし……

後半ちょっとブツ切りっぽい文章が多くてカタルシスが足りないかも。

偉そうな事言って申し訳ありませんでした。
6.30名前が消える程度の能力削除
ダークとかはよいけれど。
盛り上がりも無いし、一本調子な感じ。
7.40ABYSS削除
よどんだ空気をそのまま吸わされた感じですね。
いや別にいいんですが。
んー、なんか淡々としすぎかもしれませんね、いや私も人のことは言えませんけれども…。まぁ、それで味が出ているのもあるので一長一短ですか。
えらそうにすいません。
8.80fuji削除
ダークだがそおいうのがあんまりないんで逆によかった。
9.80もぬ削除
久しぶりに救いのない話でよかった。
ぽつぽつと語られるホラーはいいものですな。
16.無評価復路鵜削除
まさかここまでレスがついてくれるとはと思わずに色々と驚いていますが、とにかくレスを返すこととします。

>もぬさん
ホラーにしろらぶこめにしろ、てってーてきにやるのが一番ですからね。あまり中途半端だとアレですし。
楽しめていただけたようで幸いです。

>fujiさん
ふふふ、そおういうのがあまりありませんよ。でもちょっと淡々すぎたかも…

>ABYSSさん
いえいえ、こちらこそ意見を貰えて万々歳です。むしろちょっと足りないぐらいで(ぇー
うーん、淡々としすぎましたか。確かに魔理沙と絡むシーンはもうちょっと情感を込めても良かったかもしれませんね。
ご意見ありがとうございます。

>名前が消える程度の能力さん
むう、盛り上がりが無い意味では淡々としているのと殆ど同義でしょうか。難しい所。

>床間たろひさん
まあ、ある意味ダークは作品の主旨に反逆してますし、反感を受けるのは仕方が無いものがあるでしょうね。
カタルシスなものは、もう少し緩急を付ければ良い物でしょうか。ブツ切りするのもアレですし…
意見は貰えれば貰えるだけありがたいものです。隙があったらどんどんぶっつけて下さいな。

それでは。
26.無評価名前が無い程度の能力削除
なんか…読み返してもよく解らなかった。人形が粗相すると、アリスがすぐに虐待をするから人形にしてしまおうという解釈でいいのかな?
読解力が足りなくてすんません
27.無評価復路鵜削除
>名前が無い程度の能力さん
んー、えとですね。
人形が粗相をする→あんたたちなにやってんのーと、アリスさん激怒。→ばいおれんすな行為→こんなことやってられるかと、人形達反乱→でも形式だけでもご主人いないとアレだし、代わりは上海人形務めてねー
みたいな感じですね。身体が入れ替わるのは丁度京人形さんが本を持ってきたからですので、最初から計画に入れておいたわけではないのですよ。
読解力云々は分かりやすく書けなかった作者の責任ということで申し訳ありません……
44.60名前が無い程度の能力削除
個人的な好みを入れずに言わせてもらえば、淡々とした描写で話を引き立てるのが上手だな、と。逆に言えばそれが山がないことにつながってしまうのでしょうが…

個人的にはあまりこーゆーの耐性無いので、その淡々とした語り口でヤマとか全くない日常系の話を読んでみたいと思いました。