「おかしいと思わない?」
朝。キジバトの鳴き声が遠くから聞こえる中、封獣ぬえは食卓でこう疑問を切り出した。
きょとんと皆が見つめる中、ぬえは隣の席を手でぺちぺち叩く。
そこは一輪の席であった。
命蓮寺では皆が揃うまで食事をとらず、一切手を付けてはいない。
誰が決めたのか、白蓮が言わずとも皆自然とそうしていた。
「こいつのことよ。一輪のこと」
「それはどういうことじゃ、ぬえ」
ぬえの反対側で腰掛けていたマミゾウが、首を傾げる。
最近命蓮寺に入門した二人だったが、ぬえは寺の面子とはソリが合わず苦労している。
そんな彼女が寺の一員である一輪のことを口にしたので、マミゾウとしては意外だったのだ。
そしてそれは、他の面々も同様であった。
一同目を丸くする中、視線に慣れていないぬえは照れながら言う。
「なんていうかさー、今朝廊下で一輪と通りすがったんだけど」
「ふむふむ」
「心なしか一輪が小さく見えたんだよねー」
どう思う? とぬえが皆を見渡す。
するとただ苦笑いをする者、よく分かっていない者、ぬえを訝しげに見る者と反応はそれぞれだった。
今度は村紗が、頬杖をつきながら尋ねる。
「それって身体的なこと? それとも概念的なこと?」
「身体的なことよ」
「でも、一輪さんっておっきいですよね。私よりずっと」
そう言ったのは端にちょこんと座っていた響子である。声が大きいのでどこにいてもはっきり聞こえるのだ。
一輪本人がいたら分かることなのだが、彼女は寺の中では背丈が高い。
白蓮、星に次いで三番目に大きい彼女は、彼女ら二人が居ないときにまとめ役を引き受けることが多かった。
背が高い。それだけの話でである。
「でも、私と同じくらいだったんだよ。正体不明は私だけでいいのに!」
「ぬえの見間違いではないのですか?」
「そんなことないよ、ホントに低かったんだもの」
「マミゾウさんが化かしたんじゃない?」
「いや、儂はしとらんぞ。ましてや雲山が近くにおるし、化けるには手間がかかるからの」
「やろうと思えば出来るの?」
「ほっほっほ。それはやってみんとちぃと分からんのう!」
因みに喋っているのは星、村紗、ぬえ、マミゾウである。
寺の面々は多い上に喋り方も似ているので区別が付けづらいのだ。
特に白蓮がいると敬語が多い。教えが行き届いているのは良いが、逆に個性が小さくなってしまっているのではないか。
「おなかがすいた」と言うだけでも候補が三人はいるという、致命的な弱点が命蓮寺にはあるのだ!
話が逸れた。
「ごめんなさい、少し遅れたわ」
ああでもないこうも違うと話していると、やがて話題の中心人物が現れた。
するといないところで勝手に盛り上がっていたためか、皆の視線が食卓へと向く。
白蓮だけが穏やかな表情を浮かべる中、一輪はぬえが叩いていた席に座った。
「何かあったのですか?」
「はい。托鉢がてら人里を回っていたところ、なにやら人だかりが出来ていたのです」
「それは面妖なことよ。まだ朝じゃぞ、騒ぐには早い」
「何やらええじゃないか、ええじゃないかとどんちゃん騒ぎで。人々も迷っているのね」
一輪が人里の異常に黙して考えていると、ぬえの視線が目に入った。
頭巾から足先まで、何かを測るような目線。
時折隅に置いてあった醤油立てと指で比べているが、一体何をしているのだろうか。
じろじろと見られる趣味は特に無かったので、一輪は適当に尋ねてみる。
「ぬえ、また悪戯でも企ててるの?」
「一輪、立って!」
「え?」
「すたんだっぷ、起立、げっとあーっぷ!」
ぬえの不可解な言動は置いておくとして、戸惑いながら一輪は立ち上がる。
意外と知られていないのだが、一輪は華奢である。
ゆったりとした服装なので意外に見えるかもしれないが、それは雲山がいるからである。
あのように筋骨隆々な親父が傍にいたら、自然と一輪もそう見えてしまうのだ。
そんな一輪の傍までぬえが近寄ると、後ろを向きぴとっとおしり同士をくっつけた。服越しではあるが。
「マミゾウ、どう!?」
「どうと言われてものう。最近目がとんと悪くなっていかん」
「じゃあ村紗でいいや。どっちが高いよ」
「何か私の扱い酷くない? どうみても一輪の方が高いでしょ」
張り切るぬえにはやや申し訳なかったが、少なくとも村紗の目には一輪が頭一つは大きいように見えた。
当たり前じゃない、と一笑に伏す村紗にかちんときたのか、ぬえは膨れっ面をする。
そして今度は響子へと問いかけた。
「響子はどう?」
「え? 勿論一輪さんの方が「復唱!」はいっ!?」
「ぬえの方が大きい!」
『ぬえの方が大きい!』
「ぬえの方が正体不明だ!」
『ぬえの方が正体不明だ!』
「ぬえ様は大妖怪で一番怖い存在である!」
『ぬえ様は大妖怪で一番怖い存在である?』
「どうよ」
「ぬえ、強要は良くありませんよ」
きらっと正体不明スマイルをするぬえを、白蓮がやんわりと窘めた。
とんだ自己満足に巻き込まれた一輪は、落ち着かない様子で事を見ていた。
背比べしている間もとんとんと靴のつま先で床を打っていたが、やがてぬえの方に振り返る。
「もういい? このままじゃお食事が冷めちゃうわよ」
「ぐぬぬ。いつか正体を見破ってやるからな!」
「自ら進んで正体をばらしている妖怪に言われたくはないわ」
「ぬえーん!?」
「それくらいにして、そろそろいただきましょう。今日は自信作なんですよっ」
むんと拳を握る白蓮に、食卓は再び和やかなムードに包まれた。
白蓮の号令で手を合わせてから、箸を動かし各々の口へと食べ物が運ばれる。
かちゃかちゃと食器が合わさる音を奏でながら、一輪は静かに食事を進めていく。
しかし、その心境は穏やかではなかった。
食事もまるで砂を噛むような感覚で、味が殆どしなかったのである。
精進料理だから味が薄いだけじゃない? という理由ではないということを付け加えておこう。
◆
「ふう」
食事も終わって、一輪は自室に戻ってきた。
彼女の部屋は実に質素なもので、机の上に写経セットが置かれていること以外何の面白味もない。
一輪は扉が閉まっているのをしっかり確認すると、綺麗に写経された巻物の下をめくる。
すると、その下から隠された新聞が出てきた。どれも古いものである。
それらにはこういったことが書かれていた。
『意中の人を手にするには身長差十五センチ!? 今すぐ出来る身長アップ術』
『五百歳からでも間に合う! あなただけに教えます、高身長のイロハ』
『彼岸の死神が遂に語った、イケてる女子のコツ「適度にストレスフリーな生活があたいをのびのびと成長させた」』
といった具合に、見事に眉唾物な売り文句しか書かれていない新聞である。
しかし、彼女にはこれらが頼りだった。もう待ちきれないのだ。急務なのだ。
今朝ぬえに見られていたという焦りが、一輪の肝を大いに冷やしていた。
「今日は少しどきっとさせられたわ。ねえ雲山」
一輪がそう呼ぶと、床から雄々しい親父の姿が現れる。
女子の部屋に親父が入るとは何事かと思われるかもしれないが、心配はいらない。
尼さんと見越入道という不思議な取り合わせは、この寺の中でも上位の固い絆で結ばれているのだ。
ともあれ出てきた雲山は一輪の足下まで太い腕を動かすと、するすると彼女の靴の下に溜めていた雲を寄せ集めた。
「ごめんね。辛くなかった?」
心配そうに声をかける一輪に、雲山は気にするなとばかりに首を横に振る。
そしてその一輪は、靴を履いていた時より一回りも二回りも小さくなっていた。
そう。命蓮寺内でも高い身長と言われていた彼女であったが、実は寺の中でも低い方なのである。
何故こうなるに至ったのか。その理由を簡単に説明しよう。
まず彼女は、身長がてんで伸びないタイプであった。
それも今までずっと伸びていないのである。白蓮が封印されてから復活するまでの間までも、一輪は身長が変わっていなかったのだ。
確かに成長はしているのだ。顔立ちも幼さが抜け、少女らしい顔へと生まれ変わった。
だが、背が伸びない。顔が変わっても、背は伸びない。
一輪は大いに悩んだ。
牛乳を飲んだり、つま先で立って伸びろ伸びろと念じたこともあったし、雲山に伸ばして貰おうとしたこともあった。
しかし、ノッポになるが良いか? という注意を聞かされると、一輪は泣く泣く断念せざるを得なかった。
ある日のことである。
一輪が地底で背伸びの祈祷をしていると、古い紙切れが落ちてきた。
『誤魔化してはいない、これが私のオモテの身長! 魅惑のハイヒール特集!』
一輪の記憶の中ではそう書かれていたと記憶している。
とにかく、彼女はその煤けた紙を文字通り穴が開くまで読んだ。
『あなたは背が伸びないことを悩んでいませんか』という質問に、こくこくと大きく頷いたり。
『後五センチ、いや十センチ欲しいと思ったあなたにこそ捧げる!』という売り文句におおっと目を輝かせたり。
『これさえあれば意中のあの人も振り向くこと間違いなし!』という決め台詞に感動して涙を流したこともあった。
これは神様、いや聖の贈り物なんだと信じてやまなかった一輪は、教えに従おうとした。
しかし、どうやらハイヒールという靴は地底には無かったらしい。
一番の活気に満ちた旧都では専ら下駄が普及しており、どれも一輪の望むものではなかったのだ。
「おお、聖よ! あなたは確かに教えをくださった、しかし私に諦めろと地底が、地の唸りが囁いてくるのです!」
そう嘆く一輪を、誰かが後ろからそっと抱いた。
雲山である。
一輪の甲斐甲斐しい努力を不憫に思っていた雲山は、一輪の元々履いていた靴の下に自らの雲をちぎって敷き詰め、ハイヒールの代わりとしたのである。
こうして鏡を見た一輪は大いに喜び、また雲山と共にいることを決めた。故に二人は一心同体なのである。
ここで話は現在へと戻る。
「はあ。どうしようかしら、もう誰もが気にしていないと思ったのだけど」
白蓮が復活し、かつての顔ぶれも揃い、さらに新しい入門者が増える今日。
一輪は自分が今まで身長を誤魔化してきたことを、実に千年程忘れてしまっていた。
雲山がむうと唸る中、一輪は香箱からかつての古い紙切れを取り出す。
今まで大切に保存してきたものだったが、時代は移ろうもの。文字の大半が風化しもう読めなくなってしまっていた。
「ねえ雲山、私間違ってるのかな。……そう、優しい人」
自信なさげにそう言う一輪に、雲山はそうだと頷くことは出来なかった。
一輪を隣で見てきた彼は、並々ならぬ努力をしてきた彼女を知っていた。故に否定することは残酷だと判断したのだ。
本当は一輪も分かっていた。あまりにも幼稚なことだと。子供っぽい理由だと。
しかし、白蓮や星に次ぐ第三のまとめ役としてやってきた一輪には、僅かながらプライドが存在していて。
そのちっぽけな物を必死に守り続けているなんて、と一輪は鼻で笑う。
いつからこんな自分になった?
「さ、そろそろ行くわよ。大丈夫、今までと同じだから」
そんな弱い自分を首を振って払うと、一輪は橙と黒の袈裟を身に纏う。
今までの殊勲として白蓮から貰ったそれは、今の自分にとって重いものなのかもしれない。
この袈裟を貰う際足下まで伸ばしましょうかと提案され、慌てて断ったのだが。
それもまた、良い思い出として残していけるだろう。
再び靴を履き、雲山に雲を敷き詰めて貰う。これがオモテの強い一輪なのだ。
ウラの弱い一輪は、出してはならない。
「うーっ、悔しい! 絶対に正体暴いてやるっ!」
そんな一輪の決意もつゆ知らず、ぬえは文句を垂れながら廊下を歩いていた。
妖怪の中でも力が強く、平安京の悪夢と呼ばれた自分の目が悪いはずがない。そう信じてやまなかった。
彼女自身忘れかけていたことなのだが、電気といった高度な技術などなく行灯や篝火しかなかった時代でも視界良好だった。
そんな自分が見間違いと一蹴されたことに、ぬえは腹を立てていたのである。
「ぬふふ。この正体不明の種で一泡吹かせてやろっと」
ぬひひひと奇妙な笑い方をしながら、ぬえは抜き足差し足で一輪の部屋まで忍び寄っていた。
飛べば良いのに、という意見は控えて貰いたい。隠密行動のロマンなのである。
ぬえの作戦としてはこうである。
まず扉につけた正体不明の種を発動させ、今一輪が一番見たくないものへと変化させる。
ぬえの検討としては、彼女が今一番やられて困るのは靴。恐らく足もと周りが変化することだろう。
その際に乗じて靴を調べる。あわよくば盗もうという魂胆なのだ。
妖怪らしからぬその作戦は、果たして成功するのだろうか。
ぬえが扉の前に到達し、いざ種をつけようとした瞬間。
すぱんと扉が開き、一輪と雲山が目の前に現れてしまった。
完全に説明の無駄である。
「あら、ぬえ。……む」
「げ」
「げじゃないでしょ、今何しようとしてたの」
「い、いひゃいいひゃい! ぬひぇーん! 頬ひっぱらにゃいでー!?」
◆
ぬえを軽く揉んでやった一輪は、外に出て説法してまわろうと考えていた。
しかしそんな矢先、とってつけられたように問題が押し寄せてくる。
外に出た一輪にもふという音とともに、誰かが胸元へと飛び込んで来た。
響子である。
「うわーん! いっちりんさあぁあああん!!」
「響子ちゃん、もう少し音量下げて」
「え、あ、はい! そうでした、助けてほしいんですっ!」
一輪は周りを何度か見渡し、参拝客がいないことに安堵した。
そして何事かと聞くと、響子は涙ながらに敷地内の大きな木を指さしてくる。
その木のてっぺんの方に、ぶらんと彼女がいつも持っている箒がぶらさがっているのが目に入った。
一輪はひとまず彼女を落ち着かせようと、響子の頭を撫でる。
響子はたちまち頬を緩ませると、泣き笑いの状態でえへと一輪を見上げてきた。
少し心が揺れたのは内緒である。
「あれくらいなら飛んで行けば良いじゃないの?」
「私もそう思ったんですけど……あれ見てくださいっ、箒の下!」
「下? ……何かしらあれ、下着?」
「しっ、下着なんて吊してませんよ!? 一輪さん分かりませんか、箒の下に大きな怖い蛇が睨みつけてくるんですー!」
うわーんと再び大声で泣き始めた響子を、突然雲山が包み込んだ。
雲山の中は厳つい見た目に反して綿菓子のように柔らかく、人里の子供達に人気なのだ。
彼女が入道屋をやっていけるのも、雲山のお陰なのである。
一輪はリングを動かすと、雲山に響子を優しく抱きしめさせた。
響子はあ、と一言だけ漏らすと、とろんとした目で雲山にしなだれた。犬耳と尻尾が力無く垂れている。
そんな響子の様子を確認した一輪は、改めて目標の箒を見る。
そして、顔を青くさせた。
「私の目には下着にしか見えないのだけど……って、あれもしかして」
響子の言っていた木の下、そこでひらひら舞っていた白いもの。
二つあったそれは、一つが褌で、一つがさらしである。
まるでのぼりの旗のように風に靡いていた下着達に対し、今度は顔を赤くした一輪は電光石火の速さで飛び上がって叫んだ。
「なんで私のがあんなところにあるのよー!?」
そう、あれは紛れも無く一輪の下着である。
まさか、洗濯の時に誤って飛ばされたのか。
そんな些細なことを考える余裕は、彼女には無かった。
一輪は一直線に木に向かうと、手頃な枝に着地し下着を手早く回収する。
そしてそれらを急ぎ服の下に仕舞うと、彼女はようやく一息つくことが出来た。
「だ、誰にも見られていないでしょうね……」
そんな独り言を漏らしつつ、一輪は折角ここまで来た手前ということで、響子の箒も回収しようと手を伸ばした。
しかし、後少しのところで届かない。
ハイヒール込みでも届かない事実に、一輪はちょっと虚しくなった。
だが悲しんではいられない。そう思い立ち、ならば場所を変えればと近くの先程より細い枝へと飛び移る。
今度の位置は、目と鼻の先。ここなら届くだろうと思った矢先、悲劇が彼女を襲った。
ぱき。
「――ッ!?」
「一輪さんっ!」
飛び乗られた枝が衝撃に耐えられず、へし折れてしまったのだ。
これには雲山の中でまったりしていた響子も、驚愕に目を見開く。
そして落ちる一輪を慌てて受け止めようとするが、雲山が手で制する。
どうしてと尻尾を立てる響子に対し、雲山は無言で一輪を見ていた。
雲山の後を追うように、響子も目線を追って。そして、固唾を飲んだ。
「く、雲が……靴から伸びてる!?」
そう。先程落下していた一輪が、今では無事に箒まで到達していたのだ。
命蓮寺の敷石に落ちた彼女の靴から木のてっぺんまで伸びた雲が、確認を容易にしていた。
ハイヒールとして靴の下に敷き詰めていた雲を、雲山が力技で一気に伸ばしたのだ。
今回は緊急事態ということでそうしたが、雲が伸びきっているため今の一輪は背が低い状態である。
しかし高所での作業中であったため、響子には遠目にしか見えなかった。故にバレてはいないのだ。
箒を取った一輪は、響子にも見えるように笑顔で何度か手を振る。
響子はそれを確認すると、忽ち大きな目からぶわと涙があふれ、大きく手を振り返すのだった。
「さ、取ってきてやったわよ。……あら、どうしたの?」
雲山の元まで凱旋帰還した一輪が、箒を響子に差しだそうとする。
だが響子の様子がおかしい。歯をかちかちとならし、震える指で一輪を指さしていた。
「い、一輪さん。蛇が、蛇が服の中でもぞもぞしてますううぅうっ!!」
「えっちょっとやだっ、そんなわけないでしょっ!?」
響子からの指摘を聞いた一輪は、服をまさぐって出そうとする。
すると、ぽすと一輪の下着が地べたに落ちた。
それを見ていた響子は短い悲鳴をあげると、腰を抜かしたのかへなへなと座り込んでしまった。
「いやーっ! 蛇、へび嫌いですっ! 神代大蛇が襲ってくるうぅぅ!!」
「え? ちょっと響子、これ私の下着……」
まさか褌やさらしが大蛇に見えたわけではないだろうな。
そんなにサイズ、大きいかな?
内心そう傷つきそうになっていた一輪が、下着類を手に取る。一輪が大蛇を持ち上げるという大胆な行動に、響子はびくぅと身を竦ませた。
そしてその時、ぽろと何かが落ちた。
ころんころんとその何かが転がると、響子の視界から大蛇は消えてしまった。
「え、あれ? 大蛇は?」
「だからこれは私の下着……あら、これは」
「なんですかこれ? 種?」
一輪の目線に気づいた響子が、床を転がったものを拾い上げる。
それは、正体不明の種だった。
種は響子の手の中に収まると、すうとかき消えてしまった。
響子がえ、あれと手を何度も握ると、一輪が寺の中に入ろうとしているのを見つけ、声をかけた。
「い、一輪さん?」
「ふふ、響子ちゃん」
「は、はい!」
「ちょっと犯人懲らしめてくるわ」
後に響子はこう語る。
あの時の一輪の背中から、幽鬼のようなオーラがもうもうと出ていたと。
そのあまりの迫力に、思わず少しちびってしまったということも追記しておこう。
◆
予定していた説法行脚を取りやめ、一輪は寺の中へと戻ってきた。
目をしっかり凝らし、ぬえがいつ出てもいいように警戒する。
ひとまず周辺にはいないことを確認すると、そういえばと一輪は雲山に声をかける。
「大丈夫、雲山? 無理をさせてしまったわね」
雲山は首を振ると、一輪に向かって髭面を緩ませた。
しかし一輪は見逃さなかった。その穏やかな笑みの上で、一筋の汗が流れていたことに。
靴の底の僅かな雲をあそこまで膨張させたことで、大きな負担をかけたのは間違いない。
そして彼はその疲れを響子の前では一切見せず、気丈な親父として振る舞い響子をあやし続けていたのである。
そんな雲山を、一輪は一言労った。
「あなたは本当に、優しい人」
愚直な時代親父は、その言葉で満足したのだろう。雲を拡散させぬえの居場所を探した。
また負担をかける行動だが、一輪は言及しない。
例え彼女がやめろと命じても、やめないことは分かっていたからだ。
彼のすることは、全て一輪のためを思った行動なのだから。
さて、一輪が戻ったことで、寺の番をしていた村紗が首をかしげながら歩いてきた。
「あ、一輪。出かけたんじゃなかったの?」
「少しね。悪ふざけをしたぬえを退治しないといけないの」
「また? ぬえももうちょっと正直になればいいのに」
そう笑う村紗に、一輪は小さな罪悪感を覚えた。
自分も背が低いことを誤魔化している。
いや、誤魔化しているのではない。自分と向き合えていないのだ。
遠い意味では、一輪もぬえと同じ。
素直になれず寺に馴染めないぬえのことを思うと、ちっぽけな同情の心が芽生える。
しかし先程のぬえの悪戯を思いだすと、瞬く間に芽は握りつぶされた。
芽は若い内に摘め、である。
「私も一緒に探そっか。ここの構造なら何でも知ってるから」
「そうね、お願いしようかしら」
合点と村紗が右手で敬礼をすると、一輪はくすっと笑う。
地底に封印された頃からずっとこの敬礼を、一輪は見てきた。
頼みごとをする時、勇気づけようとしてくれた時、聖輦船を地底から発進させる号令の時。
村紗はそんな時いつも敬礼をして、皆を励ます強いキャプテンとして指令を飛ばした。
そして、一輪もその中の一人だった。彼女の敬礼を見ると安心するのである。
「な、何か変かな」
「そんなことはないわよ、船長さん」
つんと指で帽子を押すと、村紗は黙って頬を染める。
そんな仲睦まじいことをしていると、雲山が戻ってきた。
一輪はぬえの居場所を聞き、ふむと一つ唸る。
予想外の場所だったからだ。
「ぬえ、どこにいるって?」
「星や聖と一緒に、聖堂にいるそうよ」
「聖堂? どうしてまた」
その場所を村紗に教えると、彼女も目を丸くした。
普段からぬえは聖堂に入ろうとしなかったからである。
本来、妖怪として入るべき場所じゃないと毛嫌いしていたのだ。
白蓮もぬえが入らないことに強要はしなかったが、代わりに自室で写経をさせたりしている。
だが、そのぬえが聖堂にいるというのだ。
「あいつ、改心アピールのつもりかしら」
「どうだろう……。でもさ、もしそうなら良かったんじゃない?」
「そうね。ま、行ってみれば分かるでしょ」
その真相を知るため、一輪は村紗と聖堂へ向かうことにした。
◆
「失礼します」
「失礼しまーす」
聖堂までは特に何の妨害も無く、二人が扉を開けると白蓮と星、そしてぬえが振り返った。
「あら、二人ともどうしたの?」
「姐さん。ぬえがここにいるだなんて、どういう風の吹き回しですか?」
「ああ、そのことですか。……この子も何か思うところがあるのではないでしょうか」
穏やかな微笑を湛えた白蓮の横で、ぬえがそっぽを向いた。
しかし、逃げはせずそのまま経に目を通している。一輪と村紗からすれば、何とも奇妙な光景である。
ともあれ、したことはきっちり反省してもらうと決めていた一輪は、事情を説明しぬえを外に連れ出した。
さすがに自分の下着が木に靡いていたという説明はしなかったのだが。
聖堂を出て、大きな広場まで無言で歩いていた三人だったが、一輪がぽつぽつと話し始めた。
小さなぬえの影が揺れ、地面に大きな影を作っている。
「それで、どうしてあんなことしたのよ」
「……一輪に振り向いて欲しかったから」
「え?」
「だって! 一輪は寺の中で一番頑張ってるでしょ。だから、その」
ぬえはそこまで言うと、指同士を擦り合わせて照れた。
事情を知らなかった村紗は一輪を見て、そういうことかと心の中で納得して二人を祝福する。
一方の一輪は、ぬえへの不信感を拭えずにいた。
「あら、二人ともそういう関係だったの?」
「い、いいえ。たった今聞かされたことなんだけど」
「そうだったんだ。ふーん」
そう言ったきり、村紗はなま暖かい目で再び一輪達を見つめた。
その目に映っているのは祝福の鐘か、はたまた聖輦船による遊覧ハネムーンか。
夢見がちな船長は置いておくとして、突然の告白に焦りを隠せない一輪は先程の件で攻めることにした。
「そう言ってくれるのはありがたいけど、さっきのことは忘れてないわよ」
「え、何のこと?」
「とぼけてもダメよ。響子ちゃんは泣いちゃうし雲山も疲れていたし、他人に迷惑をかけたの」
「……うん」
「だからぬえがどんな告白をしても、私は許してやらない。でもそうね、もし悪戯を二度としないで、姐さんの言うことをちゃんと聞くと約束したら考えてあげるわ」
「一輪、それは」
村紗が何かを言いかけたが、一輪が後ろ手で指を立て、指を何度か振る。
考えがあるらしいと判断した村紗は、喉まで出かかった言葉を引っ込めた。
ぬえは生粋の妖怪である。誰より悪戯が大好きで、やめろと言われてやめた試しは無かった。
彼女の生き甲斐といっても良い行為を、二度とさせない。
それは響子に山彦するな、一輪に雲山と一緒にいるな、村紗に聖輦船に乗るな、星にうっかりをするな、白蓮に平等の世界を望むなと言うのと同じくらい、辛いことなのだ。
そんな苦渋の選択に、ぬえはどうするのか。
「さあ、どうかしら。ちゃんと言うこと聞く? もう悪戯しない?」
「……ふふん。もう作戦は成功してるぞよ、一輪よ」
「何っ?」
ぬえは一輪の問いかけに、こう鼻で笑って見せた。
不適な笑みで威圧するぬえに、一輪は慌てて足元を見る。
だが特に異常は無かった。背格好も高いままだ。
代わりに一輪の隣から、村紗の素っ頓狂な声が聞こえて来た。
「うひゃああっ!? あ、あれ? 私の靴は?」
つるっと転んだらしい村紗が、自分の素足を見てきょとんとする。
ではその靴はどこにいったのかというと、ぬえの手の中に移動していた。
ぬえはくるくると靴を回すと、あちこち調べる。
その間一輪はというと、ぽかんと口が半開きになっていた。
「ぱっと見て何も変わらないんだけど……何を見てほしいのやら」
「ちょ、ちょっとぬえっ、私の靴返して」
「別に厚底にしてるわけでもなし、変わったことといえば靴から磯の香りがするくらいよ。懐かしいのお」
「いやあああっ!! それは言わないでえぇえええっ!?」
「ほっほっほっほ!」
ぬえが指を靴の中に突っ込んだり、中敷きを出したり、ひくひく鼻を動かし嗅いだりする中。
思いも寄らぬ形で秘密を暴露された村紗は、真っ赤になりながら石畳の上でのたうち回っていた。
そんな光景が繰り広げられる中、肩透かしを喰らった一輪は半目で二人を見ていて。
さっさとこの茶番を終わらせようと、ぺしとぬえを叩く。
すると一輪の叩いたところから、はらりと大きな葉っぱが落ちていった。
「ほら、もうばれてますよ。マミゾウさん」
「あたっ。これ、少しは年寄りをいたわらんか」
「私を騙そうとしたみたいだけど、詰めが甘かったようね」
「おろ、もしや一輪の靴を見ないといかなんだか。これはやってしまったのお!」
かっかっか、と大笑いするマミゾウに、一輪は怒る気力も無くしてしまった。
大方ぬえがマミゾウに頼んで、靴をどうにか脱がしてやってほしいと指示したのだろう。
だが、どうやら情報伝達が上手くいってなかったらしい。
目標を一輪ではなく、たまたま傍にいた村紗に目をつけてしまったようだ。
単独で行っていれば間違いなく騙されていた以上、一輪は靴から磯の香りがする村紗に感謝するのだった。
「それで、ぬえはどこに」
「ふむぅ、黙っていちゃいかんか?」
「ダメです」
「そうじゃろうな。ま、ばれては仕方がない。あやつは今頃離れの小屋で儂の報告を楽しみに待っているじゃろうて」
マミゾウが言うには、寺の離れにある物置小屋に潜んでいるらしい。
情報を得た一輪は雲山で偵察すると、確かにぬえがいることを確認した。
さすがにこれ以上騙す必要も無いのだろう。彼女もぬえに頼まれただけなのだから。
「ひっく、ひっく……船長が地べたに足をつけてしまいました。もうお船に乗れないよお……!」
「ところで村紗はどうするんじゃ。もの凄いしょっくを受けているようなんじゃが」
「マミゾウさんに任せるわ。私はこれからぬえをシバきにいってくるから」
「乱暴じゃのう。まあよい、儂に任せておけ。これから村紗に磯の良さを教えてやらんとな!」
マミゾウはそう言うと、わんわん泣きじゃくっている村紗をおんぶして本殿へと戻っていった。
これでもう一安心だろうと踏んだ一輪は、早速大空へと飛び上がり物置へと向かう。
もしかしたら何か策があるのかもしれないと、雲山を近くに纏いながら。
◆
命蓮寺の物置は、普段あまり使われてはいない。
大事なものは本殿にある上、一番重要であるはずの宝塔は定期的に謎の消失をする以上、利用する必要がないのである。
ここから離れて住むと宣言したナズーリンに対し、白蓮がここに住んだら如何でしょうと提案したこともあった。
勿論丁重に断られたのだが、それ以来一輪も物置には入った覚えが無かった。
「ここね。ぬえがいる場所は」
雲山と目で合図をすると、一輪は扉に手をかけ静かに開けた。
薄い埃が空に舞う中、二人は奥の暗がりからもぞもぞと動く影を視認する。
そしてひょこと木箱から赤青の奇妙な羽が出てくると、喜色満面な顔をしたぬえがあっさり姿を現した。
「まーみぞっ! どうだった、げぇっ、一輪!」
「人の顔を見てそんな反応しないでほしいわね」
やれやれと頭を振ると、一輪はぬえのいる木箱まで歩み寄ろうとする。
しかし、鋭い刃が進む彼女の邪魔をした。ぬえの三叉槍である。
窮地におけるとっさの攻撃かと判断し、一輪は雲山の分厚い雲を身に纏う。
ぬえはそんな一輪を見て余裕を取り戻したのか、宙を浮き一輪の周りを回った。
「ひっひひ、一輪。その雲はホント立派だねえ」
「そう? 褒めるなら雲山に言ってあげて」
「ああ、立派だよ。立派な心の壁だ! 自分の弱い心を必死に守ろうとしていて、実に滑稽だよ!」
「……どういうことよ」
眉間に僅かに皺を寄せた一輪が、声色を低くする。
拳が出かかる雲山を停止させ、逆さまになったぬえと対峙した。
一方は怒り、一方は笑み。
互いの体から、じわじわと妖力が染み出ていた。
「私は正体不明の妖怪として、一輪に言っておきたいんだよ。自分の気持ちにウソをついていないかって」
「何かと思えば、そんな戯れ言」
「まあまあ聞きなよ、ひひひっ。一輪の心の闇がはっきり見えるんだ、理解不明の感情がね。私はそういうのが嫌いなんだぁ」
ぬえはそう笑うと、雲山の雲を手に取り啄むふりをした。
その中で一輪は、自分が知らないことを嫌うタイプか、とぬえを分析する。
どうやら秘密を抱えた存在を見ると、何としてでも正体を暴きたいらしい。
自分自身の正体を守るために、他人の全てを見たい。
道理にかなってはいるが、理解は出来なかった。
「ねえ一輪。言い方を変えてあげよっか」
「何?」
「尊敬する白蓮を騙し続ける気持ちはどう?」
ぬえがそう嘲った瞬間、雲山の拳がぬえの顔面を掠めた。
静かな物置にぴんとした空気が張りつめ、緊張する。
何重にも及ぶ雲山の雲に包まれた一輪の目に、怒りの感情が灯っていた。
「ひい怖い怖い。けひひっ!」
「姐さんは関係ない」
「そうかな? それじゃあどうして自分を欺くの。どうして等身大(ありのまま)の自分を見せようとしないの。どうして、どうして?」
くるくると三叉槍を回して笑うぬえに、一輪ははあと息をはいた。
もう話し合いでは通じないと判断したのだ。
一輪がリングを構えると、膨張した豪腕がぬえの周りを取り囲む。
そうこなくちゃ、とぬえは槍をかまえ直し、舌なめずりをして挑発した。
「私の正体を暴こうとして響子ちゃんや村紗を泣かせたぬえに、少し仕置きをしてやろうかしら!」
「え、ムラサ? ムラサがなんで……まあいいや。来なよ一輪、久しぶりに本気でやってやろうじゃない!」
互いの妖力が、強く交わった。
◆
「一輪さんから箒をとってきて貰ったし、お掃除お掃除!」
「精がでますね、響子」
「星さん! お掃除楽しいですよ、バックコーラスとして人間に悲鳴をあげてほしいくらいです!」
「あ、あはは。程々にお願いしますよ? 参拝者に聞かれたら困っちゃいますので」
「あ、すみませんっ! ついバンドでの癖が……わっひゃあああぁあっ!?」
「おっと。この妖気は……?」
その頃、突然物置から噴き出た激しい妖力に、庭掃除をしていた響子はつい隣にいた星に飛びついてしまった。
一方星は溢れる妖力を見て、直感的に二人が何をしているか察する。
その瞬間、星の眠れる感情に熱い火がくべられた。
彼女は眠れる激情家なのだ。
「あいつら、寺の中で……!」
「え、あの、星さん?」
「ちょっとすみません、近所迷惑なのでちょっと二人を黙らせに、いえ、止めてきますね!」
「は、はいぃ!」
響子は何度もこくこく頷くと、物置に向かって走っていく星を見送る。
おそるおそる彼女がいた敷石を見ると、見事なまでに粉々に砕けてしまっていた。
星の怒気に暫くがくがく震えていた響子だったが、緊急事態として勇気を振り絞り、星の後を追うのだった。
一方聖堂では、マミゾウ、村紗、白蓮が一斉に異変を感じ取っていた。
「それでのう、儂が磯の香りがする佐渡の砂浜を歩いておったらな、む?」
「ちょ、ちょっとやめてくださいよぉ! ……一輪、ぬえ?」
「あら、どうしたのかしら。ただ事ではないみたいですね」
ずずん、と何かが崩れる音が聞こえてくると、すぐさま白蓮が立ち上がり、妖気の立ちこめる物置の方へと急行する。
マミゾウも胡座の姿勢からゆったり立ち上がる中、村紗は二人の妖力を懐かしく感じていた。
この力は、村紗達が地底にいた頃よく感じていた。
一輪とぬえの、妖怪としての本性なのだ。
「ぬえのやつめ、煽りすぎるなと言うておったのに……ほんに、しょうがないやつよ。まあそこがかわいいんじゃが」
「え?」
「ほれ、行くぞ。儂らも見てこないとな」
「わ、分かりました!」
マミゾウはそう言い悠然とパイプをふかすと、村紗と一緒に聖堂から出ていった。
彼女は、ぬえのやったことを知っている。
今度こそ一輪の正体を暴いてやる、と鼻息荒く言っていたぬえの姿が思い出され、マミゾウはふっと不敵な笑みを浮かべた。
全ては、大目玉を喰らいそうな親友を助けるために。
◆
二人が闘った後の物置は、酷い有様となっていた。
元々大事な物は置いていなかったとはいえ、建物は半壊しており、木の破片が辺りに浮いている。
割れた木目から茶けた地面が見え隠れする中、一輪とぬえは白蓮含む皆の前で正座をしていた。
何故こうなったか説明する必要は無いだろう。
「二人とも、一体どうしてこのようなことを……」
白蓮がそう悲しげに目を伏せると、一輪の胸の奥がずきりと痛む。
かつて二度と姐さんに悲しい思いをさせないと誓った自分は、どこに行った。
今もこうして嘘を付き続ける必要が、本当にあるのか。
隣のぬえを見た。彼女もやりすぎたと思っているのか、しゅんと頭を下げていた。
「二人とも、怪我はない?」
「……いいえ」
「……うん」
「隠してはいけませんよ」
白蓮は一輪とぬえの傷んだ手をとると、優しく自身の手で包んだ。
一輪は癒されていく傷を見る中、自分の愚かさを呪っていた。
そうだ。この人はそういう人だ。
自分が傷つくより、他人が傷つくのを極端に恐れるのだ。
そんな強い彼女の奉仕の精神に、一輪は惹かれたのだ。
「……怒らないの?」
「ええ。頭ごなしに怒っても、何の得にもなりませんから」
「……そう」
言葉少なにぬえがそう言うと、ますます体を縮め込ませた。
ぬえは内心、白蓮に怒ってほしかった。
怒られた方が自分の罪が分かるし、何よりすっきりするから。
しかし、白蓮は決して怒らない。そのことは逆に、ぬえにとって重苦しいものとなってのし掛かる。
当然、一輪も同じ考えだった。
「一輪。何があったか、教えてくれる?」
「はい。……その前に、姐さんや皆に言わないといけないことがあるの」
一輪はそう言い、すっと立ち上がった。
目の前で悲しむ白蓮や寺の面々を見て、決心がついたのだ。
はっとぬえが見上げる中、一輪は自らの靴を脱ぎ捨てる。
その光景に、あっと村紗が一番に声をあげた。
靴を脱いだ一輪は、ぬえとほぼ同じ大きさだったのだ。
そして、その姿には見覚えがある。地底で一緒にいた頃と全く変わっていなかったから。
一輪は、改めて周りを見渡した。
驚きを隠せない皆の視線が、明らかに高く見える。
特に姐さん――白蓮は、一段と角度がついているようだった。
ざわざわと騒ぐ胸を抑えながら、一輪は白蓮を見上げて言う。
「これが本当の私なのです。ぬえは恐らく、この私が見たかったのでしょう」
「そういえば言っていましたね、ぬえ」
「う、うん。今朝、靴を脱いだ一輪がちっちゃいなって思って、どうしても真実を確かめたくて」
「そう、全てをひた隠しにしていた私が悪かったの。だから、ぬえは悪くなんかないわ」
「!」
一輪がそう言及すると、ぬえはしどろもどろになりながらも答える。
ぬえの見間違いではなかったということが、ここで証明されたのだ。
白蓮も封印されていた間、一輪達の成長までは確認出来なかった。故に知らなかった。
一輪の秘密を知っていたのは、雲山と昔の村紗だけだったのだ。
ぬえは自らの罪を被ろうとする一輪を見て、次にマミゾウを見る。
そして、すぐに進言した。
この時はぬえも、自分に嘘をつきたくなかった。
「ちがっ、違うよ! 私が悪いんだっ、一輪の秘密を知りたいからって、響子や村紗を泣かしてしまったんだ!」
「そうだったのですか、二人とも?」
「え、えっと……はい」
「う、うん」
白蓮の問いかけに村紗と響子は正直に言っていいのか迷ったが、ぬえの鋭い視線に頷くことしか出来なかった。
彼女の瞳に後悔の色が浮かんでいたのである。
白蓮は被害にあった二人が怪我をしていないと判断した後、一輪達に向きなおった。
「一輪が知られたくないことを、無理矢理知ろうとした。だから私の方が悪いの!」
「そうでしたか……」
白蓮は二人の話を頷きながら聞いていたが、今度はしっかりと二人を見て。
優しく微笑みながら、二人を抱き寄せた。
「二人とも、よく言ってくれました」
白蓮から漂う香の香りが、一輪の鼻を擽る。
一瞬何が起こったか分からなかったが、やがて白蓮に抱かれていると分かり、涙腺が緩んだ。
自らを守っていた心の壁が溶けていく気がして、一輪は手を伸ばして白蓮にしがみつくように抱きついた。
溶ける。今まで言えなかったことが、次々と言葉となって出る。
「姐さん、私は」
「ええ」
「姐さんに少しでも近づきたいと思って、せめて背だけでも一緒になりたかった」
「一輪」
「同じ目線で、同じように、っ、姐さんの道を歩みたかったのに、それで自分を偽ってしまって……」
「一輪、同じ目線に立とうとすることは良いことかもしれません。でも、私のようになる必要はないの」
「……はい」
「一輪は一輪の思うようになって。そして、私が見逃したところを教えてほしいのです。同じ目線では見えないところも、注意深いあなたなら見つけられるのですから」
「はい、はいっ……!」
温かな白蓮の胸の中で、ぬえは安堵と共に落胆の表情を滲ませていた。
一輪はこれまで背負っていた荷が消え、心機一転して白蓮の元で活動するだろう。
だが、自分はどうだ。
寺の皆からも浮いた存在で、今でも馴染めずにいる。
毎回迷惑をかけて、その度に許されて。一体どうすればいいのか。
隣で喜びの涙を浮かべる一輪の横で、ぬえは誰にも聞こえないように口の中で舌を打つのだった。
◆
「それにしても、どうしましょうか」
「もう元通りってわけにはいかなさそうですよねー……」
三人の光景を微笑ましく見ていた皆であったが、ふと星と響子が周りを見渡す。
本殿が壊されなかったのは不幸中の幸いだったが、物置が無いと意外と困るのだ。
ひとまず片づけるのが先決だが、星の脳内でも最低数時間はかかると計算されていた。
から、と壷だったものを箒で片づけ始めた響子に、誰かが待ったをかける。
それは先程まで泣いていた一輪だった。
「大丈夫よ響子ちゃん、後はちゃんとやっておくから」
「え、でもお掃除しないといけませんし」
「いえ、今回は私達がやったことだから。ケジメをつけるためにやりたいの。いいよね、姐さん?」
「ええ。今回は一輪ちゃんに任せます」
「……え? あ、姐さん?」
「うふふ」
ちょっとどういうことですかっと白蓮に食ってかかる一輪だったが、白蓮は微笑んでいるばかり。
この光景を見ていた村紗も、懐かしさを込めてそう呼んでやることにした。
そういえば二人が出会った時も『村紗ちゃん』と『一輪ちゃん』だったのだから。
「いいじゃない、一輪ちゃん。何だか昔を思い出すよ」
「ちょ、ちょっと村紗まで」
「一輪ちゃん、頑張ってください!」
「響子ちゃんまで!?」
「それではお願いしますね、一輪ちゃん」
「星まで! や、やめてよー!」
靴の中の雲が無くなり小さくなった一輪を、皆が囲んではやし立てる。
中心にいた一輪は恥ずかしがりながらも、どこか憑き物が取れたような笑顔でいて。
それを離れでぽつんと眺めていたぬえが、瓦礫を蹴った。
そんなぬえの隣で、雲山とマミゾウがぷかぷかパイプをふかしている。
「ぬえ。どうかしたか?」
「マミゾウ」
「ほっほっほ。それにしても一輪ちゃんか、まるで新しい孫が出来たようじゃ!」
「それはいいんだけど、あの」
「ん、建て替えのことか? 心配するでない、儂の金でちょいと払えばすぐだからの」
「そ、それはありがと。でも……」
煮えきらない様子のぬえに、マミゾウははてと尻尾を丸くさせる。
ぬえがこういう態度をとるのは珍しいのだ。
それは悪戯を重ねてきた故に、細かいことを気にしてられなかったからか。
マミゾウはすぐには答えず、ぬえの言葉を待つ。
ぬえは暫く言いよどんでいたが、やがて顔を上げると一輪達を見てぽつりと呟いた。
「私は……やっぱり一輪の方が似合うと思う」
「そうか」
そう顔を赤らめるぬえに、マミゾウはかっかと笑い背中を押す。
急に押し出されたぬえはもたつきながら、一輪達の輪へと歩いていく。
途中頼りなさげに振り返った彼女に、マミゾウはくいと頭を上げ教えてやった。
まるで子に当然のことを教える親のように。
「それは、本人の前で言うてやれ」
マミゾウの指摘を聞いたぬえは、一度大きな目をぱちくりとさせる。
そしてようやく自信を得たような表情で、輪の中へと走り始めた。
勢いのあまり出っ張った石で転びかけたが、すんでのところで足を出し持ちこたえる。
輪の中へ弾丸のように飛び込んできたぬえに一同が驚く中、ぬえは一輪の手を掴んで言った。
「ほら、行くよ一輪! 片づけが終わんないでしょ!」
「え、ええ」
一輪はそうまくし立てるぬえに引っ張られ、瓦礫が溜まっている場所へと歩いていく。
途中ずんずんと進む彼女のスピードに追いつけず、一輪の靴がころんと脱げたのだった。
朝。キジバトの鳴き声が遠くから聞こえる中、封獣ぬえは食卓でこう疑問を切り出した。
きょとんと皆が見つめる中、ぬえは隣の席を手でぺちぺち叩く。
そこは一輪の席であった。
命蓮寺では皆が揃うまで食事をとらず、一切手を付けてはいない。
誰が決めたのか、白蓮が言わずとも皆自然とそうしていた。
「こいつのことよ。一輪のこと」
「それはどういうことじゃ、ぬえ」
ぬえの反対側で腰掛けていたマミゾウが、首を傾げる。
最近命蓮寺に入門した二人だったが、ぬえは寺の面子とはソリが合わず苦労している。
そんな彼女が寺の一員である一輪のことを口にしたので、マミゾウとしては意外だったのだ。
そしてそれは、他の面々も同様であった。
一同目を丸くする中、視線に慣れていないぬえは照れながら言う。
「なんていうかさー、今朝廊下で一輪と通りすがったんだけど」
「ふむふむ」
「心なしか一輪が小さく見えたんだよねー」
どう思う? とぬえが皆を見渡す。
するとただ苦笑いをする者、よく分かっていない者、ぬえを訝しげに見る者と反応はそれぞれだった。
今度は村紗が、頬杖をつきながら尋ねる。
「それって身体的なこと? それとも概念的なこと?」
「身体的なことよ」
「でも、一輪さんっておっきいですよね。私よりずっと」
そう言ったのは端にちょこんと座っていた響子である。声が大きいのでどこにいてもはっきり聞こえるのだ。
一輪本人がいたら分かることなのだが、彼女は寺の中では背丈が高い。
白蓮、星に次いで三番目に大きい彼女は、彼女ら二人が居ないときにまとめ役を引き受けることが多かった。
背が高い。それだけの話でである。
「でも、私と同じくらいだったんだよ。正体不明は私だけでいいのに!」
「ぬえの見間違いではないのですか?」
「そんなことないよ、ホントに低かったんだもの」
「マミゾウさんが化かしたんじゃない?」
「いや、儂はしとらんぞ。ましてや雲山が近くにおるし、化けるには手間がかかるからの」
「やろうと思えば出来るの?」
「ほっほっほ。それはやってみんとちぃと分からんのう!」
因みに喋っているのは星、村紗、ぬえ、マミゾウである。
寺の面々は多い上に喋り方も似ているので区別が付けづらいのだ。
特に白蓮がいると敬語が多い。教えが行き届いているのは良いが、逆に個性が小さくなってしまっているのではないか。
「おなかがすいた」と言うだけでも候補が三人はいるという、致命的な弱点が命蓮寺にはあるのだ!
話が逸れた。
「ごめんなさい、少し遅れたわ」
ああでもないこうも違うと話していると、やがて話題の中心人物が現れた。
するといないところで勝手に盛り上がっていたためか、皆の視線が食卓へと向く。
白蓮だけが穏やかな表情を浮かべる中、一輪はぬえが叩いていた席に座った。
「何かあったのですか?」
「はい。托鉢がてら人里を回っていたところ、なにやら人だかりが出来ていたのです」
「それは面妖なことよ。まだ朝じゃぞ、騒ぐには早い」
「何やらええじゃないか、ええじゃないかとどんちゃん騒ぎで。人々も迷っているのね」
一輪が人里の異常に黙して考えていると、ぬえの視線が目に入った。
頭巾から足先まで、何かを測るような目線。
時折隅に置いてあった醤油立てと指で比べているが、一体何をしているのだろうか。
じろじろと見られる趣味は特に無かったので、一輪は適当に尋ねてみる。
「ぬえ、また悪戯でも企ててるの?」
「一輪、立って!」
「え?」
「すたんだっぷ、起立、げっとあーっぷ!」
ぬえの不可解な言動は置いておくとして、戸惑いながら一輪は立ち上がる。
意外と知られていないのだが、一輪は華奢である。
ゆったりとした服装なので意外に見えるかもしれないが、それは雲山がいるからである。
あのように筋骨隆々な親父が傍にいたら、自然と一輪もそう見えてしまうのだ。
そんな一輪の傍までぬえが近寄ると、後ろを向きぴとっとおしり同士をくっつけた。服越しではあるが。
「マミゾウ、どう!?」
「どうと言われてものう。最近目がとんと悪くなっていかん」
「じゃあ村紗でいいや。どっちが高いよ」
「何か私の扱い酷くない? どうみても一輪の方が高いでしょ」
張り切るぬえにはやや申し訳なかったが、少なくとも村紗の目には一輪が頭一つは大きいように見えた。
当たり前じゃない、と一笑に伏す村紗にかちんときたのか、ぬえは膨れっ面をする。
そして今度は響子へと問いかけた。
「響子はどう?」
「え? 勿論一輪さんの方が「復唱!」はいっ!?」
「ぬえの方が大きい!」
『ぬえの方が大きい!』
「ぬえの方が正体不明だ!」
『ぬえの方が正体不明だ!』
「ぬえ様は大妖怪で一番怖い存在である!」
『ぬえ様は大妖怪で一番怖い存在である?』
「どうよ」
「ぬえ、強要は良くありませんよ」
きらっと正体不明スマイルをするぬえを、白蓮がやんわりと窘めた。
とんだ自己満足に巻き込まれた一輪は、落ち着かない様子で事を見ていた。
背比べしている間もとんとんと靴のつま先で床を打っていたが、やがてぬえの方に振り返る。
「もういい? このままじゃお食事が冷めちゃうわよ」
「ぐぬぬ。いつか正体を見破ってやるからな!」
「自ら進んで正体をばらしている妖怪に言われたくはないわ」
「ぬえーん!?」
「それくらいにして、そろそろいただきましょう。今日は自信作なんですよっ」
むんと拳を握る白蓮に、食卓は再び和やかなムードに包まれた。
白蓮の号令で手を合わせてから、箸を動かし各々の口へと食べ物が運ばれる。
かちゃかちゃと食器が合わさる音を奏でながら、一輪は静かに食事を進めていく。
しかし、その心境は穏やかではなかった。
食事もまるで砂を噛むような感覚で、味が殆どしなかったのである。
精進料理だから味が薄いだけじゃない? という理由ではないということを付け加えておこう。
◆
「ふう」
食事も終わって、一輪は自室に戻ってきた。
彼女の部屋は実に質素なもので、机の上に写経セットが置かれていること以外何の面白味もない。
一輪は扉が閉まっているのをしっかり確認すると、綺麗に写経された巻物の下をめくる。
すると、その下から隠された新聞が出てきた。どれも古いものである。
それらにはこういったことが書かれていた。
『意中の人を手にするには身長差十五センチ!? 今すぐ出来る身長アップ術』
『五百歳からでも間に合う! あなただけに教えます、高身長のイロハ』
『彼岸の死神が遂に語った、イケてる女子のコツ「適度にストレスフリーな生活があたいをのびのびと成長させた」』
といった具合に、見事に眉唾物な売り文句しか書かれていない新聞である。
しかし、彼女にはこれらが頼りだった。もう待ちきれないのだ。急務なのだ。
今朝ぬえに見られていたという焦りが、一輪の肝を大いに冷やしていた。
「今日は少しどきっとさせられたわ。ねえ雲山」
一輪がそう呼ぶと、床から雄々しい親父の姿が現れる。
女子の部屋に親父が入るとは何事かと思われるかもしれないが、心配はいらない。
尼さんと見越入道という不思議な取り合わせは、この寺の中でも上位の固い絆で結ばれているのだ。
ともあれ出てきた雲山は一輪の足下まで太い腕を動かすと、するすると彼女の靴の下に溜めていた雲を寄せ集めた。
「ごめんね。辛くなかった?」
心配そうに声をかける一輪に、雲山は気にするなとばかりに首を横に振る。
そしてその一輪は、靴を履いていた時より一回りも二回りも小さくなっていた。
そう。命蓮寺内でも高い身長と言われていた彼女であったが、実は寺の中でも低い方なのである。
何故こうなるに至ったのか。その理由を簡単に説明しよう。
まず彼女は、身長がてんで伸びないタイプであった。
それも今までずっと伸びていないのである。白蓮が封印されてから復活するまでの間までも、一輪は身長が変わっていなかったのだ。
確かに成長はしているのだ。顔立ちも幼さが抜け、少女らしい顔へと生まれ変わった。
だが、背が伸びない。顔が変わっても、背は伸びない。
一輪は大いに悩んだ。
牛乳を飲んだり、つま先で立って伸びろ伸びろと念じたこともあったし、雲山に伸ばして貰おうとしたこともあった。
しかし、ノッポになるが良いか? という注意を聞かされると、一輪は泣く泣く断念せざるを得なかった。
ある日のことである。
一輪が地底で背伸びの祈祷をしていると、古い紙切れが落ちてきた。
『誤魔化してはいない、これが私のオモテの身長! 魅惑のハイヒール特集!』
一輪の記憶の中ではそう書かれていたと記憶している。
とにかく、彼女はその煤けた紙を文字通り穴が開くまで読んだ。
『あなたは背が伸びないことを悩んでいませんか』という質問に、こくこくと大きく頷いたり。
『後五センチ、いや十センチ欲しいと思ったあなたにこそ捧げる!』という売り文句におおっと目を輝かせたり。
『これさえあれば意中のあの人も振り向くこと間違いなし!』という決め台詞に感動して涙を流したこともあった。
これは神様、いや聖の贈り物なんだと信じてやまなかった一輪は、教えに従おうとした。
しかし、どうやらハイヒールという靴は地底には無かったらしい。
一番の活気に満ちた旧都では専ら下駄が普及しており、どれも一輪の望むものではなかったのだ。
「おお、聖よ! あなたは確かに教えをくださった、しかし私に諦めろと地底が、地の唸りが囁いてくるのです!」
そう嘆く一輪を、誰かが後ろからそっと抱いた。
雲山である。
一輪の甲斐甲斐しい努力を不憫に思っていた雲山は、一輪の元々履いていた靴の下に自らの雲をちぎって敷き詰め、ハイヒールの代わりとしたのである。
こうして鏡を見た一輪は大いに喜び、また雲山と共にいることを決めた。故に二人は一心同体なのである。
ここで話は現在へと戻る。
「はあ。どうしようかしら、もう誰もが気にしていないと思ったのだけど」
白蓮が復活し、かつての顔ぶれも揃い、さらに新しい入門者が増える今日。
一輪は自分が今まで身長を誤魔化してきたことを、実に千年程忘れてしまっていた。
雲山がむうと唸る中、一輪は香箱からかつての古い紙切れを取り出す。
今まで大切に保存してきたものだったが、時代は移ろうもの。文字の大半が風化しもう読めなくなってしまっていた。
「ねえ雲山、私間違ってるのかな。……そう、優しい人」
自信なさげにそう言う一輪に、雲山はそうだと頷くことは出来なかった。
一輪を隣で見てきた彼は、並々ならぬ努力をしてきた彼女を知っていた。故に否定することは残酷だと判断したのだ。
本当は一輪も分かっていた。あまりにも幼稚なことだと。子供っぽい理由だと。
しかし、白蓮や星に次ぐ第三のまとめ役としてやってきた一輪には、僅かながらプライドが存在していて。
そのちっぽけな物を必死に守り続けているなんて、と一輪は鼻で笑う。
いつからこんな自分になった?
「さ、そろそろ行くわよ。大丈夫、今までと同じだから」
そんな弱い自分を首を振って払うと、一輪は橙と黒の袈裟を身に纏う。
今までの殊勲として白蓮から貰ったそれは、今の自分にとって重いものなのかもしれない。
この袈裟を貰う際足下まで伸ばしましょうかと提案され、慌てて断ったのだが。
それもまた、良い思い出として残していけるだろう。
再び靴を履き、雲山に雲を敷き詰めて貰う。これがオモテの強い一輪なのだ。
ウラの弱い一輪は、出してはならない。
「うーっ、悔しい! 絶対に正体暴いてやるっ!」
そんな一輪の決意もつゆ知らず、ぬえは文句を垂れながら廊下を歩いていた。
妖怪の中でも力が強く、平安京の悪夢と呼ばれた自分の目が悪いはずがない。そう信じてやまなかった。
彼女自身忘れかけていたことなのだが、電気といった高度な技術などなく行灯や篝火しかなかった時代でも視界良好だった。
そんな自分が見間違いと一蹴されたことに、ぬえは腹を立てていたのである。
「ぬふふ。この正体不明の種で一泡吹かせてやろっと」
ぬひひひと奇妙な笑い方をしながら、ぬえは抜き足差し足で一輪の部屋まで忍び寄っていた。
飛べば良いのに、という意見は控えて貰いたい。隠密行動のロマンなのである。
ぬえの作戦としてはこうである。
まず扉につけた正体不明の種を発動させ、今一輪が一番見たくないものへと変化させる。
ぬえの検討としては、彼女が今一番やられて困るのは靴。恐らく足もと周りが変化することだろう。
その際に乗じて靴を調べる。あわよくば盗もうという魂胆なのだ。
妖怪らしからぬその作戦は、果たして成功するのだろうか。
ぬえが扉の前に到達し、いざ種をつけようとした瞬間。
すぱんと扉が開き、一輪と雲山が目の前に現れてしまった。
完全に説明の無駄である。
「あら、ぬえ。……む」
「げ」
「げじゃないでしょ、今何しようとしてたの」
「い、いひゃいいひゃい! ぬひぇーん! 頬ひっぱらにゃいでー!?」
◆
ぬえを軽く揉んでやった一輪は、外に出て説法してまわろうと考えていた。
しかしそんな矢先、とってつけられたように問題が押し寄せてくる。
外に出た一輪にもふという音とともに、誰かが胸元へと飛び込んで来た。
響子である。
「うわーん! いっちりんさあぁあああん!!」
「響子ちゃん、もう少し音量下げて」
「え、あ、はい! そうでした、助けてほしいんですっ!」
一輪は周りを何度か見渡し、参拝客がいないことに安堵した。
そして何事かと聞くと、響子は涙ながらに敷地内の大きな木を指さしてくる。
その木のてっぺんの方に、ぶらんと彼女がいつも持っている箒がぶらさがっているのが目に入った。
一輪はひとまず彼女を落ち着かせようと、響子の頭を撫でる。
響子はたちまち頬を緩ませると、泣き笑いの状態でえへと一輪を見上げてきた。
少し心が揺れたのは内緒である。
「あれくらいなら飛んで行けば良いじゃないの?」
「私もそう思ったんですけど……あれ見てくださいっ、箒の下!」
「下? ……何かしらあれ、下着?」
「しっ、下着なんて吊してませんよ!? 一輪さん分かりませんか、箒の下に大きな怖い蛇が睨みつけてくるんですー!」
うわーんと再び大声で泣き始めた響子を、突然雲山が包み込んだ。
雲山の中は厳つい見た目に反して綿菓子のように柔らかく、人里の子供達に人気なのだ。
彼女が入道屋をやっていけるのも、雲山のお陰なのである。
一輪はリングを動かすと、雲山に響子を優しく抱きしめさせた。
響子はあ、と一言だけ漏らすと、とろんとした目で雲山にしなだれた。犬耳と尻尾が力無く垂れている。
そんな響子の様子を確認した一輪は、改めて目標の箒を見る。
そして、顔を青くさせた。
「私の目には下着にしか見えないのだけど……って、あれもしかして」
響子の言っていた木の下、そこでひらひら舞っていた白いもの。
二つあったそれは、一つが褌で、一つがさらしである。
まるでのぼりの旗のように風に靡いていた下着達に対し、今度は顔を赤くした一輪は電光石火の速さで飛び上がって叫んだ。
「なんで私のがあんなところにあるのよー!?」
そう、あれは紛れも無く一輪の下着である。
まさか、洗濯の時に誤って飛ばされたのか。
そんな些細なことを考える余裕は、彼女には無かった。
一輪は一直線に木に向かうと、手頃な枝に着地し下着を手早く回収する。
そしてそれらを急ぎ服の下に仕舞うと、彼女はようやく一息つくことが出来た。
「だ、誰にも見られていないでしょうね……」
そんな独り言を漏らしつつ、一輪は折角ここまで来た手前ということで、響子の箒も回収しようと手を伸ばした。
しかし、後少しのところで届かない。
ハイヒール込みでも届かない事実に、一輪はちょっと虚しくなった。
だが悲しんではいられない。そう思い立ち、ならば場所を変えればと近くの先程より細い枝へと飛び移る。
今度の位置は、目と鼻の先。ここなら届くだろうと思った矢先、悲劇が彼女を襲った。
ぱき。
「――ッ!?」
「一輪さんっ!」
飛び乗られた枝が衝撃に耐えられず、へし折れてしまったのだ。
これには雲山の中でまったりしていた響子も、驚愕に目を見開く。
そして落ちる一輪を慌てて受け止めようとするが、雲山が手で制する。
どうしてと尻尾を立てる響子に対し、雲山は無言で一輪を見ていた。
雲山の後を追うように、響子も目線を追って。そして、固唾を飲んだ。
「く、雲が……靴から伸びてる!?」
そう。先程落下していた一輪が、今では無事に箒まで到達していたのだ。
命蓮寺の敷石に落ちた彼女の靴から木のてっぺんまで伸びた雲が、確認を容易にしていた。
ハイヒールとして靴の下に敷き詰めていた雲を、雲山が力技で一気に伸ばしたのだ。
今回は緊急事態ということでそうしたが、雲が伸びきっているため今の一輪は背が低い状態である。
しかし高所での作業中であったため、響子には遠目にしか見えなかった。故にバレてはいないのだ。
箒を取った一輪は、響子にも見えるように笑顔で何度か手を振る。
響子はそれを確認すると、忽ち大きな目からぶわと涙があふれ、大きく手を振り返すのだった。
「さ、取ってきてやったわよ。……あら、どうしたの?」
雲山の元まで凱旋帰還した一輪が、箒を響子に差しだそうとする。
だが響子の様子がおかしい。歯をかちかちとならし、震える指で一輪を指さしていた。
「い、一輪さん。蛇が、蛇が服の中でもぞもぞしてますううぅうっ!!」
「えっちょっとやだっ、そんなわけないでしょっ!?」
響子からの指摘を聞いた一輪は、服をまさぐって出そうとする。
すると、ぽすと一輪の下着が地べたに落ちた。
それを見ていた響子は短い悲鳴をあげると、腰を抜かしたのかへなへなと座り込んでしまった。
「いやーっ! 蛇、へび嫌いですっ! 神代大蛇が襲ってくるうぅぅ!!」
「え? ちょっと響子、これ私の下着……」
まさか褌やさらしが大蛇に見えたわけではないだろうな。
そんなにサイズ、大きいかな?
内心そう傷つきそうになっていた一輪が、下着類を手に取る。一輪が大蛇を持ち上げるという大胆な行動に、響子はびくぅと身を竦ませた。
そしてその時、ぽろと何かが落ちた。
ころんころんとその何かが転がると、響子の視界から大蛇は消えてしまった。
「え、あれ? 大蛇は?」
「だからこれは私の下着……あら、これは」
「なんですかこれ? 種?」
一輪の目線に気づいた響子が、床を転がったものを拾い上げる。
それは、正体不明の種だった。
種は響子の手の中に収まると、すうとかき消えてしまった。
響子がえ、あれと手を何度も握ると、一輪が寺の中に入ろうとしているのを見つけ、声をかけた。
「い、一輪さん?」
「ふふ、響子ちゃん」
「は、はい!」
「ちょっと犯人懲らしめてくるわ」
後に響子はこう語る。
あの時の一輪の背中から、幽鬼のようなオーラがもうもうと出ていたと。
そのあまりの迫力に、思わず少しちびってしまったということも追記しておこう。
◆
予定していた説法行脚を取りやめ、一輪は寺の中へと戻ってきた。
目をしっかり凝らし、ぬえがいつ出てもいいように警戒する。
ひとまず周辺にはいないことを確認すると、そういえばと一輪は雲山に声をかける。
「大丈夫、雲山? 無理をさせてしまったわね」
雲山は首を振ると、一輪に向かって髭面を緩ませた。
しかし一輪は見逃さなかった。その穏やかな笑みの上で、一筋の汗が流れていたことに。
靴の底の僅かな雲をあそこまで膨張させたことで、大きな負担をかけたのは間違いない。
そして彼はその疲れを響子の前では一切見せず、気丈な親父として振る舞い響子をあやし続けていたのである。
そんな雲山を、一輪は一言労った。
「あなたは本当に、優しい人」
愚直な時代親父は、その言葉で満足したのだろう。雲を拡散させぬえの居場所を探した。
また負担をかける行動だが、一輪は言及しない。
例え彼女がやめろと命じても、やめないことは分かっていたからだ。
彼のすることは、全て一輪のためを思った行動なのだから。
さて、一輪が戻ったことで、寺の番をしていた村紗が首をかしげながら歩いてきた。
「あ、一輪。出かけたんじゃなかったの?」
「少しね。悪ふざけをしたぬえを退治しないといけないの」
「また? ぬえももうちょっと正直になればいいのに」
そう笑う村紗に、一輪は小さな罪悪感を覚えた。
自分も背が低いことを誤魔化している。
いや、誤魔化しているのではない。自分と向き合えていないのだ。
遠い意味では、一輪もぬえと同じ。
素直になれず寺に馴染めないぬえのことを思うと、ちっぽけな同情の心が芽生える。
しかし先程のぬえの悪戯を思いだすと、瞬く間に芽は握りつぶされた。
芽は若い内に摘め、である。
「私も一緒に探そっか。ここの構造なら何でも知ってるから」
「そうね、お願いしようかしら」
合点と村紗が右手で敬礼をすると、一輪はくすっと笑う。
地底に封印された頃からずっとこの敬礼を、一輪は見てきた。
頼みごとをする時、勇気づけようとしてくれた時、聖輦船を地底から発進させる号令の時。
村紗はそんな時いつも敬礼をして、皆を励ます強いキャプテンとして指令を飛ばした。
そして、一輪もその中の一人だった。彼女の敬礼を見ると安心するのである。
「な、何か変かな」
「そんなことはないわよ、船長さん」
つんと指で帽子を押すと、村紗は黙って頬を染める。
そんな仲睦まじいことをしていると、雲山が戻ってきた。
一輪はぬえの居場所を聞き、ふむと一つ唸る。
予想外の場所だったからだ。
「ぬえ、どこにいるって?」
「星や聖と一緒に、聖堂にいるそうよ」
「聖堂? どうしてまた」
その場所を村紗に教えると、彼女も目を丸くした。
普段からぬえは聖堂に入ろうとしなかったからである。
本来、妖怪として入るべき場所じゃないと毛嫌いしていたのだ。
白蓮もぬえが入らないことに強要はしなかったが、代わりに自室で写経をさせたりしている。
だが、そのぬえが聖堂にいるというのだ。
「あいつ、改心アピールのつもりかしら」
「どうだろう……。でもさ、もしそうなら良かったんじゃない?」
「そうね。ま、行ってみれば分かるでしょ」
その真相を知るため、一輪は村紗と聖堂へ向かうことにした。
◆
「失礼します」
「失礼しまーす」
聖堂までは特に何の妨害も無く、二人が扉を開けると白蓮と星、そしてぬえが振り返った。
「あら、二人ともどうしたの?」
「姐さん。ぬえがここにいるだなんて、どういう風の吹き回しですか?」
「ああ、そのことですか。……この子も何か思うところがあるのではないでしょうか」
穏やかな微笑を湛えた白蓮の横で、ぬえがそっぽを向いた。
しかし、逃げはせずそのまま経に目を通している。一輪と村紗からすれば、何とも奇妙な光景である。
ともあれ、したことはきっちり反省してもらうと決めていた一輪は、事情を説明しぬえを外に連れ出した。
さすがに自分の下着が木に靡いていたという説明はしなかったのだが。
聖堂を出て、大きな広場まで無言で歩いていた三人だったが、一輪がぽつぽつと話し始めた。
小さなぬえの影が揺れ、地面に大きな影を作っている。
「それで、どうしてあんなことしたのよ」
「……一輪に振り向いて欲しかったから」
「え?」
「だって! 一輪は寺の中で一番頑張ってるでしょ。だから、その」
ぬえはそこまで言うと、指同士を擦り合わせて照れた。
事情を知らなかった村紗は一輪を見て、そういうことかと心の中で納得して二人を祝福する。
一方の一輪は、ぬえへの不信感を拭えずにいた。
「あら、二人ともそういう関係だったの?」
「い、いいえ。たった今聞かされたことなんだけど」
「そうだったんだ。ふーん」
そう言ったきり、村紗はなま暖かい目で再び一輪達を見つめた。
その目に映っているのは祝福の鐘か、はたまた聖輦船による遊覧ハネムーンか。
夢見がちな船長は置いておくとして、突然の告白に焦りを隠せない一輪は先程の件で攻めることにした。
「そう言ってくれるのはありがたいけど、さっきのことは忘れてないわよ」
「え、何のこと?」
「とぼけてもダメよ。響子ちゃんは泣いちゃうし雲山も疲れていたし、他人に迷惑をかけたの」
「……うん」
「だからぬえがどんな告白をしても、私は許してやらない。でもそうね、もし悪戯を二度としないで、姐さんの言うことをちゃんと聞くと約束したら考えてあげるわ」
「一輪、それは」
村紗が何かを言いかけたが、一輪が後ろ手で指を立て、指を何度か振る。
考えがあるらしいと判断した村紗は、喉まで出かかった言葉を引っ込めた。
ぬえは生粋の妖怪である。誰より悪戯が大好きで、やめろと言われてやめた試しは無かった。
彼女の生き甲斐といっても良い行為を、二度とさせない。
それは響子に山彦するな、一輪に雲山と一緒にいるな、村紗に聖輦船に乗るな、星にうっかりをするな、白蓮に平等の世界を望むなと言うのと同じくらい、辛いことなのだ。
そんな苦渋の選択に、ぬえはどうするのか。
「さあ、どうかしら。ちゃんと言うこと聞く? もう悪戯しない?」
「……ふふん。もう作戦は成功してるぞよ、一輪よ」
「何っ?」
ぬえは一輪の問いかけに、こう鼻で笑って見せた。
不適な笑みで威圧するぬえに、一輪は慌てて足元を見る。
だが特に異常は無かった。背格好も高いままだ。
代わりに一輪の隣から、村紗の素っ頓狂な声が聞こえて来た。
「うひゃああっ!? あ、あれ? 私の靴は?」
つるっと転んだらしい村紗が、自分の素足を見てきょとんとする。
ではその靴はどこにいったのかというと、ぬえの手の中に移動していた。
ぬえはくるくると靴を回すと、あちこち調べる。
その間一輪はというと、ぽかんと口が半開きになっていた。
「ぱっと見て何も変わらないんだけど……何を見てほしいのやら」
「ちょ、ちょっとぬえっ、私の靴返して」
「別に厚底にしてるわけでもなし、変わったことといえば靴から磯の香りがするくらいよ。懐かしいのお」
「いやあああっ!! それは言わないでえぇえええっ!?」
「ほっほっほっほ!」
ぬえが指を靴の中に突っ込んだり、中敷きを出したり、ひくひく鼻を動かし嗅いだりする中。
思いも寄らぬ形で秘密を暴露された村紗は、真っ赤になりながら石畳の上でのたうち回っていた。
そんな光景が繰り広げられる中、肩透かしを喰らった一輪は半目で二人を見ていて。
さっさとこの茶番を終わらせようと、ぺしとぬえを叩く。
すると一輪の叩いたところから、はらりと大きな葉っぱが落ちていった。
「ほら、もうばれてますよ。マミゾウさん」
「あたっ。これ、少しは年寄りをいたわらんか」
「私を騙そうとしたみたいだけど、詰めが甘かったようね」
「おろ、もしや一輪の靴を見ないといかなんだか。これはやってしまったのお!」
かっかっか、と大笑いするマミゾウに、一輪は怒る気力も無くしてしまった。
大方ぬえがマミゾウに頼んで、靴をどうにか脱がしてやってほしいと指示したのだろう。
だが、どうやら情報伝達が上手くいってなかったらしい。
目標を一輪ではなく、たまたま傍にいた村紗に目をつけてしまったようだ。
単独で行っていれば間違いなく騙されていた以上、一輪は靴から磯の香りがする村紗に感謝するのだった。
「それで、ぬえはどこに」
「ふむぅ、黙っていちゃいかんか?」
「ダメです」
「そうじゃろうな。ま、ばれては仕方がない。あやつは今頃離れの小屋で儂の報告を楽しみに待っているじゃろうて」
マミゾウが言うには、寺の離れにある物置小屋に潜んでいるらしい。
情報を得た一輪は雲山で偵察すると、確かにぬえがいることを確認した。
さすがにこれ以上騙す必要も無いのだろう。彼女もぬえに頼まれただけなのだから。
「ひっく、ひっく……船長が地べたに足をつけてしまいました。もうお船に乗れないよお……!」
「ところで村紗はどうするんじゃ。もの凄いしょっくを受けているようなんじゃが」
「マミゾウさんに任せるわ。私はこれからぬえをシバきにいってくるから」
「乱暴じゃのう。まあよい、儂に任せておけ。これから村紗に磯の良さを教えてやらんとな!」
マミゾウはそう言うと、わんわん泣きじゃくっている村紗をおんぶして本殿へと戻っていった。
これでもう一安心だろうと踏んだ一輪は、早速大空へと飛び上がり物置へと向かう。
もしかしたら何か策があるのかもしれないと、雲山を近くに纏いながら。
◆
命蓮寺の物置は、普段あまり使われてはいない。
大事なものは本殿にある上、一番重要であるはずの宝塔は定期的に謎の消失をする以上、利用する必要がないのである。
ここから離れて住むと宣言したナズーリンに対し、白蓮がここに住んだら如何でしょうと提案したこともあった。
勿論丁重に断られたのだが、それ以来一輪も物置には入った覚えが無かった。
「ここね。ぬえがいる場所は」
雲山と目で合図をすると、一輪は扉に手をかけ静かに開けた。
薄い埃が空に舞う中、二人は奥の暗がりからもぞもぞと動く影を視認する。
そしてひょこと木箱から赤青の奇妙な羽が出てくると、喜色満面な顔をしたぬえがあっさり姿を現した。
「まーみぞっ! どうだった、げぇっ、一輪!」
「人の顔を見てそんな反応しないでほしいわね」
やれやれと頭を振ると、一輪はぬえのいる木箱まで歩み寄ろうとする。
しかし、鋭い刃が進む彼女の邪魔をした。ぬえの三叉槍である。
窮地におけるとっさの攻撃かと判断し、一輪は雲山の分厚い雲を身に纏う。
ぬえはそんな一輪を見て余裕を取り戻したのか、宙を浮き一輪の周りを回った。
「ひっひひ、一輪。その雲はホント立派だねえ」
「そう? 褒めるなら雲山に言ってあげて」
「ああ、立派だよ。立派な心の壁だ! 自分の弱い心を必死に守ろうとしていて、実に滑稽だよ!」
「……どういうことよ」
眉間に僅かに皺を寄せた一輪が、声色を低くする。
拳が出かかる雲山を停止させ、逆さまになったぬえと対峙した。
一方は怒り、一方は笑み。
互いの体から、じわじわと妖力が染み出ていた。
「私は正体不明の妖怪として、一輪に言っておきたいんだよ。自分の気持ちにウソをついていないかって」
「何かと思えば、そんな戯れ言」
「まあまあ聞きなよ、ひひひっ。一輪の心の闇がはっきり見えるんだ、理解不明の感情がね。私はそういうのが嫌いなんだぁ」
ぬえはそう笑うと、雲山の雲を手に取り啄むふりをした。
その中で一輪は、自分が知らないことを嫌うタイプか、とぬえを分析する。
どうやら秘密を抱えた存在を見ると、何としてでも正体を暴きたいらしい。
自分自身の正体を守るために、他人の全てを見たい。
道理にかなってはいるが、理解は出来なかった。
「ねえ一輪。言い方を変えてあげよっか」
「何?」
「尊敬する白蓮を騙し続ける気持ちはどう?」
ぬえがそう嘲った瞬間、雲山の拳がぬえの顔面を掠めた。
静かな物置にぴんとした空気が張りつめ、緊張する。
何重にも及ぶ雲山の雲に包まれた一輪の目に、怒りの感情が灯っていた。
「ひい怖い怖い。けひひっ!」
「姐さんは関係ない」
「そうかな? それじゃあどうして自分を欺くの。どうして等身大(ありのまま)の自分を見せようとしないの。どうして、どうして?」
くるくると三叉槍を回して笑うぬえに、一輪ははあと息をはいた。
もう話し合いでは通じないと判断したのだ。
一輪がリングを構えると、膨張した豪腕がぬえの周りを取り囲む。
そうこなくちゃ、とぬえは槍をかまえ直し、舌なめずりをして挑発した。
「私の正体を暴こうとして響子ちゃんや村紗を泣かせたぬえに、少し仕置きをしてやろうかしら!」
「え、ムラサ? ムラサがなんで……まあいいや。来なよ一輪、久しぶりに本気でやってやろうじゃない!」
互いの妖力が、強く交わった。
◆
「一輪さんから箒をとってきて貰ったし、お掃除お掃除!」
「精がでますね、響子」
「星さん! お掃除楽しいですよ、バックコーラスとして人間に悲鳴をあげてほしいくらいです!」
「あ、あはは。程々にお願いしますよ? 参拝者に聞かれたら困っちゃいますので」
「あ、すみませんっ! ついバンドでの癖が……わっひゃあああぁあっ!?」
「おっと。この妖気は……?」
その頃、突然物置から噴き出た激しい妖力に、庭掃除をしていた響子はつい隣にいた星に飛びついてしまった。
一方星は溢れる妖力を見て、直感的に二人が何をしているか察する。
その瞬間、星の眠れる感情に熱い火がくべられた。
彼女は眠れる激情家なのだ。
「あいつら、寺の中で……!」
「え、あの、星さん?」
「ちょっとすみません、近所迷惑なのでちょっと二人を黙らせに、いえ、止めてきますね!」
「は、はいぃ!」
響子は何度もこくこく頷くと、物置に向かって走っていく星を見送る。
おそるおそる彼女がいた敷石を見ると、見事なまでに粉々に砕けてしまっていた。
星の怒気に暫くがくがく震えていた響子だったが、緊急事態として勇気を振り絞り、星の後を追うのだった。
一方聖堂では、マミゾウ、村紗、白蓮が一斉に異変を感じ取っていた。
「それでのう、儂が磯の香りがする佐渡の砂浜を歩いておったらな、む?」
「ちょ、ちょっとやめてくださいよぉ! ……一輪、ぬえ?」
「あら、どうしたのかしら。ただ事ではないみたいですね」
ずずん、と何かが崩れる音が聞こえてくると、すぐさま白蓮が立ち上がり、妖気の立ちこめる物置の方へと急行する。
マミゾウも胡座の姿勢からゆったり立ち上がる中、村紗は二人の妖力を懐かしく感じていた。
この力は、村紗達が地底にいた頃よく感じていた。
一輪とぬえの、妖怪としての本性なのだ。
「ぬえのやつめ、煽りすぎるなと言うておったのに……ほんに、しょうがないやつよ。まあそこがかわいいんじゃが」
「え?」
「ほれ、行くぞ。儂らも見てこないとな」
「わ、分かりました!」
マミゾウはそう言い悠然とパイプをふかすと、村紗と一緒に聖堂から出ていった。
彼女は、ぬえのやったことを知っている。
今度こそ一輪の正体を暴いてやる、と鼻息荒く言っていたぬえの姿が思い出され、マミゾウはふっと不敵な笑みを浮かべた。
全ては、大目玉を喰らいそうな親友を助けるために。
◆
二人が闘った後の物置は、酷い有様となっていた。
元々大事な物は置いていなかったとはいえ、建物は半壊しており、木の破片が辺りに浮いている。
割れた木目から茶けた地面が見え隠れする中、一輪とぬえは白蓮含む皆の前で正座をしていた。
何故こうなったか説明する必要は無いだろう。
「二人とも、一体どうしてこのようなことを……」
白蓮がそう悲しげに目を伏せると、一輪の胸の奥がずきりと痛む。
かつて二度と姐さんに悲しい思いをさせないと誓った自分は、どこに行った。
今もこうして嘘を付き続ける必要が、本当にあるのか。
隣のぬえを見た。彼女もやりすぎたと思っているのか、しゅんと頭を下げていた。
「二人とも、怪我はない?」
「……いいえ」
「……うん」
「隠してはいけませんよ」
白蓮は一輪とぬえの傷んだ手をとると、優しく自身の手で包んだ。
一輪は癒されていく傷を見る中、自分の愚かさを呪っていた。
そうだ。この人はそういう人だ。
自分が傷つくより、他人が傷つくのを極端に恐れるのだ。
そんな強い彼女の奉仕の精神に、一輪は惹かれたのだ。
「……怒らないの?」
「ええ。頭ごなしに怒っても、何の得にもなりませんから」
「……そう」
言葉少なにぬえがそう言うと、ますます体を縮め込ませた。
ぬえは内心、白蓮に怒ってほしかった。
怒られた方が自分の罪が分かるし、何よりすっきりするから。
しかし、白蓮は決して怒らない。そのことは逆に、ぬえにとって重苦しいものとなってのし掛かる。
当然、一輪も同じ考えだった。
「一輪。何があったか、教えてくれる?」
「はい。……その前に、姐さんや皆に言わないといけないことがあるの」
一輪はそう言い、すっと立ち上がった。
目の前で悲しむ白蓮や寺の面々を見て、決心がついたのだ。
はっとぬえが見上げる中、一輪は自らの靴を脱ぎ捨てる。
その光景に、あっと村紗が一番に声をあげた。
靴を脱いだ一輪は、ぬえとほぼ同じ大きさだったのだ。
そして、その姿には見覚えがある。地底で一緒にいた頃と全く変わっていなかったから。
一輪は、改めて周りを見渡した。
驚きを隠せない皆の視線が、明らかに高く見える。
特に姐さん――白蓮は、一段と角度がついているようだった。
ざわざわと騒ぐ胸を抑えながら、一輪は白蓮を見上げて言う。
「これが本当の私なのです。ぬえは恐らく、この私が見たかったのでしょう」
「そういえば言っていましたね、ぬえ」
「う、うん。今朝、靴を脱いだ一輪がちっちゃいなって思って、どうしても真実を確かめたくて」
「そう、全てをひた隠しにしていた私が悪かったの。だから、ぬえは悪くなんかないわ」
「!」
一輪がそう言及すると、ぬえはしどろもどろになりながらも答える。
ぬえの見間違いではなかったということが、ここで証明されたのだ。
白蓮も封印されていた間、一輪達の成長までは確認出来なかった。故に知らなかった。
一輪の秘密を知っていたのは、雲山と昔の村紗だけだったのだ。
ぬえは自らの罪を被ろうとする一輪を見て、次にマミゾウを見る。
そして、すぐに進言した。
この時はぬえも、自分に嘘をつきたくなかった。
「ちがっ、違うよ! 私が悪いんだっ、一輪の秘密を知りたいからって、響子や村紗を泣かしてしまったんだ!」
「そうだったのですか、二人とも?」
「え、えっと……はい」
「う、うん」
白蓮の問いかけに村紗と響子は正直に言っていいのか迷ったが、ぬえの鋭い視線に頷くことしか出来なかった。
彼女の瞳に後悔の色が浮かんでいたのである。
白蓮は被害にあった二人が怪我をしていないと判断した後、一輪達に向きなおった。
「一輪が知られたくないことを、無理矢理知ろうとした。だから私の方が悪いの!」
「そうでしたか……」
白蓮は二人の話を頷きながら聞いていたが、今度はしっかりと二人を見て。
優しく微笑みながら、二人を抱き寄せた。
「二人とも、よく言ってくれました」
白蓮から漂う香の香りが、一輪の鼻を擽る。
一瞬何が起こったか分からなかったが、やがて白蓮に抱かれていると分かり、涙腺が緩んだ。
自らを守っていた心の壁が溶けていく気がして、一輪は手を伸ばして白蓮にしがみつくように抱きついた。
溶ける。今まで言えなかったことが、次々と言葉となって出る。
「姐さん、私は」
「ええ」
「姐さんに少しでも近づきたいと思って、せめて背だけでも一緒になりたかった」
「一輪」
「同じ目線で、同じように、っ、姐さんの道を歩みたかったのに、それで自分を偽ってしまって……」
「一輪、同じ目線に立とうとすることは良いことかもしれません。でも、私のようになる必要はないの」
「……はい」
「一輪は一輪の思うようになって。そして、私が見逃したところを教えてほしいのです。同じ目線では見えないところも、注意深いあなたなら見つけられるのですから」
「はい、はいっ……!」
温かな白蓮の胸の中で、ぬえは安堵と共に落胆の表情を滲ませていた。
一輪はこれまで背負っていた荷が消え、心機一転して白蓮の元で活動するだろう。
だが、自分はどうだ。
寺の皆からも浮いた存在で、今でも馴染めずにいる。
毎回迷惑をかけて、その度に許されて。一体どうすればいいのか。
隣で喜びの涙を浮かべる一輪の横で、ぬえは誰にも聞こえないように口の中で舌を打つのだった。
◆
「それにしても、どうしましょうか」
「もう元通りってわけにはいかなさそうですよねー……」
三人の光景を微笑ましく見ていた皆であったが、ふと星と響子が周りを見渡す。
本殿が壊されなかったのは不幸中の幸いだったが、物置が無いと意外と困るのだ。
ひとまず片づけるのが先決だが、星の脳内でも最低数時間はかかると計算されていた。
から、と壷だったものを箒で片づけ始めた響子に、誰かが待ったをかける。
それは先程まで泣いていた一輪だった。
「大丈夫よ響子ちゃん、後はちゃんとやっておくから」
「え、でもお掃除しないといけませんし」
「いえ、今回は私達がやったことだから。ケジメをつけるためにやりたいの。いいよね、姐さん?」
「ええ。今回は一輪ちゃんに任せます」
「……え? あ、姐さん?」
「うふふ」
ちょっとどういうことですかっと白蓮に食ってかかる一輪だったが、白蓮は微笑んでいるばかり。
この光景を見ていた村紗も、懐かしさを込めてそう呼んでやることにした。
そういえば二人が出会った時も『村紗ちゃん』と『一輪ちゃん』だったのだから。
「いいじゃない、一輪ちゃん。何だか昔を思い出すよ」
「ちょ、ちょっと村紗まで」
「一輪ちゃん、頑張ってください!」
「響子ちゃんまで!?」
「それではお願いしますね、一輪ちゃん」
「星まで! や、やめてよー!」
靴の中の雲が無くなり小さくなった一輪を、皆が囲んではやし立てる。
中心にいた一輪は恥ずかしがりながらも、どこか憑き物が取れたような笑顔でいて。
それを離れでぽつんと眺めていたぬえが、瓦礫を蹴った。
そんなぬえの隣で、雲山とマミゾウがぷかぷかパイプをふかしている。
「ぬえ。どうかしたか?」
「マミゾウ」
「ほっほっほ。それにしても一輪ちゃんか、まるで新しい孫が出来たようじゃ!」
「それはいいんだけど、あの」
「ん、建て替えのことか? 心配するでない、儂の金でちょいと払えばすぐだからの」
「そ、それはありがと。でも……」
煮えきらない様子のぬえに、マミゾウははてと尻尾を丸くさせる。
ぬえがこういう態度をとるのは珍しいのだ。
それは悪戯を重ねてきた故に、細かいことを気にしてられなかったからか。
マミゾウはすぐには答えず、ぬえの言葉を待つ。
ぬえは暫く言いよどんでいたが、やがて顔を上げると一輪達を見てぽつりと呟いた。
「私は……やっぱり一輪の方が似合うと思う」
「そうか」
そう顔を赤らめるぬえに、マミゾウはかっかと笑い背中を押す。
急に押し出されたぬえはもたつきながら、一輪達の輪へと歩いていく。
途中頼りなさげに振り返った彼女に、マミゾウはくいと頭を上げ教えてやった。
まるで子に当然のことを教える親のように。
「それは、本人の前で言うてやれ」
マミゾウの指摘を聞いたぬえは、一度大きな目をぱちくりとさせる。
そしてようやく自信を得たような表情で、輪の中へと走り始めた。
勢いのあまり出っ張った石で転びかけたが、すんでのところで足を出し持ちこたえる。
輪の中へ弾丸のように飛び込んできたぬえに一同が驚く中、ぬえは一輪の手を掴んで言った。
「ほら、行くよ一輪! 片づけが終わんないでしょ!」
「え、ええ」
一輪はそうまくし立てるぬえに引っ張られ、瓦礫が溜まっている場所へと歩いていく。
途中ずんずんと進む彼女のスピードに追いつけず、一輪の靴がころんと脱げたのだった。
一輪、水蜜、星、響子など、全員が原作設定を意識しながらも微笑ましく描かれていて、終わりまで楽しめましたよ。
特になかなか取り合わせの少ない、ぬえと一輪の関係を身長の件を絡めて書かれていたので、興味深くもありました。
一輪と雲山の信頼の間柄も、作中の端々に垣間見えて素敵!
人数が多いゆえの賑やかさは、私個人としては大好きですよ。
ありがとうございます。また読ませて下さい。
二次ではなかなか使われない激情家の星ちゃんが見れて幸せ
題名を読んで、女装する雲山の話だと思った自分が恥ずかしいです。
ボーバポッポポーボーバポッポポー。
しんきろーでイメージが変わりつつある一輪さんを風刺しているようで、好きです。
命蓮寺の大体みんなを出そうとするあたりも、意欲作で好感!
機会があったら私も真似してみたいものですね。
なにしろ、幼女に踏まれるのは私にとってはごほうb(クラーケン殴り
命蓮寺の皆がとても生き生きしていて、読んでいて楽しかったです。この点数を差し上げます。