※この作品には以下の要素を含みます。
※・未来話(都合上、萃夢想は無かった事にされています)
※・オリジナルキャラ(その内の一人をあえて萃香と名乗らせていますが、萃夢想の彼女とは一切関係ありません。いい名前が思いつかn)
※・東方キャラの直接的な死の描写
※これらの内容に不快感を感じられる方はすみやかに戻られる事を推奨します。特に霊夢ファンの人。
※
※なお、この月ノ涙~紅花~の舞台は、前回の~野春菊~より120年ほど時を遡った時代であり「月ノ涙-魔理沙編-」の第一話になります。
それはあったかもしれないほんの少し未来の出来事
それはあったかもしれないほんの少し過去の出来事
そう呟いたのは誰だっただろうか
それを夢見たのは誰だっただろうか
∽
──どうしてこんな事になってしまったんだろうか──
山の木々の間を飛び回りながらそんな事を思った。
「いたぞ!こっちだ!」
右手から聞こえてきたそんな男の声に、霊夢は思考を中断させられた。
「失礼ね、人を化け物みたいに!」
懐から取り出したお札に力を込めて、それを放つ。
霊夢の手を離れたお札は、一見すると相手とは全く見当違いの方向へと飛んでいったのだが、ある程度進んだところで急激にその方向を変えると一気に男の方へと向かっていく。
「博麗アミュレット、あんたらの弾幕とは一味違うわよ」
放たれたお札が自分の方に飛ばされたのではないと思っていた男は、いきなり軌道を変えて横から飛んできたそれをよける事も敵わず、ばちぃ!という音と共に白目をむいてその場に倒れた。
「暫く寝てなさい」
男が倒れた事を確認してそう言い放った霊夢だったが、背後からタタタタタ、という軽快な音が鳴り響くとすぐに身を翻し、また木々の間を飛んでいく。
「ちょっ、それは反則だって言ってるでしょ!」
男たちの持っている、黒い直方体から筒が伸び、それに取っ手が付いたような物体から放たれる弾は今まで見たどんな弾幕よりも速く、それは発射音を聞いてから避けていたのでは到底間に合わない代物だった。
だから先程から木々を盾に逃げるように飛び回っているのだが、如何せん相手の数が多すぎた。
あちこちの茂みから姿を現しては、同じような道具を用いて霊夢へと音速の弾幕を放ってくる。その弾は木々の枝葉を散らしながら、どれもが真っ直ぐ霊夢へと迫ってきた。
「外の人間は随分と情緒のない弾幕を好むのね」
思わずそう呟いてしまったが、果たしてあれは弾幕と呼べるのだろうか?
そうして木々の間を飛び回り、一人、また一人と気絶させていく霊夢の耳にどこからか男の叫ぶ声が聞こえてきた。
「くそっ!この魔女が!」
「だから私は人間だってば」
遥か後方で戦闘を繰り広げている二人ならともかく、自分までそんなふうに言われるとは酷く心外だ。
「まったく、どうしてこんな事になったのかしら」
∽
それは昨日の事だった。
その日も空は晴れ渡り、霊夢はいつも通り縁側でお茶をすすっていた。
どこからか聞こえてくる鳥のさえずりと木々のざわめきに耳を傾けつつ、はぁ~~っと大きく息を吐いた。
「やっぱり、一日ってのはこうでないと」
そう言って昨日の宴会を思い出す。
皆で集まって騒ぐのは嫌いではないが、その会場にいつもこの神社が選ばれるのはなんとも遺憾だった。
以前、レミリアと幽々子にあんたたちの家の方が広いんだからそっちでやりなさいよ、と言ってみた事があったのだが、二人は口を揃えて
「あなたはわざわざ私の家にまで来たいの?」
と言ってきたのだった。
確かに生きている人間が好き好んで悪魔の館や冥界にまで足を運ぼうとは思わないだろう。
よくよく考えてみれば、魔理沙とアリスは誰も寄り付かないような魔法の森の中。
そして唯一まともな場所とも言えるであろう永遠亭はその立地条件と反比例するかのように住人たちに問題がありすぎるろくでもない場所だった。
以前に一度永遠亭で宴会をやらせろと魔理沙と乗り込んだ事があったが、途中で妹紅の乱入にあい、辺り一面が火の海と化してしまった。
輝夜と妹紅、お互い死なないから手加減というものを知らないのだ。とばっちりを受けるこちらの身にもなってほしい。
その時は慧音がその辺り一帯の歴史を食ってしまったので、結果として永遠亭も周りの竹林もなんの被害もなかったのだが。
思えば幻想郷にはまともな場所というものが無いのではないのか。
もっとも、そこらじゅうに妖怪が跋扈するこの幻想郷において人間が安全に暮らせる場所などは元から無いに等しい。
だからこそ人々はその身を寄せ合って村を作り、町を作るのだろう。
力無き者は生きてはいけない。それが幻想郷なのだ。
「あの月兎は今日も逞しく生きているのかしら」
遠い空の下にあるろくでもない場所で、今日もろくでもない連中にろくでもない事をさせられているのだろうと勝手に決めつけて、どんなろくでもない事をさせられているのだろうか、とろくでもない場所に想いを馳せていると、境内の方から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「母様ー、母様ー、お客様ですよー」
表の掃除をしていた娘の萃香が箒を片手にこちらへと歩いてくるのが見えた。
その後ろから、それは邪魔じゃないのか?と思えるほどにわさわさと尻尾を揺らす狐が一匹。
客というのがこの狐だというのなら、特に何かを出してやる必要もないか、と立ち上がりかけた腰をもう一度下ろして相手が用件を言う前に声をかける。
「紫じゃなくてあなたが来るなんて珍しいじゃない」
だが、目の前の狐は真剣な表情で霊夢を見つめたまま、口を開こうとはしない。
「まぁいいけど。それより紫に言っておいてよ。たまに誘った宴会にくらい顔を出しなさいって」
それでも身動ぎひとつせずに立ったままの狐に、霊夢の顔が次第に険しくなっていった。
傍らでその様子を見ていた萃香は、不穏な空気を察したのかそそくさと箒を持って境内へと戻っていった。
生まれてからもう十四年、母が怒るとそれは恐ろしいことを娘は知っていた。
「あなた、何か用事があるから来たんじゃないの?」
少し語気を荒げ、睨むように目の前の狐に問い詰めると、意を決したというふうにひとつ頷いて狐はその口を開いた。
「博麗霊夢」
「なによ」
「────手を借してほしい」
∽
──どうしてこんな事になってしまったんだろうか──
山の木々の間を駆け巡りながらそんな事を思った。
「そっちに行ったぞ!」
背後から聞こえてくる男の声に、藍は思考を中断させられた。
「失礼だな、人を獣みたいに!」
そう言って木の幹を蹴り大きく跳躍。一気に男の頭上を越え、背後に回り込むように着地するとその首筋に手刀を一発。
小さく呻き声を上げて倒れていく男を見ていると、横の茂みから別の男が姿を現す。
「そこまでだ!」
男が手に持っていた黒い道具の先端をこちらに向けたが、その道具が使われる事はなかった。
一瞬びくり、と体を震わせると、その格好のまま男は前のめりに倒れていく。
「藍さま、大丈夫ですか?」
いつの間にか男の背後に立っていた橙がそう問いかけてきた。
倒れた男を見てみたが、白目をむいて泡を吹いている。橙もちゃんと手加減が出来ているようだ。
「私は別になんともないわよ。それより橙こそ気をつけなさい。あの銃という物、紫様から伝え聞いていたものよりよほど厄介だわ」
そう言い聞かせてまた二手に分かれる。
霊夢は飛び回っていたが、このような木々が生い茂る中での戦闘となれば下手に飛び回るよりそれらを利用して駆け回った方が効率的な動きが出来る。
木の幹を、枝を足場に跳ねるように駆け回りながら一人、また一人と男たちを気絶させていく。
どこかの吸血鬼にはまだまだ敵わないだろうが、体術ならばそこそこの自身はある。少なくとも今自分たちの周りを取り囲むように茂みに潜んでいる人間たちに比べればそれこそ天と地の差だろう。
橙の方も多少危なっかしくはあるが、素早さだけなら自分よりも上なので間違っても銃の標的になる事はないと思われた。
そもそもこんな数の人間たちを殺さないように撃退するなどという事は無理がありすぎるのだ。
「紫様まであのような事を言うとは………」
その時、また一人茂みの中に人間を見つけ、一気にその背後へと降り立つ。
「くそっ、この狐が!」
突如として背後に現れた藍に男は慌てて銃口を向けようとしたが、藍から見ればそのスピードはあまりにも遅すぎた。
「畜生どもと一緒にするな、私は紫様の式神だ」
また一人、男が倒れていく。
「まったく、どうしてこんな事になったのか」
∽
「────手を借してほしい」
「え?」
全く見当違いの応えが返ってきた、とでもいうようにぽかんとこちらを見つめる霊夢がいた。
それはそうだ、と思う。自分だって出来ることならばこんな人間に手を借りるような真似はしたくなかった。
だが、紫様に言われたのでは断る訳にもいかず、いざ訪れてみればその相手はこちらの用件を聞こうともせず勝手に喋り出し、勝手に怒り出した。
そして用件を言ってみればこの顔だ。
理不尽とは正にこの人間のような事を言うのだろう。
もっとも、理不尽という点では普段の紫様も相当である事もまた間違いない。
「詳しい事は紫様に聞いてほしい。とりあえず来てくれ」
こちらの意思が伝わったのか、霊夢はぽかんと開けていた口を閉じてじっと探るように見つめてきた。
「真面目な話?」
「大真面目な話だ」
それを聞いた霊夢はやれやれまたか、とでもいうように大きく息を吐くと、持っていた湯飲みを置いて庭先へと降りた。
暫くよっ、ほっ、と体をほぐしていたが、それも終わったのか、用意してくるから少し待ってなさい、と言い残して家の裏手へと回っていった。
建物の影に消えていく霊夢を見送っていると、ふと背後から視線を感じた。
振り向いてみるとそこには先程ここまで案内してくれた娘がこちらを見ていた。最初に境内で会った時にすぐ解ったのだが、この娘が霊夢の娘、萃香なのだろう。
事ある毎に紫様からそれはもう自分の子供のように語る自慢話を聞かされていたので初めて会った気がしない。
最初は警戒していた萃香だったが、自分が紫様の使いである事を伝えると、すぐに警戒を解いて、
「あぁ、あなたが………」
と何故か哀れむような視線でこちらを見てきた。
一体紫様は普段この娘に私の事をなんと言い聞かせていたのだろうか。
そんな事を考えていると、用意を終えたのかぱたぱたと霊夢が戻ってきた。
「お待たせ。あぁ萃香、ちょっと紫の所まで行ってくるわ。留守番お願いね」
「はい、母様」
萃香の頭を乱暴な手つきで撫でている霊夢を見て、ふと昔を思い出した。
初めて紫様と出会った時、死を目前に控え、ただただ弱っていくだけの私を紫様は優しく抱き上げるとそっと頭を撫でてくれた。
「いいわね………貴方。そう、私の式になりなさい」
今でも忘れないあの時のあの言葉、あの温もり。
私はずっとこの人についていこうと心に決めた。
そんな遠い過去に想いを馳せていると、突然どん、と背中を叩かれて私はハっと我に返った。
横を見ると、霊夢が横から覗き込むような形でこちらを見ていた。
「ちょっと、しっかりしてよ。真面目な話なんでしょ」
その言葉に自分に課せられた使命を思い出した私は大きく頷くと、一歩、前へと踏み出した。
「大真面目な話だ」
∽
──どうしてこんな事になってしまったんだろうか──
次々と穴の開けられていく博麗大結界を開けられた先から引きなおしながらそんな事を思った。
「科学力というのも案外侮れないものね」
長い刻を生きてきたが、、博麗大結界クラスの結界をこうも連続して引いていくなどというのは前代未聞の出来事だった。
結界の外側、幻想郷から少し外の世界へと出た所で霊夢たちが戦っている。
相手は外の世界の人間たち。
以前から不穏な動きを見せていた外の世界だったが、まさか本当に幻想郷に手を出してくる者がいようなどとは思いもしなかった。
幻想郷の者たちが使うような古い力を忘れてしまった外の世界の人々は科学を生活の糧としている。
だがしかし、その科学はこの大地の、そして星の資源、エネルギーを異常ともいえるスピードで食い尽くしていく言わば諸刃の剣だった。
自分たちの土地のエネルギーを食い尽くした人間たちは、次にその矛先を幻想郷へと向けたのだ。
外の世界ではとうの昔に忘れ去られたはずの幻想郷の存在を一体誰が知っていたのか、それは紫にもわからなかった。
ただひとつだけ確かな事があるとすれば、それは自分が今まで見てきたこの愛しい世界が終わらされようとしているという事。
なんとか事が起こる前に霊夢を呼び寄せ、ある程度の対策を講じる事が出来たが、それでもこちらが不利な状況は変わらない。
紫自身もそこまで外の世界に詳しいという訳ではない。
今この時にも博麗大結界を破ろうとしている力の正体がなんなのか、それが掴めずにいた。
紫も自分の力がどの程度のものなのかは解っている。それなのにその自分と拮抗するこの力は一体誰が放っているものなのか。
もしこれが紫の想像通りに科学というものなのであれば、果たしてあの三人は無事でいてくれるのだろうか。
戦闘に出る前にある程度自分が知っている知識を教えておいたが、あまりにも予想外の事が起きすぎている。
「藍、橙、………霊夢、どうか無事でいて」
本当ならば霊夢を巻き込みたくはなかった。
できる事ならば自分たちだけで解決したかったのだが、自分が前線に出ることができない今、頼れるのは霊夢しかいなかった。
霊夢には本当に悪いと思っているが、彼女も博麗の者。ある程度の覚悟はあっただろう。
「ふぅ、流石に疲れるわね」
流れる汗を拭こうともせず、ただひたすらに穴の開けられていく結界を引きなおしていく。
穴が開けられていくと言うよりも、これは結界が溶かされているとでも言うのだろうか。
「まったく、どうしてこんな事になってしまったのかしらね」
∽
「紫様、霊夢を連れてきました」
そう言いながら藍が襖を開ける。
部屋の奥には紫が、そして向かい合うようにして橙が座っていた。
紫は藍に続いて部屋に入ってきた霊夢を確認すると、片手を上げてよく来たわね、と挨拶をしたが、霊夢はそれをあっさりと無視した。
そのまま部屋の中央にまで歩いていくと、座っていた橙が横へと腰を移し、そこへ腰を下ろす。
そして霊夢を挟んだ逆側に藍が座り、三人と紫が対面する形になった。
「藍~、霊夢が無視するの~」
「知りません」
よよよ、とわざとらしく泣き崩れる紫に藍は溜息まじりにそっけなく返事をした。
橙は笑っていたが、霊夢はと言えばわずかに眉をひそめ、こいつらは………といった表情だった。
その後、紫は何故かどうでもいい世間話をし始めたかと思えば娘は元気かなどと矢継ぎ早に話しを振ってきた。
いつまでたっても本題を切り出そうとしない事に業を煮やした霊夢がはっきりと不快感を表しながら問い詰める。
「それで、何があったのよ。わざわざ世間話をするために呼び出したんじゃないでしょ」
その言葉に一瞬動きを止めると紫はいそいそと座り直し、霊夢が、そして付き合いの長い藍でさえも見た事のないような真剣な眼差しを霊夢に向けた。
紫がこんな表情をするほどの事情とは、一体何なのか。
「霊夢、よく聞いてほしいの」
「………なによ」
いつもの調子で聞き返したつもりだったが、その声が僅かに震えているのが自分でもはっきりと感じられた。
その両隣では、同じく初めて見る紫の真剣な眼差しにごくりとつばを飲む藍と橙がいた。
「霊夢、私………」
一体その口からは次にどんな言葉が発せられるのか。果たしてそれは自分の手に負えるような代物なのか。一瞬の内に様々な考えが頭の中を駆け巡っていく。
「私、デキちゃ────」
その刹那、座っていたはずの霊夢はいつの間にか紫の懐に潜り込み、ピンと張ったお札を喉元に突きつけていた。
「や、やぁねぇ。冗談よ、冗談」
無表情でお札を突きつけてくる霊夢を見て、流石の紫も背中に冷たい汗が流れた。
「いい加減にしないと怒るわよ?」
「解ったから、そのお札をしまって頂戴」
あまり解ってなさそうなその返事に暫く紫を見下ろすように睨んでいたが、お札を懐にしまうと元の場所へ戻ろうと歩いていく。
「藍~、霊夢がいじめるの~」
またしてもよよよ、と泣き崩れる紫だったが、霊夢にもの凄い勢いで睨まれてしまい、こほん、とひとつ咳をして居住まいを正した。
「実際のところを言うとね、ちょっと前から外の世界が騒がしいのよ」
今度は何を言い出すのかと睨むように紫を見ていた霊夢だったが、その以外な言葉に肩をすかされたようにきょとんとしてしまった。
「外って………そんなの知らないわよ。勝手にやらせておけばいいんじゃないの?」
幻想郷の中にありながら果てしなく外の世界に近い場所、博麗神社で生まれ育ってきた霊夢だったが、今までにも外の世界に関わろうとする事は一切なかった。
外に迷惑がかからない程度にはしていたが、外の世界のために何かをした事など今までに一度もない。
だから霊夢のその反応は当然といえば当然だっただろう。
「今回ばかりはそうもいかないのよね。なんせこの幻想郷を乗っ取ろうっていうのだから」
両隣で腕を組んでうんうんと頷く藍と橙だったが、霊夢は一人固まっていた。
「ちょっと待ってよ。なんで今になって外の人間が」
当然の疑問を口にする霊夢だったが、紫が言うにはこういう事だった。
外の世界の人間たちは日々の生活から争いまで、全ての事に科学というものを利用しているらしい。
そしてその科学というものは大地のエネルギーを大量に消費するらしい。
自分たちの土地のエネルギーを使い果たした人間たちがその手を幻想郷にまで伸ばしてきた、という事らしい。
「でも幻想郷の事なんてもうすっかり忘れられているとばっかり思っていたけど」
「外の世界ではね、ご丁寧に自分たちの行ってきた事を記録として残しているのよ。そのどこかに幻想郷に関する記述があったんでしょうね」
紫の応えを聞いても、霊夢はなおも考え込んでいた。
「仮にそうだとしても、外の人間たちには博麗大結界を越えてくるなんて無理でしょ。それこそ紫が穴でも開けない限り」
今度は霊夢の言葉に納得したのか、両隣で藍と橙がうんうんと頷いていた。
というより、さっきからずっとうんうんと首をふっている。
本当にこの二人(二匹?)は会話の内容が解っているのだろうか?
「まぁそこが外の人間たちの持つ科学力というものの恐ろしいところよね」
自分の言った言葉に自身で納得しているのか、紫までもがうんうんと頷いている。
そして両隣の二匹(二人?)もうんうんと首をふっていた。
やっぱりこいつら解ってねぇ。
「はぁ、もういいわ。それで、結局私に何をしろっていうのよ」
霊夢はもう諦めたというふうに大きな溜息をついた。
確かに藍の言うとおり大真面目な話だったのだが、すっかり変な空気に汚染されてしまったその場はとても大真面目な話をしている雰囲気ではなかった。
∽
──どうしてこんな事になってしまったんだろうか──
茂みの中に身を潜めながら、そんな事を思った。
「いたぞ!こっちだ!」
山の上手の方から聞こえてきたそんな仲間の声に、男は思考を中断させられた。
「ちっ、行くしかないか」
一人ごちて、茂みの中を移動していく。
敵はたかが三人、三人だけなのだ。数だけでいえばこちらの方が圧倒的に有利なはずだった。
それが今のこの状況はどうだ。
猫と狐が人に化けたような化け物が縦横無尽に山の中を駆け巡り、そして空中を飛び回り奇怪な術を使ってくる女はその服装こそ違うものの、正に御伽話に出てくる魔女そのものではないか。
そんな事を考えている間にも、すぐ上手からばちぃ!という音が聞こえてその時に生じた閃光に一瞬目を眩ませる。
「今度は誰がやられたよ」
音からしてもうすぐそこなのだろう。
ならば敵ももうすぐそこだという事だ。
その時、目の前を横切るように紅白の巫女装束に身を包んだ女が飛んでいくのが見えた。
「くそっ!この魔女が!」
茂みの中に身を潜めたままそう叫び銃口を女へと向ける。
「だから私は人間だってば」
そんな声が聞こえてきた気がしたが、気に留めることもなく引き金を引いた。
「ちくしょう、どうしてこんな事になっちまったんだ」
∽
「幻想郷、ですか」
「そう、幻想郷だよ」
聞きなれない単語に思わず反応してしまった男を、彼の上官なのだろうか、装飾の多い軍服に身を包んだやや年配の男が立派に蓄えた顎鬚を撫でながら応えた。
しかし今し方説明された事を思い返してみても、いまいち要領が掴めずにいた。
「それで、その幻想郷とは一体どのような所なのでしょうか?」
「一言で言えば………お伽の国だな」
「お伽の国?」
上官の男が言うにはこういう事だった。
今、この星はエネルギーとなる資源が不足している。足りなくなったのは昔からそれらを貪る様に採取してきた自分たちの所為だったのだが。
結局人は石油やガスに代わる絶対的なエネルギーを人工的に作り出す事に未だ成功していなかったのだ。
そして早くから外国にエネルギーの補給を頼っていたこの国は今経済的に大打撃を受けている真っ最中であった。
そこで掲げ上げられたのが幻想郷への進行プロジェクト。
太古の文献に記録されていた幻想郷の存在は、今でも政府の中でもごくごく一部の人間たちによって認められていた。
その後文献の記述や、実際に幻想郷を見たという者からの証言により、どうも幻想郷にはこちらの世界では既に失われてしまった物が未だ存在する場所であるのではないかと推測された。
その事を知った政府内のごく一部の人間たちは己の地位と名誉の為に、密かにプロジェクトを推し進めていた。
確かにこれで油田のひとつでも見つけられようものなら、一生どころか末代までその生活は約束されたも同然だろう。
「しかし、こんな事が諸国にバレたら大変な事になりますね」
「だから我々が出るのだよ」
∽
タァ────────ン!
「なっ!?」
一発の銃声が響くと同時に、霊夢の体が揺れた。
空中でバランスを失い、夏も近づきその枝一杯に緑の葉を付けた枝葉を撒き散らしながら激しく地面へと叩きつけられた。
それでもすぐに木の幹に手を付きなんとか起き上がる霊夢だったが、その右肩からはとめどめなく血が流れ出し、紅白衣装の右半身を赤一色へと染めていく。
「つっ………なんなのよ、あれは」
戦場においてもっとも畏怖するべきは雑念である。雑念は判断を遅らせ、遅れた判断は結果を狂わす。
ほんの些細なミスが救いようのない結果へと繋がる。それが戦場なのだ。
そして今、そのほんの些細なミスを犯してしまった者がここにもまた一人。
「霊夢!」
「母様!」
溶かされていく結界を絶え間なく引きなおしていた紫が、地に堕ちる霊夢を見て思わずその手を止めてしまった。
戦闘が始まってからずっと、針の穴ほどのスキマを開けられるより前に紫が全て引きなおしていっていたので外側は見えなかったのだが、その穴の空いた結界の先、万が一の時のために待機していた萃香は母のその姿を見てしまった。
「母様!」
紫が気付いた時には既に萃香は再びそう叫び、結界を越え母の元へと飛んでいっていた。
「萃香!行っては駄目!」
紫の制止の声も届いていないのか、萃香は周りには目もくれずに一直線に飛んでいく。
右手を上げる事もできずにいた霊夢が聞こえてきた紫の声に何事かと顔を上げると、そこに見えたのは自分の元へと向かってくる娘の姿。
だが紫は、霊夢は、見てしまった。先程霊夢を打ち抜いたであろう男が再び銃を構え、その銃口が萃香を狙っていたのを。
タァ────────ン!
再び響いた銃声、訪れる一瞬の静寂。
その次の瞬間、聞こえた音は三つ。
ひとつは最早結界に構っていられないと外へと飛び出した紫によって右肩から左脇にかけて分断された男の上半身が、血飛沫を上げ臓物を撒き散らしながら地面へと落ちる音。
ひとつは霊夢によって突き飛ばされ、萃香が木の幹にその体を打ち付けられた音。
そして最後のひとつは────
「母様っ!」
銃弾が左胸を貫通し、その背後の幹に大きな赤い紅い花を咲かせた霊夢が崩れ落ちる音だった。
木の幹にしたたかに打ち付けられ痛む体を支えながら萃香が霊夢の元へと駆け寄っていく。
膝をつき体を抱き起こすが、紅白だった巫女衣装はその血により朱一色に染まり、そして消えた白の替わりだとでもいうかのように血の気の失せた顔が白く染まっていく。
「母様、しっかりして!」
萃香のその声に苦痛に顔を歪めた霊夢がなんとか薄目を開いた。
「萃香、なんともない?」
かろうじて搾り出された声は普段の霊夢からは考えられないほどに弱々しく、そして震えていた。
その間にも顔には玉のような汗が滲み出し、器官に入った血が一気に口から溢れ出す。
離れた場所で戦闘を繰り広げていた藍と橙も先の銃声と萃香の声に気付き、揃って霊夢の元へと駆け寄ってくる。
「母様、母様!」
目に涙を浮かべ叫ぶ萃香の頬に霊夢が手を伸ばす。だがその手は頬まで辿り着く事ができず、力なく地面へと落ちた。
先程まで苦痛に歪んでいたその顔にはいつの間にか微笑んでいたが、それ以降、霊夢がその目を開く事はなかった。
「かあ………さま………?」
力なく落ちた霊夢の手を呆然と眺めたまま固まる萃香の横で、藍は周りを見渡し、小さく舌を打った。
「完全に囲まれてるな………紫様、流石に一人も殺さずにこの状況を打破するというのは………紫様?」
こちらへゆっくりと歩いてくる紫の顔は俯いたまま、その表情を窺う事ができなかった。
突然の出来事、突然の乱入者に周りを囲んでいた男たちは一斉に銃を向けながらも静かにその様子を見ていた。
そして紫が霊夢と霊夢を抱きかかえた萃香の元まで来ると、小さく呟いた。
「霊夢………」
その瞬間、周りの木々の葉が一斉に赤に染まったかと思うと、また青々とした葉に戻り、まだ日が高かったはずの空にはなぜか昼の青と夕焼けの赤と夜の闇が入り混じり、その魔力に当てられた虫は絶命し、また息を吹き返し、そして朽ち果てていく。
時間が、空間が、全ての境界が完全にその流れを失った。
この世のものとは思えないその一帯の様子に完全に目を奪われていた藍は何かに気付いたように飛んでいた意識を戻し、橙に向かって叫んだ。
「橙、急いで幻想郷へ!」
同じく唖然としていた橙だったが、藍のその一言によりもう一度辺りを見渡し、そして藍の方を向いて大きく頷いた。
完全に放心状態となっていた萃香を橙が抱え、藍が霊夢を抱えてその場を囲んでいた人間たちには目もくれずに結界の中へと駆けていく。
正に風に如く、先程までとは桁違いのスピードで飛んでいく二人を人間たちが認識する事は敵わず、気付いた時には残っていたのは紫だけだった。
藍は内心焦りながらも、抱えたその体が徐々に冷たくなっていくのを確かに感じていた。
そして穴だらけとなり、最早その役割を果たせているのかどうかも怪しい結界を越えて幻想郷へと入ると、ひとまず境内に萃香と霊夢を下ろし、二人は再び結界の境まで戻った。
結界の先に広がる傾斜の下方では紫の暴走によりまるで万華鏡のように目まぐるしく景色が入れ替わっていく。
今はまだその一帯だけで済んでいるが、すぐにもその範囲を広げこちらにまで迫ってくるだろう。
「橙、解ってるね」
「はい。でも私たちだけで抑える事ができるのでしょうか?」
「紫様の力が暴走している今なら私たちの力も格段に上がっている。それでもまだまだ足りないけれど、紫様の手で幻想郷を滅ぼさせるような、そんな事は絶対にさせてはいけない!」
藍は両手を前に突き出し、博麗大結界へとその力を注ぎ込んでいく。横で橙もそれに倣い両手を前に突き出した。
既に斑模様のようにあちこちに穴が空き、なんの力も持たない人間でも容易く行き来できるであろう程に薄くなった結界が次第にその本来の姿を取り戻していく。
それでも二人がその手を休める事はなく、完全に修復された結界に更に力を注ぎそれを強化させていった。
その時、結界の外ではなおもこの世のものとは思えない光景が徐々にその範囲を広げていっていた。
周りにいた人間たちはある者はその光景に目を奪われ立ちすくみ、ある者は恐れをなして逃げ出し、ある者は発狂して銃を乱射していた。
しかし、そんな周りの状況など初めから見えていないとでもいうふうに、その光景の中心で立ちすくむ紫はその顔を俯かせ、小さく呟いていた。
「霊夢………なんで、どうして?私の所為?悪いのは私?違う、そうじゃない、悪いのは外の人間たち。そう、悪いのは私じゃない。私じゃない。許さない………許せない、許さない許せない許さない許せない許さない許せない貴方たちのような人間が世俗にまみれ欲望に駆られた人間どもが霊夢を殺した!」
唐突にその顔を上げたかと思うと紫は一気に上空へと翔け上がり、そして己の力の全てを躊躇なく解放した。
紫が飛び上がると同時に辺り一帯に広がっていた異様な光景は歪な色合いのままその動きを止めた。
それと共に人間たちもその動きを止め、次は一体何が起こったのかと周りを見渡し、そしてそれに気が付いた。
高くそびえる木々の更に上、遥か上空にその身を留めた紫から発せられたのは小さな光の輪。
その光の輪はゆっくりと、ゆっくりとその範囲を広げていく。幻想的な色に光り輝くその輪に、地上にいた男たちは一様に目を奪われていた。
「あれが………幻想」
思わずそう漏らしてしまう者もいた。
だがその光の輪は触れる物全てを跡形もなく消し飛ばしていく。
ゆっくりと、ゆっくりと迫ってくる光の輪を眼前にしても、男たちは誰一人としてその場から動く者はおらず、木々と、大地と共に光の輪の中へと消えていった。
そしてそれは結界を越え、幻想郷にまで広がろうとしていた。
まだまだ力不足だとは思っていたが、よもやここまで強大なものだとは藍にも橙にも想像できなかった。また、自分たちの主の力をこのような形で知る事になってしまった事も。
幾重にも強化された結界が悲鳴をあげ、いたる所で火花が飛び、力の奔流が今にも結界を食い破り溢れ出そうになっていた。
必死に結界を支える二人の額を、頬を、背中を、全身を滝のように汗が流れていく。果たして持ちこたえる事ができるのか、藍がふいにそう思った時、隣に立っていた橙が膝を付いた。
「橙!」
苦しげな表情を浮かべ、荒く肩で息をする橙に手を貸そうとするが、一人分の支えを失った結界はますます悲鳴をあげ、ギシギシと軋むその音はいよいよ限界を迎えていた。
藍が一人で支えるには紫の力は余りにも強大すぎて、あまりにも無慈悲であった。
しかし、最早限界かと思えたその時、橙とは逆側から結界に向かって差し出される手があった。
「萃香………なんで」
「母様の神社………壊させたりしない!」
その瞬間、悲鳴を上げてただひたすらに耐えるだけだった結界は真っ向から力の奔流とぶつかり合い、そして相殺していった。
先程まで膝を付いていた橙もなんとかといった様子で再び立ち上がり、全身全霊を賭して己の力の全てを注ぎ込んでいく。
∽
どれほどその状態が続いただろうか、藍は足元に大の字になって荒い呼吸を繰り返す二人を見下ろしていた。
果たして幻想郷は無事に守られ、なんとかその場を凌ぐ事はできたのだった。
藍が二人を置いて結界の外に出てみると、そこには確かについ先程まで木々が生い茂り、山々がその峰を連ねていたはずだったのだが、そんな物は最初からなかったとでもいうようにただただ荒れ果てた荒野が広がっていた。
そして遥か前方、クレーターのように円形に窪んだその荒野の中心にひとつの人影があった。
ゆっくりと歩いて近づいていくが、その人影は膝を抱えてそこに顔を沈めて座り込んだままぴくりとも動かなかった。
「紫様………」
そっと声をかけてみるが、反応はなかった。
「紫様、幻想郷に戻りましょう。ここに居てはいつまた外の人間どもが来るか解りません」
「………」
全く反応を見せない紫に、藍はひとつ息を吐くと、失礼します、と言ってその身を抱き上げた。
飛び上がり改めて周りを見渡してみると、その荒野は結界の境の遥か向こう側にまで広がっていて、藍はよくもこれほどの力を抑えきれたものだと内心ぞっとした。
一方、藍に抱かれた紫は顔を俯かせたまま時折霊夢の名を呟くばかりで、結局その口からはそれ以外の言葉は出てこなかった。
しかし、藍が結界を越えようとした所で紫がようやくその口を開いた。
「待って」
「紫様?」
突然かけられた声に少し驚きの色を見せた藍だったが、もう大丈夫、と紫に促されてその身を下ろした。
自分の足で地面に立った紫だったが、それでもその場から動こうとせず、顔は相変わらず俯いたままだった。
やがてゆっくりと振り向くと、少し勢いをつけて後ろに立っていた藍に抱きついた。
「え………紫様?」
「………」
紫は何も言わず、ただ藍の肩に顔を押し付けていた。
そして藍もまた何も言わず、そんな紫の頭を優しく撫でていた。
きっと橙と萃香には自分のこんな姿を見られたくなかったのだろう。
そんな事を思いながら、小さく嗚咽を漏らす紫の頭を藍はかつて自分がそうされたように、優しく撫でていった。
暫くそんな状況が続いたが、紫も大分落ち着きを取り戻したようで、まだ俯かせてはいたが幾分いつもの顔に戻ったように見えた。
そして紫が先頭に立ち、結界を通っていく。
結界を越えた所には先程まで大の字になって倒れこんでいた二人の姿はなく、そこに見えたのは昨日までとなんら変わりのないいつも通りの幻想郷の景色だった。
そんな周りの景色など見えていないというふうに、紫は一直線に博麗神社の境内へと歩いていき、そしてその後ろを藍が追いかけた。
やがて見えてきた境内には橙と萃香、そして霊夢の他にレミリア、フランドール、咲夜がいた。
五人は境内に横たえられた霊夢を囲み、誰もがその顔を俯かせていた。
しかし、近づいてきた紫と藍の気配に気付くと、フランドールが紫の元まで歩いていき、きっ、とその顔を睨むように見上げた。
「ねぇ、あんたは全部知ってるんでしょ?応えなさいよ!なんで霊夢が!」
紫の胸倉を掴んで捲くし立てるフランドールだったが、紫は視線を合わそうともせず、その目は横たえられた霊夢へと注がれていた。
その反応にフランドールはますます語気を荒げ、掴んだ胸倉を激しく揺さぶった。
そこでようやく紫がフランドールへと視線を移し、小さく呟いた。
「………昼間の貴方に何が出来たというのかしら?」
「────このっ!」
ぽつりと漏らした紫の静かな問いに、フランドールは悪魔のような形相で紫を睨みつけ、左手で胸倉を掴んだまま右手を振りかざした。
紫は避ける素振りも見せなかったが、正にその拳が振りぬかれようとした時、フランドールの体に体当たりをするように萃香が抱きついた。
「やめて!紫はなにも悪くないの。わたしが………わた………わたしが全部悪いの!紫は悪くないの………だから………お願い、やめて………フラン」
一度乾いた涙の痕をまた溢れ出た涙が濡らし、しゃくり上げながら懇願するように自分を見てくる萃香を見て、フランドールは紫の胸倉を掴んでいた手を離し、両手をだらりと下げた。
「不穏な運命が見えたから来てみたけれど………紫、何があったのか説明してくれるわよね?」
その時を待っていたかのように、ずっとその様子を見ていたレミリアがそう切り出した。
ずっと俯いていた紫だったが、その声にレミリアの方へと顔を向けると、ぽつり、ぽつりと事の全てを語っていった。
「外の人間はね、私たちが思っているよりずっと強大な力を持っているのよ。私は魔力によってこの幻想郷を滅ぼす事だってできるわ。でも外の人間たちは科学によってこの幻想郷を滅ぼす事だってできるのよ」
そこまで話したところでずっと大人しく話しを聞いていたレミリアが初めて紫に問い返した。
「科学?なんなのよ、それは」
「それが外の人間たちの力」
「ようは、外の人間たちは紫並の力を持ってるって事なのね」
「違う、そうじゃないの」
「ちょっと、もっと解りやすく言ってよ!」
自分の理解を超えた話に癇癪を起こしたフランドールが再度紫に掴みかかろうとしたが、ずっと自分の服の裾を掴んでいた萃香がその力を強くするのを感じ、ちっと舌打ちをしてなんとかその場に押し留まった。
そして紫はもう全て話したといったふうにくるりと背を向けると、スキマを開いてその中へ身を消していく。
「ちょっ、待ちなさいよ!」
「フラン!」
「え………お姉様?」
「やめなさい」
何も言わずに去ろうとする紫に向かって、まだまだ言い足りないとフランが制止の声を上げたが、思いがけないレミリアの声に知らずと萎縮してしまった。
ちらりとその様子を顧みた紫だったが、結局最後まで何も言わずにスキマの中へと消えていった。
そして藍と橙が紫に続いてスキマへと消えていくと、そこには最初から何もなかったかのようにそのスキマは消えていた。
しかし、レミリアは見ていた。
幻想郷の中でも最強の妖怪であろう紫だが、スキマへ消えていくその背はこの場にいる誰よりも弱々しく、触れれば今にも音を立てて崩れてしまいそうな程に儚かったことを。
そして取り残された四人は再び霊夢を囲み、その場をただ沈黙だけが支配していく。
「とりあえず、このまま野ざらしにしていては可哀想です。お墓を作ってあげませんか?」
今までずっと黙っていた咲夜がそう切り出したところで、改めて母の死という現実を直視させられた萃香が一層声を上げて泣き叫んだ。
フランドールは自分に抱きついて泣き叫ぶ萃香をどうしたらいいのか解らず、そしてレミリアと咲夜も泣き叫ぶ萃香を見守る事しかできずにいた。
いつの間にか日は完全に沈み、空には星たちが己の存在を主張するかのように自身を輝かせていた。
顔を出した月はまだ満月には届かず、しかしその淡い光に照らされて、幻想郷は今日もまたその一日を終わらせていく。
境内にはただただ萃香の泣き叫ぶ声だけが響き、そして月明かりに照らされた霊夢の顔はどこまでも優しさに満ち溢れた笑みを浮かべていた。
数日後
朝、萃香は目を覚まして体を起こした。
僅かに開いた窓から入り込む朝日は今日も晴れだという事を教えてくれた。
徐々に頭も覚めてきたところで、自分の周りをぐるりと見渡す。
それは今までとなんら変わりのない部屋の中。
しかし、ひとつだけ変わった事があるとするのならば、毎日自分が起きた時には既に畳まれていた一組の布団が無くなっていた事くらいだろうか。
霊夢の朝は早かった。
もちろん萃香もそれないに朝は早く起きるのだが、それよりもずっと霊夢の朝は早かった。
そして萃香が布団を畳み、窓を開け、部屋を出て縁側を歩いていき、そこの角を曲がるといつも決まってそこに霊夢が座っていた。
「よぉ、お目覚めかい」
一瞬、萃香は自分の耳を疑った。
聞こえるはずのない声。誰もいないはずの場所。
しかしその声は確かに聞こえた。
萃香がドタドタと走って縁側の角を曲がると、確かにその人はそこにいた。
だがそこにいたのは見慣れた紅白の衣装ではなく、同じく見慣れた黒白の衣装。
萃香は何が起こったのかが判断できずにいたが、やがて目の前の光景を理解すると、小さく息を吐いた。
「どうしたんですか?こんなに朝早くから」
そう声をかけながら近づいていくが、黒白の衣装、霧雨魔理沙はそれには応えず、そして萃香にも視線を向けずにずっと空を眺めていた。
「あいつはいつもここから何を見ていたんだろうな」
萃香の問いには応えずに、逆に魔理沙が問いかけた。
しかしそれは問いかけというよりも、むしろ独り言のように思わず漏れ出てしまったような言葉だった。
それは萃香もいつも思っていたことだった。
何かあれば、いや、何もなければ母はいつもこの場所に座ってお茶を飲み、ただずっと空を眺めていた。
いつか訊ねようと思っていたのだが、ついにそれが叶う事はなくなってしまった。
そんな萃香の方を見ることもなく、魔理沙はその視線を少し下げて目の前に広がる雑木林に移すと、今度ははっきりと萃香に問いかけた。
「なぁ萃香。幽々子の所に行ってみるか?」
幽々子の所、つまりは冥界、白玉楼。
死した者の魂が集う場所。
そこに行けば、きっとまだ霊夢はいるだろう。
そこに行けば、きっと母に会えるだろう。
だがしかし、萃香は少しも悩む素振りを見せずに目を瞑り、その首を横に振った。
「ありがとうございます。だけど、それじゃ意味がないと思うんですよ」
「そうか」
最初から萃香がそう応える事が解っていたのか、魔理沙の応えはあっさりしたものだった。
そしてそれだけ言うと、魔理沙は傍らに置いてあった帽子と箒を手にとって、上空へと飛び立って行ってしまった。結局一度も萃香の方を見る事もなく。
「意外と寂しがりやさんなんですね」
やがて魔理沙が太陽の光の中へと消えていくと、萃香はついさっきまで魔理沙が座っていた場所、少し前まではいつものように霊夢が座っていたその場所に自分も座ってみた。
しかし、やはり母がいつもここから何を想い、何を見ていたのかは萃香にも解らなかった。
暫くはぼんやりと空を眺めていたが、やがて立ち上がってよし、とひとつ頷いて両手をぐっと握ると、境内の方へと駆けていった。
その途中、一度だけ立ち止まり振り向いた先にはひとつの墓石。その前には誰が置いていったものなのか、紅花の束がひとつ、ふたつ。
それを見た萃香は笑顔を浮かべると、また前を向いて駆けていった。
博麗神社から少し離れた空の上、夏も近づきまだまだ熱したりないと一層照りつける太陽の下、魔理沙はゆっくりと飛びながら眼下に広がる大地を見渡し、そして雲ひとつない空を見上げた。
暫くそのまま留まってみたが、それでも霊夢がその先に何を見ていたのかはやっぱり解らなかった。
そして魔理沙が飛び去った空の下、遙か下方に広がる草原に雫が一粒、太陽に照らされて輝いていた。
外の世界も幻想郷も、春が過ぎ、梅雨が明け、伸びる枝を桜色に染めていた木々はその花を散らせ青々とした葉をつけ、吹く風はどこからか夏を連れて来る。
しかし、春風と共に去っていった一人の人間の事を、人々は知らない。
「幽々子、暫く世話になるわ」
「あら、霊夢じゃない。意外と早かったわね」
「そうね。でも未練も後悔もないわよ」
「それはまた残念な知らせだこと」
「だって、娘を守れたのよ?母親としてこれ以上嬉しい事はないわ」
「あらあら、霊夢でも親になれば変わるものなのね」
「何か失礼な言い方ね………」
※・未来話(都合上、萃夢想は無かった事にされています)
※・オリジナルキャラ(その内の一人をあえて萃香と名乗らせていますが、萃夢想の彼女とは一切関係ありません。いい名前が思いつかn)
※・東方キャラの直接的な死の描写
※これらの内容に不快感を感じられる方はすみやかに戻られる事を推奨します。特に霊夢ファンの人。
※
※なお、この月ノ涙~紅花~の舞台は、前回の~野春菊~より120年ほど時を遡った時代であり「月ノ涙-魔理沙編-」の第一話になります。
それはあったかもしれないほんの少し未来の出来事
それはあったかもしれないほんの少し過去の出来事
そう呟いたのは誰だっただろうか
それを夢見たのは誰だっただろうか
∽
──どうしてこんな事になってしまったんだろうか──
山の木々の間を飛び回りながらそんな事を思った。
「いたぞ!こっちだ!」
右手から聞こえてきたそんな男の声に、霊夢は思考を中断させられた。
「失礼ね、人を化け物みたいに!」
懐から取り出したお札に力を込めて、それを放つ。
霊夢の手を離れたお札は、一見すると相手とは全く見当違いの方向へと飛んでいったのだが、ある程度進んだところで急激にその方向を変えると一気に男の方へと向かっていく。
「博麗アミュレット、あんたらの弾幕とは一味違うわよ」
放たれたお札が自分の方に飛ばされたのではないと思っていた男は、いきなり軌道を変えて横から飛んできたそれをよける事も敵わず、ばちぃ!という音と共に白目をむいてその場に倒れた。
「暫く寝てなさい」
男が倒れた事を確認してそう言い放った霊夢だったが、背後からタタタタタ、という軽快な音が鳴り響くとすぐに身を翻し、また木々の間を飛んでいく。
「ちょっ、それは反則だって言ってるでしょ!」
男たちの持っている、黒い直方体から筒が伸び、それに取っ手が付いたような物体から放たれる弾は今まで見たどんな弾幕よりも速く、それは発射音を聞いてから避けていたのでは到底間に合わない代物だった。
だから先程から木々を盾に逃げるように飛び回っているのだが、如何せん相手の数が多すぎた。
あちこちの茂みから姿を現しては、同じような道具を用いて霊夢へと音速の弾幕を放ってくる。その弾は木々の枝葉を散らしながら、どれもが真っ直ぐ霊夢へと迫ってきた。
「外の人間は随分と情緒のない弾幕を好むのね」
思わずそう呟いてしまったが、果たしてあれは弾幕と呼べるのだろうか?
そうして木々の間を飛び回り、一人、また一人と気絶させていく霊夢の耳にどこからか男の叫ぶ声が聞こえてきた。
「くそっ!この魔女が!」
「だから私は人間だってば」
遥か後方で戦闘を繰り広げている二人ならともかく、自分までそんなふうに言われるとは酷く心外だ。
「まったく、どうしてこんな事になったのかしら」
∽
それは昨日の事だった。
その日も空は晴れ渡り、霊夢はいつも通り縁側でお茶をすすっていた。
どこからか聞こえてくる鳥のさえずりと木々のざわめきに耳を傾けつつ、はぁ~~っと大きく息を吐いた。
「やっぱり、一日ってのはこうでないと」
そう言って昨日の宴会を思い出す。
皆で集まって騒ぐのは嫌いではないが、その会場にいつもこの神社が選ばれるのはなんとも遺憾だった。
以前、レミリアと幽々子にあんたたちの家の方が広いんだからそっちでやりなさいよ、と言ってみた事があったのだが、二人は口を揃えて
「あなたはわざわざ私の家にまで来たいの?」
と言ってきたのだった。
確かに生きている人間が好き好んで悪魔の館や冥界にまで足を運ぼうとは思わないだろう。
よくよく考えてみれば、魔理沙とアリスは誰も寄り付かないような魔法の森の中。
そして唯一まともな場所とも言えるであろう永遠亭はその立地条件と反比例するかのように住人たちに問題がありすぎるろくでもない場所だった。
以前に一度永遠亭で宴会をやらせろと魔理沙と乗り込んだ事があったが、途中で妹紅の乱入にあい、辺り一面が火の海と化してしまった。
輝夜と妹紅、お互い死なないから手加減というものを知らないのだ。とばっちりを受けるこちらの身にもなってほしい。
その時は慧音がその辺り一帯の歴史を食ってしまったので、結果として永遠亭も周りの竹林もなんの被害もなかったのだが。
思えば幻想郷にはまともな場所というものが無いのではないのか。
もっとも、そこらじゅうに妖怪が跋扈するこの幻想郷において人間が安全に暮らせる場所などは元から無いに等しい。
だからこそ人々はその身を寄せ合って村を作り、町を作るのだろう。
力無き者は生きてはいけない。それが幻想郷なのだ。
「あの月兎は今日も逞しく生きているのかしら」
遠い空の下にあるろくでもない場所で、今日もろくでもない連中にろくでもない事をさせられているのだろうと勝手に決めつけて、どんなろくでもない事をさせられているのだろうか、とろくでもない場所に想いを馳せていると、境内の方から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「母様ー、母様ー、お客様ですよー」
表の掃除をしていた娘の萃香が箒を片手にこちらへと歩いてくるのが見えた。
その後ろから、それは邪魔じゃないのか?と思えるほどにわさわさと尻尾を揺らす狐が一匹。
客というのがこの狐だというのなら、特に何かを出してやる必要もないか、と立ち上がりかけた腰をもう一度下ろして相手が用件を言う前に声をかける。
「紫じゃなくてあなたが来るなんて珍しいじゃない」
だが、目の前の狐は真剣な表情で霊夢を見つめたまま、口を開こうとはしない。
「まぁいいけど。それより紫に言っておいてよ。たまに誘った宴会にくらい顔を出しなさいって」
それでも身動ぎひとつせずに立ったままの狐に、霊夢の顔が次第に険しくなっていった。
傍らでその様子を見ていた萃香は、不穏な空気を察したのかそそくさと箒を持って境内へと戻っていった。
生まれてからもう十四年、母が怒るとそれは恐ろしいことを娘は知っていた。
「あなた、何か用事があるから来たんじゃないの?」
少し語気を荒げ、睨むように目の前の狐に問い詰めると、意を決したというふうにひとつ頷いて狐はその口を開いた。
「博麗霊夢」
「なによ」
「────手を借してほしい」
∽
──どうしてこんな事になってしまったんだろうか──
山の木々の間を駆け巡りながらそんな事を思った。
「そっちに行ったぞ!」
背後から聞こえてくる男の声に、藍は思考を中断させられた。
「失礼だな、人を獣みたいに!」
そう言って木の幹を蹴り大きく跳躍。一気に男の頭上を越え、背後に回り込むように着地するとその首筋に手刀を一発。
小さく呻き声を上げて倒れていく男を見ていると、横の茂みから別の男が姿を現す。
「そこまでだ!」
男が手に持っていた黒い道具の先端をこちらに向けたが、その道具が使われる事はなかった。
一瞬びくり、と体を震わせると、その格好のまま男は前のめりに倒れていく。
「藍さま、大丈夫ですか?」
いつの間にか男の背後に立っていた橙がそう問いかけてきた。
倒れた男を見てみたが、白目をむいて泡を吹いている。橙もちゃんと手加減が出来ているようだ。
「私は別になんともないわよ。それより橙こそ気をつけなさい。あの銃という物、紫様から伝え聞いていたものよりよほど厄介だわ」
そう言い聞かせてまた二手に分かれる。
霊夢は飛び回っていたが、このような木々が生い茂る中での戦闘となれば下手に飛び回るよりそれらを利用して駆け回った方が効率的な動きが出来る。
木の幹を、枝を足場に跳ねるように駆け回りながら一人、また一人と男たちを気絶させていく。
どこかの吸血鬼にはまだまだ敵わないだろうが、体術ならばそこそこの自身はある。少なくとも今自分たちの周りを取り囲むように茂みに潜んでいる人間たちに比べればそれこそ天と地の差だろう。
橙の方も多少危なっかしくはあるが、素早さだけなら自分よりも上なので間違っても銃の標的になる事はないと思われた。
そもそもこんな数の人間たちを殺さないように撃退するなどという事は無理がありすぎるのだ。
「紫様まであのような事を言うとは………」
その時、また一人茂みの中に人間を見つけ、一気にその背後へと降り立つ。
「くそっ、この狐が!」
突如として背後に現れた藍に男は慌てて銃口を向けようとしたが、藍から見ればそのスピードはあまりにも遅すぎた。
「畜生どもと一緒にするな、私は紫様の式神だ」
また一人、男が倒れていく。
「まったく、どうしてこんな事になったのか」
∽
「────手を借してほしい」
「え?」
全く見当違いの応えが返ってきた、とでもいうようにぽかんとこちらを見つめる霊夢がいた。
それはそうだ、と思う。自分だって出来ることならばこんな人間に手を借りるような真似はしたくなかった。
だが、紫様に言われたのでは断る訳にもいかず、いざ訪れてみればその相手はこちらの用件を聞こうともせず勝手に喋り出し、勝手に怒り出した。
そして用件を言ってみればこの顔だ。
理不尽とは正にこの人間のような事を言うのだろう。
もっとも、理不尽という点では普段の紫様も相当である事もまた間違いない。
「詳しい事は紫様に聞いてほしい。とりあえず来てくれ」
こちらの意思が伝わったのか、霊夢はぽかんと開けていた口を閉じてじっと探るように見つめてきた。
「真面目な話?」
「大真面目な話だ」
それを聞いた霊夢はやれやれまたか、とでもいうように大きく息を吐くと、持っていた湯飲みを置いて庭先へと降りた。
暫くよっ、ほっ、と体をほぐしていたが、それも終わったのか、用意してくるから少し待ってなさい、と言い残して家の裏手へと回っていった。
建物の影に消えていく霊夢を見送っていると、ふと背後から視線を感じた。
振り向いてみるとそこには先程ここまで案内してくれた娘がこちらを見ていた。最初に境内で会った時にすぐ解ったのだが、この娘が霊夢の娘、萃香なのだろう。
事ある毎に紫様からそれはもう自分の子供のように語る自慢話を聞かされていたので初めて会った気がしない。
最初は警戒していた萃香だったが、自分が紫様の使いである事を伝えると、すぐに警戒を解いて、
「あぁ、あなたが………」
と何故か哀れむような視線でこちらを見てきた。
一体紫様は普段この娘に私の事をなんと言い聞かせていたのだろうか。
そんな事を考えていると、用意を終えたのかぱたぱたと霊夢が戻ってきた。
「お待たせ。あぁ萃香、ちょっと紫の所まで行ってくるわ。留守番お願いね」
「はい、母様」
萃香の頭を乱暴な手つきで撫でている霊夢を見て、ふと昔を思い出した。
初めて紫様と出会った時、死を目前に控え、ただただ弱っていくだけの私を紫様は優しく抱き上げるとそっと頭を撫でてくれた。
「いいわね………貴方。そう、私の式になりなさい」
今でも忘れないあの時のあの言葉、あの温もり。
私はずっとこの人についていこうと心に決めた。
そんな遠い過去に想いを馳せていると、突然どん、と背中を叩かれて私はハっと我に返った。
横を見ると、霊夢が横から覗き込むような形でこちらを見ていた。
「ちょっと、しっかりしてよ。真面目な話なんでしょ」
その言葉に自分に課せられた使命を思い出した私は大きく頷くと、一歩、前へと踏み出した。
「大真面目な話だ」
∽
──どうしてこんな事になってしまったんだろうか──
次々と穴の開けられていく博麗大結界を開けられた先から引きなおしながらそんな事を思った。
「科学力というのも案外侮れないものね」
長い刻を生きてきたが、、博麗大結界クラスの結界をこうも連続して引いていくなどというのは前代未聞の出来事だった。
結界の外側、幻想郷から少し外の世界へと出た所で霊夢たちが戦っている。
相手は外の世界の人間たち。
以前から不穏な動きを見せていた外の世界だったが、まさか本当に幻想郷に手を出してくる者がいようなどとは思いもしなかった。
幻想郷の者たちが使うような古い力を忘れてしまった外の世界の人々は科学を生活の糧としている。
だがしかし、その科学はこの大地の、そして星の資源、エネルギーを異常ともいえるスピードで食い尽くしていく言わば諸刃の剣だった。
自分たちの土地のエネルギーを食い尽くした人間たちは、次にその矛先を幻想郷へと向けたのだ。
外の世界ではとうの昔に忘れ去られたはずの幻想郷の存在を一体誰が知っていたのか、それは紫にもわからなかった。
ただひとつだけ確かな事があるとすれば、それは自分が今まで見てきたこの愛しい世界が終わらされようとしているという事。
なんとか事が起こる前に霊夢を呼び寄せ、ある程度の対策を講じる事が出来たが、それでもこちらが不利な状況は変わらない。
紫自身もそこまで外の世界に詳しいという訳ではない。
今この時にも博麗大結界を破ろうとしている力の正体がなんなのか、それが掴めずにいた。
紫も自分の力がどの程度のものなのかは解っている。それなのにその自分と拮抗するこの力は一体誰が放っているものなのか。
もしこれが紫の想像通りに科学というものなのであれば、果たしてあの三人は無事でいてくれるのだろうか。
戦闘に出る前にある程度自分が知っている知識を教えておいたが、あまりにも予想外の事が起きすぎている。
「藍、橙、………霊夢、どうか無事でいて」
本当ならば霊夢を巻き込みたくはなかった。
できる事ならば自分たちだけで解決したかったのだが、自分が前線に出ることができない今、頼れるのは霊夢しかいなかった。
霊夢には本当に悪いと思っているが、彼女も博麗の者。ある程度の覚悟はあっただろう。
「ふぅ、流石に疲れるわね」
流れる汗を拭こうともせず、ただひたすらに穴の開けられていく結界を引きなおしていく。
穴が開けられていくと言うよりも、これは結界が溶かされているとでも言うのだろうか。
「まったく、どうしてこんな事になってしまったのかしらね」
∽
「紫様、霊夢を連れてきました」
そう言いながら藍が襖を開ける。
部屋の奥には紫が、そして向かい合うようにして橙が座っていた。
紫は藍に続いて部屋に入ってきた霊夢を確認すると、片手を上げてよく来たわね、と挨拶をしたが、霊夢はそれをあっさりと無視した。
そのまま部屋の中央にまで歩いていくと、座っていた橙が横へと腰を移し、そこへ腰を下ろす。
そして霊夢を挟んだ逆側に藍が座り、三人と紫が対面する形になった。
「藍~、霊夢が無視するの~」
「知りません」
よよよ、とわざとらしく泣き崩れる紫に藍は溜息まじりにそっけなく返事をした。
橙は笑っていたが、霊夢はと言えばわずかに眉をひそめ、こいつらは………といった表情だった。
その後、紫は何故かどうでもいい世間話をし始めたかと思えば娘は元気かなどと矢継ぎ早に話しを振ってきた。
いつまでたっても本題を切り出そうとしない事に業を煮やした霊夢がはっきりと不快感を表しながら問い詰める。
「それで、何があったのよ。わざわざ世間話をするために呼び出したんじゃないでしょ」
その言葉に一瞬動きを止めると紫はいそいそと座り直し、霊夢が、そして付き合いの長い藍でさえも見た事のないような真剣な眼差しを霊夢に向けた。
紫がこんな表情をするほどの事情とは、一体何なのか。
「霊夢、よく聞いてほしいの」
「………なによ」
いつもの調子で聞き返したつもりだったが、その声が僅かに震えているのが自分でもはっきりと感じられた。
その両隣では、同じく初めて見る紫の真剣な眼差しにごくりとつばを飲む藍と橙がいた。
「霊夢、私………」
一体その口からは次にどんな言葉が発せられるのか。果たしてそれは自分の手に負えるような代物なのか。一瞬の内に様々な考えが頭の中を駆け巡っていく。
「私、デキちゃ────」
その刹那、座っていたはずの霊夢はいつの間にか紫の懐に潜り込み、ピンと張ったお札を喉元に突きつけていた。
「や、やぁねぇ。冗談よ、冗談」
無表情でお札を突きつけてくる霊夢を見て、流石の紫も背中に冷たい汗が流れた。
「いい加減にしないと怒るわよ?」
「解ったから、そのお札をしまって頂戴」
あまり解ってなさそうなその返事に暫く紫を見下ろすように睨んでいたが、お札を懐にしまうと元の場所へ戻ろうと歩いていく。
「藍~、霊夢がいじめるの~」
またしてもよよよ、と泣き崩れる紫だったが、霊夢にもの凄い勢いで睨まれてしまい、こほん、とひとつ咳をして居住まいを正した。
「実際のところを言うとね、ちょっと前から外の世界が騒がしいのよ」
今度は何を言い出すのかと睨むように紫を見ていた霊夢だったが、その以外な言葉に肩をすかされたようにきょとんとしてしまった。
「外って………そんなの知らないわよ。勝手にやらせておけばいいんじゃないの?」
幻想郷の中にありながら果てしなく外の世界に近い場所、博麗神社で生まれ育ってきた霊夢だったが、今までにも外の世界に関わろうとする事は一切なかった。
外に迷惑がかからない程度にはしていたが、外の世界のために何かをした事など今までに一度もない。
だから霊夢のその反応は当然といえば当然だっただろう。
「今回ばかりはそうもいかないのよね。なんせこの幻想郷を乗っ取ろうっていうのだから」
両隣で腕を組んでうんうんと頷く藍と橙だったが、霊夢は一人固まっていた。
「ちょっと待ってよ。なんで今になって外の人間が」
当然の疑問を口にする霊夢だったが、紫が言うにはこういう事だった。
外の世界の人間たちは日々の生活から争いまで、全ての事に科学というものを利用しているらしい。
そしてその科学というものは大地のエネルギーを大量に消費するらしい。
自分たちの土地のエネルギーを使い果たした人間たちがその手を幻想郷にまで伸ばしてきた、という事らしい。
「でも幻想郷の事なんてもうすっかり忘れられているとばっかり思っていたけど」
「外の世界ではね、ご丁寧に自分たちの行ってきた事を記録として残しているのよ。そのどこかに幻想郷に関する記述があったんでしょうね」
紫の応えを聞いても、霊夢はなおも考え込んでいた。
「仮にそうだとしても、外の人間たちには博麗大結界を越えてくるなんて無理でしょ。それこそ紫が穴でも開けない限り」
今度は霊夢の言葉に納得したのか、両隣で藍と橙がうんうんと頷いていた。
というより、さっきからずっとうんうんと首をふっている。
本当にこの二人(二匹?)は会話の内容が解っているのだろうか?
「まぁそこが外の人間たちの持つ科学力というものの恐ろしいところよね」
自分の言った言葉に自身で納得しているのか、紫までもがうんうんと頷いている。
そして両隣の二匹(二人?)もうんうんと首をふっていた。
やっぱりこいつら解ってねぇ。
「はぁ、もういいわ。それで、結局私に何をしろっていうのよ」
霊夢はもう諦めたというふうに大きな溜息をついた。
確かに藍の言うとおり大真面目な話だったのだが、すっかり変な空気に汚染されてしまったその場はとても大真面目な話をしている雰囲気ではなかった。
∽
──どうしてこんな事になってしまったんだろうか──
茂みの中に身を潜めながら、そんな事を思った。
「いたぞ!こっちだ!」
山の上手の方から聞こえてきたそんな仲間の声に、男は思考を中断させられた。
「ちっ、行くしかないか」
一人ごちて、茂みの中を移動していく。
敵はたかが三人、三人だけなのだ。数だけでいえばこちらの方が圧倒的に有利なはずだった。
それが今のこの状況はどうだ。
猫と狐が人に化けたような化け物が縦横無尽に山の中を駆け巡り、そして空中を飛び回り奇怪な術を使ってくる女はその服装こそ違うものの、正に御伽話に出てくる魔女そのものではないか。
そんな事を考えている間にも、すぐ上手からばちぃ!という音が聞こえてその時に生じた閃光に一瞬目を眩ませる。
「今度は誰がやられたよ」
音からしてもうすぐそこなのだろう。
ならば敵ももうすぐそこだという事だ。
その時、目の前を横切るように紅白の巫女装束に身を包んだ女が飛んでいくのが見えた。
「くそっ!この魔女が!」
茂みの中に身を潜めたままそう叫び銃口を女へと向ける。
「だから私は人間だってば」
そんな声が聞こえてきた気がしたが、気に留めることもなく引き金を引いた。
「ちくしょう、どうしてこんな事になっちまったんだ」
∽
「幻想郷、ですか」
「そう、幻想郷だよ」
聞きなれない単語に思わず反応してしまった男を、彼の上官なのだろうか、装飾の多い軍服に身を包んだやや年配の男が立派に蓄えた顎鬚を撫でながら応えた。
しかし今し方説明された事を思い返してみても、いまいち要領が掴めずにいた。
「それで、その幻想郷とは一体どのような所なのでしょうか?」
「一言で言えば………お伽の国だな」
「お伽の国?」
上官の男が言うにはこういう事だった。
今、この星はエネルギーとなる資源が不足している。足りなくなったのは昔からそれらを貪る様に採取してきた自分たちの所為だったのだが。
結局人は石油やガスに代わる絶対的なエネルギーを人工的に作り出す事に未だ成功していなかったのだ。
そして早くから外国にエネルギーの補給を頼っていたこの国は今経済的に大打撃を受けている真っ最中であった。
そこで掲げ上げられたのが幻想郷への進行プロジェクト。
太古の文献に記録されていた幻想郷の存在は、今でも政府の中でもごくごく一部の人間たちによって認められていた。
その後文献の記述や、実際に幻想郷を見たという者からの証言により、どうも幻想郷にはこちらの世界では既に失われてしまった物が未だ存在する場所であるのではないかと推測された。
その事を知った政府内のごく一部の人間たちは己の地位と名誉の為に、密かにプロジェクトを推し進めていた。
確かにこれで油田のひとつでも見つけられようものなら、一生どころか末代までその生活は約束されたも同然だろう。
「しかし、こんな事が諸国にバレたら大変な事になりますね」
「だから我々が出るのだよ」
∽
タァ────────ン!
「なっ!?」
一発の銃声が響くと同時に、霊夢の体が揺れた。
空中でバランスを失い、夏も近づきその枝一杯に緑の葉を付けた枝葉を撒き散らしながら激しく地面へと叩きつけられた。
それでもすぐに木の幹に手を付きなんとか起き上がる霊夢だったが、その右肩からはとめどめなく血が流れ出し、紅白衣装の右半身を赤一色へと染めていく。
「つっ………なんなのよ、あれは」
戦場においてもっとも畏怖するべきは雑念である。雑念は判断を遅らせ、遅れた判断は結果を狂わす。
ほんの些細なミスが救いようのない結果へと繋がる。それが戦場なのだ。
そして今、そのほんの些細なミスを犯してしまった者がここにもまた一人。
「霊夢!」
「母様!」
溶かされていく結界を絶え間なく引きなおしていた紫が、地に堕ちる霊夢を見て思わずその手を止めてしまった。
戦闘が始まってからずっと、針の穴ほどのスキマを開けられるより前に紫が全て引きなおしていっていたので外側は見えなかったのだが、その穴の空いた結界の先、万が一の時のために待機していた萃香は母のその姿を見てしまった。
「母様!」
紫が気付いた時には既に萃香は再びそう叫び、結界を越え母の元へと飛んでいっていた。
「萃香!行っては駄目!」
紫の制止の声も届いていないのか、萃香は周りには目もくれずに一直線に飛んでいく。
右手を上げる事もできずにいた霊夢が聞こえてきた紫の声に何事かと顔を上げると、そこに見えたのは自分の元へと向かってくる娘の姿。
だが紫は、霊夢は、見てしまった。先程霊夢を打ち抜いたであろう男が再び銃を構え、その銃口が萃香を狙っていたのを。
タァ────────ン!
再び響いた銃声、訪れる一瞬の静寂。
その次の瞬間、聞こえた音は三つ。
ひとつは最早結界に構っていられないと外へと飛び出した紫によって右肩から左脇にかけて分断された男の上半身が、血飛沫を上げ臓物を撒き散らしながら地面へと落ちる音。
ひとつは霊夢によって突き飛ばされ、萃香が木の幹にその体を打ち付けられた音。
そして最後のひとつは────
「母様っ!」
銃弾が左胸を貫通し、その背後の幹に大きな赤い紅い花を咲かせた霊夢が崩れ落ちる音だった。
木の幹にしたたかに打ち付けられ痛む体を支えながら萃香が霊夢の元へと駆け寄っていく。
膝をつき体を抱き起こすが、紅白だった巫女衣装はその血により朱一色に染まり、そして消えた白の替わりだとでもいうかのように血の気の失せた顔が白く染まっていく。
「母様、しっかりして!」
萃香のその声に苦痛に顔を歪めた霊夢がなんとか薄目を開いた。
「萃香、なんともない?」
かろうじて搾り出された声は普段の霊夢からは考えられないほどに弱々しく、そして震えていた。
その間にも顔には玉のような汗が滲み出し、器官に入った血が一気に口から溢れ出す。
離れた場所で戦闘を繰り広げていた藍と橙も先の銃声と萃香の声に気付き、揃って霊夢の元へと駆け寄ってくる。
「母様、母様!」
目に涙を浮かべ叫ぶ萃香の頬に霊夢が手を伸ばす。だがその手は頬まで辿り着く事ができず、力なく地面へと落ちた。
先程まで苦痛に歪んでいたその顔にはいつの間にか微笑んでいたが、それ以降、霊夢がその目を開く事はなかった。
「かあ………さま………?」
力なく落ちた霊夢の手を呆然と眺めたまま固まる萃香の横で、藍は周りを見渡し、小さく舌を打った。
「完全に囲まれてるな………紫様、流石に一人も殺さずにこの状況を打破するというのは………紫様?」
こちらへゆっくりと歩いてくる紫の顔は俯いたまま、その表情を窺う事ができなかった。
突然の出来事、突然の乱入者に周りを囲んでいた男たちは一斉に銃を向けながらも静かにその様子を見ていた。
そして紫が霊夢と霊夢を抱きかかえた萃香の元まで来ると、小さく呟いた。
「霊夢………」
その瞬間、周りの木々の葉が一斉に赤に染まったかと思うと、また青々とした葉に戻り、まだ日が高かったはずの空にはなぜか昼の青と夕焼けの赤と夜の闇が入り混じり、その魔力に当てられた虫は絶命し、また息を吹き返し、そして朽ち果てていく。
時間が、空間が、全ての境界が完全にその流れを失った。
この世のものとは思えないその一帯の様子に完全に目を奪われていた藍は何かに気付いたように飛んでいた意識を戻し、橙に向かって叫んだ。
「橙、急いで幻想郷へ!」
同じく唖然としていた橙だったが、藍のその一言によりもう一度辺りを見渡し、そして藍の方を向いて大きく頷いた。
完全に放心状態となっていた萃香を橙が抱え、藍が霊夢を抱えてその場を囲んでいた人間たちには目もくれずに結界の中へと駆けていく。
正に風に如く、先程までとは桁違いのスピードで飛んでいく二人を人間たちが認識する事は敵わず、気付いた時には残っていたのは紫だけだった。
藍は内心焦りながらも、抱えたその体が徐々に冷たくなっていくのを確かに感じていた。
そして穴だらけとなり、最早その役割を果たせているのかどうかも怪しい結界を越えて幻想郷へと入ると、ひとまず境内に萃香と霊夢を下ろし、二人は再び結界の境まで戻った。
結界の先に広がる傾斜の下方では紫の暴走によりまるで万華鏡のように目まぐるしく景色が入れ替わっていく。
今はまだその一帯だけで済んでいるが、すぐにもその範囲を広げこちらにまで迫ってくるだろう。
「橙、解ってるね」
「はい。でも私たちだけで抑える事ができるのでしょうか?」
「紫様の力が暴走している今なら私たちの力も格段に上がっている。それでもまだまだ足りないけれど、紫様の手で幻想郷を滅ぼさせるような、そんな事は絶対にさせてはいけない!」
藍は両手を前に突き出し、博麗大結界へとその力を注ぎ込んでいく。横で橙もそれに倣い両手を前に突き出した。
既に斑模様のようにあちこちに穴が空き、なんの力も持たない人間でも容易く行き来できるであろう程に薄くなった結界が次第にその本来の姿を取り戻していく。
それでも二人がその手を休める事はなく、完全に修復された結界に更に力を注ぎそれを強化させていった。
その時、結界の外ではなおもこの世のものとは思えない光景が徐々にその範囲を広げていっていた。
周りにいた人間たちはある者はその光景に目を奪われ立ちすくみ、ある者は恐れをなして逃げ出し、ある者は発狂して銃を乱射していた。
しかし、そんな周りの状況など初めから見えていないとでもいうふうに、その光景の中心で立ちすくむ紫はその顔を俯かせ、小さく呟いていた。
「霊夢………なんで、どうして?私の所為?悪いのは私?違う、そうじゃない、悪いのは外の人間たち。そう、悪いのは私じゃない。私じゃない。許さない………許せない、許さない許せない許さない許せない許さない許せない貴方たちのような人間が世俗にまみれ欲望に駆られた人間どもが霊夢を殺した!」
唐突にその顔を上げたかと思うと紫は一気に上空へと翔け上がり、そして己の力の全てを躊躇なく解放した。
紫が飛び上がると同時に辺り一帯に広がっていた異様な光景は歪な色合いのままその動きを止めた。
それと共に人間たちもその動きを止め、次は一体何が起こったのかと周りを見渡し、そしてそれに気が付いた。
高くそびえる木々の更に上、遥か上空にその身を留めた紫から発せられたのは小さな光の輪。
その光の輪はゆっくりと、ゆっくりとその範囲を広げていく。幻想的な色に光り輝くその輪に、地上にいた男たちは一様に目を奪われていた。
「あれが………幻想」
思わずそう漏らしてしまう者もいた。
だがその光の輪は触れる物全てを跡形もなく消し飛ばしていく。
ゆっくりと、ゆっくりと迫ってくる光の輪を眼前にしても、男たちは誰一人としてその場から動く者はおらず、木々と、大地と共に光の輪の中へと消えていった。
そしてそれは結界を越え、幻想郷にまで広がろうとしていた。
まだまだ力不足だとは思っていたが、よもやここまで強大なものだとは藍にも橙にも想像できなかった。また、自分たちの主の力をこのような形で知る事になってしまった事も。
幾重にも強化された結界が悲鳴をあげ、いたる所で火花が飛び、力の奔流が今にも結界を食い破り溢れ出そうになっていた。
必死に結界を支える二人の額を、頬を、背中を、全身を滝のように汗が流れていく。果たして持ちこたえる事ができるのか、藍がふいにそう思った時、隣に立っていた橙が膝を付いた。
「橙!」
苦しげな表情を浮かべ、荒く肩で息をする橙に手を貸そうとするが、一人分の支えを失った結界はますます悲鳴をあげ、ギシギシと軋むその音はいよいよ限界を迎えていた。
藍が一人で支えるには紫の力は余りにも強大すぎて、あまりにも無慈悲であった。
しかし、最早限界かと思えたその時、橙とは逆側から結界に向かって差し出される手があった。
「萃香………なんで」
「母様の神社………壊させたりしない!」
その瞬間、悲鳴を上げてただひたすらに耐えるだけだった結界は真っ向から力の奔流とぶつかり合い、そして相殺していった。
先程まで膝を付いていた橙もなんとかといった様子で再び立ち上がり、全身全霊を賭して己の力の全てを注ぎ込んでいく。
∽
どれほどその状態が続いただろうか、藍は足元に大の字になって荒い呼吸を繰り返す二人を見下ろしていた。
果たして幻想郷は無事に守られ、なんとかその場を凌ぐ事はできたのだった。
藍が二人を置いて結界の外に出てみると、そこには確かについ先程まで木々が生い茂り、山々がその峰を連ねていたはずだったのだが、そんな物は最初からなかったとでもいうようにただただ荒れ果てた荒野が広がっていた。
そして遥か前方、クレーターのように円形に窪んだその荒野の中心にひとつの人影があった。
ゆっくりと歩いて近づいていくが、その人影は膝を抱えてそこに顔を沈めて座り込んだままぴくりとも動かなかった。
「紫様………」
そっと声をかけてみるが、反応はなかった。
「紫様、幻想郷に戻りましょう。ここに居てはいつまた外の人間どもが来るか解りません」
「………」
全く反応を見せない紫に、藍はひとつ息を吐くと、失礼します、と言ってその身を抱き上げた。
飛び上がり改めて周りを見渡してみると、その荒野は結界の境の遥か向こう側にまで広がっていて、藍はよくもこれほどの力を抑えきれたものだと内心ぞっとした。
一方、藍に抱かれた紫は顔を俯かせたまま時折霊夢の名を呟くばかりで、結局その口からはそれ以外の言葉は出てこなかった。
しかし、藍が結界を越えようとした所で紫がようやくその口を開いた。
「待って」
「紫様?」
突然かけられた声に少し驚きの色を見せた藍だったが、もう大丈夫、と紫に促されてその身を下ろした。
自分の足で地面に立った紫だったが、それでもその場から動こうとせず、顔は相変わらず俯いたままだった。
やがてゆっくりと振り向くと、少し勢いをつけて後ろに立っていた藍に抱きついた。
「え………紫様?」
「………」
紫は何も言わず、ただ藍の肩に顔を押し付けていた。
そして藍もまた何も言わず、そんな紫の頭を優しく撫でていた。
きっと橙と萃香には自分のこんな姿を見られたくなかったのだろう。
そんな事を思いながら、小さく嗚咽を漏らす紫の頭を藍はかつて自分がそうされたように、優しく撫でていった。
暫くそんな状況が続いたが、紫も大分落ち着きを取り戻したようで、まだ俯かせてはいたが幾分いつもの顔に戻ったように見えた。
そして紫が先頭に立ち、結界を通っていく。
結界を越えた所には先程まで大の字になって倒れこんでいた二人の姿はなく、そこに見えたのは昨日までとなんら変わりのないいつも通りの幻想郷の景色だった。
そんな周りの景色など見えていないというふうに、紫は一直線に博麗神社の境内へと歩いていき、そしてその後ろを藍が追いかけた。
やがて見えてきた境内には橙と萃香、そして霊夢の他にレミリア、フランドール、咲夜がいた。
五人は境内に横たえられた霊夢を囲み、誰もがその顔を俯かせていた。
しかし、近づいてきた紫と藍の気配に気付くと、フランドールが紫の元まで歩いていき、きっ、とその顔を睨むように見上げた。
「ねぇ、あんたは全部知ってるんでしょ?応えなさいよ!なんで霊夢が!」
紫の胸倉を掴んで捲くし立てるフランドールだったが、紫は視線を合わそうともせず、その目は横たえられた霊夢へと注がれていた。
その反応にフランドールはますます語気を荒げ、掴んだ胸倉を激しく揺さぶった。
そこでようやく紫がフランドールへと視線を移し、小さく呟いた。
「………昼間の貴方に何が出来たというのかしら?」
「────このっ!」
ぽつりと漏らした紫の静かな問いに、フランドールは悪魔のような形相で紫を睨みつけ、左手で胸倉を掴んだまま右手を振りかざした。
紫は避ける素振りも見せなかったが、正にその拳が振りぬかれようとした時、フランドールの体に体当たりをするように萃香が抱きついた。
「やめて!紫はなにも悪くないの。わたしが………わた………わたしが全部悪いの!紫は悪くないの………だから………お願い、やめて………フラン」
一度乾いた涙の痕をまた溢れ出た涙が濡らし、しゃくり上げながら懇願するように自分を見てくる萃香を見て、フランドールは紫の胸倉を掴んでいた手を離し、両手をだらりと下げた。
「不穏な運命が見えたから来てみたけれど………紫、何があったのか説明してくれるわよね?」
その時を待っていたかのように、ずっとその様子を見ていたレミリアがそう切り出した。
ずっと俯いていた紫だったが、その声にレミリアの方へと顔を向けると、ぽつり、ぽつりと事の全てを語っていった。
「外の人間はね、私たちが思っているよりずっと強大な力を持っているのよ。私は魔力によってこの幻想郷を滅ぼす事だってできるわ。でも外の人間たちは科学によってこの幻想郷を滅ぼす事だってできるのよ」
そこまで話したところでずっと大人しく話しを聞いていたレミリアが初めて紫に問い返した。
「科学?なんなのよ、それは」
「それが外の人間たちの力」
「ようは、外の人間たちは紫並の力を持ってるって事なのね」
「違う、そうじゃないの」
「ちょっと、もっと解りやすく言ってよ!」
自分の理解を超えた話に癇癪を起こしたフランドールが再度紫に掴みかかろうとしたが、ずっと自分の服の裾を掴んでいた萃香がその力を強くするのを感じ、ちっと舌打ちをしてなんとかその場に押し留まった。
そして紫はもう全て話したといったふうにくるりと背を向けると、スキマを開いてその中へ身を消していく。
「ちょっ、待ちなさいよ!」
「フラン!」
「え………お姉様?」
「やめなさい」
何も言わずに去ろうとする紫に向かって、まだまだ言い足りないとフランが制止の声を上げたが、思いがけないレミリアの声に知らずと萎縮してしまった。
ちらりとその様子を顧みた紫だったが、結局最後まで何も言わずにスキマの中へと消えていった。
そして藍と橙が紫に続いてスキマへと消えていくと、そこには最初から何もなかったかのようにそのスキマは消えていた。
しかし、レミリアは見ていた。
幻想郷の中でも最強の妖怪であろう紫だが、スキマへ消えていくその背はこの場にいる誰よりも弱々しく、触れれば今にも音を立てて崩れてしまいそうな程に儚かったことを。
そして取り残された四人は再び霊夢を囲み、その場をただ沈黙だけが支配していく。
「とりあえず、このまま野ざらしにしていては可哀想です。お墓を作ってあげませんか?」
今までずっと黙っていた咲夜がそう切り出したところで、改めて母の死という現実を直視させられた萃香が一層声を上げて泣き叫んだ。
フランドールは自分に抱きついて泣き叫ぶ萃香をどうしたらいいのか解らず、そしてレミリアと咲夜も泣き叫ぶ萃香を見守る事しかできずにいた。
いつの間にか日は完全に沈み、空には星たちが己の存在を主張するかのように自身を輝かせていた。
顔を出した月はまだ満月には届かず、しかしその淡い光に照らされて、幻想郷は今日もまたその一日を終わらせていく。
境内にはただただ萃香の泣き叫ぶ声だけが響き、そして月明かりに照らされた霊夢の顔はどこまでも優しさに満ち溢れた笑みを浮かべていた。
数日後
朝、萃香は目を覚まして体を起こした。
僅かに開いた窓から入り込む朝日は今日も晴れだという事を教えてくれた。
徐々に頭も覚めてきたところで、自分の周りをぐるりと見渡す。
それは今までとなんら変わりのない部屋の中。
しかし、ひとつだけ変わった事があるとするのならば、毎日自分が起きた時には既に畳まれていた一組の布団が無くなっていた事くらいだろうか。
霊夢の朝は早かった。
もちろん萃香もそれないに朝は早く起きるのだが、それよりもずっと霊夢の朝は早かった。
そして萃香が布団を畳み、窓を開け、部屋を出て縁側を歩いていき、そこの角を曲がるといつも決まってそこに霊夢が座っていた。
「よぉ、お目覚めかい」
一瞬、萃香は自分の耳を疑った。
聞こえるはずのない声。誰もいないはずの場所。
しかしその声は確かに聞こえた。
萃香がドタドタと走って縁側の角を曲がると、確かにその人はそこにいた。
だがそこにいたのは見慣れた紅白の衣装ではなく、同じく見慣れた黒白の衣装。
萃香は何が起こったのかが判断できずにいたが、やがて目の前の光景を理解すると、小さく息を吐いた。
「どうしたんですか?こんなに朝早くから」
そう声をかけながら近づいていくが、黒白の衣装、霧雨魔理沙はそれには応えず、そして萃香にも視線を向けずにずっと空を眺めていた。
「あいつはいつもここから何を見ていたんだろうな」
萃香の問いには応えずに、逆に魔理沙が問いかけた。
しかしそれは問いかけというよりも、むしろ独り言のように思わず漏れ出てしまったような言葉だった。
それは萃香もいつも思っていたことだった。
何かあれば、いや、何もなければ母はいつもこの場所に座ってお茶を飲み、ただずっと空を眺めていた。
いつか訊ねようと思っていたのだが、ついにそれが叶う事はなくなってしまった。
そんな萃香の方を見ることもなく、魔理沙はその視線を少し下げて目の前に広がる雑木林に移すと、今度ははっきりと萃香に問いかけた。
「なぁ萃香。幽々子の所に行ってみるか?」
幽々子の所、つまりは冥界、白玉楼。
死した者の魂が集う場所。
そこに行けば、きっとまだ霊夢はいるだろう。
そこに行けば、きっと母に会えるだろう。
だがしかし、萃香は少しも悩む素振りを見せずに目を瞑り、その首を横に振った。
「ありがとうございます。だけど、それじゃ意味がないと思うんですよ」
「そうか」
最初から萃香がそう応える事が解っていたのか、魔理沙の応えはあっさりしたものだった。
そしてそれだけ言うと、魔理沙は傍らに置いてあった帽子と箒を手にとって、上空へと飛び立って行ってしまった。結局一度も萃香の方を見る事もなく。
「意外と寂しがりやさんなんですね」
やがて魔理沙が太陽の光の中へと消えていくと、萃香はついさっきまで魔理沙が座っていた場所、少し前まではいつものように霊夢が座っていたその場所に自分も座ってみた。
しかし、やはり母がいつもここから何を想い、何を見ていたのかは萃香にも解らなかった。
暫くはぼんやりと空を眺めていたが、やがて立ち上がってよし、とひとつ頷いて両手をぐっと握ると、境内の方へと駆けていった。
その途中、一度だけ立ち止まり振り向いた先にはひとつの墓石。その前には誰が置いていったものなのか、紅花の束がひとつ、ふたつ。
それを見た萃香は笑顔を浮かべると、また前を向いて駆けていった。
博麗神社から少し離れた空の上、夏も近づきまだまだ熱したりないと一層照りつける太陽の下、魔理沙はゆっくりと飛びながら眼下に広がる大地を見渡し、そして雲ひとつない空を見上げた。
暫くそのまま留まってみたが、それでも霊夢がその先に何を見ていたのかはやっぱり解らなかった。
そして魔理沙が飛び去った空の下、遙か下方に広がる草原に雫が一粒、太陽に照らされて輝いていた。
外の世界も幻想郷も、春が過ぎ、梅雨が明け、伸びる枝を桜色に染めていた木々はその花を散らせ青々とした葉をつけ、吹く風はどこからか夏を連れて来る。
しかし、春風と共に去っていった一人の人間の事を、人々は知らない。
「幽々子、暫く世話になるわ」
「あら、霊夢じゃない。意外と早かったわね」
「そうね。でも未練も後悔もないわよ」
「それはまた残念な知らせだこと」
「だって、娘を守れたのよ?母親としてこれ以上嬉しい事はないわ」
「あらあら、霊夢でも親になれば変わるものなのね」
「何か失礼な言い方ね………」
色々思うところはありますが、今後の更なる展開を期待しています。
ていうかさ。霊夢の旦那って誰?
既存の作品とは一線を画す作品という事で、俺としてはこれが完結するまでは色々気が気でならないでしょうな。ともかく期待。
それはそうと人間組三人は、容姿が全く変わってないと夢想してましt
>Hodumiさん
確かに不鮮明な部分が多くなってしまいました・・・。
自分でもどうにかしたかったのですが、中々いい言い回しが思いつかずに挫折。
霊夢の旦那の件は数パターン考えていたのですが、
どれを採用したとしても刺されそうだったのであえて言及しませんでした。
とりあえず確かな事は香霖じゃないって事だけです。きっと。
>もぬさん
もったいないお言葉、ありがとうございます。
自分でも書いてて「いいのかこれ?」とか思っていたりもするのですが、
これもまた一つのifの世界としてお楽しみいただければ幸いです。
人間三人は・・・そんなに変わってないんじゃないですかね?
まだ皆三jy(マスタースパーク