「参ったなあ…」
そう、彼は参っていた。しかも2時間ほど参っていた。
行き詰まったときは家に帰って一風呂浴びてさっさと寝てしまうのがこの男の主義だったが、もし今彼にそのようにするよう勧めたら彼はあなたの首を締めてこう言うだろう。
「それができりゃ苦労してないんだよ!俺は今道に迷ってんだ!見て判んねぇのか!」
そう、彼は迷っていた。しかもこの2時間ほどずっと迷っていた。(断続的に迷う、などという芸当ができるのは方向感覚のいい奴だけだ。)
人間は道に迷うとまず焦る。焦っているうちに、今度はだんだん落ち着いてきて、「迷っている」ことを楽しみだしたりもするかもしれない。
「あー、どっかから天使が降りてきて道案内してくれないかな…」
しかし2時間も迷っていれば、このように愚痴、倦怠感、妄想、等の症状が現れてくるようだ。ちなみに天使ではなく兎ならば珠に出るらしいが、彼には知る由もない。
「そして助けてくれたお礼にお茶でもいかがですかお嬢さん、いけませんわわたくしすぐに天に戻らなくてはハハハよいではないかよいではないかあーれーハァハァ」
彼を許してやってほしい。彼は今いろいろと疲れているのだ。人間2時間も森の中を迷っていればこんなグリム童話とかぐや姫と越後屋を足して昼ドラで割ったような幻想も浮かぼうというもの。この1時間ほど、彼は様々な幻想を視ながら足の向くままに歩いていたのだ。
そうしているうちに、いつのまにか幻想郷に迷ひ込んでしまう、ということも、そうおかしなことではないだろう。
迷い人 ~今日も平和な幻想郷~
彼は歩いていた。頭の中は様々な妄想が渦巻いていたが、足は無意識のうちに割としっかりと地面を捕らえていた。割と体力はある男である。
「しかし、ここどこなんだろう…」
判らないからこそ「迷っている」と言うのだが、誰にともなく聞かずにはいられない。
もう辺りは夜。こんな夜中にこんな森の中を歩いているものなどいない。森の上を飛んでいる奴はいるようだが、それはこの男のあずかり知らぬ事。とにかく足下も不安になり、そろそろ当てもなく歩くのも中止したいところである。
「…」
辺りはもうすっかり暗くなり、独特の雰囲気を醸し出している。どこぞの巫女なら「ロマンティックね」とか言うのだろうが、それどころではない。道に迷っているのだ。異性の連れでもいれば少しはロマンティックかもしれないが、いない。少なくともリアルでは。
脳内会話を一時中断し、辺りを見回す。
その光景が、男の発言に僅かに恐怖の色を付け加えただろうか。
「やっぱり、夜の森ってのは独特の雰囲気があるよな…」
「本当ねー。お化けも出るし、たまんないわ」
あり得ないはずの声。辺りには誰もいないはずだった。
足を止め、声のした方を確認する。
そこには、少女。
黄色い髪に赤いリボン、そしてその黒い服は、この闇の中で一際、
闇だった。
まず浮かんだのは、こいつは誰だ、ということ。なぜこんな少女がこんな時間にこんな場所にいるのか。人間、こういうときは自分のことは棚に上げてしまうものである。
次に、「お化け」という単語。
この男は、神は信じないが盆には休み、クリスマスには一人寂しく七面鳥とワインをいただくような、典型的な日本人だった。いや、「一人で寂しく」の部分は知らないが。
むろん「お化け」というものも信じていない。しかも、少女にはちゃんと足があったので、幽霊ではないと判断した。信じていないといいながら「幽霊には足がない」という事は信じているようだ。
そして、感じたのは、漠然とした恐怖。
本能的に、何か恐怖を感じさせるものがあった。
しかし、この2時間で初めて会えた人間である。
その事が、男にとりあえず挨拶をするという選択肢を選ばせた。
「あ、こ、こんばんは。この辺に住んでる子かな?」
「あなたは、夜にしか活動しない人?」
「は?」
出会いも唐突な上、発言も突飛だ。
こんな森の中でであった人間にいきなりかける言葉ではない。
少しずつ積み重なる違和感が、次第に恐怖へとその色を変えていく。
「い、いや、今は単に道に迷ってしまっただけで、普通に昼間に活動する人だけど?」
「そーなのかー」
少女は何のつもりか、両手を広げてポーズをとる。
「でも、人間でしょ?」
え?
「だから、食 べ ら れ る よ ね」
その言葉の意味を理性が理解する前に、本能が男の足を動かしていた。
走る。走る。
「食べられる」?何を?
走る、逃げる。
「人間でしょ?」
逃げる、逃げる!
こいつ、狂人か何かか?とりあえず女の足ならば逃げ切れ…
「おやつー」
!?
振り返る。
予想したところより少し上に、少女は居た。
無邪気に開ける口に見えるのは、草をすりつぶすにはあまりに立派な、
「うわあああああ!」
その事実を受け入れた瞬間、恐怖が収束し、襲い掛かる。
「妖怪」。
それは、人間ではないもの。
それは、人間を喰らうもの。
「参ったわね…」
彼女は参っていた。参り始めてから10分も経っていないが、彼女からすればかれこれ2時間ほども参っていた。
行き詰ったときはお風呂にでも入って寝てしまうのが一番ですよ、などと中国風の少女に言われたら、恐らくそのコンマ1秒後には少女は一角獣に変わっているだろう。
そう、彼女も迷っていた。
時を操る、という強力な能力を持っている彼女だったが、その能力もこのような場合には何の力も持たない。
完璧で瀟洒、との冠詞をつけて呼ばれる彼女だったが、実は意外と抜けているところもある。うっかり迷っちゃうことだってあるのだ。はぁと。
それに、彼女の居るこの森は魔法の森である。しかも夜。魔法使いでもない彼女が迷うのもある意味当然とも言える。
「よくわからないけど、飛んじゃいけないらしいし。」
以前もこの森で迷ったことがあったが、その時はよりにもよって七色魔法莫迦に馬鹿と言われたので、さりげなく本気を出して懲らしめておいた。
その時に、この森を飛ぶのは「よっぽどの馬鹿」のすることだ、と言われてしまったのだ。
理由はわからないが、これで飛んで帰ろうとして失敗し、それをアリスに助けられる、などという事態は絶対に避けたかった。そもそも助けてもらえるかどうかも怪しい。
「その辺の藪からてゐでも飛び出してこないかしら…」
残念ながら、ここはてゐの住む竹林とはかなり離れている。
しかし、人間困窮するとあり得もしないことに期待をかけてしまうこともあるだろう。
「…この木、全部切り倒して行ったらなんとかなるかしら」
「そんな事されたらたまんないわ」
黄色い髪、赤いリボン、黒い服、間抜けに手を広げたポーズ。あぁ、ルーミアか。
「あんた、夜しか活動しない吸血鬼のメイド?」
「あら、お嬢様は夜型だけど昼に起きてることもあるわよ」
「そーなのかー」
「…で、あんたは、お嬢様の生活習慣について知りたいわけ?」
「ちがうわー。吸血鬼は食べられないもの。食べたいのは目の前のメイド。」
手と口を広げて飛び掛ってくるルーミア。
それは、一瞬後にはナイフでできた十字架になっていた。
「ふぅ。…さて、ルーミアが出たって事は神社の近く?いつの間にか随分道をそれてしまった様ね。急ぎますか。とりあえず博麗神社まで行けば道はわかるでしょう。」
「痛い痛い!神社はあっち!痛い!」
「あら、親切にどうも。」
人間は妖怪に食われ、妖怪は人間に退治される。
幻想郷が平和なのは、食われるはずの人間が力をつけすぎたからなのか、霊夢の力か。
「あったわね、博麗神社…って、あら、お嬢様?」
「あら咲夜、珍しいわね。」
「あら咲夜、こいつ連れ帰りなさい」
吸血鬼が神社で巫女と茶を飲む。
そんな光景も、実は微妙なバランスの上に成り立っているのかもしれない。