曇るかとも思っていたが、陽が昇るにつれて、雲ひとつ無い晴天であることが分かった。起床した時、辺りはまだ暗く、澱んだ天気になると踏んだのだが、その心配は杞憂に終わったようだ。
肌寒さを存分に孕んだ風が、剥き出しの腿や膝を撫でる。
妖怪である古明地こいしには、あまり意味のない寒さだった。肌寒いということは分かるが、頑丈な妖怪の身体にとっては凍えるほどでもなかった。春夏秋冬、ほとんど代わり映えしない服装のまま、白み始めた冬空を仰ぐ。
昨夜の寝床は、久しく使われていない納屋だった。本当は、今も使われているのかも知れないが、無断で拝借したこともあって、そのあたりの事情は分からなかった。埃を被った農具の隙間に、身を寄せるようにして眠った。普段から似たようなことを行っているので、特に不自由は感じなかった。
地霊殿には、しばらく帰っていない。
切羽詰った事情は無かったが、何となく、帰っていなかった。
肌寒い風が、ひょうと鳴くように吹く。
誘われるように、こいしは歩いた。舗装された道から、林道のような藪の深い道へと入る。自然と、地霊殿からは遠退く道だったが、それも構わなかった。
何とはなしに散歩をするのが、昔から好きだった。さとり妖怪としての瞳を閉じてからは、それが殊更、顕著になった。茫洋としている、達観していると言われたこともあるが、こいし本人に、そのような自覚はなかった。
もとより、自覚など無いのかも知れない。
あって無いように、ふらふらと当ても無く日々を過ごすのが、今の自分だった。まさしく無意識のように、心の色すらも薄くしながら暮らしているのが、今の自分だった。
ふと、足を止める。
せせらぎが、すぐ近くから聞こえた。
小川はすぐに見つかった。水の量は少ない。雪解けには、まだ早い時期だった。
素手ですくい取ると、さすがに冷たい。まどろみの残る目を覚ますのには、充分だった。口を漱ぐように、何度かに分けて少しずつ飲む。顔も、したたかに濡らした。目尻が、絞られるように引き締まるのを感じた。
気持ち良い。
それくらいを感じる程度には、こいしは無心でも無感動でも無かった。
他人から気付かれにくい程度には、無意識を着こなしている。その程度のものだったが、おかげで神社の巫女の脇を通ろうとも気付かれず、他者の心を読む姉の目に捉われることもない。
心を読むことのできる姉には、心を読むことのできないこいしを、そう簡単には見つけられないのだ。無意識というものは、姉にはどうあっても捉え切ることができない。読めるからこそ見つけられて、読めないからこそ見つからない。コインの裏表のようなものとも言えた。まるっきり正反対なのである。事実、心を読める姉は地底に引き篭もっており、心を読めないこいしは地上を闊歩している。姉はいつも億劫そうな仏頂面をしており、こいしはいつもへらへらふらふらと笑っていた。少なくとも、こいしの記憶している姉は、いつもそんな表情をしていた。
はたと、思い至る。
姉のことを、とりとめもなく考え続けていることに、こいしはようやく気が付いた。
誰に向けるでもなく笑った。懐かしいなと思った。会いたいとは、あまり思わなかった。
さとり妖怪であることを、こいしは辞めてしまった。今なお、さとり妖怪という禄でもない妖怪を続けている姉に対しては、どうにも曖昧なものを抱いてしまう。例えば、納得ができない――他人の心など、覗いたところで嫌われるだけだ。例えば、軽蔑してしまう――未だに他人の心を覗き込む姉は、卑しくも思えてくる。例えば、ほんの少し、憧れてしまう――忌み嫌われ、地底に引き篭もりながらもさとり妖怪を辞めない姉は、本当は物凄く心根が強いのではないか。
ない交ぜなのだ。
姉に対して、こいしの抱くものは一筋縄ではなかった。
会おうかと思えば、普段は何処へでも奔放な足取りが、荒縄で雁字搦めにされたかのように重くなる。ならば、姉のことは嫌いなのかと自問自答すれば、ケーキを多めに分けてもらったなど、他愛のない思い出が過ぎる。では好きでもなく嫌いでもなく無関心なのかとこれまた自問自答すれば、そうやって姉のことを一心に考えている自分に、思い至った。
心とは難解なものである。そんな代物を、未だに覗き続けている姉に対しても、こいしは曖昧なものを抱いている。説明し切れないほどに曖昧で、難解な心を、である。そして、そんなものに囚われ続けるのが、こいしはあまり好きではなかった。
だから、姉と会いたいとは、あまり思わなかった。
思わないようにしていた、と言ったほうが正しいだろう。
自嘲のように浮かんでしまった笑みを濯ぐつもりで、小川の水を含む。温かい湯が欲しいなと思いながら、顔を上げた。
標識が、目に留まった。
丁度、小川を挟んだ向こう側である。冬を孕んだ淡い緑色の最中に、孤立するようなかたちで佇んでいる。群衆の中、ぽつりと立ち竦んでいる人間を、思わせるような格好だ。だと言うのに、不思議と違和感はない。漠然と茂みの中に溶け込みながら、それでも明らかに際立っていることが、こいしの目を惹いた。
小川をふらりと跨いで、近寄った。
所々、塗装が剥げており、赤茶色の錆が浮いている。文字も書かれていたが、擦れて読み取ることはできなかった。遺棄されたものだとしても不思議ではなかった。それくらい、この標識は朽ちていた。同じようなものは、何度か立ち寄った無縁塚でも見かけていた。
傍らに座り込む。朽ちた標識に、軽く背中を預ける。
何となく、そうしたくなった。
他意などない。
自然の中で佇む人工物に、ほんの少しの好奇心を抱いた。その程度のものだ。もとより、こいしの行動理念など他愛のないものばかりなのだ。今までも、そして恐らく、これからも。
更に深く、標識へともたれ掛かる。自然と首が傾き、天を仰ぐ格好となった。冬の青空には雲ひとつ無い。肌を撫でていた風も、いつのまにか止んでいた。
目を閉じる。
眠気を感じた訳ではなかった。
何となく、そうしたくなった。
他意などない。
◆◆◆
身体がかすかに揺られていることに、ぼんやりと気が付いた。目を開けるとともに、下ろしていた腰を上げようとする。
腰掛ける椅子の模様が、まず目に入った。
硬くも柔らかくもない質感を、尻の下に感じる。椅子のスペースは二人分ほどで、こいしは丁度、その片側を占有している格好だった。わずかな空間を挟んだ反対側には、腰掛けているものと瓜二つの椅子が備わっている。人影はなかった。
事態が飲み込めず、立ち上がる。
例えるなら、そこは部屋だった。
随分と天井は低く、縦に長く横に短い長方形の部屋である。背の低いこいしから見ても、電灯が等間隔に並んだ天井は、かなり近くにあるように思えた。部屋の中には、敷き詰められたかのように整然と、椅子が並べられている。自分が腰掛けていた椅子と、全く同じものだった。
その椅子が、長方形の部屋全体が、かすかに揺れている。
こいし以外の人影はない。
久しく経験していないほどの疑問を感じながら、こいしは座り込んだ。眩暈を覚えた訳ではなく、揺れる最中で立ち続けるのが難儀だったからだ。揺れは微細なものだったが、時折、思い出したかのように一際大きくなった。呆然と立ち続けるよりも、茫洋と座り込んでいるほうが、遥かに楽だった。
寒空の下、森の中に佇む標識の傍らで、目を閉じたことは憶えている。
まどろみを覚えたことも、憶えていた。
そこから先の記憶はない。不意にとも、何時の間にかとも言える格好で、自分はこの部屋に居た。釈然としないのは確かだが、不快感は全くなかった。
室温は暖かくも寒くもなく、当然、風とて吹いていない。椅子の座り心地も悪くなかった。スプリングには劣化などないらしく、弾むような感触が、尻の下でしっとりと息衝いていた。
人が過ごすのには、適した環境だ。
少なくとも、昨夜の寝床とした納屋などよりは、幾分も過ごしやすかった。頑丈な妖怪の身体であるこいしにとっても、変わりなどない。若干の揺れは、程好い椅子の質感もあって、ほとんど気にならなかった。
背もたれに、深くもたれ掛かる。
思い返せば、こうして過ごしやすい環境で身体を休めるのは、久し振りのことだった。
倉庫や納屋などを無断で拝借するような生活を送ってきた。意識していた訳ではなかった。もしかしたら、ずっと地霊殿に帰っていない罪悪感が、そんな生活をさせていたのかも知れない。何とはなしに、そう思った。引き篭もる姉を置き去りにし、放浪するかのような日々を送っていたのは、確かだった。
被っていた帽子を脱ぐ。
陽の当たらない部屋は、灯りのおかげで明るい。眩し過ぎず、暗過ぎることもなかった。
ふと、気付いた
部屋の中は確かに明るかったが、天井の灯りだけでこれだけの明るさを保つのは、無理があるように思えた。小首を傾げるように、横へと振り向く。
窓があった。
流れる景色が、こいしを迎えた。
長方形の部屋の壁一面に、大きな窓が飾られていることに、こいしはようやく気が付いた。
窓の向こうの景色は、後ろへ後ろへと河の流れのように過ぎ去っていく。だとすると、この部屋自体が、前へ前へと動いているということだろうか。それなら、部屋全体が微細に揺れていることも納得できる。
走っている。部屋そのものが、地面を走っているのだ。
だから揺れている。流れる景色は、こいしが空を飛んだ時より、幾分も速いように見える。にもかかわらず、尻の下に感じる揺れは、それほど気に掛かるほどではなかった。
窓は、大きかった。こいしの頭より、二回りほども大きい。それが、壁一面に備えられている。
何故、気付かなかったのだろう。
狐にでも化かされたかのようになって、こいしは眉をひそめた。これが無意識の落とし穴というやつなのだろうか。窓を窓だと確かめず、無意識の内に窓なんてないと思ってしまい、今の今まで気付けなかったのかも知れない。無意識はこいしの真骨頂だが、それは同時に、誰よりも無意識に囚われているのだということを、こいしは一応、理解していた。
或いは、本当に何者かに化かされているのかも知れない。現に、こうして長方形の部屋に居座っていること自体、訝しかった。居心地は決して悪くないが、そういった心地良さこそが、罠である可能性は大いにある。そして幻想郷には、他人を誑かすということに殊更長けた連中が、それこそ炉辺の石のようにごろごろと存在している。こいし自身、そういった連中の一人であることは、重々承知しているつもりだった。
深く息をつく。
まあいいかと、こいしは結論付けた。
あまり深々と考えを巡らすのは、得意ではなかった。より正確に言うなら、自分らしくない。姉のことといい、どうにも今日は調子が悪い。懇々と、思考の坩堝に嵌っていくのは、真っ当な哲学者のやることだった。無意識などとは、どうあっても縁遠い。
まったく、らしくない。
言葉にせず、溜め息として漏らした。
一層深く椅子へともたれ掛かる。わずかに背が滑り、窓へと頭が触れた。鈍い感触が、髪を撫でた。相当、分厚いガラスなのだろうなと、それだけを思った。
眺める先で、近いと思える木々が流れていく。時折、見慣れない看板が目に留まり、すぐに後ろへと過ぎていく。遠くには、満遍なく大地に広がる田んぼが見えた。
今の季節にはそぐわない、青々とした稲だと分かった。
奥には、穏やかな稜線をした山々が、思い思いに構えている。よく見知った、妖怪の山のような荒々しさは微塵もなく、緩慢なほどに穏やかだった。透けるような青空には、雲の一欠けらも見当たらない。鳥も妖怪も、飛んでいる影は欠片もなかった。
果たして、これは夢の中か、それとも幻か。
現実の風景だとは、とても思えなかった。見えるのは、冬とは縁遠い青々とした情景だった。
田んぼと山々、そして青空は、近くで擦れ違う木々や看板とは違って、ほとんど流れることもない。忙しなく流れていく諸々と、ゆったりと流れていく諸々との対比が、窓の向こう側にはあった。当たり前といえば当たり前な、景色である。低いところを飛ぶ時には、同じような光景を見ていた。ひどく見慣れた光景だった。
胸の奥を、くすぐられる。
自ずと、さらに深くもたれ掛かり、身体がしたたかに傾いた。その拍子に頭だけでなく、頬まで窓に触れた。ひんやりとした硬い質感が、こいしの頬をわずかに押してくる。それすらも、どこか他人事のように思えた。
飛ぶ時は、嫌でも風を感じる。
今のような、冬の真っ只中ともなれば尚更だろう。記憶の中にある、冬の神社での弾幕勝負は、霙を伴った強かな風が印象に残っていた。あの時以来、冬に飛ぶことはできるだけ避けるようにしている。
それが、此処には無いからだろうか。
風もなく流れる景色は、確かに新鮮だった。自分が飛ぶよりも速く、景色は流れていく。だと言うのに、肌を掠める寒風などは一陣もない。程好い質感の椅子に身体を預けながら、わずかな揺れだけを感じている。その揺れすら、決して苛むほどではなく、子守唄のような心地良さを感じさせた。
燻りのようなものが、鳩尾あたりに沸き起こる。緩んだ頬が、柔らかく痙攣しそうになる。脱いでいた帽子を、抱き寄せるように持った。
訳もなく、背筋が粟立った。不快ではなかった。
懐かしいな。
何故、そう思ったのかは、自分でもよく分からなかった。
木々や看板は、目に留まった先から流れていく。田んぼや山々は、それと分からない程度に流れていく。
すべてが真っ暗になったのは、間も無くのことだった。
唐突だった。まるで、窓の向こう側から墨を塗りたくったかのように、目の前に広がっていた景色はすべて、闇に覆われた。
思わず、仰け反るように窓から離れる。窓には真っ暗な闇と、目を真ん丸に見開いた自分の顔とが、映っていた。
戸惑いから、徐々に立ち直る。わずかに憤りらしきものも覚えたが、それ以上にひとつの単語が浮かんだ。
トンネル。
思った先から、窓の向こうは黒から白に変わった。
今度は仰け反らず、食い入るように窓へと寄った。
トンネルを抜けると、そこは雪国でした――どこかで、誰かから聞いた言葉だったが、詳しいことは思い出せなかった。思い出す暇もなく、窓からの景色に目を奪われた。
雪が降っている。
降り積もった雪が、眼下一面を漂白している。忙しなく擦れ違う木々も、遠くに見える田んぼや山々も、皆一様に雪に覆われていた。
時折、目に留まる看板だけが、雪に降り積もられながらも、場違いなほどに鮮やかな緑色をしている。この時、看板が緑色であることに、こいしはようやく気が付いた。先ほどの、青々とした光景の中では、緑色の看板はあまり目立たなかった。
絨毯のように、隙間なく空を覆った灰色の雲からは、絶えることなく雪が降っている。風は、ほとんど吹いていないように見えた。見えただけで、本当は吹き荒ぶような風が吹いているのかも知れない。部屋の中では、それもよく分からなかった。
心地良さに、惑わされている。
それも悪くないかなと、こいしはにべも無く思った。元々、物事に頓着するような性格ではないのだ。あまり些事に囚われず、感じるままにあればいい。寒さに苛まれずに、こうして流れる景色を見続けるのは、不愉快ではなかった。むしろ、心地良いと言っても良かった。
嵌めるなら、嵌められてもいいかな。
溜め息のように呟きながら、景色を眺める。窓の外は、白銀のような白雪に覆われている。静かな情景だった。間断なく揺れを感じ、忙しないほど木々や看板は過ぎ去っていくと言うのに、ひどく静かな光景だと思った。
まどろみにも似た感覚に、こいしは細く息を吐いた。
窓の外を、闇が覆う。
唐突だったが、仰け反るようなことはなかった。分厚い窓ガラスに反射した自分の顔は、穏やかに笑っていた。
程無くして、トンネルを抜けた。
窓の外の景色は、若芽のような鮮やかな緑の印象が強かった。春だと分かったのは、通り過ぎる木々の中に、薄桃色が咲き乱れる木を見つけたからである。多分、桜だろう。見慣れた桜とは、幾分か色合いが違うようにも思えたが、細かいところまで見るつもりはなかった。
何故なら、恐らく外の光景は、幻想郷とはまったく別の場所だからだ。
こいしはようやく、その考えに思い至っていた。もっと早く気付いていたらともかすかに思ったが、詮無きことだった。
そもそも、緑色の看板などという代物は、今まで見かけたこともなかった。それに、これだけの速さで走っていれば、いずれは何か見覚えのある場所を見かけるはずである。幻想郷は、あまり広くはないのだ。長方形の部屋は、もう随分と長い距離を、中々のスピードで走っていた。
艶やかな色合いの桜が、見頃を迎えている。眼下の田んぼには、まだ水がなかった。田植えの時期は、もっと先なのだろう。遠くの穏やかな峰には、ぽつりぽつりと緑を蓄える林が見られた。
風は吹いていないようだった。少なくとも、荒ぶような強い風は吹いていないようである。桜の花は、雨風で簡単に散ってしまう。見頃の桜が無為に散らされていないことに、こいしは訳もなく、嬉しく思った。
闇が覆う。
窓に映った自分の顔は、玩具を待つ子供のように見えた。
トンネルを抜ける。
色とりどりの紅葉が、窓の外で踊っている。緑色があり、黄色があり、赤色があった。尻の下に感じる揺れは、まったく気にならなくなっていた。
闇が覆い、自分の顔が映り、そしてトンネルを抜ける。
何度も続いた。
迎えたのは、晴れた雪景色でもあったし、梅雨のような雨でもあった。昼の光景が多かったように思えたが、夜もあれば朝もあった。低い位置に太陽を見つけたこともあれば、トンネルの最中と変わらないほどの闇に、迎えられたこともあった。
見える風景も、大きく変わることがあった。
高々と聳え立つ、人工物の最中を走った。陽光の中でも灰色にくすんでおり、どこか草臥れた印象を覚えた。かと思えば、とっぷりとした闇の中では、見るも鮮やかな光を湛えていた。乱反射する光の奔流に、こいしは束の間、我を忘れるほどに興奮した。弾幕勝負に勝るとも劣らない、人工の光の乱舞だった。
幻想郷と然程変わらないほどの、自然の中を走ることもあった。田園風景どころか、奥深い山中を走っていた。空が近いと思えるほどに、高い場所を走っている。山の横腹を食い破るように、鉄塔が聳え立っていた。ひとつではなく、何本もがそれぞれに線のようなもので繋がって、聳え立っていた。博麗神社の裏で見つけた物より、遥かに巨大な鉄塔である。幼い頃、姉とともに読んだ童話の巨人が重なって、苦笑いを浮かべた。
幾度となく、窓の外の景色は変化した。
春夏秋冬、朝昼夜、自然人工、その他諸々と、様々な情景を見せていた。目まぐるしいほどの変化だったが、こいしは疲れを感じなかった。部屋の中は、心地良い空間だったのだから、それも当然だった。
何処まで行くのだろうか。
これから、何処へ行くのだろうか。
好奇心と探究心とが、ない交ぜとなったものが胸を満たしてくる。トンネルに入る度に、窓ガラスに反射する自分の顔は、待ち侘びるかのような笑みを浮かべていた。そんな自分が、こいしには驚きでもあったし、嫌いでもなかった。
腫れ物でも扱うかのように、扱われている。
そんな自覚を、自覚とも言えないほどにさり気なく理解したのは、いつ頃だっただろうか。無意識は、誰の手にも余る。意識を読む姉にしてみれば、尚更のことだった。
少し前に、人里の寺に入信してみた。誘われたからである。断る理由も、特に思い付かなかった。先方からは、やたらと御大層な言葉なども頂いたが、あまり意味のないことだと、こいしは思っている。入信したから何だと言うのが、率直な感想だった。
もしかしたら、姉への当て付けのような気持ちが、入信などさせたのかも知れない。少なくとも、姉の関心は惹こうとしたのだ。こいしは、ようやくそのことに気が付いていた。
姉は、決して自分を忘れていない――何かの書物に載っていた記述だ。それと同じように、こいしも姉を意識してしまっているのだ。無意識の範疇に押し遣れず、どうあっても意識してしまう、深く考え込んでしまう。
自分らしくなく、無意識に済ませるのをよしとしない。
間違いなく、姉については意識してしまうのだ。どうあっても、抗えるものではないのだと、ようやく思い至っていた。
腫れ物でも扱うかのような扱いは、言い換えれば、結局は自分のことを気にしていることに繋がるのだ。姉は、古明地さとりは、古明地こいしのことを気に掛けている――本で読んだだけに過ぎないのに、妹である自分は、その言葉に期待している。姉妹としての、飾らない関係を待ち侘びている。だから、当て付けのような寺への入信なども、行ってしまう。姉の関心を惹く、ただそれだけのために。
待ち侘びる。胸の奥にくすぐったいものが過ぎり、期待してしまう。それは意識していることに繋がり、こいしが司る無意識とは、どうあっても縁遠いものだ。無いもので、あるはずだった。
まだトンネルは抜けない。
窓ガラスに反射した自分の顔は、期待するように笑っている。いつものような茫洋とした笑みではなく、嬉しいことや楽しいことを待ち侘びる子供のように、飾らない笑みを浮かべている。
この日、何度目かの溜め息をついた。これだけ溜め息をついたのも久々だった。深く、辟易したような息遣いだったが、嫌な気分は少しもなかった。
不意に、姉の小言を思い出した。少し早く生まれただけだというのに、姉はこいしに対して、やたらと小言を漏らしてきた。嗜めるような口調が、湧き水のように耳の奥でこだまする。
そんな時、自分は大袈裟に肩をすくめて、溜め息をついていた。丁度、今のような溜め息だったことを思い出して、人知れず笑った。嫌な気分は、やはり少しもなかった。
トンネルを、抜けた。
平らな水の上に、こんもりと茂った森が幾つも浮かんでいた。赤い館の傍にある湖には、何度か足を運んだことがある。平らな水は、湖よりも遥かに広いものに思えた。
海。単語だけは、姉から聞かされたことがあった。
橙色に近い陽光が、水面を照らしている。反射した光は、水面がかすかに揺れているからか、微細に動いていた。きらきらと、宝石でも散りばめたかのように光っている。若干、眩しくも思ったが、こいしは目を閉じなかった。
浮かんでいるように見えた森は、ひとつひとつの小さな島だった。亀の甲羅のように、水面から出ているのだろう。よくよく見れば小さいながらも磯があり、張りぼてのように生えた木々が窺えた。
水の上、海の上を走っている。
少し窓から離れると、橋の上を走っていることが分かった。離れてみると、窓の外の光景が小さくなり、だからこそ風景全体が引き締まって見えた。際立って、美しい光景である。少なくとも、珍しいものではあった。幻想郷には、海など勿論存在せず、これだけ巨大な橋も存在していないのだ。
太陽の位置は、低い。
今にも水面――海面の向こうへと、沈みそうなほどである。橙色の陽光はひどく眩しく、それでも目を閉じるのが躊躇われてしまうくらい、美しかった。
海面も、小さな島ひとつひとつも、橙色で仄かに彩られている。
部屋の中も、そこに座るこいしも、彩られている。
全てが彩られていた。一枚の絵画のような光景が、見つめる諸々も含め、全て染め上げられていた。
部屋が、一際大きく揺れる。お気に入りなのだろうなと、こいしは思った。
誰の、とは気にもしなかった。
窓の外の光景は、それくらい美しかった。
◆◆◆
人の心のようなものだと、こいしは思った。
さとり妖怪としての能力は、失ってから随分と経つ。だから、人の心を読んでいた感覚を思い出すのには、多少の時間が必要だった。あまり思い出したくないことであるのも、また事実だった。
もたれていた標識から、背を起こした。気付いた時には、ここに座っていた。見渡したが、特に変わったところはひとつもなく、人影らしいものを見かけることもなかった。
小川のせせらぎが聞こえてくる。仰いだ空には雲ひとつ見られない。どうやら、標識を見咎めた時から、然程経ってはいないのだろう。身を切るような風は、今も吹いてはいない。
振り返る。赤茶色の錆が浮いた標識へと、向き直った。
人の心を読むのは、丁度、窓を覗き込むような感覚だった。
窓から見える風景のように、覗き見るのだ。決して、風景の寒暖を感じることがないように、相手の心象に惑わされることはない。見たものは、あくまで見たものでしかないのだ。先ほどの、あの部屋から景色を眺めていたように、外から影響を受けることもなく見据える。それが、心を読むということだった。
それでも、こいしは覗くのを止めてしまった。さとり妖怪であると知られた相手の心は、気持ちの良いものではなかったのだ。中には、露骨にこちらを毛嫌いする者まで居た。自分を避けようとする意識が、錆や膿のように滲み出ているのだ。
だから、こいしは自ら瞳を閉じた。
今でも目を閉じていない姉には、薄ら寒さすら覚えてしまう。他人の心が読めるなど、決して愉快なものではない。姉ならば、それは重々理解しているはずだった。
だが、姉は今でも目を開けている。さとり妖怪を続けている。
冬の、山の上の神社、守矢神社といっただろうか。人間と弾幕勝負をした。奇妙な人間だったと思う。少なくとも、嫌いではなかった。面白い人間であることは間違いなかった。
あの時、久しく動かしていない瞼が、勝手に動いた。
結局、開けることはなかったが、もし開けていたらどうなっただろう。やはり、自分を毛嫌いするような心を覗いて、再び絶望しただろうか。それとも、そんなことも構わないほどに、心を読むことに没頭しただろうか。覗くことが出来たのは、錆や膿の浮かび上がった光景だろうか。窓の外に見た、四季折々の風景のような心だろうか。
会いたいと、思った。
久しく会っていない姉に、あの薄暗い地の底で。ただでさえ、引き篭もりがちな姉のことだ。家具など、ひとつも入れ替えてはいないのだろう。ならば、姉一人にしては大き過ぎるほどのテーブルが、今もダイニングに備わっているはずだ。机を挟んで椅子につき、姉と二人でティータイムというのも悪くない。人里には、茶葉を扱う店がある。そこから少々失敬して、茶葉をお土産にするのも悪くなかった。店には気の毒だが、まあ良いかと思うことにした。
会いたい。会って、話がしたい。
もしかしたら、姉は心を読めない自分のことを、最初は嫌がるかも知れない。腫れ物を扱うかのように、追い立てようとするかも知れない。それも構わなかった。元々、姉には素直でないところがあった。童話の巨人のことを、心の中ではかなり怖がっていた癖に、表情では何でもないと装っていた。まだ心を読むことの出来た自分の前では、意味のないことだというのに――昔のことを思い出して、こいしは束の間、吹き出すように笑った。
何を話そうかと思いかけ、ゆっくりと首を振った。
取りとめもないことでいいと思った。ペットのこと、人里でのこと、地霊殿のこと、話せるなら何でもいいと思ったのだ。姉と話す、それ自体が大事なことなのだ。内容など、些細である。姉と話がしたいという自分の欲求に、こいしは素直に従おうと決めていた。
ただ、ひとつだけ。
絶対にひとつだけ、聞いておきたいことがあった。
標識に、手を伸ばした。赤茶色の錆は、ざらりとした質感をしている。土に帰るのは、恐らくまだ先のことだろう。ぼろぼろと錆は零れ落ちたが、雑草の茂った土の上では、ひどく目立っているように見えた。撫でた指には、錆の赤茶色がうつっている。ちょっと服で払ってから、撫で続けた。
心を読むのは、どんな感覚なのか。
窓に映る人々の心は、景色は、どうなっているのか。
それだけは、絶対に聞いてみようと思った。期待している答えはなかった。もとより、こいし自身がその景色に絶望して、目を閉じたのだ。綺麗だとか上品だとかの飾るような答えは、端から期待していなかった。
それでも、姉は心を読むのは止めていない。さとり妖怪を辞めていない。単に、姉が鈍感だということも考えられた。姉には、繊細さと図太さとがない交ぜになったところが、昔からあった。心を読むということに関しては、そういう図太い部分が出ているだけなのかも知れない。
ただ、もしかしたら姉には、見えているのではないだろうか。
部屋の中から見つめた、窓の外のような様々な景色。トンネルを潜り、忙しなく流れるのとゆったり流れるのとが、一緒くたになったかのような景色。春夏秋冬、朝昼夜、自然人工、その他諸々の景色。
心を読むのは、姉もこいしも行っていた。見えていた景色は、姉とこいしでは違うのかも知れない。それを確かめたくなった。
姉と話がしたい。
会って、話して、聞いてみたい。
無意識を心掛けていたというのに、意識が芽生えてしまった。不快感は不思議とない。それよりも姉と――お姉ちゃんと、早く話がしたかった。
標識から手を離す。
長方形の部屋、窓からの景色。すべて、誰が見せたものかは分からない。
それでも、こいしは標識に向けて笑いかけた。
「ありがと」
瞼が疼いたのは、多分、気のせいだった。
肌寒さを存分に孕んだ風が、剥き出しの腿や膝を撫でる。
妖怪である古明地こいしには、あまり意味のない寒さだった。肌寒いということは分かるが、頑丈な妖怪の身体にとっては凍えるほどでもなかった。春夏秋冬、ほとんど代わり映えしない服装のまま、白み始めた冬空を仰ぐ。
昨夜の寝床は、久しく使われていない納屋だった。本当は、今も使われているのかも知れないが、無断で拝借したこともあって、そのあたりの事情は分からなかった。埃を被った農具の隙間に、身を寄せるようにして眠った。普段から似たようなことを行っているので、特に不自由は感じなかった。
地霊殿には、しばらく帰っていない。
切羽詰った事情は無かったが、何となく、帰っていなかった。
肌寒い風が、ひょうと鳴くように吹く。
誘われるように、こいしは歩いた。舗装された道から、林道のような藪の深い道へと入る。自然と、地霊殿からは遠退く道だったが、それも構わなかった。
何とはなしに散歩をするのが、昔から好きだった。さとり妖怪としての瞳を閉じてからは、それが殊更、顕著になった。茫洋としている、達観していると言われたこともあるが、こいし本人に、そのような自覚はなかった。
もとより、自覚など無いのかも知れない。
あって無いように、ふらふらと当ても無く日々を過ごすのが、今の自分だった。まさしく無意識のように、心の色すらも薄くしながら暮らしているのが、今の自分だった。
ふと、足を止める。
せせらぎが、すぐ近くから聞こえた。
小川はすぐに見つかった。水の量は少ない。雪解けには、まだ早い時期だった。
素手ですくい取ると、さすがに冷たい。まどろみの残る目を覚ますのには、充分だった。口を漱ぐように、何度かに分けて少しずつ飲む。顔も、したたかに濡らした。目尻が、絞られるように引き締まるのを感じた。
気持ち良い。
それくらいを感じる程度には、こいしは無心でも無感動でも無かった。
他人から気付かれにくい程度には、無意識を着こなしている。その程度のものだったが、おかげで神社の巫女の脇を通ろうとも気付かれず、他者の心を読む姉の目に捉われることもない。
心を読むことのできる姉には、心を読むことのできないこいしを、そう簡単には見つけられないのだ。無意識というものは、姉にはどうあっても捉え切ることができない。読めるからこそ見つけられて、読めないからこそ見つからない。コインの裏表のようなものとも言えた。まるっきり正反対なのである。事実、心を読める姉は地底に引き篭もっており、心を読めないこいしは地上を闊歩している。姉はいつも億劫そうな仏頂面をしており、こいしはいつもへらへらふらふらと笑っていた。少なくとも、こいしの記憶している姉は、いつもそんな表情をしていた。
はたと、思い至る。
姉のことを、とりとめもなく考え続けていることに、こいしはようやく気が付いた。
誰に向けるでもなく笑った。懐かしいなと思った。会いたいとは、あまり思わなかった。
さとり妖怪であることを、こいしは辞めてしまった。今なお、さとり妖怪という禄でもない妖怪を続けている姉に対しては、どうにも曖昧なものを抱いてしまう。例えば、納得ができない――他人の心など、覗いたところで嫌われるだけだ。例えば、軽蔑してしまう――未だに他人の心を覗き込む姉は、卑しくも思えてくる。例えば、ほんの少し、憧れてしまう――忌み嫌われ、地底に引き篭もりながらもさとり妖怪を辞めない姉は、本当は物凄く心根が強いのではないか。
ない交ぜなのだ。
姉に対して、こいしの抱くものは一筋縄ではなかった。
会おうかと思えば、普段は何処へでも奔放な足取りが、荒縄で雁字搦めにされたかのように重くなる。ならば、姉のことは嫌いなのかと自問自答すれば、ケーキを多めに分けてもらったなど、他愛のない思い出が過ぎる。では好きでもなく嫌いでもなく無関心なのかとこれまた自問自答すれば、そうやって姉のことを一心に考えている自分に、思い至った。
心とは難解なものである。そんな代物を、未だに覗き続けている姉に対しても、こいしは曖昧なものを抱いている。説明し切れないほどに曖昧で、難解な心を、である。そして、そんなものに囚われ続けるのが、こいしはあまり好きではなかった。
だから、姉と会いたいとは、あまり思わなかった。
思わないようにしていた、と言ったほうが正しいだろう。
自嘲のように浮かんでしまった笑みを濯ぐつもりで、小川の水を含む。温かい湯が欲しいなと思いながら、顔を上げた。
標識が、目に留まった。
丁度、小川を挟んだ向こう側である。冬を孕んだ淡い緑色の最中に、孤立するようなかたちで佇んでいる。群衆の中、ぽつりと立ち竦んでいる人間を、思わせるような格好だ。だと言うのに、不思議と違和感はない。漠然と茂みの中に溶け込みながら、それでも明らかに際立っていることが、こいしの目を惹いた。
小川をふらりと跨いで、近寄った。
所々、塗装が剥げており、赤茶色の錆が浮いている。文字も書かれていたが、擦れて読み取ることはできなかった。遺棄されたものだとしても不思議ではなかった。それくらい、この標識は朽ちていた。同じようなものは、何度か立ち寄った無縁塚でも見かけていた。
傍らに座り込む。朽ちた標識に、軽く背中を預ける。
何となく、そうしたくなった。
他意などない。
自然の中で佇む人工物に、ほんの少しの好奇心を抱いた。その程度のものだ。もとより、こいしの行動理念など他愛のないものばかりなのだ。今までも、そして恐らく、これからも。
更に深く、標識へともたれ掛かる。自然と首が傾き、天を仰ぐ格好となった。冬の青空には雲ひとつ無い。肌を撫でていた風も、いつのまにか止んでいた。
目を閉じる。
眠気を感じた訳ではなかった。
何となく、そうしたくなった。
他意などない。
◆◆◆
身体がかすかに揺られていることに、ぼんやりと気が付いた。目を開けるとともに、下ろしていた腰を上げようとする。
腰掛ける椅子の模様が、まず目に入った。
硬くも柔らかくもない質感を、尻の下に感じる。椅子のスペースは二人分ほどで、こいしは丁度、その片側を占有している格好だった。わずかな空間を挟んだ反対側には、腰掛けているものと瓜二つの椅子が備わっている。人影はなかった。
事態が飲み込めず、立ち上がる。
例えるなら、そこは部屋だった。
随分と天井は低く、縦に長く横に短い長方形の部屋である。背の低いこいしから見ても、電灯が等間隔に並んだ天井は、かなり近くにあるように思えた。部屋の中には、敷き詰められたかのように整然と、椅子が並べられている。自分が腰掛けていた椅子と、全く同じものだった。
その椅子が、長方形の部屋全体が、かすかに揺れている。
こいし以外の人影はない。
久しく経験していないほどの疑問を感じながら、こいしは座り込んだ。眩暈を覚えた訳ではなく、揺れる最中で立ち続けるのが難儀だったからだ。揺れは微細なものだったが、時折、思い出したかのように一際大きくなった。呆然と立ち続けるよりも、茫洋と座り込んでいるほうが、遥かに楽だった。
寒空の下、森の中に佇む標識の傍らで、目を閉じたことは憶えている。
まどろみを覚えたことも、憶えていた。
そこから先の記憶はない。不意にとも、何時の間にかとも言える格好で、自分はこの部屋に居た。釈然としないのは確かだが、不快感は全くなかった。
室温は暖かくも寒くもなく、当然、風とて吹いていない。椅子の座り心地も悪くなかった。スプリングには劣化などないらしく、弾むような感触が、尻の下でしっとりと息衝いていた。
人が過ごすのには、適した環境だ。
少なくとも、昨夜の寝床とした納屋などよりは、幾分も過ごしやすかった。頑丈な妖怪の身体であるこいしにとっても、変わりなどない。若干の揺れは、程好い椅子の質感もあって、ほとんど気にならなかった。
背もたれに、深くもたれ掛かる。
思い返せば、こうして過ごしやすい環境で身体を休めるのは、久し振りのことだった。
倉庫や納屋などを無断で拝借するような生活を送ってきた。意識していた訳ではなかった。もしかしたら、ずっと地霊殿に帰っていない罪悪感が、そんな生活をさせていたのかも知れない。何とはなしに、そう思った。引き篭もる姉を置き去りにし、放浪するかのような日々を送っていたのは、確かだった。
被っていた帽子を脱ぐ。
陽の当たらない部屋は、灯りのおかげで明るい。眩し過ぎず、暗過ぎることもなかった。
ふと、気付いた
部屋の中は確かに明るかったが、天井の灯りだけでこれだけの明るさを保つのは、無理があるように思えた。小首を傾げるように、横へと振り向く。
窓があった。
流れる景色が、こいしを迎えた。
長方形の部屋の壁一面に、大きな窓が飾られていることに、こいしはようやく気が付いた。
窓の向こうの景色は、後ろへ後ろへと河の流れのように過ぎ去っていく。だとすると、この部屋自体が、前へ前へと動いているということだろうか。それなら、部屋全体が微細に揺れていることも納得できる。
走っている。部屋そのものが、地面を走っているのだ。
だから揺れている。流れる景色は、こいしが空を飛んだ時より、幾分も速いように見える。にもかかわらず、尻の下に感じる揺れは、それほど気に掛かるほどではなかった。
窓は、大きかった。こいしの頭より、二回りほども大きい。それが、壁一面に備えられている。
何故、気付かなかったのだろう。
狐にでも化かされたかのようになって、こいしは眉をひそめた。これが無意識の落とし穴というやつなのだろうか。窓を窓だと確かめず、無意識の内に窓なんてないと思ってしまい、今の今まで気付けなかったのかも知れない。無意識はこいしの真骨頂だが、それは同時に、誰よりも無意識に囚われているのだということを、こいしは一応、理解していた。
或いは、本当に何者かに化かされているのかも知れない。現に、こうして長方形の部屋に居座っていること自体、訝しかった。居心地は決して悪くないが、そういった心地良さこそが、罠である可能性は大いにある。そして幻想郷には、他人を誑かすということに殊更長けた連中が、それこそ炉辺の石のようにごろごろと存在している。こいし自身、そういった連中の一人であることは、重々承知しているつもりだった。
深く息をつく。
まあいいかと、こいしは結論付けた。
あまり深々と考えを巡らすのは、得意ではなかった。より正確に言うなら、自分らしくない。姉のことといい、どうにも今日は調子が悪い。懇々と、思考の坩堝に嵌っていくのは、真っ当な哲学者のやることだった。無意識などとは、どうあっても縁遠い。
まったく、らしくない。
言葉にせず、溜め息として漏らした。
一層深く椅子へともたれ掛かる。わずかに背が滑り、窓へと頭が触れた。鈍い感触が、髪を撫でた。相当、分厚いガラスなのだろうなと、それだけを思った。
眺める先で、近いと思える木々が流れていく。時折、見慣れない看板が目に留まり、すぐに後ろへと過ぎていく。遠くには、満遍なく大地に広がる田んぼが見えた。
今の季節にはそぐわない、青々とした稲だと分かった。
奥には、穏やかな稜線をした山々が、思い思いに構えている。よく見知った、妖怪の山のような荒々しさは微塵もなく、緩慢なほどに穏やかだった。透けるような青空には、雲の一欠けらも見当たらない。鳥も妖怪も、飛んでいる影は欠片もなかった。
果たして、これは夢の中か、それとも幻か。
現実の風景だとは、とても思えなかった。見えるのは、冬とは縁遠い青々とした情景だった。
田んぼと山々、そして青空は、近くで擦れ違う木々や看板とは違って、ほとんど流れることもない。忙しなく流れていく諸々と、ゆったりと流れていく諸々との対比が、窓の向こう側にはあった。当たり前といえば当たり前な、景色である。低いところを飛ぶ時には、同じような光景を見ていた。ひどく見慣れた光景だった。
胸の奥を、くすぐられる。
自ずと、さらに深くもたれ掛かり、身体がしたたかに傾いた。その拍子に頭だけでなく、頬まで窓に触れた。ひんやりとした硬い質感が、こいしの頬をわずかに押してくる。それすらも、どこか他人事のように思えた。
飛ぶ時は、嫌でも風を感じる。
今のような、冬の真っ只中ともなれば尚更だろう。記憶の中にある、冬の神社での弾幕勝負は、霙を伴った強かな風が印象に残っていた。あの時以来、冬に飛ぶことはできるだけ避けるようにしている。
それが、此処には無いからだろうか。
風もなく流れる景色は、確かに新鮮だった。自分が飛ぶよりも速く、景色は流れていく。だと言うのに、肌を掠める寒風などは一陣もない。程好い質感の椅子に身体を預けながら、わずかな揺れだけを感じている。その揺れすら、決して苛むほどではなく、子守唄のような心地良さを感じさせた。
燻りのようなものが、鳩尾あたりに沸き起こる。緩んだ頬が、柔らかく痙攣しそうになる。脱いでいた帽子を、抱き寄せるように持った。
訳もなく、背筋が粟立った。不快ではなかった。
懐かしいな。
何故、そう思ったのかは、自分でもよく分からなかった。
木々や看板は、目に留まった先から流れていく。田んぼや山々は、それと分からない程度に流れていく。
すべてが真っ暗になったのは、間も無くのことだった。
唐突だった。まるで、窓の向こう側から墨を塗りたくったかのように、目の前に広がっていた景色はすべて、闇に覆われた。
思わず、仰け反るように窓から離れる。窓には真っ暗な闇と、目を真ん丸に見開いた自分の顔とが、映っていた。
戸惑いから、徐々に立ち直る。わずかに憤りらしきものも覚えたが、それ以上にひとつの単語が浮かんだ。
トンネル。
思った先から、窓の向こうは黒から白に変わった。
今度は仰け反らず、食い入るように窓へと寄った。
トンネルを抜けると、そこは雪国でした――どこかで、誰かから聞いた言葉だったが、詳しいことは思い出せなかった。思い出す暇もなく、窓からの景色に目を奪われた。
雪が降っている。
降り積もった雪が、眼下一面を漂白している。忙しなく擦れ違う木々も、遠くに見える田んぼや山々も、皆一様に雪に覆われていた。
時折、目に留まる看板だけが、雪に降り積もられながらも、場違いなほどに鮮やかな緑色をしている。この時、看板が緑色であることに、こいしはようやく気が付いた。先ほどの、青々とした光景の中では、緑色の看板はあまり目立たなかった。
絨毯のように、隙間なく空を覆った灰色の雲からは、絶えることなく雪が降っている。風は、ほとんど吹いていないように見えた。見えただけで、本当は吹き荒ぶような風が吹いているのかも知れない。部屋の中では、それもよく分からなかった。
心地良さに、惑わされている。
それも悪くないかなと、こいしはにべも無く思った。元々、物事に頓着するような性格ではないのだ。あまり些事に囚われず、感じるままにあればいい。寒さに苛まれずに、こうして流れる景色を見続けるのは、不愉快ではなかった。むしろ、心地良いと言っても良かった。
嵌めるなら、嵌められてもいいかな。
溜め息のように呟きながら、景色を眺める。窓の外は、白銀のような白雪に覆われている。静かな情景だった。間断なく揺れを感じ、忙しないほど木々や看板は過ぎ去っていくと言うのに、ひどく静かな光景だと思った。
まどろみにも似た感覚に、こいしは細く息を吐いた。
窓の外を、闇が覆う。
唐突だったが、仰け反るようなことはなかった。分厚い窓ガラスに反射した自分の顔は、穏やかに笑っていた。
程無くして、トンネルを抜けた。
窓の外の景色は、若芽のような鮮やかな緑の印象が強かった。春だと分かったのは、通り過ぎる木々の中に、薄桃色が咲き乱れる木を見つけたからである。多分、桜だろう。見慣れた桜とは、幾分か色合いが違うようにも思えたが、細かいところまで見るつもりはなかった。
何故なら、恐らく外の光景は、幻想郷とはまったく別の場所だからだ。
こいしはようやく、その考えに思い至っていた。もっと早く気付いていたらともかすかに思ったが、詮無きことだった。
そもそも、緑色の看板などという代物は、今まで見かけたこともなかった。それに、これだけの速さで走っていれば、いずれは何か見覚えのある場所を見かけるはずである。幻想郷は、あまり広くはないのだ。長方形の部屋は、もう随分と長い距離を、中々のスピードで走っていた。
艶やかな色合いの桜が、見頃を迎えている。眼下の田んぼには、まだ水がなかった。田植えの時期は、もっと先なのだろう。遠くの穏やかな峰には、ぽつりぽつりと緑を蓄える林が見られた。
風は吹いていないようだった。少なくとも、荒ぶような強い風は吹いていないようである。桜の花は、雨風で簡単に散ってしまう。見頃の桜が無為に散らされていないことに、こいしは訳もなく、嬉しく思った。
闇が覆う。
窓に映った自分の顔は、玩具を待つ子供のように見えた。
トンネルを抜ける。
色とりどりの紅葉が、窓の外で踊っている。緑色があり、黄色があり、赤色があった。尻の下に感じる揺れは、まったく気にならなくなっていた。
闇が覆い、自分の顔が映り、そしてトンネルを抜ける。
何度も続いた。
迎えたのは、晴れた雪景色でもあったし、梅雨のような雨でもあった。昼の光景が多かったように思えたが、夜もあれば朝もあった。低い位置に太陽を見つけたこともあれば、トンネルの最中と変わらないほどの闇に、迎えられたこともあった。
見える風景も、大きく変わることがあった。
高々と聳え立つ、人工物の最中を走った。陽光の中でも灰色にくすんでおり、どこか草臥れた印象を覚えた。かと思えば、とっぷりとした闇の中では、見るも鮮やかな光を湛えていた。乱反射する光の奔流に、こいしは束の間、我を忘れるほどに興奮した。弾幕勝負に勝るとも劣らない、人工の光の乱舞だった。
幻想郷と然程変わらないほどの、自然の中を走ることもあった。田園風景どころか、奥深い山中を走っていた。空が近いと思えるほどに、高い場所を走っている。山の横腹を食い破るように、鉄塔が聳え立っていた。ひとつではなく、何本もがそれぞれに線のようなもので繋がって、聳え立っていた。博麗神社の裏で見つけた物より、遥かに巨大な鉄塔である。幼い頃、姉とともに読んだ童話の巨人が重なって、苦笑いを浮かべた。
幾度となく、窓の外の景色は変化した。
春夏秋冬、朝昼夜、自然人工、その他諸々と、様々な情景を見せていた。目まぐるしいほどの変化だったが、こいしは疲れを感じなかった。部屋の中は、心地良い空間だったのだから、それも当然だった。
何処まで行くのだろうか。
これから、何処へ行くのだろうか。
好奇心と探究心とが、ない交ぜとなったものが胸を満たしてくる。トンネルに入る度に、窓ガラスに反射する自分の顔は、待ち侘びるかのような笑みを浮かべていた。そんな自分が、こいしには驚きでもあったし、嫌いでもなかった。
腫れ物でも扱うかのように、扱われている。
そんな自覚を、自覚とも言えないほどにさり気なく理解したのは、いつ頃だっただろうか。無意識は、誰の手にも余る。意識を読む姉にしてみれば、尚更のことだった。
少し前に、人里の寺に入信してみた。誘われたからである。断る理由も、特に思い付かなかった。先方からは、やたらと御大層な言葉なども頂いたが、あまり意味のないことだと、こいしは思っている。入信したから何だと言うのが、率直な感想だった。
もしかしたら、姉への当て付けのような気持ちが、入信などさせたのかも知れない。少なくとも、姉の関心は惹こうとしたのだ。こいしは、ようやくそのことに気が付いていた。
姉は、決して自分を忘れていない――何かの書物に載っていた記述だ。それと同じように、こいしも姉を意識してしまっているのだ。無意識の範疇に押し遣れず、どうあっても意識してしまう、深く考え込んでしまう。
自分らしくなく、無意識に済ませるのをよしとしない。
間違いなく、姉については意識してしまうのだ。どうあっても、抗えるものではないのだと、ようやく思い至っていた。
腫れ物でも扱うかのような扱いは、言い換えれば、結局は自分のことを気にしていることに繋がるのだ。姉は、古明地さとりは、古明地こいしのことを気に掛けている――本で読んだだけに過ぎないのに、妹である自分は、その言葉に期待している。姉妹としての、飾らない関係を待ち侘びている。だから、当て付けのような寺への入信なども、行ってしまう。姉の関心を惹く、ただそれだけのために。
待ち侘びる。胸の奥にくすぐったいものが過ぎり、期待してしまう。それは意識していることに繋がり、こいしが司る無意識とは、どうあっても縁遠いものだ。無いもので、あるはずだった。
まだトンネルは抜けない。
窓ガラスに反射した自分の顔は、期待するように笑っている。いつものような茫洋とした笑みではなく、嬉しいことや楽しいことを待ち侘びる子供のように、飾らない笑みを浮かべている。
この日、何度目かの溜め息をついた。これだけ溜め息をついたのも久々だった。深く、辟易したような息遣いだったが、嫌な気分は少しもなかった。
不意に、姉の小言を思い出した。少し早く生まれただけだというのに、姉はこいしに対して、やたらと小言を漏らしてきた。嗜めるような口調が、湧き水のように耳の奥でこだまする。
そんな時、自分は大袈裟に肩をすくめて、溜め息をついていた。丁度、今のような溜め息だったことを思い出して、人知れず笑った。嫌な気分は、やはり少しもなかった。
トンネルを、抜けた。
平らな水の上に、こんもりと茂った森が幾つも浮かんでいた。赤い館の傍にある湖には、何度か足を運んだことがある。平らな水は、湖よりも遥かに広いものに思えた。
海。単語だけは、姉から聞かされたことがあった。
橙色に近い陽光が、水面を照らしている。反射した光は、水面がかすかに揺れているからか、微細に動いていた。きらきらと、宝石でも散りばめたかのように光っている。若干、眩しくも思ったが、こいしは目を閉じなかった。
浮かんでいるように見えた森は、ひとつひとつの小さな島だった。亀の甲羅のように、水面から出ているのだろう。よくよく見れば小さいながらも磯があり、張りぼてのように生えた木々が窺えた。
水の上、海の上を走っている。
少し窓から離れると、橋の上を走っていることが分かった。離れてみると、窓の外の光景が小さくなり、だからこそ風景全体が引き締まって見えた。際立って、美しい光景である。少なくとも、珍しいものではあった。幻想郷には、海など勿論存在せず、これだけ巨大な橋も存在していないのだ。
太陽の位置は、低い。
今にも水面――海面の向こうへと、沈みそうなほどである。橙色の陽光はひどく眩しく、それでも目を閉じるのが躊躇われてしまうくらい、美しかった。
海面も、小さな島ひとつひとつも、橙色で仄かに彩られている。
部屋の中も、そこに座るこいしも、彩られている。
全てが彩られていた。一枚の絵画のような光景が、見つめる諸々も含め、全て染め上げられていた。
部屋が、一際大きく揺れる。お気に入りなのだろうなと、こいしは思った。
誰の、とは気にもしなかった。
窓の外の光景は、それくらい美しかった。
◆◆◆
人の心のようなものだと、こいしは思った。
さとり妖怪としての能力は、失ってから随分と経つ。だから、人の心を読んでいた感覚を思い出すのには、多少の時間が必要だった。あまり思い出したくないことであるのも、また事実だった。
もたれていた標識から、背を起こした。気付いた時には、ここに座っていた。見渡したが、特に変わったところはひとつもなく、人影らしいものを見かけることもなかった。
小川のせせらぎが聞こえてくる。仰いだ空には雲ひとつ見られない。どうやら、標識を見咎めた時から、然程経ってはいないのだろう。身を切るような風は、今も吹いてはいない。
振り返る。赤茶色の錆が浮いた標識へと、向き直った。
人の心を読むのは、丁度、窓を覗き込むような感覚だった。
窓から見える風景のように、覗き見るのだ。決して、風景の寒暖を感じることがないように、相手の心象に惑わされることはない。見たものは、あくまで見たものでしかないのだ。先ほどの、あの部屋から景色を眺めていたように、外から影響を受けることもなく見据える。それが、心を読むということだった。
それでも、こいしは覗くのを止めてしまった。さとり妖怪であると知られた相手の心は、気持ちの良いものではなかったのだ。中には、露骨にこちらを毛嫌いする者まで居た。自分を避けようとする意識が、錆や膿のように滲み出ているのだ。
だから、こいしは自ら瞳を閉じた。
今でも目を閉じていない姉には、薄ら寒さすら覚えてしまう。他人の心が読めるなど、決して愉快なものではない。姉ならば、それは重々理解しているはずだった。
だが、姉は今でも目を開けている。さとり妖怪を続けている。
冬の、山の上の神社、守矢神社といっただろうか。人間と弾幕勝負をした。奇妙な人間だったと思う。少なくとも、嫌いではなかった。面白い人間であることは間違いなかった。
あの時、久しく動かしていない瞼が、勝手に動いた。
結局、開けることはなかったが、もし開けていたらどうなっただろう。やはり、自分を毛嫌いするような心を覗いて、再び絶望しただろうか。それとも、そんなことも構わないほどに、心を読むことに没頭しただろうか。覗くことが出来たのは、錆や膿の浮かび上がった光景だろうか。窓の外に見た、四季折々の風景のような心だろうか。
会いたいと、思った。
久しく会っていない姉に、あの薄暗い地の底で。ただでさえ、引き篭もりがちな姉のことだ。家具など、ひとつも入れ替えてはいないのだろう。ならば、姉一人にしては大き過ぎるほどのテーブルが、今もダイニングに備わっているはずだ。机を挟んで椅子につき、姉と二人でティータイムというのも悪くない。人里には、茶葉を扱う店がある。そこから少々失敬して、茶葉をお土産にするのも悪くなかった。店には気の毒だが、まあ良いかと思うことにした。
会いたい。会って、話がしたい。
もしかしたら、姉は心を読めない自分のことを、最初は嫌がるかも知れない。腫れ物を扱うかのように、追い立てようとするかも知れない。それも構わなかった。元々、姉には素直でないところがあった。童話の巨人のことを、心の中ではかなり怖がっていた癖に、表情では何でもないと装っていた。まだ心を読むことの出来た自分の前では、意味のないことだというのに――昔のことを思い出して、こいしは束の間、吹き出すように笑った。
何を話そうかと思いかけ、ゆっくりと首を振った。
取りとめもないことでいいと思った。ペットのこと、人里でのこと、地霊殿のこと、話せるなら何でもいいと思ったのだ。姉と話す、それ自体が大事なことなのだ。内容など、些細である。姉と話がしたいという自分の欲求に、こいしは素直に従おうと決めていた。
ただ、ひとつだけ。
絶対にひとつだけ、聞いておきたいことがあった。
標識に、手を伸ばした。赤茶色の錆は、ざらりとした質感をしている。土に帰るのは、恐らくまだ先のことだろう。ぼろぼろと錆は零れ落ちたが、雑草の茂った土の上では、ひどく目立っているように見えた。撫でた指には、錆の赤茶色がうつっている。ちょっと服で払ってから、撫で続けた。
心を読むのは、どんな感覚なのか。
窓に映る人々の心は、景色は、どうなっているのか。
それだけは、絶対に聞いてみようと思った。期待している答えはなかった。もとより、こいし自身がその景色に絶望して、目を閉じたのだ。綺麗だとか上品だとかの飾るような答えは、端から期待していなかった。
それでも、姉は心を読むのは止めていない。さとり妖怪を辞めていない。単に、姉が鈍感だということも考えられた。姉には、繊細さと図太さとがない交ぜになったところが、昔からあった。心を読むということに関しては、そういう図太い部分が出ているだけなのかも知れない。
ただ、もしかしたら姉には、見えているのではないだろうか。
部屋の中から見つめた、窓の外のような様々な景色。トンネルを潜り、忙しなく流れるのとゆったり流れるのとが、一緒くたになったかのような景色。春夏秋冬、朝昼夜、自然人工、その他諸々の景色。
心を読むのは、姉もこいしも行っていた。見えていた景色は、姉とこいしでは違うのかも知れない。それを確かめたくなった。
姉と話がしたい。
会って、話して、聞いてみたい。
無意識を心掛けていたというのに、意識が芽生えてしまった。不快感は不思議とない。それよりも姉と――お姉ちゃんと、早く話がしたかった。
標識から手を離す。
長方形の部屋、窓からの景色。すべて、誰が見せたものかは分からない。
それでも、こいしは標識に向けて笑いかけた。
「ありがと」
瞼が疼いたのは、多分、気のせいだった。
洒落とかでなく、
こいしは姉が恋しいって事ですね。
面白い解釈でした。
流水のような文章だ、傑作だよ
こいしの心象とリンクしているような感覚のする、いい作品でした。
セリフが最後の一つだけってのもいいですね
ラスリモのピアノ部分は切ない感じがして良いですよね
台詞や心中の呼称など、とっておきの大切なものを
最後の最後で引き出しからそっと出したような終わりに胸をうたれました。
そう思わせてくれる内容でした ペロペロ
総想話にはたくさんの作品がありますが、ここまでのものは中々見つからないかと。