深夜から降り始めた雪は朝を待たずに止んだが、不親切にも足首までふわふわと埋まる新雪を残して行った。一歩足を踏み出す度に、ぎゅっぎゅっと微かな呻き声を上げる雪は、徐々に徐々に足の指先から感覚を奪っていく。
「寒ぃ……」
ホゥ、と吐いた息で白く冷たくなった手を温める。てっとり早くスペカでも使ってしまえば多少は暖かくなるんだろうがそんな事は無粋だし、何より融けた雪のせいで足元がべしょべしょになってしまうのが嫌だった。
冬には冬の顔がある。
利便性や利己主義でその顔を潰すのは、四季そのものの否定だ。変化を厭えば生きる彩が無くなるのは自明の理で、そんなつまらない未来は御免だ。
とは言え、寒いのは寒い。雪深い幻想郷の真冬は、特に。
慧音の上着を借りて来たは良かったが、それでも冷たい空気は袖やら襟から容赦なく吹き込んで来て、どうにも震えが止まらない。雪中行軍で荒くなった息は、白く棚引いて足元の雪の白さに吸い込まれていく。
呼吸の度に、慧音の臭いがする。匂いではなく、臭いだ。慧音の上着は、砂糖に漬けた晩白柚みたいな香りの奥に、残念ながら薄らと獣独特の臭いが混じる。
これは仕方が無い事で、私はそれを否定しないし、指摘もしない。慧音のにおいがする、とだけ言って置けば、事は丸く収まる。好んで頭突きを頂く趣味は無い。特に、照れ隠しにアイツが放つ一撃は、理性の抑えが利いていない分、殊更に痛いと私は知っている。
目指すは香霖堂だ。
外の世界の煙草は、あの店にしか置いてない。
私が煙草を吸うと慧音は、生足でミミズを百匹踏み潰した様な嫌悪の表情を浮かべるのだが、仕方ない。辞める理由が無い物を辞めなきゃならない必然性は無い。大体、蓬莱人は肺ガンとは無縁だ。そうじゃなきゃ、私は輝夜に煙草を山ほど贈っていただろう。対象が自主的に煽ってくれる毒薬なんて有ったら、暗殺稼業は軒並み廃業だ。
そんな都合が良い道具じゃないからこそ、永遠亭に置き捨てたりせずに自分で吸っている。そもそも、あっちには医療従事者も居る事だし、尚更効果は薄いだろうな。
煙草は、良いモノだ。
あの一酸化炭素が齎してくれる甘い忘我と、ニコチンやタールに悲鳴を上げる肺の細胞への被虐的な痛みの恍惚、そして火口の燃えるジリジリという音は、私の長い永い人生を、ほんの少しだけ軽くしてくれる。
毒が効かない身体な分、解かれる肩の荷は鴻毛位に軽い物でしかないが、刹那染みたささやかな時間を浪費するのに、これほど優しい道具は他に無い。
さて香霖堂にたどり着くと、ボロ臭い道具屋の屋根にもまた、雪は平等に降りていた。
これ以上積もったら崩れるんじゃないか? あの家は。
雪かきなら手伝ってやらんこともない。煙草をオマケしてくれるんなら、の話だが。何事にも見返りは必要だ。そんな打算を胸に「邪魔するよ」と扉を開けると、私の鼻を異臭が叩いた。
「うっぷ……くさ……」
「――やぁやぁ、よく来てくれたね、お得意様。歓迎するよ」
道具屋の雑多な店内を漂う薄い煙の向こうから、安楽椅子が軋む音に混じって店主の声が聞こえて来た。棚の上に立ち並ぶ用途不明の道具は膨大な数になるが、どうやら埃の堆積している物は一つも無い。店内は薄暗く、建物も古いせいで汚い印象こそあるが、その実、掃除は行き届いているらしい。
「何だ? この臭い……干物になったイモリでも焼いてんのか? アンタ、道具屋から黒魔術屋にでも宗旨替えしたのか?」
「まさか。これも煙草の臭いだよ。とある伝手から新しい喫煙具と葉っぱを貰ったんだ」
そう言って香霖堂の店主こと森近霖之助氏は、口に咥えた道具を指し示した。
木製の火皿に、良く判らないがテラテラとした材質の羅宇と吸い口。遠目ながら火皿の口は大きく、刻み煙草なら十口分は入りそうに見える。私はその道具に見覚えがあった。
「――なんだ、西洋煙管か……随分とハイカラな物を取り扱う様になったな」
「パイプ、と言うらしいよ。今は」
そう言って店主は、大きな溜め息と共に煙を吹き出す。まだ慣れてないと見えて、彼の口から噴出した煙は外の雪位に真っ白で濃密だった。私は店内を横切って、殆ど商用には使われていないらしい会計口まで歩み寄り、適当な丸椅子を引き寄せてそれに座った。
何とも、鼻を突き刺すような臭いだ。
恐ろしく攻撃的な線香が存在するなら、きっとこんな臭いをまき散らすんだろう。葬式で使おうもんなら死人がブチ切れて目を覚ますに違いない。
「アンタはあんまり上手くないみたいだな。前に吸ってる奴を見た時には、もっと煙が上品だった気がする」
「結構難しいんだよ。僕は始めたばかりだし、仕方が無いね」
「煙を肺に入れないとは聞いたが、そんなんで吸ってる意味は有るのか? 美味いのか?」
「味じゃなくて香りを楽しむ物なんだよ……それに口腔喫煙と言ってね、煙草の持つ悪い成分は口の粘膜から吸収されるんだ。だから、満足度は紙巻きの比じゃないね。一度火を点ければ、一時間近くは吸って居られるし」
「へぇ……」
少々興味を引かれつつ、私は会計口の上に並べられた品々を見る。
冷め切ってるらしい緑茶と、金属製の丸い缶が置いてあり、その横には燐寸の箱と、判子みたいな金属製の棒に爪楊枝みたく細い棒と刃の鈍い小刀の様な物の付いた奇妙な三点セットの道具、そして木製の靴べらみたいな皿が置いてある。私は無断でその皿を指で抓み上げた。きっとコレの上にパイプ? を置くんだろう。
前に見たのはいつだったか。確かまだ私が外の世界に居た頃で、気持ち悪い位に西洋の物に目が無い妖怪の住処だった。人の形はしていたが目の玉が真っ黒で、触ったら刺さるんじゃないかって位に耳の尖った男だ。小刀みたいな爪をきっちり揃えてて、その手で道具を神経質に扱う様は実に奇妙だったな。
何で私はそんな奴の住処に行ったんだっけ?
縄張り争いだったか、私が手下を殺したせいだったか、何かそんな穏やかならざる理由だったのは確かだ。殺し合った記憶が無いって事は和解の方向で話は終わったんだろう。今では奴の名前も思い出せないのに、そんな詳細だけは精細に覚えてるのは、変な感じだ。
「で、今日は、いつものかい?」
どっこらしょ、といった具合で安楽椅子から立ち上がった店主の声で、私は現実に返って来た。
「いやいや、ちょっと待った」
店の奥へと、いつも私が買う紺色の缶に入った両切り煙草を取りに行こうとした店主を引き留める。
「アンタのソレは、売り物か?」
「非売品だよ」
店主が咥えたパイプを指した私の一言は、即座に切り捨てられた。
「……だろうな」
ふん、と鼻を鳴らした私は細長い木の皿を会計口の上に置いた。
大した親交がある訳でも無いが、この男に商売をする気が無いのは知っている。気に入ったり、自分で使えると判った物は軒並み非売品にしてしまうのだ。後に残るのはこの男のお気に召さなかった品物ばかり。それが判った上で尚、金を出す気分を保てるのは余程の馬鹿かお人好しだ。コイツがどうやって生計を立てていられるのか、不思議でならない。霞ならぬ煙草の煙でも食ってるのか? 大した自給自足っぷりだ。光合成みたいだな。草食系ならぬ、草系男子って奴か。
ま、期せずして常連かつお得意様に分類されてしまった私の言えた義理じゃないか。
「これは駄目だけど、他にも一本貰った物が有るから、それなら良いよ」
「え? 本当か?」
「嘘だよ――と言ったらどうする?」
「期待持たせやがって、って言いながらアンタの腿に蹴りを一発見舞うかな」
「それじゃ持って来よう。ちょっと待っててくれ」
そう薄笑いを浮かべた店主が、店の奥へと冬眠前の熊みたいな足取りで消えて行く。
人を食った様な物の言い方しやがって、と私は苦笑いしつつ勝手に湯呑に手を伸ばした。
以前自分は半妖だと言っていたから、もしかしたら本当に人を食った事が有るのかもな。いや、どうだろう。半分妖怪って事は半分人間って事で、半分は自分と同じ種族を食べる気になんてなれるのか?
里の連中が美味しい美味しいって言いながら、ましらを食う様なもんだろうか?
もしそんな気分なら、きっと違うんだろうな。アイツら不味いし。好んで食いたいと思う対象じゃないんだろう。多分。
なんて取り留めの無い事をボンヤリと考えている内に、店主が戻って来た。
「お待たせ」
咥えたパイプの火皿から休火山よろしく細い煙を棚引かせる店主の手には、会計口に置かれているのと同じような平たい丸型の缶と、何だか妙な代物が握られている。
一見すると黒い箱だが、長方形じゃないみたいだ。細い部分と太い部分で構成されていて、細長い部分はある地点で急に膨らみを見せて、連続的に太い部分へと変化している。きっとパイプがピッタリと入る様に設計された箱なんだろうな、と私は見当をつけた。ただ、店主が今咥えている物よりは、少々細めの奴が入っているらしい。
「へぇ、洒落た入れ物だな」
「取扱いに気を付けなきゃならない道具らしいからね。火皿が割れやすいんだ」
言いつつ安楽椅子に座った店主が咥えていたパイプを木の皿の上に安置し、黒い箱に取り付けられた金色の留め具を開ける。
「ほぉ……」
中に入っていたパイプを見て、私は思わず身を乗り出してしまう。
その細身のパイプの火皿は、以前見た物とも店主が咥えている物とも違って真っ白だった。絶世の美女の几帳面に手入れの行き届いた爪の先端みたいだ……と思った所で不意に輝夜の奴の小憎らしい顔が浮かんできて、私は慌てて頭を振るう。いやいや、慧音の方がずっと美人だし、あんな奴の事なんか認めないし、と自分に言い聞かせるが、何故か負けた気がした。何かに。畜生。
咳払い。
……と、まあ私の脳内で繰り広げられた、下らない自給自足の小競り合いは抜きにしても、店主の持って来たパイプは実に見事な代物だった。
白い火皿の部分には花や葉っぱ、それに螺旋状の装飾等々が所狭しと為されていた。
羅宇と吸い口は橙を基調とし、そこに白や黒の波状模様が混じっている。
材質については一見しただけだとサッパリ判らんが、それでも成程、壊れやすいという店主の言葉には得心が行く。彫りが繊細だ。安物の煙管よろしく灰皿にカン、と打ち付けたら割れてしまいそうな、そんな危うい線の細さがある。
「……随分良い物みたいじゃないか? どうしてそっちじゃなく、こっちの方が売り物になるんだ?」
手渡された入れ物を会計口にそっと置きつつ、私は木皿の上のパイプを指差す。羅宇の部分を手繰り寄せて火皿を包み込むようにそれを持った店主は、私の問いに肩を竦めた。
「落として割ってしまったら後悔してもしきれないし、僕が持つにはちょっと女性的過ぎるからね。非売品にしてずっと眺めてても良いんだけど、そのパイプは特殊な材質らしくて使えば使う程に価値が出るらしいんだ。だから――」
「成程アンタの腹が読めたぞ。私に売って、自分の代わりに使って価値を高めて貰おうって魂胆だ。違うか?」
「否定は出来ないね」
いけしゃあしゃあと言ってのけて吸い口を含んだ店主だったが、しかし火は消えていたらしく火皿からも口からも鼻からも煙は出なかった。予期せぬ不発に首を傾げた店主が燐寸を擦り、再び火皿に詰められた葉に着火すると、またぞろ暴力的な線香の香りが幅を利かせる。やれやれだ。
「――で、価値が出るってのは一体どういうこった?」
一つ二つと咳をした私が店主に尋ねる。ニコチンが程良く回っているのかトロン、とした目を大儀そうに投げ掛けて来た店主が机の上の白いパイプの火皿を指した。
「この火皿の材質は海泡石と言ってね。喫煙中に出てくるタールやら何やらを吸着する性質があるんだそうだ。すると、この真っ白な火皿の部分が少しずつ少しずつ琥珀色、ないしは飴色に染まって行くんだってさ」
「本当かぁ? 何だか石の染物みたいに聞こえるんだが、与太の類じゃないだろうな?」
「本当だよ。まあ、厳密に言えば染物って訳じゃ無く、火皿から漏れ出てくる煙によって
表面に色が付くっていう原理らしい。ただ、それには何十年と掛かるらしいけどね……雨粒だって大きな岩を砕く事が有るだろう? 何事も継続が物を言うのさ」
「ほぉ……」
何とも気の長い話だ、と私は箱の中に納まっているパイプの白を見下ろして思った。
普通の人間じゃ、何十年なんて途方に暮れる年月だ。長命な妖怪とか、私みたいな訳有りじゃないと、一から琥珀色に染めようなんて思えないんじゃないか。
「……つまりアンタは、その継続とやらが面倒臭いんだな」
「まぁ……物事を一つの側面からのみ捉えた場合、そう言えなくも無いんじゃないかな」
「素直にそうだ、って言えよ……」
ツンとそっぽを向いて煙を吐き出す店主に肩を落としつつ、私は羅宇の部分を指で抓んで箱からパイプを取り出す。
石で出来ているって割には、結構軽いな。元々脆い素材の上に、中をくり貫いてるってのも有るんだろう。
「あぁ、そうそう。火皿の部分には触っちゃ駄目らしいよ」
細工の部分を人差し指で撫でてみようとした所で、店主が思い出したみたいに口にした。
「何でだ?」
「指の脂がタールなんかの吸着を阻害するから、素手で触ったりすると良くないんだって」
「げ」
慌てて伸ばし掛けていた指を引っ込める。成程、取扱いには思っていたよりも神経を使うらしい……うん、既にちょっと面倒になって来たな。
「因みにコレ、幾らだ?」
「無料で良いよ」
「え? マジで?」
「その代り、綺麗に飴色に染まったら返してくれ。非売品にするからさ」
ハァ? と私は軽く店主の正気を疑う。結構本気で、コイツは何を言ってるんだ。
「……それじゃ、販売じゃなくて貸与じゃんか。アンタ本当に商売人か?」
「どうせお金を出して買って貰った所で、綺麗に染まったと聞いたら僕が欲しくなるのは判ってるんだ。なら、最初からそういう契約を結んでおいた方が、後々面倒じゃないだろ?」
「……で、私が返したくないって言ったらどうするんだよ?」
「泣く」
「ああん?」
間髪入れずに仏頂面でそう返した店主に、私は思わず言葉ならぬ語気を荒げて聞き返す。
「泣くぞ。君の前で。団子をねだって里の往来で駄々を捏ねる子供の様に泣き喚く。やだ、やだ、ってメソメソしゃくり上げながら泣いてやるぞ。大の大人が自分の足元で半端じゃない醜態を晒す事に、君が耐えられるとは思わないね」
「……お前、尊厳とか無いのか? 仮にも成人男性としての誇りは?」
「時に自らの誇りさえもかなぐり捨てて、目的を達成できるのが大人だと思うよ」
火皿の中で灰になっている葉っぱを金属の棒で押した店主が、再度燐寸を擦りつつ意味深な微笑みを向けて来た。
「いやそんなキメ顔された所で、スッゲーダサい事を言ってる事実は変わらんし……」
何だろう。冗談なんだろうか。それとも純粋にアホなのかもしれない。なんで私、こんな意味不明な脅しを掛けられてるんだろう。溜め息。
「――大体君は、喫煙が出来ればそれで良いんじゃないのかい? 何か物に対して格別な執着心が有る訳でも無いんだろう? なら、何十年間分の喫煙方法が確保できた、と前向きに物事を考えてくれても良いんじゃないかな?」
「…………むぅ」
不覚にも心を揺さぶられてしまった私は、きちんとパイプを元通りにしてから腕組みをして考え込む。
何十年。
言葉にしてしまえば一瞬だが、その月日は千年以上生きて来た私をして膨大だと言わしめる。
長い期間だ。私の気がどう変わるか判らないし、そもそも壊してしまうかもしれない。もしかしたら店主の興味も無くなってしまうかもしれないし、その間にまた新しいパイプが入荷するかもしれない。
……なら、悪い話じゃないかもしれないな。
確かに私は、煙を燻らせて長過ぎる人生の時間を浪費したいだけだ。仮にこのパイプが気に入ったとしても、また同じ物が入荷しないとも限らない。もしそうなれば、私は片方を返してもう片方を丹精に染めて行けば良い。
何よりパイプは、一度点ければ一時間近く吸っていられるというのが魅力的だ。私の目的にピッタリじゃないか。今吸ってる紺色の缶の両切り煙草よりも、ずっと経済的だろう。
現状、外の道具が手に入るのはこの店しかない。私がここで首を縦に振らなければ、先の言葉通り店主はこのパイプを非売品にして、棚の奥ででも埃を被らせて置いてしまうのだろう。それは余りにも勿体ない。
「そうだな……仕方ない、アンタの策略に乗ってやるよ」
ポン、と手を叩いて結論を述べた私に、店主は満足げな表情を浮かべる。
「賢い買い物をしたね。こういうのを、『うぃんうぃんの関係』って言うらしいよ」
「何か絡繰り好きの里の子供なんかが喜びそうな関係だな。それ」
絡繰りの駆動音みたいな……いや、下らないな、無し無し。
「それと、コレはサービスだよ」
そう言って店主は、先ほど入れ物と一緒に持って来た真鍮色の平たい丸缶を差し出して来た。会計口の上に置いてある奴と同じような缶だが、表面に描いてある絵が違う。
「これが葉っぱか?」
「そうだよ。様子を見るに、僕が今吸ってる奴はお気に召さないみたいだからね」
「まぁ……嫌がらせかって位に臭うしな」
ハハ、と店主が曖昧な笑い声を上げて、先ほど火皿の中の葉っぱを押し付けていた金属製の道具をひっくり返す。何をするのかと見ていると彼は道具の反対側の細くなっている部分を、その缶の蓋の隙間に差し込んだ。
「こうしないと開かないんだよ」
訝しげな表情をしていたのだろう私に、店主は目線を向けることなく説明して来た。ふうん。
程なく蓋が開き、それと同時に店主の漂わせる煙を掻き分けて、フワリと甘い香りが私の鼻を突いた。
「お? 甘い匂いがするな……」
「着香してあるんだよ。蜂蜜とバニラ、だったかな?」
「へぇ……」
生返事をしつつ、私は店主から受け取った缶の中身を見る。紙製の中蓋を剥がすと、太目に切り揃えられた煙草の葉っぱがぎっしりと詰まっていた。黒や薄茶の葉っぱが入り混じっている辺り、色々な種類の葉っぱを混成させているのかもな、と思った。
ウッ、と息を詰まらせてしまいそうな位に強く、甘い芳香。その香りは子供向けの駄菓子を思わせる人工的な平坦さを持っているが、どこか上品さを残して肺の腑へと落ちて行く。一回に一つまみ分吸えるとして、この缶で一体どれほどの時間を過ごす事が出来るのだろう。膨大に思える道のりに、私は自然と心が躍った。
「試しに吸ってみるかい?」
「是非」
「判った。葉の詰め方にもコツがあるんだ。ちょっと見ててくれないか」
そう言って羅宇の部分を抓んだ店主が箱からパイプを取り出す。懐から小さめの手拭いを取り出して下から火皿を包む。成程、ああいう風に持てばいいんだな。
「海泡石は燃えないからブレークインは要らないかな……」
「あ? ぶ、ぶれ……?」
「ブレークイン。火皿の内側に炭素を付着させて、木製の火皿が焦げないようにする事」
「ふうん……」
納得したような声を出しつつも、私は既にその情報を頭から除外している。横文字は苦手だ。必要のない知識なら、尚更覚える必要はないだろう。
「指で抓んだ葉っぱを、三回に分けて火皿に詰めていくんだ。最初は柔らかく。徐々に固く詰めていって、最後にこの道具で表面を平らに成らす」
身体を前のめりにさせて、店主の示す手順をしっかりと穴が開く程に見る。引き籠りの割には太い指だ。道具屋ってのは、何やかんや力仕事も必要になるからだろうか。
「ほうほう、なるほど」
「これで詰め終わりだ。次は火のつけ方を教えよう」
そう言って店主は木の皿の上に海泡石のパイプを置くと、自分が咥えていたパイプから爪みたいな小刀で灰を掻き出し灰皿に落とした。
「本当は火皿がちゃんと冷えてからの方が良いらしいけどね。味が鈍ってしまうから」
「ふぅん、何か悪いな。説明の為とはいえ」
「いや、良いんだよ。一回吸う毎に冷やすのは面倒だからやってないし」
店主が最初から会計口の上に置いてあった缶を開けて、その中身を自前のパイプに詰めていく。漂っていた煙とはまた別種のキツイ臭いが漂って、私は思わず顔を顰める。
うえ……何だろう、燻製肉みたいな臭いがする。良くこんな葉っぱを使う気になれるな。
「はい、詰め終わった」
判を押すみたいに葉っぱを平らに均した店主がパイプを咥えた。
「で、火皿の上で円を描くようにして火を点けるんだ。空気を吸い込みながらね。その辺は普通の煙草と同じだけど――」
「肺には入れないんだろ? 判ってるさ。その辺は、やりながら覚えるしか無いかな」
私は椅子から立ち上がって腰を屈め、火皿を上から見る事の出来る体勢を取る。すぐ目の前の火皿の上に、頭の中で円を描いてみる。燻製肉の臭いが強まる。
――と、突然バン、と威勢良く店の扉が開く音がした。
かと思えば私が後ろを振り向くよりも早く、
「――くっせ! なんだこの店! 有り得ないくらいに凄い臭いが充満してるぞ! 油虫でも燻し出してんのか!?」
という大声と二、三度の咳き込みが聞こえて来て、私はその荒々しい来訪者が霧雨魔理沙だと知る。
「あ――」
私が振り向くと、入口に立ち尽くした魔理沙が縫い止められたように立ち尽くしている光景が目に入った。
『まずい光景を見てしまった』みたいな驚愕の表情を浮かべている。
……え? 何で?
状況確認。
一、 魔理沙の立っている位置からは、私の背中しか見えない。
二、 私の顔のすぐ目の前には、ポカンとした表情の道具屋店主。
三、 扉が開く瞬間まで、私は腰を屈めていた。店主の顔に向かって。
Q、以上の状況と魔理沙の表情から導き出すことの出来る誤解を答えなさい。
A,んなもんちゅーしかねーだろ仮にも男と女の二人っきりで他に何やるってんだよ。
あぁ、成程。そういう事か。納得。
やっべ。
「なんだ、魔理沙か……残念だけど、今の香霖堂は未成年立ち入り禁止区域だよ?」
パイプを口から放した店主が、私の身体越しに軽口を叩く。
――てめえええええええええええええええ!!!!
いやいやいやいやこのウスラ馬鹿! 何を意味深な事を口走ってやがる魔理沙が誤解したらどうすんだ! タイミング悪くパイプまで口から降ろしやがってもおおおおおおお!
あああ何で私の身体は透過性が無いんだ畜生おおおおおおおおおおお!
「………………ふぅん、そうなんだ……ハハ、知らなかったなー……ハハハ」
魔理沙が帽子のツバを引き下ろして、随分と乾いた笑いを浮かべる。
おいヤバいってコレ完全に誤解進行中だってどうする私!? 身体中の神経が完全に脳内に割り振られているせいか身動きも出来ない! 何か言おうとした所でこの状況じゃ魔理沙を納得させる事は出来ないんじゃないのか!?
「……お前ら、一体、いつからだ?」
「ふむ……良く覚えてないけど、確か二年ほど前だったかな? 彼女の方から尋ねて来たんだ」
「…………………………………………………………へー」
まずい。
何がまずいって会話が噛み合っている様で全く噛み合ってない所がまずい。
うわー。魔理沙が親の仇でも見るような目で私の事を睨んでるー。アイツあんな般若みたいな顔出来るんだ知らなかったなー。
誰か助けてくれ。
「さて、何だか良く判らないけど説明も終わった事だし、続きに入ろうか?」
店主がニッコリと営業スマイルを携えて私を見る。
おいてめえちょっといい加減にしろ。て言うか黙れ。半世紀黙ってから来い。
動け私の身体!
動け! 動け! 動け! 動け! 動いてよ!
今動かなきゃなんにもならないんだ!
「――私も参加して良いか?」
魔理沙がポツリと呟く。
その声は寂しげに響くが、押し殺された感情の色は読めない。
つーか何言ってんの!? どんな悲壮な覚悟だよ! 何を思ってその発言に至った!? 参加ってお前どう参加するつもりなんだよ!? お前その年齢で爛れた知識ばっか持ってんじゃねえよ!
……いや違う! これはチャンスだ!
このまま魔理沙が留まれば、誤解はすぐにでも解ける。魔理沙が参加表明した所でこれから始まるのは、その、何たらピーじゃなくて単なるパイプの吸い方講座だ。PはPでもパイプのPだ。
勝機。
ならば、私はこのまま呆気に取られて身体が硬直していても、何の問題も無い。
でかした魔理沙! いいぞ! 今回ばかりはお前の耳年増も不問に処す!
「いやだから、困るって。この場に君が居るのはまずいんだ。君が大人になったら、参加させてあげるから……」
店主はそう言って、やれやれとばかりに肩を竦めた。
おいコイツもしかしてわざとか? もうダメだコイツ馬鹿だろ。とんでもない馬鹿だろ。三千世界に名を轟かせるレベルのクソ馬鹿だろ。殴って良いかな。殴って良いのかな。馬鹿って殴ったら治るのかな。付ける薬は無くてもショック療法なら通じるんじゃないかな。
「…………私はもう大人だ」
いや、絶対違う。
二重の意味で違う。
「……まぁ、僕は大人になったとしても、君に吸って欲しいとは思わないけどね」
「――す、吸!? すっ!!!??」
見開いた目で魔理沙が私の事を見てきた。思わず素の乙女の顔である。
やめろおおおおおおおおおおおおお!!! もうこれ以上妙な勘違いを加速させるんじゃねえええええええええええええええ!!!!
「――煙草!!!! 煙草の話な!!! タ・バ・コ! エヴリバディセイタ・バ・コ!」
ここまで状況が悪化した所で漸く私の口が動いてくれた。でかした私。
「え……? 煙草……?」
キョトンとした表情の魔理沙が、鼻をスンスンと鳴らす。そこに至って漸く、店内に漂う煙と臭いが煙草に拠る物だと悟ったらしい。
「……突然どうしたんだい? 最初っからその話をしてるんじゃないか」
私の出した大声に、店主が呆れたような溜め息を吐いた。黙れぶっ殺すぞ。
「あ、あー。ああ、成程……そういう事か……焦っちまったぜ」
それまでの鬼みたいな表情が嘘の様に、安堵の溜め息を吐く魔理沙の表情は朗らかな物に戻っていた。やれやれだ。マジで。
「――まぁ、そういう訳だから僕としては、あまり君がこんな煙がもうもうとしている空間に居て欲しくは無いのだが」
「へ、良く言うぜ。いつも私が居ようが居まいが平気の平左で水煙草吹かしてる癖によ……それとも何か? 今日は特別に、何か私が居ると困る事でもあるってのか?」
冗談めかした口調で言いつつ、抜け目なく魔理沙が私の事を盗み見る。
何だよ今の視線は。まだ完全に誤解が晴れた訳では御座いませんってか。
――ははーん……つまりはそういう事なのか?
さっきの物凄い表情も、つまりは単なる嫉妬とか驚きとか、知り合いの人間がイチャコラしてる事に対する潔癖症的な嫌悪とか、そういう訳じゃ無いって事なのか?
ふぅん。
単なる弾幕狂の賑やか好きだとばかり思ってたが、こんな普通の女の子みたいな感情も持ち合わせてたんだな。ま、思春期って奴なんだろうかね。私にも有ったかな、そんな時期。無かった様な? 何百年も前の事になるが……何か年寄りみたいな思考だな。私。いや、間違っちゃいないが。
勝手に会計口の物を一纏めにして自分の座るスペースを作り始める魔理沙を見て、店主は大仰な溜め息を吐いた。
「……魔理沙は言い出すと聞かないからな……仕方ないか。お茶でも注いで来るよ」
「手順は聞いたし、もう吸い始めてても良いか?」
立ち上がった店主の背に問うと、「ご自由に」という言葉が返って来た。
皿の上に置かれたままだった白のパイプを持ち上げて燐寸を擦り、吸い口に唇を付けた私は、先ほど言われた通りの手順で着火する。チクチクと魔理沙の視線を感じて実にやり辛い。
ジリジリと音を立てて、火皿の表面の葉っぱが赤く燃え上がって行く。しかし、肺に空気を入れないように吸うというのは、何とも具合が判らなくて困る。言葉的に矛盾してないか?
首を傾げつつ、何とか吸い込もうとする。そうじゃないと火が点いてくれない。試行錯誤の結果、いつもの紙巻き煙草と同じように吸い込んでしまい、喉の奥にジリ、と痛みが走って思わず咽てしまった。
「――煙草って美味いのか?」
喉を摩る私に、燐寸箱を弄りながら魔理沙が問いかけて来た。
「ん……げほ……まぁ、そうだな……私は、美味いと思って吸ってるな」
「香霖の奴も、何やかんやいつも煙草を吸ってるんだが、私には良さが判らん」
「判らなくって良いさ。少なくとも私にとって、煙草ってのは逃避先だ。普通の人間と比べると長生きしてるからな、たまには肩の荷を下ろす時間が欲しいんだよ」
「それは、誰かと一緒に居る時間では代用出来ないのか?」
「ふむ……」
その問いに私は、ふと慧音の顔を思い浮かべた。
慧音は、私が煙草を吸う事を嫌がる。蓬莱人である私が病気や死なんかと無縁で、煙草に拠る健康被害も無いと判っているのに、それでもアイツは私が煙草を吸っている、という事に対して良い顔をしない。必然、私は慧音の居る場所では喫煙を避けてしまう。
慧音と一緒に居る時間と、煙草を吸う時間は両立しない。だからと言って私には、どちらかを選んでどちらかを捨てることが出来ない。どちらも私にとって大切な時間だ。順位を付けることの出来る問題じゃない。それは食事と睡眠のどちらが大切か、と聞くのと同じような問題だ。私にとっては。
だから私は、
「――代用、出来る奴も居るだろうさ。ただ、出来ない奴も居る。他人と一緒に居る事が何よりの幸せって奴も居れば、どうしても独りになる時間が欲しくて、その時間には煙草が必要だって奴も居る。だからと言って、どちらかが良いとか悪いとか、劣っているとか優れているとか、そういう訳じゃ無い。ただそういう種類の人間だってだけだ」
と、結局どっちつかずの言葉を発した。
お茶を濁した訳じゃ無い。きっとこれが限りなく正解に近いだろう。世の中ってのは、簡単に判断出来る事の方が少ない。全てに白黒つけられるのは、彼岸の閻魔だけだ。
此岸には灰色しか存在しない。そこには濃淡があるだけだ。
「……そっか」
納得してくれたのかどうか判らないが、魔理沙は小さな溜め息を吐いて燐寸箱を元の場所に戻した。
今のやり取りは単なる会話だ。取り留めの無いお喋り。だが、この会話のお蔭で魔理沙の中の誤解が完全に晴れてくれたなら良いな、なんて私は結局上手く火を点けられなかったパイプを咥えつつ思った。
「お待たせ」
咥えパイプのまま、店主が手に急須と湯呑の乗った盆を持って暖簾の奥から戻って来た。
火皿から煙は上がっていない。さっきのゴタゴタで火を点ける機を逸したからだろう。燐寸も会計口の上に置きっ放しだったしな。
「ん? 何だ、結局火を点けられなかったのかい?」
魔理沙の尻の近くに盆を置いた店主が、安楽椅子に腰掛けつつ私のパイプを見て首を傾げる。勝手に急須から緑茶を注ぎ始めた魔理沙が、ボンヤリと店主の事を見ていた。
「あぁ、やっぱ何だか具合が判らなくてな……」
「ふむ、どう言えば伝わるかな……舌を喉の方へとゆっくり後退させる感じなんだけど……ちょっと貸して貰って良いかな?」
「ん? まぁ、良いけど」
咥えていたパイプを店主に手渡す。受け取った店主は、先ほど魔理沙が弄っていた燐寸箱を抓み上げた。
「ちょっと失礼」
何をするんだろうと黙って見ていたら奴さん、何を思ったか手渡したパイプを咥えると、何の気なしに火を点け始めた。魔理沙の目が無言のままに見開かれる。
……あれぇ?
もしかしてあれか? これ、一時は終息した疑惑が再発したんじゃないか?
「はい、点いたよ」
「あ、あぁ……」
受け取りつつ、私はさりげなく魔理沙の表情を伺う。
……あー、やっぱりなんか悔しそうな顔しちゃってますよ? この娘。
初心だなー。
面倒臭いなー。
「放って置くと消えるから、何とか吸い方のコツを掴んでくれ」
店主がニッコリと微笑んできた。営業スマイルだ。私には判ってる。
問題は、魔理沙がまたぞろ勘違いを始めやしないかと言う事だが……。
「――わ、私も吸ってみるぜ! あー、人生ってアレだよな、何事も経験が物を言うもんな!」
……ホラまた意味の判らん対抗心を見せてくるー!
恋は盲目、なんて良く言ったもんだな。見事に何も見えてないぞコイツ。
だが、まぁ要するにコイツの目的は関節キッスな訳で、さっきみたいに面倒が加速する前に事態の収束を図ろうか。
「――何だ何だ、それじゃ一口吸ってみるか?」
穏便に私は魔理沙にそう打診するも店主が即座に、「いや、駄目だよ魔理沙。君は吸っちゃ駄目だ」と、切り捨てる。魔理沙は眉根に深い深い皺を寄せた。そこには嫉妬の片鱗が窺える。となると、また私にもとばっちりが来るってもんだ。
それにしてもこの野郎……飲酒に関しては黙認してる癖に、どうしてこんなに煙草に対しては意固地なんだ?
もういっその事、全部言っちゃうか? 『この唐変木! あのなぁ、魔理沙はお前の事が好きなんだよ!』ってな具合に。
……いや、止めよう。
恐らく、もっと面倒臭い事になるに違いない。それに、野暮ったいしな。
となると、結局私は何とか上手く立ち回らにゃならんという訳で……面倒だなぁ。まったくもう。
取り敢えず、折角点いた火が消えちゃ困るので、魔理沙の口元から聞こえる歯軋りについては気付かない振りをしつつ、パイプを咥えた。で、言われた通りに舌をゆっくり後退りさせて、煙を口の中へと招待する。
ふむ……やっぱりいつもの紙巻き煙草とは具合が違うな。舌がピリピリする。
さっきの葉っぱの甘い香りは殆どなくなってるが、酒然り料理然り、上質なモノに共通する重厚さというか、そんな複雑な味を持った煙だ。
ジリジリと食道やら肺の細胞やらから、ニコチンの到達を待ち望む声なき欲求が立ち上って来るが、それに従えば咽る事は実証済みなので我慢する。
「どうだい?」
いつの間にか自分のパイプにも火を点けていた店主が、煙を吹き出しつつ微笑んできた。
「うん、中々だな」
「口の中に貯めた煙を、鼻と口の境目辺りに押し付ける様なイメージで吸うのがお勧めだよ。あんまり濃い煙だと、鼻を通す時に痛むけれどね」
「ふぅん……」
頷きつつ、私はコッソリ魔理沙の表情を伺った。
能面みたいな無表情だった。
「――あーあ、楽しそうだなぁ」
投げやりな口調で、魔理沙が呟いた。その声には、私と店主が同じ物を共有している傍ら、 仲間に入れて貰えない事への不満がありありと滲んでいる。
「そーだよなー。私はお子様だもんなー。お前らが楽しく煙草吸ってんのを、こうして横から見てる位しか出来ないしなー。あーあ、退屈だなー。退屈だわー」
「……………………」
面倒臭っ!
コイツこんな面倒だったっけ?
もうちょっと竹を割った様な性格だと思ってたんだけどなぁ。
で、睨むな。私の事を。そんな目で見るな。私はお前が思ってるようなんじゃないから。この状況にくすぐったい幸福感とか覚えてないから。むしろ逆だから。針のムシロだから。
やれやれ、と私はパイプを吸いつつ店主の方を確認する。ちゃっかりと本を読み始めている店主は、魔理沙の面倒臭い働きかけもどこ吹く風といった面持ち。まるでこの空間には自分しか居ない、みたいな寛ぎ様でプカプカと紫煙を吐き出している。
この野郎腹立つなぁ。お前が元凶なんだぞ。だから何とかしてくれよ。いや、期待するだけ無駄か。私は肩を落とす。やれやれだ。本当に、やれやれって感じ。
気まずい沈黙の中、平静を装ってパイプを吸っていた私の舌から、不意にピリピリとした痛みが無くなった。
何だ、もう慣れて来たのか? それとも舌の細胞が死滅して現在リザレクションの真っ最中か? なんて思うがもちろんそんな訳では全然なくて、単純に火が消えてしまったらしい。
「――むぅ……結構神経使って吸ってたつもりなんだがなぁ……」
「ん? 消えちゃったのかい?」
店主が本に栞を挟んで傍らに置く。その動きを見た魔理沙が、キッと睨み付けてくる。私を。解せん。何故だ。
「消えたんならまたこの道具で葉っぱの表面を押して、もう一回火を点ければ良い。ちょっと消えたくらいじゃ味も香りも劣化しないから、大丈夫だよ」
そう言ってまた店主は私のパイプに向けて手を差し出してくる。その動作は実に自然だ。
――時に、地底には覚妖怪って種族の妖怪が居るらしいな?
心を読み当てる能力があるんだっけか?
そんな能力なくても、今の魔理沙の心を読む事は簡単だ。当てて見せようか?
よし、魔理沙は今こう思ってる。
『――自分でやれ。自分でやれ。自分でやれ。自分でやれ。自分でやれ。自分でやれ』
と、まあこんな具合だ。表情を見ればすぐに判る。顔に書いてあるって奴だな。目付きの凶悪さが半端じゃないぞ。その辺の妖精なら睨むだけで消滅するんじゃないか? おぉ怖い怖い。
勘弁してくれ。
「……いや、良いよ。自分でやるよ」
どこぞの竜宮の使いじゃないが、物の見事に空気を読んで私は声なき店主の申し出を固辞する。
「そうかい? じゃ、燐寸は要るかな?」
「――燐寸なんて要りませんよ。霖之助さん」
突然、この場に居る誰でもない奴の声が店の入り口から聞こえて来た。
振り向くと、そこに居たのは白髪の少女だった。
緑で統一した洋服に、二振りの刀。背後にはボンヤリと渦を巻くようにして動く大き目の幽霊――。
「お久しぶりです、妹紅さん。妹紅さんは確か、火を操る能力を持ってますよね? じゃ、わざわざ燐寸なんか必要ないんじゃないですか?」
幼い声で私に言う少女は、ツカツカと店の中へと足を踏み入れてくる。
えと……誰だっけな? どっかで見たような……。
「あ、あぁ、久しぶり……」
どうやら向こうと私は顔馴染みな様なので、取り敢えずそんな挨拶をする。
人よりも少しばかり長生きしてるせいで、どうにも人の顔や名前を覚えるのは苦手だ。私の脳みその中には何千何万という人間と出逢った記憶が朧に残っているから、親交の薄い人間は、それら膨大な記憶と混じり合ってしまう。
「……妹紅さん? もしかして、私が誰か忘れちゃいました?」
「ギクッ……いやいや、忘れる訳なんかないだろう? 大丈夫だよ。覚えてるよ」
「いや、『ギクッ』て自分で言ってるし……」
「アレだろ? その……アレだ。いや、大丈夫。覚えてる……あ、そうだ! 確か里の蕎麦屋で働いてる――」
「全然違います……と言うか蕎麦屋って……刀でお蕎麦を切れと言うのですか? どんなダイナミックな商法ですか……満月の夜、一緒に弾幕ごっこまでした仲じゃないですか」
私の目の前まで歩み寄って来た剣士っぽい少女は、大きく溜め息を吐いた。
「――なんだ、妖夢じゃん。お前、どうした?」
魔理沙が何でもない風に少女の名前を呼ぶ。確かに聞いた事のある名前だ。思わぬ助け舟。
「ようむ……あぁ! そうかそうか! 妖夢か!」
「思い出してくれたみたいで何よりです」
ポン、と手を叩いた私を見て、少々不機嫌そうに妖夢(と呼ばれた少女)が言う。
「……アレだろ? 里の床屋でカリスマと名高い――」
「……貴女が私の事を完っ全に忘れてるのは、良く判りました。てか何ですか。床屋って。床屋て! 刀で髪を切れと言うのですか? 死と隣り合わせじゃないですか。誰が来るんですかそんな物騒な床屋。耳とか頸動脈とかのカットまで覚悟してくるなんて、マゾじゃ済まないじゃないですか。もっと刀を使うに相応しい職業を思い浮かべて下さいよ」
「はぁ……判らないな。して、答えは?」
「庭師です」
「いや刀関係なくね?」
フフン、と無い胸を張った少女に突っ込みを入れる。つーか何だこのやり取り。
「……で、妖夢君は何か入用かい?」
ワザとらしい咳払いをした店主が、妖夢に尋ねた。
――あぁ、何かちょっと思い出して来たな。満月の夜か。確か永遠亭の奴らが何か妙な異変を起こした直後だったかな。言われてみれば確かに、弾幕ごっこをした記憶もあるな。白玉楼の所の富士見の娘さんと一緒に来たんだったか。二人掛かりとか卑怯だろ、とかちょっと思った気がする。コイツが高速移動担当だったからか、ほぼ西行の娘さんとしか相手してなかった気もするけど。
「――いえ、ちょっと遊びに来たんです」
「ふぅん。良かったな香霖。千客万来だぜ?」
「……はて、客、と言って良いのですかねぇ?」
魔理沙の軽口に、妖夢が何やら意味有りげな微笑みと共に返した。
その途端、妙に鋭い空気が、フッと場を支配した。
ハッとした表情を浮かべる魔理沙。何やら口角を吊り上げる妖夢。聞いているのか聞いていないのかハッキリとしない店主。
Q、この状況から導き出すことの出来る、一番面倒臭い状況を述べなさい。
A,んなもんアレだろ? 妖夢もまた魔理沙と同じ様なジャリ臭い恋愛ごっこに興じようとしてるって事だろ。
成程。状況は把握した。
こんなにも空気を読むことの出来る私って凄い! 素敵!
……うわー、嫌だなー。
今以上に面倒臭い事になんのかなー。
……そう言えば前に、酒の席で慧音がボソッと寺子屋の女子について語ってた事があったな。『第二次性徴前の女の子の恋愛に関する画策は面倒臭い』みたいな感じで。
恋愛と言っても、そこは寺子屋に通う様な子供のする事。結婚だの子供を作るだのなんて本気の愛情とは違う。後に、甘酸っぱい初恋。きゃぴ。みたいな感じで思い出すような、そんな大人からしてみれば可愛い物だ。幾ら当人が本気だと思い込んでいても。
曰くそれは、肉食動物がやる狩りの練習みたいな物だと慧音は言う。どこそこのお兄さんがカッコいいだの、誰それのお父さんは素敵だの、そんな他愛ない話にしかし、当人たちは鎬を削っている。らしい。
女子の精神的な成長は、男子のそれを遥かに上回る速度で展開する。まだ胸も膨らみ切らない内から、将来自分がマジの恋愛をする練習を既に始めているのだという。
そうやって恋愛話に花を咲かせるくらいならば可愛い物で済むが、成長の速い女子の中には、時に慧音を女として敵視する者も出ると言うのだから、これは教育者としては頭の痛い話だろう。
将来の為の練習とは言え、当人にしてみれば真剣も真剣。若さゆえの向こう見ずも悪い方へと働いて、他愛ない筈の子供の画策は、時にとんでもない問題として発現してしまう事も有るとか無いとか。詳しくは言ってくれなかったが。
で、話を聞いた時の私の反応としては、正直ふーんって感じでしか無かった。
まぁ、私はまともな幼少時代を送っちゃいないしな。親父を憎んだり、輝夜を恨んだり、蓬莱の薬を奪う過程で人を殺したりしてるし。そんな子供が惚れた腫れたに現を抜かす余裕があったら逆に怖い。
そして今私は、どうやら慧音が日常的に頭を悩ませている問題を、この目でしかと見てしまっているらしい。肉食獣の狩りの練習染みた、この場に。
と言うか高みの見物的な立場ですらない。この場において立派に敵視されているのは、先ほど魔理沙が証明してくれている。三竦みならぬ四竦み。バランスは最悪の部類だ。もう泥沼ってレベルじゃない。濃度の高い水溶き片栗粉くらいにドロドロした状況に、どうやら私は放り込まれている。
ハハハハハ。成程、成程。誰か嘘だと言ってくれ。
私はただ平和的に煙草を購入しに来ただけだってのに、何でこんな面倒っちい出来事に巻き込まれてるんだよ……。
「――まぁ、来てくれたんならお茶でも出すよ」
店主の声で、私はささやかな状況把握と言う名の現実逃避から引き戻される。大儀そうに立ち上がろうとした店主に、しかし妖夢は首を横に振る。
「あ、大丈夫ですよ霖之助さん。私、自分で淹れられますから。お茶っ葉は流しの上の段の二番目に置いてあって、急須はこれを使えば良いんですよね?」
にこやかに微笑んだ妖夢が、会計口の上の急須を持ち上げる。魔理沙がこれでもかって位眉根に皺を寄せているが、妖夢はどこ吹く風だ。
ホラ来た。私はうんざりと思う。
何だよ、お前のその『私、この家の事、熟知しちゃってますから』的なアピール。魔理沙が前掛けをギュッと握りしめて、またもギリギリ歯軋りをしてる。そして妖夢は私をサラッと確認して、フフンと勝ち誇ったような笑み。見るな。私を。腹立つ。
「あぁ、済まないね……」
「良いですよ。これ位」
「それにしても、君は大丈夫なのかい? 今日は僕も彼女も煙草を吸ってるんだが」
「いえ、大丈夫です。紫さまも時折いらっしゃっては煙草を吸われますし、私はこれ位で文句を言ったりしませんよ」
あっそ。『私って懐も深いんです』アピールご苦労さん。
……アイツ確か前会った時は、もうちょい幼かったよな。何がアイツを変えたんだろう。髪型も変わってるみたいだし。
「……やれやれ、何時ぞやは雪に埋もれたりなんかもしてたってのに、何だか気の利く子になってしまったねぇ……」
店主が紫煙を燻らせつつ、しみじみと爆弾発言を投下する。それを受けて魔理沙が自分の帽子をサンドバッグに見立ててドスドスと殴り始める。
……気が利かねぇのはお前だよ。もう絶望的だよ。
アレだな。鈍感な男ってのは存在その物が罪だな。ただ、こんな幼気な子供の駆け引きごっこを真に受けられたら、それはそれでもっと重い罪になる事は明白だがな。
早く来い来い死神、閻魔。春よりも先に早く来い。
パイプの火が消えたままだったのを今更の様に思い出し、私は燐寸箱を手繰り寄せる。妖夢はさっき何やかんや言っていたが、やっぱり加減が判らない。余り火の温度が高すぎても良くないらしいしな。
「ハイこれ。これで、火皿の中を平らに均してくれ」
燐寸棒を取り出した私に、店主が先ほど説明してた道具を手渡して来た。
「あ、あぁ、アリガトな」
「コレはタンパーという名前の道具なんだけどね、この道具も一緒に上げようか?」
「お、マジで?」
「良いよ。大事な常連さんだからね。それに、コレが無いとパイプは吸えないし」
「そんじゃ、ありがたく頂戴するわ」
私は手渡されたその道具で火皿の表面を押す。成程、上の方の葉っぱは殆ど灰になってるんだな。これじゃ、火を点けようにも点かない訳だ。指を突っ込む訳にも行かないし、ひっくり返せばまだ残ってる葉っぱも落ちるだろうし、確かに必需品だな。
「――常連って意味だったら、私も常連だろ? な? 香霖?」
頷く事を強要する声音で魔理沙が言う。うわまた出たよ。張り合わないでくれ。お願いだから平和に煙草を吸わせてくれ。
「ふむ、果たして品物を勝手に拝借していく君を、常連と呼んで良いのかな?」
店主が溜め息交じりに呟く。
おいお前は無難とか穏便って言葉を知らないのか。
幻想郷で『空気読めない奴選手権』とかやったら、コイツぶっちぎりで一位になれるんじゃないか? 二位に背中すら見せない勢いの一位じゃないのか?
「…………そうかよ」
吐き捨てる様な魔理沙の声。跳ねる様に会計口から飛び降り、先ほど乱暴に扱われていた哀れな帽子を被る。
「帰るぜ。煙草臭くって気分が悪くなってきたしな」
あーあー。拗ねちゃった。
いやいや、何つーか……ここまで来ると、少し可哀想にも思えるな。正直私としちゃ面倒臭いだけではあったが、魔理沙にとっては折角来たのに面白くないだろう。この展開は。
「魔理沙」
肘置きに手を突いて立ち上がりながら、不機嫌な早足で出口へと向かっていた魔理沙の背に店主が声を掛ける。
「……何だよ」
立ち止まった魔理沙は、こちらに背を向けたまま低い声で聞く。
店主はパイプを皿の上に置き、外から用意したのであろう雪が詰め込まれた冷蔵庫から何か黒い液体が入っている瓶を二本ほど取ると、魔理沙の元へと歩み寄る。
「今日は余り構ってやれなくて悪かったね。まあ、持って行くと良い」
おずおずと振り返った魔理沙の手に、店主が瓶を二本とも渡した。
「――金は払ってやらないぜ」
「別に構わないよ。謝罪の証だとでも思ってくれ。あぁ、それと、預かっているミニ八卦炉だがね。申し訳ないが、あともう少し時間が掛かる。二日後にまた来てくれれば、きっとその時には渡せると思う。家が寒いのは重々承知だが、堪えてくれ。風邪を引かないようにね。何だったら、ストーブを貸して上げても良い。言い出す機を失ってしまって悪かったね」
あれやこれやと言いつつ、店主は縒れてしまっていた魔理沙の帽子を直す。俯き加減の魔理沙はバツの悪そうな表情で、されるがままにしていた。
――ほぅ……何だ。どうしようも無い唐変木かと思っていたが、ちゃんと気も使えるんじゃないか。
私は煙を吐き出しつつ、少し感心した思いで様子を見ていた。
こういうのが、いつか輝夜の奴が言っていた『ぎゃっぷもえ』とかいう奴なのかもしれないな。いや、『つんでれ』だっけか?
……まぁ、どっちでも構わないか。表情を見る限り、魔理沙の機嫌も直ってるみたいだしな。
「……『ストーブを貸してやる』だって? ハッ。あんな重い物を持って帰るのは御免だぜ。返したくなくなるだろうし……その……私が持ってったら、お前が寒いじゃないか」
後半へ向かうに連れて消え入りそうになる魔理沙の声に、私は思わず咽そうになる。
ひゃー、言うねぇ。
憎いね熱いね甘々だねぇ。
どうやら今の私は蚊帳の外の第三者になる事が出来た様で、そうなると気楽なもんだ。遠慮なく野次馬根性だけを発揮出来る。パイプを吸いつつボンヤリと高みの見物と洒落込んだ。こういうのは、傍から見てる分には楽しいもんなのだ。
「そうかい? まぁ、くれぐれも風邪だけは引かないようにね」
「お前もたまには外に出て運動しろ。こんな店で煙草ばっか吸ってたら、それこそ身体をおかしくするぜ」
「参考にしておくよ」
そんな朗らかなやり取りを残して、魔理沙は帰って行った。二本の瓶をギュッと大事そうに抱えて。
やれやれ、やっと平和になった。
それに最後は何とか穏便な空気で二人とも別れてくれたしな。今後、私にとばっちりが来ることも無いだろう。万事丸く収まってくれたようで良かった良かった……。
「――あれれー? 魔理沙さん、帰ったんですか?」
口から湯気を棚引かせる急須と一緒に奥から出て来た妖夢が頓狂な、というか嬉しそうな声で言う。
……しまった。まだコイツが居たか。多感な思春期少女め。何が『あれれー』だ。見た目も頭脳も少女の癖に。
「妹紅さんは帰らないんですか?」
妖夢が会計口に置きっ放しになっていた湯呑に緑茶を注ぐ。魔理沙がさっきまで使ってた奴だ。抜け抜けと言いやがって鼻を抓むぞ。鼻を。泣くまで。
「――まぁ、まだ煙草を吸わせて貰ってる所だしな」
「そうですか」
淡泊な声音で言うと、妖夢は注いだばかりのお茶を飲み始める。魔理沙の見送りを終えた店主もノロノロと安楽椅子へと舞い戻り、また燐寸を擦った。
「――先日、幽々子様のお言いつけで、里へと絹糸を買いに向かったんです」
矢庭に妖夢が語り出す。その目は時折チラチラと落ち着きなく店主の方へと向けられるが、本を開いた店主は「ほぉ……」と生返事だ。
「養蚕業を営んでいるご老人のお家なんですが、私が『すみません』って言うとニコニコしながら『何だい妖夢ちゃん、お仕事を首になったのかい?』なんて言って来るんです」
「ふぅん」
「で、『とんでもないどうしてですか?』って私が聞くと、ご老人は笑いながら『だってアンタが来た理由は蚕(解雇)なんだろう?』って――」
「……………………」
「……………………」
「……………………はは」
――凄ぇ。
凄ぇつまんねぇ。こんな芸術的なまでにつまらない小噺、初めて聞いた。
因みに笑った(嗤った)のは私な。愛想笑い。店主に至っては聞こえなかった振りをしている。妖夢の顔は私たち二人の大爆笑を期待したらしい表情のまま、凍り付いていた。
というか、話しながら自分でもちょっと笑ってた表情のままだ。面白い話を聞かせる時には一番やっちゃいけない奴だ。妖夢が話し始めた時点で薄々気づいてはいたが、案の定、滑った。店主が頁を捲る音が、虚しい程の大きさで聞こえて来る。
「――この間、久々にお休みの日を頂いたので、お小遣いを持って里に遊びに行ったんです」
おおぅ……まだやるか。
沈黙が耐えられないんだろうか。それにしてもお前の精神は鋼か何かか。私なら初っ端の失敗で挫けてるだろうに。
「本当に久しぶりだったので、私嬉しくなって、それでどこのお店に入ろうかなって往来をウロウロと歩いていたら――」
「君のご主人は、あまり休日をくれないのかい?」
大きな身振り手振りで一生懸命に話す妖夢の言葉を、本に目を落としたままの店主が遮った。
「え? え、えぇ……何しろお庭が広いですから……」
「大変だね」
「はい……」
――そしてまた沈黙が訪れる。
居た堪れない位の空気が。
流石に二度目の小噺を途中で遮られた事によって、妖夢の心は折れてしまったらしい。頷いたきり、何も喋ろうとはしなくなった。強引に話を再開すればいいのに、そうする勇気までは無かった様だ。もしくは再開した所で、また滑るだけだと気付いたのか。
……仕方ないな。
「――そう言えばお前、前会った時とは雰囲気が違うけど、髪型変えた?」
先ほど店主に貰ったタンパー? で火皿の葉を押しつつ、助け船を出す。半笑いで最大級に困った様子だった妖夢は、やっぱり嬉々として話に乗って来た。
「あ、はい。変えました」
「何でまた?」
「たまたま白玉楼に遊びにいらっしゃった紫さまが、『妖夢も女の子なんだし、少しはイメチェンでもしてみたらどうかしら?』って仰って、それで藍さんに切って貰いました」
「『いめちぇん』? また面妖な言葉が出て来たな……それでその髪型か」
「……変、じゃないですか?」
「いや、似合ってると思うよ」
前の髪型は、如何にもまだ子供です! って感じだったしな、とは言わないで置いた。すると妖夢はパッと顔を綻ばせて、
「ありがとうございます! 幽々子様も『あらあら、こんなに可愛くなっちゃ、私の妖夢が殿方にモテモテになってしまうわ』って仰って下さったんです!」
と、言った。
――あー成程、それでか。
それで、その気になっちゃった訳だ。この子は。茶化されてる事に気付けなかった訳だ。それで今日この店にやって来て、良く判らないアピールとかしてたって訳だ。
そう言えばちょっと前に、『自分は仙人です』みたいな宣伝を所構わずやってた、なんて噂も聞いたなぁ。つまり色々な物に影響されやすいんだろうな。純粋って言うか無垢って言うか。
「――ケホ……り、霖之助さんはどう思いますか? 変じゃないですか?」
果敢にも今のやり取りを全く聞いていなかった店主に向けて、咳を一つした妖夢が尋ねた。紙面から一瞬だけ目を上げた店主は、またぞろ文字を追う作業に戻りつつ、「良いと思うよ」と、一言。気の無い返事にしかし、妖夢の目が輝いた。
あ、嫌な予感。
「――あぁ、な、何だかこのお店、暑くないですか?」
妖夢がベストのボタンに手をやる。折しも外では風が家鳴りを呼び、冷たい隙間風が染み込んできた。
つまり、寒い。充分寒い。私も慧音の上着を脱げずにいる位には寒い……やべ、煙草の臭いが染みついてたら、また慧音に怒られる。
「そうかい? 寒い位だと思うけれど……」
店主が至極真っ当な反論をすると、妖夢がチラと私を見て首を横に振った。
「ケホ、ケホ……いえ、暑いですよ……妹紅さんが居るからかな……」
あ、コイツ……折角助け舟を出してやった恩も忘れて、私をダシに使いやがった。てか何だその言い訳は。人の事を七輪みたいに言いやがって。私の平熱は三六度八分だぞ。
「……暑いなら、ストーブ消そうか?」
「いや、良いだろ、消さなくて……」
立ち上がりかけた店主に、思わず突っ込みを入れた。これ以上店が寒くなって貰っちゃ困る。
「お前も無理すんな。ちゃんと寒いだろ? 別にベストは脱がなくて良いから」
徐に立ち上がり、コツ、コツ、と足音を立てながら店内を徘徊し始めた妖夢に言う。しかし妖夢はベストの裾を掴み、断固としてベストを脱ぐ決意を揺らがせない。
「――ケホ……これは、『試練』だ」
「あぁん?」
掴んだベストを捲り上げながら、妖夢が一瞬棚の向こうへ姿を消す。
「――寒さに打ち勝てという『試練』と私は受け取った……ケホ……」
「やっぱお前寒いんじゃん」
「人の成長は…………未熟な暖房機の、ケホ、助けに打ち勝つ事だとな……」
捲り上げたベストを腕に絡ませたまま、妖夢が棚の向こうから顔を覗かせる。が、別に顔つきが変わってるとか人格が変貌しているとかいう訳では無く、単純にブラウスだけの妖夢でしかない。
「いや、勝つ必要ないだろ。恩恵に預かっとけよ」
「え? ケホ、おまえもそうだろう? 藤原妹紅」
「全然……てか、『おまえ』って……」
私は首を横に振る。しかし妖夢はお構いなしだ。結局ベストは脱いでしまった。
「寒さは……ベストを脱いでやっても店の隙間から……ミミズのように……ケホ、ケホ、はい出てくる……」
「そりゃそうだろ。さっきから隙間風が凄いだろ。てか無理すんなって」
「ケホ……驚いたぞ……暑い理由の心当たりが、全くないわけだ……ケホ」
「もうお前馬鹿だろ」
何だろう。つくづく影響されやすい子だなぁ。
つまり妖夢にとって一番イカす上着の脱ぎ方が、コレって訳なんだろう。ゴゴゴゴゴ。
……というか、さっきから何でコイツ、ケホケホ空咳ばっかりしてるんだろう?
脱いだベストを右手に持ったまま、妖夢はまた元の場所へと戻ってくる。店内に漂う煙草の煙が揺らめいて、まるで妖夢に絡み付いているようにも見える。ただ、カリスマ的な物はそこには全く見受けられない。そして、戻って来ても店主は妖夢の姿を見ようともしない。パイプの煙を燻らせつつ、本を読むばかり。これはこれで哀れだ。
「……あれ? もしかしてまだ暑――」
「暑くないって。滅茶苦茶寒いって。こら止めろ。ブラウスのボタンに手を掛けるな。お前が行きつく所まで行っても、誰も幸せにはなれないから」
前に伸びかけた妖夢の手を掴む。至近距離で妖夢の表情を見る。その目はどこか虚ろだ。必死過ぎだろ。
やれやれ、と溜め息を吐いた。
私の口から漏れ出たパイプの煙が、妖夢の鼻先をくすぐった。
「――ふにゅう」
「ふにゅー……? 悪戯に放つ曼荼羅?」
全く意味の判らん言葉に首を傾げると、突然フ、と妖夢が前のめりに倒れて来た。
「――うおおっと!」
私は慌てて小柄な妖夢の身体を受け止める。
「……おい? 妖夢?」
身体を支えながら、ペチペチと頬を叩いた。しかし返事は無い。ただの半人半霊の様だ。
何だ何だ。いきなりどうした?
「ん? どうしたんだい?」
店主も流石に無視出来なかったと見えて、本を会計口に置きつつ立ち上がった。
私は妖夢の名を呼びつつ、ボンヤリと浮かんだままの半霊の様子をチラと伺う。心なしか不透明度が上がっている様な気がする。
……あ。
もしかして、アレか。煙草の煙に酔っちまったのか。
あちゃー、無理してたんだなぁ。そう言えばさっきからずっと空咳もしていた。確かに、ニコチンへの耐性が無い奴が居るには、店内は些か煙が濃過ぎるかもしれない。
「駄目だな。完全に気を失ってるみたいだ」
「ふぅん……寝不足かな……仕事も大変らしいし、疲れが出たのかもね」
パイプを大いに吹かしつつ、店主が首を傾げた。
「いや……」
お前のせいだろ、と喉元まで言葉が出掛ったが、よくよく考えれば私もだった。全然人の事言えなかった。てか多分、とどめを刺したのは私だった。
「――やれやれ仕方ないな……ここに置きっ放しにする訳にも行かないだろ。送ってってやるから、私はそろそろ帰るわ」
「お、そうかい。済まないね」
「良いって事よ。パイプも葉っぱも、タンパーも貰ったしな」
「いや上げたんじゃないよ。貸してるだけだよ」
チッ覚えてたか。
まあいい。端から期待もしてなかったしな。
気絶してしまった妖夢を背負った私は、パイプを入れる箱、葉っぱの入っている缶、そしてタンパーを慧音の上着のポケットへと突っ込む。
「良し、と……じゃ、達者でな」
「何だか騒がしくて済まなかったね。懲りずにまた来てくれ」
「葉っぱが無くなったらすぐにでもな」
安楽椅子に座り直して燐寸を擦る店主にそう言い残して、私は香霖堂を後にする。半霊は自力で付いてこれる様で何よりだ。
どうやら天気は快晴で、どこまでも突き抜けて行く様な真っ青な空に、眩しいばかりで温度を授けちゃくれない太陽が鎮座していた。
「……さて、どうやって白玉楼まで行こうかな……」
「――その必要は有りませんわ」
「……っ!?」
周囲に人気は無いと言うのに、不意に誰かの声が私の耳元で聞こえて、思わず飛び上がって驚いてしまった。
振り向くと、今しがた私が潜ったばかりの香霖堂の扉が黒い裂け目によって真っ二つに分かたれている。その向こう側には何物とも知れない目がこちらを睨み、中からゆっくりと紫のドレスを纏った女が歩み出てくる。
八雲紫。妖怪の賢者と名高い、スキマ妖怪だ。
「――何の用だ?」
思わず臨戦態勢に入る私に紫は、ち、ち、ち、とばかりに立てた人差し指を左右に振る。
「そんな怖い顔をしなくても良いじゃない? 私はただ、妖夢を白玉楼に送ってあげようと思って出て来ただけなのよ?」
そう言って紫はニィッと唇を横に押し広げる。随分と胡散臭い微笑み方だ。
……ただまあ、悪戯に警戒し過ぎる事も無い様な気はするな。
さっきも妖夢が紫に『いめちぇん』を進められただのの話をしていたし、妖夢の主人と紫は旧知の仲だと言う。ならば何も取って食ったりはしないだろう。大体妖夢じゃ、食えて半分までが関の山だしな。
「そうか……なら、任せても良い、のか?」
「えぇ。幽々子が心配している事だし、任せて頂戴」
言うや否や紫がパチンと指を鳴らす。すると私の背から小柄な少女の重みが無くなる。生憎頭の後ろに目を付ける趣味は無いから見えやしなかったが、きっと紫が開けたスキマの中に送られて、もう今頃は白玉楼だろう。便利な能力だ。
「悪いな、なんか……」
「構わないわよ。貴女が白玉楼まであの子を送って行くのに比べれば、大した労力でも無し――」
と、このクソ寒いのに何故か扇子を広げる紫が、私の顔をマジマジと見つめてくる。少々目を見開き、私の所へと歩み寄ってくる。
「な、な、何だよ……いきなり……」
近づいて来て判ったが、紫が見ているのは私の顔じゃなく、私が咥えたままのパイプの方だ。それを悟った時には既に紫は私から身体を放し、大きく溜め息を吐いた。
「まったく……霖之助さんったら……折角私がプレゼントしたパイプを、貴女に売ってしまうなんて……」
「――あぁん?」
え? コイツ今何て言った?
自分がプレゼントした、だ?
……そう言えば店主は、『とある伝手から貰った』と言ってたな……その伝手ってのがコイツな訳か……驚いたな。
「て、事は何か? これは元々アンタの物な訳か?」
咥えていたパイプの羅宇を指で抓み、私は紫に問う。
「ん……私の物、と言う訳でも無いわね。ただ私は彼にプレゼントしただけなんだから。その後の品物を彼がどうしようと、彼の勝手だわ」
「成程ね。流石大妖怪。器の大きいこった。じゃ、これは遠慮なく私が使っても良いのか?」
「ご自由に」
扇子で口元を隠した紫が、目元だけで笑いかけてくる。半分隠された表情じゃ、きちんと把握することは出来なかった。もしかしたら唇を噛み締めてるかもしれない。
「――そんじゃ、まあアンタのお蔭で私もお役御免になった事だし帰るが、アンタはどうするんだ? まさか、この店の店主にちょっかいでも出しに行くのか?」
「そうね。ま、折角来た事だし、貴女にパイプを売った事に対して文句を言ってみるわ」
茶化すつもりで聞いたんだが案外あっさりと肯定するもんで、何だか拍子抜けしてしまった。魔理沙、妖夢の件も有る事だし、もしかしたら顔を赤くして狼狽えたりなんかするんじゃないかと思ってたんだがな……。
「そうか……ま、手ぇ出すんなら早めにする事をお勧めしとくわ。案外この店の店主を狙ってる奴は多いみたいだしな」
「ふぅん……それって、魔理沙とか妖夢の事?」
「おおぅ……流石、と言うべきか何と言うか、察しが良いな……ま、そういうこった」
「貴女は違うの?」
「へぁ? 私ぃ?」
予期せぬ紫の問いに、思わず頓狂な声を出してしまう。
私があの店主をだって? またまたご冗談を。単純に、煙草を買う相手ってだけだ。他意はない。それに私には、慧音が居るしな。
……と正直に言わずに、悪戯心を出した私は「――さて、どうだろうね」と曖昧に微笑んで見せた。が、目を細めた紫は肩を上下に震わせてさもおかしそうに笑うばかりで、私の冗談を真に受ける気配など微塵も無い。
「嘘ばっかり……そんな後生大事にワーハクタクの上着を纏っている貴女が、浮気心を起こすなんて明日中に霧の湖から水が干上がる位に有り得ないわ」
「ふむ、バレたか……だが、私が除外された所で油断は禁物だぞ? 第二第三の恋敵が、アンタを待ち構えているだろうからな」
「あらあら、怖いわねぇ……でも、大丈夫よ? 魔理沙も妖夢も、恋愛に関してはまだまだ肝心な事を理解しては居ないものね?」
「――肝心な事?」
九官鳥の様に、私は問い返す。
確かにあの二人はまだまだ幼い。本気の恋愛をするような時期はもっとずっと先だろう。しかし具体的に何が足りないのか? と問われると、まだ早いから――なんてボンヤリとした印象があるだけの私は答えることが出来ない。
「そう。肝心な事……それはつまり、愛情は必ずしも双方向である必要は無いって事よ」
「…………どういうことだ?」
私が首を捻ると、紫は愉快の念を眦から垂れ流すみたいな表情で私を笑った。
「――相手に自分を愛することを強要するのは、その時点で愛とは言えないって事よ。それが判らない様じゃ千年以上を生きている貴女もまた、恋愛の出来るまでに成熟していない――恋を知らないのかもしれないわねぇ?」
むぐ、と私は押し黙る。言い負かされる敗北感を私に植え付けた事に満足してか、紫はこれ見よがしに手を振りつつ、「それじゃ御機嫌よう」等と言って香霖堂の扉の奥へと実を滑り込ませた。
やれやれと溜め息を吐き、私はポケットのタンパーを火皿に突っ込んで上辺の灰を崩す。
燐寸が無いので札の能力を使って火を灯し、流入してくる煙を口内に留め、そして吐き出す。煙は白息と混じり合って雪よりも濃密な白を描き、渦を巻くようにしながら風に流され、そして儚く端から消えて行く。
「――恋を知らない、か」
雪道を行きつつ呟くと、込み上げて来たおかしさに私は肩を震わせる。
愛煙家である内は恋なんて出来ないのかもな、なんて思いつつ家に帰ると、案の定、慧音は上着から煙草の臭いがする事に対して、とてもとても不機嫌だった。
END
「寒ぃ……」
ホゥ、と吐いた息で白く冷たくなった手を温める。てっとり早くスペカでも使ってしまえば多少は暖かくなるんだろうがそんな事は無粋だし、何より融けた雪のせいで足元がべしょべしょになってしまうのが嫌だった。
冬には冬の顔がある。
利便性や利己主義でその顔を潰すのは、四季そのものの否定だ。変化を厭えば生きる彩が無くなるのは自明の理で、そんなつまらない未来は御免だ。
とは言え、寒いのは寒い。雪深い幻想郷の真冬は、特に。
慧音の上着を借りて来たは良かったが、それでも冷たい空気は袖やら襟から容赦なく吹き込んで来て、どうにも震えが止まらない。雪中行軍で荒くなった息は、白く棚引いて足元の雪の白さに吸い込まれていく。
呼吸の度に、慧音の臭いがする。匂いではなく、臭いだ。慧音の上着は、砂糖に漬けた晩白柚みたいな香りの奥に、残念ながら薄らと獣独特の臭いが混じる。
これは仕方が無い事で、私はそれを否定しないし、指摘もしない。慧音のにおいがする、とだけ言って置けば、事は丸く収まる。好んで頭突きを頂く趣味は無い。特に、照れ隠しにアイツが放つ一撃は、理性の抑えが利いていない分、殊更に痛いと私は知っている。
目指すは香霖堂だ。
外の世界の煙草は、あの店にしか置いてない。
私が煙草を吸うと慧音は、生足でミミズを百匹踏み潰した様な嫌悪の表情を浮かべるのだが、仕方ない。辞める理由が無い物を辞めなきゃならない必然性は無い。大体、蓬莱人は肺ガンとは無縁だ。そうじゃなきゃ、私は輝夜に煙草を山ほど贈っていただろう。対象が自主的に煽ってくれる毒薬なんて有ったら、暗殺稼業は軒並み廃業だ。
そんな都合が良い道具じゃないからこそ、永遠亭に置き捨てたりせずに自分で吸っている。そもそも、あっちには医療従事者も居る事だし、尚更効果は薄いだろうな。
煙草は、良いモノだ。
あの一酸化炭素が齎してくれる甘い忘我と、ニコチンやタールに悲鳴を上げる肺の細胞への被虐的な痛みの恍惚、そして火口の燃えるジリジリという音は、私の長い永い人生を、ほんの少しだけ軽くしてくれる。
毒が効かない身体な分、解かれる肩の荷は鴻毛位に軽い物でしかないが、刹那染みたささやかな時間を浪費するのに、これほど優しい道具は他に無い。
さて香霖堂にたどり着くと、ボロ臭い道具屋の屋根にもまた、雪は平等に降りていた。
これ以上積もったら崩れるんじゃないか? あの家は。
雪かきなら手伝ってやらんこともない。煙草をオマケしてくれるんなら、の話だが。何事にも見返りは必要だ。そんな打算を胸に「邪魔するよ」と扉を開けると、私の鼻を異臭が叩いた。
「うっぷ……くさ……」
「――やぁやぁ、よく来てくれたね、お得意様。歓迎するよ」
道具屋の雑多な店内を漂う薄い煙の向こうから、安楽椅子が軋む音に混じって店主の声が聞こえて来た。棚の上に立ち並ぶ用途不明の道具は膨大な数になるが、どうやら埃の堆積している物は一つも無い。店内は薄暗く、建物も古いせいで汚い印象こそあるが、その実、掃除は行き届いているらしい。
「何だ? この臭い……干物になったイモリでも焼いてんのか? アンタ、道具屋から黒魔術屋にでも宗旨替えしたのか?」
「まさか。これも煙草の臭いだよ。とある伝手から新しい喫煙具と葉っぱを貰ったんだ」
そう言って香霖堂の店主こと森近霖之助氏は、口に咥えた道具を指し示した。
木製の火皿に、良く判らないがテラテラとした材質の羅宇と吸い口。遠目ながら火皿の口は大きく、刻み煙草なら十口分は入りそうに見える。私はその道具に見覚えがあった。
「――なんだ、西洋煙管か……随分とハイカラな物を取り扱う様になったな」
「パイプ、と言うらしいよ。今は」
そう言って店主は、大きな溜め息と共に煙を吹き出す。まだ慣れてないと見えて、彼の口から噴出した煙は外の雪位に真っ白で濃密だった。私は店内を横切って、殆ど商用には使われていないらしい会計口まで歩み寄り、適当な丸椅子を引き寄せてそれに座った。
何とも、鼻を突き刺すような臭いだ。
恐ろしく攻撃的な線香が存在するなら、きっとこんな臭いをまき散らすんだろう。葬式で使おうもんなら死人がブチ切れて目を覚ますに違いない。
「アンタはあんまり上手くないみたいだな。前に吸ってる奴を見た時には、もっと煙が上品だった気がする」
「結構難しいんだよ。僕は始めたばかりだし、仕方が無いね」
「煙を肺に入れないとは聞いたが、そんなんで吸ってる意味は有るのか? 美味いのか?」
「味じゃなくて香りを楽しむ物なんだよ……それに口腔喫煙と言ってね、煙草の持つ悪い成分は口の粘膜から吸収されるんだ。だから、満足度は紙巻きの比じゃないね。一度火を点ければ、一時間近くは吸って居られるし」
「へぇ……」
少々興味を引かれつつ、私は会計口の上に並べられた品々を見る。
冷め切ってるらしい緑茶と、金属製の丸い缶が置いてあり、その横には燐寸の箱と、判子みたいな金属製の棒に爪楊枝みたく細い棒と刃の鈍い小刀の様な物の付いた奇妙な三点セットの道具、そして木製の靴べらみたいな皿が置いてある。私は無断でその皿を指で抓み上げた。きっとコレの上にパイプ? を置くんだろう。
前に見たのはいつだったか。確かまだ私が外の世界に居た頃で、気持ち悪い位に西洋の物に目が無い妖怪の住処だった。人の形はしていたが目の玉が真っ黒で、触ったら刺さるんじゃないかって位に耳の尖った男だ。小刀みたいな爪をきっちり揃えてて、その手で道具を神経質に扱う様は実に奇妙だったな。
何で私はそんな奴の住処に行ったんだっけ?
縄張り争いだったか、私が手下を殺したせいだったか、何かそんな穏やかならざる理由だったのは確かだ。殺し合った記憶が無いって事は和解の方向で話は終わったんだろう。今では奴の名前も思い出せないのに、そんな詳細だけは精細に覚えてるのは、変な感じだ。
「で、今日は、いつものかい?」
どっこらしょ、といった具合で安楽椅子から立ち上がった店主の声で、私は現実に返って来た。
「いやいや、ちょっと待った」
店の奥へと、いつも私が買う紺色の缶に入った両切り煙草を取りに行こうとした店主を引き留める。
「アンタのソレは、売り物か?」
「非売品だよ」
店主が咥えたパイプを指した私の一言は、即座に切り捨てられた。
「……だろうな」
ふん、と鼻を鳴らした私は細長い木の皿を会計口の上に置いた。
大した親交がある訳でも無いが、この男に商売をする気が無いのは知っている。気に入ったり、自分で使えると判った物は軒並み非売品にしてしまうのだ。後に残るのはこの男のお気に召さなかった品物ばかり。それが判った上で尚、金を出す気分を保てるのは余程の馬鹿かお人好しだ。コイツがどうやって生計を立てていられるのか、不思議でならない。霞ならぬ煙草の煙でも食ってるのか? 大した自給自足っぷりだ。光合成みたいだな。草食系ならぬ、草系男子って奴か。
ま、期せずして常連かつお得意様に分類されてしまった私の言えた義理じゃないか。
「これは駄目だけど、他にも一本貰った物が有るから、それなら良いよ」
「え? 本当か?」
「嘘だよ――と言ったらどうする?」
「期待持たせやがって、って言いながらアンタの腿に蹴りを一発見舞うかな」
「それじゃ持って来よう。ちょっと待っててくれ」
そう薄笑いを浮かべた店主が、店の奥へと冬眠前の熊みたいな足取りで消えて行く。
人を食った様な物の言い方しやがって、と私は苦笑いしつつ勝手に湯呑に手を伸ばした。
以前自分は半妖だと言っていたから、もしかしたら本当に人を食った事が有るのかもな。いや、どうだろう。半分妖怪って事は半分人間って事で、半分は自分と同じ種族を食べる気になんてなれるのか?
里の連中が美味しい美味しいって言いながら、ましらを食う様なもんだろうか?
もしそんな気分なら、きっと違うんだろうな。アイツら不味いし。好んで食いたいと思う対象じゃないんだろう。多分。
なんて取り留めの無い事をボンヤリと考えている内に、店主が戻って来た。
「お待たせ」
咥えたパイプの火皿から休火山よろしく細い煙を棚引かせる店主の手には、会計口に置かれているのと同じような平たい丸型の缶と、何だか妙な代物が握られている。
一見すると黒い箱だが、長方形じゃないみたいだ。細い部分と太い部分で構成されていて、細長い部分はある地点で急に膨らみを見せて、連続的に太い部分へと変化している。きっとパイプがピッタリと入る様に設計された箱なんだろうな、と私は見当をつけた。ただ、店主が今咥えている物よりは、少々細めの奴が入っているらしい。
「へぇ、洒落た入れ物だな」
「取扱いに気を付けなきゃならない道具らしいからね。火皿が割れやすいんだ」
言いつつ安楽椅子に座った店主が咥えていたパイプを木の皿の上に安置し、黒い箱に取り付けられた金色の留め具を開ける。
「ほぉ……」
中に入っていたパイプを見て、私は思わず身を乗り出してしまう。
その細身のパイプの火皿は、以前見た物とも店主が咥えている物とも違って真っ白だった。絶世の美女の几帳面に手入れの行き届いた爪の先端みたいだ……と思った所で不意に輝夜の奴の小憎らしい顔が浮かんできて、私は慌てて頭を振るう。いやいや、慧音の方がずっと美人だし、あんな奴の事なんか認めないし、と自分に言い聞かせるが、何故か負けた気がした。何かに。畜生。
咳払い。
……と、まあ私の脳内で繰り広げられた、下らない自給自足の小競り合いは抜きにしても、店主の持って来たパイプは実に見事な代物だった。
白い火皿の部分には花や葉っぱ、それに螺旋状の装飾等々が所狭しと為されていた。
羅宇と吸い口は橙を基調とし、そこに白や黒の波状模様が混じっている。
材質については一見しただけだとサッパリ判らんが、それでも成程、壊れやすいという店主の言葉には得心が行く。彫りが繊細だ。安物の煙管よろしく灰皿にカン、と打ち付けたら割れてしまいそうな、そんな危うい線の細さがある。
「……随分良い物みたいじゃないか? どうしてそっちじゃなく、こっちの方が売り物になるんだ?」
手渡された入れ物を会計口にそっと置きつつ、私は木皿の上のパイプを指差す。羅宇の部分を手繰り寄せて火皿を包み込むようにそれを持った店主は、私の問いに肩を竦めた。
「落として割ってしまったら後悔してもしきれないし、僕が持つにはちょっと女性的過ぎるからね。非売品にしてずっと眺めてても良いんだけど、そのパイプは特殊な材質らしくて使えば使う程に価値が出るらしいんだ。だから――」
「成程アンタの腹が読めたぞ。私に売って、自分の代わりに使って価値を高めて貰おうって魂胆だ。違うか?」
「否定は出来ないね」
いけしゃあしゃあと言ってのけて吸い口を含んだ店主だったが、しかし火は消えていたらしく火皿からも口からも鼻からも煙は出なかった。予期せぬ不発に首を傾げた店主が燐寸を擦り、再び火皿に詰められた葉に着火すると、またぞろ暴力的な線香の香りが幅を利かせる。やれやれだ。
「――で、価値が出るってのは一体どういうこった?」
一つ二つと咳をした私が店主に尋ねる。ニコチンが程良く回っているのかトロン、とした目を大儀そうに投げ掛けて来た店主が机の上の白いパイプの火皿を指した。
「この火皿の材質は海泡石と言ってね。喫煙中に出てくるタールやら何やらを吸着する性質があるんだそうだ。すると、この真っ白な火皿の部分が少しずつ少しずつ琥珀色、ないしは飴色に染まって行くんだってさ」
「本当かぁ? 何だか石の染物みたいに聞こえるんだが、与太の類じゃないだろうな?」
「本当だよ。まあ、厳密に言えば染物って訳じゃ無く、火皿から漏れ出てくる煙によって
表面に色が付くっていう原理らしい。ただ、それには何十年と掛かるらしいけどね……雨粒だって大きな岩を砕く事が有るだろう? 何事も継続が物を言うのさ」
「ほぉ……」
何とも気の長い話だ、と私は箱の中に納まっているパイプの白を見下ろして思った。
普通の人間じゃ、何十年なんて途方に暮れる年月だ。長命な妖怪とか、私みたいな訳有りじゃないと、一から琥珀色に染めようなんて思えないんじゃないか。
「……つまりアンタは、その継続とやらが面倒臭いんだな」
「まぁ……物事を一つの側面からのみ捉えた場合、そう言えなくも無いんじゃないかな」
「素直にそうだ、って言えよ……」
ツンとそっぽを向いて煙を吐き出す店主に肩を落としつつ、私は羅宇の部分を指で抓んで箱からパイプを取り出す。
石で出来ているって割には、結構軽いな。元々脆い素材の上に、中をくり貫いてるってのも有るんだろう。
「あぁ、そうそう。火皿の部分には触っちゃ駄目らしいよ」
細工の部分を人差し指で撫でてみようとした所で、店主が思い出したみたいに口にした。
「何でだ?」
「指の脂がタールなんかの吸着を阻害するから、素手で触ったりすると良くないんだって」
「げ」
慌てて伸ばし掛けていた指を引っ込める。成程、取扱いには思っていたよりも神経を使うらしい……うん、既にちょっと面倒になって来たな。
「因みにコレ、幾らだ?」
「無料で良いよ」
「え? マジで?」
「その代り、綺麗に飴色に染まったら返してくれ。非売品にするからさ」
ハァ? と私は軽く店主の正気を疑う。結構本気で、コイツは何を言ってるんだ。
「……それじゃ、販売じゃなくて貸与じゃんか。アンタ本当に商売人か?」
「どうせお金を出して買って貰った所で、綺麗に染まったと聞いたら僕が欲しくなるのは判ってるんだ。なら、最初からそういう契約を結んでおいた方が、後々面倒じゃないだろ?」
「……で、私が返したくないって言ったらどうするんだよ?」
「泣く」
「ああん?」
間髪入れずに仏頂面でそう返した店主に、私は思わず言葉ならぬ語気を荒げて聞き返す。
「泣くぞ。君の前で。団子をねだって里の往来で駄々を捏ねる子供の様に泣き喚く。やだ、やだ、ってメソメソしゃくり上げながら泣いてやるぞ。大の大人が自分の足元で半端じゃない醜態を晒す事に、君が耐えられるとは思わないね」
「……お前、尊厳とか無いのか? 仮にも成人男性としての誇りは?」
「時に自らの誇りさえもかなぐり捨てて、目的を達成できるのが大人だと思うよ」
火皿の中で灰になっている葉っぱを金属の棒で押した店主が、再度燐寸を擦りつつ意味深な微笑みを向けて来た。
「いやそんなキメ顔された所で、スッゲーダサい事を言ってる事実は変わらんし……」
何だろう。冗談なんだろうか。それとも純粋にアホなのかもしれない。なんで私、こんな意味不明な脅しを掛けられてるんだろう。溜め息。
「――大体君は、喫煙が出来ればそれで良いんじゃないのかい? 何か物に対して格別な執着心が有る訳でも無いんだろう? なら、何十年間分の喫煙方法が確保できた、と前向きに物事を考えてくれても良いんじゃないかな?」
「…………むぅ」
不覚にも心を揺さぶられてしまった私は、きちんとパイプを元通りにしてから腕組みをして考え込む。
何十年。
言葉にしてしまえば一瞬だが、その月日は千年以上生きて来た私をして膨大だと言わしめる。
長い期間だ。私の気がどう変わるか判らないし、そもそも壊してしまうかもしれない。もしかしたら店主の興味も無くなってしまうかもしれないし、その間にまた新しいパイプが入荷するかもしれない。
……なら、悪い話じゃないかもしれないな。
確かに私は、煙を燻らせて長過ぎる人生の時間を浪費したいだけだ。仮にこのパイプが気に入ったとしても、また同じ物が入荷しないとも限らない。もしそうなれば、私は片方を返してもう片方を丹精に染めて行けば良い。
何よりパイプは、一度点ければ一時間近く吸っていられるというのが魅力的だ。私の目的にピッタリじゃないか。今吸ってる紺色の缶の両切り煙草よりも、ずっと経済的だろう。
現状、外の道具が手に入るのはこの店しかない。私がここで首を縦に振らなければ、先の言葉通り店主はこのパイプを非売品にして、棚の奥ででも埃を被らせて置いてしまうのだろう。それは余りにも勿体ない。
「そうだな……仕方ない、アンタの策略に乗ってやるよ」
ポン、と手を叩いて結論を述べた私に、店主は満足げな表情を浮かべる。
「賢い買い物をしたね。こういうのを、『うぃんうぃんの関係』って言うらしいよ」
「何か絡繰り好きの里の子供なんかが喜びそうな関係だな。それ」
絡繰りの駆動音みたいな……いや、下らないな、無し無し。
「それと、コレはサービスだよ」
そう言って店主は、先ほど入れ物と一緒に持って来た真鍮色の平たい丸缶を差し出して来た。会計口の上に置いてある奴と同じような缶だが、表面に描いてある絵が違う。
「これが葉っぱか?」
「そうだよ。様子を見るに、僕が今吸ってる奴はお気に召さないみたいだからね」
「まぁ……嫌がらせかって位に臭うしな」
ハハ、と店主が曖昧な笑い声を上げて、先ほど火皿の中の葉っぱを押し付けていた金属製の道具をひっくり返す。何をするのかと見ていると彼は道具の反対側の細くなっている部分を、その缶の蓋の隙間に差し込んだ。
「こうしないと開かないんだよ」
訝しげな表情をしていたのだろう私に、店主は目線を向けることなく説明して来た。ふうん。
程なく蓋が開き、それと同時に店主の漂わせる煙を掻き分けて、フワリと甘い香りが私の鼻を突いた。
「お? 甘い匂いがするな……」
「着香してあるんだよ。蜂蜜とバニラ、だったかな?」
「へぇ……」
生返事をしつつ、私は店主から受け取った缶の中身を見る。紙製の中蓋を剥がすと、太目に切り揃えられた煙草の葉っぱがぎっしりと詰まっていた。黒や薄茶の葉っぱが入り混じっている辺り、色々な種類の葉っぱを混成させているのかもな、と思った。
ウッ、と息を詰まらせてしまいそうな位に強く、甘い芳香。その香りは子供向けの駄菓子を思わせる人工的な平坦さを持っているが、どこか上品さを残して肺の腑へと落ちて行く。一回に一つまみ分吸えるとして、この缶で一体どれほどの時間を過ごす事が出来るのだろう。膨大に思える道のりに、私は自然と心が躍った。
「試しに吸ってみるかい?」
「是非」
「判った。葉の詰め方にもコツがあるんだ。ちょっと見ててくれないか」
そう言って羅宇の部分を抓んだ店主が箱からパイプを取り出す。懐から小さめの手拭いを取り出して下から火皿を包む。成程、ああいう風に持てばいいんだな。
「海泡石は燃えないからブレークインは要らないかな……」
「あ? ぶ、ぶれ……?」
「ブレークイン。火皿の内側に炭素を付着させて、木製の火皿が焦げないようにする事」
「ふうん……」
納得したような声を出しつつも、私は既にその情報を頭から除外している。横文字は苦手だ。必要のない知識なら、尚更覚える必要はないだろう。
「指で抓んだ葉っぱを、三回に分けて火皿に詰めていくんだ。最初は柔らかく。徐々に固く詰めていって、最後にこの道具で表面を平らに成らす」
身体を前のめりにさせて、店主の示す手順をしっかりと穴が開く程に見る。引き籠りの割には太い指だ。道具屋ってのは、何やかんや力仕事も必要になるからだろうか。
「ほうほう、なるほど」
「これで詰め終わりだ。次は火のつけ方を教えよう」
そう言って店主は木の皿の上に海泡石のパイプを置くと、自分が咥えていたパイプから爪みたいな小刀で灰を掻き出し灰皿に落とした。
「本当は火皿がちゃんと冷えてからの方が良いらしいけどね。味が鈍ってしまうから」
「ふぅん、何か悪いな。説明の為とはいえ」
「いや、良いんだよ。一回吸う毎に冷やすのは面倒だからやってないし」
店主が最初から会計口の上に置いてあった缶を開けて、その中身を自前のパイプに詰めていく。漂っていた煙とはまた別種のキツイ臭いが漂って、私は思わず顔を顰める。
うえ……何だろう、燻製肉みたいな臭いがする。良くこんな葉っぱを使う気になれるな。
「はい、詰め終わった」
判を押すみたいに葉っぱを平らに均した店主がパイプを咥えた。
「で、火皿の上で円を描くようにして火を点けるんだ。空気を吸い込みながらね。その辺は普通の煙草と同じだけど――」
「肺には入れないんだろ? 判ってるさ。その辺は、やりながら覚えるしか無いかな」
私は椅子から立ち上がって腰を屈め、火皿を上から見る事の出来る体勢を取る。すぐ目の前の火皿の上に、頭の中で円を描いてみる。燻製肉の臭いが強まる。
――と、突然バン、と威勢良く店の扉が開く音がした。
かと思えば私が後ろを振り向くよりも早く、
「――くっせ! なんだこの店! 有り得ないくらいに凄い臭いが充満してるぞ! 油虫でも燻し出してんのか!?」
という大声と二、三度の咳き込みが聞こえて来て、私はその荒々しい来訪者が霧雨魔理沙だと知る。
「あ――」
私が振り向くと、入口に立ち尽くした魔理沙が縫い止められたように立ち尽くしている光景が目に入った。
『まずい光景を見てしまった』みたいな驚愕の表情を浮かべている。
……え? 何で?
状況確認。
一、 魔理沙の立っている位置からは、私の背中しか見えない。
二、 私の顔のすぐ目の前には、ポカンとした表情の道具屋店主。
三、 扉が開く瞬間まで、私は腰を屈めていた。店主の顔に向かって。
Q、以上の状況と魔理沙の表情から導き出すことの出来る誤解を答えなさい。
A,んなもんちゅーしかねーだろ仮にも男と女の二人っきりで他に何やるってんだよ。
あぁ、成程。そういう事か。納得。
やっべ。
「なんだ、魔理沙か……残念だけど、今の香霖堂は未成年立ち入り禁止区域だよ?」
パイプを口から放した店主が、私の身体越しに軽口を叩く。
――てめえええええええええええええええ!!!!
いやいやいやいやこのウスラ馬鹿! 何を意味深な事を口走ってやがる魔理沙が誤解したらどうすんだ! タイミング悪くパイプまで口から降ろしやがってもおおおおおおお!
あああ何で私の身体は透過性が無いんだ畜生おおおおおおおおおおお!
「………………ふぅん、そうなんだ……ハハ、知らなかったなー……ハハハ」
魔理沙が帽子のツバを引き下ろして、随分と乾いた笑いを浮かべる。
おいヤバいってコレ完全に誤解進行中だってどうする私!? 身体中の神経が完全に脳内に割り振られているせいか身動きも出来ない! 何か言おうとした所でこの状況じゃ魔理沙を納得させる事は出来ないんじゃないのか!?
「……お前ら、一体、いつからだ?」
「ふむ……良く覚えてないけど、確か二年ほど前だったかな? 彼女の方から尋ねて来たんだ」
「…………………………………………………………へー」
まずい。
何がまずいって会話が噛み合っている様で全く噛み合ってない所がまずい。
うわー。魔理沙が親の仇でも見るような目で私の事を睨んでるー。アイツあんな般若みたいな顔出来るんだ知らなかったなー。
誰か助けてくれ。
「さて、何だか良く判らないけど説明も終わった事だし、続きに入ろうか?」
店主がニッコリと営業スマイルを携えて私を見る。
おいてめえちょっといい加減にしろ。て言うか黙れ。半世紀黙ってから来い。
動け私の身体!
動け! 動け! 動け! 動け! 動いてよ!
今動かなきゃなんにもならないんだ!
「――私も参加して良いか?」
魔理沙がポツリと呟く。
その声は寂しげに響くが、押し殺された感情の色は読めない。
つーか何言ってんの!? どんな悲壮な覚悟だよ! 何を思ってその発言に至った!? 参加ってお前どう参加するつもりなんだよ!? お前その年齢で爛れた知識ばっか持ってんじゃねえよ!
……いや違う! これはチャンスだ!
このまま魔理沙が留まれば、誤解はすぐにでも解ける。魔理沙が参加表明した所でこれから始まるのは、その、何たらピーじゃなくて単なるパイプの吸い方講座だ。PはPでもパイプのPだ。
勝機。
ならば、私はこのまま呆気に取られて身体が硬直していても、何の問題も無い。
でかした魔理沙! いいぞ! 今回ばかりはお前の耳年増も不問に処す!
「いやだから、困るって。この場に君が居るのはまずいんだ。君が大人になったら、参加させてあげるから……」
店主はそう言って、やれやれとばかりに肩を竦めた。
おいコイツもしかしてわざとか? もうダメだコイツ馬鹿だろ。とんでもない馬鹿だろ。三千世界に名を轟かせるレベルのクソ馬鹿だろ。殴って良いかな。殴って良いのかな。馬鹿って殴ったら治るのかな。付ける薬は無くてもショック療法なら通じるんじゃないかな。
「…………私はもう大人だ」
いや、絶対違う。
二重の意味で違う。
「……まぁ、僕は大人になったとしても、君に吸って欲しいとは思わないけどね」
「――す、吸!? すっ!!!??」
見開いた目で魔理沙が私の事を見てきた。思わず素の乙女の顔である。
やめろおおおおおおおおおおおおお!!! もうこれ以上妙な勘違いを加速させるんじゃねえええええええええええええええ!!!!
「――煙草!!!! 煙草の話な!!! タ・バ・コ! エヴリバディセイタ・バ・コ!」
ここまで状況が悪化した所で漸く私の口が動いてくれた。でかした私。
「え……? 煙草……?」
キョトンとした表情の魔理沙が、鼻をスンスンと鳴らす。そこに至って漸く、店内に漂う煙と臭いが煙草に拠る物だと悟ったらしい。
「……突然どうしたんだい? 最初っからその話をしてるんじゃないか」
私の出した大声に、店主が呆れたような溜め息を吐いた。黙れぶっ殺すぞ。
「あ、あー。ああ、成程……そういう事か……焦っちまったぜ」
それまでの鬼みたいな表情が嘘の様に、安堵の溜め息を吐く魔理沙の表情は朗らかな物に戻っていた。やれやれだ。マジで。
「――まぁ、そういう訳だから僕としては、あまり君がこんな煙がもうもうとしている空間に居て欲しくは無いのだが」
「へ、良く言うぜ。いつも私が居ようが居まいが平気の平左で水煙草吹かしてる癖によ……それとも何か? 今日は特別に、何か私が居ると困る事でもあるってのか?」
冗談めかした口調で言いつつ、抜け目なく魔理沙が私の事を盗み見る。
何だよ今の視線は。まだ完全に誤解が晴れた訳では御座いませんってか。
――ははーん……つまりはそういう事なのか?
さっきの物凄い表情も、つまりは単なる嫉妬とか驚きとか、知り合いの人間がイチャコラしてる事に対する潔癖症的な嫌悪とか、そういう訳じゃ無いって事なのか?
ふぅん。
単なる弾幕狂の賑やか好きだとばかり思ってたが、こんな普通の女の子みたいな感情も持ち合わせてたんだな。ま、思春期って奴なんだろうかね。私にも有ったかな、そんな時期。無かった様な? 何百年も前の事になるが……何か年寄りみたいな思考だな。私。いや、間違っちゃいないが。
勝手に会計口の物を一纏めにして自分の座るスペースを作り始める魔理沙を見て、店主は大仰な溜め息を吐いた。
「……魔理沙は言い出すと聞かないからな……仕方ないか。お茶でも注いで来るよ」
「手順は聞いたし、もう吸い始めてても良いか?」
立ち上がった店主の背に問うと、「ご自由に」という言葉が返って来た。
皿の上に置かれたままだった白のパイプを持ち上げて燐寸を擦り、吸い口に唇を付けた私は、先ほど言われた通りの手順で着火する。チクチクと魔理沙の視線を感じて実にやり辛い。
ジリジリと音を立てて、火皿の表面の葉っぱが赤く燃え上がって行く。しかし、肺に空気を入れないように吸うというのは、何とも具合が判らなくて困る。言葉的に矛盾してないか?
首を傾げつつ、何とか吸い込もうとする。そうじゃないと火が点いてくれない。試行錯誤の結果、いつもの紙巻き煙草と同じように吸い込んでしまい、喉の奥にジリ、と痛みが走って思わず咽てしまった。
「――煙草って美味いのか?」
喉を摩る私に、燐寸箱を弄りながら魔理沙が問いかけて来た。
「ん……げほ……まぁ、そうだな……私は、美味いと思って吸ってるな」
「香霖の奴も、何やかんやいつも煙草を吸ってるんだが、私には良さが判らん」
「判らなくって良いさ。少なくとも私にとって、煙草ってのは逃避先だ。普通の人間と比べると長生きしてるからな、たまには肩の荷を下ろす時間が欲しいんだよ」
「それは、誰かと一緒に居る時間では代用出来ないのか?」
「ふむ……」
その問いに私は、ふと慧音の顔を思い浮かべた。
慧音は、私が煙草を吸う事を嫌がる。蓬莱人である私が病気や死なんかと無縁で、煙草に拠る健康被害も無いと判っているのに、それでもアイツは私が煙草を吸っている、という事に対して良い顔をしない。必然、私は慧音の居る場所では喫煙を避けてしまう。
慧音と一緒に居る時間と、煙草を吸う時間は両立しない。だからと言って私には、どちらかを選んでどちらかを捨てることが出来ない。どちらも私にとって大切な時間だ。順位を付けることの出来る問題じゃない。それは食事と睡眠のどちらが大切か、と聞くのと同じような問題だ。私にとっては。
だから私は、
「――代用、出来る奴も居るだろうさ。ただ、出来ない奴も居る。他人と一緒に居る事が何よりの幸せって奴も居れば、どうしても独りになる時間が欲しくて、その時間には煙草が必要だって奴も居る。だからと言って、どちらかが良いとか悪いとか、劣っているとか優れているとか、そういう訳じゃ無い。ただそういう種類の人間だってだけだ」
と、結局どっちつかずの言葉を発した。
お茶を濁した訳じゃ無い。きっとこれが限りなく正解に近いだろう。世の中ってのは、簡単に判断出来る事の方が少ない。全てに白黒つけられるのは、彼岸の閻魔だけだ。
此岸には灰色しか存在しない。そこには濃淡があるだけだ。
「……そっか」
納得してくれたのかどうか判らないが、魔理沙は小さな溜め息を吐いて燐寸箱を元の場所に戻した。
今のやり取りは単なる会話だ。取り留めの無いお喋り。だが、この会話のお蔭で魔理沙の中の誤解が完全に晴れてくれたなら良いな、なんて私は結局上手く火を点けられなかったパイプを咥えつつ思った。
「お待たせ」
咥えパイプのまま、店主が手に急須と湯呑の乗った盆を持って暖簾の奥から戻って来た。
火皿から煙は上がっていない。さっきのゴタゴタで火を点ける機を逸したからだろう。燐寸も会計口の上に置きっ放しだったしな。
「ん? 何だ、結局火を点けられなかったのかい?」
魔理沙の尻の近くに盆を置いた店主が、安楽椅子に腰掛けつつ私のパイプを見て首を傾げる。勝手に急須から緑茶を注ぎ始めた魔理沙が、ボンヤリと店主の事を見ていた。
「あぁ、やっぱ何だか具合が判らなくてな……」
「ふむ、どう言えば伝わるかな……舌を喉の方へとゆっくり後退させる感じなんだけど……ちょっと貸して貰って良いかな?」
「ん? まぁ、良いけど」
咥えていたパイプを店主に手渡す。受け取った店主は、先ほど魔理沙が弄っていた燐寸箱を抓み上げた。
「ちょっと失礼」
何をするんだろうと黙って見ていたら奴さん、何を思ったか手渡したパイプを咥えると、何の気なしに火を点け始めた。魔理沙の目が無言のままに見開かれる。
……あれぇ?
もしかしてあれか? これ、一時は終息した疑惑が再発したんじゃないか?
「はい、点いたよ」
「あ、あぁ……」
受け取りつつ、私はさりげなく魔理沙の表情を伺う。
……あー、やっぱりなんか悔しそうな顔しちゃってますよ? この娘。
初心だなー。
面倒臭いなー。
「放って置くと消えるから、何とか吸い方のコツを掴んでくれ」
店主がニッコリと微笑んできた。営業スマイルだ。私には判ってる。
問題は、魔理沙がまたぞろ勘違いを始めやしないかと言う事だが……。
「――わ、私も吸ってみるぜ! あー、人生ってアレだよな、何事も経験が物を言うもんな!」
……ホラまた意味の判らん対抗心を見せてくるー!
恋は盲目、なんて良く言ったもんだな。見事に何も見えてないぞコイツ。
だが、まぁ要するにコイツの目的は関節キッスな訳で、さっきみたいに面倒が加速する前に事態の収束を図ろうか。
「――何だ何だ、それじゃ一口吸ってみるか?」
穏便に私は魔理沙にそう打診するも店主が即座に、「いや、駄目だよ魔理沙。君は吸っちゃ駄目だ」と、切り捨てる。魔理沙は眉根に深い深い皺を寄せた。そこには嫉妬の片鱗が窺える。となると、また私にもとばっちりが来るってもんだ。
それにしてもこの野郎……飲酒に関しては黙認してる癖に、どうしてこんなに煙草に対しては意固地なんだ?
もういっその事、全部言っちゃうか? 『この唐変木! あのなぁ、魔理沙はお前の事が好きなんだよ!』ってな具合に。
……いや、止めよう。
恐らく、もっと面倒臭い事になるに違いない。それに、野暮ったいしな。
となると、結局私は何とか上手く立ち回らにゃならんという訳で……面倒だなぁ。まったくもう。
取り敢えず、折角点いた火が消えちゃ困るので、魔理沙の口元から聞こえる歯軋りについては気付かない振りをしつつ、パイプを咥えた。で、言われた通りに舌をゆっくり後退りさせて、煙を口の中へと招待する。
ふむ……やっぱりいつもの紙巻き煙草とは具合が違うな。舌がピリピリする。
さっきの葉っぱの甘い香りは殆どなくなってるが、酒然り料理然り、上質なモノに共通する重厚さというか、そんな複雑な味を持った煙だ。
ジリジリと食道やら肺の細胞やらから、ニコチンの到達を待ち望む声なき欲求が立ち上って来るが、それに従えば咽る事は実証済みなので我慢する。
「どうだい?」
いつの間にか自分のパイプにも火を点けていた店主が、煙を吹き出しつつ微笑んできた。
「うん、中々だな」
「口の中に貯めた煙を、鼻と口の境目辺りに押し付ける様なイメージで吸うのがお勧めだよ。あんまり濃い煙だと、鼻を通す時に痛むけれどね」
「ふぅん……」
頷きつつ、私はコッソリ魔理沙の表情を伺った。
能面みたいな無表情だった。
「――あーあ、楽しそうだなぁ」
投げやりな口調で、魔理沙が呟いた。その声には、私と店主が同じ物を共有している傍ら、 仲間に入れて貰えない事への不満がありありと滲んでいる。
「そーだよなー。私はお子様だもんなー。お前らが楽しく煙草吸ってんのを、こうして横から見てる位しか出来ないしなー。あーあ、退屈だなー。退屈だわー」
「……………………」
面倒臭っ!
コイツこんな面倒だったっけ?
もうちょっと竹を割った様な性格だと思ってたんだけどなぁ。
で、睨むな。私の事を。そんな目で見るな。私はお前が思ってるようなんじゃないから。この状況にくすぐったい幸福感とか覚えてないから。むしろ逆だから。針のムシロだから。
やれやれ、と私はパイプを吸いつつ店主の方を確認する。ちゃっかりと本を読み始めている店主は、魔理沙の面倒臭い働きかけもどこ吹く風といった面持ち。まるでこの空間には自分しか居ない、みたいな寛ぎ様でプカプカと紫煙を吐き出している。
この野郎腹立つなぁ。お前が元凶なんだぞ。だから何とかしてくれよ。いや、期待するだけ無駄か。私は肩を落とす。やれやれだ。本当に、やれやれって感じ。
気まずい沈黙の中、平静を装ってパイプを吸っていた私の舌から、不意にピリピリとした痛みが無くなった。
何だ、もう慣れて来たのか? それとも舌の細胞が死滅して現在リザレクションの真っ最中か? なんて思うがもちろんそんな訳では全然なくて、単純に火が消えてしまったらしい。
「――むぅ……結構神経使って吸ってたつもりなんだがなぁ……」
「ん? 消えちゃったのかい?」
店主が本に栞を挟んで傍らに置く。その動きを見た魔理沙が、キッと睨み付けてくる。私を。解せん。何故だ。
「消えたんならまたこの道具で葉っぱの表面を押して、もう一回火を点ければ良い。ちょっと消えたくらいじゃ味も香りも劣化しないから、大丈夫だよ」
そう言ってまた店主は私のパイプに向けて手を差し出してくる。その動作は実に自然だ。
――時に、地底には覚妖怪って種族の妖怪が居るらしいな?
心を読み当てる能力があるんだっけか?
そんな能力なくても、今の魔理沙の心を読む事は簡単だ。当てて見せようか?
よし、魔理沙は今こう思ってる。
『――自分でやれ。自分でやれ。自分でやれ。自分でやれ。自分でやれ。自分でやれ』
と、まあこんな具合だ。表情を見ればすぐに判る。顔に書いてあるって奴だな。目付きの凶悪さが半端じゃないぞ。その辺の妖精なら睨むだけで消滅するんじゃないか? おぉ怖い怖い。
勘弁してくれ。
「……いや、良いよ。自分でやるよ」
どこぞの竜宮の使いじゃないが、物の見事に空気を読んで私は声なき店主の申し出を固辞する。
「そうかい? じゃ、燐寸は要るかな?」
「――燐寸なんて要りませんよ。霖之助さん」
突然、この場に居る誰でもない奴の声が店の入り口から聞こえて来た。
振り向くと、そこに居たのは白髪の少女だった。
緑で統一した洋服に、二振りの刀。背後にはボンヤリと渦を巻くようにして動く大き目の幽霊――。
「お久しぶりです、妹紅さん。妹紅さんは確か、火を操る能力を持ってますよね? じゃ、わざわざ燐寸なんか必要ないんじゃないですか?」
幼い声で私に言う少女は、ツカツカと店の中へと足を踏み入れてくる。
えと……誰だっけな? どっかで見たような……。
「あ、あぁ、久しぶり……」
どうやら向こうと私は顔馴染みな様なので、取り敢えずそんな挨拶をする。
人よりも少しばかり長生きしてるせいで、どうにも人の顔や名前を覚えるのは苦手だ。私の脳みその中には何千何万という人間と出逢った記憶が朧に残っているから、親交の薄い人間は、それら膨大な記憶と混じり合ってしまう。
「……妹紅さん? もしかして、私が誰か忘れちゃいました?」
「ギクッ……いやいや、忘れる訳なんかないだろう? 大丈夫だよ。覚えてるよ」
「いや、『ギクッ』て自分で言ってるし……」
「アレだろ? その……アレだ。いや、大丈夫。覚えてる……あ、そうだ! 確か里の蕎麦屋で働いてる――」
「全然違います……と言うか蕎麦屋って……刀でお蕎麦を切れと言うのですか? どんなダイナミックな商法ですか……満月の夜、一緒に弾幕ごっこまでした仲じゃないですか」
私の目の前まで歩み寄って来た剣士っぽい少女は、大きく溜め息を吐いた。
「――なんだ、妖夢じゃん。お前、どうした?」
魔理沙が何でもない風に少女の名前を呼ぶ。確かに聞いた事のある名前だ。思わぬ助け舟。
「ようむ……あぁ! そうかそうか! 妖夢か!」
「思い出してくれたみたいで何よりです」
ポン、と手を叩いた私を見て、少々不機嫌そうに妖夢(と呼ばれた少女)が言う。
「……アレだろ? 里の床屋でカリスマと名高い――」
「……貴女が私の事を完っ全に忘れてるのは、良く判りました。てか何ですか。床屋って。床屋て! 刀で髪を切れと言うのですか? 死と隣り合わせじゃないですか。誰が来るんですかそんな物騒な床屋。耳とか頸動脈とかのカットまで覚悟してくるなんて、マゾじゃ済まないじゃないですか。もっと刀を使うに相応しい職業を思い浮かべて下さいよ」
「はぁ……判らないな。して、答えは?」
「庭師です」
「いや刀関係なくね?」
フフン、と無い胸を張った少女に突っ込みを入れる。つーか何だこのやり取り。
「……で、妖夢君は何か入用かい?」
ワザとらしい咳払いをした店主が、妖夢に尋ねた。
――あぁ、何かちょっと思い出して来たな。満月の夜か。確か永遠亭の奴らが何か妙な異変を起こした直後だったかな。言われてみれば確かに、弾幕ごっこをした記憶もあるな。白玉楼の所の富士見の娘さんと一緒に来たんだったか。二人掛かりとか卑怯だろ、とかちょっと思った気がする。コイツが高速移動担当だったからか、ほぼ西行の娘さんとしか相手してなかった気もするけど。
「――いえ、ちょっと遊びに来たんです」
「ふぅん。良かったな香霖。千客万来だぜ?」
「……はて、客、と言って良いのですかねぇ?」
魔理沙の軽口に、妖夢が何やら意味有りげな微笑みと共に返した。
その途端、妙に鋭い空気が、フッと場を支配した。
ハッとした表情を浮かべる魔理沙。何やら口角を吊り上げる妖夢。聞いているのか聞いていないのかハッキリとしない店主。
Q、この状況から導き出すことの出来る、一番面倒臭い状況を述べなさい。
A,んなもんアレだろ? 妖夢もまた魔理沙と同じ様なジャリ臭い恋愛ごっこに興じようとしてるって事だろ。
成程。状況は把握した。
こんなにも空気を読むことの出来る私って凄い! 素敵!
……うわー、嫌だなー。
今以上に面倒臭い事になんのかなー。
……そう言えば前に、酒の席で慧音がボソッと寺子屋の女子について語ってた事があったな。『第二次性徴前の女の子の恋愛に関する画策は面倒臭い』みたいな感じで。
恋愛と言っても、そこは寺子屋に通う様な子供のする事。結婚だの子供を作るだのなんて本気の愛情とは違う。後に、甘酸っぱい初恋。きゃぴ。みたいな感じで思い出すような、そんな大人からしてみれば可愛い物だ。幾ら当人が本気だと思い込んでいても。
曰くそれは、肉食動物がやる狩りの練習みたいな物だと慧音は言う。どこそこのお兄さんがカッコいいだの、誰それのお父さんは素敵だの、そんな他愛ない話にしかし、当人たちは鎬を削っている。らしい。
女子の精神的な成長は、男子のそれを遥かに上回る速度で展開する。まだ胸も膨らみ切らない内から、将来自分がマジの恋愛をする練習を既に始めているのだという。
そうやって恋愛話に花を咲かせるくらいならば可愛い物で済むが、成長の速い女子の中には、時に慧音を女として敵視する者も出ると言うのだから、これは教育者としては頭の痛い話だろう。
将来の為の練習とは言え、当人にしてみれば真剣も真剣。若さゆえの向こう見ずも悪い方へと働いて、他愛ない筈の子供の画策は、時にとんでもない問題として発現してしまう事も有るとか無いとか。詳しくは言ってくれなかったが。
で、話を聞いた時の私の反応としては、正直ふーんって感じでしか無かった。
まぁ、私はまともな幼少時代を送っちゃいないしな。親父を憎んだり、輝夜を恨んだり、蓬莱の薬を奪う過程で人を殺したりしてるし。そんな子供が惚れた腫れたに現を抜かす余裕があったら逆に怖い。
そして今私は、どうやら慧音が日常的に頭を悩ませている問題を、この目でしかと見てしまっているらしい。肉食獣の狩りの練習染みた、この場に。
と言うか高みの見物的な立場ですらない。この場において立派に敵視されているのは、先ほど魔理沙が証明してくれている。三竦みならぬ四竦み。バランスは最悪の部類だ。もう泥沼ってレベルじゃない。濃度の高い水溶き片栗粉くらいにドロドロした状況に、どうやら私は放り込まれている。
ハハハハハ。成程、成程。誰か嘘だと言ってくれ。
私はただ平和的に煙草を購入しに来ただけだってのに、何でこんな面倒っちい出来事に巻き込まれてるんだよ……。
「――まぁ、来てくれたんならお茶でも出すよ」
店主の声で、私はささやかな状況把握と言う名の現実逃避から引き戻される。大儀そうに立ち上がろうとした店主に、しかし妖夢は首を横に振る。
「あ、大丈夫ですよ霖之助さん。私、自分で淹れられますから。お茶っ葉は流しの上の段の二番目に置いてあって、急須はこれを使えば良いんですよね?」
にこやかに微笑んだ妖夢が、会計口の上の急須を持ち上げる。魔理沙がこれでもかって位眉根に皺を寄せているが、妖夢はどこ吹く風だ。
ホラ来た。私はうんざりと思う。
何だよ、お前のその『私、この家の事、熟知しちゃってますから』的なアピール。魔理沙が前掛けをギュッと握りしめて、またもギリギリ歯軋りをしてる。そして妖夢は私をサラッと確認して、フフンと勝ち誇ったような笑み。見るな。私を。腹立つ。
「あぁ、済まないね……」
「良いですよ。これ位」
「それにしても、君は大丈夫なのかい? 今日は僕も彼女も煙草を吸ってるんだが」
「いえ、大丈夫です。紫さまも時折いらっしゃっては煙草を吸われますし、私はこれ位で文句を言ったりしませんよ」
あっそ。『私って懐も深いんです』アピールご苦労さん。
……アイツ確か前会った時は、もうちょい幼かったよな。何がアイツを変えたんだろう。髪型も変わってるみたいだし。
「……やれやれ、何時ぞやは雪に埋もれたりなんかもしてたってのに、何だか気の利く子になってしまったねぇ……」
店主が紫煙を燻らせつつ、しみじみと爆弾発言を投下する。それを受けて魔理沙が自分の帽子をサンドバッグに見立ててドスドスと殴り始める。
……気が利かねぇのはお前だよ。もう絶望的だよ。
アレだな。鈍感な男ってのは存在その物が罪だな。ただ、こんな幼気な子供の駆け引きごっこを真に受けられたら、それはそれでもっと重い罪になる事は明白だがな。
早く来い来い死神、閻魔。春よりも先に早く来い。
パイプの火が消えたままだったのを今更の様に思い出し、私は燐寸箱を手繰り寄せる。妖夢はさっき何やかんや言っていたが、やっぱり加減が判らない。余り火の温度が高すぎても良くないらしいしな。
「ハイこれ。これで、火皿の中を平らに均してくれ」
燐寸棒を取り出した私に、店主が先ほど説明してた道具を手渡して来た。
「あ、あぁ、アリガトな」
「コレはタンパーという名前の道具なんだけどね、この道具も一緒に上げようか?」
「お、マジで?」
「良いよ。大事な常連さんだからね。それに、コレが無いとパイプは吸えないし」
「そんじゃ、ありがたく頂戴するわ」
私は手渡されたその道具で火皿の表面を押す。成程、上の方の葉っぱは殆ど灰になってるんだな。これじゃ、火を点けようにも点かない訳だ。指を突っ込む訳にも行かないし、ひっくり返せばまだ残ってる葉っぱも落ちるだろうし、確かに必需品だな。
「――常連って意味だったら、私も常連だろ? な? 香霖?」
頷く事を強要する声音で魔理沙が言う。うわまた出たよ。張り合わないでくれ。お願いだから平和に煙草を吸わせてくれ。
「ふむ、果たして品物を勝手に拝借していく君を、常連と呼んで良いのかな?」
店主が溜め息交じりに呟く。
おいお前は無難とか穏便って言葉を知らないのか。
幻想郷で『空気読めない奴選手権』とかやったら、コイツぶっちぎりで一位になれるんじゃないか? 二位に背中すら見せない勢いの一位じゃないのか?
「…………そうかよ」
吐き捨てる様な魔理沙の声。跳ねる様に会計口から飛び降り、先ほど乱暴に扱われていた哀れな帽子を被る。
「帰るぜ。煙草臭くって気分が悪くなってきたしな」
あーあー。拗ねちゃった。
いやいや、何つーか……ここまで来ると、少し可哀想にも思えるな。正直私としちゃ面倒臭いだけではあったが、魔理沙にとっては折角来たのに面白くないだろう。この展開は。
「魔理沙」
肘置きに手を突いて立ち上がりながら、不機嫌な早足で出口へと向かっていた魔理沙の背に店主が声を掛ける。
「……何だよ」
立ち止まった魔理沙は、こちらに背を向けたまま低い声で聞く。
店主はパイプを皿の上に置き、外から用意したのであろう雪が詰め込まれた冷蔵庫から何か黒い液体が入っている瓶を二本ほど取ると、魔理沙の元へと歩み寄る。
「今日は余り構ってやれなくて悪かったね。まあ、持って行くと良い」
おずおずと振り返った魔理沙の手に、店主が瓶を二本とも渡した。
「――金は払ってやらないぜ」
「別に構わないよ。謝罪の証だとでも思ってくれ。あぁ、それと、預かっているミニ八卦炉だがね。申し訳ないが、あともう少し時間が掛かる。二日後にまた来てくれれば、きっとその時には渡せると思う。家が寒いのは重々承知だが、堪えてくれ。風邪を引かないようにね。何だったら、ストーブを貸して上げても良い。言い出す機を失ってしまって悪かったね」
あれやこれやと言いつつ、店主は縒れてしまっていた魔理沙の帽子を直す。俯き加減の魔理沙はバツの悪そうな表情で、されるがままにしていた。
――ほぅ……何だ。どうしようも無い唐変木かと思っていたが、ちゃんと気も使えるんじゃないか。
私は煙を吐き出しつつ、少し感心した思いで様子を見ていた。
こういうのが、いつか輝夜の奴が言っていた『ぎゃっぷもえ』とかいう奴なのかもしれないな。いや、『つんでれ』だっけか?
……まぁ、どっちでも構わないか。表情を見る限り、魔理沙の機嫌も直ってるみたいだしな。
「……『ストーブを貸してやる』だって? ハッ。あんな重い物を持って帰るのは御免だぜ。返したくなくなるだろうし……その……私が持ってったら、お前が寒いじゃないか」
後半へ向かうに連れて消え入りそうになる魔理沙の声に、私は思わず咽そうになる。
ひゃー、言うねぇ。
憎いね熱いね甘々だねぇ。
どうやら今の私は蚊帳の外の第三者になる事が出来た様で、そうなると気楽なもんだ。遠慮なく野次馬根性だけを発揮出来る。パイプを吸いつつボンヤリと高みの見物と洒落込んだ。こういうのは、傍から見てる分には楽しいもんなのだ。
「そうかい? まぁ、くれぐれも風邪だけは引かないようにね」
「お前もたまには外に出て運動しろ。こんな店で煙草ばっか吸ってたら、それこそ身体をおかしくするぜ」
「参考にしておくよ」
そんな朗らかなやり取りを残して、魔理沙は帰って行った。二本の瓶をギュッと大事そうに抱えて。
やれやれ、やっと平和になった。
それに最後は何とか穏便な空気で二人とも別れてくれたしな。今後、私にとばっちりが来ることも無いだろう。万事丸く収まってくれたようで良かった良かった……。
「――あれれー? 魔理沙さん、帰ったんですか?」
口から湯気を棚引かせる急須と一緒に奥から出て来た妖夢が頓狂な、というか嬉しそうな声で言う。
……しまった。まだコイツが居たか。多感な思春期少女め。何が『あれれー』だ。見た目も頭脳も少女の癖に。
「妹紅さんは帰らないんですか?」
妖夢が会計口に置きっ放しになっていた湯呑に緑茶を注ぐ。魔理沙がさっきまで使ってた奴だ。抜け抜けと言いやがって鼻を抓むぞ。鼻を。泣くまで。
「――まぁ、まだ煙草を吸わせて貰ってる所だしな」
「そうですか」
淡泊な声音で言うと、妖夢は注いだばかりのお茶を飲み始める。魔理沙の見送りを終えた店主もノロノロと安楽椅子へと舞い戻り、また燐寸を擦った。
「――先日、幽々子様のお言いつけで、里へと絹糸を買いに向かったんです」
矢庭に妖夢が語り出す。その目は時折チラチラと落ち着きなく店主の方へと向けられるが、本を開いた店主は「ほぉ……」と生返事だ。
「養蚕業を営んでいるご老人のお家なんですが、私が『すみません』って言うとニコニコしながら『何だい妖夢ちゃん、お仕事を首になったのかい?』なんて言って来るんです」
「ふぅん」
「で、『とんでもないどうしてですか?』って私が聞くと、ご老人は笑いながら『だってアンタが来た理由は蚕(解雇)なんだろう?』って――」
「……………………」
「……………………」
「……………………はは」
――凄ぇ。
凄ぇつまんねぇ。こんな芸術的なまでにつまらない小噺、初めて聞いた。
因みに笑った(嗤った)のは私な。愛想笑い。店主に至っては聞こえなかった振りをしている。妖夢の顔は私たち二人の大爆笑を期待したらしい表情のまま、凍り付いていた。
というか、話しながら自分でもちょっと笑ってた表情のままだ。面白い話を聞かせる時には一番やっちゃいけない奴だ。妖夢が話し始めた時点で薄々気づいてはいたが、案の定、滑った。店主が頁を捲る音が、虚しい程の大きさで聞こえて来る。
「――この間、久々にお休みの日を頂いたので、お小遣いを持って里に遊びに行ったんです」
おおぅ……まだやるか。
沈黙が耐えられないんだろうか。それにしてもお前の精神は鋼か何かか。私なら初っ端の失敗で挫けてるだろうに。
「本当に久しぶりだったので、私嬉しくなって、それでどこのお店に入ろうかなって往来をウロウロと歩いていたら――」
「君のご主人は、あまり休日をくれないのかい?」
大きな身振り手振りで一生懸命に話す妖夢の言葉を、本に目を落としたままの店主が遮った。
「え? え、えぇ……何しろお庭が広いですから……」
「大変だね」
「はい……」
――そしてまた沈黙が訪れる。
居た堪れない位の空気が。
流石に二度目の小噺を途中で遮られた事によって、妖夢の心は折れてしまったらしい。頷いたきり、何も喋ろうとはしなくなった。強引に話を再開すればいいのに、そうする勇気までは無かった様だ。もしくは再開した所で、また滑るだけだと気付いたのか。
……仕方ないな。
「――そう言えばお前、前会った時とは雰囲気が違うけど、髪型変えた?」
先ほど店主に貰ったタンパー? で火皿の葉を押しつつ、助け船を出す。半笑いで最大級に困った様子だった妖夢は、やっぱり嬉々として話に乗って来た。
「あ、はい。変えました」
「何でまた?」
「たまたま白玉楼に遊びにいらっしゃった紫さまが、『妖夢も女の子なんだし、少しはイメチェンでもしてみたらどうかしら?』って仰って、それで藍さんに切って貰いました」
「『いめちぇん』? また面妖な言葉が出て来たな……それでその髪型か」
「……変、じゃないですか?」
「いや、似合ってると思うよ」
前の髪型は、如何にもまだ子供です! って感じだったしな、とは言わないで置いた。すると妖夢はパッと顔を綻ばせて、
「ありがとうございます! 幽々子様も『あらあら、こんなに可愛くなっちゃ、私の妖夢が殿方にモテモテになってしまうわ』って仰って下さったんです!」
と、言った。
――あー成程、それでか。
それで、その気になっちゃった訳だ。この子は。茶化されてる事に気付けなかった訳だ。それで今日この店にやって来て、良く判らないアピールとかしてたって訳だ。
そう言えばちょっと前に、『自分は仙人です』みたいな宣伝を所構わずやってた、なんて噂も聞いたなぁ。つまり色々な物に影響されやすいんだろうな。純粋って言うか無垢って言うか。
「――ケホ……り、霖之助さんはどう思いますか? 変じゃないですか?」
果敢にも今のやり取りを全く聞いていなかった店主に向けて、咳を一つした妖夢が尋ねた。紙面から一瞬だけ目を上げた店主は、またぞろ文字を追う作業に戻りつつ、「良いと思うよ」と、一言。気の無い返事にしかし、妖夢の目が輝いた。
あ、嫌な予感。
「――あぁ、な、何だかこのお店、暑くないですか?」
妖夢がベストのボタンに手をやる。折しも外では風が家鳴りを呼び、冷たい隙間風が染み込んできた。
つまり、寒い。充分寒い。私も慧音の上着を脱げずにいる位には寒い……やべ、煙草の臭いが染みついてたら、また慧音に怒られる。
「そうかい? 寒い位だと思うけれど……」
店主が至極真っ当な反論をすると、妖夢がチラと私を見て首を横に振った。
「ケホ、ケホ……いえ、暑いですよ……妹紅さんが居るからかな……」
あ、コイツ……折角助け舟を出してやった恩も忘れて、私をダシに使いやがった。てか何だその言い訳は。人の事を七輪みたいに言いやがって。私の平熱は三六度八分だぞ。
「……暑いなら、ストーブ消そうか?」
「いや、良いだろ、消さなくて……」
立ち上がりかけた店主に、思わず突っ込みを入れた。これ以上店が寒くなって貰っちゃ困る。
「お前も無理すんな。ちゃんと寒いだろ? 別にベストは脱がなくて良いから」
徐に立ち上がり、コツ、コツ、と足音を立てながら店内を徘徊し始めた妖夢に言う。しかし妖夢はベストの裾を掴み、断固としてベストを脱ぐ決意を揺らがせない。
「――ケホ……これは、『試練』だ」
「あぁん?」
掴んだベストを捲り上げながら、妖夢が一瞬棚の向こうへ姿を消す。
「――寒さに打ち勝てという『試練』と私は受け取った……ケホ……」
「やっぱお前寒いんじゃん」
「人の成長は…………未熟な暖房機の、ケホ、助けに打ち勝つ事だとな……」
捲り上げたベストを腕に絡ませたまま、妖夢が棚の向こうから顔を覗かせる。が、別に顔つきが変わってるとか人格が変貌しているとかいう訳では無く、単純にブラウスだけの妖夢でしかない。
「いや、勝つ必要ないだろ。恩恵に預かっとけよ」
「え? ケホ、おまえもそうだろう? 藤原妹紅」
「全然……てか、『おまえ』って……」
私は首を横に振る。しかし妖夢はお構いなしだ。結局ベストは脱いでしまった。
「寒さは……ベストを脱いでやっても店の隙間から……ミミズのように……ケホ、ケホ、はい出てくる……」
「そりゃそうだろ。さっきから隙間風が凄いだろ。てか無理すんなって」
「ケホ……驚いたぞ……暑い理由の心当たりが、全くないわけだ……ケホ」
「もうお前馬鹿だろ」
何だろう。つくづく影響されやすい子だなぁ。
つまり妖夢にとって一番イカす上着の脱ぎ方が、コレって訳なんだろう。ゴゴゴゴゴ。
……というか、さっきから何でコイツ、ケホケホ空咳ばっかりしてるんだろう?
脱いだベストを右手に持ったまま、妖夢はまた元の場所へと戻ってくる。店内に漂う煙草の煙が揺らめいて、まるで妖夢に絡み付いているようにも見える。ただ、カリスマ的な物はそこには全く見受けられない。そして、戻って来ても店主は妖夢の姿を見ようともしない。パイプの煙を燻らせつつ、本を読むばかり。これはこれで哀れだ。
「……あれ? もしかしてまだ暑――」
「暑くないって。滅茶苦茶寒いって。こら止めろ。ブラウスのボタンに手を掛けるな。お前が行きつく所まで行っても、誰も幸せにはなれないから」
前に伸びかけた妖夢の手を掴む。至近距離で妖夢の表情を見る。その目はどこか虚ろだ。必死過ぎだろ。
やれやれ、と溜め息を吐いた。
私の口から漏れ出たパイプの煙が、妖夢の鼻先をくすぐった。
「――ふにゅう」
「ふにゅー……? 悪戯に放つ曼荼羅?」
全く意味の判らん言葉に首を傾げると、突然フ、と妖夢が前のめりに倒れて来た。
「――うおおっと!」
私は慌てて小柄な妖夢の身体を受け止める。
「……おい? 妖夢?」
身体を支えながら、ペチペチと頬を叩いた。しかし返事は無い。ただの半人半霊の様だ。
何だ何だ。いきなりどうした?
「ん? どうしたんだい?」
店主も流石に無視出来なかったと見えて、本を会計口に置きつつ立ち上がった。
私は妖夢の名を呼びつつ、ボンヤリと浮かんだままの半霊の様子をチラと伺う。心なしか不透明度が上がっている様な気がする。
……あ。
もしかして、アレか。煙草の煙に酔っちまったのか。
あちゃー、無理してたんだなぁ。そう言えばさっきからずっと空咳もしていた。確かに、ニコチンへの耐性が無い奴が居るには、店内は些か煙が濃過ぎるかもしれない。
「駄目だな。完全に気を失ってるみたいだ」
「ふぅん……寝不足かな……仕事も大変らしいし、疲れが出たのかもね」
パイプを大いに吹かしつつ、店主が首を傾げた。
「いや……」
お前のせいだろ、と喉元まで言葉が出掛ったが、よくよく考えれば私もだった。全然人の事言えなかった。てか多分、とどめを刺したのは私だった。
「――やれやれ仕方ないな……ここに置きっ放しにする訳にも行かないだろ。送ってってやるから、私はそろそろ帰るわ」
「お、そうかい。済まないね」
「良いって事よ。パイプも葉っぱも、タンパーも貰ったしな」
「いや上げたんじゃないよ。貸してるだけだよ」
チッ覚えてたか。
まあいい。端から期待もしてなかったしな。
気絶してしまった妖夢を背負った私は、パイプを入れる箱、葉っぱの入っている缶、そしてタンパーを慧音の上着のポケットへと突っ込む。
「良し、と……じゃ、達者でな」
「何だか騒がしくて済まなかったね。懲りずにまた来てくれ」
「葉っぱが無くなったらすぐにでもな」
安楽椅子に座り直して燐寸を擦る店主にそう言い残して、私は香霖堂を後にする。半霊は自力で付いてこれる様で何よりだ。
どうやら天気は快晴で、どこまでも突き抜けて行く様な真っ青な空に、眩しいばかりで温度を授けちゃくれない太陽が鎮座していた。
「……さて、どうやって白玉楼まで行こうかな……」
「――その必要は有りませんわ」
「……っ!?」
周囲に人気は無いと言うのに、不意に誰かの声が私の耳元で聞こえて、思わず飛び上がって驚いてしまった。
振り向くと、今しがた私が潜ったばかりの香霖堂の扉が黒い裂け目によって真っ二つに分かたれている。その向こう側には何物とも知れない目がこちらを睨み、中からゆっくりと紫のドレスを纏った女が歩み出てくる。
八雲紫。妖怪の賢者と名高い、スキマ妖怪だ。
「――何の用だ?」
思わず臨戦態勢に入る私に紫は、ち、ち、ち、とばかりに立てた人差し指を左右に振る。
「そんな怖い顔をしなくても良いじゃない? 私はただ、妖夢を白玉楼に送ってあげようと思って出て来ただけなのよ?」
そう言って紫はニィッと唇を横に押し広げる。随分と胡散臭い微笑み方だ。
……ただまあ、悪戯に警戒し過ぎる事も無い様な気はするな。
さっきも妖夢が紫に『いめちぇん』を進められただのの話をしていたし、妖夢の主人と紫は旧知の仲だと言う。ならば何も取って食ったりはしないだろう。大体妖夢じゃ、食えて半分までが関の山だしな。
「そうか……なら、任せても良い、のか?」
「えぇ。幽々子が心配している事だし、任せて頂戴」
言うや否や紫がパチンと指を鳴らす。すると私の背から小柄な少女の重みが無くなる。生憎頭の後ろに目を付ける趣味は無いから見えやしなかったが、きっと紫が開けたスキマの中に送られて、もう今頃は白玉楼だろう。便利な能力だ。
「悪いな、なんか……」
「構わないわよ。貴女が白玉楼まであの子を送って行くのに比べれば、大した労力でも無し――」
と、このクソ寒いのに何故か扇子を広げる紫が、私の顔をマジマジと見つめてくる。少々目を見開き、私の所へと歩み寄ってくる。
「な、な、何だよ……いきなり……」
近づいて来て判ったが、紫が見ているのは私の顔じゃなく、私が咥えたままのパイプの方だ。それを悟った時には既に紫は私から身体を放し、大きく溜め息を吐いた。
「まったく……霖之助さんったら……折角私がプレゼントしたパイプを、貴女に売ってしまうなんて……」
「――あぁん?」
え? コイツ今何て言った?
自分がプレゼントした、だ?
……そう言えば店主は、『とある伝手から貰った』と言ってたな……その伝手ってのがコイツな訳か……驚いたな。
「て、事は何か? これは元々アンタの物な訳か?」
咥えていたパイプの羅宇を指で抓み、私は紫に問う。
「ん……私の物、と言う訳でも無いわね。ただ私は彼にプレゼントしただけなんだから。その後の品物を彼がどうしようと、彼の勝手だわ」
「成程ね。流石大妖怪。器の大きいこった。じゃ、これは遠慮なく私が使っても良いのか?」
「ご自由に」
扇子で口元を隠した紫が、目元だけで笑いかけてくる。半分隠された表情じゃ、きちんと把握することは出来なかった。もしかしたら唇を噛み締めてるかもしれない。
「――そんじゃ、まあアンタのお蔭で私もお役御免になった事だし帰るが、アンタはどうするんだ? まさか、この店の店主にちょっかいでも出しに行くのか?」
「そうね。ま、折角来た事だし、貴女にパイプを売った事に対して文句を言ってみるわ」
茶化すつもりで聞いたんだが案外あっさりと肯定するもんで、何だか拍子抜けしてしまった。魔理沙、妖夢の件も有る事だし、もしかしたら顔を赤くして狼狽えたりなんかするんじゃないかと思ってたんだがな……。
「そうか……ま、手ぇ出すんなら早めにする事をお勧めしとくわ。案外この店の店主を狙ってる奴は多いみたいだしな」
「ふぅん……それって、魔理沙とか妖夢の事?」
「おおぅ……流石、と言うべきか何と言うか、察しが良いな……ま、そういうこった」
「貴女は違うの?」
「へぁ? 私ぃ?」
予期せぬ紫の問いに、思わず頓狂な声を出してしまう。
私があの店主をだって? またまたご冗談を。単純に、煙草を買う相手ってだけだ。他意はない。それに私には、慧音が居るしな。
……と正直に言わずに、悪戯心を出した私は「――さて、どうだろうね」と曖昧に微笑んで見せた。が、目を細めた紫は肩を上下に震わせてさもおかしそうに笑うばかりで、私の冗談を真に受ける気配など微塵も無い。
「嘘ばっかり……そんな後生大事にワーハクタクの上着を纏っている貴女が、浮気心を起こすなんて明日中に霧の湖から水が干上がる位に有り得ないわ」
「ふむ、バレたか……だが、私が除外された所で油断は禁物だぞ? 第二第三の恋敵が、アンタを待ち構えているだろうからな」
「あらあら、怖いわねぇ……でも、大丈夫よ? 魔理沙も妖夢も、恋愛に関してはまだまだ肝心な事を理解しては居ないものね?」
「――肝心な事?」
九官鳥の様に、私は問い返す。
確かにあの二人はまだまだ幼い。本気の恋愛をするような時期はもっとずっと先だろう。しかし具体的に何が足りないのか? と問われると、まだ早いから――なんてボンヤリとした印象があるだけの私は答えることが出来ない。
「そう。肝心な事……それはつまり、愛情は必ずしも双方向である必要は無いって事よ」
「…………どういうことだ?」
私が首を捻ると、紫は愉快の念を眦から垂れ流すみたいな表情で私を笑った。
「――相手に自分を愛することを強要するのは、その時点で愛とは言えないって事よ。それが判らない様じゃ千年以上を生きている貴女もまた、恋愛の出来るまでに成熟していない――恋を知らないのかもしれないわねぇ?」
むぐ、と私は押し黙る。言い負かされる敗北感を私に植え付けた事に満足してか、紫はこれ見よがしに手を振りつつ、「それじゃ御機嫌よう」等と言って香霖堂の扉の奥へと実を滑り込ませた。
やれやれと溜め息を吐き、私はポケットのタンパーを火皿に突っ込んで上辺の灰を崩す。
燐寸が無いので札の能力を使って火を灯し、流入してくる煙を口内に留め、そして吐き出す。煙は白息と混じり合って雪よりも濃密な白を描き、渦を巻くようにしながら風に流され、そして儚く端から消えて行く。
「――恋を知らない、か」
雪道を行きつつ呟くと、込み上げて来たおかしさに私は肩を震わせる。
愛煙家である内は恋なんて出来ないのかもな、なんて思いつつ家に帰ると、案の定、慧音は上着から煙草の臭いがする事に対して、とてもとても不機嫌だった。
END
しかしけーねは獣臭いのか…。
・・・この後の紫さんと霖之助さんがどうなるかと思うと・・・ 正直、たまらんです、
二番目でも良いからーー、魔理沙さんの覚悟に泣いたw
妹紅も霖之助もタバコが似合いますねー
反対に霖之助は煙管の方が似合うかな
各登常人物が魅力的で特に妖夢の思春期っぷりが良かったです
しかし普通の人間である私にとって煙草は間違いなく毒……
多分、このけーね先生はかなり獣臭がするんだろうなと思いいたった所で、動物って
煙草の香りが嫌いよねと思いだした。なるほど、先生は生粋のケダモノなんですねわかります
魔理沙可愛いよ魔理沙
自分も煙管やりたいなー。でも実家は基本禁煙なのよね。そんなに沢山吸う気も無いんだけども。
>>関節キッス
間接キッス? 関節キック?
タバコを楽しみたいだけの妹紅の苦労がなごむなごむ
>>私も参加して良いか?
その発想は無かったわ……
そして霖之助爆ぜろ、鳳翼天翔されてしまえ。
面白かったです。
全員良かったw
煙管は江戸時代には一般的で、将軍の正室でも食後に2服するのが作法だったという
葉巻もそうだが、紙巻きの臭いとキザミの香りとはまるで違う
………で、幻想郷ではどうやってタバコ葉を入手しているのか
煙草のことは全然分からんけど
正直言えば煙草というかパイプのことは全く分からないしそれほど興味もありませんでしたが、
その上でも前半の妹紅と霖之助のやり取りがかなりお洒落でいい雰囲気だっただけに後半の少女たちの恋愛模様が雰囲気の落差が大きすぎました。
それを意図して作者さんは作ったのかもしれませんが、ちょっとそこが肌に合いませんでした。
もう少しお洒落に寄せるかコメディに寄せるか、何なら片方だけでも良かった気もします。
「それは、誰かと一緒に居る時間では代用出来ないのか?」
このセリフとタイトルでそういう方向の話が見てみたかったです。
繰り返しになりますが、前半部分は本当に素敵でした。