紅魔館では時たまお茶会が開かれる。
この日もレミリアに誘われて、霊夢と紫が紅魔館を訪れていた。テラスでおいしい紅茶と茶菓子を味わいながら、他愛もない談笑に花を咲かす。この日のお喋りの中で、紫がこんなことを言った。
「この中で誰が一番強いのかしら」
もちろん強さにはそれぞれ自信のある三人である。自分以外の強さを褒めながらも、それとなく「やっぱり私よね?」というニュアンスを言葉の中に含ませる。それぞれの実力を認めながらも、自分の優位は譲らない。三人とも弾幕以外で本気で戦ったことがないのだから、話の決着がつかないのも当然である。
話題が進むと霊夢が月での出来事を引き合いに出し、レミリアの胸を鋭くえぐる一言を放った。
「あんたは月で依姫に完敗したじゃない」
レミリア、霊夢、紫と比べても依姫は相当の強さを誇る。自他ともに認める、レミリアに完封勝利するほどの実力者なのだ。そのため負けるのが恥という相手ではない。
だが霊夢の一言に、レミリアは古傷をぱっくり開かれた気分だった。月に行った時、幻想郷メンバーの目の前で敗北したことはレミリアの心に傷を残しており、触れられたくない部分だった。
霊夢と紫はお互い自分なら依姫をどんな技で倒すかと楽しそうに話していたが、レミリアはすっかり黙り込んでしまった。顔を赤くして、悔しさを紛らすためクッキーをばりばり噛み砕き、もはや二人の話は耳に入っていなかった。それまで自分の強さをこれでもかとアピールしていただけに、余計に恥ずかしい。
日が暮れて霊夢と紫が去った後も、レミリアは悶々とした気分のまま過ごしていた。
夕食の時にフランドールを捕まえて誰が最強かと尋ねても、「お姉様だといいね」という不愉快な答えしか返ってこない。美鈴に訊くと「もちろんお嬢様ですよ」と顔を引きつらせながら言ってくる。まるでレミリアが脅してそう答えさせているような気になってくるので、あまり信じられない。
やはり言葉で言われてもこの胸のつかえはとれないのだと、レミリアは思った。
深夜ベッドに入ってからも、収まるどころか膨れ上がってくる感情の波はレミリアを苦しめた。レミリアを寄せつけず、術で叩き落したときの依姫の勝ち誇った顔が脳裏に浮かぶ。レミリアは歯を食いしばり、ベッドの中で胸を掻きむしった。
悔しい。あの時の屈辱を思い出すと胸が焼けるように痛む。最強の吸血鬼であるはずの自分が完膚なきまでに圧勝されるなんて。刃を交え、互いの技を披露しあってからの敗北だったならまだ納得もできよう。
しかしあの時、レミリアは手も足も出ないまま一方的に傷つけられて負けた。
依姫の術を回避できなかった自分の非でもあるだろう、しかし……私は攻撃すらしていない!
悔しい! もう一度依姫と戦いたい。戦って勝利し、霊夢と紫に、そして誰よりも依姫自身に自分の強さを証明してやりたい。依姫と戦うには……月へ行く必要がある。
その晩レミリアは興奮して目が冴え、なかなか眠れなかった。
翌朝、レミリアは咲夜と連れ立って永遠亭を訪れた。朝早くだというのに外来用の扉は開いている。レミリアは玄関の掃除をしている鈴仙に声をかけた。
「おはよう。いい天気ね」
空は快晴。吸血鬼にとっては悪い天気だが、レミリアもそのくらいはわきまえている。
「あ、レミリアさんに咲夜さん、おはようございます。珍しいですね」
鈴仙は快く二人を通してくれた。診療室でレミリアが丸椅子に座り、永琳と向き合う。永琳は書き物をしていた手を止め、レミリアの方を向く。永琳がレミリアと咲夜の顔を交互に見て、一言。
「具合が悪いんじゃなさそうね」
永琳の察しの良さに、レミリアがにやりと笑う。
「その通りよ。あなたに訊きたいことがあって来たの。月への移動手段を教えて」
永琳の目がスッと細まった。レミリアの笑みが良からぬことを企んでいるように見えたのだろう。レミリアが慌てて顔の前で手を振り言った。
「何も月に攻め入ろうってんじゃないわ。ただ、ちょっと、観光に……」
永琳の疑うような目付きは変わらない。レミリアは居心地悪そうにもじもじしている。永琳が後ろに控える咲夜と目を合わせると、咲夜はわざとらしく視線を外してそっぽを向いた。
主が頑張ってついている嘘を、私がしゃべってぶち壊してしまうのは忍びないですわ……とでも言うように。
レミリアが、そわそわと手を動かしながら話す。
「だから、あなたが月からこっちに来た時に使った乗り物を借りたいんだけど」
永琳は一息つくと言った。
「生憎だけど乗れない相談ね。羽衣と牛車のことを言ってるんでしょうけど……綿月姉妹に勝負仕掛けに行くんじゃ使わせられないわ」
目的を言い当てられ、レミリアが動揺する。
「え? なんで分かったの?」
永琳は口の端に笑みを浮かべた。
「図星ね。あなたと月の因縁と言ったらそれぐらいしか無さそうだもの」
そして机に向き直ると書き物を再開し、にべもなく言った。
「とにかく協力できないわ。月に友達でもつくってから出直してきなさい。それかロケットでも造る?」
レミリアは口元を歪め、椅子から立ち上がると低い声で言った。
「やってやるわよ。邪魔したわね」
咲夜に目で合図をし、診療室を出る。ドアがパタンと閉まってから、永琳は書き物を止めてふと顔を上げた。
「まさか本当に造る気かしら」
診療室を出ると、鈴仙が怪しげな小瓶を手に話しかけてきた。
「レミリアさん、便利なエネルギー剤はご入り用じゃありませんか? 師匠の新薬ですよ」
レミリアは日傘を開きながら聞き返す。
「どんな薬?」
「はい。仕事をこなすスピードが一時間だけ数倍速くなる薬、『ノーリツチャッチャカ錠』です。なんでも師匠は、この薬のヒントをドラ……」
「それ十コちょうだい。咲夜、お願いね」
「かしこまりました。兎さん、おいくら?」
今度は鈴仙が聞き返す。
「そ、そんなにたくさんですか? 一瓶でも結構な数入ってますよ?」
それを聞いてレミリアは、口をすぼめて憮然とした口調で言う。
「あんたの師匠が協力してくれないせいでこんなことになってんのよ。ロケット造らなきゃならないの。それ効果は確かなんでしょうね?」
「ロケット……ええもちろん、私が実験台になりましたから保証できます。にんじんの皮むきが一秒かからずにできました」
レミリアが納得して頷く。咲夜ががま口の中のお金を数えながら、鈴仙の耳元で囁いた。
「副作用は?」
「…………妖怪なら耐えられます。咲夜さんはやめた方がいいかと」
「そう」
袋に入れた薬の瓶を受け取り、礼を言ってレミリアと咲夜は次の目的地へと向かった。
レミリアの頭の中では、すでにロケットを造るのが決定事項になっていたのである。
「咲夜、私はどうして依姫に負けたんだと思う?」
河童の工房へと歩く木陰の道すがら、レミリアが唐突に咲夜に尋ねた。レミリアはさりげなく訊いてきたが、その表情は険しい。咲夜は答えにくい質問が来たものだと思いながら、一旦間を置き、答えた。
「一瞬の油断、でしょうか」
その言葉にレミリアはうんうんと頷き、手を伸ばして咲夜の肩をぽんと叩いた。
「やっぱり私のこと分かってくれるのは咲夜だけよ」
「そんなことはありませんわ。しかし……お嬢様は実力を発揮できていませんでしたから」
「その通りね。好きよ、咲夜」
咲夜の頬がほんのり紅く染まる。
「お……お嬢様、そんないきなり……」
「今だけね」
「……意地悪ですね」
レミリアはふふふ、と愉快そうに笑いながら、どこか遠くを見つめ、ぽつりと言った。
「そんな気を使わせるような弱い主人じゃないってこと、証明してあげるわ。依姫を倒して、ね」
三十分ほどで、レミリアたちは河童の工房へと辿り着いた。河童の工房前では、陽の降り注ぐ大きな切り株の上で、にとりが大の字に寝そべっていた。河童の甲羅干しというより、単なるひなたぼっこである。にとりはこのところ大きな仕事の依頼もなく、退屈ぎみだった。
「ん~、することないなぁ」
ぼーっと抜けるような青空を見つめるにとりの視界を、二つの影がスッと遮った。
「喜びなさい。仕事を持ってきてあげたわよ」
にとりの表情が強張る。
「な、なんだいあんたたち?」
にとりがびっくりして跳ね起きると、左上に咲夜の顔、右上にレミリアの顔があった。レミリアが言う。
「月まで行けるロケットを造ってちょうだい。二人乗りで良いわ。お礼は充分にするから。ロケットの知識なら、こっちに詳しい奴がいるから大丈夫。材料は……」
「ち、ちょっ、ちょっと待って。ロケット!? そんなの私一人じゃとても無理だよ!」
「あんたの仲間にも手伝わせなさいよ。機械いじるの好きなんでしょ」
にとりが困ったように頬をかきながら言う。
「そりゃそうだけどさ……図面と材料があるとして、十人がかりで、小型のロケットだとしても、どのくらいかかるか見当もつかないよ」
「それなら心配無用。咲夜、あれを」
レミリアが言うと、主の意図を汲んだ咲夜が先ほど買った薬の瓶をにとりに手渡す。にとりが不思議そうに眺め回した。
「その薬はね……」
一通り薬の効用を説明すると、にとりは半信半疑だったものの、やがて仕事を承諾してくれた。久々の大仕事に血が騒いだのだ。
「月に何しに行くんだい?」
「戦いに行くのよ」
「ふぇ~……」
レミリアはロケット製作を引き受けたにとりの両肩に手をおいて言った。
「私の命がかかった月への移動手段、しっかり頼むわね」
命が、という言葉ににとりは顔を引き締め、胸を叩いた。
「うん、まかせとけ!」
頼もしい言葉に満足して、薬を渡し、レミリアと咲夜は紅魔館へ帰っていった。
ロケットはわずか三日後に完成した。にとりが血走った目で紅魔館に報告に来たのが昼前で、レミリアは正午にはもうロケットのある場所へ着いていた。空き地で発射場にもなっている。ロケットは空き地の真ん中に設置されている。レミリアの三倍くらいの高さ、てっぺんを切った円錐形で、表面は明るい白で塗られた見てくれのいい機体である。側面に丸い小さな窓が二つついている。ロケットを物珍しげに見つめる霊夢の姿もあった。
「やるじゃないにとり。感謝するわ」
レミリアはにとりに礼を言い、ロケットのつやつやした外面をぺたぺた触る。霊夢がレミリアに気づいて近づいてきた。
「レミリア、あんた本当にコレで月に行くの?」
信じられないという表情。レミリアはふふんと鼻を鳴らし、腰に手を当てて答えた。
「ええ、本当よ。あんたたちよりも、依姫よりも、私の方が強いって教えてあげるから楽しみにしてなさい」
霊夢は肩をすくめると、がくっと頭を垂れた。
「またバカなことを……」
「あんたには分からないでしょうけど。忌むべき過去を振り払うための崇高な旅なのよ」
「はいはい。どうせ言ってもきかないんでしょ…………ちゃんと帰ってきなさいよ」
幾分声を落とし、レミリアの顔を心配そうに見つめる霊夢。普段あまり見ないような態度の霊夢に、レミリアはちょっとどぎまぎする。もしもレミリアが敗北し、依姫を怒らせでもしたらレミリアの辿る運命は想像に難くない。しかしレミリアは笑って答えた。
「平気よ。お土産持って帰ってきてあげるから」
それでも相変わらずの様子の霊夢とレミリアの間に、図面を手に持ったパチュリーが割って入ってきた。
「レミィ、点検終わったわ。どうやら飛べそうよ」
「うん。操縦よろしくねパチェ」
「ええ。このロケット脱出機なんてついてないから、一応もしもの時のレスキューは頼んであるわ」
パチュリーが指さした先には、空き地の隅でしかめ面をしている紫の姿があった。
「私が月に送ってって頼んだ時は断ったくせに……」
「レミィの巻き添えで死ぬのは嫌だからお願いって頼んだの。で、いつ出発する?」
「そうね、早い方がいいわ。行きましょ」
レミリアとパチュリーはロケットに乗り込んだ。内部はクリーム色で統一されており、操縦盤と小窓以外は本当に何もない。広さも高さも、外で見たときよりも狭く、レミリアが手を伸ばし背伸びをすると手がついて、やや窮屈そうだ。しかしレミリアは文句も言わず、床にあぐらをかいて座り込んだ。パチュリーが操縦盤をいじり出す。
「レミィ、忘れ物はない?」
「ハンカチ、日傘、サンドイッチ。オッケーよ」
「じゃあ飛び立つわよ。3…2…1…」
淡々と秒読みするパチュリーの声を聞きながら、レミリアは膝立ちになり見納めのつもりで外を見た。 いつのまにか空き地の向こう、木陰に霊夢、にとり、紫の他にも妖怪やら妖精やらが集まっていた。ロケットに向かって手を振っている奴もいる。なんだか嬉しくなって、レミリアも夢中で手を振り返した。ロケットが低い唸りと振動に包まれる。やがてロケットは地面を離れ、空へ一直線に打ち上がった。レミリアの見ている景色がどんどん眼下に遠ざかっていく。思っていたより乗り心地は良かった。
早く会いたいわ、依姫。
敵の顔を思い浮かべ、気を引き締める。かくしてロケットは一筋の煙を残し、幻想郷から月へと旅立っていった。
窓の外が単調な星空になって五分が過ぎた頃、レミリアはようやく飽きて窓から顔を離した。パチュリーはすでに壁に寄りかかって読書に没頭している。自動操縦にしてあるらしい。
「パチェ、月に着くまでどのくらいかかるの?」
「半日くらい。このロケット、速いし快適ね。無重力状態にもならないし」
そう言われても、レミリアはすでに退屈になってきていた。窓の外の景色はほとんど変化がないし、パチュリーの本を読む気にもならない。暇潰しグッズでも持ってくれば良かったとレミリアは後悔した。
「暇ねぇ」
呟いてパチュリーの肩をゆする。
「パチェ、何かして遊びましょってば……」
パチュリーは本から目を離すと、天井を指さした。レミリアが見ると、そこには小さなスキマがぱっくり開いていた。
「そこから空気が供給されてるのよ。紫とも通じてるから、なんか頼めば」
言われてレミリアは、口に手を当ててスキマに声を飛ばした。
「紫ー聞こえてるー?」
ややあって、紫の声がした。
「レミリアね。どう? 順調?」
「順調すぎて暇で死にそうよ。暇潰せるものちょうだい」
間が空いて、全く別の明るい声が聞こえてきた。
「レミリアさーん、こちら射命丸文です。聞こえますか?」
「……聞こえてる」
「レミリアさん月に行くなんてホットニュース、どうして教えてくれなかったんですか! 水くさいですよ! 実は、そのことでお願いがありまして。『文々。新聞』の記事にしたいので、月の写真をこれでちょちょいっと撮ってきてもらえませんか?」
文が一気によどみなくしゃべると、スキマからカメラがするすると下りてきた。レミリアは腕を組み、そっぽを向いて言った。
「あんたのためにタダ働きしろっての? お断りよ」
「そんなこと言わずに……レミリアさん……あなたが綿月依姫に勝ったら写真付きで一面記事に載せますよ! 大ニュースですから、みんな読むこと間違いなしです。レミリアさんのカリスマ性も手伝って、英雄になれますって!」
レミリアの眉がぴくりと反応した。
「英雄に?」
「ええ、レミリアさんの名前が幻想郷中に轟きますよ」
「そうね……やってやるわ」
レミリアはカメラを受け取った。
「ありがとうございます! レミリアさん、応援してますよ! 叩きのめしちゃってください。倒したとこをレミリアさんの顔も入れて撮ってきてくださいね。あ、あとカメラはくれぐれも乱暴に扱わないで下さいね……それ気に入ってるんです。では!」
言いたい放題言い散らかした文の声が途絶え、代わりにまた紫の声が聞こえてきた。文と聞き比べるとだいぶ落ちついているように思える。
「暇潰しになったでしょ」
「まあね……でもまだ先が長いわ。紫、チェスしない?」
「仕方ないわね……付き合ってあげるわお嬢様」
ロケットは順調に航行を続けた。
チェスは紫が「あなたの指す手はあくびが出るわ」などと言い出した挙げ句本当に寝てしまったため、勝負はそこで流れになり、レミリアもふて腐れて昼寝を始めた。レミリアはその時点で四連敗している。
「レミィ、着いたわよ。起きて」
誰かに体を揺り動かされ、レミリアは眠い目を擦りながら体を起こす。
「うん、おはよ、咲夜……」
「寝ぼけないでよ、月に着いたのよ!」
月、という言葉にレミリアの眠気が一気に吹き飛んだ。
そうだ、ロケットで月に向かってる途中で眠ったんだった。
パチュリーが出入口の扉を開くと、涼しい風が吹き込んでくる。レミリアは日傘とカメラ、サンドイッチの入ったバスケットを手に嬉々として外へ飛び出した。レミリアの眼前に広がっていたのは、果てしない荒野。地平線まで草も何もない石ころだけの地面が続いていく。空はどんより曇っていたので、レミリアには好都合だった。
「なーんにも無いわよ……?」
景色に圧倒されて立ち尽くすレミリアの横に、パチュリーが並んだ。
「レミィ、まずは晩ごはん食べない?」
「ん……そうね」
言われてみればお腹が空いている。月は今真昼だが、幻想郷はもうとっくに夜なのだろう。咲夜に借りた懐中時計を見れば、確かにもう夕食の時間だった。
外で乾いた地面に座り、パチュリーと二人で咲夜のサンドイッチを頬張る。食べ終えると、レミリアがパチュリーに訊いた。
「月の都はどっちにあるか分かる? ここのちょうど反対側とか言わないでよね」
「私たち侵入者だから、見つからないように都からは少し離れたところに着陸したの。月の都はまっすぐ東。あなたならすぐ着くわ、はい両面コンパス」
レミリアが受け取ったコンパスは表に方位を、裏にロケットの位置を示す針が付いていた。これは便利だとレミリアは思った。
「いいこと、レミィ」
レミリアがコンパスから目を上げると、妙に改まった表情のパチュリーの顔があった。
「たとえ依姫に会えなくても、騒ぎになる前に戻って来ること。誰も殺さないこと。約束できるわね?」
真剣な声色のパチュリーの態度にレミリアも自然と改まった。
「約束するわ」
パチュリーをまっすぐ見てはっきり答えると、パチュリーも微笑して言った。
「一番大事なのは生きて帰ってくることよ。待ってるわ」
「うん、……行ってくる」
レミリアは軽く手をあげて返事代わりにすると、羽を広げ、東へ風を切って飛んでいった。
それなりのスピードで飛んだため、十分もすると眼下の荒れ地も草原に変わっていた。荒れ地よりもずっと生命感の感じられる風景だ。レミリアは速度を落とさずに月の都へ向かって一直線に飛んでいく。 いい感じに体が緊張しているのが分かった。レミリアは頭の中でこれからの計画を反芻していた。
月の都に着いたら適当に月人に綿月邸までの道を尋ね、依姫に会う。勝負を申し込み、受諾されれば戦い、完勝して堂々と帰還する。断られた場合、襲いかかって無理やりにでも戦わせ、勝利し、すぐ逃げる。負けた場合のことは――その時はその時だ。
眼下に畑や果樹園のような場所が増え始め、ちらほら家も見え始めた。小道もちゃんとある。このあたりからはまだ都でないにせよ、人が暮らす場所になっているようだ。レミリアは首から下げた文のカメラを服の中にしまい、更に飛ぶ速度を上げようとして――
「あっ」
思わず声を上げ、レミリアは急停止して遥か前方に見えた人影を凝視した。草原の丘の上の小道を、レミリアから見て左方にある林に向かって歩いている。こちらに背を向けているため、彼女はレミリアに気づいていない。レミリアはその後ろ姿に見覚えがあった。長くさらりとした髪を頭の後ろで束ね、腰に剣を提げたあいつは……
「こんなに早く会えるなんて、依姫……」
レミリアは捕食者の笑みを浮かべ、依姫の背後へゆっくりと迫っていった。
綿月依姫は、桃のとれる季節には週に一度桃狩りに行くのを楽しみにしている。今日もまた、果樹園の持ち主に断ってから桃をとりに行く道中をだった。今年は桃の出来が良いようで、依姫が桃をたくさん持ち帰っても豊姫が瞬く間に食べ尽くしてしまう――そんなことの繰り返しだった。
「今日は持てるだけ持って帰ろ、お姉様が食べきれないくらい」
一人言を呟きながら早足で果樹園へと向かう。強さに自信のある依姫も、外出の時は念のため剣を提げている。半分は着飾りの一部みたいなものだった。
草原の丘を下り、広めの原っぱにさしかかる。真ん中辺りまで来たところで――依姫は背後で何かが空気を切り裂く音を聞き、反射的にばっと振り返った。何の音か見る間もなくすぐ後ろの地面が勢いよく爆発し、凄まじい音ともに土埃が舞い上がる。依姫は顔を手で覆いながら俊敏に反応し、後ろへ跳んで爆心地から距離をとった。依姫の顔つきが険しくなる。腰の剣を素早く抜き出して戦闘体勢をとった。土煙の中を見つめながら周囲にも気を配る。
「誰? 出てきなさい」
依姫が鋭く言い放つ。土煙の中から誰かの気配がするのだ。今の攻撃は外れたのか、わざと外したのかは分からない。相手の正体はなんだ……? 依姫は目をこらした。
砂塵の中、爆心地に紅色に光る槍が突き立っているのが見えた。その槍を何者かの手がぐっと引き抜くもうもうと立ちこめる砂塵の中に、依姫よりもやや背の低いシルエットが見え……ゆっくりと出現したそいつを見て、依姫は目を見開いた。
「な……レミリア!」
微笑を浮かべて眼前に立つのは、レミリア・スカーレット。紅い槍を右手に、どこか懐かしむような目で依姫を見つめる彼女は……月の住人ではない。
「依姫」
レミリアが言葉を発すと、依姫は視線を突き刺すようにしたまま剣を握り直した。レミリアは笑っているが、声から穏やかでないものを感じ取ったからだ。
「久しぶり。会いたかったわ」
レミリアが自然体のまま一歩踏み出す。依姫はそれを受けて一歩下がり、同時に思考の火花を散らしていた。
どうしてこいつがここにいる!? 以前紫たちと共に月へ来たとき、喧嘩を吹っ掛けてきたレミリアを叩きのめしたことを依姫は覚えていた。その時以外の接点は、無い。レミリアからは敵意が感じられる。先手を打って術で動きを封じてしまおうか?しかし、レミリアは一歩踏み出せば剣先が届くところにいる。これだけ接近されていては、術の詠唱が間に合わない。
そもそもこいつは何をしに来た? 観光でないなら、私への復讐? いやいやその為だけに月まで来るなんてあり得ない。となると……
依姫に嫌な予感がよぎる。千年前の月面戦争の話が思い出されたためだ。突如として妖怪たちが月に攻め入って来たという話。当時は月の軍が兵器で敵を蹴散らしたそうだが、今の依姫は剣のみで一対一だ。
レミリアは……どういうつもりでここにいるのだろう。
依姫が口を開く。
「いきなりご挨拶ねレミリア。こんな場所じゃお茶も出せないわよ」
「いいのよ。あんたにしか用はないから。依姫、私の相手してもらうわよ」
私が狙い? 依姫が怪訝な顔をすると、レミリアはふっと笑い、構えていた紅色の槍、グングニルを杖のように地面につく。実際はグングニルが長いため杖にはなっていなかった。
「やっぱり選ばせてあげるわ。私と戦う? それとも尻尾巻いて逃げる?」
「その前に、答えて。あんた……月へ一体何をしに来たの? 戦争に来たの?」
「まぁ……そうよ、ちっちゃな戦争だけどね」
やはりそうか。妖怪たちが千年ぶりに、月に戦争を仕掛けてきたのだ。レミリアは、私の命をまず最初に狙ったのか。残しておくと厄介な強敵だと。
でも、なぜ最初の不意打ちで仕留めなかったのか。まさか……私を弄んでいるのだろうか? 以前レミリアと会話したときに、彼女の嗜虐心が垣間見えたのを依姫は思い出す。
レミリアは依姫に勝つつもりなのだ。前回こっぴどくやられているにも関わらず。
なんて――ナメられたものかしら。
依姫の口元に、初めて笑みが浮かんだ。
「なら、先手必勝!」
言うが早いか依姫の手から、フラッシュのような強烈な閃光が放たれた。レミリアのいた場所が真っ白に焼き尽くされるが、レミリアは一瞬早く上空へ飛んでいた。依姫の攻撃を読んでかわしたのだ。
レミリアはグングニルを振りかぶり、空中から依姫に向かって一直線に突っ込んだ。グングニルを依姫の右腕目掛けて振るい、依姫がそれを剣で弾く。すかさずレミリアは一回転し、今度は左腕を狙う。依姫は屈んでそれをかわし、無防備になったレミリアの半身に無数の光弾を撃ち込んだ。
とった、と依姫が思ったのも束の間、依姫の周囲の地面に数発の光弾がぶつかり草が焼け焦げた。依姫が目を見張ってすぐに立ち上がる。レミリアが神業のような速さで段幕を展開し、依姫の攻撃を相殺して防ぎきったのだ。レミリアが地に降り立つ。二人は再び、開戦前と同じ距離を保っていた。依姫は深呼吸をして半身で剣を構え、半ば素直な気持ちを込めて言った。
「やるじゃない」
レミリアはグングニルをぶんぶん回し、肩に掛ける格好でぴたっと止めると、余裕ぶって言った。
「今のが全力の三割ってとこかしら」
「あら奇遇ね。私は二割も出してないのよ」
互いに片足を大きく踏み込み、薙ぎ払うような二人の斬撃が交差する。打ち合った部分で火花が散り、消えるよりも先に次の一刀がぶつかり合った。レミリアと依姫は近距離で激しく打ち合い、互いに一歩も譲らない勢いで武器を振るい続ける。時たま二人の体を切っ先がかすり、細い血の筋を浮かび上がらせた。二人は体が少し傷つこうとも一瞬の隙も見せずに、相手を仕留めるためより意識を集中させる。
レミリアが依姫の動きに隙を見出だし、左の懐へ踏み込み地面と水平に斬り払う。だがグングニルは空を切り手応えがない。それがレミリアを誘い込む罠だと気づいた時には、依姫がレミリアの背後で剣を頭上に振り上げていた。レミリアは瞬間的に焦る。防御が間に合わない!レミリアは頭を下げ、グングニルを両手で支えて斬撃を受けたが護りきれず、頭を斬られる。体勢を立て直し、頭を触ると指に血がべったり付いた。それでもレミリアは気の迷いもなく、三度依姫に突っ込んでいく。
激しさを増す剣捌きの巻き添えをくらい、足元の草が切れていくつも舞い上がる。レミリアが上から下へ一際強くグングニルで斬り下ろすと、依姫の体が耐えきれず後ろへ押される。レミリアが前に詰め、容赦なくグングニルで鋭い突きを繰り出した。頭、首、胸、腹――すべて防ぎきったものの、依姫は両手がしびれてきているのを感じていた。
まずい、私が力負けしている。
そもそも依姫が剣を両手で持っているのに対し、レミリアはグングニルを片手で縦横無尽に操っている。剣の技術は互角であるものの、純粋な腕力ではレミリアが上回っているらしい。体力もしかり。依姫は額に汗を浮かべながらも、レミリアの攻撃はすべて確実に捌き、お返しとばかりに目にも止まらぬ速さの斬撃を繰り出し続けた。
レミリアは最初から、魔法のろくに使えない近接戦に持ち込めば依姫など敵ではないと踏んでいたが、相手は意外にも剣の勝負でも強かった。吸血鬼の全力をもってグングニルで突き、叩きつけ、切り払い、複雑に組み合わせた技を放ってもすべて防がれ、流されて、次の瞬間には攻撃に転じられている…… レミリアは肌で感じていた。これが依姫の実力なのだと。依姫の力と反応速度に舌を巻きつつ、レミリアも負けずにかわし、隙を狙って打ち込み続ける。グングニルを握る手が汗でじっとり湿っていた。
二人の頭上で武器同士が弾き合い、二人ともよろけて後ろへ下がった。金属音が止み、草原を風が吹き抜ける音が聞こえる。レミリアと依姫は武器を構え直しながらも、相手の様子を注意深く読み合っていた。どちらも顔からは余裕が消え、真剣な眼差しで呼吸を整える。依姫が口を開いた。
「どうして……最初の不意打ちで私を殺さなかった?」
「あんたを正面からねじ伏せるのが目的だからよ」
依姫にとって、レミリアの発言は不可解なところがあった。月に戦争を仕掛けるなら、そんなまどろっこしいやり方をせず粛々と殺していけばいいものを……やはりあの時の敗北の悔しさもあるのだろうか。
このまま斬り合っていても先が見えない。依姫は勝負に出ることにした。術を食らわすのには危険な距離だが、依姫は早く決着を着けたかった。依姫が左手を押し上げるように挙げると、レミリアとの間の地面がめりめりと音を立てて大きくめくれ上がり、二人の間に大きな壁が出来た。依姫は地面を蹴って後ろに飛び、壁から離れる。そしてレミリアに感づかれないよう、小声で素早く呪文を詠唱する。
『女神の舞に大御神は――』
しかし、唱え始めてすぐに依姫は詠唱を中断せざるを得なくなった。壁を突き破り、グングニルが依姫の顔めがけて飛んできたのだ。間一髪、体を傾けてかわしたものの、髪留めのリボンが少し欠けた。 さらにレミリアが壁を跳び越え、依姫のすぐ目の前に着地する。レミリアの手には新たなグングニルが握られていた。
依姫はさすがにこれ以上の接近戦は分が悪いと思い、華麗なバックステップで後ろへ下がっていく。離れたところで強力な術をぶつける攻撃に転じるつもりなのだ。だがレミリアはそれを許さない。
「させないわよ」
地面を思いきり蹴って一気に依姫までの距離を詰めると、依姫は目を見開き体をのけ反らせてしまう。 のけ反った依姫に覆い被さるように近づいたレミリア。レミリアがグングニルを握った左手を振り上げると、依姫は刀を顔の前で横に構えて受けの姿勢をとる。依姫の体勢はバランスが悪い。このままグングニルを叩きつければ恐らく力で勝てるだろう。依姫の刀が折れ、そのまま体を斬り伏せることになるかもしれないが。
しかしこの時、腕を振り下ろそうとする刹那、レミリアの脳裏にある考えが浮かんだ。
依姫をただ倒すだけではなく……敗北を認めさせなければ、私が勝利を確信しなければ、ここへ来た意味がない。
目の前には依姫の苦しげな顔。レミリアは思考の答えを瞬時に出すと、左手はそのままに右手で依姫の左手首をがしっと掴む。予想外の動きだったようで、依姫が焦り目を白黒させる。その一瞬の隙をついて、グングニルを下げて下から上に斬り上げ、依姫の剣を弾き飛ばした。依姫の手から離れた剣が弧を描いて飛ばされる。依姫が小さく舌打ちした。
依姫はレミリアに手を強く掴まれながらも、空いた左手をレミリアの顔にかざした。レミリアは顔に異様な熱を感じ、依姫の手を捉えて掌を外側へ向けさせる。ばじゅっ、と水に熱した金属を浸けたような音がして、稲光のような熱線が放たれる。レミリアの左手の表面が熱の余波を受けてひび割れた。すかさずレミリアは無防備な依姫の腹を思いきり蹴り上げた。
「ぐふぅっ!!」
依姫の顔が激痛に歪み、レミリアの掴んだ手から力が抜ける。
すかさずレミリアは手を放し、依姫の肩口に近いところを掴むと左右に強く引き、両肩の関節を外した。依姫の外された腕が力を無くして下がりきるよりも先に、レミリアは依姫を地面につき倒す。体が地面に打ち付けられて軽く跳ねる。
依姫がレミリア足でを蹴り上げようとしたがかわされ、レミリアは高く飛び、グングニルを逆手に持った。槍の先端が依姫の方を向く。腕を目一杯後ろに引き、依姫の体を跨いで着地すると同時にグングニルを撃ち出した。
避けきれない――依姫は目をぎゅっと瞑る。しかし、いつまで経っても痛みを感じることはなかった。依姫が目を開けると、依姫の顔の数センチ手前でグングニルが止められていた。レミリアと依姫の目が合う。レミリアの口元が笑んでいた。依姫の全身が、今さら冷や汗でびっしょり濡れる。グングニルを放り出し馬乗りになったレミリアが、今までで一番間近で依姫の顔を見た。
端正な顔は汗にまみれ、額には髪がぺったり貼りついている。頬に一筋切り傷があり、薄く血が滲んでいた。依姫は苦しげな、すがるような目つきでレミリアを見つめている。乱れた呼吸で上下する胸の感触がレミリアの腿に伝わってきた。レミリアは……純粋な嗜虐心が満たされる心地よさに、顔をほころばせた。
レミリアが依姫の眉間にとん、と指をおく。
「万事休す、よ、依姫……ここからは処刑の時間ね」
馬乗りされ、腕も動かず追い詰められた依姫はもう手も足も出ない。ただ目の光だけは失わずに睨みつけるしかできなかった。もっとこの顔を見たいと、レミリアは依姫の二の腕に手をつき、息を切らす彼女を真上から見下ろす。舌なめずりして唇を湿らすレミリアの顔が、今の依姫には肉食獣のように恐ろしげに見えた。レミリアの髪も汗に濡れており、額から玉の汗が滴り落ちて、依姫の左目に当たった。
「い゛っ」
レミリアの汗が、戦いの間中ずっと開きっぱなしだった目に染みた。痛みで涙が一粒こぼれ落ちる。するとその涙をレミリアが人差し指でそっとぬぐい、それを口に含んだ。腹が立つほど楽しそうな顔で言う。
「おいしいわね、あなたの涙」
依姫の胸中を苦い感情が満たした。完全になめられている。しかしこの状態では手も足も出ない。依姫の心中を知ってか知らずか、レミリアが言った。
「せっかくだし、あなたの血もいただこうかしら」
口からギラリと牙を覗かせる。依姫の顔が青ざめた。
「な……! や、やめて……私を吸血鬼にするつもり!?」
うろたえる依姫に、レミリアは努めて冷静に返した。
「バカね、私が吸ってもそんなことにはならないわ」
レミリアは抵抗できない依姫を相手に少し調子に乗っていた。レミリアは頭の横の髪を後ろへ流すと、やや興奮ぎみに依姫の首筋に噛みついた。首に牙を刺され、逃げられないと悟ると、依姫は目と口を固く引き結んだ。
「ん……んっ……」
レミリアが血を吸う度に喉を鳴らすと、ほとんど密着した依姫の上半身に動きが伝わる。依姫は痛みか不快感を予期していたものの、血を吸われる感覚は気持ち良ささえあり、張り詰めていた表情が緩む。 二十秒ほどでレミリアが牙を抜いて顔を離した。口元を手の甲でぬぐい、言った。
「ふう。ごちそうさま、ついいっぱい吸っちゃったわ」
「く……調子に乗るな……」
かなり血を吸われてくらくらする頭で、依姫は悔しまぎれに笑みを浮かべて言った。
「なによ、私を殺す気ならさっさと殺しなさい」
このままレミリアにいたぶられ、月人の誇りをズタズタにされるくらいなら、一息に終わらせられる方がまだマシだと考えていた。虚勢ではあったが、死を恐怖させて楽しむのがレミリアの目的なら少しはやり返せた気がした。レミリアが言う。
「あら、いつ私が殺すなんて口にしたかしら?」
レミリアは依姫の頬に手を添え、遊ぶようにつついたり引っ張ったりした。依姫が抵抗もせずに口をぽかんと開けてレミリアを見つめると、その顔が面白かったようでレミリアはさもおかしそうに笑う。レミリアがゆらりと立ち上がった。
「私の勝ちね」
依姫は目を閉じ、弱々しく頷いた。
「私の、負けよ。レミリア……」
レミリアは依姫の外れた肩をぐっと掴むと、ぐりぐり動かして元に戻した。痛みはしたが、依姫の腕は元通りに動くようになった。レミリアが不意に、依姫に手を差しのべる。
「いつまで寝てんのよ。ほら」
一瞬ためらったが、結局レミリアの手は借りず自分で立ち上がる。依姫は不満げなレミリアを尻目に、無言で服の砂埃を払った。レミリアもまた服を手で払うと、言った。
「それじゃ、私もう帰るから」
「え?」
「目的は果たしたし。言ったでしょ、ただあんたを倒しに来ただけだって」
依姫は信じられないという表情でレミリアに訊ねる。レミリアにはその顔がいつかの霊夢と重なって見えた。
「なによ……それ本気で言ってたの? あんた、本当は戦争しに来たんじゃないの?」
レミリアから返ってきたのは、呆れたような視線。
「そんなわけないじゃない。月の都相手に単身飛び込むようなバカな真似しないわよ。さっき言ったのは、私とあんただけの戦争、って意味」
そしてあっさりと別れを告げる。
「またね、依姫」
踵を返し、悠々と去っていくレミリアの後ろ姿を見ながら、依姫は思う。
私は最初からずっと、勘違いしたままレミリアと戦っていたのか……あいつはただ気まぐれで、私に勝負を仕掛けに来ただけ。それはそれで、いい。でも。
このまま、ただ私が負けただけで勝負を終わらせてしまいたくない。それでは私の心に傷が残る。それこそさっきまでのレミリアのように……敗者にだって誇りが欲しい……依姫の口をついて言葉が出てきた。
「待ってよ」
レミリアが振り返る。怪訝な顔をして依姫の次の言葉を待った。
依姫は自分が元々果樹園に行く途中だったことを思い出していた。
「ちょっと付き合いなさいよ」
二人が戦闘を繰り広げた草原のすぐ近くには、桃のなった果樹園がある。依姫はそこにレミリアを連れてくると、何も言わずに桃をもぎ始めた。木の根元に置かれたかごが桃で埋め尽くされていく。レミリアは腰に手を当てて、作業の様子をじっと見ていた。
桃が三十個は入っているだろうか――かごが一杯になると、依姫はかごの持ち手を持ってレミリアに押しつける。目をぱちくりさせるレミリアに、依姫はどこか決まりが悪そうに言った。
「……私に勝てたご褒美よ」
「なによそれ」
レミリアは思わず笑ってしまった。自分を叩きのめした相手に戦利品を贈るとはどういうつもりだろうか。依姫が続けて言う。
「どうせまた、ここへ来るためにいろんな人たちを振り回してきたんでしょ。あんたのわがままに付き合わされた可哀想な人たちにでもあげなさい」
再びレミリアに桃のかごを押しつける。レミリアは桃のかごと依姫の顔とを何度か見比べた。
「ふーん……」
やがて依姫の意図を理解し、かごを受けとる。レミリアは桃のひとつを手に取り、弄びながら言った。
「そうね、ま、もらっておいてあげるわ」
依姫の負けてなお尊厳を保ちたいという考えは、同じ負けず嫌いのレミリアにも分かった。手に取った桃をスカートのポケットに滑り込ませ、桃のかごの持ち手を肩に掛けると元来た道を歩き始める。
「さよなら、依姫」
レミリアの背後で依姫がため息をつくのが聞こえた。そしてレミリアとは違う方へ歩いていく。レミリアは振り向いて、さっき弾き飛ばした剣を取りに行く依姫に声を飛ばす。
「私を倒したくなったらいつでも幻想郷にいらっしゃい」
依姫は歩みを止めると、ふっと笑って言葉を返す。
「遺言でも用意して待ってなさいな」
レミリアは軽く手を挙げ答えると、磁針を便りにパチュリーの待つロケットへ向かって歩き出す。何を思うのか、見送る依姫の視線を背中に感じる。レミリアは草地が続くうちは飛ばずに歩いていこうと思った。草原の草を踏みしめる感触が心地良い。桃の果樹園と、戦いの地が遠ざかって行く。レミリアは雪辱を果たし、依姫に勝利して帰途についたのだった。
月から帰還したレミリアは、月での出来事を話して皆の驚く顔を見るのが楽しくてしかたなかった。
霊夢と紫は誰よりも真っ先にレミリアの元へ駆けつけた。レミリアは戦いの様子を詳しく語ることはせず、ただ結果だけを伝える。
まず霊夢には「やることが無謀すぎるのよ」とさっそく怒られ、紫からは「ここまでやるとは思わなかった」と曖昧な言葉をもらう。二人ともレミリアの戦果は素直に認めてくれたので、レミリアは満足だった。
他にも素直に生還を喜んでくれる者や、依姫に勝ったのを褒めてくれる者もいて、レミリアは英雄気分に浸ることが出来た。
翌日、『文々。新聞』によってレミリアの月遠征の話はあちこちに広まった。ただしだいぶ誇張された話である。レミリアが月の写真を撮るのを忘れていたため、文が内容だけで目を引けるよう色々とでっち上げたのだ。
新聞には『レミリアは単身月の都を壊滅させた』などと根も葉もないことが書かれていたが、レミリアの勝利にもちゃんと紙面が割かれていた。
レミリアが持ち帰った月の桃は、依姫の言葉通り遠征の手伝いをしてくれた人妖たちに食べさせることにした。それでも余った分は紅魔館に遊びに来た者たちに振る舞った。
月の桃はかぶりつくと口の中に染み渡る美味しさで、皆が気に入る味だった。また採ってきて、と言う者もいたくらいである。
戦利品を食べた人妖たちの称賛の言葉を聞く度に、レミリアは屈託の無い笑顔を見せていた。
この日もレミリアに誘われて、霊夢と紫が紅魔館を訪れていた。テラスでおいしい紅茶と茶菓子を味わいながら、他愛もない談笑に花を咲かす。この日のお喋りの中で、紫がこんなことを言った。
「この中で誰が一番強いのかしら」
もちろん強さにはそれぞれ自信のある三人である。自分以外の強さを褒めながらも、それとなく「やっぱり私よね?」というニュアンスを言葉の中に含ませる。それぞれの実力を認めながらも、自分の優位は譲らない。三人とも弾幕以外で本気で戦ったことがないのだから、話の決着がつかないのも当然である。
話題が進むと霊夢が月での出来事を引き合いに出し、レミリアの胸を鋭くえぐる一言を放った。
「あんたは月で依姫に完敗したじゃない」
レミリア、霊夢、紫と比べても依姫は相当の強さを誇る。自他ともに認める、レミリアに完封勝利するほどの実力者なのだ。そのため負けるのが恥という相手ではない。
だが霊夢の一言に、レミリアは古傷をぱっくり開かれた気分だった。月に行った時、幻想郷メンバーの目の前で敗北したことはレミリアの心に傷を残しており、触れられたくない部分だった。
霊夢と紫はお互い自分なら依姫をどんな技で倒すかと楽しそうに話していたが、レミリアはすっかり黙り込んでしまった。顔を赤くして、悔しさを紛らすためクッキーをばりばり噛み砕き、もはや二人の話は耳に入っていなかった。それまで自分の強さをこれでもかとアピールしていただけに、余計に恥ずかしい。
日が暮れて霊夢と紫が去った後も、レミリアは悶々とした気分のまま過ごしていた。
夕食の時にフランドールを捕まえて誰が最強かと尋ねても、「お姉様だといいね」という不愉快な答えしか返ってこない。美鈴に訊くと「もちろんお嬢様ですよ」と顔を引きつらせながら言ってくる。まるでレミリアが脅してそう答えさせているような気になってくるので、あまり信じられない。
やはり言葉で言われてもこの胸のつかえはとれないのだと、レミリアは思った。
深夜ベッドに入ってからも、収まるどころか膨れ上がってくる感情の波はレミリアを苦しめた。レミリアを寄せつけず、術で叩き落したときの依姫の勝ち誇った顔が脳裏に浮かぶ。レミリアは歯を食いしばり、ベッドの中で胸を掻きむしった。
悔しい。あの時の屈辱を思い出すと胸が焼けるように痛む。最強の吸血鬼であるはずの自分が完膚なきまでに圧勝されるなんて。刃を交え、互いの技を披露しあってからの敗北だったならまだ納得もできよう。
しかしあの時、レミリアは手も足も出ないまま一方的に傷つけられて負けた。
依姫の術を回避できなかった自分の非でもあるだろう、しかし……私は攻撃すらしていない!
悔しい! もう一度依姫と戦いたい。戦って勝利し、霊夢と紫に、そして誰よりも依姫自身に自分の強さを証明してやりたい。依姫と戦うには……月へ行く必要がある。
その晩レミリアは興奮して目が冴え、なかなか眠れなかった。
翌朝、レミリアは咲夜と連れ立って永遠亭を訪れた。朝早くだというのに外来用の扉は開いている。レミリアは玄関の掃除をしている鈴仙に声をかけた。
「おはよう。いい天気ね」
空は快晴。吸血鬼にとっては悪い天気だが、レミリアもそのくらいはわきまえている。
「あ、レミリアさんに咲夜さん、おはようございます。珍しいですね」
鈴仙は快く二人を通してくれた。診療室でレミリアが丸椅子に座り、永琳と向き合う。永琳は書き物をしていた手を止め、レミリアの方を向く。永琳がレミリアと咲夜の顔を交互に見て、一言。
「具合が悪いんじゃなさそうね」
永琳の察しの良さに、レミリアがにやりと笑う。
「その通りよ。あなたに訊きたいことがあって来たの。月への移動手段を教えて」
永琳の目がスッと細まった。レミリアの笑みが良からぬことを企んでいるように見えたのだろう。レミリアが慌てて顔の前で手を振り言った。
「何も月に攻め入ろうってんじゃないわ。ただ、ちょっと、観光に……」
永琳の疑うような目付きは変わらない。レミリアは居心地悪そうにもじもじしている。永琳が後ろに控える咲夜と目を合わせると、咲夜はわざとらしく視線を外してそっぽを向いた。
主が頑張ってついている嘘を、私がしゃべってぶち壊してしまうのは忍びないですわ……とでも言うように。
レミリアが、そわそわと手を動かしながら話す。
「だから、あなたが月からこっちに来た時に使った乗り物を借りたいんだけど」
永琳は一息つくと言った。
「生憎だけど乗れない相談ね。羽衣と牛車のことを言ってるんでしょうけど……綿月姉妹に勝負仕掛けに行くんじゃ使わせられないわ」
目的を言い当てられ、レミリアが動揺する。
「え? なんで分かったの?」
永琳は口の端に笑みを浮かべた。
「図星ね。あなたと月の因縁と言ったらそれぐらいしか無さそうだもの」
そして机に向き直ると書き物を再開し、にべもなく言った。
「とにかく協力できないわ。月に友達でもつくってから出直してきなさい。それかロケットでも造る?」
レミリアは口元を歪め、椅子から立ち上がると低い声で言った。
「やってやるわよ。邪魔したわね」
咲夜に目で合図をし、診療室を出る。ドアがパタンと閉まってから、永琳は書き物を止めてふと顔を上げた。
「まさか本当に造る気かしら」
診療室を出ると、鈴仙が怪しげな小瓶を手に話しかけてきた。
「レミリアさん、便利なエネルギー剤はご入り用じゃありませんか? 師匠の新薬ですよ」
レミリアは日傘を開きながら聞き返す。
「どんな薬?」
「はい。仕事をこなすスピードが一時間だけ数倍速くなる薬、『ノーリツチャッチャカ錠』です。なんでも師匠は、この薬のヒントをドラ……」
「それ十コちょうだい。咲夜、お願いね」
「かしこまりました。兎さん、おいくら?」
今度は鈴仙が聞き返す。
「そ、そんなにたくさんですか? 一瓶でも結構な数入ってますよ?」
それを聞いてレミリアは、口をすぼめて憮然とした口調で言う。
「あんたの師匠が協力してくれないせいでこんなことになってんのよ。ロケット造らなきゃならないの。それ効果は確かなんでしょうね?」
「ロケット……ええもちろん、私が実験台になりましたから保証できます。にんじんの皮むきが一秒かからずにできました」
レミリアが納得して頷く。咲夜ががま口の中のお金を数えながら、鈴仙の耳元で囁いた。
「副作用は?」
「…………妖怪なら耐えられます。咲夜さんはやめた方がいいかと」
「そう」
袋に入れた薬の瓶を受け取り、礼を言ってレミリアと咲夜は次の目的地へと向かった。
レミリアの頭の中では、すでにロケットを造るのが決定事項になっていたのである。
「咲夜、私はどうして依姫に負けたんだと思う?」
河童の工房へと歩く木陰の道すがら、レミリアが唐突に咲夜に尋ねた。レミリアはさりげなく訊いてきたが、その表情は険しい。咲夜は答えにくい質問が来たものだと思いながら、一旦間を置き、答えた。
「一瞬の油断、でしょうか」
その言葉にレミリアはうんうんと頷き、手を伸ばして咲夜の肩をぽんと叩いた。
「やっぱり私のこと分かってくれるのは咲夜だけよ」
「そんなことはありませんわ。しかし……お嬢様は実力を発揮できていませんでしたから」
「その通りね。好きよ、咲夜」
咲夜の頬がほんのり紅く染まる。
「お……お嬢様、そんないきなり……」
「今だけね」
「……意地悪ですね」
レミリアはふふふ、と愉快そうに笑いながら、どこか遠くを見つめ、ぽつりと言った。
「そんな気を使わせるような弱い主人じゃないってこと、証明してあげるわ。依姫を倒して、ね」
三十分ほどで、レミリアたちは河童の工房へと辿り着いた。河童の工房前では、陽の降り注ぐ大きな切り株の上で、にとりが大の字に寝そべっていた。河童の甲羅干しというより、単なるひなたぼっこである。にとりはこのところ大きな仕事の依頼もなく、退屈ぎみだった。
「ん~、することないなぁ」
ぼーっと抜けるような青空を見つめるにとりの視界を、二つの影がスッと遮った。
「喜びなさい。仕事を持ってきてあげたわよ」
にとりの表情が強張る。
「な、なんだいあんたたち?」
にとりがびっくりして跳ね起きると、左上に咲夜の顔、右上にレミリアの顔があった。レミリアが言う。
「月まで行けるロケットを造ってちょうだい。二人乗りで良いわ。お礼は充分にするから。ロケットの知識なら、こっちに詳しい奴がいるから大丈夫。材料は……」
「ち、ちょっ、ちょっと待って。ロケット!? そんなの私一人じゃとても無理だよ!」
「あんたの仲間にも手伝わせなさいよ。機械いじるの好きなんでしょ」
にとりが困ったように頬をかきながら言う。
「そりゃそうだけどさ……図面と材料があるとして、十人がかりで、小型のロケットだとしても、どのくらいかかるか見当もつかないよ」
「それなら心配無用。咲夜、あれを」
レミリアが言うと、主の意図を汲んだ咲夜が先ほど買った薬の瓶をにとりに手渡す。にとりが不思議そうに眺め回した。
「その薬はね……」
一通り薬の効用を説明すると、にとりは半信半疑だったものの、やがて仕事を承諾してくれた。久々の大仕事に血が騒いだのだ。
「月に何しに行くんだい?」
「戦いに行くのよ」
「ふぇ~……」
レミリアはロケット製作を引き受けたにとりの両肩に手をおいて言った。
「私の命がかかった月への移動手段、しっかり頼むわね」
命が、という言葉ににとりは顔を引き締め、胸を叩いた。
「うん、まかせとけ!」
頼もしい言葉に満足して、薬を渡し、レミリアと咲夜は紅魔館へ帰っていった。
ロケットはわずか三日後に完成した。にとりが血走った目で紅魔館に報告に来たのが昼前で、レミリアは正午にはもうロケットのある場所へ着いていた。空き地で発射場にもなっている。ロケットは空き地の真ん中に設置されている。レミリアの三倍くらいの高さ、てっぺんを切った円錐形で、表面は明るい白で塗られた見てくれのいい機体である。側面に丸い小さな窓が二つついている。ロケットを物珍しげに見つめる霊夢の姿もあった。
「やるじゃないにとり。感謝するわ」
レミリアはにとりに礼を言い、ロケットのつやつやした外面をぺたぺた触る。霊夢がレミリアに気づいて近づいてきた。
「レミリア、あんた本当にコレで月に行くの?」
信じられないという表情。レミリアはふふんと鼻を鳴らし、腰に手を当てて答えた。
「ええ、本当よ。あんたたちよりも、依姫よりも、私の方が強いって教えてあげるから楽しみにしてなさい」
霊夢は肩をすくめると、がくっと頭を垂れた。
「またバカなことを……」
「あんたには分からないでしょうけど。忌むべき過去を振り払うための崇高な旅なのよ」
「はいはい。どうせ言ってもきかないんでしょ…………ちゃんと帰ってきなさいよ」
幾分声を落とし、レミリアの顔を心配そうに見つめる霊夢。普段あまり見ないような態度の霊夢に、レミリアはちょっとどぎまぎする。もしもレミリアが敗北し、依姫を怒らせでもしたらレミリアの辿る運命は想像に難くない。しかしレミリアは笑って答えた。
「平気よ。お土産持って帰ってきてあげるから」
それでも相変わらずの様子の霊夢とレミリアの間に、図面を手に持ったパチュリーが割って入ってきた。
「レミィ、点検終わったわ。どうやら飛べそうよ」
「うん。操縦よろしくねパチェ」
「ええ。このロケット脱出機なんてついてないから、一応もしもの時のレスキューは頼んであるわ」
パチュリーが指さした先には、空き地の隅でしかめ面をしている紫の姿があった。
「私が月に送ってって頼んだ時は断ったくせに……」
「レミィの巻き添えで死ぬのは嫌だからお願いって頼んだの。で、いつ出発する?」
「そうね、早い方がいいわ。行きましょ」
レミリアとパチュリーはロケットに乗り込んだ。内部はクリーム色で統一されており、操縦盤と小窓以外は本当に何もない。広さも高さも、外で見たときよりも狭く、レミリアが手を伸ばし背伸びをすると手がついて、やや窮屈そうだ。しかしレミリアは文句も言わず、床にあぐらをかいて座り込んだ。パチュリーが操縦盤をいじり出す。
「レミィ、忘れ物はない?」
「ハンカチ、日傘、サンドイッチ。オッケーよ」
「じゃあ飛び立つわよ。3…2…1…」
淡々と秒読みするパチュリーの声を聞きながら、レミリアは膝立ちになり見納めのつもりで外を見た。 いつのまにか空き地の向こう、木陰に霊夢、にとり、紫の他にも妖怪やら妖精やらが集まっていた。ロケットに向かって手を振っている奴もいる。なんだか嬉しくなって、レミリアも夢中で手を振り返した。ロケットが低い唸りと振動に包まれる。やがてロケットは地面を離れ、空へ一直線に打ち上がった。レミリアの見ている景色がどんどん眼下に遠ざかっていく。思っていたより乗り心地は良かった。
早く会いたいわ、依姫。
敵の顔を思い浮かべ、気を引き締める。かくしてロケットは一筋の煙を残し、幻想郷から月へと旅立っていった。
窓の外が単調な星空になって五分が過ぎた頃、レミリアはようやく飽きて窓から顔を離した。パチュリーはすでに壁に寄りかかって読書に没頭している。自動操縦にしてあるらしい。
「パチェ、月に着くまでどのくらいかかるの?」
「半日くらい。このロケット、速いし快適ね。無重力状態にもならないし」
そう言われても、レミリアはすでに退屈になってきていた。窓の外の景色はほとんど変化がないし、パチュリーの本を読む気にもならない。暇潰しグッズでも持ってくれば良かったとレミリアは後悔した。
「暇ねぇ」
呟いてパチュリーの肩をゆする。
「パチェ、何かして遊びましょってば……」
パチュリーは本から目を離すと、天井を指さした。レミリアが見ると、そこには小さなスキマがぱっくり開いていた。
「そこから空気が供給されてるのよ。紫とも通じてるから、なんか頼めば」
言われてレミリアは、口に手を当ててスキマに声を飛ばした。
「紫ー聞こえてるー?」
ややあって、紫の声がした。
「レミリアね。どう? 順調?」
「順調すぎて暇で死にそうよ。暇潰せるものちょうだい」
間が空いて、全く別の明るい声が聞こえてきた。
「レミリアさーん、こちら射命丸文です。聞こえますか?」
「……聞こえてる」
「レミリアさん月に行くなんてホットニュース、どうして教えてくれなかったんですか! 水くさいですよ! 実は、そのことでお願いがありまして。『文々。新聞』の記事にしたいので、月の写真をこれでちょちょいっと撮ってきてもらえませんか?」
文が一気によどみなくしゃべると、スキマからカメラがするすると下りてきた。レミリアは腕を組み、そっぽを向いて言った。
「あんたのためにタダ働きしろっての? お断りよ」
「そんなこと言わずに……レミリアさん……あなたが綿月依姫に勝ったら写真付きで一面記事に載せますよ! 大ニュースですから、みんな読むこと間違いなしです。レミリアさんのカリスマ性も手伝って、英雄になれますって!」
レミリアの眉がぴくりと反応した。
「英雄に?」
「ええ、レミリアさんの名前が幻想郷中に轟きますよ」
「そうね……やってやるわ」
レミリアはカメラを受け取った。
「ありがとうございます! レミリアさん、応援してますよ! 叩きのめしちゃってください。倒したとこをレミリアさんの顔も入れて撮ってきてくださいね。あ、あとカメラはくれぐれも乱暴に扱わないで下さいね……それ気に入ってるんです。では!」
言いたい放題言い散らかした文の声が途絶え、代わりにまた紫の声が聞こえてきた。文と聞き比べるとだいぶ落ちついているように思える。
「暇潰しになったでしょ」
「まあね……でもまだ先が長いわ。紫、チェスしない?」
「仕方ないわね……付き合ってあげるわお嬢様」
ロケットは順調に航行を続けた。
チェスは紫が「あなたの指す手はあくびが出るわ」などと言い出した挙げ句本当に寝てしまったため、勝負はそこで流れになり、レミリアもふて腐れて昼寝を始めた。レミリアはその時点で四連敗している。
「レミィ、着いたわよ。起きて」
誰かに体を揺り動かされ、レミリアは眠い目を擦りながら体を起こす。
「うん、おはよ、咲夜……」
「寝ぼけないでよ、月に着いたのよ!」
月、という言葉にレミリアの眠気が一気に吹き飛んだ。
そうだ、ロケットで月に向かってる途中で眠ったんだった。
パチュリーが出入口の扉を開くと、涼しい風が吹き込んでくる。レミリアは日傘とカメラ、サンドイッチの入ったバスケットを手に嬉々として外へ飛び出した。レミリアの眼前に広がっていたのは、果てしない荒野。地平線まで草も何もない石ころだけの地面が続いていく。空はどんより曇っていたので、レミリアには好都合だった。
「なーんにも無いわよ……?」
景色に圧倒されて立ち尽くすレミリアの横に、パチュリーが並んだ。
「レミィ、まずは晩ごはん食べない?」
「ん……そうね」
言われてみればお腹が空いている。月は今真昼だが、幻想郷はもうとっくに夜なのだろう。咲夜に借りた懐中時計を見れば、確かにもう夕食の時間だった。
外で乾いた地面に座り、パチュリーと二人で咲夜のサンドイッチを頬張る。食べ終えると、レミリアがパチュリーに訊いた。
「月の都はどっちにあるか分かる? ここのちょうど反対側とか言わないでよね」
「私たち侵入者だから、見つからないように都からは少し離れたところに着陸したの。月の都はまっすぐ東。あなたならすぐ着くわ、はい両面コンパス」
レミリアが受け取ったコンパスは表に方位を、裏にロケットの位置を示す針が付いていた。これは便利だとレミリアは思った。
「いいこと、レミィ」
レミリアがコンパスから目を上げると、妙に改まった表情のパチュリーの顔があった。
「たとえ依姫に会えなくても、騒ぎになる前に戻って来ること。誰も殺さないこと。約束できるわね?」
真剣な声色のパチュリーの態度にレミリアも自然と改まった。
「約束するわ」
パチュリーをまっすぐ見てはっきり答えると、パチュリーも微笑して言った。
「一番大事なのは生きて帰ってくることよ。待ってるわ」
「うん、……行ってくる」
レミリアは軽く手をあげて返事代わりにすると、羽を広げ、東へ風を切って飛んでいった。
それなりのスピードで飛んだため、十分もすると眼下の荒れ地も草原に変わっていた。荒れ地よりもずっと生命感の感じられる風景だ。レミリアは速度を落とさずに月の都へ向かって一直線に飛んでいく。 いい感じに体が緊張しているのが分かった。レミリアは頭の中でこれからの計画を反芻していた。
月の都に着いたら適当に月人に綿月邸までの道を尋ね、依姫に会う。勝負を申し込み、受諾されれば戦い、完勝して堂々と帰還する。断られた場合、襲いかかって無理やりにでも戦わせ、勝利し、すぐ逃げる。負けた場合のことは――その時はその時だ。
眼下に畑や果樹園のような場所が増え始め、ちらほら家も見え始めた。小道もちゃんとある。このあたりからはまだ都でないにせよ、人が暮らす場所になっているようだ。レミリアは首から下げた文のカメラを服の中にしまい、更に飛ぶ速度を上げようとして――
「あっ」
思わず声を上げ、レミリアは急停止して遥か前方に見えた人影を凝視した。草原の丘の上の小道を、レミリアから見て左方にある林に向かって歩いている。こちらに背を向けているため、彼女はレミリアに気づいていない。レミリアはその後ろ姿に見覚えがあった。長くさらりとした髪を頭の後ろで束ね、腰に剣を提げたあいつは……
「こんなに早く会えるなんて、依姫……」
レミリアは捕食者の笑みを浮かべ、依姫の背後へゆっくりと迫っていった。
綿月依姫は、桃のとれる季節には週に一度桃狩りに行くのを楽しみにしている。今日もまた、果樹園の持ち主に断ってから桃をとりに行く道中をだった。今年は桃の出来が良いようで、依姫が桃をたくさん持ち帰っても豊姫が瞬く間に食べ尽くしてしまう――そんなことの繰り返しだった。
「今日は持てるだけ持って帰ろ、お姉様が食べきれないくらい」
一人言を呟きながら早足で果樹園へと向かう。強さに自信のある依姫も、外出の時は念のため剣を提げている。半分は着飾りの一部みたいなものだった。
草原の丘を下り、広めの原っぱにさしかかる。真ん中辺りまで来たところで――依姫は背後で何かが空気を切り裂く音を聞き、反射的にばっと振り返った。何の音か見る間もなくすぐ後ろの地面が勢いよく爆発し、凄まじい音ともに土埃が舞い上がる。依姫は顔を手で覆いながら俊敏に反応し、後ろへ跳んで爆心地から距離をとった。依姫の顔つきが険しくなる。腰の剣を素早く抜き出して戦闘体勢をとった。土煙の中を見つめながら周囲にも気を配る。
「誰? 出てきなさい」
依姫が鋭く言い放つ。土煙の中から誰かの気配がするのだ。今の攻撃は外れたのか、わざと外したのかは分からない。相手の正体はなんだ……? 依姫は目をこらした。
砂塵の中、爆心地に紅色に光る槍が突き立っているのが見えた。その槍を何者かの手がぐっと引き抜くもうもうと立ちこめる砂塵の中に、依姫よりもやや背の低いシルエットが見え……ゆっくりと出現したそいつを見て、依姫は目を見開いた。
「な……レミリア!」
微笑を浮かべて眼前に立つのは、レミリア・スカーレット。紅い槍を右手に、どこか懐かしむような目で依姫を見つめる彼女は……月の住人ではない。
「依姫」
レミリアが言葉を発すと、依姫は視線を突き刺すようにしたまま剣を握り直した。レミリアは笑っているが、声から穏やかでないものを感じ取ったからだ。
「久しぶり。会いたかったわ」
レミリアが自然体のまま一歩踏み出す。依姫はそれを受けて一歩下がり、同時に思考の火花を散らしていた。
どうしてこいつがここにいる!? 以前紫たちと共に月へ来たとき、喧嘩を吹っ掛けてきたレミリアを叩きのめしたことを依姫は覚えていた。その時以外の接点は、無い。レミリアからは敵意が感じられる。先手を打って術で動きを封じてしまおうか?しかし、レミリアは一歩踏み出せば剣先が届くところにいる。これだけ接近されていては、術の詠唱が間に合わない。
そもそもこいつは何をしに来た? 観光でないなら、私への復讐? いやいやその為だけに月まで来るなんてあり得ない。となると……
依姫に嫌な予感がよぎる。千年前の月面戦争の話が思い出されたためだ。突如として妖怪たちが月に攻め入って来たという話。当時は月の軍が兵器で敵を蹴散らしたそうだが、今の依姫は剣のみで一対一だ。
レミリアは……どういうつもりでここにいるのだろう。
依姫が口を開く。
「いきなりご挨拶ねレミリア。こんな場所じゃお茶も出せないわよ」
「いいのよ。あんたにしか用はないから。依姫、私の相手してもらうわよ」
私が狙い? 依姫が怪訝な顔をすると、レミリアはふっと笑い、構えていた紅色の槍、グングニルを杖のように地面につく。実際はグングニルが長いため杖にはなっていなかった。
「やっぱり選ばせてあげるわ。私と戦う? それとも尻尾巻いて逃げる?」
「その前に、答えて。あんた……月へ一体何をしに来たの? 戦争に来たの?」
「まぁ……そうよ、ちっちゃな戦争だけどね」
やはりそうか。妖怪たちが千年ぶりに、月に戦争を仕掛けてきたのだ。レミリアは、私の命をまず最初に狙ったのか。残しておくと厄介な強敵だと。
でも、なぜ最初の不意打ちで仕留めなかったのか。まさか……私を弄んでいるのだろうか? 以前レミリアと会話したときに、彼女の嗜虐心が垣間見えたのを依姫は思い出す。
レミリアは依姫に勝つつもりなのだ。前回こっぴどくやられているにも関わらず。
なんて――ナメられたものかしら。
依姫の口元に、初めて笑みが浮かんだ。
「なら、先手必勝!」
言うが早いか依姫の手から、フラッシュのような強烈な閃光が放たれた。レミリアのいた場所が真っ白に焼き尽くされるが、レミリアは一瞬早く上空へ飛んでいた。依姫の攻撃を読んでかわしたのだ。
レミリアはグングニルを振りかぶり、空中から依姫に向かって一直線に突っ込んだ。グングニルを依姫の右腕目掛けて振るい、依姫がそれを剣で弾く。すかさずレミリアは一回転し、今度は左腕を狙う。依姫は屈んでそれをかわし、無防備になったレミリアの半身に無数の光弾を撃ち込んだ。
とった、と依姫が思ったのも束の間、依姫の周囲の地面に数発の光弾がぶつかり草が焼け焦げた。依姫が目を見張ってすぐに立ち上がる。レミリアが神業のような速さで段幕を展開し、依姫の攻撃を相殺して防ぎきったのだ。レミリアが地に降り立つ。二人は再び、開戦前と同じ距離を保っていた。依姫は深呼吸をして半身で剣を構え、半ば素直な気持ちを込めて言った。
「やるじゃない」
レミリアはグングニルをぶんぶん回し、肩に掛ける格好でぴたっと止めると、余裕ぶって言った。
「今のが全力の三割ってとこかしら」
「あら奇遇ね。私は二割も出してないのよ」
互いに片足を大きく踏み込み、薙ぎ払うような二人の斬撃が交差する。打ち合った部分で火花が散り、消えるよりも先に次の一刀がぶつかり合った。レミリアと依姫は近距離で激しく打ち合い、互いに一歩も譲らない勢いで武器を振るい続ける。時たま二人の体を切っ先がかすり、細い血の筋を浮かび上がらせた。二人は体が少し傷つこうとも一瞬の隙も見せずに、相手を仕留めるためより意識を集中させる。
レミリアが依姫の動きに隙を見出だし、左の懐へ踏み込み地面と水平に斬り払う。だがグングニルは空を切り手応えがない。それがレミリアを誘い込む罠だと気づいた時には、依姫がレミリアの背後で剣を頭上に振り上げていた。レミリアは瞬間的に焦る。防御が間に合わない!レミリアは頭を下げ、グングニルを両手で支えて斬撃を受けたが護りきれず、頭を斬られる。体勢を立て直し、頭を触ると指に血がべったり付いた。それでもレミリアは気の迷いもなく、三度依姫に突っ込んでいく。
激しさを増す剣捌きの巻き添えをくらい、足元の草が切れていくつも舞い上がる。レミリアが上から下へ一際強くグングニルで斬り下ろすと、依姫の体が耐えきれず後ろへ押される。レミリアが前に詰め、容赦なくグングニルで鋭い突きを繰り出した。頭、首、胸、腹――すべて防ぎきったものの、依姫は両手がしびれてきているのを感じていた。
まずい、私が力負けしている。
そもそも依姫が剣を両手で持っているのに対し、レミリアはグングニルを片手で縦横無尽に操っている。剣の技術は互角であるものの、純粋な腕力ではレミリアが上回っているらしい。体力もしかり。依姫は額に汗を浮かべながらも、レミリアの攻撃はすべて確実に捌き、お返しとばかりに目にも止まらぬ速さの斬撃を繰り出し続けた。
レミリアは最初から、魔法のろくに使えない近接戦に持ち込めば依姫など敵ではないと踏んでいたが、相手は意外にも剣の勝負でも強かった。吸血鬼の全力をもってグングニルで突き、叩きつけ、切り払い、複雑に組み合わせた技を放ってもすべて防がれ、流されて、次の瞬間には攻撃に転じられている…… レミリアは肌で感じていた。これが依姫の実力なのだと。依姫の力と反応速度に舌を巻きつつ、レミリアも負けずにかわし、隙を狙って打ち込み続ける。グングニルを握る手が汗でじっとり湿っていた。
二人の頭上で武器同士が弾き合い、二人ともよろけて後ろへ下がった。金属音が止み、草原を風が吹き抜ける音が聞こえる。レミリアと依姫は武器を構え直しながらも、相手の様子を注意深く読み合っていた。どちらも顔からは余裕が消え、真剣な眼差しで呼吸を整える。依姫が口を開いた。
「どうして……最初の不意打ちで私を殺さなかった?」
「あんたを正面からねじ伏せるのが目的だからよ」
依姫にとって、レミリアの発言は不可解なところがあった。月に戦争を仕掛けるなら、そんなまどろっこしいやり方をせず粛々と殺していけばいいものを……やはりあの時の敗北の悔しさもあるのだろうか。
このまま斬り合っていても先が見えない。依姫は勝負に出ることにした。術を食らわすのには危険な距離だが、依姫は早く決着を着けたかった。依姫が左手を押し上げるように挙げると、レミリアとの間の地面がめりめりと音を立てて大きくめくれ上がり、二人の間に大きな壁が出来た。依姫は地面を蹴って後ろに飛び、壁から離れる。そしてレミリアに感づかれないよう、小声で素早く呪文を詠唱する。
『女神の舞に大御神は――』
しかし、唱え始めてすぐに依姫は詠唱を中断せざるを得なくなった。壁を突き破り、グングニルが依姫の顔めがけて飛んできたのだ。間一髪、体を傾けてかわしたものの、髪留めのリボンが少し欠けた。 さらにレミリアが壁を跳び越え、依姫のすぐ目の前に着地する。レミリアの手には新たなグングニルが握られていた。
依姫はさすがにこれ以上の接近戦は分が悪いと思い、華麗なバックステップで後ろへ下がっていく。離れたところで強力な術をぶつける攻撃に転じるつもりなのだ。だがレミリアはそれを許さない。
「させないわよ」
地面を思いきり蹴って一気に依姫までの距離を詰めると、依姫は目を見開き体をのけ反らせてしまう。 のけ反った依姫に覆い被さるように近づいたレミリア。レミリアがグングニルを握った左手を振り上げると、依姫は刀を顔の前で横に構えて受けの姿勢をとる。依姫の体勢はバランスが悪い。このままグングニルを叩きつければ恐らく力で勝てるだろう。依姫の刀が折れ、そのまま体を斬り伏せることになるかもしれないが。
しかしこの時、腕を振り下ろそうとする刹那、レミリアの脳裏にある考えが浮かんだ。
依姫をただ倒すだけではなく……敗北を認めさせなければ、私が勝利を確信しなければ、ここへ来た意味がない。
目の前には依姫の苦しげな顔。レミリアは思考の答えを瞬時に出すと、左手はそのままに右手で依姫の左手首をがしっと掴む。予想外の動きだったようで、依姫が焦り目を白黒させる。その一瞬の隙をついて、グングニルを下げて下から上に斬り上げ、依姫の剣を弾き飛ばした。依姫の手から離れた剣が弧を描いて飛ばされる。依姫が小さく舌打ちした。
依姫はレミリアに手を強く掴まれながらも、空いた左手をレミリアの顔にかざした。レミリアは顔に異様な熱を感じ、依姫の手を捉えて掌を外側へ向けさせる。ばじゅっ、と水に熱した金属を浸けたような音がして、稲光のような熱線が放たれる。レミリアの左手の表面が熱の余波を受けてひび割れた。すかさずレミリアは無防備な依姫の腹を思いきり蹴り上げた。
「ぐふぅっ!!」
依姫の顔が激痛に歪み、レミリアの掴んだ手から力が抜ける。
すかさずレミリアは手を放し、依姫の肩口に近いところを掴むと左右に強く引き、両肩の関節を外した。依姫の外された腕が力を無くして下がりきるよりも先に、レミリアは依姫を地面につき倒す。体が地面に打ち付けられて軽く跳ねる。
依姫がレミリア足でを蹴り上げようとしたがかわされ、レミリアは高く飛び、グングニルを逆手に持った。槍の先端が依姫の方を向く。腕を目一杯後ろに引き、依姫の体を跨いで着地すると同時にグングニルを撃ち出した。
避けきれない――依姫は目をぎゅっと瞑る。しかし、いつまで経っても痛みを感じることはなかった。依姫が目を開けると、依姫の顔の数センチ手前でグングニルが止められていた。レミリアと依姫の目が合う。レミリアの口元が笑んでいた。依姫の全身が、今さら冷や汗でびっしょり濡れる。グングニルを放り出し馬乗りになったレミリアが、今までで一番間近で依姫の顔を見た。
端正な顔は汗にまみれ、額には髪がぺったり貼りついている。頬に一筋切り傷があり、薄く血が滲んでいた。依姫は苦しげな、すがるような目つきでレミリアを見つめている。乱れた呼吸で上下する胸の感触がレミリアの腿に伝わってきた。レミリアは……純粋な嗜虐心が満たされる心地よさに、顔をほころばせた。
レミリアが依姫の眉間にとん、と指をおく。
「万事休す、よ、依姫……ここからは処刑の時間ね」
馬乗りされ、腕も動かず追い詰められた依姫はもう手も足も出ない。ただ目の光だけは失わずに睨みつけるしかできなかった。もっとこの顔を見たいと、レミリアは依姫の二の腕に手をつき、息を切らす彼女を真上から見下ろす。舌なめずりして唇を湿らすレミリアの顔が、今の依姫には肉食獣のように恐ろしげに見えた。レミリアの髪も汗に濡れており、額から玉の汗が滴り落ちて、依姫の左目に当たった。
「い゛っ」
レミリアの汗が、戦いの間中ずっと開きっぱなしだった目に染みた。痛みで涙が一粒こぼれ落ちる。するとその涙をレミリアが人差し指でそっとぬぐい、それを口に含んだ。腹が立つほど楽しそうな顔で言う。
「おいしいわね、あなたの涙」
依姫の胸中を苦い感情が満たした。完全になめられている。しかしこの状態では手も足も出ない。依姫の心中を知ってか知らずか、レミリアが言った。
「せっかくだし、あなたの血もいただこうかしら」
口からギラリと牙を覗かせる。依姫の顔が青ざめた。
「な……! や、やめて……私を吸血鬼にするつもり!?」
うろたえる依姫に、レミリアは努めて冷静に返した。
「バカね、私が吸ってもそんなことにはならないわ」
レミリアは抵抗できない依姫を相手に少し調子に乗っていた。レミリアは頭の横の髪を後ろへ流すと、やや興奮ぎみに依姫の首筋に噛みついた。首に牙を刺され、逃げられないと悟ると、依姫は目と口を固く引き結んだ。
「ん……んっ……」
レミリアが血を吸う度に喉を鳴らすと、ほとんど密着した依姫の上半身に動きが伝わる。依姫は痛みか不快感を予期していたものの、血を吸われる感覚は気持ち良ささえあり、張り詰めていた表情が緩む。 二十秒ほどでレミリアが牙を抜いて顔を離した。口元を手の甲でぬぐい、言った。
「ふう。ごちそうさま、ついいっぱい吸っちゃったわ」
「く……調子に乗るな……」
かなり血を吸われてくらくらする頭で、依姫は悔しまぎれに笑みを浮かべて言った。
「なによ、私を殺す気ならさっさと殺しなさい」
このままレミリアにいたぶられ、月人の誇りをズタズタにされるくらいなら、一息に終わらせられる方がまだマシだと考えていた。虚勢ではあったが、死を恐怖させて楽しむのがレミリアの目的なら少しはやり返せた気がした。レミリアが言う。
「あら、いつ私が殺すなんて口にしたかしら?」
レミリアは依姫の頬に手を添え、遊ぶようにつついたり引っ張ったりした。依姫が抵抗もせずに口をぽかんと開けてレミリアを見つめると、その顔が面白かったようでレミリアはさもおかしそうに笑う。レミリアがゆらりと立ち上がった。
「私の勝ちね」
依姫は目を閉じ、弱々しく頷いた。
「私の、負けよ。レミリア……」
レミリアは依姫の外れた肩をぐっと掴むと、ぐりぐり動かして元に戻した。痛みはしたが、依姫の腕は元通りに動くようになった。レミリアが不意に、依姫に手を差しのべる。
「いつまで寝てんのよ。ほら」
一瞬ためらったが、結局レミリアの手は借りず自分で立ち上がる。依姫は不満げなレミリアを尻目に、無言で服の砂埃を払った。レミリアもまた服を手で払うと、言った。
「それじゃ、私もう帰るから」
「え?」
「目的は果たしたし。言ったでしょ、ただあんたを倒しに来ただけだって」
依姫は信じられないという表情でレミリアに訊ねる。レミリアにはその顔がいつかの霊夢と重なって見えた。
「なによ……それ本気で言ってたの? あんた、本当は戦争しに来たんじゃないの?」
レミリアから返ってきたのは、呆れたような視線。
「そんなわけないじゃない。月の都相手に単身飛び込むようなバカな真似しないわよ。さっき言ったのは、私とあんただけの戦争、って意味」
そしてあっさりと別れを告げる。
「またね、依姫」
踵を返し、悠々と去っていくレミリアの後ろ姿を見ながら、依姫は思う。
私は最初からずっと、勘違いしたままレミリアと戦っていたのか……あいつはただ気まぐれで、私に勝負を仕掛けに来ただけ。それはそれで、いい。でも。
このまま、ただ私が負けただけで勝負を終わらせてしまいたくない。それでは私の心に傷が残る。それこそさっきまでのレミリアのように……敗者にだって誇りが欲しい……依姫の口をついて言葉が出てきた。
「待ってよ」
レミリアが振り返る。怪訝な顔をして依姫の次の言葉を待った。
依姫は自分が元々果樹園に行く途中だったことを思い出していた。
「ちょっと付き合いなさいよ」
二人が戦闘を繰り広げた草原のすぐ近くには、桃のなった果樹園がある。依姫はそこにレミリアを連れてくると、何も言わずに桃をもぎ始めた。木の根元に置かれたかごが桃で埋め尽くされていく。レミリアは腰に手を当てて、作業の様子をじっと見ていた。
桃が三十個は入っているだろうか――かごが一杯になると、依姫はかごの持ち手を持ってレミリアに押しつける。目をぱちくりさせるレミリアに、依姫はどこか決まりが悪そうに言った。
「……私に勝てたご褒美よ」
「なによそれ」
レミリアは思わず笑ってしまった。自分を叩きのめした相手に戦利品を贈るとはどういうつもりだろうか。依姫が続けて言う。
「どうせまた、ここへ来るためにいろんな人たちを振り回してきたんでしょ。あんたのわがままに付き合わされた可哀想な人たちにでもあげなさい」
再びレミリアに桃のかごを押しつける。レミリアは桃のかごと依姫の顔とを何度か見比べた。
「ふーん……」
やがて依姫の意図を理解し、かごを受けとる。レミリアは桃のひとつを手に取り、弄びながら言った。
「そうね、ま、もらっておいてあげるわ」
依姫の負けてなお尊厳を保ちたいという考えは、同じ負けず嫌いのレミリアにも分かった。手に取った桃をスカートのポケットに滑り込ませ、桃のかごの持ち手を肩に掛けると元来た道を歩き始める。
「さよなら、依姫」
レミリアの背後で依姫がため息をつくのが聞こえた。そしてレミリアとは違う方へ歩いていく。レミリアは振り向いて、さっき弾き飛ばした剣を取りに行く依姫に声を飛ばす。
「私を倒したくなったらいつでも幻想郷にいらっしゃい」
依姫は歩みを止めると、ふっと笑って言葉を返す。
「遺言でも用意して待ってなさいな」
レミリアは軽く手を挙げ答えると、磁針を便りにパチュリーの待つロケットへ向かって歩き出す。何を思うのか、見送る依姫の視線を背中に感じる。レミリアは草地が続くうちは飛ばずに歩いていこうと思った。草原の草を踏みしめる感触が心地良い。桃の果樹園と、戦いの地が遠ざかって行く。レミリアは雪辱を果たし、依姫に勝利して帰途についたのだった。
月から帰還したレミリアは、月での出来事を話して皆の驚く顔を見るのが楽しくてしかたなかった。
霊夢と紫は誰よりも真っ先にレミリアの元へ駆けつけた。レミリアは戦いの様子を詳しく語ることはせず、ただ結果だけを伝える。
まず霊夢には「やることが無謀すぎるのよ」とさっそく怒られ、紫からは「ここまでやるとは思わなかった」と曖昧な言葉をもらう。二人ともレミリアの戦果は素直に認めてくれたので、レミリアは満足だった。
他にも素直に生還を喜んでくれる者や、依姫に勝ったのを褒めてくれる者もいて、レミリアは英雄気分に浸ることが出来た。
翌日、『文々。新聞』によってレミリアの月遠征の話はあちこちに広まった。ただしだいぶ誇張された話である。レミリアが月の写真を撮るのを忘れていたため、文が内容だけで目を引けるよう色々とでっち上げたのだ。
新聞には『レミリアは単身月の都を壊滅させた』などと根も葉もないことが書かれていたが、レミリアの勝利にもちゃんと紙面が割かれていた。
レミリアが持ち帰った月の桃は、依姫の言葉通り遠征の手伝いをしてくれた人妖たちに食べさせることにした。それでも余った分は紅魔館に遊びに来た者たちに振る舞った。
月の桃はかぶりつくと口の中に染み渡る美味しさで、皆が気に入る味だった。また採ってきて、と言う者もいたくらいである。
戦利品を食べた人妖たちの称賛の言葉を聞く度に、レミリアは屈託の無い笑顔を見せていた。
なぜなら「レミリアが本当に依姫より強かったかどうかは別にして、今回レミリアが勝った理由(あるいは前回負けてしまった理由)が微塵も書かれていない」からである
これではただ儚月抄の展開が気に入らないから適当に話を捻じ曲げただけ
後書きが無い辺り自分でもやましい所があるのでしょう、書き直して再投稿を勧めます
正直、レミリアの勝利に説得力が絶無なんだが。
レミリアは6ボス(あるいはEX含めて)の中ではそれほど強くないクラスに入るのが魅力でもあるわけで、だからこそ主人公にしたくなるキャラなんだよなぁ。
特に前者がまるでなってない。バトル小説を書くのなら尚更。これただの依姫アンチの紅魔厨だと思われても仕方ないよ?
ただ惜しむらくは最後に幸せな夢を見ながらベッドにまどろむ
レミリアお嬢様が描写されてないことから
減点してこの点数に
夢オチなら評価できるのにな~
言うなれば「ボクの考えるボーゲツショー」になってる
いやそれがSSなんだけども、SSの観点で見ても稚拙
文量はあるから、頑張って欲しい! 期待
月の民である関係上、大体の地上の民が嫌いなので話を丸く終わらせる事も難しいです。
その上レミリアは二次テンプレの扱いとして主人公の踏み台負け犬役にされることが多いので納得する人は少ないでしょう。
ただ説得力に欠けていたのは否めない感。
問題はないと思いますよ。本編がアレである以上こういうのを求めてる人も少なからずいるでしょうし。
とはいえ、やっぱりそれなりの説得力は欲しいですね。
本編開きたくない気持ちは分かりますけど、探せばそれなりにこのSSを成り立たせるだけの説得力は落ちてます。
「体術では押されていた」
「レミリアを挑発してスペカを使わせた」
「4戦目とはいえ霊夢戦で息を切らしていた」
ざっと見ただけでもこれ位あります。
貴方のSSなんだから貴方の好きに作っていいんですよ
これからもがんばってください
依姫の役が紫や神奈子でも同じようなコメ欄になってたと思う
ただレミリアを最強にしたいが為の話にしか思えない
気分の→気分が
です
すいません
気分の→気分が
です
すいません