0.射命丸文
「風祝様の世話役、か」
――面倒な。どうして私がそんなことを。
辞令を受け取った射命丸文は、反射的に不満を抱いた。
先日、突如として山に現れた神社。その処遇を巡るごたごたに、ようやくケリが付いた頃のこと。
事件の当事者――ほんの少し関わった程度だが、記者として外部からの視点たらんとする文には十分だった――という不本意な立場からようやく解放されて、普段通りの生活に戻れると思っていたのに。
編集室の中、椅子に浅く腰掛けた文は、辞令を渋い顔で睨みつけた。文言が変化してくれないかと願ってみても、もちろんそんなことが起きるはずもなく。
――紙魚の仕業とでも言って、読めなかったことにしてしまおうかしら。
ちらりとよぎった浅知恵を、ため息とともに吐き捨てた。その程度でどうにかなるなら疾うの昔に実行している。そうして逃げられないよう、ご丁寧にも口頭で読み上げられてしまったのだから。
――それに。
あまり勝手が過ぎると、百年以上前から拒否し続けている昇進を無理矢理飲まされてしまいかねない。
それだけは避けたかった。
ひとを使う立場になることも。
書類仕事に忙殺されることも。
いずれにせよ、考えただけで怖気が立つ。
「……ま、いっか」
呟いて、文は書面を机の上に放り投げた。
幾らかは自分にも利があることだ。無理矢理そう思うことにした。世話役と言っても、どうせ宴席で風祝が無理に酒を勧められないように見張る程度のことだろう。既に何度か行われた宴席を経て、あの少女が下戸だということは察しがついていた。
幻想郷でのしきたりなんていうものは、人間同士で教えあってもらえばいいのだし。別段難しくもなく、ご相伴にも預かれる。多少時間を割かれるくらいで、むしろ得をする部分が多い仕事ではないか。
折しも守矢神社に対する当面の取材禁止・記事の差し止めが申し渡された直後だった。御山唯一の人間が、生活に慣れるまでの措置だという。この期間中にネタをかき集めておけば、解禁されたあとに色々と書けるはず。
――ふむ。意外と美味しい話なのかも。
皮算用をした文は、うっそりと静かにほくそ笑んだ。
壁面を埋める棚には書類が並んでいるけれど、その配置を文はすべて記憶している。使う頻度が高いものほど、取りやすい位置に入れてあるのだ。この部屋はできる限り机に向かっている時間を短くするための工夫に満ちていた。
翼を使って取材することこそ、射命丸文の生きがいだったから。新聞作成をしなくても済むのなら、机にかじりついている記事を書く手間など放棄してしまいたい。そんなことを思ってしまうくらいには、風と飛行を愛していた。
泳ぐことをやめれば死んでしまう魚のように。
飛んでいないと息苦しさを感じてしまう。新聞記者を始めたのも、結局はそれが理由なのだった。
自由に飛んでいられるから。
その一言に――集約されてしまう。
年甲斐もない。そんな陰口を叩かれても。
好きなことをやり続けることのどこが悪いというのだろう。本心から、文はそう思っていた。
――これくらいの役得は許されるわよね。
ようし、と文は頷いた。
受け流すことは得意だ。今回のことも、適当に流していればそのうち終わるはず。どうせ命長からぬ人間の相手なのだし。一転して上機嫌になり、意気揚々と編集室を後にした。
その建物が幻想郷に現れたのは、文が世話役に就いて一年が経過した頃だった。
緋雲の異変。その余韻が残る中、忽然と無縁塚に建っていたのだ。
烏は風ゆえ祝に呑まるる
1.東風谷早苗
晩夏の空に高らかな拍手が二度響いた。
「この分社に仰ぎ奉る、掛けまくも畏き八坂大神の大前を拝み奉りて、恐み恐みも白さく――」
簡略化された祝詞が後に続く。東風谷早苗にとって、幼い頃から何度となく繰り返してきた所作である。
端々に神への敬意が垣間見える行為。それを通じて得られるのは、遠隔地に坐す神との交信だ。
「八坂様、聞こえますか?」
『聞こえているよ。しかし』
「やはり、信仰は届いていませんか」
神奈子の後を引き取り、早苗は言う。頷くような一瞬の間を置いて、
『届いていない。こうして社を介さない話はできているにも関わらず、社を介せば私自身がそちらに移動することも、そちらから信仰を移動させることも叶わない。こちらの社に問題はないはずなのだけれどね』
「分かりました。もう少し詳しく調べてみます」
『頼む』
短い言葉で交信は途絶した。早苗はほうと息を吐く。幻想郷に来てからというもの、神々との距離は以前にもまして近付いているが、それでも未だに緊張してしまう。周囲からは同列の存在に近しいモノとして見られているにも関わらず、外にいた頃の慣習を引きずっているのだ。根が生真面目なのである。
――まあ、ねえ。
敬意を払わないよりは良いんだろうけど――と、早苗が自分に言い聞かせたときである。
「神奈子、何だって?」
博麗霊夢が隣に立った。神霊に対して敬意を払わない――というわけではなく、本人は至って中立の立場にいるだけらしいのだが。その辺りの機微が早苗には今ひとつ分からない――彼女の問いは、平素のように若干の面倒さを含んだ声音だ。
博麗神社の境内。その一角にある守矢分社の前に、二人は立っていた。点検中に起きた、不測の事態。ええと、と考えながら早苗はわずかに視線を逃がして、霊夢の背後に建つ本殿を眺めた。
――どう言えば一番刺激が少ないかな。
考えるともなく、思う。あまり面倒事を押し付けていいメンタルだとは思えないから。
去る八月。
この神社は二度に渡り倒壊した――らしい。先月はひどく忙しかったから、早苗は伝聞でしか知らないのだけれど。
それというのも、神奈子が"外の世界では殆ど廃れていた御射山神狩神事を盛大に執り行おう"などと言い出したからである。何を思ったか諏訪子まで同調したものだから、どう足掻こうと早苗に止めることはできなかった。
外で行なっていた簡単な祭とは明確に一線を画す多彩な段取りを覚えるだけでも精一杯だったのに、注連縄を結い、弓矢を作り、奉納神楽を修めと諸々をこなしていたせいで、早苗はしばらく守矢神社を離れられなかったのだ。
更に。
祭の後がまた大変だった。祭自体は初年度の珍しさもあって成功し、神様二人も準備から手伝いまで何くれと面倒を見てくれたのだが、終わった途端に気が抜けたのか、早苗はたちの悪い風邪を引っ掛けてしまったのである。
こうして博麗神社に顔を出すのはかれこれ一ヶ月ぶりにはなるだろうか。
神社の倒壊はその間に起こったのだという。寝込んでいた早苗には詳しい事情が分からないのだが、複数の人妖が動くかなり大掛かりな異変に発展していたらしい。現に社務所の中はいくらか家具が減っていたし、古びていた拝殿は真新しい装いに変わっている。これまでの寂れた神社らしからぬ様相に、早苗はしばし本当に博麗神社かと目を疑ったほどである。
と――ここまでで終わっていたなら、守矢神社には関わりのないことで済んだのだ。商売敵の弱みに付け込む気は毛頭ないが、助けてやることもそれはそれで癪に障る。故にただ不干渉を決め込むのみ。それが神奈子の判断だったからだ。
ところが、事はそれだけに留まらなかった。
守矢の分社と本社を繋ぐラインが途切れているようだと、恐ろしく面倒そうな調子で霊夢から連絡が入ったのである。
その言葉を額面通りに受け取るならば、分社か本社のどちらかに問題が起きているはずなのだ。しかし神奈子は本社側に問題はないと言った。先の通信はその確認だったのだ。
ならば。
分社側に問題があるのだろう。早苗が病み上がりの身を押してここにいるのは、そうした理由からなのだった。
感情的に納得しかねる部分があるとは言え、事情が事情だ。霊夢の協力を仰がないことには始まらない。
――どう言っても、もう巻き込んじゃってるわけだし。
結局、早苗はオブラートに包むでもなく、正直に話すことにした。
「やっぱり、向こうには何も支障はないらしいです。原因は分社にあるはずだと」
「ま、他に考えようがないわよね」
神奈子は祭事の後で絶好調なはずだし――と、霊夢はわざとらしいため息を吐く。
「面倒事はまとめて持って来なさいってのよ。紫にしてもあんたのトコにしても、分散されたらされるだけ私に全部来るのって不公平じゃない?」
やはり面倒だとは思っていたらしい。
――そんなことを私に言われても困るんですけど。
などと冗談にも言えそうにない剣呑な雰囲気である。
思った瞬間、
「本当、お茶飲む暇すらないったら」
「いやそれは流石に言いすぎでしょう」
「あ?」
「い、いえ何でもないです」
つい突っ込んでしまった。先刻まで縁側で飲んでいたものは何だったのかと問いただしたくなる気持ちを抑えて、早苗は慌てて首を横に振る。
と言っても。
我が身に置き換えて考えれば、霊夢の憤りも理解できなくはない。守矢神社が壊されれば、同じように怒るのだろうと想像はつく。
それでも、私に当たるのはやめてくれないかな、とも思う。一年前に破れて以来、霊夢にはちょっとした苦手意識を持っているのだ。ぴしゃりと拒絶することもできず、愚痴を聞き流しつつ、早苗は分社を検分する。
守矢神社は神体山と言い、妖怪の山自体を御神体としているだけあって、分社もまた至極簡素な作りである。祭神が手ずから削り出した御柱に、こけら葺の覆堂をかけただけのこぢんまりとしたお社で、飾り気といえば御柱に巻かれた御幣付きの注連縄くらいのものなのだ。
簡単に過ぎる――と言ってしまうのは容易いが、この形式になった経緯は少々複雑である。
この場所には元々、霊夢が作った社があった。しかし来る人来る妖怪に鳥の巣箱と評され続け、業を煮やした霊夢がぶち壊してしまったのだ。あんたらで勝手に建てなさいよ――そう言い放つ憮然とした表情を思い出すと、今でも可笑しくなってしまう。けれどむしろ、今の形になってから参拝客は増えているよと神奈子は語っていた。それでいいのだろうか、博麗神社の信仰は。
皮肉にも今夏倒壊したことで、この神社の存在は里の方に認知され直した面もあるのだとか。そんな話を買い出しの途中で耳にした。
――らしいといえばらしい、のかな。
早苗は苦笑いを噛み殺した。見つかればまた何を言われるか分かったものではない。
とはいえ丁寧に検分してみても、分社が地震にあった痕跡はない。御柱が傾いているわけでもなく、屋根が落ちているわけでもない。本当に何も変わりがないのだ。真新しいというほどではないが、行き届いた手入れのお陰で雨風の影響も殆ど見られないほどだ。一体どういう地震が起きればこんな状況になるのか見当もつかないのだが、事実としてそうなのである。
それなのに、
「信仰だけが――届いていない」
「心当たりは?」
「ありません。博麗神社の境内でしょう? 霊夢さんは何か分からないんですか」
「それが勝手に存在してるってだけ。管理までは管轄外よ」
「とか言っちゃって。一応掃除はしてくれてるじゃないですか」
「掃除は私の仕事だからね」
平然と霊夢は嘯く。神職の日常において、確かに最も大切なことは掃除である。だが、外にあった頃の守矢神社は敷地が広大であることや人手が足りないことにかこつけて手入れの行き届かない末社がいくらもあった。それを環境の違いと片付けてしまうのは容易いが、やっぱり霊夢には霊夢なりの信仰心があるのだと思わされる部分でもある。その分、神霊本体への扱いがぞんざいに過ぎると思うことも多いのだけれど。
――でも。
困ったな、と早苗は思う。
霊夢に尋ね続けても、彼女を困らせるばかりで何が解決するわけでもなさそうだと感じたためだ。
――よし。
早苗はぎゅっと拳を握る。
「とりあえず、ラインを辿ってみます」
「サポートは?」
「結構です。私だけで出来ますよ」
即座に問うた霊夢に答え、早苗はすうと息を吸った。
二拝二拍手一拝。再び奉じ、瞑目して分社から伸びる"道"を辿る。
『意識を地脈に乗せる感覚が大事なのです』
瞬間、ある鴉天狗の言葉が脳裏を過ぎった。今まで分社というものの管理をほとんど任されたことのない早苗に対し、教授してくれたことだ。本来教えるべき立場である神奈子がそういう方面に対して割と大雑把で当てにできないため、詳しそうな人がいないか訊いた際、彼女はそれくらいならと教えてくれたのである。
――風に。
乗る。
身体に残る意識とは別に、もう一つの意識を構築するイメージだ。地脈を風の流れになぞらえることが、早苗にとって最も分かりやすい方法なのである。
意識を俯瞰に上げる。分社を見下ろすような高みへと。
左方に鳥居を、右方に拝殿を望む。
社のある場所は、拝殿に至る参道の右側である。
向かいには手水舎と社務所――という名の霊夢が住む家――が建っている。
参道には小石一つ、木の葉一枚見当たらない。
清浄な気だ。
社が壊された――神域が乱されたとは思えないほどに、落ち着いている。
鎮守の森を渡る風が木の葉を揺らす。
その動きの一つ一つが早苗には見えている。
風に対する感覚が、より一層鋭敏になっているのだ。
風祝の業である。
ふわりと祝装束の袖が翻る。
複雑に絡み合った細い糸のような"道"を選り分け、守矢神社へ続く一本を見付け出す。
見つけてしまいさえすれば後は簡単だ。神奈子の力に帯同し、境内を抜けて妖怪の山へ向かうのみ。
――?
けれど、ラインが唐突に途絶えている。それも守矢の分社を出ることなく、どころか、参道に到達することすらなくぷっつりと。
掃除はともかく、ひと月に一度は同じようなメンテナンス作業をしている。いい加減慣れているし、間違えるほど複雑な作業工程ではない。手順を間違えたとは思えない。
とにかく行ってみれば分かるだろうか。早苗は意識を参道へと振り向けた。とにかく繋がっている場所まで――と言ってももうすぐそこなのだが――行こうと思って。
しかし。
分社を出た瞬間、凄まじい圧力が早苗を襲った。
否。
圧力などという生易しいものではない。より強く、断ち切るような力だった。山に住み始めた当初、侵入者と間違われて白狼天狗に山刀を向けられたことがある。その感覚と酷似している。もっと直裁的に言うならば、
「殺気――?」
零れた言葉は、ほぼ無意識のものだった。早苗は瞑っていた目を開ける。分社はいつもと変わらない姿で眼前に鎮座しているが、背筋を伝う冷や汗は、どう考えても現実のものである。
――あれは、一体。
「切れてるでしょ」
言葉をなくして振り返ると、霊夢が心持ち得意そうな顔をしていた。得意がるようなことではないと思います別に――とは、逆鱗に触れそうで言いづらいのだけれども。早苗は曖昧にこくりと頷く。
「綺麗サッパリですね。八坂様の神気をこれだけ完全に断てるものなんて、そうそうあるはずがないんですけど」
「原因は?」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。今から探すところなんですってば」
――確かにここまでは霊夢さんの報告にあった通りだ。
思いながら、責付く霊夢を宥め、早苗はみたび拍手を打つ。
今度は分社の中から、境内を窺う。断ち切るような気配はどこから来ているのか。
ただそれだけを、探る。
浮遊感。
再び遊離した意識を、左右に振り向ける。
――出処は。
どこだ。
道を見つけ出すところまでは同じ手順だ。
問題はその先である。
道の先は視えない。
気配を手繰るよりないか。
いや――風の流れに滞りが生じているならば、それを引き起こすモノが存在しているはず。
無闇に探すよりも、障害物を探す方が早いのか。
知覚しろ。
体内を巡る血液――それを視てしているような錯覚。
全ては風の流れを読める早苗だからこそ可能なことだ。
分社の前を、鳥居をくぐり参道を歩く風が通り過ぎる。
まだ、ここに滞りはない。
森へ抜けて行く風も同様だ。
ならば。
もしかしてもっと分かりやすい場所にあるのではないか――?
霊夢ほどではないが、早苗もそこそこ勘は鋭い方である。
境内で最も分かりやすいものと言えば。
――そう、か。
違和感の流れてくる先には、
「拝殿、です」
「拝殿?」
もっとも分かりやすい場所が、滞りの現場だった。
「ええ。正確にはその下、でしょうか」
「……あー、何となくそうじゃないかとは思ってた。うん」
「心当たりあったんですか!? なら教えてくれれば良かったじゃないですか」
「はいはいうるさいうるさい」
考えないようにしてたのよ――と、霊夢はやけに嫌そうな顔で言った。流石に霊夢さんと言えどもそれは、と言いかけて、ぎろりと睨めつけられる。先刻の殺気もかくやと言わんばかりのそれを受け、早苗は泣く泣く抗議の声を飲み込んだ。
拝殿――正確には本殿と融合している一帯――の下から感じる"何か"のせいで、神奈子の神気が萎縮している。だから博麗神社を抜けることが叶わないのだ。初めての感覚だった。常々悠然と構えている姿ばかりを見ているからかもしれない。誰を相手にしても、怯むようなことがあるなど、にわかには信じられない。まして気配だけともなると尚更だ。
「拝殿の下に何があるんですか」
訊くと、霊夢は面倒そうに頭を掻いて、
「建て直したとき、ちょっとね。あんまり関わり合いになりたくない代物っていうか、面倒臭い奴を通さないと扱えない代物っていうか」
と言った。早苗には何のことだか分からない。
「神社が壊されたことと関係があるとかですか」
「ぶっ壊してくれた張本人がね。関わってるの。別に悪い奴じゃないんだけど。ん? 家壊されたんだから悪い奴なのかな」
――それは悪い人なんじゃないかなあ。
苦笑しながら思うが、霊夢の中では既に終わったことなのかもしれない。竹を割ったよう、とは彼女のためにあるような言葉だと早苗は思う。
「その方が何か?」
「んー……んー?」
ひとしきり唸って、霊夢は思いついたようにぽんと手を打った。
「ああ、そっか。そうね。そういや当然よね。気付かない方がどうかしてたわ」
「分かるように言って下さいよ。私には何が何だかなんですってば」
「説明するまでもないわ。要するに要石が原因だったのよ」
「かなめいし?」
「そ。拝殿の下に刺さってるのよ。新築するとき、地震を防ぐとか何とか言って刺されたんだけどさ。あー、そうだったのか。それなら仕方ないわね」
霊夢は既に説明を終えたつもりでいるらしい。
あの、と早苗はやや語気を強めて言う。勘だけではどうにも埋まらない差を見たような気がしてもどかしい。
「それだけじゃやっぱり分かりませんよう」
あるいは。
幻想郷においては常識なのだろうか。早苗は少し不安になる。
分かり難いことなんてないと思うんだけどなと、霊夢は他意なさそうに首をひねる。
「確かあんたのトコ、形式上の祭神は武御名方様になっていたわよね」
「外の世界にいた頃にはその名前を標榜していたこともありますけど」
「それよ」
「それ、と言われましても……」
論旨の飛躍に付いて行けず、早苗はただただ困惑する。
一応解説する気ではいたのだろう。霊夢が人差し指を立てた。
「いい? 建御名方様は国譲りに際して建御雷様に敗れたということになっているわ。真偽がどうだとかはこの際どうでもいいの。"そういうことになっている"。それが重要だと思いなさい」
「はあ」
「外の世界の神社事情にはあんまり詳しくないんだけどね。私でも知っているようなことが一つ。建御雷様を祀るお社には要石が刺さっていて、それは時として神様の剣にも擬えられるってこと。紫が言ってたのを聞いただけだから、ほんとかどうかは知らないんだけどね」
「ええと――」
「察しが悪いわね。要石の――建御雷様の力に当てられて、建御名方様が縮こまってるのよ」
「……そんなことで八坂様の神気が断たれるんですか?」
「そんなことって何よ。それが重要なんでしょうが」
怒気に当てられ、早苗はわずかに首を竦める。
「すみません。ただ、八坂様が縮こまる姿が想像できなくって」
「神様も神霊という名前の妖怪なんだ、って霖之助さんは言ってたっけ。ま、あの人の話は半分で聞いとかないと痛い目見ることになるけどね」
この場合は正しかったんでしょうよと霊夢は言った。感心半分、納得半分で早苗ははあ、と頷いた。
謂れ。
この一年で何度となく耳にした言葉である。
普通の人間が妖怪に対抗しうる手段であり、妖怪が忌避してやまない由来を持つモノの総称だ。一部の妖怪の間では関わりを避けられるならば首を差し出しても構わないとさえ言われている。首の価値が人間と妖怪では違いすぎるので、その脅威を単純に推し計ることはできないのだが。
それにしても、と早苗は思う。
「一年、経ったんですね」
「……感想はそれだけ?」
霊夢の眉間に皺が寄るのを見て、早苗は慌てて首を振った。
「い、いえ! 単に実感がわかないなと思っただけです。……八坂様のことも、私のことも」
足元で下駄が乾いた音を立てる。
あやかしものには短くとも――人間にはそこそこ長い時間だ。
生活には色々と変化が出ている。まず電気を引く目処が立たないから家電製品の類は埃を被ったままだし、消耗品の大半は幻想郷で作られたものだ。人里で買い求めることもあるけれど、守矢神社の生活基盤はやはり妖怪の山であり、社会生活を営む天狗の手による品物が多くを占めている。
同時に、この期間は謂れを始めとした色々なことを理解するために費やした期間だったといっても過言ではない。考えてみれば、気付かない方がどうかしていたのだ。自分の社の神に関わる謂れ――それを知らなかったわけではない。要石と聞いた時点で、察しがついても良かったはずだ。それを聞き過ごしてしまったのは、早苗がまだ幻想郷に馴染みきれていない証左なのかもしれない。
とはいえ先に気付いた霊夢は自分の社の神をすら知らないのだそうだが。神社運営に支障は出ないのだろうか。まあ、それを心配するよりも己がことに傾注するべきなのだろうと早苗は思う。
「だとしたら八坂様が八坂様である限り、分社からの信仰は滞ったままということになるんでしょうか」
「そうね。そうなるかしらね」
深く考えていない様子で霊夢は言う。
それは――困る。
神様側の都合はともかく、信仰してくれた人の思いが届かないのはいただけない。
早苗がそう言うと、霊夢は呆れたようにため息を吐いた。
「だから、そうならないようにどうにか考えてみよう、って話なんでしょうよ。やっぱ紫に訊くのが一番早いのかしら」
「私は分かりかねますが、八雲さんは幻想郷のことなら誰よりも詳しいんでしょう? だったら」
「詳しいことは詳しいんだけどね。……あんまり借りばっか作りたくない、ってことよ」
言って、霊夢はまた一つ息を吐く。
――うーん?
聞くところによると、二度目の神社倒壊が行われたのは、幻想郷と博麗大結界に関わる一大事だったからなのだという。
霊夢の言う"借り"とは、そのことに彼女個人では気付かなかったことを指しているのだろうか。それが要石とどう関わっているのかは分からないが、"借りばかり"というからには、直近で何か借りを作るようなことがあったのだ。あるいは自分の勘が働かなかったが故に、八雲紫を動かしてしまった――それが歯痒いのかもしれない。
いずれ、力を借りたくない何某かの理由があるのだ。
ならば。
「えと、霊夢さんのお気持ちは嬉しいのですが」
考え考え、早苗は切り出した。
「これは守矢の問題です。我々でどうにかしてみます」
できないことはないだろう。神奈子のみならず、諏訪子にも関わることだ。社の表側に出ることの少ない彼女でも、こればかりは避けて通れまい。助力を仰げば動く、はずだ。二柱の力を借りてできないことはあまりないと早苗は思っているのだから。
――数少ない"人間の"信仰だものね。
しかし霊夢は、
「なに水臭いこと言ってんの」
と、意外にも首を傾げた。
「っていうか、うちの境内で起こってることだし。私が関わらない道理の方がないっての」
「……ですが」
「いいのよ別に。そりゃ、紫の世話にはなりたくないし、そっちの方が信仰の多寡で言うなら上なのも癪だけど。それは私の事情だし。あんたも言った通り、信仰してる人のことを考えれば協力するべきなのは、火を見るよりも明らかじゃない。豊穣に向けて捧げる祈りが届かないのは何て言うか、駄目でしょ? もっとも、私としてはそいつがなくなってくれた方が楽でいいんだけどさ」
反論する間も与えられずにまくしたてられてしまった。
早苗は霊夢なりの信仰心を再確認させられた気分になる。普段からこういう態度でいてくれればいいのに、と思わなくもないが、そこは堅苦しいことを好まない性格によるものなのだろう。
彼女が納得しているのなら、言えることは何もないだろう。
「じゃ、じゃあ借り一つ、ということでお願いします」
「今度の宴会で肴の一つでも持って来てくれればチャラ。それで手を打ちましょう」
「ありがとうございます」
「もう少し厚かましくなるくらいで丁度いいと思うわよ、早苗はさ」
屈託なく霊夢は笑った。
守矢の祭神――神奈子は風神である。来たる台風の季節に備え、農地の加護を望まれる。昨年はこちらに来て日が浅かったこともあり、あまり数は集まらなかったけれど。夏の祭りと精力的な布教活動の成果が出れば、今年はもう少し人間の信仰心が見込めるだろう。早苗はそう踏んでいる。
それをどうこうするために協力を仰げるならば、これ以上ないほどの加勢になってくれそうだった。
とは言え、守矢の分社に捧げられる神饌は基本的に少ない。
楽だと霊夢が言ったのは、そちらに裂いている分だけやりくりが楽になる――というような意味なのかもしれない。
奉納される賽銭の額はお世辞にも多くない博麗神社のことである。捧げられる神饌の多くは、霊夢が妖怪退治で得た報酬の中から捻出されている。例外的に外の博麗神社に奉納されたものがこちら側の博麗神社に現れることもあるらしいのだが、決して当てにできるものではないのだとか。
天狗たちと人間とで、共通の貨幣が使用されているから、早苗も物価は知っている。
だから解ってしまうのだ。
火の車と大げさに喧伝することは少ないけれど。
表向きそう見えない部分で、霊夢がそれなりに苦労しているであろうことが。酒と肴だけは妖怪たちが持ち寄るが、他のものは必ずしも豊富ではない。ちなみに、守矢神社が現世利益を求める妖怪の奉納品で溢れている。妖怪の遊び場と化している博麗神社とは、ある意味対照的とも言えよう。
――今度、おすそわけ持ってこよう。
夏野菜の漬物が、三人では食べきれないほど残っている。日持ちはいいが、どうせ食べられるなら飽きただの何だのと言わない人に食べられる方が漬物としても幸せだろう。肴とは別に、と早苗は決意した。
「大変な時期なのに、申し訳ありませんでした」
「だから、いいってば。これは私の仕事なんだもの。嫌々言ってもいられないわ。天子――は、呼べば喜んで来るだろうけど。問題はやっぱ紫よね。あいつが手を貸してくれるような理由なんてないんだし。どうやって引っ張り出そうかな」
神社の基礎に打ち込まれた要石を扱えるのは、異変の元凶となった天人、比那名居天子の一族だけであるらしい。その上博麗神社そのものが、幻想郷を外と隔てる結界の基礎部分に当たるため、要石を含めて何かとブラックボックス化しているのだそうだ。
あいつの手を借りずに済ませることは不可能だし、と霊夢は少しだけ眉根を寄せた顔で言って、
「ま、何とか説得してみるわ。何にせよあんたが言ったみたいに恩を売るようなカタチになると思うから、そっちはそっちで神奈子に話付けといて」
と、さっさと話を畳んでしまった。
マイペースに主導権を握り続けたまま、最終的に突き放す。幻想郷の人妖がする、半ばコミュニケーションを放棄したような話術だ。やると決めれば大抵は押し通すので、特に証を残さなくても成立するらしいのだが、早苗はようやく耐性ができはじめたばかりである。少々尻の据わりが悪いような気分にさせられる。
互いに対する信頼がなせる約定とでもいうべきか。このくらいの距離感でなければ、人と妖の間に横たわる溝は埋まらないのかもしれないが。
ありがとうございます――早苗が重ねて礼を述べると、霊夢は照れたようにひらひらと手を振った。
「まあ、仕事的な側面を無視してもね。今の神奈子の気持ち――何となく分かるような気がするの」
「え?」
「分社って要するに家、でしょう。壊れれば祀られている神霊にもそれなりにダメージがある感じの」
「そう、ですね」
「ここが壊れてる間、里で暮らしてたんだけどさ。一応は私も――半分くらい忘れられてるかもだけど――博麗の巫女なわけで、扱いも悪くはなかったのよ。普段より美味しいもの食べさせてもらったり、うざったい連中が寄り付かないおかげで静かだったり、ね」
「はあ」
でも、と霊夢は続ける。
「やっぱり調子が出なかった、っていうかさ。普段はあんまり思わないんだけど、戻ってみて思ったの。ここが私の居場所なんだ、って」
「居場所、ですか」
「うん。神奈子の奴もそういうの大事にしそうじゃない? わざわざあの山を選ぶところとか、湖まるごとこっちに運んじゃうところとか」
「あれでも削ぎ落した方なんですよ。上社と下社を含めた全てだなんて、私一人じゃ到底管理できませんから。うちは神体山が必要だったから、どうしても山は必要だったわけですし」
「そういうとこが何となく分かったのよ」
「どれだけ騒がしくても?」
「たまになら――ね」
仕方なさそうに霊夢は笑った。つられて早苗もくすりと笑みを零す。
言いたいことは分かった――ような気がする。
霊夢にとって、安らげる場所がこの博麗神社だとすれば。
早苗にとってはこの幻想郷そのものが、外とは違う、そう在れる場所だから。
「私に協力できることがあれば、何でも言って下さいね」
相手が霊夢であることを忘れて、そんな申し出をしてしまったのは、そういうことを考えていたからなのだ。
「あ、そう? じゃあこれ持ってってよ。建て直すときに全部処分したはずなんだけど、今朝方ふと縁側を見たら投げ込まれててね。鬱陶しいったらないわ」
『霊夢の辞書に遠慮の二文字はないぜ』
いつだか魔理沙がそう表現していたことを、つい思い出してしまった。
筒状の袖を雑に漁って取り出したのは、あまり綺麗に畳まれているとは表現しがたい紙束だった。印刷物。写真。誰のものか――なんていうことは、問わずとも自明だった。右肩の紙名が堂々と自己主張しているからだ。
「文さんの新聞じゃないですか。またそんな、ゴミ扱いするようなことを――」
「扱い、じゃなくてゴミなのよ。どうせ私は読まないもの。里に持っていってちり紙回収に頼むのも良いんだけど、読んでくれる人に渡せば、ちゃんと新聞の役割は果たせるってもんでしょ」
にこりと笑いながら、霊夢はなおも新聞を差し出してきた。仕方なく受け取って、早苗は小さく頬を膨らませる。せめて目を通すくらいのことはしてあげてもいいと思うのに。漬物とは事情が違うのだし。
――いつものことではあるんだけど。
配達された――あるいは押し付けられた――新聞は、早苗が持ち帰ることが多くなっている。年の瀬に掃除で使わないんですかと訊いたら変な顔をされた。幻想郷ではまだまだ紙の価値というものが高いらしい。
妖怪の山において、守矢神社は中立を標榜している。
請われれば誰にでも加護を与え、助力をするという意味での中立なのだが、唯一の例外が存在する。
それが、鴉天狗の新聞を購読することなのである。
何も特別大きな理由が存在するわけではない。単純極まりないことに、神奈子が堪忍袋の緒を切らしたのだ。神奈子の名誉のために言えば、内輪向けのネタを尾ひれ胸びれ、挙句足まで生やした新聞の量は、それだけ凄まじかったのである。
年に一度鴉天狗の間で開催される新聞大会は、通年での発行部数から残部数を引いた数がそのまま点数となる。発行時点での数は書類仕事を担当する天狗が把握しているのだが、問題は残部数の方だ。要は配ってしまえばいいわけで、誰彼構わず押し付ける輩も相当数に上る。
それが神奈子の癇に障ったのだ。
戦勝祈願ならいくらでも受け付けてやるからもう守矢神社には配達するな。神奈子はそう宣言した。
ところが。
押し付けが停止するところまでは良かったのだ。しかし特定の天狗に加担しないと決めた以上、表立って誰かの新聞を購読するわけにもいかない。外の世界と比べてしまうと幻想郷にはどうしても娯楽が少なく、口さがない新聞ですら、暇つぶしにはなっていたのだ。後先をあまり考えない風神様は、宣言して数日で暇を持て余すようになった。
新聞を手に入れる手段は、天狗の街で購入するか、発行元と契約――いずれも金を取るわけではないのだが――するかが主な手段だ。必然的に他者の目に触れてしまう。博麗神社ならば、調伏される危険を犯してまで配達に来る物好きは文を除いて他にいない。
結果論ではあるけれど。
他人の目には、ほぼ付かない。
新聞を必要としない霊夢と、娯楽が欲しい守矢の面々。利害はここに一致した。
そうして、早苗があくまでも個人的に霊夢から文々。新聞を譲り受けるという形に落ち着いたのだ。
だからここで断ったところで、最終的に早苗がまとめて持ち帰ることに変わりはないのだろうけれど。配った人間が読みもせず手放している――それを知ったら文はどう思うのだろう、と早苗は常々案じている。
実際のところ、読まれることもなく捨てられることくらいは予想しているだろうし、覚悟もしているだろうとは思うのだが。差は他人の手に渡るかどうかの一点だ。それならやはり、ここで受け取るほうが有意義なのだろうか。
唸る早苗を置いて、霊夢は社務所の方へぱたぱたと駆けていった。今日は元々、外出する予定があったのだそうだ。計画性のあまりない霊夢には珍しいことだった。もっとも、その理由がそろそろ寒くなりそうな予感がするから冬物を揃えておきたい、という曖昧なところが霊夢らしい。つい先刻までお茶をいただいていた縁側と、玄関周りの戸締りをしに行ったのだろう。気休めにしかならないけどね――当人はそう言っていたが、主の不在を知れば、無理に押し入ろうとする妖怪が少ないこともまた事実なのである。
だからといって、何も言わずに放り出されるというのも始末に負えないもので。
手持ち無沙汰になった早苗は何の気なしに文々。新聞を捲った。盛夏の折、人里に現れた氷売り。大輪咲き乱れる向日葵畑。博麗神社の倒壊。紅魔館潜入取材。終わりかけた夏を悼むような記事の数々。そして――、
半ばを少し過ぎた辺りで、早苗の手はぴたりと止まった。
正確には、紙面の半分ほどを埋める二枚の写真に惹きつけられたのだ。航空写真のように高い位置から撮られた一枚。もう一枚は建物を真正面から捉えたものだった。
モノクロで詳細は分かりづらいが、周囲の木々や山と対比して、二階建て程度の高さである。戸建ではない。大きい。公共の場所として使われていたものなのだ。幽霊――人魂が飛び交う荒地の中央。周囲の雰囲気からはやけに浮いてしまっている。そもそも無縁塚という場所はあまりひとが訪れない場所なのではなかったか。早苗は行ったことがないのだけれど。明らかに人間が使うことを意図された建物なのに。
現れた、という以上、この場所を選んで建設された建物ではないのだろうか。
とりとめもない思考の断片が浮かんでは消えていく。文字の上を視線が滑る。内容がなかなか頭に入ってこない。
混乱――している。
たかだか写真の一枚や二枚だというのに。
分かりやすくいえば。
"その建物"は、校舎だった。
それも――それも、
――私、が。
「どうかした?」
早苗ははっと顔を上げた。
いつの間にか霊夢が隣に立っている。訝しげな表情だった。早苗は口をぱくぱくと動かした。言葉が出ない。いくら何でも驚きすぎだ。冷静に判断することはできているのに。
そうしていると、落ち着きなさいと額をはたかれた。ようやくのことで新聞を突き出す。
「何よ」
「こ、これ――」
「読めっての? 私は新聞なんて」
言いかけた霊夢は、しかし思い直したように口をつぐんだ。様子が急変した原因を感じ取ったのだろう。しぶしぶ早苗の手から新聞を受け取ると、ざっと目を走らせる。
「これが何?」
「いえ、あの、写真に――見覚えがあって」
中身までは、とやっとのことで言う。
ふうん、と気のない相槌が返ってくる。
「写真、ねえ。これが何だってのよ」
「ええと、それ」
亡霊でも見たような。
そんな――気分だ。
「――それ、多分なんですけど……私が通ってた学校だと思うんです」
か細い声音で、早苗は言った。
2.射命丸文
「風祝殿が神社を発ったぞ」
監視役の犬走椛がぼそりと言った。
川のせせらぎに紛れて聞こえなくなるほどの声量だったが、言葉というものは空気の振動である。風を操る文にしてみれば、一間と離れていない位置のそれを聞き落とすはずもない。
「……もう帰ってくるってわけ?」
中洲に横たわる大岩の上、寝転んだ姿勢のまま疲労感を浮かべて文は訊いた。帰ってくるのならば今夜の宴会に出席するつもりなのだろう。となれば、また世話役として抑えに回らなければならない。
――億劫だわ。
文の思考に、
「ご苦労様、だな」
椛が上辺ばかりの言葉を重ねた。余計なお世話と思い、けれど言うことすらも面倒で、文は結局何も言わずにため息を吐いた。
世話役という仕事は、一烏天狗が想像していた以上に面倒なものだった。
これまで外の世界から幻想郷に迷い込んだ人間――いわゆる外来人だ――の世話は、人里に一任されてきた。生活の基盤が里であることに加え、妖怪という存在に慣れていない外来人が、安易に里外を出歩かないよう監視するためでもあった。要するに保護を兼ねていたわけで、外来人であれば食べても構わないという幻想郷のルールがある以上、妖怪の山にお鉢が回ってきたことはなかったのである。
故に、まず"幻想郷を知らない人間の扱い方"自体がよく分からなかった。そもそも、生活形態が妖怪と人間では異なりすぎている。ヒトという物質的な食事を断ち、感情や気質といった曖昧なものを食べることが可能な精神的生物――妖怪に対して、人間が生きていくためにはどうしても食料が必要だ。その辺りは人里で買い出しをすることで解消したとしても、今度は文化の壁が立ちはだかる。こちらでは一部の河童程度にしか普及していない、電気があって当然の暮らし。それがどういうものであるのか、文を始めとする妖怪たちには今ひとつ理解できなかったのだ。
極めつけは彼女が酒に弱かったということである。
天狗と積極的に――時には消極的なこともあったけれど――関わろうとする人間は、概して酒に強い英傑ばかりだった。当代の博麗の巫女にしても同じだ。細い体のどこに入るのか。そう思わされるほど底なしに、呑む。だから天狗たちは宴会に姿を見せても酒を断る――あるいは呑んでも吐いてしまう――彼女にどう接して良いのかと手を焼いていたのだ。
文はそれと知らずに引き受けてしまったのである。事情通としてはこれ以上ないほどの失態だった。それもこれも、上との付き合いから逃げ続けてきたツケが回ってきたのかもしれなかった。
世話を文に一任してしまってから、彼らは一様に調子を取り戻した。呑めないことを承知の上で勧めることもしばしばあり、その度に文は代理と称して飲み比べを受けなければならなかった。
何度か転属願いを出してみたのだけれど、結局は受領されることなく一年が経過してしまった。それ以上の行動を起こす気にはなれなかったので、役職から開放されることはなかった。自分の視野と了見の狭さを思い知らされる一年だったといっても過言ではない。一つ事に目がくらむと途端に視界が曇ってしまうのは、文の昔からの悪癖だった。こういうときには様々な意味で椛の視座が羨ましいと思ってしまう。
――帰って来ないなら。
宴会にも顔を出さないというならば――これほど楽なこともない。そう考えてしまったために発露した疲労感だった。
文の気持ちを知ってか知らずか、椛は、だがなと首を傾げる。
「博麗と連れ立って出た。何やら押し問答をしていたようだし、方角も山とは真逆だ。どこへ向かっているのやら」
「霊夢が一緒なら、香霖堂とか?」
方向的には合ってるよね、と並んで寝転ぶ河城にとりが言った。手元には文々。新聞が開かれている。香霖堂の店主に行った取材記事を見て思いついたのだろう。彼は面白いものを見つけては拾得してしまう悪癖を持っていて、どうしても金に困ったときなどには広告の掲載を頼まれるのだ。この河童はそういう広告を見て店を訪れる、いわば上得意なのである。
にとりの言葉を受けて、椛はふむ、と頷いた。
「魔法の森、かもしれないな。あの店は確か、森の手前にあったろう」
「魔理沙のところかあ。それが正解かも」
「どこでもいいわよ。私が面倒に巻き込まれない限りは」
やや投げやりに言うと、椛とにとりは顔を見合わせて笑った。仕方のない――そう言われているように感じて、文の頬に僅かに朱が差す。
川面を渡る風は澄んでいる。冷たくもなく、熱くもない。昼寝をするにはちょうどいい陽気だ。特にこの場所は、陽と風の心地よさが釣り合っている。あまり無防備過ぎるとどこかの新聞に載せられてしまうのが玉に瑕だが、"目"――椛の千里眼を使って構わないという許可が下りてからというもの、そうした問題とは疎遠になっている。
ただ、この目は口を持っていて、時折ちくりと棘まで刺してくるのが玉に瑕なのだ。今もまた、巻き込まれるとすれば――と、鋭い赤眼を煌めかせて彼女は言う。
「貴女自身の所為だろうな」
「どういうことよ」
「それさ」
椛はにとりを指差す。
「私が何?」
「違うよ。その三文新聞だ」
「……ご挨拶ね」
「東風谷殿がそれを見て慌てていたのは事実だ。どの記事か、というところまでは分からなかったが」
案外本当に香霖堂を目指しているのかもしれないなと椛は言う。
「外にいた頃愛用していた品が入荷された――とか」
「本気で言ってるの?」
「結構な速度だ。誰かに先を越されないためと考えれば辻褄は合うだろう。既に里を通り過ぎてしまったし、あの店は眼と鼻の先だ」
――それは。
文はふむ、と頷いた。
たしかに速い。博麗神社から人里までは、歩いて一刻かかる距離である。空を往くとしてもゆっくり飛べば四半刻はかかってしまう。椛が神社を発ったと言ってから、まだ数分しか経っていないのだ。ずいぶんと急いでいる。本当に何か目的があるのか――と、文の記者根性が首をもたげかけて、
「新聞って言ったらさ」
けれど、中途半端なところで折れてしまった。寝転んだままの視界に、にとりがずいと乗り出してきたからだ。無視するわけにもいかず、文は微妙に渋面を作り訊く。
「……何よ」
「これこれ」
にとりはとんとんと記事を指す。
紙面には「無縁塚に謎の建物現る」という見出しが踊っている。自分の書いた記事だ。読まずとも内容は覚えている。
『○月○日、無縁塚にて謎の建物が発見された。発見者は是非曲直庁勤務の船頭死神、小野塚小町氏である。彼女はいつものようにサボタージュを終えた後、三途の川に帰る途中で、塚を通りかかった際に発見したのだという。
「驚いたといえば驚いたけどねえ。正直、そのときのあたいは四季様のご機嫌伺いで頭が一杯だったからサ。ろくに調べもしないまま放っといたんだ。でももうかれこれ一週間近く放ったらかしだろう? あのまま朽ちるよりは報せてやった方がいいだろうと思ってね。え? サボりの口実にするなって? 堅いこと言いなさんな、あんたとあたいの仲だろうに。ちょ、ちょっと待って四季様に告げ口するのだけは勘弁しておくれよ!」
第一発見者は以上のように語り、私が無縁塚を訪れた所、確かに見慣れない建物が存在していた。かの建物がいつ、どのような経緯で現れたのかは現在判明していない。ただ、外の世界から現れたものであることは間違い無いと思われる。追って調査する所存だが、物見高い読者諸氏は一度訪ねてみるのもいいだろう。当記事が掲載される頃には彼岸花が見頃を迎えているはずである。※ただし、身の安全は保証しかねることをここに付記しておく。』
妙な建物が幻想郷の中に現れた。短くまとめればそれだけのことだ。それ以上に不可思議なことなど、ここでは日常的に起きている。小町から伝え聞いた話を基に実地での写真を挿入して書き上げた、文にしてみれば珍しくもない凡百のそれだった。
「これがどうしたのよ」
「察しが悪いなあ。いつもの調査、お願いしたいんだよ。早苗さんが帰って来ないなら、手は空いてるんでしょ。それにどうせ、椛が呼び子も持ってるんだからさあ。何かあったら分かるじゃん」
「ああ――」
仰向けのまま、ぽんと手を打つ。早苗と香霖堂の関係にばかり気を取られていて、河童と幻想郷に流れて来た建物の関連をすっかり失念していた。
幻想郷は狭い箱庭世界である。それゆえ採取できる資源は限られている。しかし河童たちの間では常に一定以上の需要が存在している。
ならばどうするか。
決まっている。外から流れ着いたものを解体し、再利用するのだ。コンピューターやストーブ等の日用品は言うに及ばず、建造物でさえ破壊し、瓦礫を溶鉱炉で溶かし、貴金属を取り出して材料とする。建物が流れ着くということは、言うなれば小規模な鉱山が出現したようなものなのである。河童の一部と香霖堂店主にある関係性は、そういう部分にも由来している。
「でも、ねえ」
今回に限って言うならば、場所と時期が悪い。
無縁塚。
数年前に起きた花の異変では数多くの人妖が行き交った場所だが、今回に限って言えば事情が違う。秋口のこの時期は、無縁塚が最も危なくなる時期だからだ。
物理的、時期的双方の意味において、"彼岸"が近い――のである。
此岸との境界が薄れ、割合簡単に行き来ができるようになっているとはいえ、両界の距離が最も近付く時期なのだ。人里の稗田家編纂による幻想郷縁起で、危険度:極高と記された唯一の場所。その危険性は洒落や酔狂でどうにかなる程度のものではない。
"生きていること"自体が揺らいでしまい、死後の世界を経ず、一足飛びに転生してしまった者もいる――らしい。そこまで行くと体験談を語れる者がいないため、行方不明からの推測でしか計ることができないのだけれど。
――自殺行為ね。
時期を外せばまだしも、この時期に向かうなど馬鹿のすることだ。
文としては、そう思わざるを得ないところだったのだが。
そんな場所に現れた建物であっても、にとりの興味をそそるには十分なものだったらしい。建物であったからこそ――と言うべきなのだろうか。
「何が採れそうか調べてきてくれない? これ知ってるの私だけなんでしょ」
「ほ、他にもいるわよ。博麗神社にも配達したんだから」
「……霊夢は新聞読まないんじゃないの?」
「……いやほら、ひょっとしたら読んでるかもしれないじゃない? あの子が一緒だったわけだし」
「まあぶっちゃけ何でもいいんだけどさ」
「あ、あのねえ」
お願いこの通り、とにとりは両手を合わせて文を拝む。
「早い者勝ちなの知ってるだろ? 今ならまだ私が独り占めできるかもだし、そうなったら文のカメラも弄ってあげるからさ」
「それは当然の対価でしょ。報酬は別枠で請求させてもらいます」
「ぬ」
退くぐくらいなら言うなよ、と外野から余計な声が飛ぶ。二人は聞こえないふりで視線を合わせた。
「……話の出処が悪すぎる。それはにとりだって分かっているでしょうに」
「それは――まあ」
にとりは煮え切らない声を出す。天秤にかけてよほど大きな得をすると踏んだのか。あるいは本当に懐事情が切迫しているのか。
――それでも。
動きたくないものは動きたくないのである。
小野塚小町に聞いたということは、その話が是非曲直庁に通じている可能性が極めて高い。いくら彼女がサボリ魔だとは言っても、するべき報告はきちんと行うはず。かの役所は此岸の事件に関して滅多に動くことはないが、無縁塚絡みとなれば話は別だ。
あの場所は死者の霊が寄り付きやすいため、それが留まってしまうような建物は解体の対象とされてしまう。資材は彼岸の所有物となってしまうのだ。あちらの懐も決して暖かくはないため、横から掠め取るような真似をして、万が一目をつけられるようなことがあれば大事に発展しかねない。
ただし、抜け道というものは何事につけ存在する。是非曲直庁立会いの元で解体を行い、かつ取り分の比率で合意できれば、資材の幾許かをこちらのものとできるのだ。にとりの頼みは、その交渉材料ともなる資源量の調査なのである。
だが当然、危険は付いて回る。
それも先述の通り、生死の境を彷徨うような、大きな危険が――だ。
彼岸前の無縁塚とは、それだけの覚悟をしなければ立ち入れない場所なのである。どちらつかずの状況が改善される彼岸の最中の方が、現状のあの場所よりはよほどマシなのだ。
「心配しなくても、あれは多分人間が使わなくなった建物よ。無縁塚に現れたこと然り、死者が依るには十分過ぎる材料だわ。彼岸の連中に壊されてから交渉しに行った方が楽だし、それでいいんじゃない?」
「ダメダメ、それだと遅いんだって。あいつらがめついんだもん。持ち合わせの鉄が少なくなっててさ。量が欲しいんだよね」
「自己責任。欲しいんだったら勝手に行きなさいよ。骨くらいは拾ってあげるわよ――そこの犬が」
「あのな、友人の骨を拾う前提で話を進めないでくれないか。流石に止めるぞ、私は」
犬扱いもやめろ、と椛は強い口調で言う。即断が求められる哨戒役には、駆け引きが面倒なやり取りとしか映らなかったのかもしれない。
「風祝殿と博麗はやはり香霖堂に下りた。この報告もしないほうが良かったかな」
「いやいやいや、感謝してるわよいつもありがとうどーも」
「これほど嬉しくない礼も初めて聞いたよ」
「行ってくれないかなあ……」
「いやいや、だから意味が分からないってば。どうして行かなきゃいけないのよ。私はまだ死にたくないの」
「白玉楼にはよく行ってるじゃないか。あれだって死後の世界だよ?」
「戻って来られなくなるってのが問題なんでしょうが」
ため息を吐くと、にとりは露骨にたじろいだ顔をした。椛ではないがそんな顔をするくらいなら初めから頼まないでほしい。
と言っても――自分が行くことの危険性を十分に承知しているからこそ頼んでいるのだろうけれど。河童は水場を離れれば離れるほどに力が減衰してしまう。無縁塚の近辺には、小川やそれに類する水場がないのである。最寄りの水場と言えば、三途の川になってしまう。泳ぐことができないあの水は、河童にとってすこぶる相性の悪い相手なのだ。
諦めの悪い谷河童は、それでもなお食い下がる。
「じゃ、じゃあうちの里の皆に文の新聞を」
「それ前にも聞いたことあるわ。結局一人も増やせず仕舞だったでしょ」
「……そこはほら、面白くないからじゃないかなあ」
「い、言ってくれるわね」
「む――動いた」
にわかに剣呑な空気を漂わせ始めた二人を、椛の呟きが静止した。すうと目を細めて彼女は言う。
「東風谷殿が一人で出て来た。何か提灯のようなものを持っているな。この方角は――無縁塚、か?」
「はあ?」
――何考えてるのよ。
文の顔からさっと血の気が引いた。慌てて上体を起こす。椛は気圧されたように半歩退いた。千里を見通す眼が赤く輝いている。力を発揮している証拠だ。遠方に視界を飛ばす関係上、本人の視界は極めて不安定なものとなっているはずだが、それを斟酌する余裕は文にない。肩を掴み、余裕を失った表情で訊く。
「一人なの? どうして無縁塚なんかに?」
「わ、分からないさ。知ってるだろ、私が無闇に個人宅の中まで覗かないってことは。貴女のように倫を踏み外す気はないんでね」
少なくとも一人ではあるようだが――と、椛は言う。文は頭を掻いて、
「うっさい、今は私のことなんてどうでもいいでしょうが」
と、噛み付いた。
「……否定はしないんだね、文」
にとりのじっとりとした視線も今は気にならない。こういう予想もつかないことをしてくれるから面倒なのだ、早苗の世話役は。
「霊夢が一緒じゃなかったの? どういうことよ、今の無縁塚が危ないってことくらい――」
「――教えなかったのかもしれないな。当代の博麗はどうもその辺りが抜け落ちている。あるいは教えてもなお向かう理由が風祝殿にあるのか。どちらかだろう。まあ、貴女が問題にするべきは、貴女の新聞で得た情報を基に彼女が動いていることだろうが」
「何で新聞が出てくるのよ」
「知れたことを。それ以外に、風祝殿があんな場所へ理由がないからだ」
ご愁傷様――と、椛は文の手を振りほどいた。
「これで貴女は好むと好まざるとに関わらず、行くよりなくなってしまったわけだ。幸い、速度は落ち着いている。貴女の翼なら何とか追いつけるだろう」
冷静な物言いが癇に障る。確かに幻想郷の端から端まで飛んでも数分とかからない文の翼ならば、間に合いはするのだろうけれど。
ええい、と文は吐き捨てた。自分に言い聞かせるように、
「くそっ。連れ戻しに行くだけ。回収したらさっさと離脱。あんな場所、行かないに越したことはないんだから」
言う。
「椛は監視を続行すること。万が一のことがあったら――後は頼むわよ。上に知らせるよりは直接守矢の神様に上奏しなさい。その方が動いてくれる可能性は高いはずだから」
「了解」
「ついでに調査を――」
「大概しつっこいわよにとり。……待った。それ、言い訳に使わせてもらうわ。いきなり飛び出ちゃ格好がつかないし」
投げつけるように言って、文は背に翼を出した。
羽根が風を捉える。川面に波紋が広がる。ざわざわと、心が踊る。この感覚を味わう瞬間が、天狗で良かったと思える最高のひとときだと文はそう思う。
それは――こんなときであっても変わることはない。
「武運を」
「他人事だと気が楽だねえ」
投げ出していた鞄を引っ掴んだ文に、椛がきりりと表情を引き締めて、にとりがひらひらと手を振って――こちらはどさくさ紛れに調査を押し付けられたことが原因なのだろうけれど――言った。
「好き勝手言ってくれるわね、本当。――覚えてなさい、二人共」
ー寝覚めが悪いのは。
ゴメンなのよね。
せめてもの置き土産に、苦笑と捨て台詞、そして盛大な暴風を残して。
文は急ぎ、針路を西南にとった。
3.東風谷早苗
『無縁塚は危ないから適当に気を付けときなさいよ。死なれると面倒だから』
霊夢は香霖堂の商品からランタンを――店主に断りなく――投げて寄越しながらそう言った。
言葉だけで行動に移してくれないところはいつも通りだったので、早苗としてはいまいち危機感が持てなかったのだが。
――そんなに危ない場所なのかな。
何となしに首を傾げる。たしかに――新聞にも身の安全は保証できないと書いてあったけれど。
幻想郷の安全基準を、早苗は未だに測りかねている。生命を脅かされるような事態に遭遇したことがないわけではない。しかし、その多くはスペルカードルールを理解できない木っ端妖怪の攻撃だった。その程度であれば撃退することは容易かったし、"場所"が危ないのだと言われても実感が湧かないというのが偽らざる気持ちなのだ。
無縁塚――。
幻想郷の東端にある博麗神社から西へ飛び、人里を越えてしばらく行くと至る幻想郷最大の森――魔法の森。その森を越え、更に西へ行った場所が目指す無縁塚なのだそうだ。距離はそれなりにあるが、行って帰るくらいなら日没前に往復できないこともないらしい。その場所について記事が書かれることは少ないが、人里において危険性の認識は統一されており、訪れる者はほとんどいない。そして、それゆえ徒に興味をかきたてるような記事もまた書かれることはないのだと、霊夢は香霖堂への道すがら話してくれた。
『そんな場所について書いた以上――』
「――文さんも何かを考えてるのかもしれない、か」
そんな不確定情報をどうしろと言うのだろう。脅かすだけ脅かして後は放ったらかしだった。いつものことと言ってしまえばいつものことではあったのだけれど。無縁塚への道はと訊かれて、
『行けば分かるわよ赤いから』
と、言ってしまうような人物の言うことだ。信用しない方が正しいのかもしれない。
――考えてるとしても。
早苗の母校だと知って書き立てたわけではないだろう。こちらにだって確証があるわけではないし、関係付ける根拠は何もないはずで、第一仮に何かあったのだとしたら、文はむしろ隠すはずだ。
何となく――ではあるが。
事件が事件を呼んでしまうような記事を、文は好まないだろうと早苗は思っている。この場合は危険性を理解しない第三者で、それも無用心に無縁塚を訪れてしまう程度には実力を持った者の身に降りかかる二次災害を――だろうか。起きてしまった事件を面白おかしく仕立てることはよくあるのに、事件を起こすことは好まない、という思考なのだとしたら、正直よく分からないのだが。とはいえ、
「そう思うんだから――仕方ないよね」
思案しながら呟いたときである。
魔法の森の終わりが、ようやく見えた。
そして。
「うわあ――」
早苗は霊夢の言う"赤いから"の意味を知った。
山間の道を埋め尽くすように、赤い花が咲き乱れている。
大河。
そんな単語が脳裏をよぎる。無論、比喩だ。幻想郷に小川はあれど大河はない。赤い川の正体は、おびただしい数の彼岸花だった。
――れ、霊夢さんのいう通りだったのね。
この郷は狭い箱庭世界の筈である。早苗は時としてその前提を忘れてしまいそうになる。諏訪湖が鎮座する妖怪の山を始め、人里だって決して小さな村とは言いがたい規模を誇っているからだ。
この道も、そんなスポットの一つと早苗の目には映った。
森の西端から始まり、遠くの山麓に至るまで途切れることなく咲いている。感心を通り越して呆れてしまうほどの規模だ。本当に――こんな場所が日本のどこに収まっているというのだろう。結界が存在するとは言えど、基本的には陸続きと聞いているのに。
再思の道と、人の言う。
外の世界から迷い込む人間は、多くこの地出現し、そして命を落とすのだ――と、先刻霊夢は話していた。気にすることが馬鹿らしくなるほどの人数なのだとも。
――だったら。
早苗はうそ寒さを覚えて首を竦めた。見下ろした先には、こんもりと盛られた土饅頭が並んでいる。あの盛土の下に、骸が埋まっているのだろうか――そんな想像をしてしまったからである。
露出した肩を無意識に摩る。大丈夫と言った霊夢を信じているからまだ耐えられるのだが、何も知らなければ引き返していたに違いない。目的が何であったにしても、だ。
もっとも、ここへ来たことが間違いだったのではないかという気持ちは刻一刻と大きくなっているのだけれど。
引き返そうかどうしようか――悩み続けながら、ゆったりした速度で十分ばかり飛び続けた頃。ようやく赤い川の切れ目が見えた。
あれが目指す無縁塚なのだろうか。
薄い霧に覆われた山裾だった。彼岸花に覆われていた地面が、一転して荒れた地面を覗かせている。墓標と思しき、地面に立つ木片の数が多い。見渡す限り――とまでは言えないけれど、その数は数百を下るまい。中には真っ黒に朽ちているものもある。
あの全ての下に、外の人間が埋まっているのだろうか。
――ああもう。
またしてもしたくない想像をしてしまった。背筋を冷たい汗が伝う。そんなことを考えに来たわけじゃない、と早苗は小高い丘を迂回しようとして、
瞬間、
何となく――予感がした。
懐かしいような。
浮つくような。
とにかく何か、ひどく落ち着かなくなるものがそこにあると思えた。
果たして。
目指す建物は、丘の影になる形でひっそりと建っていた。
一目見て、理解した。
――間違いないわ。
からんと荒野に着地する。足袋が汚れてしまうなと愚にもつかないことを考えてしまったのは、まだどこか現実とは思えなかったからだろうか。
それは。
間違いなく、早苗が通っていた小学校だった。
木造二階建て、横に四つの教室が並んだ普遍的な校舎だ。通っていた頃と違うのは、白系の塗装が剥がれ、窓という窓を――昇降口も含めて――ベニヤ板で目張りされていることである。手入れをされていないのか、黒ずみ、さながら廃墟のような雰囲気を醸し出している。
廃校になってしまった――のか。考えて、しかし早苗は首を捻った。生徒数は減少の一途を辿り、そんな話も出てはいたけれど、同時に耐震工事を施した上で宿泊施設として使ったり、資料館として利用したりする話も出ていたはずだ。そうそう容易く幻想郷にくるとは思えない。規模は小さくとも、地域に密着した学校だったのだ。
ただ、卒業生としての感情を抜きに観察すると、やはり外の世界で必要とされなくなったモノに見えてしまう。
山に背を向け、傾きはじめた陽を浴びる姿が。
言いようもなく寂しそうに見える。
数多の卒塔婆を従えた、それ自体が巨大な墓標のように錯覚してしまいそうになり、早苗は慌てて首を振った。幻想郷へ移る直前の守矢神社にも似た雰囲気――寂れ、うらぶれ、必要とされなくなった、特有の愁色が漂っている。
「どうして……?」
校舎に歩み寄った早苗は、半ば放心したまま壁に指を這わせた。ささくれた木目が拒むように刺さる。後退り、目を落とした人差し指には、うっすらと血が滲んでいる。建物に意思がある? 拒まれたとでもいうのか。――否。確かに古い校舎ではあるが、サイズが大きすぎるように思える。一般的に付喪神となるには図体に比例した年月が必要である。この校舎が化けるにはまだ早い。あと数百年もすれば分からないが、そうなる前に朽ち果ててしまうはず。
第一意思を持っているのだとすれば、こんな場所を選ぶことはないじゃないか。
違う、そうじゃない。
それを抜きにしても。
違和感があるのだ。
何かが違う――通っていた頃の学校と。
考えろ。
考えろ。
指先がちくりと痛んだ。傷口にぷっくりと血の玉が浮いている。見るともなしに眺めた早苗は、その赤にはっとした。
――待って。
必死で掴んだイメージの尻尾は、小さな疑問だった。
そもそも、この学校は生徒を害するような意思を感じさせる建物だったか? 意思なき存在でも、包み込むような感情を想起させるそれではなかったか。
ぱっと視界が開けたように、早苗は感じた。違和感の原因は――あまりにも校舎が痛んでいることだ。軽く指を這わせた程度でも、怪我を負ってしまうほどに。
卒業から数年が経過しているとは言え、あまりにも記憶の中の光景とは違いすぎる。写真ではモノクロだから判りづらかったのだが、実物を目前にすると一目瞭然だ。
「……どうして気付かなかったんだろう」
再び、今度は慎重に触れながら――思う。
早苗が通っていた頃には、数年おきにペンキが塗り直されていたし、下から見えるほど雨樋に落ち葉が溜まるなんて考えられなかった。真新しいとはお世辞にも言えない校舎ではあったけれど、それだけ人間の手が掛かっていた校舎であったのだ。痛み、あまつさえ人を害する建物ではなかったのだ。
それが何故、数年でこれほど劣化してしまっているのか。原因は。この数年でいったい何が起きたのだろう。まさかとは思うが、自分たちが幻想郷に来たことが何か関わっているのか。どうなれば学校が幻想郷に来てしまう要因足りえるのか――それがまるで分からない以上、考えても仕方のないことかもしれないけれど。
よもや自分を巻き込んで展開される陰謀だったりしませんよね、と僅かばかり妙な考えが過ぎりかけたが、やめた。東風谷早苗という一個人には、大した価値などないはずだと早苗はそう思っているのだ。
とにかく一周してみよう。そうすれば何か分かるかも。そう思い立ち、振り向いた早苗の思考は――けれど、行動に移る手前で停止した。
「……?」
いつの間に現れたのか。
奇妙なものが、くるりと振り返った背後に立ちはだかっていたからだ。
「な――」
黒い、もやもやした"何か"としか言いようがない。人間大のサイズではあるけれど、顔貌があるわけではなく、幻想郷で見た妖怪や妖精の枠に当て嵌まらないモノ。
――なにこれ。
怪訝に思う早苗をよそに、"もや"が変化を見せた。緩慢な動作でするすると伸びてくる。
攻撃?
害意は感じられないが、とにかく触れられるのは良くない気がした。弾幕ごっこのおかげでとっさの判断は鍛えられている。やすやすと当たる速度ではない。
ひょいと頭を下げて躱した早苗は、頭上を掠めた"もや"が校舎の壁面にぶつかる瞬間を見た。
見てしまった。
めり、という鈍い音がして。
速度に見合わない深さの傷が壁に走った。
――え?
派手な音はしなかった。だから余計に現実感が感じられない。ただ単純に、ゆっくりと木を割くような音だった。スローモーションのようにべきべきと壁が凹んでいく。
もしも今、動かなかったらどうなっていた? あれが通過した場所にあったのは自分の頭だ。壁に付けられた傷から目が離せない。
警告もなしに襲うなんて。
冷静に考えている滑稽な自分を意識したそのときだ。
壁にめり込んだ"もや"は角度を変え、早苗に向かって伸びてきた。
それを見てようやくフリーズしていた思考が動き出す。
が、遅い。
もどかしいほど自分の身体が動かない。
来る。
ああ――、
「嘘、でしょ」
強張った口から言葉が零れて。
そのとき。
轟音が静寂を打ち破った。
爆風のような強い風が身体を叩く。
砂塵が舞い、思わず早苗は目を庇ってしまった。そんな場合じゃないのに――急いで手を下ろし、唖然と口を開けた。
"もや"が姿を消している。
代わりに白いシャツの背中が視界を覆っている。
そして。
「やれやれ、間一髪というところですか」
耳馴染んだ声を聞いた。
肩口で揃えられた濡れ羽色の髪。斜めがけの草臥れた鞄。十メートルあまり先で蠢くもやに向けられているのは八手の葉団扇だ。肌身離さず持っているはずのカメラは見当たらないが、見間違えるはずもない。
文だ。
射命丸文がそこにいた。
「この方は我ら山の盟友です。手を出すというのでしたら相手になりますよ? あいにく、容赦はできかねますがね」
蟲のように蠕動する"もや"に向かって、文は強い言葉を投げつける。
さながら助けに来たとでも言うように。
諦めが悪い――という言葉をあれに当てはめることができるのかどうか今ひとつよく分からないが――のか、"もや"はしばらくその場に留まっていた。だが、やがてずるずると荒地に跡を残しながら距離を取り始めた。
――助かった……?
ぽかんと"もや"を見送っていた早苗は、こほん、というわざとらしい咳払いで我に返った。
「あ――あや、さん」
「ええ、どうも。清く正しい射命丸です」
文はそう言ってにこりと笑う。
「どうやら間一髪のところだったようですねえ。いけませんよ、こんなところで気を抜――」
「文さん!」
「あややややっ?」
猛烈な安心感に襲われて、早苗はがっしりと文に抱きついた。文は細身に似つかわしくない力強さで早苗を受け止める。安心した。言葉にならないくらい、安心した。心臓が早鐘のように鳴り響くのを、どこか他人事のように感じながら、腕に力を込める。
そのまま一分近く、早苗は文の肩に顔を埋めていた。その間ずっと、文は早苗の背を撫でてくれていた。何も言わず、ただ受け止めるように。
やがて、幾許かの気恥ずかしさを振り払った早苗は恐る恐る顔を離した。そっと上目で窺うと、文はやれやれと言いたげな表情を浮かべている。
「なぜこんな場所に来たのです? ここが危険だということをご存知なかったのですか?」
「少しだけ霊夢さんに聞いてはいたんですけど。……でも、この建物に見覚えがある気がして」
「見覚えとは?」
「ここ、私が通ってた学校なんです。だからどうしても――来たくって。あの、文さんの新聞に掲載されていた写真を見たんですけど」
免罪符になることではない。分かっていながら、言い訳がましく言ってしまう。
文は一瞬、虚を突かれたように黙ったあと、かすかに渋面を作って、
「あれには身の安全は保証しない――と、そう書いてあったでしょうに」
と、言った。
「あ、あはは……」
苦笑しか出てこない。また過信してしまったのだ。自分の力を――である。
――悪癖だわ。
薄々自覚があるだけにたちが悪い、と自分でも思う。思うが故に、誤魔化したくて早苗は勢い込んだ。
「あ、文さんこそどうしてこんな所にいるんですか? 危険だっていうか、価値なんてなさそうな場所じゃないですか」
「こんな所とはご挨拶ですねえ。私が来たお陰で助かったんでしょうに」
「それはそうですけど」
不思議であることに変わりはない。
「おかしいじゃないですか、あんな図ったようなタイミングで――」
「馬鹿なことを言わないで下さい。あれを操って貴女を襲わせ、私自ら助けたと言うのですか? わざわざそんなことをする意味が無いでしょう。私は私の目的があるから来たのです」
「目的?」
「ええ。記事を書いたという行きがかり上、追跡調査は欠かせないでしょう?」
早苗は疑惑の目を文に向ける。
「……追跡調査なんてしてたんですか」
「今回の場合はにとりに依頼されたから、という部分が大きいのですがね」
「にとりさんに?」
「ええ。この無縁塚ではままあることなのですが、貴重な資源の鉱脈が入ってきたわけですから」
「何ですか、それ」
建物と鉱脈という言葉に関連性はないように思えるのだが。
「鉄筋コンクリートの中に存在する鉄は、取り出せば再利用することができるんです。他には――そうですねえ、アルミサッシを溶かして精錬したり、配線類なども鉱物として見ればそれなりにまとまった量が採れたりしますし」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
「はい?」
流暢に説明する文へ向かって、早苗はそんなことができるんですか――と、訊いた。
「どういうことです?」
「なんていうか、幻想郷らしくない言葉が聞こえた気がしたんですけど」
「ああ。言いたいことは何となく分かりますよ。有り体に言えば外の人間が利用するモノについて、私が知っていることが不思議なのですよね?」
「そ、そうですそうです」
早苗が頷くと、文は小さく苦笑した。
「とりあえず座りましょうか」
「危ないって自分で言ったじゃないですか」
「すっきりしないまま連行したのでは後味が悪いでしょう? 通っていた――あー、学び舎だと言ったではありませんか。その辺りの話を詳しく聞きたいところではありますしね」
誘われるまま、校舎中央にある昇降口の前に移動した。靴に付着した土を落とすために、ささやかな階段が設けられている。風が積もった砂埃を払う。文を取り巻く風の仕業だ。落ち着きなさいと言われているようで、早苗は今更のように赤面した。
ガラス戸は窓と同じように目張りされているが、隙間から下駄箱が覗き見える。校内の設備は残されたままなのだろうか。外回りの目立つ所ではエアコンの室外機が残されたままだった。文の台詞ではないが、こういうものは業者に引き取ってもらうものなのではないのだろうか。廃校となった経緯についての疑問が再び沸き起こる。
早苗の思考を遮るように、貴女が疑問に思うのも無理はありませんと文は言った。
「確かに我々はそういったモノを使いませんし、それらの製法も直接的には知りませんからね」
「なら、どうして」
「単純なことです。外から流れ着くモノは何も物質に限ったことではなく、知識――具体的にはそれを蓄えた人間、つまりあなたのような人間ですね。や、書物のたぐいです――もまた同じように入ってくるのです。そして私は新聞記者である関係上、外来人の話を聴きやすい立場にある。それだけではなく、彼らと河童のような者たちとの橋渡しをすることもあるのです。要するに、門前の小僧習わぬ経を読むという諺は我々にとっても当てはまるという、それだけのことですよ」
「……はあ」
分かったような、分からないような。論点が定まっていないからだろうか。
「そういう決まりごとが?」
「明文化されているわけではありません。解体を河童に任せる関係上、大まかな利益を譲るというのが暗黙の了解なのですよ。こういうモノに関しては彼らの右に出る者はいませんからね」
「不満が出たりはしないんですか」
「どうしても、というのであれば頭を下げればいいだけのことです。刀剣を始めとする武具などは我々が独自に作るように計らってくれますし、まずもって河童は物分りが悪い相手ではないですしね」
「物分り――ですか」
「はい」
例えば、と文は"もや"の去った方角を指す。
「ああいう手合いには言葉が通じません。そうなると力尽くしかありませんが、河童の場合は言葉が通じるのですから」
我々も交渉することくらいは知っているのですよ? と文は冗談めかして言う。
「……あれは、一体」
「無縁塚はとてもいい狩り場なのですよ。貌(かたち)を失くしてしまうほど力を喪ったものには特に、ね」
「カタチ?」
「死んでしまったあやかしもの――というのが一番手っ取り早い説明かもしれませんね」
どきり、と。
心臓が跳ねた。
「あれは――死んでいたんですか」
「死んでいるように見えませんでしたか?」
「……はい」
あの動きは明らかにこちらを狙っていた。意思を持たない――死んでいるモノであれば、ああいう動きはしないと早苗は思う。
言うと、文は静かに首肯した。
「言い分は分かりますよ。確かにあれは早苗さんを狙っているように見えましたし。ふうむ。そうですね……どこから話しましょうか。妖怪は骸を残さないという話を、一度くらいは耳にしたことがあるでしょう」
「ええ」
では、と文は続ける。
「魂魄という言葉、あるいは概念についてどう考えます?」
「は?」
唐突に何を言い出すのかと窺ってみるが、文の表情は特にからかうような色を帯びているわけではない。
「人間がどうして生きているのか、それを説明する言葉でしょう」
結局、早苗の答えは一般論に落ち着いた。
同時に、ではその理屈はと訊かれればよく分からないのだけれど――とも、早苗は思う。何だか妙な方向に話が転がり始めてしまった気がする。
――学校まるで関係ないし。
そんな思いを知ってか知らずか、文はやや満足げに頷いた。
「それで宜しいですね」
「クイズじゃないんですから早く続きを言って下さいよ」
「急かさないで下さいな。人は三魂七魄といい、三つの魂と七つの魄、つまり肉体を御する気で構成されているのだといいます。しかしここでは単純に魂と肉体の比率とさせて下さい」
「はあ」
「人間の場合は三対七。ですが妖怪の場合はこれが逆転し、七対三なのですね。心と肉体の割合が人間と逆であるからこそ、謂れに弱かったり、肉体的には頑丈だったりするのです」
「……それ、本気で言ってます?」
「私は至って真面目ですよ。人間の作り出す方便にしては、"魂魄"という概念は非常に良くできている部類に入りますからね」
それとあの"もや"とがどう繋がっているのだろう。疑問を汲むように文は続ける。
「人間をはじめ、獣や植物は身体から魂が抜けることで死ぬのです。あれらは――」
浮遊する人魂を指す。
「――そうして身体を抜けだした魂とされているのですが」
我々の死は少々違うのですよ、と文は言った。
「妖怪の死は、魂より先に身体を失うことで成るのです。永きに渡る生を全うしていると、体の方が先に朽ちてしまう。神霊ともなった妖怪であれば話は別ですが、あれはそうした、身体を失った妖怪の成れの果てというわけで」
「つまり先程のあれは、妖怪の死体のようなモノである、と」
「噛み砕いて言うなればそうなりますかねえ」
仮に死魂とでも呼びましょうか、とたった今思いついたように文は手を打った。ネーミングが気に入ったのか、文花帖を取り出してさらさらと書き付けている。
「ここからは薄気味の悪い話で恐縮なのですがね。人間の骸というモノは、時として再び動き出すことがあります。俗に悪霊が取り憑いたなどと表現される状態ですね。猫が死体を跨ぐと蘇るとも言いますか」
「えっと……何が言いたいんです」
疑問は当然のように無視された。
「ああいう現象は骸が未だ生きていた頃のことを覚えているからこそ起こるのです。猫のようにするすると動く何者かが死体に入り込み、妖怪となるから死体が再び動き始めるんですよ。きちんと埋葬して、身体が死んだと納得すればもう何が入っても動き出すことはないのですね」
だんだんと混乱してきた。そんな早苗を、面白がるように文は見ている。
「それと同じことが、妖怪についても言えるとしたらどうなるでしょうか」
「どう、と言われても……」
"人間の死体に何者かが入って再び動き出すこと"自体がそうそうある話ではないと早苗は思う。それとも、幻想郷では普通に起こりうる話なのだろうか。
閉じていたはずの棺の蓋が。
動き出して――開いてしまう。
土気色の肌をした、死に装束の骸が、往来を歩いている。
それは、ひどく現実味のない想像だ。
「分からないですよ。どうなるっていうんです」
「ふふ。即座に答えが解ってはつまらないではありませんか。まあ少し考えてみて下さい」
「って言うかコレ、私の学校とどんな関わりがあるっていうんですか」
「特にありませんよ」
「な――」
からかってるんですか! と憤るが、文はにやにやと思考を促すだけだ。早苗は不承不承考えを巡らせる。
魂を失ったモノが死体で。身体を失ったモノが――死魂。
その前提からして、想像しづらいことだというのに。
それでも、何とか答えを搾り出そうと頑張ってみる。
根が真面目なのである。
死体というものの有無。
"もや"が死体で――死体が"もや"で?
人間の体に相当するものが、あの"もや"――死魂なのだとして。
死体が生きていた頃のことを覚えているから――動く?
死魂が生きていた頃のことを覚えているなら――どうなるのだろう。
――ううん。
何だかものすごく罰当たりなことを考えているような気分になってきた。
「分かりませんか?」
「うー……ギブアップです」
早苗の心境をよそに、文はくすくすと肩を揺らす。
「まあ要するに、あのもやは入れるモノを求めているのですね」
肉体をと言い換えても構いませんが、と文は言う。
「当たり前のことですが、死体はものを考えないでしょう?」
「考えられないから死んでいると表現するんじゃないですか」
「その通りです。考えているわけではないのですよ。生きていた頃のことを覚えているから、ただ動いている。死体を見つけて中に入れば、立派な妖怪の出来上がりなのですね。人間の死と決定的に違うのはそこです。妖怪の成れの果てでありながら、妖怪になる以前の何かなのです。だからこそ妖怪の死骸は見つからない。しかしそれ故に、妖怪にも供養という概念があるのですよ。きちんと送ってあげた方が――そして彼岸の審理を受けさせた方が――良い来世を迎えられるはずだから、とね」
無縁塚とはそういうモノが行き交う場所なんです――と文は言った。
「あやかしの死者は骸を探し、人の死者は魂を受け入れる。能動的か受動的かという差異はありますが、死者が輪廻を経ずに生まれ変わるからこの場は危ういのです」
「はあ……」
「まあ、普通に捕食者が多いという観点でも危ういのですがね」
「ええと……?」
「食い散らかされた骸にあれが入り込むことで妖怪になることもありえるんです。そういう骸は得てして死んだということを認められないものですから。この辺りは死神の講釈を受けた方が分かりやすいと思いますがね」
「考えているのはあくまでも身体の方だと言うんですか」
「だってここで考えるわけでしょう」
言って、文はこめかみを突く。
「魂が抜けたからと言って、即座に体内の化学反応が停止してしまうわけではないのです。詳しくはありませんし、物の本を読んだ程度の知識で何を言うのかと思われるかもしれませんが」
「それは――そうかもしれないですけど」
煮え切らない早苗を置いて、原因はどうあれ――と文は続ける。
「死人や死体――あるいは死にたがっている者の多くがこの場所に入り込んでしまうことだけは確かなのです。そういう属性を帯びているのですよ、この無縁塚は」
――なら。
どうしてそんな場所にこの学校が現れたんでしょうと早苗は訊いた。
「仮にですよ? 無縁塚が文さんの言うようなモノが集まる場所だとしたら、これが入ってくるのはおかしいはずなんです」
「どういう意味です」
「死んでしまうはずがないものだから――です」
手入れを欠かされず、大切にされていたはずの場所だ。
他の場所に入り込んでしまったのならば偶然で片付けることもできただろう。けれど、無縁塚が死者の集まる場所なのだとしたら。
「そんな場所に来ることだけは考えられないんです」
「まだ利用する価値があったから、ということですか? 申し訳ありませんが、人間は古きを重んじることなどあまりないでしょう。不思議はないと思うのですが」
「そうでしょうか……」
「あや、事情が分からない以上、あまり突っ込んだことは言えませんがね。私だってそれを調べるためにここへ来たようなものですし」
取り繕うように文は言う。
「何らかの原因で必要とされなくなった、とは考えられませんか?」
「それ、は」
早苗はわずか、視線を揺らす。
考えにくいことだ。そもそも、たかだか数年でこれだけ環境が悪化してしまうこと自体が異常なように思う。
「ない――と思います。いくら私たちが人間だからって、卒業した学校が廃校になれば偲ぶ人はいます。守矢神社のように参拝して下さる方がほとんどいなくなった神社にだって、そういう人たちはいたんですよ? だから」
「どうなのでしょう。ああ、貴女の言を疑うわけではありません。しかし、私の経験からするとやはり人間は忘れる生き物ですよ。忘れてしまう可能性がないと、そう明確に言い切れるものなのでしょうか?」
「……少なくとも、私はそうだと思います」
そこで。
早苗はつと顔を上げた。
「忘れ去られたものではなくて、間違えて入って来ちゃったものなら、向こう側に帰すことってできるんでしょうか」
「帰す――ですか?」
「はい。人間は博麗神社に辿り着きさえすれば、外に帰れるって言うじゃないですか。それに倣えば――」
「不可能です。あれは結界の穴を自在に利用できる存在が協力してくれなくては不可能なのですよ。これを移動させることも難しいでしょうし、八雲氏や霊夢さんがそんなことに手を貸してくれると思いますか?」
「そんなことなんて言わないで下さい!」
早苗の反発を、文は柳に風と受け流した。
「仮に助力を受けられるのだとしても、早苗さんがお二方に会いに行くことを私は妨害するでしょうね」
「どっ、どうして」
「これはもはや我々の財産だと言ったはずです。みすみす逃すとお思いですか? 私のみならず、山を敵に回すことも辞さないと言うのならば――いいでしょう。やってみなさい。強い人間は嫌いではありませんから、万が一ということもありえるかもしれませんよ」
それとも。
文は言葉を続ける。
「失くなるということがどういうことか――何なら体験してみますか」
「……はい?」
「どうにもそれが重大なことであると認識して頂けないようですから」
――何を言い出すんだろう。
つかの間、早苗は呆気にとられる。文はなに簡単なことですよ――と言った。
「無縁塚に現れることは、世界から喪失されることとほぼ同義です。一度臨死体験をしてみれば分かりますよ。この時期は生死の境界が曖昧なので、臨死のつもりが本当に死んでしまうかもしれませんがね」
貴女は半分神様なので大丈夫でしょう――。
その、文の言葉を。
早苗はどこか、他人ごとのように聞いていた。
「あ、文さん? 気を悪くしたのなら謝りますから――」
何かが逆鱗に触れてしまったのだろう。判断して言い募るが、
「妖夢さんの近くに浮いているアレ、皆は半霊と呼んでいますが、彼女の場合は五魂五魄で肉体からはみ出した二魂が身体の近くを漂っているだけなのだそうです。早苗さんも同じような状態になるかもしれませんね。興味深いと思いません?」
話を聞いていないのか、文は流暢に言ってのける。
――思いません? って。
言われてもと、早苗はぽかんと口を開けたまま文を見つめた。
「まあ、送り返せないかと訊く時点で失われるということがどういうことなのか理解できていないようですし。己が身を以て学習することもときには大切なものです」
文は。
奇妙に艶っぽい眼差しでこちらを見ている。
「現人神は身体が死んでしまい、幽霊――魂だけの存在となった場合、果たしてどうなるのか。新たな神格として独立した個体になるのか、それとも人間として死んでしまうのか――。何事も実践が大事と言いますし、ちょっと試してみませんか?」
「それは――」
私に死ねと言っているんですか。
訊くと。
「あやかしであれば身体は重要でないと言ったでしょう? 神霊についても同じです。五体をバラされた程度では死にませんよ」
と言っても。
「あくまでも人間としての貴女について言うならば、死んでしまうかもしれませんがね」
文は意味深な笑みを浮かべたまま、言って。
「冗談、ですよね」
「そうだとお思いですか?」
滑るように文の手が近付いてくる。
つう、と早苗の頬を汗が伝う。
嫌な悪寒を伴う冷たい汗が。
「考えてみれば、現人神なんて食したことはないんですよね。受肉した神を我が身に取り込むわけですから、生臭坊主だのインチキ僧侶だのを適当に食べるよりも、余程効率良く妖力を蓄えられるかもしれません。……ふむ、やってみる価値はありそうですねえ」
「あ――」
蒼白な吐息をもらした早苗に向かって。
するすると、手が伸びてくる。
「この際ですから身体なんて捨てちゃいましょう? ね?」
ちょっと待って下さい、とか。
さっきは助けてくれたのにどうして、とか。
蛇に睨まれた蛙ってこういう気分なのかな、とか。
あるいは。
ごく単純に、何を言ってるんですか、とか。
いくつもの言葉が胸中をよぎる。けれど、文の掌から視線が逸らせない。
押し潰されるような重圧感。
伸ばされた指の隙間に、あかがね色の瞳が猛禽の如く輝いている。
風が啼いた。
「いただきます」
後編へ
「風祝様の世話役、か」
――面倒な。どうして私がそんなことを。
辞令を受け取った射命丸文は、反射的に不満を抱いた。
先日、突如として山に現れた神社。その処遇を巡るごたごたに、ようやくケリが付いた頃のこと。
事件の当事者――ほんの少し関わった程度だが、記者として外部からの視点たらんとする文には十分だった――という不本意な立場からようやく解放されて、普段通りの生活に戻れると思っていたのに。
編集室の中、椅子に浅く腰掛けた文は、辞令を渋い顔で睨みつけた。文言が変化してくれないかと願ってみても、もちろんそんなことが起きるはずもなく。
――紙魚の仕業とでも言って、読めなかったことにしてしまおうかしら。
ちらりとよぎった浅知恵を、ため息とともに吐き捨てた。その程度でどうにかなるなら疾うの昔に実行している。そうして逃げられないよう、ご丁寧にも口頭で読み上げられてしまったのだから。
――それに。
あまり勝手が過ぎると、百年以上前から拒否し続けている昇進を無理矢理飲まされてしまいかねない。
それだけは避けたかった。
ひとを使う立場になることも。
書類仕事に忙殺されることも。
いずれにせよ、考えただけで怖気が立つ。
「……ま、いっか」
呟いて、文は書面を机の上に放り投げた。
幾らかは自分にも利があることだ。無理矢理そう思うことにした。世話役と言っても、どうせ宴席で風祝が無理に酒を勧められないように見張る程度のことだろう。既に何度か行われた宴席を経て、あの少女が下戸だということは察しがついていた。
幻想郷でのしきたりなんていうものは、人間同士で教えあってもらえばいいのだし。別段難しくもなく、ご相伴にも預かれる。多少時間を割かれるくらいで、むしろ得をする部分が多い仕事ではないか。
折しも守矢神社に対する当面の取材禁止・記事の差し止めが申し渡された直後だった。御山唯一の人間が、生活に慣れるまでの措置だという。この期間中にネタをかき集めておけば、解禁されたあとに色々と書けるはず。
――ふむ。意外と美味しい話なのかも。
皮算用をした文は、うっそりと静かにほくそ笑んだ。
壁面を埋める棚には書類が並んでいるけれど、その配置を文はすべて記憶している。使う頻度が高いものほど、取りやすい位置に入れてあるのだ。この部屋はできる限り机に向かっている時間を短くするための工夫に満ちていた。
翼を使って取材することこそ、射命丸文の生きがいだったから。新聞作成をしなくても済むのなら、机にかじりついている記事を書く手間など放棄してしまいたい。そんなことを思ってしまうくらいには、風と飛行を愛していた。
泳ぐことをやめれば死んでしまう魚のように。
飛んでいないと息苦しさを感じてしまう。新聞記者を始めたのも、結局はそれが理由なのだった。
自由に飛んでいられるから。
その一言に――集約されてしまう。
年甲斐もない。そんな陰口を叩かれても。
好きなことをやり続けることのどこが悪いというのだろう。本心から、文はそう思っていた。
――これくらいの役得は許されるわよね。
ようし、と文は頷いた。
受け流すことは得意だ。今回のことも、適当に流していればそのうち終わるはず。どうせ命長からぬ人間の相手なのだし。一転して上機嫌になり、意気揚々と編集室を後にした。
その建物が幻想郷に現れたのは、文が世話役に就いて一年が経過した頃だった。
緋雲の異変。その余韻が残る中、忽然と無縁塚に建っていたのだ。
烏は風ゆえ祝に呑まるる
1.東風谷早苗
晩夏の空に高らかな拍手が二度響いた。
「この分社に仰ぎ奉る、掛けまくも畏き八坂大神の大前を拝み奉りて、恐み恐みも白さく――」
簡略化された祝詞が後に続く。東風谷早苗にとって、幼い頃から何度となく繰り返してきた所作である。
端々に神への敬意が垣間見える行為。それを通じて得られるのは、遠隔地に坐す神との交信だ。
「八坂様、聞こえますか?」
『聞こえているよ。しかし』
「やはり、信仰は届いていませんか」
神奈子の後を引き取り、早苗は言う。頷くような一瞬の間を置いて、
『届いていない。こうして社を介さない話はできているにも関わらず、社を介せば私自身がそちらに移動することも、そちらから信仰を移動させることも叶わない。こちらの社に問題はないはずなのだけれどね』
「分かりました。もう少し詳しく調べてみます」
『頼む』
短い言葉で交信は途絶した。早苗はほうと息を吐く。幻想郷に来てからというもの、神々との距離は以前にもまして近付いているが、それでも未だに緊張してしまう。周囲からは同列の存在に近しいモノとして見られているにも関わらず、外にいた頃の慣習を引きずっているのだ。根が生真面目なのである。
――まあ、ねえ。
敬意を払わないよりは良いんだろうけど――と、早苗が自分に言い聞かせたときである。
「神奈子、何だって?」
博麗霊夢が隣に立った。神霊に対して敬意を払わない――というわけではなく、本人は至って中立の立場にいるだけらしいのだが。その辺りの機微が早苗には今ひとつ分からない――彼女の問いは、平素のように若干の面倒さを含んだ声音だ。
博麗神社の境内。その一角にある守矢分社の前に、二人は立っていた。点検中に起きた、不測の事態。ええと、と考えながら早苗はわずかに視線を逃がして、霊夢の背後に建つ本殿を眺めた。
――どう言えば一番刺激が少ないかな。
考えるともなく、思う。あまり面倒事を押し付けていいメンタルだとは思えないから。
去る八月。
この神社は二度に渡り倒壊した――らしい。先月はひどく忙しかったから、早苗は伝聞でしか知らないのだけれど。
それというのも、神奈子が"外の世界では殆ど廃れていた御射山神狩神事を盛大に執り行おう"などと言い出したからである。何を思ったか諏訪子まで同調したものだから、どう足掻こうと早苗に止めることはできなかった。
外で行なっていた簡単な祭とは明確に一線を画す多彩な段取りを覚えるだけでも精一杯だったのに、注連縄を結い、弓矢を作り、奉納神楽を修めと諸々をこなしていたせいで、早苗はしばらく守矢神社を離れられなかったのだ。
更に。
祭の後がまた大変だった。祭自体は初年度の珍しさもあって成功し、神様二人も準備から手伝いまで何くれと面倒を見てくれたのだが、終わった途端に気が抜けたのか、早苗はたちの悪い風邪を引っ掛けてしまったのである。
こうして博麗神社に顔を出すのはかれこれ一ヶ月ぶりにはなるだろうか。
神社の倒壊はその間に起こったのだという。寝込んでいた早苗には詳しい事情が分からないのだが、複数の人妖が動くかなり大掛かりな異変に発展していたらしい。現に社務所の中はいくらか家具が減っていたし、古びていた拝殿は真新しい装いに変わっている。これまでの寂れた神社らしからぬ様相に、早苗はしばし本当に博麗神社かと目を疑ったほどである。
と――ここまでで終わっていたなら、守矢神社には関わりのないことで済んだのだ。商売敵の弱みに付け込む気は毛頭ないが、助けてやることもそれはそれで癪に障る。故にただ不干渉を決め込むのみ。それが神奈子の判断だったからだ。
ところが、事はそれだけに留まらなかった。
守矢の分社と本社を繋ぐラインが途切れているようだと、恐ろしく面倒そうな調子で霊夢から連絡が入ったのである。
その言葉を額面通りに受け取るならば、分社か本社のどちらかに問題が起きているはずなのだ。しかし神奈子は本社側に問題はないと言った。先の通信はその確認だったのだ。
ならば。
分社側に問題があるのだろう。早苗が病み上がりの身を押してここにいるのは、そうした理由からなのだった。
感情的に納得しかねる部分があるとは言え、事情が事情だ。霊夢の協力を仰がないことには始まらない。
――どう言っても、もう巻き込んじゃってるわけだし。
結局、早苗はオブラートに包むでもなく、正直に話すことにした。
「やっぱり、向こうには何も支障はないらしいです。原因は分社にあるはずだと」
「ま、他に考えようがないわよね」
神奈子は祭事の後で絶好調なはずだし――と、霊夢はわざとらしいため息を吐く。
「面倒事はまとめて持って来なさいってのよ。紫にしてもあんたのトコにしても、分散されたらされるだけ私に全部来るのって不公平じゃない?」
やはり面倒だとは思っていたらしい。
――そんなことを私に言われても困るんですけど。
などと冗談にも言えそうにない剣呑な雰囲気である。
思った瞬間、
「本当、お茶飲む暇すらないったら」
「いやそれは流石に言いすぎでしょう」
「あ?」
「い、いえ何でもないです」
つい突っ込んでしまった。先刻まで縁側で飲んでいたものは何だったのかと問いただしたくなる気持ちを抑えて、早苗は慌てて首を横に振る。
と言っても。
我が身に置き換えて考えれば、霊夢の憤りも理解できなくはない。守矢神社が壊されれば、同じように怒るのだろうと想像はつく。
それでも、私に当たるのはやめてくれないかな、とも思う。一年前に破れて以来、霊夢にはちょっとした苦手意識を持っているのだ。ぴしゃりと拒絶することもできず、愚痴を聞き流しつつ、早苗は分社を検分する。
守矢神社は神体山と言い、妖怪の山自体を御神体としているだけあって、分社もまた至極簡素な作りである。祭神が手ずから削り出した御柱に、こけら葺の覆堂をかけただけのこぢんまりとしたお社で、飾り気といえば御柱に巻かれた御幣付きの注連縄くらいのものなのだ。
簡単に過ぎる――と言ってしまうのは容易いが、この形式になった経緯は少々複雑である。
この場所には元々、霊夢が作った社があった。しかし来る人来る妖怪に鳥の巣箱と評され続け、業を煮やした霊夢がぶち壊してしまったのだ。あんたらで勝手に建てなさいよ――そう言い放つ憮然とした表情を思い出すと、今でも可笑しくなってしまう。けれどむしろ、今の形になってから参拝客は増えているよと神奈子は語っていた。それでいいのだろうか、博麗神社の信仰は。
皮肉にも今夏倒壊したことで、この神社の存在は里の方に認知され直した面もあるのだとか。そんな話を買い出しの途中で耳にした。
――らしいといえばらしい、のかな。
早苗は苦笑いを噛み殺した。見つかればまた何を言われるか分かったものではない。
とはいえ丁寧に検分してみても、分社が地震にあった痕跡はない。御柱が傾いているわけでもなく、屋根が落ちているわけでもない。本当に何も変わりがないのだ。真新しいというほどではないが、行き届いた手入れのお陰で雨風の影響も殆ど見られないほどだ。一体どういう地震が起きればこんな状況になるのか見当もつかないのだが、事実としてそうなのである。
それなのに、
「信仰だけが――届いていない」
「心当たりは?」
「ありません。博麗神社の境内でしょう? 霊夢さんは何か分からないんですか」
「それが勝手に存在してるってだけ。管理までは管轄外よ」
「とか言っちゃって。一応掃除はしてくれてるじゃないですか」
「掃除は私の仕事だからね」
平然と霊夢は嘯く。神職の日常において、確かに最も大切なことは掃除である。だが、外にあった頃の守矢神社は敷地が広大であることや人手が足りないことにかこつけて手入れの行き届かない末社がいくらもあった。それを環境の違いと片付けてしまうのは容易いが、やっぱり霊夢には霊夢なりの信仰心があるのだと思わされる部分でもある。その分、神霊本体への扱いがぞんざいに過ぎると思うことも多いのだけれど。
――でも。
困ったな、と早苗は思う。
霊夢に尋ね続けても、彼女を困らせるばかりで何が解決するわけでもなさそうだと感じたためだ。
――よし。
早苗はぎゅっと拳を握る。
「とりあえず、ラインを辿ってみます」
「サポートは?」
「結構です。私だけで出来ますよ」
即座に問うた霊夢に答え、早苗はすうと息を吸った。
二拝二拍手一拝。再び奉じ、瞑目して分社から伸びる"道"を辿る。
『意識を地脈に乗せる感覚が大事なのです』
瞬間、ある鴉天狗の言葉が脳裏を過ぎった。今まで分社というものの管理をほとんど任されたことのない早苗に対し、教授してくれたことだ。本来教えるべき立場である神奈子がそういう方面に対して割と大雑把で当てにできないため、詳しそうな人がいないか訊いた際、彼女はそれくらいならと教えてくれたのである。
――風に。
乗る。
身体に残る意識とは別に、もう一つの意識を構築するイメージだ。地脈を風の流れになぞらえることが、早苗にとって最も分かりやすい方法なのである。
意識を俯瞰に上げる。分社を見下ろすような高みへと。
左方に鳥居を、右方に拝殿を望む。
社のある場所は、拝殿に至る参道の右側である。
向かいには手水舎と社務所――という名の霊夢が住む家――が建っている。
参道には小石一つ、木の葉一枚見当たらない。
清浄な気だ。
社が壊された――神域が乱されたとは思えないほどに、落ち着いている。
鎮守の森を渡る風が木の葉を揺らす。
その動きの一つ一つが早苗には見えている。
風に対する感覚が、より一層鋭敏になっているのだ。
風祝の業である。
ふわりと祝装束の袖が翻る。
複雑に絡み合った細い糸のような"道"を選り分け、守矢神社へ続く一本を見付け出す。
見つけてしまいさえすれば後は簡単だ。神奈子の力に帯同し、境内を抜けて妖怪の山へ向かうのみ。
――?
けれど、ラインが唐突に途絶えている。それも守矢の分社を出ることなく、どころか、参道に到達することすらなくぷっつりと。
掃除はともかく、ひと月に一度は同じようなメンテナンス作業をしている。いい加減慣れているし、間違えるほど複雑な作業工程ではない。手順を間違えたとは思えない。
とにかく行ってみれば分かるだろうか。早苗は意識を参道へと振り向けた。とにかく繋がっている場所まで――と言ってももうすぐそこなのだが――行こうと思って。
しかし。
分社を出た瞬間、凄まじい圧力が早苗を襲った。
否。
圧力などという生易しいものではない。より強く、断ち切るような力だった。山に住み始めた当初、侵入者と間違われて白狼天狗に山刀を向けられたことがある。その感覚と酷似している。もっと直裁的に言うならば、
「殺気――?」
零れた言葉は、ほぼ無意識のものだった。早苗は瞑っていた目を開ける。分社はいつもと変わらない姿で眼前に鎮座しているが、背筋を伝う冷や汗は、どう考えても現実のものである。
――あれは、一体。
「切れてるでしょ」
言葉をなくして振り返ると、霊夢が心持ち得意そうな顔をしていた。得意がるようなことではないと思います別に――とは、逆鱗に触れそうで言いづらいのだけれども。早苗は曖昧にこくりと頷く。
「綺麗サッパリですね。八坂様の神気をこれだけ完全に断てるものなんて、そうそうあるはずがないんですけど」
「原因は?」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。今から探すところなんですってば」
――確かにここまでは霊夢さんの報告にあった通りだ。
思いながら、責付く霊夢を宥め、早苗はみたび拍手を打つ。
今度は分社の中から、境内を窺う。断ち切るような気配はどこから来ているのか。
ただそれだけを、探る。
浮遊感。
再び遊離した意識を、左右に振り向ける。
――出処は。
どこだ。
道を見つけ出すところまでは同じ手順だ。
問題はその先である。
道の先は視えない。
気配を手繰るよりないか。
いや――風の流れに滞りが生じているならば、それを引き起こすモノが存在しているはず。
無闇に探すよりも、障害物を探す方が早いのか。
知覚しろ。
体内を巡る血液――それを視てしているような錯覚。
全ては風の流れを読める早苗だからこそ可能なことだ。
分社の前を、鳥居をくぐり参道を歩く風が通り過ぎる。
まだ、ここに滞りはない。
森へ抜けて行く風も同様だ。
ならば。
もしかしてもっと分かりやすい場所にあるのではないか――?
霊夢ほどではないが、早苗もそこそこ勘は鋭い方である。
境内で最も分かりやすいものと言えば。
――そう、か。
違和感の流れてくる先には、
「拝殿、です」
「拝殿?」
もっとも分かりやすい場所が、滞りの現場だった。
「ええ。正確にはその下、でしょうか」
「……あー、何となくそうじゃないかとは思ってた。うん」
「心当たりあったんですか!? なら教えてくれれば良かったじゃないですか」
「はいはいうるさいうるさい」
考えないようにしてたのよ――と、霊夢はやけに嫌そうな顔で言った。流石に霊夢さんと言えどもそれは、と言いかけて、ぎろりと睨めつけられる。先刻の殺気もかくやと言わんばかりのそれを受け、早苗は泣く泣く抗議の声を飲み込んだ。
拝殿――正確には本殿と融合している一帯――の下から感じる"何か"のせいで、神奈子の神気が萎縮している。だから博麗神社を抜けることが叶わないのだ。初めての感覚だった。常々悠然と構えている姿ばかりを見ているからかもしれない。誰を相手にしても、怯むようなことがあるなど、にわかには信じられない。まして気配だけともなると尚更だ。
「拝殿の下に何があるんですか」
訊くと、霊夢は面倒そうに頭を掻いて、
「建て直したとき、ちょっとね。あんまり関わり合いになりたくない代物っていうか、面倒臭い奴を通さないと扱えない代物っていうか」
と言った。早苗には何のことだか分からない。
「神社が壊されたことと関係があるとかですか」
「ぶっ壊してくれた張本人がね。関わってるの。別に悪い奴じゃないんだけど。ん? 家壊されたんだから悪い奴なのかな」
――それは悪い人なんじゃないかなあ。
苦笑しながら思うが、霊夢の中では既に終わったことなのかもしれない。竹を割ったよう、とは彼女のためにあるような言葉だと早苗は思う。
「その方が何か?」
「んー……んー?」
ひとしきり唸って、霊夢は思いついたようにぽんと手を打った。
「ああ、そっか。そうね。そういや当然よね。気付かない方がどうかしてたわ」
「分かるように言って下さいよ。私には何が何だかなんですってば」
「説明するまでもないわ。要するに要石が原因だったのよ」
「かなめいし?」
「そ。拝殿の下に刺さってるのよ。新築するとき、地震を防ぐとか何とか言って刺されたんだけどさ。あー、そうだったのか。それなら仕方ないわね」
霊夢は既に説明を終えたつもりでいるらしい。
あの、と早苗はやや語気を強めて言う。勘だけではどうにも埋まらない差を見たような気がしてもどかしい。
「それだけじゃやっぱり分かりませんよう」
あるいは。
幻想郷においては常識なのだろうか。早苗は少し不安になる。
分かり難いことなんてないと思うんだけどなと、霊夢は他意なさそうに首をひねる。
「確かあんたのトコ、形式上の祭神は武御名方様になっていたわよね」
「外の世界にいた頃にはその名前を標榜していたこともありますけど」
「それよ」
「それ、と言われましても……」
論旨の飛躍に付いて行けず、早苗はただただ困惑する。
一応解説する気ではいたのだろう。霊夢が人差し指を立てた。
「いい? 建御名方様は国譲りに際して建御雷様に敗れたということになっているわ。真偽がどうだとかはこの際どうでもいいの。"そういうことになっている"。それが重要だと思いなさい」
「はあ」
「外の世界の神社事情にはあんまり詳しくないんだけどね。私でも知っているようなことが一つ。建御雷様を祀るお社には要石が刺さっていて、それは時として神様の剣にも擬えられるってこと。紫が言ってたのを聞いただけだから、ほんとかどうかは知らないんだけどね」
「ええと――」
「察しが悪いわね。要石の――建御雷様の力に当てられて、建御名方様が縮こまってるのよ」
「……そんなことで八坂様の神気が断たれるんですか?」
「そんなことって何よ。それが重要なんでしょうが」
怒気に当てられ、早苗はわずかに首を竦める。
「すみません。ただ、八坂様が縮こまる姿が想像できなくって」
「神様も神霊という名前の妖怪なんだ、って霖之助さんは言ってたっけ。ま、あの人の話は半分で聞いとかないと痛い目見ることになるけどね」
この場合は正しかったんでしょうよと霊夢は言った。感心半分、納得半分で早苗ははあ、と頷いた。
謂れ。
この一年で何度となく耳にした言葉である。
普通の人間が妖怪に対抗しうる手段であり、妖怪が忌避してやまない由来を持つモノの総称だ。一部の妖怪の間では関わりを避けられるならば首を差し出しても構わないとさえ言われている。首の価値が人間と妖怪では違いすぎるので、その脅威を単純に推し計ることはできないのだが。
それにしても、と早苗は思う。
「一年、経ったんですね」
「……感想はそれだけ?」
霊夢の眉間に皺が寄るのを見て、早苗は慌てて首を振った。
「い、いえ! 単に実感がわかないなと思っただけです。……八坂様のことも、私のことも」
足元で下駄が乾いた音を立てる。
あやかしものには短くとも――人間にはそこそこ長い時間だ。
生活には色々と変化が出ている。まず電気を引く目処が立たないから家電製品の類は埃を被ったままだし、消耗品の大半は幻想郷で作られたものだ。人里で買い求めることもあるけれど、守矢神社の生活基盤はやはり妖怪の山であり、社会生活を営む天狗の手による品物が多くを占めている。
同時に、この期間は謂れを始めとした色々なことを理解するために費やした期間だったといっても過言ではない。考えてみれば、気付かない方がどうかしていたのだ。自分の社の神に関わる謂れ――それを知らなかったわけではない。要石と聞いた時点で、察しがついても良かったはずだ。それを聞き過ごしてしまったのは、早苗がまだ幻想郷に馴染みきれていない証左なのかもしれない。
とはいえ先に気付いた霊夢は自分の社の神をすら知らないのだそうだが。神社運営に支障は出ないのだろうか。まあ、それを心配するよりも己がことに傾注するべきなのだろうと早苗は思う。
「だとしたら八坂様が八坂様である限り、分社からの信仰は滞ったままということになるんでしょうか」
「そうね。そうなるかしらね」
深く考えていない様子で霊夢は言う。
それは――困る。
神様側の都合はともかく、信仰してくれた人の思いが届かないのはいただけない。
早苗がそう言うと、霊夢は呆れたようにため息を吐いた。
「だから、そうならないようにどうにか考えてみよう、って話なんでしょうよ。やっぱ紫に訊くのが一番早いのかしら」
「私は分かりかねますが、八雲さんは幻想郷のことなら誰よりも詳しいんでしょう? だったら」
「詳しいことは詳しいんだけどね。……あんまり借りばっか作りたくない、ってことよ」
言って、霊夢はまた一つ息を吐く。
――うーん?
聞くところによると、二度目の神社倒壊が行われたのは、幻想郷と博麗大結界に関わる一大事だったからなのだという。
霊夢の言う"借り"とは、そのことに彼女個人では気付かなかったことを指しているのだろうか。それが要石とどう関わっているのかは分からないが、"借りばかり"というからには、直近で何か借りを作るようなことがあったのだ。あるいは自分の勘が働かなかったが故に、八雲紫を動かしてしまった――それが歯痒いのかもしれない。
いずれ、力を借りたくない何某かの理由があるのだ。
ならば。
「えと、霊夢さんのお気持ちは嬉しいのですが」
考え考え、早苗は切り出した。
「これは守矢の問題です。我々でどうにかしてみます」
できないことはないだろう。神奈子のみならず、諏訪子にも関わることだ。社の表側に出ることの少ない彼女でも、こればかりは避けて通れまい。助力を仰げば動く、はずだ。二柱の力を借りてできないことはあまりないと早苗は思っているのだから。
――数少ない"人間の"信仰だものね。
しかし霊夢は、
「なに水臭いこと言ってんの」
と、意外にも首を傾げた。
「っていうか、うちの境内で起こってることだし。私が関わらない道理の方がないっての」
「……ですが」
「いいのよ別に。そりゃ、紫の世話にはなりたくないし、そっちの方が信仰の多寡で言うなら上なのも癪だけど。それは私の事情だし。あんたも言った通り、信仰してる人のことを考えれば協力するべきなのは、火を見るよりも明らかじゃない。豊穣に向けて捧げる祈りが届かないのは何て言うか、駄目でしょ? もっとも、私としてはそいつがなくなってくれた方が楽でいいんだけどさ」
反論する間も与えられずにまくしたてられてしまった。
早苗は霊夢なりの信仰心を再確認させられた気分になる。普段からこういう態度でいてくれればいいのに、と思わなくもないが、そこは堅苦しいことを好まない性格によるものなのだろう。
彼女が納得しているのなら、言えることは何もないだろう。
「じゃ、じゃあ借り一つ、ということでお願いします」
「今度の宴会で肴の一つでも持って来てくれればチャラ。それで手を打ちましょう」
「ありがとうございます」
「もう少し厚かましくなるくらいで丁度いいと思うわよ、早苗はさ」
屈託なく霊夢は笑った。
守矢の祭神――神奈子は風神である。来たる台風の季節に備え、農地の加護を望まれる。昨年はこちらに来て日が浅かったこともあり、あまり数は集まらなかったけれど。夏の祭りと精力的な布教活動の成果が出れば、今年はもう少し人間の信仰心が見込めるだろう。早苗はそう踏んでいる。
それをどうこうするために協力を仰げるならば、これ以上ないほどの加勢になってくれそうだった。
とは言え、守矢の分社に捧げられる神饌は基本的に少ない。
楽だと霊夢が言ったのは、そちらに裂いている分だけやりくりが楽になる――というような意味なのかもしれない。
奉納される賽銭の額はお世辞にも多くない博麗神社のことである。捧げられる神饌の多くは、霊夢が妖怪退治で得た報酬の中から捻出されている。例外的に外の博麗神社に奉納されたものがこちら側の博麗神社に現れることもあるらしいのだが、決して当てにできるものではないのだとか。
天狗たちと人間とで、共通の貨幣が使用されているから、早苗も物価は知っている。
だから解ってしまうのだ。
火の車と大げさに喧伝することは少ないけれど。
表向きそう見えない部分で、霊夢がそれなりに苦労しているであろうことが。酒と肴だけは妖怪たちが持ち寄るが、他のものは必ずしも豊富ではない。ちなみに、守矢神社が現世利益を求める妖怪の奉納品で溢れている。妖怪の遊び場と化している博麗神社とは、ある意味対照的とも言えよう。
――今度、おすそわけ持ってこよう。
夏野菜の漬物が、三人では食べきれないほど残っている。日持ちはいいが、どうせ食べられるなら飽きただの何だのと言わない人に食べられる方が漬物としても幸せだろう。肴とは別に、と早苗は決意した。
「大変な時期なのに、申し訳ありませんでした」
「だから、いいってば。これは私の仕事なんだもの。嫌々言ってもいられないわ。天子――は、呼べば喜んで来るだろうけど。問題はやっぱ紫よね。あいつが手を貸してくれるような理由なんてないんだし。どうやって引っ張り出そうかな」
神社の基礎に打ち込まれた要石を扱えるのは、異変の元凶となった天人、比那名居天子の一族だけであるらしい。その上博麗神社そのものが、幻想郷を外と隔てる結界の基礎部分に当たるため、要石を含めて何かとブラックボックス化しているのだそうだ。
あいつの手を借りずに済ませることは不可能だし、と霊夢は少しだけ眉根を寄せた顔で言って、
「ま、何とか説得してみるわ。何にせよあんたが言ったみたいに恩を売るようなカタチになると思うから、そっちはそっちで神奈子に話付けといて」
と、さっさと話を畳んでしまった。
マイペースに主導権を握り続けたまま、最終的に突き放す。幻想郷の人妖がする、半ばコミュニケーションを放棄したような話術だ。やると決めれば大抵は押し通すので、特に証を残さなくても成立するらしいのだが、早苗はようやく耐性ができはじめたばかりである。少々尻の据わりが悪いような気分にさせられる。
互いに対する信頼がなせる約定とでもいうべきか。このくらいの距離感でなければ、人と妖の間に横たわる溝は埋まらないのかもしれないが。
ありがとうございます――早苗が重ねて礼を述べると、霊夢は照れたようにひらひらと手を振った。
「まあ、仕事的な側面を無視してもね。今の神奈子の気持ち――何となく分かるような気がするの」
「え?」
「分社って要するに家、でしょう。壊れれば祀られている神霊にもそれなりにダメージがある感じの」
「そう、ですね」
「ここが壊れてる間、里で暮らしてたんだけどさ。一応は私も――半分くらい忘れられてるかもだけど――博麗の巫女なわけで、扱いも悪くはなかったのよ。普段より美味しいもの食べさせてもらったり、うざったい連中が寄り付かないおかげで静かだったり、ね」
「はあ」
でも、と霊夢は続ける。
「やっぱり調子が出なかった、っていうかさ。普段はあんまり思わないんだけど、戻ってみて思ったの。ここが私の居場所なんだ、って」
「居場所、ですか」
「うん。神奈子の奴もそういうの大事にしそうじゃない? わざわざあの山を選ぶところとか、湖まるごとこっちに運んじゃうところとか」
「あれでも削ぎ落した方なんですよ。上社と下社を含めた全てだなんて、私一人じゃ到底管理できませんから。うちは神体山が必要だったから、どうしても山は必要だったわけですし」
「そういうとこが何となく分かったのよ」
「どれだけ騒がしくても?」
「たまになら――ね」
仕方なさそうに霊夢は笑った。つられて早苗もくすりと笑みを零す。
言いたいことは分かった――ような気がする。
霊夢にとって、安らげる場所がこの博麗神社だとすれば。
早苗にとってはこの幻想郷そのものが、外とは違う、そう在れる場所だから。
「私に協力できることがあれば、何でも言って下さいね」
相手が霊夢であることを忘れて、そんな申し出をしてしまったのは、そういうことを考えていたからなのだ。
「あ、そう? じゃあこれ持ってってよ。建て直すときに全部処分したはずなんだけど、今朝方ふと縁側を見たら投げ込まれててね。鬱陶しいったらないわ」
『霊夢の辞書に遠慮の二文字はないぜ』
いつだか魔理沙がそう表現していたことを、つい思い出してしまった。
筒状の袖を雑に漁って取り出したのは、あまり綺麗に畳まれているとは表現しがたい紙束だった。印刷物。写真。誰のものか――なんていうことは、問わずとも自明だった。右肩の紙名が堂々と自己主張しているからだ。
「文さんの新聞じゃないですか。またそんな、ゴミ扱いするようなことを――」
「扱い、じゃなくてゴミなのよ。どうせ私は読まないもの。里に持っていってちり紙回収に頼むのも良いんだけど、読んでくれる人に渡せば、ちゃんと新聞の役割は果たせるってもんでしょ」
にこりと笑いながら、霊夢はなおも新聞を差し出してきた。仕方なく受け取って、早苗は小さく頬を膨らませる。せめて目を通すくらいのことはしてあげてもいいと思うのに。漬物とは事情が違うのだし。
――いつものことではあるんだけど。
配達された――あるいは押し付けられた――新聞は、早苗が持ち帰ることが多くなっている。年の瀬に掃除で使わないんですかと訊いたら変な顔をされた。幻想郷ではまだまだ紙の価値というものが高いらしい。
妖怪の山において、守矢神社は中立を標榜している。
請われれば誰にでも加護を与え、助力をするという意味での中立なのだが、唯一の例外が存在する。
それが、鴉天狗の新聞を購読することなのである。
何も特別大きな理由が存在するわけではない。単純極まりないことに、神奈子が堪忍袋の緒を切らしたのだ。神奈子の名誉のために言えば、内輪向けのネタを尾ひれ胸びれ、挙句足まで生やした新聞の量は、それだけ凄まじかったのである。
年に一度鴉天狗の間で開催される新聞大会は、通年での発行部数から残部数を引いた数がそのまま点数となる。発行時点での数は書類仕事を担当する天狗が把握しているのだが、問題は残部数の方だ。要は配ってしまえばいいわけで、誰彼構わず押し付ける輩も相当数に上る。
それが神奈子の癇に障ったのだ。
戦勝祈願ならいくらでも受け付けてやるからもう守矢神社には配達するな。神奈子はそう宣言した。
ところが。
押し付けが停止するところまでは良かったのだ。しかし特定の天狗に加担しないと決めた以上、表立って誰かの新聞を購読するわけにもいかない。外の世界と比べてしまうと幻想郷にはどうしても娯楽が少なく、口さがない新聞ですら、暇つぶしにはなっていたのだ。後先をあまり考えない風神様は、宣言して数日で暇を持て余すようになった。
新聞を手に入れる手段は、天狗の街で購入するか、発行元と契約――いずれも金を取るわけではないのだが――するかが主な手段だ。必然的に他者の目に触れてしまう。博麗神社ならば、調伏される危険を犯してまで配達に来る物好きは文を除いて他にいない。
結果論ではあるけれど。
他人の目には、ほぼ付かない。
新聞を必要としない霊夢と、娯楽が欲しい守矢の面々。利害はここに一致した。
そうして、早苗があくまでも個人的に霊夢から文々。新聞を譲り受けるという形に落ち着いたのだ。
だからここで断ったところで、最終的に早苗がまとめて持ち帰ることに変わりはないのだろうけれど。配った人間が読みもせず手放している――それを知ったら文はどう思うのだろう、と早苗は常々案じている。
実際のところ、読まれることもなく捨てられることくらいは予想しているだろうし、覚悟もしているだろうとは思うのだが。差は他人の手に渡るかどうかの一点だ。それならやはり、ここで受け取るほうが有意義なのだろうか。
唸る早苗を置いて、霊夢は社務所の方へぱたぱたと駆けていった。今日は元々、外出する予定があったのだそうだ。計画性のあまりない霊夢には珍しいことだった。もっとも、その理由がそろそろ寒くなりそうな予感がするから冬物を揃えておきたい、という曖昧なところが霊夢らしい。つい先刻までお茶をいただいていた縁側と、玄関周りの戸締りをしに行ったのだろう。気休めにしかならないけどね――当人はそう言っていたが、主の不在を知れば、無理に押し入ろうとする妖怪が少ないこともまた事実なのである。
だからといって、何も言わずに放り出されるというのも始末に負えないもので。
手持ち無沙汰になった早苗は何の気なしに文々。新聞を捲った。盛夏の折、人里に現れた氷売り。大輪咲き乱れる向日葵畑。博麗神社の倒壊。紅魔館潜入取材。終わりかけた夏を悼むような記事の数々。そして――、
半ばを少し過ぎた辺りで、早苗の手はぴたりと止まった。
正確には、紙面の半分ほどを埋める二枚の写真に惹きつけられたのだ。航空写真のように高い位置から撮られた一枚。もう一枚は建物を真正面から捉えたものだった。
モノクロで詳細は分かりづらいが、周囲の木々や山と対比して、二階建て程度の高さである。戸建ではない。大きい。公共の場所として使われていたものなのだ。幽霊――人魂が飛び交う荒地の中央。周囲の雰囲気からはやけに浮いてしまっている。そもそも無縁塚という場所はあまりひとが訪れない場所なのではなかったか。早苗は行ったことがないのだけれど。明らかに人間が使うことを意図された建物なのに。
現れた、という以上、この場所を選んで建設された建物ではないのだろうか。
とりとめもない思考の断片が浮かんでは消えていく。文字の上を視線が滑る。内容がなかなか頭に入ってこない。
混乱――している。
たかだか写真の一枚や二枚だというのに。
分かりやすくいえば。
"その建物"は、校舎だった。
それも――それも、
――私、が。
「どうかした?」
早苗ははっと顔を上げた。
いつの間にか霊夢が隣に立っている。訝しげな表情だった。早苗は口をぱくぱくと動かした。言葉が出ない。いくら何でも驚きすぎだ。冷静に判断することはできているのに。
そうしていると、落ち着きなさいと額をはたかれた。ようやくのことで新聞を突き出す。
「何よ」
「こ、これ――」
「読めっての? 私は新聞なんて」
言いかけた霊夢は、しかし思い直したように口をつぐんだ。様子が急変した原因を感じ取ったのだろう。しぶしぶ早苗の手から新聞を受け取ると、ざっと目を走らせる。
「これが何?」
「いえ、あの、写真に――見覚えがあって」
中身までは、とやっとのことで言う。
ふうん、と気のない相槌が返ってくる。
「写真、ねえ。これが何だってのよ」
「ええと、それ」
亡霊でも見たような。
そんな――気分だ。
「――それ、多分なんですけど……私が通ってた学校だと思うんです」
か細い声音で、早苗は言った。
2.射命丸文
「風祝殿が神社を発ったぞ」
監視役の犬走椛がぼそりと言った。
川のせせらぎに紛れて聞こえなくなるほどの声量だったが、言葉というものは空気の振動である。風を操る文にしてみれば、一間と離れていない位置のそれを聞き落とすはずもない。
「……もう帰ってくるってわけ?」
中洲に横たわる大岩の上、寝転んだ姿勢のまま疲労感を浮かべて文は訊いた。帰ってくるのならば今夜の宴会に出席するつもりなのだろう。となれば、また世話役として抑えに回らなければならない。
――億劫だわ。
文の思考に、
「ご苦労様、だな」
椛が上辺ばかりの言葉を重ねた。余計なお世話と思い、けれど言うことすらも面倒で、文は結局何も言わずにため息を吐いた。
世話役という仕事は、一烏天狗が想像していた以上に面倒なものだった。
これまで外の世界から幻想郷に迷い込んだ人間――いわゆる外来人だ――の世話は、人里に一任されてきた。生活の基盤が里であることに加え、妖怪という存在に慣れていない外来人が、安易に里外を出歩かないよう監視するためでもあった。要するに保護を兼ねていたわけで、外来人であれば食べても構わないという幻想郷のルールがある以上、妖怪の山にお鉢が回ってきたことはなかったのである。
故に、まず"幻想郷を知らない人間の扱い方"自体がよく分からなかった。そもそも、生活形態が妖怪と人間では異なりすぎている。ヒトという物質的な食事を断ち、感情や気質といった曖昧なものを食べることが可能な精神的生物――妖怪に対して、人間が生きていくためにはどうしても食料が必要だ。その辺りは人里で買い出しをすることで解消したとしても、今度は文化の壁が立ちはだかる。こちらでは一部の河童程度にしか普及していない、電気があって当然の暮らし。それがどういうものであるのか、文を始めとする妖怪たちには今ひとつ理解できなかったのだ。
極めつけは彼女が酒に弱かったということである。
天狗と積極的に――時には消極的なこともあったけれど――関わろうとする人間は、概して酒に強い英傑ばかりだった。当代の博麗の巫女にしても同じだ。細い体のどこに入るのか。そう思わされるほど底なしに、呑む。だから天狗たちは宴会に姿を見せても酒を断る――あるいは呑んでも吐いてしまう――彼女にどう接して良いのかと手を焼いていたのだ。
文はそれと知らずに引き受けてしまったのである。事情通としてはこれ以上ないほどの失態だった。それもこれも、上との付き合いから逃げ続けてきたツケが回ってきたのかもしれなかった。
世話を文に一任してしまってから、彼らは一様に調子を取り戻した。呑めないことを承知の上で勧めることもしばしばあり、その度に文は代理と称して飲み比べを受けなければならなかった。
何度か転属願いを出してみたのだけれど、結局は受領されることなく一年が経過してしまった。それ以上の行動を起こす気にはなれなかったので、役職から開放されることはなかった。自分の視野と了見の狭さを思い知らされる一年だったといっても過言ではない。一つ事に目がくらむと途端に視界が曇ってしまうのは、文の昔からの悪癖だった。こういうときには様々な意味で椛の視座が羨ましいと思ってしまう。
――帰って来ないなら。
宴会にも顔を出さないというならば――これほど楽なこともない。そう考えてしまったために発露した疲労感だった。
文の気持ちを知ってか知らずか、椛は、だがなと首を傾げる。
「博麗と連れ立って出た。何やら押し問答をしていたようだし、方角も山とは真逆だ。どこへ向かっているのやら」
「霊夢が一緒なら、香霖堂とか?」
方向的には合ってるよね、と並んで寝転ぶ河城にとりが言った。手元には文々。新聞が開かれている。香霖堂の店主に行った取材記事を見て思いついたのだろう。彼は面白いものを見つけては拾得してしまう悪癖を持っていて、どうしても金に困ったときなどには広告の掲載を頼まれるのだ。この河童はそういう広告を見て店を訪れる、いわば上得意なのである。
にとりの言葉を受けて、椛はふむ、と頷いた。
「魔法の森、かもしれないな。あの店は確か、森の手前にあったろう」
「魔理沙のところかあ。それが正解かも」
「どこでもいいわよ。私が面倒に巻き込まれない限りは」
やや投げやりに言うと、椛とにとりは顔を見合わせて笑った。仕方のない――そう言われているように感じて、文の頬に僅かに朱が差す。
川面を渡る風は澄んでいる。冷たくもなく、熱くもない。昼寝をするにはちょうどいい陽気だ。特にこの場所は、陽と風の心地よさが釣り合っている。あまり無防備過ぎるとどこかの新聞に載せられてしまうのが玉に瑕だが、"目"――椛の千里眼を使って構わないという許可が下りてからというもの、そうした問題とは疎遠になっている。
ただ、この目は口を持っていて、時折ちくりと棘まで刺してくるのが玉に瑕なのだ。今もまた、巻き込まれるとすれば――と、鋭い赤眼を煌めかせて彼女は言う。
「貴女自身の所為だろうな」
「どういうことよ」
「それさ」
椛はにとりを指差す。
「私が何?」
「違うよ。その三文新聞だ」
「……ご挨拶ね」
「東風谷殿がそれを見て慌てていたのは事実だ。どの記事か、というところまでは分からなかったが」
案外本当に香霖堂を目指しているのかもしれないなと椛は言う。
「外にいた頃愛用していた品が入荷された――とか」
「本気で言ってるの?」
「結構な速度だ。誰かに先を越されないためと考えれば辻褄は合うだろう。既に里を通り過ぎてしまったし、あの店は眼と鼻の先だ」
――それは。
文はふむ、と頷いた。
たしかに速い。博麗神社から人里までは、歩いて一刻かかる距離である。空を往くとしてもゆっくり飛べば四半刻はかかってしまう。椛が神社を発ったと言ってから、まだ数分しか経っていないのだ。ずいぶんと急いでいる。本当に何か目的があるのか――と、文の記者根性が首をもたげかけて、
「新聞って言ったらさ」
けれど、中途半端なところで折れてしまった。寝転んだままの視界に、にとりがずいと乗り出してきたからだ。無視するわけにもいかず、文は微妙に渋面を作り訊く。
「……何よ」
「これこれ」
にとりはとんとんと記事を指す。
紙面には「無縁塚に謎の建物現る」という見出しが踊っている。自分の書いた記事だ。読まずとも内容は覚えている。
『○月○日、無縁塚にて謎の建物が発見された。発見者は是非曲直庁勤務の船頭死神、小野塚小町氏である。彼女はいつものようにサボタージュを終えた後、三途の川に帰る途中で、塚を通りかかった際に発見したのだという。
「驚いたといえば驚いたけどねえ。正直、そのときのあたいは四季様のご機嫌伺いで頭が一杯だったからサ。ろくに調べもしないまま放っといたんだ。でももうかれこれ一週間近く放ったらかしだろう? あのまま朽ちるよりは報せてやった方がいいだろうと思ってね。え? サボりの口実にするなって? 堅いこと言いなさんな、あんたとあたいの仲だろうに。ちょ、ちょっと待って四季様に告げ口するのだけは勘弁しておくれよ!」
第一発見者は以上のように語り、私が無縁塚を訪れた所、確かに見慣れない建物が存在していた。かの建物がいつ、どのような経緯で現れたのかは現在判明していない。ただ、外の世界から現れたものであることは間違い無いと思われる。追って調査する所存だが、物見高い読者諸氏は一度訪ねてみるのもいいだろう。当記事が掲載される頃には彼岸花が見頃を迎えているはずである。※ただし、身の安全は保証しかねることをここに付記しておく。』
妙な建物が幻想郷の中に現れた。短くまとめればそれだけのことだ。それ以上に不可思議なことなど、ここでは日常的に起きている。小町から伝え聞いた話を基に実地での写真を挿入して書き上げた、文にしてみれば珍しくもない凡百のそれだった。
「これがどうしたのよ」
「察しが悪いなあ。いつもの調査、お願いしたいんだよ。早苗さんが帰って来ないなら、手は空いてるんでしょ。それにどうせ、椛が呼び子も持ってるんだからさあ。何かあったら分かるじゃん」
「ああ――」
仰向けのまま、ぽんと手を打つ。早苗と香霖堂の関係にばかり気を取られていて、河童と幻想郷に流れて来た建物の関連をすっかり失念していた。
幻想郷は狭い箱庭世界である。それゆえ採取できる資源は限られている。しかし河童たちの間では常に一定以上の需要が存在している。
ならばどうするか。
決まっている。外から流れ着いたものを解体し、再利用するのだ。コンピューターやストーブ等の日用品は言うに及ばず、建造物でさえ破壊し、瓦礫を溶鉱炉で溶かし、貴金属を取り出して材料とする。建物が流れ着くということは、言うなれば小規模な鉱山が出現したようなものなのである。河童の一部と香霖堂店主にある関係性は、そういう部分にも由来している。
「でも、ねえ」
今回に限って言うならば、場所と時期が悪い。
無縁塚。
数年前に起きた花の異変では数多くの人妖が行き交った場所だが、今回に限って言えば事情が違う。秋口のこの時期は、無縁塚が最も危なくなる時期だからだ。
物理的、時期的双方の意味において、"彼岸"が近い――のである。
此岸との境界が薄れ、割合簡単に行き来ができるようになっているとはいえ、両界の距離が最も近付く時期なのだ。人里の稗田家編纂による幻想郷縁起で、危険度:極高と記された唯一の場所。その危険性は洒落や酔狂でどうにかなる程度のものではない。
"生きていること"自体が揺らいでしまい、死後の世界を経ず、一足飛びに転生してしまった者もいる――らしい。そこまで行くと体験談を語れる者がいないため、行方不明からの推測でしか計ることができないのだけれど。
――自殺行為ね。
時期を外せばまだしも、この時期に向かうなど馬鹿のすることだ。
文としては、そう思わざるを得ないところだったのだが。
そんな場所に現れた建物であっても、にとりの興味をそそるには十分なものだったらしい。建物であったからこそ――と言うべきなのだろうか。
「何が採れそうか調べてきてくれない? これ知ってるの私だけなんでしょ」
「ほ、他にもいるわよ。博麗神社にも配達したんだから」
「……霊夢は新聞読まないんじゃないの?」
「……いやほら、ひょっとしたら読んでるかもしれないじゃない? あの子が一緒だったわけだし」
「まあぶっちゃけ何でもいいんだけどさ」
「あ、あのねえ」
お願いこの通り、とにとりは両手を合わせて文を拝む。
「早い者勝ちなの知ってるだろ? 今ならまだ私が独り占めできるかもだし、そうなったら文のカメラも弄ってあげるからさ」
「それは当然の対価でしょ。報酬は別枠で請求させてもらいます」
「ぬ」
退くぐくらいなら言うなよ、と外野から余計な声が飛ぶ。二人は聞こえないふりで視線を合わせた。
「……話の出処が悪すぎる。それはにとりだって分かっているでしょうに」
「それは――まあ」
にとりは煮え切らない声を出す。天秤にかけてよほど大きな得をすると踏んだのか。あるいは本当に懐事情が切迫しているのか。
――それでも。
動きたくないものは動きたくないのである。
小野塚小町に聞いたということは、その話が是非曲直庁に通じている可能性が極めて高い。いくら彼女がサボリ魔だとは言っても、するべき報告はきちんと行うはず。かの役所は此岸の事件に関して滅多に動くことはないが、無縁塚絡みとなれば話は別だ。
あの場所は死者の霊が寄り付きやすいため、それが留まってしまうような建物は解体の対象とされてしまう。資材は彼岸の所有物となってしまうのだ。あちらの懐も決して暖かくはないため、横から掠め取るような真似をして、万が一目をつけられるようなことがあれば大事に発展しかねない。
ただし、抜け道というものは何事につけ存在する。是非曲直庁立会いの元で解体を行い、かつ取り分の比率で合意できれば、資材の幾許かをこちらのものとできるのだ。にとりの頼みは、その交渉材料ともなる資源量の調査なのである。
だが当然、危険は付いて回る。
それも先述の通り、生死の境を彷徨うような、大きな危険が――だ。
彼岸前の無縁塚とは、それだけの覚悟をしなければ立ち入れない場所なのである。どちらつかずの状況が改善される彼岸の最中の方が、現状のあの場所よりはよほどマシなのだ。
「心配しなくても、あれは多分人間が使わなくなった建物よ。無縁塚に現れたこと然り、死者が依るには十分過ぎる材料だわ。彼岸の連中に壊されてから交渉しに行った方が楽だし、それでいいんじゃない?」
「ダメダメ、それだと遅いんだって。あいつらがめついんだもん。持ち合わせの鉄が少なくなっててさ。量が欲しいんだよね」
「自己責任。欲しいんだったら勝手に行きなさいよ。骨くらいは拾ってあげるわよ――そこの犬が」
「あのな、友人の骨を拾う前提で話を進めないでくれないか。流石に止めるぞ、私は」
犬扱いもやめろ、と椛は強い口調で言う。即断が求められる哨戒役には、駆け引きが面倒なやり取りとしか映らなかったのかもしれない。
「風祝殿と博麗はやはり香霖堂に下りた。この報告もしないほうが良かったかな」
「いやいやいや、感謝してるわよいつもありがとうどーも」
「これほど嬉しくない礼も初めて聞いたよ」
「行ってくれないかなあ……」
「いやいや、だから意味が分からないってば。どうして行かなきゃいけないのよ。私はまだ死にたくないの」
「白玉楼にはよく行ってるじゃないか。あれだって死後の世界だよ?」
「戻って来られなくなるってのが問題なんでしょうが」
ため息を吐くと、にとりは露骨にたじろいだ顔をした。椛ではないがそんな顔をするくらいなら初めから頼まないでほしい。
と言っても――自分が行くことの危険性を十分に承知しているからこそ頼んでいるのだろうけれど。河童は水場を離れれば離れるほどに力が減衰してしまう。無縁塚の近辺には、小川やそれに類する水場がないのである。最寄りの水場と言えば、三途の川になってしまう。泳ぐことができないあの水は、河童にとってすこぶる相性の悪い相手なのだ。
諦めの悪い谷河童は、それでもなお食い下がる。
「じゃ、じゃあうちの里の皆に文の新聞を」
「それ前にも聞いたことあるわ。結局一人も増やせず仕舞だったでしょ」
「……そこはほら、面白くないからじゃないかなあ」
「い、言ってくれるわね」
「む――動いた」
にわかに剣呑な空気を漂わせ始めた二人を、椛の呟きが静止した。すうと目を細めて彼女は言う。
「東風谷殿が一人で出て来た。何か提灯のようなものを持っているな。この方角は――無縁塚、か?」
「はあ?」
――何考えてるのよ。
文の顔からさっと血の気が引いた。慌てて上体を起こす。椛は気圧されたように半歩退いた。千里を見通す眼が赤く輝いている。力を発揮している証拠だ。遠方に視界を飛ばす関係上、本人の視界は極めて不安定なものとなっているはずだが、それを斟酌する余裕は文にない。肩を掴み、余裕を失った表情で訊く。
「一人なの? どうして無縁塚なんかに?」
「わ、分からないさ。知ってるだろ、私が無闇に個人宅の中まで覗かないってことは。貴女のように倫を踏み外す気はないんでね」
少なくとも一人ではあるようだが――と、椛は言う。文は頭を掻いて、
「うっさい、今は私のことなんてどうでもいいでしょうが」
と、噛み付いた。
「……否定はしないんだね、文」
にとりのじっとりとした視線も今は気にならない。こういう予想もつかないことをしてくれるから面倒なのだ、早苗の世話役は。
「霊夢が一緒じゃなかったの? どういうことよ、今の無縁塚が危ないってことくらい――」
「――教えなかったのかもしれないな。当代の博麗はどうもその辺りが抜け落ちている。あるいは教えてもなお向かう理由が風祝殿にあるのか。どちらかだろう。まあ、貴女が問題にするべきは、貴女の新聞で得た情報を基に彼女が動いていることだろうが」
「何で新聞が出てくるのよ」
「知れたことを。それ以外に、風祝殿があんな場所へ理由がないからだ」
ご愁傷様――と、椛は文の手を振りほどいた。
「これで貴女は好むと好まざるとに関わらず、行くよりなくなってしまったわけだ。幸い、速度は落ち着いている。貴女の翼なら何とか追いつけるだろう」
冷静な物言いが癇に障る。確かに幻想郷の端から端まで飛んでも数分とかからない文の翼ならば、間に合いはするのだろうけれど。
ええい、と文は吐き捨てた。自分に言い聞かせるように、
「くそっ。連れ戻しに行くだけ。回収したらさっさと離脱。あんな場所、行かないに越したことはないんだから」
言う。
「椛は監視を続行すること。万が一のことがあったら――後は頼むわよ。上に知らせるよりは直接守矢の神様に上奏しなさい。その方が動いてくれる可能性は高いはずだから」
「了解」
「ついでに調査を――」
「大概しつっこいわよにとり。……待った。それ、言い訳に使わせてもらうわ。いきなり飛び出ちゃ格好がつかないし」
投げつけるように言って、文は背に翼を出した。
羽根が風を捉える。川面に波紋が広がる。ざわざわと、心が踊る。この感覚を味わう瞬間が、天狗で良かったと思える最高のひとときだと文はそう思う。
それは――こんなときであっても変わることはない。
「武運を」
「他人事だと気が楽だねえ」
投げ出していた鞄を引っ掴んだ文に、椛がきりりと表情を引き締めて、にとりがひらひらと手を振って――こちらはどさくさ紛れに調査を押し付けられたことが原因なのだろうけれど――言った。
「好き勝手言ってくれるわね、本当。――覚えてなさい、二人共」
ー寝覚めが悪いのは。
ゴメンなのよね。
せめてもの置き土産に、苦笑と捨て台詞、そして盛大な暴風を残して。
文は急ぎ、針路を西南にとった。
3.東風谷早苗
『無縁塚は危ないから適当に気を付けときなさいよ。死なれると面倒だから』
霊夢は香霖堂の商品からランタンを――店主に断りなく――投げて寄越しながらそう言った。
言葉だけで行動に移してくれないところはいつも通りだったので、早苗としてはいまいち危機感が持てなかったのだが。
――そんなに危ない場所なのかな。
何となしに首を傾げる。たしかに――新聞にも身の安全は保証できないと書いてあったけれど。
幻想郷の安全基準を、早苗は未だに測りかねている。生命を脅かされるような事態に遭遇したことがないわけではない。しかし、その多くはスペルカードルールを理解できない木っ端妖怪の攻撃だった。その程度であれば撃退することは容易かったし、"場所"が危ないのだと言われても実感が湧かないというのが偽らざる気持ちなのだ。
無縁塚――。
幻想郷の東端にある博麗神社から西へ飛び、人里を越えてしばらく行くと至る幻想郷最大の森――魔法の森。その森を越え、更に西へ行った場所が目指す無縁塚なのだそうだ。距離はそれなりにあるが、行って帰るくらいなら日没前に往復できないこともないらしい。その場所について記事が書かれることは少ないが、人里において危険性の認識は統一されており、訪れる者はほとんどいない。そして、それゆえ徒に興味をかきたてるような記事もまた書かれることはないのだと、霊夢は香霖堂への道すがら話してくれた。
『そんな場所について書いた以上――』
「――文さんも何かを考えてるのかもしれない、か」
そんな不確定情報をどうしろと言うのだろう。脅かすだけ脅かして後は放ったらかしだった。いつものことと言ってしまえばいつものことではあったのだけれど。無縁塚への道はと訊かれて、
『行けば分かるわよ赤いから』
と、言ってしまうような人物の言うことだ。信用しない方が正しいのかもしれない。
――考えてるとしても。
早苗の母校だと知って書き立てたわけではないだろう。こちらにだって確証があるわけではないし、関係付ける根拠は何もないはずで、第一仮に何かあったのだとしたら、文はむしろ隠すはずだ。
何となく――ではあるが。
事件が事件を呼んでしまうような記事を、文は好まないだろうと早苗は思っている。この場合は危険性を理解しない第三者で、それも無用心に無縁塚を訪れてしまう程度には実力を持った者の身に降りかかる二次災害を――だろうか。起きてしまった事件を面白おかしく仕立てることはよくあるのに、事件を起こすことは好まない、という思考なのだとしたら、正直よく分からないのだが。とはいえ、
「そう思うんだから――仕方ないよね」
思案しながら呟いたときである。
魔法の森の終わりが、ようやく見えた。
そして。
「うわあ――」
早苗は霊夢の言う"赤いから"の意味を知った。
山間の道を埋め尽くすように、赤い花が咲き乱れている。
大河。
そんな単語が脳裏をよぎる。無論、比喩だ。幻想郷に小川はあれど大河はない。赤い川の正体は、おびただしい数の彼岸花だった。
――れ、霊夢さんのいう通りだったのね。
この郷は狭い箱庭世界の筈である。早苗は時としてその前提を忘れてしまいそうになる。諏訪湖が鎮座する妖怪の山を始め、人里だって決して小さな村とは言いがたい規模を誇っているからだ。
この道も、そんなスポットの一つと早苗の目には映った。
森の西端から始まり、遠くの山麓に至るまで途切れることなく咲いている。感心を通り越して呆れてしまうほどの規模だ。本当に――こんな場所が日本のどこに収まっているというのだろう。結界が存在するとは言えど、基本的には陸続きと聞いているのに。
再思の道と、人の言う。
外の世界から迷い込む人間は、多くこの地出現し、そして命を落とすのだ――と、先刻霊夢は話していた。気にすることが馬鹿らしくなるほどの人数なのだとも。
――だったら。
早苗はうそ寒さを覚えて首を竦めた。見下ろした先には、こんもりと盛られた土饅頭が並んでいる。あの盛土の下に、骸が埋まっているのだろうか――そんな想像をしてしまったからである。
露出した肩を無意識に摩る。大丈夫と言った霊夢を信じているからまだ耐えられるのだが、何も知らなければ引き返していたに違いない。目的が何であったにしても、だ。
もっとも、ここへ来たことが間違いだったのではないかという気持ちは刻一刻と大きくなっているのだけれど。
引き返そうかどうしようか――悩み続けながら、ゆったりした速度で十分ばかり飛び続けた頃。ようやく赤い川の切れ目が見えた。
あれが目指す無縁塚なのだろうか。
薄い霧に覆われた山裾だった。彼岸花に覆われていた地面が、一転して荒れた地面を覗かせている。墓標と思しき、地面に立つ木片の数が多い。見渡す限り――とまでは言えないけれど、その数は数百を下るまい。中には真っ黒に朽ちているものもある。
あの全ての下に、外の人間が埋まっているのだろうか。
――ああもう。
またしてもしたくない想像をしてしまった。背筋を冷たい汗が伝う。そんなことを考えに来たわけじゃない、と早苗は小高い丘を迂回しようとして、
瞬間、
何となく――予感がした。
懐かしいような。
浮つくような。
とにかく何か、ひどく落ち着かなくなるものがそこにあると思えた。
果たして。
目指す建物は、丘の影になる形でひっそりと建っていた。
一目見て、理解した。
――間違いないわ。
からんと荒野に着地する。足袋が汚れてしまうなと愚にもつかないことを考えてしまったのは、まだどこか現実とは思えなかったからだろうか。
それは。
間違いなく、早苗が通っていた小学校だった。
木造二階建て、横に四つの教室が並んだ普遍的な校舎だ。通っていた頃と違うのは、白系の塗装が剥がれ、窓という窓を――昇降口も含めて――ベニヤ板で目張りされていることである。手入れをされていないのか、黒ずみ、さながら廃墟のような雰囲気を醸し出している。
廃校になってしまった――のか。考えて、しかし早苗は首を捻った。生徒数は減少の一途を辿り、そんな話も出てはいたけれど、同時に耐震工事を施した上で宿泊施設として使ったり、資料館として利用したりする話も出ていたはずだ。そうそう容易く幻想郷にくるとは思えない。規模は小さくとも、地域に密着した学校だったのだ。
ただ、卒業生としての感情を抜きに観察すると、やはり外の世界で必要とされなくなったモノに見えてしまう。
山に背を向け、傾きはじめた陽を浴びる姿が。
言いようもなく寂しそうに見える。
数多の卒塔婆を従えた、それ自体が巨大な墓標のように錯覚してしまいそうになり、早苗は慌てて首を振った。幻想郷へ移る直前の守矢神社にも似た雰囲気――寂れ、うらぶれ、必要とされなくなった、特有の愁色が漂っている。
「どうして……?」
校舎に歩み寄った早苗は、半ば放心したまま壁に指を這わせた。ささくれた木目が拒むように刺さる。後退り、目を落とした人差し指には、うっすらと血が滲んでいる。建物に意思がある? 拒まれたとでもいうのか。――否。確かに古い校舎ではあるが、サイズが大きすぎるように思える。一般的に付喪神となるには図体に比例した年月が必要である。この校舎が化けるにはまだ早い。あと数百年もすれば分からないが、そうなる前に朽ち果ててしまうはず。
第一意思を持っているのだとすれば、こんな場所を選ぶことはないじゃないか。
違う、そうじゃない。
それを抜きにしても。
違和感があるのだ。
何かが違う――通っていた頃の学校と。
考えろ。
考えろ。
指先がちくりと痛んだ。傷口にぷっくりと血の玉が浮いている。見るともなしに眺めた早苗は、その赤にはっとした。
――待って。
必死で掴んだイメージの尻尾は、小さな疑問だった。
そもそも、この学校は生徒を害するような意思を感じさせる建物だったか? 意思なき存在でも、包み込むような感情を想起させるそれではなかったか。
ぱっと視界が開けたように、早苗は感じた。違和感の原因は――あまりにも校舎が痛んでいることだ。軽く指を這わせた程度でも、怪我を負ってしまうほどに。
卒業から数年が経過しているとは言え、あまりにも記憶の中の光景とは違いすぎる。写真ではモノクロだから判りづらかったのだが、実物を目前にすると一目瞭然だ。
「……どうして気付かなかったんだろう」
再び、今度は慎重に触れながら――思う。
早苗が通っていた頃には、数年おきにペンキが塗り直されていたし、下から見えるほど雨樋に落ち葉が溜まるなんて考えられなかった。真新しいとはお世辞にも言えない校舎ではあったけれど、それだけ人間の手が掛かっていた校舎であったのだ。痛み、あまつさえ人を害する建物ではなかったのだ。
それが何故、数年でこれほど劣化してしまっているのか。原因は。この数年でいったい何が起きたのだろう。まさかとは思うが、自分たちが幻想郷に来たことが何か関わっているのか。どうなれば学校が幻想郷に来てしまう要因足りえるのか――それがまるで分からない以上、考えても仕方のないことかもしれないけれど。
よもや自分を巻き込んで展開される陰謀だったりしませんよね、と僅かばかり妙な考えが過ぎりかけたが、やめた。東風谷早苗という一個人には、大した価値などないはずだと早苗はそう思っているのだ。
とにかく一周してみよう。そうすれば何か分かるかも。そう思い立ち、振り向いた早苗の思考は――けれど、行動に移る手前で停止した。
「……?」
いつの間に現れたのか。
奇妙なものが、くるりと振り返った背後に立ちはだかっていたからだ。
「な――」
黒い、もやもやした"何か"としか言いようがない。人間大のサイズではあるけれど、顔貌があるわけではなく、幻想郷で見た妖怪や妖精の枠に当て嵌まらないモノ。
――なにこれ。
怪訝に思う早苗をよそに、"もや"が変化を見せた。緩慢な動作でするすると伸びてくる。
攻撃?
害意は感じられないが、とにかく触れられるのは良くない気がした。弾幕ごっこのおかげでとっさの判断は鍛えられている。やすやすと当たる速度ではない。
ひょいと頭を下げて躱した早苗は、頭上を掠めた"もや"が校舎の壁面にぶつかる瞬間を見た。
見てしまった。
めり、という鈍い音がして。
速度に見合わない深さの傷が壁に走った。
――え?
派手な音はしなかった。だから余計に現実感が感じられない。ただ単純に、ゆっくりと木を割くような音だった。スローモーションのようにべきべきと壁が凹んでいく。
もしも今、動かなかったらどうなっていた? あれが通過した場所にあったのは自分の頭だ。壁に付けられた傷から目が離せない。
警告もなしに襲うなんて。
冷静に考えている滑稽な自分を意識したそのときだ。
壁にめり込んだ"もや"は角度を変え、早苗に向かって伸びてきた。
それを見てようやくフリーズしていた思考が動き出す。
が、遅い。
もどかしいほど自分の身体が動かない。
来る。
ああ――、
「嘘、でしょ」
強張った口から言葉が零れて。
そのとき。
轟音が静寂を打ち破った。
爆風のような強い風が身体を叩く。
砂塵が舞い、思わず早苗は目を庇ってしまった。そんな場合じゃないのに――急いで手を下ろし、唖然と口を開けた。
"もや"が姿を消している。
代わりに白いシャツの背中が視界を覆っている。
そして。
「やれやれ、間一髪というところですか」
耳馴染んだ声を聞いた。
肩口で揃えられた濡れ羽色の髪。斜めがけの草臥れた鞄。十メートルあまり先で蠢くもやに向けられているのは八手の葉団扇だ。肌身離さず持っているはずのカメラは見当たらないが、見間違えるはずもない。
文だ。
射命丸文がそこにいた。
「この方は我ら山の盟友です。手を出すというのでしたら相手になりますよ? あいにく、容赦はできかねますがね」
蟲のように蠕動する"もや"に向かって、文は強い言葉を投げつける。
さながら助けに来たとでも言うように。
諦めが悪い――という言葉をあれに当てはめることができるのかどうか今ひとつよく分からないが――のか、"もや"はしばらくその場に留まっていた。だが、やがてずるずると荒地に跡を残しながら距離を取り始めた。
――助かった……?
ぽかんと"もや"を見送っていた早苗は、こほん、というわざとらしい咳払いで我に返った。
「あ――あや、さん」
「ええ、どうも。清く正しい射命丸です」
文はそう言ってにこりと笑う。
「どうやら間一髪のところだったようですねえ。いけませんよ、こんなところで気を抜――」
「文さん!」
「あややややっ?」
猛烈な安心感に襲われて、早苗はがっしりと文に抱きついた。文は細身に似つかわしくない力強さで早苗を受け止める。安心した。言葉にならないくらい、安心した。心臓が早鐘のように鳴り響くのを、どこか他人事のように感じながら、腕に力を込める。
そのまま一分近く、早苗は文の肩に顔を埋めていた。その間ずっと、文は早苗の背を撫でてくれていた。何も言わず、ただ受け止めるように。
やがて、幾許かの気恥ずかしさを振り払った早苗は恐る恐る顔を離した。そっと上目で窺うと、文はやれやれと言いたげな表情を浮かべている。
「なぜこんな場所に来たのです? ここが危険だということをご存知なかったのですか?」
「少しだけ霊夢さんに聞いてはいたんですけど。……でも、この建物に見覚えがある気がして」
「見覚えとは?」
「ここ、私が通ってた学校なんです。だからどうしても――来たくって。あの、文さんの新聞に掲載されていた写真を見たんですけど」
免罪符になることではない。分かっていながら、言い訳がましく言ってしまう。
文は一瞬、虚を突かれたように黙ったあと、かすかに渋面を作って、
「あれには身の安全は保証しない――と、そう書いてあったでしょうに」
と、言った。
「あ、あはは……」
苦笑しか出てこない。また過信してしまったのだ。自分の力を――である。
――悪癖だわ。
薄々自覚があるだけにたちが悪い、と自分でも思う。思うが故に、誤魔化したくて早苗は勢い込んだ。
「あ、文さんこそどうしてこんな所にいるんですか? 危険だっていうか、価値なんてなさそうな場所じゃないですか」
「こんな所とはご挨拶ですねえ。私が来たお陰で助かったんでしょうに」
「それはそうですけど」
不思議であることに変わりはない。
「おかしいじゃないですか、あんな図ったようなタイミングで――」
「馬鹿なことを言わないで下さい。あれを操って貴女を襲わせ、私自ら助けたと言うのですか? わざわざそんなことをする意味が無いでしょう。私は私の目的があるから来たのです」
「目的?」
「ええ。記事を書いたという行きがかり上、追跡調査は欠かせないでしょう?」
早苗は疑惑の目を文に向ける。
「……追跡調査なんてしてたんですか」
「今回の場合はにとりに依頼されたから、という部分が大きいのですがね」
「にとりさんに?」
「ええ。この無縁塚ではままあることなのですが、貴重な資源の鉱脈が入ってきたわけですから」
「何ですか、それ」
建物と鉱脈という言葉に関連性はないように思えるのだが。
「鉄筋コンクリートの中に存在する鉄は、取り出せば再利用することができるんです。他には――そうですねえ、アルミサッシを溶かして精錬したり、配線類なども鉱物として見ればそれなりにまとまった量が採れたりしますし」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
「はい?」
流暢に説明する文へ向かって、早苗はそんなことができるんですか――と、訊いた。
「どういうことです?」
「なんていうか、幻想郷らしくない言葉が聞こえた気がしたんですけど」
「ああ。言いたいことは何となく分かりますよ。有り体に言えば外の人間が利用するモノについて、私が知っていることが不思議なのですよね?」
「そ、そうですそうです」
早苗が頷くと、文は小さく苦笑した。
「とりあえず座りましょうか」
「危ないって自分で言ったじゃないですか」
「すっきりしないまま連行したのでは後味が悪いでしょう? 通っていた――あー、学び舎だと言ったではありませんか。その辺りの話を詳しく聞きたいところではありますしね」
誘われるまま、校舎中央にある昇降口の前に移動した。靴に付着した土を落とすために、ささやかな階段が設けられている。風が積もった砂埃を払う。文を取り巻く風の仕業だ。落ち着きなさいと言われているようで、早苗は今更のように赤面した。
ガラス戸は窓と同じように目張りされているが、隙間から下駄箱が覗き見える。校内の設備は残されたままなのだろうか。外回りの目立つ所ではエアコンの室外機が残されたままだった。文の台詞ではないが、こういうものは業者に引き取ってもらうものなのではないのだろうか。廃校となった経緯についての疑問が再び沸き起こる。
早苗の思考を遮るように、貴女が疑問に思うのも無理はありませんと文は言った。
「確かに我々はそういったモノを使いませんし、それらの製法も直接的には知りませんからね」
「なら、どうして」
「単純なことです。外から流れ着くモノは何も物質に限ったことではなく、知識――具体的にはそれを蓄えた人間、つまりあなたのような人間ですね。や、書物のたぐいです――もまた同じように入ってくるのです。そして私は新聞記者である関係上、外来人の話を聴きやすい立場にある。それだけではなく、彼らと河童のような者たちとの橋渡しをすることもあるのです。要するに、門前の小僧習わぬ経を読むという諺は我々にとっても当てはまるという、それだけのことですよ」
「……はあ」
分かったような、分からないような。論点が定まっていないからだろうか。
「そういう決まりごとが?」
「明文化されているわけではありません。解体を河童に任せる関係上、大まかな利益を譲るというのが暗黙の了解なのですよ。こういうモノに関しては彼らの右に出る者はいませんからね」
「不満が出たりはしないんですか」
「どうしても、というのであれば頭を下げればいいだけのことです。刀剣を始めとする武具などは我々が独自に作るように計らってくれますし、まずもって河童は物分りが悪い相手ではないですしね」
「物分り――ですか」
「はい」
例えば、と文は"もや"の去った方角を指す。
「ああいう手合いには言葉が通じません。そうなると力尽くしかありませんが、河童の場合は言葉が通じるのですから」
我々も交渉することくらいは知っているのですよ? と文は冗談めかして言う。
「……あれは、一体」
「無縁塚はとてもいい狩り場なのですよ。貌(かたち)を失くしてしまうほど力を喪ったものには特に、ね」
「カタチ?」
「死んでしまったあやかしもの――というのが一番手っ取り早い説明かもしれませんね」
どきり、と。
心臓が跳ねた。
「あれは――死んでいたんですか」
「死んでいるように見えませんでしたか?」
「……はい」
あの動きは明らかにこちらを狙っていた。意思を持たない――死んでいるモノであれば、ああいう動きはしないと早苗は思う。
言うと、文は静かに首肯した。
「言い分は分かりますよ。確かにあれは早苗さんを狙っているように見えましたし。ふうむ。そうですね……どこから話しましょうか。妖怪は骸を残さないという話を、一度くらいは耳にしたことがあるでしょう」
「ええ」
では、と文は続ける。
「魂魄という言葉、あるいは概念についてどう考えます?」
「は?」
唐突に何を言い出すのかと窺ってみるが、文の表情は特にからかうような色を帯びているわけではない。
「人間がどうして生きているのか、それを説明する言葉でしょう」
結局、早苗の答えは一般論に落ち着いた。
同時に、ではその理屈はと訊かれればよく分からないのだけれど――とも、早苗は思う。何だか妙な方向に話が転がり始めてしまった気がする。
――学校まるで関係ないし。
そんな思いを知ってか知らずか、文はやや満足げに頷いた。
「それで宜しいですね」
「クイズじゃないんですから早く続きを言って下さいよ」
「急かさないで下さいな。人は三魂七魄といい、三つの魂と七つの魄、つまり肉体を御する気で構成されているのだといいます。しかしここでは単純に魂と肉体の比率とさせて下さい」
「はあ」
「人間の場合は三対七。ですが妖怪の場合はこれが逆転し、七対三なのですね。心と肉体の割合が人間と逆であるからこそ、謂れに弱かったり、肉体的には頑丈だったりするのです」
「……それ、本気で言ってます?」
「私は至って真面目ですよ。人間の作り出す方便にしては、"魂魄"という概念は非常に良くできている部類に入りますからね」
それとあの"もや"とがどう繋がっているのだろう。疑問を汲むように文は続ける。
「人間をはじめ、獣や植物は身体から魂が抜けることで死ぬのです。あれらは――」
浮遊する人魂を指す。
「――そうして身体を抜けだした魂とされているのですが」
我々の死は少々違うのですよ、と文は言った。
「妖怪の死は、魂より先に身体を失うことで成るのです。永きに渡る生を全うしていると、体の方が先に朽ちてしまう。神霊ともなった妖怪であれば話は別ですが、あれはそうした、身体を失った妖怪の成れの果てというわけで」
「つまり先程のあれは、妖怪の死体のようなモノである、と」
「噛み砕いて言うなればそうなりますかねえ」
仮に死魂とでも呼びましょうか、とたった今思いついたように文は手を打った。ネーミングが気に入ったのか、文花帖を取り出してさらさらと書き付けている。
「ここからは薄気味の悪い話で恐縮なのですがね。人間の骸というモノは、時として再び動き出すことがあります。俗に悪霊が取り憑いたなどと表現される状態ですね。猫が死体を跨ぐと蘇るとも言いますか」
「えっと……何が言いたいんです」
疑問は当然のように無視された。
「ああいう現象は骸が未だ生きていた頃のことを覚えているからこそ起こるのです。猫のようにするすると動く何者かが死体に入り込み、妖怪となるから死体が再び動き始めるんですよ。きちんと埋葬して、身体が死んだと納得すればもう何が入っても動き出すことはないのですね」
だんだんと混乱してきた。そんな早苗を、面白がるように文は見ている。
「それと同じことが、妖怪についても言えるとしたらどうなるでしょうか」
「どう、と言われても……」
"人間の死体に何者かが入って再び動き出すこと"自体がそうそうある話ではないと早苗は思う。それとも、幻想郷では普通に起こりうる話なのだろうか。
閉じていたはずの棺の蓋が。
動き出して――開いてしまう。
土気色の肌をした、死に装束の骸が、往来を歩いている。
それは、ひどく現実味のない想像だ。
「分からないですよ。どうなるっていうんです」
「ふふ。即座に答えが解ってはつまらないではありませんか。まあ少し考えてみて下さい」
「って言うかコレ、私の学校とどんな関わりがあるっていうんですか」
「特にありませんよ」
「な――」
からかってるんですか! と憤るが、文はにやにやと思考を促すだけだ。早苗は不承不承考えを巡らせる。
魂を失ったモノが死体で。身体を失ったモノが――死魂。
その前提からして、想像しづらいことだというのに。
それでも、何とか答えを搾り出そうと頑張ってみる。
根が真面目なのである。
死体というものの有無。
"もや"が死体で――死体が"もや"で?
人間の体に相当するものが、あの"もや"――死魂なのだとして。
死体が生きていた頃のことを覚えているから――動く?
死魂が生きていた頃のことを覚えているなら――どうなるのだろう。
――ううん。
何だかものすごく罰当たりなことを考えているような気分になってきた。
「分かりませんか?」
「うー……ギブアップです」
早苗の心境をよそに、文はくすくすと肩を揺らす。
「まあ要するに、あのもやは入れるモノを求めているのですね」
肉体をと言い換えても構いませんが、と文は言う。
「当たり前のことですが、死体はものを考えないでしょう?」
「考えられないから死んでいると表現するんじゃないですか」
「その通りです。考えているわけではないのですよ。生きていた頃のことを覚えているから、ただ動いている。死体を見つけて中に入れば、立派な妖怪の出来上がりなのですね。人間の死と決定的に違うのはそこです。妖怪の成れの果てでありながら、妖怪になる以前の何かなのです。だからこそ妖怪の死骸は見つからない。しかしそれ故に、妖怪にも供養という概念があるのですよ。きちんと送ってあげた方が――そして彼岸の審理を受けさせた方が――良い来世を迎えられるはずだから、とね」
無縁塚とはそういうモノが行き交う場所なんです――と文は言った。
「あやかしの死者は骸を探し、人の死者は魂を受け入れる。能動的か受動的かという差異はありますが、死者が輪廻を経ずに生まれ変わるからこの場は危ういのです」
「はあ……」
「まあ、普通に捕食者が多いという観点でも危ういのですがね」
「ええと……?」
「食い散らかされた骸にあれが入り込むことで妖怪になることもありえるんです。そういう骸は得てして死んだということを認められないものですから。この辺りは死神の講釈を受けた方が分かりやすいと思いますがね」
「考えているのはあくまでも身体の方だと言うんですか」
「だってここで考えるわけでしょう」
言って、文はこめかみを突く。
「魂が抜けたからと言って、即座に体内の化学反応が停止してしまうわけではないのです。詳しくはありませんし、物の本を読んだ程度の知識で何を言うのかと思われるかもしれませんが」
「それは――そうかもしれないですけど」
煮え切らない早苗を置いて、原因はどうあれ――と文は続ける。
「死人や死体――あるいは死にたがっている者の多くがこの場所に入り込んでしまうことだけは確かなのです。そういう属性を帯びているのですよ、この無縁塚は」
――なら。
どうしてそんな場所にこの学校が現れたんでしょうと早苗は訊いた。
「仮にですよ? 無縁塚が文さんの言うようなモノが集まる場所だとしたら、これが入ってくるのはおかしいはずなんです」
「どういう意味です」
「死んでしまうはずがないものだから――です」
手入れを欠かされず、大切にされていたはずの場所だ。
他の場所に入り込んでしまったのならば偶然で片付けることもできただろう。けれど、無縁塚が死者の集まる場所なのだとしたら。
「そんな場所に来ることだけは考えられないんです」
「まだ利用する価値があったから、ということですか? 申し訳ありませんが、人間は古きを重んじることなどあまりないでしょう。不思議はないと思うのですが」
「そうでしょうか……」
「あや、事情が分からない以上、あまり突っ込んだことは言えませんがね。私だってそれを調べるためにここへ来たようなものですし」
取り繕うように文は言う。
「何らかの原因で必要とされなくなった、とは考えられませんか?」
「それ、は」
早苗はわずか、視線を揺らす。
考えにくいことだ。そもそも、たかだか数年でこれだけ環境が悪化してしまうこと自体が異常なように思う。
「ない――と思います。いくら私たちが人間だからって、卒業した学校が廃校になれば偲ぶ人はいます。守矢神社のように参拝して下さる方がほとんどいなくなった神社にだって、そういう人たちはいたんですよ? だから」
「どうなのでしょう。ああ、貴女の言を疑うわけではありません。しかし、私の経験からするとやはり人間は忘れる生き物ですよ。忘れてしまう可能性がないと、そう明確に言い切れるものなのでしょうか?」
「……少なくとも、私はそうだと思います」
そこで。
早苗はつと顔を上げた。
「忘れ去られたものではなくて、間違えて入って来ちゃったものなら、向こう側に帰すことってできるんでしょうか」
「帰す――ですか?」
「はい。人間は博麗神社に辿り着きさえすれば、外に帰れるって言うじゃないですか。それに倣えば――」
「不可能です。あれは結界の穴を自在に利用できる存在が協力してくれなくては不可能なのですよ。これを移動させることも難しいでしょうし、八雲氏や霊夢さんがそんなことに手を貸してくれると思いますか?」
「そんなことなんて言わないで下さい!」
早苗の反発を、文は柳に風と受け流した。
「仮に助力を受けられるのだとしても、早苗さんがお二方に会いに行くことを私は妨害するでしょうね」
「どっ、どうして」
「これはもはや我々の財産だと言ったはずです。みすみす逃すとお思いですか? 私のみならず、山を敵に回すことも辞さないと言うのならば――いいでしょう。やってみなさい。強い人間は嫌いではありませんから、万が一ということもありえるかもしれませんよ」
それとも。
文は言葉を続ける。
「失くなるということがどういうことか――何なら体験してみますか」
「……はい?」
「どうにもそれが重大なことであると認識して頂けないようですから」
――何を言い出すんだろう。
つかの間、早苗は呆気にとられる。文はなに簡単なことですよ――と言った。
「無縁塚に現れることは、世界から喪失されることとほぼ同義です。一度臨死体験をしてみれば分かりますよ。この時期は生死の境界が曖昧なので、臨死のつもりが本当に死んでしまうかもしれませんがね」
貴女は半分神様なので大丈夫でしょう――。
その、文の言葉を。
早苗はどこか、他人ごとのように聞いていた。
「あ、文さん? 気を悪くしたのなら謝りますから――」
何かが逆鱗に触れてしまったのだろう。判断して言い募るが、
「妖夢さんの近くに浮いているアレ、皆は半霊と呼んでいますが、彼女の場合は五魂五魄で肉体からはみ出した二魂が身体の近くを漂っているだけなのだそうです。早苗さんも同じような状態になるかもしれませんね。興味深いと思いません?」
話を聞いていないのか、文は流暢に言ってのける。
――思いません? って。
言われてもと、早苗はぽかんと口を開けたまま文を見つめた。
「まあ、送り返せないかと訊く時点で失われるということがどういうことなのか理解できていないようですし。己が身を以て学習することもときには大切なものです」
文は。
奇妙に艶っぽい眼差しでこちらを見ている。
「現人神は身体が死んでしまい、幽霊――魂だけの存在となった場合、果たしてどうなるのか。新たな神格として独立した個体になるのか、それとも人間として死んでしまうのか――。何事も実践が大事と言いますし、ちょっと試してみませんか?」
「それは――」
私に死ねと言っているんですか。
訊くと。
「あやかしであれば身体は重要でないと言ったでしょう? 神霊についても同じです。五体をバラされた程度では死にませんよ」
と言っても。
「あくまでも人間としての貴女について言うならば、死んでしまうかもしれませんがね」
文は意味深な笑みを浮かべたまま、言って。
「冗談、ですよね」
「そうだとお思いですか?」
滑るように文の手が近付いてくる。
つう、と早苗の頬を汗が伝う。
嫌な悪寒を伴う冷たい汗が。
「考えてみれば、現人神なんて食したことはないんですよね。受肉した神を我が身に取り込むわけですから、生臭坊主だのインチキ僧侶だのを適当に食べるよりも、余程効率良く妖力を蓄えられるかもしれません。……ふむ、やってみる価値はありそうですねえ」
「あ――」
蒼白な吐息をもらした早苗に向かって。
するすると、手が伸びてくる。
「この際ですから身体なんて捨てちゃいましょう? ね?」
ちょっと待って下さい、とか。
さっきは助けてくれたのにどうして、とか。
蛇に睨まれた蛙ってこういう気分なのかな、とか。
あるいは。
ごく単純に、何を言ってるんですか、とか。
いくつもの言葉が胸中をよぎる。けれど、文の掌から視線が逸らせない。
押し潰されるような重圧感。
伸ばされた指の隙間に、あかがね色の瞳が猛禽の如く輝いている。
風が啼いた。
「いただきます」
後編へ
先が気になりますよ。このまま投げ捨てられたら恨みますよ。
早苗さんがまだ幻想郷に馴染みきる前の感じが良いです。
ここからどう変化していくのか楽しみです。
とても楽しみです
登場人物の距離感がすごく絶妙で楽しい。続き待ってます。
そんな嗜好を一蹴するに足る十二分な魅力があります
あわてずじっくり書きすすめて下さい
収束の仕方がどうあれ続きがくれば必ず読みます
はよ。はよ!バンバン
あと一章は書き上げてあるのですが、その後に三章くらい控えていたりします。
これ書き上げたらしばらく長編には手を出したくないですね……。
な、なんとか四月までには出したいと思いますので、今しばらくお待ちください。
校舎が入ってくる……一体何が原因なのか。後半が楽しみですね。