「幻想郷で一番賢いのって、誰だか分かる?」
宴会の準備の最中、不意に投げかけられた質問に霊夢は肩を跳ねさせる。
妖怪の集まる神社ではあるが彼女を手伝う姿はなく、ここには自分一人しかいないと思いこんでいたようだ。暢気に鼻歌を歌っている姿を見られたかと霊夢は内心焦ったが、そんな事はおくびにも出さない。
「何? 何時からそこにいたの?」
彼女が振り向いた所に姿を現す、人ならざる者。
最近になってやっとその存在を認識されるようになった妖怪。
「さっきよ、さっき。小さい鬼にお酒の用意を頼んでた時くらいから見てたわ」
「それって二刻も前じゃない……あんた、本当に暇なのねぇ」
その言葉を受けて何故か照れたように帽子で顔を隠す、心を捨てた覚妖怪こと古明地こいし。
褒め言葉じゃないと霊夢は呆れた様に言うが、彼女の顔はずっと行動を見られていた恥ずかしさで薄っすらと赤みを帯びている。何時間も私生活を監視されていたとなると、気味の悪さよりも恥ずかしさが勝つのだろう。
「でさ、私の質問聞いてた?」
「ええっと、誰が一番賢いかってやつ? 残念だけれど、幻想郷にいるのは頭が春な奴等ばかりよ」
何を考えているのか分からない者と話すのは面倒なのだろう。霊夢はこいしに向かって、あっちへ行けと手で追い払う様な仕草をする。しかしこいしは相手のことなど気にしないとでも言うように、境内をふらふらと歩き回りながら霊夢に再び質問を投げかける。
「じゃあさ、その中で頭が良い人を教えて」
こいしの素朴な疑問に、幻想郷にいる数少ない知識人を霊夢は思い浮かべていく。
パチュリーは確かに頭は良いが、時に予想の斜め上をいくような事を言うからダメ。そこに吸血鬼が加わるとより面倒くさくなりそう。
慧音は常識人ではあるが、何をするのか分からないこいしを人間の里に連れていくのは危険な気がする。里の人を襲う事はしないだろうが、もし彼女が問題を起こしたら紹介した私が頭突きをされそうだ。
永琳は月の頭脳と言われる通り素晴らしい頭を持っているが、偶におかしな事をするから却下。実験台にはなりたくない。
映姫は案外良さそうに思えるけれど、彼女は真面目なだけで頭が良いとは少し違う気がする。長い説教はもう懲り懲りだ。
神子はそもそも何処にいるのか分からない。助けてー、みこえもーんって言えばどこからか出てくるらしいが、なんだか怒られそうだ。
霊夢自身が会いに行く訳でもないのに、会ったら危険(というより面倒)そうな人物を次々と切り落としていく。
一分ほど唸り続けた挙句の果てに、彼女は賢い上にこいしと馬が合いそうな人物を思いついた。
「ああ、いいのがいたわ。そいつは夜の宴会に顔は出すだろうから、それまでちょっと手伝いなさいよ」
やけに笑顔な霊夢にこいしは腕を強く掴まれる。逃がさないとでも言うような有無を言わせない彼女の態度に、勝手にお茶を飲んでいたこいしは目を白黒させている。
宴会が始まるまであと数時間、こいしが身を粉にするように働かされたのは言うまでもない。
☆
「霊夢から話は聞いたわ。貴女とこうして直に話すのは初めてね、こいしちゃん」
昼間とは違って、様々な妖怪達とごく少数の人間が酒を飲み交わす夜の宴会。境内の中心で馬鹿騒ぎをしている連中から離れた神社の物陰にて、こいしの目的の人物は一人で静かに酒を飲んでいた。
「こんばんは、賢者さん」
空間にできた不気味な亀裂に座る大妖怪、八雲紫にこいしは帽子を脱いでお辞儀をする。二人は陰陽玉を通じて会話をしたことはあるが、こうして直接話すのは今日が初めてである。
「あら、礼儀正しい子ね。地上の散策は楽しんでいるかしら?」
「そりゃあ勿論、地底には無いものだらけで毎日が楽しいわ」
帽子を被りなおして、こいしはお酌をする。妖怪に年功序列なんて無いに等しいが、こいしの姉のさとりが初対面の人には礼儀正しくしなさいと口を酸っぱくして言った結果だろう。
「それは良かった。ああ、賢者さんなんて堅苦しいのはやめて、好きなように呼んで構わないわ」
「うーん、じゃあ……八雲のお姉さん? 今日はお願いしたい事があって会いにきたの」
「まぁ……呼びやすいならそれでいっか」
こいしは恥ずかしそうに帽子で表情を隠す。もじもじとしたその可愛らしい姿を見て、紫はいつもみたいな胡散臭いものではなく優しげな笑みを浮かべる。その様子はまさに子を見守る母親のようだ。
「わざわざ私に頼みに来るなんて、どんな内容かしら?」
普段はその胡散臭さ故に誰からも頼られることがないせいか、心なしか彼女の顔は嬉しそうにも見える。
無茶なお願いでなければ叶えてあげようか……わざわざ霊夢の手伝いをしてまで私を頼ってくれたそうだし、サービス精神満載で甘やかしてやろう、そうしよう。
そんな事を考えていた紫の幻想は、あっという間に崩れ去ることになった。
「えっと、その、お姉さんの脳を私に下さい」
「…………えっ」
宴会の喧騒が随分と遠くに聞こえた。
予想していなかったことに紫の時間が止まる。対するこいしは、相変わらずもじもじしながら紫の様子を窺っている。彼女にとっては「お小遣いちょうだい」と何ら変わらないお願いなのだろうか。
「それは……知識を貸して欲しい、ってことよね?」
「違うよ、貴女の頭蓋骨の中にある脳みそが欲しいの」
普段は見せないギョッとした表情を、何処からか取り出した扇子で急いで隠す。妖怪の賢者は如何なる事があろうとも、誰にも焦りを見せないのだ。
そんな紫の心境は露程も分からないのだろう、こいしはキラキラした目で紫の頭を指差している。
「とどのつまりは、死ね、と……?」
「ん~、そういうつもりじゃないんだけれど、八雲のお姉さんなら大丈夫かなぁって」
いくらなんでも脳を取り出すなんて事をしたら死んでしまう。人間は勿論、妖怪だって同じだ。どんなに長生きして強くなっても、首を刎ねて脳を取られては致命傷どころか即死確実だ。
何時何処で何を仕出かすか分からないこいしに、紫は命の危機を感じて冷や汗をかく。
「……なんでまた、脳なんてモノを欲しがるのよ?」
「脳って知識と記憶の塊じゃない? だから、食べたら賢くなれるかなぁって」
ペロリと舌を出した可愛らしい顔でこいしはそう言うが、紫にはもう可愛いとは思えなくなっていた。あれは紛れも無く捕食者の顔だと、狙われた彼女の脳はしきりに悲鳴を上げる。
「残念だけれど、脳なんて食べても賢くなれないわ」
「何でもやってみなきゃ分からないわ。それに幻想郷では常識に囚われちゃいけないって、山の巫女さんから聞いた事あるわ」
「……絶対、美味しくないわよ?」
「そうかなぁ。賢い人の脳ならコリコリした歯応えがありそうで、考えただけで涎が出るんだけどなぁ」
「いやぁ、きっと苦くてフニャフニャしてるわよ。私のなんて特に」
「うー…でもでも、美味しくなくてもいいから食べたいのよ」
何を想像したのか、こいしはウットリした表情で口をモゴモゴさせている。その様子を見た紫は、妖怪なのに顔を顰める。遥か昔から智慧も力もあった彼女は、長い間人間を口にしていないのかもしれない。ましてや脳なんて意識して食べた事がないのだろう。
「脳を食べてまで賢くなりたいの? と言うか、貴女は頭悪い方じゃなかったわよね?」
紫の言う通りこいしは馬鹿ではない。寧ろ、そんじょ其処らの妖怪よりも頭が切れる方だ。
紫の質問を受けて、こいしはキョロキョロと辺りを見渡す。
「皆にはナイショだよ?」
神社の物陰にいるので、当然ながら周りには誰もいない。宴会の喧騒が静まる事は無く、二人の会話を聞く者もいない。隠し事をするには打って付けの状況だろう。
これから行われるであろう密談に、紫はゴクリと唾を飲み込む。
「……あのね、お姉ちゃんの心が知りたいの」
「………心?」
こいしの言うお姉ちゃんとは、さとりの事だろう。紫がキョトンとしているのを無視して、こいしはまるで弾幕を展開する様に矢継ぎ早に言葉を繰り出していく。
「最近お姉ちゃんが私と距離を置いている気がするの。何でかな? 私には全然分からないよ。この前久しぶりにお家に帰ったらさ、リビングでお姉ちゃんとペット達が仲良くお話していたの。何話してるのかなって離れて見てたらさ、お姉ちゃん、私が居る事に気付いた途端に気まずそうにするの。さっきまでの笑顔は何処へやら。落ち着き無く目を泳がせた挙句の果てに、苦笑いを浮かべて動かないの。ペット達は急変したお姉ちゃんに吃驚して固まっちゃってさ。もう居ても立っても居れなくて、お家を飛び出して来ちゃったわ。前々からお姉ちゃん、私とは話し辛そうにしてたけれど、あんな苦しそうな顔は初めて見たわ。それからお家には帰ってないんだけれど、未だにあの顔が頭から離れないの。私はお姉ちゃんのこと大好きなのに、私のせいで苦しむお姉ちゃんには会いたくないの。どうしてあんな顔したんだろう? また同じ顔されたら、きっと私は地霊殿に二度と帰りたくなくなるわ。お姉ちゃんのご飯食べたいし、いっぱいお話したいのに。私の何がいけなかったんだろう? 目を閉じちゃったのが駄目だったのかな。私が弱かったから、馬鹿だったから……。私は誰の心も分からないの。それでも、お姉ちゃんだけは傷付けたくないの。大好きだもん。なんで苦しそうにしたのか、理由が知りたいの。でも心を閉じた私には、お姉ちゃんの考えている事が分からない。そうして思い付いたの。分からないなら、賢くなればいいって。賢くなれば、どんな事でも分かるでしょう? 賢い貴女の脳を食べれば……きっと………!!」
こいしの目が強く見開かれる。心を捨てた覚が、想像を超える程に強い感情を露にする。
唐突の事に紫は目を白黒させたが、その脳はこいしの悩みとその解決方法を導き出していた。
「……ホント、子どもの考える事は突飛ねぇ」
その言葉にこいしはムッとした表情をするが、さっきのお返しと言うかのように今度は紫が無視をする。
「そんなの簡単じゃない。さとりが何で苦しそうにしたのか分からないんでしょう?」
「む……会ってもいない貴女に分かるとでも言うの?」
「ええ勿論。それと、残念だけれど私の脳はあげないわ」
困惑の表情を浮かべていた紫が、打って変わって余裕綽々と言い放つ。脳を貰えないと知ったこいしは、怒ったりしょぼくれたりを繰り返している。傍から見れば拗ねた子どもの様であるが、彼女の気はそう穏やかではない。
「さとりの心を知る最善の方法、それはお話をすることよ。お姉ちゃんと、もっと近づいてね」
「……でも、また嫌そうな顔されちゃうよ。それこそ、お話にならないわ」
話しかけ辛いのに話せとは、一体どういう事なのか。紫の意味不明な助言に、口を尖らせて下を向くこいし。その表情は先程からずっと曇りっぱなしだ。
「さとりがそういった顔をするのは、貴女が遠くにいるからよ。心が読めないからだとか、嫌いだからなんかじゃないわ。実際、貴女は遠くから見ているだけで、自分から話しかけにいってないんじゃないかしら?」
「う……確かにそうかも」
「貴女のお姉ちゃんは口下手なのよ。数回しか会ってない私でもそう思うもの。私が思うに、きっと貴女のことを心配していると思うわ。今、この瞬間も」
どこか力のこもった言葉が、夜の闇に強く響く。戸惑いを隠せないこいしを諭すように、紫は口を動かし続ける。
「さとりも貴女とお話したいと思ってるんじゃないかしら。遠くにいる貴女に何て言葉をかければいいのか、きっと悩んでいるわ。苦しそうな顔も、きっとその表れよ。……要は、お互い近付きたいと思っているのに、余計な詮索しちゃって話し合えない状況って感じかしらね」
全て見通したと言わんばかりの言葉に、こいしはとうとう黙り込んでしまう。お姉ちゃんも私と同じ気持ちなのかな……いやでも違ったら……、という思考がこいしの中で延々と渦巻き、次々と不安を生み出していく。
そんな彼女の葛藤を察した紫は、心配性な子どもの背中を押す様に優しく道を示す。
「いっぱい話して心を通わせれば、相手の心を見失うことはないわ」
「……心を閉じた、私でも?」
「ええ、完全に心が無い訳じゃないでしょう? 本当に心を捨てているのなら、こうして私のところに相談しに来ないわ。それとも、お姉ちゃんの事を想う貴女の気持ちは本物じゃないのかしら?」
俯いていた顔を勢いよく上げたこいしと、妖しく笑った賢者の目が合う。満足そうな様子の紫が扇子を閉じると同時に、空間に音も無く亀裂が走る。
「……私、用事思い出したから帰るねっ! ありがと、八雲のお姉さん!!」
「どういたしまして。貴女のお姉ちゃんに宜しくね」
出会った時と同じ様にこいしは帽子を脱いでお辞儀をすると、紫の能力で出来た亀裂に飛び込む。行き先は言わなくても分かるだろう。
今頃、二人の覚妖怪は笑いあっているだろうか?
互いに遠慮し合って気まずくなっていないだろうか?
意外と恥ずかしがりやなあの子は、上手く気持ちを伝えられただろうか?
スキマで覗くだなんて、無粋な事はしない。
取り留めの無い想像を肴に、紫は杯を呷った。
了
宴会の準備の最中、不意に投げかけられた質問に霊夢は肩を跳ねさせる。
妖怪の集まる神社ではあるが彼女を手伝う姿はなく、ここには自分一人しかいないと思いこんでいたようだ。暢気に鼻歌を歌っている姿を見られたかと霊夢は内心焦ったが、そんな事はおくびにも出さない。
「何? 何時からそこにいたの?」
彼女が振り向いた所に姿を現す、人ならざる者。
最近になってやっとその存在を認識されるようになった妖怪。
「さっきよ、さっき。小さい鬼にお酒の用意を頼んでた時くらいから見てたわ」
「それって二刻も前じゃない……あんた、本当に暇なのねぇ」
その言葉を受けて何故か照れたように帽子で顔を隠す、心を捨てた覚妖怪こと古明地こいし。
褒め言葉じゃないと霊夢は呆れた様に言うが、彼女の顔はずっと行動を見られていた恥ずかしさで薄っすらと赤みを帯びている。何時間も私生活を監視されていたとなると、気味の悪さよりも恥ずかしさが勝つのだろう。
「でさ、私の質問聞いてた?」
「ええっと、誰が一番賢いかってやつ? 残念だけれど、幻想郷にいるのは頭が春な奴等ばかりよ」
何を考えているのか分からない者と話すのは面倒なのだろう。霊夢はこいしに向かって、あっちへ行けと手で追い払う様な仕草をする。しかしこいしは相手のことなど気にしないとでも言うように、境内をふらふらと歩き回りながら霊夢に再び質問を投げかける。
「じゃあさ、その中で頭が良い人を教えて」
こいしの素朴な疑問に、幻想郷にいる数少ない知識人を霊夢は思い浮かべていく。
パチュリーは確かに頭は良いが、時に予想の斜め上をいくような事を言うからダメ。そこに吸血鬼が加わるとより面倒くさくなりそう。
慧音は常識人ではあるが、何をするのか分からないこいしを人間の里に連れていくのは危険な気がする。里の人を襲う事はしないだろうが、もし彼女が問題を起こしたら紹介した私が頭突きをされそうだ。
永琳は月の頭脳と言われる通り素晴らしい頭を持っているが、偶におかしな事をするから却下。実験台にはなりたくない。
映姫は案外良さそうに思えるけれど、彼女は真面目なだけで頭が良いとは少し違う気がする。長い説教はもう懲り懲りだ。
神子はそもそも何処にいるのか分からない。助けてー、みこえもーんって言えばどこからか出てくるらしいが、なんだか怒られそうだ。
霊夢自身が会いに行く訳でもないのに、会ったら危険(というより面倒)そうな人物を次々と切り落としていく。
一分ほど唸り続けた挙句の果てに、彼女は賢い上にこいしと馬が合いそうな人物を思いついた。
「ああ、いいのがいたわ。そいつは夜の宴会に顔は出すだろうから、それまでちょっと手伝いなさいよ」
やけに笑顔な霊夢にこいしは腕を強く掴まれる。逃がさないとでも言うような有無を言わせない彼女の態度に、勝手にお茶を飲んでいたこいしは目を白黒させている。
宴会が始まるまであと数時間、こいしが身を粉にするように働かされたのは言うまでもない。
☆
「霊夢から話は聞いたわ。貴女とこうして直に話すのは初めてね、こいしちゃん」
昼間とは違って、様々な妖怪達とごく少数の人間が酒を飲み交わす夜の宴会。境内の中心で馬鹿騒ぎをしている連中から離れた神社の物陰にて、こいしの目的の人物は一人で静かに酒を飲んでいた。
「こんばんは、賢者さん」
空間にできた不気味な亀裂に座る大妖怪、八雲紫にこいしは帽子を脱いでお辞儀をする。二人は陰陽玉を通じて会話をしたことはあるが、こうして直接話すのは今日が初めてである。
「あら、礼儀正しい子ね。地上の散策は楽しんでいるかしら?」
「そりゃあ勿論、地底には無いものだらけで毎日が楽しいわ」
帽子を被りなおして、こいしはお酌をする。妖怪に年功序列なんて無いに等しいが、こいしの姉のさとりが初対面の人には礼儀正しくしなさいと口を酸っぱくして言った結果だろう。
「それは良かった。ああ、賢者さんなんて堅苦しいのはやめて、好きなように呼んで構わないわ」
「うーん、じゃあ……八雲のお姉さん? 今日はお願いしたい事があって会いにきたの」
「まぁ……呼びやすいならそれでいっか」
こいしは恥ずかしそうに帽子で表情を隠す。もじもじとしたその可愛らしい姿を見て、紫はいつもみたいな胡散臭いものではなく優しげな笑みを浮かべる。その様子はまさに子を見守る母親のようだ。
「わざわざ私に頼みに来るなんて、どんな内容かしら?」
普段はその胡散臭さ故に誰からも頼られることがないせいか、心なしか彼女の顔は嬉しそうにも見える。
無茶なお願いでなければ叶えてあげようか……わざわざ霊夢の手伝いをしてまで私を頼ってくれたそうだし、サービス精神満載で甘やかしてやろう、そうしよう。
そんな事を考えていた紫の幻想は、あっという間に崩れ去ることになった。
「えっと、その、お姉さんの脳を私に下さい」
「…………えっ」
宴会の喧騒が随分と遠くに聞こえた。
予想していなかったことに紫の時間が止まる。対するこいしは、相変わらずもじもじしながら紫の様子を窺っている。彼女にとっては「お小遣いちょうだい」と何ら変わらないお願いなのだろうか。
「それは……知識を貸して欲しい、ってことよね?」
「違うよ、貴女の頭蓋骨の中にある脳みそが欲しいの」
普段は見せないギョッとした表情を、何処からか取り出した扇子で急いで隠す。妖怪の賢者は如何なる事があろうとも、誰にも焦りを見せないのだ。
そんな紫の心境は露程も分からないのだろう、こいしはキラキラした目で紫の頭を指差している。
「とどのつまりは、死ね、と……?」
「ん~、そういうつもりじゃないんだけれど、八雲のお姉さんなら大丈夫かなぁって」
いくらなんでも脳を取り出すなんて事をしたら死んでしまう。人間は勿論、妖怪だって同じだ。どんなに長生きして強くなっても、首を刎ねて脳を取られては致命傷どころか即死確実だ。
何時何処で何を仕出かすか分からないこいしに、紫は命の危機を感じて冷や汗をかく。
「……なんでまた、脳なんてモノを欲しがるのよ?」
「脳って知識と記憶の塊じゃない? だから、食べたら賢くなれるかなぁって」
ペロリと舌を出した可愛らしい顔でこいしはそう言うが、紫にはもう可愛いとは思えなくなっていた。あれは紛れも無く捕食者の顔だと、狙われた彼女の脳はしきりに悲鳴を上げる。
「残念だけれど、脳なんて食べても賢くなれないわ」
「何でもやってみなきゃ分からないわ。それに幻想郷では常識に囚われちゃいけないって、山の巫女さんから聞いた事あるわ」
「……絶対、美味しくないわよ?」
「そうかなぁ。賢い人の脳ならコリコリした歯応えがありそうで、考えただけで涎が出るんだけどなぁ」
「いやぁ、きっと苦くてフニャフニャしてるわよ。私のなんて特に」
「うー…でもでも、美味しくなくてもいいから食べたいのよ」
何を想像したのか、こいしはウットリした表情で口をモゴモゴさせている。その様子を見た紫は、妖怪なのに顔を顰める。遥か昔から智慧も力もあった彼女は、長い間人間を口にしていないのかもしれない。ましてや脳なんて意識して食べた事がないのだろう。
「脳を食べてまで賢くなりたいの? と言うか、貴女は頭悪い方じゃなかったわよね?」
紫の言う通りこいしは馬鹿ではない。寧ろ、そんじょ其処らの妖怪よりも頭が切れる方だ。
紫の質問を受けて、こいしはキョロキョロと辺りを見渡す。
「皆にはナイショだよ?」
神社の物陰にいるので、当然ながら周りには誰もいない。宴会の喧騒が静まる事は無く、二人の会話を聞く者もいない。隠し事をするには打って付けの状況だろう。
これから行われるであろう密談に、紫はゴクリと唾を飲み込む。
「……あのね、お姉ちゃんの心が知りたいの」
「………心?」
こいしの言うお姉ちゃんとは、さとりの事だろう。紫がキョトンとしているのを無視して、こいしはまるで弾幕を展開する様に矢継ぎ早に言葉を繰り出していく。
「最近お姉ちゃんが私と距離を置いている気がするの。何でかな? 私には全然分からないよ。この前久しぶりにお家に帰ったらさ、リビングでお姉ちゃんとペット達が仲良くお話していたの。何話してるのかなって離れて見てたらさ、お姉ちゃん、私が居る事に気付いた途端に気まずそうにするの。さっきまでの笑顔は何処へやら。落ち着き無く目を泳がせた挙句の果てに、苦笑いを浮かべて動かないの。ペット達は急変したお姉ちゃんに吃驚して固まっちゃってさ。もう居ても立っても居れなくて、お家を飛び出して来ちゃったわ。前々からお姉ちゃん、私とは話し辛そうにしてたけれど、あんな苦しそうな顔は初めて見たわ。それからお家には帰ってないんだけれど、未だにあの顔が頭から離れないの。私はお姉ちゃんのこと大好きなのに、私のせいで苦しむお姉ちゃんには会いたくないの。どうしてあんな顔したんだろう? また同じ顔されたら、きっと私は地霊殿に二度と帰りたくなくなるわ。お姉ちゃんのご飯食べたいし、いっぱいお話したいのに。私の何がいけなかったんだろう? 目を閉じちゃったのが駄目だったのかな。私が弱かったから、馬鹿だったから……。私は誰の心も分からないの。それでも、お姉ちゃんだけは傷付けたくないの。大好きだもん。なんで苦しそうにしたのか、理由が知りたいの。でも心を閉じた私には、お姉ちゃんの考えている事が分からない。そうして思い付いたの。分からないなら、賢くなればいいって。賢くなれば、どんな事でも分かるでしょう? 賢い貴女の脳を食べれば……きっと………!!」
こいしの目が強く見開かれる。心を捨てた覚が、想像を超える程に強い感情を露にする。
唐突の事に紫は目を白黒させたが、その脳はこいしの悩みとその解決方法を導き出していた。
「……ホント、子どもの考える事は突飛ねぇ」
その言葉にこいしはムッとした表情をするが、さっきのお返しと言うかのように今度は紫が無視をする。
「そんなの簡単じゃない。さとりが何で苦しそうにしたのか分からないんでしょう?」
「む……会ってもいない貴女に分かるとでも言うの?」
「ええ勿論。それと、残念だけれど私の脳はあげないわ」
困惑の表情を浮かべていた紫が、打って変わって余裕綽々と言い放つ。脳を貰えないと知ったこいしは、怒ったりしょぼくれたりを繰り返している。傍から見れば拗ねた子どもの様であるが、彼女の気はそう穏やかではない。
「さとりの心を知る最善の方法、それはお話をすることよ。お姉ちゃんと、もっと近づいてね」
「……でも、また嫌そうな顔されちゃうよ。それこそ、お話にならないわ」
話しかけ辛いのに話せとは、一体どういう事なのか。紫の意味不明な助言に、口を尖らせて下を向くこいし。その表情は先程からずっと曇りっぱなしだ。
「さとりがそういった顔をするのは、貴女が遠くにいるからよ。心が読めないからだとか、嫌いだからなんかじゃないわ。実際、貴女は遠くから見ているだけで、自分から話しかけにいってないんじゃないかしら?」
「う……確かにそうかも」
「貴女のお姉ちゃんは口下手なのよ。数回しか会ってない私でもそう思うもの。私が思うに、きっと貴女のことを心配していると思うわ。今、この瞬間も」
どこか力のこもった言葉が、夜の闇に強く響く。戸惑いを隠せないこいしを諭すように、紫は口を動かし続ける。
「さとりも貴女とお話したいと思ってるんじゃないかしら。遠くにいる貴女に何て言葉をかければいいのか、きっと悩んでいるわ。苦しそうな顔も、きっとその表れよ。……要は、お互い近付きたいと思っているのに、余計な詮索しちゃって話し合えない状況って感じかしらね」
全て見通したと言わんばかりの言葉に、こいしはとうとう黙り込んでしまう。お姉ちゃんも私と同じ気持ちなのかな……いやでも違ったら……、という思考がこいしの中で延々と渦巻き、次々と不安を生み出していく。
そんな彼女の葛藤を察した紫は、心配性な子どもの背中を押す様に優しく道を示す。
「いっぱい話して心を通わせれば、相手の心を見失うことはないわ」
「……心を閉じた、私でも?」
「ええ、完全に心が無い訳じゃないでしょう? 本当に心を捨てているのなら、こうして私のところに相談しに来ないわ。それとも、お姉ちゃんの事を想う貴女の気持ちは本物じゃないのかしら?」
俯いていた顔を勢いよく上げたこいしと、妖しく笑った賢者の目が合う。満足そうな様子の紫が扇子を閉じると同時に、空間に音も無く亀裂が走る。
「……私、用事思い出したから帰るねっ! ありがと、八雲のお姉さん!!」
「どういたしまして。貴女のお姉ちゃんに宜しくね」
出会った時と同じ様にこいしは帽子を脱いでお辞儀をすると、紫の能力で出来た亀裂に飛び込む。行き先は言わなくても分かるだろう。
今頃、二人の覚妖怪は笑いあっているだろうか?
互いに遠慮し合って気まずくなっていないだろうか?
意外と恥ずかしがりやなあの子は、上手く気持ちを伝えられただろうか?
スキマで覗くだなんて、無粋な事はしない。
取り留めの無い想像を肴に、紫は杯を呷った。
了
誤? 「こんにちは、賢者さん」→こんばんは では?
そしてそんなこいしに有無を言わせず手伝わせる霊夢さん流石やでえ……