非常に稀なことですが、目を覚まして、視覚より先に嗅覚が能力を発揮することがあります。
こういう時は大抵、身体を起こすのに億劫だと感じるのです。それか、雲行きが怪しくて楽しくない雰囲気だとかそれなりの薄暗さを孕んだ何かが屋敷の外で働きかけている場合です。
つい数分前まで陰っていた陽射しが、床に就く私の顔を顎下から撫でるように照らし上げます。
今日の天気はそれなりだとわかり、じゃあこの気怠さは何事かと小さく模索。
頬を軽く流れ落ちる一筋の冷水がありました。ひやっとした心地良さを嗜みます。
その光景をまるではたから眺めて見守るように、雲が気を遣って太陽を覆い隠しました。
私はひとつの咳払いと申し訳程度のお礼を捧げました。
それなりの天気に移行した環境のもと、冷水の源を辿ります。
どうやら潤いを含んだ布でありました。すると、心も身体も怠慢に犯された私の容態は、風邪かその類に呑まれたものと推測します。
病とわかった途端、急に頭痛と咽喉の詰まりを催しました。
わかります。それまで熱心に働いていて、ふと何時か気になって時間を確かめたあとの時の流れの遅さたるや、怪我を負った太々しい亀の如し。
激しく咳き込むと、綿菓子のように柔らかいものが私の頭を抱きました。
「羹に懲りて鯰を吹く」
幽々子様でした。
頭には三角巾をしています。どこか古めかしく、でも何か頼れる母親のような雰囲気が感じられます。白いエプロンと右手に持つお玉が目につきましたが、既に意識朦朧の千鳥足の沙汰。
視界がボヤけて幽々子様の姿を正確に認めるには、あまりにも酷でした。
まず、私は幽々子様が故事成語を誤用していらっしゃる点を指摘したのち、寝返りをうちました。その時、寝返りを待っていたかのように太陽は雲の陰から顔をひょっこりと出しやがりました。
これには顔を顰めざるを得ません。もう一度寝返りをうとうかと思いましたが、何だか恥ずかしくて出来ませんでした。
私は曲がりなりにもお声を掛けることが許されました。というのも、毒素の盛り合わせを食べたように動かない現在の状態ですから、言葉を紡ぐことに限っても些かの危惧がありました。
ただ、やはり、その声質には若干の弱々しさが含まれ、とても己の声とは思えない代物でありました。
しかし、流石は幽々子様。漏れなく私の言葉を汲み取ります。
「鯰だって刺身にすれば、きっと冷えるわ」
はあ、と私の溜め息を吐くのに対し、幽々子様は何が楽しいのか、鼻歌を口遊んで踊るように退室していきました。
はて。これはよもや幻想ではあるまいな。
私の中で、現実を否定する声が出ます。夢にも似た奇妙な時間です。日頃と極めて乖離したいまこの瞬間、幻想に近い錯覚に陥るのも至極まっとうなこと。
さて、冒頭の嗅覚をお覚えでしょうか。ここでまたしても夢の錯覚から覚醒させたのは、料理の芳醇な香りでした。
自分が疚しいものを発症し、幽々子様の介抱に助けられているらしいのです。そして、幽々子様は直々に与太郎の私に料理をなさっていうようであります。
それはもちろん、早く私に治ってほしいとの願いが込められたものでありましょう。
僥倖の所存、果たして過去に幽々子様が自ら料理に励んだことがありましょうか。いいえ、閻魔様に誓って、御座いません。
私はひしひしと感じるものがありつつも、ズキズキと刻む頭痛の苦痛に耐え続けました。
やがて頭痛とも違う、死にも近い感覚に陥ります。
それ故に、食欲は膨張してゆきます。
障子が開いて、すうっと郷愁漂う粥の香りが鼻を突きました。
半人半霊の身、腹の減ることおよそ人間の五割に相当します私でも、病には何本の剣を振り回しても勝てはしません。身体だけは正直に、腹の空かした合図を鳴らします。
「どんどん食べてね。妖夢は元気になってもらわなくっちゃ!」
まあ、予想はしていましたが、目の前の光景に私は目を丸くすることを余儀なくされます。
幽々子様が作りました粥の量、ざっと洗濯機一杯分。そりゃあ風邪で鼻の詰まった私でも匂いがわかりますよと、私は勝手に独りごち。
さてどこから食べれば良いものかと、山になっている粥を矯めつ眇めつ。どこからか蟻が湧いてきて半分くらい持っていっちゃわないかなぁと、叶わぬ夢物語をぼやぁと考えます。
ふと目に留まった木製のスプーンもこれまた特大で、杓文字くらいの大きさはありましょう。
「しゃかりきこー。しゃかりきこー」
不意に幽々子様の持つ杓文字が眼前に迫り、粥を流し込まれたあと、気絶しました。
味が悪かったのか、量が多いのか、私にはわかりませぬ。
とにかく、意識が遠退くのを感じました。
どのくらい経過しましたでしょうか。
既に陽も沈んで風は止み、恐ろしいまでの沈黙が辺りを支配しています。
匂いも、もうありません。
ふと、隣の部屋から話し声が聞こえます。昔話でもよくあるシチュエーションですが、確かに障子を挟んだ声というものは通るものなのです。
私は今にも死にそうな様子でフラフラと立ち上がり、障子から耳を欹てます。
その内容は、俄かには信じ難いものでありましょう。
「これで何日目だと思ってるの? そろそろ妖夢をカモるのおよしなさいな」
「いいじゃない。半分は不死身なんだし」
「死なない程度に魂を死に誘うのはとても危険なことなのよ。下手したら死ぬし」
「死んだら死んだでだぞよ、紫」
「そうはいうけど、貴方の料理の腕前、全然進歩してないじゃない。挙げ句の果てには作りすぎて妖夢がたじろいでるし」
「量が多い方が良いと思うんだけどなぁ」
「量より質よ。死に損ないなら尚更ね」
「質は上がってると思うわ! 食べて妖夢の顔色が悪くなることはなくなったし」
「まあね。でも、私が記憶を消去してなかったら、とてもじゃないけど妖夢は同じ轍を踏むようなことはしないと思う。それにしても、わざわざ妖夢を半殺しにする必要もないんじゃない? 普通に作って、普通に食べてもらって、評価してもらえばいいのに」
「雰囲気がないと駄目。瀕死の患者に優しく手料理を授けるの。そのための練習なんだから」
「……その情けが悪しきベクトルに加速しないことを願ってるわ」
「ありがとう。それじゃあ、妖夢の記憶を消してきて」
「まだやるわけ?」
「妖夢が美味しいって言ってくれるまでやめないんだから」
私は禁忌を知ったらしいです。
もぞもぞと布団に身を隠し、明日よ訪れるなと儚き願掛けをしてみます。
いつもより不気味な音をたてて障子が開きました。
せめて次の料理くらいは美味しいと申し上げられるよう、私はポケットから飴玉をひとつ投げ込みます。
紫様の香水の匂いがしました。
こういう時は大抵、身体を起こすのに億劫だと感じるのです。それか、雲行きが怪しくて楽しくない雰囲気だとかそれなりの薄暗さを孕んだ何かが屋敷の外で働きかけている場合です。
つい数分前まで陰っていた陽射しが、床に就く私の顔を顎下から撫でるように照らし上げます。
今日の天気はそれなりだとわかり、じゃあこの気怠さは何事かと小さく模索。
頬を軽く流れ落ちる一筋の冷水がありました。ひやっとした心地良さを嗜みます。
その光景をまるではたから眺めて見守るように、雲が気を遣って太陽を覆い隠しました。
私はひとつの咳払いと申し訳程度のお礼を捧げました。
それなりの天気に移行した環境のもと、冷水の源を辿ります。
どうやら潤いを含んだ布でありました。すると、心も身体も怠慢に犯された私の容態は、風邪かその類に呑まれたものと推測します。
病とわかった途端、急に頭痛と咽喉の詰まりを催しました。
わかります。それまで熱心に働いていて、ふと何時か気になって時間を確かめたあとの時の流れの遅さたるや、怪我を負った太々しい亀の如し。
激しく咳き込むと、綿菓子のように柔らかいものが私の頭を抱きました。
「羹に懲りて鯰を吹く」
幽々子様でした。
頭には三角巾をしています。どこか古めかしく、でも何か頼れる母親のような雰囲気が感じられます。白いエプロンと右手に持つお玉が目につきましたが、既に意識朦朧の千鳥足の沙汰。
視界がボヤけて幽々子様の姿を正確に認めるには、あまりにも酷でした。
まず、私は幽々子様が故事成語を誤用していらっしゃる点を指摘したのち、寝返りをうちました。その時、寝返りを待っていたかのように太陽は雲の陰から顔をひょっこりと出しやがりました。
これには顔を顰めざるを得ません。もう一度寝返りをうとうかと思いましたが、何だか恥ずかしくて出来ませんでした。
私は曲がりなりにもお声を掛けることが許されました。というのも、毒素の盛り合わせを食べたように動かない現在の状態ですから、言葉を紡ぐことに限っても些かの危惧がありました。
ただ、やはり、その声質には若干の弱々しさが含まれ、とても己の声とは思えない代物でありました。
しかし、流石は幽々子様。漏れなく私の言葉を汲み取ります。
「鯰だって刺身にすれば、きっと冷えるわ」
はあ、と私の溜め息を吐くのに対し、幽々子様は何が楽しいのか、鼻歌を口遊んで踊るように退室していきました。
はて。これはよもや幻想ではあるまいな。
私の中で、現実を否定する声が出ます。夢にも似た奇妙な時間です。日頃と極めて乖離したいまこの瞬間、幻想に近い錯覚に陥るのも至極まっとうなこと。
さて、冒頭の嗅覚をお覚えでしょうか。ここでまたしても夢の錯覚から覚醒させたのは、料理の芳醇な香りでした。
自分が疚しいものを発症し、幽々子様の介抱に助けられているらしいのです。そして、幽々子様は直々に与太郎の私に料理をなさっていうようであります。
それはもちろん、早く私に治ってほしいとの願いが込められたものでありましょう。
僥倖の所存、果たして過去に幽々子様が自ら料理に励んだことがありましょうか。いいえ、閻魔様に誓って、御座いません。
私はひしひしと感じるものがありつつも、ズキズキと刻む頭痛の苦痛に耐え続けました。
やがて頭痛とも違う、死にも近い感覚に陥ります。
それ故に、食欲は膨張してゆきます。
障子が開いて、すうっと郷愁漂う粥の香りが鼻を突きました。
半人半霊の身、腹の減ることおよそ人間の五割に相当します私でも、病には何本の剣を振り回しても勝てはしません。身体だけは正直に、腹の空かした合図を鳴らします。
「どんどん食べてね。妖夢は元気になってもらわなくっちゃ!」
まあ、予想はしていましたが、目の前の光景に私は目を丸くすることを余儀なくされます。
幽々子様が作りました粥の量、ざっと洗濯機一杯分。そりゃあ風邪で鼻の詰まった私でも匂いがわかりますよと、私は勝手に独りごち。
さてどこから食べれば良いものかと、山になっている粥を矯めつ眇めつ。どこからか蟻が湧いてきて半分くらい持っていっちゃわないかなぁと、叶わぬ夢物語をぼやぁと考えます。
ふと目に留まった木製のスプーンもこれまた特大で、杓文字くらいの大きさはありましょう。
「しゃかりきこー。しゃかりきこー」
不意に幽々子様の持つ杓文字が眼前に迫り、粥を流し込まれたあと、気絶しました。
味が悪かったのか、量が多いのか、私にはわかりませぬ。
とにかく、意識が遠退くのを感じました。
どのくらい経過しましたでしょうか。
既に陽も沈んで風は止み、恐ろしいまでの沈黙が辺りを支配しています。
匂いも、もうありません。
ふと、隣の部屋から話し声が聞こえます。昔話でもよくあるシチュエーションですが、確かに障子を挟んだ声というものは通るものなのです。
私は今にも死にそうな様子でフラフラと立ち上がり、障子から耳を欹てます。
その内容は、俄かには信じ難いものでありましょう。
「これで何日目だと思ってるの? そろそろ妖夢をカモるのおよしなさいな」
「いいじゃない。半分は不死身なんだし」
「死なない程度に魂を死に誘うのはとても危険なことなのよ。下手したら死ぬし」
「死んだら死んだでだぞよ、紫」
「そうはいうけど、貴方の料理の腕前、全然進歩してないじゃない。挙げ句の果てには作りすぎて妖夢がたじろいでるし」
「量が多い方が良いと思うんだけどなぁ」
「量より質よ。死に損ないなら尚更ね」
「質は上がってると思うわ! 食べて妖夢の顔色が悪くなることはなくなったし」
「まあね。でも、私が記憶を消去してなかったら、とてもじゃないけど妖夢は同じ轍を踏むようなことはしないと思う。それにしても、わざわざ妖夢を半殺しにする必要もないんじゃない? 普通に作って、普通に食べてもらって、評価してもらえばいいのに」
「雰囲気がないと駄目。瀕死の患者に優しく手料理を授けるの。そのための練習なんだから」
「……その情けが悪しきベクトルに加速しないことを願ってるわ」
「ありがとう。それじゃあ、妖夢の記憶を消してきて」
「まだやるわけ?」
「妖夢が美味しいって言ってくれるまでやめないんだから」
私は禁忌を知ったらしいです。
もぞもぞと布団に身を隠し、明日よ訪れるなと儚き願掛けをしてみます。
いつもより不気味な音をたてて障子が開きました。
せめて次の料理くらいは美味しいと申し上げられるよう、私はポケットから飴玉をひとつ投げ込みます。
紫様の香水の匂いがしました。
その犠牲になるみょんは……まあ、記憶が無いならいいんじゃないかな。
強く生きるのも強く死ぬのも両方辛いって辛いなぁ
いや、本当に無駄にかわいそうじゃないかな、これ。
でも、幻想郷らしっちゃらしいのかなぁ?
過去作品も見てきましたが、前回の百合っぽいものより終始ブラックでしっかりとしたオチのある今回のような作品のほうが良いです。
空回りしてるゆゆ様かわいい(*´ω`*)
しゃかりきこーしゃかりきこー。
ハマってしまいました。
一歩ミスしたら、いくら妖夢でも昇天してしまう気が…あわわわ……
コメント、評価ありがとうございます。
ゆゆ様は天然キャラをイメージしています。
>>5様
コメント、評価ありがとうございます。
何気なく恐ろしいことを日常行えるのが、幻想郷ですよね。
>>6様
コメント、評価ありがとうございます。
妖夢は救われそうで救われない、でも作者が救っちゃう。そんなキャラですねw
>>奇声を発する程度の能力様
コメント、評価ありがとうございます。
実際、ゆゆ様は平然とやってのけるような気がします
>>8様
コメント、評価ありがとうございます。
従者ですし、大丈夫じゃないですかね?(おい
>>10様
コメント評価ありがとうございます。
仰ったそれは、私の目指すべき短編の姿です。
重ねてありがとうございます。
>>11様
コメント、評価ありがとうございます。
もはや素性でしょう。
>>13様
コメント、評価ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
>>ひぎゅ様
コメント、評価ありがとうございます。
雰囲気には最も力をいれています。斬新すぎて読者が「そりゃねえよ……」と言うレベルを理想としています。
>>19様
コメント、評価ありがとうございます。
まさしくその通りですねw
幽々子様やめてください本当にしんでしまいます