この暗くジメジメとした環境の下、狭っ苦しい室内でその作業は行われていた。
本来は広い部屋なのだろう。しかし、部屋の隅から山と積まれた様々な物品が作業環境を占拠し、
その部屋の容積を食らい尽くしていたものだから、そう見えるだけである。
空間的に狭いと感じることは、精神的な圧迫すら伴う。
閉所恐怖症であろうとなかろうと、うず高く積まれたそれらは、何時自分に対してその身を降りかからせてくるのか、
想像するだけでも恐ろしく感じるのも無理も無いだろう。
加えて、薄暗さによっても視界が限定されるのだから、負の方向に向いた想像が黙々と沸いてきてもおかしくは無い。
しかし、そんな劣悪な状況下にも慣れているのか、部屋の主は気にかける事も無く作業を進める。黙々と。
「くっ!」
額からしたたる汗が瞼を越え、目に入って刺激する。
それを阻止する為には、眼鏡をずり上げ手の甲でごしごしと擦りあげる必要がある。
しかし、今の状況でそんな事が出来るわけが無い。なにせ精密作業を行っているのだ。
自らにそう言い聞かせると、脇にあった手拭で汗を吸い取ることにした。
「もう少しだ……もう少し……」
眼鏡を元の位置に戻し、再び作業台に視線を向ける。
秤に載せられ、山と積まれた白い粉を、慎重な手つきで掬い上げる。
匙を持つ手が震えて粉末が飛び散る寸前、己の自制心を鋭敏化させて手の震えを止める。
一匙分の粉末を掬った。
秤の針が、赤い印を飛び越して止まる。
トン、トン、トン、と匙を持つ手を叩き、粉末を皿の上に零すと、痙攣するように針が動く。
後三目盛り、一目盛り、僅かに飛び越した。舌打ちする霖之助。
至極丁寧な手つきでもう一度粉を掬い上げると、針が赤い印の場所で停止した。
「ふむ……」
秤の皿を指でつつき、針を意図的に揺らす。
暫く上下へぐらぐらと動いた後、針は再び赤い印のところで身を止める。
その様子を見た霖之助は、安心した様子で秤に乗っていた皿を取り上げ、粉末をボウルの中へと移す。
後の作業は非常に雑然としていた。まるで先程の作業など気にも止めない様子で次々と放り込まれる材料。
ミルク、甘味料、バニラエッセンッス、卵、溶かしたバター、そして何かの細切れ。
それらを雑然と放り、泡だて器でかき混ぜる。
均一に混ざって、黄色味を帯びたクリーム状のそれを、深さを持った窪みのついた鉄板に垂らしていく。
本来はたこ焼きを作るはずの鉄板であるが、現在の利用者である森之助は、それを知らない。
鉄板が火にあぶられ、中身の流動体がポコポコと泡立ち始めた頃、手拭で額を拭って一息。
「ふう、後は焼けるのを待つだけか」
「……」
「はっ!?」
一瞬だけだが、視線を感じた。
店内に視線を巡らせるが、誰の姿も見当たらない。
試しにそこら辺に積まれている代物を一つ二つどけてみたが、雪崩を起こしそうになったので止めた。
近くにあった魔理沙なら入れそうな空き箱を空けてみたが、見慣れた黒帽子が出てくる事は無い。
「気の……せいか」
普段からこの部屋に篭っているのは霖之助だけであり、客が入ってくる事は殆どない。
では、客ではない誰かが入ってくるか? と言うと、それが入ってくるから困ったものだ。
霊魂やら何かの妖精、虫の類はどうしても入ってきてしまう。紛れ込むと表現した方が良いかもしれないが。
もっとも、それらの侵入を阻止する事自体が難しいから、特に防衛しようとも思わない。
それともう一つ、いやもう二人。侵入を阻止できない者達が居る。
言うまでも無く博麗霊夢と霧雨魔理沙の2名の事なのだが……
今日はどちらも来ていないらしい、胸を撫で下ろした。
「特に魔理沙は危険だからな、こんな姿を見られたらたまったものじゃない」
そう呟きながら白いフリル付きエプロンの紐を締め直す、お世辞にも思い切り似合わない。
鉄板から甘い匂いが漂い始めると、その上に平たい別の鉄板を重ねてぐるりとひっくり返す。
そのまま炙りながら数分後、窪んだ方の鉄板を上に跳ねあげると、鉄板には半円状の物がずらりと並んでいた。
「やれやれ、今回も成功か」
普段は飄々としている表情に安堵が浮かんだ。
湯気を立てている半円状の物に手を近づけて、温度を測る。
「後は冷めるのを待つだけだな、早い所袋詰めにしよう」
「……」
「はっ!? 又視線が?」
きょろきょろとあちこちを見回すが、とりあえずは何の姿も見当たらない。
「魔理沙がどこかで見ているかと思ったけど……いないか」
もう一度、今度は物陰なども慎重に見てみたが、やはり誰もいない。
さすがに気のかけ過ぎなのだと自嘲しながら片付けを簡単に済ませ、疲れた様子でその場を後にした。
霖之助の姿が消えた店内は、無人となってしんと静まり返った。
――数分後
「ところがしっかり見られてる~♪」
ひょこ
「一度調べた箱の中~♪」
空き箱が中から開かれ、特徴的な黒いとんがり帽子がにょきっと生えてきた。
「油断大敵♪ 確認ミスは、大きなミスを招く元~♪」
陽気な歌を歌いながら出てきたのは、当然魔理沙。
一度調べた箱の中なら、二度も調べられる事はないだろう。そう踏んだ彼女の直感は正しかった。
霖之助はあっさりとこの箱を無視し、まんまとこの店に進入する事が出来たのだった。
「やれやれ、ついつい隠れてしまったが、なかなか面白いものを見せてもらったぜ」
魔理沙の脳裏には、先程の霖之助のエプロン姿がしっかりと記憶されていた。
真っ白でストレートなエプロンにフリルが生えたそれは、思い返すだけでも再度大爆笑出来る。
しかも、恐ろしく慎重に事を運ぶ際の表情がまた笑える。
本人は必死なのだろうが、鼻息が粉を飛ばさない様に顔面を硬直させている際、
鼻の穴がヒクヒクと膨らんでいる様子は噴飯物で、箱の中で笑いを堪える事が辛かった程だ。
「さ・て・と。香霖は何を作ってたんだ? 元々作業をする時は、私達を遠ざけていたけど」
霖之助が行う作業の中には、物品自体を混ぜ合わせる等の危険な作業が伴う事がある。
やはりそのような時は彼女達を遠ざけておいた方が良いのだろう。精密作業や危険作業は、落ち着くに越した事は無い。
しかし、そんな霖之助の気遣いも、溢れんばかりの……文字通り溢れている彼女の好奇心をなだめる事は出来なかったらしい。
暴走気味の好奇心は、ついに霖之助の作業場に潜り込むと言う行動を実行に移してしまったらしい。
「……見たところ、前衛的なオブジェとも言えそうだな」
それは狐色をした半球状の何かにしか見えなかった。
先程の作業工程を見ている限り、食物であろう事。特に材料からすれば、クッキーだと思われるのだが……。
いかんせん、仕上げの焼き上げの工程が従来のそれとはかけ離れて、奇妙すぎたからだろうか。
ただ単に霖之助にクッキーの調理の知識が無かっただけなのか、この産物はクッキー以外の何かに見えた。
本来クッキーは鉄板の上に乗せてオーブンで焼き上げる物だから、たこ焼き器で焼くはずが無いのだから。
無論魔理沙にもたこ焼き器という知識は無いのだが。
「茗荷?」
すぐ側に茗荷が一つ転がっていた。さっきの作業中に転げ落ちたのだろうか?
確か、何かの細切れをボウルの中に加えていた筈。しかも色が微妙に赤かったから、この茗荷の細切れだったのだろう。
そう納得すると、彼女の興味は再び鉄板上の何かに向けられた。
「まあ、死にはしないだろう」
そして、その何かを摘み上げる魔理沙。
それは彼女がよくするように、一度上空に放り上げられ、一度動作を停止した後、弧を描いて落下。
そのまま大きく開けられた口の中に、1ミリも狙いを外さず飛び込んでいった。
☆
★
☆
★
博麗霊夢が香霖堂を訪れたのはそれから数分後の事だった。
彼女が香霖堂の表口をくぐって最初に見たものは、いつもの様に狭苦しい店内と、雑然と積まれた売る気の無い様な何か。
いつも霖之助が座っている彼愛用の椅子と、それに腰掛けて頭の上に星を浮かべながら、ぽややんとした表情の魔理沙だった。
「……なにやってんの?」
比喩表現ではなく、本当に星が浮かんでる。ふわふわと。
魔理沙の得意技として、相手に星をボコボコとぶつけるやたら物騒なボムや、被弾した後に星が飛び散るミサイルがある。
しかし、今の彼女の頭上で5つの突起を持つ何かが、シオナイトの様にくるくると回っている状態は見たことが無い。
その現象が何なのかを考える前に、自らの意志を持つように星たちが一箇所に集中を始める。
ぐるるるるるるるっ……っと、音を発てて集まった星達が自ら輪郭を崩し、お互いに混ざり合う。
やがて、一つの塊になったものが複雑な形状にぐねぐねと変化して、癒着・凝固を始めた。
「何これ?」
その固まった物体が不意に『ぽとり』と、重力に引かれて落ちた。
魔理沙の帽子の鍔で一度弾み、地面に落ちる前に霊夢の手で受け止められる。
出来たての為か、まだ生暖かいその物体は、猫の形のクッキーだった。
「……何これ?」
先ほどと同じ台詞を呟く霊夢。
もう一度手の中を見るが、それはクッキーにしか見えない。
原料がさっきの星である事は間違いないし、魔理沙上空で生成されたのだかから、彼女に関わっている物なのだろう。
従って、今現在かなりの空腹状態であるとは言え、この物体を口にするのは躊躇するものがある。
霊夢は魔理沙ほど冒険的ではないのだ。
「おーい、魔理沙~」
ゆさゆさゆさゆさゆさ
「んにゃ? ……れいむぅ?」
「れいむぅ、じゃないでしょ。どうしたのよ」
「んぁ……悪ぃ、ちょっくら寝てたらしい」
「こんな所で寝たら、風邪引くわよ。じゃなくて、何があったの?」
「……???」
ぼやーーー
どうやら、魔理沙はまだ半分夢の中の住人であるらしい。
霊夢を見つめる目は三白眼で、焦点もろくに合ってない。多分今の現状も理解できてないのだろう。
店の奥にて、同じく夢の世界の住人だった霖之助がその場に姿を現したのは、そんなタイミングだった。
「……騒がしいと思って期待したんだが、お客ではなかったようだね」
「あ、霖之助さん。魔理沙が変なの」
「だれの頭が変だって? それとも変なのは神社の賽銭箱の中か?」
「……確かに変だな。いつもの切れが無い」
「でしょ? いつもならもっとパンチの聞いた事を言うはずだし。……じゃなくって」
「つまりはアレ、私は星破壊の船に追われるお姫様で、口の利けない使い魔と関節の硬いマリオネットに伝言を頼んで……」
ゆさゆさゆさゆさゆさゆさゆさゆさゆさゆさ
「おおおをを? おいおい、おい! 解ったよ、目を覚ますから揺するな! 帽子が落ちる!」
「世話が焼けるわね、とっと目を覚ませばここまでやられずに済むのに」
「……水持って来たぞ」
水を一気飲させたらとりあえずは落ち着いたのか、魔理沙の目も三白眼から通常モードへ移行。
とりあえずは、普通に会話が出来そうな状態まで復旧させた。
「で、人を睡眠と言う快楽の世界から追い出してまで私を呼び戻したんだ。さぞかし面白い話題が用意されてるんだろう?」
「面白いかどうかはこれから解るけどね。これは何?」
差し出された霊夢の手上の物体は、先程の正体不明のクッキーだった。無論魔理沙にも何なのかは解らない。
何処から見てもクッキーにしか見えず、振っても、弾いても、重さも匂いも何気ないクッキーにしか見えない。
魔理沙が一口齧ってみようとしたが、そもそも歯を受け付けない。やたらと堅かった。
先程の状況を説明したが、どうやら魔理沙自身も何も覚えていないらしく、きょとんとするばかりで一向に話が進まない。
作成者の魔理沙が知らない以上、霊夢に解答が出せる筈も無い。
「ねえ、霖之助さんはなにか解るかしら?」
「…………」
「霖之助さん?」
「…………」
霖之助がさっきから沈黙している。ぴくりとも動かない。
よほど集中しているのか、腕を組んで顎に手を当て、霊夢の問いかけにも反応する様子を見せない。
霊夢と彼との付き合いは長いが、未だに解らない部分が多々存在する。
このような時は彼が何を考えて、どのような反応をするのかが予想もつかない。
その霖之助が不意にがっしと魔理沙の肩を掴み、正面から見据えて来た。
「香霖?」
「魔理沙、何か猫に関することで忘れてしまった事は無いか?」
「……え? 猫?」
「それだけじゃない、何か自分の記憶から抜け出てしまった事。自分の過去に何か抜けが無いか?」
「ちょ、ちょっと……」
「思い出せなくなってしまった部分、どうしても思い出せない場所はなかったかい? どうだい?」
あまりにも突飛な質問に吃驚する魔理沙、しかし霖之助はそんな態度に構わず次々と質問を投げかけてくる。
「何か引っかかる部分があればそれでいい、これは重要な事なんだ」
「ちょっと待ってくれよ、五月雨みたいにまくしたてられても、訳がわからん」
「ちょっとちょっと霖之助さん、それじゃ答える物も答えられないわよ」
二人から同時に諭されて、ようやく自分の行動に気が付いたのか。
魔理沙の肩を掴む力が少し強かったみたいだ。実にすまなそうに手を放した。
「……すまん、ちょっと焦っていたみたいだ」
「どうしたよ……香霖らしくないぜ?」
強すぎる握力で掴まれた肩をさすりながら、だんだん彼の事が解らなくなって来た。
これだけ切迫した彼を見た事は殆ど無い。いや、過去に一度だけある。
まだ自分が幼い頃、どうしても触れてはいけないと言われた物を触った時だった。
確か、大事に箱にしまわれていたティーカップか何かだったと思う。
わざわざ隠してあったそれを見つけ出し、当然のように振り回して遊び、当然のように放り投げて、当然のように壊した。
粉々になったティーカップを見た霖之助の表情は、一度青ざめて、無表情になり、その後怒りの表情になった。
あの表情は忘れられない。その後の事は、記憶から消し去りたくなる程の悪夢だったはず。
昔の事だからなのか、それとも単に嫌な事だったので、記憶がぼやけてしまったのか。
ただ、尻を何度も叩かれた事だけはしっかりと覚えていた。
「……香霖」
少し心配になって、もう一度声を声をかけてみた。
自分でも驚くほどの弱気な声しか出なく、その場の雰囲気を宥める事も出来ない。
そんな魔理沙を見た霖之助は、この雰囲気が自分の所為で作り上げられた事に気が付いたのか、
一度深呼吸後、肩の力を抜いて自分を落ち着かせ、ゆっくりと語り出す事にした。
「そもそもの原因は、さっき魔理沙が盗み食いしたクッキーの所為なんだ」
「盗み食いとは人聞きが悪いな。味見兼毒見兼人体を使用した研究と言って欲しい」
「無断で行っている以上、どっちも同じようなものでしょ。はいお茶」
気を利かせた霊夢がいつもの様に店の奥で、いつもの様にお茶を淹れてくれた。
この何気ない気配りが今日に限ってはとても暖かく、非常に有り難かった。
――――――
――――――
「結論から言ってしまうと、これは魔理沙の記憶なんだ」
「このクッキーが?」
猫の形をしたクッキー。
手で握り締めても潰れず、水につけてもふやける事も無く、やたらと堅いので齧る事すら出来ない。
手も足も出ない上に、カッチリと固まっておきながら、その正体は不明。
ある意味自分らしいが、そんな事は心に思っても口には出さなかった。
「クッキーのように見えるけど、それは単なる見せ掛けだ。それがそんな形を取っているのは、それが概念の塊の所為なんだ」
「ふぅん、依り代としてクッキーを使ったのね」
「さすがは霊夢だな、一発で見抜かれるとはな」
「つまりだ、何らかの方法で記憶を私の『外』に取り出して、それ自体を固定化させているんだろ?」
「!」
「そんなに驚く事は無いだろう? 話の内容から考えれば予想はつく」
「……」
「それで? なんでクッキーを食べて、記憶を顕在化さているの?」
「うん、それは……その、なあ……」
言葉を濁す霖之助。
やはり何か言い難いのだろうか、ついっと視線を逸らしてしまう。
「霖之助さん、そんなに黙りこくる程悪い事じゃ無いんじゃなくって?」
「霊夢……これは……」
「まどろっこしいぞ香霖! 威勢が良くないのはいつもの事だが、今日は落花生にも劣る程の暗さじゃないか」
「素直に意味が解らないんだけど」
「表面から見ても解らないんだ、地面に潜って実をつける程暗いって事さ」
「仕方ない……ちょっと落ち着かせてくれないか」
彼はそれだけ言うと、一気に湯飲みの中を飲み干してしまった。
もう一杯飲もうとして急須に手を伸ばすと、既に霊夢がお代わりを淹れている。
お茶の湯気と薫りが、ささくれ立った霖之助の心を、暖かく、やんわりと解きほぐしてくれた。
「魔理沙、嫌な事は嫌いかい?」
「……聞かれるまでも無くかつ文字通り嫌だと思うが」
5分後、沈黙を破って放たれた問いかけが相手にとって理解不能ない為か、さらに新しい疑問を生み出した。
「なら、このクッキーは僕が預かろう。その方が良い」
「そのまま記憶泥棒と成り果てるのか? 新しい職業にしてはハイリスク・ローリターンな気がするが」
「儲けるだけが職業じゃないでしょ」
「霊夢、新しい事は大概儲けが付き纏うものだぜ。みんなが真似するからその儲けが少なくなるのさ」
「働く喜びは何処に消えたのよ、新しい事の先には喜びが待ってるとは限らないのよ」
「そうやって昔ながらの職業に固執する事は、頭をゆで卵のように堅くするだけだ」
「古い職業で悪かったわね、そう言う貴女はどうなのよ? 古い魔女なんて真っ先に淘汰されるんじゃなくて」
「魔法使いは常に先進的な知識を要求されるのさ。時代に乗り遅れた古式な巫女とは違ってな」
「……あーもしもし? 会話がずれて行くずれて行く」
このままではいつもの様に果てしなく会話がずれていくので、永久パターン防止の為に強制割り込み停止実行。
「でだ、結局の所は私の体に何をしたの? 誰にも触れさせてないまだ無垢な私に」
「これはね、魔理沙の『嫌な』部分の記憶を取り出した物なんだ」
「……え?」
それまでその場に漂ってた和やかな雰囲気が、一瞬にして冷却された。
霖之助の表情はぎりり、と締まって真剣そのもの。さすがの彼女たちも真剣にならざるを得ない。
「嫌な事って言うと……」
「お仕置きを受けたり、私の家のコレクションが何時の間にか消えたりと」
「それが君たちにとって、嫌な事ならそうだろうな。この……」
猫の形を模したクッキーを指で玩びながら語りつづける霖之助。
「この猫も、魔理沙にとって嫌な事なんだろう」
「……私と猫?」
「猫の思い出ねぇ、私の方は心当たり無いけど」
さすがの魔理沙も、これには頭を抱えざるを得なかった。
そんな事を気にした事は無かったし、そもそもその部分の記憶がクッキーになってしまってるので、全く思い出せない。
長く付き合っている霊夢も知らないとなると、相当昔の事か、自分にとっての極秘事項なのだろう。
「本人が『辛い』と感じる記憶、その部分をピンポイントで選び出して抽出する。これはそんな代物なんだ」
「何で又そんなものを作ってるの?」
「……」
「結構注文が多くてね、買いに来る人たちの表情は、皆例外なく暗く沈んだ表情なんだよ」
「『忘れる』為に?」
「……」
「そう、記憶を操作出来る妖怪にでも付き合いが無ければ、こんな物に頼るしかないんだよ」
「だからって……いや、人がどう思うかは人次第……かしら」
「……」
2人の会話は、魔理沙の耳には全く入ってなかった。
彼女は今、自分の思考の海の中を彷徨っていた。
何故猫なのか? その事が頭の中を渦巻いている。
魔法使いと猫は切っても切れない存在である。魔力の源として猫を飼う事自体、珍しくない。
別に黒猫でなくても良い、何故今まで猫を飼わなかった理由もよく解らない。
まあ飼っていない以上、飼う必要を感じなかったから飼わなかっただけなのだろうと、一人納得することにした。
「嫌な事を強制的に思い出す必要は無い。君が年を得て、昔を思い出したくなる頃まで、僕が責任持って預かろう」
「……霖之助さん」
「……」
「辛い事なんだ。今はその、こんな形で留める事しか出来ないけど……」
「……」
「……魔理沙」
ずっと沈黙を保っていた魔理沙が顔を上げる。
「香霖、その記憶は今すぐにでも私の中に戻せるのか?」
「!」
「いいの? それ、辛い記憶なんじゃ」
「すまんが霊夢は黙っててくれ、これは私自身の事さ」
「……うん」
「戻すのは簡単だよ、だけど……」
「なら決定だ、すぐに用意してくれ」
「……わかった」
準備はすぐに整った。
別段、何かの大道具を使用するわけではなく、大掛かりな儀式を行うのでもなく、巨大な魔方陣を敷設したりもしない。
ただ霖之助が、店の奥から持ってきたコップに一杯の酒を入れて持ってきただけだった。
「酒を飲みながらそのクッキーを齧る、これだけで記憶はすんなりと戻っていくよ」
「サンキュな」
それだけ言うと、文字通りコップを奪い取る魔理沙。
霖之助は一瞬だけ眉をしかめて、しかしすぐに気を取り直し、もう一度宥めるように語りかける。
「なにも今すぐ戻さなくても……」
「香霖よ、これは私の記憶だ。私が決めるんだぜ」
「……解った、ただ一つ注意するt」
霖之助の忠告が耳に届く前にクッキーが宙に弾かれ、続いてコップの中身が喉に飛び込む。
その場の誰が止めに入る隙も無く、個体となった記憶と液体が魔理沙の口で結婚式を挙げる。
約2.7秒の早業で、全てが魔理沙の胃袋の中に消え去った。
「!」
ごくん
霖之助の表情が驚愕に彩られるのをしっかり見届けておきながら、音を鳴らして全てが飲み込まれる。
数秒間沈黙が訪れた。
霖之助は目の前で起こった事に対し、とっさな判断が出来ずに沈黙し。
霊夢はそもそも自分が出る幕ではない事を察してか、沈黙を保ち。
魔理沙は他の誰かが何かの行動を起こすのを待ってか、沈黙する。
ようやく硬直状態から抜け出した霖之助が、慌てた様子で魔理沙に向かい、
「は……早く吐き出すんだ」
「やだね」
「違う、そんな意地を張ってないで、今すぐに!」
それに対する返答は、魔理沙の鋭い平手打ちだった。店内に弾ける音が響く。
「私を舐めるな香霖! 私の記憶は私が扱うものだぜ!」
「う……」
いつも平静な霖之助が気圧されている。頬に真っ赤な手形がくっきり刻み付けられる。
しかし魔理沙はそんな事は気にせず、更に言葉を続ける。
「これは私の、私自身の問題だ! 私が体験して、私が感じた私の一部だ!!」
「魔理……」
「辛かろうが何だろうが、その小さい出来事が存在して、それが積み重なって初めて私が存在するんだろ?」
「……」
「つまりな、嫌な記憶を否定するという事は、今の私自身を。『今ここにある、私が作り上げて来た私』の存在を、
否定すると言う事なんだよ! それ解ってるのか!?」
霊夢も霖之助も、ここまで激昂する魔理沙を見た事が無かった。
今の彼女は、普段表面に取り付けている共感や愛想が取り払われている、言わば素の状態である。
素の魔理沙の激しさに気圧され、2人は何一つ言葉を発する事が出来なかった。
「自分にとって辛くない、良い部分だけを見て、これだけが良いと思える部分だけを都合良く積み上げられ程、
私は人間が出来ちゃ居ないんだ! お前さんが私の事をどう思うかなんて知らんが、それを私に当てはめるんじゃない!!!」
「魔理沙、違うんだ。勘違いだ……」
「何が違うか! 解らなければ何度でも言おうk、ふげぇっ!?」
魔理沙が突如、胸を抱きしめてその場にうずくまる。
何かが彼女の心を激しく熱する。いや、焼き焦がすような衝撃が襲い掛かって来た。
「魔理沙、どうしたの!?」
「うぐ、げ、ぎぐっ……おっ……」
「いかん、やはりこうなったか!」
「魔理沙しっかりしてよ、魔理沙ぁ!」
「うぎぎ……ぐああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
自分の中から吹き出てくる内圧に耐えられなくなり、恥も世間体も投げ捨てて床に転がる。
顔が真っ赤に染まり、苦悶の表情で自分の胸をかきむしり、それでも一向に納まらない心の悲鳴を口で代弁する。
魔理沙の精神が、心に火がついて、ごうごうと燃えていく。
「魔理沙、魔理沙ぁ!」
「霊夢、しっかり押さえてくれ! このままじゃ自分で傷つけかねない!」
「ぎあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!! ぐぼっ! あぐあああぁぁあアァァァアアア!!!!!!」
霊夢と霖之助の2人に押さえつけられて尚、両足が激しくばたつく。
店の一部の何かが雪崩を起こす程の振動を起こしながら、足と手を床に叩きつける。
舌を噛まない様にと、魔理沙の口に突っ込まれた霖之助の手が血に染まる。
あまりに体を痙攣させて暴れた為、魔法使いの帽子が床を転げ、山となった商品に乗り上げた。
「魔理沙、魔理沙ぁ……」
「耐えろ、耐えるんだ……」
何度も自分の名前を呼びつつける半泣きの霊夢と、しっかりと押さえつける霖之助の声を耳にしながら、
魔理沙の意識は徐々に暗い闇の中に引きずり込まれていった……。
――――――
――――
――
―
・
・
・
『ああ、私は夢を見てるんだな……』
直感だが、すぐに解った。
意識が鳥瞰状態で見下ろす形であり、落ち着きの無いふわふわとしている。
自分の体の機能の一部しか働いていないが、それをなんとなく自覚していない状態。
『懐かしいな……』
眼下にはなんとも例え様の無い暖かさを持った思い出が漂っている。
いまの魔理沙は、その思い出を上から傍観者のように、ただぼんやりと眺めている。
思い出の中に、小さい黒帽子がチョロチョロと動き回っていた。昔の自分がそこにいた。
自分で自分の頭を見下ろすのは奇妙な気分だったが、思い出というのはそんな物なのだろうと、何となく納得する。
下に。
そう思うと、視線がぐっと下に降りる。
小さい帽子が見る見る近づいてきて、ぶつかる寸前で止まる。
昔の自分より少しだけ高い視線で、今の自分の視線でぴたりと停止した。
『当たり前だけど、昔の視点がこんなに低かったなんて……』
小さい肩を必死に上下させながら、帽子を揺らして歩く自分の後姿を見ると、何故か可笑しくなった。
忘れていたものを取り戻した気分になり、少しだけ懐かしい気分だった。
視線を昔の自分の前に移す。
必死に息を切らせながら自宅に向かう自分の胸には、老いた黒猫が抱かれていた。
『あ……』
いきなり命中か、捻りも何も無く問題の核心に到達してしまった。
とすると、これは先程話題になった私の『嫌な』思い出なのか?
そんな事をぼんやりと思い浮かべていると、視界が開ける。眩しい。
自分自身が移動しているつもりは無くても、昔の自分が基点になって移動しているらしい。
眩しさに慣れて来た頃、ある建物が見えてきた。
『昔の……家』
昔の自分が実家に向かって走っている。後になって飛び出した家だが、この頃はまだ自分の家だ。
何気に複雑だが、自分の思い出にケチをつけても仕方が無いと諦め、その後の自分を見守る事にする。
昔の自分が家に入ると……思い切り怒られた。
聞くに耐えない罵詈雑言の嵐だったが、『今の』自分にはどうと言う事は無い。
しかし、昔の自分にはよほど応えたのだろうか。
体を震わせながら、親を睨みつけて感情に任せた罵詈雑言の応酬を行っていた。
バン!
耐えられなくなったのか、乱暴に扉を空けて、廊下を駆け抜ける。
行き着くところは解っている。昔の自分が行くところはあそこしかない。
視線が移動。小さい自分が息を切らせながら、納屋の扉を自分の体分だけ開けて飛び込む。
『で、寝藁に飛び込むんだよな』
柔らかい寝藁に飛び込むと、老いた黒猫がひょいと顔を出して、顔を舐めてくる。
顔を舐め終わると、今度はしなやかな体を魔理沙の体に擦りつけ、それを受けた魔理沙が猫の体を抱き寄せて撫でまくる。
体中に寝藁を付けながらゴロゴロと転がるその姿は、使い魔との親睦を深めているそれではなく、友人とじゃれ合っている。
そんな表現が似合った。いや、現に友人だったのだろう。
使い魔としての魔力の『繋がり』が一切見えない。正しく、心を許せる友人と言えたのではないか。
昔の自分の表情は、それほどに喜びに満ちていた。
『そんな時間を邪魔するものが……』
徐々にその時の記憶が、水に溶ける粉のように染み渡り、魔理沙の中に蘇って来る。
次に起こる出来事が、ふつふつと頭に思い浮かぶ。何が起こるのかは大体解った。
納屋の扉が荒々しく開かれ、それと共に罵声が飛ぶ。
罵声の主の視線が、服についた藁屑に注がれている。
もっと女の子相応の振る舞いをしろだとか、汚い猫など捨てろだとか言われているが、一切耳に入らずに無視する自分。
いつもの応酬が終わると、再び納屋は自分と猫だけになる。
2人だけの楽しい空間、閉鎖された空間、いつまでも変わらずに楽しく過ごせる場所がそこにあった。
使い魔などにする物か、何故なら2人は友達だからだ。
絶対に物扱いなどするものか。
『……確か……』
老猫と共に過ごし、1年程経った頃だった。
日毎日毎に老猫が姿を消す事が多くなっている。
猫だからか、1日~2日程姿を消す事があったが、それにしても最近は多すぎる。
不安に駆られて、首輪につけた宝石を座標に探知魔法で探し出す事が多くなってきた。
その都度「そんな猫は捨てろ」だの「新しい元気な猫を飼ってやる、それはあきらめろ」など下らない事を言われる。
いい加減にしろ。
うるさい。
『……やめろよ』
昔の時間が早回しで流れ込んで来る。
時間が加速度的に流れ、それに比例して記憶が次々と蘇る。
先が読めていく、この先何が起こるかが何気なく解る。
昔の自分に伝えたい、その先に進むなと伸ばした手が、小さい自分の肩を貫いた。
『干渉できない、のか』
見守る事しか出来ない。その事実が、愕然とさせた。
これから起こる事を回避させたくても、それが出来ない。
試しに大声を出したが、小さい自分は気が付かない。ただ見守るだけ。
『止めろ……』
あるべきものを見つけたからか、時間が通常の流れになった。
出かけるつもりなのか、小さい自分が箒に跨って空を飛んで行く。勿論胸には老猫を抱いている。
声は届かず、小さい魔法使いがのんきに空を舞う。
『止めろ! そこから先に行くんじゃない!』
無駄だと解っていても、叫ばずには居られなかった。
気が付いてくれ、と願いを込めて自分を抱きしめる。
しかし、手は空を切りなんら影響を及ぼさない。
小さい自分が何かに気が付いた。
下方にぽつんと小さい森がある、いかにも何かがありますと言わんばかりの存在感があった。
力の弱い妖怪だった。だが、いっちょまえに人を攫って迷惑掛けている小生意気な妖怪がいた。
少し離れた所に老猫を置き、自身満々の表情でその妖怪に突っかかっていく自分。
なんて無謀なんだ! どんなに弱い相手でも、舐めてかかれば痛い目に会うのだろうに!
『逃げろ、早く逃げろ!』
「邪悪な妖怪め! 私が退治してくれる!!」
魔法の力を試したかったのか、それとも幼い正義感がそうさせたのか。
予想通り、なんの捻りも無く直線的に飛び込んでいく小さい自分。
一方、妖怪は直接戦う愚を選択せず、森の中に身を翻す。この時点で結果は見えていた。
自分に不利な場所での戦闘を強いられる際には、それなりの技量や対応する為の経験が無ければ勝利を得る事は出来ない。
そして、先程の行動からしても解るが、当時の自分にはそんな技量も経験も持ち合わせては無かった。
客観的な視点で見ると解る。
直線的にしか飛ぶ事の出来ない自分が、木々の間を縫うように隠れる妖怪にダメージを与えられる事が出来ず、
逆に木々の隙間から妖怪からの攻撃が、次々と襲い掛かってくる。
妖怪の攻撃は、ある意図に従って行使されていた。
徐々に攻撃の弱い部分、弾幕の薄い所に相手を追い詰めていく。
僅かに相手が逃げ出せるような個所を作り出し、そこに誘導するような攻撃方法。
『馬鹿、そこは……』
弾幕を抜けて、飛び出した所に罠が仕掛けられていた。
前後左右に、移動速度が遅い大粒弾が張り巡らされ、迫ってくる。
一か八かで弾幕の間に飛び込み、そして未熟な技量が祟って被弾する。
大粒弾が破裂、自分の推力では押さえ込められない衝撃波によって、軽々と吹き飛ばされた。
『やめろ……やめてくれ……』
目を閉じてみたが、画像が直接頭の中に浮かび上がる。
耳を塞いだが、音が遮られるる事無く、脳裏に直接響いてくる。
何をしても、その場から目をそむける事が出来ない。
『やめろおおおおおお!!!!!!』
絶叫が空しく響き、自分が吹っ飛んでいく。
そして、勢いをそのままに地面に叩きつけられた。
来るべき時が来た。
『ああああああああ…………』
「あれれ? 痛くない?」
地面に叩きつけられたはずなのに、その場に転がっただけで、痛みが襲ってこなかった事に首をかしげる自分。
あの勢いなら、骨折くらいは覚悟しなければならないのに……
それに、叩きつけられた際に、地面とは違って異質な感覚が合った。
その異質な感覚が、勢いを相殺して自分を守ってくれた筈だ。
何だろう?
『見るな、見るんじゃない、そんなものを見せないでくれ!』
「何かあるよ、何だろう?」
目を潰せるなら潰したい。
その場に立ち止まれるなら立ち止まりたい。
しかし、視点がそこにうずくまっている物を勝手に覗き込んでしまう。
今の自分の意識とは関係無く。
『見るなあああぁぁぁ!!!』
「……?」
老猫が血を吐いて倒れていた。
何故離れた場所に置いてきた筈の老猫がここに居るのか?
何故、自分の落下場所に老猫が居るのか?
老猫を拾い上げると、四肢がぐにゃりと変な方向に曲がった。
力無くぐたりと投げ出される足、到底力が篭っている体から返ってくる反応だとは思えなかった。
「……どうしたのよ、目を覚ましてよ」
自分がちょっかい出した妖怪はすでに何処にもいない、これ幸いと逃げ出したのだろう。
その場に残された自分は、既に虫の息の猫を抱えて家に帰ることしか出来なかった。
『馬鹿だよ……私は馬鹿だった……。何も知らない馬鹿だった……』
家に帰って真っ先に浴びせられた言葉は、
「守れもしないものを飼うからだ」
と、小さい自分の心を抉る一言だった。
小さい自分は納屋に篭って一晩中泣き明かしていた。
『そいつはな、もう自分が長くない事を知っていたんだよ。だから……だから……』
「死なないで……死なないでよぉ……」
涙で顔をベトベトにしながら、老猫を必死に抱きしめる。
子供向けの物語なら、涙が落ちた瞬間、傷が全快するなどの都合のいい展開になるが、現実は違う。
小さい自分は、老猫の体を抱きしめてただ泣く事しか出来ない。
魔理沙自身も、何も出来ない。ただその場に居るだけしか出来ない。
泣きたかったし、叫びたかった。
小さい自分と一緒に泣きたかった。
この時の気持ちが一番解るのは、自分自身である今の自分なのだから。
「う……うぅ……」
『うう、何で……こんな……』
老猫の瞳が動き、一瞬だけ魔理沙を見る。
その直後、老猫からふっと力が抜け、小さい猫の体が少しだけ軽くなった。
抱きしめた手の中で、徐々に体温が冷めていく。冷たくなっていく老猫の体。
幾ら小さい自分が愚鈍であっても、この自分を庇ってくれた小さい体から、魂が抜けたの解ったのだろう。
「うう……ぐすっ……うぇぇ……」
「『うわああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーー!!!』」
・
・
・
―
――
―――
泣き叫びながらベッドから身を起こした時は、ベッドに月光が差し込み、日が暮れて居る事を現していた。
まだ息が荒い。ゆっくりと深呼吸をして、強制的に呼吸を整える。
1、2、3……すう、はあ、すう、はあ。
胸を両手でギュッと抱きしめると、まだ心臓が恐ろしい勢いで跳ねていた。
あの時の事が忘れられない。あの日、あの時、私は自分のミスで友人を失った事。
最後まで自分と友人で居てくれたあの猫が、その命で自分の未熟を教えてくれた事。
辛く、悲しい事だったが、それでも決して忘れてはならない事。
「忘れてたまるものか……あれは、私の大切な一部なんだ……」
もう一度自分の胸を抱きしめた。
心臓の動悸は収まったが、今はこのままこの心地よい気だるさを味わっていたかった。
全てを取り戻し、やるべき全てを終えた時だけに得られる独特の気だるさを。
「魔理沙が気を失ったのはね、一気に記憶を戻してしまったからなんだよ」
急に声を掛けられたので、肩を震わせて飛び上がってしまう。
足に奇妙な感覚。ぐにっと何か暖かくて、重たい物が乗っかっている感覚が伝わってきた。
「霊夢……」
霊夢がベッド上で泣きながら寝入っていた。
魔理沙の足をしっかりと掴みながら寝てくれてたので、足がジンジン痺れている。
「ずっと君から離れなくてね、おかげで君をベッドに運ぶのに苦労したよ」
この時になって、自分が寝ていた場所が、霖之助の自室のベッドだと気が付いた。
顔に涙の跡がくっきりの残って酷い有様なので、タオルケットの裾でそっと拭う。
この際だから、タオルケットが誰の物なのかは気にしないことにした。
「本当はね、口の中を酒で濡らしながら、ゆっくりと齧るんだよ。
記憶一気に取り込んでしまうと、あまりのショックに気を失ってしまうんだ」
「それでも良かったと思がね、忘れかけていた昔をもう一度取り戻す事が出来たんだからな」
霖之助は、窓から差し込む月光を浴びながら、グラスを片手にちびちびとやっていた。
グラスに月が入ってる、歪んだ姿を液体の中に写して、ゆらゆらと揺らめいている。
頬が赤く染まっていたが、酒の所為だけではないようだ。
両頬にくっきりと紅葉が刻まれている。
「それ、霊夢か?」
「『魔理沙に何てことするんだ』って、思い切り叩かれたよ」
「馬鹿な奴だな、これは私の自業自得なのに」
「それだけ、君を大事に思っているって事さ」
月の明かりは人を狂わせると言われている。
それが、可視光線の変調による物なのか、それとも違う何かがそうさせているのか。
そのせいなのか、霖之助が片手に持って、時々齧っているものがクッキーだと気が付くのに、少し時間を要した。
「……そいつは?」
「君に言われて解ったんだ、どんなに辛い記憶であっても、それを忘れてはいけない。自分を否定してはいけないってね」
「香霖……」
「たしかに、その時は辛いかもしれない。あまりに辛ければ、一時的にでも忘れたくなるのは無理も無いかもね。
でも、僕のクッキーを買っていった人達は、必ずもう一度この店に来るんだ」
「記憶を元に戻したい……って?」
「そう、必ず来るんだ。だから僕は、その人たちの記憶を大切に保管しているんだ」
「で、保管料と、記憶を戻す為のノウハウ料を取るんだな。この守銭奴め」
「まあ、こっちも商売だからね」
かりっ、と酒で濡らした歯でクッキーを齧る。
固形化された記憶が霖之助の体に入ると、一瞬顔を顰め、すぐに戻る。
「ああ、昔の記憶ってのは、ほろ苦いな……」
「香霖」
「食べるたびに、辛いと感じるよ。でも、これこそ自分の一部なんだって理解できるよ。……今なら」
「……香霖」
「年を経た所為かな……辛さの刺が丸く感じるんだ。ああ、懐かしい……」
そう言うと、又かりりとクッキーを齧る。
その度に顔が歪むが、本人はこれを止めるつもりは無いらしい。
「香霖……」
「魔理沙、ありがとう」
「……」
「……」
「香霖、そのクッキーだけどさ……」
「……これか?」
「それ、なんで女の人の形してんのさ?」
「……!」
迂闊だったときが付いた時にはもう遅い。
魔理沙の好奇心たっぷりの視線にロック・オンされた以上、ただで済むわけがない。
よりによって、一番「辛い」記憶を見られたのだ。これの内容を話すわけには行かない。
「なあなあなあ、何なんだよぅ? 教えてくれよう」
「あーもう、駄目だ駄目だ! これは僕の記憶なんだってば!」
「ケチ」
「ケチじゃ有りません! と言うより、もう夜だから早く家に帰れ!」
「やーだよ♪ 魔女は夜に活動するものさ。そう、好奇心一杯にな」
「あ、こら! 取るんじゃない!」
「へっへーん♪ さてさて、香霖の記憶ってどんなものなのかな~?」
「こらー! この記憶泥棒!!」
この騒動は、静かに降り注ぐ月光に見守られ、当事者達の体力が尽きるまで続いたとか。
それに、後半に行くにつれて脳味噌の回転数が上がる事により、話がストレスなく溶けた。
個人的には前の作品とは少し間を空けて読めば良かったかな、と少し後悔。
ともあれ、非常におもしろうございました。
クッキー食べたくなった。
でも、うん。 野郎の焼いたものなんてまっぴらゴメンと思ってたけど、こっちもいいクッキーじゃない。
嫌な記憶も自分のうち、でも中々等身大の自分を受け入れられる人は居ない訳で、でもそんな弱虫達が、本当の自分に成るために、茗荷がくれる不思議で優しいモラトリアム。
そして、傷を癒し、時を経てもう一度立ち上がろうとする君を、心から頑張れって応援する。
これが本当のジンジャーエールなーんつってn(たこ殴りの刑)
まあでも大人の男ってのは、忘れてしまいたい事やどうしようもない事があると、いくつになっても酒で流しちまうもんなんですがね。 飲んで~飲んで~♪
魔理沙の過去の部分を読んでるうちにちょっときちゃいました
実家の猫も8歳かな・・・
ちょっと本筋と関係ないことばかりですみません
素直に楽しめました
とりあえず魔理沙が霖之助を呼ぶ時は「香霖」一択。
修正希望:エプロン姿の香霖を脳裏に焼き付けた魔理沙が真理沙のまま。
芸が細かいなぁ。
中身は……俺、駄目なんすよ、老猫の話。無条件で泣いちゃうから……
でもあのクッキーは口にしない。するもんか。
誤字がありますよっと
おもしろかってん
前編が完成したのが1ヶ月前、この話は180度違う話しの展開してくれるくせに、共通のキーワードである「茗荷」を持っているものだから、前編との間を空けると忘れ去られるのでは……? とみょんな心配をした為、かえって逆効果に。
やっぱり一日くらいは開けたほうが良かったかも……。
もう、誤字もダメダメな感じです。本当にゴメンナサイ&大感謝です。
この教訓は、迂闊にクッキー食べて忘れたりしませんよ。するつもりもありませんよ。
それはそうと、みょうがのタイトルを冠する必要はあったのかなと
ただ、紅魔館verのが変化球すぎたので、
こちらは先が読めてしまいちょっと物足りないかな、とは思いました。
こういうお話も、とても素敵です。香霖、魔理沙、霊夢、三人の関係が何とも……