西行桜。
美しさの一つの到達点。
春の陽光を一身に浴びた桜は、まるで宝玉のように輝いていた。
見上げると、薄桃色の天涯が頭上を埋め尽くす。
暖かな風に揺蕩う枝、そして舞い踊る花弁。
それは無限に、さながら夢幻のように、無間であった。
一陣の風が吹き抜け、桜吹雪が大海のように荒れ狂う。
縦横無尽。
視界に広がるのは白桃色の花弁の乱舞。
奪われるのは命ではなく、視線。
魂を抜かれ、唯只管に桜を見詰め続けてしまう。
奇麗だ。
綺麗だ。
そう口にする事すらおこがましい。
口頭でどのような美辞麗句を重ねたところで、実物を目にしてしまえばその言葉が偽物だと悟ってしまうのだ。
どんな言葉も、この桜を飾る事は許されない。
無言。
それこそが、この桜にとって最上の誉れとなるであろう。
この物語の始まりは、死である。
そして、同時に生でもある。
生と死は背中合わせとはよく言ったもの。
これほどこの物語にぴたりと当て嵌まる言葉もない。
唯、わたしは死生観について語るつもりはない。
そこにあるのは、産まれ、生きて、死ぬ。
それだけだから。
どんな言葉で飾ろうとも、それだけなのだ。
生死の、そんな不遜な扱いに対し、不快に感じる人間もいるだろう。
そんな人間にこそ知って貰いたいと思う反面、
こんな稚拙な騙りで、その者らを不快にさせては元も子もないとも思う。
だから、わたしはあくまで簡潔に綴ろうと思う。
この書記を読んだ者が、その腐臭に気付く前に、完結を迎えてしまうような。
――そんなお話。
◆◇◆◇◆
先日、この満開の桜の下で一人、永久の眠りについた。
それは西行寺幽々子の父親であった。
西行法師。
彼は、歌聖として名立たる詩人であった。
彼の読んだ歌は、人々の心を捉え、多くの人間を虜にした。
この西行法師の死が、一つの惨劇を引き起こす。
彼を慕う多くの人々。その者等が彼の後を追うように、次々と桜の下で命を落としていったのだった。
喉元を搔っ切り、首を吊り、互いに刺し合い、毒を飲み――
人の身では負い切れぬ程多量の死を、この桜と西行寺幽々子は眺めていた。
いや、感じ取っていたのだった。
灰燼の様に薄く降り積もった死の薫りは、西行寺幽々子に狂気を孕ませた。
そして、同時に桜はまるでその者らの生血でも啜ったかのような、真赤な花弁を咲き誇らせていた。
「……美しい」
幽々子は思わず桜に手を伸ばしてしまう。
彼女のか細い指先が、樹木の表面をなぞっていく。
ドクン。
そう脈動したのは彼女の心臓か、それとも桜だったのか。
その表面は、まるで生きているかのように熱い。
決して錯覚ではない、触れた肌が焼け爛れてしまいそうな程、桜は熱を放っていた。
指先から意識を吸い取られていくかのような錯覚。
西行桜を通して、幽々子は美しき幻想の世界を幻視する。
霞がかった視界。
それはまるで死後の世界のようだ、と幽々子は思った。
その時、背後から、幽々子目がけて礫が飛んできた。
皮肉にも、彼女を現実へと引き戻したのはその一撃であった。
桜と向い合うようにして立っていた彼女は、当然それに気付かない。
手加減などされずに投じられた石は、彼女の後頭部に直撃する。
「っぅ――」
予期せぬ激痛に呻き声を漏らし、背後を振り返る。
だが、そこには既に人影は存在せず、どす黒い悪意が残されるだけであった。
礫を受けた後頭部の裂傷から一筋の血液が、首筋へと垂れていく。
幽々子は一度、手の平で傷口を抑える。不快な滑り気と共に体温を感じる。手の平を見ると目が眩む程赤い血が掌を彩っていた。その腕を桜へと伸ばす。
熱い。
――桜の赤い熱と、私の赤い熱が混じり合う。
心地よい。幽々子は心からそう思った。
そして――
私もこのまま死んでしまいたい、と。
心の底から叫んだのだった。
◇◆◇◆◇
幽々子の存在が村の人間達から疎んじられるようになったのはいつからだろう。
彼女が何かをした、という訳ではない。
ただ彼女の父を追うようにして亡くなっていった詩人達、村人達が問題だった。
始めの内は、西行寺の敷地内で頻発する後追い自殺に、幽々子に同情の視線を向ける村人も多かった。
しかし、余りにも自尽が多すぎたのだった。
両手の指では足りなくなり、それに両足に指を足しても足りなくなり、終いには酔狂な者すら数えるのを諦めてしまうほど、多くの人間が死んでいった。
そして、ある者が呟いた。『これは呪いだ』と。
西行寺家の呪いなんだと。
ある意味当然の結果、的を射た答えだと言えよう。寧ろ村人達は、この段階まで良く耐えたとすら言える。今回の件について村人達の行為を攻め立てるのはお門違いというものだ。
結果、始まったのは西行寺家の迫害であった。
いくら名家の西行寺家と言えど、村人の信頼と協力が無ければ力など存在しないようなもの。
日増しに増していく集団が為せる暴力。
彼女の家族が心身共に追い詰められるのに、そう時間はかからなかった。
そして――
衰弱しきった西行寺家は、自殺へと追いやられたのだった。
不思議と彼らは、桜の木の下で死んでいった。
西行寺家の者らのモノであろうと関係無く、桜は血を啜っていくのだった。
ただ一人、生き残ってしまったのが西行寺幽々子という少女。
それは、決して村人の懇意や善意によるものではなかった。
何故なら、彼女よりも幼い妹や弟は、容赦無く村人によって、直接手を下される事なく死んでいったのだから。
彼女が生き残った理由は至極単純なもので、『彼女に近寄ると殺される』という噂が広まったからだった。
現に、彼女に害を成そうと近づいた村の人間が、件の桜の下で命を落としていた。
その死は、今までの自尽とは違っていた。これまで桜に命を吸われてきた人間は、あくまで西行法師を慕っていた人間に限られていたのだから。
それが、ここにきて急に無差別な殺人へと変貌を遂げたのだ。
当然、村人達は脅え、怖れ、慄き、更に西行寺幽々子への迫害は拍車をかけるようにして進んでいったのだった。
「ふふ……、私が――私たちが、何をしたんでしょうね?」
彼女は桜に問いかける。
時期は春が終わりに差し掛かった頃合い。
徐々に上がりゆく気温を、肌で感じ取れるようになっていた。
桜もそれを感じ取ったのだろう、幽々子が目の前にしている桜。西行桜以外の桜は、花弁を散らせ身を軽くしていた。
――何故、この桜は散らないのだろう?
そう疑問を持ったのは、彼女だけではない。
村人達もまた、この桜を訝しげな視線で見始めている。
世間ではこの桜、『呪われた桜』などと呼ばれているらしい。
それを知った時、幽々子は失笑してしまった。
馬鹿の一つ覚えのように、呪いだ呪いだ、と騒ぐしか能がない。
彼らはなんと弱いのだろう、と。何かを敵にし立て上げなくては不安で生きる事もままならない。
そして、そんな彼らの弱さに、我々は殺されたのだと。
「は、はは……ハハハハハッ! ハハハハハハハハハハハ!!」
笑う。
狂った様にひたすら笑う。
頭の中で煮える憎悪、怨恨を吐き出すように。
何と虚しい行為なのだろう。
だが、最早、戻る事など出来はしないのだ。
幽々子はそう、独りごちる。
彼女が笑っていると、いつしかの様に、背後から礫が飛んでくる。
風斬る微かな音を感じ取り、彼女は振り向き右手で礫を受け止める。
柔らかい手の平の皮膚が少し裂けるが、この間程痛みは感じない。それは頭部と手の平という部位の違いの為か。それとも彼女が人外に近づいている為か。
石を投げていたのは、年端のいかない子供であった。丁度、かつての弟と同い年程であろうか。年齢が二桁にすら満たない幼子。
幽々子は、その幼子に微笑みかける。
先ほどの狂笑とは打って変わって、慈愛に満ちた笑み。
少年は、敵だと思っていた女性に突然微笑まれ、戸惑い、立ち尽くしていた。
少年の小さな心を見透かすような、深く黒い瞳。
彼が逃げ出さないのは、彼女に見蕩れてしまったからだろうか。
幽々子が手招きをすると、少年はふらふらと彼女に近付くていく。その姿は、既に生気を感じ取れる物ではなかった。
一歩、また一歩と近づいてくる。幽々子に近付くごとに、少年の足取りが覚束無くなり、彼女の元へ辿りつく前に、少年は前のめりに倒れてしまった。
幽々子は座り込み、少年の頬にそっと手を添えた。
――冷たい。
既に少年の肌は熱を失っていた。
右手から流れ続けていた血が、少年の頬に付着する。その様は、まるで少年が血の涙を流しているようにも見えた。
「アナタ、人間じゃないのね」
頭上から声。
桜の枝に座り込む少女――いや、人目ではそれが少女かどうか分からなかった。
年齢不詳の女性が一人。
腰まで伸びた金色の髪は、その一本一本が金糸の様に美しく、煌めいている。
紫を基調とした和服は彼女の白い肌と合わさり、人間にはない麗しさを放っていた。
いつからそこに座っていたのだろう。幽々子の脳裏にそんな疑問が過る。
しかし、すぐに意味のない疑問だと気付く。
何故なら彼女も、人間ではないのだから。
「そういう貴女も、人間ではないのね」
「今はアナタの話をしているのだけど……、まぁいいわ。そうね、わたしは人間じゃない」
「貴女のお名前は?」
「名を名乗るときは、まず自分からと習わなかったかしら?」
「妖怪にも人間と同じ礼儀があるとは驚きだわ。私は西行寺幽々子。幽々子でいいわ」
「幽々子ね。わたしは八雲紫よ。よろしく」
そう言って、彼女は自身を取り囲む桜に目を向ける。
「綺麗なものね」
「そうね。人々の命を奪ってしまうほどの美しさ」
「アナタ……本当に、この死の連鎖の中心がこの桜だと思ってるのかしら?」
含みしか存在しない八雲紫の口調。
そして、幽々子はそこに気付きたく無いのだ。
「どういう事かしら?」
「分らないなら良いのよ。分からないならね」
――沈黙。
二人の間に流れるのは、無言の空気と桜の花弁のみ。
だけれど、不思議とそこには不快さはなく、幽々子にはそれが旧知の仲のように思えた。
そのとき、余りに唐突に、彼女は言葉を紡いでいた。
「私たち、お友達になれるかしら?」
その言葉に、八雲紫は暫し言葉を失い、
「おともだち? あははは!」
笑った。
何が面白かったのか、幽々子には理解出来なかったが、彼女にとってはどんな冗句よりも面白かったのだろう。
一頻り笑い終えた後、八雲紫は幽々子を見つめる。
「いいわ、お友達。幽々子、わたしはアナタのお友達になってあげるわ」
「よろしく、紫」
「よろしく、幽々子」
二人は暫し見つめあった後、再び笑いあった。
◆◇◆◇◆
歌聖の自尽以来、彼女の心を彩ってきたのは絶望の一色であった。
怨嗟、憤怒、忿懣、憎悪、それらを殺意で塗り固めたような、黒く赤い、混沌とした感情。
生きた村人を見る度に思う、彼らが生き、私の家族が死んだのは何故だ、と。
何故あそこまで陰惨な死を与えられなければならなかったのか、と。
彼らにも同じ思いを味あわせてやりたい、と。
想いは次第に、彼らが怖れた呪いへと姿を変えていった。
『呪い』
そうとしか呼べない代物。
『死んでしまえ』
そう願うだけで人々が死んでいく。
それは、心地良くあり、同時に虚しい行為であった。
八雲紫と居る間は、不思議とそんな感情を忘れていられた。
幸福とはこのようなものを呼ぶのだと、彼女は久方ぶりに実感した。
桜を眺め、酒を飲み交わし、食事を共にし、床を共有した事もあっただろうか。
そこには、かつてのような笑顔があった。
かつてのような、温もりがあった。
かつてのような、幸福があったのだ。
気付くと、村人と西行寺家の力関係は逆転していた。
幽々子は奪われる者から奪う者へ。
村人は奪う者から奪われる者へ。
幽々子が村を歩いても、石を投げる者は一人も居なかった。
彼女が村を歩くとき、出歩くような人間は一人も居なかった。
それでも、彼女の力によって、村人は一人、また一人と死んでいく。
命の代償は、命でしか支払えないのだと、彼女はそう思い込んでいた。
八雲紫と西行寺幽々子の関係は、傍から見れば異常なものであったかもしれない。
恋仲のようであり、友人のようであり、夫婦のようであり、家族のようであった。
ただ、その瞬間、西行寺幽々子は笑っていた。
筆舌すべき点があるとすれば、それだけだ。
とうとう、村人が最後の一人になってしまった。
幽々子は笑っていた。
相手は西行寺幽々子と背格好の良く似た少女。
その少女は、西行寺幽々子によって家族を皆殺しにされた。
幽々子は笑っていた。
泣き、叫び、命乞いをしていた少女も、今では静かなものだった。
その眼に宿っていたのは、静かな殺意。
かつて幽々子の感情を支配していたモノ。
「殺してやる」
少女はそう叫んだ。
幽々子は笑っていた。
少女が取り出したのは、包丁。
それを自身の首に突き立てたのだった。
少女の瞳は痛みに屈する事なく、幽々子の眼を睨み続けていた。
「……私を殺してくれるのではなかったの?」
もし、幽々子が家族を追って、自害する道を選んでいれば、未来は変わっていたのだろう。
そう思い、幽々子は――笑っていた。
◇◆◇◆◇
『桜の咎とは何だ』と誰かが問うた。
『桜はただ咲くだけのもので、咎などあるわけがない』と誰かが答えた。
ならば、
『西行寺幽々子の咎とは何だ』私は問うた。
『西行寺幽々子はそこに居るだけのもので、咎などあるわけがない』ダレカは答える。
違う。
「西行寺幽々子は存在が咎なのだ」
私は、そう答えた。
夜。その空間には、人っ子一人存在しない。
墨染の桜が、月明かりに淡く照らされいる。
桃色に夜空色を溶かしこんだような花弁。
その下、向かい合う少女達。
「紫は、私を殺す為に友達になったの?」
私は訊ねた。
「違うわ。わたしはね幽々子。アナタを封印する為に近付いたのよ」
「封印するのは、この桜ではないのかしら?」
私はからかう様にして言った。
紫は笑わない。
私が彼女を笑わせようとして、それに成功した事はない。
彼女が笑うのは、いつも、私の何気ない仕草や発言に対してだった。
「そう思っていた時期もあったけれど……、違ったのよ。全ての元凶はこの桜ではなく、アナタにあった」
私は驚かない。
心の何処かで、気付いていたのか。
いや、そう願っていたのか。
「血――いいえ、死を啜っていたのは、桜ではなく、アナタだった」
紫は滑らかに言葉を紡いでいく。
予め用意されていたであろう言葉。
「桜に妖のような力を与えていたのもアナタ」
幽々子。
「西行寺家を自殺に追い込んだのもアナタ」
西行寺幽々子。
「桜はあくまで、幽々子に付き従っていたにすぎない」
全て、私。
ならば――そう。
――死すべき理由が産まれた。
私は、残された時間を疑問にあてた。
「全部、嘘だったのかしら?」
「それは、アナタ次第じゃない? アナタにとって、私達の関係がその程度のものであったのなら、全て嘘だったのでしょう」
「なら、安心ね。私にとって、紫との関係は掛け替えの無いものだったのだから」
「それは光栄だわ」
ふふ、と紫は微笑んだ。
心底楽しそうに。
いつまでそうしていただろう。
いつまでもそうしていたかった。
ただ、見つめあって、話していたかった。
「そろそろ、時間ね」
紫がそう呟く。
何の時間なのだろう。
私が本当の化物になってしまう時間だろうか。
――いいや……私は既に化物だった。
「願わくば、せめて死後くらい、アナタに安寧と幸福が訪れることを」
「死後の事なんか願われるとは思わなかったわ」
紫は、懐から取り出した小太刀を、私の胸に突き立てた。
私は抵抗しない。紫になら構わないかもしれない、そんな諦観が心を満たしていた。
小太刀は私の身体をあっさりと貫通し、西行桜に縫い付ける。
一瞬、傷口に焼ける様な激痛が走り、苦痛に声が漏れそうになるが、堪える。
苦しみに悶えたのは、きっと、私ではなく、桜だから。
桜は傷口から私の血液を啜る。
その血が幹を通り枝先へと巡っていき、花弁を赤く、黒く染め上げる。
そして、瞬きをする間も無く、花弁が一気に散っていった。
まるで雨霰のように、視界が赤い桜で埋め尽くされる。
西行桜を寄り代に、西行寺幽々子が封印された瞬間であった。
――泣いていたのは、誰だろう。
「咎なんて――存在しないのよ」
そう独りごちた。
花弁が散った桜の木。その下に妖怪が独り。
その言葉は、終ぞ誰にも届きはしなかった。
死人に口は無いように、死人に耳はないのだから。
◆◇◆◇◆
この物語の終わりは、死である。
そして、同時に生でもある。
生と死は背中合わせとはよく言ったもの。
これほどこの物語にぴたりと当て嵌まる言葉もない。
唯、わたしは死生観について語るつもりはない。
そこにあるのは、産まれ、生きて、死ぬ。
それだけだから。
どんな言葉で飾ろうとも、それだけなのだ。
わたしはこの物語が嫌いだ。
少女が存在しない咎の罰を受けるから。
そこに少女の意志が介入する隙間など無かったのだから。
在るべくして在る。
それが罪になる筈など無いのだから。
だから、わたしはこの物語を書き換える。
少しだけ。
始まりと終わりが壊れないように。
真中だけを書き換える。
そして産まれたのが『西行妖』。
都合の良いように塗り固められた嘘。
もし仮に、亡霊が真実を求めても大丈夫なように。
流石の彼女も、手に入れた真実すら虚構だとは思うまい。
これはわたしの自己満足。
咎が在るとしたら、それはわたしのものだろう。
罰を受けるのはわたしだろう。
わたしは、少女の笑顔を思い出し、その笑顔に釣られるようにして笑った。
もしかすると、これが八雲紫の始まりだったのかもしれない。
◇◆◇◆◇
――紫の少女が、一人の亡霊の為に、一つの世界を創り上げるのは、また別のお話。
美しさの一つの到達点。
春の陽光を一身に浴びた桜は、まるで宝玉のように輝いていた。
見上げると、薄桃色の天涯が頭上を埋め尽くす。
暖かな風に揺蕩う枝、そして舞い踊る花弁。
それは無限に、さながら夢幻のように、無間であった。
一陣の風が吹き抜け、桜吹雪が大海のように荒れ狂う。
縦横無尽。
視界に広がるのは白桃色の花弁の乱舞。
奪われるのは命ではなく、視線。
魂を抜かれ、唯只管に桜を見詰め続けてしまう。
奇麗だ。
綺麗だ。
そう口にする事すらおこがましい。
口頭でどのような美辞麗句を重ねたところで、実物を目にしてしまえばその言葉が偽物だと悟ってしまうのだ。
どんな言葉も、この桜を飾る事は許されない。
無言。
それこそが、この桜にとって最上の誉れとなるであろう。
この物語の始まりは、死である。
そして、同時に生でもある。
生と死は背中合わせとはよく言ったもの。
これほどこの物語にぴたりと当て嵌まる言葉もない。
唯、わたしは死生観について語るつもりはない。
そこにあるのは、産まれ、生きて、死ぬ。
それだけだから。
どんな言葉で飾ろうとも、それだけなのだ。
生死の、そんな不遜な扱いに対し、不快に感じる人間もいるだろう。
そんな人間にこそ知って貰いたいと思う反面、
こんな稚拙な騙りで、その者らを不快にさせては元も子もないとも思う。
だから、わたしはあくまで簡潔に綴ろうと思う。
この書記を読んだ者が、その腐臭に気付く前に、完結を迎えてしまうような。
――そんなお話。
◆◇◆◇◆
先日、この満開の桜の下で一人、永久の眠りについた。
それは西行寺幽々子の父親であった。
西行法師。
彼は、歌聖として名立たる詩人であった。
彼の読んだ歌は、人々の心を捉え、多くの人間を虜にした。
この西行法師の死が、一つの惨劇を引き起こす。
彼を慕う多くの人々。その者等が彼の後を追うように、次々と桜の下で命を落としていったのだった。
喉元を搔っ切り、首を吊り、互いに刺し合い、毒を飲み――
人の身では負い切れぬ程多量の死を、この桜と西行寺幽々子は眺めていた。
いや、感じ取っていたのだった。
灰燼の様に薄く降り積もった死の薫りは、西行寺幽々子に狂気を孕ませた。
そして、同時に桜はまるでその者らの生血でも啜ったかのような、真赤な花弁を咲き誇らせていた。
「……美しい」
幽々子は思わず桜に手を伸ばしてしまう。
彼女のか細い指先が、樹木の表面をなぞっていく。
ドクン。
そう脈動したのは彼女の心臓か、それとも桜だったのか。
その表面は、まるで生きているかのように熱い。
決して錯覚ではない、触れた肌が焼け爛れてしまいそうな程、桜は熱を放っていた。
指先から意識を吸い取られていくかのような錯覚。
西行桜を通して、幽々子は美しき幻想の世界を幻視する。
霞がかった視界。
それはまるで死後の世界のようだ、と幽々子は思った。
その時、背後から、幽々子目がけて礫が飛んできた。
皮肉にも、彼女を現実へと引き戻したのはその一撃であった。
桜と向い合うようにして立っていた彼女は、当然それに気付かない。
手加減などされずに投じられた石は、彼女の後頭部に直撃する。
「っぅ――」
予期せぬ激痛に呻き声を漏らし、背後を振り返る。
だが、そこには既に人影は存在せず、どす黒い悪意が残されるだけであった。
礫を受けた後頭部の裂傷から一筋の血液が、首筋へと垂れていく。
幽々子は一度、手の平で傷口を抑える。不快な滑り気と共に体温を感じる。手の平を見ると目が眩む程赤い血が掌を彩っていた。その腕を桜へと伸ばす。
熱い。
――桜の赤い熱と、私の赤い熱が混じり合う。
心地よい。幽々子は心からそう思った。
そして――
私もこのまま死んでしまいたい、と。
心の底から叫んだのだった。
◇◆◇◆◇
幽々子の存在が村の人間達から疎んじられるようになったのはいつからだろう。
彼女が何かをした、という訳ではない。
ただ彼女の父を追うようにして亡くなっていった詩人達、村人達が問題だった。
始めの内は、西行寺の敷地内で頻発する後追い自殺に、幽々子に同情の視線を向ける村人も多かった。
しかし、余りにも自尽が多すぎたのだった。
両手の指では足りなくなり、それに両足に指を足しても足りなくなり、終いには酔狂な者すら数えるのを諦めてしまうほど、多くの人間が死んでいった。
そして、ある者が呟いた。『これは呪いだ』と。
西行寺家の呪いなんだと。
ある意味当然の結果、的を射た答えだと言えよう。寧ろ村人達は、この段階まで良く耐えたとすら言える。今回の件について村人達の行為を攻め立てるのはお門違いというものだ。
結果、始まったのは西行寺家の迫害であった。
いくら名家の西行寺家と言えど、村人の信頼と協力が無ければ力など存在しないようなもの。
日増しに増していく集団が為せる暴力。
彼女の家族が心身共に追い詰められるのに、そう時間はかからなかった。
そして――
衰弱しきった西行寺家は、自殺へと追いやられたのだった。
不思議と彼らは、桜の木の下で死んでいった。
西行寺家の者らのモノであろうと関係無く、桜は血を啜っていくのだった。
ただ一人、生き残ってしまったのが西行寺幽々子という少女。
それは、決して村人の懇意や善意によるものではなかった。
何故なら、彼女よりも幼い妹や弟は、容赦無く村人によって、直接手を下される事なく死んでいったのだから。
彼女が生き残った理由は至極単純なもので、『彼女に近寄ると殺される』という噂が広まったからだった。
現に、彼女に害を成そうと近づいた村の人間が、件の桜の下で命を落としていた。
その死は、今までの自尽とは違っていた。これまで桜に命を吸われてきた人間は、あくまで西行法師を慕っていた人間に限られていたのだから。
それが、ここにきて急に無差別な殺人へと変貌を遂げたのだ。
当然、村人達は脅え、怖れ、慄き、更に西行寺幽々子への迫害は拍車をかけるようにして進んでいったのだった。
「ふふ……、私が――私たちが、何をしたんでしょうね?」
彼女は桜に問いかける。
時期は春が終わりに差し掛かった頃合い。
徐々に上がりゆく気温を、肌で感じ取れるようになっていた。
桜もそれを感じ取ったのだろう、幽々子が目の前にしている桜。西行桜以外の桜は、花弁を散らせ身を軽くしていた。
――何故、この桜は散らないのだろう?
そう疑問を持ったのは、彼女だけではない。
村人達もまた、この桜を訝しげな視線で見始めている。
世間ではこの桜、『呪われた桜』などと呼ばれているらしい。
それを知った時、幽々子は失笑してしまった。
馬鹿の一つ覚えのように、呪いだ呪いだ、と騒ぐしか能がない。
彼らはなんと弱いのだろう、と。何かを敵にし立て上げなくては不安で生きる事もままならない。
そして、そんな彼らの弱さに、我々は殺されたのだと。
「は、はは……ハハハハハッ! ハハハハハハハハハハハ!!」
笑う。
狂った様にひたすら笑う。
頭の中で煮える憎悪、怨恨を吐き出すように。
何と虚しい行為なのだろう。
だが、最早、戻る事など出来はしないのだ。
幽々子はそう、独りごちる。
彼女が笑っていると、いつしかの様に、背後から礫が飛んでくる。
風斬る微かな音を感じ取り、彼女は振り向き右手で礫を受け止める。
柔らかい手の平の皮膚が少し裂けるが、この間程痛みは感じない。それは頭部と手の平という部位の違いの為か。それとも彼女が人外に近づいている為か。
石を投げていたのは、年端のいかない子供であった。丁度、かつての弟と同い年程であろうか。年齢が二桁にすら満たない幼子。
幽々子は、その幼子に微笑みかける。
先ほどの狂笑とは打って変わって、慈愛に満ちた笑み。
少年は、敵だと思っていた女性に突然微笑まれ、戸惑い、立ち尽くしていた。
少年の小さな心を見透かすような、深く黒い瞳。
彼が逃げ出さないのは、彼女に見蕩れてしまったからだろうか。
幽々子が手招きをすると、少年はふらふらと彼女に近付くていく。その姿は、既に生気を感じ取れる物ではなかった。
一歩、また一歩と近づいてくる。幽々子に近付くごとに、少年の足取りが覚束無くなり、彼女の元へ辿りつく前に、少年は前のめりに倒れてしまった。
幽々子は座り込み、少年の頬にそっと手を添えた。
――冷たい。
既に少年の肌は熱を失っていた。
右手から流れ続けていた血が、少年の頬に付着する。その様は、まるで少年が血の涙を流しているようにも見えた。
「アナタ、人間じゃないのね」
頭上から声。
桜の枝に座り込む少女――いや、人目ではそれが少女かどうか分からなかった。
年齢不詳の女性が一人。
腰まで伸びた金色の髪は、その一本一本が金糸の様に美しく、煌めいている。
紫を基調とした和服は彼女の白い肌と合わさり、人間にはない麗しさを放っていた。
いつからそこに座っていたのだろう。幽々子の脳裏にそんな疑問が過る。
しかし、すぐに意味のない疑問だと気付く。
何故なら彼女も、人間ではないのだから。
「そういう貴女も、人間ではないのね」
「今はアナタの話をしているのだけど……、まぁいいわ。そうね、わたしは人間じゃない」
「貴女のお名前は?」
「名を名乗るときは、まず自分からと習わなかったかしら?」
「妖怪にも人間と同じ礼儀があるとは驚きだわ。私は西行寺幽々子。幽々子でいいわ」
「幽々子ね。わたしは八雲紫よ。よろしく」
そう言って、彼女は自身を取り囲む桜に目を向ける。
「綺麗なものね」
「そうね。人々の命を奪ってしまうほどの美しさ」
「アナタ……本当に、この死の連鎖の中心がこの桜だと思ってるのかしら?」
含みしか存在しない八雲紫の口調。
そして、幽々子はそこに気付きたく無いのだ。
「どういう事かしら?」
「分らないなら良いのよ。分からないならね」
――沈黙。
二人の間に流れるのは、無言の空気と桜の花弁のみ。
だけれど、不思議とそこには不快さはなく、幽々子にはそれが旧知の仲のように思えた。
そのとき、余りに唐突に、彼女は言葉を紡いでいた。
「私たち、お友達になれるかしら?」
その言葉に、八雲紫は暫し言葉を失い、
「おともだち? あははは!」
笑った。
何が面白かったのか、幽々子には理解出来なかったが、彼女にとってはどんな冗句よりも面白かったのだろう。
一頻り笑い終えた後、八雲紫は幽々子を見つめる。
「いいわ、お友達。幽々子、わたしはアナタのお友達になってあげるわ」
「よろしく、紫」
「よろしく、幽々子」
二人は暫し見つめあった後、再び笑いあった。
◆◇◆◇◆
歌聖の自尽以来、彼女の心を彩ってきたのは絶望の一色であった。
怨嗟、憤怒、忿懣、憎悪、それらを殺意で塗り固めたような、黒く赤い、混沌とした感情。
生きた村人を見る度に思う、彼らが生き、私の家族が死んだのは何故だ、と。
何故あそこまで陰惨な死を与えられなければならなかったのか、と。
彼らにも同じ思いを味あわせてやりたい、と。
想いは次第に、彼らが怖れた呪いへと姿を変えていった。
『呪い』
そうとしか呼べない代物。
『死んでしまえ』
そう願うだけで人々が死んでいく。
それは、心地良くあり、同時に虚しい行為であった。
八雲紫と居る間は、不思議とそんな感情を忘れていられた。
幸福とはこのようなものを呼ぶのだと、彼女は久方ぶりに実感した。
桜を眺め、酒を飲み交わし、食事を共にし、床を共有した事もあっただろうか。
そこには、かつてのような笑顔があった。
かつてのような、温もりがあった。
かつてのような、幸福があったのだ。
気付くと、村人と西行寺家の力関係は逆転していた。
幽々子は奪われる者から奪う者へ。
村人は奪う者から奪われる者へ。
幽々子が村を歩いても、石を投げる者は一人も居なかった。
彼女が村を歩くとき、出歩くような人間は一人も居なかった。
それでも、彼女の力によって、村人は一人、また一人と死んでいく。
命の代償は、命でしか支払えないのだと、彼女はそう思い込んでいた。
八雲紫と西行寺幽々子の関係は、傍から見れば異常なものであったかもしれない。
恋仲のようであり、友人のようであり、夫婦のようであり、家族のようであった。
ただ、その瞬間、西行寺幽々子は笑っていた。
筆舌すべき点があるとすれば、それだけだ。
とうとう、村人が最後の一人になってしまった。
幽々子は笑っていた。
相手は西行寺幽々子と背格好の良く似た少女。
その少女は、西行寺幽々子によって家族を皆殺しにされた。
幽々子は笑っていた。
泣き、叫び、命乞いをしていた少女も、今では静かなものだった。
その眼に宿っていたのは、静かな殺意。
かつて幽々子の感情を支配していたモノ。
「殺してやる」
少女はそう叫んだ。
幽々子は笑っていた。
少女が取り出したのは、包丁。
それを自身の首に突き立てたのだった。
少女の瞳は痛みに屈する事なく、幽々子の眼を睨み続けていた。
「……私を殺してくれるのではなかったの?」
もし、幽々子が家族を追って、自害する道を選んでいれば、未来は変わっていたのだろう。
そう思い、幽々子は――笑っていた。
◇◆◇◆◇
『桜の咎とは何だ』と誰かが問うた。
『桜はただ咲くだけのもので、咎などあるわけがない』と誰かが答えた。
ならば、
『西行寺幽々子の咎とは何だ』私は問うた。
『西行寺幽々子はそこに居るだけのもので、咎などあるわけがない』ダレカは答える。
違う。
「西行寺幽々子は存在が咎なのだ」
私は、そう答えた。
夜。その空間には、人っ子一人存在しない。
墨染の桜が、月明かりに淡く照らされいる。
桃色に夜空色を溶かしこんだような花弁。
その下、向かい合う少女達。
「紫は、私を殺す為に友達になったの?」
私は訊ねた。
「違うわ。わたしはね幽々子。アナタを封印する為に近付いたのよ」
「封印するのは、この桜ではないのかしら?」
私はからかう様にして言った。
紫は笑わない。
私が彼女を笑わせようとして、それに成功した事はない。
彼女が笑うのは、いつも、私の何気ない仕草や発言に対してだった。
「そう思っていた時期もあったけれど……、違ったのよ。全ての元凶はこの桜ではなく、アナタにあった」
私は驚かない。
心の何処かで、気付いていたのか。
いや、そう願っていたのか。
「血――いいえ、死を啜っていたのは、桜ではなく、アナタだった」
紫は滑らかに言葉を紡いでいく。
予め用意されていたであろう言葉。
「桜に妖のような力を与えていたのもアナタ」
幽々子。
「西行寺家を自殺に追い込んだのもアナタ」
西行寺幽々子。
「桜はあくまで、幽々子に付き従っていたにすぎない」
全て、私。
ならば――そう。
――死すべき理由が産まれた。
私は、残された時間を疑問にあてた。
「全部、嘘だったのかしら?」
「それは、アナタ次第じゃない? アナタにとって、私達の関係がその程度のものであったのなら、全て嘘だったのでしょう」
「なら、安心ね。私にとって、紫との関係は掛け替えの無いものだったのだから」
「それは光栄だわ」
ふふ、と紫は微笑んだ。
心底楽しそうに。
いつまでそうしていただろう。
いつまでもそうしていたかった。
ただ、見つめあって、話していたかった。
「そろそろ、時間ね」
紫がそう呟く。
何の時間なのだろう。
私が本当の化物になってしまう時間だろうか。
――いいや……私は既に化物だった。
「願わくば、せめて死後くらい、アナタに安寧と幸福が訪れることを」
「死後の事なんか願われるとは思わなかったわ」
紫は、懐から取り出した小太刀を、私の胸に突き立てた。
私は抵抗しない。紫になら構わないかもしれない、そんな諦観が心を満たしていた。
小太刀は私の身体をあっさりと貫通し、西行桜に縫い付ける。
一瞬、傷口に焼ける様な激痛が走り、苦痛に声が漏れそうになるが、堪える。
苦しみに悶えたのは、きっと、私ではなく、桜だから。
桜は傷口から私の血液を啜る。
その血が幹を通り枝先へと巡っていき、花弁を赤く、黒く染め上げる。
そして、瞬きをする間も無く、花弁が一気に散っていった。
まるで雨霰のように、視界が赤い桜で埋め尽くされる。
西行桜を寄り代に、西行寺幽々子が封印された瞬間であった。
――泣いていたのは、誰だろう。
「咎なんて――存在しないのよ」
そう独りごちた。
花弁が散った桜の木。その下に妖怪が独り。
その言葉は、終ぞ誰にも届きはしなかった。
死人に口は無いように、死人に耳はないのだから。
◆◇◆◇◆
この物語の終わりは、死である。
そして、同時に生でもある。
生と死は背中合わせとはよく言ったもの。
これほどこの物語にぴたりと当て嵌まる言葉もない。
唯、わたしは死生観について語るつもりはない。
そこにあるのは、産まれ、生きて、死ぬ。
それだけだから。
どんな言葉で飾ろうとも、それだけなのだ。
わたしはこの物語が嫌いだ。
少女が存在しない咎の罰を受けるから。
そこに少女の意志が介入する隙間など無かったのだから。
在るべくして在る。
それが罪になる筈など無いのだから。
だから、わたしはこの物語を書き換える。
少しだけ。
始まりと終わりが壊れないように。
真中だけを書き換える。
そして産まれたのが『西行妖』。
都合の良いように塗り固められた嘘。
もし仮に、亡霊が真実を求めても大丈夫なように。
流石の彼女も、手に入れた真実すら虚構だとは思うまい。
これはわたしの自己満足。
咎が在るとしたら、それはわたしのものだろう。
罰を受けるのはわたしだろう。
わたしは、少女の笑顔を思い出し、その笑顔に釣られるようにして笑った。
もしかすると、これが八雲紫の始まりだったのかもしれない。
◇◆◇◆◇
――紫の少女が、一人の亡霊の為に、一つの世界を創り上げるのは、また別のお話。
この一節が、氏の作品に感じるすべてだと思いました。
独特の文章が私には受け付けなかったです。
そこはせめて、ゆゆさまに自尽させるべきだと思います。