近頃人里で働いている仙人がいる。
そんな話を聞いたのは今朝の事だった。
珍しい事もあるものだ。
基本的に仙人とは、何かしらの“悟り”を開いた者であり、働くなどといった俗な行動は滅多にとらない。
そうであるのにも関わらず、態々人里で労働に勤しむなど……。
酔狂な仙人か、はたまた唯の偽物か。
どちらにしても丁度いいと、作業に詰まっていた自分は気分転換にそいつを見に行く事にした。
私は芳香を呼び付けて出掛ける準備をする。お札の命令を書き換えておかないと芳香は誰彼構わず襲ってしまう。
飛べばいいのにピョンピョンと跳ねてやって来た芳香に新しいお札をぴたりと貼り付け、私達は仙界を飛び出した。
お昼時の人里は、中々の混み様だった。どのような用事があるのだろうか。様々な人間、たまに人外で溢れている。わいわいがやがや喧しい。
私はその中を芳香を先頭にして、人込みを上手く切り裂きながら歩いていく。
布都ちゃんから聞いた話だと、新しく出来たお団子屋さん、そこに目的の奴が働いているらしい。芳香もいるし、一緒にお団子でも食べようかしら。
仙人のくせに働いているその阿呆をどうからかってやろうか。
そんな事を考えながら歩みを進める。
その場所を事前に知っていた私は時間をかけることもなく、そのお団子屋さんに辿り着いた。
結構な盛況ぶりで、その小さな店内はいっぱいいっぱいだ。
……間違いない。この中にその仙人はいる。
私と同じ種類の、嫌な匂いがぷんぷんする。
どうやら偽物ではなく、酔狂な方だったらしい。向こうも既に気付いている事だろう。
私は何とか見つけた席に座り、お品書きに目を通す。芳香は隣で棒立ちだ。
一通りお品書きを眺め、注文を決める。丁度そこで湯呑がコトと置かれた。
……こいつか。娘々センサーがビンビンだ。
私はその阿呆を目に収めるため、顔を上げた。
「……」
「……」
お父さんだった。
『さぁ、明日からも』
【拝啓 盛夏の候、更に暑さを覚え、海山の恋しい季節に御座います。
貴方と再び相見える為仙人と為り、千六百年程の月日が流れました。如何御過ごしでしょうか。
私は今となっては立派な邪仙。幻想郷という土地へ移り住み、幾分かの】
「うぅん、少し硬過ぎかしら」
私は筆を置いた。
唯今手紙を書いているところなのだが、これがどうして筆が進まない。
初めて手紙を書く相手なので、それなりに硬くして書いているのだけれども、なんだかしっくりこない。しかしゆるゆるな文章を綴るのも、なんか嫌だ。
そうやって、うんうん唸っていると、朝の偵察(さんぽ)から帰ってきた芳香が近づいて来た。
「せーが、何やってるの?」
「あぁ、手紙を書いているのよ。というかあなたは靴を脱ぎなさい」
しかし靴を脱ごうとした芳香は、足を引っ掛けて転けてしまう。
世話が焼けるわね。この子の関節はいつ柔らかくなるのかしら。
溜息を吐きながら靴を脱がせてやっていると、芳香は口を開いた。
「誰に書いてるのー?」
「ひみつ」
「えー?」
芳香は首を傾げた。それから何か言おうとしたが、やって来た屠自古ちゃんに遮られた。
「青娥さん、朝ご飯ですよ」
「朝ごはんっ!」
朝ご飯だと聞くや否や、鳥よりも鳥頭な芳香は飛び跳ねながら部屋を出て行ってしまった。
全く、この子はほんと騒がしいわねぇ。
すぐ行くとの旨を伝えて、筆や墨を片付ける。
あ、今度は近頃流行りのエンピツで書いちゃおうかしら。
「人里で仙人が働いている?」
布都ちゃんにそう聞き返しながら、私はお味噌汁を啜った。今週の料理当番は屠自古ちゃんだから、安心して口に運べる。布都ちゃんは料理が下手なのだ。
「そう、そうなのだ。新しく出来た団子屋があるだろう?」
布都ちゃんは自慢げに箸をカチカチ言わせた。
あぁ、あのお団子屋か。
布都ちゃんが言っているのは、近頃開店した、美味しいと評判のお団子屋だ。
未だ行ったことはないが、一度だけその店の前を通りかかったことがある。
行儀が悪いと屠自古ちゃんに注意され、不貞腐れながらも布都ちゃんは話を続ける。
「そこに気配を感じてな。寄ってみようと……いや、違うぞ? 食ってない。食ってないぞ。
ちゃんと買い物はした。買い物の為に受け渡された金だ。勝手に使うわけがない。ただちょっと寄ってみただけだ。
結構美味しかったから、今度皆で……あ」
布都ちゃんの肩に屠自古ちゃんが手を置く。
「後で話を伺おうかしら」
「……お、おうよ」
にっこりと笑う屠自古ちゃんに布都ちゃんは顔面蒼白だ。
勝手に自爆した布都ちゃんは置いといて、芳香の口にお魚を丸ごと放り込んでやる。
「こらこら青娥さん。嫌いなものを押し付けてはいけないわよ」
神子ちゃんに窘められた。仕方ないじゃない。小骨を取り除くのが面倒なんだもの。
「あらあら、そんなことはないですわ豊聡耳様。
食いしん坊なこの子に譲ってあげてるの。ね、芳香お魚大好きね?」
「んん? おお。私は食べ物が大好きだ!」
「ほらね?」
元気の良い返事に気を良くした私は、芳香に沢庵もあげながら神子ちゃんを見る。
神子ちゃんは表情に諦めを浮かべながら、首を横に振った。
「全く、貴女は。その子にとって貴女は親のような存在なのよ? そういう言い訳癖がついたらどうするの」
神子はそう言って溜息を吐いた。
「……」
……親に何かを教わる必要も無かったような奴が何言ってんのよ。
元々小食な私は、面倒になった残りのご飯を全て芳香の口へ押し込んだ。
「む、むぐぐ」
「ね、おいしいね? じゃあ、ごちそうさま」
“美味しそうに”ご飯を頬張る芳香と、未だちまちまと食べている神子達を置いて、私は自室に戻った。
「エンピツ、エンピツちゃーん」
部屋の押し入れをごそごそと探す。
おかしいわねぇ、去年のクリスマスに手に入れたものがあったはずなんだけど。
クリスマスでの戦利品、そう書かれている箱を漁る。
ものさし、水筒、蛇の抜け殻、鉄アレイ、ドロワ――。ダメね、金目の物は売っちゃったから碌なものは残っちゃいないわ。
それからしばらく探していたのだけれども、結局見つからずに諦めた。藁人形を放り投げる。
何気なしに、書きかけのお手紙を見つめる。
「拝啓、ねぇ……」
父に手紙を書こうと思った切っ掛け、それは些細な事だった。
人里でとある親子を見かけた。
娘が父親に何かの玩具をねだっていた。しばらく渋っていた父親だけど、最終的には折れて娘にその玩具を買い与えた。そんな何でもない風景。
それを見て自然と、自分の父親の事を思い出した。
ただ……それだけ。
『その子にとって貴女は親のような存在なのよ?』
先ほどの神子の言葉を思い起こす。
「……うっさいわね」
私は散らかった戦利品たちを押し入れに直した。
それからむしゃくしゃした感情を糧にして、父への手紙に罵詈雑言を書き込んでいった。
執筆(という名の八つ当たり)を始めてからしばらく経った後、布都ちゃんが私の元へやってきた。
「――それでな、屠自古が怖いのじゃ。彼奴な、我が勝手にお団子を食べたと怒って……いや、怖くない。怖くないぞ。全然、マジで。
ただ、屠自古は怒ると文字通り雷を落としてな? 雷はいかん。雷はいかんだろう? それでだな――」
何をしに来たのか、布都ちゃんはつらつらと話し続ける。もうかれこれ二時間も話し続けている。
屠自古ちゃんに叱られるといっつもそう。布都ちゃんは私のところにやってきて愚痴る。
主人である神子ちゃんにはこんな事言いに行けないし、屠自古ちゃんなんて以ての外。芳香は言うまでもないだろう。
だから私のところに来るのは仕方のない事なんだけど……。
この子他に友達いないのかしら。
「ね、布都ちゃん。屠自古ちゃんはきっとお団子を食べられなかったから怒っているのよ」
「そ、そうなのか?」
「えぇ、違いないわ」
たぶん違うだろう。真面目な彼女はお使いのお金を私欲のために使ったことに怒っているのだ。
「だから今度は屠自古ちゃんにお団子を買ってきてあげなさい? あの子も怒りを鎮めてくれるはずよ。
今日のお夕飯。買い出し係は布都ちゃんでしょ? ついでに買って来なさいな」
「な、なるほど!」
布都ちゃんは大きく頷いた。私も満面の笑みで大きく頷いた。
お金を勝手に使ったのを叱りたいけど、自分のために買ってきたものだから叱りにくい。そんな微妙な表情を浮かべた屠自古ちゃんが容易に想像できる。
「いやあ、助かった! ありがとう青娥殿!」
そう言うと布都ちゃんは意気揚々と部屋を出て行った。
私は今日のお夕飯のことを想像してくすくす笑った。
しかし、あの子蘇るときに頭の螺子でも外れたのかしら。
昔はこんなにポンコツじゃなかったと思うんだけど……。
* * *
「……あぁん、ダメねぇ」
筆を投げ捨てたい衝動を抑えて、硯に置く。
布都ちゃんが帰った後お手紙を再開したのだけれども、やっぱり駄目だ。なんかしっくりこない。
手紙を書こう。そう思っているのは確かなんだけど……。
どんな手紙を書きたいのか。それがさっぱり浮かばない。
仰向けに転がって天井を見つめる。
「何か甘いものでも食べたいわね」
久しぶりに頭を使ったからだろうか。身体が糖分を欲している。
甘いもの甘いもの……じゅるり。
そこで、今朝布都ちゃんが言っていたことを思い出した。
「あ、そうだ」
お団子、お団子を食べに行こう。甘味処としては定番だ。
それに、新しく出来たお団子屋さん。布都ちゃん曰く、仙人が働いているという。
お手紙も行き詰っていたところだし、丁度いいや。暇つぶしにその仙人の見学兼冷やかしに行こう。
手紙を片づける。置き場所に困ったため押入れを開き、クリスマス戦利品ボックスの上に置いておく。
押入れを閉めてから、私は招集用のお札を取り出し、芳香を呼び出した。
それからしばらくしてやってきた芳香は、なぜか木の枝を持っていた。
枝の先には瑞々しい緑色の葉が幾分か付いている。折られたのはつい先程のようだ。
「芳香、それは?」
そう尋ねると首を傾げていた芳香だったが、少しして思い出したように言った。
「お、お土産だ! 綺麗だから持ってきたぞ!」
芳香は曲がらない足を懸命にひょこひょこと動かして、私に近寄り枝を渡す。
そして私を見上げた。
まるで、親に褒めてもらう事を期待している、子どものような目で。
『その子にとって貴女は親のような存在なのよ?』
「……」
「せーが?」
何も言わない私を不思議に思ったのだろう。芳香は不安げな目で私を見つめる。
「……芳香、外出用の札よ」
その視線を遮るように、私は芳香の顔に札を張り付けた。
お昼時の人里は、中々の混み様だった。どのような用事があるのだろうか。様々な人間、たまに人外で溢れている。わいわいがやがや喧しい。
しかしながら、キョンシーの芳香を先頭にしているからだろう。人混みは勝手に裂けて(避けて)いく。
「う~ん、ここまでいくと気持ちいいわねぇ」
好奇な目線に晒されるのが玉に傷だが、スムーズに進めるので良しとしよう。
すると、私の呟きが聞こえたのか、芳香が不器用に振り返りながら言った。
「せーが! 何か言ったか~?」
「なんでもないわ。前を向きなさい。また転けるわよ。あぁ、そこの角を右ね」
「あ~い!」
芳香は適当な返事を返しながら、右折した。
お団子屋まであと少し。
「さて……と」
その仙人をどうからかってやろうかしら。そんな事を考えながら歩みを進める。
そうね、まずは芳香を自慢しよう。
芳香は私の……作品の中でもかなりの自信作だ。ちょっと腐っているのがあれだが、それもご愛嬌。出来は良い。
偽物だったなら、適当に脅かして仕舞いにしよう。
「あぁ芳香! そこでストップよ」
気付けば目的地に着いていた。
その店内は小さいながらも中々に繁盛しており、時間を外せば良かったかと少し後悔した。
そして、私は確信した。
……間違いない。この中にその仙人はいる。
気配を消しているのだろう。小さいが、確かに同族の嫌な匂いがする。
気を付けていなければ見逃していたであろうが、一旦気が付けば明確に感じ取れる。
私は隠れるつもりなんて毛頭ない。向こうは既に私に気付いているはずだ。
芳香を先頭にしてすんなり店内に入り込む。
そして見つけた席に座り、お品書きに目を通す。
どれにしようかしら。うん、まずはみたらし団子からいきましょう。シンプルイズベストよね。
丁度注文を決めたところで、湯呑がコトと置かれた。
……こいつか。娘々センサーがビンビンだ。
私はその阿呆を目に収めるため、顔を上げた。
「……」
「……」
湯呑を持ってきたのは、男性だった。
その男性は驚きの余り言葉を失っている。目を見張り、茫然と私を見る。
ぽかんと口を開け、信じられないものを見るような目でこちらを見つめるその表情は、なんとも間抜けなものだった。
……そして、それは私も同様だった。
少し太い眉と無骨な鼻立ち、力強い眼。ちょっとだけ堀の深い顔と目元口元に僅かに見える小皺。背が高く、肩幅の広い体つきに節くれだった手。
その全てが、千年以上も前に見た、未だ鮮明に記憶に残っている父の姿、そのものだった。
「せ、青娥……か?」
「……」
その低く、落ち着く声も記憶の通り。
頭が、ぐるぐるする。
音が遠くなる。視界が絵の具のように混ざっていく。
幼い頃の記憶が蘇る。
抱き上げてくれた逞しい腕。抱きしめてくれた時の感触。寝る前に歌ってくれた子守唄。私によく向けてくれた優しい笑顔。
そして、家を去って行く時の、その背中……。
「……ッ」
私は腰掛が倒れるのも構わず乱暴に立ち上がった。そして店から出て行こうとする。
「青娥!」
肩を掴まれる。私はその手を振り払った。
「さわんないでよ! 今更! 私がどれだけ……!」
「せ、青娥……」
父の返事を待たずに私は店を飛び出した。
* * *
―――初めは、私を喜ばせるためだったんだと思う。
『お父さんすごい! これどうやったの!?』
『ひみつ! すごいだろ~!』
どこで覚えてきたのだろうか。ある日父は私に道術を見せてくれた。それは一見すれば奇術とあまり変わらない程度の、本当に初歩的な道術であった。
しかしながら、見たこともない現象に私は心底驚き、また大いに喜んだ。
その後私は、またあれを見せてくれと、父に道術を要求するようになった。
それからだった。道教について学びだした父が、私によくそれを見せてくれるようになったのは。
当時幼かった私は当然のように、もっともっとと父に術を求めていった。
『お父さん何やってるのー?』
『ん、術のお勉強だよ。次はもっとすごいの見せてやるからな!』
『ほんと!?』
『あぁ!』
日々変化し驚きを与えてくれる道術、そしてそれを見せてくれる父に私は手を叩いて喜んだ。
この頃から既に好奇心の強かった私は、新鮮で心躍る道術に毎回目を輝かせた。
私を驚かせ、また喜ばせるため、父はどんどん道教に熱中していった。
そして――――
『ねぇお父さん! 久しぶりにどーきょー見せて!』
『……あぁ、これが終わったらね』
いつしか父は、私を喜ばせることよりも道教そのものにのめり込んでいた。
あらゆる術を扱え、不老不死である仙人。父はそれを目指していた。
ある時一月ほど部屋に籠り切りになった父は、そこで本格的な修業が必要だと気付いたのだろう。
部屋から出てきたかと思うとすぐに、私と母の元を去った。
私と再会の約束を交わして……。
「……あら」
周りを見渡す。
気付けば、人里の離れまで来ていた。
うわの空で歩いていたからだろうか。見たこともない場所に出てきてしまっている。
外れにあるからだろう。人の気配は全くない。
「まぁ、私にはあんまり関係ないんだけどね」
空を見上げる。
何故か、空がぼやけていく。
父への手紙を書こうとしている、まさかその最中に再会してしまうなんて。
なんとも皮肉な話だ。
……あの手紙、父へ宛てるつもりだったあの手紙は、父との決別。それを意味するものだったのだ。
私は嫁いだ先の家族を欺いて自由の身となり、仙人の世界に足を踏み入れた。
父と同じ名の仙人が海を渡ったと聞き、その後を追ってこの国に渡った。
情報を集めるために神子達を唆して宗教戦争を引き起こし、政治の中枢に取り入った。
神子達が眠りについてからも、私は似たような事を幾度も幾度も繰り返した。戦、暗殺、災害、飢饉……。
そうやって生きてきた千数百年。私はずっと父の手掛かりを探してきた。
しかし、父について得られた情報は皆無であった。
―――そして、私は幻想郷へとその身を移した。
もう、諦めよう。父は、唯一の肉親は、もういない。そんな幻想は捨ててしまおう。
そう思っていた、矢先だった。父と再会したのは。
もしかしたら、幻想郷において幻想を捨てる。そんな考えがもたらした結果なのかもしれない。
目元を袖で拭う。
心の整理がつかない。
千何百年も探し続けて、見つからなかった。
もしかしたら、仙人になって生きているのかもしれない。
そんな希望を、自身を縛る鎖を、やっと諦められる、やっと解き放てる。そう決意していたのに。
……父は、私の事をどう思っているのだろうか。どう思っていたのだろうか。
ただ、愛してくれていた。それだけは幼いながらも分かっていた。道教に夢中になり、ほとんど構ってくれなくなっていた時でさえ、父からの愛は感じていた。
――でも、いなくなった。
「私は……」
自身の思考に耽っていた時、不意に遠くから聞き覚えのある声が響いてきた。
「せーが、せーが! ……せーがぁ!」
「芳香?」
芳香の声に我に返る。
しまった。置いてきてしまっていた。
私は慌てて声がする方に向かい、芳香の前に姿を現した。
「せ、せーが!」
不安げな声を上げていた芳香は、私の姿を認めると大声で私の名を呼んだ。
芳香の姿を確認して、何故か心が落ち着く。
……芳香には悪いことしちゃったわね。お団子買い損ねちゃったし、帰りに何か買ってあげよう。
そう思いながら、嬉しそうにぴょんぴょん跳ねてやってくる芳香を待つ。
そんな芳香を見て、つい今し方とは正反対に、暗い感情がじわじわと胸を侵食していくのを感じた。
よっぽど不安だったのだろう。芳香は一秒でも早く私の元に辿り着こうと、必死に跳ねる。
―――そう、その姿はまるで、迷子の子どもが親を見つけた時のようで……。
『その子にとって貴女は親のような存在なのよ?』
瞬間、神子の言葉が脳裏を過る。
「……ッ」
芳香が私の目の前で立ち止まる。
「せーが! い、いなくなって怖か……」
「黙りなさい」
「……え?」
芳香は困惑した表情を私に向ける。
私はそんな芳香の顔に“思考停止”の札を張り付けた。
「早く戻って霊廟の警備を再開しなさい」
「……はい」
忠実な僕になった芳香は静かに返事をし、霊廟の方角へ向かって行った。
「……」
芳香が去ってしばらく、私はその場で茫然としていた。
* * *
私は首にかけていた、外出用の耳当てを付け直した。
「せ、せーががぁ! せーがが、せーがぁ!」
両腕を前に突き出したまま泣きじゃくる芳香は、なんとも奇妙なものだった。
芳香は鼻水を垂らしながら、延々と泣き喚く。
時折やってくる神霊の言葉に耳を傾けながら瞑想に耽っていた。
そんな時だった。突然、芳香が書斎の扉を突き破ってきたのは。
はっきり言って、訳が分からない。
私は再び芳香に尋ねた。
「芳香、どうしたの? ちゃんと説明してくれないと分からないわ」
相手に説明を求めるなんていつ振りだろう。
普段ならば、十の欲を同時に聞ける私はそんなこと必要ないのだけれども……。
『せーが!』
この子の欲(こえ)はそれが大きすぎて、その他の欲が上手く聞こえない。
芳香が現れた時には思わず耳を塞いでしまったほどだ。
私の言葉に少し落ち着きを取り戻したのか、芳香は不器用に鼻水を袖で拭って、話を続ける。
「……あ、あのね。き、気付いたら、れーびょーにいて、れ、れーびょーから帰ったら……。
せーがが、せーががぁ!」
それから芳香はまたわんわんと泣き出す。
あぁ、もう。要領を得ないわね。
一体どうしたものかと溜息を吐く。
すると芳香に肩をガシッと掴まれる。
そして、芳香はその怪力を以って、私の体を揺さぶってくる。
「み、みこさまぁ! わだしどーじたらぁ!」
「あ、あばばばばば! ゆ、揺らさらないで! く、首が! 首がもげる!」
その後、なんとか芳香を落ち着かせて、話を伺ってみて分かったのは――。
「……なるほど、近頃青娥さんに避けられている、と」
「そ、そうなのだ」
うぇ……、と再び泣きそうになった芳香を慌ててあやす。
確かに、言われてみればここ数日の青娥さんの様子はおかしかった。
お食事の場には姿を現さなくなったし、たまに見かけてもあの胡散臭い笑みを浮かべていることはなかったように思う。
それに欲を読まれるのが嫌なのか、私自身も避けられているような節もあったし……。
元々仙人は食事など摂らなくても生きていける。
それに青娥さんが姿を見せなくなるなんて、しょっちゅうある事だから。
そんな事を思って放置していたが……。
こうやって相談されたら黙ってるわけにもいなかいわねぇ。
そう思って芳香を見る。すると、ある事に気付いた。
「あら? 芳香、ちょっといい?」
「ぐす……んん?」
芳香の顔に何枚か重ねて貼ってあるお札の、一番上をぺリと剥がす。
このお札。どうやら“思考停止”の札のようだ。
「ふむ」
――芳香のような、自分で考えることのできる“作品”は、中々に重宝される。
その理由は単純。モノに思考能力を付加するのがとても難しいからだ。
それは、人形の自律を長年研究している、あの魔法使いを見ればわかることだろう。
芳香の生前の記憶の助けがあったとしても、それを成し遂げた青娥さんの技術力には目を見張るものがある。
しかしながら、その思考力が時に術者の邪魔になってしまう事がある。
そんな時に使用するのがこの札だ。
この札を張り付けている間、その対象(使役者から貼られたときに限る)は瞬く間に“自分”を失い、命令にただ従う機械となる。
そんなお札なんだけど……。
「綻びがあるわね」
霊力を使った即席の書き込みで作られたようだが、力の循環が上手く出来ていない。
これでは数時間で自壊してしまったことだろう。
初歩的な、ものすごく初歩的なミスだ。
普段の青娥さんがこんな不手際をするとは考えにくい。
「……わかったわ、芳香。青娥さんのところに行くわよ!」
私は勢いよく立ち上がり、芳香を連れて青娥さんの部屋へと出向いた。
「……おっふ」
青娥さんの部屋に着いた私は、思わずそう口にした。
この部屋には、結界が張ってあったのだ。それも結構強固な。
「芳香、これが張ってあったのはいつから?」
「き、昨日からだ」
うぅむ、これほどの結界を私に気付かれず張るとは……。
破れないことはないが、それでは根本的な解決にはならないだろう。
私は青娥さんに語りかけるように声を出した。
「青娥さん! どうしたんですか!? 私でよかったら話を聞きますよ!」
『……』
やはりというか、反応はない。
結界越しだからなのか欲もあまり聞こえないし。
芳香は不安げに私と扉を交互に見る。
「み、みこさま」
……しょうがないわね。
私は溜息を吐いて、耳当てを外した。
う……、芳香の欲がうるさい。
なんとか芳香の声を頭の隅に追いやって、霊力を高める。
こうすると髪が今以上に逆立って、色々と残念な髪形になってしまうので倦厭しているが、それも今回ばかりは致し方ない。
芳香は、高まった私の気に目を丸くして言った。
「みこさま。それ、スーパーサイ」
「芳香、それ以上はいけないわ」
芳香を窘めて、霊力を十分に高める。
意識を集中すると、青娥さんの欲も聞こえてくる。
「……なるほど」
どうやら、今回の騒動。私にも責任の一端があるらしい。
私は耳当てを付け直した。それから髪も整え直す。
芳香が隣にいたからだろう。少々耳が痛い。
「芳香、君も来なさい」
「?」
芳香は首を傾げた。
私は芳香の頭に手を置く。
「青娥さんに会わせてあげる」
「ほんと!?」
目を輝かせる芳香に、私は頷いて答える。
「えぇ、でもその前にする事があるわ。ついてきて頂戴」
「わ、わかった!」
元気を取り戻した芳香を連れて、私達は仙界を飛び出した。
* * *
『青娥さん! どうしたんですか!? 私でよかったら話を聞きますよ!』
「……」
……うっさいわね。
膝を抱えて蹲っていた私は、鬱々とした気分で扉を見る。
すぐ近くに芳香の気も感じる。
差し詰め、結界を張られてどうしようもなくなって神子に頼ったのだろう。
その後、神子の霊力が高まったかと思うと、すぐに収まった。
結界を解こうとして諦めたのだろうか。いや、これくらいの結界も破れない神子ではないか。
それから神子と芳香は何か話しているようだったが、二人が遠くに行くのを感じた。
私は、何をやっているのだろうか。
こんなところに引き籠って、芳香に酷い事言って、遠ざけて、結界まで張って。その上神子にまで……。
「……」
分からなく、なった。
芳香が自分の子だと言われて、分からなくなった。
芳香にどう接すればいいのか、どう接するべきなのか。そして、どう接していたのか。
『その子にとって貴女は親のような存在なのよ?』
親って、何? 私は一体どうすればいいの? 芳香に何をしてあげればいいの?
神子の言葉が私を支配する。私の頭を行き来する。私の脳をむちゃくちゃにする。
その言葉が左に流れて、今度は右に流れていく。周りをぐるりと回ったかと思うとその数は増している。
ぐるぐるぐるぐる、増え続け回り続ける“それ”に私は包囲されていく。
……分からなく、なった。
それから、どれくらいの間じっとしていただろうか。
途方もなく長い時間だった気もすれば、短かった気もする。
私を意識へと持ち上げたのは、途轍もなく大きな力の気配だった。
「……神子?」
俯けていた顔を上げる。桁外れな力の波動、その主は確かに神子のようだった。
あまりの力の大きさに仙界が震えている。
神子はこちらに向かってきているようだ。発している力が大きすぎて、神子以外の気配を感じ取れない。
やがて私の部屋の前までやって来た神子は立ち止まる。おそらく結界を破るつもりなのだろう。
――――!
大きすぎる神子の力に触れた私の結界は、まるでシャボン玉のように弾け飛んだ。
開け放たれた扉から光が差し込む。暗闇にいた私は久しぶりの刺激に思わず目を細める。
三人……?
どうやら私の部屋の前には三人立っているようだが、逆光で良く見えない。
特徴的な髪形と体勢で神子と芳香の二人は把握できるけど、残りの一人が分からない。
「せ、せーが!」
「芳香、待ちなさい」
私に飛びかかろうとした芳香を神子がその場に留める。
芳香は何とかもがいているようだが、本気を出した神子の力には敵わない。
目が次第に慣れていく。
そうして、目に映った最後の一人は――。
「……ッ!」
「青娥」
父だった。
まさか、神子が連れてきたのか。
神子を睨むと、神子はそれを受けてにやりと笑う。それから神子は暴れる芳香を無理矢理どこかへ連れ去っていく。
無駄過ぎる力の放出は、父の存在を悟らせないためだったのか。
まさかあんな青二才に一本取られるとは。
悔しい思いで俯くと、部屋に明かりがつく。父がつけたのだろう。
明るくなった部屋とは対象に、沈黙が私達を包み込む。
父は気まずそうに切り出した。
「その、青娥。その、さ、話をしよう」
何を今更。
私は何も答えず、部屋の隅に座り込んだ。
父は何も言わず、私をじっと見ている。
長く、重たい静寂が部屋に満ちる。
私は俯いたまま動かない。動くつもりもない。
父も何も言わない。ただその場に立っている。
「……」
「……」
二人とも、何も言わなかった。
まるで誰かが時を止めてしまったかのようだった。
……こうして久しぶりにしっかり対面したというのに、父は何も言わない。
どうして何も言わないの。何か、何か言う事だってあるんじゃないのか。そんな突っ立っているだけなんて、案山子の方がまだましだ。
まさか、私の返答を待っているのだろうか。
ちらと父を見ると、未だに父はこちらを見ていた。
「……」
「……」
その視線に耐えられなくなった私は、俯いたままボソッと言った。
「……勝手にすれば」
「そうか」
父は安堵したように息を吐いた。
それから私の隣に腰を下ろす。
「お母さんは、どうなった?」
話題でも考えていたのか、しばらく経って父は口を開いた。
「……人として、天寿を全うしたわ」
「そっか」
そう言って、父は安心したように少し笑った。
私が邪仙となって、密かに実家に帰った時の事を思い出す。
……誰も、いなかった。
そこまで大きくなかった我が家は、当主である父、そして名家である霍家へと嫁いだ私の行方不明により、衰退の一途を辿っていた。
私が帰った時には、使用人はおろか人の気配すらなくて、奥で母が一人で床に臥せているのみだった。
母は私を見ると、まるで私が帰って来るのを待っていたかのように、「良かった」 それだけ言って亡くなった。
「笑って息を引き取っていったよ」
「そっか」
「うん」
それから、ぽつりぽつりと話していった。
大陸からこの島国に移った時の事。神子達と会った時の事。宗教戦争のその後の事。幻想入りしてからの事。
話す事は、たくさんあった。
しばらく、私はずうっと話し続けていた。
父から聞きたい事は勿論たくさんあった。けれども、私が今までどう過ごしてきたのか、何をしてきたのか、何を考えて生きてきたのか、話したい事の方がもっとたくさんあった。
こんなに話したのはいつ振りだろうか。言葉が喉の奥からどんどん溢れてやってくる。これでは、いくら話しても話したりない気がした。
けれども、それにも限界があるというもので、ある話題を話し終わったところで一息ついてしまう。
少しだけ空間が沈黙する。その場の空気が切れてしまった。
その空気の変わり目を見て、父は思い立ったように口を開いた。
「あの、芳香って子。良い子だな」
「え……うん」
自分でも、驚くほど狼狽するのが分かった。思わず俯いてしまう。
芳香の事なんて……今は、どうでもいいじゃない。
私は慌てて話題を変えようとする。しかし、父は私の言葉に被せるように言った。
「あの子。青娥が作ったんだってな。良い子だよ、本当。
でもこの頃、あの子を避けているんだって?」
父がこちらに視線を向けるのが分かった。
なんで、芳香の事を。芳香の事は、今関係ないじゃない……。
「どうでも、いいでしょ。そんなこと」
「……」
それから再び沈黙が部屋を支配した。
横にいる父を、悟られないように窺う。父は上を向いて、何か考え事をしているようだった。
少し経って、父は話し出した。
「千年以上前になるかな。仙人になる前の話なんだけどさ、俺、結婚してたんだ。可愛い子どももいた」
「?」
何を話し出すのだろう。
意図が掴めず、父の話に耳を傾ける。
「ある日さ、友人の伝でちょっとした道術を教えてもらったんだ。簡単なやつ。
それを見せるとさ、俺の子さ、すごく道術を気に入ってくれてな。すごく喜んでくれた。誰でもできるような道術をだよ? 俺、すごい嬉しかったの覚えてる。
だから俺さ、その子を喜ばせようと道教の勉強をたくさんし始めたんだ」
「……」
父は、何も言わない私を見て肩を竦める。
「続けてもいいかな。
でも、元々凝り性だったのがいけなかったのかな。その内、その子を喜ばす事よりも道教そのものにハマっていったんだ。妻も子も、家族ほったらかしてさ。ずっと研究ばっかだった」
最低な父親だろ。父は乾いた笑いを浮かべる。
「……気付けば、家族にどう接していいのか分かんなくなってた。
たまに妻とその子が笑いかけて来てもさ、俺今までどんな風に接していたんだろう、ってさ」
父は再び上を向いて、震える声で続けた。
「そうなると自然に家族を避けるようになっていっちゃって。当然その逃げ道の先は道教。更にのめり込んでいったよ。
最終的にどうすればいいのか分かんなくなって、仙人になるっていう口実作って。
後は……。
最低だよ、俺」
上を向いた父から一筋の水滴が零れる。
父は肩を震わせ、歯を食いしばっている。
私は、父の袖をつまんだ。
「……私、お父さんと一緒に笑っていたかったんだよ?」
「青娥?」
お父さんはその濡れた目でこちらを見る。
「難しい事なんて、いらないよ。ただ、お父さんと、お母さんと、一緒に笑ってたかったんだよ」
私は力一杯唇を噛んでいた。
「……そっか。そっか」
お父さんは、泣きながら私を抱きしめてくれた。
気付けば、私も泣いていた。
それから二人して、静かに泣き続けた。
それから、どれほどの時間が経っただろう。
泣き止んだ私達は、特に何かを言うわけでもなく、ただ寄り添って座っていた。
こんなに落ち着いた気持ちになるのはいつ以来だろうか。何十年、何百年、いや、もしかしたら、それこそ父がいなくなって初めてなのかもしれない。
長く泣いていたからだろうか、父は少し掠れた声で口を開いた。
「青娥、そろそろあの子のところに行ってやり」
「……うん」
父から体を離す。
そろそろ芳香のところに行ってやらなきゃいけない。
大分前から、芳香がかなりのレベルで暴れていることは気の乱れから気付いていた。
流石の神子でも、ほんの少し疲弊気味なのが窺える。
私は立ち上がって、手鏡で自身を軽く整える。こういうのは大切だ。大人の女性の嗜みだ。
しかしながら、私が緊張しているのを見抜いたのだろう。父は私の頭に手を置いた。
「大丈夫だよ。本当にその子を愛しているなら、それでいいんだ。それなら、自ずと愛は子へと伝わるから」
……自分のネックは、最終的にはこれだったのだろう。
芳香への愛の伝え方が分からなかったから、自分はこんなに悩んでいたのだろう。
今まで曖昧に伝えていたそれの、親と子という明白な形が露呈したことが原因なのだろう。
大丈夫、愛は伝わる。父からこう言われて、私は何だか安心した気分になった。
でも何だかちょっぴり素直になれなくて、そっぽを向く。
「偉そうに。私達置いていなくなったくせに」
手痛いな。そう言って父は苦笑いした。
「だけどさ、約束は守れただろ? こうしてまた会えたじゃないか。
それに――」
そこまで言って、父は真面目な顔でこっちを見つめながら言った。
「俺のお前に対する愛は伝わらなかったか?」
「……」
……全くもう、何で男って奴はこんな気恥ずかしい言葉を惜しげもなく言えるんだ。
こっちの方が恥ずかしい。
「うっさい」
私は父に背を向けた。
それから、後ろで苦笑いしているであろう父に向かって、口を開いた。
「お父さん、ありがとう」
* * *
「――それでな、屠自古が恐ろしいのじゃ。彼奴な、我が砂糖を少々入れたからと悪いと怒って……いや、恐ろしくなんてない。怖くないぞ。全然、ホント。
ただ、砂糖と塩を間違えただけではないか。それだけで怒ることもなかろう? それでだな――」
あれから、数週間経った。
芳香との仲直りを果たしてから、私はいつも通りの日常を過ごしていた。
相変わらず布都ちゃんはよく屠自古ちゃんに怒られるし、屠自古ちゃんはいつも通り雷を振り回している。
神子ちゃんはクソ真面目に瞑想を繰り返し、時折里へ悟りを説きに行く。
そして、芳香はよく転ける。
本当、平和な日々を過ごしている。
「ね、布都ちゃん。屠自古ちゃんは真正の甘党だから怒っているの。お砂糖が足りなかったのよ」
「そ、そうなのか?」
「えぇ、違いないわ。だから今度は屠自古ちゃんの料理にたっぷりとお砂糖を入れてあげなさい? あの子も怒りを鎮めてくれるはずよ。
あら、今ちょうどお昼時。今から屠自古ちゃんの料理にお砂糖を入れて来なさいな」
「な、なるほど!」
布都ちゃんは大きく頷いた。私も満面の笑みで大きく頷いた。
「いやあ、助かった! ありがとう青娥殿!」
そう言うと布都ちゃんは意気揚々と部屋を出て行った。
それからしばらくして聞こえてきた屠自古ちゃんの怒声と布都ちゃんの悲鳴に私はくすくすと笑った。
そして、その悲鳴を引き継ぐようにして芳香が私の部屋を訪れた。
芳香は目をキラキラと輝かせ、私に石を見せつけた。
「み、見てくれせーが! き、綺麗な石をもってきたぞ!」
芳香が私に見せつけた石。正直言って、ただの石だ。
だけど、関節が(頭も)上手く回らないこの子にとって、地面に転がる石を取ってみせるというのは中々の快挙。
期待の眼差しをこちらに向ける芳香の頭を撫でてあげる。
「あらまぁ、頑張ったわね。芳香」
「う、うぉぉぉ! が、がんばったぞ!」
芳香は嬉しそうに飛び跳ねる。
笑顔で飛び回るこの子を見るとこちらも自然と笑顔になる。
……何のことはない。ただ、この子は一緒に楽しみを共有したかっただけなのだ。
一緒に、笑っていたかっただけなんだ。
難しく考えすぎちゃったのよね。
頭を横に振りながら、押入れを開ける。
この石どこにしまっちゃおうかしら。なんて思いながら押入れを見回す。
「あら?」
クリスマスの戦利品、そう書かれているダンボール箱。その上に一枚の紙切れが置いてあった。
これは……。
まだこんなところに置いてあったのか。思わず笑みが零れる。
私はそれをくしゃくしゃに丸めて、どこかに捨てようと押入れから身体を出した。
すると、神子ちゃんに誘われたのだろう。一体何の欲を持っているのか、一つの神霊が私の目の前を漂っていた。
「あらこんにちわ」
神霊に挨拶をする。返事のつもりだろうか。神霊はその場でゆらゆら揺れた。
しかし、未だに神子を求めてやってくる神霊がいるとは、流石の一言に尽きる。
神霊をぽんぽんと叩く。
やめて! という風に神霊は私から逃れていこうとする。
先ほどまで暴れていた芳香は、神霊の登場にしんと息を潜め、静まった。その姿はまるで獲物に狙いをつける獣のようだ。
「ふむ」
私は少し思案して、何の欲があって来たかは知らないが、その神霊を捕えた。
そして、その神霊を手にある紙に貼り付ける。
少々抵抗した神霊だが、その甲斐なくぴたりと貼り付けにされる。
私は芳香に振りむいた。
「じゃあ芳香、口を開けて」
「?? どうして?」
「ひみつ。はい、あーん」
「うむ。あーん」
疑問を顔に浮かべながらも、芳香は素直に口を開く。
私はその大きいお口に、欲の神霊付きの紙屑をぶち込んだ。
突然紙を口に入れられたこの子は目を白黒させる。
「も、もがが」
「ね、おいしいね?」
芳香は口から涎を垂らして、もごもご言っている。
私はそんな愛らしい芳香にウインク付きの最高の笑顔を向ける。
「よく、噛んで食べるのよ? かみだけにね」
さぁ、明日からも一緒に笑っていこう。
そんな話を聞いたのは今朝の事だった。
珍しい事もあるものだ。
基本的に仙人とは、何かしらの“悟り”を開いた者であり、働くなどといった俗な行動は滅多にとらない。
そうであるのにも関わらず、態々人里で労働に勤しむなど……。
酔狂な仙人か、はたまた唯の偽物か。
どちらにしても丁度いいと、作業に詰まっていた自分は気分転換にそいつを見に行く事にした。
私は芳香を呼び付けて出掛ける準備をする。お札の命令を書き換えておかないと芳香は誰彼構わず襲ってしまう。
飛べばいいのにピョンピョンと跳ねてやって来た芳香に新しいお札をぴたりと貼り付け、私達は仙界を飛び出した。
お昼時の人里は、中々の混み様だった。どのような用事があるのだろうか。様々な人間、たまに人外で溢れている。わいわいがやがや喧しい。
私はその中を芳香を先頭にして、人込みを上手く切り裂きながら歩いていく。
布都ちゃんから聞いた話だと、新しく出来たお団子屋さん、そこに目的の奴が働いているらしい。芳香もいるし、一緒にお団子でも食べようかしら。
仙人のくせに働いているその阿呆をどうからかってやろうか。
そんな事を考えながら歩みを進める。
その場所を事前に知っていた私は時間をかけることもなく、そのお団子屋さんに辿り着いた。
結構な盛況ぶりで、その小さな店内はいっぱいいっぱいだ。
……間違いない。この中にその仙人はいる。
私と同じ種類の、嫌な匂いがぷんぷんする。
どうやら偽物ではなく、酔狂な方だったらしい。向こうも既に気付いている事だろう。
私は何とか見つけた席に座り、お品書きに目を通す。芳香は隣で棒立ちだ。
一通りお品書きを眺め、注文を決める。丁度そこで湯呑がコトと置かれた。
……こいつか。娘々センサーがビンビンだ。
私はその阿呆を目に収めるため、顔を上げた。
「……」
「……」
お父さんだった。
『さぁ、明日からも』
【拝啓 盛夏の候、更に暑さを覚え、海山の恋しい季節に御座います。
貴方と再び相見える為仙人と為り、千六百年程の月日が流れました。如何御過ごしでしょうか。
私は今となっては立派な邪仙。幻想郷という土地へ移り住み、幾分かの】
「うぅん、少し硬過ぎかしら」
私は筆を置いた。
唯今手紙を書いているところなのだが、これがどうして筆が進まない。
初めて手紙を書く相手なので、それなりに硬くして書いているのだけれども、なんだかしっくりこない。しかしゆるゆるな文章を綴るのも、なんか嫌だ。
そうやって、うんうん唸っていると、朝の偵察(さんぽ)から帰ってきた芳香が近づいて来た。
「せーが、何やってるの?」
「あぁ、手紙を書いているのよ。というかあなたは靴を脱ぎなさい」
しかし靴を脱ごうとした芳香は、足を引っ掛けて転けてしまう。
世話が焼けるわね。この子の関節はいつ柔らかくなるのかしら。
溜息を吐きながら靴を脱がせてやっていると、芳香は口を開いた。
「誰に書いてるのー?」
「ひみつ」
「えー?」
芳香は首を傾げた。それから何か言おうとしたが、やって来た屠自古ちゃんに遮られた。
「青娥さん、朝ご飯ですよ」
「朝ごはんっ!」
朝ご飯だと聞くや否や、鳥よりも鳥頭な芳香は飛び跳ねながら部屋を出て行ってしまった。
全く、この子はほんと騒がしいわねぇ。
すぐ行くとの旨を伝えて、筆や墨を片付ける。
あ、今度は近頃流行りのエンピツで書いちゃおうかしら。
「人里で仙人が働いている?」
布都ちゃんにそう聞き返しながら、私はお味噌汁を啜った。今週の料理当番は屠自古ちゃんだから、安心して口に運べる。布都ちゃんは料理が下手なのだ。
「そう、そうなのだ。新しく出来た団子屋があるだろう?」
布都ちゃんは自慢げに箸をカチカチ言わせた。
あぁ、あのお団子屋か。
布都ちゃんが言っているのは、近頃開店した、美味しいと評判のお団子屋だ。
未だ行ったことはないが、一度だけその店の前を通りかかったことがある。
行儀が悪いと屠自古ちゃんに注意され、不貞腐れながらも布都ちゃんは話を続ける。
「そこに気配を感じてな。寄ってみようと……いや、違うぞ? 食ってない。食ってないぞ。
ちゃんと買い物はした。買い物の為に受け渡された金だ。勝手に使うわけがない。ただちょっと寄ってみただけだ。
結構美味しかったから、今度皆で……あ」
布都ちゃんの肩に屠自古ちゃんが手を置く。
「後で話を伺おうかしら」
「……お、おうよ」
にっこりと笑う屠自古ちゃんに布都ちゃんは顔面蒼白だ。
勝手に自爆した布都ちゃんは置いといて、芳香の口にお魚を丸ごと放り込んでやる。
「こらこら青娥さん。嫌いなものを押し付けてはいけないわよ」
神子ちゃんに窘められた。仕方ないじゃない。小骨を取り除くのが面倒なんだもの。
「あらあら、そんなことはないですわ豊聡耳様。
食いしん坊なこの子に譲ってあげてるの。ね、芳香お魚大好きね?」
「んん? おお。私は食べ物が大好きだ!」
「ほらね?」
元気の良い返事に気を良くした私は、芳香に沢庵もあげながら神子ちゃんを見る。
神子ちゃんは表情に諦めを浮かべながら、首を横に振った。
「全く、貴女は。その子にとって貴女は親のような存在なのよ? そういう言い訳癖がついたらどうするの」
神子はそう言って溜息を吐いた。
「……」
……親に何かを教わる必要も無かったような奴が何言ってんのよ。
元々小食な私は、面倒になった残りのご飯を全て芳香の口へ押し込んだ。
「む、むぐぐ」
「ね、おいしいね? じゃあ、ごちそうさま」
“美味しそうに”ご飯を頬張る芳香と、未だちまちまと食べている神子達を置いて、私は自室に戻った。
「エンピツ、エンピツちゃーん」
部屋の押し入れをごそごそと探す。
おかしいわねぇ、去年のクリスマスに手に入れたものがあったはずなんだけど。
クリスマスでの戦利品、そう書かれている箱を漁る。
ものさし、水筒、蛇の抜け殻、鉄アレイ、ドロワ――。ダメね、金目の物は売っちゃったから碌なものは残っちゃいないわ。
それからしばらく探していたのだけれども、結局見つからずに諦めた。藁人形を放り投げる。
何気なしに、書きかけのお手紙を見つめる。
「拝啓、ねぇ……」
父に手紙を書こうと思った切っ掛け、それは些細な事だった。
人里でとある親子を見かけた。
娘が父親に何かの玩具をねだっていた。しばらく渋っていた父親だけど、最終的には折れて娘にその玩具を買い与えた。そんな何でもない風景。
それを見て自然と、自分の父親の事を思い出した。
ただ……それだけ。
『その子にとって貴女は親のような存在なのよ?』
先ほどの神子の言葉を思い起こす。
「……うっさいわね」
私は散らかった戦利品たちを押し入れに直した。
それからむしゃくしゃした感情を糧にして、父への手紙に罵詈雑言を書き込んでいった。
執筆(という名の八つ当たり)を始めてからしばらく経った後、布都ちゃんが私の元へやってきた。
「――それでな、屠自古が怖いのじゃ。彼奴な、我が勝手にお団子を食べたと怒って……いや、怖くない。怖くないぞ。全然、マジで。
ただ、屠自古は怒ると文字通り雷を落としてな? 雷はいかん。雷はいかんだろう? それでだな――」
何をしに来たのか、布都ちゃんはつらつらと話し続ける。もうかれこれ二時間も話し続けている。
屠自古ちゃんに叱られるといっつもそう。布都ちゃんは私のところにやってきて愚痴る。
主人である神子ちゃんにはこんな事言いに行けないし、屠自古ちゃんなんて以ての外。芳香は言うまでもないだろう。
だから私のところに来るのは仕方のない事なんだけど……。
この子他に友達いないのかしら。
「ね、布都ちゃん。屠自古ちゃんはきっとお団子を食べられなかったから怒っているのよ」
「そ、そうなのか?」
「えぇ、違いないわ」
たぶん違うだろう。真面目な彼女はお使いのお金を私欲のために使ったことに怒っているのだ。
「だから今度は屠自古ちゃんにお団子を買ってきてあげなさい? あの子も怒りを鎮めてくれるはずよ。
今日のお夕飯。買い出し係は布都ちゃんでしょ? ついでに買って来なさいな」
「な、なるほど!」
布都ちゃんは大きく頷いた。私も満面の笑みで大きく頷いた。
お金を勝手に使ったのを叱りたいけど、自分のために買ってきたものだから叱りにくい。そんな微妙な表情を浮かべた屠自古ちゃんが容易に想像できる。
「いやあ、助かった! ありがとう青娥殿!」
そう言うと布都ちゃんは意気揚々と部屋を出て行った。
私は今日のお夕飯のことを想像してくすくす笑った。
しかし、あの子蘇るときに頭の螺子でも外れたのかしら。
昔はこんなにポンコツじゃなかったと思うんだけど……。
* * *
「……あぁん、ダメねぇ」
筆を投げ捨てたい衝動を抑えて、硯に置く。
布都ちゃんが帰った後お手紙を再開したのだけれども、やっぱり駄目だ。なんかしっくりこない。
手紙を書こう。そう思っているのは確かなんだけど……。
どんな手紙を書きたいのか。それがさっぱり浮かばない。
仰向けに転がって天井を見つめる。
「何か甘いものでも食べたいわね」
久しぶりに頭を使ったからだろうか。身体が糖分を欲している。
甘いもの甘いもの……じゅるり。
そこで、今朝布都ちゃんが言っていたことを思い出した。
「あ、そうだ」
お団子、お団子を食べに行こう。甘味処としては定番だ。
それに、新しく出来たお団子屋さん。布都ちゃん曰く、仙人が働いているという。
お手紙も行き詰っていたところだし、丁度いいや。暇つぶしにその仙人の見学兼冷やかしに行こう。
手紙を片づける。置き場所に困ったため押入れを開き、クリスマス戦利品ボックスの上に置いておく。
押入れを閉めてから、私は招集用のお札を取り出し、芳香を呼び出した。
それからしばらくしてやってきた芳香は、なぜか木の枝を持っていた。
枝の先には瑞々しい緑色の葉が幾分か付いている。折られたのはつい先程のようだ。
「芳香、それは?」
そう尋ねると首を傾げていた芳香だったが、少しして思い出したように言った。
「お、お土産だ! 綺麗だから持ってきたぞ!」
芳香は曲がらない足を懸命にひょこひょこと動かして、私に近寄り枝を渡す。
そして私を見上げた。
まるで、親に褒めてもらう事を期待している、子どものような目で。
『その子にとって貴女は親のような存在なのよ?』
「……」
「せーが?」
何も言わない私を不思議に思ったのだろう。芳香は不安げな目で私を見つめる。
「……芳香、外出用の札よ」
その視線を遮るように、私は芳香の顔に札を張り付けた。
お昼時の人里は、中々の混み様だった。どのような用事があるのだろうか。様々な人間、たまに人外で溢れている。わいわいがやがや喧しい。
しかしながら、キョンシーの芳香を先頭にしているからだろう。人混みは勝手に裂けて(避けて)いく。
「う~ん、ここまでいくと気持ちいいわねぇ」
好奇な目線に晒されるのが玉に傷だが、スムーズに進めるので良しとしよう。
すると、私の呟きが聞こえたのか、芳香が不器用に振り返りながら言った。
「せーが! 何か言ったか~?」
「なんでもないわ。前を向きなさい。また転けるわよ。あぁ、そこの角を右ね」
「あ~い!」
芳香は適当な返事を返しながら、右折した。
お団子屋まであと少し。
「さて……と」
その仙人をどうからかってやろうかしら。そんな事を考えながら歩みを進める。
そうね、まずは芳香を自慢しよう。
芳香は私の……作品の中でもかなりの自信作だ。ちょっと腐っているのがあれだが、それもご愛嬌。出来は良い。
偽物だったなら、適当に脅かして仕舞いにしよう。
「あぁ芳香! そこでストップよ」
気付けば目的地に着いていた。
その店内は小さいながらも中々に繁盛しており、時間を外せば良かったかと少し後悔した。
そして、私は確信した。
……間違いない。この中にその仙人はいる。
気配を消しているのだろう。小さいが、確かに同族の嫌な匂いがする。
気を付けていなければ見逃していたであろうが、一旦気が付けば明確に感じ取れる。
私は隠れるつもりなんて毛頭ない。向こうは既に私に気付いているはずだ。
芳香を先頭にしてすんなり店内に入り込む。
そして見つけた席に座り、お品書きに目を通す。
どれにしようかしら。うん、まずはみたらし団子からいきましょう。シンプルイズベストよね。
丁度注文を決めたところで、湯呑がコトと置かれた。
……こいつか。娘々センサーがビンビンだ。
私はその阿呆を目に収めるため、顔を上げた。
「……」
「……」
湯呑を持ってきたのは、男性だった。
その男性は驚きの余り言葉を失っている。目を見張り、茫然と私を見る。
ぽかんと口を開け、信じられないものを見るような目でこちらを見つめるその表情は、なんとも間抜けなものだった。
……そして、それは私も同様だった。
少し太い眉と無骨な鼻立ち、力強い眼。ちょっとだけ堀の深い顔と目元口元に僅かに見える小皺。背が高く、肩幅の広い体つきに節くれだった手。
その全てが、千年以上も前に見た、未だ鮮明に記憶に残っている父の姿、そのものだった。
「せ、青娥……か?」
「……」
その低く、落ち着く声も記憶の通り。
頭が、ぐるぐるする。
音が遠くなる。視界が絵の具のように混ざっていく。
幼い頃の記憶が蘇る。
抱き上げてくれた逞しい腕。抱きしめてくれた時の感触。寝る前に歌ってくれた子守唄。私によく向けてくれた優しい笑顔。
そして、家を去って行く時の、その背中……。
「……ッ」
私は腰掛が倒れるのも構わず乱暴に立ち上がった。そして店から出て行こうとする。
「青娥!」
肩を掴まれる。私はその手を振り払った。
「さわんないでよ! 今更! 私がどれだけ……!」
「せ、青娥……」
父の返事を待たずに私は店を飛び出した。
* * *
―――初めは、私を喜ばせるためだったんだと思う。
『お父さんすごい! これどうやったの!?』
『ひみつ! すごいだろ~!』
どこで覚えてきたのだろうか。ある日父は私に道術を見せてくれた。それは一見すれば奇術とあまり変わらない程度の、本当に初歩的な道術であった。
しかしながら、見たこともない現象に私は心底驚き、また大いに喜んだ。
その後私は、またあれを見せてくれと、父に道術を要求するようになった。
それからだった。道教について学びだした父が、私によくそれを見せてくれるようになったのは。
当時幼かった私は当然のように、もっともっとと父に術を求めていった。
『お父さん何やってるのー?』
『ん、術のお勉強だよ。次はもっとすごいの見せてやるからな!』
『ほんと!?』
『あぁ!』
日々変化し驚きを与えてくれる道術、そしてそれを見せてくれる父に私は手を叩いて喜んだ。
この頃から既に好奇心の強かった私は、新鮮で心躍る道術に毎回目を輝かせた。
私を驚かせ、また喜ばせるため、父はどんどん道教に熱中していった。
そして――――
『ねぇお父さん! 久しぶりにどーきょー見せて!』
『……あぁ、これが終わったらね』
いつしか父は、私を喜ばせることよりも道教そのものにのめり込んでいた。
あらゆる術を扱え、不老不死である仙人。父はそれを目指していた。
ある時一月ほど部屋に籠り切りになった父は、そこで本格的な修業が必要だと気付いたのだろう。
部屋から出てきたかと思うとすぐに、私と母の元を去った。
私と再会の約束を交わして……。
「……あら」
周りを見渡す。
気付けば、人里の離れまで来ていた。
うわの空で歩いていたからだろうか。見たこともない場所に出てきてしまっている。
外れにあるからだろう。人の気配は全くない。
「まぁ、私にはあんまり関係ないんだけどね」
空を見上げる。
何故か、空がぼやけていく。
父への手紙を書こうとしている、まさかその最中に再会してしまうなんて。
なんとも皮肉な話だ。
……あの手紙、父へ宛てるつもりだったあの手紙は、父との決別。それを意味するものだったのだ。
私は嫁いだ先の家族を欺いて自由の身となり、仙人の世界に足を踏み入れた。
父と同じ名の仙人が海を渡ったと聞き、その後を追ってこの国に渡った。
情報を集めるために神子達を唆して宗教戦争を引き起こし、政治の中枢に取り入った。
神子達が眠りについてからも、私は似たような事を幾度も幾度も繰り返した。戦、暗殺、災害、飢饉……。
そうやって生きてきた千数百年。私はずっと父の手掛かりを探してきた。
しかし、父について得られた情報は皆無であった。
―――そして、私は幻想郷へとその身を移した。
もう、諦めよう。父は、唯一の肉親は、もういない。そんな幻想は捨ててしまおう。
そう思っていた、矢先だった。父と再会したのは。
もしかしたら、幻想郷において幻想を捨てる。そんな考えがもたらした結果なのかもしれない。
目元を袖で拭う。
心の整理がつかない。
千何百年も探し続けて、見つからなかった。
もしかしたら、仙人になって生きているのかもしれない。
そんな希望を、自身を縛る鎖を、やっと諦められる、やっと解き放てる。そう決意していたのに。
……父は、私の事をどう思っているのだろうか。どう思っていたのだろうか。
ただ、愛してくれていた。それだけは幼いながらも分かっていた。道教に夢中になり、ほとんど構ってくれなくなっていた時でさえ、父からの愛は感じていた。
――でも、いなくなった。
「私は……」
自身の思考に耽っていた時、不意に遠くから聞き覚えのある声が響いてきた。
「せーが、せーが! ……せーがぁ!」
「芳香?」
芳香の声に我に返る。
しまった。置いてきてしまっていた。
私は慌てて声がする方に向かい、芳香の前に姿を現した。
「せ、せーが!」
不安げな声を上げていた芳香は、私の姿を認めると大声で私の名を呼んだ。
芳香の姿を確認して、何故か心が落ち着く。
……芳香には悪いことしちゃったわね。お団子買い損ねちゃったし、帰りに何か買ってあげよう。
そう思いながら、嬉しそうにぴょんぴょん跳ねてやってくる芳香を待つ。
そんな芳香を見て、つい今し方とは正反対に、暗い感情がじわじわと胸を侵食していくのを感じた。
よっぽど不安だったのだろう。芳香は一秒でも早く私の元に辿り着こうと、必死に跳ねる。
―――そう、その姿はまるで、迷子の子どもが親を見つけた時のようで……。
『その子にとって貴女は親のような存在なのよ?』
瞬間、神子の言葉が脳裏を過る。
「……ッ」
芳香が私の目の前で立ち止まる。
「せーが! い、いなくなって怖か……」
「黙りなさい」
「……え?」
芳香は困惑した表情を私に向ける。
私はそんな芳香の顔に“思考停止”の札を張り付けた。
「早く戻って霊廟の警備を再開しなさい」
「……はい」
忠実な僕になった芳香は静かに返事をし、霊廟の方角へ向かって行った。
「……」
芳香が去ってしばらく、私はその場で茫然としていた。
* * *
私は首にかけていた、外出用の耳当てを付け直した。
「せ、せーががぁ! せーがが、せーがぁ!」
両腕を前に突き出したまま泣きじゃくる芳香は、なんとも奇妙なものだった。
芳香は鼻水を垂らしながら、延々と泣き喚く。
時折やってくる神霊の言葉に耳を傾けながら瞑想に耽っていた。
そんな時だった。突然、芳香が書斎の扉を突き破ってきたのは。
はっきり言って、訳が分からない。
私は再び芳香に尋ねた。
「芳香、どうしたの? ちゃんと説明してくれないと分からないわ」
相手に説明を求めるなんていつ振りだろう。
普段ならば、十の欲を同時に聞ける私はそんなこと必要ないのだけれども……。
『せーが!』
この子の欲(こえ)はそれが大きすぎて、その他の欲が上手く聞こえない。
芳香が現れた時には思わず耳を塞いでしまったほどだ。
私の言葉に少し落ち着きを取り戻したのか、芳香は不器用に鼻水を袖で拭って、話を続ける。
「……あ、あのね。き、気付いたら、れーびょーにいて、れ、れーびょーから帰ったら……。
せーがが、せーががぁ!」
それから芳香はまたわんわんと泣き出す。
あぁ、もう。要領を得ないわね。
一体どうしたものかと溜息を吐く。
すると芳香に肩をガシッと掴まれる。
そして、芳香はその怪力を以って、私の体を揺さぶってくる。
「み、みこさまぁ! わだしどーじたらぁ!」
「あ、あばばばばば! ゆ、揺らさらないで! く、首が! 首がもげる!」
その後、なんとか芳香を落ち着かせて、話を伺ってみて分かったのは――。
「……なるほど、近頃青娥さんに避けられている、と」
「そ、そうなのだ」
うぇ……、と再び泣きそうになった芳香を慌ててあやす。
確かに、言われてみればここ数日の青娥さんの様子はおかしかった。
お食事の場には姿を現さなくなったし、たまに見かけてもあの胡散臭い笑みを浮かべていることはなかったように思う。
それに欲を読まれるのが嫌なのか、私自身も避けられているような節もあったし……。
元々仙人は食事など摂らなくても生きていける。
それに青娥さんが姿を見せなくなるなんて、しょっちゅうある事だから。
そんな事を思って放置していたが……。
こうやって相談されたら黙ってるわけにもいなかいわねぇ。
そう思って芳香を見る。すると、ある事に気付いた。
「あら? 芳香、ちょっといい?」
「ぐす……んん?」
芳香の顔に何枚か重ねて貼ってあるお札の、一番上をぺリと剥がす。
このお札。どうやら“思考停止”の札のようだ。
「ふむ」
――芳香のような、自分で考えることのできる“作品”は、中々に重宝される。
その理由は単純。モノに思考能力を付加するのがとても難しいからだ。
それは、人形の自律を長年研究している、あの魔法使いを見ればわかることだろう。
芳香の生前の記憶の助けがあったとしても、それを成し遂げた青娥さんの技術力には目を見張るものがある。
しかしながら、その思考力が時に術者の邪魔になってしまう事がある。
そんな時に使用するのがこの札だ。
この札を張り付けている間、その対象(使役者から貼られたときに限る)は瞬く間に“自分”を失い、命令にただ従う機械となる。
そんなお札なんだけど……。
「綻びがあるわね」
霊力を使った即席の書き込みで作られたようだが、力の循環が上手く出来ていない。
これでは数時間で自壊してしまったことだろう。
初歩的な、ものすごく初歩的なミスだ。
普段の青娥さんがこんな不手際をするとは考えにくい。
「……わかったわ、芳香。青娥さんのところに行くわよ!」
私は勢いよく立ち上がり、芳香を連れて青娥さんの部屋へと出向いた。
「……おっふ」
青娥さんの部屋に着いた私は、思わずそう口にした。
この部屋には、結界が張ってあったのだ。それも結構強固な。
「芳香、これが張ってあったのはいつから?」
「き、昨日からだ」
うぅむ、これほどの結界を私に気付かれず張るとは……。
破れないことはないが、それでは根本的な解決にはならないだろう。
私は青娥さんに語りかけるように声を出した。
「青娥さん! どうしたんですか!? 私でよかったら話を聞きますよ!」
『……』
やはりというか、反応はない。
結界越しだからなのか欲もあまり聞こえないし。
芳香は不安げに私と扉を交互に見る。
「み、みこさま」
……しょうがないわね。
私は溜息を吐いて、耳当てを外した。
う……、芳香の欲がうるさい。
なんとか芳香の声を頭の隅に追いやって、霊力を高める。
こうすると髪が今以上に逆立って、色々と残念な髪形になってしまうので倦厭しているが、それも今回ばかりは致し方ない。
芳香は、高まった私の気に目を丸くして言った。
「みこさま。それ、スーパーサイ」
「芳香、それ以上はいけないわ」
芳香を窘めて、霊力を十分に高める。
意識を集中すると、青娥さんの欲も聞こえてくる。
「……なるほど」
どうやら、今回の騒動。私にも責任の一端があるらしい。
私は耳当てを付け直した。それから髪も整え直す。
芳香が隣にいたからだろう。少々耳が痛い。
「芳香、君も来なさい」
「?」
芳香は首を傾げた。
私は芳香の頭に手を置く。
「青娥さんに会わせてあげる」
「ほんと!?」
目を輝かせる芳香に、私は頷いて答える。
「えぇ、でもその前にする事があるわ。ついてきて頂戴」
「わ、わかった!」
元気を取り戻した芳香を連れて、私達は仙界を飛び出した。
* * *
『青娥さん! どうしたんですか!? 私でよかったら話を聞きますよ!』
「……」
……うっさいわね。
膝を抱えて蹲っていた私は、鬱々とした気分で扉を見る。
すぐ近くに芳香の気も感じる。
差し詰め、結界を張られてどうしようもなくなって神子に頼ったのだろう。
その後、神子の霊力が高まったかと思うと、すぐに収まった。
結界を解こうとして諦めたのだろうか。いや、これくらいの結界も破れない神子ではないか。
それから神子と芳香は何か話しているようだったが、二人が遠くに行くのを感じた。
私は、何をやっているのだろうか。
こんなところに引き籠って、芳香に酷い事言って、遠ざけて、結界まで張って。その上神子にまで……。
「……」
分からなく、なった。
芳香が自分の子だと言われて、分からなくなった。
芳香にどう接すればいいのか、どう接するべきなのか。そして、どう接していたのか。
『その子にとって貴女は親のような存在なのよ?』
親って、何? 私は一体どうすればいいの? 芳香に何をしてあげればいいの?
神子の言葉が私を支配する。私の頭を行き来する。私の脳をむちゃくちゃにする。
その言葉が左に流れて、今度は右に流れていく。周りをぐるりと回ったかと思うとその数は増している。
ぐるぐるぐるぐる、増え続け回り続ける“それ”に私は包囲されていく。
……分からなく、なった。
それから、どれくらいの間じっとしていただろうか。
途方もなく長い時間だった気もすれば、短かった気もする。
私を意識へと持ち上げたのは、途轍もなく大きな力の気配だった。
「……神子?」
俯けていた顔を上げる。桁外れな力の波動、その主は確かに神子のようだった。
あまりの力の大きさに仙界が震えている。
神子はこちらに向かってきているようだ。発している力が大きすぎて、神子以外の気配を感じ取れない。
やがて私の部屋の前までやって来た神子は立ち止まる。おそらく結界を破るつもりなのだろう。
――――!
大きすぎる神子の力に触れた私の結界は、まるでシャボン玉のように弾け飛んだ。
開け放たれた扉から光が差し込む。暗闇にいた私は久しぶりの刺激に思わず目を細める。
三人……?
どうやら私の部屋の前には三人立っているようだが、逆光で良く見えない。
特徴的な髪形と体勢で神子と芳香の二人は把握できるけど、残りの一人が分からない。
「せ、せーが!」
「芳香、待ちなさい」
私に飛びかかろうとした芳香を神子がその場に留める。
芳香は何とかもがいているようだが、本気を出した神子の力には敵わない。
目が次第に慣れていく。
そうして、目に映った最後の一人は――。
「……ッ!」
「青娥」
父だった。
まさか、神子が連れてきたのか。
神子を睨むと、神子はそれを受けてにやりと笑う。それから神子は暴れる芳香を無理矢理どこかへ連れ去っていく。
無駄過ぎる力の放出は、父の存在を悟らせないためだったのか。
まさかあんな青二才に一本取られるとは。
悔しい思いで俯くと、部屋に明かりがつく。父がつけたのだろう。
明るくなった部屋とは対象に、沈黙が私達を包み込む。
父は気まずそうに切り出した。
「その、青娥。その、さ、話をしよう」
何を今更。
私は何も答えず、部屋の隅に座り込んだ。
父は何も言わず、私をじっと見ている。
長く、重たい静寂が部屋に満ちる。
私は俯いたまま動かない。動くつもりもない。
父も何も言わない。ただその場に立っている。
「……」
「……」
二人とも、何も言わなかった。
まるで誰かが時を止めてしまったかのようだった。
……こうして久しぶりにしっかり対面したというのに、父は何も言わない。
どうして何も言わないの。何か、何か言う事だってあるんじゃないのか。そんな突っ立っているだけなんて、案山子の方がまだましだ。
まさか、私の返答を待っているのだろうか。
ちらと父を見ると、未だに父はこちらを見ていた。
「……」
「……」
その視線に耐えられなくなった私は、俯いたままボソッと言った。
「……勝手にすれば」
「そうか」
父は安堵したように息を吐いた。
それから私の隣に腰を下ろす。
「お母さんは、どうなった?」
話題でも考えていたのか、しばらく経って父は口を開いた。
「……人として、天寿を全うしたわ」
「そっか」
そう言って、父は安心したように少し笑った。
私が邪仙となって、密かに実家に帰った時の事を思い出す。
……誰も、いなかった。
そこまで大きくなかった我が家は、当主である父、そして名家である霍家へと嫁いだ私の行方不明により、衰退の一途を辿っていた。
私が帰った時には、使用人はおろか人の気配すらなくて、奥で母が一人で床に臥せているのみだった。
母は私を見ると、まるで私が帰って来るのを待っていたかのように、「良かった」 それだけ言って亡くなった。
「笑って息を引き取っていったよ」
「そっか」
「うん」
それから、ぽつりぽつりと話していった。
大陸からこの島国に移った時の事。神子達と会った時の事。宗教戦争のその後の事。幻想入りしてからの事。
話す事は、たくさんあった。
しばらく、私はずうっと話し続けていた。
父から聞きたい事は勿論たくさんあった。けれども、私が今までどう過ごしてきたのか、何をしてきたのか、何を考えて生きてきたのか、話したい事の方がもっとたくさんあった。
こんなに話したのはいつ振りだろうか。言葉が喉の奥からどんどん溢れてやってくる。これでは、いくら話しても話したりない気がした。
けれども、それにも限界があるというもので、ある話題を話し終わったところで一息ついてしまう。
少しだけ空間が沈黙する。その場の空気が切れてしまった。
その空気の変わり目を見て、父は思い立ったように口を開いた。
「あの、芳香って子。良い子だな」
「え……うん」
自分でも、驚くほど狼狽するのが分かった。思わず俯いてしまう。
芳香の事なんて……今は、どうでもいいじゃない。
私は慌てて話題を変えようとする。しかし、父は私の言葉に被せるように言った。
「あの子。青娥が作ったんだってな。良い子だよ、本当。
でもこの頃、あの子を避けているんだって?」
父がこちらに視線を向けるのが分かった。
なんで、芳香の事を。芳香の事は、今関係ないじゃない……。
「どうでも、いいでしょ。そんなこと」
「……」
それから再び沈黙が部屋を支配した。
横にいる父を、悟られないように窺う。父は上を向いて、何か考え事をしているようだった。
少し経って、父は話し出した。
「千年以上前になるかな。仙人になる前の話なんだけどさ、俺、結婚してたんだ。可愛い子どももいた」
「?」
何を話し出すのだろう。
意図が掴めず、父の話に耳を傾ける。
「ある日さ、友人の伝でちょっとした道術を教えてもらったんだ。簡単なやつ。
それを見せるとさ、俺の子さ、すごく道術を気に入ってくれてな。すごく喜んでくれた。誰でもできるような道術をだよ? 俺、すごい嬉しかったの覚えてる。
だから俺さ、その子を喜ばせようと道教の勉強をたくさんし始めたんだ」
「……」
父は、何も言わない私を見て肩を竦める。
「続けてもいいかな。
でも、元々凝り性だったのがいけなかったのかな。その内、その子を喜ばす事よりも道教そのものにハマっていったんだ。妻も子も、家族ほったらかしてさ。ずっと研究ばっかだった」
最低な父親だろ。父は乾いた笑いを浮かべる。
「……気付けば、家族にどう接していいのか分かんなくなってた。
たまに妻とその子が笑いかけて来てもさ、俺今までどんな風に接していたんだろう、ってさ」
父は再び上を向いて、震える声で続けた。
「そうなると自然に家族を避けるようになっていっちゃって。当然その逃げ道の先は道教。更にのめり込んでいったよ。
最終的にどうすればいいのか分かんなくなって、仙人になるっていう口実作って。
後は……。
最低だよ、俺」
上を向いた父から一筋の水滴が零れる。
父は肩を震わせ、歯を食いしばっている。
私は、父の袖をつまんだ。
「……私、お父さんと一緒に笑っていたかったんだよ?」
「青娥?」
お父さんはその濡れた目でこちらを見る。
「難しい事なんて、いらないよ。ただ、お父さんと、お母さんと、一緒に笑ってたかったんだよ」
私は力一杯唇を噛んでいた。
「……そっか。そっか」
お父さんは、泣きながら私を抱きしめてくれた。
気付けば、私も泣いていた。
それから二人して、静かに泣き続けた。
それから、どれほどの時間が経っただろう。
泣き止んだ私達は、特に何かを言うわけでもなく、ただ寄り添って座っていた。
こんなに落ち着いた気持ちになるのはいつ以来だろうか。何十年、何百年、いや、もしかしたら、それこそ父がいなくなって初めてなのかもしれない。
長く泣いていたからだろうか、父は少し掠れた声で口を開いた。
「青娥、そろそろあの子のところに行ってやり」
「……うん」
父から体を離す。
そろそろ芳香のところに行ってやらなきゃいけない。
大分前から、芳香がかなりのレベルで暴れていることは気の乱れから気付いていた。
流石の神子でも、ほんの少し疲弊気味なのが窺える。
私は立ち上がって、手鏡で自身を軽く整える。こういうのは大切だ。大人の女性の嗜みだ。
しかしながら、私が緊張しているのを見抜いたのだろう。父は私の頭に手を置いた。
「大丈夫だよ。本当にその子を愛しているなら、それでいいんだ。それなら、自ずと愛は子へと伝わるから」
……自分のネックは、最終的にはこれだったのだろう。
芳香への愛の伝え方が分からなかったから、自分はこんなに悩んでいたのだろう。
今まで曖昧に伝えていたそれの、親と子という明白な形が露呈したことが原因なのだろう。
大丈夫、愛は伝わる。父からこう言われて、私は何だか安心した気分になった。
でも何だかちょっぴり素直になれなくて、そっぽを向く。
「偉そうに。私達置いていなくなったくせに」
手痛いな。そう言って父は苦笑いした。
「だけどさ、約束は守れただろ? こうしてまた会えたじゃないか。
それに――」
そこまで言って、父は真面目な顔でこっちを見つめながら言った。
「俺のお前に対する愛は伝わらなかったか?」
「……」
……全くもう、何で男って奴はこんな気恥ずかしい言葉を惜しげもなく言えるんだ。
こっちの方が恥ずかしい。
「うっさい」
私は父に背を向けた。
それから、後ろで苦笑いしているであろう父に向かって、口を開いた。
「お父さん、ありがとう」
* * *
「――それでな、屠自古が恐ろしいのじゃ。彼奴な、我が砂糖を少々入れたからと悪いと怒って……いや、恐ろしくなんてない。怖くないぞ。全然、ホント。
ただ、砂糖と塩を間違えただけではないか。それだけで怒ることもなかろう? それでだな――」
あれから、数週間経った。
芳香との仲直りを果たしてから、私はいつも通りの日常を過ごしていた。
相変わらず布都ちゃんはよく屠自古ちゃんに怒られるし、屠自古ちゃんはいつも通り雷を振り回している。
神子ちゃんはクソ真面目に瞑想を繰り返し、時折里へ悟りを説きに行く。
そして、芳香はよく転ける。
本当、平和な日々を過ごしている。
「ね、布都ちゃん。屠自古ちゃんは真正の甘党だから怒っているの。お砂糖が足りなかったのよ」
「そ、そうなのか?」
「えぇ、違いないわ。だから今度は屠自古ちゃんの料理にたっぷりとお砂糖を入れてあげなさい? あの子も怒りを鎮めてくれるはずよ。
あら、今ちょうどお昼時。今から屠自古ちゃんの料理にお砂糖を入れて来なさいな」
「な、なるほど!」
布都ちゃんは大きく頷いた。私も満面の笑みで大きく頷いた。
「いやあ、助かった! ありがとう青娥殿!」
そう言うと布都ちゃんは意気揚々と部屋を出て行った。
それからしばらくして聞こえてきた屠自古ちゃんの怒声と布都ちゃんの悲鳴に私はくすくすと笑った。
そして、その悲鳴を引き継ぐようにして芳香が私の部屋を訪れた。
芳香は目をキラキラと輝かせ、私に石を見せつけた。
「み、見てくれせーが! き、綺麗な石をもってきたぞ!」
芳香が私に見せつけた石。正直言って、ただの石だ。
だけど、関節が(頭も)上手く回らないこの子にとって、地面に転がる石を取ってみせるというのは中々の快挙。
期待の眼差しをこちらに向ける芳香の頭を撫でてあげる。
「あらまぁ、頑張ったわね。芳香」
「う、うぉぉぉ! が、がんばったぞ!」
芳香は嬉しそうに飛び跳ねる。
笑顔で飛び回るこの子を見るとこちらも自然と笑顔になる。
……何のことはない。ただ、この子は一緒に楽しみを共有したかっただけなのだ。
一緒に、笑っていたかっただけなんだ。
難しく考えすぎちゃったのよね。
頭を横に振りながら、押入れを開ける。
この石どこにしまっちゃおうかしら。なんて思いながら押入れを見回す。
「あら?」
クリスマスの戦利品、そう書かれているダンボール箱。その上に一枚の紙切れが置いてあった。
これは……。
まだこんなところに置いてあったのか。思わず笑みが零れる。
私はそれをくしゃくしゃに丸めて、どこかに捨てようと押入れから身体を出した。
すると、神子ちゃんに誘われたのだろう。一体何の欲を持っているのか、一つの神霊が私の目の前を漂っていた。
「あらこんにちわ」
神霊に挨拶をする。返事のつもりだろうか。神霊はその場でゆらゆら揺れた。
しかし、未だに神子を求めてやってくる神霊がいるとは、流石の一言に尽きる。
神霊をぽんぽんと叩く。
やめて! という風に神霊は私から逃れていこうとする。
先ほどまで暴れていた芳香は、神霊の登場にしんと息を潜め、静まった。その姿はまるで獲物に狙いをつける獣のようだ。
「ふむ」
私は少し思案して、何の欲があって来たかは知らないが、その神霊を捕えた。
そして、その神霊を手にある紙に貼り付ける。
少々抵抗した神霊だが、その甲斐なくぴたりと貼り付けにされる。
私は芳香に振りむいた。
「じゃあ芳香、口を開けて」
「?? どうして?」
「ひみつ。はい、あーん」
「うむ。あーん」
疑問を顔に浮かべながらも、芳香は素直に口を開く。
私はその大きいお口に、欲の神霊付きの紙屑をぶち込んだ。
突然紙を口に入れられたこの子は目を白黒させる。
「も、もがが」
「ね、おいしいね?」
芳香は口から涎を垂らして、もごもご言っている。
私はそんな愛らしい芳香にウインク付きの最高の笑顔を向ける。
「よく、噛んで食べるのよ? かみだけにね」
さぁ、明日からも一緒に笑っていこう。
面白かったです。にゃんにゃんは外道なイメージがあったのでこう言うお話は新鮮に感じますね…。
待たせてすまないな同志よ。
春が終わって、冬とは真逆の季節になったら一度レティにアプローチしてみるよ。
確かに、青娥はそういう雰囲気を漂わせているイメージがあります。
だからこそ、と言うべきでしょうか。今回は敢えて青娥の“素”が出たようなお話を書いてみたかったんです。
『その子にとって貴女は親のような存在なのよ?』、という言葉が幼い頃に父親と別れた青娥を悩ませるという描写に説得力を持たせるところもよかった。
ありがとうございます。
神子の言葉から引き出された青娥のトラウマ。上手く表現できたみたいで良かったです。
とても楽しく読むことが出来たのですが、ただ一点だけ、
父親が千年以上生きているにも関わらずただの若いニーチャンみたいな話し方だったところだけが気になりました。
青娥なんかも1000年以上生きているのに若いネーチャンのようなイメージだったので、父親も同じようなキャラクターにしたのですが、違和感がありましたか……。
それはともかく、楽しんで頂けたのなら幸いです。青娥の意外な一面、書いていて楽しかったです。