ここに一通の要望書がある。
八坂神奈子、聖白蓮、豊聡耳神子の三名によって作成され、旧地獄の実力者へと送り付けられたこの文書。
内容は至ってシンプルだが、ここでは更に要約して紹介させていただこう。
「われわれ宗教家連盟は、地底の皆様が地上へとお越しになる事を歓迎いたします」
「うん」
「ただし……古明地さとりを除く?」
「らしいね」
「あの危険分子が、何かの間違いで地上に姿を現さないよう、関係各位におかれましては……何よコレ!?」
「おっと」
怒りに任せて破り捨てられる前に、星熊勇儀はさとりの手から文書を取り上げ、懐に仕舞いこむ。
力の勇儀はスピードも一流。サトリ妖怪の敵う相手ではない。
「お前さん、上でも相当嫌われているらしいね。一体何をやらかしたんだい?」
「何もしてませんよ。まあ、これから何かしたくなってきちゃいましたけどね」
「行きたいのなら好きにすればいいさ。こんな一方的な要望に、応える義務なんか無いからねえ……」
そう言って、意味有り気に視線を逸らす勇儀。
不審に思ったさとりは、お得意の読心能力でもって、彼女の心を覗きにかかる。
(ノコノコ出て行った少女さとりが、宗教家連盟に捕まってあんなことも! こんなことも!)
「なに想像してるんですか。このエロスが」
(ウエッヒッヒッヒッヒ。なあ知ってるかいお嬢ちゃん。こっちの口からお酒を飲むと、何倍も早く酔いが回るんだぜ?)
「誰ですか、それ……」
(嫌っ、やめて勇儀さん……!)
「アナタでしたか。いつから連中の手先に成り下がったんですか?」
「五月蝿いなあ。妄想くらい好きにさせてくれたっていいじゃないか」
古明地さとりに初々しい反応を期待してはいけない。
勇儀にもそれは分かっている。分かってはいるのだが、それでも期待せずには居られなかった。
「どうせ妄想するなら、一升瓶ブッ込んで骨盤突き割るくらいの気合を見せて貰わないと」
「ただの猟奇殺人じゃないか! 流石の勇儀さんもドン引きだよ! 第一、そこにエロスはあるのか!?」
「さあね? 今度妹で実験してみようかしら」
「こいし逃げてー! 超逃げてー!」
心配御無用。現在こいしは命蓮寺に逗留中です。
なお、帰宅の予定はまったくの未定。出家もいよいよ秒読み段階に入ったか。
「こいしが通行OKなら、私だってOKの筈でしょうに。なんで私だけ……」
「お前さんのOKは、オーバーキルの略なんじゃないかな」
「お尻にキスしな! の略だったりして」
「喜んでさせていただきます!」
「ええい、離れなさいこのエロ鬼がっ!」
足元に縋りつき、スカートを捲り上げようとする勇儀の顔面に、さとりの膝蹴りが容赦なく連打される。
言い忘れていましたが、ここは旧地獄街道のド真ん中。
道行く人々は、まるで突如としてロータリーが出現したかの如くに、二人を遠巻きに避けて通行して行きます。
(うわぁ……悪い方のサトリが勇儀さんを虐げてるよ……)
(勇儀さん可哀相……誰か早いとこ退治してくれないものかしら。あの汚い方のサトリを)
(可愛い方のサトリにだったら、足蹴にされるのも悪くないかもしれんなあ)
当然、彼らの思念はさとりの第三の眼にキャッチされている。
しかし、彼女は眉一つ動かさずに、死んだ魚の様な目でそれらを軽く受け流していた。
いちいち真に受けているようでは、嫌われ者などとても務まりはしないのだ。
「……ここは少々目立つようです。どこか違う所に行きませんか?」
「よし、私の家に行こう。アソコなら色々と道具も揃っていることだし……」
「なに勘違いしてるんですか。落ち着いて話が出来る場所ってことですよ」
「連れ込み宿ですねわかります」
「エロスから離れろド変態がっ! もういいです! 地霊殿に帰って不貞寝しますからっ!」
「わかったわかった。落ち着いて飲める店を知ってるから、そこで一晩でも二晩でも飲み明かそうじゃないか」
お酒からも離れろ! と言いたいさとりであったが、流石にそれは通らない。
なにせ相手は星熊勇儀。身体の半分が酒で、もう半分が喧嘩で構成されている生き物である。
にこやかな笑みを浮かべながら、地霊殿にある全ての酒を飲み尽くす位の芸当は朝飯前だ。
一度機嫌を損ねてしまえば、さとりとて無事では済まないだろう。
「……じゃあ、それでいいです」
「よっしゃ、そうと決まれば話は早い。ではお姫様。僭越ながらこの不埒な鬼めが、お姫様抱っこなんぞをして差し上げようかと……」
「私の下着を衆目に晒すつもりですね? アナタの考えダダ洩れですよ」
「おいおい、こう見えても私は淑女だよ?」
「変態という名の淑女でしょうが」
こんな調子で押し問答を続けた結果、どういう訳かさとりが勇儀をお姫様抱っこして行く事になった。
とある目撃者は後にこう語った。「相変わらず意味の解らない事をやっていたわね。妬ましいわ」……と。
裏通りに入り、さらに奥深く進んだ先に、勇儀の指定した店はあった。
三十畳ほどの広さで、申し訳程度にバーカウンターが設置されているものの、店内に人の気配は感じられない。
「この店、ちゃんと営業しているんですか? ただの廃屋にしか見えないのですが……」
「ふふーん、ご安心召されい。何を隠そうこの店は、私が来た時にしか営業しないのだよ!」
「何をどう安心しろと? っていうかいい加減降りてくださいよ。私の腕もそろそろ限界なのですから」
「腕の話は……」
「やめてください」
苦笑いを浮かべつつ、勇儀は壁のレバーに手を掛け、一気に引き下ろした。
すると、地鳴りのような音を伴って、薄暗かった店内に明かりが灯る。
それと同時に、店の隅っこで何かが起き上がり、ノイズ混じりの重低音ボイスで叫び声を上げた。
“セェーガァー♪”
「わっ、びっくりした」
(おっ、イイ反応♪)
「し、仕方ないでしょうが。それより何ですかアレは」
筋骨隆々の大男にも見えるソレであったが、よく見ると全身が甲冑のようなモノで覆われている。
心を読んでみてもまるで反応ナシ。ぎこちない動作からも伺えるように、ソイツは真っ当な生き物では無かった。
「紹介しよう。古の河童が造り上げた全自動給仕機械、ロボピッチャーだ」
「ロボピッチャ?」
「ピッチャーだよ。気の抜けたビールをピッチャーで出す事から、この名が与えられたらしい」
同名のバンドが外の世界に存在するようですが、当機とは一切関係ありません。念のため。
ついでに言わせてもらうと、Sで始まる四文字の会社も、神霊廟四面ボスも関係ありません。関係ないってば。
「普通のビールは出せないんですか?」
「ガワも中身も年代物だからねえ。まあ、慣れればむしろ炭酸抜きの方がいいモンさ」
「飲んでも大丈夫なんですか? それ……」
カウンターの前に据え付けられた椅子に、二人は並んで腰を下ろす。
店の隅では、ロボピッチャーが注文を今か今かと待ち望んでいる。
「とりあえずピッチャー二つで」
「じゃあ私も」
“フフーン♪ フッフーン♪ セェーガァー♪”
そしてブン投げられるピッチャー四つ。融通の利かない機械であった。
その全てを受け止めた勇儀は、目にも留まらぬ速さで内二つを飲み干し、残り二つをさとりと分け合った。
「君の瞳に……いや、君の第三のサードアイに……あれ? うーむ、何かおかしいな」
「上手い事言おうとしなくていいです。それに今更乾杯もないでしょう。もう飲んじゃってるんですから」
「いやいや、あれは単なる準備運動で……あっ」
結局気の利いたセリフの一つも浮かばないまま、二人は気の抜けたビールを飲み始める。
嫌そうな顔をしながらも、チビチビと飲んでいたさとりであったが、勇儀がふと「馬の小便」なる単語を思い浮かべてからは、口をつける事すら無くなってしまった。
「どうだいこの店は。唯一の店員がアレだから、五月蝿くなくていい所だろう?」
「一応、気を遣ってくれていたんですね……ん?」
「どうした?」
「いえ……ひょっとしてコレって、勇儀さんの家に行くのとあまり変わらないのでは?」
(あっ……)
今気付いた、とでも言いたそうな表情になる勇儀を見て、さとりの心に不安の影がよぎる。
そのまま沈黙を保ち続ける勇儀の心を、さとりはそっと覗いてみる事にした。
(人気の無い裏通り……目撃者ゼロ……さとりと二人っきり……酔った勢い……ロボピッチャー……)
「ああっ、何やら不穏なワードがつらつらと!」
(責任ある立場……合意の上……事後承諾……ロボピッチャー……iPS細胞……ロボピッチャー……)
「ちょっ、ちょっと勇儀さん?」
「今、私に話しかけるな……!」
「そっ、そんな事言われても」
(落ち着け、クールになれ私! 誇り高き鬼ともあろう者が……いや、むしろ鬼だからこそ……)
「駄目っぽい! この人もう駄目っぽい!」
(心を鬼にして……ロボピッチャー……)
「ロボピッチャーは何か関係あるんですかっ!?」
「ああ、さとりっ!」
「はいっ!?」
急に勇儀が迫って来たため、さとりは椅子からずり落ちそうになる。
そんな彼女をガッチリと抱き寄せ、勇儀はやや上ずった声で懇願した。
「さとり、私を殴れ。私はとても不埒な妄想を抱いてしまった。お前が私を殴ってくれなければ、私はお前とボノボる資格さえ無いのだ。殴れ」
「まるで殴りさえすれば資格が有るかの如き言い草……! ええい、かくなる上はっ……!」
「うおっ!? お、おいさとり! いきなり何を……!?」
さとりは勇儀の服に手を突っ込み、主に胸部の辺りをまさぐり始める。
やがて何かを探り出した彼女は、至福の表情を浮かべる勇儀の鼻先にソレを突き付けた。
「そろそろ、コイツについての話をするべきだと思うのですが」
「あ……例の要望書じゃないか。いやーすっかり忘れてたよ。メンゴメンゴ」
正直な話、さとり自身も今の今まで本書の存在を失念していた。
初見では流石に腹を立ててしまったものの、よくよく考えてみればそれ程大した内容では無かったからだ。
「連中の思惑が何であれ、私は頼まれたって地上に出る気なんかありません」
「おいおい、それでいいのかい? 売られた喧嘩を逃げたとあっちゃあ、女が廃るってモンだろうに」
「まあ、彼奴等のドブ汚い性根を白日の下に晒してやるのも、それなりに面白そうではあるのですが」
「実行に移してしまったが最後、お前さんはいよいよ命を狙われる事になるだろうね」
「……別に、怖気づいたわけではありませんから」
暗い表情で顔を背けるさとりを見て、勇儀の中で治まりかけていた情欲の炎が再燃し始める。
敵は強大、対するさとりはほぼ孤立無援。こいつは萌える、否、燃えるシチュエーションであると言わざるを得ない。
(ああチクショウ、こいつ守りてえ! 今すぐギューッと抱きしめて、私に任せろと言ってやりたいっ!)
「無理しなくていいですよ? アナタにだって立場というものがあるでしょうし……」
(他人行儀な物言いはよしなって。私たち、仲間だろう?)
「仲間……?」
(そうさ、仲間さ。くさいセリフは吐きたくないから、心の声で勘弁しておくれよ)
「勇儀さん……」
上辺だけの言葉とは違う、真に心の篭ったメッセージ。
陳腐であればあるほどに、その言葉はさとりの冷え切った心を温めてくれる。
(おっ? 心なしかさとりの目が潤んできたような……)
「……勇儀さん?」
(これはひょっとすると……イケる? 今晩オトせるんじゃないのかコレ! ヒャッホウ!)
「ああもう、結局アナタはエロスに行き着くんですね……」
心底嬉しそうな勇儀の表情を受け、さとりもやや呆れを含んだ笑みを返す。
(おやおや……何でしょうねぇこのイチャコラでファッキンなアンビアンスは。反吐が出そうです)
「――ッ!?」
突如としてさとりの第三の眼に飛び込んで来た、吐き気を催すようなドス黒い感情。
弾かれるように振り向いた先には、店の入口で仁王立ちする不気味な影。
すかさず探りを入れたさとりの表情が、瞬く間に険しいものとなる。
「東風谷早苗……守矢神社の風祝……? どうしてアナタがここに……」
「あっ、今私の心を読みましたね? よくないですねえ、そういうの。よくなくなくなくなくなくないです」
「お前さん、まだ地底をウロウロしてたのかい? 用が済んだらとっとと帰れと、あれほど念を押してやったのに……」
地底まで要望書を届けに来たのは、どうやらこの早苗であるらしい。
すなわち、今の彼女は宗教家連盟の特使。彼女の言葉は、そのまま連盟の言葉であると判断すべきなのだろう。
「連盟から追加ミッションが届いたのですよ。有害極まりないサトリ妖怪を一匹、虚無への供物とするように、とね」
「なるほどね。それでチンケな功名心に駆られたアナタは、わざわざ私を探し回って、ここへ辿り着いたと」
「あくまでついでですよ。ついで。まあ私にかかれば」
「『こんな貧相な雑魚一匹、どうという事はありませんが』……ですか」
「うふふ、話が早いってステキですね。それで死期まで早めちゃうんだから、もうお笑いです」
さとりは立ち上がり、店に侵入してきた早苗と対峙する。
そんな二人を眺めつつ、勇儀は何を言うでも、何を思うでもなく、静かにピッチャーを傾ける。
(コイツを倒せば、連盟内における我ら守矢神社の発言力がモリモリ増すことでしょう。私の評価も鰻上りっ!)
「そんなくだらないモノの為に、むざむざやられる訳にはいきません」
「ヤルかヤラないか、決めるのは私なんですけどねえ。まあ、すぐに分からせてあげますよ」
ダラリとぶらさげた左腕を、入念に揉み解し始める早苗。
そんな彼女に対し、さとりは特に身構えることもせず、ただ感情の篭らぬ瞳を向ける。
お互いにスペルカードの宣言は無い。遊びに来たのではないのだから、当然といえば当然なのだが。
「我流喧嘩空手の奥義、お見せしましょう!」
「カラテだかカルトだか知りませんが、そんな素人めいた動きでこの私に勝てるとでも?」
「いちいち五月蝿いんですよアナタは! その口永遠に塞いでやりますっ! ッシャアァッ!」
早苗の左腕が伸びる。人間の腕では届く筈の無い距離を、あたかも獲物に食らい付かんとする蛇の如くに。
間合いが遠すぎると余裕ブッこいていたさとりも、これには些か肝を冷やした。
だが、相手の狙いは既に読めている。さきほど口を塞ぐと宣言していた彼女だが、その腕は迷う事無く第三の眼へと向かっていた。
回避は最小限の動きによって行われ、むなしく空を切った左腕が、信じられないといった顔つきの早苗の元へと縮んで行く。
「そんな! 神奈子様直伝の『蛇使い』が、こうもあっさりと……!」
「我流って言ってませんでしたっけ? まあ、どうでもいいですけど」
「うぎぎ……! ならば、コレならどうです!?」
左が駄目なら右、とばかりに早苗は右腕を大きく振りかぶる。
さとりが心を読むまでも無く、彼女の思念が敵意と共に殺到して来た。
(右ストレートでぶっとばす、まっすぐ行ってぶっとばす)
「その手が通用すると勘違いした馬鹿は、アナタで丁度三百十人目です」
(丁度って、なにその中途半端な数字は!? ……いやいや、集中集中。右ストレートでぶっとばす……!)
早苗が駆ける。一歩、二歩と距離を詰め、さとりへと肉迫する。
まともに相手をするのも馬鹿らしくなったさとりは、適当に足を引っ掛けて転ばせてやろうと思い立ち、半身をややずらす。
両者が交錯するまさにその刹那、愚直なまでに一色に染まっていた早苗の思考が、突如として更新された。
(今です勇儀さん! そのまま後ろからコイツをっ……!)
「えっ!?」
咄嗟に振り向こうとしたさとりは、思わず足を縺れさせてしまう。
隙あり、とばかりに繰り出された早苗の一撃は回避できたものの、そのまま両者は激しく衝突。
後頭部を床に強打され、さとりの意識が一瞬途切れる。ようやく目を開いた時には、既に彼女は早苗に組み伏せられていた。
「ああ、迂闊っ……!」
「うっふっふっふ。なんかもう、勝負決まっちゃったって感じですかねぇ」
「くっ、この……!」
「おおっと、ムダムダ。勇儀さんなら兎も角、アナタみたいな非力な妖怪さんじゃあ、形勢逆転なんてインポッシボゥですって」
勝ち誇った表情の早苗から目を逸らし、さとりは勇儀の様子を窺ってみる。
彼女は相変わらず椅子に座ったまま、二人の姿をじっと見つめていた。
介入の意思こそ認められないものの、その思考には一切の乱れが無く、心の声も伝わって来ない。
(勇儀さん! 何故見てるんです!? どうして何も言ってくれないんですかっ!)
(……………………)
(アナタと私は、仲間じゃなかったんで……ぐぇっ!)
「なーにモゴモゴしてるんですかぁ? 助けて欲しいなら、ちゃあァーんと声に出して言わないと。ねえ勇儀さん?」
(……………………)
二人の姿を食い入るように見つめたまま、星熊勇儀は微動だにしない。
守りたい、というのは嘘だったのか? 結局のところ、古明地さとりは何処まで行っても一人なのか?
勇儀の手にしたピッチャーの中身が尽きるよりも先に、さとりの命運は尽きてしまうのだろうか?
(考えてみれば可哀相なひと。きっと誰からも信用されず、誰も信用出来ぬまま死んでゆくのでしょうね……)
「……アナタに哀れんで貰う必要は無いわ。何故なら私には、助けてくれる心強い味方が居るのだから」
「はいはい。これ以上無駄な悲しみを増やさない為にも、今度こそ永遠にその口塞いであげますよ……この化け物が」
さとりの顔と第三の眼に、早苗の両手が迫る。
いよいよ訪れる最後の瞬間に、彼女は何を想うのか。
たった一人の妹、心を通わせたペット達、一度は信じかけた星熊勇儀、にっくき宗教家連盟――どれも論外だ。
まだ終わらない。終わらせない。切り札は自分の中にある。今こそ、最後の勝負に出る時だ。
「ピッチャーひとつ!」
「……はぁ?」
早苗は知らないのだ。この空間の片隅で、じっと出番を待ち続けていた機械の事を。
気の抜けたビールで満たされたピッチャーを、今まさに投擲せんとするアイツの存在を!
“フフーン♪ フッフーン♪ セェーガァー♪”
「えっ? えっ? なに、へぐぅっ」
気付いた時にはもう遅い。
ピッチャーは滞りなく早苗の頭へと直撃し、その中身が容赦なく彼女に降り掛かる。
「あたたたた……ぺっ! ぺっ! なんですかコレは!?」
「馬の小便……」
「んにゃっ!?」
ここまで沈黙を保ってきた勇儀の、ほんの何気ないつぶやき。
それを耳にした早苗の顔色が、みるみるうちに蒼ざめてゆく。
「なっ、なっ、なに考えてるんですかアナタたちは!? いくら下品で野蛮な地底の妖怪だからって、やっていい事と悪い事が……!」
「飲んでしまったのね?」
「うぇっ!?」
「本当に、飲んでしまったのね?」
(ちょっ、や、やめてください。これ以上変な事言われたら、私、もう……!)
「未成年者の飲尿って、法律で規制されているのかしら」
「いんにょ……ウッ、ウエエエエエエエエエエエエエエエェッ!」
勇儀のアシストを受けて、さとりが強引にゴールまで押し込む形となった。
些か遠回しな表現ではあるが、東風谷早苗嬢の名誉の為にも、ここはどうか勘弁願いたい。
「うわー。何よこの子、吐いたわー。汚いー」
(コイツも大概イイ性格してるよな……)
棒読みで早苗を嘲笑うさとりに、勇儀は少々引き気味のようだ。
しかし因果は巡るもの。早苗が戻したモノの発する臭気が、さとりの嗅覚を一気呵成に攻め立てる。
先の攻防で疲弊していた彼女に、抗う術など有る筈も無く。
「げろろろろろろろろろ……」
さとりもゲロった。古明地げろり。
名誉とは無縁の彼女であるが故に、ここはあえてストレートに表現させていただく。
「ゲ、ゲロ仲間……!」
「……やめて」
何故か嬉しそうな早苗の言葉に、さとりは弱々しく拒絶の意を表明する。
不名誉な同族意識も、苦くて酸っぱいあの味も、今すぐ記憶から消し去ってしまいたいくらいだ。人生ゴシゴシ洗いたい。
「今日のところは見逃して差し上げます。私の慈悲深さに感謝してください」
「……お風呂に入りたいのなら、貸してあげない事も無いのだけど」
「マジですか!? ……いいえ、アナタと私は敵同士。馴れ合いは無用に願います! さらばっ!」
ゴシゴシ洗いたいのは早苗も同じらしく、捨てゼリフもそこそこに彼女は退散してしまった。
残されたのはさとりと勇儀、そしてロボピッチャー。あと二つ何かあるような気もするが、そこには敢えて触れまい。
「いやあ、災難だったねえ。まさか連中が実力行使に及ぶとは……」
「……………………」
(あれ? ひょっとしてさとり、怒ってたりする?)
「……別に、怒ってなんかないです」
もう一つピッチャーを取り寄せ、気の抜けたビールでうがいを試みるさとり。
案の定、むせる。すかさず背中を擦ってやろうとする勇儀の手を、彼女は乱暴に払いのけた。
「……今日は大事なことを学びました。他人は当てにならない、いつだって信じられるのは自分自身のみ……という事を」
「ふうん。この際だからもう一つ学んでみたらどう? 助けの求め方、とかさ」
「必要ありません。どうせ私は……きゃっ!?」
「まあまあ、そう構えなさんなって」
嫌がるさとりを、勇儀は半ば強引に抱き寄せる。
口に残った臭いを気にして、顔を背けるさとりであったが、勇儀は構わず迫り来る。
「タイマンの邪魔をしたくなかったから、私は努めて無心で過ごしたよ。どちらの有利にもならない様にね」
「あれ? でも確か、馬のナントカがどうとかって……」
「聞かれたから答えてやったまでさ。それに、あの人間は私をダシに使ったんだろう? 丁度いいペナルティだと思うけどねぇ」
「それは……まあ、どうでもいいです。結局は私ひとりでも勝てたわけですし……」
「だが、これから先はどうなるかな? 宗教家連盟が本腰入れて潰しに掛かってきたら、お前さんとペット達だけで支えきれるのかい?」
「……それは」
勝算は無きに等しい、と言っても過言ではないだろう。
本格的に戦端を開いたとあれば、連盟のみならず身内以外の全てが敵に回ると予想される。
こちらの主力となる霊烏路空の力も、元々は守矢神社の神から与えられたものである以上、頼みには出来ない。
そして何より、相手方には妹であるこいしが居る。
さっきの早苗はおくびにも出さなかったが、その気になれば人質として扱う事も容易い筈だ。
「連中がそこまで必死になるとは思いたくないが、味方を作っておくに越した事は無い。違うかい?」
「この場合の味方って、アナタのことですよね? いいんですか? こちらに付いてもいい事ありませんよ?」
「『喧嘩は不利な方が燃える』――私の人生哲学だ」
「おおっ、なんかカッコいい事言ってる……」
(あとは、ちょっとしたエロスがあればいい。それだけで命を懸けるに値する)
「時々、アナタの本音が何処にあるのか分からなくなります……」
この先どんな困難が待ち受けていようと、伊達と酔狂で乗り越えて行ける。
勇儀を見ていると、なぜかそんなふうに思えてしまうさとりであった。
「……私のこと、守ってくださいますか?」
「おや、お前さんだけでいいのかい?」
「あっ……い、いえ。そうじゃなくて」
「ははっ、何だっていいさ。ようやく仲間を頼る気になってくれたんだからね」
「……ええ、頼っちゃいます。頼って頼って頼り倒しちゃいますから、覚悟しておいてくださいね」
敵と身内しか存在しなかったさとりの世界に、仲間という概念が新たに追加される。
単なる切り札として消費されてしまうのか、はたまた一生の宝となるのか。それはこれからの彼女次第だ。
(さっきの勝負で……)
「えっ?」
(濃厚な“さとさな”展開を期待していた事については、黙っておくとしようかね……)
「……勇儀さん?」
「はっ!? ……し、仕方無いじゃない! 仕方無いじゃない!」
何にせよ、エロスは程々にしておきましょう。
八坂神奈子、聖白蓮、豊聡耳神子の三名によって作成され、旧地獄の実力者へと送り付けられたこの文書。
内容は至ってシンプルだが、ここでは更に要約して紹介させていただこう。
「われわれ宗教家連盟は、地底の皆様が地上へとお越しになる事を歓迎いたします」
「うん」
「ただし……古明地さとりを除く?」
「らしいね」
「あの危険分子が、何かの間違いで地上に姿を現さないよう、関係各位におかれましては……何よコレ!?」
「おっと」
怒りに任せて破り捨てられる前に、星熊勇儀はさとりの手から文書を取り上げ、懐に仕舞いこむ。
力の勇儀はスピードも一流。サトリ妖怪の敵う相手ではない。
「お前さん、上でも相当嫌われているらしいね。一体何をやらかしたんだい?」
「何もしてませんよ。まあ、これから何かしたくなってきちゃいましたけどね」
「行きたいのなら好きにすればいいさ。こんな一方的な要望に、応える義務なんか無いからねえ……」
そう言って、意味有り気に視線を逸らす勇儀。
不審に思ったさとりは、お得意の読心能力でもって、彼女の心を覗きにかかる。
(ノコノコ出て行った少女さとりが、宗教家連盟に捕まってあんなことも! こんなことも!)
「なに想像してるんですか。このエロスが」
(ウエッヒッヒッヒッヒ。なあ知ってるかいお嬢ちゃん。こっちの口からお酒を飲むと、何倍も早く酔いが回るんだぜ?)
「誰ですか、それ……」
(嫌っ、やめて勇儀さん……!)
「アナタでしたか。いつから連中の手先に成り下がったんですか?」
「五月蝿いなあ。妄想くらい好きにさせてくれたっていいじゃないか」
古明地さとりに初々しい反応を期待してはいけない。
勇儀にもそれは分かっている。分かってはいるのだが、それでも期待せずには居られなかった。
「どうせ妄想するなら、一升瓶ブッ込んで骨盤突き割るくらいの気合を見せて貰わないと」
「ただの猟奇殺人じゃないか! 流石の勇儀さんもドン引きだよ! 第一、そこにエロスはあるのか!?」
「さあね? 今度妹で実験してみようかしら」
「こいし逃げてー! 超逃げてー!」
心配御無用。現在こいしは命蓮寺に逗留中です。
なお、帰宅の予定はまったくの未定。出家もいよいよ秒読み段階に入ったか。
「こいしが通行OKなら、私だってOKの筈でしょうに。なんで私だけ……」
「お前さんのOKは、オーバーキルの略なんじゃないかな」
「お尻にキスしな! の略だったりして」
「喜んでさせていただきます!」
「ええい、離れなさいこのエロ鬼がっ!」
足元に縋りつき、スカートを捲り上げようとする勇儀の顔面に、さとりの膝蹴りが容赦なく連打される。
言い忘れていましたが、ここは旧地獄街道のド真ん中。
道行く人々は、まるで突如としてロータリーが出現したかの如くに、二人を遠巻きに避けて通行して行きます。
(うわぁ……悪い方のサトリが勇儀さんを虐げてるよ……)
(勇儀さん可哀相……誰か早いとこ退治してくれないものかしら。あの汚い方のサトリを)
(可愛い方のサトリにだったら、足蹴にされるのも悪くないかもしれんなあ)
当然、彼らの思念はさとりの第三の眼にキャッチされている。
しかし、彼女は眉一つ動かさずに、死んだ魚の様な目でそれらを軽く受け流していた。
いちいち真に受けているようでは、嫌われ者などとても務まりはしないのだ。
「……ここは少々目立つようです。どこか違う所に行きませんか?」
「よし、私の家に行こう。アソコなら色々と道具も揃っていることだし……」
「なに勘違いしてるんですか。落ち着いて話が出来る場所ってことですよ」
「連れ込み宿ですねわかります」
「エロスから離れろド変態がっ! もういいです! 地霊殿に帰って不貞寝しますからっ!」
「わかったわかった。落ち着いて飲める店を知ってるから、そこで一晩でも二晩でも飲み明かそうじゃないか」
お酒からも離れろ! と言いたいさとりであったが、流石にそれは通らない。
なにせ相手は星熊勇儀。身体の半分が酒で、もう半分が喧嘩で構成されている生き物である。
にこやかな笑みを浮かべながら、地霊殿にある全ての酒を飲み尽くす位の芸当は朝飯前だ。
一度機嫌を損ねてしまえば、さとりとて無事では済まないだろう。
「……じゃあ、それでいいです」
「よっしゃ、そうと決まれば話は早い。ではお姫様。僭越ながらこの不埒な鬼めが、お姫様抱っこなんぞをして差し上げようかと……」
「私の下着を衆目に晒すつもりですね? アナタの考えダダ洩れですよ」
「おいおい、こう見えても私は淑女だよ?」
「変態という名の淑女でしょうが」
こんな調子で押し問答を続けた結果、どういう訳かさとりが勇儀をお姫様抱っこして行く事になった。
とある目撃者は後にこう語った。「相変わらず意味の解らない事をやっていたわね。妬ましいわ」……と。
裏通りに入り、さらに奥深く進んだ先に、勇儀の指定した店はあった。
三十畳ほどの広さで、申し訳程度にバーカウンターが設置されているものの、店内に人の気配は感じられない。
「この店、ちゃんと営業しているんですか? ただの廃屋にしか見えないのですが……」
「ふふーん、ご安心召されい。何を隠そうこの店は、私が来た時にしか営業しないのだよ!」
「何をどう安心しろと? っていうかいい加減降りてくださいよ。私の腕もそろそろ限界なのですから」
「腕の話は……」
「やめてください」
苦笑いを浮かべつつ、勇儀は壁のレバーに手を掛け、一気に引き下ろした。
すると、地鳴りのような音を伴って、薄暗かった店内に明かりが灯る。
それと同時に、店の隅っこで何かが起き上がり、ノイズ混じりの重低音ボイスで叫び声を上げた。
“セェーガァー♪”
「わっ、びっくりした」
(おっ、イイ反応♪)
「し、仕方ないでしょうが。それより何ですかアレは」
筋骨隆々の大男にも見えるソレであったが、よく見ると全身が甲冑のようなモノで覆われている。
心を読んでみてもまるで反応ナシ。ぎこちない動作からも伺えるように、ソイツは真っ当な生き物では無かった。
「紹介しよう。古の河童が造り上げた全自動給仕機械、ロボピッチャーだ」
「ロボピッチャ?」
「ピッチャーだよ。気の抜けたビールをピッチャーで出す事から、この名が与えられたらしい」
同名のバンドが外の世界に存在するようですが、当機とは一切関係ありません。念のため。
ついでに言わせてもらうと、Sで始まる四文字の会社も、神霊廟四面ボスも関係ありません。関係ないってば。
「普通のビールは出せないんですか?」
「ガワも中身も年代物だからねえ。まあ、慣れればむしろ炭酸抜きの方がいいモンさ」
「飲んでも大丈夫なんですか? それ……」
カウンターの前に据え付けられた椅子に、二人は並んで腰を下ろす。
店の隅では、ロボピッチャーが注文を今か今かと待ち望んでいる。
「とりあえずピッチャー二つで」
「じゃあ私も」
“フフーン♪ フッフーン♪ セェーガァー♪”
そしてブン投げられるピッチャー四つ。融通の利かない機械であった。
その全てを受け止めた勇儀は、目にも留まらぬ速さで内二つを飲み干し、残り二つをさとりと分け合った。
「君の瞳に……いや、君の第三のサードアイに……あれ? うーむ、何かおかしいな」
「上手い事言おうとしなくていいです。それに今更乾杯もないでしょう。もう飲んじゃってるんですから」
「いやいや、あれは単なる準備運動で……あっ」
結局気の利いたセリフの一つも浮かばないまま、二人は気の抜けたビールを飲み始める。
嫌そうな顔をしながらも、チビチビと飲んでいたさとりであったが、勇儀がふと「馬の小便」なる単語を思い浮かべてからは、口をつける事すら無くなってしまった。
「どうだいこの店は。唯一の店員がアレだから、五月蝿くなくていい所だろう?」
「一応、気を遣ってくれていたんですね……ん?」
「どうした?」
「いえ……ひょっとしてコレって、勇儀さんの家に行くのとあまり変わらないのでは?」
(あっ……)
今気付いた、とでも言いたそうな表情になる勇儀を見て、さとりの心に不安の影がよぎる。
そのまま沈黙を保ち続ける勇儀の心を、さとりはそっと覗いてみる事にした。
(人気の無い裏通り……目撃者ゼロ……さとりと二人っきり……酔った勢い……ロボピッチャー……)
「ああっ、何やら不穏なワードがつらつらと!」
(責任ある立場……合意の上……事後承諾……ロボピッチャー……iPS細胞……ロボピッチャー……)
「ちょっ、ちょっと勇儀さん?」
「今、私に話しかけるな……!」
「そっ、そんな事言われても」
(落ち着け、クールになれ私! 誇り高き鬼ともあろう者が……いや、むしろ鬼だからこそ……)
「駄目っぽい! この人もう駄目っぽい!」
(心を鬼にして……ロボピッチャー……)
「ロボピッチャーは何か関係あるんですかっ!?」
「ああ、さとりっ!」
「はいっ!?」
急に勇儀が迫って来たため、さとりは椅子からずり落ちそうになる。
そんな彼女をガッチリと抱き寄せ、勇儀はやや上ずった声で懇願した。
「さとり、私を殴れ。私はとても不埒な妄想を抱いてしまった。お前が私を殴ってくれなければ、私はお前とボノボる資格さえ無いのだ。殴れ」
「まるで殴りさえすれば資格が有るかの如き言い草……! ええい、かくなる上はっ……!」
「うおっ!? お、おいさとり! いきなり何を……!?」
さとりは勇儀の服に手を突っ込み、主に胸部の辺りをまさぐり始める。
やがて何かを探り出した彼女は、至福の表情を浮かべる勇儀の鼻先にソレを突き付けた。
「そろそろ、コイツについての話をするべきだと思うのですが」
「あ……例の要望書じゃないか。いやーすっかり忘れてたよ。メンゴメンゴ」
正直な話、さとり自身も今の今まで本書の存在を失念していた。
初見では流石に腹を立ててしまったものの、よくよく考えてみればそれ程大した内容では無かったからだ。
「連中の思惑が何であれ、私は頼まれたって地上に出る気なんかありません」
「おいおい、それでいいのかい? 売られた喧嘩を逃げたとあっちゃあ、女が廃るってモンだろうに」
「まあ、彼奴等のドブ汚い性根を白日の下に晒してやるのも、それなりに面白そうではあるのですが」
「実行に移してしまったが最後、お前さんはいよいよ命を狙われる事になるだろうね」
「……別に、怖気づいたわけではありませんから」
暗い表情で顔を背けるさとりを見て、勇儀の中で治まりかけていた情欲の炎が再燃し始める。
敵は強大、対するさとりはほぼ孤立無援。こいつは萌える、否、燃えるシチュエーションであると言わざるを得ない。
(ああチクショウ、こいつ守りてえ! 今すぐギューッと抱きしめて、私に任せろと言ってやりたいっ!)
「無理しなくていいですよ? アナタにだって立場というものがあるでしょうし……」
(他人行儀な物言いはよしなって。私たち、仲間だろう?)
「仲間……?」
(そうさ、仲間さ。くさいセリフは吐きたくないから、心の声で勘弁しておくれよ)
「勇儀さん……」
上辺だけの言葉とは違う、真に心の篭ったメッセージ。
陳腐であればあるほどに、その言葉はさとりの冷え切った心を温めてくれる。
(おっ? 心なしかさとりの目が潤んできたような……)
「……勇儀さん?」
(これはひょっとすると……イケる? 今晩オトせるんじゃないのかコレ! ヒャッホウ!)
「ああもう、結局アナタはエロスに行き着くんですね……」
心底嬉しそうな勇儀の表情を受け、さとりもやや呆れを含んだ笑みを返す。
(おやおや……何でしょうねぇこのイチャコラでファッキンなアンビアンスは。反吐が出そうです)
「――ッ!?」
突如としてさとりの第三の眼に飛び込んで来た、吐き気を催すようなドス黒い感情。
弾かれるように振り向いた先には、店の入口で仁王立ちする不気味な影。
すかさず探りを入れたさとりの表情が、瞬く間に険しいものとなる。
「東風谷早苗……守矢神社の風祝……? どうしてアナタがここに……」
「あっ、今私の心を読みましたね? よくないですねえ、そういうの。よくなくなくなくなくなくないです」
「お前さん、まだ地底をウロウロしてたのかい? 用が済んだらとっとと帰れと、あれほど念を押してやったのに……」
地底まで要望書を届けに来たのは、どうやらこの早苗であるらしい。
すなわち、今の彼女は宗教家連盟の特使。彼女の言葉は、そのまま連盟の言葉であると判断すべきなのだろう。
「連盟から追加ミッションが届いたのですよ。有害極まりないサトリ妖怪を一匹、虚無への供物とするように、とね」
「なるほどね。それでチンケな功名心に駆られたアナタは、わざわざ私を探し回って、ここへ辿り着いたと」
「あくまでついでですよ。ついで。まあ私にかかれば」
「『こんな貧相な雑魚一匹、どうという事はありませんが』……ですか」
「うふふ、話が早いってステキですね。それで死期まで早めちゃうんだから、もうお笑いです」
さとりは立ち上がり、店に侵入してきた早苗と対峙する。
そんな二人を眺めつつ、勇儀は何を言うでも、何を思うでもなく、静かにピッチャーを傾ける。
(コイツを倒せば、連盟内における我ら守矢神社の発言力がモリモリ増すことでしょう。私の評価も鰻上りっ!)
「そんなくだらないモノの為に、むざむざやられる訳にはいきません」
「ヤルかヤラないか、決めるのは私なんですけどねえ。まあ、すぐに分からせてあげますよ」
ダラリとぶらさげた左腕を、入念に揉み解し始める早苗。
そんな彼女に対し、さとりは特に身構えることもせず、ただ感情の篭らぬ瞳を向ける。
お互いにスペルカードの宣言は無い。遊びに来たのではないのだから、当然といえば当然なのだが。
「我流喧嘩空手の奥義、お見せしましょう!」
「カラテだかカルトだか知りませんが、そんな素人めいた動きでこの私に勝てるとでも?」
「いちいち五月蝿いんですよアナタは! その口永遠に塞いでやりますっ! ッシャアァッ!」
早苗の左腕が伸びる。人間の腕では届く筈の無い距離を、あたかも獲物に食らい付かんとする蛇の如くに。
間合いが遠すぎると余裕ブッこいていたさとりも、これには些か肝を冷やした。
だが、相手の狙いは既に読めている。さきほど口を塞ぐと宣言していた彼女だが、その腕は迷う事無く第三の眼へと向かっていた。
回避は最小限の動きによって行われ、むなしく空を切った左腕が、信じられないといった顔つきの早苗の元へと縮んで行く。
「そんな! 神奈子様直伝の『蛇使い』が、こうもあっさりと……!」
「我流って言ってませんでしたっけ? まあ、どうでもいいですけど」
「うぎぎ……! ならば、コレならどうです!?」
左が駄目なら右、とばかりに早苗は右腕を大きく振りかぶる。
さとりが心を読むまでも無く、彼女の思念が敵意と共に殺到して来た。
(右ストレートでぶっとばす、まっすぐ行ってぶっとばす)
「その手が通用すると勘違いした馬鹿は、アナタで丁度三百十人目です」
(丁度って、なにその中途半端な数字は!? ……いやいや、集中集中。右ストレートでぶっとばす……!)
早苗が駆ける。一歩、二歩と距離を詰め、さとりへと肉迫する。
まともに相手をするのも馬鹿らしくなったさとりは、適当に足を引っ掛けて転ばせてやろうと思い立ち、半身をややずらす。
両者が交錯するまさにその刹那、愚直なまでに一色に染まっていた早苗の思考が、突如として更新された。
(今です勇儀さん! そのまま後ろからコイツをっ……!)
「えっ!?」
咄嗟に振り向こうとしたさとりは、思わず足を縺れさせてしまう。
隙あり、とばかりに繰り出された早苗の一撃は回避できたものの、そのまま両者は激しく衝突。
後頭部を床に強打され、さとりの意識が一瞬途切れる。ようやく目を開いた時には、既に彼女は早苗に組み伏せられていた。
「ああ、迂闊っ……!」
「うっふっふっふ。なんかもう、勝負決まっちゃったって感じですかねぇ」
「くっ、この……!」
「おおっと、ムダムダ。勇儀さんなら兎も角、アナタみたいな非力な妖怪さんじゃあ、形勢逆転なんてインポッシボゥですって」
勝ち誇った表情の早苗から目を逸らし、さとりは勇儀の様子を窺ってみる。
彼女は相変わらず椅子に座ったまま、二人の姿をじっと見つめていた。
介入の意思こそ認められないものの、その思考には一切の乱れが無く、心の声も伝わって来ない。
(勇儀さん! 何故見てるんです!? どうして何も言ってくれないんですかっ!)
(……………………)
(アナタと私は、仲間じゃなかったんで……ぐぇっ!)
「なーにモゴモゴしてるんですかぁ? 助けて欲しいなら、ちゃあァーんと声に出して言わないと。ねえ勇儀さん?」
(……………………)
二人の姿を食い入るように見つめたまま、星熊勇儀は微動だにしない。
守りたい、というのは嘘だったのか? 結局のところ、古明地さとりは何処まで行っても一人なのか?
勇儀の手にしたピッチャーの中身が尽きるよりも先に、さとりの命運は尽きてしまうのだろうか?
(考えてみれば可哀相なひと。きっと誰からも信用されず、誰も信用出来ぬまま死んでゆくのでしょうね……)
「……アナタに哀れんで貰う必要は無いわ。何故なら私には、助けてくれる心強い味方が居るのだから」
「はいはい。これ以上無駄な悲しみを増やさない為にも、今度こそ永遠にその口塞いであげますよ……この化け物が」
さとりの顔と第三の眼に、早苗の両手が迫る。
いよいよ訪れる最後の瞬間に、彼女は何を想うのか。
たった一人の妹、心を通わせたペット達、一度は信じかけた星熊勇儀、にっくき宗教家連盟――どれも論外だ。
まだ終わらない。終わらせない。切り札は自分の中にある。今こそ、最後の勝負に出る時だ。
「ピッチャーひとつ!」
「……はぁ?」
早苗は知らないのだ。この空間の片隅で、じっと出番を待ち続けていた機械の事を。
気の抜けたビールで満たされたピッチャーを、今まさに投擲せんとするアイツの存在を!
“フフーン♪ フッフーン♪ セェーガァー♪”
「えっ? えっ? なに、へぐぅっ」
気付いた時にはもう遅い。
ピッチャーは滞りなく早苗の頭へと直撃し、その中身が容赦なく彼女に降り掛かる。
「あたたたた……ぺっ! ぺっ! なんですかコレは!?」
「馬の小便……」
「んにゃっ!?」
ここまで沈黙を保ってきた勇儀の、ほんの何気ないつぶやき。
それを耳にした早苗の顔色が、みるみるうちに蒼ざめてゆく。
「なっ、なっ、なに考えてるんですかアナタたちは!? いくら下品で野蛮な地底の妖怪だからって、やっていい事と悪い事が……!」
「飲んでしまったのね?」
「うぇっ!?」
「本当に、飲んでしまったのね?」
(ちょっ、や、やめてください。これ以上変な事言われたら、私、もう……!)
「未成年者の飲尿って、法律で規制されているのかしら」
「いんにょ……ウッ、ウエエエエエエエエエエエエエエエェッ!」
勇儀のアシストを受けて、さとりが強引にゴールまで押し込む形となった。
些か遠回しな表現ではあるが、東風谷早苗嬢の名誉の為にも、ここはどうか勘弁願いたい。
「うわー。何よこの子、吐いたわー。汚いー」
(コイツも大概イイ性格してるよな……)
棒読みで早苗を嘲笑うさとりに、勇儀は少々引き気味のようだ。
しかし因果は巡るもの。早苗が戻したモノの発する臭気が、さとりの嗅覚を一気呵成に攻め立てる。
先の攻防で疲弊していた彼女に、抗う術など有る筈も無く。
「げろろろろろろろろろ……」
さとりもゲロった。古明地げろり。
名誉とは無縁の彼女であるが故に、ここはあえてストレートに表現させていただく。
「ゲ、ゲロ仲間……!」
「……やめて」
何故か嬉しそうな早苗の言葉に、さとりは弱々しく拒絶の意を表明する。
不名誉な同族意識も、苦くて酸っぱいあの味も、今すぐ記憶から消し去ってしまいたいくらいだ。人生ゴシゴシ洗いたい。
「今日のところは見逃して差し上げます。私の慈悲深さに感謝してください」
「……お風呂に入りたいのなら、貸してあげない事も無いのだけど」
「マジですか!? ……いいえ、アナタと私は敵同士。馴れ合いは無用に願います! さらばっ!」
ゴシゴシ洗いたいのは早苗も同じらしく、捨てゼリフもそこそこに彼女は退散してしまった。
残されたのはさとりと勇儀、そしてロボピッチャー。あと二つ何かあるような気もするが、そこには敢えて触れまい。
「いやあ、災難だったねえ。まさか連中が実力行使に及ぶとは……」
「……………………」
(あれ? ひょっとしてさとり、怒ってたりする?)
「……別に、怒ってなんかないです」
もう一つピッチャーを取り寄せ、気の抜けたビールでうがいを試みるさとり。
案の定、むせる。すかさず背中を擦ってやろうとする勇儀の手を、彼女は乱暴に払いのけた。
「……今日は大事なことを学びました。他人は当てにならない、いつだって信じられるのは自分自身のみ……という事を」
「ふうん。この際だからもう一つ学んでみたらどう? 助けの求め方、とかさ」
「必要ありません。どうせ私は……きゃっ!?」
「まあまあ、そう構えなさんなって」
嫌がるさとりを、勇儀は半ば強引に抱き寄せる。
口に残った臭いを気にして、顔を背けるさとりであったが、勇儀は構わず迫り来る。
「タイマンの邪魔をしたくなかったから、私は努めて無心で過ごしたよ。どちらの有利にもならない様にね」
「あれ? でも確か、馬のナントカがどうとかって……」
「聞かれたから答えてやったまでさ。それに、あの人間は私をダシに使ったんだろう? 丁度いいペナルティだと思うけどねぇ」
「それは……まあ、どうでもいいです。結局は私ひとりでも勝てたわけですし……」
「だが、これから先はどうなるかな? 宗教家連盟が本腰入れて潰しに掛かってきたら、お前さんとペット達だけで支えきれるのかい?」
「……それは」
勝算は無きに等しい、と言っても過言ではないだろう。
本格的に戦端を開いたとあれば、連盟のみならず身内以外の全てが敵に回ると予想される。
こちらの主力となる霊烏路空の力も、元々は守矢神社の神から与えられたものである以上、頼みには出来ない。
そして何より、相手方には妹であるこいしが居る。
さっきの早苗はおくびにも出さなかったが、その気になれば人質として扱う事も容易い筈だ。
「連中がそこまで必死になるとは思いたくないが、味方を作っておくに越した事は無い。違うかい?」
「この場合の味方って、アナタのことですよね? いいんですか? こちらに付いてもいい事ありませんよ?」
「『喧嘩は不利な方が燃える』――私の人生哲学だ」
「おおっ、なんかカッコいい事言ってる……」
(あとは、ちょっとしたエロスがあればいい。それだけで命を懸けるに値する)
「時々、アナタの本音が何処にあるのか分からなくなります……」
この先どんな困難が待ち受けていようと、伊達と酔狂で乗り越えて行ける。
勇儀を見ていると、なぜかそんなふうに思えてしまうさとりであった。
「……私のこと、守ってくださいますか?」
「おや、お前さんだけでいいのかい?」
「あっ……い、いえ。そうじゃなくて」
「ははっ、何だっていいさ。ようやく仲間を頼る気になってくれたんだからね」
「……ええ、頼っちゃいます。頼って頼って頼り倒しちゃいますから、覚悟しておいてくださいね」
敵と身内しか存在しなかったさとりの世界に、仲間という概念が新たに追加される。
単なる切り札として消費されてしまうのか、はたまた一生の宝となるのか。それはこれからの彼女次第だ。
(さっきの勝負で……)
「えっ?」
(濃厚な“さとさな”展開を期待していた事については、黙っておくとしようかね……)
「……勇儀さん?」
「はっ!? ……し、仕方無いじゃない! 仕方無いじゃない!」
何にせよ、エロスは程々にしておきましょう。
うん、うん……
それにしても、平安座さんは翠星石リリーが本当に好きですねェ。
俺も好きだけど。
つーかリリーさん!?
あなたの新作SSを一か月に二度読めると、いつも飛び上がりたくなります。あなたなしでは生きていけなイワッ!
* + 巛 ヽ
〒 !
+ 。 | |
* + / / イヤッッホォォォオオォオウ!
∧_∧ / /
(´∀` / /
,- f
/ ュヘ |
〈_} ) |
/ !
./ ,ヘ |
ガタン ||| j / | | |||
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あとついさっきまで観ていた琴浦さんがさとりんにかぶった
勇儀さんは読者の代弁者か何かですか。
白蓮さんが唯一の良心で笑った