鬱蒼とした竹林に雪が積もっている。そもそも竹とは、常緑樹のように一面に葉を伸ばしたりはしない。それならば、幾ら竹林、竹の林と言えど鬱蒼とした印象はあまり抱かないはずだ。が、この場所の竹林はどうにも物理的な密度ではない、なにか言い様のない圧迫感に包まれている。
そのような竹林の奥深く――迷いの森とも呼べそうな竹林の奥深くに、一軒の襤褸小屋があった。トタンで作られたと思しき壁は朽ち、その全面に修復の跡が見える。トタンの壁には不釣り合いな藁を載せて、防寒だろうか。そのような努力の甲斐甲斐しい跡が見られる屋根も、手入れが成されていないのだろう、一部が剥がれ、梅雨の時期なぞ部屋の中では盥にお椀に大いに雨水が貯まることが見て取れる。南側と東側に有る窓は、台風の時期の対策である板張りがなされ、ここ数年間は換気をすることもなく、原初的な雰囲気を残すこの竹林を、中からろくろく見越すこともなく、その本分を果たせないでいる。
襤褸小屋の周りに目を向けてみると、ドラム缶で拵えた五右衛門風呂、中には昨夜からの寒波で凍え、氷結寸前の水。薪を作る為の斧、とこれから薪となるであろう木材など。崩壊寸前と見て取れる襤褸の小屋にしては、周りに生活感が漂っている。それもその筈。襤褸小屋の中には毛布に包まり(見てくれはズダ袋に包まっているようだが、当人にとっては立派な毛布なのであろう)、壁に背をもたれかけ、見るからに寝辛そうな格好の人影が一人。外の雪の色を溶かした様な透き通る銀髪が毛布からまろびでている。
日光が煌々と煌めいている。からりと晴れた冬の朝である。その人物はもそりと壁から背を離し、板張りの窓から漏れる日光にちと目を顰めた。その目の虹彩は真紅、いや、深紅と称すべきか。深く深く引きこまれそうな程極上の紅色を湛えている。ばさりと毛布を跳ね除け、立ち上がると体を解すようにうんと伸びをした。その風体は痩せぎすな、一見不健康とも見て取れそうなほど絞られた体であることが一目でわかる。寝具の横においてあった、白色の襯衣を身に付け、更に緋色の地に、呪符、であろうか。梵字のような、そうでもないような、見たこともない文字が書かれた呪符をまぶした意匠の、もんぺをしなやかな足に通した。それをぱちり、とサスペンダーで吊り、幾ら家の中に居るとはいえ、外は極寒の雪化粧である。いささか軽装に過ぎる姿のその人物の名は藤原妹紅。
白と赤、二色の大きなリボンを頭頂に結わえ付け、其れよりも小さめなリボンを使い、毛先を一つ二つと纏めてゆく。身支度を整えた妹紅が先に向かったのは部屋の中央にどんと鎮座している囲炉裏だった。この囲炉裏、実は友人たる上白沢慧音の自信作である。囲炉裏に火を起こすと、熱気は上へと逃げてゆく。それを囲炉裏自体、床から一段下げたところに作る。そうすることで、床下に熱気が向かい、部屋を床から温めてくれると言う優れ物なのだ。部屋で火を起こす時に一番問題となるであろう煙も、熱気と同様に床下へ逃げてゆくので、部屋の中が煙くならない。そのような恩恵を享受しているはずの妹紅であるが、実際のところ、囲炉裏が一段下にあるから、火を起こすのに腰を大分屈めなくてはいけない。これは億劫だなあ、と心内で考えているので慧音が救われない。
その囲炉裏には、夜の冷え込みを防ぐためか、炭が燻っている。その上に吊るされている鍋。中には大根、蕪、その他山菜など、根菜類を中心とした、野菜のたっぷり入った粥が良い香りを放っている。器に移すのも面倒だとばかりに鍋を下ろし、がつがつと箸で掻き込む妹紅のなんたる男らしいことか! 顔立ちは吊り目がちではあるものの、十全に美人の範疇であり、先述した緋色の眼差しなど、ミステリアスな魅力に溢れている。例えば、器に盛ってから匙で上品に粥を啜るだけでも印象は違うだろうに、今部屋にいるのは一人だからと気兼ねなく食べているのか、は知らないが、そのようにする様子は全くない。
粥を食らい終えひと心地、のもんぺのポケットから取り出したのは、くしゃくしゃに寄れた煙草箱。中から紙巻煙草を一本咥え、人差し指をその先端に持ってゆくと、煙草がじりり、と燻った。はて、火種も無しに人差し指を向けただけで火の点く煙草のどれほど面妖なことか。妹紅はそのようなこと、欠片も思っておらぬ様子で紫煙を楽しんでいる。
煙草をくゆらせながら、さて、今日は何か予定でもあったかしらんと思案顔の妹紅。彼女、この竹林の案内役を生業としているのだが、客の来る予定もない。と、いうのも、態々このような辺境の竹林へ観光目的で訪れる酔狂な人物など居らず。妹紅に案内を頼むその殆どが、竹林の中、迷いやすいところに鎮座している、永遠亭という屋敷目当ての者ばかりなのだ。永遠亭には非常に優秀な薬師がおり、その薬師がまた珍妙な人物で。数々の騒動を起こしているのだが、この物語には関係のないことなので省かせていただく。とまあその薬師も今現在、永遠亭の住人らとともに出掛けているので、妹紅の生業も本日のところ休業中、といった次第だ。
日銭を稼ぐ予定もなく、さりとてこのまま家に引きこもるのも建設的ではないな、と考える。ああ煙草が切れそうだ。雑貨屋に行けば序でに暇つぶしも出来るだろう、と思い立てば即行動が性分の妹紅。さて出るかと腰を上げ、煙草を灰皿で揉み潰した後、空になった鍋をちらと見やる。洗っていない鍋を慧音に見られたらまた小言を言われるだろうな、と考えつつも面倒くさい。結局そのまま扉を潜った。
さて舞台は変わってここ。森の目の前に立てられた一軒の道具屋。小振りで簡素な佇まいの雑貨屋の前には、売り物と思しき訳の分からぬがらくた類が山のように積まれている。がらくた類からついと目線を上げてみると、見える看板に書かれているのは「香霖堂」の文字。中に目を移してみると、ある人物が安楽椅子に深く腰掛け、文庫本を読んでいる最中であった。男性としてはやや長髪の部類に入るだろうか。銀の髪を肩の上辺りで揃え、流している。眼鏡の奥に光る瞳は妹紅と同じような深紅色――だが、別段妹紅と血の繋がりが有るという訳ではない。青と、深い藍色の二色で染められた着流しを、紫の帯でさらりと纏めている。その知的な顔立ちは、ゆるりと安楽椅子に腰を掛け、読書をしている現在の姿と相まって、昭和の文豪を思い起こさせる。彼こそが香霖堂の店主、森近霖之助である。
はらり、はらりと軽快に頁を捲っていた指を止め、ふと入り口の方へ顔を上げると、丁度妹紅が店内へ入ってきた所であった。
「やあいらっしゃい。お久しぶりだね」
と、余程の捻くれ者でもない限り、純粋に好意を覚えるであろう眼差しに微笑を湛え、朝も中々早い時間からの客を歓迎した。
「お久しぶりと言うほどでもないだろう。先日買った煙草はたったの三箱だから、精々五日振りかしら」
「それしか経っていないのか。どうにも、人の来ない店で日がな一日ゆったりとした時間を過ごしていると、日にちの感覚が麻痺してしまう。ところで、本日は如何なご用事かな」
妹紅は煙草箱をポケットから取り出し、軽く左右に揺すった。かさかさと悲しげな音が鳴り、中身が寂しいことになっている、と訴えかけていた。
「煙草が切れそうでね。いつもの奴は置いてるかい」
妹紅の愛飲している煙草は、ここらでは比較的珍しい、ラムを香料に使った煙草である。妹紅曰く、外装を取った時のラムの香りが芳しくてこれはいい煙草だ、だの、咥えて吸っている時にも上品な香りがして旨い、だの、肺に落とした時の、脂が喉を通過するところも心地よい、一本くらい吸ってみたらどうだ、だの、煙草をやらない慧音にすらこのように熱弁振るう。それほど心酔している煙草なのだ。
「残念ながら在庫はない。入荷も未定だよ」
むう、と妹紅は分かりやすく不満顔。彼女は五日で三箱を吸う程度の喫煙量であるから、別段ヘビースモーカーという訳でもないのだが、矢張りそこは喫煙者の性、愛飲している銘柄が近くに無いと落ち着かないのだろう。
「こっちの煙草なんて如何かな。これも結構珍しい。バニラと言う香料を使った煙草でね。僕も試しに一本吸ってみたが、上品な香りと甘みが口に広がる。悪く無いと思うよ」
霖之助の取り出したクリーム色の外装をした煙草箱を手に取り、しげしげと珍しげに眺めてから妹紅は一言。
「前に売りつけてくれた、薄荷入りの煙草みたいな変わり種じゃあないだろうな」
「ああ、あれはどうも口に合わなかったみたいだね。煙を吸ったら清涼感を感じるなんて、面白いと思ったのだけれど」
「あれは酷かったぞ。冬の寒い日に、なんで態々清涼感を味わわねばならんのだ。燗を飲んで、体が温まったと思ったら煙草で冷やされるなんて。思いも寄らなかった」
以前ここで買った煙草が余程気に入らなかったのか、当時の事を思い出して、今こそこの不満、どうやってぶつけてやろうかと口を開く直前、霖之助にまあまあ、とりあえず一本お吸いよ。お代は結構だから。と勧められては気も抜ける。御丁寧に燐寸まで手に持ち、微笑を浮かべる霖之助にたじろぎつつも、紙巻を口に咥えた。
紫煙を口に含んでから一拍、二拍。口内で香りと味をじっくりと楽しみ、すう、と煙を肺に落とした。ほう、と煙を吐き出した顔は満足気の、この店主お勧めの銘柄は、なかなか妹紅を満足させたようだ。
「うまいな。甘い煙草なんぞどうかと思ったが、吸ってみたら嫌味のない。香りが良いのが、特に気に入った」
「趣味に合うものを紹介できて幸いだよ。只でさえ少ないお得意様が、店主の趣味が悪いからと足を向けてくれなくてはこっちも参ってしまう」
と、霖之助はころころ笑った。
煙草の燻る音と、風が窓を叩く音だけが、店内を満たしている。たっぷり時間を掛けて紙巻を根本まで吸い尽くした妹紅は、うむ、と確かめるように頷くと、それを五箱購入した。
購入した煙草をポケットに収めると、ふと思い出したようにこう言った。
「煙草を買うのも目的の一つだったが、もう一つあった。何か暇つぶしになるようなものはないかな」
「おや。今日は道案内は休業なのかい。まあそんな事はどうでも良い。丁度いい小説がある。それでも読んでみては如何かな」
どこに在ったかな、と呟きながら帳簿机の周りを探す霖之助。ああ、在った。と取り出したのは、一束に纏められた原稿用紙。
「ついぞ最近こっちに入ってきたものでね。短編だからさらりと読めるし、教訓めいたこともあって面白い。色々な解釈を聞きたかったんだが、如何せんこの店には人が来ないからね。本当に調度良かったよ」
「小説、か。まあ暇つぶしの娯楽としては及第点かな」
近くに在った椅子を引きよせ、どさりと腰を掛ける妹紅の大仰な。勝手に椅子を使われることや、灰皿を我が物顔で占領し、すぱすぱ煙草を吸う姿には慣れたものなのか、霖之助は何も言わない。それどころか、店内に人が一人いるのだからと、裏の方へ引っ込んで珈琲を淹れる始末。この店主にしてこの客あり、といった所だろうか。
淹れたての珈琲を妹紅に差し出し、自分の分を一啜り。満足気な微笑を湛えると、店主も読みさしの文庫本へと取り掛かった。
短編小説、と言うだけあって然程時間は掛からず。三十分程で妹紅は原稿用紙をばさりと机に放り出した。
「陳腐な友情物語、と片付けてしまえば簡単だが、そうでもないんだろうな。子供に読んで聴かせるのならば、信頼しあう友情の美しさやら、約束を守る大切さやら、色々含んで聞かせられる事があるから良いんじゃないか。と言うか私に小説の論評なんてさせないでくれ。遥か昔に軽く勉強をしただけなんだ」
遥か昔、とは如何なる事か。妹紅の外見、どう推し量っても二十歳前。さもすれば、何かの角度によって十代の前半にすら見える彼女が、遥か昔と形容するのは違和感がある。霖之助はその違和感に気づかないのか、ふむ、と相槌うっただけだった。
「捻くれた見方をすれば、これはメロスが愚かだったと言う話だな。最初にのこのこ王宮へ乗り込むなんて、愚かも過ぎるというものだろう。まあ、そうでなきゃ物語が始まらないのだから、身も蓋もない話しだが」
成程なあ、と霖之助は頷き、二の句を続けず空になったカップを持って裏へ引っ込んだ。また珈琲を入れに行ったのだろう。妹紅はまた、退屈持て余すようで。店内に有るてんでばらばらながらくたを手にとって、観察し始めた。興味は無さそうに色々ながらくたを眺めた後、妹紅が壺に手をかけた、その時。
「おや妹紅。こんなところで会うとは奇遇だな」
角ばった特徴的な帽子と、これまた妹紅に似た、日光を受け華やかに煌めく銀髪。涼やかで理知的な目元に驚きの表情を湛え、上白沢慧音がひょっこり顔を出した。
急に声を掛けられ、ぎくりと身を強張らせる妹紅。普段より、竹林の奥深くに暮らしている妹紅は、人と会話するのも余り多くはない。最近になりここ、香霖堂の店主やら、贔屓にしている屋台の店主やらとは話すようになったが、長年積み上げた、掘り下げたと言ったほうが良いか。その会話経験の無さ、一朝一夕で治るものではなく。店主と自分しか居ないと思っていた空間に、いきなり別の声響いたのだから驚いてしまった。
壺にかけた手も跳ね、ばしりと弾いてしまえばその勢いは止まらず。壺は真っ逆さまに床へと吸い込まれていき、ぱりんと破砕音伴って四散した。
「あーあ、何やってるんだ。私に声を掛けられた位でそんなに驚かなくても良いのに」
ほらどいたどいたと妹紅を退け、慧音は手際よく欠片を拾ってゆく。破砕音聞きつけた霖之助も、おやおやとの顔しながら掃除を手伝った。
「いやはや霖之助さん、うちの妹紅が粗相をしてしまって申し訳ない」
慧音が口火を切って謝ったものだから、妹紅も慌てて謝罪した。申し訳ない、壺の代金は弁償する、と。その句を聞いた霖之助、外見こそ柔和な微笑湛えたままなのだが、なんだかその、笑顔に内包する意味が変わったように妹紅には感じ受けられた。
「この壺を割っちゃったか。これは古来に作られた貴重な品でねえ。今ではまあ、まず手に入らない品だろうね。やれやれどうしようかなあ」
壺の欠片を袋に纏め、立ち上がった霖之助は、芝居がかった口調でそう言った。
「そうだ。実は今日お得意様に配達をしようと思っていた品物が有るんだ。どうだい、それを届けてくれないだろうか。最も、それだけじゃ吊り合わないから、戻ってきた時にもう少し働いてもらうことになるけど――」
芝居がかった口調のまま、慧音の方を見る。
「もしも妹紅さんが戻って来なかった時の保険だ。上白沢先生を人質としてここに置いてもらおう。日没までに戻ってこないのであれば先生が代わりに働いてもらう。ちょっと遅れてくるがいい。お前の罪は永遠に許そうぞ」
それを聞いても妹紅はおろおろするばかり。人付き合いが浅いせいで出た狼狽が、未だに続いているのだ。一方慧音は机に放り出された原稿用紙の束を目に止め、ははあと得心顔。狼狽冷めやらぬ、愛すべき隣人に救いの手を差し伸べた。
「霖之助さんも人が悪い。こんなに妹紅が狼狽してるじゃないか。走れメロスに重ね合わせるのは構わないけど、今言うことじゃないでしょう」
ばれたか、と霖之助は苦笑。その会話聞いてようやく妹紅も落ち着いたか、狼狽していた自分に腹をたてるように、ぶすりとした。
「まあまあ、本当はそこまで高いものじゃないけれど。割ってしまったのは本当だから仕様がない。埋め合わせに配達を頼まれてくれないかな」
そうまで言われては妹紅も断れぬ。元々暇を持て余して道具屋に来たのだし、自分が全面的に悪いのだからと、その依頼、承諾した。
「場所はここから行って、一時間ちょっとくらいかな。森を抜けると大きな湖にぶつかるから、そこを越えればすぐ分かる。紅魔館と言う大きな洋風の屋敷だよ」
それを聞いた妹紅、何かを考えるように小首傾げる。紅魔館という名前、以前何処かで聞いたような。はたと思い出したのは、紫の似合う女性の顔。そういえば、あの方が働いていると言っていた館が紅魔館と言ったっけ。
「場所は何となく分かる。前に知り合った人が、そこで働いてるとか言っていた。そうか。あの湖の畔にある館か」
「ほう。また偶然もあったものだ。序でに挨拶でもしてくると良い。じゃあこれ、使用人の十六夜さんと言う方に渡してくれ」
と、霖之助が言って寄越したのが片手にはちと余るくらいの麻袋。粒状のものが中でざらりと動くのを感じた。
「これは豆、か?」
ご名答、中を見ても構わないよ、との言に、妹紅麻袋の口を開く。中には黒々とした無数の豆粒。ふわりと、珈琲豆の香しい香りが漂った。
「紅魔館の主は紅茶を好むんだがね、屋敷に居る他の方々は、珈琲も嗜むらしい。それも結構な高級品だから、囓らないでくれよ」
そんなことするか、と妹紅は憤慨。どうにも妹紅、からかわれることにも余り慣れていないらしい。笑って流せば良いものを、額面通りに受け取って憤慨するのは、実直な性根の持ち主であることの証左だろうから、一概に悪いとは言えないが。
袋の口を閉め、よいしょと麻袋を肩に掛ける。じゃあ行ってくるよとの一声に、ちょっと遅れてくるがいい、とまだ吐かす霖之助。うるさい、遅れるか。との台詞を投げかけ、慧音のなにやら慈しむような視線をむず痒く背中に受けながら、香霖堂を後にした。
ざく、ざく、と雪を踏みしめ、森の街道を妹紅は歩く。雪中の行軍には慣れているし、竹林では食料を両手に抱えるほど持って歩くこともあるので、肩に掛かる重みも然程気にならない。木に積もった雪が、何処かで落ちる音がした。
四十分程で森を抜ける。目の前には、日光をきらきらと反射する水面。雪の白と相まって、幻想的な光景とも言えよう、湖が広がっていた。
ほう、と息をつき、麻袋を地面に下ろす。煙草を咥えると、湖の向こうに見える屋敷を見るとも無しに眺めた。
湖に面した門は非常に大きく、対岸から見ている妹紅からして、その威風堂々とした佇まい、感じさせるほどである。目を門から上げ、屋敷を眺めて最初に目につくのが中央に聳え立つ時計塔。時刻は一時過ぎを指している。尖塔の先には、鐘も付いているが、この鐘、鳴った所を見たものは余り居ない。それはこの鐘が真夜中に鳴ると言う奇々怪々な代物だからなのだが、妹紅が知る由もなし。全体的に窓が少なく、鬱屈した雰囲気を漂わせている。赤を基調とした外壁に雪は積もっておらず、使用人が大変な思いして雪降ろしをしたのであろうか。鮮烈なる赤色は、幻想的な雰囲気漂う湖とは裏腹に、酷く浮いているように妹紅には感じられた。
さて休憩は終わりだと、煙草を足裏で揉み潰し、妹紅は歩みを再開する。
門の前まで来ると、中華風の衣装を身につけ、星のワンポイントが付いた帽子を、目深に被った人物が居る。椅子に体を預け、こっくりこっくりと船を漕いでいる。赤髪の長髪が、目に鮮やかだ。
「あの……もうし、起きてらっしゃいますか」
声を掛けれど、赤髪の人物はまだ夢の中。筋肉質な太腿が、大きく開いたスリットから見えている。
気持よく寝ているであろう人を起こすのも気が引けるが、勝手に門を潜る程の非常識さは持ちあわせておらず、仕方なしにとんとん、と午睡を貪る赤髪の肩を叩いた。
ふにゅう、だの、うう、だの、寝ぼけているのか明瞭としない声を上げ、帽子から片目を覗かせて、妹紅を客と認めたか。慌てて立ち上がり姿勢を正すと、口元の涎を拭いながらこう言った。
「あわわ、これは失礼しました。えっと、お客人、でしょうか。今日は来客の予定は無いはずですが……」
「香霖堂の使いでやって来ました。この、珈琲豆を届けに」
ああ、と赤髪は頷く。
「こちらから暇を見て取りに伺う予定でしたのに。有難う御座います。今門を開けますね。屋敷の中に居る、咲夜さんに渡して下さい」
咲夜さん、と言うのが件の十六夜と言う使用人だろうか。其れを聞く間も無く、赤髪は通用口から中に入ると、巨大な門を開いた。
どうぞ、と促され妹紅は紅魔館の敷地へと足を踏み入れる。門から屋敷までも、中々長い。幾分気圧されそうになりながらも、赤髪に会釈して足を進めた。
「御免下さい、どなたか、いらっしゃいますか」
ぎい、と扉を押し開け入った屋敷の中は広く。二階へ続く重厚な階段と、周りには別館へ続く扉がひとつ、ふたつ。床には何かのまじないか、仄かに光る魔法陣がある。
階段の横にある扉からぱたぱたと足音を響かせて、洋装の使用人服に身を包んだ人物が現れた。
「お待ちしておりました藤原様。お寒い中、有難う御座います。温かいものを用意しますので、宜しかったらこちらへどうぞ」
使用人は、ふわりと流麗な動作で麻袋を受け取った後、妹紅を導く。
歓待してくれるのを断るのも気が引ける。とっとと帰って、慧音と一献傾けようと考えていた妹紅だが、進められるまま奥の客間へと通された。
豪華絢爛ではあるが嫌味のない、上品さが漂う客間である。内装も、赤を中心に使った色合いだが、目に痛くならないよう、暗めの色彩となっている。座ったソファも心地の良い。このような金持ちの家、腰が埋まるくらいに柔らかいソファがある、なぞが表現としてよく使われるが、ここのソファは柔らかすぎず、ゆったりと包まれる心持ちにさせてくれる。
目の前の使用人がいつ淹れたか、重厚なマホガニー製の机には、紅茶の入ったカップが湯気をたてていた。
「申し訳ありませんが、主人は只今出払っておりまして、挨拶に伺えません。せめてこちらでも召し上がって、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
「とんでもない、ただ物を届けただけで挨拶なんて。お茶を頂けるだけでも、十分すぎるほどありがたいです」
と、妹紅は恐縮しながらカップに口をつける。紅茶には然程馴染みのない妹紅だが、ふわ、と香る匂いも、その味も、相当な高級品であることが容易に感じられる。その香りで落ち着いたか、ふと先程の使用人の言葉に、疑問が生じた。
「あの、失礼ですが、先程私を待っていた、とおっしゃいましたよね。それに、私の名前も。私がここに来ることになったのは偶然の経緯ですし、そんな私の名前を何故ご存知だったのですか?」
其れを聞いた使用人、ああ、全てを見越すかのような眼差しを妹紅に向けて。
「従者たるもの、その程度を把握しておくのは、当然ですわ」
と微笑んだ。
疑問の答えになっていないものの、使用人の無駄の無い洗練された立ち振舞い、垢抜けた容姿と落ち着きを与える声、それらが醸し出す雰囲気から、有無を言わせぬ説得力が生まれていた。
其れ以上疑問を追求するのは野暮に感じられて。妹紅は成程、と呟いただけで納得することにした。
熱い紅茶を飲み、体も温まった。それでは、これで。と声掛けようとした時に、別の声が聞こえた。
「咲夜、どこに居るの。お茶を淹れてくれないかしら。咲夜――ああ、ここにいた」
声聞いただけでは、妹紅この家の主人が帰ってきたのかな、だの、やはりこの人の名前が咲夜さんで良かったんだな、だの、取り留めもないこと、考えていたのだが、入ってきた人物目の当たりにして、驚きの表情を見せる。
「あ……貴女は、パチュリーさんじゃないですか。お久しぶりです。私です。藤原妹紅です」
紫と白のゆったりとした縦縞襯衣に、薄紫のローブ。これも綺麗な紫色した長髪に、三日月の飾りがついた帽子を浅くかぶっている。眠そうに細められていた眼は、妹紅を見るなり皿のように開かれた。
「妹紅さん! どうして、こんなところに、いやだ、私ったらこんなはしたない格好で!」
と、客間に現れて、そうそうパチュリー慌てふためき、腕をぱたぱた。以前に屋台で出会った時の出で立ちと、変わらないように見えるのだが、そこは乙女心。例え同性と会うにしても、それなりの気合の入れ方というものがあるのだろう。
「嫌だわ本当に。来るなら連絡を入れてくだされば良いのに。急に来られるなんてお人の悪い。何も用意出来なかったわ」
「今日こちらに訪れたのは全くの偶然でして。暇を見て遊びに行こう、行こうとは思っていたのですが、どうにも機会に恵まれなくって」
会話を聞いて、咲夜嬢、珍しげな顔。
「これは珍しい。パチュリー様とお知り合いの方だとは。流石にそこまでは存じ上げませんでした。分かっていれば、すぐにでもパチュリー様をお連れ致しましたのに、申し訳ありません」
「いえそんな。人の交友関係まで、分かるもんじゃないでしょう。どうか、お気になさらず」
「そんなことより本当にお久しぶりね。色々とお話したいわ。咲夜、お茶を淹れてくれる。妹紅さんにもね」
畏まりました、と給事場へと姿を消す咲夜嬢。パチュリーは妹紅の向かい側のソファへ腰を下ろした。髪から甘い匂いが、漂ってきた気がした。
「あの屋台で一緒にお酒を頂いた日から、一ヶ月くらいかしら。本当に、お会いできて嬉しいわ」
「ええ、私もですよ。今日は荷物の運び屋としてここに来たんですが、依頼元で紅魔館、と言う名前を聞いた時、もしかしたら、と思ったんですが。まさか本当に会えるとは思いませんでした」
「私も普段は地下に篭っていて、上に来ることは稀なのだけど。今日会えたのは本当に偶然が重なった結果ね」
「地下、と言うと、図書館に勤めてらっしゃるとおっしゃってましたが、その図書館が地下に有るのですか?」
「ええ。そうだわ、良かったらその図書館を見て下さらないかしら――」
突然、玄関へ続く扉が勢い良く開かれる。門にいた、赤髪が息を切らして駆け込んできた。
「ああパチュリー様、調度良かった! 今図書館に向かおうとしていた所なのです。今彼奴が――」
「なんなの美鈴、騒々しい。今からこの方を図書館に案内しようとしていた所なのよ」
「ですから、その図書館に、あの泥棒、魔法使いが向かったのです!」
パチュリーはまたか、と呟き、苦々しい顔をする。達観したような、諦めたような、妹紅にはそんな表情をしているように見えた。
「今向かうわ。貴女は門の方で見張ってなさい。ごめんなさいね妹紅さん。図書館に鼠が入り込んだようなのよ。懲らしめたいけど、喘息の調子がどうかしら」
すっくと立ち上がり、軽く咳をしてから歩き出すパチュリー。その背中に、妹紅は声掛ける。
「あの、良かったら、私も手伝いましょうか」
と。
壁際を見ると、そこに取り付けられている本棚が、天井に届くほどの高さで聳え立っている。眼下にも膨大な数の本棚。各分類で分けられているのだろうか、本棚の側面には歴史書、小説、魔導書等のプレートが付けられている。入口近くには、座り心地の良さそうな一脚の椅子と、文机。文机の上には、読みさしと思しき分厚い本と、ティーセットが置かれている。先程までパチュリーがここで読書に没頭していたのだろう。地下にこのような広大な図書館が広がっていると知ったならば、慧音は狂喜乱舞して紅魔館に突入するだろうな、と妹紅は思った。
上を見上げてみると、箒に跨り、空を飛ぶ黒い影。あれこそが赤髪の言っていた泥棒とやらだろう。その影の小脇には、本をたっぷりと詰めた袋が抱えられている。
「魔理沙、いい加減に本を盗むのは止めなさい。ここに来て読むのだけなら構わないっていつも言っているでしょう」
「こっちこそいつも言ってるだろ。ここで読むのは性に合わない、って。大体これは盗んでるんじゃないぜ。無期限に借りてるだけだ」
「屁理屈を言って、本当いい加減に、なさいっ!」
パチュリーの手のひらから、赤、青、緑、黄、土、五色の弾が発射される。五色の光弾は、無尽蔵に出されるかと思うほど、図書館の空を埋め尽くす。しかし、魔理沙と呼ばれた泥棒は、いとも容易くそれらを避けた。
「調子が良くないようだなパチュリー。しっかり養生するといいぜ」
避けた勢いそのままに、ひょうと加速を付け泥棒は入り口への突破を試みる。が、本格的な加速を付ける前に、とん、と妹紅が飛び跳ねた。体はふわりと宙に浮き、眼光鋭く泥棒を射竦めんとす。人が宙に浮いたり、手のひらから弾丸を発射することは不思議だが、この張り詰めた空気で其れを指摘するのは、野暮と言うものだろう。
「盗んだもん置いてかない限り、逃さないよ。怪我したくないなら、とっとと謝って本を置いていきな」
「冗談はよしてくれ。こっちはこの本借りるためにやってきたんだ。手ぶらで帰っちゃ、来た意味が無い」
そうか、と一言投げ捨て、妹紅は怒涛の勢いで泥棒へ近づく。虚を突かれたか、慌てて泥棒は後ろへ逃げた。
「びっくりしたぜ、いきなり突進してくるなんて。大概こう言う時は遠距離から攻撃して様子見をするもんじゃないか? こんな感じになっ!」
服の内から取り出したのは、八角形の形した、奇妙な物体。中央になにやら、宝珠のようなものが埋め込まれている。ぐっと泥棒が握り締めると、宝珠が光を帯びた、気がした。
唐突に、光が満ちる。いや、満ちたのではない。妹紅の眼前に光の束が押し迫ってきたのだ。極度に圧縮された光の束は、物理的な力以ってして、妹紅にぶち当たった。
じゅう、と肉が焦げるような音。レーザーを顔面へまともに喰らってしまった哀れ妹紅、皮は溶け、肉を焼き、見るも無残な事になってしまったのか。
「痛いな。だけど、これくらいはそんなに苦じゃない」
ぷすぷすと漂う煙を払いのけ、以前と変わらぬ顔立ちで、妹紅はそこに浮いていた。これには泥棒も、驚き隠せぬようで。
「なんだお前、人間じゃないのか?」
「人間だと、思っていたいんだけどな」
ぽつり、含みのある言い方で漏らす妹紅。数瞬の間見せていた表情には、憂いが多く含まれていて。
「まあいい、マスタースパークが効かないなら、これはどうかな!」
泥棒は、あれほどの熱量を顔面に受け、平然とした顔している妹紅に驚愕こそするものの、恐慌には陥らず。さあ気を取り直してもう一発、と言わんばかりに、鋭利な切っ先持つ、五芒星の星屑を撒き散らした。
凄まじい勢いで放たれたそれは、狙い誤らず妹紅へと飛んでゆく。妹紅はふん、と片手を振り抜き、その幾つかを弾いた。
体に刺さるものもあるが、意にも止めず、反撃開始だと睨みつけるその目は、きゃっと言う悲鳴聞いて、そちらの方へ向けられた。
見れば、妹紅の弾いた星屑が、一つパチュリーの方へ飛んでゆく。突如飛んできた星屑に驚き、げほ、げほと咳き込むパチュリー。妹紅が弾いた星屑であるが、勢いは衰えず、ひゅんひゅん迫るがパチュリーの脳天へ!
その刹那、パチュリーと星屑の間へ割り込むは、すらりと伸びた白い手に握られている、ナイフが刀身の、冴えて冷たい。
この館の給仕長、十六夜咲夜嬢が寸隙の所で星屑を弾き落としたのだった。
「パチュリー様、ここは危ないですよ。喘息の調子が悪いのなら、奥へ引っ込んでましょう」
優しくパチュリーを介抱する咲夜嬢、妹紅の方を見やって声をかける。
「パチュリー様の事は任せて下さいまし。そちらの黒いのは、妹紅様にお任せして宜しいですか」
「任されるのは構わないが、こんなに燃えやすい物があっちゃ本気が出せそうに無いです。ちと時間を頂きますが、其れで良いなら」
「ここに保管されてる本は、防火、耐刃、その他なんでもござれの強化魔術を施し済みです。どうぞ遠慮なさらずに、のして下さいな」
「そうですか、其れを聞いて――」
ぼう、と、妹紅の周りに熱が集まる。熱気で、妹紅の周りが陽炎のように揺らめく。
「安心した」
豪炎燃ゆるは天を焦がし、静謐なる炎は地を溶かす。聖なる浄火に包まれるは神代の神々では無いのか。いや、轟々と燃え盛る火炎の中にあって、妹紅は神々しいまでの輝きを手に入れていた。熱により広がる白き髪は翼を幻視させ、手の上で揺らめく炎は、主神の持つ雷の槍を夢想させる。そしてその双眸には、紅い紅い、火が宿っていた。
「さあ、悪戯もここまでだ。まだ間に合うぞ。本を置いて謝ればよし、さもなくば、燃えるが良いさ」
その熱量に苦悶の表情を浮かべる泥棒。破れかぶれになったか、入り口目掛けて疾走する。しかし、その小脇に抱えられていた袋は、妹紅の炎によって焼かれ、本が宙に散らばった。
「有難う妹紅さん。なんとお礼を言って良いのやら」
ぎゅっぎゅと妹紅の両手を握り締めるパチュリー。
「贅沢を言うなら、もっと懲らしめて欲しかったのだけど」
つい軽口を叩くほど嬉しかったのか。その顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「いやそんな。私は人を燃やすのとかは余り得意じゃないので。こうもっと、どかんと火事を起こすようなものなら得意なんですが」
妹紅も軽口を叩いているのかと思うほど、物騒な発言だが、どうにもその、困ったような照れたような顔を見る限り冗談を言っているようでは無さそうだ。
「そんなに凄かったんですか。私も見たかったなあ。なんで呼んでくれなかったんですか咲夜さん」
「貴女の仕事は門の警備でしょう。それを疎かにして、面白そうだからと見物に来るなんて許しません」
咲夜嬢と赤髪も、妹紅を囲んで口々に称賛の言葉を投げかけている。そういえば、赤髪の名前を聞いてないな、と妹紅は思った。
「それで、良かったらお礼を兼ねて今晩食事をどうかしら。咲夜の料理は、絶品よ」
赤髪に気を取られていて、反応が遅れた。出掛けに霖之助の言った、慧音を人質にする、と言う言葉も心内で気に掛かっている。
「あ……いえ、迷惑だったら構わないのだけど……」
言葉に詰まった妹紅を見て、何か勘違いをしたか。ぼそぼそとつぶやくように発したパチュリーの言葉は、えらく自信無さげで、阿るような色合いを帯びていて。
「迷惑だなんてとんでもない! 是非ご一緒したいのですが、依頼事の途中ですし、そこで友人が待っているかもしれないのです」
妹紅は、ふと、遠くを見るような目をした。
「いや、友人が待っているのです。だから戻らねばなりません」
そう、なの、と肩を落とすパチュリー。帽子をくい、と深くかぶり直す。
「ですが、また是非ご一緒させて下さい。暇な日を、連絡します。三日以内には連絡します。その時には、どうぞ宜しくお願いしますね」
にこり、落ち着いた微笑みをパチュリーへ向ける。その笑顔見たパチュリーは、なんだか慌てた様子でまた帽子をかぶり直した。
「そ、その時は、腕によりをかけて歓待するわ。どうぞいつでもいらして下さい、むきゅう……」
もごもごと消え入るような声で告げるパチュリー。その様子を、咲夜嬢は優しく見守っていた。
紅魔館の外門を出て、振り返る。時計塔を見ると、時刻は四時半を指している。冬場で日が短いことを考えると、日没まであと一時間程か。紅魔館の入り口を見ると、パチュリーが玄関まで出てきて、こちらを見ている。ぺこり、頭を下げると、妹紅は軽く走りだした。
香霖堂からここまで来るのに、のんびり歩いて一時間半程度。まあ軽く走れば、日没までには間に合うだろう。別に間に合わなかった所で、霖之助が慧音に何かをするとも思えないが、香霖堂を出てくる時の、慧音の慈しむような視線が頭を離れない。胸の内でちくちくする。約束を守れぬことは、恥ずべきことだ、と言う文句が頭に浮かび上がった。
傾きはじめた日光を受け、水面が赤く光っている。いや、水面ではない。湖の表面は、硬く、凍りついていた。数時間前は凍る素振りなど見せていなかったのに、如何なる事か。訝しげに湖を見るが、時間がない。湖を突っ切っていけば、対岸の森まで時間を短縮できるだろう。とん、と慎重に足を載せ、割れないことを確認すると、凍った水の上を走りだした。
滑る足元に、些か体勢を崩しながらも、湖の中ほどまでやってきた。が、突然妹紅の視界がぐらりと揺れる。視界が揺れた後、妹紅の耳へ飛び込んできたのは、大きなものが水へと沈む音だった。
氷を突き破って、妹紅は水中へと落下していた。
慌てて水面へと顔を上げる。ここまで軽快とは言えないが、安定して進んできたのに。ここだけ氷が薄くなっていたのか。落ちた際に水をしこたま飲み込んだか、げほげほとした妹紅の咳は、氷の上に体を上げても収まらない。
「あはははは! 見事に引っ掛かったわ! やっぱりあたいったら天才ね!」
けたたましい、高い声が耳につく。声の主を探し、視線を上げると、小柄な少女がそこにいた。
「さあ、これに懲りたらもう勝手にあたいの縄張りに近づかないことね。もしもう一度見つけたら、その時はかちんこちんに凍らせちゃうわ!」
小柄でまるで妖精のような少女。羽根と思しきところは、透き通った氷で作られている。髪も蒼く、その服装も青を基調とした物であるため、とかく冷たい印象を受ける。実際、妹紅は少女の方から冷気を感じていた。
そんな氷の妖精、氷精とでも呼称しようか。氷精をぎり、と睨みつけ、妹紅は炎を宿らせる。
「私は急いでいるんだ、が、どうにもお礼をしてやりたくなってきたよ。図書館では、やっぱり怖くて本気を出せなかったしな。丁度良いさ、温めてあげよう――!」
炎に近づけば氷は溶けるのが自明の理。哀れ、氷精は、妹紅の逆鱗に触れた氷精は、描写の間も無く溶かされてしまった。まあ、この冬の寒さのことである。氷精ならば自然とまた凍って復活することだろう。
森の街道を、妹紅は走る、走る。余計なことで時間を取られてしまった。走り続けで、体は熱いはずなのに、水を浴びたのと冬の冷気で冷やされて、ちっとも暖かくならない。木々から漏れる光は、大分幽かになっていた。
慧音の顔が頭をよぎる。いつもの、笑顔が思い浮かぶ。妹紅のためにと用意した、食事が思い浮かぶ。声が、思い浮かぶ。匂いが、思い浮かぶ。
もうどうにも間に合いそうにない。私は恥ずべき人間だ。約束も守れぬ人間だ。私が帰ったら、慧音はどんな顔をするだろうか。いつものように、笑顔で迎えてくれるに違いない。しかし、私はその笑顔に向けられる顔を持ち合わせていない。私が考えているだけなのかもしれないが、向けられる顔が無いのだ。
結局、香霖堂に着いたのは日が暮れてから数分後の事だった。頭から体まで、汗だか水だか分からない液体でびしょ濡れだった。
「ただいま……」
恐る恐る扉を開ける。暖かな夕餉の匂いがした。
「おかえり、遅かったな。って、酷く濡れているじゃないか! 一体どうしたんだ」
矢張り慧音は笑顔で迎えてくれた。しかし妹紅はその顔を直視できない。俯きながら、只、髪から落ちる水滴を眺めていた。
「服もこんなに濡れちまって。さぞ寒かっただろう。タオルを借りて躰を拭こう。ほら、其れが済んだら暖かい食事も用意してあるから、とにかく温まらなきゃ」
奥からタオルを借りてきて、髪の毛をわしわしと拭う慧音。なされるがままの妹紅、ぽつり、と言葉を漏らした。
「慧音、私は、約束を守れなかった」
「約束なんて。あれは霖之助さんの悪ふざけだろう?」
「違うんだ。悪ふざけだったとしても、慧音を人質として残して、そんな状況なのに約束を守れなかった。悔しくて、悲しくて、申し訳なくって、慧音に合わせる顔が無い」
消え入りそうな声を聞いた慧音は、ぽり、と頭を掻いてから、ぎゅっと妹紅を抱き寄せた。
「なにを言ってるんだ。こんなに汗だくになって、冷たい肌して。鼓動も物凄い。ここまで一生懸命に駆けて来たんだろう? その心持が、私は嬉しい」
ぱっと体を離した後、満面の笑みを妹紅に向けて。
「妹紅は私の最高の友人だ。下らない約束を律儀に守ろうとするところも大好きだ。ありがとう。私は幸せものだよ」
ぶわり、妹紅の目に涙が浮かぶ。これまで堪えていたものが溢れでたか、堰を切ったように涙を流し、慧音の胸に顔を埋めた。
「さあ、落ち着いたら躰を拭こう。湯も借りるか? 私が温めてやってもいいぞ」
うん、うん、と頷きながら、ぐしぐしと涙を流し続ける妹紅。香霖堂を出る時よりも、もっと慈しんだ目をして慧音は妹紅の頭を撫でた。
暫くして、やっと落ち着いたか、慧音から体を離し、袖で顔を拭う妹紅。その顔には、照れた、はにかんだ笑顔が浮かんでいた。
「あー、もう良いかな。いちゃつくのは構わないんだが、そういうのは他人の家でやらないで、自分らの家でやってくれないかな。こんな無精男に、見せるもんじゃないだろう」
妹紅は、酷く赤面した。
そのような竹林の奥深く――迷いの森とも呼べそうな竹林の奥深くに、一軒の襤褸小屋があった。トタンで作られたと思しき壁は朽ち、その全面に修復の跡が見える。トタンの壁には不釣り合いな藁を載せて、防寒だろうか。そのような努力の甲斐甲斐しい跡が見られる屋根も、手入れが成されていないのだろう、一部が剥がれ、梅雨の時期なぞ部屋の中では盥にお椀に大いに雨水が貯まることが見て取れる。南側と東側に有る窓は、台風の時期の対策である板張りがなされ、ここ数年間は換気をすることもなく、原初的な雰囲気を残すこの竹林を、中からろくろく見越すこともなく、その本分を果たせないでいる。
襤褸小屋の周りに目を向けてみると、ドラム缶で拵えた五右衛門風呂、中には昨夜からの寒波で凍え、氷結寸前の水。薪を作る為の斧、とこれから薪となるであろう木材など。崩壊寸前と見て取れる襤褸の小屋にしては、周りに生活感が漂っている。それもその筈。襤褸小屋の中には毛布に包まり(見てくれはズダ袋に包まっているようだが、当人にとっては立派な毛布なのであろう)、壁に背をもたれかけ、見るからに寝辛そうな格好の人影が一人。外の雪の色を溶かした様な透き通る銀髪が毛布からまろびでている。
日光が煌々と煌めいている。からりと晴れた冬の朝である。その人物はもそりと壁から背を離し、板張りの窓から漏れる日光にちと目を顰めた。その目の虹彩は真紅、いや、深紅と称すべきか。深く深く引きこまれそうな程極上の紅色を湛えている。ばさりと毛布を跳ね除け、立ち上がると体を解すようにうんと伸びをした。その風体は痩せぎすな、一見不健康とも見て取れそうなほど絞られた体であることが一目でわかる。寝具の横においてあった、白色の襯衣を身に付け、更に緋色の地に、呪符、であろうか。梵字のような、そうでもないような、見たこともない文字が書かれた呪符をまぶした意匠の、もんぺをしなやかな足に通した。それをぱちり、とサスペンダーで吊り、幾ら家の中に居るとはいえ、外は極寒の雪化粧である。いささか軽装に過ぎる姿のその人物の名は藤原妹紅。
白と赤、二色の大きなリボンを頭頂に結わえ付け、其れよりも小さめなリボンを使い、毛先を一つ二つと纏めてゆく。身支度を整えた妹紅が先に向かったのは部屋の中央にどんと鎮座している囲炉裏だった。この囲炉裏、実は友人たる上白沢慧音の自信作である。囲炉裏に火を起こすと、熱気は上へと逃げてゆく。それを囲炉裏自体、床から一段下げたところに作る。そうすることで、床下に熱気が向かい、部屋を床から温めてくれると言う優れ物なのだ。部屋で火を起こす時に一番問題となるであろう煙も、熱気と同様に床下へ逃げてゆくので、部屋の中が煙くならない。そのような恩恵を享受しているはずの妹紅であるが、実際のところ、囲炉裏が一段下にあるから、火を起こすのに腰を大分屈めなくてはいけない。これは億劫だなあ、と心内で考えているので慧音が救われない。
その囲炉裏には、夜の冷え込みを防ぐためか、炭が燻っている。その上に吊るされている鍋。中には大根、蕪、その他山菜など、根菜類を中心とした、野菜のたっぷり入った粥が良い香りを放っている。器に移すのも面倒だとばかりに鍋を下ろし、がつがつと箸で掻き込む妹紅のなんたる男らしいことか! 顔立ちは吊り目がちではあるものの、十全に美人の範疇であり、先述した緋色の眼差しなど、ミステリアスな魅力に溢れている。例えば、器に盛ってから匙で上品に粥を啜るだけでも印象は違うだろうに、今部屋にいるのは一人だからと気兼ねなく食べているのか、は知らないが、そのようにする様子は全くない。
粥を食らい終えひと心地、のもんぺのポケットから取り出したのは、くしゃくしゃに寄れた煙草箱。中から紙巻煙草を一本咥え、人差し指をその先端に持ってゆくと、煙草がじりり、と燻った。はて、火種も無しに人差し指を向けただけで火の点く煙草のどれほど面妖なことか。妹紅はそのようなこと、欠片も思っておらぬ様子で紫煙を楽しんでいる。
煙草をくゆらせながら、さて、今日は何か予定でもあったかしらんと思案顔の妹紅。彼女、この竹林の案内役を生業としているのだが、客の来る予定もない。と、いうのも、態々このような辺境の竹林へ観光目的で訪れる酔狂な人物など居らず。妹紅に案内を頼むその殆どが、竹林の中、迷いやすいところに鎮座している、永遠亭という屋敷目当ての者ばかりなのだ。永遠亭には非常に優秀な薬師がおり、その薬師がまた珍妙な人物で。数々の騒動を起こしているのだが、この物語には関係のないことなので省かせていただく。とまあその薬師も今現在、永遠亭の住人らとともに出掛けているので、妹紅の生業も本日のところ休業中、といった次第だ。
日銭を稼ぐ予定もなく、さりとてこのまま家に引きこもるのも建設的ではないな、と考える。ああ煙草が切れそうだ。雑貨屋に行けば序でに暇つぶしも出来るだろう、と思い立てば即行動が性分の妹紅。さて出るかと腰を上げ、煙草を灰皿で揉み潰した後、空になった鍋をちらと見やる。洗っていない鍋を慧音に見られたらまた小言を言われるだろうな、と考えつつも面倒くさい。結局そのまま扉を潜った。
さて舞台は変わってここ。森の目の前に立てられた一軒の道具屋。小振りで簡素な佇まいの雑貨屋の前には、売り物と思しき訳の分からぬがらくた類が山のように積まれている。がらくた類からついと目線を上げてみると、見える看板に書かれているのは「香霖堂」の文字。中に目を移してみると、ある人物が安楽椅子に深く腰掛け、文庫本を読んでいる最中であった。男性としてはやや長髪の部類に入るだろうか。銀の髪を肩の上辺りで揃え、流している。眼鏡の奥に光る瞳は妹紅と同じような深紅色――だが、別段妹紅と血の繋がりが有るという訳ではない。青と、深い藍色の二色で染められた着流しを、紫の帯でさらりと纏めている。その知的な顔立ちは、ゆるりと安楽椅子に腰を掛け、読書をしている現在の姿と相まって、昭和の文豪を思い起こさせる。彼こそが香霖堂の店主、森近霖之助である。
はらり、はらりと軽快に頁を捲っていた指を止め、ふと入り口の方へ顔を上げると、丁度妹紅が店内へ入ってきた所であった。
「やあいらっしゃい。お久しぶりだね」
と、余程の捻くれ者でもない限り、純粋に好意を覚えるであろう眼差しに微笑を湛え、朝も中々早い時間からの客を歓迎した。
「お久しぶりと言うほどでもないだろう。先日買った煙草はたったの三箱だから、精々五日振りかしら」
「それしか経っていないのか。どうにも、人の来ない店で日がな一日ゆったりとした時間を過ごしていると、日にちの感覚が麻痺してしまう。ところで、本日は如何なご用事かな」
妹紅は煙草箱をポケットから取り出し、軽く左右に揺すった。かさかさと悲しげな音が鳴り、中身が寂しいことになっている、と訴えかけていた。
「煙草が切れそうでね。いつもの奴は置いてるかい」
妹紅の愛飲している煙草は、ここらでは比較的珍しい、ラムを香料に使った煙草である。妹紅曰く、外装を取った時のラムの香りが芳しくてこれはいい煙草だ、だの、咥えて吸っている時にも上品な香りがして旨い、だの、肺に落とした時の、脂が喉を通過するところも心地よい、一本くらい吸ってみたらどうだ、だの、煙草をやらない慧音にすらこのように熱弁振るう。それほど心酔している煙草なのだ。
「残念ながら在庫はない。入荷も未定だよ」
むう、と妹紅は分かりやすく不満顔。彼女は五日で三箱を吸う程度の喫煙量であるから、別段ヘビースモーカーという訳でもないのだが、矢張りそこは喫煙者の性、愛飲している銘柄が近くに無いと落ち着かないのだろう。
「こっちの煙草なんて如何かな。これも結構珍しい。バニラと言う香料を使った煙草でね。僕も試しに一本吸ってみたが、上品な香りと甘みが口に広がる。悪く無いと思うよ」
霖之助の取り出したクリーム色の外装をした煙草箱を手に取り、しげしげと珍しげに眺めてから妹紅は一言。
「前に売りつけてくれた、薄荷入りの煙草みたいな変わり種じゃあないだろうな」
「ああ、あれはどうも口に合わなかったみたいだね。煙を吸ったら清涼感を感じるなんて、面白いと思ったのだけれど」
「あれは酷かったぞ。冬の寒い日に、なんで態々清涼感を味わわねばならんのだ。燗を飲んで、体が温まったと思ったら煙草で冷やされるなんて。思いも寄らなかった」
以前ここで買った煙草が余程気に入らなかったのか、当時の事を思い出して、今こそこの不満、どうやってぶつけてやろうかと口を開く直前、霖之助にまあまあ、とりあえず一本お吸いよ。お代は結構だから。と勧められては気も抜ける。御丁寧に燐寸まで手に持ち、微笑を浮かべる霖之助にたじろぎつつも、紙巻を口に咥えた。
紫煙を口に含んでから一拍、二拍。口内で香りと味をじっくりと楽しみ、すう、と煙を肺に落とした。ほう、と煙を吐き出した顔は満足気の、この店主お勧めの銘柄は、なかなか妹紅を満足させたようだ。
「うまいな。甘い煙草なんぞどうかと思ったが、吸ってみたら嫌味のない。香りが良いのが、特に気に入った」
「趣味に合うものを紹介できて幸いだよ。只でさえ少ないお得意様が、店主の趣味が悪いからと足を向けてくれなくてはこっちも参ってしまう」
と、霖之助はころころ笑った。
煙草の燻る音と、風が窓を叩く音だけが、店内を満たしている。たっぷり時間を掛けて紙巻を根本まで吸い尽くした妹紅は、うむ、と確かめるように頷くと、それを五箱購入した。
購入した煙草をポケットに収めると、ふと思い出したようにこう言った。
「煙草を買うのも目的の一つだったが、もう一つあった。何か暇つぶしになるようなものはないかな」
「おや。今日は道案内は休業なのかい。まあそんな事はどうでも良い。丁度いい小説がある。それでも読んでみては如何かな」
どこに在ったかな、と呟きながら帳簿机の周りを探す霖之助。ああ、在った。と取り出したのは、一束に纏められた原稿用紙。
「ついぞ最近こっちに入ってきたものでね。短編だからさらりと読めるし、教訓めいたこともあって面白い。色々な解釈を聞きたかったんだが、如何せんこの店には人が来ないからね。本当に調度良かったよ」
「小説、か。まあ暇つぶしの娯楽としては及第点かな」
近くに在った椅子を引きよせ、どさりと腰を掛ける妹紅の大仰な。勝手に椅子を使われることや、灰皿を我が物顔で占領し、すぱすぱ煙草を吸う姿には慣れたものなのか、霖之助は何も言わない。それどころか、店内に人が一人いるのだからと、裏の方へ引っ込んで珈琲を淹れる始末。この店主にしてこの客あり、といった所だろうか。
淹れたての珈琲を妹紅に差し出し、自分の分を一啜り。満足気な微笑を湛えると、店主も読みさしの文庫本へと取り掛かった。
短編小説、と言うだけあって然程時間は掛からず。三十分程で妹紅は原稿用紙をばさりと机に放り出した。
「陳腐な友情物語、と片付けてしまえば簡単だが、そうでもないんだろうな。子供に読んで聴かせるのならば、信頼しあう友情の美しさやら、約束を守る大切さやら、色々含んで聞かせられる事があるから良いんじゃないか。と言うか私に小説の論評なんてさせないでくれ。遥か昔に軽く勉強をしただけなんだ」
遥か昔、とは如何なる事か。妹紅の外見、どう推し量っても二十歳前。さもすれば、何かの角度によって十代の前半にすら見える彼女が、遥か昔と形容するのは違和感がある。霖之助はその違和感に気づかないのか、ふむ、と相槌うっただけだった。
「捻くれた見方をすれば、これはメロスが愚かだったと言う話だな。最初にのこのこ王宮へ乗り込むなんて、愚かも過ぎるというものだろう。まあ、そうでなきゃ物語が始まらないのだから、身も蓋もない話しだが」
成程なあ、と霖之助は頷き、二の句を続けず空になったカップを持って裏へ引っ込んだ。また珈琲を入れに行ったのだろう。妹紅はまた、退屈持て余すようで。店内に有るてんでばらばらながらくたを手にとって、観察し始めた。興味は無さそうに色々ながらくたを眺めた後、妹紅が壺に手をかけた、その時。
「おや妹紅。こんなところで会うとは奇遇だな」
角ばった特徴的な帽子と、これまた妹紅に似た、日光を受け華やかに煌めく銀髪。涼やかで理知的な目元に驚きの表情を湛え、上白沢慧音がひょっこり顔を出した。
急に声を掛けられ、ぎくりと身を強張らせる妹紅。普段より、竹林の奥深くに暮らしている妹紅は、人と会話するのも余り多くはない。最近になりここ、香霖堂の店主やら、贔屓にしている屋台の店主やらとは話すようになったが、長年積み上げた、掘り下げたと言ったほうが良いか。その会話経験の無さ、一朝一夕で治るものではなく。店主と自分しか居ないと思っていた空間に、いきなり別の声響いたのだから驚いてしまった。
壺にかけた手も跳ね、ばしりと弾いてしまえばその勢いは止まらず。壺は真っ逆さまに床へと吸い込まれていき、ぱりんと破砕音伴って四散した。
「あーあ、何やってるんだ。私に声を掛けられた位でそんなに驚かなくても良いのに」
ほらどいたどいたと妹紅を退け、慧音は手際よく欠片を拾ってゆく。破砕音聞きつけた霖之助も、おやおやとの顔しながら掃除を手伝った。
「いやはや霖之助さん、うちの妹紅が粗相をしてしまって申し訳ない」
慧音が口火を切って謝ったものだから、妹紅も慌てて謝罪した。申し訳ない、壺の代金は弁償する、と。その句を聞いた霖之助、外見こそ柔和な微笑湛えたままなのだが、なんだかその、笑顔に内包する意味が変わったように妹紅には感じ受けられた。
「この壺を割っちゃったか。これは古来に作られた貴重な品でねえ。今ではまあ、まず手に入らない品だろうね。やれやれどうしようかなあ」
壺の欠片を袋に纏め、立ち上がった霖之助は、芝居がかった口調でそう言った。
「そうだ。実は今日お得意様に配達をしようと思っていた品物が有るんだ。どうだい、それを届けてくれないだろうか。最も、それだけじゃ吊り合わないから、戻ってきた時にもう少し働いてもらうことになるけど――」
芝居がかった口調のまま、慧音の方を見る。
「もしも妹紅さんが戻って来なかった時の保険だ。上白沢先生を人質としてここに置いてもらおう。日没までに戻ってこないのであれば先生が代わりに働いてもらう。ちょっと遅れてくるがいい。お前の罪は永遠に許そうぞ」
それを聞いても妹紅はおろおろするばかり。人付き合いが浅いせいで出た狼狽が、未だに続いているのだ。一方慧音は机に放り出された原稿用紙の束を目に止め、ははあと得心顔。狼狽冷めやらぬ、愛すべき隣人に救いの手を差し伸べた。
「霖之助さんも人が悪い。こんなに妹紅が狼狽してるじゃないか。走れメロスに重ね合わせるのは構わないけど、今言うことじゃないでしょう」
ばれたか、と霖之助は苦笑。その会話聞いてようやく妹紅も落ち着いたか、狼狽していた自分に腹をたてるように、ぶすりとした。
「まあまあ、本当はそこまで高いものじゃないけれど。割ってしまったのは本当だから仕様がない。埋め合わせに配達を頼まれてくれないかな」
そうまで言われては妹紅も断れぬ。元々暇を持て余して道具屋に来たのだし、自分が全面的に悪いのだからと、その依頼、承諾した。
「場所はここから行って、一時間ちょっとくらいかな。森を抜けると大きな湖にぶつかるから、そこを越えればすぐ分かる。紅魔館と言う大きな洋風の屋敷だよ」
それを聞いた妹紅、何かを考えるように小首傾げる。紅魔館という名前、以前何処かで聞いたような。はたと思い出したのは、紫の似合う女性の顔。そういえば、あの方が働いていると言っていた館が紅魔館と言ったっけ。
「場所は何となく分かる。前に知り合った人が、そこで働いてるとか言っていた。そうか。あの湖の畔にある館か」
「ほう。また偶然もあったものだ。序でに挨拶でもしてくると良い。じゃあこれ、使用人の十六夜さんと言う方に渡してくれ」
と、霖之助が言って寄越したのが片手にはちと余るくらいの麻袋。粒状のものが中でざらりと動くのを感じた。
「これは豆、か?」
ご名答、中を見ても構わないよ、との言に、妹紅麻袋の口を開く。中には黒々とした無数の豆粒。ふわりと、珈琲豆の香しい香りが漂った。
「紅魔館の主は紅茶を好むんだがね、屋敷に居る他の方々は、珈琲も嗜むらしい。それも結構な高級品だから、囓らないでくれよ」
そんなことするか、と妹紅は憤慨。どうにも妹紅、からかわれることにも余り慣れていないらしい。笑って流せば良いものを、額面通りに受け取って憤慨するのは、実直な性根の持ち主であることの証左だろうから、一概に悪いとは言えないが。
袋の口を閉め、よいしょと麻袋を肩に掛ける。じゃあ行ってくるよとの一声に、ちょっと遅れてくるがいい、とまだ吐かす霖之助。うるさい、遅れるか。との台詞を投げかけ、慧音のなにやら慈しむような視線をむず痒く背中に受けながら、香霖堂を後にした。
ざく、ざく、と雪を踏みしめ、森の街道を妹紅は歩く。雪中の行軍には慣れているし、竹林では食料を両手に抱えるほど持って歩くこともあるので、肩に掛かる重みも然程気にならない。木に積もった雪が、何処かで落ちる音がした。
四十分程で森を抜ける。目の前には、日光をきらきらと反射する水面。雪の白と相まって、幻想的な光景とも言えよう、湖が広がっていた。
ほう、と息をつき、麻袋を地面に下ろす。煙草を咥えると、湖の向こうに見える屋敷を見るとも無しに眺めた。
湖に面した門は非常に大きく、対岸から見ている妹紅からして、その威風堂々とした佇まい、感じさせるほどである。目を門から上げ、屋敷を眺めて最初に目につくのが中央に聳え立つ時計塔。時刻は一時過ぎを指している。尖塔の先には、鐘も付いているが、この鐘、鳴った所を見たものは余り居ない。それはこの鐘が真夜中に鳴ると言う奇々怪々な代物だからなのだが、妹紅が知る由もなし。全体的に窓が少なく、鬱屈した雰囲気を漂わせている。赤を基調とした外壁に雪は積もっておらず、使用人が大変な思いして雪降ろしをしたのであろうか。鮮烈なる赤色は、幻想的な雰囲気漂う湖とは裏腹に、酷く浮いているように妹紅には感じられた。
さて休憩は終わりだと、煙草を足裏で揉み潰し、妹紅は歩みを再開する。
門の前まで来ると、中華風の衣装を身につけ、星のワンポイントが付いた帽子を、目深に被った人物が居る。椅子に体を預け、こっくりこっくりと船を漕いでいる。赤髪の長髪が、目に鮮やかだ。
「あの……もうし、起きてらっしゃいますか」
声を掛けれど、赤髪の人物はまだ夢の中。筋肉質な太腿が、大きく開いたスリットから見えている。
気持よく寝ているであろう人を起こすのも気が引けるが、勝手に門を潜る程の非常識さは持ちあわせておらず、仕方なしにとんとん、と午睡を貪る赤髪の肩を叩いた。
ふにゅう、だの、うう、だの、寝ぼけているのか明瞭としない声を上げ、帽子から片目を覗かせて、妹紅を客と認めたか。慌てて立ち上がり姿勢を正すと、口元の涎を拭いながらこう言った。
「あわわ、これは失礼しました。えっと、お客人、でしょうか。今日は来客の予定は無いはずですが……」
「香霖堂の使いでやって来ました。この、珈琲豆を届けに」
ああ、と赤髪は頷く。
「こちらから暇を見て取りに伺う予定でしたのに。有難う御座います。今門を開けますね。屋敷の中に居る、咲夜さんに渡して下さい」
咲夜さん、と言うのが件の十六夜と言う使用人だろうか。其れを聞く間も無く、赤髪は通用口から中に入ると、巨大な門を開いた。
どうぞ、と促され妹紅は紅魔館の敷地へと足を踏み入れる。門から屋敷までも、中々長い。幾分気圧されそうになりながらも、赤髪に会釈して足を進めた。
「御免下さい、どなたか、いらっしゃいますか」
ぎい、と扉を押し開け入った屋敷の中は広く。二階へ続く重厚な階段と、周りには別館へ続く扉がひとつ、ふたつ。床には何かのまじないか、仄かに光る魔法陣がある。
階段の横にある扉からぱたぱたと足音を響かせて、洋装の使用人服に身を包んだ人物が現れた。
「お待ちしておりました藤原様。お寒い中、有難う御座います。温かいものを用意しますので、宜しかったらこちらへどうぞ」
使用人は、ふわりと流麗な動作で麻袋を受け取った後、妹紅を導く。
歓待してくれるのを断るのも気が引ける。とっとと帰って、慧音と一献傾けようと考えていた妹紅だが、進められるまま奥の客間へと通された。
豪華絢爛ではあるが嫌味のない、上品さが漂う客間である。内装も、赤を中心に使った色合いだが、目に痛くならないよう、暗めの色彩となっている。座ったソファも心地の良い。このような金持ちの家、腰が埋まるくらいに柔らかいソファがある、なぞが表現としてよく使われるが、ここのソファは柔らかすぎず、ゆったりと包まれる心持ちにさせてくれる。
目の前の使用人がいつ淹れたか、重厚なマホガニー製の机には、紅茶の入ったカップが湯気をたてていた。
「申し訳ありませんが、主人は只今出払っておりまして、挨拶に伺えません。せめてこちらでも召し上がって、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
「とんでもない、ただ物を届けただけで挨拶なんて。お茶を頂けるだけでも、十分すぎるほどありがたいです」
と、妹紅は恐縮しながらカップに口をつける。紅茶には然程馴染みのない妹紅だが、ふわ、と香る匂いも、その味も、相当な高級品であることが容易に感じられる。その香りで落ち着いたか、ふと先程の使用人の言葉に、疑問が生じた。
「あの、失礼ですが、先程私を待っていた、とおっしゃいましたよね。それに、私の名前も。私がここに来ることになったのは偶然の経緯ですし、そんな私の名前を何故ご存知だったのですか?」
其れを聞いた使用人、ああ、全てを見越すかのような眼差しを妹紅に向けて。
「従者たるもの、その程度を把握しておくのは、当然ですわ」
と微笑んだ。
疑問の答えになっていないものの、使用人の無駄の無い洗練された立ち振舞い、垢抜けた容姿と落ち着きを与える声、それらが醸し出す雰囲気から、有無を言わせぬ説得力が生まれていた。
其れ以上疑問を追求するのは野暮に感じられて。妹紅は成程、と呟いただけで納得することにした。
熱い紅茶を飲み、体も温まった。それでは、これで。と声掛けようとした時に、別の声が聞こえた。
「咲夜、どこに居るの。お茶を淹れてくれないかしら。咲夜――ああ、ここにいた」
声聞いただけでは、妹紅この家の主人が帰ってきたのかな、だの、やはりこの人の名前が咲夜さんで良かったんだな、だの、取り留めもないこと、考えていたのだが、入ってきた人物目の当たりにして、驚きの表情を見せる。
「あ……貴女は、パチュリーさんじゃないですか。お久しぶりです。私です。藤原妹紅です」
紫と白のゆったりとした縦縞襯衣に、薄紫のローブ。これも綺麗な紫色した長髪に、三日月の飾りがついた帽子を浅くかぶっている。眠そうに細められていた眼は、妹紅を見るなり皿のように開かれた。
「妹紅さん! どうして、こんなところに、いやだ、私ったらこんなはしたない格好で!」
と、客間に現れて、そうそうパチュリー慌てふためき、腕をぱたぱた。以前に屋台で出会った時の出で立ちと、変わらないように見えるのだが、そこは乙女心。例え同性と会うにしても、それなりの気合の入れ方というものがあるのだろう。
「嫌だわ本当に。来るなら連絡を入れてくだされば良いのに。急に来られるなんてお人の悪い。何も用意出来なかったわ」
「今日こちらに訪れたのは全くの偶然でして。暇を見て遊びに行こう、行こうとは思っていたのですが、どうにも機会に恵まれなくって」
会話を聞いて、咲夜嬢、珍しげな顔。
「これは珍しい。パチュリー様とお知り合いの方だとは。流石にそこまでは存じ上げませんでした。分かっていれば、すぐにでもパチュリー様をお連れ致しましたのに、申し訳ありません」
「いえそんな。人の交友関係まで、分かるもんじゃないでしょう。どうか、お気になさらず」
「そんなことより本当にお久しぶりね。色々とお話したいわ。咲夜、お茶を淹れてくれる。妹紅さんにもね」
畏まりました、と給事場へと姿を消す咲夜嬢。パチュリーは妹紅の向かい側のソファへ腰を下ろした。髪から甘い匂いが、漂ってきた気がした。
「あの屋台で一緒にお酒を頂いた日から、一ヶ月くらいかしら。本当に、お会いできて嬉しいわ」
「ええ、私もですよ。今日は荷物の運び屋としてここに来たんですが、依頼元で紅魔館、と言う名前を聞いた時、もしかしたら、と思ったんですが。まさか本当に会えるとは思いませんでした」
「私も普段は地下に篭っていて、上に来ることは稀なのだけど。今日会えたのは本当に偶然が重なった結果ね」
「地下、と言うと、図書館に勤めてらっしゃるとおっしゃってましたが、その図書館が地下に有るのですか?」
「ええ。そうだわ、良かったらその図書館を見て下さらないかしら――」
突然、玄関へ続く扉が勢い良く開かれる。門にいた、赤髪が息を切らして駆け込んできた。
「ああパチュリー様、調度良かった! 今図書館に向かおうとしていた所なのです。今彼奴が――」
「なんなの美鈴、騒々しい。今からこの方を図書館に案内しようとしていた所なのよ」
「ですから、その図書館に、あの泥棒、魔法使いが向かったのです!」
パチュリーはまたか、と呟き、苦々しい顔をする。達観したような、諦めたような、妹紅にはそんな表情をしているように見えた。
「今向かうわ。貴女は門の方で見張ってなさい。ごめんなさいね妹紅さん。図書館に鼠が入り込んだようなのよ。懲らしめたいけど、喘息の調子がどうかしら」
すっくと立ち上がり、軽く咳をしてから歩き出すパチュリー。その背中に、妹紅は声掛ける。
「あの、良かったら、私も手伝いましょうか」
と。
壁際を見ると、そこに取り付けられている本棚が、天井に届くほどの高さで聳え立っている。眼下にも膨大な数の本棚。各分類で分けられているのだろうか、本棚の側面には歴史書、小説、魔導書等のプレートが付けられている。入口近くには、座り心地の良さそうな一脚の椅子と、文机。文机の上には、読みさしと思しき分厚い本と、ティーセットが置かれている。先程までパチュリーがここで読書に没頭していたのだろう。地下にこのような広大な図書館が広がっていると知ったならば、慧音は狂喜乱舞して紅魔館に突入するだろうな、と妹紅は思った。
上を見上げてみると、箒に跨り、空を飛ぶ黒い影。あれこそが赤髪の言っていた泥棒とやらだろう。その影の小脇には、本をたっぷりと詰めた袋が抱えられている。
「魔理沙、いい加減に本を盗むのは止めなさい。ここに来て読むのだけなら構わないっていつも言っているでしょう」
「こっちこそいつも言ってるだろ。ここで読むのは性に合わない、って。大体これは盗んでるんじゃないぜ。無期限に借りてるだけだ」
「屁理屈を言って、本当いい加減に、なさいっ!」
パチュリーの手のひらから、赤、青、緑、黄、土、五色の弾が発射される。五色の光弾は、無尽蔵に出されるかと思うほど、図書館の空を埋め尽くす。しかし、魔理沙と呼ばれた泥棒は、いとも容易くそれらを避けた。
「調子が良くないようだなパチュリー。しっかり養生するといいぜ」
避けた勢いそのままに、ひょうと加速を付け泥棒は入り口への突破を試みる。が、本格的な加速を付ける前に、とん、と妹紅が飛び跳ねた。体はふわりと宙に浮き、眼光鋭く泥棒を射竦めんとす。人が宙に浮いたり、手のひらから弾丸を発射することは不思議だが、この張り詰めた空気で其れを指摘するのは、野暮と言うものだろう。
「盗んだもん置いてかない限り、逃さないよ。怪我したくないなら、とっとと謝って本を置いていきな」
「冗談はよしてくれ。こっちはこの本借りるためにやってきたんだ。手ぶらで帰っちゃ、来た意味が無い」
そうか、と一言投げ捨て、妹紅は怒涛の勢いで泥棒へ近づく。虚を突かれたか、慌てて泥棒は後ろへ逃げた。
「びっくりしたぜ、いきなり突進してくるなんて。大概こう言う時は遠距離から攻撃して様子見をするもんじゃないか? こんな感じになっ!」
服の内から取り出したのは、八角形の形した、奇妙な物体。中央になにやら、宝珠のようなものが埋め込まれている。ぐっと泥棒が握り締めると、宝珠が光を帯びた、気がした。
唐突に、光が満ちる。いや、満ちたのではない。妹紅の眼前に光の束が押し迫ってきたのだ。極度に圧縮された光の束は、物理的な力以ってして、妹紅にぶち当たった。
じゅう、と肉が焦げるような音。レーザーを顔面へまともに喰らってしまった哀れ妹紅、皮は溶け、肉を焼き、見るも無残な事になってしまったのか。
「痛いな。だけど、これくらいはそんなに苦じゃない」
ぷすぷすと漂う煙を払いのけ、以前と変わらぬ顔立ちで、妹紅はそこに浮いていた。これには泥棒も、驚き隠せぬようで。
「なんだお前、人間じゃないのか?」
「人間だと、思っていたいんだけどな」
ぽつり、含みのある言い方で漏らす妹紅。数瞬の間見せていた表情には、憂いが多く含まれていて。
「まあいい、マスタースパークが効かないなら、これはどうかな!」
泥棒は、あれほどの熱量を顔面に受け、平然とした顔している妹紅に驚愕こそするものの、恐慌には陥らず。さあ気を取り直してもう一発、と言わんばかりに、鋭利な切っ先持つ、五芒星の星屑を撒き散らした。
凄まじい勢いで放たれたそれは、狙い誤らず妹紅へと飛んでゆく。妹紅はふん、と片手を振り抜き、その幾つかを弾いた。
体に刺さるものもあるが、意にも止めず、反撃開始だと睨みつけるその目は、きゃっと言う悲鳴聞いて、そちらの方へ向けられた。
見れば、妹紅の弾いた星屑が、一つパチュリーの方へ飛んでゆく。突如飛んできた星屑に驚き、げほ、げほと咳き込むパチュリー。妹紅が弾いた星屑であるが、勢いは衰えず、ひゅんひゅん迫るがパチュリーの脳天へ!
その刹那、パチュリーと星屑の間へ割り込むは、すらりと伸びた白い手に握られている、ナイフが刀身の、冴えて冷たい。
この館の給仕長、十六夜咲夜嬢が寸隙の所で星屑を弾き落としたのだった。
「パチュリー様、ここは危ないですよ。喘息の調子が悪いのなら、奥へ引っ込んでましょう」
優しくパチュリーを介抱する咲夜嬢、妹紅の方を見やって声をかける。
「パチュリー様の事は任せて下さいまし。そちらの黒いのは、妹紅様にお任せして宜しいですか」
「任されるのは構わないが、こんなに燃えやすい物があっちゃ本気が出せそうに無いです。ちと時間を頂きますが、其れで良いなら」
「ここに保管されてる本は、防火、耐刃、その他なんでもござれの強化魔術を施し済みです。どうぞ遠慮なさらずに、のして下さいな」
「そうですか、其れを聞いて――」
ぼう、と、妹紅の周りに熱が集まる。熱気で、妹紅の周りが陽炎のように揺らめく。
「安心した」
豪炎燃ゆるは天を焦がし、静謐なる炎は地を溶かす。聖なる浄火に包まれるは神代の神々では無いのか。いや、轟々と燃え盛る火炎の中にあって、妹紅は神々しいまでの輝きを手に入れていた。熱により広がる白き髪は翼を幻視させ、手の上で揺らめく炎は、主神の持つ雷の槍を夢想させる。そしてその双眸には、紅い紅い、火が宿っていた。
「さあ、悪戯もここまでだ。まだ間に合うぞ。本を置いて謝ればよし、さもなくば、燃えるが良いさ」
その熱量に苦悶の表情を浮かべる泥棒。破れかぶれになったか、入り口目掛けて疾走する。しかし、その小脇に抱えられていた袋は、妹紅の炎によって焼かれ、本が宙に散らばった。
「有難う妹紅さん。なんとお礼を言って良いのやら」
ぎゅっぎゅと妹紅の両手を握り締めるパチュリー。
「贅沢を言うなら、もっと懲らしめて欲しかったのだけど」
つい軽口を叩くほど嬉しかったのか。その顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「いやそんな。私は人を燃やすのとかは余り得意じゃないので。こうもっと、どかんと火事を起こすようなものなら得意なんですが」
妹紅も軽口を叩いているのかと思うほど、物騒な発言だが、どうにもその、困ったような照れたような顔を見る限り冗談を言っているようでは無さそうだ。
「そんなに凄かったんですか。私も見たかったなあ。なんで呼んでくれなかったんですか咲夜さん」
「貴女の仕事は門の警備でしょう。それを疎かにして、面白そうだからと見物に来るなんて許しません」
咲夜嬢と赤髪も、妹紅を囲んで口々に称賛の言葉を投げかけている。そういえば、赤髪の名前を聞いてないな、と妹紅は思った。
「それで、良かったらお礼を兼ねて今晩食事をどうかしら。咲夜の料理は、絶品よ」
赤髪に気を取られていて、反応が遅れた。出掛けに霖之助の言った、慧音を人質にする、と言う言葉も心内で気に掛かっている。
「あ……いえ、迷惑だったら構わないのだけど……」
言葉に詰まった妹紅を見て、何か勘違いをしたか。ぼそぼそとつぶやくように発したパチュリーの言葉は、えらく自信無さげで、阿るような色合いを帯びていて。
「迷惑だなんてとんでもない! 是非ご一緒したいのですが、依頼事の途中ですし、そこで友人が待っているかもしれないのです」
妹紅は、ふと、遠くを見るような目をした。
「いや、友人が待っているのです。だから戻らねばなりません」
そう、なの、と肩を落とすパチュリー。帽子をくい、と深くかぶり直す。
「ですが、また是非ご一緒させて下さい。暇な日を、連絡します。三日以内には連絡します。その時には、どうぞ宜しくお願いしますね」
にこり、落ち着いた微笑みをパチュリーへ向ける。その笑顔見たパチュリーは、なんだか慌てた様子でまた帽子をかぶり直した。
「そ、その時は、腕によりをかけて歓待するわ。どうぞいつでもいらして下さい、むきゅう……」
もごもごと消え入るような声で告げるパチュリー。その様子を、咲夜嬢は優しく見守っていた。
紅魔館の外門を出て、振り返る。時計塔を見ると、時刻は四時半を指している。冬場で日が短いことを考えると、日没まであと一時間程か。紅魔館の入り口を見ると、パチュリーが玄関まで出てきて、こちらを見ている。ぺこり、頭を下げると、妹紅は軽く走りだした。
香霖堂からここまで来るのに、のんびり歩いて一時間半程度。まあ軽く走れば、日没までには間に合うだろう。別に間に合わなかった所で、霖之助が慧音に何かをするとも思えないが、香霖堂を出てくる時の、慧音の慈しむような視線が頭を離れない。胸の内でちくちくする。約束を守れぬことは、恥ずべきことだ、と言う文句が頭に浮かび上がった。
傾きはじめた日光を受け、水面が赤く光っている。いや、水面ではない。湖の表面は、硬く、凍りついていた。数時間前は凍る素振りなど見せていなかったのに、如何なる事か。訝しげに湖を見るが、時間がない。湖を突っ切っていけば、対岸の森まで時間を短縮できるだろう。とん、と慎重に足を載せ、割れないことを確認すると、凍った水の上を走りだした。
滑る足元に、些か体勢を崩しながらも、湖の中ほどまでやってきた。が、突然妹紅の視界がぐらりと揺れる。視界が揺れた後、妹紅の耳へ飛び込んできたのは、大きなものが水へと沈む音だった。
氷を突き破って、妹紅は水中へと落下していた。
慌てて水面へと顔を上げる。ここまで軽快とは言えないが、安定して進んできたのに。ここだけ氷が薄くなっていたのか。落ちた際に水をしこたま飲み込んだか、げほげほとした妹紅の咳は、氷の上に体を上げても収まらない。
「あはははは! 見事に引っ掛かったわ! やっぱりあたいったら天才ね!」
けたたましい、高い声が耳につく。声の主を探し、視線を上げると、小柄な少女がそこにいた。
「さあ、これに懲りたらもう勝手にあたいの縄張りに近づかないことね。もしもう一度見つけたら、その時はかちんこちんに凍らせちゃうわ!」
小柄でまるで妖精のような少女。羽根と思しきところは、透き通った氷で作られている。髪も蒼く、その服装も青を基調とした物であるため、とかく冷たい印象を受ける。実際、妹紅は少女の方から冷気を感じていた。
そんな氷の妖精、氷精とでも呼称しようか。氷精をぎり、と睨みつけ、妹紅は炎を宿らせる。
「私は急いでいるんだ、が、どうにもお礼をしてやりたくなってきたよ。図書館では、やっぱり怖くて本気を出せなかったしな。丁度良いさ、温めてあげよう――!」
炎に近づけば氷は溶けるのが自明の理。哀れ、氷精は、妹紅の逆鱗に触れた氷精は、描写の間も無く溶かされてしまった。まあ、この冬の寒さのことである。氷精ならば自然とまた凍って復活することだろう。
森の街道を、妹紅は走る、走る。余計なことで時間を取られてしまった。走り続けで、体は熱いはずなのに、水を浴びたのと冬の冷気で冷やされて、ちっとも暖かくならない。木々から漏れる光は、大分幽かになっていた。
慧音の顔が頭をよぎる。いつもの、笑顔が思い浮かぶ。妹紅のためにと用意した、食事が思い浮かぶ。声が、思い浮かぶ。匂いが、思い浮かぶ。
もうどうにも間に合いそうにない。私は恥ずべき人間だ。約束も守れぬ人間だ。私が帰ったら、慧音はどんな顔をするだろうか。いつものように、笑顔で迎えてくれるに違いない。しかし、私はその笑顔に向けられる顔を持ち合わせていない。私が考えているだけなのかもしれないが、向けられる顔が無いのだ。
結局、香霖堂に着いたのは日が暮れてから数分後の事だった。頭から体まで、汗だか水だか分からない液体でびしょ濡れだった。
「ただいま……」
恐る恐る扉を開ける。暖かな夕餉の匂いがした。
「おかえり、遅かったな。って、酷く濡れているじゃないか! 一体どうしたんだ」
矢張り慧音は笑顔で迎えてくれた。しかし妹紅はその顔を直視できない。俯きながら、只、髪から落ちる水滴を眺めていた。
「服もこんなに濡れちまって。さぞ寒かっただろう。タオルを借りて躰を拭こう。ほら、其れが済んだら暖かい食事も用意してあるから、とにかく温まらなきゃ」
奥からタオルを借りてきて、髪の毛をわしわしと拭う慧音。なされるがままの妹紅、ぽつり、と言葉を漏らした。
「慧音、私は、約束を守れなかった」
「約束なんて。あれは霖之助さんの悪ふざけだろう?」
「違うんだ。悪ふざけだったとしても、慧音を人質として残して、そんな状況なのに約束を守れなかった。悔しくて、悲しくて、申し訳なくって、慧音に合わせる顔が無い」
消え入りそうな声を聞いた慧音は、ぽり、と頭を掻いてから、ぎゅっと妹紅を抱き寄せた。
「なにを言ってるんだ。こんなに汗だくになって、冷たい肌して。鼓動も物凄い。ここまで一生懸命に駆けて来たんだろう? その心持が、私は嬉しい」
ぱっと体を離した後、満面の笑みを妹紅に向けて。
「妹紅は私の最高の友人だ。下らない約束を律儀に守ろうとするところも大好きだ。ありがとう。私は幸せものだよ」
ぶわり、妹紅の目に涙が浮かぶ。これまで堪えていたものが溢れでたか、堰を切ったように涙を流し、慧音の胸に顔を埋めた。
「さあ、落ち着いたら躰を拭こう。湯も借りるか? 私が温めてやってもいいぞ」
うん、うん、と頷きながら、ぐしぐしと涙を流し続ける妹紅。香霖堂を出る時よりも、もっと慈しんだ目をして慧音は妹紅の頭を撫でた。
暫くして、やっと落ち着いたか、慧音から体を離し、袖で顔を拭う妹紅。その顔には、照れた、はにかんだ笑顔が浮かんでいた。
「あー、もう良いかな。いちゃつくのは構わないんだが、そういうのは他人の家でやらないで、自分らの家でやってくれないかな。こんな無精男に、見せるもんじゃないだろう」
妹紅は、酷く赤面した。
カッコいいだけの人って案外魅力が出なかったりする、創作の難しい部分ではあるけど
他は上々
やや過剰かもしれませんが描写も丁寧、会話も小気味良く、読んでいて楽しかったです。