「――……っ!」
被っていた布団を跳ね上げて起きた。
辺りは真っ暗。当然だ、ここは私の部屋なのだから。
動悸が激しい。室内に私以外の何かがいるのではないか、と素早く視線を巡らせてしまう。
何もいない。それも当然、ここはお姉様が私の為に用意してくれた、私だけの地下室なのだから。
……だんだん、落ち着いてきた。
改めて、今度はゆっくりと地下室を見渡す。部屋の隅には私だけの宝箱があり、図書館から持ってきた魔術書を並べた古びた本棚がある。部屋の中央にあるのは小さな丸テーブルで、椅子もいらない高さのそれは殆ど使う事がない。重く硬そうな鋼鉄製の扉には錆が全体に見て取れて、年月の深さを語っていた。何の変哲もない、壁のシミ。今はそれがちょっとだけ不気味だ。
私は深く息を吐き出す。
(あの頃の夢なんて……いつ以来だろう)
ベッドの上で体育座りになって、自分の膝に頭を乗せた。垂れた髪が私の顔を撫でる。瞑った目が映し出すのは夢の中の世界。けれども、知っている世界。
どうして、今になってあの時の事を夢に見たのだろうか。ここ数十年は思い出す事すら無かったのに。
考えても分からない事を考えている。それに気付くと、直ぐにその思考を止めて顔を上げる。眠気は吹き飛んでいた。
身体がべたべたする。夢のせいで、全身に嫌な汗をかいていた。シーツも湿っている……前に洗ったのはいつだったか。ちょうどいいから、洗濯して貰おう。
寝巻とぼさぼさ頭のままで、私は地下室を出た。
地下室には鍵がかかっていない。魔術的な封印も施されていない。それもそうだ、ここは私の部屋であって、牢獄でも無ければ監禁室でも無いのだから。
最初にこの部屋を充てられた時の、お姉様の言葉を思い出す。
――何百年かかるか分からない。だけど、必ずこの幻想郷でフランの自由を手に入れてみせる。それまで、ここで我慢出来る?
その表情は、とてもとても、哀しげだった。だから私は、二つ返事で頷いたのだ。
地下室から階段を登っていくと、大図書館に出る。人目に付かないよう巧妙に隠された入口は、本棚の影で真っ暗だった。
ぺたぺたとスリッパを鳴らして歩く。今何時だろう。パチュリーは居るかな。
本棚の道を真っ直ぐ進む。着きあたりを右に。一つ目の十字路を左へ曲がって直進。道なりに沿って曲がりながら、次の十字路を左へ。
私の部屋までは魔術が施されているらしくて、正しい道順を踏まないと辿り着く事も引き返す事も出来ないらしい。パチュリーが勝手にやったみたいだけど、お姉様がそれを気に入っちゃって私も覚える羽目に。意外と楽しいから、別にいいんだけど。
やがて開けた空間に出た。ここもまだ地下だというのに、天井は高く広い。ぽつぽつと設置された照明が小さくてぼんやりとしか見えないけど、図書館はしっかりと明るかった。私が部屋から出て、最初に見る灯り。
きょろきょろと辺りを見渡す。いつもなら、この近くの机でパチュリーが読書をしているんだけど……。
「寝巻で館内をうろついていると、レミィに怒られるわよ。フランドール」
「ひゃっ」
突然背後から声をかけられて、驚いて変な声を上げてしまった。今私が通って来た道なのに。ここに来るまでその姿は見ていないから、飛んでいたのかな? パチュリーは出不精だし、何事に対しても億劫そうだから、あまりに広い図書館での移動は殆ど歩かないらしい。
パチュリーは両手でたくさんの分厚い本を抱えていた。よく見ると、その身体は浮いている。やっぱり飛んでたんだ。
「おはよう、パチュリー。汗かいちゃったから、シャワー浴びてから着替えようと思って」
答えながら、私はパチュリーの言葉を反芻した。確かに、お姉様に見付かったら怒られちゃうかも。
でも見付からなければいいんだよね? 大丈夫、きっと大丈夫。
「珍しいわね、フランドールが汗をかくなんて」
近くの机に本を重ねて置いたパチュリーが、そのまま椅子に深く腰を下ろした。その動作を見て当分立つ気が無いと悟ると、私も踵を返す。パチュリーとお話したいけど、先に着替えないといけないし、読書の邪魔をするつもりも無い。
「昔の夢を見たの。またね、パチュリー。お姉様に見付からない内に、着替えてくる」
「またね、フランドール。レミィには報告しておくわ」
「駄目だからねっ、お姉様に言ったら!」
「はいはい」
釘を刺すと、小さく笑ってパチュリーは読書に移った。今日はもうお話出来ないかも。少し残念。
一度お姉様に見付かったら、って考えると、絶対に見付かっちゃいけない気になって来た。走って浴場まで行きたいけど、そんなはしたない事をしたら余計怒られちゃう。
歩幅も変えず、けれども少しだけ早歩きで。私は図書館を後にする。出る前に振り返ると、パチュリーと目が合った。
離れていても聞こえる不思議な声で、パチュリーが言う。
「着替えてきたら、私と話す?」
「うん!」
パチュリーは軽く咳き込んだ。喘息は大変らしい。でも今日は調子がいいみたい。私とお話してくれる時は、いつもそうだから。
楽しみも出来たからかな。お風呂に行く足は、自然とさっきよりも速くなった。
「あれ? 妹様?」
「? 美鈴? 門番はいいの?」
脱衣所に行くと何故か美鈴がいた。すっぽんぽんのナイスバディ。赤くて綺麗な髪は、ゴムを使って頭の上で丸めてある。どう見てもこれからお風呂に入る格好。今日は非番なのかな。
「ちょうどお風呂に来ていたんですよ。一日中外にいると汚れちゃいますからね」
ふーん。お風呂休憩か。
「妹様は……寝起きのお風呂ですか」
優雅ですね、と屈託なく笑う美鈴。嫌味っぽさが全く感じられない美鈴の言葉は、何を言われても嬉しく感じてしまうから不思議だ。
「汗かいちゃったからね。お風呂に入ってから着替えようと思って」
「妹様もお嬢様ですからね。身嗜みに気を使うのは素敵ですよ」
褒められちゃった。美鈴は話上手の褒め上手だと思う。紅魔館では、お姉様の次に一緒に話す相手かもしれない。
私もお風呂に入る為に寝巻を脱ぐ。美鈴の隣の脱衣籠に服を入れて裸になった。
美鈴を見上げた。おおきい。見下ろした。ちいさい。
「…………えいっ」
「いたっ!?」
お姉様と一緒だから、いいもん。
すりガラスの扉を開ける。小気味いい音が浴場に響いた。
浴場の窓には外から雨戸がしてある。紅魔館はだいたいそうだけど、窓があっても昼間はその光が漏れないように閉ざしてある。お姉様の部屋は何故か、たまに窓のカーテンが全開になっているけど。昼間なのに。
ここにも小さな照明が幾つか付いていた。天井にもあるけど、壁にもある。美鈴が電気を付けたから、真っ暗だった浴場は眩しい程明るくなった。思わず目を細めるけど、少ししたらそれも慣れた。
私は浴槽の近くの洗い場を陣取る。美鈴の方を見ると、美鈴も私の隣に座った。楽しそうな笑顔。
「美鈴、身体洗いっこしよ」
「はい。では、私から先に洗いますね」
スポンジを濡らして答える美鈴に、私は首を振った。
「ううん。私が先に、美鈴の身体を洗うの」
「え、いいんですか?」
「楽しい事は先にした方が、もっと楽しいのよ」
私がそう言うと、美鈴はまた笑った。
お姉様からは、私はよく笑う子だって言われた事があるけど、私は美鈴の方がよく笑っていると思う。だからかな、美鈴と一緒だと楽しい気持ちになってくるのだ。
「ほら、美鈴。背中向けて」
「それじゃ、お願いしますね」
手の中でスポンジを濡らして、泡立てる。何だかいい匂い。何の匂いか分からないけど、この香りは好き。
美鈴の背中は大きい。それに、がっしりしてる。引きしまっている、って言うんだっけ。私やお姉様みたいに羽は無い分、凹凸に合わせて流れるように擦るだけだからとても楽だ。
羽が無いって、どんな感じなんだろう?
美鈴の背中の、私でいう羽の生えている所を軽く引っ掻いてみる。
「んっ……どうしたんです?」
泡だらけの背中を震わせて、美鈴が艶っぽい悲鳴を上げた。私は気にせずかりかりと引っ掻く。
「んっ、んっ……! い、妹様……?」
「この辺りは、私とお姉様の羽が生えているの。羽が無いって、どんな感じなのかなぁ、って思って」
痛い? と首を傾げて美鈴の表情を窺った。美鈴は顔を赤らめて、首を横に振る。
「どんな感じ?」
「えと、くすぐったい……です」
「ふーん」
お姉様は羽を洗ってあげると、気持ちいいって言っていた。私もそうだから、やっぱり羽があると無いとじゃ違うのかも。美鈴はくすぐったいらしい。羽が無いって、損だなぁ。
引っ掻くのは止めて、また背中を全体的に洗っていく。それと同時に美鈴がほっとしたような気配を出した気がするけど、気のせいかも?
美鈴が振り返らずに、声だけで私に尋ねてくる。
「妹様は、レミリアお嬢様とも一緒にお風呂に入るんですか?」
「うん。たまにだけどね。お姉様から誘ってくれるの」
私の部屋まで来て、今日は一緒にお風呂に入るわよ、そう言ってくれるお姉様の顔を思い出す。優しい、温かい笑顔。
「私から見ても、妹様達は仲がよろしいです。しかしレミリアお嬢様は妹様だけでなく、様々な人や妖怪と親睦を深めておられます」
「うん」
それはそうだ。お姉様はあれだけ素敵な人なんだから、今よりもっと友達が出来るに違いない。怒るとおっかないけど、普段は優しくて格好いい、私の大好きなお姉様。お姉様の悪口言うのなんて、吸血鬼を恐れている人間くらいじゃないかな。
「でも妹様。貴方は紅魔館から出られないとはいえ……人付き合いが、極端に少ないです」
「? 私には皆がいるから、平気だよ?」
私の言葉に、どこか納得した風な顔をする美鈴。どうしたのだろうか。
「そろそろ、お湯で流すよ?」
「はい。お願いします」
途端にいつもの笑顔になる美鈴。何だろう、さっきの美鈴は、何かいつもと違ったような……?
お湯が泡を流していく。それに合わせて美鈴の綺麗な肌が現れていき、感嘆とした気持ちになった。大人の女性というのは、美鈴の人のような事をいうんじゃないだろうか。咲夜はまだちょっと、美鈴と比べて幼い感じがするし。
もちろん、雰囲気だけで言えばお姉様より大人な人なんていないけどね!
「さ、妹様。今度は私がお背中流しますよ」
「うん。あ、羽は自分でやるからね」
「そうなんですか? ちょっと残念ですね、少し触ってみたかったのですが」
苦笑するように言う美鈴。私はわざと悪戯っぽく、唇を歪めながら笑った。
「私の羽を触ってもいいのは、世界で一人、お姉様だけだもの」
お風呂から上がって、私は重大なミスに気付いた。着替えないじゃん。
脱衣所で途方に暮れる私を見て、美鈴が咲夜に着替えを持って来てくれるように頼みに行ってくれた。こんな事知られたら、お姉様に笑われちゃう。
着替えた美鈴が咲夜を呼びに行ってから暫く。咲夜は着替え一式を持って直ぐに現れてくれた。目の前にいきなり出てくるのはいつまで経っても慣れない。
「お持たせしました、妹様」
「ううん、ありがとう」
私は既にバスタオルで身体を拭いていたし、咲夜から受け取った服に着替えるだけ。下着を穿いたところで、しかし咲夜に声をかけられた。
「先に髪を乾かしましょう。お召し物が濡れてしまいます」
「あ、うん。お願い」
咲夜はどこから来たんだろう。きっと幻想郷の外から、しかも極最近なんだ。だって咲夜がそう言って取り出したのは、ドライヤーとかいう、凄く便利なものだから。
私だけ知らないのかな、と最初は思っていたけど、お姉様も知らなかったみたい。お姉様が言うには、幻想郷に来る時に『向こう』から持ってきたんじゃないかって。それを山の河童に、使い方を説明して構造を理解して貰い修理して貰ったりとかなんとかって。
パチュリーが言っていたのはなんだっけ……、使用目的と物自体があれば、その構造なんてものは直ぐに分かるもの、らしい。うん、何の事かさっぱり分からない。
ドライヤーというやつは、電気があれば熱風を出せるらしい。コードを壁のコンセントに繋いで、そこから電気を供給しモーターを動かすとか。私に分かるのはコンセントと、電気を供給するという事くらい。モーターは、お姉様曰く術式みたいなもの、らしいけど、それを聞いていたパチュリーが苦い顔をしていたからたぶん違う。
小さい鉄の塊のくせに、このドライヤーは凄くうるさい。耳元でぶおんぶおん言っているから尚更だ。髪が風に煽られてばたばたと忙しなく舞う。私は手持無沙汰でそれが終わるのを待っていた。
やがて、そのうるさい音が急速に小さくなっていき、その熱風も感じなくなる。
「終わりました、妹様」
「ありがとう、咲夜」
薄く微笑むような、そんな表情。咲夜の笑い方は、お姉様に似ている気がする。
「着替えたら、御髪も整えましょう」
私が着替えている間、咲夜はドライヤーを片付けている。私が脱いだ寝巻もいつの間にか回収してあり、きっと汗を吸ったそれは咲夜の手でもみくちゃにされて洗われるのだろう。
「咲夜、着替えたよ」
「ではこちらに御掛け下さい」
そう言って、鏡の前の椅子を引く咲夜。促されるままに座ると、優しく髪を撫でてくれた。
咲夜の手がゆっくりと動く。金色の髪を撫でる手はとても綺麗で、鏡に映るその光景はまるでガラス細工を扱うかのよう。ちょっとだけ恥ずかしい。
櫛を持つ手が動く。乱れた私の髪が、咲夜の操る櫛で丁寧に梳かれていった。木面が頭髪に流れる感触が心地良い。
お姉様にはよく手櫛をして貰うが、それの感覚に似ている。笑顔といい髪の手入れといい、咲夜は何故だかお姉様によく似ている。どうしてだろう。
鏡の中では私の頭を見下ろす咲夜が、優しい表情で手を動かしている。その目は真剣で、私の頭髪お手入れ専属メイドみたいに全力を尽くしてくれているのが分かる。そんなメイドいないけど。
ふと、鏡の咲夜と目が合った。手は止めずに、にこりと微笑む。私も笑い返した。咲夜は一旦櫛を通すのを止めて、私の頭を撫でる。それからまた再開した。
静かな空間だった。ときおり、浴場の方から水が落ちる音が聞こえてくるだけ。
私の髪はさらさらになった。ぐしゃぐしゃだった髪の毛は咲夜の手により真っ直ぐ流れていて、本当に綺麗。
真っ赤なリボンを取り出すと、咲夜はそれで私の髪を縛ってくれた。左側一本だけの、いつものサイドテール。
そうしてから、今度は髪の尻尾を手櫛する。髪の毛には神経が通ってるんだっけ? 気持ち良くて、なんだか眠たくなってきた。
視界がぼやけてきた。いつも優しい咲夜の笑顔が見えなくなる。それは寂しいな。頑張って頭を上げて起きると、鏡の咲夜は私から一歩離れていた。終わっちゃったみたい。少しだけ残念だな。
「終わった? 咲夜」
「終わりましたわ。可愛いですよ」
そう言って、ナイトキャップを手渡してくれる咲夜。それを受け取り、被る前に鏡で自分の姿を確認する。気のせいか、いつもよりも金髪が輝いているように感じた。両手に握ったナイトキャップの形が崩れている。それだけ嬉しくて興奮しちゃったのかな?
「ありがとう、咲夜。嬉しい」
くすりと笑って頷く咲夜。そんな咲夜がただの人間の少女である事が不思議で堪らない。私は吸血鬼なのに。
「それでは、また御夕食の時にでも」
そう言って去ろうとする咲夜を見て、慌てて呼び止める。私の部屋のシーツも換えて貰わないと。
「あ、待って咲夜。私の部屋のシーツなんだけど」
「既に換えてありますわ」
振り返り、微笑む咲夜は一礼してからその姿を消した。シーツの事もそうだけど、咲夜の能力といい、この館では咲夜が一番人間離れしているように思う。
咲夜はあんまり話をしてくれない。でも、お姉様に通じる優しさを感じるから好き。さっき髪を梳かれている時にも感じたけど、咲夜の雰囲気が私は好きなんだと思う。
私も脱衣所を後にした。今はまだお昼だから、お姉様は寝ているだろうし。パチュリーの所に行って、約束通りお話をしようっと。
「パチュリー。お話しよっ」
「おかえり。結構時間かかったのね」
私が図書館に着くと、何冊かは読み終わったのだろう、重ねられていた本の数が半分くらいに減っていた。
ぱたぱたとスリッパの音を立てながら私が駆け寄ると、読んでいた本を閉じる。
パチュリーの対面の椅子を目で示されて、私は遠慮なくそこに座った。
「こあ。フランドールにも紅茶を出して上げて」
パチュリーがあさっての方を見て声をかけた。その先のずっと奥の方から、「はーい」という、大きな返事が返って来る。パチュリーは、隣にいる相手に声をかけるくらいの、離れていたら絶対に聞こえないような小さな声だったのに、どうやってこあはそれを聞いたのだろう。
こあ、というのはこの図書館に棲みついている小悪魔らしい。私はあんまり見た事ないのだけど、図書館に棲みついているだけあって本が好きで、毎日頼まれもしないのに整理整頓、掃除している。小悪魔というよりは、妖精みたいな娘。
パチュリーとも仲が良くて、こあが着ている服もパチュリーがプレゼントしたみたい。
「すいません、お待たせしました」
「こんにちは、こあ」
「こんにちは、フランさん」
紅茶を淹れて来てくれたこあと挨拶を交わした。こあはパチュリーと一緒で、お姉様に仕えているわけじゃないから私の事を様付けで呼ばない。そっちの方がお友達みたいで、嬉しいな。
紅茶を置くと、そのまま本棚の森に戻っていくこあ。こあともお話したかったのに……また今度にしよう。
「それで、フランドール。私と何を話したいの?」
「んー……。何でもいいの?」
こあの淹れてくれた紅茶に口を付けてから、聞き返す。改めて言われると、そういえば何を話したかったんだっけ、と考えてしまう。
「何でもいいわよ。レミィの事でもいいし私の事でもいいし、勿論、フランドールの事でもいいわよ」
そう言って、特に急かすわけでもなく紅茶を飲むパチュリー。
うーん……あ、そういえば。
私は今日見た夢を思い出す。
「どうして私達は夢を見るの?」
「……夢?」
私は頷く。
目が覚めてから随分時間が経っていたが、まだ私は今日見た夢の内容が気になっていた。
いや、内容そのものに対して疑問は無いのだけど……昔、実際にあった事だから。それを何故、何十年も忘れていた今になって、まるで思い出すかのように見てしまったのか。
ひょっとしたら何か理由があるのかな。そう考えてしまう私は、私自身が思っている以上に夢の事を気にしているのかもしれない。
パチュリーは不意な言葉に首を傾げていたものの、ややあってその口を開いた。
「そうね、色々な説があって、一概にこう、とは言えないけど。有名なものでいえば、記憶の整理があるわ」
「記憶の整理?」
パチュリーは頷く。
「そ。簡単に言えば、その日あった出来事とかを、脳が要るものと要らないものに分けて覚えるの。寝ている間にね」
つまり、最近の事、になるのかな? なら、私が見た夢とは違うかも。
「最近の事じゃなくて、昔にあった事を思い出すような夢は?」
「そうね……他の説としては、無意識下で望んでいる事を夢に見る、だから。ひょっとしたら、貴方にとって必要な事を、思い出して夢に見たのかもしれない」
「私にとって、必要な事?」
頷くパチュリー。
私にとって必要な事って、なんだろう。またあの夢を見れば、分かるのかな。
「必要な事、じゃ分かりにくいかしら。貴方にとって大事な事、やらなければならないと、そう貴方自身が思っている事。それを暗示している、と受け取ってもいいのかもしれない」
まぁ、あくまで推測で、本当かどうか怪しいけどね。そう言ってパチュリーは紅茶を飲む。
パチュリーは私の疑問に答えてくれるけど、あんまり正確な答えを教えてくれる事は無かった。それでもたまに、内容によるのかもしれないけど、ちゃんと答えてくれる事もある。
今回のは、前者かな。
「夢というものは毎日必ず見てる。ただ睡眠にも種類があって、見た夢を起きた時に覚えているかどうかはその睡眠の種類で分けられる。レム睡眠とノンレム睡眠というのがあってね……」
「うんうん」
パチュリーの話は面白い。だけど、大抵が何を言っているのかよく分からないのは、私に教養が足りてないせいなのかな?
次にこあが様子を見に来てくれるまで、パチュリーの夢講座はずっと続いていた。
*
私は外に出た。今日は珍しく気分が良い。起き抜けにも関わらず頭が冴えているのは、何も夢を見なかったからだろう。いつもは昔の夢ばかり見ている気がする。
宵の闇は静かだ。月の光を浴びて輝く庭園が美しい。美鈴はちゃんと手入れをしているようだ。
屋根に腰掛けて見下ろす紅魔館は、全体的に見て紅い。私の意志で染め上げたとはいえ、客観的に見るとこの館はどう映るのだろうか。紅という名が持つ意味は、土地と種族と価値観で違ってくる。わざわざ紅にこだわる必要も無かったか、と、そんな考えが生まれたのは紅霧異変も終わり今の幻想郷に慣れた頃。今更か、と直ぐに放棄した。
狭く退屈な幻想郷。しかし、平和だ。作り上げた平和が実現する。「幻想郷」とはよく言ったものだと思う。
私は口元に微笑を作りながら、翼を広げた。
空高く舞う。月は遠い。眼下に望む自分の館は真っ赤であった。湖面に反射する月光がきらきらと眩しい。こんな景色を、ただ一人の妹と見たいと思うのは強欲なのだろうか。
門前には人影がある。彼女の仕事は紅魔館の門番兼、花の世話係兼留守番ところにより私の暇潰し。うん、実に有能な部下だ。
私は彼女の前に降り立つ。特に驚いた様子も見せないのは、その能力によるところも大きいだろうが、それ以上に真面目に門番をやっている証拠か。もっと力を抜いてもいいのだけれど。
「おはよう、美鈴」
「おはようございます、お嬢様。今日はご機嫌なようで?」
にこやかに尋ねてくる美鈴。ふむ、顔に出ていたかな?
「よく分かったわね。その通りよ」
「相変わらず、顔に出ますねー」
からからと笑う彼女は、主従という概念をしっかりと理解しているのか、たまに心配になる。が、私自身そんな彼女の態度が嫌いじゃないのだから、考えるだけ無駄と言うものなのだろう。
「そうかしら?」
「少なくても、私からすれば。この館では断トツですねっ」
そんな事を力強く言われても。
苦笑に溜息を混ぜて頷いた私は、美鈴の隣まで歩いてから地べたに座り込む。
「服が汚れちゃいますよ?」
「こんなにいい夜なのに、そんな無粋な事聞くの?」
言われて、美鈴はなるほど、と頷く。そんな言葉で納得するあたり、美鈴が美鈴たる所以を感じる。
私は自分の隣、美鈴の足元を掌でぽんぽんと叩いた。座れというジェスチャーである。
果たして、美鈴は大人しくその指示に従った。
「ねぇ美鈴。今日、フランとは会った?」
私の関心事など、それ以上でもなくそれ以下でもない。美鈴も心得たもので、余計な事は一切言わないでそれに応えてくれる。
「はい。変わらず元気なようでした」
「そう」
良かった。口には出さないが、それが私の全て。フランが元気で楽しくやっているのなら、それ以上は望まない。寧ろ、最上を望んだ結果とも言える。
美鈴の答えに満足気にする私をよそに、しかし彼女はその表情を珍しく真剣なものと変えて口を開いた。
「ですが、心配です」
「……」
私は何も答えなかった。フランに関しての心配事などいくらでもある。今に始まった事ではないのだから、わざわざそんな風に勿体ぶった言い方が寧ろ気に喰わない。
無言で彼女の顔を見遣る。それを以って言葉の続きを促した。
「今日は妹様と、お風呂に入りました」
…………。
お風呂ってなんだったかしら。裸になって身を清める、だったかしら? ん? それでこいつは今何て言った? お風呂に入った、うん、それはいい。門番とは紅魔館の顔、時間を見付けて身嗜みを整えるのも当然の務め、それを責めるつもりなんて無い。しかし、誰と入ったって? え、妹様? そんな名前の奴なんてこの館にいない、いるのは私の可愛い妹だけ。こいつはフランの事を何と呼んでいたっけ。妹様、妹様? そう呼んでなかったか? つまりどういう事、こいつはこの私が寝ているのをいいことに人の大事な妹の裸をお風呂という大義名分の元に誰からも責められずにじろじろといやらしい視線で見詰めた挙げ句に私のフランと背中の流しっことか私だけのフランの翼に手を触れたのかフラン綺麗な肌してるわねなんて言って籠絡しようとしたのかあわよくばその先まで進もうとかなんて考え
「え、殺すぞ? ん?」
「待っ、えっ、違っ……!?」
全身から殺気を放って今にも飛びかからん勢いで脅しておく。とはいえ、美鈴がそんな事をする筈がないのは他でも無い私がよく知っていた。冗談に決まっているじゃないか、そんなに大袈裟に驚かなくても。
…………冗談だよ、うん。
「いやその、私がお風呂に入ろうとしたら突然妹様が寝巻で脱衣所に入って来てですね!?」
「あー、分かった分かった。それで?」
殺気を消して、適当に笑ってやる。それでようやく安心したのか、彼女は大きく安堵の息を吐いて話し始めた。
「はい。妹様に、お嬢様は交友関係が広い、といった事を伝えたんです。その上で、妹様は極端に知り合いが少ない、と」
「ふぅん。それで?」
「妹様はそれに対して、『平気』、と。そう仰ったんです……」
声のトーンを落として、呟くように言う美鈴。
彼女なりに、フランの事を心配してくれている。心配ですと言ったその言葉よりも、その態度が何よりも雄弁に物語っていた。
(感謝しても、しきれないな)
心の中だけで頭を下げた。
「平気とは、多くの場合、強がる時に用いられる言葉です」
言われて、そう答えたというフランの表情を思い浮かべてみた。何も気にする事無く、ただ事実であることを事実のままに答えたのだろう。
「それは周囲に心配をかけまいとする、思いやりの心です」
知っている。フランは誰よりも他者を想ってやれる娘だ。
「きっと無自覚なのでしょう、ご自身に友人と呼べるような存在がいない事を、当たり前の事として受け入れている。自分には紅魔館の皆がいるから、それで十分だと」
私は黙って彼女の言葉を聞いていた。
「本当はどう思っているのかなんて、私には分かりません。きっとこう思っているんじゃないか、なんておこがましい事は私には言えません。だから私は、せめて知って貰いたいのです。妹様にも、友人というものの、大切さを。尊さを。かけがえのない存在は、家族だけじゃないんだと」
一息にまくし立てた彼女の瞳は、私を捉えていた。そこに責める色は無い。だから、私には彼女が何を言わんとしているのか理解した。
先回りして、答える。
「吸血鬼条約の時の事、忘れたわけじゃないでしょう。私達は負けたわ」
「わざと手を抜いて、適当に華を持たせる事を負けたとは言いません」
今日はやけにつっぱってくるわね……それも、フランの為なのかしら。
「どっちみち、既に契約している」
「純粋に契約したのは、食糧の事だけでしょう。八雲紫と交わした、妹様を外に出さないというのは、ただの約束です」
ふん、よく覚えてるわね。
「もう一度言うわよ、美鈴。吸血鬼条約の時の事。忘れたわけじゃないでしょう?」
殺し合いの夜。血の雨で月を染めた夜。私の隣に在ったのは、拳を握ったフラン。
「……」
ようやく黙る美鈴。悪いわね、貴方を責めているわけじゃないのよ。
「フランの能力は幻想郷の常識を打ち壊した。それを確認してから、私達は負けたのよ」
そうでなければ、意味が無かったのだ。
ある程度の優位性を維持しなければ、我を通せなくなる。それではフランの自由が遠のく。
「フランの能力に勝る力など無い。幻想郷に『絶対』が出来た瞬間。そして八雲紫は、手に余る力を封じる心得を知っていた」
宵闇のルーミアも、噂に聞けばそうらしい。あの御札を付けさせたのは、八雲紫だという話しを聞いた事がある。
「紅魔館の地下に幽閉する事。絶対に館の外に出してはならない事。それが吸血鬼条約の闘いで勝った、八雲紫の『譲歩』。それを拒めばどうなっていたか。答えてみなさい」
「……」
「美鈴」
「っ……妹様は、殺されていました……」
ありとあらゆる物を壊す能力は、博麗大結界にも及ぶのではないか。八雲紫の操る、スキマすらもその対象になるのではないか。ルーミアのように封印を施したとしても、容易く打ち破ってしまうのではないか。試した事がないから分からない不確定要素は、どうなるか分からないというだけで恐怖の象徴だ。
恐怖はやがて忌避され、危険視され。辿り着く先は拒絶。自分達の安心を得る為だけに命を狙われる生活が始まる。
それでは幻想郷に来る前と変わらない。
しかし八雲紫はあの時、既に看破していたのだろう。私と美鈴、パチュリーがフランと共にある事実が、フランが自身の能力を制御下に置いていて、「安全」であるという事実に。
「そう。フランは今も監視下にあるわ。他ならぬ私達という、家族を使った八雲紫の監視下に、ね」
美鈴を窺う。やはり、納得などしていない表情だった。
……仕方ない。
「――今はその状況に甘んじている」
「……、……お嬢様、今、何と……?」
信じられない言葉を聞いた。そんな様子の美鈴に、私は知らず笑っていた。
聞いてはいけない事を聞いてしまった、とか。それは私のただの妄想で、現実は最早どうにも出来ない、とか。或いはもしかしたら本当に、そんな希望が残されているのではないか、とか。そんな不安が見え隠れする美鈴の声音からすれば、きっと今の私の言葉はさながらパンドラの箱なのだろう。
「なぁ美鈴。この幻想郷に来てから、何か気付いた事はないか?」
「気付いた事?」
「そうだ。幻想郷に来る前までの私達と、幻想郷に来て、もう何十年と過ごした私達。決定的な変化が、そこにはある」
気付けば私の口調は、パチュリーに会う以前のものに戻っていた。仕方ない、元々こういう喋り方だったのだから。
美鈴は考えているようだ。
何が変わったのだろう、と思案するのではなく。果たしてそれを口にしてもいいのだろうか、と。考えているようだ。
「許す。お前の思った通りの事を言ってみろ」
その言葉に、美鈴は意を決したように口を開いた。
「……失礼ですが……お嬢様も含め、私達が。弱体化した……?」
恐る恐る開いたその唇は震えていた。別に取って食おうってんじゃないんだ、もっと堂々としていればいい。
私は犬歯を剥きだして笑う。おかしくて堪らなかった。
「その通りだ。幻想郷という特殊な環境のせいで、私達は戦う事を忘れ、平和に浸かり、弾幕『ごっこ』だなんていう遊びにかまけて確実に弱体化していっている」
「その事と、妹様の自由と……どのような関係が」
「美鈴。紅霧異変は何故起きた?」
遠回りばかりで、はっきりとした答えを言わない私に、それでも美鈴は根気よく付き合う。それだけ私の考えを知りたいのか。
「あれは、紅魔館の存在を明るみにする……パチュリー様の結界で存在感を消していたここを、解除する目的だったと聞いています」
「その先だよ。何故あの時になって、紅魔館は幻想郷の輪の中に混ざろうとしたのか」
「……分かりません」
項垂れる美鈴。一々素直な所が面白い。そしてもっと考えろ。
「私達が弱くなったからさ。私も、パチェも、フランもね。それこそ、『普通の魔法使い』に負けてしまう程に」
いまいちピンと来ないのか、彼女はこの期に及んでまだ首を傾げている。
興味の無い事には全く頭が働かないような子供かこいつは……。
「つまり。私達という存在が幻想郷の脅威ではなくなったからさ」
「…………っ、まさか」
ようやく理解し始めたらしい。呆れる思いで言葉を続ける。
「ただの魔法使いでもフランを打ち破れる。人間がフランに勝つとはどういう事か。私達に対して、抑止力を持つという事だ。悪さをする、そんな発想そのものをさせないくらいにあいつらと私達との間に力の差が生まれれば」
「妹様を、閉じ込める必要が無くなる……!?」
パッと、花が咲くような笑みを広げる美鈴に、苦笑が漏れた。事はそんなに単純じゃあないというのに。この話だって、弾幕ごっこという戯れが無ければ成立すらしないというのに。
私達が巫女と魔法使いに負けた話は、既に幻想郷全土に広まっている。それでもフランが自由に外を出歩けないのは、一重にその能力が持つ可能性を否定しきれていないから。
弾幕ごっこでは後れを取っても、吸血鬼条約の時のようにそれこそ何でもありなら……今なら蓬莱人がいるから「壁」は作れるけど、フランの能力の前では結界が絶対に安全とは言えないし、過去実証された博麗の巫女もまた然りだ。
しかし、これから先の何十年、何百年後の世界。もしも私達が、博麗の巫女にどう諍おうとも勝てない瞬間が来た時。
(我ながら、気の長い話だ)
その事は美鈴には言わない。当然その頃にはいなくなっているだろう、咲夜にも話さない。咲夜本人から聞かれれば答えるかもしれないが、あいつは例え気付いたとしても自分からそんな事を聞いたりはしないだろう。
浮かれた笑みを浮かべていた美鈴を眺めていたが、それも中断された。彼女がいきなり、弾かれたように立ちあがったからだ。忙しない……。
「どうかしたのか?」
「お嬢様……その話の通りであれば、お嬢様は……かつて幾千幾万の骸を築いた、伝説を紡ぐ吸血鬼であるお嬢様は……?」
震える声音で、またも信じられない、と言わんばかりの眼を寄越す美鈴。なんだ、そんな事か。
「人間を相手に、膝を着くのも構わないと言うのですか……?」
「必要なら、頭も垂れよう」
「――――っ」
「?」
何、何ださっきから?
立ち上がっていた美鈴は、再び腰を下ろす。しかしそれは片膝を着いて、肘を差し出す姿勢。表情の見えない彼女だったが、何故かその顔がどんな感情を映し出しているのか、手に取るように分かった。
「この魂が枯れ果てるまで、貴方様の手となり足となり。貴方様の願いのあらゆる障害を払う事を、永久に誓います」
今更。本当に今更。
そんな事、言われなくても分かっているというのに。
私は立ち上がり、美鈴の頭に手を乗せた。
「ああ。期待している」
無性に嬉しいと思うと同時に、感謝してもしきれないのは、何故なのだろうか。
庭園から戻った私の足は、地下室に向かっていた。
昔の事を思い出した事もあって、少しフランと話したくなったのだ。
その途中、図書館まで来るともう夜も遅いというのに、まだ灯りが点いているのが分かった。
少し寄り道してみると、案の定そこには読書に耽るパチュリーの姿があった。美鈴だけでなく、こちらも勤勉な事だ。
「パチェ」
「レミィ? ……ご機嫌ね」
「おや。分かるか?」
声をかけて、そのまま勝手に相席させて貰う。机に積み上がる本の一つを手に取って、ぱらぱらと眺めてみたが直ぐに興味が失せた。元に戻す。
「ええ。何よりもその口調で確信出来たわ……下品な言葉遣いは止めなさいって言ったじゃない」
不機嫌そうな様子で言う彼女の眉間には皺が刻まれている。どうやら本当に嫌らしい。
「そう言うなよ。やっぱり地の喋りは気持ちがいいんだ」
「私の前では止めて」
じろっ、と睨まれた。肩を竦める。
「はいはい、分かったわよ……これでいいんでしょう?」
口調を戻した私の様子にやっと険しい表情を引っ込めたかと思うと、そのまま読書に戻る親友。彼女がその状態でも会話出来る事は知っているが、これだけ気分がいい時は少し寂しい。
「ねぇ。少しは私と交友を育もうとは思わないの?」
「もう十分育んだでしょう。これ以上育ててどうしたいの」
あまりに素っ気無い返事に、今度は肩を項垂れさせた。
遠まわしに、読書の邪魔だと言われている気がする。
「フランとはよく喋るみたいなのにねぇ」
「フランドールは姉と違って良い子だからね。読書の邪魔もしないし」
ああ、やっぱりそれか。
言うだけ言って本に集中し始めた魔女を見て、呆れ半分の溜息を吐いた私は立ち上がった。さっさとフランの所に行こう。
「レミィ」
「うん?」
本棚の角を曲がりかけて、声をかけられる。
「今度、ゆっくりお茶でもしましょう」
「ふふ。そうね」
パチュリーに手を振ってから、地下室へ向かう。ええと、どういう順番で行くんだったかな。
地下室の階段を降りて行く。暗い道のりに灯りなどはなく、頼りになるのは自分の眼だけ。
吸血鬼たる私には灯りなど無くてもこのくらいの闇なら十分に見通せるし、そうでないなら灯りを持って降りればいい。そういう考えから、「それっぽく」見せる為にもこの狭い階段には灯りが設置されていない。
フランには、嫌な思いをさせている。この道を通る度に思うが、我ながらいい姉では無いと自嘲してしまうのだ。
真っ暗な地下の階段を降りた先には、見慣れた鋼鉄製の扉が鎮座していた。物理的にも魔術的にも、何の封印もされていない扉は無機質で、鍵すら付いてないそれはおよそ誰かの部屋とは呼べない代物だ。こんなところに何十年も妹を閉じ込めている。
「フラン。入るわよ?」
少しだけ強めにしたノックの後に返って来たのは、嬉しそうな声。
「お姉様!? 待ってて、今開けるから!」
それから少し待っていたが、扉が開く様子はない。待ってて、と言われたのだから、勝手にこちらから扉を開けるわけにはいかないし。
私はただ腕組みをして待ち。扉が開いたのはその数分後だった。
開いた扉の隙間から顔を覗かせたフランは、少し汚れていた。何をしていたのだろうか?
「おはよう、お姉様。どうぞ」
「おはよう、フラン。ふふ、ありがとう」
観音扉の片側を開いたまま支えるフランが、挨拶と共に室内へ導く。どこに出しても恥ずかしくない妹の礼儀は、姉として純粋に嬉しく、自然に笑みが零れた。
部屋の中は明るかった。しかし照明は付けていない筈だったと不思議に思っていると、フランが後ろ手に扉を閉めた後、にこにこと嬉しそうに笑いながら説明してくれた。
「明るいでしょ? お姉様が来てくれた時はちゃんとお顔を見たいから、明るくしたの。ほら、あそこ」
言って、部屋の隅を指差すフラン。そこはただの壁で何も無く、しかし確かにそこから灯りが放たれているようだ。
「あそこって、何も無いじゃない」
「ふふ。あれは魔法よ、お姉様。パチュリーの魔術書を読んで、勉強したの」
褒めて欲しそうな顔で私を見上げてくるフラン。その頭を撫でてやりながら、私はもう一度部屋の発光点になっている場所を見る。
世の中には便利な魔法があるようで、物に頼らずとも灯りを得る方法があるらしい。あいにくと私はフランと違って、魔法に疎い……というか、興味が湧かなかったので知識がないのだから、どうして何も無いところで勝手に壁が光るのか説明されても理解出来ないだろう。何にせよ、フランが何かに興味を持って、楽しんでくれているのは嬉しい事だ。
一通り頭を撫でてから、そういえば、と私はフランを見下ろす。
「フラン。顔に汚れが付いているわよ」
ポケットからハンカチを取り出し、その汚れを拭う。埃だろうか、人の妹を汚すとはいい度胸だ。
ぐしぐしと拭ってやってから、その愛らしい顔から汚れが取れた事を確認する。
「ん……ありがとう。えへへ、お部屋の掃除をしてたから」
「部屋の掃除なんてメイドに任せればいいじゃない」
見られたくない物でもあったのだろうか。
「自分の部屋だし。それに、掃除したのはさっき言っていた魔法の為なのよ。灯りを付けるのだから、そこはきれいにしないといけないな、って思って」
「なるほどね」
実に聡明な娘だ。自分の部屋は自分で掃除するという発想からして卓越している。姉の私は部下を持つようになってからそんな考えは捨ててしまったというのに。明日は私も、自分の部屋は自分で掃除しよう。
そんな事を考えながら頭を撫でていると、おもむろにフランが離れ、私の髪を見上げて来た。
「お姉様、髪、少し乱れてる」
「ん? あー……さっき少し、外に出て美鈴と話していたからね。風に煽られちゃったかしら」
ふーん、とフラン。背伸びして、正面から私の髪を撫でた。乱れを直してくれているのだろう。
「うん。きれいになったよ、お姉様」
「ふふ。ありがとう。嬉しいわ」
フランを置いて、私だけ外に出た事については全く気にしていない様子だ。
パチュリーの言う通り、良い子なのだが、もっと我儘になってもいいと私は思う。無欲を悪とは言わないが、欲とは得てして人を成長させる原動力になるものだ。
(昔は雨の日でも外に出たがっていたのに……)
何がフランをそこまで変えてしまったのだろうか。もしもこの先、館の外から出たがるような事も無くなって、ずっと館の地下室にいる事を望むようになったら……私のしてきた事は、間違いだったという事になるのだろうか。
暗澹たる想いが顔を覗く。
「……お姉様?」
その様子を感じ取ったのか、どこか不安そうにしてこちらを見上げてくるフランと眼が合った。
いけない、今はフランと二人っきりなのだから。暗い考えをするならこの後にしなければならない。折角の姉妹水入らず、もっと楽しんで貰いたい。
「何でもないわ。フランに髪を直して貰って、嬉しくって」
誤魔化すのは気が引けるが、フランが笑ってくれるならそれも仕方ない。
一方のフランは私の言葉を聞いて何を思ったのか、少し照れたようで首を傾げている。その小さくて可愛らしい口が開いた。
「明日、お姉様の髪……私が梳いてもいい?」
「うん? いいわよ」
頬を赤く染めてそんな事を言うフラン。
何だそんな事、くらいの空気で私は答えたが、実際は嬉しくて堪らない。まさかフランに髪を梳いて貰う日が来ようとは、あのパチュリー・ノーレッジですら予測出来なかっただろう。
にやにやと頬が緩んでしまうのを必死に堪える。顔に出ていなければいいのだけれど。
「楽しみにしてるわね」
「うん。楽しみにしててね」
恥じらいながらも満面の笑みで言うフランを見て、必然と私は期待に胸を膨らませたのだ。
*
パチュリー曰く、夢というものはそれを見ながらにして、「これは夢なのだ」と認識出来るものらしい。
らしい、とは言ったけど……私は今現在、これが夢なのだという事を間違いようも無く認識出来ていた。だからこの場合の「らしい」の使い方はおかしいのかな。
付け加えれば、その状態で見る夢というのは、自分の望むがままに、自由自在に展開を操れるものらしい。
けど、私にはそれが出来ないのもまた分かっていた。よってこの場合は「らしい」の表現は間違っていない。
事実、拘束された身体はまるで動いてくれないのだ。あの時のように、冷たい質感を伝える銀の鎖は私を縛り、壁に縫い付けられている。
昨日と全く同じ夢。ここ何十年と思い出す事さえなかった、遠い遠い、昔の記憶。
この時代にはまだ、美鈴もパチュリーも咲夜もいない。正真正銘、私とお姉様、二人だけの時代。
懐かしさが込み上げてくるけど、それ以上にこれから起こる出来事を思い出して鬱々となってしまう。これから私は拷問を受け、そして、助けに来たお姉様に対しての人質として使われ。お姉様が目の前でいたぶられるのをこの目に焼き付けなければならないのだ。
どうしてこんな事を夢に見るのだろう?
パチュリーの夢講座を鵜呑みにするなら、これは私にとって必要な記憶で。私にとっての必要な、大切な何かを暗示しているものらしいけど。
(大切なものなんて、たった一つしかないのに)
それは分かり切っている答えなのだ。今更頭を抱えて悩むような事でもない。
それとも、無意識に何か……私が、何かを求めているのだろうか。
とてもそうは思え無くて、私は自分の夢の中で意味の無い自問自答を続けていた。この夢を見る意味、そんなあるかどうかも分からないものに思考を働かせるなんて馬鹿らしいとは思う。だけど、そうしている間は私を捕まえたあいつらも、私を助けに来たお姉様も来ないような気がして。
夢だって分かっているから、こんなに平静でいられるけど。もしも昨夜のようにあの光景が眼前に甦ったら。
考えるだけでも怖い、恐ろしい。あんな体験は二度としたくないというのに。
そんな想像をしてしまったからだろうか。私一人だけだった真っ暗な部屋に、あの女が姿を現した。
よく見渡せば、この部屋には扉が無い。夢だから?
いや、そんな事は問題ではないのだ。あの女が紫色の唇を可笑しそうに歪めて、私の耳元で何か囁いている。気色悪い。
縛られた身体を揺らして、私はあの女が視界に映らないようにする。するとあの女は、懐から銀の短剣を取り出した。真っ暗な部屋でも鮮明に輝きを映すそれが、私の視界に入るようにちらちらと翳された。そろそろ来る。
(――――)
遠い昔に味わった痛覚は、記憶をそのままに私に鋭い痛みを走らせた。夢だと分かっているのに、こんなものはまやかしに過ぎないと分かっているのに、身体は恐怖で縮こまる。
私への拷問に対して、ではない。
もうすぐやってくる、お姉様が痛めつけられる絶対的な未来に対して、だ。
あの女は血に濡れた短剣を愉しそうにふりふりと弄んでいる。相変わらず何を言っているのか聞き取れないが、その汚い唇は忙しなく動くのを止めなかった。醜い顔だ、吸血鬼の面汚しめ。
昔は、そんな風に思わなかったのに。他人を罵倒する権利なんて、私には無いと思っていたのに。私の能力のせいでいくら嫌われても、蔑まれても、傷付けられても。ずっと笑顔で笑っていさえすれば、きっといつか、皆分かってくれると、そう信じていたのに。
私はいつから、他者を信じるのを止めたんだろう。理解して貰う事を諦めたんだろう?
考えている間にも、私の身体はあの女から与えられる痛覚で揺れていた。ゆらゆらと、時に激しく。時に押さえつけられて。その度に銀の鎖ががちゃがちゃとなる。リアルな夢。
気が付くと、今度はあの女だけではなく、狭い部屋に何人もの人間達がいた。にやにやとした下卑た笑みを浮かべている。ゲスの笑みだ、吐き気がする。
その中には私を殴り付ける人間もいた。痛いは痛いが、短剣に比べればそれ程でもない。当時はどうだったかな……どうしてこんな事をされなければならないのか、どうしてこいつらがこんな事をするのか理解出来なくて、みっともなくぼろぼろと泣いていた気がする。
今にして思えば。この後お姉様がこいつらになぶられるくらいなら。皆、殺してしまえば良かったのに。
一瞬、私の視界が赤で染まる。いや、赤じゃない。鮮血? 私の血だ。私の赤黒い血が視界を覆ったのだ。なら、今度はお姉様が私を助けに来てくれる番。
そう意識した途端、夢だというのに。全身が竦んだ。あんな恐ろしい光景は、もう二度と。
「っフラン!」
これは夢、これは夢。ただの夢、現実に起こっている事じゃない。
そう言い聞かせながら、私は壁を壊して現れたお姉様へと視線を向ける。
ああ、だめ。これ以上は……。
お姉様が私の姿を捉え、驚愕と憤怒と絶望をいっしょくたにしたような表情を浮かべて、あの女に何かをまくしたてている。さっきは私を呼ぶ声が確かに聞こえたのに、もうその声は私の耳に届かない。
だめだよお姉様、早くここから逃げて。私を見捨てて。
私の声は出ない。
お姉様はあの女が吐き出す汚濁のような言葉を受けて、固まる。そして私を見て、直ぐに眼を閉じ、身体を弛緩するのだ。
笑う人間達。笑うあの女。醜悪な下賤な輩は、そうして私から離れ、お姉様へと近付く。
私は言葉にならない悲鳴を上げる。世界が真っ白に塗り潰されていく。
これは夢なんでしょう? 夢なら、早く醒めて……。
目が覚めると、そこはベッドの上だった。
身体はじっとりと汗をかいている。肌に張り付いた下着が気持ち悪い。
夢を夢として、認識していたからだろうか。昨日よりもそれは鮮明に脳裏にこびり付いていて、頭から離れそうにない。
私の心臓は早鐘のように鳴っていた。
ゆっくりと身を起こせば、その手が震えているのに気付く。
(……お姉様)
たった一人の肉親にして、私の最愛の人。お姉様は今、無事だろうか。
夢から覚めた今が現実であると認識出来ているのに、さっきまでの光景が脳裏に絡み付いて離れない。そのせいか覚醒した今この瞬間でも、お姉様が私の代わりになぶられ続けているような不安に駆られてしまう。
夢は、恐ろしい。
べたつく肌着の感触も無視して起き上がる。まずは確かめに行こう。絶対にそんな事は無いって分かっているけど、それをこの目で見て確認したい。確認して、安心したい。
私はろくに着替えもせずに、胸の内から拭い切れない不安を抱えたまま、地下室から出た。
*
昼間から億劫な天気だった。
燦々と輝く太陽の何と恨めしいことか。一日中、いや一年中曇でいいといいうのに。
しかし、自室のテラスから望む深紅の庭園は、日光を浴びて薔薇たちが生き生きと咲き誇っているような気がする。そんな嬉しそうな姿を見せられたら、たまには晴れの日も悪くないと思ってしまうのだ。
花も生きている、と言ったのは誰だったか。愛らしい視線で、慈しむように言ったのはフランだったが、パチェは科学的見地から見てどうだのと言っていたような。
親友と愛妹の月とスッポンぶりを思い、自然と笑みが零れた。
「何急に笑い出してるのよ、気持ち悪いわね」
「ん? ああ、なんでもないよ」
対面に座る巫女から窘められた。適当に誤魔化しながら咲夜に淹れさせた紅茶を口にする。
基本的に私は、紅茶を飲む時はあまり喋らない。その香りと味わいを楽しむ一時が何よりも好きだからだ。いや、最も好きなのはフランと過ごす時間だけれど。だからフランと二人でお茶会が楽しめれば、それが私の最上の一時となるのに……。
「なのに、一緒にいるのが霊夢だなんて」
「は? 何、何の事か分からないけど、喧嘩売ってるの?」
「え? いや、違う違う。今のは……うん、ただの独り言よ。気にしないで」
一番出してはいけない部分を声に出していたらしい。私も気が緩んだものね。
霊夢と二人でのお茶会。私にとってはまだ目覚めのモーニングティの延長だけど、霊夢にとっては昼食後の小休止らしい。そう本人が言っていたのだが、さっきから茶菓子ばかり食べているような。
「ねぇ霊夢。お菓子ばかり食べてたら、お茶会の意味が無いと思うのだけれど」
「あいにくと、吸血鬼とするお茶会は初めてだからね。勝手が分からないのよ」
言いながら、ぱくぱくもぐもぐ。この女に慎みという言葉はないのだろうか。フランの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい衝動に駆られる。
……。
「咲夜」
「ここに」
名前を呟くだけで直ぐに現れる。いつ何時でも、呼べば間髪入れずに来てくれるのはいいんだけれど、こっちの女はこっちの女で、普段どこで何をしているのだろうか。
「ちょっとフランドールのところに行って来て、爪の垢を調達して来てくれないかしら」
目の前の食いしん坊を見つめながら言う。巫女は口と手が忙しいらしく、視線だけを鬱陶しげに返してきた。
「失礼ながらお嬢様、自分で招いておいてその扱いはあんまりかと」
「そう? ならいいわ」
元々冗談だし。ちょっとはやってみたかったけど……いや半分、いや八割かな?
今度は咲夜の顔を見て言った。
「やっぱり、行って来てくれないかしら」
「お嬢様」
にこり、と微笑まれた。
「冗談よ、冗談」
肩を竦ませる。冗談の通じない従者だ。
そんなやりとりが鼻に付くのか、霊夢の眼差しは険しい。それでも何も言ってこないのは、やはり食べる事に集中しているからだろう。
「霊夢、貴方って……いやしいのねぇ」
ごくり、と霊夢の喉が鳴る。そして懐から取り出した札をひらひらと、私に見せ付けるように振ってみせた。
「はいはい、淑女淑女」
無言の脅しに両手を挙げて降参のポーズ。それだけで満足してくれたのか、霊夢は再びお菓子を口に詰め込める作業に没頭していく。
私は何故、霊夢をお茶会に誘ってしまったのだろうか……。
いや、それは勿論、他ならぬ私自身が霊夢の事を気に入ってるからなのだが、こうも人格に偏りがあると、やや辟易としてしまう。
そうして、私は他にする事も無く、紅茶を飲みながらその見事な食いっぷりを眺めるだけになってしまう。のだが、これはこれで返って新鮮でいいかもしれない。うちの面々は揃いも揃って淑女然としていて、おしとやかに、静かに食事をするものだから。そうするように教育、指示したのは他でもない私なのだが。
うららかな午後だった。とてもこれから、何か異変が起こるような予感なんて感じさせない程に。
それは昨日に引き続き、私がいつもの悪夢を見なかったせいもあるのだろう。私の心は完全に油断していた。
いや、それ以前に、フランが屋敷内を歩く頻度も極端に少なかったせいもあるのかもしれない。あの子は何を言っても自分の部屋から出る回数を増やす事はしなかった。だからこうして、お互いに打ち合わせをする事も無く客人を招いたりするような浅はかな行為もしている。それがいけなかったのか。
とにかく、私は油断していたのだ。
「――お姉様……?」
まさか、こんなタイミングで。愛しいフランが弱々しく私に声を掛けてくるなんて。
声のした方、テラスの入り口を振り返れば、そこには起き抜けの姿のフランが確認できた。が、どうも様子が普通ではない。髪はぼさぼさだし、その寝巻きも汗を吸って重そうだ。
私は椅子を蹴って直ぐにでも駆け寄りたい衝動をぐっと抑える。今は、霊夢がいるのだ。「外」用の演技をしなければならない。
「…………フランドール。今は来客中よ。下がりなさい」
声が少し、震えた気がした。こんな状態のフランは最近では見た事がない。何か悪い夢でも見たのだろうか。それだけならまだいいのだが、もし熱でもあったら。
顔はフランに向けたまま、視線だけを霊夢の方へ向ける。彼女も突然の訪問者の様子に目を剥いているようだ。これではフランと私のやりとりが印象に残るかもしれない。
「咲夜、フランドールを下がらせなさい」
こっちを切り上げて、後で必ず私も行くから。そう目線で付け加えると、咲夜は小さく頷いてフランドールの肩を支える。力を入れて進行方向を促しているようだが、フランドールは私を心配そうに見つめたままだった。
寝ぼけているのだろうか? それより早くこの場から離れてくれないと、こんな状態のフランを見たままではいつ場を忘れて駆け寄ってしまうか分からない。
目で咲夜に合図し、多少強引でもいいから連れて行かせるように指示を出す。
「そんなに邪険に扱わなくても、少しは相手してあげたらいいじゃない」
仲が良くないのは聞いてるけど、いきすぎよね。そう呟く霊夢の声が遠い。そうだ、私とフランは「外」ではそう通っているのだ。「監視」の為ではなく、「不仲」でフランを閉じ込めている。そう認識させておかなければいけない。それもまた、八雲紫との約束。
「まぁ、私には関係ないからいいんだけどさ」
そう続けて、お菓子を胃袋に詰め込む作業を再開する霊夢。その無頓着さが今はありがたい。
フランの方も、相変わらず視線は私を心配げに捉えていたが、やがて咲夜に促されて部屋へと向きを返る。安堵の吐息を漏らしそうになって、私の耳はフランのか細い声を拾った。
「……良かった、お姉様が無事で」
その声はとても不安そうで、いまだ信じられないといった震えが混じっていたが、それでも無理矢理納得した様子で、確かにフランは言ったのだ。それはきっと何かの悪夢の続きなのだろう、ひょっとしたら昔の事かもしれない。夢から覚めたばかりの状態がいかに落ち着き無く、心を不安に陥れるかを私は知っている。それが大切な、たった一人の肉親の事なら尚更――。
「フラン!」
フランは、私が酷い目にあった時のことを夢に見たのかもしれない。目が覚めてもその嫌な感触は消える事無く、ずっと胸にとぐろを巻いたままぎしぎしと心を締め付けるのだ。
気が付いたら私は立ち上がり、フランの名を叫んでその身体を抱きしめていた。こんな私を心配して、普段来もしない私の部屋まで来てくれた、その優しい心が何よりも嬉しくて、今すぐフランの不安を払ってやりたかった。
「フラン、大丈夫よ。私は何ともないわよ。だから安心なさい、安心して、まずはお風呂に行ってきなさい。ゆっくりお湯に浸かれば、心も落ち着くから」
汗で湿った髪を撫でてやる。冷たい身体は吸血鬼特有だと分かっていても、心配してしまう程生気が無い。当たり前の事が当たり前に思えなくなると、後は不安しか出てこない。熱は無いようだ。抱きしめ返す力も弱くない。小さな唇が紡ぐ声も震えてはいない。いつもの可愛いフラン。
視界の先で虹色の翼が嬉しそうに揺らめくのを捉えてから、咲夜を仰ぐ。その表情は、霊夢の前では隠さなければならない事を見せてしまった焦りの顔ではなく。そんな事よりも妹を想う私を見て微笑んでいるような、そんなくすぐったい笑顔。
今私が背中を見せている博麗の巫女は、どんな顔をしているのだろうか。それが問題だ。
私はフランをそっと離すと、静かに彼女へと向き直る。巫女の顔は、驚きの一点だけだった。
「霊夢。悪いけど、貴方を帰すわけにはいかなくなったわ」
言いながら、一歩彼女に近付く。それを受けて、彼女は小さく頭を振った。
「……本当は仲良かったのね、あんたら。別に隠す事でもないでしょう。私も誰に言いふらすわけでもないし」
「それじゃあ駄目なのよ」
彼女の隣に立つ。霊夢は座ったままだが、目線は同じ高さだった。
「私とフランは仲が悪く、対立していなければならない。その理由は言えない、とにかく不仲でなければならない」
「言ってる意味が分からないわ」
「理解する必要も、ない」
言って、拳に力を込める。吸血鬼の腕力を持ってすれば、弾幕などというまどろっこしい真似をするまでもない。致命傷を与える必要は無い。利き手を奪うだけで戦力が大幅に殺がれる事は、昔の私が知っているから。
しかし相手も博麗の巫女。妖怪退治の専門家だ。反撃を食らわぬよう、油断無く真っ直ぐと相手の目を睨み付ける。
握力の強さに自分の掌が悲鳴を上げるのを感じながら、握った拳をゆっくりと待ち上げて。
「お嬢様」
私と霊夢、互いに睨み合う中に声が響いた。いつの間にか、振り上げた腕を掴む温かさがあった。咲夜。
私は努めて感情を込めずにメイドに声を掛けた。
「咲夜、状況をよくよく、正しく認識しなさい。ここで判断を間違えるなら、お前を殺す」
「判断を間違えているのは、お嬢様の方では無いですか?」
見上げる。私を心配する、焦燥した表情がそこにはあった。
「ここで霊夢を殺せば、博麗大結界が消滅します。それではお嬢様の悲願も叶わなくなり、挙句には幻想郷の他勢力からも狙われる事になります」
「直ぐには殺さんさ。監禁して時間を稼ぎ、次の博麗の巫女が決まり次第、こいつを殺す。それで終わりだ」
「違います!」
否定する、叫びが放たれる。腕を掴む手に力が込められた。痕が付くかもしれないな。
「それでは八雲紫に存在を消されて終わりです! あいつはそんなに甘くないっ、いかにお嬢様と妹様が強くても、博麗の巫女が監禁されたとあれば幻想郷の全てが動く! 紅魔館だけでそれらを凌ぐ事なんて、出来る筈がない!」
「その通りね」
嘆願とも言える咲夜の叫びの次は、霊夢が口を挟んできた。そちらを見やる。
「少しは冷静になったら? 殺気は凄いけど、何で私が構えもしないか分かる? 『そんな事出来ない』からよ。幻想郷に住む者なら誰だって知ってる常識、博麗の巫女の殺生。博麗大結界。それら無くしてここは成り立たない。ここは幻想郷。全てを受け入れる理想郷は、誰にとっても手離し難い最後の楽園。つまり、敵は幻想郷の全て。あんた達だけでこの幻想郷全てに勝てるとでも?」
「お嬢様、考え直して下さい! 真に妹様の事を想うのであれば、ここは引くべきです!」
二人の視線の間に立たされる。一応、咲夜も霊夢も私の事を心配している事は分かる。だが、肝心な所を間違えていた。
私は順々に、言い聞かせるように、二人に振り返った。
「八雲紫は、手を出さない」
確信の込められた言葉は、時としてそれが有り得ない事柄でも信憑性を持たせる。口を噤んだ二人を確認してから、咲夜の手を振り解く。握られていた腕は、やはり赤くなっていた。
咲夜はともかくとして、霊夢までもが私の言葉の続きを待つような目線で見ているのには内心首を傾けたが、小さな疑問は無視して続きを話す。
「咲夜、お前はまだいなかったからな。『私達』の事を知らないのも無理は無い」
くっきりと付いた痕を優しく撫でる。何の感慨も湧かなかった。
咲夜はといえば、『私達』の意味を掴み兼ねてか眉を顰めていた。
「先代の巫女を殺したのは『私達』だ。幻想郷に来て直ぐに博麗の巫女を殺した。代わりがいるのは知っていたからな」
それが、吸血鬼事変。吸血鬼条約のきっかけとなった、大昔の「戦争」。魔女の知識と「案内人」の話で博麗大結界の存在を予め知っていた私達は、幻想郷での目的を達成する為に博麗の巫女を殺害する事にした。
妖怪の賢者を狙わなかったのは能力が未知数であり、替えの効く存在では無かったから。博麗の巫女はただの人間で、その役割を継ぐ存在が血ではなく、八雲紫によって見定められているとも知っていたから。
「博麗大結界は失いかけたが、今はどうかといえば、お前も知ってる通り健在だろう? 博麗の巫女はタイミングが良ければ替えが利く。霊夢」
そこまで話して、彼女の顔を悪意を込めて見つめる。名前を呼ばれた巫女は、臆する事も無く私を見返した。
「お前は知っている。博麗大結界は、万が一に備え術者が死んでも暫くは結界としてそこに在り続ける事を。お前は聞いている筈だ。今の私の話が事実である事を、他ならぬ八雲紫から」
霊夢は何も語らない。咲夜は何も言えない。
「替えが利く存在は楽でいい。それが失われそうな時、命を懸けなくても諦めと少しの感傷だけで済む。なぁ霊夢。博麗の巫女よ。吸血鬼事変の時、幾つの命が我が愛しの妹によって葬られたか知っているか? 私は知らないが、きっと八雲紫は把握しているだろう。フランを相手にするという事が、自分一人の命を懸ける事ではなく。幻想郷の数多の命を懸ける事になると、あいつは理解している。よって、八雲紫は霊夢を助けに来ない」
説得力は恐らく、実感の湧かない二人には微塵も無いだろう。実際に八雲紫が霊夢を特別視しているのは咲夜も、他ならぬ私も知っている事だ。しかし、今必要な物は説得力じゃない、咲夜を抑える言葉だ。
「そして、霊夢。お前は理解しているんだろう? この世には、絶対に覗いてはならぬ、深遠の淵がある事を」
無言で応えるその少女の姿が、咲夜に私の話が信じるに足るものだと理解させる。背後でよろめく雰囲気がしたが、今はそんな事どうでもいい。
「それがさっきの光景だ。理解したか? 理解出来たのなら、この状況に巡り合ってしまった事を後悔して朽ちろ。そして次代の巫女が博麗を継ぐその瞬間まで、光一つ届かない闇の中でゆっくりと死んでいけ」
「待っ――」
拳は振り上げられた。まだ理解が追い付いていない咲夜の制止も遠く、何を考えているのか微動だにしない霊夢の動きも間に合わない。ただ、振り下ろすだけ。
今までありがとう、そしてさようなら、霊夢。
*
「駄目よ、お姉様」
お姉様に抱きしめられてから、悪夢は完全にその姿を潜めていた。
今の今までずっとこの状況を静観していて分かった事がある。
一つは、私はやっぱりお姉様が大好きだってこと。
一つは、私がお姉様にとんでもなく愛されているってこと。
そしてもう一つは、今日と昨日に見た夢の理由。
お姉様の悲願、っていうのは聞かされた事が無いけれど、それが私に関係するものだっていう事は魂で理解している。だって今までもそうだったから。うぬぼれでもなんでもなくて、ただの事実。
大昔、私の能力を狙った狂研究者がいた。私と友達だと思っていた女の子は、私を罠に誘う敵だった。私と友達になってくれた小さな村の子供たちは、その全てが吸血鬼を憎む相容れぬ存在だった。大きな街では目立つからと、小さな町村を訪れる度に魔女狩りと出くわした。
私が危うくなるごとに、お姉様は全てを投げ打って私を助けてくれた。信頼も、友情も犠牲にして、何よりも私の事を優先してくれた。
愛されているのだ、と。私は理解するまでもなく理解したけれど。
何かを求める度に裏切られ、何かを失う私自身はともかく。
望みもしない殺戮を繰り返し、手にした安息さえも私の為に手離してきた、お姉様は?
日常の傍らにずっと潜んでいた、このままでいいのか、という疑問。その疑問が、もやもやとした煙のように捉えられなかった、その原因。
それこそが、今のお姉様との関係に固執した、女々しい私の感情。誰よりもお姉様から愛されたいと想う、私の我侭な子供心。
子供は自立しなければならない。守られているのは居心地がいいけれど、いつまでも守られ続けているわけにはいかないから。
「駄目だよ、お姉様。そんな事したら」
「フラン……」
振り下ろしかけた拳は、止まっている。霊夢の右肩を狙うように、その直線上にある吸血鬼の剛力は、まるで時を止められたかのように静止していた。
「お姉様の悲願ってなあに? 私はそれを聞かされた事はないけど、もしそれが私の為に必要な行為なら、お姉様にそんな事して欲しくない」
逡巡するような、戸惑うような。そんな表情。ああ、お姉様のそんなお顔、見たくないのに。
「お姉様は私の為に、いつも自分を犠牲にしていたよね。せっかく出来た友達も、逃げ込んだ村の人たちから苦労して得た信頼も、私を助ける為ならいつも振り返らなかったよね。今度は霊夢を、どうするの?」
「フラン……!」
私の言葉を受けて、お姉様の顔が歪む。身体が震えているのが分かる。両手を力なく垂らして、私を見つめる事しか出来ない、可愛そうなお姉様。そんなお姉様に、誰がした?
「咲夜以外では唯一、対等な人間だって認めた霊夢を殺して、どうするの? 対等な人間を裏切って得た悲願に、お姉様は満足できるの?」
返事はない。お姉様は俯いてしまっている。いやだな、私、お姉様のこと大好きなのに。私がお姉様を傷付けてるんだ。
「ねぇ、お姉様。私はお姉様が傍にいてくれさえすれば、それでいいんだよ? ううん、傍にいてくれなくてもいい、お姉様が自分の人生の為に生きてくれるなら、例え二度と会えなくなったとしても、私は幸せ」
「妹様」
咲夜が私に声をかける。その視線の先には、黙って俯くお姉様の姿があった。私も、それ以上続く言葉を、紡げなくなる。
少しだけ、静かな時間が流れた。お昼の風は涼しくて気持ちがいい筈なのに、肌寒い。
「どうやら、私は見逃して貰えるみたいね」
そう言って霊夢が席を立つ。その視線の先にあるのはお姉様じゃなくて、私だった。
「悲願とやらも、あんたらの事情もよく知らないけどさ。『救って』くれたお礼に、このことは他言しない事を誓うわ。どうせ見てるだろうから、紫にも私から言っておく」
「うん。ありがとう、霊夢」
そして飛び立つと思っていた霊夢は、その前に私に耳打ちした。
「貴方、しっかりしてるのね。レミリアのこと、頼んだわよ」
顔を上げて見つめると、霊夢は優しい表情を浮かべていた。自分はもしかしたら、殺されていたかもしれないのに。
私はやっと理解した。楽園の素敵な巫女。それは博麗を継ぐ巫女の事じゃなくて、博麗霊夢、その人の事だったんだって。
咲夜と二人で、遠くなっていくその背中を見送る。お姉様は、背を向けたままだった。
「咲夜。ごめんなさい、お姉様と二人でお話がしたいの」
「分かりました」
一瞬、少しだけ心配するような目をしたけど、直ぐに咲夜は頷いてくれた。
「ですがその前に」
そう言った咲夜の手には、さっきまで私が着ていた寝巻きが綺麗に畳んであった。私はいつもの、赤い服。咲夜お得意の、タネも仕掛けも無い不思議な手品ショー。どうやら着替えさせられる前に、身体の汗も拭いてくれたみたい。お湯で湿らせたタオルの感触が全身に残っている。こんな所で着替えさせられたのはちょっと恥ずかしいけど。
「ありがとう、咲夜」
咲夜はにこりと優しく微笑むと、小さくお辞儀をして消えてしまった。机の上には、新しいカップが一つ。私の、なのかな?
お姉様はまだ俯いている。何を考えているのか分からないけど、それ故に私も何て声を掛けたらいいか分からない。
さっきまで二人がお茶をしていた机に歩み寄る。汚れ一つ無いティーポットを傾けた。赤くない、普通の紅茶が湯気を立ててカップに注がれる。わざわざこっちも新しく淹れ直して来てくれたみたい。
俯いたままのお姉様を見て、私は確信する。
私が見た夢は、お姉様をこのままにしてていいのか、という訴えに他ならない。
私は椅子を引いて、腰掛けた。
「お姉様。一緒に紅茶、飲みましょ?」
「……ええ。そうね」
ずっと黙っていたお姉様だが、疲れ切ったような、憔悴したような声で言うと、私の正面に座ってくれた。その様子を見ているだけで心苦しい。私の言葉が、お姉様をこんなにも傷付けてしまう。しかし、それでも言わなければならない。
お姉様にはお姉様の考えがあるように。私には私の考えがあるのだから。
「ねえお姉様。さっきの話なんだけど」
お姉様のカップに紅茶を注ぎながら口を開く。優しい瞳で私を見つめるお姉様。
二人のカップに注がれた紅茶はどちらも手付かずで、湯気だけが昇っては消えていく。波一つ立てない紅茶、かと思えばよく見つめてみれば少しだけゆらゆらと揺れていた。私はどんな顔をしているんだろう。
「悲願って、なあに?」
聞いておかなければいけないだろう。いや、別に聞かなくてもいい事なのかもしれない。ひょっとしたら、本題に入る前の緩衝材なのかもしれない。お姉様と違い、私はなんて弱くて、臆病者なんだろう。
「それは聞かなければいけないこと?」
相変わらず優しい眼差しのお姉様は、まるで私の心を読んだかのようにそう答えた。言いたくないから、というわけじゃないのかも。もっと、私にとって大事なこと。それを理解した上で、私の回り道が本当に必要なのか、と問うているみたいだ。
「フラン。言いたい事があるならはっきり言っていいのよ。私達は姉妹なんだから」
遠慮なんていらない。そう言うお姉様は、とても寂しそうで、儚げだった。私が何を言いたいのか、もしかして予期しているのだろうか。運命を操る能力は、決して未来を覗く能力なんかじゃない。私に何を切り出されるかなんて、お姉様には分からない筈なのに。
カップを手に取る。湯気はもう立っていない。揺れる紅茶の波は、静かだった。
「私ね。お姉様の事、大好き。とってもとっても大好き。この世で一番好き。お姉様以上の存在なんて知らないし、お姉様の為に生きてお姉様の為に死んでみたい。お姉様とずっと一緒にいたいし、お姉様にずっと傍にいて欲しい。お姉様が幻想郷を捨てるなら私も捨てるし、お姉様が紅魔館を捨てて個になるなら私もそれに着いて行きたい。お姉様が今まで私にしてくれた全ての事に感謝してるし、私もお姉様の為に何かしてあげたい。お姉様が誰を何を殺しても壊しても私はそれを受け入れるし、お姉様の為になるなら私もこの手を何色にでも染め上げたい。お姉様の喜びはきっと私の喜びで、お姉様の悲しみはきっと私の悲しみ。私はお姉様を愛してる。これだけは絶対。お姉様を、愛してるんだよ……だからね、もう私には構わないで欲しい」
一息に告げる。告げた、告げてしまったその事実が、苦しい。両手に持ったカップの温かさが急速に失われていく。
私とお姉様の関係。それは守り、守られる事。
「私を守ろうと、私を助けようとする度に、お姉様は傷付いてる。私を庇うだけお姉様は何かを失っていく。信頼だったり、友情だったり、さっきの霊夢の事もそう。私はお姉様に、私の為にそんな風になって欲しくない」
机にカップを置いた。掌にはまだ、紅茶の温かさが少しだけ残っている。
「お姉様が私の為に傷付くのを厭わないなら、私はそんなお姉様を否定する。私はお姉様に、幸せになって欲しいから」
だから。その続きを言おうとして上げた顔の先。お姉様の表情を見て、私は硬直した。
「私の幸せは、フラン。お前と共に在るという事実。ただそれだけなんだよ」
お姉様は、微笑んでいた。とても優しい表情で、慈しむように。とても嬉しそうに、まるで大事に育てていた花が咲き誇ったかのように、満足そうにしていた。
一体いつぶりに見るだろう、お姉様のそんなお顔は。二人で初めて狩りをした時? 私から初めての誕生日プレゼントを貰った時? 私が話せるようになって、初めてお姉様の名前を呼んだ時?
ううん、そのどれでもない。今のお姉様の表情は、私が見た中で、きっと一番最高の笑顔。
ぽかん、と。きっと阿呆のように口を開けていただろう私を見て、お姉様のそのお顔が苦笑した物に変わってしまう。もうちょっとだけ、見ていたかったな。
「お姉様……?」
「ふふ……最愛の妹に、そんな風に想われていたんだ。そりゃ可笑しくもなるさ。嬉しくて嬉しくて、笑ってしまうのも無理はない。なぁ、そう思わないか?」
「相変わらず、上機嫌になると下品になるのね」
お姉様が笑いながら声を掛けた先。お姉様の寝室から出てきたのは、パチュリーだった。
なんで? そんな疑問を抱いた私を取り残して、パチュリーはお姉様の傍に歩み寄る。
「その悪癖、何とかしなさいよ。親友止めるわよ」
「硬い事言うなよ。今日だけは……いや、今だけは。許してくれ」
無言の批難を送ると、パチュリーはそのまま空いている席に座ってしまう。
そんな、せっかくお姉様と二人きりになれたのに。お姉様に、話さなくちゃいけない事があったのに……。
余程気落ちしていたのだろう、肩を落とした私に、お姉様が苦笑を向けた。
「なあフラン。お前の言う事も、理解してるんだ。私だって同じだったからな」
同じだった? 私の今の気持ちを、お姉様も味わった事がある?
不思議がる私の前で、読書のついでと言わんばかりにパチュリーが小さく頷いている。というか、なんでパチュリーがこのタイミングでここに……咲夜?
「ちょうど、パチュリーに初めて会った時だったかな。私がノーレッジ家に宣戦布告をする前に、お前、捕まってただろう」
「……ん、そんな事も、あったかな……」
誤魔化すが、完全に覚えている。お姉様の役に立とうとして、パチュリーの屋敷に忍び込んだのだ。あっさり捕まって、逆に足を引っ張っちゃったけど。
顔が熱い。よりによってパチュリーがいる時にそんな話をされるなんて……お姉様のいじわる。
「それだけじゃない。私はパチュリーの事を仲間にしようと思っていたのに、お前ときたら何を勘違いしたのかせっかく出来た友達を脅してパチュリーを殺そうとしたんだ」
「っう、うるさいなぁ! そんな昔の事、もういいじゃない!」
顔から火が出る程恥ずかしい。穴があったら入りたい。ああ、人間の言葉遊びも捨てたものじゃないかも、こんなにも的確に気持ちを表現出来るなんて。
もちろんその細部をはっきりと覚えている私は、二人の顔を見れなくて紅茶を口に流し込む。パチュリーが言った通り、上機嫌なお姉様は普段とは違って、ちょっと下品だ。いつもは人の失敗を事細かに言わないのに。やんわりと、相手に思い出させるようにぼかして伝えて、くすくすと上品に笑うのに。今は牙を隠しもしないで面白がっている。さっきのしおらしい姿はどこにいったんだろ。
「あの時は本当に、肝が冷えたもんだ。我が妹ながら、大胆不敵というか、単純一途というか」
「誰かさんによく似てるわよ。そっくりだわ」
パチュリーの言葉を受けて、私とお姉様、二人揃ってしずしずと紅茶を飲む。なんとなく罰が悪い。
「……確かにそんな事もあったけど、私が言ってる意味と少し違うと思うんだけど」
気を取り直して、話を戻す。パチュリーがなんでいるのかもよく分からないけど、もう気にしない事にする。
お姉様は相変わらずの笑顔で答えてくれた。
「何も違わないさ。私とお前、想う所はきっと、一緒なんだろう」
一人で納得したように、また優しく、見守るような笑顔を私に向けている。それだけで全身がこそばゆくなるのだが、それも無視する。この感覚も嫌いじゃないのだけど、今はそれに浸っている時じゃない。
「でも、お姉様がそれで良くても、私は嫌なの。お姉様が私の為に色んなものを犠牲にすると、それだけで私はお姉様に申し訳なくなって……お姉様には、お姉様自身の幸せの為に、生きて欲しいのに……」
自然と声のトーンが落ちてしまう。私、我侭かな。
お姉様に愛して貰ってるって分かっているのに、それを否定するような事を言っている私は、我侭だ。でもこの気持ちも本当。お姉様には、お姉様の人生が、交友関係があるのだから。私の為に生きて、私の為にそれらを犠牲にするのは、止めて欲しい。
「分かった」
そう、つらつらと考えていた私の耳に、お姉様の言葉が届いた。
……え?
顔を上げる。
「ふふ、何て顔をしてるんだ。そんなにおかしいか、私がお前の願いを聞く事が」
私はどんな顔をしていたのだろうか。笑っているお姉様の様子からすると、相当可笑しかったみたいだけど。
「う、ううん。おかしくは、無いけど……ねぇ、分かったって、どういう事?」
「紅魔館の仲間だけじゃない。これからは、私が出会う全ての者との関係を良好に保つように努めよう」
それは、確かに私が望んだ事だけど。
私が言っているのは、そういう事じゃなくて。
「私の為じゃなくて、お姉様の、幸せの為に、生きて欲しいの」
確認するように、ゆっくりと、丁寧に喋った。
「ああ。さっきも言っただろう? 私の幸せは、フラン。お前と一緒にいる事だ」
「――っ」
「ん? どうした?」
嬉しい。改めて、噛み砕いて言われるとその意味が真っ直ぐ伝わってきて。私の顔を真っ赤に染めるのだ。
今度は私が俯いてしまう。まともにお姉様のお顔を見る事が出来ない。嬉しくて恥ずかしい……けど、さっきの恥ずかしさとは違う、心地よい気持ちよさに包まれる。
(うー……どうしよう、凄く嬉しいよぅ)
顔がにやつくのを止められない。こんなだらしない姿はお姉様に見せられない。というより、見せたくない。
パチュリーが静かに「プレイボーイ、いや、ガールか」なんて言っているけど、聞こえない聞こえない。
「……じゃあ」
ようよう、かろうじて声を絞り出す。顔は俯かせたままだ。ちょっと、今はお姉様のお顔を見れない。
「もう、さっきみたいな事があっても、物騒な事は考えない?」
「ああ、考えないよ」
「誰に対しても?」
「約束する」
「私とお姉様の、本当の関係を見られても?」
「黙っててくれるよう、頼む事にする」
「私の問題は、私が解決したいんだけど……」
「協力だけに留めるよう、善処しよう」
「私がピンチになったら?」
「それとこれとは話が別だ」
まぁ、そうだよね。顔を上げる。
「うん、分かった。約束だよ」
「ああ。フランに直接的な危機が及ばない限りは、私は私の交友関係を大切にしよう」
良かった。それなら、少なくても今までみたいな、私の為の犠牲も減るだろう。
つまり、お姉様の人生も変わるんだ。信頼の裏に警戒を、友情の影に裏切りを潜ませる生活は終わり。お姉様が、自分の為に生きてくれるんだもの。
そう意識するだけで、胸の高ぶりを抑える事が出来ない。勇気を出して言って良かった。もし本当に、お姉様が私と姉妹の縁を切ってしまったら。その覚悟も出来てはいたけど、やっぱり、想像するだけで恐ろしい。
いつの間にかお姉様は、パチュリーに何事か話しかけていた。その声は私にも届いている筈なのに、私には何を言っているのか聞き取れない。たぶん、舞い上がっているからなんだろうな。
不自然なまでに冷たくなった紅茶を口に運ぶ。湯気一つ立たない紅茶は、とてもとても美味しかった。
*
庭園を望んだ最愛の妹とのお茶会は、まさに至福の一時だった。親友もいたのだが、それ以上にフランの存在が眩し過ぎて妹とばかり話す結果になってしまったのは、少し申し訳なく思う。
あれから陽も沈み、暗くなった辺りは夜の活気に溢れている。妖怪の蠢きと妖精の騒がしさが、木々を吹き抜ける風に乗って伝わってきた。いつの間にかこんな時間になってしまっていた。本来なら今日は、フランに髪を梳いて貰う筈だったのに。無性にそれが残念で、自分も夜の森に混ざろうか、などと浅はかな遊び心まで湧いてきてしまう。
夕食は食べる気にならないから、と咲夜に伝えた所、可愛いフランが「私がお姉様の分も食べる」と言ってテラスを抜け出してから、幾ばくか。
親友の無言の批難が妙に痛い。
分かっている。私は姉として、最も愚かな行為を犯したのだ。稚拙で浅慮な、嘲笑されても誰にも文句は言えない程の過ち。
見栄でもプライドでも無い。苦し紛れの誤魔化しでも無い。私はそれが最善だと思ったからこそ、そうしたのだ。
だから。
「その為に、パチェをあらかじめ呼んでおいたのよ」
親友は何も答えない。私の視線は夜の湖と森林に向けられている為、その表情を窺い知る事も出来ない。
私は頬杖を付いたまま、ここではない遠くを見つめて言葉を続けた。
「たった一人の大切な。たった一人しかいない私の最愛の妹。フランに嘘を吐いた。貴方を呼んだのは、それを見届けさせる為。この事を知る唯一無二の親友といる事で、私は永遠に許されない罪を背負う。それでいい」
妹に嘘を吐いた姉など、償い切れない罪と背負い切れない罰で潰れてしまえばいいのだ。
魔女は応えない。彼女が何を考えているのか分からないし、知る必要も無い。逆も然りなのだから、これは私のただの独り言。今夜一夜限りの悪魔の懺悔。
私は永遠に許される事は無いだろう。パチェに、ではない。フランに、でもない。フランを大切に思ってくれている美鈴や咲夜にでもない。この私に、なのだ。
フランが放った言葉の一言一言が、たかが言霊でありながら何と重いのだろう。そこに込められた姉への想いを理解してしまう分、私には白木の杭の一撃よりも遥かに身体に響く。心臓を清められた聖水漬けにされるよりも、太陽の光をこの身に数日と浴びせ続けられるよりも、私にとってはそのどれよりも芯の奥から魂を揺さぶられてしまう。
私はこの世で最も恐ろしい事とは何かを知っている。
だからなのか、過剰なまでに愛妹のフランを想ってしまう。
今日の事でもそうだ。フランが私に想いを告げてくれた事は天に召されてもいいぐらいの心持ちだったし、フランにもう構わないでくれと言われた時は遂に地獄へとこの薄汚れた存在を叩き落す時が来たのだと覚悟を決めた。
しかし、それ以上に私の心を動かしたのは、フランが私に、自分の意見を言えた事だった。
姉妹の邂逅を果たした今でも思う、これで本当に良かったのだろうか、と。それはきっと、これからフランが私に指し示してくれるに違いない。もしもこの、愚かな姉の行き着く先が妹の恨み怨念の柱となったとしても。今日の事だけでそれら全てを受け入れてしまえそうだ。
「レミィ」
唐突に、親友が声を掛けてきた。私は首を傾げて、顔を彼女に向ける。
珍しく魔女は、私と目を合わせてきていた。いつもは会話をしながらも読書を続けているというのに。
パチェの視線は間違いなく私を射抜いている。心臓が、ざわついた。何を、言うつもり。
「貴方はいつまで『昨日』を見ているの?」
言った後も、魔女の瞳は私を捉えて離さない。その問いに対する解答を得なければ、この眼差しからは逃れられないだろう。
「いくら親友とはいえ」
そこには触れて欲しく、無かったな。
そう続く筈の言葉は、出てこなかった。
「フランドールは今日、進み始めたわ。レミィ、貴方という偉大なる姉の為に、今までの自分と向き合う決意をしたのよ」
私は答えない。いや、答えられない、と言うべきか。
それは私自身がずっと疑問に思っていた事。私はいつまで経っても過去から抜け出せないでいる。
遠い遠い、昔の記憶。なのに昨日のように思い出せる、思い出してしまう記憶。生まれてから幻想郷に辿り着くまで、血が絶えなかった日々。幻想郷に移住してからも続く、安息を探す日々。
霊夢は言っていた。ここは理想郷。最後の楽園。その通りだ。ありのままでいればいい。
しかし理想とは、楽園とは。犠牲の上に成り立つものだ。
それはフランも理解している。頭ではなく、経験で理解しているのだ。だから今まで外に出たいとは言わなかったのだろう。これからは、分からないが。しかし、もし出たいと言い出しても。
能力なんていらなかった。泣きながら叫ぶ幼い彼女の姿は、未だに脳裏に焼き付いている。
私は姉だ。あの子の、たった一人の姉なのだ。妹を守るのは、姉として当然だから。
この世の全てを私の敵に回してでも、成就させたい悲願がある。
フランは幻想郷に来てから、よく笑うようになった。気を遣ったような可愛そうな笑顔ではない。見た目相応の、見る者を温かくさせる朗らかな笑顔で。
きっと明日からは、紅魔館で愛らしい笑顔を振りまくフランの姿があちこちで見れるだろう。
でも、私には。それでも私には、明日が見えないのだ。どこをどう歩いて、いつ誰と会えばいいのか分からない。何をしても結果は裏目に出るばかりで、私達に平穏は無かったから。
パチェは、昨日ばかり見るな、とは言わなかった。
それがせめてもの救いだけど、いつまで見ているのか、なんて問われても私にだって分からない。
運命をただ操るだけの能力に、何の意味があるというのか。
私に出来る事など、本当に少ない。
親友と重なった視線は、解かれないまま。
私には、泣かないように声を搾り出す事しか出来なかった。
「『昨日』しか、見えないのよ」
今はただ、妹の成長に喜び。
今はまだ、妹と生きる事だけを考えさせてくれ。
私もパチェも、それ以上の言葉は続かなかった。
被っていた布団を跳ね上げて起きた。
辺りは真っ暗。当然だ、ここは私の部屋なのだから。
動悸が激しい。室内に私以外の何かがいるのではないか、と素早く視線を巡らせてしまう。
何もいない。それも当然、ここはお姉様が私の為に用意してくれた、私だけの地下室なのだから。
……だんだん、落ち着いてきた。
改めて、今度はゆっくりと地下室を見渡す。部屋の隅には私だけの宝箱があり、図書館から持ってきた魔術書を並べた古びた本棚がある。部屋の中央にあるのは小さな丸テーブルで、椅子もいらない高さのそれは殆ど使う事がない。重く硬そうな鋼鉄製の扉には錆が全体に見て取れて、年月の深さを語っていた。何の変哲もない、壁のシミ。今はそれがちょっとだけ不気味だ。
私は深く息を吐き出す。
(あの頃の夢なんて……いつ以来だろう)
ベッドの上で体育座りになって、自分の膝に頭を乗せた。垂れた髪が私の顔を撫でる。瞑った目が映し出すのは夢の中の世界。けれども、知っている世界。
どうして、今になってあの時の事を夢に見たのだろうか。ここ数十年は思い出す事すら無かったのに。
考えても分からない事を考えている。それに気付くと、直ぐにその思考を止めて顔を上げる。眠気は吹き飛んでいた。
身体がべたべたする。夢のせいで、全身に嫌な汗をかいていた。シーツも湿っている……前に洗ったのはいつだったか。ちょうどいいから、洗濯して貰おう。
寝巻とぼさぼさ頭のままで、私は地下室を出た。
地下室には鍵がかかっていない。魔術的な封印も施されていない。それもそうだ、ここは私の部屋であって、牢獄でも無ければ監禁室でも無いのだから。
最初にこの部屋を充てられた時の、お姉様の言葉を思い出す。
――何百年かかるか分からない。だけど、必ずこの幻想郷でフランの自由を手に入れてみせる。それまで、ここで我慢出来る?
その表情は、とてもとても、哀しげだった。だから私は、二つ返事で頷いたのだ。
地下室から階段を登っていくと、大図書館に出る。人目に付かないよう巧妙に隠された入口は、本棚の影で真っ暗だった。
ぺたぺたとスリッパを鳴らして歩く。今何時だろう。パチュリーは居るかな。
本棚の道を真っ直ぐ進む。着きあたりを右に。一つ目の十字路を左へ曲がって直進。道なりに沿って曲がりながら、次の十字路を左へ。
私の部屋までは魔術が施されているらしくて、正しい道順を踏まないと辿り着く事も引き返す事も出来ないらしい。パチュリーが勝手にやったみたいだけど、お姉様がそれを気に入っちゃって私も覚える羽目に。意外と楽しいから、別にいいんだけど。
やがて開けた空間に出た。ここもまだ地下だというのに、天井は高く広い。ぽつぽつと設置された照明が小さくてぼんやりとしか見えないけど、図書館はしっかりと明るかった。私が部屋から出て、最初に見る灯り。
きょろきょろと辺りを見渡す。いつもなら、この近くの机でパチュリーが読書をしているんだけど……。
「寝巻で館内をうろついていると、レミィに怒られるわよ。フランドール」
「ひゃっ」
突然背後から声をかけられて、驚いて変な声を上げてしまった。今私が通って来た道なのに。ここに来るまでその姿は見ていないから、飛んでいたのかな? パチュリーは出不精だし、何事に対しても億劫そうだから、あまりに広い図書館での移動は殆ど歩かないらしい。
パチュリーは両手でたくさんの分厚い本を抱えていた。よく見ると、その身体は浮いている。やっぱり飛んでたんだ。
「おはよう、パチュリー。汗かいちゃったから、シャワー浴びてから着替えようと思って」
答えながら、私はパチュリーの言葉を反芻した。確かに、お姉様に見付かったら怒られちゃうかも。
でも見付からなければいいんだよね? 大丈夫、きっと大丈夫。
「珍しいわね、フランドールが汗をかくなんて」
近くの机に本を重ねて置いたパチュリーが、そのまま椅子に深く腰を下ろした。その動作を見て当分立つ気が無いと悟ると、私も踵を返す。パチュリーとお話したいけど、先に着替えないといけないし、読書の邪魔をするつもりも無い。
「昔の夢を見たの。またね、パチュリー。お姉様に見付からない内に、着替えてくる」
「またね、フランドール。レミィには報告しておくわ」
「駄目だからねっ、お姉様に言ったら!」
「はいはい」
釘を刺すと、小さく笑ってパチュリーは読書に移った。今日はもうお話出来ないかも。少し残念。
一度お姉様に見付かったら、って考えると、絶対に見付かっちゃいけない気になって来た。走って浴場まで行きたいけど、そんなはしたない事をしたら余計怒られちゃう。
歩幅も変えず、けれども少しだけ早歩きで。私は図書館を後にする。出る前に振り返ると、パチュリーと目が合った。
離れていても聞こえる不思議な声で、パチュリーが言う。
「着替えてきたら、私と話す?」
「うん!」
パチュリーは軽く咳き込んだ。喘息は大変らしい。でも今日は調子がいいみたい。私とお話してくれる時は、いつもそうだから。
楽しみも出来たからかな。お風呂に行く足は、自然とさっきよりも速くなった。
「あれ? 妹様?」
「? 美鈴? 門番はいいの?」
脱衣所に行くと何故か美鈴がいた。すっぽんぽんのナイスバディ。赤くて綺麗な髪は、ゴムを使って頭の上で丸めてある。どう見てもこれからお風呂に入る格好。今日は非番なのかな。
「ちょうどお風呂に来ていたんですよ。一日中外にいると汚れちゃいますからね」
ふーん。お風呂休憩か。
「妹様は……寝起きのお風呂ですか」
優雅ですね、と屈託なく笑う美鈴。嫌味っぽさが全く感じられない美鈴の言葉は、何を言われても嬉しく感じてしまうから不思議だ。
「汗かいちゃったからね。お風呂に入ってから着替えようと思って」
「妹様もお嬢様ですからね。身嗜みに気を使うのは素敵ですよ」
褒められちゃった。美鈴は話上手の褒め上手だと思う。紅魔館では、お姉様の次に一緒に話す相手かもしれない。
私もお風呂に入る為に寝巻を脱ぐ。美鈴の隣の脱衣籠に服を入れて裸になった。
美鈴を見上げた。おおきい。見下ろした。ちいさい。
「…………えいっ」
「いたっ!?」
お姉様と一緒だから、いいもん。
すりガラスの扉を開ける。小気味いい音が浴場に響いた。
浴場の窓には外から雨戸がしてある。紅魔館はだいたいそうだけど、窓があっても昼間はその光が漏れないように閉ざしてある。お姉様の部屋は何故か、たまに窓のカーテンが全開になっているけど。昼間なのに。
ここにも小さな照明が幾つか付いていた。天井にもあるけど、壁にもある。美鈴が電気を付けたから、真っ暗だった浴場は眩しい程明るくなった。思わず目を細めるけど、少ししたらそれも慣れた。
私は浴槽の近くの洗い場を陣取る。美鈴の方を見ると、美鈴も私の隣に座った。楽しそうな笑顔。
「美鈴、身体洗いっこしよ」
「はい。では、私から先に洗いますね」
スポンジを濡らして答える美鈴に、私は首を振った。
「ううん。私が先に、美鈴の身体を洗うの」
「え、いいんですか?」
「楽しい事は先にした方が、もっと楽しいのよ」
私がそう言うと、美鈴はまた笑った。
お姉様からは、私はよく笑う子だって言われた事があるけど、私は美鈴の方がよく笑っていると思う。だからかな、美鈴と一緒だと楽しい気持ちになってくるのだ。
「ほら、美鈴。背中向けて」
「それじゃ、お願いしますね」
手の中でスポンジを濡らして、泡立てる。何だかいい匂い。何の匂いか分からないけど、この香りは好き。
美鈴の背中は大きい。それに、がっしりしてる。引きしまっている、って言うんだっけ。私やお姉様みたいに羽は無い分、凹凸に合わせて流れるように擦るだけだからとても楽だ。
羽が無いって、どんな感じなんだろう?
美鈴の背中の、私でいう羽の生えている所を軽く引っ掻いてみる。
「んっ……どうしたんです?」
泡だらけの背中を震わせて、美鈴が艶っぽい悲鳴を上げた。私は気にせずかりかりと引っ掻く。
「んっ、んっ……! い、妹様……?」
「この辺りは、私とお姉様の羽が生えているの。羽が無いって、どんな感じなのかなぁ、って思って」
痛い? と首を傾げて美鈴の表情を窺った。美鈴は顔を赤らめて、首を横に振る。
「どんな感じ?」
「えと、くすぐったい……です」
「ふーん」
お姉様は羽を洗ってあげると、気持ちいいって言っていた。私もそうだから、やっぱり羽があると無いとじゃ違うのかも。美鈴はくすぐったいらしい。羽が無いって、損だなぁ。
引っ掻くのは止めて、また背中を全体的に洗っていく。それと同時に美鈴がほっとしたような気配を出した気がするけど、気のせいかも?
美鈴が振り返らずに、声だけで私に尋ねてくる。
「妹様は、レミリアお嬢様とも一緒にお風呂に入るんですか?」
「うん。たまにだけどね。お姉様から誘ってくれるの」
私の部屋まで来て、今日は一緒にお風呂に入るわよ、そう言ってくれるお姉様の顔を思い出す。優しい、温かい笑顔。
「私から見ても、妹様達は仲がよろしいです。しかしレミリアお嬢様は妹様だけでなく、様々な人や妖怪と親睦を深めておられます」
「うん」
それはそうだ。お姉様はあれだけ素敵な人なんだから、今よりもっと友達が出来るに違いない。怒るとおっかないけど、普段は優しくて格好いい、私の大好きなお姉様。お姉様の悪口言うのなんて、吸血鬼を恐れている人間くらいじゃないかな。
「でも妹様。貴方は紅魔館から出られないとはいえ……人付き合いが、極端に少ないです」
「? 私には皆がいるから、平気だよ?」
私の言葉に、どこか納得した風な顔をする美鈴。どうしたのだろうか。
「そろそろ、お湯で流すよ?」
「はい。お願いします」
途端にいつもの笑顔になる美鈴。何だろう、さっきの美鈴は、何かいつもと違ったような……?
お湯が泡を流していく。それに合わせて美鈴の綺麗な肌が現れていき、感嘆とした気持ちになった。大人の女性というのは、美鈴の人のような事をいうんじゃないだろうか。咲夜はまだちょっと、美鈴と比べて幼い感じがするし。
もちろん、雰囲気だけで言えばお姉様より大人な人なんていないけどね!
「さ、妹様。今度は私がお背中流しますよ」
「うん。あ、羽は自分でやるからね」
「そうなんですか? ちょっと残念ですね、少し触ってみたかったのですが」
苦笑するように言う美鈴。私はわざと悪戯っぽく、唇を歪めながら笑った。
「私の羽を触ってもいいのは、世界で一人、お姉様だけだもの」
お風呂から上がって、私は重大なミスに気付いた。着替えないじゃん。
脱衣所で途方に暮れる私を見て、美鈴が咲夜に着替えを持って来てくれるように頼みに行ってくれた。こんな事知られたら、お姉様に笑われちゃう。
着替えた美鈴が咲夜を呼びに行ってから暫く。咲夜は着替え一式を持って直ぐに現れてくれた。目の前にいきなり出てくるのはいつまで経っても慣れない。
「お持たせしました、妹様」
「ううん、ありがとう」
私は既にバスタオルで身体を拭いていたし、咲夜から受け取った服に着替えるだけ。下着を穿いたところで、しかし咲夜に声をかけられた。
「先に髪を乾かしましょう。お召し物が濡れてしまいます」
「あ、うん。お願い」
咲夜はどこから来たんだろう。きっと幻想郷の外から、しかも極最近なんだ。だって咲夜がそう言って取り出したのは、ドライヤーとかいう、凄く便利なものだから。
私だけ知らないのかな、と最初は思っていたけど、お姉様も知らなかったみたい。お姉様が言うには、幻想郷に来る時に『向こう』から持ってきたんじゃないかって。それを山の河童に、使い方を説明して構造を理解して貰い修理して貰ったりとかなんとかって。
パチュリーが言っていたのはなんだっけ……、使用目的と物自体があれば、その構造なんてものは直ぐに分かるもの、らしい。うん、何の事かさっぱり分からない。
ドライヤーというやつは、電気があれば熱風を出せるらしい。コードを壁のコンセントに繋いで、そこから電気を供給しモーターを動かすとか。私に分かるのはコンセントと、電気を供給するという事くらい。モーターは、お姉様曰く術式みたいなもの、らしいけど、それを聞いていたパチュリーが苦い顔をしていたからたぶん違う。
小さい鉄の塊のくせに、このドライヤーは凄くうるさい。耳元でぶおんぶおん言っているから尚更だ。髪が風に煽られてばたばたと忙しなく舞う。私は手持無沙汰でそれが終わるのを待っていた。
やがて、そのうるさい音が急速に小さくなっていき、その熱風も感じなくなる。
「終わりました、妹様」
「ありがとう、咲夜」
薄く微笑むような、そんな表情。咲夜の笑い方は、お姉様に似ている気がする。
「着替えたら、御髪も整えましょう」
私が着替えている間、咲夜はドライヤーを片付けている。私が脱いだ寝巻もいつの間にか回収してあり、きっと汗を吸ったそれは咲夜の手でもみくちゃにされて洗われるのだろう。
「咲夜、着替えたよ」
「ではこちらに御掛け下さい」
そう言って、鏡の前の椅子を引く咲夜。促されるままに座ると、優しく髪を撫でてくれた。
咲夜の手がゆっくりと動く。金色の髪を撫でる手はとても綺麗で、鏡に映るその光景はまるでガラス細工を扱うかのよう。ちょっとだけ恥ずかしい。
櫛を持つ手が動く。乱れた私の髪が、咲夜の操る櫛で丁寧に梳かれていった。木面が頭髪に流れる感触が心地良い。
お姉様にはよく手櫛をして貰うが、それの感覚に似ている。笑顔といい髪の手入れといい、咲夜は何故だかお姉様によく似ている。どうしてだろう。
鏡の中では私の頭を見下ろす咲夜が、優しい表情で手を動かしている。その目は真剣で、私の頭髪お手入れ専属メイドみたいに全力を尽くしてくれているのが分かる。そんなメイドいないけど。
ふと、鏡の咲夜と目が合った。手は止めずに、にこりと微笑む。私も笑い返した。咲夜は一旦櫛を通すのを止めて、私の頭を撫でる。それからまた再開した。
静かな空間だった。ときおり、浴場の方から水が落ちる音が聞こえてくるだけ。
私の髪はさらさらになった。ぐしゃぐしゃだった髪の毛は咲夜の手により真っ直ぐ流れていて、本当に綺麗。
真っ赤なリボンを取り出すと、咲夜はそれで私の髪を縛ってくれた。左側一本だけの、いつものサイドテール。
そうしてから、今度は髪の尻尾を手櫛する。髪の毛には神経が通ってるんだっけ? 気持ち良くて、なんだか眠たくなってきた。
視界がぼやけてきた。いつも優しい咲夜の笑顔が見えなくなる。それは寂しいな。頑張って頭を上げて起きると、鏡の咲夜は私から一歩離れていた。終わっちゃったみたい。少しだけ残念だな。
「終わった? 咲夜」
「終わりましたわ。可愛いですよ」
そう言って、ナイトキャップを手渡してくれる咲夜。それを受け取り、被る前に鏡で自分の姿を確認する。気のせいか、いつもよりも金髪が輝いているように感じた。両手に握ったナイトキャップの形が崩れている。それだけ嬉しくて興奮しちゃったのかな?
「ありがとう、咲夜。嬉しい」
くすりと笑って頷く咲夜。そんな咲夜がただの人間の少女である事が不思議で堪らない。私は吸血鬼なのに。
「それでは、また御夕食の時にでも」
そう言って去ろうとする咲夜を見て、慌てて呼び止める。私の部屋のシーツも換えて貰わないと。
「あ、待って咲夜。私の部屋のシーツなんだけど」
「既に換えてありますわ」
振り返り、微笑む咲夜は一礼してからその姿を消した。シーツの事もそうだけど、咲夜の能力といい、この館では咲夜が一番人間離れしているように思う。
咲夜はあんまり話をしてくれない。でも、お姉様に通じる優しさを感じるから好き。さっき髪を梳かれている時にも感じたけど、咲夜の雰囲気が私は好きなんだと思う。
私も脱衣所を後にした。今はまだお昼だから、お姉様は寝ているだろうし。パチュリーの所に行って、約束通りお話をしようっと。
「パチュリー。お話しよっ」
「おかえり。結構時間かかったのね」
私が図書館に着くと、何冊かは読み終わったのだろう、重ねられていた本の数が半分くらいに減っていた。
ぱたぱたとスリッパの音を立てながら私が駆け寄ると、読んでいた本を閉じる。
パチュリーの対面の椅子を目で示されて、私は遠慮なくそこに座った。
「こあ。フランドールにも紅茶を出して上げて」
パチュリーがあさっての方を見て声をかけた。その先のずっと奥の方から、「はーい」という、大きな返事が返って来る。パチュリーは、隣にいる相手に声をかけるくらいの、離れていたら絶対に聞こえないような小さな声だったのに、どうやってこあはそれを聞いたのだろう。
こあ、というのはこの図書館に棲みついている小悪魔らしい。私はあんまり見た事ないのだけど、図書館に棲みついているだけあって本が好きで、毎日頼まれもしないのに整理整頓、掃除している。小悪魔というよりは、妖精みたいな娘。
パチュリーとも仲が良くて、こあが着ている服もパチュリーがプレゼントしたみたい。
「すいません、お待たせしました」
「こんにちは、こあ」
「こんにちは、フランさん」
紅茶を淹れて来てくれたこあと挨拶を交わした。こあはパチュリーと一緒で、お姉様に仕えているわけじゃないから私の事を様付けで呼ばない。そっちの方がお友達みたいで、嬉しいな。
紅茶を置くと、そのまま本棚の森に戻っていくこあ。こあともお話したかったのに……また今度にしよう。
「それで、フランドール。私と何を話したいの?」
「んー……。何でもいいの?」
こあの淹れてくれた紅茶に口を付けてから、聞き返す。改めて言われると、そういえば何を話したかったんだっけ、と考えてしまう。
「何でもいいわよ。レミィの事でもいいし私の事でもいいし、勿論、フランドールの事でもいいわよ」
そう言って、特に急かすわけでもなく紅茶を飲むパチュリー。
うーん……あ、そういえば。
私は今日見た夢を思い出す。
「どうして私達は夢を見るの?」
「……夢?」
私は頷く。
目が覚めてから随分時間が経っていたが、まだ私は今日見た夢の内容が気になっていた。
いや、内容そのものに対して疑問は無いのだけど……昔、実際にあった事だから。それを何故、何十年も忘れていた今になって、まるで思い出すかのように見てしまったのか。
ひょっとしたら何か理由があるのかな。そう考えてしまう私は、私自身が思っている以上に夢の事を気にしているのかもしれない。
パチュリーは不意な言葉に首を傾げていたものの、ややあってその口を開いた。
「そうね、色々な説があって、一概にこう、とは言えないけど。有名なものでいえば、記憶の整理があるわ」
「記憶の整理?」
パチュリーは頷く。
「そ。簡単に言えば、その日あった出来事とかを、脳が要るものと要らないものに分けて覚えるの。寝ている間にね」
つまり、最近の事、になるのかな? なら、私が見た夢とは違うかも。
「最近の事じゃなくて、昔にあった事を思い出すような夢は?」
「そうね……他の説としては、無意識下で望んでいる事を夢に見る、だから。ひょっとしたら、貴方にとって必要な事を、思い出して夢に見たのかもしれない」
「私にとって、必要な事?」
頷くパチュリー。
私にとって必要な事って、なんだろう。またあの夢を見れば、分かるのかな。
「必要な事、じゃ分かりにくいかしら。貴方にとって大事な事、やらなければならないと、そう貴方自身が思っている事。それを暗示している、と受け取ってもいいのかもしれない」
まぁ、あくまで推測で、本当かどうか怪しいけどね。そう言ってパチュリーは紅茶を飲む。
パチュリーは私の疑問に答えてくれるけど、あんまり正確な答えを教えてくれる事は無かった。それでもたまに、内容によるのかもしれないけど、ちゃんと答えてくれる事もある。
今回のは、前者かな。
「夢というものは毎日必ず見てる。ただ睡眠にも種類があって、見た夢を起きた時に覚えているかどうかはその睡眠の種類で分けられる。レム睡眠とノンレム睡眠というのがあってね……」
「うんうん」
パチュリーの話は面白い。だけど、大抵が何を言っているのかよく分からないのは、私に教養が足りてないせいなのかな?
次にこあが様子を見に来てくれるまで、パチュリーの夢講座はずっと続いていた。
*
私は外に出た。今日は珍しく気分が良い。起き抜けにも関わらず頭が冴えているのは、何も夢を見なかったからだろう。いつもは昔の夢ばかり見ている気がする。
宵の闇は静かだ。月の光を浴びて輝く庭園が美しい。美鈴はちゃんと手入れをしているようだ。
屋根に腰掛けて見下ろす紅魔館は、全体的に見て紅い。私の意志で染め上げたとはいえ、客観的に見るとこの館はどう映るのだろうか。紅という名が持つ意味は、土地と種族と価値観で違ってくる。わざわざ紅にこだわる必要も無かったか、と、そんな考えが生まれたのは紅霧異変も終わり今の幻想郷に慣れた頃。今更か、と直ぐに放棄した。
狭く退屈な幻想郷。しかし、平和だ。作り上げた平和が実現する。「幻想郷」とはよく言ったものだと思う。
私は口元に微笑を作りながら、翼を広げた。
空高く舞う。月は遠い。眼下に望む自分の館は真っ赤であった。湖面に反射する月光がきらきらと眩しい。こんな景色を、ただ一人の妹と見たいと思うのは強欲なのだろうか。
門前には人影がある。彼女の仕事は紅魔館の門番兼、花の世話係兼留守番ところにより私の暇潰し。うん、実に有能な部下だ。
私は彼女の前に降り立つ。特に驚いた様子も見せないのは、その能力によるところも大きいだろうが、それ以上に真面目に門番をやっている証拠か。もっと力を抜いてもいいのだけれど。
「おはよう、美鈴」
「おはようございます、お嬢様。今日はご機嫌なようで?」
にこやかに尋ねてくる美鈴。ふむ、顔に出ていたかな?
「よく分かったわね。その通りよ」
「相変わらず、顔に出ますねー」
からからと笑う彼女は、主従という概念をしっかりと理解しているのか、たまに心配になる。が、私自身そんな彼女の態度が嫌いじゃないのだから、考えるだけ無駄と言うものなのだろう。
「そうかしら?」
「少なくても、私からすれば。この館では断トツですねっ」
そんな事を力強く言われても。
苦笑に溜息を混ぜて頷いた私は、美鈴の隣まで歩いてから地べたに座り込む。
「服が汚れちゃいますよ?」
「こんなにいい夜なのに、そんな無粋な事聞くの?」
言われて、美鈴はなるほど、と頷く。そんな言葉で納得するあたり、美鈴が美鈴たる所以を感じる。
私は自分の隣、美鈴の足元を掌でぽんぽんと叩いた。座れというジェスチャーである。
果たして、美鈴は大人しくその指示に従った。
「ねぇ美鈴。今日、フランとは会った?」
私の関心事など、それ以上でもなくそれ以下でもない。美鈴も心得たもので、余計な事は一切言わないでそれに応えてくれる。
「はい。変わらず元気なようでした」
「そう」
良かった。口には出さないが、それが私の全て。フランが元気で楽しくやっているのなら、それ以上は望まない。寧ろ、最上を望んだ結果とも言える。
美鈴の答えに満足気にする私をよそに、しかし彼女はその表情を珍しく真剣なものと変えて口を開いた。
「ですが、心配です」
「……」
私は何も答えなかった。フランに関しての心配事などいくらでもある。今に始まった事ではないのだから、わざわざそんな風に勿体ぶった言い方が寧ろ気に喰わない。
無言で彼女の顔を見遣る。それを以って言葉の続きを促した。
「今日は妹様と、お風呂に入りました」
…………。
お風呂ってなんだったかしら。裸になって身を清める、だったかしら? ん? それでこいつは今何て言った? お風呂に入った、うん、それはいい。門番とは紅魔館の顔、時間を見付けて身嗜みを整えるのも当然の務め、それを責めるつもりなんて無い。しかし、誰と入ったって? え、妹様? そんな名前の奴なんてこの館にいない、いるのは私の可愛い妹だけ。こいつはフランの事を何と呼んでいたっけ。妹様、妹様? そう呼んでなかったか? つまりどういう事、こいつはこの私が寝ているのをいいことに人の大事な妹の裸をお風呂という大義名分の元に誰からも責められずにじろじろといやらしい視線で見詰めた挙げ句に私のフランと背中の流しっことか私だけのフランの翼に手を触れたのかフラン綺麗な肌してるわねなんて言って籠絡しようとしたのかあわよくばその先まで進もうとかなんて考え
「え、殺すぞ? ん?」
「待っ、えっ、違っ……!?」
全身から殺気を放って今にも飛びかからん勢いで脅しておく。とはいえ、美鈴がそんな事をする筈がないのは他でも無い私がよく知っていた。冗談に決まっているじゃないか、そんなに大袈裟に驚かなくても。
…………冗談だよ、うん。
「いやその、私がお風呂に入ろうとしたら突然妹様が寝巻で脱衣所に入って来てですね!?」
「あー、分かった分かった。それで?」
殺気を消して、適当に笑ってやる。それでようやく安心したのか、彼女は大きく安堵の息を吐いて話し始めた。
「はい。妹様に、お嬢様は交友関係が広い、といった事を伝えたんです。その上で、妹様は極端に知り合いが少ない、と」
「ふぅん。それで?」
「妹様はそれに対して、『平気』、と。そう仰ったんです……」
声のトーンを落として、呟くように言う美鈴。
彼女なりに、フランの事を心配してくれている。心配ですと言ったその言葉よりも、その態度が何よりも雄弁に物語っていた。
(感謝しても、しきれないな)
心の中だけで頭を下げた。
「平気とは、多くの場合、強がる時に用いられる言葉です」
言われて、そう答えたというフランの表情を思い浮かべてみた。何も気にする事無く、ただ事実であることを事実のままに答えたのだろう。
「それは周囲に心配をかけまいとする、思いやりの心です」
知っている。フランは誰よりも他者を想ってやれる娘だ。
「きっと無自覚なのでしょう、ご自身に友人と呼べるような存在がいない事を、当たり前の事として受け入れている。自分には紅魔館の皆がいるから、それで十分だと」
私は黙って彼女の言葉を聞いていた。
「本当はどう思っているのかなんて、私には分かりません。きっとこう思っているんじゃないか、なんておこがましい事は私には言えません。だから私は、せめて知って貰いたいのです。妹様にも、友人というものの、大切さを。尊さを。かけがえのない存在は、家族だけじゃないんだと」
一息にまくし立てた彼女の瞳は、私を捉えていた。そこに責める色は無い。だから、私には彼女が何を言わんとしているのか理解した。
先回りして、答える。
「吸血鬼条約の時の事、忘れたわけじゃないでしょう。私達は負けたわ」
「わざと手を抜いて、適当に華を持たせる事を負けたとは言いません」
今日はやけにつっぱってくるわね……それも、フランの為なのかしら。
「どっちみち、既に契約している」
「純粋に契約したのは、食糧の事だけでしょう。八雲紫と交わした、妹様を外に出さないというのは、ただの約束です」
ふん、よく覚えてるわね。
「もう一度言うわよ、美鈴。吸血鬼条約の時の事。忘れたわけじゃないでしょう?」
殺し合いの夜。血の雨で月を染めた夜。私の隣に在ったのは、拳を握ったフラン。
「……」
ようやく黙る美鈴。悪いわね、貴方を責めているわけじゃないのよ。
「フランの能力は幻想郷の常識を打ち壊した。それを確認してから、私達は負けたのよ」
そうでなければ、意味が無かったのだ。
ある程度の優位性を維持しなければ、我を通せなくなる。それではフランの自由が遠のく。
「フランの能力に勝る力など無い。幻想郷に『絶対』が出来た瞬間。そして八雲紫は、手に余る力を封じる心得を知っていた」
宵闇のルーミアも、噂に聞けばそうらしい。あの御札を付けさせたのは、八雲紫だという話しを聞いた事がある。
「紅魔館の地下に幽閉する事。絶対に館の外に出してはならない事。それが吸血鬼条約の闘いで勝った、八雲紫の『譲歩』。それを拒めばどうなっていたか。答えてみなさい」
「……」
「美鈴」
「っ……妹様は、殺されていました……」
ありとあらゆる物を壊す能力は、博麗大結界にも及ぶのではないか。八雲紫の操る、スキマすらもその対象になるのではないか。ルーミアのように封印を施したとしても、容易く打ち破ってしまうのではないか。試した事がないから分からない不確定要素は、どうなるか分からないというだけで恐怖の象徴だ。
恐怖はやがて忌避され、危険視され。辿り着く先は拒絶。自分達の安心を得る為だけに命を狙われる生活が始まる。
それでは幻想郷に来る前と変わらない。
しかし八雲紫はあの時、既に看破していたのだろう。私と美鈴、パチュリーがフランと共にある事実が、フランが自身の能力を制御下に置いていて、「安全」であるという事実に。
「そう。フランは今も監視下にあるわ。他ならぬ私達という、家族を使った八雲紫の監視下に、ね」
美鈴を窺う。やはり、納得などしていない表情だった。
……仕方ない。
「――今はその状況に甘んじている」
「……、……お嬢様、今、何と……?」
信じられない言葉を聞いた。そんな様子の美鈴に、私は知らず笑っていた。
聞いてはいけない事を聞いてしまった、とか。それは私のただの妄想で、現実は最早どうにも出来ない、とか。或いはもしかしたら本当に、そんな希望が残されているのではないか、とか。そんな不安が見え隠れする美鈴の声音からすれば、きっと今の私の言葉はさながらパンドラの箱なのだろう。
「なぁ美鈴。この幻想郷に来てから、何か気付いた事はないか?」
「気付いた事?」
「そうだ。幻想郷に来る前までの私達と、幻想郷に来て、もう何十年と過ごした私達。決定的な変化が、そこにはある」
気付けば私の口調は、パチュリーに会う以前のものに戻っていた。仕方ない、元々こういう喋り方だったのだから。
美鈴は考えているようだ。
何が変わったのだろう、と思案するのではなく。果たしてそれを口にしてもいいのだろうか、と。考えているようだ。
「許す。お前の思った通りの事を言ってみろ」
その言葉に、美鈴は意を決したように口を開いた。
「……失礼ですが……お嬢様も含め、私達が。弱体化した……?」
恐る恐る開いたその唇は震えていた。別に取って食おうってんじゃないんだ、もっと堂々としていればいい。
私は犬歯を剥きだして笑う。おかしくて堪らなかった。
「その通りだ。幻想郷という特殊な環境のせいで、私達は戦う事を忘れ、平和に浸かり、弾幕『ごっこ』だなんていう遊びにかまけて確実に弱体化していっている」
「その事と、妹様の自由と……どのような関係が」
「美鈴。紅霧異変は何故起きた?」
遠回りばかりで、はっきりとした答えを言わない私に、それでも美鈴は根気よく付き合う。それだけ私の考えを知りたいのか。
「あれは、紅魔館の存在を明るみにする……パチュリー様の結界で存在感を消していたここを、解除する目的だったと聞いています」
「その先だよ。何故あの時になって、紅魔館は幻想郷の輪の中に混ざろうとしたのか」
「……分かりません」
項垂れる美鈴。一々素直な所が面白い。そしてもっと考えろ。
「私達が弱くなったからさ。私も、パチェも、フランもね。それこそ、『普通の魔法使い』に負けてしまう程に」
いまいちピンと来ないのか、彼女はこの期に及んでまだ首を傾げている。
興味の無い事には全く頭が働かないような子供かこいつは……。
「つまり。私達という存在が幻想郷の脅威ではなくなったからさ」
「…………っ、まさか」
ようやく理解し始めたらしい。呆れる思いで言葉を続ける。
「ただの魔法使いでもフランを打ち破れる。人間がフランに勝つとはどういう事か。私達に対して、抑止力を持つという事だ。悪さをする、そんな発想そのものをさせないくらいにあいつらと私達との間に力の差が生まれれば」
「妹様を、閉じ込める必要が無くなる……!?」
パッと、花が咲くような笑みを広げる美鈴に、苦笑が漏れた。事はそんなに単純じゃあないというのに。この話だって、弾幕ごっこという戯れが無ければ成立すらしないというのに。
私達が巫女と魔法使いに負けた話は、既に幻想郷全土に広まっている。それでもフランが自由に外を出歩けないのは、一重にその能力が持つ可能性を否定しきれていないから。
弾幕ごっこでは後れを取っても、吸血鬼条約の時のようにそれこそ何でもありなら……今なら蓬莱人がいるから「壁」は作れるけど、フランの能力の前では結界が絶対に安全とは言えないし、過去実証された博麗の巫女もまた然りだ。
しかし、これから先の何十年、何百年後の世界。もしも私達が、博麗の巫女にどう諍おうとも勝てない瞬間が来た時。
(我ながら、気の長い話だ)
その事は美鈴には言わない。当然その頃にはいなくなっているだろう、咲夜にも話さない。咲夜本人から聞かれれば答えるかもしれないが、あいつは例え気付いたとしても自分からそんな事を聞いたりはしないだろう。
浮かれた笑みを浮かべていた美鈴を眺めていたが、それも中断された。彼女がいきなり、弾かれたように立ちあがったからだ。忙しない……。
「どうかしたのか?」
「お嬢様……その話の通りであれば、お嬢様は……かつて幾千幾万の骸を築いた、伝説を紡ぐ吸血鬼であるお嬢様は……?」
震える声音で、またも信じられない、と言わんばかりの眼を寄越す美鈴。なんだ、そんな事か。
「人間を相手に、膝を着くのも構わないと言うのですか……?」
「必要なら、頭も垂れよう」
「――――っ」
「?」
何、何ださっきから?
立ち上がっていた美鈴は、再び腰を下ろす。しかしそれは片膝を着いて、肘を差し出す姿勢。表情の見えない彼女だったが、何故かその顔がどんな感情を映し出しているのか、手に取るように分かった。
「この魂が枯れ果てるまで、貴方様の手となり足となり。貴方様の願いのあらゆる障害を払う事を、永久に誓います」
今更。本当に今更。
そんな事、言われなくても分かっているというのに。
私は立ち上がり、美鈴の頭に手を乗せた。
「ああ。期待している」
無性に嬉しいと思うと同時に、感謝してもしきれないのは、何故なのだろうか。
庭園から戻った私の足は、地下室に向かっていた。
昔の事を思い出した事もあって、少しフランと話したくなったのだ。
その途中、図書館まで来るともう夜も遅いというのに、まだ灯りが点いているのが分かった。
少し寄り道してみると、案の定そこには読書に耽るパチュリーの姿があった。美鈴だけでなく、こちらも勤勉な事だ。
「パチェ」
「レミィ? ……ご機嫌ね」
「おや。分かるか?」
声をかけて、そのまま勝手に相席させて貰う。机に積み上がる本の一つを手に取って、ぱらぱらと眺めてみたが直ぐに興味が失せた。元に戻す。
「ええ。何よりもその口調で確信出来たわ……下品な言葉遣いは止めなさいって言ったじゃない」
不機嫌そうな様子で言う彼女の眉間には皺が刻まれている。どうやら本当に嫌らしい。
「そう言うなよ。やっぱり地の喋りは気持ちがいいんだ」
「私の前では止めて」
じろっ、と睨まれた。肩を竦める。
「はいはい、分かったわよ……これでいいんでしょう?」
口調を戻した私の様子にやっと険しい表情を引っ込めたかと思うと、そのまま読書に戻る親友。彼女がその状態でも会話出来る事は知っているが、これだけ気分がいい時は少し寂しい。
「ねぇ。少しは私と交友を育もうとは思わないの?」
「もう十分育んだでしょう。これ以上育ててどうしたいの」
あまりに素っ気無い返事に、今度は肩を項垂れさせた。
遠まわしに、読書の邪魔だと言われている気がする。
「フランとはよく喋るみたいなのにねぇ」
「フランドールは姉と違って良い子だからね。読書の邪魔もしないし」
ああ、やっぱりそれか。
言うだけ言って本に集中し始めた魔女を見て、呆れ半分の溜息を吐いた私は立ち上がった。さっさとフランの所に行こう。
「レミィ」
「うん?」
本棚の角を曲がりかけて、声をかけられる。
「今度、ゆっくりお茶でもしましょう」
「ふふ。そうね」
パチュリーに手を振ってから、地下室へ向かう。ええと、どういう順番で行くんだったかな。
地下室の階段を降りて行く。暗い道のりに灯りなどはなく、頼りになるのは自分の眼だけ。
吸血鬼たる私には灯りなど無くてもこのくらいの闇なら十分に見通せるし、そうでないなら灯りを持って降りればいい。そういう考えから、「それっぽく」見せる為にもこの狭い階段には灯りが設置されていない。
フランには、嫌な思いをさせている。この道を通る度に思うが、我ながらいい姉では無いと自嘲してしまうのだ。
真っ暗な地下の階段を降りた先には、見慣れた鋼鉄製の扉が鎮座していた。物理的にも魔術的にも、何の封印もされていない扉は無機質で、鍵すら付いてないそれはおよそ誰かの部屋とは呼べない代物だ。こんなところに何十年も妹を閉じ込めている。
「フラン。入るわよ?」
少しだけ強めにしたノックの後に返って来たのは、嬉しそうな声。
「お姉様!? 待ってて、今開けるから!」
それから少し待っていたが、扉が開く様子はない。待ってて、と言われたのだから、勝手にこちらから扉を開けるわけにはいかないし。
私はただ腕組みをして待ち。扉が開いたのはその数分後だった。
開いた扉の隙間から顔を覗かせたフランは、少し汚れていた。何をしていたのだろうか?
「おはよう、お姉様。どうぞ」
「おはよう、フラン。ふふ、ありがとう」
観音扉の片側を開いたまま支えるフランが、挨拶と共に室内へ導く。どこに出しても恥ずかしくない妹の礼儀は、姉として純粋に嬉しく、自然に笑みが零れた。
部屋の中は明るかった。しかし照明は付けていない筈だったと不思議に思っていると、フランが後ろ手に扉を閉めた後、にこにこと嬉しそうに笑いながら説明してくれた。
「明るいでしょ? お姉様が来てくれた時はちゃんとお顔を見たいから、明るくしたの。ほら、あそこ」
言って、部屋の隅を指差すフラン。そこはただの壁で何も無く、しかし確かにそこから灯りが放たれているようだ。
「あそこって、何も無いじゃない」
「ふふ。あれは魔法よ、お姉様。パチュリーの魔術書を読んで、勉強したの」
褒めて欲しそうな顔で私を見上げてくるフラン。その頭を撫でてやりながら、私はもう一度部屋の発光点になっている場所を見る。
世の中には便利な魔法があるようで、物に頼らずとも灯りを得る方法があるらしい。あいにくと私はフランと違って、魔法に疎い……というか、興味が湧かなかったので知識がないのだから、どうして何も無いところで勝手に壁が光るのか説明されても理解出来ないだろう。何にせよ、フランが何かに興味を持って、楽しんでくれているのは嬉しい事だ。
一通り頭を撫でてから、そういえば、と私はフランを見下ろす。
「フラン。顔に汚れが付いているわよ」
ポケットからハンカチを取り出し、その汚れを拭う。埃だろうか、人の妹を汚すとはいい度胸だ。
ぐしぐしと拭ってやってから、その愛らしい顔から汚れが取れた事を確認する。
「ん……ありがとう。えへへ、お部屋の掃除をしてたから」
「部屋の掃除なんてメイドに任せればいいじゃない」
見られたくない物でもあったのだろうか。
「自分の部屋だし。それに、掃除したのはさっき言っていた魔法の為なのよ。灯りを付けるのだから、そこはきれいにしないといけないな、って思って」
「なるほどね」
実に聡明な娘だ。自分の部屋は自分で掃除するという発想からして卓越している。姉の私は部下を持つようになってからそんな考えは捨ててしまったというのに。明日は私も、自分の部屋は自分で掃除しよう。
そんな事を考えながら頭を撫でていると、おもむろにフランが離れ、私の髪を見上げて来た。
「お姉様、髪、少し乱れてる」
「ん? あー……さっき少し、外に出て美鈴と話していたからね。風に煽られちゃったかしら」
ふーん、とフラン。背伸びして、正面から私の髪を撫でた。乱れを直してくれているのだろう。
「うん。きれいになったよ、お姉様」
「ふふ。ありがとう。嬉しいわ」
フランを置いて、私だけ外に出た事については全く気にしていない様子だ。
パチュリーの言う通り、良い子なのだが、もっと我儘になってもいいと私は思う。無欲を悪とは言わないが、欲とは得てして人を成長させる原動力になるものだ。
(昔は雨の日でも外に出たがっていたのに……)
何がフランをそこまで変えてしまったのだろうか。もしもこの先、館の外から出たがるような事も無くなって、ずっと館の地下室にいる事を望むようになったら……私のしてきた事は、間違いだったという事になるのだろうか。
暗澹たる想いが顔を覗く。
「……お姉様?」
その様子を感じ取ったのか、どこか不安そうにしてこちらを見上げてくるフランと眼が合った。
いけない、今はフランと二人っきりなのだから。暗い考えをするならこの後にしなければならない。折角の姉妹水入らず、もっと楽しんで貰いたい。
「何でもないわ。フランに髪を直して貰って、嬉しくって」
誤魔化すのは気が引けるが、フランが笑ってくれるならそれも仕方ない。
一方のフランは私の言葉を聞いて何を思ったのか、少し照れたようで首を傾げている。その小さくて可愛らしい口が開いた。
「明日、お姉様の髪……私が梳いてもいい?」
「うん? いいわよ」
頬を赤く染めてそんな事を言うフラン。
何だそんな事、くらいの空気で私は答えたが、実際は嬉しくて堪らない。まさかフランに髪を梳いて貰う日が来ようとは、あのパチュリー・ノーレッジですら予測出来なかっただろう。
にやにやと頬が緩んでしまうのを必死に堪える。顔に出ていなければいいのだけれど。
「楽しみにしてるわね」
「うん。楽しみにしててね」
恥じらいながらも満面の笑みで言うフランを見て、必然と私は期待に胸を膨らませたのだ。
*
パチュリー曰く、夢というものはそれを見ながらにして、「これは夢なのだ」と認識出来るものらしい。
らしい、とは言ったけど……私は今現在、これが夢なのだという事を間違いようも無く認識出来ていた。だからこの場合の「らしい」の使い方はおかしいのかな。
付け加えれば、その状態で見る夢というのは、自分の望むがままに、自由自在に展開を操れるものらしい。
けど、私にはそれが出来ないのもまた分かっていた。よってこの場合は「らしい」の表現は間違っていない。
事実、拘束された身体はまるで動いてくれないのだ。あの時のように、冷たい質感を伝える銀の鎖は私を縛り、壁に縫い付けられている。
昨日と全く同じ夢。ここ何十年と思い出す事さえなかった、遠い遠い、昔の記憶。
この時代にはまだ、美鈴もパチュリーも咲夜もいない。正真正銘、私とお姉様、二人だけの時代。
懐かしさが込み上げてくるけど、それ以上にこれから起こる出来事を思い出して鬱々となってしまう。これから私は拷問を受け、そして、助けに来たお姉様に対しての人質として使われ。お姉様が目の前でいたぶられるのをこの目に焼き付けなければならないのだ。
どうしてこんな事を夢に見るのだろう?
パチュリーの夢講座を鵜呑みにするなら、これは私にとって必要な記憶で。私にとっての必要な、大切な何かを暗示しているものらしいけど。
(大切なものなんて、たった一つしかないのに)
それは分かり切っている答えなのだ。今更頭を抱えて悩むような事でもない。
それとも、無意識に何か……私が、何かを求めているのだろうか。
とてもそうは思え無くて、私は自分の夢の中で意味の無い自問自答を続けていた。この夢を見る意味、そんなあるかどうかも分からないものに思考を働かせるなんて馬鹿らしいとは思う。だけど、そうしている間は私を捕まえたあいつらも、私を助けに来たお姉様も来ないような気がして。
夢だって分かっているから、こんなに平静でいられるけど。もしも昨夜のようにあの光景が眼前に甦ったら。
考えるだけでも怖い、恐ろしい。あんな体験は二度としたくないというのに。
そんな想像をしてしまったからだろうか。私一人だけだった真っ暗な部屋に、あの女が姿を現した。
よく見渡せば、この部屋には扉が無い。夢だから?
いや、そんな事は問題ではないのだ。あの女が紫色の唇を可笑しそうに歪めて、私の耳元で何か囁いている。気色悪い。
縛られた身体を揺らして、私はあの女が視界に映らないようにする。するとあの女は、懐から銀の短剣を取り出した。真っ暗な部屋でも鮮明に輝きを映すそれが、私の視界に入るようにちらちらと翳された。そろそろ来る。
(――――)
遠い昔に味わった痛覚は、記憶をそのままに私に鋭い痛みを走らせた。夢だと分かっているのに、こんなものはまやかしに過ぎないと分かっているのに、身体は恐怖で縮こまる。
私への拷問に対して、ではない。
もうすぐやってくる、お姉様が痛めつけられる絶対的な未来に対して、だ。
あの女は血に濡れた短剣を愉しそうにふりふりと弄んでいる。相変わらず何を言っているのか聞き取れないが、その汚い唇は忙しなく動くのを止めなかった。醜い顔だ、吸血鬼の面汚しめ。
昔は、そんな風に思わなかったのに。他人を罵倒する権利なんて、私には無いと思っていたのに。私の能力のせいでいくら嫌われても、蔑まれても、傷付けられても。ずっと笑顔で笑っていさえすれば、きっといつか、皆分かってくれると、そう信じていたのに。
私はいつから、他者を信じるのを止めたんだろう。理解して貰う事を諦めたんだろう?
考えている間にも、私の身体はあの女から与えられる痛覚で揺れていた。ゆらゆらと、時に激しく。時に押さえつけられて。その度に銀の鎖ががちゃがちゃとなる。リアルな夢。
気が付くと、今度はあの女だけではなく、狭い部屋に何人もの人間達がいた。にやにやとした下卑た笑みを浮かべている。ゲスの笑みだ、吐き気がする。
その中には私を殴り付ける人間もいた。痛いは痛いが、短剣に比べればそれ程でもない。当時はどうだったかな……どうしてこんな事をされなければならないのか、どうしてこいつらがこんな事をするのか理解出来なくて、みっともなくぼろぼろと泣いていた気がする。
今にして思えば。この後お姉様がこいつらになぶられるくらいなら。皆、殺してしまえば良かったのに。
一瞬、私の視界が赤で染まる。いや、赤じゃない。鮮血? 私の血だ。私の赤黒い血が視界を覆ったのだ。なら、今度はお姉様が私を助けに来てくれる番。
そう意識した途端、夢だというのに。全身が竦んだ。あんな恐ろしい光景は、もう二度と。
「っフラン!」
これは夢、これは夢。ただの夢、現実に起こっている事じゃない。
そう言い聞かせながら、私は壁を壊して現れたお姉様へと視線を向ける。
ああ、だめ。これ以上は……。
お姉様が私の姿を捉え、驚愕と憤怒と絶望をいっしょくたにしたような表情を浮かべて、あの女に何かをまくしたてている。さっきは私を呼ぶ声が確かに聞こえたのに、もうその声は私の耳に届かない。
だめだよお姉様、早くここから逃げて。私を見捨てて。
私の声は出ない。
お姉様はあの女が吐き出す汚濁のような言葉を受けて、固まる。そして私を見て、直ぐに眼を閉じ、身体を弛緩するのだ。
笑う人間達。笑うあの女。醜悪な下賤な輩は、そうして私から離れ、お姉様へと近付く。
私は言葉にならない悲鳴を上げる。世界が真っ白に塗り潰されていく。
これは夢なんでしょう? 夢なら、早く醒めて……。
目が覚めると、そこはベッドの上だった。
身体はじっとりと汗をかいている。肌に張り付いた下着が気持ち悪い。
夢を夢として、認識していたからだろうか。昨日よりもそれは鮮明に脳裏にこびり付いていて、頭から離れそうにない。
私の心臓は早鐘のように鳴っていた。
ゆっくりと身を起こせば、その手が震えているのに気付く。
(……お姉様)
たった一人の肉親にして、私の最愛の人。お姉様は今、無事だろうか。
夢から覚めた今が現実であると認識出来ているのに、さっきまでの光景が脳裏に絡み付いて離れない。そのせいか覚醒した今この瞬間でも、お姉様が私の代わりになぶられ続けているような不安に駆られてしまう。
夢は、恐ろしい。
べたつく肌着の感触も無視して起き上がる。まずは確かめに行こう。絶対にそんな事は無いって分かっているけど、それをこの目で見て確認したい。確認して、安心したい。
私はろくに着替えもせずに、胸の内から拭い切れない不安を抱えたまま、地下室から出た。
*
昼間から億劫な天気だった。
燦々と輝く太陽の何と恨めしいことか。一日中、いや一年中曇でいいといいうのに。
しかし、自室のテラスから望む深紅の庭園は、日光を浴びて薔薇たちが生き生きと咲き誇っているような気がする。そんな嬉しそうな姿を見せられたら、たまには晴れの日も悪くないと思ってしまうのだ。
花も生きている、と言ったのは誰だったか。愛らしい視線で、慈しむように言ったのはフランだったが、パチェは科学的見地から見てどうだのと言っていたような。
親友と愛妹の月とスッポンぶりを思い、自然と笑みが零れた。
「何急に笑い出してるのよ、気持ち悪いわね」
「ん? ああ、なんでもないよ」
対面に座る巫女から窘められた。適当に誤魔化しながら咲夜に淹れさせた紅茶を口にする。
基本的に私は、紅茶を飲む時はあまり喋らない。その香りと味わいを楽しむ一時が何よりも好きだからだ。いや、最も好きなのはフランと過ごす時間だけれど。だからフランと二人でお茶会が楽しめれば、それが私の最上の一時となるのに……。
「なのに、一緒にいるのが霊夢だなんて」
「は? 何、何の事か分からないけど、喧嘩売ってるの?」
「え? いや、違う違う。今のは……うん、ただの独り言よ。気にしないで」
一番出してはいけない部分を声に出していたらしい。私も気が緩んだものね。
霊夢と二人でのお茶会。私にとってはまだ目覚めのモーニングティの延長だけど、霊夢にとっては昼食後の小休止らしい。そう本人が言っていたのだが、さっきから茶菓子ばかり食べているような。
「ねぇ霊夢。お菓子ばかり食べてたら、お茶会の意味が無いと思うのだけれど」
「あいにくと、吸血鬼とするお茶会は初めてだからね。勝手が分からないのよ」
言いながら、ぱくぱくもぐもぐ。この女に慎みという言葉はないのだろうか。フランの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい衝動に駆られる。
……。
「咲夜」
「ここに」
名前を呟くだけで直ぐに現れる。いつ何時でも、呼べば間髪入れずに来てくれるのはいいんだけれど、こっちの女はこっちの女で、普段どこで何をしているのだろうか。
「ちょっとフランドールのところに行って来て、爪の垢を調達して来てくれないかしら」
目の前の食いしん坊を見つめながら言う。巫女は口と手が忙しいらしく、視線だけを鬱陶しげに返してきた。
「失礼ながらお嬢様、自分で招いておいてその扱いはあんまりかと」
「そう? ならいいわ」
元々冗談だし。ちょっとはやってみたかったけど……いや半分、いや八割かな?
今度は咲夜の顔を見て言った。
「やっぱり、行って来てくれないかしら」
「お嬢様」
にこり、と微笑まれた。
「冗談よ、冗談」
肩を竦ませる。冗談の通じない従者だ。
そんなやりとりが鼻に付くのか、霊夢の眼差しは険しい。それでも何も言ってこないのは、やはり食べる事に集中しているからだろう。
「霊夢、貴方って……いやしいのねぇ」
ごくり、と霊夢の喉が鳴る。そして懐から取り出した札をひらひらと、私に見せ付けるように振ってみせた。
「はいはい、淑女淑女」
無言の脅しに両手を挙げて降参のポーズ。それだけで満足してくれたのか、霊夢は再びお菓子を口に詰め込める作業に没頭していく。
私は何故、霊夢をお茶会に誘ってしまったのだろうか……。
いや、それは勿論、他ならぬ私自身が霊夢の事を気に入ってるからなのだが、こうも人格に偏りがあると、やや辟易としてしまう。
そうして、私は他にする事も無く、紅茶を飲みながらその見事な食いっぷりを眺めるだけになってしまう。のだが、これはこれで返って新鮮でいいかもしれない。うちの面々は揃いも揃って淑女然としていて、おしとやかに、静かに食事をするものだから。そうするように教育、指示したのは他でもない私なのだが。
うららかな午後だった。とてもこれから、何か異変が起こるような予感なんて感じさせない程に。
それは昨日に引き続き、私がいつもの悪夢を見なかったせいもあるのだろう。私の心は完全に油断していた。
いや、それ以前に、フランが屋敷内を歩く頻度も極端に少なかったせいもあるのかもしれない。あの子は何を言っても自分の部屋から出る回数を増やす事はしなかった。だからこうして、お互いに打ち合わせをする事も無く客人を招いたりするような浅はかな行為もしている。それがいけなかったのか。
とにかく、私は油断していたのだ。
「――お姉様……?」
まさか、こんなタイミングで。愛しいフランが弱々しく私に声を掛けてくるなんて。
声のした方、テラスの入り口を振り返れば、そこには起き抜けの姿のフランが確認できた。が、どうも様子が普通ではない。髪はぼさぼさだし、その寝巻きも汗を吸って重そうだ。
私は椅子を蹴って直ぐにでも駆け寄りたい衝動をぐっと抑える。今は、霊夢がいるのだ。「外」用の演技をしなければならない。
「…………フランドール。今は来客中よ。下がりなさい」
声が少し、震えた気がした。こんな状態のフランは最近では見た事がない。何か悪い夢でも見たのだろうか。それだけならまだいいのだが、もし熱でもあったら。
顔はフランに向けたまま、視線だけを霊夢の方へ向ける。彼女も突然の訪問者の様子に目を剥いているようだ。これではフランと私のやりとりが印象に残るかもしれない。
「咲夜、フランドールを下がらせなさい」
こっちを切り上げて、後で必ず私も行くから。そう目線で付け加えると、咲夜は小さく頷いてフランドールの肩を支える。力を入れて進行方向を促しているようだが、フランドールは私を心配そうに見つめたままだった。
寝ぼけているのだろうか? それより早くこの場から離れてくれないと、こんな状態のフランを見たままではいつ場を忘れて駆け寄ってしまうか分からない。
目で咲夜に合図し、多少強引でもいいから連れて行かせるように指示を出す。
「そんなに邪険に扱わなくても、少しは相手してあげたらいいじゃない」
仲が良くないのは聞いてるけど、いきすぎよね。そう呟く霊夢の声が遠い。そうだ、私とフランは「外」ではそう通っているのだ。「監視」の為ではなく、「不仲」でフランを閉じ込めている。そう認識させておかなければいけない。それもまた、八雲紫との約束。
「まぁ、私には関係ないからいいんだけどさ」
そう続けて、お菓子を胃袋に詰め込む作業を再開する霊夢。その無頓着さが今はありがたい。
フランの方も、相変わらず視線は私を心配げに捉えていたが、やがて咲夜に促されて部屋へと向きを返る。安堵の吐息を漏らしそうになって、私の耳はフランのか細い声を拾った。
「……良かった、お姉様が無事で」
その声はとても不安そうで、いまだ信じられないといった震えが混じっていたが、それでも無理矢理納得した様子で、確かにフランは言ったのだ。それはきっと何かの悪夢の続きなのだろう、ひょっとしたら昔の事かもしれない。夢から覚めたばかりの状態がいかに落ち着き無く、心を不安に陥れるかを私は知っている。それが大切な、たった一人の肉親の事なら尚更――。
「フラン!」
フランは、私が酷い目にあった時のことを夢に見たのかもしれない。目が覚めてもその嫌な感触は消える事無く、ずっと胸にとぐろを巻いたままぎしぎしと心を締め付けるのだ。
気が付いたら私は立ち上がり、フランの名を叫んでその身体を抱きしめていた。こんな私を心配して、普段来もしない私の部屋まで来てくれた、その優しい心が何よりも嬉しくて、今すぐフランの不安を払ってやりたかった。
「フラン、大丈夫よ。私は何ともないわよ。だから安心なさい、安心して、まずはお風呂に行ってきなさい。ゆっくりお湯に浸かれば、心も落ち着くから」
汗で湿った髪を撫でてやる。冷たい身体は吸血鬼特有だと分かっていても、心配してしまう程生気が無い。当たり前の事が当たり前に思えなくなると、後は不安しか出てこない。熱は無いようだ。抱きしめ返す力も弱くない。小さな唇が紡ぐ声も震えてはいない。いつもの可愛いフラン。
視界の先で虹色の翼が嬉しそうに揺らめくのを捉えてから、咲夜を仰ぐ。その表情は、霊夢の前では隠さなければならない事を見せてしまった焦りの顔ではなく。そんな事よりも妹を想う私を見て微笑んでいるような、そんなくすぐったい笑顔。
今私が背中を見せている博麗の巫女は、どんな顔をしているのだろうか。それが問題だ。
私はフランをそっと離すと、静かに彼女へと向き直る。巫女の顔は、驚きの一点だけだった。
「霊夢。悪いけど、貴方を帰すわけにはいかなくなったわ」
言いながら、一歩彼女に近付く。それを受けて、彼女は小さく頭を振った。
「……本当は仲良かったのね、あんたら。別に隠す事でもないでしょう。私も誰に言いふらすわけでもないし」
「それじゃあ駄目なのよ」
彼女の隣に立つ。霊夢は座ったままだが、目線は同じ高さだった。
「私とフランは仲が悪く、対立していなければならない。その理由は言えない、とにかく不仲でなければならない」
「言ってる意味が分からないわ」
「理解する必要も、ない」
言って、拳に力を込める。吸血鬼の腕力を持ってすれば、弾幕などというまどろっこしい真似をするまでもない。致命傷を与える必要は無い。利き手を奪うだけで戦力が大幅に殺がれる事は、昔の私が知っているから。
しかし相手も博麗の巫女。妖怪退治の専門家だ。反撃を食らわぬよう、油断無く真っ直ぐと相手の目を睨み付ける。
握力の強さに自分の掌が悲鳴を上げるのを感じながら、握った拳をゆっくりと待ち上げて。
「お嬢様」
私と霊夢、互いに睨み合う中に声が響いた。いつの間にか、振り上げた腕を掴む温かさがあった。咲夜。
私は努めて感情を込めずにメイドに声を掛けた。
「咲夜、状況をよくよく、正しく認識しなさい。ここで判断を間違えるなら、お前を殺す」
「判断を間違えているのは、お嬢様の方では無いですか?」
見上げる。私を心配する、焦燥した表情がそこにはあった。
「ここで霊夢を殺せば、博麗大結界が消滅します。それではお嬢様の悲願も叶わなくなり、挙句には幻想郷の他勢力からも狙われる事になります」
「直ぐには殺さんさ。監禁して時間を稼ぎ、次の博麗の巫女が決まり次第、こいつを殺す。それで終わりだ」
「違います!」
否定する、叫びが放たれる。腕を掴む手に力が込められた。痕が付くかもしれないな。
「それでは八雲紫に存在を消されて終わりです! あいつはそんなに甘くないっ、いかにお嬢様と妹様が強くても、博麗の巫女が監禁されたとあれば幻想郷の全てが動く! 紅魔館だけでそれらを凌ぐ事なんて、出来る筈がない!」
「その通りね」
嘆願とも言える咲夜の叫びの次は、霊夢が口を挟んできた。そちらを見やる。
「少しは冷静になったら? 殺気は凄いけど、何で私が構えもしないか分かる? 『そんな事出来ない』からよ。幻想郷に住む者なら誰だって知ってる常識、博麗の巫女の殺生。博麗大結界。それら無くしてここは成り立たない。ここは幻想郷。全てを受け入れる理想郷は、誰にとっても手離し難い最後の楽園。つまり、敵は幻想郷の全て。あんた達だけでこの幻想郷全てに勝てるとでも?」
「お嬢様、考え直して下さい! 真に妹様の事を想うのであれば、ここは引くべきです!」
二人の視線の間に立たされる。一応、咲夜も霊夢も私の事を心配している事は分かる。だが、肝心な所を間違えていた。
私は順々に、言い聞かせるように、二人に振り返った。
「八雲紫は、手を出さない」
確信の込められた言葉は、時としてそれが有り得ない事柄でも信憑性を持たせる。口を噤んだ二人を確認してから、咲夜の手を振り解く。握られていた腕は、やはり赤くなっていた。
咲夜はともかくとして、霊夢までもが私の言葉の続きを待つような目線で見ているのには内心首を傾けたが、小さな疑問は無視して続きを話す。
「咲夜、お前はまだいなかったからな。『私達』の事を知らないのも無理は無い」
くっきりと付いた痕を優しく撫でる。何の感慨も湧かなかった。
咲夜はといえば、『私達』の意味を掴み兼ねてか眉を顰めていた。
「先代の巫女を殺したのは『私達』だ。幻想郷に来て直ぐに博麗の巫女を殺した。代わりがいるのは知っていたからな」
それが、吸血鬼事変。吸血鬼条約のきっかけとなった、大昔の「戦争」。魔女の知識と「案内人」の話で博麗大結界の存在を予め知っていた私達は、幻想郷での目的を達成する為に博麗の巫女を殺害する事にした。
妖怪の賢者を狙わなかったのは能力が未知数であり、替えの効く存在では無かったから。博麗の巫女はただの人間で、その役割を継ぐ存在が血ではなく、八雲紫によって見定められているとも知っていたから。
「博麗大結界は失いかけたが、今はどうかといえば、お前も知ってる通り健在だろう? 博麗の巫女はタイミングが良ければ替えが利く。霊夢」
そこまで話して、彼女の顔を悪意を込めて見つめる。名前を呼ばれた巫女は、臆する事も無く私を見返した。
「お前は知っている。博麗大結界は、万が一に備え術者が死んでも暫くは結界としてそこに在り続ける事を。お前は聞いている筈だ。今の私の話が事実である事を、他ならぬ八雲紫から」
霊夢は何も語らない。咲夜は何も言えない。
「替えが利く存在は楽でいい。それが失われそうな時、命を懸けなくても諦めと少しの感傷だけで済む。なぁ霊夢。博麗の巫女よ。吸血鬼事変の時、幾つの命が我が愛しの妹によって葬られたか知っているか? 私は知らないが、きっと八雲紫は把握しているだろう。フランを相手にするという事が、自分一人の命を懸ける事ではなく。幻想郷の数多の命を懸ける事になると、あいつは理解している。よって、八雲紫は霊夢を助けに来ない」
説得力は恐らく、実感の湧かない二人には微塵も無いだろう。実際に八雲紫が霊夢を特別視しているのは咲夜も、他ならぬ私も知っている事だ。しかし、今必要な物は説得力じゃない、咲夜を抑える言葉だ。
「そして、霊夢。お前は理解しているんだろう? この世には、絶対に覗いてはならぬ、深遠の淵がある事を」
無言で応えるその少女の姿が、咲夜に私の話が信じるに足るものだと理解させる。背後でよろめく雰囲気がしたが、今はそんな事どうでもいい。
「それがさっきの光景だ。理解したか? 理解出来たのなら、この状況に巡り合ってしまった事を後悔して朽ちろ。そして次代の巫女が博麗を継ぐその瞬間まで、光一つ届かない闇の中でゆっくりと死んでいけ」
「待っ――」
拳は振り上げられた。まだ理解が追い付いていない咲夜の制止も遠く、何を考えているのか微動だにしない霊夢の動きも間に合わない。ただ、振り下ろすだけ。
今までありがとう、そしてさようなら、霊夢。
*
「駄目よ、お姉様」
お姉様に抱きしめられてから、悪夢は完全にその姿を潜めていた。
今の今までずっとこの状況を静観していて分かった事がある。
一つは、私はやっぱりお姉様が大好きだってこと。
一つは、私がお姉様にとんでもなく愛されているってこと。
そしてもう一つは、今日と昨日に見た夢の理由。
お姉様の悲願、っていうのは聞かされた事が無いけれど、それが私に関係するものだっていう事は魂で理解している。だって今までもそうだったから。うぬぼれでもなんでもなくて、ただの事実。
大昔、私の能力を狙った狂研究者がいた。私と友達だと思っていた女の子は、私を罠に誘う敵だった。私と友達になってくれた小さな村の子供たちは、その全てが吸血鬼を憎む相容れぬ存在だった。大きな街では目立つからと、小さな町村を訪れる度に魔女狩りと出くわした。
私が危うくなるごとに、お姉様は全てを投げ打って私を助けてくれた。信頼も、友情も犠牲にして、何よりも私の事を優先してくれた。
愛されているのだ、と。私は理解するまでもなく理解したけれど。
何かを求める度に裏切られ、何かを失う私自身はともかく。
望みもしない殺戮を繰り返し、手にした安息さえも私の為に手離してきた、お姉様は?
日常の傍らにずっと潜んでいた、このままでいいのか、という疑問。その疑問が、もやもやとした煙のように捉えられなかった、その原因。
それこそが、今のお姉様との関係に固執した、女々しい私の感情。誰よりもお姉様から愛されたいと想う、私の我侭な子供心。
子供は自立しなければならない。守られているのは居心地がいいけれど、いつまでも守られ続けているわけにはいかないから。
「駄目だよ、お姉様。そんな事したら」
「フラン……」
振り下ろしかけた拳は、止まっている。霊夢の右肩を狙うように、その直線上にある吸血鬼の剛力は、まるで時を止められたかのように静止していた。
「お姉様の悲願ってなあに? 私はそれを聞かされた事はないけど、もしそれが私の為に必要な行為なら、お姉様にそんな事して欲しくない」
逡巡するような、戸惑うような。そんな表情。ああ、お姉様のそんなお顔、見たくないのに。
「お姉様は私の為に、いつも自分を犠牲にしていたよね。せっかく出来た友達も、逃げ込んだ村の人たちから苦労して得た信頼も、私を助ける為ならいつも振り返らなかったよね。今度は霊夢を、どうするの?」
「フラン……!」
私の言葉を受けて、お姉様の顔が歪む。身体が震えているのが分かる。両手を力なく垂らして、私を見つめる事しか出来ない、可愛そうなお姉様。そんなお姉様に、誰がした?
「咲夜以外では唯一、対等な人間だって認めた霊夢を殺して、どうするの? 対等な人間を裏切って得た悲願に、お姉様は満足できるの?」
返事はない。お姉様は俯いてしまっている。いやだな、私、お姉様のこと大好きなのに。私がお姉様を傷付けてるんだ。
「ねぇ、お姉様。私はお姉様が傍にいてくれさえすれば、それでいいんだよ? ううん、傍にいてくれなくてもいい、お姉様が自分の人生の為に生きてくれるなら、例え二度と会えなくなったとしても、私は幸せ」
「妹様」
咲夜が私に声をかける。その視線の先には、黙って俯くお姉様の姿があった。私も、それ以上続く言葉を、紡げなくなる。
少しだけ、静かな時間が流れた。お昼の風は涼しくて気持ちがいい筈なのに、肌寒い。
「どうやら、私は見逃して貰えるみたいね」
そう言って霊夢が席を立つ。その視線の先にあるのはお姉様じゃなくて、私だった。
「悲願とやらも、あんたらの事情もよく知らないけどさ。『救って』くれたお礼に、このことは他言しない事を誓うわ。どうせ見てるだろうから、紫にも私から言っておく」
「うん。ありがとう、霊夢」
そして飛び立つと思っていた霊夢は、その前に私に耳打ちした。
「貴方、しっかりしてるのね。レミリアのこと、頼んだわよ」
顔を上げて見つめると、霊夢は優しい表情を浮かべていた。自分はもしかしたら、殺されていたかもしれないのに。
私はやっと理解した。楽園の素敵な巫女。それは博麗を継ぐ巫女の事じゃなくて、博麗霊夢、その人の事だったんだって。
咲夜と二人で、遠くなっていくその背中を見送る。お姉様は、背を向けたままだった。
「咲夜。ごめんなさい、お姉様と二人でお話がしたいの」
「分かりました」
一瞬、少しだけ心配するような目をしたけど、直ぐに咲夜は頷いてくれた。
「ですがその前に」
そう言った咲夜の手には、さっきまで私が着ていた寝巻きが綺麗に畳んであった。私はいつもの、赤い服。咲夜お得意の、タネも仕掛けも無い不思議な手品ショー。どうやら着替えさせられる前に、身体の汗も拭いてくれたみたい。お湯で湿らせたタオルの感触が全身に残っている。こんな所で着替えさせられたのはちょっと恥ずかしいけど。
「ありがとう、咲夜」
咲夜はにこりと優しく微笑むと、小さくお辞儀をして消えてしまった。机の上には、新しいカップが一つ。私の、なのかな?
お姉様はまだ俯いている。何を考えているのか分からないけど、それ故に私も何て声を掛けたらいいか分からない。
さっきまで二人がお茶をしていた机に歩み寄る。汚れ一つ無いティーポットを傾けた。赤くない、普通の紅茶が湯気を立ててカップに注がれる。わざわざこっちも新しく淹れ直して来てくれたみたい。
俯いたままのお姉様を見て、私は確信する。
私が見た夢は、お姉様をこのままにしてていいのか、という訴えに他ならない。
私は椅子を引いて、腰掛けた。
「お姉様。一緒に紅茶、飲みましょ?」
「……ええ。そうね」
ずっと黙っていたお姉様だが、疲れ切ったような、憔悴したような声で言うと、私の正面に座ってくれた。その様子を見ているだけで心苦しい。私の言葉が、お姉様をこんなにも傷付けてしまう。しかし、それでも言わなければならない。
お姉様にはお姉様の考えがあるように。私には私の考えがあるのだから。
「ねえお姉様。さっきの話なんだけど」
お姉様のカップに紅茶を注ぎながら口を開く。優しい瞳で私を見つめるお姉様。
二人のカップに注がれた紅茶はどちらも手付かずで、湯気だけが昇っては消えていく。波一つ立てない紅茶、かと思えばよく見つめてみれば少しだけゆらゆらと揺れていた。私はどんな顔をしているんだろう。
「悲願って、なあに?」
聞いておかなければいけないだろう。いや、別に聞かなくてもいい事なのかもしれない。ひょっとしたら、本題に入る前の緩衝材なのかもしれない。お姉様と違い、私はなんて弱くて、臆病者なんだろう。
「それは聞かなければいけないこと?」
相変わらず優しい眼差しのお姉様は、まるで私の心を読んだかのようにそう答えた。言いたくないから、というわけじゃないのかも。もっと、私にとって大事なこと。それを理解した上で、私の回り道が本当に必要なのか、と問うているみたいだ。
「フラン。言いたい事があるならはっきり言っていいのよ。私達は姉妹なんだから」
遠慮なんていらない。そう言うお姉様は、とても寂しそうで、儚げだった。私が何を言いたいのか、もしかして予期しているのだろうか。運命を操る能力は、決して未来を覗く能力なんかじゃない。私に何を切り出されるかなんて、お姉様には分からない筈なのに。
カップを手に取る。湯気はもう立っていない。揺れる紅茶の波は、静かだった。
「私ね。お姉様の事、大好き。とってもとっても大好き。この世で一番好き。お姉様以上の存在なんて知らないし、お姉様の為に生きてお姉様の為に死んでみたい。お姉様とずっと一緒にいたいし、お姉様にずっと傍にいて欲しい。お姉様が幻想郷を捨てるなら私も捨てるし、お姉様が紅魔館を捨てて個になるなら私もそれに着いて行きたい。お姉様が今まで私にしてくれた全ての事に感謝してるし、私もお姉様の為に何かしてあげたい。お姉様が誰を何を殺しても壊しても私はそれを受け入れるし、お姉様の為になるなら私もこの手を何色にでも染め上げたい。お姉様の喜びはきっと私の喜びで、お姉様の悲しみはきっと私の悲しみ。私はお姉様を愛してる。これだけは絶対。お姉様を、愛してるんだよ……だからね、もう私には構わないで欲しい」
一息に告げる。告げた、告げてしまったその事実が、苦しい。両手に持ったカップの温かさが急速に失われていく。
私とお姉様の関係。それは守り、守られる事。
「私を守ろうと、私を助けようとする度に、お姉様は傷付いてる。私を庇うだけお姉様は何かを失っていく。信頼だったり、友情だったり、さっきの霊夢の事もそう。私はお姉様に、私の為にそんな風になって欲しくない」
机にカップを置いた。掌にはまだ、紅茶の温かさが少しだけ残っている。
「お姉様が私の為に傷付くのを厭わないなら、私はそんなお姉様を否定する。私はお姉様に、幸せになって欲しいから」
だから。その続きを言おうとして上げた顔の先。お姉様の表情を見て、私は硬直した。
「私の幸せは、フラン。お前と共に在るという事実。ただそれだけなんだよ」
お姉様は、微笑んでいた。とても優しい表情で、慈しむように。とても嬉しそうに、まるで大事に育てていた花が咲き誇ったかのように、満足そうにしていた。
一体いつぶりに見るだろう、お姉様のそんなお顔は。二人で初めて狩りをした時? 私から初めての誕生日プレゼントを貰った時? 私が話せるようになって、初めてお姉様の名前を呼んだ時?
ううん、そのどれでもない。今のお姉様の表情は、私が見た中で、きっと一番最高の笑顔。
ぽかん、と。きっと阿呆のように口を開けていただろう私を見て、お姉様のそのお顔が苦笑した物に変わってしまう。もうちょっとだけ、見ていたかったな。
「お姉様……?」
「ふふ……最愛の妹に、そんな風に想われていたんだ。そりゃ可笑しくもなるさ。嬉しくて嬉しくて、笑ってしまうのも無理はない。なぁ、そう思わないか?」
「相変わらず、上機嫌になると下品になるのね」
お姉様が笑いながら声を掛けた先。お姉様の寝室から出てきたのは、パチュリーだった。
なんで? そんな疑問を抱いた私を取り残して、パチュリーはお姉様の傍に歩み寄る。
「その悪癖、何とかしなさいよ。親友止めるわよ」
「硬い事言うなよ。今日だけは……いや、今だけは。許してくれ」
無言の批難を送ると、パチュリーはそのまま空いている席に座ってしまう。
そんな、せっかくお姉様と二人きりになれたのに。お姉様に、話さなくちゃいけない事があったのに……。
余程気落ちしていたのだろう、肩を落とした私に、お姉様が苦笑を向けた。
「なあフラン。お前の言う事も、理解してるんだ。私だって同じだったからな」
同じだった? 私の今の気持ちを、お姉様も味わった事がある?
不思議がる私の前で、読書のついでと言わんばかりにパチュリーが小さく頷いている。というか、なんでパチュリーがこのタイミングでここに……咲夜?
「ちょうど、パチュリーに初めて会った時だったかな。私がノーレッジ家に宣戦布告をする前に、お前、捕まってただろう」
「……ん、そんな事も、あったかな……」
誤魔化すが、完全に覚えている。お姉様の役に立とうとして、パチュリーの屋敷に忍び込んだのだ。あっさり捕まって、逆に足を引っ張っちゃったけど。
顔が熱い。よりによってパチュリーがいる時にそんな話をされるなんて……お姉様のいじわる。
「それだけじゃない。私はパチュリーの事を仲間にしようと思っていたのに、お前ときたら何を勘違いしたのかせっかく出来た友達を脅してパチュリーを殺そうとしたんだ」
「っう、うるさいなぁ! そんな昔の事、もういいじゃない!」
顔から火が出る程恥ずかしい。穴があったら入りたい。ああ、人間の言葉遊びも捨てたものじゃないかも、こんなにも的確に気持ちを表現出来るなんて。
もちろんその細部をはっきりと覚えている私は、二人の顔を見れなくて紅茶を口に流し込む。パチュリーが言った通り、上機嫌なお姉様は普段とは違って、ちょっと下品だ。いつもは人の失敗を事細かに言わないのに。やんわりと、相手に思い出させるようにぼかして伝えて、くすくすと上品に笑うのに。今は牙を隠しもしないで面白がっている。さっきのしおらしい姿はどこにいったんだろ。
「あの時は本当に、肝が冷えたもんだ。我が妹ながら、大胆不敵というか、単純一途というか」
「誰かさんによく似てるわよ。そっくりだわ」
パチュリーの言葉を受けて、私とお姉様、二人揃ってしずしずと紅茶を飲む。なんとなく罰が悪い。
「……確かにそんな事もあったけど、私が言ってる意味と少し違うと思うんだけど」
気を取り直して、話を戻す。パチュリーがなんでいるのかもよく分からないけど、もう気にしない事にする。
お姉様は相変わらずの笑顔で答えてくれた。
「何も違わないさ。私とお前、想う所はきっと、一緒なんだろう」
一人で納得したように、また優しく、見守るような笑顔を私に向けている。それだけで全身がこそばゆくなるのだが、それも無視する。この感覚も嫌いじゃないのだけど、今はそれに浸っている時じゃない。
「でも、お姉様がそれで良くても、私は嫌なの。お姉様が私の為に色んなものを犠牲にすると、それだけで私はお姉様に申し訳なくなって……お姉様には、お姉様自身の幸せの為に、生きて欲しいのに……」
自然と声のトーンが落ちてしまう。私、我侭かな。
お姉様に愛して貰ってるって分かっているのに、それを否定するような事を言っている私は、我侭だ。でもこの気持ちも本当。お姉様には、お姉様の人生が、交友関係があるのだから。私の為に生きて、私の為にそれらを犠牲にするのは、止めて欲しい。
「分かった」
そう、つらつらと考えていた私の耳に、お姉様の言葉が届いた。
……え?
顔を上げる。
「ふふ、何て顔をしてるんだ。そんなにおかしいか、私がお前の願いを聞く事が」
私はどんな顔をしていたのだろうか。笑っているお姉様の様子からすると、相当可笑しかったみたいだけど。
「う、ううん。おかしくは、無いけど……ねぇ、分かったって、どういう事?」
「紅魔館の仲間だけじゃない。これからは、私が出会う全ての者との関係を良好に保つように努めよう」
それは、確かに私が望んだ事だけど。
私が言っているのは、そういう事じゃなくて。
「私の為じゃなくて、お姉様の、幸せの為に、生きて欲しいの」
確認するように、ゆっくりと、丁寧に喋った。
「ああ。さっきも言っただろう? 私の幸せは、フラン。お前と一緒にいる事だ」
「――っ」
「ん? どうした?」
嬉しい。改めて、噛み砕いて言われるとその意味が真っ直ぐ伝わってきて。私の顔を真っ赤に染めるのだ。
今度は私が俯いてしまう。まともにお姉様のお顔を見る事が出来ない。嬉しくて恥ずかしい……けど、さっきの恥ずかしさとは違う、心地よい気持ちよさに包まれる。
(うー……どうしよう、凄く嬉しいよぅ)
顔がにやつくのを止められない。こんなだらしない姿はお姉様に見せられない。というより、見せたくない。
パチュリーが静かに「プレイボーイ、いや、ガールか」なんて言っているけど、聞こえない聞こえない。
「……じゃあ」
ようよう、かろうじて声を絞り出す。顔は俯かせたままだ。ちょっと、今はお姉様のお顔を見れない。
「もう、さっきみたいな事があっても、物騒な事は考えない?」
「ああ、考えないよ」
「誰に対しても?」
「約束する」
「私とお姉様の、本当の関係を見られても?」
「黙っててくれるよう、頼む事にする」
「私の問題は、私が解決したいんだけど……」
「協力だけに留めるよう、善処しよう」
「私がピンチになったら?」
「それとこれとは話が別だ」
まぁ、そうだよね。顔を上げる。
「うん、分かった。約束だよ」
「ああ。フランに直接的な危機が及ばない限りは、私は私の交友関係を大切にしよう」
良かった。それなら、少なくても今までみたいな、私の為の犠牲も減るだろう。
つまり、お姉様の人生も変わるんだ。信頼の裏に警戒を、友情の影に裏切りを潜ませる生活は終わり。お姉様が、自分の為に生きてくれるんだもの。
そう意識するだけで、胸の高ぶりを抑える事が出来ない。勇気を出して言って良かった。もし本当に、お姉様が私と姉妹の縁を切ってしまったら。その覚悟も出来てはいたけど、やっぱり、想像するだけで恐ろしい。
いつの間にかお姉様は、パチュリーに何事か話しかけていた。その声は私にも届いている筈なのに、私には何を言っているのか聞き取れない。たぶん、舞い上がっているからなんだろうな。
不自然なまでに冷たくなった紅茶を口に運ぶ。湯気一つ立たない紅茶は、とてもとても美味しかった。
*
庭園を望んだ最愛の妹とのお茶会は、まさに至福の一時だった。親友もいたのだが、それ以上にフランの存在が眩し過ぎて妹とばかり話す結果になってしまったのは、少し申し訳なく思う。
あれから陽も沈み、暗くなった辺りは夜の活気に溢れている。妖怪の蠢きと妖精の騒がしさが、木々を吹き抜ける風に乗って伝わってきた。いつの間にかこんな時間になってしまっていた。本来なら今日は、フランに髪を梳いて貰う筈だったのに。無性にそれが残念で、自分も夜の森に混ざろうか、などと浅はかな遊び心まで湧いてきてしまう。
夕食は食べる気にならないから、と咲夜に伝えた所、可愛いフランが「私がお姉様の分も食べる」と言ってテラスを抜け出してから、幾ばくか。
親友の無言の批難が妙に痛い。
分かっている。私は姉として、最も愚かな行為を犯したのだ。稚拙で浅慮な、嘲笑されても誰にも文句は言えない程の過ち。
見栄でもプライドでも無い。苦し紛れの誤魔化しでも無い。私はそれが最善だと思ったからこそ、そうしたのだ。
だから。
「その為に、パチェをあらかじめ呼んでおいたのよ」
親友は何も答えない。私の視線は夜の湖と森林に向けられている為、その表情を窺い知る事も出来ない。
私は頬杖を付いたまま、ここではない遠くを見つめて言葉を続けた。
「たった一人の大切な。たった一人しかいない私の最愛の妹。フランに嘘を吐いた。貴方を呼んだのは、それを見届けさせる為。この事を知る唯一無二の親友といる事で、私は永遠に許されない罪を背負う。それでいい」
妹に嘘を吐いた姉など、償い切れない罪と背負い切れない罰で潰れてしまえばいいのだ。
魔女は応えない。彼女が何を考えているのか分からないし、知る必要も無い。逆も然りなのだから、これは私のただの独り言。今夜一夜限りの悪魔の懺悔。
私は永遠に許される事は無いだろう。パチェに、ではない。フランに、でもない。フランを大切に思ってくれている美鈴や咲夜にでもない。この私に、なのだ。
フランが放った言葉の一言一言が、たかが言霊でありながら何と重いのだろう。そこに込められた姉への想いを理解してしまう分、私には白木の杭の一撃よりも遥かに身体に響く。心臓を清められた聖水漬けにされるよりも、太陽の光をこの身に数日と浴びせ続けられるよりも、私にとってはそのどれよりも芯の奥から魂を揺さぶられてしまう。
私はこの世で最も恐ろしい事とは何かを知っている。
だからなのか、過剰なまでに愛妹のフランを想ってしまう。
今日の事でもそうだ。フランが私に想いを告げてくれた事は天に召されてもいいぐらいの心持ちだったし、フランにもう構わないでくれと言われた時は遂に地獄へとこの薄汚れた存在を叩き落す時が来たのだと覚悟を決めた。
しかし、それ以上に私の心を動かしたのは、フランが私に、自分の意見を言えた事だった。
姉妹の邂逅を果たした今でも思う、これで本当に良かったのだろうか、と。それはきっと、これからフランが私に指し示してくれるに違いない。もしもこの、愚かな姉の行き着く先が妹の恨み怨念の柱となったとしても。今日の事だけでそれら全てを受け入れてしまえそうだ。
「レミィ」
唐突に、親友が声を掛けてきた。私は首を傾げて、顔を彼女に向ける。
珍しく魔女は、私と目を合わせてきていた。いつもは会話をしながらも読書を続けているというのに。
パチェの視線は間違いなく私を射抜いている。心臓が、ざわついた。何を、言うつもり。
「貴方はいつまで『昨日』を見ているの?」
言った後も、魔女の瞳は私を捉えて離さない。その問いに対する解答を得なければ、この眼差しからは逃れられないだろう。
「いくら親友とはいえ」
そこには触れて欲しく、無かったな。
そう続く筈の言葉は、出てこなかった。
「フランドールは今日、進み始めたわ。レミィ、貴方という偉大なる姉の為に、今までの自分と向き合う決意をしたのよ」
私は答えない。いや、答えられない、と言うべきか。
それは私自身がずっと疑問に思っていた事。私はいつまで経っても過去から抜け出せないでいる。
遠い遠い、昔の記憶。なのに昨日のように思い出せる、思い出してしまう記憶。生まれてから幻想郷に辿り着くまで、血が絶えなかった日々。幻想郷に移住してからも続く、安息を探す日々。
霊夢は言っていた。ここは理想郷。最後の楽園。その通りだ。ありのままでいればいい。
しかし理想とは、楽園とは。犠牲の上に成り立つものだ。
それはフランも理解している。頭ではなく、経験で理解しているのだ。だから今まで外に出たいとは言わなかったのだろう。これからは、分からないが。しかし、もし出たいと言い出しても。
能力なんていらなかった。泣きながら叫ぶ幼い彼女の姿は、未だに脳裏に焼き付いている。
私は姉だ。あの子の、たった一人の姉なのだ。妹を守るのは、姉として当然だから。
この世の全てを私の敵に回してでも、成就させたい悲願がある。
フランは幻想郷に来てから、よく笑うようになった。気を遣ったような可愛そうな笑顔ではない。見た目相応の、見る者を温かくさせる朗らかな笑顔で。
きっと明日からは、紅魔館で愛らしい笑顔を振りまくフランの姿があちこちで見れるだろう。
でも、私には。それでも私には、明日が見えないのだ。どこをどう歩いて、いつ誰と会えばいいのか分からない。何をしても結果は裏目に出るばかりで、私達に平穏は無かったから。
パチェは、昨日ばかり見るな、とは言わなかった。
それがせめてもの救いだけど、いつまで見ているのか、なんて問われても私にだって分からない。
運命をただ操るだけの能力に、何の意味があるというのか。
私に出来る事など、本当に少ない。
親友と重なった視線は、解かれないまま。
私には、泣かないように声を搾り出す事しか出来なかった。
「『昨日』しか、見えないのよ」
今はただ、妹の成長に喜び。
今はまだ、妹と生きる事だけを考えさせてくれ。
私もパチェも、それ以上の言葉は続かなかった。
いや、すごいわ。意味はないけど、俺が保証する。
文句なしの賞賛を送りたい。
ただし一言添えておくと、終盤の"嘘"以降のくだりが少し難解ではあった。
まぁブロックごとに緩急ついてて、そういうバランス感覚もあるか、と思えばむしろ評価対象になる。
読んでいない人は損をしている、そう言い切っても良いくらい。