「百三十六億年前に時間と宇宙が生まれたとしましょう。もちろん私たち人間が決めた単位内での話ですが。そして、その絶対《タナトス》時間の尺度で『始まり』の一秒前は、一体『何』だったのでしょうか。時折そんな渺茫且つ膨大で、しかし些末な疑問が脳裏を過ぎります。例えばですが、私が死ぬとしましょう。意識は何処へ逝くのでしょうか。極めて生物学的且つ科学的に考察するのでしたら、先日教えた通り、意識は脳下垂体の化学物質の分泌操作と電気信号、脳と身体の相互関係で成り立っています。それ故、儘に同一に存在している限りは、その大本である脳髄又は心臓部、或いはその他の生命維持に関わる器官が停止してしまったら文字通り永遠に所謂心足るモノは消失してしまいます。畢竟《ひっきょう》、永遠に無になるという考えです。ひどく独善的で驕慢甚だしい考え方です。だから、と私は思惟してしまうのです。誕生以前が永遠だとしたら、私は輪廻するという事ではないのでしょうか。私という意識は死後、悠久を回帰し『生き返った』と言えるのではないでしょうか。全く以て摩訶不思議でなりませんよね。とまぁ、こんなところで今日の授業は終わります。……ところで最近この付近で物騒な事が起きています。ええ、そうです、よく知っていますね。『鬼』です。悪い子を食べてしまう鬼です。今、博霊師が調査しているので時期解決するとは思いますが、正確な時分までは分りませんので……。それまでは皆さんいい子でいましょうね。それから保護者からの提案もあったため、今日から、私達が皆さんを家まで送ります」
●
既に水飴の様な鱗雲が空を覆いつくし太陽が傾くに従い、徐々に景色は鈍色に包まれていく。
「夜分に出歩くのは好ましくないから控えて」
忠告を真摯に聞く齢八の少女は、私の掌からその小さな手を離し、丁寧にお辞儀と挨拶をした。
生徒護衛のため中町まで降り、買い物を済ませることにした。水無月特有の纏わり付く湿気は鬱陶しく嫌いだ。髪を撫でる颶風もヒールの下にある赤土も水気を帯び何とも気持ち悪い。
ところが梅雨など知らずと、声を張り上げるのも民なのだ。夕飯の買い物時も兼ねている蠱惑の誰そ彼時、少しでも収入を上げようと必死になる商人達。奥様方も雑談に花を咲かせており、その様々な要因が絡み『町』という風景を作り出す様は、オーケストラの亜種の様にも見える。
他愛もない風景の一欠片。散鬱の溜息と共に一つの単語が聞こえた。
「…………」
動機は真逆だが同じような嘆息を零す。人を殺す鬼、鬼を殺す人、どっちもどっちだと日和見主義特有の苦笑いしかないが、それでも教え子を殺されるのはなかなかに気分が悪いものだろう、いや知る由も無い。今のところ犠牲者は十数人だが、悉皆――所謂善良の民とは真逆に位置する――謂わば脛に傷持つ人のみであるのだから、楽観し出来るというものなのだ。特定されているのは八意氏曰く『犯行者』は死体から『持ち去る』ないし『食べる』のだ。例えば内蔵が一つ足りないなど、必ず人体を構成するパーツが欠けているのだから。幻想郷《ここ》で生活する人は、それこそ鬼と呼称し、恐れ戦く。まぁ、元々そういった感情が欠如した私にはそれらを感じることなど出来ないからこそ、自然とカニバリズムやアンソロポファジーという単語を想像してしまう。愛と食を混同してしまうのはギリシア神話や日本の言葉の端にも見られるが、いざ現実に起これば好奇心が襟懐に生じるのだ。それはさておき、全ては理詰め、万物は物質の集合体で説明できる唯物信者が私だ。鬼などと存在し得ない虚像を畏怖するなど諧謔味の帯びない冗談では笑えない。それに、
「大切な人を失うのは、もう嫌」
そこには、私の助手も含まれていることに些か驚いた。そうか、彼女にも多少なり愛着を持ったのか。だが彼女がこの町で疎まれているのは事実だ。あのオッドアイと慇懃無礼な態度だけが理由だとは思えない。それだけが気がかりで仕方ないのだが――。
「どうしたの、『先生』さん。ぼーっとしてるけど」
「え、あ。そう。あ、うん。ちょっと考え事」
なるほど、少しばかり呆けていたのか。恥ずかしくなり、早々にその場を立ち去ることに決めた。
買い物も終え、私は近道をするために雑木林を抜けることにした。私の寺子屋兼私たちの家があり、そして寺子屋と人里を結ぶ直線の軌道上には小さな森林地帯がある。直進すれば十分は短縮出来る。大概は迂回するのだが、今日に限っては疲れていたこともあり、早急に家に戻りたかった。
「…………」
音を聞いた。金属をゆっくりと擦るような甲高くも神秘的な音色。心臓が平生より早く打つ。暫く悩んだ後、好奇心に押されるように音のした方へ向かうことにした。
――そこで彼或いは彼女を見つけた。彼女(額の丸みや体つき、加えて氈鹿の様に艶美な脚部やらを観察した限りでは女性の様に見えるため、弁理上『ソレ』を彼女と呼ぶことにする)は緋色に満たされた空間に腰掛けていた。噎せ返るような森の薫りを揺籃とし、宛ら御伽噺の姫君のように綺麗に姿勢良く大木に寄りかかり、すやすやと寝息をかいているのだ。冥牢から抜き出たような漆黒のドレスから這い出る手足は病的なまでに真白で否応なしに蝋人形を想像させる。蜂蜜で染め上げた様な黄金色の髪は艶がありウェーブを描いている。しかしシルクと見紛う肌を構うことなく斜陽に晒していることや、癖髪を地に蔓延らせていることから、自らの美には無頓着なのかもしれない。まるでエリュシオンに咲く野花だと、目を奪われた。
●
頬杖をつきながら空想に啄まれていた私を現実に呼び戻す教会の鐘の様な音。それは私の左から、今朝掃除をしたばかりの窓硝子を小突く音でした。 途方もなく些細な疑問に浸らせていた脳も次第に蜘蛛の巣のように巡り渡ります。嗚呼……既に誰そ彼時だったのかと気がつくのに然程時間は掛かりませんでした。薄雲の切れ間からうっすらと小金色の日が差し込むのです。その呼び名の通り、顔には陰が混じり知人と害悪の境界を奪う時間――漆塗りの床が蜜柑色に染まっており鈍く光輝いているのですから全く持って相応しいですね。また溜息を一つ零します。
私の部屋。先生に頂いた大切な部屋です。同じように黒漆で塗られた脚座卓と傷だらけの本棚と寝具は古めかしいと言うよりは使い込まれています(自称ですが)。私の腰掛けている背後には桐の衣装箱と三面鏡がありますが、おおよそ私のような未通女《おぼこ》には相応しくないような華やかさで、それを見る度に自己嫌悪を催してしますので苦手です。
蛇が鳴くように小さな音色を私は足下から聞きました。否、正確には一階からです。その木製のドア金具の鳴き声は私を喜ばせます。犬みたいに自室から飛び出し、段差が急な階段を駆け下り、廊下小走りし、玄関まで到着しました。
「先生、お帰りなさい」
そう言うと先生は決まって微笑みながら、ただいま、と返してくれるのです。それが嬉しくて気恥ずかしくて。過度な面映ゆさを調味料に、つい頬が緩んでしまう自分がいるのです。それが日課のようになってしまっていますから。でも、その日は違っている事が一つだけありました。
「それは……?」
先生の肩を撫でるモノを見て訝しみました。それは人の腕でした。しかもそれは先生の背中から伸びているのです。目線で追えばその正体は確かに人なのです。それもかなり大きな人。どうしたのですか、と訪ねると先生はあっけらかんと答えるのです。倒れていたから、と。
「またですか」
呆れを含んだ声色で窘めました。先生の良いところでも悪いところでもあるのですが、誰彼構わず人を助けてしまうのです――それが悪人であれ善人であれ。
兎にも角にも先生と協力して、二階にある私の部屋に純白の褥を敷き、彼女を寝かせました。一定の感覚で聞こえる呼吸音は、それこそ官能的とも耽美的とも思え、暫くの間彼女を観察しました。心配する先生をよそに、私の想いは別の所へありました。寝ている彼女は、しかし何者であるのかという疑問です。
「凄く綺麗」
先生はそんな甘い一人言を零しました。対して私は素直に肯定することが出来ません。彼女の容姿は彫刻の様に完璧で美しいのですが、恐懼こそ覚えるものの、飾り気無い『綺麗』という語が似つかわしいかと問われれば否だと。彼女の美とは魔性であり、喩えるならば黒薔薇です。妖艶な姿で人を虜掠し、その棘で以て愛でた人を傷つける。つまり催眠に近い美貌だと……そんな言葉がしっくりくると思った矢先の事です。
臥せったその女性の戦慄く瞼にドキリとしました。上瞼と下瞼が開き、ラピスラズリの様に綺麗な眼球が見えます。滄溟《そうめい》色の双眼が徐々に光を宿していき、右から左、左から右へと移動します。やがて再び天井を見つめ続ける彼女は、しかし何も言いません。無言の儘宙に何かを見いだしているのかもしれません。
やがて彼女は一粒、雫を零しました。それは一般的に涙と呼ばれる物質でした。それから何十分、いや何秒経ったのでしょうか。私の体感《カイロス》時間は全くと言っていいほど当てになりませんので正確な時間は分りません。彼女はその薄桃色の唇を蠕動させました。
「大丈夫ですか」
先生の優しい声色が室内に響き渡ります。ところが人形めいた顔立ちの彼女は尋ねます。「貴女は誰? 見たことないわ」と。戦慄くようにも憔悴しきったようにも聞き取れる声でしたが、驚くほど玲瓏でした。先生は自らの名を名乗りました。そして自身は名執である事も。次に先生は、目線で私にも自己紹介を促したため、私はおずおずと自らの名前と先生の手伝いであると彼女に告げました。
「そう」
彼女は上体を起こそうとしましたが、その細腕が痛むのか、顔を苦痛に歪めました。
「まだダメね、馴染めない」
シニカルに自嘲した彼女は、又仰向けに寝転がります。
「そう、無理はダメ」
先生は困ったように笑いながら窘めます。
「でも外傷はないから」
「そうでしょうね」
心底面倒くさそうに返すその女性に腹が立ちました。どうしてこうも不躾なのだろう。
「貴女、何様ですか」
「霧雨魔理沙、それが私の名前」
聞いたこともない名前。語幹からすれば日本人名に相違無いのに、出で立ちは西洋風なのですから。そんな奇妙な錯綜感が脳裏を掠めます。偽名かと疑いましたが、透明な声に嘘は無いような気がしました。
それから霧雨と名乗った女性は再び瞼を閉じ、すやすやと寝息を立て始めました。
「申し訳ないけど、手伝って欲しい」
なんだか嫌な予感がしました。
「この女性を懐抱することですか」
「違う。足が痺れたから肩を貸して欲しいだけ」
もぞもぞと足を動かす先生。想定外の要請に苦笑いをしてしまいました。だけど私は肩を貸すことを拒否したり出来るはずもなく。私の肩に乗った先生の掌はとても暖かくて心地よくて。
翌日の朝の出来事です。
霧雨と名乗った女性は忽然と姿を消しました。立つ鳥跡を濁さずと言いましょうか、寝具一式は綺麗に元の位置に畳まれ、それこそ彼女が存在した痕跡そのものが消えているようでした。
「困ったわね」
先生は言いました。その瞳は自身の掌に向けられており、その上に乗っているのは、色褪せた銀色の真四角な箱。小指の先ほどの厚みしか無く、取っかかりが縁についているところを見ると、中に紙媒体を内蔵する物だと判断出来ます。中身はなんですかと尋ねますと、先生は無言でソレを開きました。
目に飛び込んだのはセピア色の写真。赤いドレスがよく似合う欣快な笑みを浮かべた砂金色の髪を持つ少女と、霧雨魔理沙の若い頃と思われる少女の二人が、机を挟み豪奢な椅子に腰掛けてお茶をしている写真です。写真の中の霧雨魔理沙は、快活を絵にしたように笑っています。背景の薔薇園から考察するに、場所は西洋のお屋敷の中庭ではないかと推測しました。
それはとても暖かみに充ち満ちた写真でした。
「あの人のモノだけど……落としたみたい」
その言い方は、何故か少しの申し訳なさを含んでいました。
「まだ近くに居るかもしれないから探してきます」
言うが早いか、先生のそれを掠うようにして駆け出しました。
「あ。……うん。じゃあ、お願いする」
遠くなるその声を聞くだけで私は百人力なのですから……少し過ぎた表現かもしれません。
さて、あの容《かんばせ》なのですから、人(特に男連中ですね、いやらしい)に聞けば発見は容易でした。その場所へ向かうと、彼女は湖でナルキッソスよろしくしゃがみ込んでいました。彼女は間違いなく霧雨魔理沙ですが、しかし無聊の亜種――先日の斜に構えたような態度が微塵も感じられないので別人の様に見えました。
彼女は私の草を踏む音を聞いたのか、顔を上げました。そのときに気がついたのですが、彼女の両腕には小さな子猫が抱かれていました。白銀色の毛並みを持つ可愛らしい猫に。生まれてから数カ月と思しき子猫です。
「貴女は……えっと、お名前なんでしたっけ?」
……前言撤回です。霧雨魔理沙は子猫をそっと足下に置くと、すくりと立ち上がり私と向き合いました。やはり彼女は私よりも頭二つ分は高いのです。並の男性ならば彼女は見下ろす姿勢を取らざるを得ないほどに。そして自身も例に漏れず彼女を見上げるように名乗りました。
「……上白沢慧音です」
「貴女が……そうね。そういうことですものね。確かもう一人が宇佐見……若干失敗ね」
彼女が何を言っているのか分らないし分りたいとも思いませんでした。故に浮浪者の戯言として聞き流すのが一番です。彼女はそういう類いなのですから。
「これ、忘れ物です」
彼女は凍り付いたように目を見張り、そして差し出したそれを見つめました。それも刹那の出来事。次の瞬間に彼女は鮮やかに私の手から奪い取り、それを抱きしめるように胸に抱えました。まるで愛おしい我が子を守る母の様に。それだけなら未だしも、私を敵の様に睨み付けるのです。
嘆息しました。どうにもこうにも、こいつの頭の中に脳みそではなく砂糖菓子が詰まっているんじゃ無いのでしょうか。そうでなければこのような聊爾を重ねることなど出来ないはずです。
「無礼ではないのですか」
窘めると、霧雨魔理沙は嗤った目をさらに細め、不思議そうに私の瞳を睥睨しました。
「どうして」
「どうしてって……」
答えに窮しました。常識という白銀の鎖は無謬ではありません。生まれてからの環境によって大きく差異があるのですが、彼女は……まるで別次元で創世したかのような決定的な欠如が垣間見えました。しかしそれを――致命的な瑕疵《かし》を指摘できる権利など私には有るはずも無く。
「例えばだけど」
彼女は娼婦宛ら魔的に微笑を浮かべる儘――。
その行為に私は思わず息を呑みました。霧雨魔理沙は足下ですり寄る無辜な子猫を躊躇も憐憫も無く踏み潰したのです、何度も何度も。彼女の靴は丸みを帯びているが故に出血はありませんでした。けたたましい声が鼓膜を劈き、同時に耳朶を振るわせる骨を砕く鈍く大きな音と内臓が……漿液の詰まった消化器官の数種が破裂するような音は、私の脳髄の大半をどろどろに融解させます。彼女は幾度も踏み躙りました。血と肉と骨が交じり合ったモノが毛並みの隙間からドロリと溢れ始めました。生を翹望するその小さな生き物は、しかし同じように可愛らしい内蔵が突出させ、縮れた胃袋が乳白色の肋骨と混じり合いながら痙攣しています。彼女の靴底は生物を土に混ぜるように捏ねくり回し、磨り潰すのです。次第に命が消えかかるように、鳴声も小さくなります。そして彼女の執拗なまでの耕作により、猫は小さく歪な轍へと姿を変えました。静寂が寧ろ五月蠅くて。
「慧音先生、貴女がした事はこういう事よ」
切り裂いたのは、そんな戯言。今更、彼女は無自覚に悪意を拡散するのだと理解しました。
「貴女には人の心が無いのですか」
そんな偽善を――自身すらも半信半疑な唯心論を口に出すことで、彼女を悪性と判断したかったのです。私を鎖縛する常識が世の絶対善であるように信じたかったのです。
「……心?」
彼女は少しだけ呆け、そして白硝子のように細長い首をぐるりと蛇のように回すのです。彼女は俯き嗤いました。天を衝くように、高らかに醜悪に哄笑するのです。そして瞬く間に荒い息にすり替わり、冷たい瞳で私を睨み付けます。翳った光彩は憎悪の表現であるかのように、氷霧の炎で覆われていました。
「無知蒙昧極まりね……では少しだけご高説させてもらおうかしら。人間という生物は百四十億の細胞から成り立つ。水と蛋白質、それに少しばかりの化学物質……そしてもっと奥底、原子核は意識と意思で構成されるのよ。意識と意思はクオークとから。さて、貴女の言う心とやらは何処に混じるの要因があるのかしら?」
極めて科学的な唯物論――無機質な模範解答でした。あまりにも人間らしくない答え且つ正答。
でもコイツは、間違いなく私とは異なる種族だと、理解しているのに納得出来なくて。私が幾ら努力をしても手に入らない「人」という種族を、霧雨魔理沙は所持しているのです。圧倒的な虚しさとやり場の無い怒りと仄かな嫉妬が、ぽつぽつと胸の奥で霜を付けるのです。
「だけど、少しだけ貴女が羨ましいわよ」
小さく吐露した言葉は、私の神経を逆撫でするのには十分過ぎ、腸が煮えくり返りそうです。だけど彼女に八つ当たりして、どうにか出来るものでも無いと分っていましたから、特別行動を起こす事はしませんでした。加えて先の言葉には、彼女の本質が寓意の様に鏤められているような気がしました。故に無碍に反応できるはずもなく。
暫く言葉を失いましたが、霧雨魔理沙を見ていると、やがて彼女はめんどくさそうに口を開きました。
「……チッ、なら義理立てしてやるぜ。少しの間住まわせて貰うから、代わりに何か手伝う」
「気持ち悪い。やめてください」
彼女はクツクツと薄気味悪い笑い声を上げ、
「まぁ宇佐見先生がダメと言うなら無理強いはいわないけどね」
仰々しく一礼する霧雨魔理沙。結局、彼女を引き連れ――否、決して嚮導する気は無く彼女は黙って私の後ろを追従してくるのですから――錆付いた脳内が儘、宛ら胃袋に重油を詰め込まれた足取りで帰宅しました。予想通り、先生は了承しました。
それから数日が経ちました。夕日で滲む室内で一人、明日の授業予定を立てていましたが、何とも落着かないのです。真っ赤な太陽を見ると猫を思い出してしまうから。しかもあり得ない猫の鳴き声……即ち幻聴までも付随してきます。総体で私の常を壊していくような錯覚。
あの日以来、霧雨魔理沙は私達の家に寄生し授業を手伝うようになりました(加えて私と同室なのです)。個人的な感情抜きでならば、正直、助かっています。しかし喉に魚の小骨が刺さったような違和感と、私の日常を侵されたという他愛も無い感情も芽吹きました。何より私はあの女性が苦手ではなく、嫌いでした。禍福を織り成すとはまさにこの事なのかと実感さえしました。同じ空気を吸いたくない、彼女の吐いた炭素の欠片を私が少なからず吸い込んでいるというのはこれ以上無いほどの苦痛でした。そんな複雑な想いを抱きつつも、変わらぬ日常を送っていたのです。
その日も先生の帰宅を待っていました。少しの孤独と蠢く蟲が窓に衝突する音が靡く自室で、また空想に浸り始めようとした、その刹那。
「――――」
どくりと、視界が赤と白と黒の螺旋に満たされました。当初は霧雨魔理沙の残虐で惨たらしい事を追憶し、胸が痛くなったのだと思いました。しかし一秒、また一秒と時間が進む度に血管の中で縫い針が暴れ回るように『慣れ親しんだ』激痛へと変化するのです。心臓が渚で小突かれる貝殻のように不安定な律動を刻み、体内に別の生物が居るように痛むのです。皮膚を裂きさかんばかりに私は胸に爪を立てますが、止まる気配など一向にありません。
「――――――っぁ」
嗚咽とも喘ぎとも取れぬ声が喉元から響きました。鼓動が、脈打つ鐘の音が五月蠅い。そして私は情けない悲鳴を上げました。右手の手相から、縦に文字通り『伸びる』のですから。組織の壊乱と再構築。掌骨、皮膚、手掌腱膜、毛細血管の果てまでもが飴細工の様に押広げられていくのです。それは一定の成長を遂げると、次には泡沫の様な脂の様なモノが表層吹き出るのです。おぞましい……こんな醜悪なもの。掌で必死に押さえ込んだとしても、それは広がり続け、
「ひ――ッ」
押さえ込んだ左手の長掌の表面もまた同じ現象が発生しているのです。そして白い粒は白魚の様な硬く鋭い白銀の鱗へと変化して行くのです。忽ち肩の方まで競り上がってきて……。掻き毟りますが、爪が割れ、剥がれ落ちるだけで、全く解決になりませんでした。視界では私の十本の指の爪から包丁の様に輝く鋭い牙のようなモノが生えます。ソレには然程目がいかなかったのは、偏に溢れ出た真っ青な血液を見てしまったからです。この体液が、遺伝子が為せる悪魔が如き所行ですが、毒突いたところで血を全て石鹸になど出来るはずもないのですから。喉がカラカラとまるで硝子珠のように動き回り、柔らかい脳髄の奥底で不協和音が鳴り響きます。足の自由が効かなくなっていき、痺れに蝕まれます。血液が溜まり沸騰する錯覚、自身の五体を満足に制御できません。嫌だと叫びましたが止まってくれる気などないのでしょう。私の声色も野太く荒々しく変化していき、それは野獣の慟哭のようでした。諦めたくはないのですが、私は抗う牙すら持ち合わせてはいないのです。抵抗は無理だと分かり次第に諦めに身を任せるように……諦観だとか達観だとか……比較的楽な思考へと移り始めました。
霞む視界のその端。大切な姿見に映った私は、文字通り化け物でした。
●
夢寐から醒めるように、暗闇から抜け出すように……急速に覚醒した意識には靄など一切存在しません。
「…………ン」
静寂を引き裂く湿った咀嚼音。間違いなく私の咥内が音源です。粘着質な液体を吸引で以て啜る不愉快極まる音が周囲に響き渡ります。宛ら吸血鬼――生業悪魔の作業。しかし、こればかりはどうしようもない生まれ持っての宿命、言い訳です。遺伝子の中で騒めき、喚き立てる命令……つまり意思などと言う有り体で出来合のものでは到底覆すことは出来ません。嗚呼、ひどく、喉が乾きます。次の瞬間には、ごぼりと唇を鮮血で湿らせました。脳に残響するのは自責と後悔と紛れもない事実。私の両手は薔薇の様に赤く、それは見紛う事なき漿液の色――端的に言えば血液と呼称される液体。赤い血液が羨ましい。膝を衝いたその土も、粘着質な液体で一面湿っています。豊沃を超え水溜りとして、それは留まり時折波紋を生みます。鱗混じりの両手を地面に放り投げると、雫が跳ね、私の頬を掠めました。きっと一筋の軌跡として綺麗に描かれた事でしょう。
「嗚ァ呼……嗚呼――ァ!」
阿呆の様に嗚咽を繰り替えしてしまう自分がおかしくて悔しくて、堪らないのです。ですが、私は、私自身の力では、止めることが出来ないのです。涙霞、引き攣る喉。涙の水粒は留まるところを知らなくて。それは自己弁解であり自己嫌悪であると知っても尚止まらないのです。苦しくて、辛くて、でも自身の力では解決できないのです。誰か助けて下さいと、他力本願。
「ようやく――」
――見つけたと、幼い女児の声色が私の耳朶を振るわせたのです。いいえ、幼いけれどそれは何処か老婆の様でした。一瞬の硬直と空白の後、原音は背後からと気づきましたが、見られたという驚きと、どうしたらいいかという混乱が脳髄の中で漣のように鬩ぎ合うのですから、どうしようもありませんでした。でも、行動を起こさないといけない。ですから、泥水が如き心持ちを抱いた儘、その声の主と対峙するために振り返りました。
それは年端もいかぬ少女。彼女は毅然として、私よりも数歩ほど離れた位置に佇んでいました。身長は五尺ほど。闇夜に反発するよう銀嶺を彷彿させる髪は膝下まであり、夏風に嫋嫋と梳かされています。同じように真白な着物は、単衣のようでもあり、しかし活動的な切れ込みが入っているため妓楼で邂逅したのならば遊女にも見て取れたでしょう。楚々とした顔立ちは明眸皓歯という陳腐な表現しか出来ないほどです。しかしその美貌には似付かわしくない氷刃の様に鋭い双眼が私の眼を射貫いています。
何よりも目についたのは、彼女が右手に担いでいる兇刃。抜き身のソレの柄は垢穢《くえ》の桐で相当に使い込まれている事は想像に難くありません。反対に刀の腹は鏡の様に満月を映し出しています。加えて、猩々緋色の燐光を放ち始めました。刀身の周囲のみ、大気が燻り陽炎を生じさせていることから発熱していることは確かでしょう。熱砂の剣を携えた少女は間違いなく――私を探していたのです。
「私を、殺すの……」
しかし、それでも構わないと思いました。死んでこの地獄が終わるなら、と。ところが、戦慄く私の声色は今度こそ恐懼など生温い純然たる憎しみに塗れていました。それは単なる生存本能の塊。害為すものと敵対した時に起こる必然な反応。
しかし少女は一粲しただけでした。
「確認するわ。お前は『人』?」
答えたくありませんでした。同時に明確な殺意を覚えました。
それは私の怪奇的な心の痼りでした。神獣である父と人間の母の受精卵の成れの果て。名誉欲に溺れ、虎の威を借る事に人生を注いだ女狐の股から生まれた不完全な生命体が私の正体です。しかし生まれてからここ数年までの間は何ら問題は無かったのです。人の形をしていたため私は先生の元で人として育てられました。ところが最近、体の自由が効かなくなるときがしばしば、訪れるようになりました。原因は明らかです。五体が――五臓六腑が拒否しているのです。俗世に塗れた人を食い殺せと私に瘧が生じるのです。本来ならば幽境の地で生活しなければ私のこの身は保つことが出来ないのです。
答えを迷っていると(元来、答える義理などありはしないですが)、少女は目尻をつり上げ、再度口を開きました。
「貴女、名前は?」
白髪の少女は睨み付けて尋ねるのです。その閑雅な顔立ちは好奇の色を帯びていました。だから私も彼女の瞳を見据え、口を開きました。
「上白沢慧音」
「ふゥん。私は」
「言わなくても分ります。貴女の名前は多比能でしょう?」
やりかえしてやったという気分で一杯でした。満月の夜、私は人ではなくなるのですが、その代償として『歴史』を改竄することが出来るのです。それは森羅万象から人間まで――それが私に宿った忌むべき異能。
しかし想像した反応とは裏腹に、多比能は蛾眉を吊り上げ唇に下弦の月を象ります。
「貴女、面白いから少しだけ見させてもらうね」
言い残し、彼女は私に背を向けました……なんて無防備なんでしょう。今の私ならば、貴女を屠るなんて容易いのに。ですが、私は彼女を見送ることしか出来ませんでした。
●
恐らくだが、感情というのは摩耗又は錆付く事があるのではないだろうか。だから私は文字通り血液が流れていないかのように、冷血でグルーミーな反応しか出来ないのではないだろうか。閑話休題だ。脱線はされるのは嫌いだが、自分ではついしてしまうのが悪癖だ。
町内会議の本部役員という肩書きは結構肩が凝る。……ふむ。あまり面白くない洒落だな。ともかく、そういった七面倒くさい会議が今し方終えたところだった。大半は行事の事。主に祭の事だ。
「上白沢が、今年の『巫《こうなぎ》』」
ふむ。事実として受け入れてはいるようだ。役員共の心情は手に取るように解る。それは未知への恐怖だ。大方、上白沢慧音に対し戦々恐々、針の莚で跪座するのに等しいのだろう。だから体の良い理由を託け処分する。
さてはて、私は彼女の死の未来を悲しむ心が残っているのだろうか……考えたところで内心で失笑を重ねるしかない。
「若しくは……あのときに、枯れ果てたか」
あり得る話だ。
さて、少しばかり……そう、ほんの気まぐれだ。特別、深い意味などないが、彼女に対して思うことがあるらしい。それに従うのもまた一興だろう。万に一つ、私を理解してくれるかもしれないしね。
●
「ひょっとして何か用事があった?」
月の剣が雲を切り裂く夜。先生はのぞき込むように私を眺めます。その顔色は赤く林檎のように見えました。既にお酒が血液を伝い、脳髄を犯されているのですから。胡乱な瞳が私の瞳の奥底を抉るように見やるので戦々恐々堪ったモノではありません。いや、実際は少し照れくさいと申しましょうか。
お世辞にも綺麗とは言えない屋台に二人腰掛け、粛々と酒を傾ける……といっても私はそんなに強くないので、泰然と飲酒するのです。未成年飲酒ですね、ごめんなさい。……兎も角、『巫』として白羽の矢を立てられた祝いだと思いますが、先生は照れくさいのかそんなことは言い出しませんでした。私も驕るのは嫌いなので敢えて自分から話すことはしません。
「いえ、別に……ただ、こういったことって今まで無かったですから……」
私は染まった頬を見られるのが恥ずかしくて俯きながら答えました。
思わず言葉尻を濁してしまったことに、なんだか、ばつの悪さのようなものが宿りました。覆い隠すために私もグラスに注がれた日本酒を煽ります。
「きまぐれ。そして君が『巫』に決まった事への……なんだ、いい表現が浮かばない。とにかく飲もう。大将、もやし炒め。あと酒」
先生に手渡された升と硝子容器には並々と注がれた透明色の液体が揺れています。
「飲んでるの? グラス空だけど」
「え、はい。大丈夫です」
「そう、ならいい、奢るから。遠慮はよくない」
元々先生は饒舌な方ではありません。寧ろ寡黙な方です。加えて、極度にパーソナルスペースが狭い方です。ですから誰かと一緒に食事をしたりと言うことは珍しく、自らが誘うなどと天文学的なものでありました。
「最近、料理に凝っていてね。これが存外面白い。ある種のケミカル」
だから私は認められたような気がして嬉しかったのです。大好きな人の特別になれたのだと。でも、そんな喜びと同時に汚れた私なんかでいいのだろうかという懺悔めいた気持ちも鎌首を擡げるのです。
「そうなんですか。でも先生はお肉とか食べないですよね。野菜中心ですか」
「うん、そう。昔、鼠食べたことがあったけど、髪みたいな味がして嫌いになった」
「食べたんですか……その、鼠も髪も……」
「苦くて臭くて嫌い」
先生は淡々と自らの失敗談(自身は失敗だとは思っていないようですが)を語り、私もそれに返答する。この瞬間がずっと、ずっと続けばいいなと摂理を無視した願いを懇望する始末。
ですが明けない夜が無いように、夜が脅かさない朝は無いように、段々と口数は減っていきます。
無言で酒を呷る先生の瞳は一層、胡乱を帯びます。どことなく動作も怪しくなっていますし。
「の、飲み過ぎじゃないですか?」
我慢できずに先生に苦言を呈しました。先生はグラスの底から人差しの第一関節ほど残った液体を見つめたまま、口を開きません。先生の呼吸は不規則で、動もすれば倒れそうなほどです。
「いや、別に。……少しだけ思い出しただけ」
「どういう……意味ですか?」
「別に。慧音には関係ない事だから」
圧倒的な拒絶が含まれている事が、何よりも辛くて。「そうですか」と吐き出せたのは奇跡なのか将又酒の所為なのか。募るところ分りません。
「それは勘違い。君は悪くない。悪いのは……誰だ、決まっている……私」
じっとりとした無自覚の悪意。感情の機鋒が私の奥底を引き千切ります。あっという間に既に澱み切った空気が蜷局を巻き、ずっしりと停滞していたのです。
「……ッ。明日、花華祭ですよね!」
這い寄った沈黙に耐えきれず、言葉を紡ぎました。しかし先生は何も言いません。何も話しません。唯ならぬ様子に、襟懐で恐怖が芽を出して――、
「先生っ、何か言って下さい!」
弱者故に我慢出来ないのです。舌が暴れるのを止められません。今度こそ声を荒げ、糾弾にも悲鳴にも聞こえる金切り声を上げました。遂に先生は、首だけをこちらに向けました。月光故に右半分に陰を張り付かせた顔は、平生と何ら変わりなく綺麗でした。そして清楚で可愛らしい薄桃色の唇を蠕動《ぜんどう》させます。
「君はメリーじゃない。ごめんなさい」
――瞬間。景色が滲みだして、口唇が震えてしまって、顔が熱くて、張り裂けそうで。莫迦みたいに、瞳から体液が流れて歩き方も忘れて作り笑顔も歩み寄り方も忘れて、何を忘れていたのかを忘れて。「どうして」――どうしてそんな、悲しいことを言うのですか、宇佐見先生、私には貴女しか依代が居ないんです。親に見捨てられたとしても、友と呼べる者が一人も居なくても……それでも、私が生きていけたのは先生の御陰なのに。
「すまない。失言だった」
――ぁ。生唾を飲み込み、脆弱な戦慄きを掃滅させ、
「五月蠅い、不必要、みんな死んじゃえばいいのに」
紡いだ言葉は荒涼塗れの擦り切れた懊悩の欠片。そして逃げ出しました。……逃げ出してどうこうなる事でもないって分っているのです。でもこうする以外に方法が在ったかと言えば、やはり答えは出ないのです。やっていることは、母に怒られ泣きべそをかいている子供と何ら遜色ありません。私はいくら人間よりも優れた能力を持とうが、一人では生きてはいけないか弱い半人半獣なのです。
「……ぁ」
ゼェゼェと五月蠅い自分の呼吸の音。何時の間にか足が動かないのです。そして視覚と嗅覚が失われていることに気付きました。頬に冷たく硬い土の感触。ここは、何処だろうか。何処でもいい、穢土でも俗世でも。誰もいないなら。悠久の最果てまで、幻惑の仮初めに身を任せたい――。
「めりぃ」
声帯から発せられた涙声はそんな音だったと思います。めりぃ。その固有名詞を深く深く自傷よろしく刻みつけました。先生の、大切な人だと、理解したから。覚えてどうするの?
――私は、また非道い事を考えちゃうったのですか。そうです、先のみんなには自分も含まれているのです。自分一人では死ぬ勇気がないから他者を巻き込むのです。
「貴女も、私を嘲りに来たの?」
背後。触手が蠢動するような気配の元へ問いました。
「いや……別に」
幼い声。しかしその話し方には不似合いな気取った間がありました。この声の主を知っています。
「多比能――」
「今は妹紅。妹に紅と書く」
あっけらかんとそんな事。聞いていないし、聞きたくもなければ興味もないです。既に曖昧模糊と化した視界は何を映しているのかすら定かでは無く、加えて瞼に鉛が乗っかった様で上手に開けません。次の瞬間、私は体はびくりと痙攣しました。多比能が私を担ぐのです。激しく拒絶したかった。でも私の右腕は言うことを聞かないのです。
「何を、するの!?」
「顔見知りに死なれると目覚めが悪いの」
刹那、彼女の言の葉の中に煌めく人の本質を垣間見たような気がしました。それは誰に向けて放ったものでしょうか。私か、或いは彼女自身か。
「人間のっ、真似、なんて……しないでくだ、さい……ふろう、ふしの、客《まろうど》の、癖に」
「私は人でありたいよ。でも、もう無理なの。赦してくれない。で貴女は――」
「五月蠅い」
何を譫言を囀っているのでしょう。
「死ねないのなら生はない。……加えて感情が摩耗した人間は既に人形だ。だから」
「五月蠅い……貴女こそ、ぁゎレです。偉っ……そうに能書きを垂れ、ないでよ……ッ」
「人の味方をすれば、人に成れるって信じてた。でも君は人で無いのに、遙かに私より人間みたい」
「五月蠅いってっ、言ってるでしょ!」
「実は、貴女のこと調べた。知れば知るほど憧れた。どうして。人じゃ無いのに、人に混じって生活出来るの……正直嫉妬してる。莫迦みたいだけどさ。私に持ってないモノを持ってるんだもの」
「それ、は……」
それは、貴女と同類だから――イヤだ。
何の前置き無く、急に思考が途切れました。
翌日、私は自分の部屋で目が覚めました。まるで全てが夢だったのではないかと訝しみたくなるほど、呆れるほど穏やかな目覚めでした。
先生は、どこにいるのだろう。謝りたいな。あと、ついでに多比能にも謝っておこう。別に深い意味は無いのですが。
●
「お月様と神経衰弱でもしてるの?」
元私の部屋で、霧雨魔理沙は寝転がりながら尋ねてきました。既に湯浴みを済ませた魔理沙の濡れた艶のある髪が腰元まで垂れ、火照った頬が何よりも色っぽくて何時にも増して妖艶さが際立っています。私はといえば、また碌でもない主義思想に毒され、袋小路が如き問題の解を探し求めていた最中なのでした。
……彼女と私は同室故否応なしに寝食を共にする羽目になっているのですから、逃げたくても逃げられないのです。牢獄めいた室内に柔和な月明かりが差し込みます。
「いえ、別に……何も」
再び満月を見上げ、彼女にそっけない言葉を浴びせました。この須臾が永遠に続けばいいのに。歴史の狭間で永遠に生きていけたら、どれほど幸せなことか。
「魔理沙さんは、永遠とかって信じますか」
前触れなしに彼女に問いました。
背後からうーんと唸り声が聞こえましたが、それはどうにもこうにも演技以外には見えませんでした。
「何をいきなり。頭の調子でも悪いのかしら」
「……貴女に訪ねた私が莫迦でした」
儘、彼女と対面するのは都合が悪いと思い、目線を床に向けたまま浴室へ向かおうとした時です。
「昔、同じ事を、貴女みたいな人に言われたわ」
冷淡さに充ち満ちた声色にどきりとさせられました。得意の揶揄が一切合切霧散していたのですから。そして図らずとも彼女の声色に見いだしたのです。瞳の色は虚ろでしたが、間違いなく、信足るモノが映り込んでいました。限りなく無色透明に近い色彩が、彼女の瞳でした。私は、予想外の出来事に、恐ろしくなり、その場を立ち去り早々に風呂場に向かいました。なんて脆弱で、臆病者なのでしょうか。また自己嫌悪。
入浴は心の洗濯だと誰かが言いましたが、その通りだと思います。白煙の切れ間から覗く無関心な宵闇に目を向けていると心が落ち着きます。私が少しでも体を動かすと湯船に波紋が広がり、音が立ち、一挙一動を見張られているような心持になります。気にせず、ここ数日の間に変わった人間関係を縷々とした糸を紡ぐように、考えた始めました。
先生は、私にとってどういう存在なのだろうか。間違いなく恩師で在り、親代わりで在り、もっとも尊敬すべき『人間』です。でも先日の出来事以来、少しだけ先生の芯がを覗き見た気がしました。――それはある種の盲目的な愛。対象はは「メリィ」。その人のためなら擠排《せいはい》を厭わず、且つ他の事など一切躊躇無く切り捨てることの出来る強さの輝きです。裏を返せば非道く利己的で自己愛極まる感情なのです。
次に思い出したのは霧雨魔理沙。頭の螺旋が二、三本足りない女のことです。ところが彼女の本質とは自己犠牲の果て殉っても尚、他を敬愛するという人間らしい瞬きで構成されているのです。掌で抱えきれないほどの幸福を望むが故に、人の領分では無理だから、人を辞めたいと願う女性。私が最も恋い焦がれるように憧れた感情。それを突き詰めた姿なのではないのでしょうか(あくまで彼女と出会ってからの数ヶ月で観察したことなので、間違っているかもしれませんが)。
そして最後に、白髪の少女『藤原多比能』の事を考えます。人ではなく、人でありたいと願う少女。人を守れば人の側に立てると幼稚極まりない考え方。彼女の事を考えると、胸が締め付けられるように苦しくなるのです。まるで鏡を見ているかのようで。些事だと一笑に付することもできましょうが、今の私にはそんな勇気も度胸もありません。そう彼女と私は近似しているのです。もしかしたら、私は、彼女の事が……逆上せてしまいそう。そろそろ湯浴みを終えましょう。
入浴を済ませた後、嫌々ながら自室へと戻りました。案の定霧雨魔理沙が居ましたので、私は横を通り過ぎ窓近くで火照った体を冷まそうと考えました。覗く満点の煌星と欠けた白い月の鏡。その姿に心奪われていたというのに、彼女は、私のすぐ背後に立ち私の首筋に腕を巻き付けるのです。
「貴女は何に悩んでいるの?」
彼女の吐息が首筋を擽ります。それは歯痒く、異性を悶絶させる煽情行為に他なりません。
「……貴女に教える義理は在りません」
「そうかもしれない。けれど聞きたいわ。一種の知的好奇心からね。もちろん口外なんてしないわよ」
指先の挙措は繊細で艶かしく、私の顎先を撫で回します。気味悪くなり、逃げ出そうとしました。しかし棒と化した足では上手に行かず盛大に前のめりに転んでしまいました。幸いな事に、痛みはまるっきり皆無でした。それもそのはず、私の腰骨のあたりには敷き布団があったから。
これは拙い。なぜならば、私に覆い被さるように霧雨魔理沙が私の両手首を掴み、押しつけているからです。生憎ですが、こんな女と同衾する趣味はありません。だから、
「……離して下さい、人を呼びますよ」
制止を促しましたが、直後、彼女の唇が私の唇に押しつけられました。聳動と嫌悪が爆発します。
「やめっ、て……っ!」
反駁は、しかし力足らずで。
「いいこと。この幻想郷と呼称される世界は、喩えるならば舞台。役者はドラマ通りに、不要なモノは即座に舞台裏に捌けさせられる。そんな世界」
「だから……私は、死ぬの?」
名執の弟子として朽ちるのならば、構わない。
「そう。貴女は異端。この世界での異端は常識。所詮という言い方が当て嵌まるのかどうかは疑問だけれど、貴女は所詮外の世界での異常者。即ち――八雲紫に取っては邪魔な存在でしか無い」
途端、彼女がひどく滑稽で哀れに思えました。
どうして世界単位でしか物事を語れないのだろうか。胸に湧く憐憫を知らずに説法めいた忠告を続ける魔理沙は、真剣それそのもので。
「私も貴女も、この世界では弾かれるべき存在。だから牙と成り得るの。お願い。力を貸して」
「断ります。……大体、貴女は人間でしょう」
「成りたくて、成ったわけじゃないのよ」
なんて傲慢。増長も甚だしい道化師です。
「人なら、両腕で抱えきれない願いは抱かない」
「いいえ。抱えきれなくなった時、人は人に成る」
再度接吻され唾液と舌を入れられる。
「無風流なのは嫌い?」蛇蝎めいた舌を私の首筋に這わせた後に、彼女は耳元で囁きます。大丈夫、悪いようにはしなから……と。
全身が蛇に睨まれた蛙よろしく、硬直し麻痺したように動かないのです。彼女の指先が私の衣服を花弁を剥くように脱がしていくのです。抗うことが出来なくて、でも涙は溢れなくて。
「そういえば、貴女『贄』に選ばれたんですって」
疑問、不可思議な単語。意味不明理解不能な事。
「贄? 私は巫です」
「それは建て前。騙りと寓意の区別もつかないほど愚かではないでしょう?」
私の唇を翫びながら、彼女は続けます。
「なんて陋習……大多数のために一人には犠牲なるなんて。それで本当に信じているのが有象無象の劣等種なのだから仕方の無いことと謂えばそうかもしれないけれど」
苦笑の仮面を顔に貼り付け私を寓目する彼女。繋がっていく破片の欠片。先生の唐突な誘い。多比能の言葉。全ての誤謬が崩壊し、合点がいくようで。
「巫山戯ないでッ。そんなの嘘です! 先生が、先生はそんなことしない!」
最後の力を振り絞るかのように絶叫しました。それに応じるかのように霧雨魔理沙は、貪婪な瞳が儘に、私の下腹部に薄汚い舌を這わせます。
「貴女は明日死ぬの」
それが、なんだというのでしょうか。
「気に食わないわね、その瞳。死ぬのが怖くないなんて目。そんな塵埃同然の独善思考――」
何が彼女を苛立たせるのか。忌々しげに呟いた後、瞳を細め歪に微笑みます。
「いいわ。貴女にあげるわ。人足る称号を」
彼女はおもむろに異界の言葉を吐き出し、右手に光を宿しました。それは凍り付くような虹色でした。
「……な、にを……ぁ」
彼女の指先が私の下腹部の皮膚を文字通り『通過』し、私の子宮を直に捏ねくり回すのです。それは喩えようもない嫌悪感と嘔吐感。決して快楽とは程遠い、粗悪な儀式の様にも思えました。
「ぁ、……ぅぐ、ァゥ……っ!」
体の内部で何かが狂騒しているのです。痛みと、苦しみ、死への圧倒的な恐怖。異なる負の感情が漣の様に寄せては引き、闘争するのです。褥を強く握りしめ、吐き気を催す激痛に耐えます。奥歯が欠ける音と鉄の味。喉元を熱せられた刃物で切り落とされるようで、脳漿を直接かき回されているようで、三半規管が狂奔するようで、爪の間に畳針を仕込まれるようで――。
「馴染むまで一晩ぐらいね。ソイツが感情の抑制をブチ壊してくれるわ」
彼女が浮かべた笑み。ソレこそ銛が刺さり余命幾分も無い魚を見るような眼つきを携え、これでもかと大笑します。悪魔の笑いを聞きながら、痛みが引くのを待つしかありませんでした。
そして今朝の黎明。発狂寸前の激痛が嘘のように引き、代わりに例え様もない違和感が支配していました。そして、ふと化粧鏡を見ると、昨日まで真っ黒だった髪は、気持ちの悪いほど白く輝いていたのです。両眼とも血の色にすら成いて。事情を聞こうと魔理沙を探しても見つけられず、仕方なしに祭に向かいました。そして今、人混みの中で、彼女を見つけたのは単なる偶然でした。探していた訳でも無いのに、無邪気に林檎飴を頬張る彼女が目についたのです。ゆっくりと彼女に歩み寄ります。雨上がりの土の薫りがこそばゆく、成れない浴衣も相まって少しだけ緊張します。
「多比能」
彼女は、やる気のなさそうな瞳を翳し、うん、などとやっぱり気の抜けた返答をしてくれました。
「珍しいね――」そこまで告げた多比能は今度こそ瞠目し、絶句していました。意味が分からず、少しの間視線を交錯させていましたが、やがて多比能は口を開きました。
「あなた、慧音なの?」
ドクリと心臓が脈打ちました。
「――――」
彼女に何が分るというのでしょうか。確かに形は変りましたが、私が異常だとでも? 暫く睨めっこを続けていた最中の出来事です。
「慧音。私を探してたって聞いたけど……あら」
気の抜けるようで、しかし男を惑わす毒を含む声質。それは霧雨魔理沙のモノでした。彼女を見た多比能は、さらに光彩を縮ませるのです。しかし、それを見た霧雨魔理沙は鼻を鳴らしただけで……久闊を叙すということではないのでしょう。
「ここは、人が多いわ。別の場所に」
多比能は静かに唇を震わせました。それは聞いたことも無いような過剰な怒気を孕む誘い文句。
「ええ、そうね……人気のない静かな場所に、ね」
語尾を強調した魔理沙も、唄を唄うかのように軽やかに多比能の後ろをついて行きます。
私は見送ることしか出来ません。……? 問い詰めた途端に、心臓を鷲掴みにされるような……理性ではどうしようも出来ない震えが全身を貫きます。否、理乱こそ全ての答えでした。
●
笑顔満ちあふれる表街道の裏側。祭囃子は遠く穢土とは懸け離れた濁り澱み切った場所。花火の燐光を背負い、宵闇に滲む影は二つ。一人は長躯、一人は矮躯ながらも互いにシンメトリーよろしく対峙しているのは些か奇妙にも映るだろう。
「お前、慧音に何をしたの?」
先に口火を切ったのは森を背に佇む方だった。白鬼を具象化したような出で立ちの少女。否――それだけではなく、彼女の放つ禍々しくも雄々しい怒気が彼女をそう見せている。比喩ではなく、膨大な熱で陽炎が生じる。その怜悧な瞳が射貫く先。
「貴女に何か関係があって?」
対峙する女性は美麗や耽美など陳腐な言葉では収まらない山紫水明にも似た幻惑の美しさを兼ね備えていた。しかし他者の神経を逆なでさせるような鼻持ちならない口調は、喩えるならば寓話の魔女が飛び出たという表現が適切だろうか。
魔女は口を開き溜息と言の葉を吐き出した。
「まぁ、貴女が彼女に投影しているのは知っているけど、まさかここまでとはね」
「っ。関係ない」
その声質には明らかな動揺が含まれている。
「いいわ。答えてあげる。彼女を停滞させたのよ」
「停滞?」
「そう。あの儘ならば近い未来、彼女は獣に成り果てる。だから――私がしてあげたの。彼女を永遠の半人半獣に。人にも成れない。かといって獣にも成れない――」
瞬間。魔女の頬を熱線が掠める。赤く一筋の線が刻まれる。しかし、彼女はちろりと舌を上唇に走らるだけだった。
「無駄ね。だって彼女は貴女じゃ無いもの、救えないわ、どっちもね」
妖艶を纏う女はタクトを振るう様に、まるでそこに見えないオーケストラが顕在しているかの様に、腕を嫋やかに空を切る。呼応するように少女は無言で柄を強く握り構える。
「貴女、本当に人間なの……」
「生物学的にも倫理的にも、貴女よりはね。化物さん」
呵呵と喉を鳴らす魔女。それが嚆矢。
「殺す――絶対に殺す。お前はだ、悪意を振りまく坩堝以外の何物でも無い」
何がおかしいのか、喉を振るわせ大笑する魔女――嗚呼、人が心底の悦ぶ顔は醜いのだろうか。
「クハッ――――Ahc――ァ! 咆えることだけは一端か、駄犬風情が――」
純然足る嚇怒を孕む宣告を受け、蛆虫が胃袋でスキップするような笑い声を上げた魔女。その姿は宛ら添削する教師そのもの。
だからこそ先に鯉口を切ったのは、やはり白髪の修羅であった。
●
渦潮が如き火炎は宛ら毘藍婆《びらんば》。風切り音の嬌声と灼熱の旋風の喘ぎは鬼哭であり慟哭だ。ふゥん。実際に私が触れることが出来る。考察するに紅蓮はオプチカルの類ではなさそう。だけど……無問題――細胞単位で興奮する――なかなかどうして我武者羅で。チリチリと眼球が焼け付くようで事実鞏膜《きょうまく》が糜爛しているかも。私と同じ様に後天的な努力によって身につけた代物でしょうね。――チッ。戻りが速いわ。まぁ後天的な術式は荒削り故に未熟。それこそモーメント的な効果しか無いから即興であしらえる。――何なの、直向きで愚直で、嘗ての自分を見ているようで苛つく。一番の障害は、その不死性。避けることもなく己の皮膚を焼け爛れさせつつ、文字通り無傷で突貫してくる様は、猪武者よりも怖い――なんなのよっ、コイツ!
「お前も私をッ、覬覦《きゆ》だ鄙俚《ひり》だと罵るか――ァ!」
落ち着け。血を凍らせろ感情を鏖殺しろ。思い出すな。コイツは霊夢では無いのだから。
畢竟……貴女の強みは自身の細胞の高速再生。骨格、心臓、毛細血管、リンパ腺、電気信号、最果ての陽子の核までも、全てが全て元通りになる。本来人間のテロメアの書き換えの最大総数は決まっているのだけど、……ヘイフリック限界が無制限なんて出鱈目もいいところ。無論のことながら彼女のDNA並びにRNAもそれには該当せずアポトーシスによるPCDなど露ほども考慮する必要などないわけか。――その目を、やめてよ……お願いだから、ねェ!
でも弱点も見つけた。変異は必然だから、故にデリケートなのだ。ほんの少しの傷でも再生する。傷の度合いに依存し再生速度は変化する。だから、点よりは面で攻めた方が効果的なのだ。心臓を一撃で穿つよりも、何か鋭利なモノ――そう例えば鉈や斧などで両断してしまう。そうすれば徐々に彼女は息切れしていく。装置が無限でも動力は無限ではないのだから……喩えるならば幾ら大きな水筒だろうが、空に成れば機能しなくなるように。
「ということで、勉強になりましたか。お嬢様」
駄馬のように荒い息を吐き出す自分に驚いた。思いの外、抵抗されたのか。
ナイトバロンの様にお辞儀をしてやるが、瞳の焦点が定まっていないところを見ると、既に微睡みの奥底に片足が浸かっているのだろう。
自身の無駄に五月蠅い呼吸音しか聞こえない。
「――――ッ」
心臓を、冷たい掌で握られたような嘔吐感と拒否反応。
この女? 即座に思いついた疑問を否定した。倒れたまま動いた気配がない。燃焼による酸欠も考慮したはず。胸を押さえたが、収まる気配が見えない。先よりも遙かに激しい動悸と、ゼェゼェとした息は不規則なリズムで冷たい夜に木霊する。飴が溶けるようにその場に膝から崩れ落ちる。脊髄を痛めた訳でも、脳に打撃を受けた訳でもないのに。
「ぅ……っ」
胃の中のモノを全て吐き出した。吐き出しても尚、嘔吐する。黄緑色の吐瀉物が赤土に零れ、染み込むわけでもなく唯流れる。歩けない。確実に、まるで足が存在しないかのように。警鐘めいた第六感の知らせ。まずい。拒絶される……!
偽りの微睡みが、遠い昔、魔女《わたし》がまだ少女《こども》だった頃を追憶させる。
嘗て驥足を展ばし自由が儘に天を翔る少女が居た。彼女は私の数少ない友人で、その日も彼女と遊戯めいた勝負をし、負けた。
「……!? どうしたの」
「いや、ちょっと……」
傷だらけになった私を見て、上白沢慧音先生は心配そうに目を細めた。その姿に母の姿を重ねていたのかもしれない。
「早く手当てをしないと……!」
先生は急いでハンカチを私の額の流血を塞ぐ。寧ろ凄く染みて痛くて、でも嬉しくて顔が綻ぶ。
博霊霊夢と勝負をするといつもこれだ。これで通算百戦百敗。何をどう足掻こうが『小細工』と言われ、地面に叩き臥せられる。私は天才では無い。あくまで凡才だ。アリスに言われた。貴女は後天性《あとづけ》だからと。パチュリーにも言われた。霊夢は天才だからと。
「どうして私じゃ、ダメなんだろう」
口に出さなきゃやってられなかったから。情けない吐露をしてしまった。
「それは、きっと人だから」
空前絶後――ピラミッドの頂点に勝とうとしたら、その上の土俵にまで上がるしか他に無い。鼠の中で一番強いモノでも、人間には勝てないだろう。例え外道に傾倒しようがだ。
●
呪詛めいた祝詞が唄い上げられています。その祭壇の片隅。謂わば裏方の位置にて私は小さく蹲っていました。膝ががくがくと揺れ、蛆虫が全身を這いずり回る様な掻痒感に満たされるのです。
死ぬのが嫌だ。これ以上ないぐらい怖い。忘れられるのが。何も知らぬ有象無象が、私の事を好き勝手に口伝していくのが嫌。ですが、これらは昨日までの私には無かった焼け付く心情。今の私は、自己愛の塊で何とも醜い存在です。有象無象以下の犬畜生にも劣る存在に成り果ててしまったのです。口では偉そうな事は言えます。永遠を巡り蘇っただとか死が怖くないだとか。私は誰にも必要とされてないのに、こんな事を考えるのはエゴ以外の何物でもないのですが、それでも利己愛自己愛だと罵られても、私は生きていたいのです。もう何も考えたくない。脳が、心があるから人は苦しまなければならない。もう要りません。何も要らない。脳みそが駄菓子で出来ていたらいいのに。そうか、だから彼女は――、
「……ッ!」
慄然と恐怖に震える私の肩に添えられた掌。嗚呼。与えられた安堵を韜晦出来るほど、私は、器用じゃ無いから。
「先生……ッ!」
振り返った先にある、優しい微笑みが、何よりも暖かい花のようで。凍り付いた私を溶き解す太陽の様でもあって。自然と涙が溢れます。
「……ごめんなさい。こういうとき何と言ったら最善なのか、知らない。だから聞こう」
「もう、嫌です……!」
「どうして?」
「死ぬのが怖いです……! 先生は、怖くないのですか?」
「怖くないと言えば嘘になる……ふむ」
顎に手を当て先生は少しだけ思案しました。後に、静かに口を開きました。
「すまない。どうやら彼女は今日、穢れの日の様だ。これは私の落ち度。だから私が代役を務めよう。元々彼女には荷が重すぎるし」
平生と何ら変わらない声でした。そして、その舌鋒は呆けた委員会に向けられており、彼らは顔を見合わせ侃々諤々一歩手前の論争を繰り返し先生の提案を受理したようでした。
先生は手早く死装束宛らの薄い単衣に着替え、鍛鉄門の前まで微塵の淀み無く歩くのです。
「先生っ、私は貴女の自殺の手伝いなんて嫌です……! こんな、見窄らしい真似なんて、誰かを殺して、私が助かるだなんて……嫌です!」
「イヤイヤと。まるで稚児のソレだから、見苦しい。しかも死ぬ気なんて無い――私は」
黒く聳える地獄の門を潜ろうとした時です。先生は、私の方を向き、
「いや……他意はない、か」
困惑した微笑を浮かべた気がしました。
後に響く歓声と涙に震える愚衆の声色と、拍手喝采にも似た黙祷。それは心底おぞましく、醜いものでした。否、これを人というのかもしれません。その行為がこんなにも露悪に見えるなんて。
嗚呼――みんな、死んじゃえ。
衷情から出た呟きは塵芥が如き生物の鳴き声にかき消されて、霧散しました。
●
神殿と瑞垣を超えた遙か地下の中。蒸し暑く宛ら焼売だなと一人つまらない冗談で濁す。否、笑えもしないほど鬼哭啾々という言葉がぴったりとくる。憎悪が猖獗《しょうけつ》した回廊――日の光も届かぬ暗澹。一歩進むごとに噎せ返るような血と苔の粘り着くような薫りが鼻腔に絡みつき、虚脱感と疲労感が全身を掻き乱し、汗が止まらない事に加え、身に纏っている単衣が肌に張り付く。迷わぬように石壁に右手を添える。擦れ摩耗しきっているためか、ざらざらとした触感は皆無で、寧ろ瑪瑙に近い滑らかな手触りで気が滅入る。左手には頼りない蝋燭と燭台。先端で炎がちろりちろりと蛇の舌のように揺れ動き、足下で靴に叩かれた粘着質な液体が跳ねる。
「別に……」
別に、彼女のために身代わりになったわけではない――言い訳めいた詭弁を口に出しかけて止めた。だがそれは間違いなく自己欲求から出た利己的な代物だ。本当に長いと思うが、愛に恋い焦がれる乙女宛らひどく興奮している自分もいる。一分か一時間かの区別すら曖昧になるほど、時空間軸の境界が崩れている。だが、ここに『彼女』の手がかりになるものがあればと、嚮導されるように我が足は留まることを知らない。この場所に真実の断片があるはずなのだ。
嘗て博霊神社の納屋で見た書物――月面戦争――境界――全ての根源にいる存在が、この先にいるはずなのだ。問いたいことは山ほどある。
「メリーのため……」
思えば、私の人生に於いて最初で最後の友だった。傀儡が儘入学した京都の大学でメリーと出会い、その二年後に彼女は消失した。彼女は私にとって最大の、掛け替えのない親友だ。だからこそ。口の端が歪に吊り上がるのを自覚する。延いては自分のため。自分の穿った心の空白を埋めるため、探したという結果のもと、メリーと私はもっと仲良くなれるという打算。諸々を含め考えるに、結局私は一介の人間に過ぎない。苦笑とも恍惚とも取れぬが、自然と笑える。犠牲ぐらい出してやる、邪魔するなら排除するぐらいの気概で日々を過ごした。
重苦しい襖戸まで辿り着き、その扉に掌を重ね、ゆっくりと開いた。轢み擦れる音が鳴り響く。
絶句した――文字通り煌星で満ちた室内。否、室内などと生易しい空間では無い。如何に荒唐無稽と蔑もうが、現実に存在するのであればリアリズムを基板とした唯物論で語ることが出来る。
即ち此処は外宇宙の中座。
女性が一人座禅を組むようにして座っている。その頬は文字通り罅割れており、赤黒い光沢を放つがらんどうが覗いていた。
「貴女はメリー?」
震える声色で答えを求めた。
彼女は痛んだ瞳をおもむろに動かした。
●
喧噪を嫌うかのように魔女は鬱蒼と茂る森林の中を、まるで宵闇を吸い込むように地面に臥せり、匍匐する。彼女の喘鳴が虫の鳴き声に混じり溶けて消えていく。
「ハ――ぁっ……」
こんなところで倒れるわけにはいかないと、焦げ茶色の地面を掻き毟り『召喚場《とびら》』に辿り着こうとする姿は醜い蚯蚓が蠕動しているようですらある。諧謔の権化足る彼女からは想像も出来ないほど、必死な形相を浮かべ歪に這い進む。爪が剥がれようと、小石で顔中に傷を負おうが、どれだけ醜態を晒そうが、留まることは無い。
何がいけなかったのか。世界と自分に楔を打込まれたみたいだと。ずるりと、一寸ばかりを全力で進む。彼女は思う。アリスを、慧音を、みんなを救わなくては――もうすぐだったのに。フランドールの誕生日がそろそろだ。新しいドレスを買ってやって、ラズベリーソースたっぷりのケーキでお祝いして。だから死ぬ訳には、いかない。八雲紫など私の前には俗物以下のはずなのに。悔恨、惆悵、嚇怒――複雑な電気信号が脳内で綯い交ざり混濁を描き、か細い指先が止まることはない。四肢が砕けようと脳漿が飛び散ろうとも、自分の体なんてどうなってもいいと彼女は思い、翹望する――みんなを救えれば……あのときは無かった力で、全て。誰よりも努力家だったからこその自負。過大も過小もしない彼女は、故に謙虚であり傲慢だ。
そして、ようやく彼女は視界端に蛍光色に輝く魔方陣を捕らえた。
「もうす、ぐ。み、ま様、叶、マ、リス……ねェ」
それを契機に彼女は動かなくなった。
●
蝉時雨が耳を劈きます。夏の日差しは雄々しく且つ唯我独尊の限り照らし続け、体から水分を奪っていきます。じわりと、額から水滴が垂れる感覚が暗闇の中でも分ります。
目を開いたその先には墓石が一つだけ。地面の下には遺骨も何もありませんが。今日という特別な日は、本来ならば幸せに満ちあふれる日になるはずだったのです。私が寺子屋を継ぎ、名執として教壇に立った日です。十五年前のあの日を境に先生は姿を消しました。もっと貴女の元で教わりたかったと唱え失うことはないけれど。
「私にも伴侶が出来ました。とても優しくて暖かい人です。言っておきますけど女性ですよ」
……結局唯の一人言なのです。私の自己愛を満たすための雁物の善意なのかもしれません。自己愛を通しでしか他者と関わり合えない生物なんて歪で高尚とは程遠い存在です。
「……妹紅」
照れくさそうに視線を逸らす彼女を見ると、何故だか安息します。
与えられたこの異能は八雲紫の靴を舐めるためにあるんじゃない。彼女を舐り穿つ刃となるために与えられたのですから、進んで死を望むなど私らしくないのです。ですから、今暫くは、この日溜りに留まっていてもいいでしょうか。
「妹紅、今日はどこかで食べていこうか」
「……お金無いよ」
「そうか。なら手料理でも振る舞おう」
「そ、それはもっと遠慮したい……ほらっ、お腹も空いてないし!」
「どーいう意味だ……ん」
ふと、遙か遠くの後方で私の名前を呼ぶ声がしました。それは聞いた頃がある声でした。そういえば、助手で働きたいという魔法使いの少女が先日訪ねてきたことを、すっかり忘れていました……名前は、確か――嗚呼、そうだ。
「きりさめ、まりさ……だったかな」
●
既に水飴の様な鱗雲が空を覆いつくし太陽が傾くに従い、徐々に景色は鈍色に包まれていく。
「夜分に出歩くのは好ましくないから控えて」
忠告を真摯に聞く齢八の少女は、私の掌からその小さな手を離し、丁寧にお辞儀と挨拶をした。
生徒護衛のため中町まで降り、買い物を済ませることにした。水無月特有の纏わり付く湿気は鬱陶しく嫌いだ。髪を撫でる颶風もヒールの下にある赤土も水気を帯び何とも気持ち悪い。
ところが梅雨など知らずと、声を張り上げるのも民なのだ。夕飯の買い物時も兼ねている蠱惑の誰そ彼時、少しでも収入を上げようと必死になる商人達。奥様方も雑談に花を咲かせており、その様々な要因が絡み『町』という風景を作り出す様は、オーケストラの亜種の様にも見える。
他愛もない風景の一欠片。散鬱の溜息と共に一つの単語が聞こえた。
「…………」
動機は真逆だが同じような嘆息を零す。人を殺す鬼、鬼を殺す人、どっちもどっちだと日和見主義特有の苦笑いしかないが、それでも教え子を殺されるのはなかなかに気分が悪いものだろう、いや知る由も無い。今のところ犠牲者は十数人だが、悉皆――所謂善良の民とは真逆に位置する――謂わば脛に傷持つ人のみであるのだから、楽観し出来るというものなのだ。特定されているのは八意氏曰く『犯行者』は死体から『持ち去る』ないし『食べる』のだ。例えば内蔵が一つ足りないなど、必ず人体を構成するパーツが欠けているのだから。幻想郷《ここ》で生活する人は、それこそ鬼と呼称し、恐れ戦く。まぁ、元々そういった感情が欠如した私にはそれらを感じることなど出来ないからこそ、自然とカニバリズムやアンソロポファジーという単語を想像してしまう。愛と食を混同してしまうのはギリシア神話や日本の言葉の端にも見られるが、いざ現実に起これば好奇心が襟懐に生じるのだ。それはさておき、全ては理詰め、万物は物質の集合体で説明できる唯物信者が私だ。鬼などと存在し得ない虚像を畏怖するなど諧謔味の帯びない冗談では笑えない。それに、
「大切な人を失うのは、もう嫌」
そこには、私の助手も含まれていることに些か驚いた。そうか、彼女にも多少なり愛着を持ったのか。だが彼女がこの町で疎まれているのは事実だ。あのオッドアイと慇懃無礼な態度だけが理由だとは思えない。それだけが気がかりで仕方ないのだが――。
「どうしたの、『先生』さん。ぼーっとしてるけど」
「え、あ。そう。あ、うん。ちょっと考え事」
なるほど、少しばかり呆けていたのか。恥ずかしくなり、早々にその場を立ち去ることに決めた。
買い物も終え、私は近道をするために雑木林を抜けることにした。私の寺子屋兼私たちの家があり、そして寺子屋と人里を結ぶ直線の軌道上には小さな森林地帯がある。直進すれば十分は短縮出来る。大概は迂回するのだが、今日に限っては疲れていたこともあり、早急に家に戻りたかった。
「…………」
音を聞いた。金属をゆっくりと擦るような甲高くも神秘的な音色。心臓が平生より早く打つ。暫く悩んだ後、好奇心に押されるように音のした方へ向かうことにした。
――そこで彼或いは彼女を見つけた。彼女(額の丸みや体つき、加えて氈鹿の様に艶美な脚部やらを観察した限りでは女性の様に見えるため、弁理上『ソレ』を彼女と呼ぶことにする)は緋色に満たされた空間に腰掛けていた。噎せ返るような森の薫りを揺籃とし、宛ら御伽噺の姫君のように綺麗に姿勢良く大木に寄りかかり、すやすやと寝息をかいているのだ。冥牢から抜き出たような漆黒のドレスから這い出る手足は病的なまでに真白で否応なしに蝋人形を想像させる。蜂蜜で染め上げた様な黄金色の髪は艶がありウェーブを描いている。しかしシルクと見紛う肌を構うことなく斜陽に晒していることや、癖髪を地に蔓延らせていることから、自らの美には無頓着なのかもしれない。まるでエリュシオンに咲く野花だと、目を奪われた。
●
頬杖をつきながら空想に啄まれていた私を現実に呼び戻す教会の鐘の様な音。それは私の左から、今朝掃除をしたばかりの窓硝子を小突く音でした。 途方もなく些細な疑問に浸らせていた脳も次第に蜘蛛の巣のように巡り渡ります。嗚呼……既に誰そ彼時だったのかと気がつくのに然程時間は掛かりませんでした。薄雲の切れ間からうっすらと小金色の日が差し込むのです。その呼び名の通り、顔には陰が混じり知人と害悪の境界を奪う時間――漆塗りの床が蜜柑色に染まっており鈍く光輝いているのですから全く持って相応しいですね。また溜息を一つ零します。
私の部屋。先生に頂いた大切な部屋です。同じように黒漆で塗られた脚座卓と傷だらけの本棚と寝具は古めかしいと言うよりは使い込まれています(自称ですが)。私の腰掛けている背後には桐の衣装箱と三面鏡がありますが、おおよそ私のような未通女《おぼこ》には相応しくないような華やかさで、それを見る度に自己嫌悪を催してしますので苦手です。
蛇が鳴くように小さな音色を私は足下から聞きました。否、正確には一階からです。その木製のドア金具の鳴き声は私を喜ばせます。犬みたいに自室から飛び出し、段差が急な階段を駆け下り、廊下小走りし、玄関まで到着しました。
「先生、お帰りなさい」
そう言うと先生は決まって微笑みながら、ただいま、と返してくれるのです。それが嬉しくて気恥ずかしくて。過度な面映ゆさを調味料に、つい頬が緩んでしまう自分がいるのです。それが日課のようになってしまっていますから。でも、その日は違っている事が一つだけありました。
「それは……?」
先生の肩を撫でるモノを見て訝しみました。それは人の腕でした。しかもそれは先生の背中から伸びているのです。目線で追えばその正体は確かに人なのです。それもかなり大きな人。どうしたのですか、と訪ねると先生はあっけらかんと答えるのです。倒れていたから、と。
「またですか」
呆れを含んだ声色で窘めました。先生の良いところでも悪いところでもあるのですが、誰彼構わず人を助けてしまうのです――それが悪人であれ善人であれ。
兎にも角にも先生と協力して、二階にある私の部屋に純白の褥を敷き、彼女を寝かせました。一定の感覚で聞こえる呼吸音は、それこそ官能的とも耽美的とも思え、暫くの間彼女を観察しました。心配する先生をよそに、私の想いは別の所へありました。寝ている彼女は、しかし何者であるのかという疑問です。
「凄く綺麗」
先生はそんな甘い一人言を零しました。対して私は素直に肯定することが出来ません。彼女の容姿は彫刻の様に完璧で美しいのですが、恐懼こそ覚えるものの、飾り気無い『綺麗』という語が似つかわしいかと問われれば否だと。彼女の美とは魔性であり、喩えるならば黒薔薇です。妖艶な姿で人を虜掠し、その棘で以て愛でた人を傷つける。つまり催眠に近い美貌だと……そんな言葉がしっくりくると思った矢先の事です。
臥せったその女性の戦慄く瞼にドキリとしました。上瞼と下瞼が開き、ラピスラズリの様に綺麗な眼球が見えます。滄溟《そうめい》色の双眼が徐々に光を宿していき、右から左、左から右へと移動します。やがて再び天井を見つめ続ける彼女は、しかし何も言いません。無言の儘宙に何かを見いだしているのかもしれません。
やがて彼女は一粒、雫を零しました。それは一般的に涙と呼ばれる物質でした。それから何十分、いや何秒経ったのでしょうか。私の体感《カイロス》時間は全くと言っていいほど当てになりませんので正確な時間は分りません。彼女はその薄桃色の唇を蠕動させました。
「大丈夫ですか」
先生の優しい声色が室内に響き渡ります。ところが人形めいた顔立ちの彼女は尋ねます。「貴女は誰? 見たことないわ」と。戦慄くようにも憔悴しきったようにも聞き取れる声でしたが、驚くほど玲瓏でした。先生は自らの名を名乗りました。そして自身は名執である事も。次に先生は、目線で私にも自己紹介を促したため、私はおずおずと自らの名前と先生の手伝いであると彼女に告げました。
「そう」
彼女は上体を起こそうとしましたが、その細腕が痛むのか、顔を苦痛に歪めました。
「まだダメね、馴染めない」
シニカルに自嘲した彼女は、又仰向けに寝転がります。
「そう、無理はダメ」
先生は困ったように笑いながら窘めます。
「でも外傷はないから」
「そうでしょうね」
心底面倒くさそうに返すその女性に腹が立ちました。どうしてこうも不躾なのだろう。
「貴女、何様ですか」
「霧雨魔理沙、それが私の名前」
聞いたこともない名前。語幹からすれば日本人名に相違無いのに、出で立ちは西洋風なのですから。そんな奇妙な錯綜感が脳裏を掠めます。偽名かと疑いましたが、透明な声に嘘は無いような気がしました。
それから霧雨と名乗った女性は再び瞼を閉じ、すやすやと寝息を立て始めました。
「申し訳ないけど、手伝って欲しい」
なんだか嫌な予感がしました。
「この女性を懐抱することですか」
「違う。足が痺れたから肩を貸して欲しいだけ」
もぞもぞと足を動かす先生。想定外の要請に苦笑いをしてしまいました。だけど私は肩を貸すことを拒否したり出来るはずもなく。私の肩に乗った先生の掌はとても暖かくて心地よくて。
翌日の朝の出来事です。
霧雨と名乗った女性は忽然と姿を消しました。立つ鳥跡を濁さずと言いましょうか、寝具一式は綺麗に元の位置に畳まれ、それこそ彼女が存在した痕跡そのものが消えているようでした。
「困ったわね」
先生は言いました。その瞳は自身の掌に向けられており、その上に乗っているのは、色褪せた銀色の真四角な箱。小指の先ほどの厚みしか無く、取っかかりが縁についているところを見ると、中に紙媒体を内蔵する物だと判断出来ます。中身はなんですかと尋ねますと、先生は無言でソレを開きました。
目に飛び込んだのはセピア色の写真。赤いドレスがよく似合う欣快な笑みを浮かべた砂金色の髪を持つ少女と、霧雨魔理沙の若い頃と思われる少女の二人が、机を挟み豪奢な椅子に腰掛けてお茶をしている写真です。写真の中の霧雨魔理沙は、快活を絵にしたように笑っています。背景の薔薇園から考察するに、場所は西洋のお屋敷の中庭ではないかと推測しました。
それはとても暖かみに充ち満ちた写真でした。
「あの人のモノだけど……落としたみたい」
その言い方は、何故か少しの申し訳なさを含んでいました。
「まだ近くに居るかもしれないから探してきます」
言うが早いか、先生のそれを掠うようにして駆け出しました。
「あ。……うん。じゃあ、お願いする」
遠くなるその声を聞くだけで私は百人力なのですから……少し過ぎた表現かもしれません。
さて、あの容《かんばせ》なのですから、人(特に男連中ですね、いやらしい)に聞けば発見は容易でした。その場所へ向かうと、彼女は湖でナルキッソスよろしくしゃがみ込んでいました。彼女は間違いなく霧雨魔理沙ですが、しかし無聊の亜種――先日の斜に構えたような態度が微塵も感じられないので別人の様に見えました。
彼女は私の草を踏む音を聞いたのか、顔を上げました。そのときに気がついたのですが、彼女の両腕には小さな子猫が抱かれていました。白銀色の毛並みを持つ可愛らしい猫に。生まれてから数カ月と思しき子猫です。
「貴女は……えっと、お名前なんでしたっけ?」
……前言撤回です。霧雨魔理沙は子猫をそっと足下に置くと、すくりと立ち上がり私と向き合いました。やはり彼女は私よりも頭二つ分は高いのです。並の男性ならば彼女は見下ろす姿勢を取らざるを得ないほどに。そして自身も例に漏れず彼女を見上げるように名乗りました。
「……上白沢慧音です」
「貴女が……そうね。そういうことですものね。確かもう一人が宇佐見……若干失敗ね」
彼女が何を言っているのか分らないし分りたいとも思いませんでした。故に浮浪者の戯言として聞き流すのが一番です。彼女はそういう類いなのですから。
「これ、忘れ物です」
彼女は凍り付いたように目を見張り、そして差し出したそれを見つめました。それも刹那の出来事。次の瞬間に彼女は鮮やかに私の手から奪い取り、それを抱きしめるように胸に抱えました。まるで愛おしい我が子を守る母の様に。それだけなら未だしも、私を敵の様に睨み付けるのです。
嘆息しました。どうにもこうにも、こいつの頭の中に脳みそではなく砂糖菓子が詰まっているんじゃ無いのでしょうか。そうでなければこのような聊爾を重ねることなど出来ないはずです。
「無礼ではないのですか」
窘めると、霧雨魔理沙は嗤った目をさらに細め、不思議そうに私の瞳を睥睨しました。
「どうして」
「どうしてって……」
答えに窮しました。常識という白銀の鎖は無謬ではありません。生まれてからの環境によって大きく差異があるのですが、彼女は……まるで別次元で創世したかのような決定的な欠如が垣間見えました。しかしそれを――致命的な瑕疵《かし》を指摘できる権利など私には有るはずも無く。
「例えばだけど」
彼女は娼婦宛ら魔的に微笑を浮かべる儘――。
その行為に私は思わず息を呑みました。霧雨魔理沙は足下ですり寄る無辜な子猫を躊躇も憐憫も無く踏み潰したのです、何度も何度も。彼女の靴は丸みを帯びているが故に出血はありませんでした。けたたましい声が鼓膜を劈き、同時に耳朶を振るわせる骨を砕く鈍く大きな音と内臓が……漿液の詰まった消化器官の数種が破裂するような音は、私の脳髄の大半をどろどろに融解させます。彼女は幾度も踏み躙りました。血と肉と骨が交じり合ったモノが毛並みの隙間からドロリと溢れ始めました。生を翹望するその小さな生き物は、しかし同じように可愛らしい内蔵が突出させ、縮れた胃袋が乳白色の肋骨と混じり合いながら痙攣しています。彼女の靴底は生物を土に混ぜるように捏ねくり回し、磨り潰すのです。次第に命が消えかかるように、鳴声も小さくなります。そして彼女の執拗なまでの耕作により、猫は小さく歪な轍へと姿を変えました。静寂が寧ろ五月蠅くて。
「慧音先生、貴女がした事はこういう事よ」
切り裂いたのは、そんな戯言。今更、彼女は無自覚に悪意を拡散するのだと理解しました。
「貴女には人の心が無いのですか」
そんな偽善を――自身すらも半信半疑な唯心論を口に出すことで、彼女を悪性と判断したかったのです。私を鎖縛する常識が世の絶対善であるように信じたかったのです。
「……心?」
彼女は少しだけ呆け、そして白硝子のように細長い首をぐるりと蛇のように回すのです。彼女は俯き嗤いました。天を衝くように、高らかに醜悪に哄笑するのです。そして瞬く間に荒い息にすり替わり、冷たい瞳で私を睨み付けます。翳った光彩は憎悪の表現であるかのように、氷霧の炎で覆われていました。
「無知蒙昧極まりね……では少しだけご高説させてもらおうかしら。人間という生物は百四十億の細胞から成り立つ。水と蛋白質、それに少しばかりの化学物質……そしてもっと奥底、原子核は意識と意思で構成されるのよ。意識と意思はクオークとから。さて、貴女の言う心とやらは何処に混じるの要因があるのかしら?」
極めて科学的な唯物論――無機質な模範解答でした。あまりにも人間らしくない答え且つ正答。
でもコイツは、間違いなく私とは異なる種族だと、理解しているのに納得出来なくて。私が幾ら努力をしても手に入らない「人」という種族を、霧雨魔理沙は所持しているのです。圧倒的な虚しさとやり場の無い怒りと仄かな嫉妬が、ぽつぽつと胸の奥で霜を付けるのです。
「だけど、少しだけ貴女が羨ましいわよ」
小さく吐露した言葉は、私の神経を逆撫でするのには十分過ぎ、腸が煮えくり返りそうです。だけど彼女に八つ当たりして、どうにか出来るものでも無いと分っていましたから、特別行動を起こす事はしませんでした。加えて先の言葉には、彼女の本質が寓意の様に鏤められているような気がしました。故に無碍に反応できるはずもなく。
暫く言葉を失いましたが、霧雨魔理沙を見ていると、やがて彼女はめんどくさそうに口を開きました。
「……チッ、なら義理立てしてやるぜ。少しの間住まわせて貰うから、代わりに何か手伝う」
「気持ち悪い。やめてください」
彼女はクツクツと薄気味悪い笑い声を上げ、
「まぁ宇佐見先生がダメと言うなら無理強いはいわないけどね」
仰々しく一礼する霧雨魔理沙。結局、彼女を引き連れ――否、決して嚮導する気は無く彼女は黙って私の後ろを追従してくるのですから――錆付いた脳内が儘、宛ら胃袋に重油を詰め込まれた足取りで帰宅しました。予想通り、先生は了承しました。
それから数日が経ちました。夕日で滲む室内で一人、明日の授業予定を立てていましたが、何とも落着かないのです。真っ赤な太陽を見ると猫を思い出してしまうから。しかもあり得ない猫の鳴き声……即ち幻聴までも付随してきます。総体で私の常を壊していくような錯覚。
あの日以来、霧雨魔理沙は私達の家に寄生し授業を手伝うようになりました(加えて私と同室なのです)。個人的な感情抜きでならば、正直、助かっています。しかし喉に魚の小骨が刺さったような違和感と、私の日常を侵されたという他愛も無い感情も芽吹きました。何より私はあの女性が苦手ではなく、嫌いでした。禍福を織り成すとはまさにこの事なのかと実感さえしました。同じ空気を吸いたくない、彼女の吐いた炭素の欠片を私が少なからず吸い込んでいるというのはこれ以上無いほどの苦痛でした。そんな複雑な想いを抱きつつも、変わらぬ日常を送っていたのです。
その日も先生の帰宅を待っていました。少しの孤独と蠢く蟲が窓に衝突する音が靡く自室で、また空想に浸り始めようとした、その刹那。
「――――」
どくりと、視界が赤と白と黒の螺旋に満たされました。当初は霧雨魔理沙の残虐で惨たらしい事を追憶し、胸が痛くなったのだと思いました。しかし一秒、また一秒と時間が進む度に血管の中で縫い針が暴れ回るように『慣れ親しんだ』激痛へと変化するのです。心臓が渚で小突かれる貝殻のように不安定な律動を刻み、体内に別の生物が居るように痛むのです。皮膚を裂きさかんばかりに私は胸に爪を立てますが、止まる気配など一向にありません。
「――――――っぁ」
嗚咽とも喘ぎとも取れぬ声が喉元から響きました。鼓動が、脈打つ鐘の音が五月蠅い。そして私は情けない悲鳴を上げました。右手の手相から、縦に文字通り『伸びる』のですから。組織の壊乱と再構築。掌骨、皮膚、手掌腱膜、毛細血管の果てまでもが飴細工の様に押広げられていくのです。それは一定の成長を遂げると、次には泡沫の様な脂の様なモノが表層吹き出るのです。おぞましい……こんな醜悪なもの。掌で必死に押さえ込んだとしても、それは広がり続け、
「ひ――ッ」
押さえ込んだ左手の長掌の表面もまた同じ現象が発生しているのです。そして白い粒は白魚の様な硬く鋭い白銀の鱗へと変化して行くのです。忽ち肩の方まで競り上がってきて……。掻き毟りますが、爪が割れ、剥がれ落ちるだけで、全く解決になりませんでした。視界では私の十本の指の爪から包丁の様に輝く鋭い牙のようなモノが生えます。ソレには然程目がいかなかったのは、偏に溢れ出た真っ青な血液を見てしまったからです。この体液が、遺伝子が為せる悪魔が如き所行ですが、毒突いたところで血を全て石鹸になど出来るはずもないのですから。喉がカラカラとまるで硝子珠のように動き回り、柔らかい脳髄の奥底で不協和音が鳴り響きます。足の自由が効かなくなっていき、痺れに蝕まれます。血液が溜まり沸騰する錯覚、自身の五体を満足に制御できません。嫌だと叫びましたが止まってくれる気などないのでしょう。私の声色も野太く荒々しく変化していき、それは野獣の慟哭のようでした。諦めたくはないのですが、私は抗う牙すら持ち合わせてはいないのです。抵抗は無理だと分かり次第に諦めに身を任せるように……諦観だとか達観だとか……比較的楽な思考へと移り始めました。
霞む視界のその端。大切な姿見に映った私は、文字通り化け物でした。
●
夢寐から醒めるように、暗闇から抜け出すように……急速に覚醒した意識には靄など一切存在しません。
「…………ン」
静寂を引き裂く湿った咀嚼音。間違いなく私の咥内が音源です。粘着質な液体を吸引で以て啜る不愉快極まる音が周囲に響き渡ります。宛ら吸血鬼――生業悪魔の作業。しかし、こればかりはどうしようもない生まれ持っての宿命、言い訳です。遺伝子の中で騒めき、喚き立てる命令……つまり意思などと言う有り体で出来合のものでは到底覆すことは出来ません。嗚呼、ひどく、喉が乾きます。次の瞬間には、ごぼりと唇を鮮血で湿らせました。脳に残響するのは自責と後悔と紛れもない事実。私の両手は薔薇の様に赤く、それは見紛う事なき漿液の色――端的に言えば血液と呼称される液体。赤い血液が羨ましい。膝を衝いたその土も、粘着質な液体で一面湿っています。豊沃を超え水溜りとして、それは留まり時折波紋を生みます。鱗混じりの両手を地面に放り投げると、雫が跳ね、私の頬を掠めました。きっと一筋の軌跡として綺麗に描かれた事でしょう。
「嗚ァ呼……嗚呼――ァ!」
阿呆の様に嗚咽を繰り替えしてしまう自分がおかしくて悔しくて、堪らないのです。ですが、私は、私自身の力では、止めることが出来ないのです。涙霞、引き攣る喉。涙の水粒は留まるところを知らなくて。それは自己弁解であり自己嫌悪であると知っても尚止まらないのです。苦しくて、辛くて、でも自身の力では解決できないのです。誰か助けて下さいと、他力本願。
「ようやく――」
――見つけたと、幼い女児の声色が私の耳朶を振るわせたのです。いいえ、幼いけれどそれは何処か老婆の様でした。一瞬の硬直と空白の後、原音は背後からと気づきましたが、見られたという驚きと、どうしたらいいかという混乱が脳髄の中で漣のように鬩ぎ合うのですから、どうしようもありませんでした。でも、行動を起こさないといけない。ですから、泥水が如き心持ちを抱いた儘、その声の主と対峙するために振り返りました。
それは年端もいかぬ少女。彼女は毅然として、私よりも数歩ほど離れた位置に佇んでいました。身長は五尺ほど。闇夜に反発するよう銀嶺を彷彿させる髪は膝下まであり、夏風に嫋嫋と梳かされています。同じように真白な着物は、単衣のようでもあり、しかし活動的な切れ込みが入っているため妓楼で邂逅したのならば遊女にも見て取れたでしょう。楚々とした顔立ちは明眸皓歯という陳腐な表現しか出来ないほどです。しかしその美貌には似付かわしくない氷刃の様に鋭い双眼が私の眼を射貫いています。
何よりも目についたのは、彼女が右手に担いでいる兇刃。抜き身のソレの柄は垢穢《くえ》の桐で相当に使い込まれている事は想像に難くありません。反対に刀の腹は鏡の様に満月を映し出しています。加えて、猩々緋色の燐光を放ち始めました。刀身の周囲のみ、大気が燻り陽炎を生じさせていることから発熱していることは確かでしょう。熱砂の剣を携えた少女は間違いなく――私を探していたのです。
「私を、殺すの……」
しかし、それでも構わないと思いました。死んでこの地獄が終わるなら、と。ところが、戦慄く私の声色は今度こそ恐懼など生温い純然たる憎しみに塗れていました。それは単なる生存本能の塊。害為すものと敵対した時に起こる必然な反応。
しかし少女は一粲しただけでした。
「確認するわ。お前は『人』?」
答えたくありませんでした。同時に明確な殺意を覚えました。
それは私の怪奇的な心の痼りでした。神獣である父と人間の母の受精卵の成れの果て。名誉欲に溺れ、虎の威を借る事に人生を注いだ女狐の股から生まれた不完全な生命体が私の正体です。しかし生まれてからここ数年までの間は何ら問題は無かったのです。人の形をしていたため私は先生の元で人として育てられました。ところが最近、体の自由が効かなくなるときがしばしば、訪れるようになりました。原因は明らかです。五体が――五臓六腑が拒否しているのです。俗世に塗れた人を食い殺せと私に瘧が生じるのです。本来ならば幽境の地で生活しなければ私のこの身は保つことが出来ないのです。
答えを迷っていると(元来、答える義理などありはしないですが)、少女は目尻をつり上げ、再度口を開きました。
「貴女、名前は?」
白髪の少女は睨み付けて尋ねるのです。その閑雅な顔立ちは好奇の色を帯びていました。だから私も彼女の瞳を見据え、口を開きました。
「上白沢慧音」
「ふゥん。私は」
「言わなくても分ります。貴女の名前は多比能でしょう?」
やりかえしてやったという気分で一杯でした。満月の夜、私は人ではなくなるのですが、その代償として『歴史』を改竄することが出来るのです。それは森羅万象から人間まで――それが私に宿った忌むべき異能。
しかし想像した反応とは裏腹に、多比能は蛾眉を吊り上げ唇に下弦の月を象ります。
「貴女、面白いから少しだけ見させてもらうね」
言い残し、彼女は私に背を向けました……なんて無防備なんでしょう。今の私ならば、貴女を屠るなんて容易いのに。ですが、私は彼女を見送ることしか出来ませんでした。
●
恐らくだが、感情というのは摩耗又は錆付く事があるのではないだろうか。だから私は文字通り血液が流れていないかのように、冷血でグルーミーな反応しか出来ないのではないだろうか。閑話休題だ。脱線はされるのは嫌いだが、自分ではついしてしまうのが悪癖だ。
町内会議の本部役員という肩書きは結構肩が凝る。……ふむ。あまり面白くない洒落だな。ともかく、そういった七面倒くさい会議が今し方終えたところだった。大半は行事の事。主に祭の事だ。
「上白沢が、今年の『巫《こうなぎ》』」
ふむ。事実として受け入れてはいるようだ。役員共の心情は手に取るように解る。それは未知への恐怖だ。大方、上白沢慧音に対し戦々恐々、針の莚で跪座するのに等しいのだろう。だから体の良い理由を託け処分する。
さてはて、私は彼女の死の未来を悲しむ心が残っているのだろうか……考えたところで内心で失笑を重ねるしかない。
「若しくは……あのときに、枯れ果てたか」
あり得る話だ。
さて、少しばかり……そう、ほんの気まぐれだ。特別、深い意味などないが、彼女に対して思うことがあるらしい。それに従うのもまた一興だろう。万に一つ、私を理解してくれるかもしれないしね。
●
「ひょっとして何か用事があった?」
月の剣が雲を切り裂く夜。先生はのぞき込むように私を眺めます。その顔色は赤く林檎のように見えました。既にお酒が血液を伝い、脳髄を犯されているのですから。胡乱な瞳が私の瞳の奥底を抉るように見やるので戦々恐々堪ったモノではありません。いや、実際は少し照れくさいと申しましょうか。
お世辞にも綺麗とは言えない屋台に二人腰掛け、粛々と酒を傾ける……といっても私はそんなに強くないので、泰然と飲酒するのです。未成年飲酒ですね、ごめんなさい。……兎も角、『巫』として白羽の矢を立てられた祝いだと思いますが、先生は照れくさいのかそんなことは言い出しませんでした。私も驕るのは嫌いなので敢えて自分から話すことはしません。
「いえ、別に……ただ、こういったことって今まで無かったですから……」
私は染まった頬を見られるのが恥ずかしくて俯きながら答えました。
思わず言葉尻を濁してしまったことに、なんだか、ばつの悪さのようなものが宿りました。覆い隠すために私もグラスに注がれた日本酒を煽ります。
「きまぐれ。そして君が『巫』に決まった事への……なんだ、いい表現が浮かばない。とにかく飲もう。大将、もやし炒め。あと酒」
先生に手渡された升と硝子容器には並々と注がれた透明色の液体が揺れています。
「飲んでるの? グラス空だけど」
「え、はい。大丈夫です」
「そう、ならいい、奢るから。遠慮はよくない」
元々先生は饒舌な方ではありません。寧ろ寡黙な方です。加えて、極度にパーソナルスペースが狭い方です。ですから誰かと一緒に食事をしたりと言うことは珍しく、自らが誘うなどと天文学的なものでありました。
「最近、料理に凝っていてね。これが存外面白い。ある種のケミカル」
だから私は認められたような気がして嬉しかったのです。大好きな人の特別になれたのだと。でも、そんな喜びと同時に汚れた私なんかでいいのだろうかという懺悔めいた気持ちも鎌首を擡げるのです。
「そうなんですか。でも先生はお肉とか食べないですよね。野菜中心ですか」
「うん、そう。昔、鼠食べたことがあったけど、髪みたいな味がして嫌いになった」
「食べたんですか……その、鼠も髪も……」
「苦くて臭くて嫌い」
先生は淡々と自らの失敗談(自身は失敗だとは思っていないようですが)を語り、私もそれに返答する。この瞬間がずっと、ずっと続けばいいなと摂理を無視した願いを懇望する始末。
ですが明けない夜が無いように、夜が脅かさない朝は無いように、段々と口数は減っていきます。
無言で酒を呷る先生の瞳は一層、胡乱を帯びます。どことなく動作も怪しくなっていますし。
「の、飲み過ぎじゃないですか?」
我慢できずに先生に苦言を呈しました。先生はグラスの底から人差しの第一関節ほど残った液体を見つめたまま、口を開きません。先生の呼吸は不規則で、動もすれば倒れそうなほどです。
「いや、別に。……少しだけ思い出しただけ」
「どういう……意味ですか?」
「別に。慧音には関係ない事だから」
圧倒的な拒絶が含まれている事が、何よりも辛くて。「そうですか」と吐き出せたのは奇跡なのか将又酒の所為なのか。募るところ分りません。
「それは勘違い。君は悪くない。悪いのは……誰だ、決まっている……私」
じっとりとした無自覚の悪意。感情の機鋒が私の奥底を引き千切ります。あっという間に既に澱み切った空気が蜷局を巻き、ずっしりと停滞していたのです。
「……ッ。明日、花華祭ですよね!」
這い寄った沈黙に耐えきれず、言葉を紡ぎました。しかし先生は何も言いません。何も話しません。唯ならぬ様子に、襟懐で恐怖が芽を出して――、
「先生っ、何か言って下さい!」
弱者故に我慢出来ないのです。舌が暴れるのを止められません。今度こそ声を荒げ、糾弾にも悲鳴にも聞こえる金切り声を上げました。遂に先生は、首だけをこちらに向けました。月光故に右半分に陰を張り付かせた顔は、平生と何ら変わりなく綺麗でした。そして清楚で可愛らしい薄桃色の唇を蠕動《ぜんどう》させます。
「君はメリーじゃない。ごめんなさい」
――瞬間。景色が滲みだして、口唇が震えてしまって、顔が熱くて、張り裂けそうで。莫迦みたいに、瞳から体液が流れて歩き方も忘れて作り笑顔も歩み寄り方も忘れて、何を忘れていたのかを忘れて。「どうして」――どうしてそんな、悲しいことを言うのですか、宇佐見先生、私には貴女しか依代が居ないんです。親に見捨てられたとしても、友と呼べる者が一人も居なくても……それでも、私が生きていけたのは先生の御陰なのに。
「すまない。失言だった」
――ぁ。生唾を飲み込み、脆弱な戦慄きを掃滅させ、
「五月蠅い、不必要、みんな死んじゃえばいいのに」
紡いだ言葉は荒涼塗れの擦り切れた懊悩の欠片。そして逃げ出しました。……逃げ出してどうこうなる事でもないって分っているのです。でもこうする以外に方法が在ったかと言えば、やはり答えは出ないのです。やっていることは、母に怒られ泣きべそをかいている子供と何ら遜色ありません。私はいくら人間よりも優れた能力を持とうが、一人では生きてはいけないか弱い半人半獣なのです。
「……ぁ」
ゼェゼェと五月蠅い自分の呼吸の音。何時の間にか足が動かないのです。そして視覚と嗅覚が失われていることに気付きました。頬に冷たく硬い土の感触。ここは、何処だろうか。何処でもいい、穢土でも俗世でも。誰もいないなら。悠久の最果てまで、幻惑の仮初めに身を任せたい――。
「めりぃ」
声帯から発せられた涙声はそんな音だったと思います。めりぃ。その固有名詞を深く深く自傷よろしく刻みつけました。先生の、大切な人だと、理解したから。覚えてどうするの?
――私は、また非道い事を考えちゃうったのですか。そうです、先のみんなには自分も含まれているのです。自分一人では死ぬ勇気がないから他者を巻き込むのです。
「貴女も、私を嘲りに来たの?」
背後。触手が蠢動するような気配の元へ問いました。
「いや……別に」
幼い声。しかしその話し方には不似合いな気取った間がありました。この声の主を知っています。
「多比能――」
「今は妹紅。妹に紅と書く」
あっけらかんとそんな事。聞いていないし、聞きたくもなければ興味もないです。既に曖昧模糊と化した視界は何を映しているのかすら定かでは無く、加えて瞼に鉛が乗っかった様で上手に開けません。次の瞬間、私は体はびくりと痙攣しました。多比能が私を担ぐのです。激しく拒絶したかった。でも私の右腕は言うことを聞かないのです。
「何を、するの!?」
「顔見知りに死なれると目覚めが悪いの」
刹那、彼女の言の葉の中に煌めく人の本質を垣間見たような気がしました。それは誰に向けて放ったものでしょうか。私か、或いは彼女自身か。
「人間のっ、真似、なんて……しないでくだ、さい……ふろう、ふしの、客《まろうど》の、癖に」
「私は人でありたいよ。でも、もう無理なの。赦してくれない。で貴女は――」
「五月蠅い」
何を譫言を囀っているのでしょう。
「死ねないのなら生はない。……加えて感情が摩耗した人間は既に人形だ。だから」
「五月蠅い……貴女こそ、ぁゎレです。偉っ……そうに能書きを垂れ、ないでよ……ッ」
「人の味方をすれば、人に成れるって信じてた。でも君は人で無いのに、遙かに私より人間みたい」
「五月蠅いってっ、言ってるでしょ!」
「実は、貴女のこと調べた。知れば知るほど憧れた。どうして。人じゃ無いのに、人に混じって生活出来るの……正直嫉妬してる。莫迦みたいだけどさ。私に持ってないモノを持ってるんだもの」
「それ、は……」
それは、貴女と同類だから――イヤだ。
何の前置き無く、急に思考が途切れました。
翌日、私は自分の部屋で目が覚めました。まるで全てが夢だったのではないかと訝しみたくなるほど、呆れるほど穏やかな目覚めでした。
先生は、どこにいるのだろう。謝りたいな。あと、ついでに多比能にも謝っておこう。別に深い意味は無いのですが。
●
「お月様と神経衰弱でもしてるの?」
元私の部屋で、霧雨魔理沙は寝転がりながら尋ねてきました。既に湯浴みを済ませた魔理沙の濡れた艶のある髪が腰元まで垂れ、火照った頬が何よりも色っぽくて何時にも増して妖艶さが際立っています。私はといえば、また碌でもない主義思想に毒され、袋小路が如き問題の解を探し求めていた最中なのでした。
……彼女と私は同室故否応なしに寝食を共にする羽目になっているのですから、逃げたくても逃げられないのです。牢獄めいた室内に柔和な月明かりが差し込みます。
「いえ、別に……何も」
再び満月を見上げ、彼女にそっけない言葉を浴びせました。この須臾が永遠に続けばいいのに。歴史の狭間で永遠に生きていけたら、どれほど幸せなことか。
「魔理沙さんは、永遠とかって信じますか」
前触れなしに彼女に問いました。
背後からうーんと唸り声が聞こえましたが、それはどうにもこうにも演技以外には見えませんでした。
「何をいきなり。頭の調子でも悪いのかしら」
「……貴女に訪ねた私が莫迦でした」
儘、彼女と対面するのは都合が悪いと思い、目線を床に向けたまま浴室へ向かおうとした時です。
「昔、同じ事を、貴女みたいな人に言われたわ」
冷淡さに充ち満ちた声色にどきりとさせられました。得意の揶揄が一切合切霧散していたのですから。そして図らずとも彼女の声色に見いだしたのです。瞳の色は虚ろでしたが、間違いなく、信足るモノが映り込んでいました。限りなく無色透明に近い色彩が、彼女の瞳でした。私は、予想外の出来事に、恐ろしくなり、その場を立ち去り早々に風呂場に向かいました。なんて脆弱で、臆病者なのでしょうか。また自己嫌悪。
入浴は心の洗濯だと誰かが言いましたが、その通りだと思います。白煙の切れ間から覗く無関心な宵闇に目を向けていると心が落ち着きます。私が少しでも体を動かすと湯船に波紋が広がり、音が立ち、一挙一動を見張られているような心持になります。気にせず、ここ数日の間に変わった人間関係を縷々とした糸を紡ぐように、考えた始めました。
先生は、私にとってどういう存在なのだろうか。間違いなく恩師で在り、親代わりで在り、もっとも尊敬すべき『人間』です。でも先日の出来事以来、少しだけ先生の芯がを覗き見た気がしました。――それはある種の盲目的な愛。対象はは「メリィ」。その人のためなら擠排《せいはい》を厭わず、且つ他の事など一切躊躇無く切り捨てることの出来る強さの輝きです。裏を返せば非道く利己的で自己愛極まる感情なのです。
次に思い出したのは霧雨魔理沙。頭の螺旋が二、三本足りない女のことです。ところが彼女の本質とは自己犠牲の果て殉っても尚、他を敬愛するという人間らしい瞬きで構成されているのです。掌で抱えきれないほどの幸福を望むが故に、人の領分では無理だから、人を辞めたいと願う女性。私が最も恋い焦がれるように憧れた感情。それを突き詰めた姿なのではないのでしょうか(あくまで彼女と出会ってからの数ヶ月で観察したことなので、間違っているかもしれませんが)。
そして最後に、白髪の少女『藤原多比能』の事を考えます。人ではなく、人でありたいと願う少女。人を守れば人の側に立てると幼稚極まりない考え方。彼女の事を考えると、胸が締め付けられるように苦しくなるのです。まるで鏡を見ているかのようで。些事だと一笑に付することもできましょうが、今の私にはそんな勇気も度胸もありません。そう彼女と私は近似しているのです。もしかしたら、私は、彼女の事が……逆上せてしまいそう。そろそろ湯浴みを終えましょう。
入浴を済ませた後、嫌々ながら自室へと戻りました。案の定霧雨魔理沙が居ましたので、私は横を通り過ぎ窓近くで火照った体を冷まそうと考えました。覗く満点の煌星と欠けた白い月の鏡。その姿に心奪われていたというのに、彼女は、私のすぐ背後に立ち私の首筋に腕を巻き付けるのです。
「貴女は何に悩んでいるの?」
彼女の吐息が首筋を擽ります。それは歯痒く、異性を悶絶させる煽情行為に他なりません。
「……貴女に教える義理は在りません」
「そうかもしれない。けれど聞きたいわ。一種の知的好奇心からね。もちろん口外なんてしないわよ」
指先の挙措は繊細で艶かしく、私の顎先を撫で回します。気味悪くなり、逃げ出そうとしました。しかし棒と化した足では上手に行かず盛大に前のめりに転んでしまいました。幸いな事に、痛みはまるっきり皆無でした。それもそのはず、私の腰骨のあたりには敷き布団があったから。
これは拙い。なぜならば、私に覆い被さるように霧雨魔理沙が私の両手首を掴み、押しつけているからです。生憎ですが、こんな女と同衾する趣味はありません。だから、
「……離して下さい、人を呼びますよ」
制止を促しましたが、直後、彼女の唇が私の唇に押しつけられました。聳動と嫌悪が爆発します。
「やめっ、て……っ!」
反駁は、しかし力足らずで。
「いいこと。この幻想郷と呼称される世界は、喩えるならば舞台。役者はドラマ通りに、不要なモノは即座に舞台裏に捌けさせられる。そんな世界」
「だから……私は、死ぬの?」
名執の弟子として朽ちるのならば、構わない。
「そう。貴女は異端。この世界での異端は常識。所詮という言い方が当て嵌まるのかどうかは疑問だけれど、貴女は所詮外の世界での異常者。即ち――八雲紫に取っては邪魔な存在でしか無い」
途端、彼女がひどく滑稽で哀れに思えました。
どうして世界単位でしか物事を語れないのだろうか。胸に湧く憐憫を知らずに説法めいた忠告を続ける魔理沙は、真剣それそのもので。
「私も貴女も、この世界では弾かれるべき存在。だから牙と成り得るの。お願い。力を貸して」
「断ります。……大体、貴女は人間でしょう」
「成りたくて、成ったわけじゃないのよ」
なんて傲慢。増長も甚だしい道化師です。
「人なら、両腕で抱えきれない願いは抱かない」
「いいえ。抱えきれなくなった時、人は人に成る」
再度接吻され唾液と舌を入れられる。
「無風流なのは嫌い?」蛇蝎めいた舌を私の首筋に這わせた後に、彼女は耳元で囁きます。大丈夫、悪いようにはしなから……と。
全身が蛇に睨まれた蛙よろしく、硬直し麻痺したように動かないのです。彼女の指先が私の衣服を花弁を剥くように脱がしていくのです。抗うことが出来なくて、でも涙は溢れなくて。
「そういえば、貴女『贄』に選ばれたんですって」
疑問、不可思議な単語。意味不明理解不能な事。
「贄? 私は巫です」
「それは建て前。騙りと寓意の区別もつかないほど愚かではないでしょう?」
私の唇を翫びながら、彼女は続けます。
「なんて陋習……大多数のために一人には犠牲なるなんて。それで本当に信じているのが有象無象の劣等種なのだから仕方の無いことと謂えばそうかもしれないけれど」
苦笑の仮面を顔に貼り付け私を寓目する彼女。繋がっていく破片の欠片。先生の唐突な誘い。多比能の言葉。全ての誤謬が崩壊し、合点がいくようで。
「巫山戯ないでッ。そんなの嘘です! 先生が、先生はそんなことしない!」
最後の力を振り絞るかのように絶叫しました。それに応じるかのように霧雨魔理沙は、貪婪な瞳が儘に、私の下腹部に薄汚い舌を這わせます。
「貴女は明日死ぬの」
それが、なんだというのでしょうか。
「気に食わないわね、その瞳。死ぬのが怖くないなんて目。そんな塵埃同然の独善思考――」
何が彼女を苛立たせるのか。忌々しげに呟いた後、瞳を細め歪に微笑みます。
「いいわ。貴女にあげるわ。人足る称号を」
彼女はおもむろに異界の言葉を吐き出し、右手に光を宿しました。それは凍り付くような虹色でした。
「……な、にを……ぁ」
彼女の指先が私の下腹部の皮膚を文字通り『通過』し、私の子宮を直に捏ねくり回すのです。それは喩えようもない嫌悪感と嘔吐感。決して快楽とは程遠い、粗悪な儀式の様にも思えました。
「ぁ、……ぅぐ、ァゥ……っ!」
体の内部で何かが狂騒しているのです。痛みと、苦しみ、死への圧倒的な恐怖。異なる負の感情が漣の様に寄せては引き、闘争するのです。褥を強く握りしめ、吐き気を催す激痛に耐えます。奥歯が欠ける音と鉄の味。喉元を熱せられた刃物で切り落とされるようで、脳漿を直接かき回されているようで、三半規管が狂奔するようで、爪の間に畳針を仕込まれるようで――。
「馴染むまで一晩ぐらいね。ソイツが感情の抑制をブチ壊してくれるわ」
彼女が浮かべた笑み。ソレこそ銛が刺さり余命幾分も無い魚を見るような眼つきを携え、これでもかと大笑します。悪魔の笑いを聞きながら、痛みが引くのを待つしかありませんでした。
そして今朝の黎明。発狂寸前の激痛が嘘のように引き、代わりに例え様もない違和感が支配していました。そして、ふと化粧鏡を見ると、昨日まで真っ黒だった髪は、気持ちの悪いほど白く輝いていたのです。両眼とも血の色にすら成いて。事情を聞こうと魔理沙を探しても見つけられず、仕方なしに祭に向かいました。そして今、人混みの中で、彼女を見つけたのは単なる偶然でした。探していた訳でも無いのに、無邪気に林檎飴を頬張る彼女が目についたのです。ゆっくりと彼女に歩み寄ります。雨上がりの土の薫りがこそばゆく、成れない浴衣も相まって少しだけ緊張します。
「多比能」
彼女は、やる気のなさそうな瞳を翳し、うん、などとやっぱり気の抜けた返答をしてくれました。
「珍しいね――」そこまで告げた多比能は今度こそ瞠目し、絶句していました。意味が分からず、少しの間視線を交錯させていましたが、やがて多比能は口を開きました。
「あなた、慧音なの?」
ドクリと心臓が脈打ちました。
「――――」
彼女に何が分るというのでしょうか。確かに形は変りましたが、私が異常だとでも? 暫く睨めっこを続けていた最中の出来事です。
「慧音。私を探してたって聞いたけど……あら」
気の抜けるようで、しかし男を惑わす毒を含む声質。それは霧雨魔理沙のモノでした。彼女を見た多比能は、さらに光彩を縮ませるのです。しかし、それを見た霧雨魔理沙は鼻を鳴らしただけで……久闊を叙すということではないのでしょう。
「ここは、人が多いわ。別の場所に」
多比能は静かに唇を震わせました。それは聞いたことも無いような過剰な怒気を孕む誘い文句。
「ええ、そうね……人気のない静かな場所に、ね」
語尾を強調した魔理沙も、唄を唄うかのように軽やかに多比能の後ろをついて行きます。
私は見送ることしか出来ません。……? 問い詰めた途端に、心臓を鷲掴みにされるような……理性ではどうしようも出来ない震えが全身を貫きます。否、理乱こそ全ての答えでした。
●
笑顔満ちあふれる表街道の裏側。祭囃子は遠く穢土とは懸け離れた濁り澱み切った場所。花火の燐光を背負い、宵闇に滲む影は二つ。一人は長躯、一人は矮躯ながらも互いにシンメトリーよろしく対峙しているのは些か奇妙にも映るだろう。
「お前、慧音に何をしたの?」
先に口火を切ったのは森を背に佇む方だった。白鬼を具象化したような出で立ちの少女。否――それだけではなく、彼女の放つ禍々しくも雄々しい怒気が彼女をそう見せている。比喩ではなく、膨大な熱で陽炎が生じる。その怜悧な瞳が射貫く先。
「貴女に何か関係があって?」
対峙する女性は美麗や耽美など陳腐な言葉では収まらない山紫水明にも似た幻惑の美しさを兼ね備えていた。しかし他者の神経を逆なでさせるような鼻持ちならない口調は、喩えるならば寓話の魔女が飛び出たという表現が適切だろうか。
魔女は口を開き溜息と言の葉を吐き出した。
「まぁ、貴女が彼女に投影しているのは知っているけど、まさかここまでとはね」
「っ。関係ない」
その声質には明らかな動揺が含まれている。
「いいわ。答えてあげる。彼女を停滞させたのよ」
「停滞?」
「そう。あの儘ならば近い未来、彼女は獣に成り果てる。だから――私がしてあげたの。彼女を永遠の半人半獣に。人にも成れない。かといって獣にも成れない――」
瞬間。魔女の頬を熱線が掠める。赤く一筋の線が刻まれる。しかし、彼女はちろりと舌を上唇に走らるだけだった。
「無駄ね。だって彼女は貴女じゃ無いもの、救えないわ、どっちもね」
妖艶を纏う女はタクトを振るう様に、まるでそこに見えないオーケストラが顕在しているかの様に、腕を嫋やかに空を切る。呼応するように少女は無言で柄を強く握り構える。
「貴女、本当に人間なの……」
「生物学的にも倫理的にも、貴女よりはね。化物さん」
呵呵と喉を鳴らす魔女。それが嚆矢。
「殺す――絶対に殺す。お前はだ、悪意を振りまく坩堝以外の何物でも無い」
何がおかしいのか、喉を振るわせ大笑する魔女――嗚呼、人が心底の悦ぶ顔は醜いのだろうか。
「クハッ――――Ahc――ァ! 咆えることだけは一端か、駄犬風情が――」
純然足る嚇怒を孕む宣告を受け、蛆虫が胃袋でスキップするような笑い声を上げた魔女。その姿は宛ら添削する教師そのもの。
だからこそ先に鯉口を切ったのは、やはり白髪の修羅であった。
●
渦潮が如き火炎は宛ら毘藍婆《びらんば》。風切り音の嬌声と灼熱の旋風の喘ぎは鬼哭であり慟哭だ。ふゥん。実際に私が触れることが出来る。考察するに紅蓮はオプチカルの類ではなさそう。だけど……無問題――細胞単位で興奮する――なかなかどうして我武者羅で。チリチリと眼球が焼け付くようで事実鞏膜《きょうまく》が糜爛しているかも。私と同じ様に後天的な努力によって身につけた代物でしょうね。――チッ。戻りが速いわ。まぁ後天的な術式は荒削り故に未熟。それこそモーメント的な効果しか無いから即興であしらえる。――何なの、直向きで愚直で、嘗ての自分を見ているようで苛つく。一番の障害は、その不死性。避けることもなく己の皮膚を焼け爛れさせつつ、文字通り無傷で突貫してくる様は、猪武者よりも怖い――なんなのよっ、コイツ!
「お前も私をッ、覬覦《きゆ》だ鄙俚《ひり》だと罵るか――ァ!」
落ち着け。血を凍らせろ感情を鏖殺しろ。思い出すな。コイツは霊夢では無いのだから。
畢竟……貴女の強みは自身の細胞の高速再生。骨格、心臓、毛細血管、リンパ腺、電気信号、最果ての陽子の核までも、全てが全て元通りになる。本来人間のテロメアの書き換えの最大総数は決まっているのだけど、……ヘイフリック限界が無制限なんて出鱈目もいいところ。無論のことながら彼女のDNA並びにRNAもそれには該当せずアポトーシスによるPCDなど露ほども考慮する必要などないわけか。――その目を、やめてよ……お願いだから、ねェ!
でも弱点も見つけた。変異は必然だから、故にデリケートなのだ。ほんの少しの傷でも再生する。傷の度合いに依存し再生速度は変化する。だから、点よりは面で攻めた方が効果的なのだ。心臓を一撃で穿つよりも、何か鋭利なモノ――そう例えば鉈や斧などで両断してしまう。そうすれば徐々に彼女は息切れしていく。装置が無限でも動力は無限ではないのだから……喩えるならば幾ら大きな水筒だろうが、空に成れば機能しなくなるように。
「ということで、勉強になりましたか。お嬢様」
駄馬のように荒い息を吐き出す自分に驚いた。思いの外、抵抗されたのか。
ナイトバロンの様にお辞儀をしてやるが、瞳の焦点が定まっていないところを見ると、既に微睡みの奥底に片足が浸かっているのだろう。
自身の無駄に五月蠅い呼吸音しか聞こえない。
「――――ッ」
心臓を、冷たい掌で握られたような嘔吐感と拒否反応。
この女? 即座に思いついた疑問を否定した。倒れたまま動いた気配がない。燃焼による酸欠も考慮したはず。胸を押さえたが、収まる気配が見えない。先よりも遙かに激しい動悸と、ゼェゼェとした息は不規則なリズムで冷たい夜に木霊する。飴が溶けるようにその場に膝から崩れ落ちる。脊髄を痛めた訳でも、脳に打撃を受けた訳でもないのに。
「ぅ……っ」
胃の中のモノを全て吐き出した。吐き出しても尚、嘔吐する。黄緑色の吐瀉物が赤土に零れ、染み込むわけでもなく唯流れる。歩けない。確実に、まるで足が存在しないかのように。警鐘めいた第六感の知らせ。まずい。拒絶される……!
偽りの微睡みが、遠い昔、魔女《わたし》がまだ少女《こども》だった頃を追憶させる。
嘗て驥足を展ばし自由が儘に天を翔る少女が居た。彼女は私の数少ない友人で、その日も彼女と遊戯めいた勝負をし、負けた。
「……!? どうしたの」
「いや、ちょっと……」
傷だらけになった私を見て、上白沢慧音先生は心配そうに目を細めた。その姿に母の姿を重ねていたのかもしれない。
「早く手当てをしないと……!」
先生は急いでハンカチを私の額の流血を塞ぐ。寧ろ凄く染みて痛くて、でも嬉しくて顔が綻ぶ。
博霊霊夢と勝負をするといつもこれだ。これで通算百戦百敗。何をどう足掻こうが『小細工』と言われ、地面に叩き臥せられる。私は天才では無い。あくまで凡才だ。アリスに言われた。貴女は後天性《あとづけ》だからと。パチュリーにも言われた。霊夢は天才だからと。
「どうして私じゃ、ダメなんだろう」
口に出さなきゃやってられなかったから。情けない吐露をしてしまった。
「それは、きっと人だから」
空前絶後――ピラミッドの頂点に勝とうとしたら、その上の土俵にまで上がるしか他に無い。鼠の中で一番強いモノでも、人間には勝てないだろう。例え外道に傾倒しようがだ。
●
呪詛めいた祝詞が唄い上げられています。その祭壇の片隅。謂わば裏方の位置にて私は小さく蹲っていました。膝ががくがくと揺れ、蛆虫が全身を這いずり回る様な掻痒感に満たされるのです。
死ぬのが嫌だ。これ以上ないぐらい怖い。忘れられるのが。何も知らぬ有象無象が、私の事を好き勝手に口伝していくのが嫌。ですが、これらは昨日までの私には無かった焼け付く心情。今の私は、自己愛の塊で何とも醜い存在です。有象無象以下の犬畜生にも劣る存在に成り果ててしまったのです。口では偉そうな事は言えます。永遠を巡り蘇っただとか死が怖くないだとか。私は誰にも必要とされてないのに、こんな事を考えるのはエゴ以外の何物でもないのですが、それでも利己愛自己愛だと罵られても、私は生きていたいのです。もう何も考えたくない。脳が、心があるから人は苦しまなければならない。もう要りません。何も要らない。脳みそが駄菓子で出来ていたらいいのに。そうか、だから彼女は――、
「……ッ!」
慄然と恐怖に震える私の肩に添えられた掌。嗚呼。与えられた安堵を韜晦出来るほど、私は、器用じゃ無いから。
「先生……ッ!」
振り返った先にある、優しい微笑みが、何よりも暖かい花のようで。凍り付いた私を溶き解す太陽の様でもあって。自然と涙が溢れます。
「……ごめんなさい。こういうとき何と言ったら最善なのか、知らない。だから聞こう」
「もう、嫌です……!」
「どうして?」
「死ぬのが怖いです……! 先生は、怖くないのですか?」
「怖くないと言えば嘘になる……ふむ」
顎に手を当て先生は少しだけ思案しました。後に、静かに口を開きました。
「すまない。どうやら彼女は今日、穢れの日の様だ。これは私の落ち度。だから私が代役を務めよう。元々彼女には荷が重すぎるし」
平生と何ら変わらない声でした。そして、その舌鋒は呆けた委員会に向けられており、彼らは顔を見合わせ侃々諤々一歩手前の論争を繰り返し先生の提案を受理したようでした。
先生は手早く死装束宛らの薄い単衣に着替え、鍛鉄門の前まで微塵の淀み無く歩くのです。
「先生っ、私は貴女の自殺の手伝いなんて嫌です……! こんな、見窄らしい真似なんて、誰かを殺して、私が助かるだなんて……嫌です!」
「イヤイヤと。まるで稚児のソレだから、見苦しい。しかも死ぬ気なんて無い――私は」
黒く聳える地獄の門を潜ろうとした時です。先生は、私の方を向き、
「いや……他意はない、か」
困惑した微笑を浮かべた気がしました。
後に響く歓声と涙に震える愚衆の声色と、拍手喝采にも似た黙祷。それは心底おぞましく、醜いものでした。否、これを人というのかもしれません。その行為がこんなにも露悪に見えるなんて。
嗚呼――みんな、死んじゃえ。
衷情から出た呟きは塵芥が如き生物の鳴き声にかき消されて、霧散しました。
●
神殿と瑞垣を超えた遙か地下の中。蒸し暑く宛ら焼売だなと一人つまらない冗談で濁す。否、笑えもしないほど鬼哭啾々という言葉がぴったりとくる。憎悪が猖獗《しょうけつ》した回廊――日の光も届かぬ暗澹。一歩進むごとに噎せ返るような血と苔の粘り着くような薫りが鼻腔に絡みつき、虚脱感と疲労感が全身を掻き乱し、汗が止まらない事に加え、身に纏っている単衣が肌に張り付く。迷わぬように石壁に右手を添える。擦れ摩耗しきっているためか、ざらざらとした触感は皆無で、寧ろ瑪瑙に近い滑らかな手触りで気が滅入る。左手には頼りない蝋燭と燭台。先端で炎がちろりちろりと蛇の舌のように揺れ動き、足下で靴に叩かれた粘着質な液体が跳ねる。
「別に……」
別に、彼女のために身代わりになったわけではない――言い訳めいた詭弁を口に出しかけて止めた。だがそれは間違いなく自己欲求から出た利己的な代物だ。本当に長いと思うが、愛に恋い焦がれる乙女宛らひどく興奮している自分もいる。一分か一時間かの区別すら曖昧になるほど、時空間軸の境界が崩れている。だが、ここに『彼女』の手がかりになるものがあればと、嚮導されるように我が足は留まることを知らない。この場所に真実の断片があるはずなのだ。
嘗て博霊神社の納屋で見た書物――月面戦争――境界――全ての根源にいる存在が、この先にいるはずなのだ。問いたいことは山ほどある。
「メリーのため……」
思えば、私の人生に於いて最初で最後の友だった。傀儡が儘入学した京都の大学でメリーと出会い、その二年後に彼女は消失した。彼女は私にとって最大の、掛け替えのない親友だ。だからこそ。口の端が歪に吊り上がるのを自覚する。延いては自分のため。自分の穿った心の空白を埋めるため、探したという結果のもと、メリーと私はもっと仲良くなれるという打算。諸々を含め考えるに、結局私は一介の人間に過ぎない。苦笑とも恍惚とも取れぬが、自然と笑える。犠牲ぐらい出してやる、邪魔するなら排除するぐらいの気概で日々を過ごした。
重苦しい襖戸まで辿り着き、その扉に掌を重ね、ゆっくりと開いた。轢み擦れる音が鳴り響く。
絶句した――文字通り煌星で満ちた室内。否、室内などと生易しい空間では無い。如何に荒唐無稽と蔑もうが、現実に存在するのであればリアリズムを基板とした唯物論で語ることが出来る。
即ち此処は外宇宙の中座。
女性が一人座禅を組むようにして座っている。その頬は文字通り罅割れており、赤黒い光沢を放つがらんどうが覗いていた。
「貴女はメリー?」
震える声色で答えを求めた。
彼女は痛んだ瞳をおもむろに動かした。
●
喧噪を嫌うかのように魔女は鬱蒼と茂る森林の中を、まるで宵闇を吸い込むように地面に臥せり、匍匐する。彼女の喘鳴が虫の鳴き声に混じり溶けて消えていく。
「ハ――ぁっ……」
こんなところで倒れるわけにはいかないと、焦げ茶色の地面を掻き毟り『召喚場《とびら》』に辿り着こうとする姿は醜い蚯蚓が蠕動しているようですらある。諧謔の権化足る彼女からは想像も出来ないほど、必死な形相を浮かべ歪に這い進む。爪が剥がれようと、小石で顔中に傷を負おうが、どれだけ醜態を晒そうが、留まることは無い。
何がいけなかったのか。世界と自分に楔を打込まれたみたいだと。ずるりと、一寸ばかりを全力で進む。彼女は思う。アリスを、慧音を、みんなを救わなくては――もうすぐだったのに。フランドールの誕生日がそろそろだ。新しいドレスを買ってやって、ラズベリーソースたっぷりのケーキでお祝いして。だから死ぬ訳には、いかない。八雲紫など私の前には俗物以下のはずなのに。悔恨、惆悵、嚇怒――複雑な電気信号が脳内で綯い交ざり混濁を描き、か細い指先が止まることはない。四肢が砕けようと脳漿が飛び散ろうとも、自分の体なんてどうなってもいいと彼女は思い、翹望する――みんなを救えれば……あのときは無かった力で、全て。誰よりも努力家だったからこその自負。過大も過小もしない彼女は、故に謙虚であり傲慢だ。
そして、ようやく彼女は視界端に蛍光色に輝く魔方陣を捕らえた。
「もうす、ぐ。み、ま様、叶、マ、リス……ねェ」
それを契機に彼女は動かなくなった。
●
蝉時雨が耳を劈きます。夏の日差しは雄々しく且つ唯我独尊の限り照らし続け、体から水分を奪っていきます。じわりと、額から水滴が垂れる感覚が暗闇の中でも分ります。
目を開いたその先には墓石が一つだけ。地面の下には遺骨も何もありませんが。今日という特別な日は、本来ならば幸せに満ちあふれる日になるはずだったのです。私が寺子屋を継ぎ、名執として教壇に立った日です。十五年前のあの日を境に先生は姿を消しました。もっと貴女の元で教わりたかったと唱え失うことはないけれど。
「私にも伴侶が出来ました。とても優しくて暖かい人です。言っておきますけど女性ですよ」
……結局唯の一人言なのです。私の自己愛を満たすための雁物の善意なのかもしれません。自己愛を通しでしか他者と関わり合えない生物なんて歪で高尚とは程遠い存在です。
「……妹紅」
照れくさそうに視線を逸らす彼女を見ると、何故だか安息します。
与えられたこの異能は八雲紫の靴を舐めるためにあるんじゃない。彼女を舐り穿つ刃となるために与えられたのですから、進んで死を望むなど私らしくないのです。ですから、今暫くは、この日溜りに留まっていてもいいでしょうか。
「妹紅、今日はどこかで食べていこうか」
「……お金無いよ」
「そうか。なら手料理でも振る舞おう」
「そ、それはもっと遠慮したい……ほらっ、お腹も空いてないし!」
「どーいう意味だ……ん」
ふと、遙か遠くの後方で私の名前を呼ぶ声がしました。それは聞いた頃がある声でした。そういえば、助手で働きたいという魔法使いの少女が先日訪ねてきたことを、すっかり忘れていました……名前は、確か――嗚呼、そうだ。
「きりさめ、まりさ……だったかな」
それ故表現に多様性がなく、過去作品に酷似したものが多い
読み手も読みづらくなる
自分に酔ってるか
ですが、その作品を書くために本当に必要かどうか考えてみては。
中途半端に現代的な表現が挿入されるので戸惑います。
「絶対時間」の絶対の部分をタナトスと意訳した理由も分かりません。
死が絶対的な時間を意味するということでしょうか?
誤字・脱字が目立つのも悲しいところ。
他の作品を拝見する限り、文章力は確かなようですから、全体の調和に目を向けられてはいかがでしょうか。
ただカタカナ言葉はこの作品に合わないと思いました。
漢字が多いとちょっと明治文学っぽいですし.
ただ,魔理沙の行動の意味を想像する余地が多すぎたかな,とは思います.
この作品は総想話以外の場所に投稿された方が良い。
更に言うなら、東方二次創作の枠組みの中に居るより、全てオリジナルの設定で最初から書いたほうが良いかと思います。