「ッハ、ハァハァ」
逢魔が時ほどに夜が深まるその手前、息を切らしながら、森を駆ける男が一人。
結われた髪はちょうど馬の尻尾を思わせるほどに激しく揺れていた。
何度も木の根に足を取られては這うような姿勢になり、それでもなお走り続ける。
草履の片方はとっくにどこかへ置いてきてしまったようだ。片足は裸足で、いくつもの擦り傷からじゅくじゅくと血が滴っている。
木々が流れるように動いてゆく。木に足が生えて、自分とは正反対に走り抜けているのではと考えてしまうほどに
それからも暫く、男は走った。沢を横切り、峠を越えた。山1つ超えたかもしれない。なりふりなど構っていられなかった。
「ッ、こ、こまでくれば」
ちょうど森の切れ間で、男は一息つこうと足を止めた。
足は子供がチャンバラに使った棒切れのようになっていた。座り込みたいという思いをぐっと堪え、男は自分の背後を確認した。
そして男は戦慄した。
目目目目目目目目目目目目目目
そこには端が裂けたような巨大な口から不格好に巨大な牙を覗かせ、無数の目玉をギョロギョロとさせた毛むくじゃらの化物がいた。
「――△÷◇×*――――――」
男は声にならない悲鳴を上げ、逃走を再開しようと試みる。しかし膝が笑い、立とうとしても立てなかった。傷の痛みも今更になって感じ始めた。
毛むくじゃらの体から伸びる、妙に細いヌラヌラとした両生類のような数本の手が男を掴む。歪で巨大な口がばっくりと開くと、乱立する牙が丸見えとなった。その口の奥深さに、男はまるで吸い込まれるように感じた。
グジュグジュ、ガギギギガギガリン
肉が潰れるような、骨がひしゃげるような、そんな音を聞いた気がして、男は闇に飲み込まれた。
●
“終わったみたいね”
木の上から桃色の髪の毛をした少女が飛び降りて、もう片方の少女の元へ駆け寄る。駆け寄っていた先に居たのは彼女と瓜二つの見た目の少女であった。
“ええ、でも思ったよりしつこかったわ”
地面にいた少女はちらりともう片方の少女に向けていた視線をもとに戻した。目の前にいたのは白目で泡を口の端に溜めた男が仰向けに倒れていた。
“よっぽど我慢してたのね”
“でも諦めたら途端に総崩れ。まさか怖がってるものがあんな化物だとは思わなかったわ”
“どれどれ…、ってこれは……”
“ね?”
“こんなものが追いかけてきたら私でもトラウマになっちゃうな”
“フフフ”
“フフフフ”
これが「彼女たち」の食事風景である。彼女らは揃いの三つ目の眼球を備えた、この山に住む覚り妖怪である。うり二つの見た目をしているのは彼女らが“姉妹”であるからだろう。人間のように同じ母胎から生まれてくるというわけでも無いのに姉妹というのはいささかおかしいとも言えるが、“発生”した場所が同じであったので、彼女らは“姉妹”になった。
“手こずった分、良いモノが採れたわ”
“それは楽しみね♪”
“じゃあ…”
姉の方の覚り妖怪は妹の肩を抱き寄せ、口移しで男から搾り取った「感情」のエネルギーを与えた。それは彼女らが彼に与えた恐怖であり、彼女らの栄養源である。
人間に忘れられた妖怪は生きていけない。妖怪があくまで非実体であり概念であり人間の妄想の産物であるからである。よって彼女らは定期的に「覚り妖怪」という存在を人間に知らしめるためにこうして人間を襲う。襲って畏れさせ怖れさせることが彼女らの存在の必要十分条件なのだ。
「――――っ」
接吻擬きの食物の分け合いはおよそ2分を待たずに終了した。
互いに伸ばした舌を引き抜き、離した唇から唾液が尾を引く。姉はそれを手で引きちぎった。
上気した顔で妹がそろそろ失神した男を里の近くに運ぼうと提案する。姉は頷き二人で男を担ぎ上げ、山からしばらく離れた川辺に投げておいた。これから夜も深まり気温も下がるだろうが夏なので大丈夫であろう。
投げた男を見て、妹はつぶやかない。心の読める覚り同士の会話に本来、発声言語など必要ないのだ
“ねえ、お姉ちゃん?”
“どうしたの?さとり”
“私たちでも……仲良くできないのかな?”
“……難しいでしょうね、種族が違うもの。それに仲良くなってしまったら私たちが危ないわ”
“少しだけでも…だめかな?”
“………”
“やっぱり駄目か……”
思案する試案する。さとり達がこの山に住みつくようになって、他の妖怪たちはこの山を去った。
曰く
「腹の内を読まれるような奴がいる所に居たくない」
ということらしい。前に言うとおり、妖怪というものは精神面の産物である。妖怪を退治する際、物理的な手段に頼るより精神的な面に訴えかける方がより効果的なのだ。更に覚り妖怪は他の妖怪と戦闘をする場合、その弱点やトラウマの再現による攻撃が可能である。このことが他の妖怪に対しての最大のアドバンテージであり、忌み嫌われる理由である。いつでも自分の寝首をほぼ確実に掻ける相手がすぐそばにいるというだけで、その精神負担が妖怪を弱らせる。そうなればとられる手段は一つ。その地域からの逃避である。
―この子も私と二人ぼっち以外の世界に出たいのかもしれない―
“全く、しょうがないわね”
“?”
“好きなようになさいな。その代り日の暮れる頃には帰ってくるのよ”
“!!いいの?お姉ちゃん!?”
“その代り悟られないようになさい”
“うっ、うん!私、頑張る!”
妹は小躍りしそうなほどにはしゃいだ。そんな妹を見て、姉は目を細める。
“さとり、先に洞穴に帰ってなさい”
“うん。お姉ちゃんはどうするの?”
“少し用事があるから”
“ふふ、着物を調達してきてくれるのね。正直に思えばいいのに”
フフフと声に出して笑って、妹は山に帰って行った。
「正直に思ってしまったら、恰好が付かないじゃない」
ぼそりと姉は呟き、妹が行きそうな最寄りの里ではなく、3番目くらいに山に近い里に盗みを働きに行くのであった。
●
さとりはさとりでさとりがさとりだった。2人で1つなんていう表現があるが私たちはそれよりも一心二体であった。意識が共有できる私たちの心は(同性?であるが)比翼の鳥なんかよりもずっと一体である。二人で一人では無く一人が二人。だから同じ名前「さとり」を名乗るし、姿恰好もそっくりである。同じ名前でも呼ぶものが自分たちしかいないのだから不便も無い。違うのは年季と性格だけのようなものである。
それだけ、私たちは一緒であった。それだけ深く繋がれた。
そんな私の片割れのさとりが、人間の里に出て行き始めて、はや1年と半月余りである。最近は起きるとさとりは既にいなくなっている。寝ると言っても人間と違い、特別な妖怪以外の妖怪の睡眠は主に生理的な必要性の無い“暇つぶし”の類であるので起きようと思えばさとりが出て行ってしまう前に起きてしまうこともできるのだが。
殺風景であった洞穴も、私が盗んできた着物で彩りが生まれた。着物と言ってもたいそうなものでは無く、少しばかり色のついた程度の物であるのだが。
「今は…真昼ですか」
眩しさに目を細めながら洞穴から出ると、陽に照らされ秋一色の山の様子がよく見える。さとりはなんとなく、その辺にあった柿の木から、熟していそうな一つを選んでもぎ取った。
小さな口でがじりと齧る。
「っ、うっ~」
齧ったそれは渋柿であった。柿の木をジトリと睨み付け齧った柿を投げつけた。
渋柿はその母木に跳ね返って、坂道を転げ落ちって言った。
思い描いていた理想通りに事が進んでいたなら、今頃さとりを苦しめた渋柿は今頃母木にぶつかって砕けているはずだったのだが、そうは問屋が卸さなかった。覚り妖怪は腕力を必要としない妖怪なので当然ではあるのだが。
うまくいかない。
やることも無いしふて寝と決め込もう。
そうと決めたならすぐさまさとりは洞穴に戻り、長い二度寝を始めるのだった。
――――
さとりが起きると、妹は帰ってきていた。丁度着物を洗い終わって干しているところだった。
「おはよう、おねえちゃん」
「こんばんは、さとり」
わざわざ声まで出して挨拶をされたことに多少の違和感を拭えなかった
“ごめん、里に出てる時の癖で…”
“いや、いいのよ。そんなこと気にしなくて”
“う、うん。今度から気を付けるね”
“……、そういえば、これから麓に行くのだけれど、久しぶりに一緒にいかない?”
“――まだお腹も減ってないから今日は行かなくても大丈夫”
“…そう、じゃあ私だけで行ってくるわね”
“行ってらっしゃい。お留守番は任せて”
“さとりが見張り役なら心強いわ”
さとりは妹に見送られ洞穴を出た。
充分に離れたところで、ため息を1つついた。
麓まで下りて獲物を待っていると、小川のほとりを歩く女性がいた。
草陰に隠れて第三の目で見つめる。女の中に男の姿を見つけたので、それを女に見せて山へ誘導する。魅せられた女は引き寄せられるように山に這入る。
いつもはこの役割を妹が担当していた。しかし三か月前から妹はこの“食事”に同行していない。人間と関わるようになって人間に情でも湧いたのだろうか?
姉であるさとりにとって、人間は食料でしかない。その食料に、妹が心惹かれている。
―面白くない―
女のトラウマに、さとりのアレンジが加えられた化物を造り出し、投影する。
―食うために飼いならした家畜がかわいくて食わないものがどこに居ようか―
ここまでくればもう一息である。後は女の心が折れるのを待つばかり。
男は巨大な蜘蛛に変わり、女を襲う。
吐かれた糸に足を取られて女はこけた。
ギチギチと顎を鳴らす蜘蛛が女を見下ろす。その8つの目が全て追いかけていた男の顔に変貌する。
仕上げに16に増えた瞳で女を嗤い、蜘蛛に女を食らわせる。
その時、すうっと夜風がさとりの頬を撫でた。
心の臓を凍らせてしまえるような冷たさのそれに、さとりは一瞬気を奪われた。
ハッとした拍子に、グワンと女の像が歪んで消えた
目を白黒させてさとりは驚いた。突然獲物の意識が飛んだ時でも、このようなことは起こらない。何より幻覚を見ていた女自体が消えていた。
「はぁーい、こんばんは」
不意に挨拶をされ、声の主を探すと三日月を背景にそれはいた。
大陸風の衣服に身を包み、宙に座るそれは立ち上がる動作をして、すとんと目の前に降り立った。
「―神隠しの、妖怪、賢者?八雲紫……?」
「ごめいとーう。便利なのね、その目」
「?!」
「あなたは覚り妖怪でしょう?珍しいから思わず邪魔したくなっちゃった」
「面白半分で人の獲物を奪うとはどういう了見ですか」
「あなたが人の心を喰らうように、私も食事をしに来ただけよ」
「フン、横取りというわけですか」
「あのままじゃ死んじゃいそうでしたし。そろそろ読まれるのも気持ちが悪いから閉じておくことにするわ」
そういうと八雲紫と名乗った(読み取った)妖怪の心はカタカタと形を変えドロドロと混ざり、さとりに見えなくなってしまった。
「どう?読めなくなったでしょう?心と体、意識と無意識を曖昧にしてみました♪」
「…あなたは、一体?」
「私は神隠しの妖怪、八雲紫、そしてあなたは心の目を持つ覚り妖怪」
「“さとり”です」
「じゃあさとり、あなたに頼みたいことがあります」
「唐突な。それに頼みごとがあるならあんなことをせずにおとなしく読まれているほうが早く済みますよ」
「そんなこと読まれたら、恰好が付かないじゃない」
「…下らない」
「あら、恰好が付くかどうかってなかなかに大切な事よ?」
「嘯くことがお上手なようで。さっきのあなたはそんなことを考えていなかった。この目にかけて宣言しましょう」
「あらら~、ばれちゃってましたわ」
「…横道に逸れ過ぎです。私はさっさと次のを探さないといけないので手短にしてください」
「生き急ぐ必要なんてないじゃない。私たちにとって時間は余るほどでしょう?」
「また逸れました」
「イケズね。まあいいわ。」
ここで初めて、八雲紫は大きく息を吸ってまじめな顔になった。
「私はあなたが欲しい。」
「それは……一目惚れ的な意味でしょうか?すいません、そういった趣味は無いもので…」
八雲紫は空中で器用にずっこけた。起き上がり、赤面して否定する。
「そんなわけないでしょうに!?」
「あれ?違いましたか?」
「そういう意味なわけないでしょう?!全く」
「では、どういった意味合いで?」
さとりはニタニタと笑う。
「…こんなのなら混ぜったくる前に読ませておくんだったわ」
「自業自得です」
「こちらの失敗であったとしておきますわ」
「で、結局何を強要されるのでしょうか?」
「強要とは物言いね。少し長くなるのだけど、いいかしらん?」
「―――――構わないです。今日はもう食事の気分が失せました。付き合いましょう」
「じゃあ遠慮なく―――
八雲紫は話し始めた。結界を張って今私たちがいる世界から乖離した魑魅魍魎の楽園のことを。巫女と自分がその結界を守っていること。様々な妖怪がいること。そしてそのような楽園にもなじめない妖怪たちが地下で生活をしているということ。
問題はそこにいる怨霊どもなのよ」
「怨霊?」
「実はもともと、地底は地獄だったの。そしてそこに溜まった怨霊どもの処分がまだまだ終わっていない」
「つまり、私に怨霊どもの掃除をしろと?」
「それと地底の荒くれものの管理、ですわね」
「私が知り合って間もない妖怪の為に無償奉仕をするとでも?」
「衣食住くらいは保障するわ。食の部分は怨霊になるけれど。難しいかしら?」
「心が読めない以上、あなたの言葉をそっくりそのまま信用するわけにもいきません」
「用心深いのね」
「失敗したくないのです」
「じゃあ信頼と安全も保障しましょう」
「その言葉への信頼と安全の方が先に保障されるべきですね」
「ウフフフ」
「フフフ」
八雲紫はどこからか扇子を取り出して口元を隠した。
「残念ですが今夜はもうお時間ですわ」
「別の女の所に行くのですね」
「そうよ。今から楽しみだわ」
八雲紫は張り付けたような笑顔を浮かべた。
「またあなたを口説きに来るわ。」
「結構です」
「つれないのね」
「釣られる気はないので」
「まあ心変わりしたらまたここに来なさいな」
「ここに通うのも全部無駄足にして差し上げます」
「さて、それはどうかしらね」
八雲紫の上にパカリと穴が開いた。空を裂くようなその穴には大小無数の目がこちらをじろじろと眺めていた。
「ではでは、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
「最後に、気づかないことは罪ではないけれど、取り返しがつかないわよ?」
「なんですか最後に」
「自分で気づきなさい。ではでは」
「ちょっと!」
穴に飲まれてそれは消えた。
後に残るのは夜の森の静寂と、三日月ばかり。
「やれやれ」
さとりは根城に帰って行った。
――――
次の日の朝、珍しく早く起床して、さとりは妹と昨日の出来事を共有した。
“昨日久しぶりに妖怪に会ったわ”
“珍しいのね、この山には私たち以外いないと思ってた”
“とんちきなことを言う妖怪でね”
“面白いことを考えてたんだね”
“でも心が読めないから信用できないわ”
“その点人間は解りやすいよ、この前なんてね――”
疎通は途切れない。話題ならいくらでもある。なくとも良かった。
嬉しいことも楽しいことも悲しいことでもなんでも共有できる
しかし、最近の話題は専ら人間のことであった。
●
姉のさとりが八雲紫とかいう妖怪に出会ってから半月程がたった
その間もずっと妹のさとりは人間と遊び続けていた。
姉はというと、毎日毎日暇で暇で暇で暇で、毎日毎日昼寝をして過ごしていた。そして夕暮れ前に起きだして、妹の帰りを待つ。
―さとりが帰ってくるだけで、私はいい―
そう自分に言い聞かせて、昼寝をした。
洞穴の前の渋柿も既に全ての実も葉も落とし、すっかり冬の装いとなったある日、陽が傾き始めたころに、いつも通り妹は里から帰ってきた。しかし、その姿はいつもとは全く違っていた。
泥だらけであるどころか、着物は所々破れていた。上着から溢れる綿が雪のようであった。
流石に異常であった。冬になってからは服を汚して帰ってくることなどほとんどなかったのに。
「何があったの!!」
「…なんでも無いよ、心配しないで」
「嘘!!」
妹のさとりが答える前に、さとりは心を読む目を見開いて妹の心を覗いた。
混乱していた思考の中にさとりはどっぷりと浸かった。
―――
――
―
覚り妖怪であることがばれてしまったこと。発端はさとりの来ている服が付近の里の商人の家から盗まれたものであったと、隣町の商人が直々に証言したこと。そしてその盗みの手口が覚り妖怪によるものであるという仮説以外に疑いようがなかったこと。彼らがさとりを手づから押さえつけ薪やら何やらで叩いたこと。さとりは最後の最後まで能力を使わなかったこと。哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい哀しい
哀しいという思いがのしかかるように姉の心に押し寄せてきた。しかし姉が抱いた感情は哀しさなどでは到底なかった。
憎い
憎い憎い憎い
憎い憎い憎い憎い
憎い憎い憎い憎い憎い
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い
姉の中に急に現れた感情を読み取った妹は、恐ろしかった。そのどす黒さが、その質量が、その堰を切ったかのような勢いが。
その実は姉が無意識のうちに抱いていた嫉妬心であった。自分の最愛の妹を自分から引きはがした人間に対しての。それが傷だらけの妹を見て、その心を視て、どっぷりと浸かってしまったことで抑え込めなくなってしまっていた。
無意識であったがゆえに、さとり達はその嫉妬心に気付けなかったのだ。そしてさとり自身も、その感情に飲まれたことに気付けなかった。星を眺めていたら目先の池に気付かずに落ちる、そんな滑稽な光景を連想させた。
「落ち着いて!お姉ちゃん!」
「止めないで、さとり」
「私が悪かったの!あの人たちは悪くない!」
かっちりと合っていたはずだったさとり達の心がギシギシと亀裂を走らせはじめる。
「優しいのね」
「だから、そんなことは止めて!!」
「おやすみなさい」
姉は躊躇なく、妹に恐怖の権化を見せ付け、失神させた。
妹が見たのは、今の姉自身の姿であった。
「フッ、フフフフ、アハハハ」
自嘲気味に嗤い、妹を残して姉は里へ向かった。
――――
日もすっかり沈んだ真夜中に、妹は目を覚ました。
日が沈んでしまっているせいでどれくらい倒れていたのかも解らなかった。
ぞ く り
背後から強烈な何かを感じた。感じたことの無いほどに強い妖気である。思わずあてられそうになってしまう。
「誰?」
妖気の元を直視するのが怖くて背を向けたままに問う。
「誰とは物言いね。」
聞きなれた声の主は姉であった。
すぐさま振り向くと洞穴の壁にもたれかかって膝を抱える姉の姿が見えた。
「…何を、したの?」
「何って、視ればいいじゃない。なんなら見せてあげるわ」
胸元の目玉がぎょろりと妹の方を向く。
さとりは見た。見せ付けられた。姉が何をしたのかを。
映る像は二本の足と手を持ち、ほとんど全てが自分より大きかった。さとりが近づくと動きを止め、がくりと膝を折る。そのまま倒れこむ。この光景が100ほど繰り返された。何度かは逃げたものもいた。しかしそれでも覚りの視得ない聞こえない凶器から逃れられず、他と変わらず倒れた。折り重なった体はまさに死屍累々と言った有様で。その数はさとりが見たことのある里の人間の数より少しばかり多かった。
出血等無いのに倒れている人々はいささか滑稽で、無気味であった。終始足音と多少の悲鳴だけの光景に、自分もこのようなことをしていたなんて、ぞっとする。ぞっとする?
「また、そういうことを思うのね」
じろりと姉の三つの目は妹を睨んだ
「…里の人を、全員…?」
「勿論」
「どうしてそんな」
「私の私の、かわいい妹をボロボロにした」
「だから!それは私たちのせいでっ!!」
「怖かった」
「え?」
「あなたを見るのが怖かった。心を覗くのが怖かった。私のことが人間に置き換わるのが怖かった。だんだんさとりの心から私が押し出されるのが怖かった。怖かった。怖かった。怖かった。
だから消した。吸い尽くしてやったわ。もう私の場所が無くならないように」
「そんなこと、今更…。どうして?どうして?」
「私のことだけで一杯だったのに!」
姉は金切り声で叫んだ。そのままの勢いで立ち上がった。糸が切れたのに勝手に動き回る操り人形のようであった。
「それなのに、どうしてあなたはそんなことを思うの?」
姉は自身の記憶の追体験をさせている間も妹の心をずっと観察していた。
妹の心は姉への不信不満疑問で一杯であった。
“こんなことしないでいて欲しかった”
“なんで止めさせてくれなかったの?”
“酷いわ、私たちが悪いのに”
“どうして、伝えてくれなかったの?”
最後のは、堪えた。
「見たくない」
「?」
「見たくない、視たくない」
「お姉ちゃん!」
「そんなものも、私の居ないあなたも、見たくない!!」
そう叫んで、姉の動きが止まった。
「さとり?」
「フッフフフフフッフフフフフフフフ」
叫んだかと思うと、今度は目を爛々と輝かせて笑い始めた。ただ笑っているのではない。狂喜していた。心象ががらりと変わったことはまさに“目”に見えた。
「解っちゃった。見たくないなら、こうすればいいのよ」
カシャンと、硝子細工が割れるような音がした。
姉の胸元の目には彼女自身の指が二本、差し込まれていた。
笑顔を貼り付けたままに、姉は倒れた。
●
突然叫んだり、笑ったり、そしてついには倒れた。
さとりが姉の行動を全て理解する前に、終わってしまった。困惑していたら終わりが来ていた。
「お姉ちゃんっ!!」
倒れた姉に駆け寄る。凄まじい妖気は未だ健在であったが、我慢して姉を仰向けにしようと手を触れる。触れた瞬間に、第三の目に流れ込んでくる姉の思いがあった。
淋しい
それで気付いた。
伝えてなかったんじゃない、私が目を背けていたのだ。
それは安心で、信用で、怠慢であった。淋しい、なんて確かに恥ずかしくて言えないような台詞である。しかし自分たちはさとり妖怪で
姉を仰向けにすると先ほどまで爛々としていた目も光が無く、生気も無い。釣り上げられた口元のみが不自然に残っていた。
「…どうしよう」
後悔は予めできるものでは無いけれど、今更になって後悔するのは惨めで馬鹿のようであった。
心を読もうとしても真っ暗になってしまって見えない。見えないということは意識が無いということである。ただ寝ているだけなら良かったが、今の姉には生気が無い。
お姉ちゃんは死んでしまうのかもしれない
そんな考えが頭に浮かんだ。第三の目が無くなったくらいじゃ死ぬはずが無い、と思いたかったが、現に姉が起きてくる気配は微塵も感じられない。顔だけは活き活きとしているのが、信じられなかった。
「どうしたらいいの?お姉ちゃん」
目の前が滲み始める。何も変わらないとわかっていても涙が出てくる。
ぽちぽちと姉の服に濡れ跡が付き始めた時である。
「はぁーい、便利妖怪の飛脚便でーす」
顔を上げるとそこには道士装束の妖怪がいた。
その顔を知っていた。
「八雲…紫…さん?」
「大正解♪ご褒美になんでも欲しいモノを言ってごらんなさい」
「なんでも…」
突然の来訪への戸惑いで涙は引いて行った。
しかし、意図が読めなかった。先ほどの姉以上に。心を覗こうとしても見えてくるのはドロドロと掻き混ぜられた、おおよそ正常でなさそうな光景であった。
「心を読もうとしても無駄よ。今の私の心はさとりでも読めないわ」
「…ものじゃないといけませんか?」
「あら、なら質問を変えるわ。してほしいものを何でもどうぞ」
その質問なら、答えはとっくに決まっていた
「お姉ちゃん、お姉ちゃんを助けて下さい!」
「ん~、それだとさっきのだけじゃ、ちょっと足りないかしらね」
「お願いします、なんでもしますから!」
「なんでもするなんて、軽はずみに言うものじゃないわ」
「…なら、私があなたの言っていた地底で怨霊の処理をします。それでどうですか?」
「未熟なあなたには辛いと思うわよ~?」
「それでも、やります。だから代わりにお姉ちゃんをなんとかしてあげて下さい」
張り付いたような笑顔の八雲紫を見ながら、睨み付けるほどに見つめながらさとりは言った。
「いいわ、その心意気、買いましょう。」
張り付いたような笑顔が解かれ、胡散臭いモノに変わった。
八雲紫は腰を落とすことなく、姉の体を浮かせて検分した。さとりもつられて立ち上がる。
「これは…この目を潰したのね?」
「うん…、はっ、はい」
「そう畏まらなくてもいいわ。あなたはさっきの様子からするとさとりの妹さんかしら?」
「はい、さとりと言います」
「畏まらなくていいって言ってるでしょ?」
「はっ、は…うん」
「それでいいのよ。しかし姉妹揃って同じ名前ってねえ…。まあいいでしょう。」
妹に向けていた視線を、宙に浮かせた姉に向けなおして紫は続けた。
「さとりは今とても危ない状況よ。予め人間を襲ったみたいね。それが幸いだったわね。普通もう死んでるわ」
「………お姉ちゃんは助かるの?」
「助かると…思うわ。でも、今までのお姉ちゃんに戻りはしないわ」
「それって、どういう…」
「覚りの目は心を視る目。さて、どうして視えるのでしょうか?」
「こんな時になぞなぞなんて」
「あら、わからないのかしら?」
「…見えるものは見えるんだもん」
「本当に知らないのね。いいわ教えてあげる」
「関係ないことはいいわ!早くお姉ちゃんを」
「関係あるわよ。」
胡散臭い顔が少しまじめになった。
「人間の目は物理物体。だから物理現象の光の反射が目に見えるわ。だから逆に非物理的な霊なんかは視えない。じゃあ覚り妖怪がなんで心が視えるのか、解るわね?」
今の紫の言葉が、さとりの中に像を結んだ。
物理的に在る物体である目が物理現象を見る。ということは物理現象でない心なんてものが視えるこの第三の目は…
「ッ!!じゃあお姉ちゃんが潰したのは…」
「あなたのお姉さんは自分の心を潰したの。あなたたちの目はただの実体のある物理物体じゃなくて、実体化した心。」
「それじゃあ、お姉ちゃんは―――」
「ええ、“元通り”にはならないわ。それでもいいかしら?」
「……それでも、助かるなら、お願いします」
さとりは深々と頭を下げた。
「契約成立ね♪この子は暫く預かるわ。」
「お願いします」
「ではでは、一名様ごあんなーい」
紫がどこからか取り出した扇子で、どこともわからない空を切った。するとそこに真っ黒い穴が開いた。
さとりはごくりと唾を呑み込んだ。表現しようのないその穴の深さと無数の目玉はさとりをどうしようもなく不安にさせた。
「この穴を抜ければ地底に着くわ」
「……わかったわ」
「あ、そうそう、あなたに苗字をあげましょう」
「?」
「正確には契約の証。縛りよ。そうねえ………
古き地を明かすで、古明地にしましょう」
「異論は?」
「勿論却下よ。さあ行きなさい、古明地さとり」
紫は嗤いながら扇子で穴を指す。
さとりは穴に向き合う。穴の中の目がぎょろりと、非難するように見てきた気がした。
「お姉ちゃん、行ってくるね」
それでも、もう引き返せないから、さとりは穴に飛び込んだ。
――――――
さとりが飛び込むと、紫は穴を閉じて、自分も新しく穴を開けてその中に入った。
真っ暗な穴の中で、紫はさとりの第三の目を手のひらに乗せた。
「ホントにボロボロね。妖気で補填してなんとかなってるみたいだけど」
紫は半開きであったその目を両の手で開き、中身を取り出した。
出てきたのは粉々になった薄いガラスのようなものであった。
「中身は詰めてあげれないからあの子に満たしてもらいなさい」
紫はその破片から透き通った球を造り出し、その虚に入れようとした。
「でも、これじゃあただの目が多いだけの妖怪ね」
透明な玉にもう片方の手を触れると、その中に薄灰色の靄が広がった。
「これでいいでしょう。あとはあなた次第」
改めて虚にそっとその球を入れ込んだ。入れた途端に開きっぱなしであったその目は縫い付けられたように閉じてしまった。そして少しの間を置いて髪の桃色も褪せてしまったかのように抜け落ちた。
「なるほど、そうなるわけね」
紫はさとりをおんぶして、穴から出る。出た先はもちろん彼女の自宅である。
主に玄関から自宅に入らない主を、式に出迎えさせた。
「紫様、お帰りです……か?」
「ただいま。藍。」
「えっと…その後ろの子はまた拉致してきたんですか?」
「人聞きが悪いことを言うわね」
「だって…紫様が何かを連れてくるときは殆どが拉致じゃないですか~」
「む…まあ確かに多いのは認めるわ。まだまだ人口が足りないんですもの」
「ということは今回も神隠しという名目で拉致を…」
「だから今回は違うってば!」
「またまた~嘘ばっかり仰って」
「今回は~、その人助け、じゃなくて妖怪助けよ」
藍は紫の額に手を当てた
「…何よ」
「いや、熱でもおありなのかなと心配しまして」
「……どこで教育を間違ったのかしら」
「何か仰いましたか?」
「いや、もういいですわ、そんなことより、この子、起きるまで預かるからこの部屋を使うわ」
「畏まりました。ってここ私の部…」
「何か異論でも?」
「…いえ、紫様の仰るとおりに」
藍は押入れから布団を取り出し、紫は背中の妖怪を寝かせた。
「起きた日が誕生日ね」
「?」
「フフ、ささ、出るわよ」
「ってちょっ、紫様~」
紫は藍の背を押して部屋から出て行った
●
サッ
ペタン
サッ
ペタン
サッ
ペタン
……
「これで終わりですか?」
ハンコをつこうとしても、つく紙が出てこなかったので、さとりは聞いた。
「はい、今日の分は」
ニカッと笑って答えたのはさとりよりも頭二つは背の高い女性であった。
名を小野塚小町というらしい。さとりが地底に送り込まれて数時間後、補佐として放り込まれてきた死神である。
「…また明日もあるんですか」
「もうダウンですかい?」
「いえ、ただ思ってたのと違い過ぎて…」
さとりがここに来て三週間。最初にやったことは今いるこの地霊殿に蔓延る怨霊退治であった。次はなぜか喧嘩腰で殴りこんできた地底の妖怪の相手、そして今は紙に判を押している。地底の管理云々の書類だそうだ。
「もっと外を歩く仕事だと思ってたのにな~」
「古明地様」
「あ――、いけませんでしたね。思っていたのですけど」
この3週間で子どものような言葉づかいも控えるようにした。小町曰く、それっぽさが出ないから、とのことである。
「もう音を上げたのだと思いましたよ」
「そんなわけあるはずありません」
「ですよねー」
ハッハッハッハと快活に小町は笑う。彼女はなぜさとりがここに来たのかを知らない。
唐突に執務室の両開きの扉がバタンと開いた。
「ムッ」
「誰か、来たみたいですね」
外から扉を開くと検知して開く仕組みである。
さとりは椅子から立ち上がり、机の隣に立っていた小野塚のそばに駆け寄る。
「小野塚、お願いします」
「あいよ」
小町が能力を使用する。彼女の能力は距離を操る能力である。
ぐっと視界が圧縮され、あ、とも言えない速度で玄関についた。
「ッ、子供?」
麦わら帽子のような形をした、喪服のような帽子を目深に被った少女がロビーを歩いていた。
小町は侵入者が鬼の類では無く角の無い容姿であったことに驚いたが、さとりは別のことに驚いていた。心の臓の鼓動が聞こえるほどに大きくなった気がした。
「古明地様、鬼じゃあないですが凄い妖気ですよあいつ」
「お…お姉ちゃん?」
「?」
それが本当に姉なのか、そんなことも考える前に、気が付いた時には小町を置いて駆け出し、抱き着いていた。抱き着いた衝撃で彼女の帽子が風に吹かれた蒲公英のように落ちた。
抱き着かれた彼女の髪は、さとりの髪と全く対照的な灰色がかった緑であった。そして、第三の目をもってしてもその心は全く見えない。まるっきりの透明であった。
「あなた、だあれ?」
「…え?」
「何も、解らないの」
姉からの問いかけを聞いて、時間が止まったように感じた。困ったような表情になった姉から距離を取ると、姉の第三の目は硬く閉ざされていた。
「私も、だあれ?」
「あなたは…」
―八雲紫の台詞が去来する。
「ええ、“元通り”にはならないわ。それでもいいかしら?」
ということは今のお姉ちゃんは…
「ここに行けって言われたの。あなたは、私のなに?」
「私は……」
それは責め苦のような問いである。自分がお姉ちゃんだと思い過ぎてしまったがために姉はあんなことになってしまった。私はなんだったのだ。互いを理解しあえる覚り妖怪だったはずなのに。私が――――。今度は、何になればいいのか。
「私は、あなたのお姉ちゃんです」
嘘を着いた。泣きそうだったその顔の上に、笑顔も貼り付けた。
「お姉ちゃん…?」
「そうですよ」
「それじゃあ、私の名前は…?」
「古明地…こいしです」
「……こいし?」
“恋しい恋しい私のお姉ちゃん”
閉じた瞳では、きっとこの思いも視得ないのだろうけれど。泣きそうな私も視得ないのだろうけれど。
「私たちは…家族です」
一緒に暮らした長い年月に比べて、ほんの一瞬とも言えるような、たった二年に満たない期間でで蔑ろになり、破綻したその関係をもう一度やり直そう。今度はお姉ちゃんが辛くならないように、私がお姉ちゃんになろう。
「おかえりなさい、こいし」
ちょっとはしょり気味なのが残念。黒い感情の発露とか、さとり→こいしへの変遷とか、ゆったり読みたかった気も。
やはりやや描写不足の感。