「うっ……鎮まれ、鎮まれわたしの右手……」
左手で右腕を押さえながら、にとりは自室の椅子に座ってぶつぶつと呟いていた。
にとりの左手は、理性に反し欲望に忠実たらんとする右腕を何とか留めようとする。
しかし押さえれば押さえるほど、にとりの右腕は震えを強めていった。
「……あっ」
抑えきれない衝動が堰を切って溢れた時、右腕は押さえを振り払って動き出す。
腕が動き、手が動き、指先が動く。
弄りたい。弄りたくてしょうがない。
「だ、駄目……こんなの……でもっ!」
元はと言えば、抑えつけられていた欲望もまた紛れもなくにとり自身のもの。
ひとたび箍が外れれば、流されるのは理性。
流されてはいけないともがき抗う。だが、もがけばもがくほど、心の中の欲望の渦へと沈んでいく。まるで蟻地獄のように。
「ん……んん……雛ぁ……」
嗚咽にも似た呻きが、にとりの口から漏れだす。
こんなことしてはいけない。それは分かっているはずなのに。
「ん……う……うおおおおおおお!!!」
怒号一喝。
理性の糸が切れるすんでのところで、にとりは自身の頬を左手で思いっきり引っぱたいた。
それと同時に、ボトリと右手からある物が落ちる。
「はあ、はあ……危なかった……」
頬を叩いた事で欲望の蟻地獄から逃れたにとりは、乱れた呼吸を整えながら、にとりは落とした物を拾いあげた。
床に落ちていたそれは彫刻刀。そしてにとりが向かう机の上には、ついさっきまで弄っていた人の形に成形されつつある粘土細工。
また机の上には出来上がった粘土細工に飾りつけるための赤い布の切れ端も置かれている。
「ふう、また雛の人形を作ってしまうところだった……」
彫刻刀を机の上に置き、大きなため息をつきながらにとりは脱力する。
愛しの厄神様の人形を作りたいという欲望は、現状押さえ込むことに成功した。
しかし、いつまた欲望が再燃するとも分からない、非常に危険な状態である。
「雛、早く帰ってこないかな。そうすればこんな人形作りしないのに」
厄神鍵山雛は人間たちの厄を集め、そしてその厄をさらに神々へと渡す役目を負う。
今は人間たちの厄がかなり集まったという事で、神々に渡しに行っている真っ最中。もう一週間は会っていない。
雛に会う事禁止。略して雛禁。
そんな雛禁の寂しさを慰めるため、雛の人形を作りたいという欲求は日に日に強まってくるのだ。
「でも、あんな事があったからなー……」
雛の人形を作るわけにはいかない事情がある。
以前、同じように雛が厄を渡しに行ってしまい、雛禁の寂しさから十六分の一サイズの精巧な雛の人形を作った事があった。
その時、このような事態が起こってしまったのである。
『雛~、見て見て~』
『あら何かしら……っ!?』
『雛の人形だよ。我ながら驚くほど会心の出来でさ』
『……にとりの馬鹿っ!』
『……へっ?』
『わたしというものがありながらそんな人形に鼻の下を伸ばすなんて……にとりなんか嫌い! 雛人形に囲まれて幸せに暮らしながら死ねばいいんだわ!』
『え、ま、待って! 待って雛ぁ~!』
これから三日ほど、雛は口を聞いてくれなかった。
顔を合わせてもそっぽを向けるという、にとりにとって実に堪える状況だった。
「最終的にわたしが謝り続けて、あの人形を放棄するって約束したんだっけか」
両手を頭の後ろで組み、椅子をぎーこぎーこと漕ぎながらにとりは苦笑いする。
考えてみれば雛は人の厄を受け取り流れる雛人形のようなものだ。人形にはどうしても対抗意識が芽生えてしまうだろう。
それはつまり嫉妬という事だが、にとりとしては妬いてくれるというのも悪くはない。
ちなみに、雛の人形を放棄するというのは正確な表現ではない。たとえ人形と雖も雛の姿をしたものを捨てるのは忍びなかったので、ボックス型の金庫にしまった後にその扉を溶接して開けなくし、押入れの奥深くに封印した。
バレたらまた口を聞いてくれなくなりそうなので絶対に秘密だが。
「雛……って、危ない危ない」
雛の顔を思い浮かべていたら、また心が寂しさに囚われてしまいそうになった。
そうなればいつ人形作りを始めてしまうとも限らない。そうして雛に口を聞いてもらえなくなるかもしれない。
雛禁の寂しさを紛らわすための一時的な行動が、さらなる雛禁を招いては滑稽だ。
「早く帰って来てよ……抱きつきたい……」
そう言いながら立ち上がって、敷きっぱなしの布団の中に潜り込む。
そこには愛用の抱き枕が置いてあるので、思いっきり抱きつく。
ちなみに以前まで雛禁中は雛の写真を焼き付けた等身大抱き枕カバーを使用していたが、あの一件があったため、バレたらまずいとカバーは人形とともに金庫の中に封印してある。
「雛……雛……」
名前を呼びながら、抱き枕に頬ずりをする。毎度の事ながら、雛禁の寂しさには心が折れる。
何度も名を呼び、何度も頬ずりをする。そんなにとりの耳に玄関の呼び鈴の音が届いたのは、かれこれ百回ほど雛の名を呼んだ時だった。
「……雛?」
むくりと起き上がって耳を澄ます。
聞こえてくるのは一定の間隔ごとに鳴らされる呼び鈴の音と、玄関の戸をノックする音。
「雛っ!」
この来訪者は間違いなく雛だと直感したにとりは、勢いよく立ち上がって玄関まで一気に駆け抜けた。
逸る気持ちを抑えながら、かけっ放しになってきた鍵を外す。
そして扉を開けば、そこにはにとりもよく知る人物が。
「やあにとり。調子はどう……わふん!?」
「お前かもみもみー!!」
玄関先に立っていたのは、将棋仲間でもある友人の白狼天狗の犬走椛だった。
雛が来たという喜びに心躍らせたテンションと、しかし来たのは雛でなかったやるせなさとがない交ぜになり、にとりはとりあえず椛の胸を鷲掴みにした。
「ぬか喜びさせやがってコンチクショー! 何がもみじもみもみだバカヤロー! 雛の方がずっと気持ちいいんだコノヤロー!」
「ちょ、にとり落ち着いて……あふん!」
玄関先で白狼天狗の胸をもみもみしまくる河童という、どこからどう見ても怪しい光景。しかも河童の方は恐ろしく鬼気迫る顔。
幸いなのは、この光景を目撃する通行人がいなかったということか。
だが椛にしてみればたまったものじゃない。何とかやめさせようと声をかける。
「にとり、やめ……ふぁあ!」
「お前に雛禁の辛さが分かるかチキショー!」
「分かった、分かったから……ひゅん!」
「辛いんだぞすっごく辛いんだぞテリャリャー!」
「と、とにかくいったん……あはん!」
「ウオオー! ウオオー! 雛! 雛っ! ウオオー!」
「だからその雛さんの事で話が……んん!」
興奮がおかしな方向へ突き抜けてしまったのか、にとりは全く聞く耳もたなかった。
一方、喋ろうにももみもみされて遮られっぱなしの椛は、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
「やめ……やめろっつってんでしょうがこのアンポンタン!」
「へぶっ!?」
椛の怒りの手刀が脳天に炸裂し、にとりは地面に膝をついた。
その甲斐あってか我に返ったにとりが見上げると、頬を染め、胸を押さえながら話しかけてくる友人。
「ようやく落ち着いた。まったく、せっかく雛さんが帰って来たって教えようとしたのに」
「……今なんて?」
「だから、雛さんが帰って来たって。この千里眼でばっちり見たんだから」
自分の目を指差しながら椛が言うと、にとりは膝をついたままわなわなと震えだした。
しかしそれも束の間、急に立ち上がると一言「ありがとう椛!」とだけ言って飛んで行ってしまった。
「……あんのエロ河童」
飛びゆくにとりの顔は、よほど嬉しかったのだろう、誰がどう見ても明らかな浮かれ顔。
椛の皮肉を置き去りにし、全速力で雛の家へと向かう。
あっという間だった。庭先で寛いでいる雛を発見し、一も二もなく突撃する。
「ひーなー!」
「きゃ!? もうにとりってば、そんなに勢いよく飛びついてきたら驚くじゃない」
「えへへ、ごめんごめん」
満面の笑みで謝りながら、にとりは両手を雛の背中へ回し、顔をふかふかの胸にうずめた。
すると雛もそれに応えるように両手をにとりの背中に回す。
雛の方が少し背が高い。にとりが見上げる形で目と目が合う。
「お帰り、雛」
「ただいま、にとり」
にっこり笑いあう。
およそ一週間ほど会う事を禁じられていた二人が、今ここに再び熱い抱擁を交わしたのである。
だが、この幸せの抱擁が一瞬にして緊張の抱擁に変わってしまうのだから人生とは恐ろしい。
「あら? にとり、貴女の服汚れてるけどどうしたの?」
「ああ、これはちょっと人形をつく……はっ!?」
「……人形?」
しまったと思った頃には何もかもが手遅れだった。
にとりの顔を覗き込む雛の顔はうっすらと笑みを浮かべていた。しかし目は一切笑っていなかった。
そして、にとりを抱きしめる両腕に強い力が入り始めた。
「にとり、また人形作ったの? わたしがいない間に、また人形ときゃっきゃうふふしてたの?」
「あだだだだだだっ! ひ、雛……!」
「前にあれだけ言ったのに、また人形? わたしというものがありながら、また人形?」
「ぐ、ぐるじ……」
背骨が折れるんじゃないかと思うくらい強い圧がにとりの背中に襲いかかった。
そのせいで詰問してくる雛の声は耳を素通りし、頭まで入ってこない。
薄れゆく意識の中、必死になって考える。この状況を打開する方策を。そして思いついた。
「ぬおお!」
「んんっ」
窮地に陥り無我夢中で、にとりは雛の頭を抱き寄せ、そして接吻。
にとりはもう本当に無我夢中で、何から何まで無我夢中だった。どれだけ無我夢中かというと、それはそれは無我夢中だったのである。
雛の腕から次第に力が抜けていった。
「……ぷはぁ!」
「……はぁ」
背中の痛みが無くなったところでにとりが唇を離すと、雛の顔は上気しきっていた。
とろんとした目つきで、ただそれでもにとりの顔を見据えてはいるようだった。
「あのさ雛。聞いて欲しいんだけど、いいかな?」
「……うん」
にとりが聞くと、雛は小さく頷いた。
雛が落ち着いた事に安心して、にとりは全てを話した。
この一週間寂しかった事、雛禁の寂しさのあまり雛の人形を作ろうとした事、それでも雛を想って何とか踏みとどまった事。(金庫の中身は内緒)
にとりの話を黙って聞いていた雛は全てを聞き終えると今度は優しくにとりを抱きしめた。
「疑ってごめんね……わたしも寂しかった」
「えへへ……」
少しずつ感触を味わうように、雛はにとりをやんわりと抱きしめ続けた。
にとりはにとりで、全身を包みこむような雛の柔らかい感触に静かに微笑む。
この温かい抱擁がしばらく続いた後、両者はお互い相手の背中に回していた腕をほどいた。
「こんなところで立ち話もなんだから、うちに入りましょう」
「そうだね」
微笑みかけて雛が言うと、にとりもそれに快諾した。
ただ、その時の雛の目がギンギンにギラついていた事に気付いたのはにとりではない。
「あー……そっか」
浮かれ顔のまま飛び去っていったにとりの事が心配になり、千里眼で様子を見ていた椛が一人納得したように呟いた。
にとりは一週間雛禁をくらっておかしなテンションになっていたが、一方で一週間のにと禁状態だった雛もまた然り。
おかしなテンション同士が一つ屋根の下。なお椛の実感によると、テンションのおかしくなった雛はテンションのおかしくなったにとりよりも手に負えない。
「ま、いっか」
これ以上は野暮というものだろう。
にとりと雛が並んで雛の家に入っていくところを見送ってから、椛は哨戒任務に戻っていった。
左手で右腕を押さえながら、にとりは自室の椅子に座ってぶつぶつと呟いていた。
にとりの左手は、理性に反し欲望に忠実たらんとする右腕を何とか留めようとする。
しかし押さえれば押さえるほど、にとりの右腕は震えを強めていった。
「……あっ」
抑えきれない衝動が堰を切って溢れた時、右腕は押さえを振り払って動き出す。
腕が動き、手が動き、指先が動く。
弄りたい。弄りたくてしょうがない。
「だ、駄目……こんなの……でもっ!」
元はと言えば、抑えつけられていた欲望もまた紛れもなくにとり自身のもの。
ひとたび箍が外れれば、流されるのは理性。
流されてはいけないともがき抗う。だが、もがけばもがくほど、心の中の欲望の渦へと沈んでいく。まるで蟻地獄のように。
「ん……んん……雛ぁ……」
嗚咽にも似た呻きが、にとりの口から漏れだす。
こんなことしてはいけない。それは分かっているはずなのに。
「ん……う……うおおおおおおお!!!」
怒号一喝。
理性の糸が切れるすんでのところで、にとりは自身の頬を左手で思いっきり引っぱたいた。
それと同時に、ボトリと右手からある物が落ちる。
「はあ、はあ……危なかった……」
頬を叩いた事で欲望の蟻地獄から逃れたにとりは、乱れた呼吸を整えながら、にとりは落とした物を拾いあげた。
床に落ちていたそれは彫刻刀。そしてにとりが向かう机の上には、ついさっきまで弄っていた人の形に成形されつつある粘土細工。
また机の上には出来上がった粘土細工に飾りつけるための赤い布の切れ端も置かれている。
「ふう、また雛の人形を作ってしまうところだった……」
彫刻刀を机の上に置き、大きなため息をつきながらにとりは脱力する。
愛しの厄神様の人形を作りたいという欲望は、現状押さえ込むことに成功した。
しかし、いつまた欲望が再燃するとも分からない、非常に危険な状態である。
「雛、早く帰ってこないかな。そうすればこんな人形作りしないのに」
厄神鍵山雛は人間たちの厄を集め、そしてその厄をさらに神々へと渡す役目を負う。
今は人間たちの厄がかなり集まったという事で、神々に渡しに行っている真っ最中。もう一週間は会っていない。
雛に会う事禁止。略して雛禁。
そんな雛禁の寂しさを慰めるため、雛の人形を作りたいという欲求は日に日に強まってくるのだ。
「でも、あんな事があったからなー……」
雛の人形を作るわけにはいかない事情がある。
以前、同じように雛が厄を渡しに行ってしまい、雛禁の寂しさから十六分の一サイズの精巧な雛の人形を作った事があった。
その時、このような事態が起こってしまったのである。
『雛~、見て見て~』
『あら何かしら……っ!?』
『雛の人形だよ。我ながら驚くほど会心の出来でさ』
『……にとりの馬鹿っ!』
『……へっ?』
『わたしというものがありながらそんな人形に鼻の下を伸ばすなんて……にとりなんか嫌い! 雛人形に囲まれて幸せに暮らしながら死ねばいいんだわ!』
『え、ま、待って! 待って雛ぁ~!』
これから三日ほど、雛は口を聞いてくれなかった。
顔を合わせてもそっぽを向けるという、にとりにとって実に堪える状況だった。
「最終的にわたしが謝り続けて、あの人形を放棄するって約束したんだっけか」
両手を頭の後ろで組み、椅子をぎーこぎーこと漕ぎながらにとりは苦笑いする。
考えてみれば雛は人の厄を受け取り流れる雛人形のようなものだ。人形にはどうしても対抗意識が芽生えてしまうだろう。
それはつまり嫉妬という事だが、にとりとしては妬いてくれるというのも悪くはない。
ちなみに、雛の人形を放棄するというのは正確な表現ではない。たとえ人形と雖も雛の姿をしたものを捨てるのは忍びなかったので、ボックス型の金庫にしまった後にその扉を溶接して開けなくし、押入れの奥深くに封印した。
バレたらまた口を聞いてくれなくなりそうなので絶対に秘密だが。
「雛……って、危ない危ない」
雛の顔を思い浮かべていたら、また心が寂しさに囚われてしまいそうになった。
そうなればいつ人形作りを始めてしまうとも限らない。そうして雛に口を聞いてもらえなくなるかもしれない。
雛禁の寂しさを紛らわすための一時的な行動が、さらなる雛禁を招いては滑稽だ。
「早く帰って来てよ……抱きつきたい……」
そう言いながら立ち上がって、敷きっぱなしの布団の中に潜り込む。
そこには愛用の抱き枕が置いてあるので、思いっきり抱きつく。
ちなみに以前まで雛禁中は雛の写真を焼き付けた等身大抱き枕カバーを使用していたが、あの一件があったため、バレたらまずいとカバーは人形とともに金庫の中に封印してある。
「雛……雛……」
名前を呼びながら、抱き枕に頬ずりをする。毎度の事ながら、雛禁の寂しさには心が折れる。
何度も名を呼び、何度も頬ずりをする。そんなにとりの耳に玄関の呼び鈴の音が届いたのは、かれこれ百回ほど雛の名を呼んだ時だった。
「……雛?」
むくりと起き上がって耳を澄ます。
聞こえてくるのは一定の間隔ごとに鳴らされる呼び鈴の音と、玄関の戸をノックする音。
「雛っ!」
この来訪者は間違いなく雛だと直感したにとりは、勢いよく立ち上がって玄関まで一気に駆け抜けた。
逸る気持ちを抑えながら、かけっ放しになってきた鍵を外す。
そして扉を開けば、そこにはにとりもよく知る人物が。
「やあにとり。調子はどう……わふん!?」
「お前かもみもみー!!」
玄関先に立っていたのは、将棋仲間でもある友人の白狼天狗の犬走椛だった。
雛が来たという喜びに心躍らせたテンションと、しかし来たのは雛でなかったやるせなさとがない交ぜになり、にとりはとりあえず椛の胸を鷲掴みにした。
「ぬか喜びさせやがってコンチクショー! 何がもみじもみもみだバカヤロー! 雛の方がずっと気持ちいいんだコノヤロー!」
「ちょ、にとり落ち着いて……あふん!」
玄関先で白狼天狗の胸をもみもみしまくる河童という、どこからどう見ても怪しい光景。しかも河童の方は恐ろしく鬼気迫る顔。
幸いなのは、この光景を目撃する通行人がいなかったということか。
だが椛にしてみればたまったものじゃない。何とかやめさせようと声をかける。
「にとり、やめ……ふぁあ!」
「お前に雛禁の辛さが分かるかチキショー!」
「分かった、分かったから……ひゅん!」
「辛いんだぞすっごく辛いんだぞテリャリャー!」
「と、とにかくいったん……あはん!」
「ウオオー! ウオオー! 雛! 雛っ! ウオオー!」
「だからその雛さんの事で話が……んん!」
興奮がおかしな方向へ突き抜けてしまったのか、にとりは全く聞く耳もたなかった。
一方、喋ろうにももみもみされて遮られっぱなしの椛は、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
「やめ……やめろっつってんでしょうがこのアンポンタン!」
「へぶっ!?」
椛の怒りの手刀が脳天に炸裂し、にとりは地面に膝をついた。
その甲斐あってか我に返ったにとりが見上げると、頬を染め、胸を押さえながら話しかけてくる友人。
「ようやく落ち着いた。まったく、せっかく雛さんが帰って来たって教えようとしたのに」
「……今なんて?」
「だから、雛さんが帰って来たって。この千里眼でばっちり見たんだから」
自分の目を指差しながら椛が言うと、にとりは膝をついたままわなわなと震えだした。
しかしそれも束の間、急に立ち上がると一言「ありがとう椛!」とだけ言って飛んで行ってしまった。
「……あんのエロ河童」
飛びゆくにとりの顔は、よほど嬉しかったのだろう、誰がどう見ても明らかな浮かれ顔。
椛の皮肉を置き去りにし、全速力で雛の家へと向かう。
あっという間だった。庭先で寛いでいる雛を発見し、一も二もなく突撃する。
「ひーなー!」
「きゃ!? もうにとりってば、そんなに勢いよく飛びついてきたら驚くじゃない」
「えへへ、ごめんごめん」
満面の笑みで謝りながら、にとりは両手を雛の背中へ回し、顔をふかふかの胸にうずめた。
すると雛もそれに応えるように両手をにとりの背中に回す。
雛の方が少し背が高い。にとりが見上げる形で目と目が合う。
「お帰り、雛」
「ただいま、にとり」
にっこり笑いあう。
およそ一週間ほど会う事を禁じられていた二人が、今ここに再び熱い抱擁を交わしたのである。
だが、この幸せの抱擁が一瞬にして緊張の抱擁に変わってしまうのだから人生とは恐ろしい。
「あら? にとり、貴女の服汚れてるけどどうしたの?」
「ああ、これはちょっと人形をつく……はっ!?」
「……人形?」
しまったと思った頃には何もかもが手遅れだった。
にとりの顔を覗き込む雛の顔はうっすらと笑みを浮かべていた。しかし目は一切笑っていなかった。
そして、にとりを抱きしめる両腕に強い力が入り始めた。
「にとり、また人形作ったの? わたしがいない間に、また人形ときゃっきゃうふふしてたの?」
「あだだだだだだっ! ひ、雛……!」
「前にあれだけ言ったのに、また人形? わたしというものがありながら、また人形?」
「ぐ、ぐるじ……」
背骨が折れるんじゃないかと思うくらい強い圧がにとりの背中に襲いかかった。
そのせいで詰問してくる雛の声は耳を素通りし、頭まで入ってこない。
薄れゆく意識の中、必死になって考える。この状況を打開する方策を。そして思いついた。
「ぬおお!」
「んんっ」
窮地に陥り無我夢中で、にとりは雛の頭を抱き寄せ、そして接吻。
にとりはもう本当に無我夢中で、何から何まで無我夢中だった。どれだけ無我夢中かというと、それはそれは無我夢中だったのである。
雛の腕から次第に力が抜けていった。
「……ぷはぁ!」
「……はぁ」
背中の痛みが無くなったところでにとりが唇を離すと、雛の顔は上気しきっていた。
とろんとした目つきで、ただそれでもにとりの顔を見据えてはいるようだった。
「あのさ雛。聞いて欲しいんだけど、いいかな?」
「……うん」
にとりが聞くと、雛は小さく頷いた。
雛が落ち着いた事に安心して、にとりは全てを話した。
この一週間寂しかった事、雛禁の寂しさのあまり雛の人形を作ろうとした事、それでも雛を想って何とか踏みとどまった事。(金庫の中身は内緒)
にとりの話を黙って聞いていた雛は全てを聞き終えると今度は優しくにとりを抱きしめた。
「疑ってごめんね……わたしも寂しかった」
「えへへ……」
少しずつ感触を味わうように、雛はにとりをやんわりと抱きしめ続けた。
にとりはにとりで、全身を包みこむような雛の柔らかい感触に静かに微笑む。
この温かい抱擁がしばらく続いた後、両者はお互い相手の背中に回していた腕をほどいた。
「こんなところで立ち話もなんだから、うちに入りましょう」
「そうだね」
微笑みかけて雛が言うと、にとりもそれに快諾した。
ただ、その時の雛の目がギンギンにギラついていた事に気付いたのはにとりではない。
「あー……そっか」
浮かれ顔のまま飛び去っていったにとりの事が心配になり、千里眼で様子を見ていた椛が一人納得したように呟いた。
にとりは一週間雛禁をくらっておかしなテンションになっていたが、一方で一週間のにと禁状態だった雛もまた然り。
おかしなテンション同士が一つ屋根の下。なお椛の実感によると、テンションのおかしくなった雛はテンションのおかしくなったにとりよりも手に負えない。
「ま、いっか」
これ以上は野暮というものだろう。
にとりと雛が並んで雛の家に入っていくところを見送ってから、椛は哨戒任務に戻っていった。
だが俺は椛を推す
愛情の前には何も障害にはならないのでしょうかね。