――何かがおかしい。
宇佐見蓮子は、窓から通りの見える喫茶店でコーヒーを飲みつつ、一人考えていた。
窓から見えるのは、いつもと変わらない少し寂れたお昼前の商店街。八百屋のおじちゃんは声を張り上げ、道行くおばちゃんを捕まえてセールストーク。お腹をすかせた少年たちは、いい匂いにつられてパン屋の中へ。時代遅れの靴磨き屋は、道の端に座って何をするでもなく道行く人々を眺める。何も普段と変わったことはない。あえて言うならば、ここ最近降り続いていた秋雨がようやく上がり、空には気持ちの良い秋晴れが広がっていることくらいだろうか。
いつもと変わらないはずのそんな光景を眺めながら、蓮子はコーヒーを一口すすり、ため息をついてカップを下ろす。
――私はここに何をしに来たんだっけ?
まずはそこから整理しよう。今日の自分の行動を思い返す。
朝。いつものように目を覚ました蓮子は、これまたいつものように携帯電話をチェックする。メール、着信ともに無し。シャワーを浴び、スクランブルエッグとトーストで簡単な朝食をとる。そして、携帯電話を取り出し――
――そうか。ここからだ。
違和感の始まりは、ここからだった。誰かにメールを打とうとしたはずなのに、その「誰か」がわからない。そもそも、なんの連絡をしようと思ったのかすらわからないのだった。
もしかしてボケたのか、私まだ若いのに、などと思いながら、いつもの服に着替え、外に出る。そしていつものように手帳を開き、また違和感。開いた癖はあるのに、何も書かれていないページがいくつかあったのだ。それも飛び飛びに。
なんとも言えない不気味な気持ちのまま、ぶらりと街を歩く。その間にも、違和感はいくつもあった。
まず、外に出た理由が思いつかないこと。かといって、外に出るという行動自体には、何故かなにも違和感を覚えなかった。
それから、行き先がなぜかわかっていること。もちろん、この街のことは知らないわけではない。ここに喫茶店があることも知っていたし、実際何度か入った覚えもあった。しかし、外に出てきた理由も思いつかないのに、何故向かう先がこの喫茶店だということは分かっていたのだろう。
そして、一番大きな違和感は、今感じているものだった。
誰もいない向かいの空席をじっと見つめる。何かがおかしい。確かに、ここには誰もいない。一人で来たのだから当然だ。しかし、この違和感はなんだろう。「ある」はずのものが「無い」感覚。それはつまり。
「ここに、誰かが座っているはずだった……?」
ふと、思考が口から漏れる。一瞬だけ、頭の中に誰かの姿が浮かんだ気がした。その影を追って思考を巡らせようとして、
「コーヒーのおかわりはいかがでしょうか?」
「あ、いえ、大丈夫です」
店員の声に遮られる。見えかけた誰かの姿は陽炎のように消え、頭に残ったのはより強さを増した違和感だけだった。
――私は何かを忘れている。
手がかりは、手帳の空白と、ついさっき浮かびかけた、頭の隅に残る誰かの姿だけ。他にあるとするならば、蓮子をこの喫茶店まで導いてきた、謎の感覚くらいだ。
手帳をパラパラとめくり、内容を見返す。書いてあるのは、日々の出来事と、様々な不思議な現象の調査結果、そしてこれからの予定。それらのどの項目にも、空白のページは同じように挿入されている。
――ここには元々何が書かれていた?そして何故今は空白になっている?
わからないことが多すぎて頭を抱える。今までもいくつも不思議な事に出会ってきたが、今回のはとびきりわけが分からなかった。
「ねえ、どう思う?――……」
一瞬自分でも気づかないほどに、あまりにも自然に口から流れでた言葉。それは、ずっと、何度も何度も言い慣れていた言葉のようで。そして、その後に続く言葉は――
大急ぎで手帳を開く。写真のページを開き、すべての写真を一枚一枚しっかりと調べる。携帯電話を開く。付属のカメラで取った写真、メール、着信履歴、すべてのデータを確かめる。
いなかった。どこにも。写真にも、メールにも、着信履歴にも、電話帳にも。そこにいるはずの「誰か」が。
今までとは比べ物にならないほどの桁違いに大きい違和感にめまいがする。そして、その感覚をも押し潰すように、なにか不思議な感情がふつふつと湧き上がってきた。
――『彼女』は、一体誰なのだろう。
心の奥底から止めどなく溢れてくる好奇心は、むしろ蓮子の心を落ち着かせ、頭を冷やし、いつもの冷静さを取り戻させた。
コーヒーをぐっと飲み干し、席を立つ。お気に入りの帽子をかぶり、手帳を胸ポケットにしまう。窓に映る自分の姿を確かめ、隣に立つ誰かの姿を思い浮かべる。
――誰だかわからないけれど……
そこにいるべき誰かに向かって、心のなかで話しかける。
――私は、あなたを見つけてみせる。
長いスカートを翻し、しっかりとした足取りで店を出ると、爽やかな風が顔を撫でていった。
「さあ、調査開始よ!」
誰へともなくそう宣言して、蓮子は街の中へと足を踏み出す。その姿を後押しするかのように、柔らかで気持ちのよい秋風が、商店街を吹き抜けていった。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
「手がかりはなし。何も進展せず、か……」
時は流れて夕方。一日中街の中を歩きまわった挙句に蓮子が出した結論は、なんとも実りのないものだった。
「ふう……」
溜息をついて、道端の車止めに腰掛ける。
――車は全然走っていないけど、こういう時には役に立つものね。
手帳を開き、今日の成果を確認する。
喫茶店を出てから、足の向く方向に任せて商店街から近くの山の中林の中、果ては町の外まで歩きまわってみるも、何もわからず。諦めて手帳に書いてあるスポットを回ってみるが、時に目新しいものは無し。完全に詰み、というやつであった。
胸ポケットにそれをしまい、ぼーっと夕暮れの街を眺める。あかね色に照らされた街を見ていると、それだけで何故か幻想の世界に入っていけそうな気分になる。
――逢魔が時、とはよく言ったものね。
隣にいるはずの少女。その姿はまるで幻想のように、頭の中に浮かんでは消え、夕暮れの街に溶けていく。まるで陽炎を追っているような、そんな感覚に囚われ、蓮子は小さくかぶりを振った。
と、突然、強い風が通りを吹き抜け、蓮子はぎゅっと目を閉じる。そして、
「あっ」
気づいた時には、帽子は蓮子の頭を離れ、手の届かないところまで飛ばされてしまっていた。
「……はあ」
思考を中断して、車の通らない広い道を横切って、帽子を拾う。そして帽子をはたいて汚れを落とし、目深にかぶったところで、気づいた。
「階段……?」
目の前には、見覚えのない石造りの階段。それは、昼に一度調査に入り、なにも成果がなかったはずの、山の奥の方へと続いていた。
――こんなところに階段なんてあったかしら。
携帯電話を開き、町の地図を調べる。現在位置は当然分かる。しかし、やはりというべきか、この階段は、地図には記されていなかった。
黄昏時に目の前に現れた、地図にも載っていない階段。地図に乗らない小さな道や階段などはよくあるものだが、この街をある程度良く知っているはずの自分の記憶にもない、となると、それは彼女の好奇心をくすぐるには十分なものであった。
メモ帳に現在の時刻と場所、そしてここまでの経緯を書き込み、ポケットに仕舞い直す。途中で曲がりくねって見えなくなっている階段の向かう先を見つめると、何か不思議な既視感に囚われた。
――私は、ここに来たことがある?
気づくと、蓮子は階段を登り始めていた。足の向かうままに任せて、曲がりくねった階段をどんどんと登っていく。そして、一段、また一段と上るたびに強くなる既視感に、蓮子はある確信を覚えていた。
――そうだ。私は、ここを知っている。
自然と早くなる足取り。角を曲がるたび、頭の中にちらつく影も、その濃さを増していく。
――間違いない。私はここを上ったことがある。
もはや駆け出さんばかりの足取りで、階段を一段とばしに登っていく。
――じゃあ、そのとき私は何故ここを上っていた?この先にあるのは何?『彼女』は、誰?
風よりも速く、蓮子は階段を駆け上る。階段の終わりは、もうすぐそこに見えていた。
――そうだ。思い出した。
倒れこむようにして、階段を上り切る。息を切らしながら、頭から落ちそうになる帽子を押さえ、顔を上げる。
――『彼女』の、名前は。
夕暮れに染まった山の中。神さびた階段の、その先には。
――――――。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
「その先にあったのは、森の中にひっそりと佇む神社だった、と」
そう呟いて、夜の闇に染まった目の前の社殿を見上げる。
「でも結局、おばあさまは何も見つけられなかったのよね……」
『宇佐見蓮子』という祖母の名が記された手帳をそっと閉じる。隣に置いたランプの明かりに照らされ、ほんのりと朱く染まって見えたその手帳は、祖母の遺品から勝手に拝借してきたものだった。
2年前に亡くなった祖母の遺品を整理していた時、倉庫の奥底に、鍵のかかった小さな箱が物陰に隠すようにして置いてあるのを見つけた。彼女のお気に入りの帽子のリボンの裏に挟まれていた鍵で箱を開けると、中に入っていたのは、一冊の古ぼけた手帳だった。興味本位で中を覗いてみると、そこに記されていたのは、見たこともなければ聞いたこともないような、不思議な出来事の数々。そして、その中でも特に不思議だったのが、この神社だった。
朝からずっと続く不思議な出来事や感覚、神社を発見した時の状況。ここまで役者を揃えておいて、調査結果は「何も無し」。好奇心が呼び起こされないはずがなかった。すぐに教授に話をつけて休みをもらい、その日のうちに電車に飛び乗り、この街に来て調査を開始したのだが。
――神社を見つけたところまでは良かったのだけどねえ……
大きくため息をつく。
夕暮れ時に手帳に記された交差点へたどり着いた彼女は、祖母と同じその場所で、風で飛びやすいように飛びやすいようにほんの少しだけ帽子を持ち上げる。すると、帽子は突然の風によって見事に記述通りの場所へと飛んでいき、そしてその帽子を拾って顔を上げると、目の前には山の上へと続く階段が現れていた。満足気な顔で意気揚々とその階段を登ってきた彼女だったのだが……
「あーもう!ほんとに何もないじゃない!どういうことよ!」
それから数時間。もう日は完全に暮れてしまったというのに、彼女はまだ何も見つけられないでいた。
縁側に座り、ランプを消し、空を見上げる。時刻は午前二時三十分ちょうど。丑三つ時だというのに特に何も起こらないこのおかしな神社に、彼女はすでに嫌気が差していた。
――もしかしたら幽霊とか妖怪とか、そんなものは集まってるのかもしれないけれどねえ。
月と星を見て時間と場所を正確に知ることはできても、幽霊や結界、超常現象のたぐいは全く見ることのできないというこの融通の聞かない目を逆恨みしつつ、目をゆっくりと閉じる。
――宿も取ってないし、このままここで朝まで寝てしまおうかしら。
そんな年頃の女性にあるまじきことを思っていると。
「っきゃあ!」
すぐそばで悲鳴が聞こえた。
慌てて目を開けてランプを点けると、目の前には、変な帽子をかぶった同い年くらいの金髪の女性が、ぎゅっと目を閉じて、頭を抑えてへたり込んでいた。
「い、いや、私はただ誰もいない夜の街を探検していたらこんなところにたどり着いてしまっただけで、まさか幽霊さんがこんなところにいるなんて知らなくて!だから、呪わないで……!」
「誰が幽霊よ失礼ね」
急に失礼なことを言い出したその見知らぬ女性は、ガタガタ震えながら手を合わせて誰かに祈るのをやめ、薄く目を開く。
「……あれ?」
「よく目を開けて御覧なさいな。ちゃんと足もついているでしょう?」
「……あら、ほんと」
「今気づきましたみたいな顔するんじゃないわよ全く……」
おそるおそる目を開けて全身を見渡し、彼女は安堵の表情を浮かべた。
「ああよかった。いつのまにか知らない場所に迷い込むのはいつものことだけれど、まさかこんな時間に人に会うなんて思いもしなかったものだから」
少し笑顔になって立ち上がろうとする。が。
「……立てない」
大きくため息をつき、案の定腰が抜けて立てない彼女に手を貸し、縁側に座らせた。
「ありがとう……あたた」
「まったく、びっくりしたのはこっちよ。急に目の前で悲鳴が上がったと思ったら、目の前で知らない人がへたり込んでるんだもの。おまけに腰まで抜かしてるし」
「ごめんなさい……」
しゅんとなる彼女を見て、もう何度目かわからない溜息を付く。
――他の人が普通に入ってこれるってことは、やっぱり外れかしらね……。
今までの探索が無駄足だったとわかり、気を落として境内を見やる。
「第一、こんな神社の中に、人を呪うような悪霊が現れるわけがないじゃない。どんな小さな神社だろうとそこは神様の御前なんだから、悪霊なんかがそこに住み着けるわけがないわ」
「あら、この神社には神様はもういないわよ?」
「……は?」
急いで彼女の方を振り向く。
「だって、この神社、もう結界が少しも残っていないもの。神社には普通、そういう悪霊とか地縛霊とかのたぐいを寄せ付けないための結界が張られているわ。場所によってはそういう結界が張られていない神社もあるけれど、そういうところであっても、本殿だけだったりご神体の前だけだったりするけれど、少なくともどこかしらには祀られている神様を守るための結界は張られているの。でも、この神社は、ひと通り見たところどこにも結界が張られていないわ。しかも――」
「ちょ、ちょっと待って!」
力の抜けるような笑顔のまま、とんでもないことを言い出す彼女。
「あなた……何者?」
「私?私は、そうねえ……」
少し考えこむように顎に手を当て、ちょっとイタズラっぽい笑顔でこっちを振り向く。
「結界の切れ間を見ることができる、ごく普通の大学生よ」
――結界が、見える?
「ちなみにさっきの続きだけど――ひゃっ!?」
気づいたら、彼女の肩をおもいっきり掴んでいた。
「な、何?」
「ねえあなた、超常現象に興味はあるかしら!」
「ちょ、超常現象?」
「そう、超常現象。とはいっても、UFOとかそういうのじゃなくて……言うなれば、『この世界の裏側』に興味はあるか、といったほうがいいかしら」
「この世界の……裏側?」
「そう。裏側。この世界には、科学では解明することができないことが山ほどあるわ。そしてそういうものは、得てして人々の目から隠されている。私は、そういう秘匿され、封じられたものを暴いて、そこに隠された真実を知りたいの!」
あの手帳を見つけてから、ずっと思い描いていた未来。祖母と同じように、誰も知らない不思議なことをこの目で見て、耳で聞いて、肌で感じるということ。それが、ぐんと現実に近づいた気がした。
「あなた、名前は?」
「……マエリベリー・ハーンよ」
「マエ……マエリベリ……マエリ……ああもうじれったい!メリー!メリーでいいわ!」
肩を握る手に力を込め、しっかりと目を見つめる。
世界の裏側を見続けてきた、祖母と同じ名前。そんな誇らしい自分の名前を、精一杯の想いを込めて告げる。
「私は、宇佐見蓮子。ねえメリー、私と一緒に、世界の向こう側を、見に行かない?」
少しの沈黙の後。
「……会ってほとんど間もないのに、随分と強引なのね」
呆れ顔でそんなことを言われ、我に返って慌てて手を離す。
「ご、ごめんなさい!理想とあまりにもピッタリな人が見つかったものだから、つい……」
「……でもまあ、そうね。確かに、そういうのも面白いかもしれないわね。その話、乗ったわ」
「え……本当に!?」
「ええ。私も、そういうものには興味があるし。なにより、あなたのその強引さには、さすがに負けたわ」
そう言って、少し呆れた顔のまま、半ば諦めたような、しかしなんだか少し楽しそうな笑顔で、そっと手を差し出す。
「さあ蓮子。一緒に、誰も見たことがないこの世界の裏側を、見に行きましょう」
まだ真っ暗な神社の境内。ほんのりと朱いランプの光の中で、二人はしっかりと手を握った。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
「ねえ蓮子、そっちはなにか見つかったかしら?」
「何もないわ。そっちは?」
「こっちも、何も無かったわ」
「そう……」
本殿の中の探索を諦め、外に出る。
「結局、何も成果なし、か」
縁側に腰掛けながらつぶやく。と、
「違うわ蓮子。『何もなかった』のよ」
隣りに座ったメリーが、蓮子の方を向いてそう言った。
「どういうこと?」
「神様がいる神社は結界が張られている、というのは言ったわよね?」
「ええ、さっき聞いたわ」
「でも、この神社には『何もなかった』。つまり、神様が去ったということ」
「それは分かるわ。でも、それはよくあることじゃないの?最近神様を信仰してる人なんてそんなに多くないし、そんな誰も信仰しない神社にいても仕方がないからって去っていく神様がいても、何もおかしいことじゃないんじゃない?」
「ええ、そうね。それだけなら何もおかしくないわ。でもね」
メリーは後ろの本殿の中を振り返る。
「この神社には、結界の『跡』さえも見つからなかった。普通、結界が無くなったあとっていうのは、少しの間なら結界が残っているはずなの。それに加えて、ほら」
目の前の境内を指差す。
「この境内は、あまり汚れていない。これは少なくとも、少し前まではこの神社に誰かが訪れていたことを表しているわ。だって、誰も来ない、誰からも信仰されていないような神社を掃除する人なんていないでしょう」
「……確かにそうね」
周りを見回す。確かに、落ち葉一つ落ちていない、とは言わないまでも、少なくとも参拝するのには困らない程度には、この境内は綺麗に保たれていた。
「つまり、どういうこと?」
期待を込めて彼女の目を見つめる。少しの沈黙。そして、メリーは小さく口を開く。
「分からないわ……」
「そこまで言っておいて!?」
「だって、わからないものはわからないんだもの!」
あまりの答えにツッコミを入れる蓮子に、少しふてくされて答えるメリー。
「私だって必死で考えたのよ。でも、こんな結界の跡すらもない神社なんて見たことも聞いたこともないし、それなのにこんなに綺麗だなんて、全く訳がわからないわよ……」
まさにお手上げ、といった口調でそう話す。しかし蓮子は、スカートのポケットから真新しい手帳を取り出して、何ごとかを書き込んでいた。
「何を書いているの?」
「ちょっと待って」
少し書いては筆を止めて何事かを考え、またメモに向かう。数十秒の後、蓮子は口を開いた。
「分からないわね」
「あなたもわからないんじゃない!」
全力で突っ込む。しかし、彼女はまだ考えている顔のまま、メモと向き合っていた。
「ちょっと整理してみましょう」
そう言って、さっき何事かを書き込んでいた手帳を、見やすい位置に置く。
・神様はいない
・結界は張られていない(跡すらもない)
・境内は綺麗→人の手が入っている(あるいは少し前まで入っていた)
「そして、何よりも怪しいのは、ここよ」
そう言って、蓮子はメモの一部を指し示した。
・地図に書かれていない
「どういうこと?」
「昼間のうちに調べたのよ。全ての地図を調べたわけではないけれど、この神社は、私が見たどの地図にも載っていなかった。あなたの話を聞くまでは、こんな本殿しかないような小さな神社だし、載っていないこともあるだろうと思っていたのだけれど。でも、今のあなたの話を合わせると、それとはまた別の、ある一つの仮説が浮かび上がってくるわ」
その文字を大きく丸で囲い、ペン先で文字をトントンと叩く。
「これと今の話から考えられることは、この神社が『意図的に隠されている』ということよ」
手帳の続きに『隠されている』と書き込み、その下に二重線を引いた。
「地図に載っておらず、結界も張られていない。この2つの事実は、お互いに全く関係がない、と考えることができる。でももしも、この二つの事実がお互いに関連しているとするならば、それはこの神社が何者かによって『意図的に隠された』ことになる。それも、ただの人によってではなく、例えば力のある巫女だったり神様だったり、いずれにせよそういう結界を操れるような人智を超えた力を持つ者によって隠された、ということになるわ」
流れるように推理していた彼女はそこで少し言葉を切り、メリーの反応を待つ。
「なるほどね……でも、なんで彼、もしくは彼女は、この何もない神社を隠したのかしら」
「そう。そこなの」
その反応を待っていたというように、手帳に大きく、矢印と『なぜ?』という文字を書き込む。
「分からない、というのはそこなのよ。いったい誰が、なぜ、この神社を隠したのか。それを今考えているのだけれど」
ページをめくる。
「可能性としては、そうね……」
新しく開いたまっさらなページにペンを走らせる。
・神が人を攫い、それを隠すために記録、そして記憶を消し、どこかへ去った。
「これはいわゆる神隠し、というやつね。それから、信仰が薄くなった、ということも考えると」
・巫女がいなくなり、信仰も失い結界の弱まった神社に妖怪や幽霊が入り込み、消滅を危惧した神が結界ごとどこかに逃げ去った。
「こういう可能性も考えられる。それから、可能性は薄いと思うけれど」
・この神社は、神の祀られていない偽物である。
「これは、その偽物を作る理由が思いつかないのよね……それに、この神社は、私の祖母も訪れているの」
胸ポケットから、件の手帳を取り出し、この神社が書いてあるページを開く。
「偽物を作ったにしては、あまりにも長い間管理され続けていることになる。少し考えにくいわね」
「そうね……ここに書いてある日付を見ると、確かにそうみたいね」
「しかし、このいずれにおいても、おばあさまが体験したこの謎の現象とは一致しない。メリーはこの神社にごく普通に入ってこれたわけだから、これはこの神社の話とは別件と考えたほうがよさそうね……」
二冊の手帳を閉じてそれぞれ元あったポケットにしまいつつ、蓮子は一つ大きく息をつく。
「私の推理はこんなとこかしら。どう?」
「ブラボー!」
拍手の音を聞きながら、少し照れた表情ではにかむ。
「ふふ、ありがとう。でもまあ、結局わからないことだらけなのだけれどね」
「それだけわかっただけでも十分な進歩じゃない。凄いわ蓮子!」
「そ、そうかしら」
恥ずかしくなって上を見上げると、日の出前の空が綺麗に赤く染まっていた。
「午前五時二十三分。そろそろ日の出ね。引き上げようかしら」
そう言って横を見ると、メリーは彼女を見上げてポカーンとしていた。
「どうしたの?」
「今貴女、時計を見なかったわよね?」
「あら、言ってなかったかしら。私は、星や月が見えている時なら、空を見ればその場所と時間が分かるのよ」
まだ何を言っているかわからないというような表情のメリーの手を引いて、縁側からメリーを立ち上がらせる。
「ほら、グズグズしてると誰かに見つかって不審者として通報されるわよ!」
「そ、そうね」
二人は手を取り合って、朝焼けの境内を走り抜けた。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
朝方の太陽に照らされてオレンジ色に染まる階段を、二人は手をつないで下っていく。すると、角を曲がろうとしたところで、誰かの影が見えた。
「メリー、ストップ!誰かいるわ!」
「え、こんな朝早くに?」
「そうよ。こうなったらしかたがないわね……怪しまれないように堂々と降りて行きましょう」
「そ、それで大丈夫なの?」
「知らないわよ!でも仕方ないじゃないの。バレるかどうかは神様次第よ」
「その神様がいなかったのだけどね……」
「ほら、来るわよ!胸を張りなさい!」
足音が近づく。彼女たちは腹をくくり、堂々と階段を下りる。
「あら、おはようございます。お早いんですね。地元の学生さんですか?」
角から現れたのは、少し変わった髪の色をした、年配の女性だった。
「いえ、こっちには旅行で。ちょっと早く目が覚めてしまったので、街の中を散歩がてら散策していたんですよ」
「そうですか、旅行で。ここから見える朝焼けは絶景だったでしょう?」
「ええ。すごく綺麗でした」
「それはよかった。この街は、見て回るところはそんなに多くないですが、ほんとうに良い街ですよ。お帰りになるまで、ゆっくり楽しんでいって下さい」
「はい。ありがとうございます」
「では、お気をつけて。楽しい一日になさって下さい」
「ええ。あなたも、いい一日でありますように」
そう言って階段を下っていく二人を、女性は暖かな目で見守っていた。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
女性の姿が見えなくなるあたりまできたところで、二人は大きくため息をついた。
「よかった……怪しまれなかった……」
「メリー、あなた一言くらい喋りなさいよ!ずっと私ばかり喋ってたじゃない!」
「私が喋るとボロが出そうなんだもの!それに、結局何にもなかったんだから良かったじゃない!」
わいわいと騒ぎながら階段を下っていく二人。そして、一番下まで下り、手帳を取り出す。
「メリー、今何時かしら」
「え?空を見れば分かるんじゃないの?」
「昼間はわからないのよ。ほら、星が出てないじゃない」
「あ、そうなの……」
メリーは腕時計を見て、蓮子に時間を伝える。
「午前五時二十八分、調査終了。あとの調査はまた明日ね」
「ええ、蓮子、明日もやるの?」
「当り前じゃない。結局今日は何もわからなかったんだから」
「はあ……わかったわよ。付き合うって言ったんだし、どこまでもついていくわ」
そう言って階段に腰を下ろそうとするメリー。そして。
「キャッ!」
そのままひっくり返った。
「ああもう。何やってるのよ……」
苦笑しながら手を貸そうとして――
「え……」
眼の前に広がる光景に、目を疑う。
「階段が、無くなってる!?」
階段があったはずの山と森を呆然と見つめる二人。先に我に返ったのは、蓮子だった。
「はっ、そうだメリー!結界は!?」
遅れて、メリーも我に返る。だが。
「いいえ蓮子、何もない。何も見えないわ」
目を凝らして、さっき下ってきた階段がある「はず」の場所を見つめる。しかし、結界も、その跡すらも、何も見つからなかった。
「結界じゃない……でも実際、私たちはこの、ここにあったはずの階段を下ってきた」
ポケットから手帳を取り出し、開く。そこには、もちろんのことながら、さっきまでの調査の記録が事細かに残っていた。
「どういうことよ……まるでわからないわ……」
「境界……」
「えっ?」
じっと山を見つめたまま言葉を漏らすメリー。
「結界っていうのは、言うなれば『異なる属性の場所を隔てるもの』よ。今回の場合、異なる属性という言葉は『幻想』と『現実』と言い換えてもいいかもしれない」
じっと森の中を見つめたまま、つぶやくように続ける。
「でも、同じ場所、つまり『幻想』と『幻想』を結ぶもの、『現実』と『現実』を結ぶただの『境界』は、それは結界とは呼ばないわ。もちろん、私も見ることはできない」
そして、蓮子の方を振り向いて、真剣な目でこう続けた。
「でも、例えば誰かが『幻想』と『現実』の境界をいじって、その境を無くしていたとしたら?その時、その境界「だけ」が存在し続けるとして、それは『結界』のままなのかしら?その境がなかったのだとしたら、それはただの『境界』になってしまうのではないかしら?」
メリーは熱に浮かされたように、まくし立てるように話し続ける。
「これはただの想像なのだけれど、どこかの誰か、つまり『境界』を操る力を持ったものが、『幻想』と『現実』の境界を一時的に取り払い、そして、彼女のいる世界のどこかにある神社とこの場所をつなげ、その境界を一時的に開放した。そして、その神社の中に迷い込んだ私と蓮子は、その中で調査を続け、そして朝になってここまで下りてきた。私たちがその境界を出たのを確認し、その誰かさんはこの神社をまた境界の向こうに隠した。そして、その誰かさんは神社とこの場所を元通り切り離して、『幻想』と『現実』の境界を元に戻した。これならば、この今の状況にも、あの神社に『結界』がまるで無かったことにも説明がつくわ!だって、『幻想』と『現実』の境そのものが無くなってたんだもの、見つからなくて当然だわ!」
最後まで一息で言い切って、ほう、と息をつく。
「でも、その理由がわからないのよ。今回の場合も、それに以前蓮子のおばあさんがここに入った時もね」
そして、山の上の方をぼーっと見上げる。
「それにそれがもし本当だとしたら、あの神社にはもう二度と入ることができないのよね……」
感慨深くそうつぶやき、蓮子の方に向き直る。と、
「凄いわメリー!あなた天才よ!さすが私のパートナーだわ!」
蓮子がすごい勢いで抱きついてきた。
「わ、ちょっと、何よ!」
慌てて引き剥がす。蓮子は目を輝かせて、メリーの目を見つめた。
「私一人じゃ、そんなところまで絶対に思い至らなかった。恐らく、おばあさまとおなじように、何もわからないまま、この調査を終えていたわ!でも私には、メリー、あなたがいるのよ!」
そう言って、メリーの手をぎゅっと握る。
「あなたとここで出会えて、本当によかった!これから私たちは、この手帳書かれていることよりももっと多くの、もっと不思議な事を見れるかもしれない!知れるかもしれない!解明できるかもしれない!それは本当に、素敵なことだと思わない!?」
本当に嬉しそうにそう語る蓮子を見て、メリーは少し微笑んでこう言った。
「そうね。私もよ、蓮子。あなたがいなければ、私は世界にこんなに不思議な事があるなんて思いもしなかったわ。ただ境界が見えるだけのこの目で、こんなに楽しい体験ができるなんて思っても見なかったわ」
その手をしっかりと握り返す。
「そういえば、まだ言ってなかったわね」
一度目を閉じ、目を開けてしっかりと蓮子の目を見つめ返す。
「これからよろしくね、蓮子」
「ええ、こちらこそ。よろしく頼むわ、メリー」
朝日に照らされて輝く小さな山の麓で、二人はしっかりと、握手を交わした。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
二日後、京都へ帰る電車の中、二人は向かい合わせの席に座り、手帳を開いて頭をつき合わせていた。
「結局、あの階段の入口は見つからず、か」
手帳を軽くペンで叩き、蓮子はそうつぶやく。
あのあと、同じ時間、同じ場所で、あの時と同じように帽子を持ち上げ、あの階段が現れるかどうか試してみたのだが、結果は散々。階段は現れないどころか風一つ吹かず、帽子を投げ飛ばしてみても山を登ってみても、あの階段も神社も、影も形も現れなかった。
「やっぱり、あの時にメリーが言った仮説が正しかったのかしら」
「まあ、今となってはもう調べようがないけれどね」
「そうよねえ……どの案でいってもおばあさまの体験とはつながらないし、それに第一、あの神社が隠された理由が全く思いつかないし……」
ペンの尻を顎に当てつつ、考えこむ。が。
「あーもう!お手上げだわ!」
ペンを投げ飛ばさんばかりに腕を振り上げ、勢い良くお手上げのポーズを取った。
「わからない割には元気ねえ」
「だってウジウジしてても仕方ないじゃない。そんな事するくらいなら、ほかのことを調べて、そこから推測したほうがよっぽど有意義な結果になると思うわ」
クスクスと笑うメリーと、お手上げのポーズのまま首を振る蓮子。その姿は、まるで気を許しあった昔からの親友のようだった。
「あ、そうそう。そういえば」
手を下ろした蓮子は、何かを思いついた顔でメリーを見る。
「私達のサークル名、決めてなかったわよね」
「ああ、そういえば」
出会った日の夜、改めて自己紹介を交わした二人は、同じ大学に所属していることを知り、サークルを作ることにした。しかしその名前は、後ほど決めるということになったまま、結局今まで完全に忘れていたのである。
「人々から秘匿された、幻想を暴くサークルねえ……」
「秘密暴露サークル」
「それじゃあ意味が違ってくるじゃない」
「確かに……」
「幻想探求部っていうのは?」
「なんかださいわよ、それ」
「そうねえ……」
「シークレット・エクスプローラーズ・クラブっていうのはどう?」
「あなたのほうがよっぽどださいじゃない!」
「そうかしら……」
あれやこれやといろんな案を出しあう二人。話し合いは全くまとまらない。
「ああもう!こんなくだらないことで話し合っていてもしょうがないのよ!私がこのサークルの設立を提案したんだから、次に私が出した案で決定!文句は言わせないわ!」
数分の後、蓮子はそう宣言した。
「はあ……まあいいわ。だけどせめて、あんまりださくないのにしてよね。私たち一応、女子大生なんだから」
「わ、わかってるわよ」
真剣な顔で少しの間考えこむ。そして、ふと思いついたように、少し得意げな顔で顔をあげた。
「『秘封倶楽部』っていうのは、どうかしら」
「いいじゃない!秘匿され、封じられた幻想を暴く。うん、私達の活動内容にもあってるし、しかもちゃんとださくないわ!」
「ださくない、は余計よ!第一、私が出した案は全部ださくないわよ!」
「そうね、そういうことにしといてあげるわ」
「何よメリー!もう!」
わいわいとかしましく騒ぐ二人。そして最後に、手帳にしっかりと『秘封倶楽部』の文字を書き込み、ペンを置いた。
「これでよし、と」
グルグルと丸で囲まれたその文字を見て、満足気に頷く。
「さて、次はどこを調べようかしら?」
「そうね……」
メリーは昨日のうちに調べ、メモしておいたスポットの中から一つを指さし、言った。
「次はここにしましょう。どうせ帰り道の途中だし、ちょうどいいじゃない」
「そこ、次の駅なんだけど」
蓮子がそう突っ込んだ瞬間、プシュー、と音を立てて扉が開いた。
「あ、大変、急がなきゃ!降ります、降りまーす!」
「ちょ、ちょっと、私まだ下りる準備してないんだけど!」
「なにしてるのよ!私たち、秘封倶楽部の活動第一弾でしょ!もっとしゃきっとしないと!」
「そういう問題じゃないっての!……ああもう、ちょっと待ってったら!」
慌てて電車を降りていく二人。その手は、お互いに離れないように、しっかりと握られていた。
「あーっ!ランプ電車の中に忘れた!」
「大丈夫よ蓮子。どうせ今回の調査ではいらないでしょう?」
「そういう問題じゃないわよ!あれ高かったのにー!」
fin
宇佐見蓮子は、窓から通りの見える喫茶店でコーヒーを飲みつつ、一人考えていた。
窓から見えるのは、いつもと変わらない少し寂れたお昼前の商店街。八百屋のおじちゃんは声を張り上げ、道行くおばちゃんを捕まえてセールストーク。お腹をすかせた少年たちは、いい匂いにつられてパン屋の中へ。時代遅れの靴磨き屋は、道の端に座って何をするでもなく道行く人々を眺める。何も普段と変わったことはない。あえて言うならば、ここ最近降り続いていた秋雨がようやく上がり、空には気持ちの良い秋晴れが広がっていることくらいだろうか。
いつもと変わらないはずのそんな光景を眺めながら、蓮子はコーヒーを一口すすり、ため息をついてカップを下ろす。
――私はここに何をしに来たんだっけ?
まずはそこから整理しよう。今日の自分の行動を思い返す。
朝。いつものように目を覚ました蓮子は、これまたいつものように携帯電話をチェックする。メール、着信ともに無し。シャワーを浴び、スクランブルエッグとトーストで簡単な朝食をとる。そして、携帯電話を取り出し――
――そうか。ここからだ。
違和感の始まりは、ここからだった。誰かにメールを打とうとしたはずなのに、その「誰か」がわからない。そもそも、なんの連絡をしようと思ったのかすらわからないのだった。
もしかしてボケたのか、私まだ若いのに、などと思いながら、いつもの服に着替え、外に出る。そしていつものように手帳を開き、また違和感。開いた癖はあるのに、何も書かれていないページがいくつかあったのだ。それも飛び飛びに。
なんとも言えない不気味な気持ちのまま、ぶらりと街を歩く。その間にも、違和感はいくつもあった。
まず、外に出た理由が思いつかないこと。かといって、外に出るという行動自体には、何故かなにも違和感を覚えなかった。
それから、行き先がなぜかわかっていること。もちろん、この街のことは知らないわけではない。ここに喫茶店があることも知っていたし、実際何度か入った覚えもあった。しかし、外に出てきた理由も思いつかないのに、何故向かう先がこの喫茶店だということは分かっていたのだろう。
そして、一番大きな違和感は、今感じているものだった。
誰もいない向かいの空席をじっと見つめる。何かがおかしい。確かに、ここには誰もいない。一人で来たのだから当然だ。しかし、この違和感はなんだろう。「ある」はずのものが「無い」感覚。それはつまり。
「ここに、誰かが座っているはずだった……?」
ふと、思考が口から漏れる。一瞬だけ、頭の中に誰かの姿が浮かんだ気がした。その影を追って思考を巡らせようとして、
「コーヒーのおかわりはいかがでしょうか?」
「あ、いえ、大丈夫です」
店員の声に遮られる。見えかけた誰かの姿は陽炎のように消え、頭に残ったのはより強さを増した違和感だけだった。
――私は何かを忘れている。
手がかりは、手帳の空白と、ついさっき浮かびかけた、頭の隅に残る誰かの姿だけ。他にあるとするならば、蓮子をこの喫茶店まで導いてきた、謎の感覚くらいだ。
手帳をパラパラとめくり、内容を見返す。書いてあるのは、日々の出来事と、様々な不思議な現象の調査結果、そしてこれからの予定。それらのどの項目にも、空白のページは同じように挿入されている。
――ここには元々何が書かれていた?そして何故今は空白になっている?
わからないことが多すぎて頭を抱える。今までもいくつも不思議な事に出会ってきたが、今回のはとびきりわけが分からなかった。
「ねえ、どう思う?――……」
一瞬自分でも気づかないほどに、あまりにも自然に口から流れでた言葉。それは、ずっと、何度も何度も言い慣れていた言葉のようで。そして、その後に続く言葉は――
大急ぎで手帳を開く。写真のページを開き、すべての写真を一枚一枚しっかりと調べる。携帯電話を開く。付属のカメラで取った写真、メール、着信履歴、すべてのデータを確かめる。
いなかった。どこにも。写真にも、メールにも、着信履歴にも、電話帳にも。そこにいるはずの「誰か」が。
今までとは比べ物にならないほどの桁違いに大きい違和感にめまいがする。そして、その感覚をも押し潰すように、なにか不思議な感情がふつふつと湧き上がってきた。
――『彼女』は、一体誰なのだろう。
心の奥底から止めどなく溢れてくる好奇心は、むしろ蓮子の心を落ち着かせ、頭を冷やし、いつもの冷静さを取り戻させた。
コーヒーをぐっと飲み干し、席を立つ。お気に入りの帽子をかぶり、手帳を胸ポケットにしまう。窓に映る自分の姿を確かめ、隣に立つ誰かの姿を思い浮かべる。
――誰だかわからないけれど……
そこにいるべき誰かに向かって、心のなかで話しかける。
――私は、あなたを見つけてみせる。
長いスカートを翻し、しっかりとした足取りで店を出ると、爽やかな風が顔を撫でていった。
「さあ、調査開始よ!」
誰へともなくそう宣言して、蓮子は街の中へと足を踏み出す。その姿を後押しするかのように、柔らかで気持ちのよい秋風が、商店街を吹き抜けていった。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
「手がかりはなし。何も進展せず、か……」
時は流れて夕方。一日中街の中を歩きまわった挙句に蓮子が出した結論は、なんとも実りのないものだった。
「ふう……」
溜息をついて、道端の車止めに腰掛ける。
――車は全然走っていないけど、こういう時には役に立つものね。
手帳を開き、今日の成果を確認する。
喫茶店を出てから、足の向く方向に任せて商店街から近くの山の中林の中、果ては町の外まで歩きまわってみるも、何もわからず。諦めて手帳に書いてあるスポットを回ってみるが、時に目新しいものは無し。完全に詰み、というやつであった。
胸ポケットにそれをしまい、ぼーっと夕暮れの街を眺める。あかね色に照らされた街を見ていると、それだけで何故か幻想の世界に入っていけそうな気分になる。
――逢魔が時、とはよく言ったものね。
隣にいるはずの少女。その姿はまるで幻想のように、頭の中に浮かんでは消え、夕暮れの街に溶けていく。まるで陽炎を追っているような、そんな感覚に囚われ、蓮子は小さくかぶりを振った。
と、突然、強い風が通りを吹き抜け、蓮子はぎゅっと目を閉じる。そして、
「あっ」
気づいた時には、帽子は蓮子の頭を離れ、手の届かないところまで飛ばされてしまっていた。
「……はあ」
思考を中断して、車の通らない広い道を横切って、帽子を拾う。そして帽子をはたいて汚れを落とし、目深にかぶったところで、気づいた。
「階段……?」
目の前には、見覚えのない石造りの階段。それは、昼に一度調査に入り、なにも成果がなかったはずの、山の奥の方へと続いていた。
――こんなところに階段なんてあったかしら。
携帯電話を開き、町の地図を調べる。現在位置は当然分かる。しかし、やはりというべきか、この階段は、地図には記されていなかった。
黄昏時に目の前に現れた、地図にも載っていない階段。地図に乗らない小さな道や階段などはよくあるものだが、この街をある程度良く知っているはずの自分の記憶にもない、となると、それは彼女の好奇心をくすぐるには十分なものであった。
メモ帳に現在の時刻と場所、そしてここまでの経緯を書き込み、ポケットに仕舞い直す。途中で曲がりくねって見えなくなっている階段の向かう先を見つめると、何か不思議な既視感に囚われた。
――私は、ここに来たことがある?
気づくと、蓮子は階段を登り始めていた。足の向かうままに任せて、曲がりくねった階段をどんどんと登っていく。そして、一段、また一段と上るたびに強くなる既視感に、蓮子はある確信を覚えていた。
――そうだ。私は、ここを知っている。
自然と早くなる足取り。角を曲がるたび、頭の中にちらつく影も、その濃さを増していく。
――間違いない。私はここを上ったことがある。
もはや駆け出さんばかりの足取りで、階段を一段とばしに登っていく。
――じゃあ、そのとき私は何故ここを上っていた?この先にあるのは何?『彼女』は、誰?
風よりも速く、蓮子は階段を駆け上る。階段の終わりは、もうすぐそこに見えていた。
――そうだ。思い出した。
倒れこむようにして、階段を上り切る。息を切らしながら、頭から落ちそうになる帽子を押さえ、顔を上げる。
――『彼女』の、名前は。
夕暮れに染まった山の中。神さびた階段の、その先には。
――――――。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
「その先にあったのは、森の中にひっそりと佇む神社だった、と」
そう呟いて、夜の闇に染まった目の前の社殿を見上げる。
「でも結局、おばあさまは何も見つけられなかったのよね……」
『宇佐見蓮子』という祖母の名が記された手帳をそっと閉じる。隣に置いたランプの明かりに照らされ、ほんのりと朱く染まって見えたその手帳は、祖母の遺品から勝手に拝借してきたものだった。
2年前に亡くなった祖母の遺品を整理していた時、倉庫の奥底に、鍵のかかった小さな箱が物陰に隠すようにして置いてあるのを見つけた。彼女のお気に入りの帽子のリボンの裏に挟まれていた鍵で箱を開けると、中に入っていたのは、一冊の古ぼけた手帳だった。興味本位で中を覗いてみると、そこに記されていたのは、見たこともなければ聞いたこともないような、不思議な出来事の数々。そして、その中でも特に不思議だったのが、この神社だった。
朝からずっと続く不思議な出来事や感覚、神社を発見した時の状況。ここまで役者を揃えておいて、調査結果は「何も無し」。好奇心が呼び起こされないはずがなかった。すぐに教授に話をつけて休みをもらい、その日のうちに電車に飛び乗り、この街に来て調査を開始したのだが。
――神社を見つけたところまでは良かったのだけどねえ……
大きくため息をつく。
夕暮れ時に手帳に記された交差点へたどり着いた彼女は、祖母と同じその場所で、風で飛びやすいように飛びやすいようにほんの少しだけ帽子を持ち上げる。すると、帽子は突然の風によって見事に記述通りの場所へと飛んでいき、そしてその帽子を拾って顔を上げると、目の前には山の上へと続く階段が現れていた。満足気な顔で意気揚々とその階段を登ってきた彼女だったのだが……
「あーもう!ほんとに何もないじゃない!どういうことよ!」
それから数時間。もう日は完全に暮れてしまったというのに、彼女はまだ何も見つけられないでいた。
縁側に座り、ランプを消し、空を見上げる。時刻は午前二時三十分ちょうど。丑三つ時だというのに特に何も起こらないこのおかしな神社に、彼女はすでに嫌気が差していた。
――もしかしたら幽霊とか妖怪とか、そんなものは集まってるのかもしれないけれどねえ。
月と星を見て時間と場所を正確に知ることはできても、幽霊や結界、超常現象のたぐいは全く見ることのできないというこの融通の聞かない目を逆恨みしつつ、目をゆっくりと閉じる。
――宿も取ってないし、このままここで朝まで寝てしまおうかしら。
そんな年頃の女性にあるまじきことを思っていると。
「っきゃあ!」
すぐそばで悲鳴が聞こえた。
慌てて目を開けてランプを点けると、目の前には、変な帽子をかぶった同い年くらいの金髪の女性が、ぎゅっと目を閉じて、頭を抑えてへたり込んでいた。
「い、いや、私はただ誰もいない夜の街を探検していたらこんなところにたどり着いてしまっただけで、まさか幽霊さんがこんなところにいるなんて知らなくて!だから、呪わないで……!」
「誰が幽霊よ失礼ね」
急に失礼なことを言い出したその見知らぬ女性は、ガタガタ震えながら手を合わせて誰かに祈るのをやめ、薄く目を開く。
「……あれ?」
「よく目を開けて御覧なさいな。ちゃんと足もついているでしょう?」
「……あら、ほんと」
「今気づきましたみたいな顔するんじゃないわよ全く……」
おそるおそる目を開けて全身を見渡し、彼女は安堵の表情を浮かべた。
「ああよかった。いつのまにか知らない場所に迷い込むのはいつものことだけれど、まさかこんな時間に人に会うなんて思いもしなかったものだから」
少し笑顔になって立ち上がろうとする。が。
「……立てない」
大きくため息をつき、案の定腰が抜けて立てない彼女に手を貸し、縁側に座らせた。
「ありがとう……あたた」
「まったく、びっくりしたのはこっちよ。急に目の前で悲鳴が上がったと思ったら、目の前で知らない人がへたり込んでるんだもの。おまけに腰まで抜かしてるし」
「ごめんなさい……」
しゅんとなる彼女を見て、もう何度目かわからない溜息を付く。
――他の人が普通に入ってこれるってことは、やっぱり外れかしらね……。
今までの探索が無駄足だったとわかり、気を落として境内を見やる。
「第一、こんな神社の中に、人を呪うような悪霊が現れるわけがないじゃない。どんな小さな神社だろうとそこは神様の御前なんだから、悪霊なんかがそこに住み着けるわけがないわ」
「あら、この神社には神様はもういないわよ?」
「……は?」
急いで彼女の方を振り向く。
「だって、この神社、もう結界が少しも残っていないもの。神社には普通、そういう悪霊とか地縛霊とかのたぐいを寄せ付けないための結界が張られているわ。場所によってはそういう結界が張られていない神社もあるけれど、そういうところであっても、本殿だけだったりご神体の前だけだったりするけれど、少なくともどこかしらには祀られている神様を守るための結界は張られているの。でも、この神社は、ひと通り見たところどこにも結界が張られていないわ。しかも――」
「ちょ、ちょっと待って!」
力の抜けるような笑顔のまま、とんでもないことを言い出す彼女。
「あなた……何者?」
「私?私は、そうねえ……」
少し考えこむように顎に手を当て、ちょっとイタズラっぽい笑顔でこっちを振り向く。
「結界の切れ間を見ることができる、ごく普通の大学生よ」
――結界が、見える?
「ちなみにさっきの続きだけど――ひゃっ!?」
気づいたら、彼女の肩をおもいっきり掴んでいた。
「な、何?」
「ねえあなた、超常現象に興味はあるかしら!」
「ちょ、超常現象?」
「そう、超常現象。とはいっても、UFOとかそういうのじゃなくて……言うなれば、『この世界の裏側』に興味はあるか、といったほうがいいかしら」
「この世界の……裏側?」
「そう。裏側。この世界には、科学では解明することができないことが山ほどあるわ。そしてそういうものは、得てして人々の目から隠されている。私は、そういう秘匿され、封じられたものを暴いて、そこに隠された真実を知りたいの!」
あの手帳を見つけてから、ずっと思い描いていた未来。祖母と同じように、誰も知らない不思議なことをこの目で見て、耳で聞いて、肌で感じるということ。それが、ぐんと現実に近づいた気がした。
「あなた、名前は?」
「……マエリベリー・ハーンよ」
「マエ……マエリベリ……マエリ……ああもうじれったい!メリー!メリーでいいわ!」
肩を握る手に力を込め、しっかりと目を見つめる。
世界の裏側を見続けてきた、祖母と同じ名前。そんな誇らしい自分の名前を、精一杯の想いを込めて告げる。
「私は、宇佐見蓮子。ねえメリー、私と一緒に、世界の向こう側を、見に行かない?」
少しの沈黙の後。
「……会ってほとんど間もないのに、随分と強引なのね」
呆れ顔でそんなことを言われ、我に返って慌てて手を離す。
「ご、ごめんなさい!理想とあまりにもピッタリな人が見つかったものだから、つい……」
「……でもまあ、そうね。確かに、そういうのも面白いかもしれないわね。その話、乗ったわ」
「え……本当に!?」
「ええ。私も、そういうものには興味があるし。なにより、あなたのその強引さには、さすがに負けたわ」
そう言って、少し呆れた顔のまま、半ば諦めたような、しかしなんだか少し楽しそうな笑顔で、そっと手を差し出す。
「さあ蓮子。一緒に、誰も見たことがないこの世界の裏側を、見に行きましょう」
まだ真っ暗な神社の境内。ほんのりと朱いランプの光の中で、二人はしっかりと手を握った。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
「ねえ蓮子、そっちはなにか見つかったかしら?」
「何もないわ。そっちは?」
「こっちも、何も無かったわ」
「そう……」
本殿の中の探索を諦め、外に出る。
「結局、何も成果なし、か」
縁側に腰掛けながらつぶやく。と、
「違うわ蓮子。『何もなかった』のよ」
隣りに座ったメリーが、蓮子の方を向いてそう言った。
「どういうこと?」
「神様がいる神社は結界が張られている、というのは言ったわよね?」
「ええ、さっき聞いたわ」
「でも、この神社には『何もなかった』。つまり、神様が去ったということ」
「それは分かるわ。でも、それはよくあることじゃないの?最近神様を信仰してる人なんてそんなに多くないし、そんな誰も信仰しない神社にいても仕方がないからって去っていく神様がいても、何もおかしいことじゃないんじゃない?」
「ええ、そうね。それだけなら何もおかしくないわ。でもね」
メリーは後ろの本殿の中を振り返る。
「この神社には、結界の『跡』さえも見つからなかった。普通、結界が無くなったあとっていうのは、少しの間なら結界が残っているはずなの。それに加えて、ほら」
目の前の境内を指差す。
「この境内は、あまり汚れていない。これは少なくとも、少し前まではこの神社に誰かが訪れていたことを表しているわ。だって、誰も来ない、誰からも信仰されていないような神社を掃除する人なんていないでしょう」
「……確かにそうね」
周りを見回す。確かに、落ち葉一つ落ちていない、とは言わないまでも、少なくとも参拝するのには困らない程度には、この境内は綺麗に保たれていた。
「つまり、どういうこと?」
期待を込めて彼女の目を見つめる。少しの沈黙。そして、メリーは小さく口を開く。
「分からないわ……」
「そこまで言っておいて!?」
「だって、わからないものはわからないんだもの!」
あまりの答えにツッコミを入れる蓮子に、少しふてくされて答えるメリー。
「私だって必死で考えたのよ。でも、こんな結界の跡すらもない神社なんて見たことも聞いたこともないし、それなのにこんなに綺麗だなんて、全く訳がわからないわよ……」
まさにお手上げ、といった口調でそう話す。しかし蓮子は、スカートのポケットから真新しい手帳を取り出して、何ごとかを書き込んでいた。
「何を書いているの?」
「ちょっと待って」
少し書いては筆を止めて何事かを考え、またメモに向かう。数十秒の後、蓮子は口を開いた。
「分からないわね」
「あなたもわからないんじゃない!」
全力で突っ込む。しかし、彼女はまだ考えている顔のまま、メモと向き合っていた。
「ちょっと整理してみましょう」
そう言って、さっき何事かを書き込んでいた手帳を、見やすい位置に置く。
・神様はいない
・結界は張られていない(跡すらもない)
・境内は綺麗→人の手が入っている(あるいは少し前まで入っていた)
「そして、何よりも怪しいのは、ここよ」
そう言って、蓮子はメモの一部を指し示した。
・地図に書かれていない
「どういうこと?」
「昼間のうちに調べたのよ。全ての地図を調べたわけではないけれど、この神社は、私が見たどの地図にも載っていなかった。あなたの話を聞くまでは、こんな本殿しかないような小さな神社だし、載っていないこともあるだろうと思っていたのだけれど。でも、今のあなたの話を合わせると、それとはまた別の、ある一つの仮説が浮かび上がってくるわ」
その文字を大きく丸で囲い、ペン先で文字をトントンと叩く。
「これと今の話から考えられることは、この神社が『意図的に隠されている』ということよ」
手帳の続きに『隠されている』と書き込み、その下に二重線を引いた。
「地図に載っておらず、結界も張られていない。この2つの事実は、お互いに全く関係がない、と考えることができる。でももしも、この二つの事実がお互いに関連しているとするならば、それはこの神社が何者かによって『意図的に隠された』ことになる。それも、ただの人によってではなく、例えば力のある巫女だったり神様だったり、いずれにせよそういう結界を操れるような人智を超えた力を持つ者によって隠された、ということになるわ」
流れるように推理していた彼女はそこで少し言葉を切り、メリーの反応を待つ。
「なるほどね……でも、なんで彼、もしくは彼女は、この何もない神社を隠したのかしら」
「そう。そこなの」
その反応を待っていたというように、手帳に大きく、矢印と『なぜ?』という文字を書き込む。
「分からない、というのはそこなのよ。いったい誰が、なぜ、この神社を隠したのか。それを今考えているのだけれど」
ページをめくる。
「可能性としては、そうね……」
新しく開いたまっさらなページにペンを走らせる。
・神が人を攫い、それを隠すために記録、そして記憶を消し、どこかへ去った。
「これはいわゆる神隠し、というやつね。それから、信仰が薄くなった、ということも考えると」
・巫女がいなくなり、信仰も失い結界の弱まった神社に妖怪や幽霊が入り込み、消滅を危惧した神が結界ごとどこかに逃げ去った。
「こういう可能性も考えられる。それから、可能性は薄いと思うけれど」
・この神社は、神の祀られていない偽物である。
「これは、その偽物を作る理由が思いつかないのよね……それに、この神社は、私の祖母も訪れているの」
胸ポケットから、件の手帳を取り出し、この神社が書いてあるページを開く。
「偽物を作ったにしては、あまりにも長い間管理され続けていることになる。少し考えにくいわね」
「そうね……ここに書いてある日付を見ると、確かにそうみたいね」
「しかし、このいずれにおいても、おばあさまが体験したこの謎の現象とは一致しない。メリーはこの神社にごく普通に入ってこれたわけだから、これはこの神社の話とは別件と考えたほうがよさそうね……」
二冊の手帳を閉じてそれぞれ元あったポケットにしまいつつ、蓮子は一つ大きく息をつく。
「私の推理はこんなとこかしら。どう?」
「ブラボー!」
拍手の音を聞きながら、少し照れた表情ではにかむ。
「ふふ、ありがとう。でもまあ、結局わからないことだらけなのだけれどね」
「それだけわかっただけでも十分な進歩じゃない。凄いわ蓮子!」
「そ、そうかしら」
恥ずかしくなって上を見上げると、日の出前の空が綺麗に赤く染まっていた。
「午前五時二十三分。そろそろ日の出ね。引き上げようかしら」
そう言って横を見ると、メリーは彼女を見上げてポカーンとしていた。
「どうしたの?」
「今貴女、時計を見なかったわよね?」
「あら、言ってなかったかしら。私は、星や月が見えている時なら、空を見ればその場所と時間が分かるのよ」
まだ何を言っているかわからないというような表情のメリーの手を引いて、縁側からメリーを立ち上がらせる。
「ほら、グズグズしてると誰かに見つかって不審者として通報されるわよ!」
「そ、そうね」
二人は手を取り合って、朝焼けの境内を走り抜けた。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
朝方の太陽に照らされてオレンジ色に染まる階段を、二人は手をつないで下っていく。すると、角を曲がろうとしたところで、誰かの影が見えた。
「メリー、ストップ!誰かいるわ!」
「え、こんな朝早くに?」
「そうよ。こうなったらしかたがないわね……怪しまれないように堂々と降りて行きましょう」
「そ、それで大丈夫なの?」
「知らないわよ!でも仕方ないじゃないの。バレるかどうかは神様次第よ」
「その神様がいなかったのだけどね……」
「ほら、来るわよ!胸を張りなさい!」
足音が近づく。彼女たちは腹をくくり、堂々と階段を下りる。
「あら、おはようございます。お早いんですね。地元の学生さんですか?」
角から現れたのは、少し変わった髪の色をした、年配の女性だった。
「いえ、こっちには旅行で。ちょっと早く目が覚めてしまったので、街の中を散歩がてら散策していたんですよ」
「そうですか、旅行で。ここから見える朝焼けは絶景だったでしょう?」
「ええ。すごく綺麗でした」
「それはよかった。この街は、見て回るところはそんなに多くないですが、ほんとうに良い街ですよ。お帰りになるまで、ゆっくり楽しんでいって下さい」
「はい。ありがとうございます」
「では、お気をつけて。楽しい一日になさって下さい」
「ええ。あなたも、いい一日でありますように」
そう言って階段を下っていく二人を、女性は暖かな目で見守っていた。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
女性の姿が見えなくなるあたりまできたところで、二人は大きくため息をついた。
「よかった……怪しまれなかった……」
「メリー、あなた一言くらい喋りなさいよ!ずっと私ばかり喋ってたじゃない!」
「私が喋るとボロが出そうなんだもの!それに、結局何にもなかったんだから良かったじゃない!」
わいわいと騒ぎながら階段を下っていく二人。そして、一番下まで下り、手帳を取り出す。
「メリー、今何時かしら」
「え?空を見れば分かるんじゃないの?」
「昼間はわからないのよ。ほら、星が出てないじゃない」
「あ、そうなの……」
メリーは腕時計を見て、蓮子に時間を伝える。
「午前五時二十八分、調査終了。あとの調査はまた明日ね」
「ええ、蓮子、明日もやるの?」
「当り前じゃない。結局今日は何もわからなかったんだから」
「はあ……わかったわよ。付き合うって言ったんだし、どこまでもついていくわ」
そう言って階段に腰を下ろそうとするメリー。そして。
「キャッ!」
そのままひっくり返った。
「ああもう。何やってるのよ……」
苦笑しながら手を貸そうとして――
「え……」
眼の前に広がる光景に、目を疑う。
「階段が、無くなってる!?」
階段があったはずの山と森を呆然と見つめる二人。先に我に返ったのは、蓮子だった。
「はっ、そうだメリー!結界は!?」
遅れて、メリーも我に返る。だが。
「いいえ蓮子、何もない。何も見えないわ」
目を凝らして、さっき下ってきた階段がある「はず」の場所を見つめる。しかし、結界も、その跡すらも、何も見つからなかった。
「結界じゃない……でも実際、私たちはこの、ここにあったはずの階段を下ってきた」
ポケットから手帳を取り出し、開く。そこには、もちろんのことながら、さっきまでの調査の記録が事細かに残っていた。
「どういうことよ……まるでわからないわ……」
「境界……」
「えっ?」
じっと山を見つめたまま言葉を漏らすメリー。
「結界っていうのは、言うなれば『異なる属性の場所を隔てるもの』よ。今回の場合、異なる属性という言葉は『幻想』と『現実』と言い換えてもいいかもしれない」
じっと森の中を見つめたまま、つぶやくように続ける。
「でも、同じ場所、つまり『幻想』と『幻想』を結ぶもの、『現実』と『現実』を結ぶただの『境界』は、それは結界とは呼ばないわ。もちろん、私も見ることはできない」
そして、蓮子の方を振り向いて、真剣な目でこう続けた。
「でも、例えば誰かが『幻想』と『現実』の境界をいじって、その境を無くしていたとしたら?その時、その境界「だけ」が存在し続けるとして、それは『結界』のままなのかしら?その境がなかったのだとしたら、それはただの『境界』になってしまうのではないかしら?」
メリーは熱に浮かされたように、まくし立てるように話し続ける。
「これはただの想像なのだけれど、どこかの誰か、つまり『境界』を操る力を持ったものが、『幻想』と『現実』の境界を一時的に取り払い、そして、彼女のいる世界のどこかにある神社とこの場所をつなげ、その境界を一時的に開放した。そして、その神社の中に迷い込んだ私と蓮子は、その中で調査を続け、そして朝になってここまで下りてきた。私たちがその境界を出たのを確認し、その誰かさんはこの神社をまた境界の向こうに隠した。そして、その誰かさんは神社とこの場所を元通り切り離して、『幻想』と『現実』の境界を元に戻した。これならば、この今の状況にも、あの神社に『結界』がまるで無かったことにも説明がつくわ!だって、『幻想』と『現実』の境そのものが無くなってたんだもの、見つからなくて当然だわ!」
最後まで一息で言い切って、ほう、と息をつく。
「でも、その理由がわからないのよ。今回の場合も、それに以前蓮子のおばあさんがここに入った時もね」
そして、山の上の方をぼーっと見上げる。
「それにそれがもし本当だとしたら、あの神社にはもう二度と入ることができないのよね……」
感慨深くそうつぶやき、蓮子の方に向き直る。と、
「凄いわメリー!あなた天才よ!さすが私のパートナーだわ!」
蓮子がすごい勢いで抱きついてきた。
「わ、ちょっと、何よ!」
慌てて引き剥がす。蓮子は目を輝かせて、メリーの目を見つめた。
「私一人じゃ、そんなところまで絶対に思い至らなかった。恐らく、おばあさまとおなじように、何もわからないまま、この調査を終えていたわ!でも私には、メリー、あなたがいるのよ!」
そう言って、メリーの手をぎゅっと握る。
「あなたとここで出会えて、本当によかった!これから私たちは、この手帳書かれていることよりももっと多くの、もっと不思議な事を見れるかもしれない!知れるかもしれない!解明できるかもしれない!それは本当に、素敵なことだと思わない!?」
本当に嬉しそうにそう語る蓮子を見て、メリーは少し微笑んでこう言った。
「そうね。私もよ、蓮子。あなたがいなければ、私は世界にこんなに不思議な事があるなんて思いもしなかったわ。ただ境界が見えるだけのこの目で、こんなに楽しい体験ができるなんて思っても見なかったわ」
その手をしっかりと握り返す。
「そういえば、まだ言ってなかったわね」
一度目を閉じ、目を開けてしっかりと蓮子の目を見つめ返す。
「これからよろしくね、蓮子」
「ええ、こちらこそ。よろしく頼むわ、メリー」
朝日に照らされて輝く小さな山の麓で、二人はしっかりと、握手を交わした。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
二日後、京都へ帰る電車の中、二人は向かい合わせの席に座り、手帳を開いて頭をつき合わせていた。
「結局、あの階段の入口は見つからず、か」
手帳を軽くペンで叩き、蓮子はそうつぶやく。
あのあと、同じ時間、同じ場所で、あの時と同じように帽子を持ち上げ、あの階段が現れるかどうか試してみたのだが、結果は散々。階段は現れないどころか風一つ吹かず、帽子を投げ飛ばしてみても山を登ってみても、あの階段も神社も、影も形も現れなかった。
「やっぱり、あの時にメリーが言った仮説が正しかったのかしら」
「まあ、今となってはもう調べようがないけれどね」
「そうよねえ……どの案でいってもおばあさまの体験とはつながらないし、それに第一、あの神社が隠された理由が全く思いつかないし……」
ペンの尻を顎に当てつつ、考えこむ。が。
「あーもう!お手上げだわ!」
ペンを投げ飛ばさんばかりに腕を振り上げ、勢い良くお手上げのポーズを取った。
「わからない割には元気ねえ」
「だってウジウジしてても仕方ないじゃない。そんな事するくらいなら、ほかのことを調べて、そこから推測したほうがよっぽど有意義な結果になると思うわ」
クスクスと笑うメリーと、お手上げのポーズのまま首を振る蓮子。その姿は、まるで気を許しあった昔からの親友のようだった。
「あ、そうそう。そういえば」
手を下ろした蓮子は、何かを思いついた顔でメリーを見る。
「私達のサークル名、決めてなかったわよね」
「ああ、そういえば」
出会った日の夜、改めて自己紹介を交わした二人は、同じ大学に所属していることを知り、サークルを作ることにした。しかしその名前は、後ほど決めるということになったまま、結局今まで完全に忘れていたのである。
「人々から秘匿された、幻想を暴くサークルねえ……」
「秘密暴露サークル」
「それじゃあ意味が違ってくるじゃない」
「確かに……」
「幻想探求部っていうのは?」
「なんかださいわよ、それ」
「そうねえ……」
「シークレット・エクスプローラーズ・クラブっていうのはどう?」
「あなたのほうがよっぽどださいじゃない!」
「そうかしら……」
あれやこれやといろんな案を出しあう二人。話し合いは全くまとまらない。
「ああもう!こんなくだらないことで話し合っていてもしょうがないのよ!私がこのサークルの設立を提案したんだから、次に私が出した案で決定!文句は言わせないわ!」
数分の後、蓮子はそう宣言した。
「はあ……まあいいわ。だけどせめて、あんまりださくないのにしてよね。私たち一応、女子大生なんだから」
「わ、わかってるわよ」
真剣な顔で少しの間考えこむ。そして、ふと思いついたように、少し得意げな顔で顔をあげた。
「『秘封倶楽部』っていうのは、どうかしら」
「いいじゃない!秘匿され、封じられた幻想を暴く。うん、私達の活動内容にもあってるし、しかもちゃんとださくないわ!」
「ださくない、は余計よ!第一、私が出した案は全部ださくないわよ!」
「そうね、そういうことにしといてあげるわ」
「何よメリー!もう!」
わいわいとかしましく騒ぐ二人。そして最後に、手帳にしっかりと『秘封倶楽部』の文字を書き込み、ペンを置いた。
「これでよし、と」
グルグルと丸で囲まれたその文字を見て、満足気に頷く。
「さて、次はどこを調べようかしら?」
「そうね……」
メリーは昨日のうちに調べ、メモしておいたスポットの中から一つを指さし、言った。
「次はここにしましょう。どうせ帰り道の途中だし、ちょうどいいじゃない」
「そこ、次の駅なんだけど」
蓮子がそう突っ込んだ瞬間、プシュー、と音を立てて扉が開いた。
「あ、大変、急がなきゃ!降ります、降りまーす!」
「ちょ、ちょっと、私まだ下りる準備してないんだけど!」
「なにしてるのよ!私たち、秘封倶楽部の活動第一弾でしょ!もっとしゃきっとしないと!」
「そういう問題じゃないっての!……ああもう、ちょっと待ってったら!」
慌てて電車を降りていく二人。その手は、お互いに離れないように、しっかりと握られていた。
「あーっ!ランプ電車の中に忘れた!」
「大丈夫よ蓮子。どうせ今回の調査ではいらないでしょう?」
「そういう問題じゃないわよ!あれ高かったのにー!」
fin
二人の出会いや神社の謎解き、とても面白かったです。
さて、このお話の謎の答えを想像して楽しむとしようか……自分に真相が分かるかどうかは置いといて。
でしたが、読んでて引っかかる所も多々。
時系列が飛んでるのに、飛んだ事が本筋に絡んで来ないこと、
それに加え、孫の名前が同じな事が余計に違和感を感じました。
描写も控えめで、容量的には中編でしょうが内容としてはかなり駆け足に感じました。
秘封の中編・長編は斬新な視点しかないような作品しか内容なとこですので、
別の所で勝負を掛けないと、むしろ没個性になります。
掛け合いの間にもっと細かい描写を挟んだり、
後書きの語りまでストーリーに絡めるような展開を見せて欲しかったな、と思います。
厳しいですがこの点数で。
中編と言いますが、おそらくもっと文をしっかり書いて、がっつりとした長編にした方が読んでいて迷わなかったと思います。
祖母の蓮子が出てきた理由もあまり良く分かりませんでした。