「おはよう、可愛いお人形さん……と言っても、今は夜なんだけどね」
誰かの声が聞こえて来て、その子は目を覚ましました。
(目を覚ますですって?)
その子は何だか信じられないような思いで、自分に問い返します。
それもその筈。誰かの声が言った通り、彼女は単なる人形だったのですから。夢も見なければ、暖かな朝ごはんの用意も無い、大きなお人形でしかなかったのです。目を覚ますなんて事が出来る筈は無かったのです。
でもそのお人形は、確かに誰かの声で目を覚ましました。
セルロイドで出来た青い目で、雲が覆った真っ暗な夜空を眺めていました。
作り物の目で物を見るという事、作り物の耳で声を聞くという事、空っぽな筈の心が何かを考えているという事。
それら全ての新しい経験は、生まれたばかりの彼女にとって、クラクラしてしまう程の驚くべき発見でした。
そう。その子はたった今、このスズランが群生する花畑で、生まれたのです。
「お目覚めの気分はどう? 悪くない物だと良いんだけどね」
少し鼻に掛かった誰かの声は、悪戯好きなコマドリの様なシニカルな響きで人形の女の子に話しかけます。
(貴女は、だーれ?)
カチコチに強張った桜色の唇では喋る事が出来なかったので、人形の女の子は出来たばっかりの心の中で、そう問いかけました。フフフ、と冷笑的な声の持ち主は含み笑いをします。人形の女の子の視界に、小さな羽の生えたお人形がサッと踊り出て来ました。
「君と同じだよ。スズラン畑に捨てられた人形で、スズランの毒気で動くことが出来るようになった妖怪」
(ようかい?)
「そう。妖怪。そして、君もそうだよ。誰かに捨てられた球体関節ドールさん」
興味深そうな視線を、羽の生えた人形は、人形の女の子の身体に落としました。
「私と違って君は高価そうな人形なのに、捨てる事無いよねぇ? ふふん。かわいそ」
(可哀想?)
「君だって、昔は誰かの大切な人形だったんでしょう? 夢見がちな女の子の大切なお友達、もしくは妹だった筈だよね? それが今じゃ、雨や風の吹きさらすスズラン畑の廃棄物だ。ま、大切にされてかったんなら、わざわざ人間の捨て子みたいにスズラン畑に捨てられたりする筈もないけど、ゴミ捨て場だろうが赤子捨て場だろうが、捨てられた事には変わりないんだもんね。それが可哀想じゃないんなら、可哀想なんてネガティブな言葉はこの世から無くなるよ」
そう言って羽の生えた人形は、肩を竦めてクスクスと笑いました。
誰かの大切なお人形……。
まだ瞬きすら出来ない人形の女の子は、空っぽだった心でその誰かの事を考えました。
人形というのは人の形をしているからこそ、人の思いを吸い取りやすいのです。
心が無くても、物を考えなくても、誰かが人形に尽くした愛情は、知らず知らずの間に人形の中に蓄積されて行くのです。
だから、生まれたばかりの人形の女の子の中にもまた、その誰かの愛情の残滓が溜まっていました。
それは、女の子の姿。
小さくて、髪の毛は夕暮れの小麦畑みたいに輝く黄金色の女の子。
今は捨てられた人形の女の子にリボンを結わえてくれたり、髪の毛に櫛を通してくれたり、ぬいぐるみ達も参列するお茶会に招待してくれた、あの女の子。『ちっちゃなカチコチの妹さん』と、微笑みながら呼んでくれた、あの人間の子供。
人形の女の子は、その大切な女の子の事を覚えていました。自分と一緒に遊んでくれた女の子との思い出を。
その子の名前は、メアリ……。
(――違うよ)
人形の女の子は、羽の生えた人形に、心の中できっぱりと言いました。
「違う? 違うって、何がさ」
(メアリが、私を捨てる訳なんて無いよ)
「へぇ? じゃ、君はどうしてこんな所で寝てるんだい? 不思議な話だねぇ?」
(……きっとメアリは、私と逸れちゃったんだ)
「逸れただって。ふぅん」
羽の生えた人形は、ニヤニヤ笑いを浮かべて人形の女の子を見下ろします。
「根拠のない希望なんか持つもんじゃ無いよ。希望ってのは、麻薬みたいな物さ。持ったその瞬間は気持ち良くても、後から辛い思いをするだけってのが相場なんだから」
(そんなこと、無いよ……)
「ま、君がどう願おうと、どう辛い思いをしようと、私の責任じゃないから良いけどね」
ニヤニヤを右手で隠した羽の生えた人形は、人形の女の子の胸の上にペタンと座りました。座られた感覚を探る事は、生まれたばかりの人形の女の子にはまだ出来ませんでした。
(逸れたに決まってるもん……メアリは私を探してるに決まってるもん……)
「そうだねぇ。来ると良いねぇ?」
憐れみを湛えた視線で羽の生えた人形が、人形の女の子の青い目を見て来ました。人形の女の子は、『来ないに決まってるじゃん』と判った風な羽の生えた人形の言葉を、無視してやることにしました。
無視して、人形の女の子は空を見る事にしたのです。
重苦しい黒い雲は空をゆっくりと這い、所々に空いた隙間からは、微かに星屑が瞬いていました。綺麗だな、と思う人形の女の子の平らな胸の上で、羽の生えた人形は座る事をやめて、腹這いの姿勢で寝転がっています。キングサイズのベッドを手に入れた様な満足げな表情で、小さな両手を顎の下に添えて支えていました。
「君、名前はあるの?」
星がまた雲に隠れて見えなくなってしまった辺りで、羽の生えた人形が歌う様に聞いてきました。人形の女の子は、最初は無視を決め込もうとしましたが、星が見えなくなった事もあって、渋々答えます。
(……ちっちゃなカチコチの妹さん)
「A Little Rigid Sister……それは名前とは言えないねぇ。二つの形容詞と代名詞の寄せ集めだ。私が聞きたいのは固有名詞の事だよ」
フンフン、と鼻歌交じりに返す羽の生えた人形の言葉に、人形の女の子は混乱してしまいます。
(難しい言葉を使わないでよ)
「他に呼び名は無いのかな?」
(……無いよ)
「じゃ、私と同じだ」
羽の生えた人形が上半身を起こして、ポン、と嬉しそうに手を叩きました。
「私にも無いんだ。名前」
(どうして?)
「捨てられる前は、それ、とかあれ、とか言われてたからね。Itと名乗るのも、何だか味気なくて嫌でしょう? 可愛くないしね」
やれやれだよ――と、羽の生えた人形は溜め息を吐きます。その仕草は、シニカルな一面ばかりで人形の女の子に接してきた羽の生えた人形には似つかわしくない寂しさがあって、何だか可哀想だな、と人形の女の子は思いました。
(――じゃあ、私が名前を付けてあげる)
「本当?」
羽の生えた人形は身を乗り出します。
名前を付けられるというのは、存在を認めて貰えるという事。だから羽の生えた人形は、嬉しそうに作り物の目を輝かせていました。
確かに、その人形の事を呼ぶ時、一々『羽の生えた人形』なんて呼ぶのは、長くて嫌になりますものね。自分でも、『私は羽の生えた人形です』と自己紹介をするのは、良い気がしない事でしょう。他に羽の生えた人形が居たら、誰が誰だか判らなくなって困ってしまいますもの。もしかしたら、喧嘩になってしまうかも。
(うーん……どんな名前が良いかなぁ)
「小さな、とか、妹、とかそんな感じの名前を考えてるなら止めておくれよ? 仮にもこのスズラン畑で生まれた妖怪としては、私は君よりもお姉さんなんだからね」
(スズランかぁ……うん、決めた。それじゃ、貴女の名前は『スーさん』ね)
「……何だか、釣りが大好きな社長みたいだけど?」
(何の事? 良い名前じゃない。スーさん。もう決めた。貴女はスーさんよ。もうこれからは、貴女の事を私はスーさんって呼ぶね)
「……君、可愛らしい見かけによらず中々強情なんだねぇ」
スーさんと名前を付けられた羽の生えた人形は、苦笑いを浮かべつつ腕を組みます。
「でもま、良いか。君が折角考えてくれた名前なんだ。それに従おう」
一陣の風が、スズラン達をサラサラとそよがせます。まるで、名前の決まった羽の生えた人形を祝福する拍手みたいに、人形の女の子の作り物の耳には聞こえました。
(辺り一面のスーさんに囲まれて、スーさんとお喋り……中々素敵じゃない?)
「ちょっと待った。君はスズランの事もスーさんと呼ぶ気かい?」
(何か問題でもある? スズランが私に心とか思いとかをプレゼントしてくれたんでしょ? なら、スズランの事をただスズランなんて呼ぶのは、レディとしての礼儀に反するわ)
「いやでも……うーん……いや、良いか……一回決めたのを後からグチグチ言うのも何だしね……好きにすれば良いさ」
そう言ってお花じゃない方のスーさんは、名前の無い人形の女の子の胸の上で仰向けに寝転がりました。相変わらず雲は星屑を隠す様に空を満たし、サラサラとスズランを揺らして吹く風以外には音も無い夜のスズラン畑に、二人の人形は横たわっていました。
(ねぇ、スーさん)
「何かな?」
(私も、スーさんみたいに動ける様になるのかな?)
「君が動きたいと願うのならね」
(願う……)
「星に願いを、なんて空模様じゃないけどね。ただ私が思うに、願いってのは星が叶えてくれるもんじゃ無いんだ。青空だろうが、大雨だろうが、変わる事無く同じ願いを抱き続ける事の出来る奴だけが、願いを叶えられるんだからさ」
小さな頭の下に両手の枕を作ったスーさんは、フゥと溜め息を吐きました。秋口の夜に吹く風は人間にとっては冷たく寒く感じる物ですが、二人は人形だったのでへっちゃらです。
(私も、動けるようになりたいな)
「その内になれるさ」
(動けるようになって、歩けるようになって、飛べるようになって、そして私はメアリを探しに行くの! メアリがここを見つけられなくても、大丈夫なように)
「……そっか」
人形の女の子の希望に水を差すような言葉を、スーさんは口にしたりはしませんでした。何しろスーさんにとって、彼女は初めて出来た友達ですものね。スーさんも、人形の女の子も、一人が寂しいという事は痛い位に知っているのですから。
そしてその日から、人形の女の子が動けるようになる為の訓練が始まりました。
◆◆◆
作り物の身体が動くようになるまでは、とんでもない程の苦労が必要でした。
なにせ人間の子供とは違って、最初から自分の力で動く事の出来る様には作られていないのですもの。
心が出来たばかりの人形の女の子にとって、動く事も出来ずにスズラン畑で横になっている事は、とても退屈な時間でした。
雲が立ち込めれば、空を見て気を紛らわせることも出来なくなります。
雨が降れば、すぐ傍に居る筈のスーさんの姿すら、ぼやけて見えなくなります。
本当に私が動けるようになるのかしら? と、全然動く気配も無い自分の身体に首を傾げていた(動かないのですから、首を傾げたのも心の中での事です)人形の女の子ですが、ある雨の日に、セルロイドの瞳に落ちた雨粒を、彼女が瞬きで押し流している事にスーさんが気付き、「やっぱり動ける様になるんだよ。きちんと練習をすればね」と優しく彼女に語り掛けた事で、人形の女の子はスーさんの言う通りの練習を一からする事を決めました。
――本当は、ぼうっとしてれば動ける様になると思ってたのですが、世の中はそんなに簡単には上手くいかない様です。
最初は、指。
指の一本一本を、曲げたり伸ばしたりする事から始めました。
次に、首。
いつまでも空ばかりを見ているのでは飽きてしまいますもの。
首を曲げる事が出来る様になって、人形の女の子の見える世界は一気に広がりました。
そして次に、足。
歩く為には一番必要な部分ですが、当然足は指よりもずっと重いので、指の一本とは比べ物にならない時間が必要でした。
その次には、身体。
お腹の部分の屈伸運動。人形の女の子の重さの大部分を占める部分です。
ここが自由に動かせるようになれば、もう立ち上がるまではあと少し。
そして最後には、作り物の身体中の部位を、一緒に動かす練習。
足だけが動けば歩けるようになる訳では無いのです。お腹に力を入れないと後ろに転んでしまいますし、首をほったらかしにしていればすぐに背中の方へと折れてしまって、前を見て歩く事が出来ません。
どれくらいの時間を、人形の女の子は歩く練習に費やしたでしょうか。
咲き誇っていたスズランの花は枯れ、雪がチラつく日も増えて行きます。
積もった雪の中に倒れ込んでも身体が凍傷になってしまう事はありませんでしたが、その頃にはもう、人形の女の子は『冷たい』という感覚を理解出来るまでになっていました。
スーさんは、人形の女の子の頑張りをずっと見ていてくれました。
転べば「大丈夫かい?」と声を掛けてくれますし、挫けてしまいそうになれば「ここまで出来たんだ。あともう少しじゃないか。頑張って」と励ましてくれました。
「……動く、って、こん、なに難、しい、事な、のね」
ちょっと片言ではありましたが、喋る事が出来る様になっていた人形の女の子は、自分の桜色の唇を使って、励ましてくれたスーさんに返事をします。四歩を歩いた所でまた転んでしまった彼女の顔の前に、スーさんは歩み寄って来ました。
「君は私よりもボディが大きいからね。その分、時間も苦労も沢山必要なんだろう」
「……メアリ、は、私を見て、びっくり、してくれ、るかな?」
「…………まぁ、びっくりはするだろうね。きっと死ぬほどびっくりするだろう」
「ふふ……」
スーさんの台詞を言葉通りに捉えた人形の女の子は、カチコチの唇を曲げて笑います。
「早く、逢いたい、な……メアリ、今、どうしてる、かな」
再び立ち上がる為に、雪の中に両手を突いた人形の女の子が言います。
「あまり思い焦がれ過ぎると、メランコリーになるよ」と、スーさん。
「別に、それでも良い、もん。何だったら、それを、私の名前、にしちゃおう。良いでしょ? メディスン・メランコリー」
「メディスン……薬ねぇ……」
スーさんは辺り一面が雪景色になってしまったスズラン畑を見渡して、首を傾げました。
「ポイズンの方が良いんじゃないの?」
「あら、メディスン、には、魔法って意味、もあるのよ? 思い焦がれ、が、魔法を、呼んで、私は、メアリに、会いに行ける様に、なるの」
「……本当の意味でのメランコリーにならない事を祈ってるよ」
そうして新しく名前を手に入れた人形の女の子――メディスン・メランコリーは、更に更に、動く事への練習に明け暮れました。
毎日毎日、立ち上がり、少しの距離を歩き、そして、バランスを崩して倒れる事の繰り返し。その合間にもスーさんと沢山お話をする様に心がけ、少しずつ少しずつ、歩く事と喋る事が上達していきました。
――スーさんが居てくれなかったら、私は一体どうなっていたんだろう。
一面を白銀の世界に変えていた雪も融け、新しい緑が萌え出る季節になって、ふとメディは考えます。
スーさんが居なかったら、私は動ける様にはならなかったかもしれない。
話せるようにはならなかったかもしれない。
そう考えると、メディは酷くゾッとしました。
植物の方のスーさんも、羽の生えた人形の方のスーさんも、メディにとってはとても大切な存在になっていたのです。
「どうしてスーさんは、こんなに優しくしてくれるの?」
季節は、初夏。鳥たちが歌いながら空を滑り、春に芽吹いた草木の葉っぱは太陽の光を反射して、きらきらと輝く緑色に染まっていました。
その頃には、もうすっかりスムーズに喋る事も歩く事も出来る様になったメディが、今度は走る練習をしている最中、ふとスーさんに尋ねてみます。
こんなに良くしてくれているスーさんに、自分は何も恩返しが出来ていない。
それを考えるといつかスーさんが自分に飽きて、どこかへ行ってしまうのでは。と、メディは怖くなってしまったからです。
でもスーさんは肩を竦めて、メディの不安げな表情を笑います。
「友達が頑張ってるのを応援するのは、当たり前の話だと思わない?」
当たり前、なんて言葉を使ったスーさんですが、メディの目にはちょっと照れ臭そうな表情を浮かべている様に見えました。
もうすっかり二人のお人形は、切っても切れない程の大親友となっていたのです。
……スーさんと一緒に居れば、何でも出来るかもしれない。
たった一人のメディの大親友は、メディにとって掛け替えのない存在でした。
それはきっと、スーさんもまた同じ気持ちだったのでしょう。
なんせメディが生まれて以来何があっても、スーさんはメディの傍から一度だって離れた事は無かったのですから。
◆◆◆
走る練習も無事に終わり、メディは自分の作り物の身体を、すっかり自由に動かすことが出来る様になりました。
片足立ちで靴を履き直す事も、目を閉じたまま走ってみる事も出来ました。でんぐり返しですら、今のメディにはお茶の子さいさいです。
まだスーさんの様に自由に空を飛ぶ事は出来ていませんでしたが、それでも、メアリを探しに行く準備は整ったように思えました。
「そろそろ、メアリを探しに行こう」
ウキウキした気分でスーさんに持ちかけたメディですが、しかしスーさんの表情は苦々しい物でした。
「スズラン畑から出るつもりかい? スズランの瘴気が切れたら、また君は単なる『ちっちゃなカチコチの妹』に逆戻りするよ?」
「平気よ。少しくらい。スーさんの毒を体の中に貯めて置く方法も判ったし、その毒を手や足みたいに操る事も出来るんだから」
「過信は禁物だよメディ。それに、メアリが君を待っているとも限らないんだから」
「待っているに決まってるわ」
メディは浮かない顔のスーさんに、自信満々と言った面持ちで胸を張ります。
「動けるようになった私を見て、メアリはきっと青い目をまん丸にして驚くわ。そして今度はカチコチじゃなくって本当の妹みたいに、一緒にお茶を飲んだり、髪の毛をブラッシングしたりするの。私が、メアリの髪をブラッシングするのよ?」
「希望は少なめにしておくべきだね。それは人の足を前に進ませるエネルギーを持っているけれど、進んだ先が崖じゃないって保証はしてくれないんだから」
幾らメディを説得しても無駄だと悟ったスーさんは、溜め息交じりに言いました。
「さ、行きましょうスーさん。人が沢山居る所へ行けば、きっとメアリは見つかるわ」
「そうだね。見つかると良いね」
威勢よくスズラン畑の外へと歩き始めたメディの後ろを、スーさんは浮かない顔のままでついて行きました。
◆◆◆
人間の里への道のりは、スズラン畑から出た事の無い二人にとっては恐ろしく長い物の様に思えました。特にスーさんは、小さな体に貯め込んでいたスズランの毒が何度も切れてしまいそうになり、その度にメディから毒を分けて貰わなくてはなりませんでした。
「少しスーさんを摘んで来れば良かったわね」
砂利道の端に腰掛けて休みながら、メディは疲れた顔のスーさんの頭を撫でました。
「君一人じゃ危なっかしいから、お留守番をしている訳にも行かないしね……ふぅ」
「大丈夫?」
「あまり長い道を飛ぶのは疲れるから、君の肩に乗せてくれれば……いや、私が甘える訳にもいかないか……」
「なんだ、それくらいの事で良いの?」
メディは地面に座っていたスーさんの小さな体を抱きかかえ、自分の右肩の上にちょこんと座らせました。
「これで大丈夫?」
「大丈夫だけど……君は良いのかい? 重くはない?」
「重くなんてないし、仮に重くたって、幾らでも乗せてあげるわよ。私達、友達だもんね」
「……君は優しくて良い子だね」
「えへへー」
照れ笑いを浮かべつつ歩き始めたメディは、やっぱりスーさんの言葉の裏にある危惧に気付くことは出来ませんでした。
スーさんは、こんなに優しいメディはしかし、メアリに逢う事は十中八九出来ないだろうと知っていたのです。メアリに逢えず、項垂れるメディを見たくないと思っていたのです。
けれど、もうずっと一緒に居る仲ですもの。自分の目でメアリが居ない事を確認するまでメディは絶対に諦めないと判っていたからこそ、スーさんはメディのやりたいようにさせてあげようと決めていたのでした。
世の中にはどうしようも無い事が沢山あるって事を、スーさんだけは知っていました。
◆◆◆
やっとの思いで辿り着いた人間の里の入口には、見張りらしい若い男の人間が二人立っていました。動ける様になってから初めて人間を見たメディとスーさんは、木陰に隠れてジッとその人間の様子を観察していました。
「どうする? メディ」
メディの肩に乗ったスーさんが、小声でメディに尋ねて来ました。
「ありゃ多分、里の中に妖怪が入らない様に見張ってる人間だよ」
「どうして妖怪は入っちゃいけないの?」
「妖怪ってのは、人間を襲って食べるって相場が決まってるからね。食べられたい人間が居ないからこそ、妖怪が里の中に入りこむのは、人間にとっては困る訳だ」
メディは肩の上のスーさんから一度目を放し、二人の若い人間の方を見ました。一人はぼうっと空を眺めていて、もう一人は噛み締める事無く欠伸をしていました。その二人が二人とも長い棒を手に持っていて、アレで叩かれたら壊れちゃうかも、とメディは思いました。
「でも私は、人間を食べる為に里に入る訳じゃ無いよ」
「それを彼らが信じると思う?」
「話せば判るよ」
そう言って木陰から飛び出そうとしたメディを、「ちょちょちょ、ストップストップストップメディ!」と、スーさんが必死で止めます。
「何で?」
「言ったでしょ? 人間は、妖怪が人を食べると頭っから思い込んでるんだ。そんな怖い相手と、朗らかに話をしてくれる訳が無いだろう?」
「うーん……でも、一目見ただけで、私が妖怪だってバレちゃうかな? 私はメアリよりもちょっと小さい位だし、多分見た目は殆ど人間と変わらないと思うんだけど」
「……その球体関節を何とかしてから言ってくれる?」
メディの指や肘の関節を指差したスーさんが、軽く頭を抱えながら言いました。
「うーん……」
スーさんの言葉に納得してしまったメディは、また木陰に戻って座り込み、何か里の中に入る良い手段が無いかどうか考え込みました。
空を飛べればきっと楽なのでしょうけれど、生憎メディはまだ空を飛べません。空を飛べるスーさんに見て来て貰おうにもスーさんはメアリの顔を知りませんし、第一メディ自身がメアリに逢わなければ意味が無いのです。
可哀想なメディは、うんうん唸りながら良いアイディアが浮かぶのを待っていました。けれど、生まれたばかりで全然物事を知らないメディの頭では、きっと夜になっても良いアイディアなんて浮かばないでしょう。
「諦めて帰ったらどう?」
溜め息を吐いたスーさんが、メディの頬っぺたに優しく手を伸ばしました。
「今日は上手く行かなかったけれど、もしかしたら後で良いアイディアが浮かぶかもしれない。スズランの毒も、ここにずっと居たらきっとメディの分も切れちゃうよ」
毒……?
帰る為の言い訳でしかなかったスーさんのその言葉が、メディの中で何かと結びつきます。必死の努力の末に、操ることが出来るようになった毒。メディやスーさんにとっては居心地の良い瘴気も、人間にとっては害になるばかりの、毒……。
「――良い事思いついた」
「へ? 良い事? うわっ!」
突然立ち上がったメディの肩の上で転げ落ちそうになってしまったのを、スーさんはメディのキラキラした金髪に捕まって必死で堪えます。
「ちょっとメディ? どうするつもりだい?」
「良いから良いから」
メディは物陰に隠れることも無く堂々と、二人の見張りの前へと近づいていきました。片方の見張りがメディの姿に気付き、もう片方の見張りと何かを喋っています。肩の上のスーさんは、ハラハラしながらそれを見ていますが、メディは終始落ち着いていました。
そしてそのまま堂々と里の中に入ろうとしたメディは当然、歩み寄って来た二人の見張りによって行く手を阻まれてしまいました。
「お前、妖怪だな」
先ほどのボンヤリとした表情はどこへやら、片方の見張りが怖い顔をしてメディを睨み付けます。二人がいきなり手に持った棒で襲いかかって来なかったのは、メディが人の形をしていて、一応話が通じそうだと思ったからでしょう。
「そうよ? それが?」
「それが? じゃない。妖怪なら、里の不可侵条約は知っているだろう。ここに入れる妖怪は、絶対に里の人間に襲い掛からないと判断された一部の高位妖怪だけだ。見かけない顔だが、お前は慧音先生から許可を貰っては居ないだろう」
「けーね先生……?」
思わず首を傾げたメディに、二人の人間は一層怖い表情を浮かべました。
「だから入れる訳なんて無いって言っただろう。メディ。ほら、ごめんなさいって謝って、早く戻るんだ。じゃないと、棒で叩かれちゃうよ」
「あら、スーさん。私は謝ったりしないし、棒でも叩かれないし、里の中にも入れるわ」
ひそひそ声で肩の上のスーさんに耳打ちするメディを見て、二人の人間は変なモノを見る様な表情を浮かべました。
「――何だこの妖怪。一人でブツブツ言ったりして」
「どうでも構いやしないだろ。兎に角、追い返さないとダメだ。コイツは危険だろう」
「かもな……見た目はガキの人形だし、知能も低そうだ。なら、八雲の九尾様や風見幽香様みたいに里に入れる訳にはいかんよな」
二人の人間は、メディを放って相談を始めます。メディは、その隙を見逃したりしませんでした。
大きく息を吸って、体の中に貯めていたスズランの毒気を二人の顔目掛けて吐き出したのです。 紫色の霧がメディの桜色の唇から噴出し、二人の若者はアッと思う間もなく、その霧を吸い込んでしまいました。そしてその途端、二人の表情から生気が消え失せたのです。
手に持っていた棒を力なく取り落とし、ポカンと口を半開きにした二人の人間は、目を開けたままに、しかしどこを見ている訳でも無く立ち尽くしています。
「へへーん。成功」
メディが満足げに、ぼうっと立っている二人の人間を見て笑いました。
「……何したんだい? メディ」
自分が見ている物が信じられない、といった面持ちで、スーさんがメディに問いかけます。
「スーさんは人間にとって毒だって、スーさんは言ってたじゃない? だから、私の中に貯まってたスーさんの毒をスーさんが気付かない内にこの二人の人間に――」
「ちょい待ち、ちょい待ち。判んない判んない。私とスズランの呼び方が同じなせいで良く判らないから、その説明」
頭を左右に振るったスーさんが、溜め息交じりにメディに言います。
「――つまり、この二人を操りました」
「成程、判った。器用な真似が出来るもんだねぇ。メディは」
スーさんはメディの肩でホゥと感嘆の溜め息。動く事すらままならなかったメディは、スーさんも知らない内に、高い妖力を手にしていたのです。メディの成長ぶりに、スーさんは舌を巻くばかりでした。
「……さて、お二人さん?」
メディが呼びかけると、二人の人間の虚ろな視線が、メディに注がれました。
「中に入っても良い?」
「……どうぞ、どうぞ、めでぃなら、いつでも、すきなだけ、はいっていいんだよ」
「……めでぃは、いいこ、だからな、すきなだけ、さとのなかを、たんけんして、おいで」
酸欠の金魚みたいにパクパクと口を動かした二人が、メディに道を開けました。王女様に謁見した近衛兵の様な二人の挙動は、メディを実にウキウキとさせてくれました。もちろん、メディは二人に「ありがとう」とお礼を言う事を忘れません。レディの嗜みです。
「はぁ……初めてにしては素晴らしい効き目だねぇ……」
「なんて事ないわ。自分の身体を動かすのと大差無いもの」
「ふぅむ……メディの身体を動かしているのは毒だから、つまりメディにとって身体を動かす練習ってのは、そのまま毒を自在に操る練習と同義だった訳だね。成程、それなら毒の回った人間を操るのも、メディの人形の身体を動かすのも、理屈的には全く同じ作業な訳だ……」
「私、難しい事は判んないわ」
「いや何、私の独り言だと思ってくれて構わないよ」
堂々と里の中に入ったメディとスーさんは、ひそひそと話をしつつ、日中だからかそれほど人の姿も多くはない大通りを闊歩します。
里の人間は見慣れない妖怪の姿に眉をひそめますが、そもそも里の中に妖怪が入ること自体は珍しくないと見えて、特に気に留める風も無くメディとスーさんから目を逸らしました。
だってそもそも、入口には見張りが立っているのですもの。その見張りが騒ぐ様子も無くただ見慣れない妖怪が居るのを見ただけでは、本当はその妖怪には里へ入る権限が無いなんて、誰が思うでしょう。平和ボケとは怖いものですね。
「さて、メアリはどこに居るのかしら……」
キョロキョロと辺りを見回しながら、メディはメアリの姿を探します。元は作り物でしかないメディの胸の中は、期待でウキウキと弾んでいました。ここまで来るのに半年以上もの時間を費やしたのだから、期待がいや増すのも当然の事でした。
「メアリってのは、以前君が言ってた、君みたいな金髪の女の子なんだよね?」
メディの肩から降りて、またいつもの様に空を飛ぶスーさんがメディに問います。
「うん。綺麗な金髪なの。まるで夕焼け空の下で見る小麦畑みたいにキラキラした髪なのよ。私がその髪に櫛を通してあげるのよ」
「そうかい……でも、見渡す限りじゃ、まず金髪の人間自体が居ないように思えるね」
オデコに手をかざしたスーさんが、目を細めて大通りを歩く人間の姿を確認します。成程スーさんの言う通り、目に見える限りの人間は悉く真っ黒な髪の毛をしていました。
「うーん、そうね……ああいう真っ黒な髪の毛で、お話をしてる時に気が滅入ったりしないのかしら?」
「さてね。黒い髪を見るのに慣れてるのか、もしくは誰もが憂鬱な気分のまま生きて行くのを自然な事と思い込んでいるのかもね」
「んー、そんな生き方は嫌かも……あ、見てスーさん。あの女の子可愛いわね」
メディが、とある平屋の窓からボンヤリと空を見上げていた小さな女の子を指差しました。偶然メディと目が合ってしまったその女の子は、びっくりした様な表情を浮かべて家の中に引っ込み、窓をバタンと閉めきってしまいました。
「どれどれ……私には窓しか見えないけど、メディは窓の性別と年齢が判って、しかもその窓を可愛いと思う事が出来るって訳だ」
「違うわよ、もう! スーさんが見るの遅いから、女の子が隠れちゃっただけ!」
「ふぅん……妖怪が危険だっていう教育をきちんと受けてるんだね。でも、その可愛い女の子はメアリじゃないんだろう?」
「うん。髪の毛、黒かった……」
「黄色のペンキでも買っておく?」
「嫌よ。櫛がベトベトになっちゃうもの」
閉め切られた窓をジッと眺めつつ、ひそひそとメディとスーさんはそんなやり取りをしました。だからこそそんな二人が目に留まり、首を傾げながら歩み寄ってくる女の人の影に、メディもスーさんも気付くことが出来ませんでした。
「――お前」
突然背後から女の人の声が聞こえて、メディは飛び上がる程にびっくりしました。そして彼女が振り返ると、そこには夜明け前の空みたいに紺色で統一されたワンピースタイプの服と、ひっくり返した箱みたいな帽子を被った目付きの鋭い女の人が立っていました。
何を隠そうその人こそ、先ほど見張りの男の人が言っていた慧音先生という人だったのです。
「……なーに?」
「お前、妖怪だろう。どうしてここに居る? 私は、お前の事を知らないぞ」
「私も貴女の事、知らないわ」
首を傾げつつ、メディは慧音を見上げます。腰に手を当てる慧音は、メディを二人分縦に並べてもまだ足りない位の高い身長を持っていました。
「里の不可侵条約について、仲間の妖怪から聞いて無いのか? 大方どこぞから迷い込んだんだろうが、私の許可なしに里に入るのは駄目だ」
「どうして?」
「おいおいメディ……あんまり突っかかるもんじゃないよ」
メディの肩の上に舞い戻ったスーさんが、慌てたように耳打ちをします。
「でもスーさん、私、ふかしん何ちゃらなんて知らないし、この人は何も悪い事をしてない私を追い返そうとしてるんでしょ?」
メディがスーさんとお話をしているのを見て、慧音は先ほどの二人の人間と同じように、妙な表情を浮かべました。
何故ならスーさんの声は、メディにしか聞こえなかったのですもの。慧音の目には、メディが小さな羽の生えた人形を相手に独り言を言っているようにしか見えなかったのです。丁度幼い女の子が、ぬいぐるみを相手にお話をするみたいに。
「……成程、お前、生まれたばかりの妖怪なんだな」
大きな溜め息を吐いた慧音はしゃがみ込むと、ちっちゃなメディと目線を合わせました。
「良いか。まずお前は妖怪だ。そしてここは、人間の里だ。妖怪は人間を襲う。しかし、限られた空間であるこの幻想郷で、妖怪が無分別に人間を襲うと、人間は絶滅してしまう。そしてそうなれば、妖怪もまた絶滅するしか無くなるんだ。そうなってしまう事は、良くない事だ。だから人間と妖怪双方の為に、ルールと言う物があるんだ」
「るーる?」
「そう、ルール。約束事とも言うかな。その約束事というのはつまり人間を守る為、ひいては妖怪をも守る為にある。仮にお前が人を喰わないとしても、そのルールを破って貰っちゃ困る訳だ……ここまでは、判るな?」
うーん、とメディは少しの間、腕を組んで考えました。そして一応納得が出来たので、慧音に向かって頷きます。
「良し、偉いぞ……じゃあ、お前は今自分がここに居る事が、マズい事だってのも判ってくれるな?」
「……でも私、メアリを探さなくちゃなの。メアリは私のお姉さんなの。私はただ、メアリを見つけたいな、と思って、ここに来ただけなの」
スカートの端を指先で弄りながら、メディは小さな声で反論します。
「めあり? ふむ……その、めありというのは、妖怪か?」
「違うよ。人間の女の子。夕焼け空の下で見る小麦畑みたいにキラキラした金髪の、小さな女の子なのよ」
何やら考え込んでいる風の慧音を見たメディは、期待を込めてメアリの事を話しました。しかし、慧音はすぐに首を横に振ります。
「残念だが、そんな女の子はここには居ないな……恐らく、外の世界の住人なんだろう。可哀想だが、きっとここを探しても、幻想郷中を探し回っても見つからんだろう。さ、判ったら、行くぞ。里の外に連れて行ってやる」
「――嫌!」
差し伸べられた慧音の手を、メディは叩いて振り払います。慧音の手に、強い痛みが走りました。スズランの毒で動くメディの身体は、触るだけでかぶれたり爛れたりする毒なのです。
「嫌! 嫌よ! 私、メアリに逢いたいもん! メアリだって、私の事を待ってるはずだもん!」
「――メディ、ここは逆らうべきじゃないよ。大人しく従った方が身の為だ」
「嫌! スーさんまでそんな事言って! きっとこの人はメアリを隠してるんだわ! 私とメアリが逢うのが嫌なんだわ!」
「……聞き分けのない奴だ」
癇癪を起したメディを見て、払われた手を摩った慧音が溜め息を吐きます。そして問答無用にメディの襟を掴むと(そこはメディの身体では無いので、触っても平気だと見抜いたからでしょう)、里の出口へ向けてメディをずるずると引っ張って行きます。
当然メディは追い出されて堪るものかと抵抗するのですが、慧音とメディの力の差は歴然でした。慧音の方とは逆向きに走って逃げてしまおうとするのですが、引っ張られる力が強くて全然うまく行きません。終いには足を縺れさせて転んでしまい、もろに顔を地面にぶつけて泣き出してしまう始末。
声を上げてわんわん泣き喚くメディに気を使う様子も無く、慧音は淡々とメディのスカートを掴み直すと里の外まで引っ張ってしまいます。スーさんはその様子を、何とも言えない憐れみの表情を浮かべて見つめながらついて行きました。
「――あれ、慧音先生。どうしたんです? その子」
先ほどメディに操られた見張りの男が、首を傾げて慧音とメディを見つめます。とっくにスズランの毒は抜けてしまい、二人が二人とも、メディに操られていた前後の記憶を無くしてしまっていました。
「どこぞから紛れ込んだ妖怪だ。お前は入っちゃいかんと諭したんだが、聞き分けが無いから力づくで連れて来た」
「ほへぇ……相変わらず慧音先生は容赦ないですね……寺子屋に通っていた頃を思い出しますよ」
可哀想に嗚咽を漏らしつつも、慧音に抗おうと地面に爪を立てながら引きずられてきたメディを見て、見張りの片方が小さく笑いました。
「お前は遅刻の常習犯だったからな。少しは治ったろう?」
「いやぁ、おかげ様で。慧音先生の頭突きは人里の最終兵器ですからね。そんなんを何発も食らえば、地獄に住む獄卒の奴らだって真人間にさせられますよ」
「ふん。買い被り過ぎだ……まぁ、コイツは生まれたばっかりの妖怪らしいが、里には入れられない危険な存在だから、もしまた来ても、きちんと追い返してくれよ」
「もちろん! 仮に侵入を許しちまったら、素っ裸で里の大通りを十往復してやりますよ! な?」
「全くだ。単なる人間とは言え、見張りの大役を担ってるんですから信用して下さい」
と顔を見合わせつつ、既に素っ裸で里の大通りを十往復する権利を持つ二人は大声で笑いました。慧音は小さく笑うと、しゃくり上げるメディのスカートから手を放します。スーさんは顔を覆って泣いているメディの横に降り立つと、メディの頭を優しく撫でてやりました。
「可哀想だが、決まりは決まりだ。もう来るなよ」
メディの毒で少し爛れてしまった右手を労りながら、慧音は冷たい視線でメディに言い放ちました。そして振り返ることも無く、里の中へと戻って行きます。見張りの二人は地面に伏したままメソメソと泣き続けるメディを、少し居た堪れない気持ちで見ていました。
けれどやがてメディが立ち上がり、ダッと何処かへと走り去ってしまったのを見て、ホッとした様な表情を浮かべ、元通りに見張りの仕事を再開しました。
◆◆◆
「災難だったね、メディ。顔のパーツが壊れてたりはしない?」
スズラン畑に戻って来たメディに、スーさんが優しく問いかけました。
「――大丈夫」
体育座りをして少し鼻声のまま、真っ赤な目をしたメディが答えます。その様子はメディが人形と知らない人間が見たら、きっと普通の女の子だと思い込んでしまう位に人間染みていました。
二人が人里まで行って戻ってくる間に、もうすっかり夕方になってしまっていました。
まだ花の咲く気配も無いスズラン畑にはしかし、二人にとって居心地の良い瘴気が満ち満ちています。毒を操る術の無い人間にとっては、『何となく気持ち悪いな』としか思えないスズラン畑のその瘴気は、零れ落ちる夕焼けの紅を持ってしても晴らす事の出来ない澱みに溢れていました。
メディにとってもスーさんにとっても、素敵な気分になれる毒気の澱みです。
「追い返されちゃったねぇ」
「……うん、メランコリーだわ」
「自分の名前を安易に付けるからだよ」
「今からでもハピネスに改名したら受け入れてくれるかな? 良いかも、うん。ハピネス」
「unhappiness? 君って奴はそんなに虐げられたいの?」
「そうじゃなくて!」
ぐしぐし、と目頭を腕で擦ったメディが立ち上がりました。
何はともあれ、気を取り直した様子のメディを見て、スーさんは内心ホッとした気分になりました。
乱暴な方法だったとは言え、これでメディの気も済んだだろう。あの女の人(きっとアレが慧音先生という人なんだろう、とスーさんは気付いて居ましたが)もメアリはこの世界のどこにも居ないと教えてくれた。これでまたこのスズラン畑で、二人きりの慎ましい生活を送ることが出来るだろう。そう思ったからです。
しかし、立ち上がったメディは、またぞろスズラン畑の外へと向けて歩き始めます。
「おいおいメディ……一体どこへ行くつもりだい?」
慌ててスーさんが、メディの後を追います。
「良い事思いついたの」
「良い事? それは良かった。けれども、一体どこへ?」
「人間の里」
「――はぁ?」
懲りたとばかり思っていたメディのその言葉に、スーさんは肩を竦めます。
「また追い返されるだけだよ」
「堂々と里の道を歩いていたから見つかったんだわ。今度は忍び込む。ひっそりとね」
メディの視線は真っ直ぐ固定されたまま、ズンズンと早足で人里への道を逆戻りします。
「わざわざスズラン畑まで戻って来たのは、毒の補給かい……帰って来る道中には、また人里に戻るって決めてたんだね」
「そうよ。私、諦めないんだから」
「この世界にメアリは居ないと断言されたのに? はぁ……君の強情っぷりは知り尽くしてたつもりだったけどね、まさかここまでとは思ってなかったよ」
メディの横に並んで空を飛びながら、スーさんは天を仰いで大きな大きな溜め息を吐きます。やっぱりメディは、言い出したら聞かないのです。
「――仕方ないね。何を思いついたか知らないけれど、君の好きな様にやれば良いさ」
スーさんの願った慎ましやかな二人きりの生活は、まだ訪れてはくれない様です。
◆◆◆
さて。とっぷりと日の暮れた頃になって人里の前まで戻って来たメディとスーさんですが、やっぱり里の入口には見張り番が立っていました。
いえ、むしろ妖怪の活動が活発になる夜に見張りを立てない訳が無いのです。
先ほどの人間二人とはまた違う人間でしたが、二人とも篝火の下で先ほどと同じ様に長い棒を携えていました。そして更に、昼間には開け放たれていた里の入口には大きな門が渡されていたのです。
「――で、どうするんだい?」
昼間と同じ木陰に隠れて様子を伺っているメディに、ひそひそとスーさんが聞きました。
「きっと君の情報については、あの二人も聞いている筈だよ。なら、もうさっきみたいに近づいて行っても油断してはくれないだろうね。そもそも夜中の方が、警備の目は厳しいに決まってるし」
不安げにメディの横顔を見るスーさんとは裏腹に、メディは至って平気な顔です。
「フフン。『メディスン』の真骨頂を舐めて貰っちゃ困るわスーさん」
木陰に隠れたままのメディは、大きく息を吸い、そして大きく吐き出します。すると昼間と同じように、紫色の毒霧が彼女の桜色の唇から漏れ出て来ました。
「えー、オホン、オホン……さて、行くわよ」
闇夜に紛れて中空に漂う毒霧に向けて、メディは右手の人差し指をピンと立て、そしてクルクルと回しました。
「――コンパロ、コンパロ、毒よ行けー」
メディの言葉に促されるみたいに、吐き出された霧はゆっくり見張りの元へと空中をフワフワと漂って行きます。驚いて目をまん丸にしているスーさんはさておき、メディは真剣な表情で両手を動かし、毒霧を見張りに向けて誘導します。
大きな一塊だった毒霧は篝火の明かりに入る前に二つに分裂し、フワリと上空へと浮かび上がります。そして見張りの死角からゆっくりと下降して、二人の人間はやっぱりアッと思う間もなくメディの毒霧を吸い込んでしまいました。
「――驚いた……毒霧の遠隔操作まで出来る様になってたのかい。凄いね、メディは」
「えへへー、もっと褒めていいのよ?」
ボンヤリとした表情を浮かべて、そろそろと門を少しだけ開け始めた人間を見つつ、メディは誇らしげに胸を張ります。音も無く開いた門へと向かって歩き始めたメディを、スーさんが飛んで追いかけました。
「――それにしても……こんぱろ、って何だい?」
「あら、前にスーさんには言ったでしょ? メディスンには魔法って意味も有るのよ? ただ黙って毒を操るより、魔法の呪文があった方がロマンチックじゃない」
「まさかとは思うけどconvallatoxinから来てるのかい? スズラン含有の毒の名前の? なら、コンパロよりはコンバラの方が正しい気はするけれども」
「コンパロの方が可愛いでしょ。『コンバラ!』 だと、何だか厳めしいもん。ヨダレだらだらの牛魔人とか出て来そうだわ」
「それ? 理由それなの? 本気でそれだけ? 出ないよ。牛魔人なんて」
「何か問題でも?」
「……いや、君の好きにすれば良いと思うよ」
ノリと雰囲気と勢いだけな呪文の名付け方に少々スーさんが呆れつつも、メディに操られた人間が開けてくれた門の隙間を、二人は一緒に通り抜けました。
日が暮れ果ててしまったせいか、里の大通りには誰の姿も見当たりません。ポツン、ポツン、と焚かれている篝火と、家々からの仄かな暖かい明かりは、二人が見慣れた月や星の明かりよりも煌々と通りを照らしていました。
メディはどこか目的地がある様で、脇目も振らずにズンズンと通りを進んで行きます。
「どこへ行くんだい? メアリの手掛かりを見つけた様には見えなかったけど」
「んふふー。内緒よ。すぐに判るわ」
にっこりと笑ったメディは顔の横を飛ぶスーさんに向けて、人差し指を唇に寄せました。
そして、メディは一軒の平屋の前で立ち止まります。そこは昼間、メディが可愛らしい人間の女の子の姿を見つけた平屋でした。締め切られた窓の隙間から、薄らと蝋燭の明かりが漏れています。
「……ここは昼間の家かい? こんな所に何の用?」
「うん。まぁ、見てて」
言うとメディはその平屋の戸を、コンコン、とノックしました。
「――メディ?」
「大丈夫、大丈夫」
不安そうなスーさんを余所に、メディはもう一度ノックします。中から誰かが玄関に向かって歩み寄ってくる物音が聞こえ、やがて戸が横向きにスライドします。
「――どなた? こんな夜中に……」
言いつつ顔を出したのは、大人の女の人でした。彼女は自分の目線をキョロキョロと左右に探り、それから視線を下に向けて、両手を後ろ手に組んだメディの姿を認めました。
「こんばんは」
「――ッ! 貴女、妖怪……!」
驚きと恐怖に身を仰け反らせた女の人に、メディはフーッと紫の霧を纏った息を吹きかけました。とっさの事で身をかわす事も出来ず、女の人はメディの毒霧を吸い込み、ふにゃりと顔からは表情が消え失せてしまいます。
「……おい、サエ? 一体誰だったんだ?」
女の人の背後から、今度は大人の男の人が歩み寄って来ます。
「――ぱぱ、おきやく、さん、よ」
ゆっくりと後ろを向いた女の人の虚ろな言葉に、男の人は首を傾げます。
「は? ぱ……何だって?」
「さあ、はいって、めでぃ、きようからあなた、は、わたしたちの、こよ」
女の人に促されるまま(と言ってもメディが操っているのですが)、メディが家の中へと足を踏み入れます。首を傾げていた男の人の目が、驚愕に見開かれました。
「お前……! コイツは――」
すかさずメディは男の人に向けて、フーッと毒霧を吹きかけます。女の人と同じように男の人もメディの毒を吸い込み、だらしなく表情から険が無くなってしまいました。
「――いらっしやい、めでぃ、よくきたね、わたしが、きみの、あたらしい、ぱぱだよ」
「……成程、何となく君の考えが読めて来たよ」
スーさんがポツリと呟き、メディは振り返って悪戯っぽく彼女に笑いかけます。
「おねえさんに、あわせて、あげなくちや、ね」
「そうだね、まま、めでぃを、おねえさん、に、あわせて、あげよう」
操られた二人は片言の口調で言い合うと、ぎこちない挙動で家の奥へと歩き始めます。右手と右足を一緒に出したり、首がガクガクと危なっかしく揺れたり。その動き方は、まだ満足に歩く事が出来なかった時のメディにそっくりでした。
廊下の角を曲がって二つ目の襖から人の居る気配がします。
――きっとここが寝室か、あの女の子の部屋なのね。
そう思ったメディはまず女の人を操って襖を開けさせ、こっそりと中の様子を柱の陰から確認しました。畳の上には布団が三組並べられ、その真ん中の布団だけが少し盛り上がっています。女の子は、もう眠っている様でした。
メディはそのまま女の人を部屋の中へと移動させ、女の子の横に座らせました。両足が両足とも投げ出された変な座り方です。そして女の人は両手で布団の盛り上がった部分を掴み、随分乱暴な動きで女の子を揺り動かします。女の人の首は真上を向いていたので、その動き方は正気の人間が見たらゾッとする類の物だった事でしょう。
「おきて、おきて、おきて、おきて、おきて、おきて、おきて、おきて、おきて」
何度も繰り返した所で布団の中がもぞりと動いたのを確認したメディは、女の人に掛布団を跳ね除けさせました。身を丸めていた女の子は寝ぼけ眼で体を起こすと、両目を擦りながら女の人を見上げます。
「……なーに? どうかしたの……お母さん」
「あなたの、いもうとが、きましたよ」
「……え? 何、言ってるの……?」
まだ夢見心地の女の子は、トロンとした表情で首を傾げます。
「さあ、おいで、めでぃ」
女の人が空気を引っ掻くような動きで、部屋の外のメディを呼びました。男の人と一緒に部屋の中に入って来たメディを見て、女の子はハッキリと目を覚まして息を飲みます。
「お、お母さん……? お父さん……?」
不安げに両親の顔を見比べる女の子ですが、虚ろな視線が女の子と合う事はありません。
「きようから、あなたの、いもうとの、めでぃすん・めらんこりぃよ」
「知らない……知らない……い、妹って……どういう事……? お父さん? お母さん?」
歩み寄って来たメディを見て今にも泣き出さんばかりの女の子ですが、両親の様子が変な事と恐怖からか、立ち上がる事すら出来ない様子で父親と母親の顔を見比べるばかりでした。
「こら、めあり、きちんと、いもうと、に、あいさつ、しなさい」
「そうだぞ、めあり、ちやんと、あいさつ、しなさい」
「め、め……? め?」
「――今日から貴女が、私のメアリになるのよ」
女の子の前に正座したメディは、やっぱり女の子に向けて紫の霧をフーッと吹きかけました。彼女の表情から怯えも、恐れも、困惑も、不安も、何もかもが消え失せました。
「――うわあい、めでぃだ、めでぃ、じやない、やっと、かえってきて、くれた、のね」
女の子がメディの身体を抱きしめます。メディの素肌に触れた部分が少しずつ爛れ、頬ずりをした女の子の顔にも痛ましい火傷の様な傷が浮かび上がりました。
「ずっと、ずっと、あなたのこと、さがして、たのよ」
「……うん。ありがとう。遅れちゃって、御免なさい」
「おめでとう、めあり、めでぃ」
「めでぃ、めあり、おめでとう」
そう言って男の人と女の人が拍手を始めました。リズムも、叩いて音を出す場所も(女の人は両手の甲同士を叩き合わせていましたし、男の人は折れ曲がった指が手の平に突き立っていました)、何もかもがチグハグな拍手でしたが、誰もその事をおかしいとは思いませんでした。
「ありがとう。パパ、ママ、これからは家族四人で、幸せに生きて行こうね」
メディがニッコリと幸せそうに笑い、スーさんはニヤニヤ笑いを浮かべながらその異常な光景を、ただただジッと見つめていました。
◆◆◆
「やれやれ、それにしても良くやるよメディは……人形が人間を操るだなんて、何ともエスプリに富んだブラックジョークじゃないか」
口角の吊り上った表情を片手で隠しながら、スーさんがメディに言います。
「何よスーさん。何か間違ってる?」
寝室でメディは『メアリ』の髪の毛に櫛を通しながら、肩を竦めました。虚ろな表情の『メアリ』は見る見る増えて行く毒の傷にも痛そうな顔一つせず、ただメディにされるがままにしているばかりです。
メディが遊んでいる内にすっかり夜も更け、日の光が差し込む寝室の外からは鳥のさえずりが聞こえて来ます。清々しい朝でした。そしてメディの気分もまた、そんな朝に似つかわしく、とてもとても清々しい物でした。
「いーや? 自然だと思うよ? 代替行為なんて、生まれたばかりの妖怪にしちゃ随分人間染みてるじゃないか」
「仕方ないじゃない。この世界にメアリが居ないのなら、私が作るしかないじゃない」
「元々成立していた家庭に、無理矢理自分の居場所を作る……いやはや。こりゃ、何とも良く出来た『メアリ・スー』だねぇ」
スーさんは寝室の隅で投げ出される様に横たわった『パパ』と『ママ』を見て、くつくつと忍び笑いをして肩を揺らします。
「幸せになれるんなら、問題ないじゃない」
「幸せになれるのなら……」
「何?」
「いやいや、何でもないさ。私は君の幸せを祈ってるよ」
肩を竦めたスーさんは寝室に置いてあった箪笥の上へと移動し、腰を下ろしました。
「……変なスーさん」
メディが『メアリ』の手に櫛を持たせ、今度は自分の髪の毛をブラッシングして貰おうとした所で、表の玄関の戸が荒々しくノックされる音が聞こえて来ました。
「――おい! つる! 八十吉! 居ないのか!?」
怒鳴る様な声は、昨日メディを里から追い返した慧音の物でした。
「おやおや、昨日の女の人が来たようだよ? どうする?」
この状況を楽しんでいる様なスーさんの声に、メディは小さく溜め息を吐きます。
「……追い返すよ。決まってるじゃない」
全くもって不機嫌そうな表情を浮かべたメディがパチン、と指を鳴らすと、それまでペタンと座っていた『メアリ』は糸が切れた様に布団に倒れ、代わりに『パパ』がむっくりと立ち上がりました。ドンドンと荒々しいノックの音は、ちっとも止む気配がありません。
『ママ』と『メアリ』の気を失わせたまま、メディは『パパ』と一緒に寝室を出て、『パパ』に慧音を追い返させる事にしました。男の人の方が、慧音を追い返すのに都合が良いだろうと思ったのです。
自分は物陰に隠れて、メディは『パパ』に家の戸を開けさせます。腕を組んだ慧音の厳めしい顔が、メディの目にもはっきりと窺えました。
「……なにか」
「何かじゃないだろ痴れ者が。お前仕事はどうしたんだ? 料理人が居ないんじゃ店が開けん、と食堂の女将さんがカンカンだぞ。つるも寺子屋に来てないし」
「しごと、ですか」
「そうだ。私も一緒に謝ってやるから、行くぞ。それに、つるはどうした? 休みの連絡なんか貰ってないぞ」
「さーて、困ったねメディ? どう切り抜ける?」
「ちょっと黙ってて! 今考えてるんだから!」
ひそひそ声のスーさんに、メディは鋭く返します。眉根に皺をよせ、ボロが出ない様に懸命に『パパ』を操ります。
「すこし、からだが、よくないんです、つるも」
「つるも? 昨日はあんなに元気だったのに? ふむ……確かにお前さんも顔色は悪いな」
首を傾げた慧音が繁々と『パパ』の顔を眺めます。バレやしないかとメディはひやひやしました。
「はい、かえって、くれませんか」
「いや、帰らん。体調が悪いにせよ、きちんと連絡をするのが筋だろう。一言すら言えない位に酷い様にも見えんしな」
そう言って慧音は『パパ』の腕を掴み、外へ引っ張って行こうとします。メディは慌てて『パパ』にその手を振り払わせました。慧音の眉根に深い皺が寄り、視線は如何にも訝しげです。
「……何だお前。行けない理由でもあるってのか? え?」
「おっほ。頑固な人だね」
「むー……」
メディは苛々と髪の毛を掻き上げます。そして小さな溜め息を吐き、『パパ』を家の中へと戻しました。突然背を向けられた慧音は「おい八十吉、ふざけるのも大概にしておけよ?」と、おかんむりです。
「どうするんだい? 追い返せてない様に見えるけれどもねぇ」
「あの人も、私の家族になって貰う」
「ふぅん? 大丈夫かい? 随分な強硬手段だね」
必死な表情のメディは、スーさんの軽口に返事もせず、『パパ』に慧音の腕を掴ませました。
「ちよっと、きてください」
「なんだいきなり。どうした?」
何の前触れも無く家の中に連れ込まれそうになり、慧音は困惑顔です。
「ちよっと、むすめのようすを、みてほしい、のです」
「何だと? そんなに悪いのか? つるは。医者でも呼ぶか?」
戸口でグイグイと引っ張られる力に抗いつつ、慧音が返します。『パパ』は、ぎこちない仕草で首を横に振りました。
「いえ、あなたでなきや、だめ、なんです」
「痛っ……引っ張るな! 痛いだろ!」
「きてください」
「あーあー判った判った! 離せ手を!」
『パパ』の手を振りほどき、慧音は苛々と溜め息を吐きました。
「……見たら、納得するんだな?」
「はい」
「仕方ない、邪魔するぞ。案内しろ」
「はい」
「――やった!」
玄関口へと足を踏み入れ、履物を脱ぎ始めた慧音を見てメディが小さくガッツポーズをしましたが、その後ろでスーさんは相変わらずニヤニヤ笑いを浮かべて、楽しそうにこの状況を眺めていました。
慧音に姿を見られない様にコッソリと廊下の角へと移動しながら、メディは『パパ』を操って慧音の先導をさせました。
『メアリ』や『ママ』の様にただ気絶させているだけならばまだしも、人間を操って動かすためには、メディがきちんと相手を見ていないといけないのです。慧音の視界に自分が入らない様、なおかつ『パパ』の挙動が不自然になり過ぎない様に『パパ』を操る事は、至難の業でした。
「何だ? お前の家。妙に空気が澱んでるぞ」
スンスンと鼻を鳴らしながら、慧音が家の中を見渡し始めます。
「そう、ですか」
「あぁ、酷いな。瘴気染みた澱み具合だ。お前達は良くこんな空気の中で生活出来るな」
「わたしは、わかりませんが」
「――お前、自分の事を私、なんて言ったっけ?」
『パパ』に廊下を歩かせつつ、メディは廊下の角から寝室の入口へと移動します。寝室に入るなりメディは『メアリ』と『ママ』を操って、敷きっ放しだった布団の中へと潜り込ませます。
全部を同時にやらなくちゃいけないなんて、目が回ってしまいそうでした。
なにせ、『パパ』の方も、『メアリ』と『ママ』の方も、交互に見なくてはいけないのですもの。
家に入って来た慧音の不信感は強まるばかりの様で、会話に耳を澄ませつつメディは気が気ではありません。
「むすめを、みてください」
「なんだ気持ち悪いな。操り人形でもあるまいし」
慧音のその言葉は、メディを酷くゾッとさせます。しかしもう二人は廊下の角を曲がり、後は寝室に入らせるばかりなのです。『メアリ』と『ママ』は布団の中に隠しました。忙しなく行動を重ねるメディを見つつ、スーさんはクスクスと笑っているばかりです。
寝室の入口で『パパ』の動きを止めて廊下の脇に寄せ、「このなか、です」と告げさせます。後は慧音が入って来るのを待つばかり。
もう『パパ』を操る必要は無いでしょう。メディは一番手前の布団の中に潜り込みました。スーさんも笑いを堪えつつ、箪笥の上にちょこんと座って、ただの人形の振りを始めます。
「中に入ればいいのか?」
慧音の声が廊下から聞こえますが、呆然と立ち尽くすばかりになった『パパ』は返事をしません。「……何だと言うんだ」と舌打ち交じりに呟きながら、慧音が寝室に入って来ます。メディはワザと掛布団の中で寝返りを打ち、自分の居る布団へと慧音を誘導します。
「つる? 起きてるか? 体調が悪いと聞いたが、大丈夫か?」
メディの入った布団に向けて、慧音が問いかけます。優しげな口調ではありましたが、言葉の端には苛立ちが含まれていました。それはむしろ、メディにとっては好都合だったのです。慧音が冷静だったら、きっと『パパ』との会話の時に、何かおかしい、と勘付かれていたに違いないのですもの。
布団の中の人物が何も返事をしないと判って、慧音は溜め息交じりに歩み寄って来ます。畳の上に膝を折り、掛布団を掴み、「つる?」と名前を呼びつつ布団を剥がします。
しかし中に居たのはつるではなく、メディでした。
毒霧を吹きかけようと慧音の方へと顔を向けたメディスン・メランコリーだったのです。
「――ッ! お前、昨日の!」
驚きに目を見開く慧音の隙を、メディが見逃す筈もありません。フーッと紫色の毒霧を慧音の顔に向けて吹きかけます。咄嗟の事で身をかわす事も出来ず、慧音もこの家の人々と同じく霧を吸い込んでしまいました。
――しかし。
「……っく!? 毒か!」
霧を吸い込んだにもかかわらず慧音は身体を仰け反らせ、自分の意志で立ち上がります。喉に手を当て、両目に涙を滲ませ、廊下まで飛び退いた慧音が激しく咳き込みました。メディの毒を吸っても、慧音は操られたりはしなかったのです。
「あれ!? 効かない!?」
「あれま。どうやら人間じゃ無かったみたいだねぇ」
「何よスーさん! そんな呑気な事を!」
掛布団を跳ね除けて、困惑するばかりのメディが立ち上がります。身体をくの字に曲げて咳き込んでいた慧音は涙の滲んだ両目を擦り、ギラリと凶悪な視線でメディを睨み付けます。その恐ろしさたるや、メディが思わずたじろいでしまう程でした。
「――そうか……どうにもおかしいと思ってたら、お前がこの家を牛耳ってたって訳か」
地獄の底から響いて来る様な慧音の低い声に震え上がりそうになるのを必死で堪え、メディは右方向へと走ります。即ち、部屋の中からでも、廊下に立たせていた『パパ』が見える位置に。
「わたしたちからめでぃごくばふがぁ!」
最早言葉になっていない怒声を上げながら、『パパ』が慧音に襲い掛かります。
『パパ』の両手はしっかりと慧音の首を掴み、そのまま締め上げようと腕の筋肉に力がこもりました。「ぐ……っ!? 八十吉……?」と、苦しそうに顔を歪めて『パパ』に問いかける慧音ですが、しかし慧音を縊ろうと全力を込める『パパ』の焦点は自分に定まってすら居ないと悟り、両手を前に出して『パパ』を操っているメディの方へと視線を移します。
「いけっ! 殺せっ! そのまま殺しちゃえっ!」
「――ク……ソ……」
慧音の両手が『パパ』の両手首を掴みます。しかし幾ら里の有力者とは言え慧音は女性。男性の腕力に敵う筈も無い……と、メディは既に勝利を確信していました。
けれどメディは必死な余り、スーさんの言葉を忘れてしまっていたのです。
慧音は人間じゃない、と言ったスーさんの言葉を。
「――許せ、八十吉!」
自分の首を絞める『パパ』の手首を掴んでいた慧音の両手にグッと力が入ったかと思うと、全力を出させていた筈の『パパ』の腕が、呆気なく慧音の首から剥がされました。メディは目を丸くしてその光景に戸惑い、必死で慧音の力に抗う様に『パパ』を操ります。しかし慧音は剥がした『パパ』の両手を自分の右手で束ね、それを横薙ぎに払って『パパ』の体勢を崩すと、肩から当て身を食らわせて『パパ』を廊下の端まで吹っ飛ばしました。そうしてメディは、もう『パパ』を操ることが出来なくなってしまったのです。
「なんでなんで!? この人強い!」
「あーらあらあら、年貢の納め時かもね」
「スーさん煩いってば!」
柏手を打つみたいにパンパン、と両手を合わせたスーさんですが、メディは彼女に視線を投げ掛ける余裕すらありません。
痛ましそうに廊下の端を見やっていた慧音がメディに向き直り、混じり気の無い敵意を湛えて大きく息を吐きます。羅刹の如き憤怒を体現する慧音に真っ向から立ち向かって、メディが勝てる訳もありません。
メディは寝室の壁際まで後退りをして、チラと布団へと目をやりました。
「――覚悟しろ、妖怪」
言いつつ、寝室の中に慧音が入って来ます。その時、掛布団がもぞもぞと動き、中から出て来た『メアリ』が慧音とメディの間に立ちはだかりました。
「――まって!」
「……つる?」
布団から突然出て来た『メアリ』の姿を見て、慧音は思わず立ち止まります。『メアリ』の顔や腕には痛々しい毒の傷が広がり、それを見た慧音はウッと息を詰まらせました。
「お前……その傷は……」
「このこは、わるくないの! このこは、わたしのだいじな、かぞく、なの! おねがい! このこに、らんぼう、しないで!」
「つる……?」
当然今もまだ『メアリ』はメディによって操られており、慧音が『メアリ』に気を取られている隙に、メディは身体の中のスズランの毒を吹きかける準備を整えていました。
より強く。より濃く。より毒性を高く。今度こそは、慧音を昏倒させる為に――。
「……っ! つるもか!」
『メアリ』の様子もおかしいと慧音が気付いた時には、もうメディの用意は整っていました。大きく息を吸い込み、作り物の体の中で練りに練った毒の霧を乗せて、勢い良く前に向けてメディが吐き出します。普段は薄い紫色の霧であるメディの毒は、濃度が高まった事で真夜中の雲よりも黒い霧へと姿を変えていました。
毒の噴霧を目の当たりにした慧音は、動線上に居た『メアリ』の身体を横へと押しやりました。しかしその為に自分は霧から逃げる事が叶わず、慧音の身体が黒い霧に飲み込まれます。濃密な毒が慧音の肌を焼き、そして爛れさせます。
しかし、それまででした。
吸い込みさえしなければ……という慧音の半ば捨て身な予想は見事に的中し、肌を焼かれながらも慧音は黒い霧の渦中を真っ直ぐに進み、そして伸ばされた彼女の右手が、メディの洋服をしっかりと掴みました。
「そんな!?」
「終わりだ」
掴んだメディの洋服を慧音が乱暴に引っ張り、そのままメディをうつ伏せに組み伏せてしまいました。手の平を毒が苛むのにも構わず、慧音は抜け目なくメディの左腕を締め上げ、もうメディは身動きを取ることが出来ません。
「放せ! 放せ、放せぇ! 折角見つけた家族なんだ! 私から家族を奪うな! 奪うな奪うな奪うな奪うな!」
「家族だと!? ふざけるな! こんな悪趣味な人形劇の何が家族だ!」
「嫌だ! 嫌だ! もう家族が居なくなるのは嫌だ! メアリを諦めるのは嫌だぁ! うわああああああああああん!!!!」
半狂乱なメディのその言葉に、スーさんは何も言おうとはしませんでした。
何も言わず、ただ慧音に組み敷かれているメディに憐れみの視線を向けていました。
「駄目だ」
メディの万策が尽きた事を悟った慧音が、冷徹に言い放ちます。
「お前は妖怪だ。人恋しさだろうが何だろうが、お前のやった事は許されない。私は、お前から人間を守る義務がある――っ!」
言いつつ慧音が思い切り頭を仰け反らせ、そしてメディの後頭部目掛けて強烈な頭突きを放ちました。
慧音の帽子が床に転がり、メディのちっちゃな頭は慧音の額と畳とに挟まれます。
如何に元はただの人形で作り物の身体でしかないとはいえ、痛みは痛み。意識は意識。痛覚を持つ生物が悉く、強過ぎる痛みから意識を保護する手段として持っている気絶という機能は、今や妖怪であるメディにもまた等しく訪れます。
「っくぅ……! 痛い……! そうか、コイツ人形か……クソ……痛たたたた……」
両手で額を押さえた慧音が、頭突きの反作用として当然訪れる自分自身の痛みに呻きながら、涙を滲ませました。
「畜生……畜生……」
徐々に薄れて行く意識の中で、メディが壁際で気を失っている『メアリ』に向けて、震える手を伸ばしました。
「――仲間が欲しけりゃ、人形でも集めろ。お前と同じ人形でもな。二度と人里に近づくな。もし次に同じことをやったら、私はお前を殺さなくちゃいかん」
帽子を拾いながら慧音が言い放った言葉が、メディが完全に気絶する直前に聞いた最後の言葉でした。
◆◆◆
さて。このお話ももう終わりに近づいている事ですし、今回メディが迷惑を掛けてしまった一家の事については触れておかねばならないでしょう。
気を失ったメディを里の外に放り出した慧音は、『パパ』こと八十吉、『ママ』ことサエ、そして『メアリ』ことつるの介抱を行いました。幸い八十吉とサエについては殆ど外傷も無く、里の医者の下で数時間後に意識を取り戻した二人は、どうして自分が医者に掛かっているのかを頻りに不思議がっていました。
一番メディに触れ、そしてメディに触れられたつるの毒の傷については、痛々しい見た目ほど重い怪我でも無く、軟膏を塗って冷やして置けば一週間もしない内にまた元通りに完治するだろうとの事でした。
そう言った点では一番怪我が重かったのは、メディの渾身の毒霧を浴びてしまった慧音だったのですが、そこは流石半獣半人といった所で、一日だけ寺子屋の勤務を休んで安静にしているだけで、もう次の日にはすっかり肌の爛れも治ってしまっていました。
三人ともメディスン・メランコリーという生まれたばかりの妖怪についての記憶はすっぽりと抜け落ちてしまっていて、事情を説明する慧音の方が困惑してしまう程でした。
「妖怪に操られていたんだぞ」と言っても「どうして里に妖怪なんかが入るんです?」と問い返しますし、「三人とも毒を吸い込まされていたんだが」と言っても「それにしちゃ気分も悪くないし、つるの怪我を除けば至って健康体なんですけれど……」と首を捻ります。
慧音に追い詰められた時の様に、本気で人に害を為そうとした訳では無い場合のメディの毒は、それほど人体に大きな影響を残したりはしないという事でしょうね。
被害者一家に記憶が無いとは言え、里に妖怪が侵入したという事実は明白。それなのに、慧音はその妖怪を殺さずに追い出しただけ、という事柄に対して、自警団の一部やタカ派よりの意見を持つ若い衆から文句が出たりもしました。
しかし慧音は頑として、
「生まれたばかりの妖怪を殺すような真似をして、それが妖怪側の反発を買ったらどうするつもりだ。妖怪が本気で報復活動に出たら、不可侵条約も人里の人間を喰わないルールも全て通用しなくなるぞ」
との意見を曲げなかったので、そもそも妖怪から里の人間を守った功労者である慧音を責める事の出来る立場に無かった一部の人間の意見は、大した騒ぎになる事も無く徐々に無くなっていきました。
――そして程なく、人里はまた元通りの生活に戻って行ったのでした。
そんないざこざがあったとは露とも知らず、スズラン畑に逃げ帰ったメディは、まだ花をつけていない草原に寝そべって、ボンヤリと空を眺めていました。
「ドンマイ、メディ。君は良くやったよ」
メディの胸の上でうつ伏せに寝転がっているスーさんが、ニヤニヤ笑いを浮かべながら言いました。気持ちの良い風が繁茂する草をサラサラと鳴らし、青空を漂う雲はのんびりと妖怪山の向こう側へと進んで行きます。
「……スーさんは、こうなる事判ってたね?」
心の中で雲の数を数えながら、メディがポツリとスーさんに問いました。
「当たり前でしょ? 存在が認められてない世界で、『メアリ・スー』が幸せになる事なんて出来やしないんだよ。必ず、外部からの反発があるもんなんだ」
「フン……」
全部お見通し、といった風情のスーさんの言葉に、メディは鼻を鳴らしました。判ってたなら『無駄だ』って教えてくれても良いのに……と思わなくも無かったのですが、きっとそう言われた所で、メディがそれを聞き入れたりはしなかったでしょう。それさえもスーさんはお見通しで、だからこそ何も言わずにただニヤニヤと笑っていたのです。
「気は済んだかい?」
「……まぁね。人間なんて嫌い。操らないと、お友達にも家族にもなってくれないって判ったもん」
「操らないと、か……それって本当は人形の役割なんだけどねぇ」
「――それでね、スーさん」
「なーに?」
「私、決めた」
「何を?」
「アイツが言ってたでしょ?」
「君が人形だって?」
「そう。だから私は、私と同じ人形を家族にするのよ。操られる事はいけない事だって判った。なのに私やスーさん以外の人形は、人間に操られているじゃない。不公平だわ。だから私は、全ての人形を人間から解放するの。今度こそ、私の本当の家族を作るのよ」
「ふーん」
メディの胸の上で寝返りを打ち、仰向けになったスーさんが空を見上げながら呟きます。
「――ま、それで君が幸せになる事を、祈ってるよ」
視界いっぱいの青空の端に、半分ほど欠けた真昼の月が昇っていました。穏やかな薫風は優しげなスズランの瘴気を纏って二人を包み込み、草や葉の触れ合う囁き声にも似た音色を奏でていました。
果たして、『メアリ・スー』をやめたメディスン・メランコリーの次なる野望は、実を結ぶのでしょうか? それはまた、別のお話になることでしょう。
ただ今は、居心地の良いスズラン畑で幸せそうにお昼寝をする二人の寄り添い合った姿を持って、このお話の幕を閉じたいと思います。
Fin
誰かの声が聞こえて来て、その子は目を覚ましました。
(目を覚ますですって?)
その子は何だか信じられないような思いで、自分に問い返します。
それもその筈。誰かの声が言った通り、彼女は単なる人形だったのですから。夢も見なければ、暖かな朝ごはんの用意も無い、大きなお人形でしかなかったのです。目を覚ますなんて事が出来る筈は無かったのです。
でもそのお人形は、確かに誰かの声で目を覚ましました。
セルロイドで出来た青い目で、雲が覆った真っ暗な夜空を眺めていました。
作り物の目で物を見るという事、作り物の耳で声を聞くという事、空っぽな筈の心が何かを考えているという事。
それら全ての新しい経験は、生まれたばかりの彼女にとって、クラクラしてしまう程の驚くべき発見でした。
そう。その子はたった今、このスズランが群生する花畑で、生まれたのです。
「お目覚めの気分はどう? 悪くない物だと良いんだけどね」
少し鼻に掛かった誰かの声は、悪戯好きなコマドリの様なシニカルな響きで人形の女の子に話しかけます。
(貴女は、だーれ?)
カチコチに強張った桜色の唇では喋る事が出来なかったので、人形の女の子は出来たばっかりの心の中で、そう問いかけました。フフフ、と冷笑的な声の持ち主は含み笑いをします。人形の女の子の視界に、小さな羽の生えたお人形がサッと踊り出て来ました。
「君と同じだよ。スズラン畑に捨てられた人形で、スズランの毒気で動くことが出来るようになった妖怪」
(ようかい?)
「そう。妖怪。そして、君もそうだよ。誰かに捨てられた球体関節ドールさん」
興味深そうな視線を、羽の生えた人形は、人形の女の子の身体に落としました。
「私と違って君は高価そうな人形なのに、捨てる事無いよねぇ? ふふん。かわいそ」
(可哀想?)
「君だって、昔は誰かの大切な人形だったんでしょう? 夢見がちな女の子の大切なお友達、もしくは妹だった筈だよね? それが今じゃ、雨や風の吹きさらすスズラン畑の廃棄物だ。ま、大切にされてかったんなら、わざわざ人間の捨て子みたいにスズラン畑に捨てられたりする筈もないけど、ゴミ捨て場だろうが赤子捨て場だろうが、捨てられた事には変わりないんだもんね。それが可哀想じゃないんなら、可哀想なんてネガティブな言葉はこの世から無くなるよ」
そう言って羽の生えた人形は、肩を竦めてクスクスと笑いました。
誰かの大切なお人形……。
まだ瞬きすら出来ない人形の女の子は、空っぽだった心でその誰かの事を考えました。
人形というのは人の形をしているからこそ、人の思いを吸い取りやすいのです。
心が無くても、物を考えなくても、誰かが人形に尽くした愛情は、知らず知らずの間に人形の中に蓄積されて行くのです。
だから、生まれたばかりの人形の女の子の中にもまた、その誰かの愛情の残滓が溜まっていました。
それは、女の子の姿。
小さくて、髪の毛は夕暮れの小麦畑みたいに輝く黄金色の女の子。
今は捨てられた人形の女の子にリボンを結わえてくれたり、髪の毛に櫛を通してくれたり、ぬいぐるみ達も参列するお茶会に招待してくれた、あの女の子。『ちっちゃなカチコチの妹さん』と、微笑みながら呼んでくれた、あの人間の子供。
人形の女の子は、その大切な女の子の事を覚えていました。自分と一緒に遊んでくれた女の子との思い出を。
その子の名前は、メアリ……。
(――違うよ)
人形の女の子は、羽の生えた人形に、心の中できっぱりと言いました。
「違う? 違うって、何がさ」
(メアリが、私を捨てる訳なんて無いよ)
「へぇ? じゃ、君はどうしてこんな所で寝てるんだい? 不思議な話だねぇ?」
(……きっとメアリは、私と逸れちゃったんだ)
「逸れただって。ふぅん」
羽の生えた人形は、ニヤニヤ笑いを浮かべて人形の女の子を見下ろします。
「根拠のない希望なんか持つもんじゃ無いよ。希望ってのは、麻薬みたいな物さ。持ったその瞬間は気持ち良くても、後から辛い思いをするだけってのが相場なんだから」
(そんなこと、無いよ……)
「ま、君がどう願おうと、どう辛い思いをしようと、私の責任じゃないから良いけどね」
ニヤニヤを右手で隠した羽の生えた人形は、人形の女の子の胸の上にペタンと座りました。座られた感覚を探る事は、生まれたばかりの人形の女の子にはまだ出来ませんでした。
(逸れたに決まってるもん……メアリは私を探してるに決まってるもん……)
「そうだねぇ。来ると良いねぇ?」
憐れみを湛えた視線で羽の生えた人形が、人形の女の子の青い目を見て来ました。人形の女の子は、『来ないに決まってるじゃん』と判った風な羽の生えた人形の言葉を、無視してやることにしました。
無視して、人形の女の子は空を見る事にしたのです。
重苦しい黒い雲は空をゆっくりと這い、所々に空いた隙間からは、微かに星屑が瞬いていました。綺麗だな、と思う人形の女の子の平らな胸の上で、羽の生えた人形は座る事をやめて、腹這いの姿勢で寝転がっています。キングサイズのベッドを手に入れた様な満足げな表情で、小さな両手を顎の下に添えて支えていました。
「君、名前はあるの?」
星がまた雲に隠れて見えなくなってしまった辺りで、羽の生えた人形が歌う様に聞いてきました。人形の女の子は、最初は無視を決め込もうとしましたが、星が見えなくなった事もあって、渋々答えます。
(……ちっちゃなカチコチの妹さん)
「A Little Rigid Sister……それは名前とは言えないねぇ。二つの形容詞と代名詞の寄せ集めだ。私が聞きたいのは固有名詞の事だよ」
フンフン、と鼻歌交じりに返す羽の生えた人形の言葉に、人形の女の子は混乱してしまいます。
(難しい言葉を使わないでよ)
「他に呼び名は無いのかな?」
(……無いよ)
「じゃ、私と同じだ」
羽の生えた人形が上半身を起こして、ポン、と嬉しそうに手を叩きました。
「私にも無いんだ。名前」
(どうして?)
「捨てられる前は、それ、とかあれ、とか言われてたからね。Itと名乗るのも、何だか味気なくて嫌でしょう? 可愛くないしね」
やれやれだよ――と、羽の生えた人形は溜め息を吐きます。その仕草は、シニカルな一面ばかりで人形の女の子に接してきた羽の生えた人形には似つかわしくない寂しさがあって、何だか可哀想だな、と人形の女の子は思いました。
(――じゃあ、私が名前を付けてあげる)
「本当?」
羽の生えた人形は身を乗り出します。
名前を付けられるというのは、存在を認めて貰えるという事。だから羽の生えた人形は、嬉しそうに作り物の目を輝かせていました。
確かに、その人形の事を呼ぶ時、一々『羽の生えた人形』なんて呼ぶのは、長くて嫌になりますものね。自分でも、『私は羽の生えた人形です』と自己紹介をするのは、良い気がしない事でしょう。他に羽の生えた人形が居たら、誰が誰だか判らなくなって困ってしまいますもの。もしかしたら、喧嘩になってしまうかも。
(うーん……どんな名前が良いかなぁ)
「小さな、とか、妹、とかそんな感じの名前を考えてるなら止めておくれよ? 仮にもこのスズラン畑で生まれた妖怪としては、私は君よりもお姉さんなんだからね」
(スズランかぁ……うん、決めた。それじゃ、貴女の名前は『スーさん』ね)
「……何だか、釣りが大好きな社長みたいだけど?」
(何の事? 良い名前じゃない。スーさん。もう決めた。貴女はスーさんよ。もうこれからは、貴女の事を私はスーさんって呼ぶね)
「……君、可愛らしい見かけによらず中々強情なんだねぇ」
スーさんと名前を付けられた羽の生えた人形は、苦笑いを浮かべつつ腕を組みます。
「でもま、良いか。君が折角考えてくれた名前なんだ。それに従おう」
一陣の風が、スズラン達をサラサラとそよがせます。まるで、名前の決まった羽の生えた人形を祝福する拍手みたいに、人形の女の子の作り物の耳には聞こえました。
(辺り一面のスーさんに囲まれて、スーさんとお喋り……中々素敵じゃない?)
「ちょっと待った。君はスズランの事もスーさんと呼ぶ気かい?」
(何か問題でもある? スズランが私に心とか思いとかをプレゼントしてくれたんでしょ? なら、スズランの事をただスズランなんて呼ぶのは、レディとしての礼儀に反するわ)
「いやでも……うーん……いや、良いか……一回決めたのを後からグチグチ言うのも何だしね……好きにすれば良いさ」
そう言ってお花じゃない方のスーさんは、名前の無い人形の女の子の胸の上で仰向けに寝転がりました。相変わらず雲は星屑を隠す様に空を満たし、サラサラとスズランを揺らして吹く風以外には音も無い夜のスズラン畑に、二人の人形は横たわっていました。
(ねぇ、スーさん)
「何かな?」
(私も、スーさんみたいに動ける様になるのかな?)
「君が動きたいと願うのならね」
(願う……)
「星に願いを、なんて空模様じゃないけどね。ただ私が思うに、願いってのは星が叶えてくれるもんじゃ無いんだ。青空だろうが、大雨だろうが、変わる事無く同じ願いを抱き続ける事の出来る奴だけが、願いを叶えられるんだからさ」
小さな頭の下に両手の枕を作ったスーさんは、フゥと溜め息を吐きました。秋口の夜に吹く風は人間にとっては冷たく寒く感じる物ですが、二人は人形だったのでへっちゃらです。
(私も、動けるようになりたいな)
「その内になれるさ」
(動けるようになって、歩けるようになって、飛べるようになって、そして私はメアリを探しに行くの! メアリがここを見つけられなくても、大丈夫なように)
「……そっか」
人形の女の子の希望に水を差すような言葉を、スーさんは口にしたりはしませんでした。何しろスーさんにとって、彼女は初めて出来た友達ですものね。スーさんも、人形の女の子も、一人が寂しいという事は痛い位に知っているのですから。
そしてその日から、人形の女の子が動けるようになる為の訓練が始まりました。
◆◆◆
作り物の身体が動くようになるまでは、とんでもない程の苦労が必要でした。
なにせ人間の子供とは違って、最初から自分の力で動く事の出来る様には作られていないのですもの。
心が出来たばかりの人形の女の子にとって、動く事も出来ずにスズラン畑で横になっている事は、とても退屈な時間でした。
雲が立ち込めれば、空を見て気を紛らわせることも出来なくなります。
雨が降れば、すぐ傍に居る筈のスーさんの姿すら、ぼやけて見えなくなります。
本当に私が動けるようになるのかしら? と、全然動く気配も無い自分の身体に首を傾げていた(動かないのですから、首を傾げたのも心の中での事です)人形の女の子ですが、ある雨の日に、セルロイドの瞳に落ちた雨粒を、彼女が瞬きで押し流している事にスーさんが気付き、「やっぱり動ける様になるんだよ。きちんと練習をすればね」と優しく彼女に語り掛けた事で、人形の女の子はスーさんの言う通りの練習を一からする事を決めました。
――本当は、ぼうっとしてれば動ける様になると思ってたのですが、世の中はそんなに簡単には上手くいかない様です。
最初は、指。
指の一本一本を、曲げたり伸ばしたりする事から始めました。
次に、首。
いつまでも空ばかりを見ているのでは飽きてしまいますもの。
首を曲げる事が出来る様になって、人形の女の子の見える世界は一気に広がりました。
そして次に、足。
歩く為には一番必要な部分ですが、当然足は指よりもずっと重いので、指の一本とは比べ物にならない時間が必要でした。
その次には、身体。
お腹の部分の屈伸運動。人形の女の子の重さの大部分を占める部分です。
ここが自由に動かせるようになれば、もう立ち上がるまではあと少し。
そして最後には、作り物の身体中の部位を、一緒に動かす練習。
足だけが動けば歩けるようになる訳では無いのです。お腹に力を入れないと後ろに転んでしまいますし、首をほったらかしにしていればすぐに背中の方へと折れてしまって、前を見て歩く事が出来ません。
どれくらいの時間を、人形の女の子は歩く練習に費やしたでしょうか。
咲き誇っていたスズランの花は枯れ、雪がチラつく日も増えて行きます。
積もった雪の中に倒れ込んでも身体が凍傷になってしまう事はありませんでしたが、その頃にはもう、人形の女の子は『冷たい』という感覚を理解出来るまでになっていました。
スーさんは、人形の女の子の頑張りをずっと見ていてくれました。
転べば「大丈夫かい?」と声を掛けてくれますし、挫けてしまいそうになれば「ここまで出来たんだ。あともう少しじゃないか。頑張って」と励ましてくれました。
「……動く、って、こん、なに難、しい、事な、のね」
ちょっと片言ではありましたが、喋る事が出来る様になっていた人形の女の子は、自分の桜色の唇を使って、励ましてくれたスーさんに返事をします。四歩を歩いた所でまた転んでしまった彼女の顔の前に、スーさんは歩み寄って来ました。
「君は私よりもボディが大きいからね。その分、時間も苦労も沢山必要なんだろう」
「……メアリ、は、私を見て、びっくり、してくれ、るかな?」
「…………まぁ、びっくりはするだろうね。きっと死ぬほどびっくりするだろう」
「ふふ……」
スーさんの台詞を言葉通りに捉えた人形の女の子は、カチコチの唇を曲げて笑います。
「早く、逢いたい、な……メアリ、今、どうしてる、かな」
再び立ち上がる為に、雪の中に両手を突いた人形の女の子が言います。
「あまり思い焦がれ過ぎると、メランコリーになるよ」と、スーさん。
「別に、それでも良い、もん。何だったら、それを、私の名前、にしちゃおう。良いでしょ? メディスン・メランコリー」
「メディスン……薬ねぇ……」
スーさんは辺り一面が雪景色になってしまったスズラン畑を見渡して、首を傾げました。
「ポイズンの方が良いんじゃないの?」
「あら、メディスン、には、魔法って意味、もあるのよ? 思い焦がれ、が、魔法を、呼んで、私は、メアリに、会いに行ける様に、なるの」
「……本当の意味でのメランコリーにならない事を祈ってるよ」
そうして新しく名前を手に入れた人形の女の子――メディスン・メランコリーは、更に更に、動く事への練習に明け暮れました。
毎日毎日、立ち上がり、少しの距離を歩き、そして、バランスを崩して倒れる事の繰り返し。その合間にもスーさんと沢山お話をする様に心がけ、少しずつ少しずつ、歩く事と喋る事が上達していきました。
――スーさんが居てくれなかったら、私は一体どうなっていたんだろう。
一面を白銀の世界に変えていた雪も融け、新しい緑が萌え出る季節になって、ふとメディは考えます。
スーさんが居なかったら、私は動ける様にはならなかったかもしれない。
話せるようにはならなかったかもしれない。
そう考えると、メディは酷くゾッとしました。
植物の方のスーさんも、羽の生えた人形の方のスーさんも、メディにとってはとても大切な存在になっていたのです。
「どうしてスーさんは、こんなに優しくしてくれるの?」
季節は、初夏。鳥たちが歌いながら空を滑り、春に芽吹いた草木の葉っぱは太陽の光を反射して、きらきらと輝く緑色に染まっていました。
その頃には、もうすっかりスムーズに喋る事も歩く事も出来る様になったメディが、今度は走る練習をしている最中、ふとスーさんに尋ねてみます。
こんなに良くしてくれているスーさんに、自分は何も恩返しが出来ていない。
それを考えるといつかスーさんが自分に飽きて、どこかへ行ってしまうのでは。と、メディは怖くなってしまったからです。
でもスーさんは肩を竦めて、メディの不安げな表情を笑います。
「友達が頑張ってるのを応援するのは、当たり前の話だと思わない?」
当たり前、なんて言葉を使ったスーさんですが、メディの目にはちょっと照れ臭そうな表情を浮かべている様に見えました。
もうすっかり二人のお人形は、切っても切れない程の大親友となっていたのです。
……スーさんと一緒に居れば、何でも出来るかもしれない。
たった一人のメディの大親友は、メディにとって掛け替えのない存在でした。
それはきっと、スーさんもまた同じ気持ちだったのでしょう。
なんせメディが生まれて以来何があっても、スーさんはメディの傍から一度だって離れた事は無かったのですから。
◆◆◆
走る練習も無事に終わり、メディは自分の作り物の身体を、すっかり自由に動かすことが出来る様になりました。
片足立ちで靴を履き直す事も、目を閉じたまま走ってみる事も出来ました。でんぐり返しですら、今のメディにはお茶の子さいさいです。
まだスーさんの様に自由に空を飛ぶ事は出来ていませんでしたが、それでも、メアリを探しに行く準備は整ったように思えました。
「そろそろ、メアリを探しに行こう」
ウキウキした気分でスーさんに持ちかけたメディですが、しかしスーさんの表情は苦々しい物でした。
「スズラン畑から出るつもりかい? スズランの瘴気が切れたら、また君は単なる『ちっちゃなカチコチの妹』に逆戻りするよ?」
「平気よ。少しくらい。スーさんの毒を体の中に貯めて置く方法も判ったし、その毒を手や足みたいに操る事も出来るんだから」
「過信は禁物だよメディ。それに、メアリが君を待っているとも限らないんだから」
「待っているに決まってるわ」
メディは浮かない顔のスーさんに、自信満々と言った面持ちで胸を張ります。
「動けるようになった私を見て、メアリはきっと青い目をまん丸にして驚くわ。そして今度はカチコチじゃなくって本当の妹みたいに、一緒にお茶を飲んだり、髪の毛をブラッシングしたりするの。私が、メアリの髪をブラッシングするのよ?」
「希望は少なめにしておくべきだね。それは人の足を前に進ませるエネルギーを持っているけれど、進んだ先が崖じゃないって保証はしてくれないんだから」
幾らメディを説得しても無駄だと悟ったスーさんは、溜め息交じりに言いました。
「さ、行きましょうスーさん。人が沢山居る所へ行けば、きっとメアリは見つかるわ」
「そうだね。見つかると良いね」
威勢よくスズラン畑の外へと歩き始めたメディの後ろを、スーさんは浮かない顔のままでついて行きました。
◆◆◆
人間の里への道のりは、スズラン畑から出た事の無い二人にとっては恐ろしく長い物の様に思えました。特にスーさんは、小さな体に貯め込んでいたスズランの毒が何度も切れてしまいそうになり、その度にメディから毒を分けて貰わなくてはなりませんでした。
「少しスーさんを摘んで来れば良かったわね」
砂利道の端に腰掛けて休みながら、メディは疲れた顔のスーさんの頭を撫でました。
「君一人じゃ危なっかしいから、お留守番をしている訳にも行かないしね……ふぅ」
「大丈夫?」
「あまり長い道を飛ぶのは疲れるから、君の肩に乗せてくれれば……いや、私が甘える訳にもいかないか……」
「なんだ、それくらいの事で良いの?」
メディは地面に座っていたスーさんの小さな体を抱きかかえ、自分の右肩の上にちょこんと座らせました。
「これで大丈夫?」
「大丈夫だけど……君は良いのかい? 重くはない?」
「重くなんてないし、仮に重くたって、幾らでも乗せてあげるわよ。私達、友達だもんね」
「……君は優しくて良い子だね」
「えへへー」
照れ笑いを浮かべつつ歩き始めたメディは、やっぱりスーさんの言葉の裏にある危惧に気付くことは出来ませんでした。
スーさんは、こんなに優しいメディはしかし、メアリに逢う事は十中八九出来ないだろうと知っていたのです。メアリに逢えず、項垂れるメディを見たくないと思っていたのです。
けれど、もうずっと一緒に居る仲ですもの。自分の目でメアリが居ない事を確認するまでメディは絶対に諦めないと判っていたからこそ、スーさんはメディのやりたいようにさせてあげようと決めていたのでした。
世の中にはどうしようも無い事が沢山あるって事を、スーさんだけは知っていました。
◆◆◆
やっとの思いで辿り着いた人間の里の入口には、見張りらしい若い男の人間が二人立っていました。動ける様になってから初めて人間を見たメディとスーさんは、木陰に隠れてジッとその人間の様子を観察していました。
「どうする? メディ」
メディの肩に乗ったスーさんが、小声でメディに尋ねて来ました。
「ありゃ多分、里の中に妖怪が入らない様に見張ってる人間だよ」
「どうして妖怪は入っちゃいけないの?」
「妖怪ってのは、人間を襲って食べるって相場が決まってるからね。食べられたい人間が居ないからこそ、妖怪が里の中に入りこむのは、人間にとっては困る訳だ」
メディは肩の上のスーさんから一度目を放し、二人の若い人間の方を見ました。一人はぼうっと空を眺めていて、もう一人は噛み締める事無く欠伸をしていました。その二人が二人とも長い棒を手に持っていて、アレで叩かれたら壊れちゃうかも、とメディは思いました。
「でも私は、人間を食べる為に里に入る訳じゃ無いよ」
「それを彼らが信じると思う?」
「話せば判るよ」
そう言って木陰から飛び出そうとしたメディを、「ちょちょちょ、ストップストップストップメディ!」と、スーさんが必死で止めます。
「何で?」
「言ったでしょ? 人間は、妖怪が人を食べると頭っから思い込んでるんだ。そんな怖い相手と、朗らかに話をしてくれる訳が無いだろう?」
「うーん……でも、一目見ただけで、私が妖怪だってバレちゃうかな? 私はメアリよりもちょっと小さい位だし、多分見た目は殆ど人間と変わらないと思うんだけど」
「……その球体関節を何とかしてから言ってくれる?」
メディの指や肘の関節を指差したスーさんが、軽く頭を抱えながら言いました。
「うーん……」
スーさんの言葉に納得してしまったメディは、また木陰に戻って座り込み、何か里の中に入る良い手段が無いかどうか考え込みました。
空を飛べればきっと楽なのでしょうけれど、生憎メディはまだ空を飛べません。空を飛べるスーさんに見て来て貰おうにもスーさんはメアリの顔を知りませんし、第一メディ自身がメアリに逢わなければ意味が無いのです。
可哀想なメディは、うんうん唸りながら良いアイディアが浮かぶのを待っていました。けれど、生まれたばかりで全然物事を知らないメディの頭では、きっと夜になっても良いアイディアなんて浮かばないでしょう。
「諦めて帰ったらどう?」
溜め息を吐いたスーさんが、メディの頬っぺたに優しく手を伸ばしました。
「今日は上手く行かなかったけれど、もしかしたら後で良いアイディアが浮かぶかもしれない。スズランの毒も、ここにずっと居たらきっとメディの分も切れちゃうよ」
毒……?
帰る為の言い訳でしかなかったスーさんのその言葉が、メディの中で何かと結びつきます。必死の努力の末に、操ることが出来るようになった毒。メディやスーさんにとっては居心地の良い瘴気も、人間にとっては害になるばかりの、毒……。
「――良い事思いついた」
「へ? 良い事? うわっ!」
突然立ち上がったメディの肩の上で転げ落ちそうになってしまったのを、スーさんはメディのキラキラした金髪に捕まって必死で堪えます。
「ちょっとメディ? どうするつもりだい?」
「良いから良いから」
メディは物陰に隠れることも無く堂々と、二人の見張りの前へと近づいていきました。片方の見張りがメディの姿に気付き、もう片方の見張りと何かを喋っています。肩の上のスーさんは、ハラハラしながらそれを見ていますが、メディは終始落ち着いていました。
そしてそのまま堂々と里の中に入ろうとしたメディは当然、歩み寄って来た二人の見張りによって行く手を阻まれてしまいました。
「お前、妖怪だな」
先ほどのボンヤリとした表情はどこへやら、片方の見張りが怖い顔をしてメディを睨み付けます。二人がいきなり手に持った棒で襲いかかって来なかったのは、メディが人の形をしていて、一応話が通じそうだと思ったからでしょう。
「そうよ? それが?」
「それが? じゃない。妖怪なら、里の不可侵条約は知っているだろう。ここに入れる妖怪は、絶対に里の人間に襲い掛からないと判断された一部の高位妖怪だけだ。見かけない顔だが、お前は慧音先生から許可を貰っては居ないだろう」
「けーね先生……?」
思わず首を傾げたメディに、二人の人間は一層怖い表情を浮かべました。
「だから入れる訳なんて無いって言っただろう。メディ。ほら、ごめんなさいって謝って、早く戻るんだ。じゃないと、棒で叩かれちゃうよ」
「あら、スーさん。私は謝ったりしないし、棒でも叩かれないし、里の中にも入れるわ」
ひそひそ声で肩の上のスーさんに耳打ちするメディを見て、二人の人間は変なモノを見る様な表情を浮かべました。
「――何だこの妖怪。一人でブツブツ言ったりして」
「どうでも構いやしないだろ。兎に角、追い返さないとダメだ。コイツは危険だろう」
「かもな……見た目はガキの人形だし、知能も低そうだ。なら、八雲の九尾様や風見幽香様みたいに里に入れる訳にはいかんよな」
二人の人間は、メディを放って相談を始めます。メディは、その隙を見逃したりしませんでした。
大きく息を吸って、体の中に貯めていたスズランの毒気を二人の顔目掛けて吐き出したのです。 紫色の霧がメディの桜色の唇から噴出し、二人の若者はアッと思う間もなく、その霧を吸い込んでしまいました。そしてその途端、二人の表情から生気が消え失せたのです。
手に持っていた棒を力なく取り落とし、ポカンと口を半開きにした二人の人間は、目を開けたままに、しかしどこを見ている訳でも無く立ち尽くしています。
「へへーん。成功」
メディが満足げに、ぼうっと立っている二人の人間を見て笑いました。
「……何したんだい? メディ」
自分が見ている物が信じられない、といった面持ちで、スーさんがメディに問いかけます。
「スーさんは人間にとって毒だって、スーさんは言ってたじゃない? だから、私の中に貯まってたスーさんの毒をスーさんが気付かない内にこの二人の人間に――」
「ちょい待ち、ちょい待ち。判んない判んない。私とスズランの呼び方が同じなせいで良く判らないから、その説明」
頭を左右に振るったスーさんが、溜め息交じりにメディに言います。
「――つまり、この二人を操りました」
「成程、判った。器用な真似が出来るもんだねぇ。メディは」
スーさんはメディの肩でホゥと感嘆の溜め息。動く事すらままならなかったメディは、スーさんも知らない内に、高い妖力を手にしていたのです。メディの成長ぶりに、スーさんは舌を巻くばかりでした。
「……さて、お二人さん?」
メディが呼びかけると、二人の人間の虚ろな視線が、メディに注がれました。
「中に入っても良い?」
「……どうぞ、どうぞ、めでぃなら、いつでも、すきなだけ、はいっていいんだよ」
「……めでぃは、いいこ、だからな、すきなだけ、さとのなかを、たんけんして、おいで」
酸欠の金魚みたいにパクパクと口を動かした二人が、メディに道を開けました。王女様に謁見した近衛兵の様な二人の挙動は、メディを実にウキウキとさせてくれました。もちろん、メディは二人に「ありがとう」とお礼を言う事を忘れません。レディの嗜みです。
「はぁ……初めてにしては素晴らしい効き目だねぇ……」
「なんて事ないわ。自分の身体を動かすのと大差無いもの」
「ふぅむ……メディの身体を動かしているのは毒だから、つまりメディにとって身体を動かす練習ってのは、そのまま毒を自在に操る練習と同義だった訳だね。成程、それなら毒の回った人間を操るのも、メディの人形の身体を動かすのも、理屈的には全く同じ作業な訳だ……」
「私、難しい事は判んないわ」
「いや何、私の独り言だと思ってくれて構わないよ」
堂々と里の中に入ったメディとスーさんは、ひそひそと話をしつつ、日中だからかそれほど人の姿も多くはない大通りを闊歩します。
里の人間は見慣れない妖怪の姿に眉をひそめますが、そもそも里の中に妖怪が入ること自体は珍しくないと見えて、特に気に留める風も無くメディとスーさんから目を逸らしました。
だってそもそも、入口には見張りが立っているのですもの。その見張りが騒ぐ様子も無くただ見慣れない妖怪が居るのを見ただけでは、本当はその妖怪には里へ入る権限が無いなんて、誰が思うでしょう。平和ボケとは怖いものですね。
「さて、メアリはどこに居るのかしら……」
キョロキョロと辺りを見回しながら、メディはメアリの姿を探します。元は作り物でしかないメディの胸の中は、期待でウキウキと弾んでいました。ここまで来るのに半年以上もの時間を費やしたのだから、期待がいや増すのも当然の事でした。
「メアリってのは、以前君が言ってた、君みたいな金髪の女の子なんだよね?」
メディの肩から降りて、またいつもの様に空を飛ぶスーさんがメディに問います。
「うん。綺麗な金髪なの。まるで夕焼け空の下で見る小麦畑みたいにキラキラした髪なのよ。私がその髪に櫛を通してあげるのよ」
「そうかい……でも、見渡す限りじゃ、まず金髪の人間自体が居ないように思えるね」
オデコに手をかざしたスーさんが、目を細めて大通りを歩く人間の姿を確認します。成程スーさんの言う通り、目に見える限りの人間は悉く真っ黒な髪の毛をしていました。
「うーん、そうね……ああいう真っ黒な髪の毛で、お話をしてる時に気が滅入ったりしないのかしら?」
「さてね。黒い髪を見るのに慣れてるのか、もしくは誰もが憂鬱な気分のまま生きて行くのを自然な事と思い込んでいるのかもね」
「んー、そんな生き方は嫌かも……あ、見てスーさん。あの女の子可愛いわね」
メディが、とある平屋の窓からボンヤリと空を見上げていた小さな女の子を指差しました。偶然メディと目が合ってしまったその女の子は、びっくりした様な表情を浮かべて家の中に引っ込み、窓をバタンと閉めきってしまいました。
「どれどれ……私には窓しか見えないけど、メディは窓の性別と年齢が判って、しかもその窓を可愛いと思う事が出来るって訳だ」
「違うわよ、もう! スーさんが見るの遅いから、女の子が隠れちゃっただけ!」
「ふぅん……妖怪が危険だっていう教育をきちんと受けてるんだね。でも、その可愛い女の子はメアリじゃないんだろう?」
「うん。髪の毛、黒かった……」
「黄色のペンキでも買っておく?」
「嫌よ。櫛がベトベトになっちゃうもの」
閉め切られた窓をジッと眺めつつ、ひそひそとメディとスーさんはそんなやり取りをしました。だからこそそんな二人が目に留まり、首を傾げながら歩み寄ってくる女の人の影に、メディもスーさんも気付くことが出来ませんでした。
「――お前」
突然背後から女の人の声が聞こえて、メディは飛び上がる程にびっくりしました。そして彼女が振り返ると、そこには夜明け前の空みたいに紺色で統一されたワンピースタイプの服と、ひっくり返した箱みたいな帽子を被った目付きの鋭い女の人が立っていました。
何を隠そうその人こそ、先ほど見張りの男の人が言っていた慧音先生という人だったのです。
「……なーに?」
「お前、妖怪だろう。どうしてここに居る? 私は、お前の事を知らないぞ」
「私も貴女の事、知らないわ」
首を傾げつつ、メディは慧音を見上げます。腰に手を当てる慧音は、メディを二人分縦に並べてもまだ足りない位の高い身長を持っていました。
「里の不可侵条約について、仲間の妖怪から聞いて無いのか? 大方どこぞから迷い込んだんだろうが、私の許可なしに里に入るのは駄目だ」
「どうして?」
「おいおいメディ……あんまり突っかかるもんじゃないよ」
メディの肩の上に舞い戻ったスーさんが、慌てたように耳打ちをします。
「でもスーさん、私、ふかしん何ちゃらなんて知らないし、この人は何も悪い事をしてない私を追い返そうとしてるんでしょ?」
メディがスーさんとお話をしているのを見て、慧音は先ほどの二人の人間と同じように、妙な表情を浮かべました。
何故ならスーさんの声は、メディにしか聞こえなかったのですもの。慧音の目には、メディが小さな羽の生えた人形を相手に独り言を言っているようにしか見えなかったのです。丁度幼い女の子が、ぬいぐるみを相手にお話をするみたいに。
「……成程、お前、生まれたばかりの妖怪なんだな」
大きな溜め息を吐いた慧音はしゃがみ込むと、ちっちゃなメディと目線を合わせました。
「良いか。まずお前は妖怪だ。そしてここは、人間の里だ。妖怪は人間を襲う。しかし、限られた空間であるこの幻想郷で、妖怪が無分別に人間を襲うと、人間は絶滅してしまう。そしてそうなれば、妖怪もまた絶滅するしか無くなるんだ。そうなってしまう事は、良くない事だ。だから人間と妖怪双方の為に、ルールと言う物があるんだ」
「るーる?」
「そう、ルール。約束事とも言うかな。その約束事というのはつまり人間を守る為、ひいては妖怪をも守る為にある。仮にお前が人を喰わないとしても、そのルールを破って貰っちゃ困る訳だ……ここまでは、判るな?」
うーん、とメディは少しの間、腕を組んで考えました。そして一応納得が出来たので、慧音に向かって頷きます。
「良し、偉いぞ……じゃあ、お前は今自分がここに居る事が、マズい事だってのも判ってくれるな?」
「……でも私、メアリを探さなくちゃなの。メアリは私のお姉さんなの。私はただ、メアリを見つけたいな、と思って、ここに来ただけなの」
スカートの端を指先で弄りながら、メディは小さな声で反論します。
「めあり? ふむ……その、めありというのは、妖怪か?」
「違うよ。人間の女の子。夕焼け空の下で見る小麦畑みたいにキラキラした金髪の、小さな女の子なのよ」
何やら考え込んでいる風の慧音を見たメディは、期待を込めてメアリの事を話しました。しかし、慧音はすぐに首を横に振ります。
「残念だが、そんな女の子はここには居ないな……恐らく、外の世界の住人なんだろう。可哀想だが、きっとここを探しても、幻想郷中を探し回っても見つからんだろう。さ、判ったら、行くぞ。里の外に連れて行ってやる」
「――嫌!」
差し伸べられた慧音の手を、メディは叩いて振り払います。慧音の手に、強い痛みが走りました。スズランの毒で動くメディの身体は、触るだけでかぶれたり爛れたりする毒なのです。
「嫌! 嫌よ! 私、メアリに逢いたいもん! メアリだって、私の事を待ってるはずだもん!」
「――メディ、ここは逆らうべきじゃないよ。大人しく従った方が身の為だ」
「嫌! スーさんまでそんな事言って! きっとこの人はメアリを隠してるんだわ! 私とメアリが逢うのが嫌なんだわ!」
「……聞き分けのない奴だ」
癇癪を起したメディを見て、払われた手を摩った慧音が溜め息を吐きます。そして問答無用にメディの襟を掴むと(そこはメディの身体では無いので、触っても平気だと見抜いたからでしょう)、里の出口へ向けてメディをずるずると引っ張って行きます。
当然メディは追い出されて堪るものかと抵抗するのですが、慧音とメディの力の差は歴然でした。慧音の方とは逆向きに走って逃げてしまおうとするのですが、引っ張られる力が強くて全然うまく行きません。終いには足を縺れさせて転んでしまい、もろに顔を地面にぶつけて泣き出してしまう始末。
声を上げてわんわん泣き喚くメディに気を使う様子も無く、慧音は淡々とメディのスカートを掴み直すと里の外まで引っ張ってしまいます。スーさんはその様子を、何とも言えない憐れみの表情を浮かべて見つめながらついて行きました。
「――あれ、慧音先生。どうしたんです? その子」
先ほどメディに操られた見張りの男が、首を傾げて慧音とメディを見つめます。とっくにスズランの毒は抜けてしまい、二人が二人とも、メディに操られていた前後の記憶を無くしてしまっていました。
「どこぞから紛れ込んだ妖怪だ。お前は入っちゃいかんと諭したんだが、聞き分けが無いから力づくで連れて来た」
「ほへぇ……相変わらず慧音先生は容赦ないですね……寺子屋に通っていた頃を思い出しますよ」
可哀想に嗚咽を漏らしつつも、慧音に抗おうと地面に爪を立てながら引きずられてきたメディを見て、見張りの片方が小さく笑いました。
「お前は遅刻の常習犯だったからな。少しは治ったろう?」
「いやぁ、おかげ様で。慧音先生の頭突きは人里の最終兵器ですからね。そんなんを何発も食らえば、地獄に住む獄卒の奴らだって真人間にさせられますよ」
「ふん。買い被り過ぎだ……まぁ、コイツは生まれたばっかりの妖怪らしいが、里には入れられない危険な存在だから、もしまた来ても、きちんと追い返してくれよ」
「もちろん! 仮に侵入を許しちまったら、素っ裸で里の大通りを十往復してやりますよ! な?」
「全くだ。単なる人間とは言え、見張りの大役を担ってるんですから信用して下さい」
と顔を見合わせつつ、既に素っ裸で里の大通りを十往復する権利を持つ二人は大声で笑いました。慧音は小さく笑うと、しゃくり上げるメディのスカートから手を放します。スーさんは顔を覆って泣いているメディの横に降り立つと、メディの頭を優しく撫でてやりました。
「可哀想だが、決まりは決まりだ。もう来るなよ」
メディの毒で少し爛れてしまった右手を労りながら、慧音は冷たい視線でメディに言い放ちました。そして振り返ることも無く、里の中へと戻って行きます。見張りの二人は地面に伏したままメソメソと泣き続けるメディを、少し居た堪れない気持ちで見ていました。
けれどやがてメディが立ち上がり、ダッと何処かへと走り去ってしまったのを見て、ホッとした様な表情を浮かべ、元通りに見張りの仕事を再開しました。
◆◆◆
「災難だったね、メディ。顔のパーツが壊れてたりはしない?」
スズラン畑に戻って来たメディに、スーさんが優しく問いかけました。
「――大丈夫」
体育座りをして少し鼻声のまま、真っ赤な目をしたメディが答えます。その様子はメディが人形と知らない人間が見たら、きっと普通の女の子だと思い込んでしまう位に人間染みていました。
二人が人里まで行って戻ってくる間に、もうすっかり夕方になってしまっていました。
まだ花の咲く気配も無いスズラン畑にはしかし、二人にとって居心地の良い瘴気が満ち満ちています。毒を操る術の無い人間にとっては、『何となく気持ち悪いな』としか思えないスズラン畑のその瘴気は、零れ落ちる夕焼けの紅を持ってしても晴らす事の出来ない澱みに溢れていました。
メディにとってもスーさんにとっても、素敵な気分になれる毒気の澱みです。
「追い返されちゃったねぇ」
「……うん、メランコリーだわ」
「自分の名前を安易に付けるからだよ」
「今からでもハピネスに改名したら受け入れてくれるかな? 良いかも、うん。ハピネス」
「unhappiness? 君って奴はそんなに虐げられたいの?」
「そうじゃなくて!」
ぐしぐし、と目頭を腕で擦ったメディが立ち上がりました。
何はともあれ、気を取り直した様子のメディを見て、スーさんは内心ホッとした気分になりました。
乱暴な方法だったとは言え、これでメディの気も済んだだろう。あの女の人(きっとアレが慧音先生という人なんだろう、とスーさんは気付いて居ましたが)もメアリはこの世界のどこにも居ないと教えてくれた。これでまたこのスズラン畑で、二人きりの慎ましい生活を送ることが出来るだろう。そう思ったからです。
しかし、立ち上がったメディは、またぞろスズラン畑の外へと向けて歩き始めます。
「おいおいメディ……一体どこへ行くつもりだい?」
慌ててスーさんが、メディの後を追います。
「良い事思いついたの」
「良い事? それは良かった。けれども、一体どこへ?」
「人間の里」
「――はぁ?」
懲りたとばかり思っていたメディのその言葉に、スーさんは肩を竦めます。
「また追い返されるだけだよ」
「堂々と里の道を歩いていたから見つかったんだわ。今度は忍び込む。ひっそりとね」
メディの視線は真っ直ぐ固定されたまま、ズンズンと早足で人里への道を逆戻りします。
「わざわざスズラン畑まで戻って来たのは、毒の補給かい……帰って来る道中には、また人里に戻るって決めてたんだね」
「そうよ。私、諦めないんだから」
「この世界にメアリは居ないと断言されたのに? はぁ……君の強情っぷりは知り尽くしてたつもりだったけどね、まさかここまでとは思ってなかったよ」
メディの横に並んで空を飛びながら、スーさんは天を仰いで大きな大きな溜め息を吐きます。やっぱりメディは、言い出したら聞かないのです。
「――仕方ないね。何を思いついたか知らないけれど、君の好きな様にやれば良いさ」
スーさんの願った慎ましやかな二人きりの生活は、まだ訪れてはくれない様です。
◆◆◆
さて。とっぷりと日の暮れた頃になって人里の前まで戻って来たメディとスーさんですが、やっぱり里の入口には見張り番が立っていました。
いえ、むしろ妖怪の活動が活発になる夜に見張りを立てない訳が無いのです。
先ほどの人間二人とはまた違う人間でしたが、二人とも篝火の下で先ほどと同じ様に長い棒を携えていました。そして更に、昼間には開け放たれていた里の入口には大きな門が渡されていたのです。
「――で、どうするんだい?」
昼間と同じ木陰に隠れて様子を伺っているメディに、ひそひそとスーさんが聞きました。
「きっと君の情報については、あの二人も聞いている筈だよ。なら、もうさっきみたいに近づいて行っても油断してはくれないだろうね。そもそも夜中の方が、警備の目は厳しいに決まってるし」
不安げにメディの横顔を見るスーさんとは裏腹に、メディは至って平気な顔です。
「フフン。『メディスン』の真骨頂を舐めて貰っちゃ困るわスーさん」
木陰に隠れたままのメディは、大きく息を吸い、そして大きく吐き出します。すると昼間と同じように、紫色の毒霧が彼女の桜色の唇から漏れ出て来ました。
「えー、オホン、オホン……さて、行くわよ」
闇夜に紛れて中空に漂う毒霧に向けて、メディは右手の人差し指をピンと立て、そしてクルクルと回しました。
「――コンパロ、コンパロ、毒よ行けー」
メディの言葉に促されるみたいに、吐き出された霧はゆっくり見張りの元へと空中をフワフワと漂って行きます。驚いて目をまん丸にしているスーさんはさておき、メディは真剣な表情で両手を動かし、毒霧を見張りに向けて誘導します。
大きな一塊だった毒霧は篝火の明かりに入る前に二つに分裂し、フワリと上空へと浮かび上がります。そして見張りの死角からゆっくりと下降して、二人の人間はやっぱりアッと思う間もなくメディの毒霧を吸い込んでしまいました。
「――驚いた……毒霧の遠隔操作まで出来る様になってたのかい。凄いね、メディは」
「えへへー、もっと褒めていいのよ?」
ボンヤリとした表情を浮かべて、そろそろと門を少しだけ開け始めた人間を見つつ、メディは誇らしげに胸を張ります。音も無く開いた門へと向かって歩き始めたメディを、スーさんが飛んで追いかけました。
「――それにしても……こんぱろ、って何だい?」
「あら、前にスーさんには言ったでしょ? メディスンには魔法って意味も有るのよ? ただ黙って毒を操るより、魔法の呪文があった方がロマンチックじゃない」
「まさかとは思うけどconvallatoxinから来てるのかい? スズラン含有の毒の名前の? なら、コンパロよりはコンバラの方が正しい気はするけれども」
「コンパロの方が可愛いでしょ。『コンバラ!』 だと、何だか厳めしいもん。ヨダレだらだらの牛魔人とか出て来そうだわ」
「それ? 理由それなの? 本気でそれだけ? 出ないよ。牛魔人なんて」
「何か問題でも?」
「……いや、君の好きにすれば良いと思うよ」
ノリと雰囲気と勢いだけな呪文の名付け方に少々スーさんが呆れつつも、メディに操られた人間が開けてくれた門の隙間を、二人は一緒に通り抜けました。
日が暮れ果ててしまったせいか、里の大通りには誰の姿も見当たりません。ポツン、ポツン、と焚かれている篝火と、家々からの仄かな暖かい明かりは、二人が見慣れた月や星の明かりよりも煌々と通りを照らしていました。
メディはどこか目的地がある様で、脇目も振らずにズンズンと通りを進んで行きます。
「どこへ行くんだい? メアリの手掛かりを見つけた様には見えなかったけど」
「んふふー。内緒よ。すぐに判るわ」
にっこりと笑ったメディは顔の横を飛ぶスーさんに向けて、人差し指を唇に寄せました。
そして、メディは一軒の平屋の前で立ち止まります。そこは昼間、メディが可愛らしい人間の女の子の姿を見つけた平屋でした。締め切られた窓の隙間から、薄らと蝋燭の明かりが漏れています。
「……ここは昼間の家かい? こんな所に何の用?」
「うん。まぁ、見てて」
言うとメディはその平屋の戸を、コンコン、とノックしました。
「――メディ?」
「大丈夫、大丈夫」
不安そうなスーさんを余所に、メディはもう一度ノックします。中から誰かが玄関に向かって歩み寄ってくる物音が聞こえ、やがて戸が横向きにスライドします。
「――どなた? こんな夜中に……」
言いつつ顔を出したのは、大人の女の人でした。彼女は自分の目線をキョロキョロと左右に探り、それから視線を下に向けて、両手を後ろ手に組んだメディの姿を認めました。
「こんばんは」
「――ッ! 貴女、妖怪……!」
驚きと恐怖に身を仰け反らせた女の人に、メディはフーッと紫の霧を纏った息を吹きかけました。とっさの事で身をかわす事も出来ず、女の人はメディの毒霧を吸い込み、ふにゃりと顔からは表情が消え失せてしまいます。
「……おい、サエ? 一体誰だったんだ?」
女の人の背後から、今度は大人の男の人が歩み寄って来ます。
「――ぱぱ、おきやく、さん、よ」
ゆっくりと後ろを向いた女の人の虚ろな言葉に、男の人は首を傾げます。
「は? ぱ……何だって?」
「さあ、はいって、めでぃ、きようからあなた、は、わたしたちの、こよ」
女の人に促されるまま(と言ってもメディが操っているのですが)、メディが家の中へと足を踏み入れます。首を傾げていた男の人の目が、驚愕に見開かれました。
「お前……! コイツは――」
すかさずメディは男の人に向けて、フーッと毒霧を吹きかけます。女の人と同じように男の人もメディの毒を吸い込み、だらしなく表情から険が無くなってしまいました。
「――いらっしやい、めでぃ、よくきたね、わたしが、きみの、あたらしい、ぱぱだよ」
「……成程、何となく君の考えが読めて来たよ」
スーさんがポツリと呟き、メディは振り返って悪戯っぽく彼女に笑いかけます。
「おねえさんに、あわせて、あげなくちや、ね」
「そうだね、まま、めでぃを、おねえさん、に、あわせて、あげよう」
操られた二人は片言の口調で言い合うと、ぎこちない挙動で家の奥へと歩き始めます。右手と右足を一緒に出したり、首がガクガクと危なっかしく揺れたり。その動き方は、まだ満足に歩く事が出来なかった時のメディにそっくりでした。
廊下の角を曲がって二つ目の襖から人の居る気配がします。
――きっとここが寝室か、あの女の子の部屋なのね。
そう思ったメディはまず女の人を操って襖を開けさせ、こっそりと中の様子を柱の陰から確認しました。畳の上には布団が三組並べられ、その真ん中の布団だけが少し盛り上がっています。女の子は、もう眠っている様でした。
メディはそのまま女の人を部屋の中へと移動させ、女の子の横に座らせました。両足が両足とも投げ出された変な座り方です。そして女の人は両手で布団の盛り上がった部分を掴み、随分乱暴な動きで女の子を揺り動かします。女の人の首は真上を向いていたので、その動き方は正気の人間が見たらゾッとする類の物だった事でしょう。
「おきて、おきて、おきて、おきて、おきて、おきて、おきて、おきて、おきて」
何度も繰り返した所で布団の中がもぞりと動いたのを確認したメディは、女の人に掛布団を跳ね除けさせました。身を丸めていた女の子は寝ぼけ眼で体を起こすと、両目を擦りながら女の人を見上げます。
「……なーに? どうかしたの……お母さん」
「あなたの、いもうとが、きましたよ」
「……え? 何、言ってるの……?」
まだ夢見心地の女の子は、トロンとした表情で首を傾げます。
「さあ、おいで、めでぃ」
女の人が空気を引っ掻くような動きで、部屋の外のメディを呼びました。男の人と一緒に部屋の中に入って来たメディを見て、女の子はハッキリと目を覚まして息を飲みます。
「お、お母さん……? お父さん……?」
不安げに両親の顔を見比べる女の子ですが、虚ろな視線が女の子と合う事はありません。
「きようから、あなたの、いもうとの、めでぃすん・めらんこりぃよ」
「知らない……知らない……い、妹って……どういう事……? お父さん? お母さん?」
歩み寄って来たメディを見て今にも泣き出さんばかりの女の子ですが、両親の様子が変な事と恐怖からか、立ち上がる事すら出来ない様子で父親と母親の顔を見比べるばかりでした。
「こら、めあり、きちんと、いもうと、に、あいさつ、しなさい」
「そうだぞ、めあり、ちやんと、あいさつ、しなさい」
「め、め……? め?」
「――今日から貴女が、私のメアリになるのよ」
女の子の前に正座したメディは、やっぱり女の子に向けて紫の霧をフーッと吹きかけました。彼女の表情から怯えも、恐れも、困惑も、不安も、何もかもが消え失せました。
「――うわあい、めでぃだ、めでぃ、じやない、やっと、かえってきて、くれた、のね」
女の子がメディの身体を抱きしめます。メディの素肌に触れた部分が少しずつ爛れ、頬ずりをした女の子の顔にも痛ましい火傷の様な傷が浮かび上がりました。
「ずっと、ずっと、あなたのこと、さがして、たのよ」
「……うん。ありがとう。遅れちゃって、御免なさい」
「おめでとう、めあり、めでぃ」
「めでぃ、めあり、おめでとう」
そう言って男の人と女の人が拍手を始めました。リズムも、叩いて音を出す場所も(女の人は両手の甲同士を叩き合わせていましたし、男の人は折れ曲がった指が手の平に突き立っていました)、何もかもがチグハグな拍手でしたが、誰もその事をおかしいとは思いませんでした。
「ありがとう。パパ、ママ、これからは家族四人で、幸せに生きて行こうね」
メディがニッコリと幸せそうに笑い、スーさんはニヤニヤ笑いを浮かべながらその異常な光景を、ただただジッと見つめていました。
◆◆◆
「やれやれ、それにしても良くやるよメディは……人形が人間を操るだなんて、何ともエスプリに富んだブラックジョークじゃないか」
口角の吊り上った表情を片手で隠しながら、スーさんがメディに言います。
「何よスーさん。何か間違ってる?」
寝室でメディは『メアリ』の髪の毛に櫛を通しながら、肩を竦めました。虚ろな表情の『メアリ』は見る見る増えて行く毒の傷にも痛そうな顔一つせず、ただメディにされるがままにしているばかりです。
メディが遊んでいる内にすっかり夜も更け、日の光が差し込む寝室の外からは鳥のさえずりが聞こえて来ます。清々しい朝でした。そしてメディの気分もまた、そんな朝に似つかわしく、とてもとても清々しい物でした。
「いーや? 自然だと思うよ? 代替行為なんて、生まれたばかりの妖怪にしちゃ随分人間染みてるじゃないか」
「仕方ないじゃない。この世界にメアリが居ないのなら、私が作るしかないじゃない」
「元々成立していた家庭に、無理矢理自分の居場所を作る……いやはや。こりゃ、何とも良く出来た『メアリ・スー』だねぇ」
スーさんは寝室の隅で投げ出される様に横たわった『パパ』と『ママ』を見て、くつくつと忍び笑いをして肩を揺らします。
「幸せになれるんなら、問題ないじゃない」
「幸せになれるのなら……」
「何?」
「いやいや、何でもないさ。私は君の幸せを祈ってるよ」
肩を竦めたスーさんは寝室に置いてあった箪笥の上へと移動し、腰を下ろしました。
「……変なスーさん」
メディが『メアリ』の手に櫛を持たせ、今度は自分の髪の毛をブラッシングして貰おうとした所で、表の玄関の戸が荒々しくノックされる音が聞こえて来ました。
「――おい! つる! 八十吉! 居ないのか!?」
怒鳴る様な声は、昨日メディを里から追い返した慧音の物でした。
「おやおや、昨日の女の人が来たようだよ? どうする?」
この状況を楽しんでいる様なスーさんの声に、メディは小さく溜め息を吐きます。
「……追い返すよ。決まってるじゃない」
全くもって不機嫌そうな表情を浮かべたメディがパチン、と指を鳴らすと、それまでペタンと座っていた『メアリ』は糸が切れた様に布団に倒れ、代わりに『パパ』がむっくりと立ち上がりました。ドンドンと荒々しいノックの音は、ちっとも止む気配がありません。
『ママ』と『メアリ』の気を失わせたまま、メディは『パパ』と一緒に寝室を出て、『パパ』に慧音を追い返させる事にしました。男の人の方が、慧音を追い返すのに都合が良いだろうと思ったのです。
自分は物陰に隠れて、メディは『パパ』に家の戸を開けさせます。腕を組んだ慧音の厳めしい顔が、メディの目にもはっきりと窺えました。
「……なにか」
「何かじゃないだろ痴れ者が。お前仕事はどうしたんだ? 料理人が居ないんじゃ店が開けん、と食堂の女将さんがカンカンだぞ。つるも寺子屋に来てないし」
「しごと、ですか」
「そうだ。私も一緒に謝ってやるから、行くぞ。それに、つるはどうした? 休みの連絡なんか貰ってないぞ」
「さーて、困ったねメディ? どう切り抜ける?」
「ちょっと黙ってて! 今考えてるんだから!」
ひそひそ声のスーさんに、メディは鋭く返します。眉根に皺をよせ、ボロが出ない様に懸命に『パパ』を操ります。
「すこし、からだが、よくないんです、つるも」
「つるも? 昨日はあんなに元気だったのに? ふむ……確かにお前さんも顔色は悪いな」
首を傾げた慧音が繁々と『パパ』の顔を眺めます。バレやしないかとメディはひやひやしました。
「はい、かえって、くれませんか」
「いや、帰らん。体調が悪いにせよ、きちんと連絡をするのが筋だろう。一言すら言えない位に酷い様にも見えんしな」
そう言って慧音は『パパ』の腕を掴み、外へ引っ張って行こうとします。メディは慌てて『パパ』にその手を振り払わせました。慧音の眉根に深い皺が寄り、視線は如何にも訝しげです。
「……何だお前。行けない理由でもあるってのか? え?」
「おっほ。頑固な人だね」
「むー……」
メディは苛々と髪の毛を掻き上げます。そして小さな溜め息を吐き、『パパ』を家の中へと戻しました。突然背を向けられた慧音は「おい八十吉、ふざけるのも大概にしておけよ?」と、おかんむりです。
「どうするんだい? 追い返せてない様に見えるけれどもねぇ」
「あの人も、私の家族になって貰う」
「ふぅん? 大丈夫かい? 随分な強硬手段だね」
必死な表情のメディは、スーさんの軽口に返事もせず、『パパ』に慧音の腕を掴ませました。
「ちよっと、きてください」
「なんだいきなり。どうした?」
何の前触れも無く家の中に連れ込まれそうになり、慧音は困惑顔です。
「ちよっと、むすめのようすを、みてほしい、のです」
「何だと? そんなに悪いのか? つるは。医者でも呼ぶか?」
戸口でグイグイと引っ張られる力に抗いつつ、慧音が返します。『パパ』は、ぎこちない仕草で首を横に振りました。
「いえ、あなたでなきや、だめ、なんです」
「痛っ……引っ張るな! 痛いだろ!」
「きてください」
「あーあー判った判った! 離せ手を!」
『パパ』の手を振りほどき、慧音は苛々と溜め息を吐きました。
「……見たら、納得するんだな?」
「はい」
「仕方ない、邪魔するぞ。案内しろ」
「はい」
「――やった!」
玄関口へと足を踏み入れ、履物を脱ぎ始めた慧音を見てメディが小さくガッツポーズをしましたが、その後ろでスーさんは相変わらずニヤニヤ笑いを浮かべて、楽しそうにこの状況を眺めていました。
慧音に姿を見られない様にコッソリと廊下の角へと移動しながら、メディは『パパ』を操って慧音の先導をさせました。
『メアリ』や『ママ』の様にただ気絶させているだけならばまだしも、人間を操って動かすためには、メディがきちんと相手を見ていないといけないのです。慧音の視界に自分が入らない様、なおかつ『パパ』の挙動が不自然になり過ぎない様に『パパ』を操る事は、至難の業でした。
「何だ? お前の家。妙に空気が澱んでるぞ」
スンスンと鼻を鳴らしながら、慧音が家の中を見渡し始めます。
「そう、ですか」
「あぁ、酷いな。瘴気染みた澱み具合だ。お前達は良くこんな空気の中で生活出来るな」
「わたしは、わかりませんが」
「――お前、自分の事を私、なんて言ったっけ?」
『パパ』に廊下を歩かせつつ、メディは廊下の角から寝室の入口へと移動します。寝室に入るなりメディは『メアリ』と『ママ』を操って、敷きっ放しだった布団の中へと潜り込ませます。
全部を同時にやらなくちゃいけないなんて、目が回ってしまいそうでした。
なにせ、『パパ』の方も、『メアリ』と『ママ』の方も、交互に見なくてはいけないのですもの。
家に入って来た慧音の不信感は強まるばかりの様で、会話に耳を澄ませつつメディは気が気ではありません。
「むすめを、みてください」
「なんだ気持ち悪いな。操り人形でもあるまいし」
慧音のその言葉は、メディを酷くゾッとさせます。しかしもう二人は廊下の角を曲がり、後は寝室に入らせるばかりなのです。『メアリ』と『ママ』は布団の中に隠しました。忙しなく行動を重ねるメディを見つつ、スーさんはクスクスと笑っているばかりです。
寝室の入口で『パパ』の動きを止めて廊下の脇に寄せ、「このなか、です」と告げさせます。後は慧音が入って来るのを待つばかり。
もう『パパ』を操る必要は無いでしょう。メディは一番手前の布団の中に潜り込みました。スーさんも笑いを堪えつつ、箪笥の上にちょこんと座って、ただの人形の振りを始めます。
「中に入ればいいのか?」
慧音の声が廊下から聞こえますが、呆然と立ち尽くすばかりになった『パパ』は返事をしません。「……何だと言うんだ」と舌打ち交じりに呟きながら、慧音が寝室に入って来ます。メディはワザと掛布団の中で寝返りを打ち、自分の居る布団へと慧音を誘導します。
「つる? 起きてるか? 体調が悪いと聞いたが、大丈夫か?」
メディの入った布団に向けて、慧音が問いかけます。優しげな口調ではありましたが、言葉の端には苛立ちが含まれていました。それはむしろ、メディにとっては好都合だったのです。慧音が冷静だったら、きっと『パパ』との会話の時に、何かおかしい、と勘付かれていたに違いないのですもの。
布団の中の人物が何も返事をしないと判って、慧音は溜め息交じりに歩み寄って来ます。畳の上に膝を折り、掛布団を掴み、「つる?」と名前を呼びつつ布団を剥がします。
しかし中に居たのはつるではなく、メディでした。
毒霧を吹きかけようと慧音の方へと顔を向けたメディスン・メランコリーだったのです。
「――ッ! お前、昨日の!」
驚きに目を見開く慧音の隙を、メディが見逃す筈もありません。フーッと紫色の毒霧を慧音の顔に向けて吹きかけます。咄嗟の事で身をかわす事も出来ず、慧音もこの家の人々と同じく霧を吸い込んでしまいました。
――しかし。
「……っく!? 毒か!」
霧を吸い込んだにもかかわらず慧音は身体を仰け反らせ、自分の意志で立ち上がります。喉に手を当て、両目に涙を滲ませ、廊下まで飛び退いた慧音が激しく咳き込みました。メディの毒を吸っても、慧音は操られたりはしなかったのです。
「あれ!? 効かない!?」
「あれま。どうやら人間じゃ無かったみたいだねぇ」
「何よスーさん! そんな呑気な事を!」
掛布団を跳ね除けて、困惑するばかりのメディが立ち上がります。身体をくの字に曲げて咳き込んでいた慧音は涙の滲んだ両目を擦り、ギラリと凶悪な視線でメディを睨み付けます。その恐ろしさたるや、メディが思わずたじろいでしまう程でした。
「――そうか……どうにもおかしいと思ってたら、お前がこの家を牛耳ってたって訳か」
地獄の底から響いて来る様な慧音の低い声に震え上がりそうになるのを必死で堪え、メディは右方向へと走ります。即ち、部屋の中からでも、廊下に立たせていた『パパ』が見える位置に。
「わたしたちからめでぃごくばふがぁ!」
最早言葉になっていない怒声を上げながら、『パパ』が慧音に襲い掛かります。
『パパ』の両手はしっかりと慧音の首を掴み、そのまま締め上げようと腕の筋肉に力がこもりました。「ぐ……っ!? 八十吉……?」と、苦しそうに顔を歪めて『パパ』に問いかける慧音ですが、しかし慧音を縊ろうと全力を込める『パパ』の焦点は自分に定まってすら居ないと悟り、両手を前に出して『パパ』を操っているメディの方へと視線を移します。
「いけっ! 殺せっ! そのまま殺しちゃえっ!」
「――ク……ソ……」
慧音の両手が『パパ』の両手首を掴みます。しかし幾ら里の有力者とは言え慧音は女性。男性の腕力に敵う筈も無い……と、メディは既に勝利を確信していました。
けれどメディは必死な余り、スーさんの言葉を忘れてしまっていたのです。
慧音は人間じゃない、と言ったスーさんの言葉を。
「――許せ、八十吉!」
自分の首を絞める『パパ』の手首を掴んでいた慧音の両手にグッと力が入ったかと思うと、全力を出させていた筈の『パパ』の腕が、呆気なく慧音の首から剥がされました。メディは目を丸くしてその光景に戸惑い、必死で慧音の力に抗う様に『パパ』を操ります。しかし慧音は剥がした『パパ』の両手を自分の右手で束ね、それを横薙ぎに払って『パパ』の体勢を崩すと、肩から当て身を食らわせて『パパ』を廊下の端まで吹っ飛ばしました。そうしてメディは、もう『パパ』を操ることが出来なくなってしまったのです。
「なんでなんで!? この人強い!」
「あーらあらあら、年貢の納め時かもね」
「スーさん煩いってば!」
柏手を打つみたいにパンパン、と両手を合わせたスーさんですが、メディは彼女に視線を投げ掛ける余裕すらありません。
痛ましそうに廊下の端を見やっていた慧音がメディに向き直り、混じり気の無い敵意を湛えて大きく息を吐きます。羅刹の如き憤怒を体現する慧音に真っ向から立ち向かって、メディが勝てる訳もありません。
メディは寝室の壁際まで後退りをして、チラと布団へと目をやりました。
「――覚悟しろ、妖怪」
言いつつ、寝室の中に慧音が入って来ます。その時、掛布団がもぞもぞと動き、中から出て来た『メアリ』が慧音とメディの間に立ちはだかりました。
「――まって!」
「……つる?」
布団から突然出て来た『メアリ』の姿を見て、慧音は思わず立ち止まります。『メアリ』の顔や腕には痛々しい毒の傷が広がり、それを見た慧音はウッと息を詰まらせました。
「お前……その傷は……」
「このこは、わるくないの! このこは、わたしのだいじな、かぞく、なの! おねがい! このこに、らんぼう、しないで!」
「つる……?」
当然今もまだ『メアリ』はメディによって操られており、慧音が『メアリ』に気を取られている隙に、メディは身体の中のスズランの毒を吹きかける準備を整えていました。
より強く。より濃く。より毒性を高く。今度こそは、慧音を昏倒させる為に――。
「……っ! つるもか!」
『メアリ』の様子もおかしいと慧音が気付いた時には、もうメディの用意は整っていました。大きく息を吸い込み、作り物の体の中で練りに練った毒の霧を乗せて、勢い良く前に向けてメディが吐き出します。普段は薄い紫色の霧であるメディの毒は、濃度が高まった事で真夜中の雲よりも黒い霧へと姿を変えていました。
毒の噴霧を目の当たりにした慧音は、動線上に居た『メアリ』の身体を横へと押しやりました。しかしその為に自分は霧から逃げる事が叶わず、慧音の身体が黒い霧に飲み込まれます。濃密な毒が慧音の肌を焼き、そして爛れさせます。
しかし、それまででした。
吸い込みさえしなければ……という慧音の半ば捨て身な予想は見事に的中し、肌を焼かれながらも慧音は黒い霧の渦中を真っ直ぐに進み、そして伸ばされた彼女の右手が、メディの洋服をしっかりと掴みました。
「そんな!?」
「終わりだ」
掴んだメディの洋服を慧音が乱暴に引っ張り、そのままメディをうつ伏せに組み伏せてしまいました。手の平を毒が苛むのにも構わず、慧音は抜け目なくメディの左腕を締め上げ、もうメディは身動きを取ることが出来ません。
「放せ! 放せ、放せぇ! 折角見つけた家族なんだ! 私から家族を奪うな! 奪うな奪うな奪うな奪うな!」
「家族だと!? ふざけるな! こんな悪趣味な人形劇の何が家族だ!」
「嫌だ! 嫌だ! もう家族が居なくなるのは嫌だ! メアリを諦めるのは嫌だぁ! うわああああああああああん!!!!」
半狂乱なメディのその言葉に、スーさんは何も言おうとはしませんでした。
何も言わず、ただ慧音に組み敷かれているメディに憐れみの視線を向けていました。
「駄目だ」
メディの万策が尽きた事を悟った慧音が、冷徹に言い放ちます。
「お前は妖怪だ。人恋しさだろうが何だろうが、お前のやった事は許されない。私は、お前から人間を守る義務がある――っ!」
言いつつ慧音が思い切り頭を仰け反らせ、そしてメディの後頭部目掛けて強烈な頭突きを放ちました。
慧音の帽子が床に転がり、メディのちっちゃな頭は慧音の額と畳とに挟まれます。
如何に元はただの人形で作り物の身体でしかないとはいえ、痛みは痛み。意識は意識。痛覚を持つ生物が悉く、強過ぎる痛みから意識を保護する手段として持っている気絶という機能は、今や妖怪であるメディにもまた等しく訪れます。
「っくぅ……! 痛い……! そうか、コイツ人形か……クソ……痛たたたた……」
両手で額を押さえた慧音が、頭突きの反作用として当然訪れる自分自身の痛みに呻きながら、涙を滲ませました。
「畜生……畜生……」
徐々に薄れて行く意識の中で、メディが壁際で気を失っている『メアリ』に向けて、震える手を伸ばしました。
「――仲間が欲しけりゃ、人形でも集めろ。お前と同じ人形でもな。二度と人里に近づくな。もし次に同じことをやったら、私はお前を殺さなくちゃいかん」
帽子を拾いながら慧音が言い放った言葉が、メディが完全に気絶する直前に聞いた最後の言葉でした。
◆◆◆
さて。このお話ももう終わりに近づいている事ですし、今回メディが迷惑を掛けてしまった一家の事については触れておかねばならないでしょう。
気を失ったメディを里の外に放り出した慧音は、『パパ』こと八十吉、『ママ』ことサエ、そして『メアリ』ことつるの介抱を行いました。幸い八十吉とサエについては殆ど外傷も無く、里の医者の下で数時間後に意識を取り戻した二人は、どうして自分が医者に掛かっているのかを頻りに不思議がっていました。
一番メディに触れ、そしてメディに触れられたつるの毒の傷については、痛々しい見た目ほど重い怪我でも無く、軟膏を塗って冷やして置けば一週間もしない内にまた元通りに完治するだろうとの事でした。
そう言った点では一番怪我が重かったのは、メディの渾身の毒霧を浴びてしまった慧音だったのですが、そこは流石半獣半人といった所で、一日だけ寺子屋の勤務を休んで安静にしているだけで、もう次の日にはすっかり肌の爛れも治ってしまっていました。
三人ともメディスン・メランコリーという生まれたばかりの妖怪についての記憶はすっぽりと抜け落ちてしまっていて、事情を説明する慧音の方が困惑してしまう程でした。
「妖怪に操られていたんだぞ」と言っても「どうして里に妖怪なんかが入るんです?」と問い返しますし、「三人とも毒を吸い込まされていたんだが」と言っても「それにしちゃ気分も悪くないし、つるの怪我を除けば至って健康体なんですけれど……」と首を捻ります。
慧音に追い詰められた時の様に、本気で人に害を為そうとした訳では無い場合のメディの毒は、それほど人体に大きな影響を残したりはしないという事でしょうね。
被害者一家に記憶が無いとは言え、里に妖怪が侵入したという事実は明白。それなのに、慧音はその妖怪を殺さずに追い出しただけ、という事柄に対して、自警団の一部やタカ派よりの意見を持つ若い衆から文句が出たりもしました。
しかし慧音は頑として、
「生まれたばかりの妖怪を殺すような真似をして、それが妖怪側の反発を買ったらどうするつもりだ。妖怪が本気で報復活動に出たら、不可侵条約も人里の人間を喰わないルールも全て通用しなくなるぞ」
との意見を曲げなかったので、そもそも妖怪から里の人間を守った功労者である慧音を責める事の出来る立場に無かった一部の人間の意見は、大した騒ぎになる事も無く徐々に無くなっていきました。
――そして程なく、人里はまた元通りの生活に戻って行ったのでした。
そんないざこざがあったとは露とも知らず、スズラン畑に逃げ帰ったメディは、まだ花をつけていない草原に寝そべって、ボンヤリと空を眺めていました。
「ドンマイ、メディ。君は良くやったよ」
メディの胸の上でうつ伏せに寝転がっているスーさんが、ニヤニヤ笑いを浮かべながら言いました。気持ちの良い風が繁茂する草をサラサラと鳴らし、青空を漂う雲はのんびりと妖怪山の向こう側へと進んで行きます。
「……スーさんは、こうなる事判ってたね?」
心の中で雲の数を数えながら、メディがポツリとスーさんに問いました。
「当たり前でしょ? 存在が認められてない世界で、『メアリ・スー』が幸せになる事なんて出来やしないんだよ。必ず、外部からの反発があるもんなんだ」
「フン……」
全部お見通し、といった風情のスーさんの言葉に、メディは鼻を鳴らしました。判ってたなら『無駄だ』って教えてくれても良いのに……と思わなくも無かったのですが、きっとそう言われた所で、メディがそれを聞き入れたりはしなかったでしょう。それさえもスーさんはお見通しで、だからこそ何も言わずにただニヤニヤと笑っていたのです。
「気は済んだかい?」
「……まぁね。人間なんて嫌い。操らないと、お友達にも家族にもなってくれないって判ったもん」
「操らないと、か……それって本当は人形の役割なんだけどねぇ」
「――それでね、スーさん」
「なーに?」
「私、決めた」
「何を?」
「アイツが言ってたでしょ?」
「君が人形だって?」
「そう。だから私は、私と同じ人形を家族にするのよ。操られる事はいけない事だって判った。なのに私やスーさん以外の人形は、人間に操られているじゃない。不公平だわ。だから私は、全ての人形を人間から解放するの。今度こそ、私の本当の家族を作るのよ」
「ふーん」
メディの胸の上で寝返りを打ち、仰向けになったスーさんが空を見上げながら呟きます。
「――ま、それで君が幸せになる事を、祈ってるよ」
視界いっぱいの青空の端に、半分ほど欠けた真昼の月が昇っていました。穏やかな薫風は優しげなスズランの瘴気を纏って二人を包み込み、草や葉の触れ合う囁き声にも似た音色を奏でていました。
果たして、『メアリ・スー』をやめたメディスン・メランコリーの次なる野望は、実を結ぶのでしょうか? それはまた、別のお話になることでしょう。
ただ今は、居心地の良いスズラン畑で幸せそうにお昼寝をする二人の寄り添い合った姿を持って、このお話の幕を閉じたいと思います。
Fin
赤子であれだから知恵をつけたらまず勝ち目は薄い
人間だけでなく妖怪も襲いかねないこの人形は罰してもどこからも苦情は出なかったのでは?
人形劇はもう少し掘り下げて欲しかったな
どうしてメディの話はこう暗いものが多くなってしまうのか
ニヤニヤ笑うスーさんのキャラが自分好み。