地下室。その空間に、閉塞感と言う物は微塵も無かった。一つの面には壁があり、たった一つだけ、扉が付いている。
残り三面は果てしなく空間が広がっている。果ては見えない。どれほど進もうが、地平線しか見えない。
その部屋がどれだけ広いのか、フランドールは、レミリアは、作った咲夜ですら把握してはいない。
「ねえお姉様。無限遠点って知ってる?」
空も広い。その天井の高さは空としか言いようが無かった。どれだけ目を凝らしても、飛んでも、ベージュ色が続いている様しか見ては取れない。柔らかい色合いが、柔らかい光に照らされていた。
その光の中で、レミリアは首を振った。同時か、それより少し早く、フランドールは言葉を続けた。
「それはね、とても遠い所に有る点なの。そうよ、無限に遠い所に――」
果ての見えない空と、床の向こうを見ながら。あるいは、ひしゃげた家具や、片翼の千切れたレミリアを。
ここには光を放つ苔が生えているの。といつかパチュリーは言っていた。そんな苔、ベージュ色の苔が有ることは、二人も知っている。扉の付近に並べられた豪勢な調度を、レミリアが運んできてくれたことも。あるいは、二人が並ぶソファーの柔らかな座り心地も、その前のテーブルで湯気を立てるB型の紅茶が美味しいことも。
ひしゃげた家具のいくつかは、つい最近壊れたこともわかる。レミリアの羽は、ついさっきフランドールが壊したことも。羽が折れたくらい、吸血鬼にはさしたる苦痛ではないことも。少なくとも、肉体的な意味では。
「無限と言っても、どれだけ遠いかなんて実感できないけどね。私は、この部屋の果てはどうなっているか知らない。あと五百年生きても辿り着けないくらい広いとは思う。ううん。五百年なんていらない。二人でてくてくと歩いて……それか、びゅーっと飛んでいって。でも、果てに付く前にお腹が空いて、喉が渇いて、先にそうなるのは私かもしれない。お姉様かもしれない。とにかくね、もう一歩も動けなくなっちゃいました。干からびちゃいそうです。ってなるよね。背中のリュック一杯に食べ物を積んでも。ケーキに紅茶にフリカッセ、と積んでも」
レミリアは紅茶に手を付けた。三人掛けのソファーの横で語る妹を、横目で見やる。紅茶の甘さを味わってから、「そうね」と呟いた。
妹の顔。金色の髪に、紅い目に、歪で鮮やかな色の翼。白い肌が形作る、幼げなかんばせ。五百年に近い間、ずっと変わらない相貌。髪や翼は似ていないし、目の色や顔の幼さは似ている。
495年ほどの時間が経って、二人の関係も変わったけれど――妹を見て確かに妹だと思うときも有れば、他人のように思えるときも有る。それが常に揺れ動くことは変わらない。
今はどちらかしらね、と思いつつ、レミリアは己の青い髪を撫でた。
「で、お姉様。どっちが先に干からびちゃうかはわからない。でも、干からびたらきっと干からびた側を食べるよね。私も、お姉様も」
レミリアは答えはしない。否定もしない。また、紅茶に口を付ける。
「それで進むか戻るか……私はきっと進むな、また干からびるまで。なんでかっていうと……いや、ええと、そうそう、ごめんなさい、お姉様。無限遠点の話だよね。無限に遠いなら私たちにはきっと見て取れない。でも、必要なの」
フランドールは上を見やった。どこまでもベージュ色の続く上を。無限に比べたら、塵芥にも満たない高さを。
「お姉様。庭に行きましょ」
横に座る姉の手を取って、フランドールは立ち上がった。「ええ」と言って、レミリアも立ち上がる。レミリアの紅茶はまだ半分ほど残っていて、フランドールの紅茶には、口も付けられてはいない。
平行に座っていた二人は、手を取り立ち上がれば、垂直に近い斜めになる。ドアを開けて、狭い紅魔館の廊下に出れば、喧噪が聞こえる。メイド達の談笑。仕事などするわけもない。
「こんばんは」
フランドールはにこやかに微笑みかける。
「あ、フランドール様……にお嬢様。こんばんは」
と、メイドも答えた。メガネ姿の妖精だった。レミリアと共に、月を見たメイド。
その顔はにこやかだった。談笑していた妖精のうち何匹かはそうしていた。何匹かはおののくように後ずさる。数匹は逃げ出していた。
「フランの部屋に紅茶があるから片付けておいて」とレミリアは早口で言い残す。フランドールの手を引く早さには、そうでないと追いつけない。返事は確認できなかった。
その早さなら、庭は一瞬だ。暗闇を星明かりが照らしている。残雪が月明かりで光る。息は白くなった。そんな時期の星空。空にはオリオン座が浮かんでいる。草木も眠る時間。風の音が枯れ木を揺らす。
「あれがミンタカ。こっちがアルニラムで、それはアルニタク。お星様の名前。知ってる?」
フランドールが指さしたのは、オリオン座の中心にある三つ星。レミリアは初めて知った。それが、星の名前だと。ずっと、地下室にいて、星を見ることも無かった妹に教えられて。
その名前は知っていた。彼女を月へと誘った名前。「私たちが乗ったロケットの名前も」と呟く。
「違うわよ。私は、でしょ。お姉様が乗ったロケットも」
フランドールの視点から見た否定を、そのまま受け入れてレミリアは頷いた。言葉は続けない。向かいに立つフランドールも、微笑みながら頷き返して、レミリアの横へと動く。二人は平行になって、風が金色を揺らすのが、レミリアの横目に映った。
「あのお星様は住吉三神。お姉様を月へと連れて行った航海の神様。三人で一つのね。でも、三つの距離はとても遠いの。ミンタカはここから一千光年離れているわ。アルニタクは八百光年。それで、一番遠いアルニラムは一千三百光年。アルニタクから見ても、五百光年は離れているの。それでも、三人は仲良しな神様、三人で力を合わせて、みんなの航海を成功に導いてくれる。ま、私は航海なんてしたこと無いけどね。ずっと地下のお部屋で眠っていただけ。今はとても広くて――その前の四百何十年はそれなりに広かったお部屋。天井は何メートルかの高さで、そのすぐ上でお姉様はパーティをしていた」
そちらの――天井が数メートルの高さの紅魔館で有ったときの方が圧倒的に長いのに、レミリアはそちらの方に違和感を感じてしまう。
「思えば、私は昔何をしていたのかな。出ようとも思わなかったし、そう思わせてくれるような人もいなかった。ねえ、誰が私を閉じ込めていたのかな? 私かな? お姉様かな? それとも……ううん、いいや、それでね、パチュリーが来たよね。百年くらい前。それから、パチュリーに本を借りたり、色々と教えてもらったり。そう、住吉三神や、無限遠点、そんな役に立たないことばかり」
風は恐ろしいほどに勢いがあって、冷たい。悪魔にだって、寒いと思う。
「それに、お星様の話。それはね、本当は役にたつことかもしれない。みんな、お星様を見て、航海に出たの。星を見て、航海に出たの。既知の航海か、それか未知の航海か。オリオン座を追っかけたり、北極星や、ベガやアルタイル。色んなお星様が導いていた。そうそう、地球は丸いと言うこともパチュリーが教えてくれたわ。お姉様は見た? 丸くて青いお星様。私たちの住む星を」
レミリアは「ええ」と言いながら頷いた。ロケットから見た青は、確かに脳裏に焼き付いている。
「織姫様と彦星様はずっと一緒に回っている。今の二人はお揃いで南半球に浮かんでいて、二人の距離は常に五光年。私たちの感覚じゃとても遠いけれど、アルニタクとアルニラムの百分の一の距離。無限遠点から見れば髪の毛一本にも満たない距離。それで」
すっとフランドールは横を向く。同じ色の瞳が、また重なる。はにかむような笑みを浮かべて、続ける。
「私たちは三メートルくらいかな。今は。三メートルの距離を挟んで、平行に立っているの。一番離れていたのは、お姉様が月に行っていた時……だから三十八万キロくらい。ああ、一光年は十兆キロね。それもパチュリーが教えてくれたこと。どっちにしたって、ベガとアルタイルにも、アルニタクとアルニラムの比較にもならない距離。だけど、織姫と彦星は愛し合っていて、住吉三神は力を合わせていて、私は、声をかけなかった」
フランドールの顔は、視線は、また空に戻った。レミリアの口が動いた。「いつに?」という形に。だけれど、音は漏れなかった。漏らさなかった。495年と言う時間は、それを重ねるにもあまりに長くて、でも、一つの例なら、
「お姉様が月に行ったとき、私は『一緒に行こうよ』なんて言わなかった。『一緒に行かない?』なんていう家族も、『一緒に行きませんか?』なんていう人もいなかった」
もちろん、他にも有るのだろう。レミリアが思ったのは、あの雨の日だ。紅霧異変の少し後。大雨だった。人工の雨。パチュリーの降らせた、フランドールを閉じ込めるための雨。
羽をひくつかせながら、レミリアは雨の日を思った。羽は半ば再生していた。その分、歪に見えた。
結局の所、その一つで説明が付くし、全部でも説明が足りない。495年と少しの間、二人の歩みは重なっていない。出会って数年の紅白や白黒と重ねた道にすら、妹はいない。
くしゅん、と音がした。レミリアの鼻から。悪魔にだって、この冬は厳しいらしい。
「ああ、寒いよね。こんな寒いところまで付いてきてくれてありがとう。お姉様。そしてごめんなさい。羽。別にお姉様を狙ったわけじゃないの。急にイライラしたから、そうしたらお姉様が急に目の前に」
そう言うときには、またレミリアの顔を見やって。
「でも、本当はそんなに申し訳ないとも思ってないかもしれない。家族だもの。羽がもげたって消し飛んだって、すぐに元通りって言う一点だけをとってもね」
続けたときには、もうアルニタクを見つめる。千三百年前に放たれた光を。千三百光年先を。
「お姉様。最後に一つだけ聞きたいの。ええとね、無限遠点ってのは平行が交わる点なの。絶対に交差しないはずの平行は、無限遠点では交わるの。概念の中にしかない。無限に遠い先では」
そうして、フランドールの視線は紅い瞳へと移る。己と同じ色の瞳へ、紅と紅が交錯する。
「そんな点の話をこの間パチュリーに聞いて――なんでそんな点があるかというと、そうすると空間を使いやすくなるとかで、だから咲夜もたぶん……いや、寒いしそんなのはいいや。ねえお姉様。無限遠点では交われる平行って幸福だと思う? 不幸だと思う? 無限に遠い所でないと交われないけど、無限に遠くまで行けば交わる、出会うことが出来る平行さん。それが救いなのか、悲しいのか……聞いてから、ずっとどっちなんだろうって思ってたんだ。色々と考えながら思って、私は答えが出たの。で、お姉様はどう思うかなって」
くしゅん、またくしゃみだ。本当に寒い夜だった。外の世界にいたころはもっと寒いのが常だったかもしれないけれど……もうこちらの気候になれてしまった。
「もう、鼻がかかっちゃうよ。お姉様」
向かい合う二人の距離はそのくらいは近かった。「そうね、失礼」と言って、レミリアはフランドールの手を取った。右手を取って、向かうは紅魔館。手と手が体温を伝える。
「ねえ、フラン」
口に出したときには、もう紅魔館へと向かって足を進めている。門へと、一直線に。足並みは遅い。
「私は、悲しいと思うわ。無限と言われてもよくわからないけれど……」
「大丈夫、私もよくわからないから。わかるのは、それが何よりも遠いって事くらい」
「でもね、そんなに遠くに行かないと交われない。それは悲しいと思う」
「そうなの。私は救いだと思うな。永遠に歩みを進めていけば、いつかは出会える。私はそれが救いだと思うし……ああ、やっぱり、お姉様とは気が合わないね」
くすり、と笑ってフランドールは言った。レミリアの背中に笑いかけた。
扉へと、紅魔館へと、一直線に背中は進んでいく。ふと、それが動いた。横へと曲がった。
「だけど、もっと悲しいのは平行の方ね。どこまでも一直線にしか進めないなんて。無限に進まないと交われないなんて。私なんて運命すらねじ曲げてやれるのに。フラン、貴方はどう思う?」
耳にはレミリアの言葉。そしてフランドールの目には、雪中花が映っていた。雪がない時を思い出してみれば、そこは花壇だったはずだ。雪も少しうずたかくて、そこから白い花が顔を出している。レミリアは花を避けるために曲がったのだろうか。
「たぶん……いや、きっと私もそうだと思う。倒れも折れも曲がりもせずに進むだけの平行は悲しいね、何よりも」
フランドールは間違いなく避けようと思って、レミリアの手を離した。レミリアは右へ、フランドールは左へと迂回する。一歩後ろを歩きながら、離した手を天に伸ばす。
「いつも思うの。もちろんわかってるよ――あの光は何百何千年前の物だって、私ですら生まれてない頃の、遠い世界の光だってことは。でも、手を伸ばせば届きそうだと思う」
掌を開いて、握る。何も起きはしない。
「もう少しで星の目も見えて、いつかの隕石みたいに粉々にして、星の雨を降らせそうだって思う」
「貴方程度では無理よ。ちっぽけな引きこもり一人には」
「まあ、もし壊せても、それを見られるのはやっぱり何百か何千年後だけど」
二人の道筋はまた重なって、手は離したままで、紅魔館へ。フランドールは掌をまた開いて、レミリアの背中に向けて、
「でもお姉様や紅魔館くらいなら壊せるかしら」
「それにも貴方は小さいでしょうね。羽の一つや壁の一枚二枚は壊せたって……私の背負っている物――メイドに知識人に門番、そして妹様。私が紅魔館と呼ぶ物は壊せはしない」
微笑んだ。両手を背中に預けて、レミリアにおぶさった。
「ちょっ。急におぶさったら重いわよ!?」
「今さっき言ったばかりじゃない。お姉様が背負っている物に私も入ってたでしょ? それに寒いって言ってたじゃない。暖めてあげようとも思ったわけ」
「それはもっと高尚で知的というか……比喩的な意味でね……あとこれで暖まるよりさっさと暖かい家の中に入った方が……」
「だいたい、大木を片手で持ち上げるのが吸血鬼でお姉様でしょ? ま、私は無理だけど。でも失礼しちゃうな。私が大木よりも重いなんて」
「あれはぶっちゃけカリスマをアピールするために結構盛って……いや、準備をすれば大丈夫だけど、こう急に……しかも羽が半端でバランス感覚が……っと揺れないの!」
「私は揺れてないよ。お姉様がふらつきすぎ。ほらほら、危ないよ! そっちはマンドラゴラが! 踏んだら悲鳴を上げちゃうよ!」
ふらり、ふらりと揺れながら、重なった一つの影が紅魔館を目指す。扉に付くまではもう少しかかりそうだった。喧噪と共に、息の白が漏れ続けていた。残雪には、一組の足跡だけが跡を付けていた。
残り三面は果てしなく空間が広がっている。果ては見えない。どれほど進もうが、地平線しか見えない。
その部屋がどれだけ広いのか、フランドールは、レミリアは、作った咲夜ですら把握してはいない。
「ねえお姉様。無限遠点って知ってる?」
空も広い。その天井の高さは空としか言いようが無かった。どれだけ目を凝らしても、飛んでも、ベージュ色が続いている様しか見ては取れない。柔らかい色合いが、柔らかい光に照らされていた。
その光の中で、レミリアは首を振った。同時か、それより少し早く、フランドールは言葉を続けた。
「それはね、とても遠い所に有る点なの。そうよ、無限に遠い所に――」
果ての見えない空と、床の向こうを見ながら。あるいは、ひしゃげた家具や、片翼の千切れたレミリアを。
ここには光を放つ苔が生えているの。といつかパチュリーは言っていた。そんな苔、ベージュ色の苔が有ることは、二人も知っている。扉の付近に並べられた豪勢な調度を、レミリアが運んできてくれたことも。あるいは、二人が並ぶソファーの柔らかな座り心地も、その前のテーブルで湯気を立てるB型の紅茶が美味しいことも。
ひしゃげた家具のいくつかは、つい最近壊れたこともわかる。レミリアの羽は、ついさっきフランドールが壊したことも。羽が折れたくらい、吸血鬼にはさしたる苦痛ではないことも。少なくとも、肉体的な意味では。
「無限と言っても、どれだけ遠いかなんて実感できないけどね。私は、この部屋の果てはどうなっているか知らない。あと五百年生きても辿り着けないくらい広いとは思う。ううん。五百年なんていらない。二人でてくてくと歩いて……それか、びゅーっと飛んでいって。でも、果てに付く前にお腹が空いて、喉が渇いて、先にそうなるのは私かもしれない。お姉様かもしれない。とにかくね、もう一歩も動けなくなっちゃいました。干からびちゃいそうです。ってなるよね。背中のリュック一杯に食べ物を積んでも。ケーキに紅茶にフリカッセ、と積んでも」
レミリアは紅茶に手を付けた。三人掛けのソファーの横で語る妹を、横目で見やる。紅茶の甘さを味わってから、「そうね」と呟いた。
妹の顔。金色の髪に、紅い目に、歪で鮮やかな色の翼。白い肌が形作る、幼げなかんばせ。五百年に近い間、ずっと変わらない相貌。髪や翼は似ていないし、目の色や顔の幼さは似ている。
495年ほどの時間が経って、二人の関係も変わったけれど――妹を見て確かに妹だと思うときも有れば、他人のように思えるときも有る。それが常に揺れ動くことは変わらない。
今はどちらかしらね、と思いつつ、レミリアは己の青い髪を撫でた。
「で、お姉様。どっちが先に干からびちゃうかはわからない。でも、干からびたらきっと干からびた側を食べるよね。私も、お姉様も」
レミリアは答えはしない。否定もしない。また、紅茶に口を付ける。
「それで進むか戻るか……私はきっと進むな、また干からびるまで。なんでかっていうと……いや、ええと、そうそう、ごめんなさい、お姉様。無限遠点の話だよね。無限に遠いなら私たちにはきっと見て取れない。でも、必要なの」
フランドールは上を見やった。どこまでもベージュ色の続く上を。無限に比べたら、塵芥にも満たない高さを。
「お姉様。庭に行きましょ」
横に座る姉の手を取って、フランドールは立ち上がった。「ええ」と言って、レミリアも立ち上がる。レミリアの紅茶はまだ半分ほど残っていて、フランドールの紅茶には、口も付けられてはいない。
平行に座っていた二人は、手を取り立ち上がれば、垂直に近い斜めになる。ドアを開けて、狭い紅魔館の廊下に出れば、喧噪が聞こえる。メイド達の談笑。仕事などするわけもない。
「こんばんは」
フランドールはにこやかに微笑みかける。
「あ、フランドール様……にお嬢様。こんばんは」
と、メイドも答えた。メガネ姿の妖精だった。レミリアと共に、月を見たメイド。
その顔はにこやかだった。談笑していた妖精のうち何匹かはそうしていた。何匹かはおののくように後ずさる。数匹は逃げ出していた。
「フランの部屋に紅茶があるから片付けておいて」とレミリアは早口で言い残す。フランドールの手を引く早さには、そうでないと追いつけない。返事は確認できなかった。
その早さなら、庭は一瞬だ。暗闇を星明かりが照らしている。残雪が月明かりで光る。息は白くなった。そんな時期の星空。空にはオリオン座が浮かんでいる。草木も眠る時間。風の音が枯れ木を揺らす。
「あれがミンタカ。こっちがアルニラムで、それはアルニタク。お星様の名前。知ってる?」
フランドールが指さしたのは、オリオン座の中心にある三つ星。レミリアは初めて知った。それが、星の名前だと。ずっと、地下室にいて、星を見ることも無かった妹に教えられて。
その名前は知っていた。彼女を月へと誘った名前。「私たちが乗ったロケットの名前も」と呟く。
「違うわよ。私は、でしょ。お姉様が乗ったロケットも」
フランドールの視点から見た否定を、そのまま受け入れてレミリアは頷いた。言葉は続けない。向かいに立つフランドールも、微笑みながら頷き返して、レミリアの横へと動く。二人は平行になって、風が金色を揺らすのが、レミリアの横目に映った。
「あのお星様は住吉三神。お姉様を月へと連れて行った航海の神様。三人で一つのね。でも、三つの距離はとても遠いの。ミンタカはここから一千光年離れているわ。アルニタクは八百光年。それで、一番遠いアルニラムは一千三百光年。アルニタクから見ても、五百光年は離れているの。それでも、三人は仲良しな神様、三人で力を合わせて、みんなの航海を成功に導いてくれる。ま、私は航海なんてしたこと無いけどね。ずっと地下のお部屋で眠っていただけ。今はとても広くて――その前の四百何十年はそれなりに広かったお部屋。天井は何メートルかの高さで、そのすぐ上でお姉様はパーティをしていた」
そちらの――天井が数メートルの高さの紅魔館で有ったときの方が圧倒的に長いのに、レミリアはそちらの方に違和感を感じてしまう。
「思えば、私は昔何をしていたのかな。出ようとも思わなかったし、そう思わせてくれるような人もいなかった。ねえ、誰が私を閉じ込めていたのかな? 私かな? お姉様かな? それとも……ううん、いいや、それでね、パチュリーが来たよね。百年くらい前。それから、パチュリーに本を借りたり、色々と教えてもらったり。そう、住吉三神や、無限遠点、そんな役に立たないことばかり」
風は恐ろしいほどに勢いがあって、冷たい。悪魔にだって、寒いと思う。
「それに、お星様の話。それはね、本当は役にたつことかもしれない。みんな、お星様を見て、航海に出たの。星を見て、航海に出たの。既知の航海か、それか未知の航海か。オリオン座を追っかけたり、北極星や、ベガやアルタイル。色んなお星様が導いていた。そうそう、地球は丸いと言うこともパチュリーが教えてくれたわ。お姉様は見た? 丸くて青いお星様。私たちの住む星を」
レミリアは「ええ」と言いながら頷いた。ロケットから見た青は、確かに脳裏に焼き付いている。
「織姫様と彦星様はずっと一緒に回っている。今の二人はお揃いで南半球に浮かんでいて、二人の距離は常に五光年。私たちの感覚じゃとても遠いけれど、アルニタクとアルニラムの百分の一の距離。無限遠点から見れば髪の毛一本にも満たない距離。それで」
すっとフランドールは横を向く。同じ色の瞳が、また重なる。はにかむような笑みを浮かべて、続ける。
「私たちは三メートルくらいかな。今は。三メートルの距離を挟んで、平行に立っているの。一番離れていたのは、お姉様が月に行っていた時……だから三十八万キロくらい。ああ、一光年は十兆キロね。それもパチュリーが教えてくれたこと。どっちにしたって、ベガとアルタイルにも、アルニタクとアルニラムの比較にもならない距離。だけど、織姫と彦星は愛し合っていて、住吉三神は力を合わせていて、私は、声をかけなかった」
フランドールの顔は、視線は、また空に戻った。レミリアの口が動いた。「いつに?」という形に。だけれど、音は漏れなかった。漏らさなかった。495年と言う時間は、それを重ねるにもあまりに長くて、でも、一つの例なら、
「お姉様が月に行ったとき、私は『一緒に行こうよ』なんて言わなかった。『一緒に行かない?』なんていう家族も、『一緒に行きませんか?』なんていう人もいなかった」
もちろん、他にも有るのだろう。レミリアが思ったのは、あの雨の日だ。紅霧異変の少し後。大雨だった。人工の雨。パチュリーの降らせた、フランドールを閉じ込めるための雨。
羽をひくつかせながら、レミリアは雨の日を思った。羽は半ば再生していた。その分、歪に見えた。
結局の所、その一つで説明が付くし、全部でも説明が足りない。495年と少しの間、二人の歩みは重なっていない。出会って数年の紅白や白黒と重ねた道にすら、妹はいない。
くしゅん、と音がした。レミリアの鼻から。悪魔にだって、この冬は厳しいらしい。
「ああ、寒いよね。こんな寒いところまで付いてきてくれてありがとう。お姉様。そしてごめんなさい。羽。別にお姉様を狙ったわけじゃないの。急にイライラしたから、そうしたらお姉様が急に目の前に」
そう言うときには、またレミリアの顔を見やって。
「でも、本当はそんなに申し訳ないとも思ってないかもしれない。家族だもの。羽がもげたって消し飛んだって、すぐに元通りって言う一点だけをとってもね」
続けたときには、もうアルニタクを見つめる。千三百年前に放たれた光を。千三百光年先を。
「お姉様。最後に一つだけ聞きたいの。ええとね、無限遠点ってのは平行が交わる点なの。絶対に交差しないはずの平行は、無限遠点では交わるの。概念の中にしかない。無限に遠い先では」
そうして、フランドールの視線は紅い瞳へと移る。己と同じ色の瞳へ、紅と紅が交錯する。
「そんな点の話をこの間パチュリーに聞いて――なんでそんな点があるかというと、そうすると空間を使いやすくなるとかで、だから咲夜もたぶん……いや、寒いしそんなのはいいや。ねえお姉様。無限遠点では交われる平行って幸福だと思う? 不幸だと思う? 無限に遠い所でないと交われないけど、無限に遠くまで行けば交わる、出会うことが出来る平行さん。それが救いなのか、悲しいのか……聞いてから、ずっとどっちなんだろうって思ってたんだ。色々と考えながら思って、私は答えが出たの。で、お姉様はどう思うかなって」
くしゅん、またくしゃみだ。本当に寒い夜だった。外の世界にいたころはもっと寒いのが常だったかもしれないけれど……もうこちらの気候になれてしまった。
「もう、鼻がかかっちゃうよ。お姉様」
向かい合う二人の距離はそのくらいは近かった。「そうね、失礼」と言って、レミリアはフランドールの手を取った。右手を取って、向かうは紅魔館。手と手が体温を伝える。
「ねえ、フラン」
口に出したときには、もう紅魔館へと向かって足を進めている。門へと、一直線に。足並みは遅い。
「私は、悲しいと思うわ。無限と言われてもよくわからないけれど……」
「大丈夫、私もよくわからないから。わかるのは、それが何よりも遠いって事くらい」
「でもね、そんなに遠くに行かないと交われない。それは悲しいと思う」
「そうなの。私は救いだと思うな。永遠に歩みを進めていけば、いつかは出会える。私はそれが救いだと思うし……ああ、やっぱり、お姉様とは気が合わないね」
くすり、と笑ってフランドールは言った。レミリアの背中に笑いかけた。
扉へと、紅魔館へと、一直線に背中は進んでいく。ふと、それが動いた。横へと曲がった。
「だけど、もっと悲しいのは平行の方ね。どこまでも一直線にしか進めないなんて。無限に進まないと交われないなんて。私なんて運命すらねじ曲げてやれるのに。フラン、貴方はどう思う?」
耳にはレミリアの言葉。そしてフランドールの目には、雪中花が映っていた。雪がない時を思い出してみれば、そこは花壇だったはずだ。雪も少しうずたかくて、そこから白い花が顔を出している。レミリアは花を避けるために曲がったのだろうか。
「たぶん……いや、きっと私もそうだと思う。倒れも折れも曲がりもせずに進むだけの平行は悲しいね、何よりも」
フランドールは間違いなく避けようと思って、レミリアの手を離した。レミリアは右へ、フランドールは左へと迂回する。一歩後ろを歩きながら、離した手を天に伸ばす。
「いつも思うの。もちろんわかってるよ――あの光は何百何千年前の物だって、私ですら生まれてない頃の、遠い世界の光だってことは。でも、手を伸ばせば届きそうだと思う」
掌を開いて、握る。何も起きはしない。
「もう少しで星の目も見えて、いつかの隕石みたいに粉々にして、星の雨を降らせそうだって思う」
「貴方程度では無理よ。ちっぽけな引きこもり一人には」
「まあ、もし壊せても、それを見られるのはやっぱり何百か何千年後だけど」
二人の道筋はまた重なって、手は離したままで、紅魔館へ。フランドールは掌をまた開いて、レミリアの背中に向けて、
「でもお姉様や紅魔館くらいなら壊せるかしら」
「それにも貴方は小さいでしょうね。羽の一つや壁の一枚二枚は壊せたって……私の背負っている物――メイドに知識人に門番、そして妹様。私が紅魔館と呼ぶ物は壊せはしない」
微笑んだ。両手を背中に預けて、レミリアにおぶさった。
「ちょっ。急におぶさったら重いわよ!?」
「今さっき言ったばかりじゃない。お姉様が背負っている物に私も入ってたでしょ? それに寒いって言ってたじゃない。暖めてあげようとも思ったわけ」
「それはもっと高尚で知的というか……比喩的な意味でね……あとこれで暖まるよりさっさと暖かい家の中に入った方が……」
「だいたい、大木を片手で持ち上げるのが吸血鬼でお姉様でしょ? ま、私は無理だけど。でも失礼しちゃうな。私が大木よりも重いなんて」
「あれはぶっちゃけカリスマをアピールするために結構盛って……いや、準備をすれば大丈夫だけど、こう急に……しかも羽が半端でバランス感覚が……っと揺れないの!」
「私は揺れてないよ。お姉様がふらつきすぎ。ほらほら、危ないよ! そっちはマンドラゴラが! 踏んだら悲鳴を上げちゃうよ!」
ふらり、ふらりと揺れながら、重なった一つの影が紅魔館を目指す。扉に付くまではもう少しかかりそうだった。喧噪と共に、息の白が漏れ続けていた。残雪には、一組の足跡だけが跡を付けていた。
あとがきは、本文と真逆の様子ですが、まあ、幸せそうで何よりです。
幸運なのか不幸なのか…
レミリアとフランは
対称的で同一な存在と
いうことですかね。
後、最後の二人カワユス(ーωー)
始点で交わっているのに平行なんてことはないはずだ。無限よりかは、近いと思うよ。
いずれにしても詩的で見事な話でした
どんなに遠くてもいつか会えるなら、それは幸せだと思いたいですねぇ…
たった一本の平行線を一緒に歩いてるってことか
素敵なお話でした
文章も、テーマも、切り口も素晴らしい。解題めいたことを書こうとしたのですが、何を書いても蛇足になりそうです。
それとフランドールの言い回しがとても好きです。
ああ、この作品を表現する良い言葉が見つからない。もどかしい。