「なあ、慧音」
「ん?」
とある冬の日の午後。庵の中で慧音は筆を手に机に向かってさらさらと書き物をしており、妹紅は昼食を共にした後、畳に寝っ転がって天井の木目を眺めながら、あの形はメフィラス星人に似ているな、などと考えつつだらだらと過ごしていた。
「最近、ちょっと太ったんじゃないか?」
慧音の筆の動きが止まった。
「すまない、ちょっと聞こえなかった。何だって?」
「だからあ、最近ちょっと太ったんじゃない?」
筆を硯に寝かせて置いてから、慧音は妹紅の方へ顔を向けた。
「おいおい、急にサンスクリット語で話しかけられても困る。日本語で頼む」
「この上なくわかり易い日本語だったと思うんだけど」
妹紅も上半身を起こして慧音へと向き直ったが、慧音は机の上の水差しを取り上げて湯呑みに注ぎながら、宙に視線をさまよわせている。
「ああ、確かに最近太ったらしいな。姫海棠はたて」
「お前、そこで全然交友関係無い奴の名前適当に出すのやめろよ。最低だな」
妹紅の非難もどこ吹く風、慧音は水を美味そうに喉を鳴らして飲んだ。
「いやすまん、何の話だったか。弱酸性ビオレの話だっけ?」
「違う。上白沢慧音は最近太ったんじゃないか、という話だ」
「それはつまり、上白沢慧音の現在の体重が以前と比べると増加しているのではないか、という事だな」
「そうだ」
「確かに、幼少の頃と比べるとかなり体重は増えたな。いや参った参った」
「…誤魔化すなあっ」
妹紅は慧音の背中から襲いかかると、その腹部をつまんで問い詰める。
「この肉は何だい? この肉は」
「妹紅、ちょっと待ってくれ。お天道様が出ている内はちょっと、な?」
「阿呆。いい加減大人しく認めなよ」
「わかった。わかった。降参だ」
揉み合って乱れた服を整えながら、慧音は目を伏せた。
「太った」
「ほら見ろ」
「お前はいいよな。蓬莱人だからどれだけ物を食べようがごろごろしてようが体型が変わらないもんな」
「え、そこで私の心の脆い部分思いっ切りえぐってくるんだ!?」
「お前もさっきからえぐりまくってるから!! 気付けよ!!」
息を荒げて睨み合う二人だったが、あまりの不毛さに我に返り、流石に気恥ずかしくなる。
「ていうか、何で太っちゃったわけ? 正直そんなに豊かな食生活ってわけでもないだろ?」
「まあ、原因は薄々わかってはいるんだ。最近、ちょっと間食がやめられなくてな…」
「あー…それは太りそう」
恥ずかしげにうつむく慧音。特に頭を使う事が多いだろうから、ついつい糖分に手が伸びる気持ちもわかる。かりかりと金平糖を齧る慧音を思い浮かべて、妹紅は苦笑いした。妄想の中とは言えなかなかに愛らしい姿だ。
「え? でも待って。私最近しょっちゅう慧音ん家に来てるけど、ご飯以外に慧音が何か食べてるのなんて見たことないぞ」
「いやあ、最近妹紅がよく来るのも悪いんだからな」
「ん、どういう事? 慧音は何を食べてるの?」
「歴史」
「ん?」
「妹紅の歴史」
人の歴史をスナック感覚でつまむ半獣半人の女教師がいるらしい。まさか。どこにだ。ここにだ。
「ちょっと待って。落ち着こう」
「私は落ち着いているが」
「そこで落ち着かれてるのも若干頭に来るんだけどさ。何で勝手に人の歴史食べてるわけ?」
「美味しいから」
「お前は美味しかったら駄菓子屋に陳列してある商品を断りなく食べるのか?」
「そんな事をするわけがないだろうに。妹紅、人としての大事な部分だけは忘れてはいけない」
「どの口がそんな事を言うのかな? この口かな?」
「いひゃい、いひゃいれふ」
妹紅が頬の肉をつねり上げると、慧音は容易く涙目になった。いざという時に弱点を把握しているので効果的な攻撃を加え易い、というのは付き合いの長い友人の利点の一つである。
「だって妹紅も悪いじゃないか!」
「いったい今の話のどこに私が責められるべき部分があると言うんだ。言ってみなよ」
「妹紅の歴史は淡白だ。いくらでも食べられる。しかも量が多い。目の前にこんもりと皿に盛られたさっぱり系のお菓子があれば、これは自然と次から次に手が出てしまうのも無理はない。そうだろう?」
「そうだね、しょうがないね。とそんな論理展開で私が同意すると思ったのか?」
「思わなかったが、淡い期待はあった」
「今後私と付き合う上で、その種の淡い期待は抱かない方がいいと忠告しておくよ」
「妹紅、変わったな。昔は『私の全部を慧音にあげる! でもこの恋心だけはあげられないの、だってあなたに触れられたらその瞬間に燃え上がってしまうから!』と言っていたのに」
「そんな昔は無かった。もしあったとするならば、それはお前によって歴史が改竄された結果だ」
「歴史の改竄などするものか。それだけは私の誇りにかけて誓おう」
「じゃあ歴史の盗み食いもするなよ」
完全に不貞腐れてそっぽを向く慧音を見て、妹紅は嘆息した。たまに慧音の見せる子供っぽい一面は、お互いの心安さを感じられて嬉しい面もあるのだが、なにしろ手が焼ける。
「妹紅だって、歴史を食べられるとしたらきっとわかってくれる」
「そんなに私の歴史は美味いのかい? どんな味がするんだ?」
「どんな味、か。強いて言えば――」
慧音は右手の人差し指を顎に押し当ててしばし黙考した。
「芋けんぴ」
知りたくなかった。妹紅は、自分の歴史が芋けんぴみたいな味がするなんて事は知りたくなかった。
「じゃあ、芋けんぴを食えよ。私の歴史じゃなくて」
「嫌だ」
「何でさ」
「じゃあ逆に、何でそんなに歴史を食われたくないんだ?」
「え、普通嫌でしょ」
「果たして本当にそうかな? お前以外の誰かに、歴史を食われたら嫌かどうか聞いた事があるのか?」
無いよ。
貴方、歴史を食われたら嫌ですか? と尋ねて回る者がいたとするならば、早晩人相書きが里に出回る事になるだろう。
「それどころか、先日の宴会で守矢の風祝が酒に酔って、『私の歴史、慧音さんに食べてしまってもらえればな…』と言っていたぞ」
「重い。重いよ」
「まあアイツの歴史は美味くなさそうだから食べたくはないがな」
「お前は酷い奴だな」
そこで慧音は目を閉じ、腕組みをして押し黙った。その唇の端に、ごくわずかに笑みが浮かんだのが妹紅にはわかった。
「おい、お前今食ったろ」
「ん?」
「お前今私の歴史食ったろ」
「食べていません」
「口調おかしいだろ。儚月抄か」
「証拠は? 今歴史食べたって証拠は?」
「いい加減にしろおっ」
「あにゃにゃにゃにゃにゃにゃ」
妹紅が両手で慧音の頬の肉をつねり上げると、慧音は容易く泣き出した。いざという時に弱点への攻撃をどこまで強化すればいいか知っている、というのは付き合いの長い友人の利点の一つである。
「だって、やめられないんだもん。とまらないんだもん。しくしく」
「まあ別に食べられて困るっていう歴史もそんなに無いからいいんだけどさあ。黙って食べるのは良くないだろ」
「ごめんね。ごめんね」
「まあ、わかりゃいいさ。ちょっと私も強くつねり過ぎた。ほっぺ赤くなっちゃったな、ごめんな」
「次からはきちんと断ってから食べるようにするから」
「うん。…うん?」
「じゃあ、今から妹紅の歴史を食べるからな」
慧音は目を閉じた。ほどなくその表情は至福に蕩けてだらしなく崩れた。
「待て慧音。ストップ。ストップだ」
「何だ。きちんと断ったぞ」
「何か、凄く嫌なんだ。お前の歴史を食う、と宣言された上で目の前で美味そうにされるのは、何か、凄く嫌な事なんだ」
「じゃあどうしろと言うんだ。隠れて食うのも駄目、堂々と食うのも駄目。お前のワガママには付き合い切れん」
「食うのをやめろよ! そもそも太ったって話だろ、間食を控えろよ!」
「うぬぬ…では主食を歴史にするという折衷案はどうだろうか」
「却下だ」
「くそ。生き難い時代になったものだ」
がっくりと肩を落とす慧音に妹紅はほとほと呆れ果て、また溜息をついた。
「なんでそんなに私の歴史に執着するんだよ。別に食べなくても支障はないんでしょ」
「…もっと妹紅の事を知りたかった」
「え?」
「妹紅は過去の事を振り返る時にいつも辛そうな顔をする。私がそんな妹紅の過去を食べてしまうことで、少しでもその辛さを和らげる事が出来たなら。少しでもその思いを共有する事が出来たなら。そう思ったんだ」
「慧音」
「妹紅」
「いい話っぽくまとめて乗り切ろうとしても無駄だぞ」
「なんと」
慧音が目を白黒させるのを見て、妹紅は軽く笑った。
「あのさ、慧音。例え私の過去がすごく辛くて、後悔に満ちたものだったとしても。それはやっぱり、私が抱えていかなきゃいけないものなんだよ」
「……」
「どこまで抱えていけるかは、わかんない。だからこそ、抱えていける限りは、捨てちゃ不味いものだと思うんだ」
「…妹紅」
「そうやって思えるようになったのは、慧音、お前のおかげなんだ。感謝してる。だから、余計な気回すなよ」
「…もこたん」
「誰がもこたんか」
「すまない。私が間違っていた。許して欲しい」
「ああ」
「今まで食べてしまった分も返す」
「え?」
慧音は右手の人差し指と中指をそろえて口腔内に差し込み始める。
「…おえ」
「馬鹿、よせ! いらない! 全然いらないよ! お前の胃袋に一度納まった歴史なんてものは!」
「んきゅきゅきゅきゅう」
「どういう音だよ! いやああああああああああああああああああああああ!!!」
「慧音、私達、しばらく会わない方がいいと思うんだ」
「……」
「ちょっと距離をおいてみて、お互いを見つめ直そう?」
「…わかった。妹紅がそう言うのなら」
戸口で悄然とする慧音をおいて、妹紅は歩き出す。後ろ髪引かれる思いはあったが、振り返ってはいけない、と自身に言い聞かせる。自分が側にいなければ間食の誘惑も無く、慧音の体重もしばらくすれば元に戻るだろう。
一週間後、憤然と慧音の家に向かう妹紅の姿があった。風の噂によれば、東風谷早苗を家に連れ込んでよろしくやっているというではないか。前から最低な奴だとは思っていたが、ここまで最低な奴だとは。要するに、首尾一貫して最低な奴、という事だ。がらがらぴしゃーん、と玄関に乗り込む妹紅。
「やい慧音、お前って奴は――随分痩せたな」
「ああ、妹紅か…」
「どうしたんだ、何があった」
慧音は弱々しく笑った。
「腹を壊した。もう歴史を食うのは懲り懲りだ」
「お前は酷い奴だな」
恨めしい、祝ってやる…アレ?
慧音先生、リバウンドにお気をつけて
この一文と前後の会話が(何故か)最高に面白かった
しかし早苗の歴史パねぇ
>信じてください。
知ってた
歴史の食べ方が思ったよりすごかった。
妹紅さんマジ苦労人。
文句なく酷くておもしろかったです
氏のセンスに脱帽ですw
気づいたら読み終わってました
面白かったです
倫理観が面白い感じにロストした慧音先生がグットでした。
あと早苗さんの歴史って……
>>私が東方で一番好きなキャラクターは慧音先生です。
>>信じてください。
これは知ってた
早苗さんの歴史
面白かったです。
もこたんの突っ込みが素晴らしかったです。
いい感じにまとめたのに、おなかを壊すけーね先生がかわいかった
とても面白かったです
え、漫才じゃないって?
いいゲスっぷりでした
芋けんぴみたいに淡白なssでサクサク読めました!