日が落ちて、身を切り刻むような寒さの人里を一歩一歩踏みしめる。
マフラーと耳当てと手袋をしているものの、肝心の上着がこのいつもの袖無し服じゃまったくもってお話にならない。
住処を出るときにはお天道様が空に浮かんでいたので油断したのだ。
本当ならば仙人たるもの、寒さごときは道の力でえいやあと何とかしてしまえなければならないのだが、そこは修行中の身である。
人間の理を越えて生き続けようとする私に三途の川を渡らせようと襲ってくる死神も、わざわざ戦って追い払わなければならない。
不老不死への道はまだまだ遠い。
遠いうちが花かもしれない。
静かだ。
こんな夜には梟すら鳴かない。
マフラーを鼻まで引き上げ、身を縮込めて歩く。
物憂い気分で唯一の道しるべである家々の灯を見回す。
暗くなった通りでは、それがたとえ人里であるとはいえ人っ子一人見あたらない。
蛍のように周囲に浮かぶそれぞれの家の灯の中に、人々は皆自分の居場所を見つけて身を寄せあっている。
……そして私だけが一人あぶれている。
びゅう、と一際冷たい風が吹く。
どうにも臓に沁みる。
脳裏に浮かんだ「人恋しい」という言葉を、ぶんぶんと頭を振ってすぐさま打ち消す。
いや、私に限ってそんな子供じみた……。
……早く、帰ろう。
気を紛らわせるように、早足で歩く。
無我夢中で。
どこまでも。
ふと、我に返る。
見渡して、自分の今いる場所が記憶のどこにもないことに気付く。
あ……あれ?
どこだろう、ここ。
後ろを振り返ってみても、前と同じく弱く遠い家の灯がぽつんぽつんと浮かんでいるだけだ。
知らず、歯ががたがたと音を立てる。
呼吸が乱れる。
だめ、だめ、だめ。
胸に手を当てて深呼吸をする。
吸って、吐いて、吸って、吐いて。
単調な繰り返しが精神を幾らか落ち着かせてくれる。
大丈夫。
少し、道に迷っただけだから。
少し、暗いだけだから。
少し、寒いだけだから。
自分に言い聞かせて、もう一度ゆっくりと周りを見渡す。
そして、その時暗闇の中で一際暖かく光る灯を見つける。
ゆっくりと、そちらに歩いていく。
建物の中から出てくる湯気がゆらゆらと灯を揺らしている。
近づいてみるとそれは居酒屋で、暖簾の隙間からやはり暖かな光が漏れている。
人々のうねりのような喧騒も聞こえる。
とても良い匂いがする。
そして思い出したように腹が鳴る。
気がつけば私は、半ば陶然としながら暖簾の奥に吸い寄せられていった。
「お一人かしらね?」
急に眼前に広がった多量の明かりに目をしょぼしょぼさせていると店の人に声をかけられた。
丸々と肥った背の低いおばさんで、割烹着の横から腹の肉が窮屈そうにはみ出ている。
「はい」
彼女は大仰な動作で二回頷くと、一転して申し訳なさそうな顔をした。
「今、丁度満席でねえ。だけども一人のお客がいるので、相席でも良ければ……あなたと同じくらいの年の女の子なんだけれども」
それは千幾つということだろうか。
「ええ、私は構いませんよ」
そう答えると、彼女は人懐っこい笑みを浮かべた。
「そう。そしたら、ちょっと向こうさんにも訊いてくるから、そこで待っててもらえるかしらね」
「はい」
おばさんは体躯に似合わぬ機敏さで身を翻し、奥へと早足で歩いていった。
ぼんやりと、目で追う。
酒と畳と一体化したご老人やら快活に酌み交わす赤ら顔の男性やらの間をすり抜け、彼女が向かった先ではほっそりとした緑髪の少女が一人で座敷に座って料理を食べていた。
その様子は何というか、物を食べる形容としては妙だが、ある種整然としていて、それは店の風景からするとずいぶんと場違いなものだった。
おばさんが声をかけると少女は顔を上げ、私の方をちらりと見遣り、それから彼女に向かって頷いた。
おばさんは振り返って、私と目が合うとこちらに向かって手招きをする。
酒の匂いに彩られた通路を、私も歩いていった。
「どうも、すみませんね」
席に着き、注文を済ませると、私は目の前の少女に話しかけた。
「いえ、構いません。混んでいますから」
彼女は揚げ出し豆腐をつつきながら無表情で答える。
本当にそう思っているのか単なる社交辞令なのかは分からない。
鬱陶しがられていなければ良いなと思いながら更に話しかける。
「ここにはよく?」
「まあ、たまに、ですね」
「女の子が一人で入って変な顔をされませんか」
私もそうだというのは置いておいて、それでも至極まっとうな疑問だと思うのだが彼女は不思議そうな顔をした。
「いえ……どうなんでしょう。考えたこともありませんでした」
それはなかなか豪気だ。
名前を訊いた。
四季映姫さんというらしい。
変わった名前だ。
どことなく浮き世離れした雰囲気といい、上品な仕草といい、この辺の人ではないのかもしれない。
「普段は何をしてるんです?お仕事とか……」
彼女は私の顔を見つめたままで、一秒か二秒固まった。
そのあと、口の端で少しだけ微笑む。
「ああ、なるほど。知らないんですね?」
「え?」
「いえ、こちらの話です」
はぐらかされたまま、私にも料理とお酒が来てその話はうやむやになってしまう。
さっきのおばさんと、別の若い兄ちゃんが二人がかりで運んできた料理の量を見て、映姫さんは訝しげな顔をする。
「これ、本当に全部食べられるんですか?」
私も冷や汗をかいていた。
どうも腹が減っていると気が大きくなって良くない。
「いや、正直、まったく自信ないです。良かったら手伝ってもらえません?」
ともあれ偶然のご縁に乾杯をして、私たちは二人がかりで机の上の料理と格闘を始めた。
野菜の天ぷら。
焼おにぎり、揚げ出し豆腐。
蝗の佃煮、生レバー、焼きそば。
とどめにボタン鍋。
私たちは食べに食べた。
まさに鬼気迫る勢い、というやつだ。
たくさん食べるコツはいくつかある。
休まないこと。
口をきかないこと。
そして間違っても、今までどれだけ食べたか、あとどれだけ食べなければいけないか、を考えないこと。
そのすべてを忠実に実行しながらも、後の方になるともうお互い息も絶え絶えで、猪肉の最後の一切れまでもを胃に収めると、私たちはぐったりと机に倒れかかった。
それから腹の底からため息をついた。
少しして落ち着くと、私たちは追加の日本酒を注文した。
それで二人でお疲れさんをやりながら、厨房へと下げられていく空のお皿の群れを見送る。ドナドナドナ。さようなら。
おばさんも「あんたらよう食べるねえ……」と呆れていた。
私は映姫さんに酌をして慇懃にお礼を申し上げる。
「ほんと、一人じゃなくて良かったです。ありがとうございました」
「いえいえ」
映姫さんは遠慮で念入りに押し殺したような笑いを浮かべる。
無表情だけど、不愛想ではない。
少し屠自古を思い出す。
そういえば髪の色も似ている。
「神子さんとご一緒できて楽しかったですよ」
「それは嬉しいですね……って」
あれ?
何かが引っかかる。
「私、名前、言ってませんよね?」
「ええ」
そう、先程私が映姫さんの名前を訊いたときに、彼女は私の名前を尋ね返してこなかった。
「お会いしたこともないですよね?」
「はい」
自慢じゃないが記憶力には自信がある。
一度見た者の顔を忘れることはない。
ようやくたどり着いた居心地の良い夜に、またビシリと亀裂が入った気がした。
良い予感はしない。
素早く周りを見渡す。
得物を振り回すことができるか。
人が犠牲にならないか。
食べた物に何か仕込まれてはいなかったか。
相手との間合い。
たくさんのことが一気に頭の中を駆け抜ける。
彼女はそんな私を何か面白い物でも見るような顔で眺めている。
とにかく努めて明るい、そしてできれば間の抜けた、そんな声を出そうとする。
「えーと、それでは、どうして?」
彼女は答えない。
その代わりに、薄く微笑んだまま机越しに身を乗り出してくる。
穏やかな表情が、却ってその裏にある物の大きさを暗示している。
怖い。
立ち上がろうとする。
うっ、と息が詰まる。
金縛りにあったように動けない。
店の中の喧騒が、空気を抜いたように遠ざかる。
心臓だけがばくりばくりと鳴っている。
彼女は私に覆い被さるように顔を近づける。
それから、ゆっくりと私の頭を両手で包み込み。
私の耳当てをずらした。
白。
黒白。
白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒白黒白黒黒白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白白白黒黒白黒白黒黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白黒白黒黒黒白白黒白白白白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白白白黒黒白黒白黒黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒白黒白黒黒白白黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白……………………。
「……ということです。分かっていただけましたか?」
映姫さんの声ではっと我に返る。
詰めていた息が一度にどっと肺から出ていく。
耳当ては彼女の手によって、既に元の位置に戻されている。
店の喧騒がわっと耳に帰ってくる。
「ええ、よく、分かりました」
切れ切れに答えながら、ぜえぜえと肩で息をする。
映姫さんが露わにした私の耳からは、彼女の内的世界が濁流のように流れ込んできた。
もちろん、彼女が何者であり、また尸解仙として寿命から逃れようとしている私にとってどういう存在であるかも。
要するに私は、私を捕まえようとしている死神たちの親玉と酒を酌み交わしていたのだ。
私は溜め息をついた。
額に浮かんだ汗を拭い、無理に笑顔を作る。
「それで……私はどうなるんでしょう?やはりお縄を頂戴しなくてはなりませんか?」
もちろん精一杯の抵抗はさせてもらう。
しかしどうにも、目の前の少女に勝てるという気がまったくしなかった。
特に、あの余りにも整然とした心の中を垣間見てしまった後では。
そういった観念の末の言葉だったのだが、彼女の返答はこちらが予期していたものとはかなり異なっていた。
少し困ったような顔で頬を掻きながら、映姫さんは言った。
「まあ……もちろんそうなんですけど。でも私の仕事は裁くことであって、捕まえることではないので」
「え?ええ……はあ」
それに今日は私、お休みですし、と。
照れたような可愛らしい笑顔で映姫さんは言うのであった。
「……えーと、じゃあ、もう一杯頼みましょうか?」
「はい」
伝票の取り合いを制して勘定は私が払った。
「そんなことしても、判決に手心は加えませんよ」みたいなつまらない冗談を言うわけでもなく、映姫さんはただただ俯いて顔を赤くして勘定を払う私の後ろに突っ立っていた。
案外人付き合いに奥手なのかもしれない。
店を出ると、先ほどどこか分からなかったこの場所は、いつも歩いている通りから一本脇にそれただけの場所だった。
おまけにさっきは気付かなかった満天の星空が広がっていて、その下を私と映姫さんは連れ立って帰った。
それ以来、私たちは良い友達同士になった。
私たちは月に一度か二度、彼女が休みの日に、どこかのあまり人目につかない店で会い、酒を飲み、料理を食べる。
お互いあまりたくさんは喋らない。
そんな必要はないのだ。
時折私は考える。
自分が死ぬことについて。
その後に、彼女が私の人生とあまねくすべての行いを裁くことについて。
何もかもが黒と白とに分類され、それから私は彼女が定める場所に投げ込まれる。
確かにそれはなかなか魅力的かもしれない。
ある価値基準に自分のすべてを委ねてしまうことは。
それ以上、自分で何一つ考えなくて良いということは。
もう得体の知れない暗闇で、一人で彷徨わなくても良いということは。
それでも今のところ死ぬ予定はない。
それは恐らくずっとずっと先のことだ。
マフラーと耳当てと手袋をしているものの、肝心の上着がこのいつもの袖無し服じゃまったくもってお話にならない。
住処を出るときにはお天道様が空に浮かんでいたので油断したのだ。
本当ならば仙人たるもの、寒さごときは道の力でえいやあと何とかしてしまえなければならないのだが、そこは修行中の身である。
人間の理を越えて生き続けようとする私に三途の川を渡らせようと襲ってくる死神も、わざわざ戦って追い払わなければならない。
不老不死への道はまだまだ遠い。
遠いうちが花かもしれない。
静かだ。
こんな夜には梟すら鳴かない。
マフラーを鼻まで引き上げ、身を縮込めて歩く。
物憂い気分で唯一の道しるべである家々の灯を見回す。
暗くなった通りでは、それがたとえ人里であるとはいえ人っ子一人見あたらない。
蛍のように周囲に浮かぶそれぞれの家の灯の中に、人々は皆自分の居場所を見つけて身を寄せあっている。
……そして私だけが一人あぶれている。
びゅう、と一際冷たい風が吹く。
どうにも臓に沁みる。
脳裏に浮かんだ「人恋しい」という言葉を、ぶんぶんと頭を振ってすぐさま打ち消す。
いや、私に限ってそんな子供じみた……。
……早く、帰ろう。
気を紛らわせるように、早足で歩く。
無我夢中で。
どこまでも。
ふと、我に返る。
見渡して、自分の今いる場所が記憶のどこにもないことに気付く。
あ……あれ?
どこだろう、ここ。
後ろを振り返ってみても、前と同じく弱く遠い家の灯がぽつんぽつんと浮かんでいるだけだ。
知らず、歯ががたがたと音を立てる。
呼吸が乱れる。
だめ、だめ、だめ。
胸に手を当てて深呼吸をする。
吸って、吐いて、吸って、吐いて。
単調な繰り返しが精神を幾らか落ち着かせてくれる。
大丈夫。
少し、道に迷っただけだから。
少し、暗いだけだから。
少し、寒いだけだから。
自分に言い聞かせて、もう一度ゆっくりと周りを見渡す。
そして、その時暗闇の中で一際暖かく光る灯を見つける。
ゆっくりと、そちらに歩いていく。
建物の中から出てくる湯気がゆらゆらと灯を揺らしている。
近づいてみるとそれは居酒屋で、暖簾の隙間からやはり暖かな光が漏れている。
人々のうねりのような喧騒も聞こえる。
とても良い匂いがする。
そして思い出したように腹が鳴る。
気がつけば私は、半ば陶然としながら暖簾の奥に吸い寄せられていった。
「お一人かしらね?」
急に眼前に広がった多量の明かりに目をしょぼしょぼさせていると店の人に声をかけられた。
丸々と肥った背の低いおばさんで、割烹着の横から腹の肉が窮屈そうにはみ出ている。
「はい」
彼女は大仰な動作で二回頷くと、一転して申し訳なさそうな顔をした。
「今、丁度満席でねえ。だけども一人のお客がいるので、相席でも良ければ……あなたと同じくらいの年の女の子なんだけれども」
それは千幾つということだろうか。
「ええ、私は構いませんよ」
そう答えると、彼女は人懐っこい笑みを浮かべた。
「そう。そしたら、ちょっと向こうさんにも訊いてくるから、そこで待っててもらえるかしらね」
「はい」
おばさんは体躯に似合わぬ機敏さで身を翻し、奥へと早足で歩いていった。
ぼんやりと、目で追う。
酒と畳と一体化したご老人やら快活に酌み交わす赤ら顔の男性やらの間をすり抜け、彼女が向かった先ではほっそりとした緑髪の少女が一人で座敷に座って料理を食べていた。
その様子は何というか、物を食べる形容としては妙だが、ある種整然としていて、それは店の風景からするとずいぶんと場違いなものだった。
おばさんが声をかけると少女は顔を上げ、私の方をちらりと見遣り、それから彼女に向かって頷いた。
おばさんは振り返って、私と目が合うとこちらに向かって手招きをする。
酒の匂いに彩られた通路を、私も歩いていった。
「どうも、すみませんね」
席に着き、注文を済ませると、私は目の前の少女に話しかけた。
「いえ、構いません。混んでいますから」
彼女は揚げ出し豆腐をつつきながら無表情で答える。
本当にそう思っているのか単なる社交辞令なのかは分からない。
鬱陶しがられていなければ良いなと思いながら更に話しかける。
「ここにはよく?」
「まあ、たまに、ですね」
「女の子が一人で入って変な顔をされませんか」
私もそうだというのは置いておいて、それでも至極まっとうな疑問だと思うのだが彼女は不思議そうな顔をした。
「いえ……どうなんでしょう。考えたこともありませんでした」
それはなかなか豪気だ。
名前を訊いた。
四季映姫さんというらしい。
変わった名前だ。
どことなく浮き世離れした雰囲気といい、上品な仕草といい、この辺の人ではないのかもしれない。
「普段は何をしてるんです?お仕事とか……」
彼女は私の顔を見つめたままで、一秒か二秒固まった。
そのあと、口の端で少しだけ微笑む。
「ああ、なるほど。知らないんですね?」
「え?」
「いえ、こちらの話です」
はぐらかされたまま、私にも料理とお酒が来てその話はうやむやになってしまう。
さっきのおばさんと、別の若い兄ちゃんが二人がかりで運んできた料理の量を見て、映姫さんは訝しげな顔をする。
「これ、本当に全部食べられるんですか?」
私も冷や汗をかいていた。
どうも腹が減っていると気が大きくなって良くない。
「いや、正直、まったく自信ないです。良かったら手伝ってもらえません?」
ともあれ偶然のご縁に乾杯をして、私たちは二人がかりで机の上の料理と格闘を始めた。
野菜の天ぷら。
焼おにぎり、揚げ出し豆腐。
蝗の佃煮、生レバー、焼きそば。
とどめにボタン鍋。
私たちは食べに食べた。
まさに鬼気迫る勢い、というやつだ。
たくさん食べるコツはいくつかある。
休まないこと。
口をきかないこと。
そして間違っても、今までどれだけ食べたか、あとどれだけ食べなければいけないか、を考えないこと。
そのすべてを忠実に実行しながらも、後の方になるともうお互い息も絶え絶えで、猪肉の最後の一切れまでもを胃に収めると、私たちはぐったりと机に倒れかかった。
それから腹の底からため息をついた。
少しして落ち着くと、私たちは追加の日本酒を注文した。
それで二人でお疲れさんをやりながら、厨房へと下げられていく空のお皿の群れを見送る。ドナドナドナ。さようなら。
おばさんも「あんたらよう食べるねえ……」と呆れていた。
私は映姫さんに酌をして慇懃にお礼を申し上げる。
「ほんと、一人じゃなくて良かったです。ありがとうございました」
「いえいえ」
映姫さんは遠慮で念入りに押し殺したような笑いを浮かべる。
無表情だけど、不愛想ではない。
少し屠自古を思い出す。
そういえば髪の色も似ている。
「神子さんとご一緒できて楽しかったですよ」
「それは嬉しいですね……って」
あれ?
何かが引っかかる。
「私、名前、言ってませんよね?」
「ええ」
そう、先程私が映姫さんの名前を訊いたときに、彼女は私の名前を尋ね返してこなかった。
「お会いしたこともないですよね?」
「はい」
自慢じゃないが記憶力には自信がある。
一度見た者の顔を忘れることはない。
ようやくたどり着いた居心地の良い夜に、またビシリと亀裂が入った気がした。
良い予感はしない。
素早く周りを見渡す。
得物を振り回すことができるか。
人が犠牲にならないか。
食べた物に何か仕込まれてはいなかったか。
相手との間合い。
たくさんのことが一気に頭の中を駆け抜ける。
彼女はそんな私を何か面白い物でも見るような顔で眺めている。
とにかく努めて明るい、そしてできれば間の抜けた、そんな声を出そうとする。
「えーと、それでは、どうして?」
彼女は答えない。
その代わりに、薄く微笑んだまま机越しに身を乗り出してくる。
穏やかな表情が、却ってその裏にある物の大きさを暗示している。
怖い。
立ち上がろうとする。
うっ、と息が詰まる。
金縛りにあったように動けない。
店の中の喧騒が、空気を抜いたように遠ざかる。
心臓だけがばくりばくりと鳴っている。
彼女は私に覆い被さるように顔を近づける。
それから、ゆっくりと私の頭を両手で包み込み。
私の耳当てをずらした。
白。
黒白。
白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒白黒白黒黒白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白白白黒黒白黒白黒黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白黒白黒黒黒白白黒白白白白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白白黒白黒黒黒白白黒白白黒黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白白白黒黒白黒白黒黒白白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒黒白黒黒白白黒白黒黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒白黒白黒黒白白黒黒白白黒白白白黒白黒黒白白黒白黒白黒黒白白黒白黒黒白黒白黒黒白白黒白黒黒黒黒白……………………。
「……ということです。分かっていただけましたか?」
映姫さんの声ではっと我に返る。
詰めていた息が一度にどっと肺から出ていく。
耳当ては彼女の手によって、既に元の位置に戻されている。
店の喧騒がわっと耳に帰ってくる。
「ええ、よく、分かりました」
切れ切れに答えながら、ぜえぜえと肩で息をする。
映姫さんが露わにした私の耳からは、彼女の内的世界が濁流のように流れ込んできた。
もちろん、彼女が何者であり、また尸解仙として寿命から逃れようとしている私にとってどういう存在であるかも。
要するに私は、私を捕まえようとしている死神たちの親玉と酒を酌み交わしていたのだ。
私は溜め息をついた。
額に浮かんだ汗を拭い、無理に笑顔を作る。
「それで……私はどうなるんでしょう?やはりお縄を頂戴しなくてはなりませんか?」
もちろん精一杯の抵抗はさせてもらう。
しかしどうにも、目の前の少女に勝てるという気がまったくしなかった。
特に、あの余りにも整然とした心の中を垣間見てしまった後では。
そういった観念の末の言葉だったのだが、彼女の返答はこちらが予期していたものとはかなり異なっていた。
少し困ったような顔で頬を掻きながら、映姫さんは言った。
「まあ……もちろんそうなんですけど。でも私の仕事は裁くことであって、捕まえることではないので」
「え?ええ……はあ」
それに今日は私、お休みですし、と。
照れたような可愛らしい笑顔で映姫さんは言うのであった。
「……えーと、じゃあ、もう一杯頼みましょうか?」
「はい」
伝票の取り合いを制して勘定は私が払った。
「そんなことしても、判決に手心は加えませんよ」みたいなつまらない冗談を言うわけでもなく、映姫さんはただただ俯いて顔を赤くして勘定を払う私の後ろに突っ立っていた。
案外人付き合いに奥手なのかもしれない。
店を出ると、先ほどどこか分からなかったこの場所は、いつも歩いている通りから一本脇にそれただけの場所だった。
おまけにさっきは気付かなかった満天の星空が広がっていて、その下を私と映姫さんは連れ立って帰った。
それ以来、私たちは良い友達同士になった。
私たちは月に一度か二度、彼女が休みの日に、どこかのあまり人目につかない店で会い、酒を飲み、料理を食べる。
お互いあまりたくさんは喋らない。
そんな必要はないのだ。
時折私は考える。
自分が死ぬことについて。
その後に、彼女が私の人生とあまねくすべての行いを裁くことについて。
何もかもが黒と白とに分類され、それから私は彼女が定める場所に投げ込まれる。
確かにそれはなかなか魅力的かもしれない。
ある価値基準に自分のすべてを委ねてしまうことは。
それ以上、自分で何一つ考えなくて良いということは。
もう得体の知れない暗闇で、一人で彷徨わなくても良いということは。
それでも今のところ死ぬ予定はない。
それは恐らくずっとずっと先のことだ。
言われてみればこの二人はよく似ているし、きっとすごく相性がいいぞ。
人の上に法を置く人と、その法を作った人という接点もあるし。
最後の独白も突き詰めて考えてみれば面白そう。
それから二人とも部下が困り者だし。
その場の雰囲気が伝わり、最後の展開でほっこりしてしまいました。
良い雰囲気で楽しめました。
あまりの二進数思考にオーバーロードしてしまうんでしょうか
今後どんな付き合いをしていくかも気になります。
珍しい組み合わせでしたが、共に組織(国家)を束ねた同士にしかわからないやりとりで酒を酌み交わす姿を想像しました。
神子のことであるなら微黒、
この世のことであるならこの世には少しだけ悪の方が多いのか。
などと深読みしてしまいますね。
雰囲気の良いお話をありがとうございました。
なんででしょうね、描写があまりないっていうのに料理が美味しそうでした。
タイトルは「やさしい閻魔」で一区切りかな?
みこちんもなんか若干心を病んでるんやな……