彼女は彷徨していた。目的も持てず、何を成し遂げようともできず、ただたださまよっていた。
彼女は彷徨していた。失われた力を、手に入らぬものを求めながら、ひたすら探し歩いていた。
彼女は咆哮していた。胸が張り裂けんばかりの叫び声は、しかし、誰にも届くことはなかった。
彼女が、"それ"を見つけるまでは。
"それ"の出現はあまりにもさり気なかったから、彼女の目をもってさえ、思い当たるのには一年以上の時間を要した。
しかし、気付いてみれば明らかだった。他のどこからも消え去り、完全に忘れ去られたはずの"それ"はたしかに、彼女の目の前にあったのだ。
気付いた瞬間は歓喜のあまり感極まり、快哉を叫んだか。それとも悲願の達成を眼前にして及び腰になり、黙して震えたのか。
それを推し量る術は誰も持たないが、しかし、彼女が自身を襲う激情の中、あくまで冷静に策を練ったことだけは確かだったろう。
そして、彼女は緩やかに、静かに動き出した。目標は命蓮寺。
毎朝たった一人で参道を掃除している少女がいることを、彼女は知っていた。
・
・
・
・
・
・
・
「あーーーもう、ムカつく!!!!」
命蓮寺に怒鳴り声が響いた。響子に続いて襲われた一輪や村紗が、首にコルセットを巻いて永遠亭から戻ってきたときのことだ。
左右三対の異形の羽をばさばさと揺らして激昂しているのは、ぬえ。響子が襲われてからというもの、寺にはぎすぎすした空気が流れ始めている。
「なんなのよあいつ! こないだから姿も見せずに通り魔の真似事って! 馬鹿なんじゃないの。こんなせこい真似するなんて、見損なったわ」
運悪く近くに居た門人が少し怯えたように遠巻きに眺めているのに気付いて、白蓮はとりあえずぬえを落ち着かせようと声を掛けた。
「ぬえ。みんなが傷つけられたことに怒ってくれるのは、とても嬉しいのだけど……」
「えっ……あ、いや、違うからね!?」
白蓮が微笑みに込めた意味に気付いて、ぴんと張っていたぬえの羽が、しおしおとしぼんでいく。
「別に家族がどうこうとかそういうんじゃなくて! 命蓮寺にはこの大妖怪ぬえ様がいるのに、それを差し置いて木っ端妖怪ばかりを狙ってるのがムカつくだけよ!」
ムキになって喚く大妖怪の頬はほんのり赤い。命蓮寺に初めて訪れた頃は素っ気ない態度に、どこか周囲から浮いているようなところがあったが、最近はそれが主に照れ隠しのせいであることがバレ始めている。
そして、からかったほうが面白いと知ればそうせずにいられないのが命蓮寺の面々であった。
「いやーあ、ぬえはいい子だなあー!」
「こっこら、撫でるな! っていうか大人しくしてなさいよ!?」
カリスマや風格を全速力で剥ぎ取られながら命蓮寺にとけこんでいくぬえを弄るのは、最近はもっぱら村紗の役目になった。
昔の自分を思い出させるような余裕のないツンケン具合が、愛らしくて仕方ないらしい。
「わかってるよ、でも一人でじっとしててもつまらないから、折角だしぬえもお昼寝しましょうよー」
「やだよ! だいたい水蜜、人前でべたべた引っ付くなって言ってるでしょうが!」
しりもちをついたまま後じさるぬえ、それを追う村紗。周囲も面白がっているので、煽りこそすれ、止める者は無い。
「あら、『水蜜』だなんていつの間にか仲良くなっちゃって」
「それはこいつがそう呼べってうるさいから仕方なく!?」
「いいのよ、分かってるから。あ、そうそう。お盛んなのは構わないけど、隣の部屋では私が寝てること、忘れないで頂戴ね?」
「一輪は何にも分かってない! 分かってないから!!」
「あーぬえは声大きいからねえ、あはは」
「なんで水蜜が煽ってんの!?」
「まったくだ。毎晩毎晩、五月蝿くて眠れやしない」
「無縁塚に住んでる奴には関係無いだろぉぉおお!!!」
村紗が火をつけ一輪が焚きつけ、ナズーリンが油を注ぐ。完璧なコンビプレーである。
「まあまあ、女の子同士ですから、そんなに敏感にならなくてもいいですよ。あ、でも付けるものはちゃんと付けてくださいね?」
「星は何の話をしてるのよ!!」
最後に最大級の爆発物を投げ込んで、星は腰を上げる。すれ違いざまに目配せをされ、白蓮もそのあとを追った。
・
・
・
・
・
・
星に先導されて別の和室についたときには、主にぬえの悲鳴で構成されている喧騒はすっかり聞こえなくなっていた。
「聖はもう、とっくに気付いてると思いますが」
背を向けたまま星が呟く。
「……」
「なんとか冗談に紛れてくれましたけど、ぬえはもう、気付いてますよ」
こちらへ向き直った星の表情は、さっき談笑に混じっていたのと同じ人物か疑いたくなるほどに真剣そのもの。
「私たちを襲ってるのが何か。って話、よね?」
「わかってるんでしょう、どこの誰がこんなことをしてるのか」
「これだけ私たちを呼んでるんだもの、流石にわかるわよ」
白蓮は苦笑した。響子が襲われてから早一週間、命蓮寺は濃い妖気に取り巻かれている。
妖気を遮断する結界を張って対応することも不可能ではないが、"妖怪寺"としての性質上、それは現実的ではない。
ならばどうすればいいか。
「退治しましょう。私は代理とはいえ毘沙門天です。鬼に後れを取ることはありません。それに、この寺にはまだ、鬼退治の方法。あれが残っているはずです」
毘沙門天は、鬼神を従えているという伝説がある。代理とはいえ、星が鬼と戦って敗れることはないだろう。しかし、白蓮は首を横に振った。
「もうちょっと待ってください。あと一日様子を見たいと思います」
「でも」
「お願いします。待ってください」
「……っ、わかりました。でも、明日になったら。私は勝手に動きますよ」
不満気になおも言い募ろうとした星だが、白蓮に頭を下げられては絶句するほか無かった。
そうして星が立ち去って、白蓮は一人きりになった。いや、正確には二人きりか。
いつからそこに居たのか、部屋の隅には大きな丸い耳の少女がうずくまっている。
「……存外信用が無いんだね、白蓮」
「何もしていないわけではないんですけどね。だいたいナズーリン、貴女の調査次第では、今晩中にでも解決できるはずなのだけど」
「違いない。でも、仙界の住人に数日でコンタクトを取れる私の手腕を褒めるべきところだと思うね。頼まれたことは調べておいた。聖徳王に会ってきたんだけど――」
報告を聞いて、白蓮は自身の推測が正しかったことを知った。
「ありがとう。それでようやく、あの鬼が何をしようとしてるのか確信がもてました。今晩中に、穏便に解決できます」
「そうか。気をつけて……ああそうそう、もう一つ。これ、要るんじゃないかと思って倉庫から探してきたよ。それじゃあ私はもういくよ、ぬえをからかうので忙しいんだ」
ナズーリンが去って、白蓮は今度こそ一人きりになった。
しばらく腰を上げようともせず、ナズーリンが置いていった"それ"を、白蓮はどこか、寂しそうに見つめていた。
・
・
・
・
・
・
・
――来たぁ。
何者かが近づく気配を感じ、伊吹萃香は瞑っていた目を開いて、微笑んだ。
周囲には温めたミルクのような、白く濃い霧が立ち込めている。
常人の感覚では目の前に壁があっても気付けないような、深い、深い霧である。
だというのに、その人影は迷うことなくこちらへ歩みを進める。
"迷霧"とさえ評される萃香の霧の中で迷わないこと、それは十分に驚異的なことだ。
濃霧全体を掌握する萃香が規格外なら、この霧の中で萃香の気配を見失わない僧侶も同様に規格外ということ。
萃香は期待に、さらに笑みを深めた。そして遂に僧侶の姿が、霧の向こうに現れる。
「待ちくたびれたよ、白蓮」――お前なら、私を満足させてくれるよね?
萃香を中心にして、霧がゆっくりと渦巻きはじめる。
萃香の願いが、この場所に収束していく。
「あんまり遅いから、何人も余計に襲っちゃった」
月明かりにぼんやりと姿は浮かび、白蓮の目にも、その身体から二本の大きな角が伸びていることは判別できているだろう。
「どうして直接姿を現さなかったか教えてあげる」
笑い声が響く。霧が突然動き始め、白蓮の頬を撫でた。風、ではない。
霧は、それ自体が意志を持ったかのように渦を巻き、その中心へと萃まっていく。
「本気を出せるようにだよ。お前が」
笑い声。霧が晴れてゆく。
「壊しちゃ困るものが近くにあったら、動きにくいだろう?」
笑い声。渦の中心には、萃香。霧は明らかに彼女の身体へと萃まっていく。
「だから、ほら。私に見せてくれよ」
笑い声。笑い声。笑い声。いつの間にか霧はすっかり彼女の身体に吸収されて、周囲にはぴんと張り詰めた、澄み渡った空気が満ちていた。
「千年生きた高僧の、大魔法って奴をさ」
月明かりに煌々と照らされながら、萃香は一歩、歩みを進めた。
たったそれだけの重心移動で、危うい均衡を保っていた地面が彼女を中心に陥没する。
それは今の萃香の身体が異常なほどの質量を抱えていることの証左に他ならない。
平時は霧として宙に散らしている質量を一箇所に萃め、その身体は本来の重さを取り戻していた。
重さとは、力。この常識を遥かに超えた高密度が、山の四天王――伊吹萃香の、疎密を操る力の真骨頂。
今の萃香の身体はこの世のどんな物質よりも硬く、重い。
「――つまんないからさあ、簡単に死んでくれるなよ!!」
神経が焼き切れるような高揚、そして激情に突き動かされるまま、萃香は地を蹴った。
真っ直ぐ向かう先には当然白蓮が立っている。
大地を揺らして突き進む古豪の鬼を避けようともせず、僧侶は何枚かの魔導障壁を重ねて展開した。
一切の躊躇いを見せることなく、萃香は拳を障壁に叩き込む。しかし、
「なっ……」
その拳は白蓮に届くどころか、障壁の一枚さえ砕くことなく、止まった。否。無理矢理止められた。
「うちの聖に何か用なら、命蓮寺に直接おいでください。もっとも、何度かお出でになってはいたようですが……」
両手で握り締めた三叉戟――尖端が三叉に分かれた矛――の柄で萃香の拳を受けながら、寅丸星は平時と変わらないような穏やかな声で、萃香に言葉を放った。
その間にもじりじりと萃香を押し返そうとしている。萃香の能力が異常だとするなら、この光景は超常とでも言うべきか。
その力に敵う者なしと謳われる鬼の全力を受け止め、あまつさえ意識を他に逸らしながらもわずかに勝ってさえいるのだから。
「そうか、毘沙門天……っ!」
萃香の顔が驚愕にそまり、そして遂には堪えかねて自ら距離を取った。
「四天王って呼ばれてたのが鬼だけだと思ったら大間違いですよ、伊吹萃香」
「偽物の癖に、調子に乗るなよ。次はその槍、へし折ってあげる」
萃香は再び地面を蹴り、星は三叉戟を構えなおす。
「ちょっと待って!」
その間に割って入ったのは、今度は、白蓮だった。
「……なんだよ」
「……なんですか」
「伊吹さん。私は、戦いにきたのではありません」
だから、星もそれ、下ろしてください。そう、静かに告げる。
ぴし――と、空気が軋んだ。
「お前は、何を言っているの。私の前に立って、戦う気が無いだなんて、通るわけがないでしょう」
萃香に睨みつけられ、それでも白蓮は目を逸らさない。一歩も譲らない。
「ならば、こうしましょう。私の質問にきちんと答えられたら……私に、どうしても戦わなくてはならないと納得させられたら、いくらでも戦いましょう。だから、私の言葉を聞いてください」
「……」
萃香の沈黙をどう受け取ったのか、白蓮はさらに言葉を重ねる。
「まず、一つ目。響子や小傘ちゃん、村紗、一輪を襲ったのは貴女ですね」
「そうだよ。だからお前たちはここまで来たんじゃないか」
拍子抜けするほど答えが分かりきっている質問。
この僧侶が考えていることが萃香には読めない。
「はい。では、その理由は……私と戦いたかったから。そう言いましたね」
読めないから、気味が悪い。自分がどこかへ誘導されているのは分かるのに、逃げようと思えない。
「ああ、その通りだよ。それが分かってるなら……」
「まだです。それなら、あの子たちは貴女にとってはどうでも良かった。そうですよね」
「ッ……そうだよ! 当たり前だろ! なにが聞きたいんだよ!」
ついに声を荒げる。怒りが恐怖の裏返しであることに、萃香は気付いていない。
そして怒りによって生まれた隙を、僧侶は見逃さなかった。
「――なら、どうしてあの子たちは、もっとひどい怪我をしてないんでしょうか」
「……」
核心へ一歩。近づかれて、遅まきながら気付く。
萃香は沈黙、暫し、逡巡。逃げ場を探す。バリケードを築く。
「その必要が、なかったからよ」
これ以上質問させない、そういう答え方。だが、僧侶は止まらない。急ごしらえの防壁を容易く超える。
「必要がない? そうですか、私にはそうは思えませんが……。それと、あの子たちを襲ったことについてもう一つ。さっき貴女は、『余計に襲っちゃった』という言い方をしましたよね」
「それがどうしたっていうの」
「言い換えれば、こうです。『伊吹萃香は、必要以上に命蓮寺の門人を傷つけたくなかった』」
「……そうなる、ね」
肯定以外の答えを受け付けない言葉。自分の返答にさえ追い詰められる。
「つまり貴女の行動をまとめると、『命蓮寺の僧侶を他の誰かに迷惑を掛けずにおびき出し、そこで全力で闘いたい』――先にスペルカードルールを無視して手を出したのは貴女ですから、文字通りの全力で闘うつもりだったのでしょう」
だが、本丸を眼前にして、僧侶は一歩下がった。
その事実に対する不信感を、急場をしのいだという安心感が覆い隠す。
「じ、じゃあ、それが分かってるなら、はやくやりあおうよ」
本丸から――安全圏から出てしまう。
「ところで、うちの者に調べさせたんですが。伊吹さんは聖徳王にも会いに行っますよね」
息が止まった。迂闊さを呪う。もう遅い。
「『鬼を退治する方法はもう存在しないのか』そう聞いたと、聞きました」
再び、周囲を静寂が覆った。そして僧侶は言葉を継ぐ。
「伊吹さん。貴女の目的は、我々に退治させることだった。違いますか」
萃香はゆっくりと顔をあげた。
その表情にさっきまでのような鬼気は残っておらず、まるで、幼い迷子のようにさえ見えた。
「……違わ、ない」
細々と、萃香は話し始めた。
「姿を消してから何百年か経ってさ、幻想郷に戻ってきたんだ。そしたら、笑っちゃうよね、"山の四天王"なんて呼ばれてたくせに、山に登ろうとしたら天狗が飛んできて言うんだ。入るな、他の天狗と会うなって」
真実は暴かれ、萃香を支えるものはもう、なにもない。感情が、零れ出していく。
「そしたら、もう行くところが無いんだ。天から土地を奪ったりしたし、霊夢のとこに居座ってみたりもした。でも、違うんだよ、私はそこで、お客さんにしかなれないんだ」
自嘲の笑みを無理矢理浮かべる。
「あげく、もう幻想郷には鬼を退治する方法が無いだって? 誰も、鬼が居るってことを覚えてなかったんだ。もう二度と我々と出会うことが無いって、幻想郷のみんながそう信じてたんだよ」
豪快で朗らかな古の鬼。その仮面が崩れ、涙となって頬を伝う。
「それって、もう、鬼なんか居ないほうが良いってことだろう!」
涙を拭って叫ぶ。すぐに視界はぼやけ、また乱暴に目元を拭う。
「そう、だから聖徳王にも会った。一目見ただけで、お前の望むようなものはないって言われたよ」
自分は今、ちゃんと笑い飛ばせているだろうか。わからない。わからないが、吐き出す。
「そのあと、ようやくお前たちのことを思い出した。平安の僧侶なら、鬼退治の仕方だって、知ってるはずだって」
目の前に居るはずの僧侶は、自分を殺せるかもしれない人は、どんな顔をしているのだろう。
「だからさ、私は寺を襲って、ねえ、私を、退治してよ……!」
最後まで言い切って、萃香は遂に膝を地についた。立っていられない。足に力が入らない。
「……確かに、鬼退治の方法は残っていました」
「っ、なら!」
萃香は顔をあげた。涙を懸命に拭い、僧侶を見上げる。
「ですが……ごめんなさい。それは、できません」
「なんでっ、なんでだよ!」
だが、その表情は影になっていて、うかがえない。
「ここへ来る前に、焼いてしまいました」
信じられない言葉を耳にして、思考が止まった。息が詰まる。
「――今、なんて」
「焼いて、しまいました。ここは幻想郷ですから、私は、幻想郷のルールにのっとって、貴女と接するべきだと思ったからです」
「……うぁ、ああ、ああああ」
泣きじゃくっているのは自分だろうか。白蓮はまだ何か言っているが、ほとんど理解できない。
ただ、しきりに謝っている事だけは、かろうじてわかった。
謝られている。哀れまれている。そのことが萃香を内側から壊していく。涙が止まらない。絶叫が止まらない。
「――もし気が向いたら、我々の寺へいらっしゃい。貴女の苦しみを和らげてあげられるかもしれません」
そう言い置いて、二人は立ち去った。
後には、これからの永い一生を、巨大な独房で過ごすことが決定された、一人の迷い子だけがとり残されていた。
彼女は彷徨していた。失われた力を、手に入らぬものを求めながら、ひたすら探し歩いていた。
彼女は咆哮していた。胸が張り裂けんばかりの叫び声は、しかし、誰にも届くことはなかった。
彼女が、"それ"を見つけるまでは。
"それ"の出現はあまりにもさり気なかったから、彼女の目をもってさえ、思い当たるのには一年以上の時間を要した。
しかし、気付いてみれば明らかだった。他のどこからも消え去り、完全に忘れ去られたはずの"それ"はたしかに、彼女の目の前にあったのだ。
気付いた瞬間は歓喜のあまり感極まり、快哉を叫んだか。それとも悲願の達成を眼前にして及び腰になり、黙して震えたのか。
それを推し量る術は誰も持たないが、しかし、彼女が自身を襲う激情の中、あくまで冷静に策を練ったことだけは確かだったろう。
そして、彼女は緩やかに、静かに動き出した。目標は命蓮寺。
毎朝たった一人で参道を掃除している少女がいることを、彼女は知っていた。
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「あーーーもう、ムカつく!!!!」
命蓮寺に怒鳴り声が響いた。響子に続いて襲われた一輪や村紗が、首にコルセットを巻いて永遠亭から戻ってきたときのことだ。
左右三対の異形の羽をばさばさと揺らして激昂しているのは、ぬえ。響子が襲われてからというもの、寺にはぎすぎすした空気が流れ始めている。
「なんなのよあいつ! こないだから姿も見せずに通り魔の真似事って! 馬鹿なんじゃないの。こんなせこい真似するなんて、見損なったわ」
運悪く近くに居た門人が少し怯えたように遠巻きに眺めているのに気付いて、白蓮はとりあえずぬえを落ち着かせようと声を掛けた。
「ぬえ。みんなが傷つけられたことに怒ってくれるのは、とても嬉しいのだけど……」
「えっ……あ、いや、違うからね!?」
白蓮が微笑みに込めた意味に気付いて、ぴんと張っていたぬえの羽が、しおしおとしぼんでいく。
「別に家族がどうこうとかそういうんじゃなくて! 命蓮寺にはこの大妖怪ぬえ様がいるのに、それを差し置いて木っ端妖怪ばかりを狙ってるのがムカつくだけよ!」
ムキになって喚く大妖怪の頬はほんのり赤い。命蓮寺に初めて訪れた頃は素っ気ない態度に、どこか周囲から浮いているようなところがあったが、最近はそれが主に照れ隠しのせいであることがバレ始めている。
そして、からかったほうが面白いと知ればそうせずにいられないのが命蓮寺の面々であった。
「いやーあ、ぬえはいい子だなあー!」
「こっこら、撫でるな! っていうか大人しくしてなさいよ!?」
カリスマや風格を全速力で剥ぎ取られながら命蓮寺にとけこんでいくぬえを弄るのは、最近はもっぱら村紗の役目になった。
昔の自分を思い出させるような余裕のないツンケン具合が、愛らしくて仕方ないらしい。
「わかってるよ、でも一人でじっとしててもつまらないから、折角だしぬえもお昼寝しましょうよー」
「やだよ! だいたい水蜜、人前でべたべた引っ付くなって言ってるでしょうが!」
しりもちをついたまま後じさるぬえ、それを追う村紗。周囲も面白がっているので、煽りこそすれ、止める者は無い。
「あら、『水蜜』だなんていつの間にか仲良くなっちゃって」
「それはこいつがそう呼べってうるさいから仕方なく!?」
「いいのよ、分かってるから。あ、そうそう。お盛んなのは構わないけど、隣の部屋では私が寝てること、忘れないで頂戴ね?」
「一輪は何にも分かってない! 分かってないから!!」
「あーぬえは声大きいからねえ、あはは」
「なんで水蜜が煽ってんの!?」
「まったくだ。毎晩毎晩、五月蝿くて眠れやしない」
「無縁塚に住んでる奴には関係無いだろぉぉおお!!!」
村紗が火をつけ一輪が焚きつけ、ナズーリンが油を注ぐ。完璧なコンビプレーである。
「まあまあ、女の子同士ですから、そんなに敏感にならなくてもいいですよ。あ、でも付けるものはちゃんと付けてくださいね?」
「星は何の話をしてるのよ!!」
最後に最大級の爆発物を投げ込んで、星は腰を上げる。すれ違いざまに目配せをされ、白蓮もそのあとを追った。
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星に先導されて別の和室についたときには、主にぬえの悲鳴で構成されている喧騒はすっかり聞こえなくなっていた。
「聖はもう、とっくに気付いてると思いますが」
背を向けたまま星が呟く。
「……」
「なんとか冗談に紛れてくれましたけど、ぬえはもう、気付いてますよ」
こちらへ向き直った星の表情は、さっき談笑に混じっていたのと同じ人物か疑いたくなるほどに真剣そのもの。
「私たちを襲ってるのが何か。って話、よね?」
「わかってるんでしょう、どこの誰がこんなことをしてるのか」
「これだけ私たちを呼んでるんだもの、流石にわかるわよ」
白蓮は苦笑した。響子が襲われてから早一週間、命蓮寺は濃い妖気に取り巻かれている。
妖気を遮断する結界を張って対応することも不可能ではないが、"妖怪寺"としての性質上、それは現実的ではない。
ならばどうすればいいか。
「退治しましょう。私は代理とはいえ毘沙門天です。鬼に後れを取ることはありません。それに、この寺にはまだ、鬼退治の方法。あれが残っているはずです」
毘沙門天は、鬼神を従えているという伝説がある。代理とはいえ、星が鬼と戦って敗れることはないだろう。しかし、白蓮は首を横に振った。
「もうちょっと待ってください。あと一日様子を見たいと思います」
「でも」
「お願いします。待ってください」
「……っ、わかりました。でも、明日になったら。私は勝手に動きますよ」
不満気になおも言い募ろうとした星だが、白蓮に頭を下げられては絶句するほか無かった。
そうして星が立ち去って、白蓮は一人きりになった。いや、正確には二人きりか。
いつからそこに居たのか、部屋の隅には大きな丸い耳の少女がうずくまっている。
「……存外信用が無いんだね、白蓮」
「何もしていないわけではないんですけどね。だいたいナズーリン、貴女の調査次第では、今晩中にでも解決できるはずなのだけど」
「違いない。でも、仙界の住人に数日でコンタクトを取れる私の手腕を褒めるべきところだと思うね。頼まれたことは調べておいた。聖徳王に会ってきたんだけど――」
報告を聞いて、白蓮は自身の推測が正しかったことを知った。
「ありがとう。それでようやく、あの鬼が何をしようとしてるのか確信がもてました。今晩中に、穏便に解決できます」
「そうか。気をつけて……ああそうそう、もう一つ。これ、要るんじゃないかと思って倉庫から探してきたよ。それじゃあ私はもういくよ、ぬえをからかうので忙しいんだ」
ナズーリンが去って、白蓮は今度こそ一人きりになった。
しばらく腰を上げようともせず、ナズーリンが置いていった"それ"を、白蓮はどこか、寂しそうに見つめていた。
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――来たぁ。
何者かが近づく気配を感じ、伊吹萃香は瞑っていた目を開いて、微笑んだ。
周囲には温めたミルクのような、白く濃い霧が立ち込めている。
常人の感覚では目の前に壁があっても気付けないような、深い、深い霧である。
だというのに、その人影は迷うことなくこちらへ歩みを進める。
"迷霧"とさえ評される萃香の霧の中で迷わないこと、それは十分に驚異的なことだ。
濃霧全体を掌握する萃香が規格外なら、この霧の中で萃香の気配を見失わない僧侶も同様に規格外ということ。
萃香は期待に、さらに笑みを深めた。そして遂に僧侶の姿が、霧の向こうに現れる。
「待ちくたびれたよ、白蓮」――お前なら、私を満足させてくれるよね?
萃香を中心にして、霧がゆっくりと渦巻きはじめる。
萃香の願いが、この場所に収束していく。
「あんまり遅いから、何人も余計に襲っちゃった」
月明かりにぼんやりと姿は浮かび、白蓮の目にも、その身体から二本の大きな角が伸びていることは判別できているだろう。
「どうして直接姿を現さなかったか教えてあげる」
笑い声が響く。霧が突然動き始め、白蓮の頬を撫でた。風、ではない。
霧は、それ自体が意志を持ったかのように渦を巻き、その中心へと萃まっていく。
「本気を出せるようにだよ。お前が」
笑い声。霧が晴れてゆく。
「壊しちゃ困るものが近くにあったら、動きにくいだろう?」
笑い声。渦の中心には、萃香。霧は明らかに彼女の身体へと萃まっていく。
「だから、ほら。私に見せてくれよ」
笑い声。笑い声。笑い声。いつの間にか霧はすっかり彼女の身体に吸収されて、周囲にはぴんと張り詰めた、澄み渡った空気が満ちていた。
「千年生きた高僧の、大魔法って奴をさ」
月明かりに煌々と照らされながら、萃香は一歩、歩みを進めた。
たったそれだけの重心移動で、危うい均衡を保っていた地面が彼女を中心に陥没する。
それは今の萃香の身体が異常なほどの質量を抱えていることの証左に他ならない。
平時は霧として宙に散らしている質量を一箇所に萃め、その身体は本来の重さを取り戻していた。
重さとは、力。この常識を遥かに超えた高密度が、山の四天王――伊吹萃香の、疎密を操る力の真骨頂。
今の萃香の身体はこの世のどんな物質よりも硬く、重い。
「――つまんないからさあ、簡単に死んでくれるなよ!!」
神経が焼き切れるような高揚、そして激情に突き動かされるまま、萃香は地を蹴った。
真っ直ぐ向かう先には当然白蓮が立っている。
大地を揺らして突き進む古豪の鬼を避けようともせず、僧侶は何枚かの魔導障壁を重ねて展開した。
一切の躊躇いを見せることなく、萃香は拳を障壁に叩き込む。しかし、
「なっ……」
その拳は白蓮に届くどころか、障壁の一枚さえ砕くことなく、止まった。否。無理矢理止められた。
「うちの聖に何か用なら、命蓮寺に直接おいでください。もっとも、何度かお出でになってはいたようですが……」
両手で握り締めた三叉戟――尖端が三叉に分かれた矛――の柄で萃香の拳を受けながら、寅丸星は平時と変わらないような穏やかな声で、萃香に言葉を放った。
その間にもじりじりと萃香を押し返そうとしている。萃香の能力が異常だとするなら、この光景は超常とでも言うべきか。
その力に敵う者なしと謳われる鬼の全力を受け止め、あまつさえ意識を他に逸らしながらもわずかに勝ってさえいるのだから。
「そうか、毘沙門天……っ!」
萃香の顔が驚愕にそまり、そして遂には堪えかねて自ら距離を取った。
「四天王って呼ばれてたのが鬼だけだと思ったら大間違いですよ、伊吹萃香」
「偽物の癖に、調子に乗るなよ。次はその槍、へし折ってあげる」
萃香は再び地面を蹴り、星は三叉戟を構えなおす。
「ちょっと待って!」
その間に割って入ったのは、今度は、白蓮だった。
「……なんだよ」
「……なんですか」
「伊吹さん。私は、戦いにきたのではありません」
だから、星もそれ、下ろしてください。そう、静かに告げる。
ぴし――と、空気が軋んだ。
「お前は、何を言っているの。私の前に立って、戦う気が無いだなんて、通るわけがないでしょう」
萃香に睨みつけられ、それでも白蓮は目を逸らさない。一歩も譲らない。
「ならば、こうしましょう。私の質問にきちんと答えられたら……私に、どうしても戦わなくてはならないと納得させられたら、いくらでも戦いましょう。だから、私の言葉を聞いてください」
「……」
萃香の沈黙をどう受け取ったのか、白蓮はさらに言葉を重ねる。
「まず、一つ目。響子や小傘ちゃん、村紗、一輪を襲ったのは貴女ですね」
「そうだよ。だからお前たちはここまで来たんじゃないか」
拍子抜けするほど答えが分かりきっている質問。
この僧侶が考えていることが萃香には読めない。
「はい。では、その理由は……私と戦いたかったから。そう言いましたね」
読めないから、気味が悪い。自分がどこかへ誘導されているのは分かるのに、逃げようと思えない。
「ああ、その通りだよ。それが分かってるなら……」
「まだです。それなら、あの子たちは貴女にとってはどうでも良かった。そうですよね」
「ッ……そうだよ! 当たり前だろ! なにが聞きたいんだよ!」
ついに声を荒げる。怒りが恐怖の裏返しであることに、萃香は気付いていない。
そして怒りによって生まれた隙を、僧侶は見逃さなかった。
「――なら、どうしてあの子たちは、もっとひどい怪我をしてないんでしょうか」
「……」
核心へ一歩。近づかれて、遅まきながら気付く。
萃香は沈黙、暫し、逡巡。逃げ場を探す。バリケードを築く。
「その必要が、なかったからよ」
これ以上質問させない、そういう答え方。だが、僧侶は止まらない。急ごしらえの防壁を容易く超える。
「必要がない? そうですか、私にはそうは思えませんが……。それと、あの子たちを襲ったことについてもう一つ。さっき貴女は、『余計に襲っちゃった』という言い方をしましたよね」
「それがどうしたっていうの」
「言い換えれば、こうです。『伊吹萃香は、必要以上に命蓮寺の門人を傷つけたくなかった』」
「……そうなる、ね」
肯定以外の答えを受け付けない言葉。自分の返答にさえ追い詰められる。
「つまり貴女の行動をまとめると、『命蓮寺の僧侶を他の誰かに迷惑を掛けずにおびき出し、そこで全力で闘いたい』――先にスペルカードルールを無視して手を出したのは貴女ですから、文字通りの全力で闘うつもりだったのでしょう」
だが、本丸を眼前にして、僧侶は一歩下がった。
その事実に対する不信感を、急場をしのいだという安心感が覆い隠す。
「じ、じゃあ、それが分かってるなら、はやくやりあおうよ」
本丸から――安全圏から出てしまう。
「ところで、うちの者に調べさせたんですが。伊吹さんは聖徳王にも会いに行っますよね」
息が止まった。迂闊さを呪う。もう遅い。
「『鬼を退治する方法はもう存在しないのか』そう聞いたと、聞きました」
再び、周囲を静寂が覆った。そして僧侶は言葉を継ぐ。
「伊吹さん。貴女の目的は、我々に退治させることだった。違いますか」
萃香はゆっくりと顔をあげた。
その表情にさっきまでのような鬼気は残っておらず、まるで、幼い迷子のようにさえ見えた。
「……違わ、ない」
細々と、萃香は話し始めた。
「姿を消してから何百年か経ってさ、幻想郷に戻ってきたんだ。そしたら、笑っちゃうよね、"山の四天王"なんて呼ばれてたくせに、山に登ろうとしたら天狗が飛んできて言うんだ。入るな、他の天狗と会うなって」
真実は暴かれ、萃香を支えるものはもう、なにもない。感情が、零れ出していく。
「そしたら、もう行くところが無いんだ。天から土地を奪ったりしたし、霊夢のとこに居座ってみたりもした。でも、違うんだよ、私はそこで、お客さんにしかなれないんだ」
自嘲の笑みを無理矢理浮かべる。
「あげく、もう幻想郷には鬼を退治する方法が無いだって? 誰も、鬼が居るってことを覚えてなかったんだ。もう二度と我々と出会うことが無いって、幻想郷のみんながそう信じてたんだよ」
豪快で朗らかな古の鬼。その仮面が崩れ、涙となって頬を伝う。
「それって、もう、鬼なんか居ないほうが良いってことだろう!」
涙を拭って叫ぶ。すぐに視界はぼやけ、また乱暴に目元を拭う。
「そう、だから聖徳王にも会った。一目見ただけで、お前の望むようなものはないって言われたよ」
自分は今、ちゃんと笑い飛ばせているだろうか。わからない。わからないが、吐き出す。
「そのあと、ようやくお前たちのことを思い出した。平安の僧侶なら、鬼退治の仕方だって、知ってるはずだって」
目の前に居るはずの僧侶は、自分を殺せるかもしれない人は、どんな顔をしているのだろう。
「だからさ、私は寺を襲って、ねえ、私を、退治してよ……!」
最後まで言い切って、萃香は遂に膝を地についた。立っていられない。足に力が入らない。
「……確かに、鬼退治の方法は残っていました」
「っ、なら!」
萃香は顔をあげた。涙を懸命に拭い、僧侶を見上げる。
「ですが……ごめんなさい。それは、できません」
「なんでっ、なんでだよ!」
だが、その表情は影になっていて、うかがえない。
「ここへ来る前に、焼いてしまいました」
信じられない言葉を耳にして、思考が止まった。息が詰まる。
「――今、なんて」
「焼いて、しまいました。ここは幻想郷ですから、私は、幻想郷のルールにのっとって、貴女と接するべきだと思ったからです」
「……うぁ、ああ、ああああ」
泣きじゃくっているのは自分だろうか。白蓮はまだ何か言っているが、ほとんど理解できない。
ただ、しきりに謝っている事だけは、かろうじてわかった。
謝られている。哀れまれている。そのことが萃香を内側から壊していく。涙が止まらない。絶叫が止まらない。
「――もし気が向いたら、我々の寺へいらっしゃい。貴女の苦しみを和らげてあげられるかもしれません」
そう言い置いて、二人は立ち去った。
後には、これからの永い一生を、巨大な独房で過ごすことが決定された、一人の迷い子だけがとり残されていた。
萃香も萃香で幾星霜待った瞬間が来たとはいえ行動が妙に子供じみてる
このままだと作者読者含め誰も報われないので今からでも加筆修正をしてみたらどうでしょうか
萃香が本音を吐露して泣きじゃくるシーンも唐突過ぎて白けてしまっているように見えます。ううむ、なんともこう、ううむ。
あえて静かに笑わせてその内面の悲しさを描写するとか
一個人の感想でした
萃香と聖がその考えに至った経緯やその後聖がどうしたのか(現状投げっぱなしに見える)等を描ければぐっとよくなると思います
もう少しどうにかならなかったのか
鬼退治の法を焼いてしまった、という白蓮の慈悲はやはり自身が素直であるが故に、逆に萃香にとっては酷な結果を招いてしまったのですねぇ。
確かに書籍のエピソードも、語られている動機からすれば何か腑に落ちないと感じる点があったようにも思いますので、それをこういった風に調理したアイディアがまず面白いと思いました。そして霧をまとい、霧の中にたたずむ萃香は、後に自身が吐露したように「どこにも居場所がない」という他者との隔絶とそれが故の寂しさを感じさせて、そのエッセンスが好きでした。面白かったです。