煙草を吸う真似をして、見えもしない紫煙を吐き出してみる。色のない空気に溶けて消えゆく幻を、二度と戻らない戦友の背中を見送る気分で眺めていた。
蓮子からすれば、ここから望む朝焼けは確かに綺麗なものだと思う。ビルやアスファルトに囲まれた現代にあっては、自然に訪れる光景でさえも新鮮に映る。
視界の向こうには水平線が、海と空とを分け合っている。朱い恒星が放つ眩さに、蓮子は不意に言葉を失う。まだ、美しさに見惚れて我を失う程に深い人生は送っていない。ただ、本当は彼方より実在したはずの現象が、いつの間にやら神秘などという言葉で脚色され、徐々にではあるが人間から遠ざかって行こうとしている事実に、なんとなく虚しさを覚えてしまっただけ。
詰まらない感傷だ。科学的でもなければ、論理的ですらない憧憬だ。
けれども自分は、その感傷に流されて生きている。
「ねえ、メリー」
前を伺えば神秘が見える。後ろを向けば現実が見える。
足元は崖、一歩間違えれば願ってもいない投身自殺をする羽目にもなりかねない。その危機を自ら背負い込んでもなお、この風景を目に焼き付けたいと望んだ。知人、友人、仲間、同胞、様々な属性を持つメリーもまた、そう感じてくれるのなら素晴らしい。
メリーは蓮子の横に寝そべり、返答も首肯もなく呆然と、目の前に横たわる圧倒的な景色を見ることもなく瞳を閉ざしている。時には眠たげに目蓋を掻き、苛立たしげに欠伸もする。枕代わりの帽子の位置を何度も直し、その度に首の骨を鳴らす。膝を貸そうかと提言したときも、蓮子に悪いから気にしないで、と素っ気なく断られた。確かに、この様子では何をされていたか分からない。
きっと、彼女の寝起きはいつも最悪なのだろう。下手に動かすと手痛いしっぺ返しを喰らいかねないので、蓮子は黙って昇りゆく朝日を目に焼き付けることに専念する。
束の間に、海の青と空の藍が、一瞬にして太陽の紅に染め抜かれる。
一種、幻想的な雰囲気に包まれながら、背後に立ち並ぶ天然の樹木に、背中を押されている錯覚に陥る。
「自然て、怖いねえ……」
星は見えない。おおよその時刻を察することは出来ようが、精密な緯度や経度までは判別できない。
こうなった経緯を思い返そうとして、やっぱり神秘的な光景を見て現実なんて忘れてしまおうと思い直した。
その直後、真横からタイミング良くメリーの寝言が届く。
「……蓮子め……」
歯軋りと共に、恨み言としか思えない呪詛。
自分で撒いた種だから、責任を持って摘み取らねばならないのであるが、いっそ見なかったことにしてしまおうかと考えないでもない。全て忘れて(メリーのように)眠りにつけたら、どれほど楽かと思う。
決して安らかとは言い難い寝顔を見、聞こえないくらい小さな溜息を吐く。
「ぬめってる……」
地面をなぞりながら、メリーが苦々しげに告げる。
ごめんなさいと心の中で謝って、メリーに両手を合わせるのだった。
集合場所は、いつもの喫茶店前。
移動時間は問わず、移動手段にも頓着しない。大抵、胸を躍らせるのが蓮子で、胸を痛めるのがメリーと相場が決まっている。
一時期、蓮子が大型のバイクを買おうという話にもなったのだが、その前に免許だろ、とメリーから指摘を受けたところで時間切れ。あえなく電車・バス・徒歩移動と相成った。秘封倶楽部の部長としての面子なのか、交通費は全額蓮子負担である。かといって、メリーの苦労が和らいだことも無いのだから世の中は難しい。
発見者無し、状況証拠ゼロ、手掛かりは薄っぺらい写真一枚。いつものことだとメリーも割り切っていたが、その場所が鬱蒼とした樹海だと知ったときには、我慢強い彼女も蓮子の頬を抓りたくなった。
「ひひゃいひひゃい」
「冷静に言うな!」
全くもって効果無し。
写真を確認するに、果てまで広がる樹木の海、その左端に紫の亀裂が縦に走っている。空にわずかな星と月が覗いている以外は、精密な場所を特定するものは何もない。あるとすれば、亀裂の端にある赤い茸のようなものくらい。絶望的と評することさえ許されるというものだ。
地図を開いた蓮子の先導で、地元の人は誰も近寄らないと言われる樹海に足を踏み入れる。その時から空は曇りがちだったというのに、メリーが諭しても全く聞き入れる様子もない蓮子。
本日、二度目の頬抓り。
「……」
「いひぇい!」
カウンターにより、メリー撃沈。ちなみに、蓮子は左右から襲撃を受けたにも拘らず、呻きもしなければ表情すら変えなかった。それでも肌は敏感なのか、彼女の頬には歴戦の証が赤々と刻まれていた。
メリーは、次からしっぺにしようと心に刻み付ける。その時まで覚えていればの話だが。
それ以前に、戻って来ることが出来ればの話でもあるが。
「――無いわねえ」
「つまり、今回も空振りってことね」
「今回は、ね」
いやに拘る。形あるものには囚われない性質の蓮子だが、反対に形のないもの――形に出来ないものには強い執着がある。
その憧憬の出発点が何なのか、メリーにも推し量ることは出来ない。
が、彼女が綺麗だと信じるものに、メリーも少なからず興味を抱いているのは確かだった。
だからせめて、もっと安全な航路は確立されないものかと、いつも思うのだ。
「そういえば、さ」
「何よメリー。やけに暗い声だけど」
「蓮子の星詠みは、空が曇っていても可能な能力なの?」
「……」
「なんで黙るのかしら。不思議ね」
「はははははは」
「笑いが乾いてる」
そんな簡単な素人予報を、喫茶店前の集合時に言っておけばよかった。
二人共に油断があり、慢心があり、怠慢があったことは認めよう。だがそれ以上に真剣であり、希望に溢れ、確信を持っていた――のは蓮子だけだったが、とにかく成せばなると考えていたことに誤りはない。
ただ。
ほんのちょっとだけ、足元と天井を疎かにしていただけに過ぎない。
はてさて、人生の落とし穴というものは、ゲーム以外にも結構な頻度でぽっかり空いちゃっているものである。
今は六月六日ではないが、雨がざあざあ降っていることは身体で分かる。
吹き抜ける風、打ち付ける雨粒が、少しずつでも確実に服を侵していく。
木陰にもたれながら、ぽつりとメリーが呟く。服が服としての機能を果たさなくなってから、かなりの時間が経過していた。
「……寄らば大樹の陰、とか言うけどさ」
「うん」
本来なら濡れてへたれているはずの帽子だが、蓮子のものは水に濡れても平気らしい。
一方のメリーは、髪に張り付いて仕方ないからとっくの昔に脱ぎ捨てている。
「横殴りの雨じゃ、何の意味もないわよね……」
「うん」
「いざってときに、何の助けにもならないし……」
「そだね」
「蓮子も名前に蓮が入ってるんだから、こういう時にさっと傘を差し出したりしないの……?」
「はいこれ」
そう言って、自分の帽子を差し出す。
断るのも何なので、蓮子の代わりに頭部をカバー。しかしながら、先程までの雨により完全に髪が洗い上がりになっているため、余計に頭の中が蒸れる結果となった。
完全に暗闇が降りたらまずい、雨宿りをしている場合でもないということに気付き、大樹を離れて樹海の外へ移動する。その際、ぐしょぐしょの地図を取り出そうとして、跡形もなく敗れ去ってしまったのも懐かしい思い出だ。
記念すべき、秘封倶楽部初野宿が決定した瞬間でもある。
吹き荒ぶ雨風に晒されながら、メリーはちょっと泣きたくなった。
「……野宿?」
「寝れる場所、探さないとねえ」
「無いわよ。びしょ濡れだから」
酷く前向きな蓮子を、素直に尊敬する。
年頃の女性が、どこにあるかも分からない樹海の中で野宿しなければならない。不幸という他ない悲劇だが、蓮子が悲観している様子は全く見られない。年がら年中夢見る少女のような人生を送っているので、絶望に沈んだ顔など想像だに出来ないということもあるのだが、それにしても。
風は収まりかけていたが、雨足は勢いを増すばかり。シャツどころか内側の下着までずぶ濡れの状況下にあって、メリーの中にある何かが音を立てて千切れた。
「……嫌」
「まあ、慣れれば野宿だって案外楽しいし」
やったことあるのか、とは聞けなかった。イエスと言われたら対処に困る。
「もーいや! とにかくここから出ましょう!」
「危ないってば。近くに海もあるし」
「とにかく嫌なの! なんで地元の人も近寄らないような森の中で、二人して風雨に晒されなきゃならないのよ! 自殺志願者じゃないんだから!」
「ま、秘封倶楽部だからねー」
「そんなんで納得できないわよ! もう、私一人でも帰るからね!」
蓮子の制止を振り切って、脇目も振らず前だけを見て歩き出す。雨が髪を濡らし、頬を殴り、肌を打ち付け足に絡もうが関係ない。メリーは樹海を出ると決めた。蓮子には負けるが、意思の堅さならメリーも特筆すべきものがある。
背後から追いすがる声も、小悪魔か動物霊の戯言と受け止める。嬉々として野宿の道を選ぶなんて、メリーでなくても茨の獣道を歩んでいるようにしか思えない。今回ばかりは付いて行ける自信がない、というか下着とシャツと靴と上着全体が肌に絡み付いて気持ち悪い、鬱陶しいから早く脱いで身体を洗いたいというのが最も優先すべき願望であるとメリーは考える。
同じような景色ばかりが続くけれど、自分がある一方へ突き進んでいる自覚はあった。もう少し、あとわずかで外に出られる。着替えるのはしばらく後になるだろうけど、とりあえず野宿の可能性は潰えそうだ、と胸を撫で下ろすか否かという刹那。
「危ない!」
樹海の闇が左右に割れ、心を埋め尽くす幸福感と、足元をすくう喪失感が交錯した。
「――――え」
まずい。
それだけはどうしようもなく分かっているのに、どうすることも出来ないと理解してしまっている。
駅のホーム、呆と電車を待っている時、不意に背中を突かれる感覚。
胸の中には、疑問と諦観が同時に去来しており、混乱するメリーの視界はただ一面の青海だけを映していた。
――きれい。
「メリーッ!」
その言葉の意味するところを理解するより先に、メリーの身体は樹海に引き戻されていた。
続いて、肩口を襲う脱臼にも似た衝撃、バランスを崩した身体が後ろ向きに崩れる無重力感、何かが地獄の底にガラガラと落ちて行く音、最後に、大の字に倒れているらしい自分の顔を覗き込む、見慣れた相棒の疲れた笑顔が見えた。
その時になって、実感が体感に追い付く。助かった、と。勢い余って、崖下に投身自殺することも無くなったのだと、揺れる木々やら霞んだ空やら、相棒の疲れた顔やらを見てようやく理解した。
音が、遠い。
意識が遠ざかり、極度の疲労に目蓋が押し潰されそうになる。
もういいや、眠ってしまおうと心に決め、メリーは溜息を吐く蓮子に宣言する。
「……疲れた」
「だろうねぇ。あれだけ無茶苦茶な走り方して、その挙げ句に死に損なえば」
「別に、死にたかった訳じゃないわよ……。ただ、ここから逃げられるんだ、て思って」
「チャンスとピンチの違いくらい、判断できるようになりなさいよ。パッと見は、両方とも輝いているように見えるんだから」
頷こうとしたが、その程度の活力さえも失われていた。
身体が引きずられているのは、気のせいではないだろう。背中が地面に擦れ、服が破れるのではという危惧もあるが、全てが濡れそぼった今となっては、身の安全を確保するのが最優先事項だ。蓮子の判断も納得できる。
足元の空白感も消え失せ、蓮子の表情にも安堵が滲み出して来た頃、彼女はメリーの様子がどこかおかしいことに気付く。
「……眠いの?」
「ん……」
「膝、貸そうか。硬いけど」
「要らない……。でも、帽子は借りる」
被り続けていた帽子を、頭の下に敷く。雨の染み込んだ地面は不必要に柔らかいが、もはや雨粒の冷たさも肌のべた付きも気にならない。
「ん。じゃあ私は、見張りやっておくわね」
「あ、りがとう……」
「いいのよ。別に、一日くらい寝なくても平気だから――」
その声は、雨音に紛れて最後まで聞き取れなかった。
メリーが恐れていたように、曇り空からは完全な暗闇が落ちようとしている。恐怖はある。が、睡眠欲がそれを凌駕していた。目を閉じてからはあれこれ思い悩むこともなく、まさに崖から突き落とされたような落下速度で、何もない世界へと一気に転移した。
眠くないというより、眠りたくないというのが本音だった。
雨ざらしになった樹海の端で、陰りゆく空を見定める。まだ午後九時前後だろうが、メリーは早くも夢の世界に飛び込んでいた。生命の危機から急に脱出したために、脳が肉体に負担をかけないようにと、自発的に意識を遮断したのかもしれない。軽い失神状態と言った方が近いか。
雨雲の密度がバラつき始め、肌を叩く雨粒も次第に小さくなる。
体温と気温によって必要以上に温まった身体を、一体どうするべきか悩む。メリーはさっさと寝てしまったから余計なことを考えずに済んでいるが、見張り役を買って出た蓮子にはまさに隔靴掻痒の苦境と呼んで差し支えない。
「……しかし」
上着を脱ぎ、シャツと肌の間に新鮮な空気を取り込みながら、崩れかけた崖を遠目に観察する。
断崖に叩き付けられる荒波も、蓮子たちのところまでは上がってこない。目算で十メートル、誤差が二、三メートルあるにしろ、この絶壁と時化の状態を鑑みるに、一度落ちれば這い上がることはままならないだろう。
いつの間にか、自分が死に近い場所まで来てしまったことに気付く。音が遠い。
今更になって、失うことの恐怖に身震いする。
元々不安定だった崖が、突然の豪雨で崩れやすくなっていたのか。メリーがあと一歩前に踏み込んでいたら。蓮子の手がメリーの腕を掴めなければ。
湿った手のひらを握り、すぐに開く。そんなことを何度も繰り返し、どうにかして恐怖を押し潰そうとする。幻想に挑むことは、幻想でない蓮子には不可能な挑戦なのかもしれない。時には無関係な人間をも傷付けながら、それでも手に入れることは叶わないと。
大切な友人を失いかけた悲しみに、自分の人生を悔やみそうになる。
それを認めることは、メリーに対する冒涜だと理解していても。
「……悪いこと、したな」
硬く、爪が手のひらに食い込むくらい強く握られた拳に、もうひとつの手のひらを重ねる。それでようやく、身体の震えは止まってくれた。
もう一度、荒れ狂う海を眺め、流動する空を仰ぐ。
小刻みに揺れる心とは裏腹に、勝手気ままな自然は彼女たちに躓くことなく、整然とした世界に還ろうとしている。
海岸沿いに歩いていけば、ほぼ問題なく樹海を抜けることが出来る。
崩れやすくなっている場所もあるだろうから、足元には十分に気を付ける必要があるけれど、月が昇るまで海を眺めている訳にもいかない。
メリーが起き出すのを待ち、理路整然とした夜が終わり、当たり前のように朝が来る。
本当に疲れていたんだな、と熟睡するメリーの顔を覗き込む。その際、メリーが愚痴にも似た呪詛を吐いていたのはご愛嬌だ。蓮子も自分に非があると理解しているので、その呪いは甘んじて受け止めることにする。
「……う」
小さな呻きの後、緩慢にメリーの身体が起き上がる。いくら草が生い茂っているとはいえ、泥水の恩恵を免れることは難しい。半身を土に汚したまま、心ここにあらずと言った表情で、蓮子と海と輝く朝日を一瞥する。
おはよう、と気の利かない台詞。メリーも、不確かな意識のままに首肯する。
その後に、あ、なんて在り来たりな悲鳴を放つ。
「……ここ、どこ」
「深夜には月も出てたから、場所だけは分かるけど」
「そういう意味じゃなくて。……もう、いいけどね」
汚れた身体を見下ろし、盛大な嘆息を放つ。これ見よがしに放出された溜息を目の当たりにして、蓮子は何を言うべきか迷う。だが、躊躇ったのも一瞬で、すぐに申し訳なく頭を下げる。
「……何よ。頭なんか下げて」
「ごめん」
言い訳は無用。
持ち得る限りの誠意と反省を込めて、引っぱたかれる覚悟で手を合わせる。
「だから、もういいってば」
「いいの。今回ばかりは、ちょっと反省しなきゃならない点が多いから」
「それじゃ、いつもはそれほどでもないってこと?」
「うん」
即答すると、メリーに頬を抓られる。
殴られるよりは痛くなかったが、捻りを加えられた分だけ彼女の怒りを感じた。勝手な解釈かもしれないが、そこに憎悪や失望は無かったと思う。単に、呆れ果てていただけかもしれないけれど。
「いひゃいいひゃい!」
「全く……」
蓮子の痛がる様子を見て興が殺がれたのか、メリーは指を離す。
ひりひり痛む頬を押さえながら、頬杖を突いて静かな海を眺めるメリーの横顔が、やけに神秘的だなと思った。紫色に近くなった朝焼けの中、自然に織り込まれた金糸の髪は、与えられるべくして与えられた奇跡なのではないかと、場違いな妄想に浸ってしまう。
だがそれでも、メリーの言葉を聞き逃すことはなく。
「何を反省しているのか知らないけど、本当に嫌だったら、初めから付いて来てないわよ」
「それは、ありがとう」
「いいわよ、別に。私も好きでやってることだから。多少迷惑が掛かっても、自分の責任くらい自分で取るわよ。崖から落ちそうになったのは私の不注意、そんな私を救ってくれたのは蓮子の英断。だとすれば、感謝したいのは私の方だと思うんだけど、なんか反論ある?」
勝ち誇った笑みを浮かべ、蓮子の顔色を伺う。
――参った。
自分は、メリーという人間を甘く見ていたらしい。蓮子は小さく首を振る。
「でも、服くらいは弁償してよね」
「はいはい。分かってるわよ」
反省の様子が見られない、と脇腹を抓られる。不器用に笑いあい、生まれつつあった禍根を断つ。
全てが水に流れ、全部が全部丸く収まった――と、言う訳にもいかず。肝心要の結界の綻びだけは、最後の最後まで発見出来なかった。悔しいと言えば、それが悔しい。
「仕方ないじゃない。何でもかんでも真実って訳じゃないでしょ」
「それは分かってるけど……」
恨めしそうに写真を眺める蓮子から、その証拠写真を奪い取る。どうせ見付からないだろうと思いながら、崖を基点に樹海の内部を見渡す。中央よりやや左側に走った、紫の縦線。枇杷に刻まれた傷跡を思わせる亀裂は、痛々しさより遥かに業の深い違和感があった。
メリーは、しばらく写真と風景を比較して、諦めたように蓮子の方を振り返る。
「……ふう」
「やっぱり、駄目か」
項垂れる。
空振ったことは知っていたが、改めてその事実を突きつけられるのは、睡眠を欲している身体には少々厳しい。蓮子は、まだ写真を掴んでいるメリーに、早くここから離れようと声を掛ける。
「ねぇ――」
「あった」
これは、メリーの声。
彼女が指差す方向には、涼やかな雰囲気を携えた樹海が広がっている。無論、蓮子に紫色の境界を拝むことは出来ない。メリーだけが、世界と世界の摩擦、それによって発生する歪曲を伺うことが出来る。
メリーは「あった」と表現した。その意味を瞬時に汲み取る。
「どこ」
「ここから、少し左の……。ちょうど、靴が置いてあるところかしら。コブが付いてる樹の、少し右のあたり……かな? そう、そこらへん」
メリーが指示する場所を、蓮子が手のひらで確認する。確かに、言われてみれば妙な感じがする。気のせいだろうが、わずかな違和感が世界と世界を繋ぐ扉になっている例も、決して少なくない。
場所は、メリーが落ちそうになった崖に程近く、もし今の状態で写したなら、蓮子とメリーが正面にすっぽり収まるだろう。写真にある位置関係は、崩れたせいで剥き出しになった崖っぷち、その斜め後ろ辺りにコブのある樹、そして安全なところまで引っ張ってきたメリーの寝床という順になる。転がった靴は、蓮子が蹴ったら昨日のメリーの二の舞になりそうだ。実を言えば、蓮子もかなり危険な状態にある。身を乗り出さなくても、眼下には来るもの全てを拒絶する浅瀬、その岩石を掻い潜るように断崖へと打ち付ける波が、否応なく蓮子の視界に襲い掛かる。
だが、ここで息を飲んでしまったら、夢追い人として失格だ。
「……よし」
蓮子は、地面に鎮座しているメリーを鼓舞するように、ぱちんと指を弾く。
物語はまだ、始まったばかりだと。
こちらの世界はちょうど朝を迎えており、朱色から紫に転じた空も、気が付けば当たり前の蒼天と化してしまった。珍しくも何ともない空の色さえ、この世界にしかない貴重な存在なのだと今は思える。
だからこそ、別の世界の色を見てみたい。そう、蓮子は思うのだ。
「えー……。今から行くの……?」
いつものように、メリーは及び腰だった。お腹を擦っているところから見るに、空腹に苛まされているとみた。しかし、それに関しては蓮子の方が遥か上を行く。
「答えは分かってるでしょ。行く」
「……でもね、少しおかしいのよ」
声色を変え、写真から目を逸らさぬままメリーが手招きする。まるで、境目のある場所から蓮子を遠ざけるように。
切迫したメリーの表情に促され、蓮子も片一方の靴が置き去りにされている樹の下から離れる。そういえば、何故こんなところに靴が置いてあるのだろう。二人とも、ちゃんと靴を履いたままだというのに。
瑣末な違和感を抱いたまま、メリーの隣りに急ぐ。
彼女は、論理的に解くことが不可能とされている定理の証明を任された時のように、苦虫を噛み潰している最中みたいな表情を晒していた。
「ちょっと、どうしたのよ。尋常じゃないくらい顔が怖いんだけど」
「安心して。蓮子が大好きな世界の謎を提供するだけだから」
どこか回りくどい物言いだったが、そのままメリーの言葉を待つことにする。
若干のタメを作り、遠い波音が耳に届く程度の静寂が降りて来た頃、彼女は言った。
「これは、誰にも撮ることが出来ない写真なのよ。本当は、もう少し早い段階で気付きたかったんだけどね……。まあ、取り返しが付かなくなる前に分かったから僥倖だけど。私は探偵じゃないし、胡散臭い霊能力者でもなければ定式に凝り固まった科学者でもない。だから、感じたことをありのままに話すわ。何故、誰もこの写真を撮れないのか。
簡単なことよ。こちらの人間は空を飛べないし、死んだ後は存在出来ない。なら、どうしてこの写真が存在出来ないのか分かるでしょう。これが崖の写真だと理解できるのは、剥き出しになった崖の縁が見えているから。崖を写すためには、そもそも崖の上に立ってはいけないの。
――呼ばれたわね、蓮子。
この写真は、空を飛ぶか、さもなくば崖から身を投げ出しでもしない限り、撮れる訳がないのよ」
某年某日、ある海岸に女性らしき死体が打ち上がった。
遺書もなく、所持品もついに見付からなかったが、歯型から住所氏名を検証し、某県に籍のある女性ということが判明した。警察は、自殺と他殺の両面から捜査にあたり、女性の関係者らに事情を聴くことにしている。
近隣の住民の話では、死亡したと思われる日時の前後、海岸沿いの道路を走る不審な二人組がいたという目撃談もあり、その人物らの行方も追って行く方針である――。
子供の頃、何だか解からないものを求めて、山を川を海を
うろうろしていた事を思い出す。
お化け、幽霊、化石、池の主。あの頃に戻りたいなぁ。
夏に怪談が多いのは何故でしょう?お盆とかがあるからかな?
海の話が多くなるのは分かるんだけれどね
私の中ではもうすっかり藤村流様のキャラになりつつあるこの二人、独立した物語として十二分に読み楽しむ事ができるとです。
天体観測。
私がこの歌を歌うときに、彼女達の面影が脳裏にちらつくようになったのも氏の秘封倶楽部の影響である事間違い無し。
見えないものを探しに行く、この魅力的な二人の悪巧み。
凸凹感も心地よく、その軽快なやりとりを書き上げる筆主殿の技にただ脱帽するばかりです。
それにしても、巧い・・・・・・。