静謐な空間に、雨後のすすき野のような匂いが満ちていた。懐かしい匂いだ、と早苗は思った。最後に図書館を訪れたのはいつだっただろうか?
紅魔館の大図書館。眩暈がするほど高い天井に、書棚が伸びている。ちらちらと瞬くランプの明かりを頼りに、より明るい方へと早苗は歩く。そこに主がいるはずだ。
書庫の中を飛ばなかったのは、美鈴のアドバイスによるものだ。飛んで入ると泥棒と勘違いされて攻撃されるから、とのことだった。とんだとばっちりである。
歩いているうちに気づく。見上げた書棚のどこにも梯子が無い。妖(あやかし)が利用する書庫である証だ。その書庫の合間を、黒い影がさっと通り過ぎた。早苗は足を止める。
早苗の眼前に、幼い容貌をした赤髪の少女が舞い降りた。白いシャツの上から黒い上着をはおり、深紅のネクタイを締めている。頭部と背からは蝙蝠の羽。紅魔館の司書、小悪魔だった。
「山の神社の巫女さんですね。こんにちは」
「こんにちは。ええと……」
「小悪魔、と呼んでいただければ結構ですよ。この通り、小さいので」にっこりと笑い、赤髪をかきわけて生えている蝙蝠の羽を両手で動かす。「どのようなご用件でしょうか?」
「はい。こちらの本を借りたいので、パチュリーさんにご挨拶をと思いまして。美鈴さんにお話をして通して頂きました」
おおー、と小悪魔が驚く。
「美鈴さんから聞いていましたけれど、本当に常識人なんですねえ。外の世界の巫女さんはみんなそうなんですか?」
「さあ、どうなんでしょう」と早苗は苦笑した。
「あ、でもいっとき妖怪退治に励んでいらっしゃったんでしたっけ。トチ狂った山の巫女が問答無用で殺しに来る! って噂になってました」
「う……それは忘れたい過去です」
「ご所望の本がありましたら私にお申し付けくださいね。ここの蔵書の配置についてはたぶん、パチュリー様より私の方が詳しいですから」
先導する小悪魔につき従って歩くこと五分。
紫色の魔女が、足が細く捻じれた椅子に腰かけて読書に没頭していた。典雅な装飾が施された机には、クラゲのような形状の傘を被せたランプがあった。
驚かせないよう、徐々に気配を明確にして早苗は魔女へと近づいた。
「こんにちは、パチュリーさん」
十秒待ったが返事は無かった。視線で問うと、小悪魔は首をすくめて苦笑した。
「すみません、いつもこうなんです。近くで爆発でも起こらないと気付かないんですよ」
そこまで没頭しているとは。無理やり読書の世界から引き離したら、間違いなく機嫌を損ねるだろう。
「これから起こしますので、少し待っていてください」
「起こす……」しっくりと当てはまるが、妙な表現である。
小悪魔が笑って去り、早苗とパチュリーが残された。
日光と労働を知らない細い指が、五秒に一度ほどの頻度でページをめくっていた。大きな菫色の瞳にはびっしりと埋まった活字が映されている。彫像めいて髪の毛の先すら揺れない中で、瞳と頭脳だけが忙しなく働いていた。
ほどなくして小悪魔が戻ってきた。手にした銀盆にはティーセットが並べられていた。
「お茶をどうぞ、パチュリー様」
湯気が魔女の鼻先に届いた。活字を追っていた眼球が驚いたようにきょろりと動き、それからパチュリーは顔を上げた。
「ああ、ありがとう……あら?」
と、そこで初めて早苗の存在に気づいたようだった。
「いらっしゃい。山の巫女ね。東風谷早苗、だったかしら?」
「はい。こんにちは、パチュリーさん。勉強のために本をお借りしたいんですが、いいでしょうか? こちらには外の世界の本もあったことを思い出しまして」
パチュリーは紫色の髪を揺らし、穏やかに微笑んだ。
「殊勝な心がけね。挨拶に来るところまで含めて、どこかの紅白や白黒とは大違い」
「あはは。大学を卒業したくらいの知識はつけておきたいなと思いまして」
「ダイガク……学府のことかしら?」
「ええっと、ですね」
説明した。
パチュリーはゆっくりと紅茶を口に含みながら、興味深そうに早苗の話を聞いた。
早苗も紅茶を貰った。ベルガモットの強い香りがした。
「そう……外界には素晴らしいシステムがあるのね。知識を広範に流布するという点については、魔術師の方針とは少し違うけれど」
「そう、ですか?」
何かとアクが強い幻想郷の住人のこと。個性をないがしろにするつまらないシステムだと一蹴されるのではないか、と早苗は思っていた。
「ええ。基礎の学習から始めて独自の研究に至るまでを手引きする、というのはなかなかできることではないわ。きっと教師の誰もが崇高な使命感を持っているのね。尊敬するわ」
必ずしもそうではないが、と早苗は思ったが口にはしなかった。
「体系的に学問を学ぶことは非常に重要なことよ。独学ではしばしば自分が好む部分しか吸収しないから。だから魔理沙は駄目なのよ」
「駄目……なんですか?」
頷いてパチュリーは紅茶を飲み乾した。小悪魔がお代わりを注ぐ。
「温故知新という言葉を知っているわね? 古人が積み上げてきたものを吸収し、自らの些細なアレンジをそっと積む。それが魔術師としてあるべき姿であり、誇りなのよ」
「ははあ。哲学はあまり良く分かりませんが……知識を流布しない、というのは?」
「あなたの奇跡と同じよ。ありがたみが減るわ」
「あ、そんな理由ですか……」少し拍子抜けした。
「もちろん一番の理由ではないけれど。そんな暇があったら自分の研究に時間を使いたいのよ。せっかく捨虫の法で不老になったのだから、時間がもったいないじゃない」
不老であれば時間が有り余るものだと思っていたが、そうでもないらしい。
「パチュリーさんって、ずっと本を読んでいると聞き及んでいたんですけれど、実験とかもされているんですね。少し意外です」
「していないわよ?」
「え?」
「どうして実験などしなければいけないの?」
「へ? だって、研究といえば実験……」
「理論は頭の中にあるわ。ならばそれに従って呪文を唱えればいいだけ。簡単なことよ」
早苗は言葉を失う。天才とはこういう存在のことをいうのか。
なお、過去に水橋パルスィの正体を突き止めるのに時間がかかってしまい、魔理沙に役立たずと言われたことを早苗は知らない。
「あの娘は独学に頼りきりだから。でもまあ、頑固な彼女らしいし、一度痛い目を見れば、誰かに教えを乞うようになるでしょう」
それはどうだろう、と早苗は思う。パチュリーは魔道の究明が目的であるようだが、魔理沙にとって魔術は手段に過ぎないのではないか。
早苗の表情から類推したのか、パチュリーはティーカップを静かに下ろしてから言った。
「まあ、人の持つ可能性とやらを見せてもらうのも悪くはないわね」
パチュリーはそう締め括って、お代わりを飲み乾した。
「……っと、少し席を外すわね」
「どちらへ?」と小悪魔。
「小用よ」
パチュリーはあっけらかんと言った。
入れ換わりに早苗も厠へ行った。洋風の便所が懐かしかった。
戻ると、パチュリーが長い髪を弄って待っていた。もう少し話す気がある、ということだろう。
早苗はパチュリーの対面へと座る。
「おかえりなさい。紅茶は好きだけれど、トイレが近くなるのが憂鬱ね。手を洗って拭くのも億劫だわ。でも洗わないと不潔だし、丁寧に手を拭かないと本が湿るし。困ったものね」
「ああ、そうか……幻想郷にはウォシュレットが無いんですよね。悲しいです」
あの快適さを味わってしまったら、そう簡単には戻れないものである。
「うぉしゅれっと?」主従が二人して首を傾げる。息が合っていた。
「ええとですね……」
早苗はウォシュレットの機構と使用感をパチュリーと小悪魔に説明した。
始めは眉をひそめて聞いていたパチュリーだったが、
次第に目を丸く見開き、
すぐに菫色の瞳を白目が縁どるまでになり、
やがて深い悔悛となり、
ついにはうつむき、
わなわなと震え始めた。
「と……いう、わけなんです、が……?」早苗は困惑して首を傾げる。
「そ……んな……」前髪が垂れていて表情が窺い知れない。
「あの……?」
早苗がおそるおそる下から覗き込むと、隠されていた真実を悟ったかのような、愕然とした表情をしていた。
「そんなに、そんなに素晴らしいものがあっただなんて!!」
ガッツポーズと共に勢いよく立ち上がった。椅子が倒れた。
「えっ」と早苗。
「どうして……どうして思いつかなかったのかしら。いいえ、分かっているわ。書物の知識だけではいけないということ。実生活や実体験から学ぶべきことがあったということよ。百聞は一見にしかず、とはよく言ったものだわ。古人の洞察は私などより遥かに優れているわね」
言っていることがめちゃくちゃである。
本人が気づいていないからたちが悪い。
「つまり、早苗。
あなたの言う『水が流れてお湯が吹き出す椅子』に座っていれば、読書に没頭しつつ紅茶を嗜みながら用を足すことができるというわけでしょう!?」
「パチュリー様!?」ポットを取り落した。
「更には拭く手間すら要らないということだから、ページをめくる手を止めなくてもいいということね!?」
「あの、いえ、一応、その、ボタンを押す必要が」
「そんな簡単な仕事なんて、小悪魔にやらせればいいのよ。水音がしたら飛んできなさい」
「い、嫌ですよそんなの! 何か尊厳というか、悪魔として大事なものを失う気がします!!」
「主の命に従わずして何が従者よ! 咲夜を見習いなさい! 契約したからには――ゲホゲホゲホッ! ぐ、ゴッホゴッホゴッホ、ウオエッヘエッヘエッヘ……ッ!!」
むせた。みっともなくむせた。どうしようもなくむせた。
涙目になりながら、キッ、と小悪魔をきつく睨んだ。百年を生きた魔女の威厳など、どこにも無かった。
「小悪魔。谷の河童に連絡しなさい。可及的速やかによ。山の巫女の名前を出しても構わないわ」
「私は構いますよ!?」でも完成したら守矢にも一台欲しいなあ、と早苗は思った。
「うう……嫌だぁ……」
ぐずる小悪魔に業を煮やしたパチュリーが魔道書のページに手を掛けた。
小悪魔は「ひっ」と怯え、泣きべそをかきながら上空へと羽ばたき、姿を消した。
「あ、あの……私は帰りまーす、ね? 本はまた後日――」
こっそり逃げ出そうとした。襟首を掴まれた。
「駄目よ」
「えーん」
「これはデリケートな問題なの。ええ、とてもね。あなたの協力なしには到底成しえない偉大なる事業なのよこれは。
具体的には位置とか」
「お、お尻の位置なんて、河童のみなさんだって同じですよー!!」
早苗の絶叫は館内に幾重も反響した。
図書館ではお静かに。
☆ # ☆ # ☆
何だか妙な化学変化の引き金を引いてしまった。
とある化学実験を常温にて行ったという論文があって、その通りにやってみたけどうまくいかず、色々と試してみた結果、四十度という環境下で反応することが判明して、憤りながら著者の国籍を見てみたらインド人だった、という笑い話があったな、と早苗は脈絡もなくそんなことを考えた。もちろん現実から逃避しているだけだったのだが。
パチュリーの脳内物質が奇っ怪で斜め上な化学変化を起こした結果、早苗は河童が製作したぴかぴかの便器に座っている。今まさに、ノズルが伸びて温水が噴射されている。
温水の温もりを尻に感じる。これの良さを理解しない人間もいるというが、早苗には信じられない。ウォシュレットは人類の英知と文化の結晶に他ならない。何度味わっても素晴らしい。とても快適だ。
隣にスパナを持った谷河童の娘がいなければ、の話であるが。
「どうだい? 水圧とかは適当かい?」
「ええ、素晴らしいお仕事です」早苗は涙ながらに言った。世の無常を儚む涙だ。
技師のにとりは頬を染めてはにかみ、照れくさそうに帽子を掻いた。
「いやあ、まさか感激で泣かれてしまうとは。私も盟友のためにひと働きできて嬉しいよ」
太腿に大きな手拭いを掛けて隠しているとはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしい。
にとりによれば河童の技術の粋を凝らして作った便座は全自動洗浄機能つきであり、用を足した後にボタンをひとつ押すだけで水洗、洗浄、乾燥までをこなしてくれるのだという。さらにはマイナスイオンを発生する機能もあり、加えて脱臭と空気洗浄機能と音楽再生機能と龍神の天気予報と避雷針機能も付いているのだとか。余計な機能を付けすぎて失敗するパターンだと早苗は判断した。これは間違いなく流行らない。
便座が上げられないことについて早苗が疑問を呈すると、にとりは逆に不思議そうな顔をして「んんー……? それってここで必要あるのか?」と言った。
もっともな話だった。
にとりは生き生きとした表情でスパナをくるりと回した。
「それじゃあ、小の方も調整するよん」とんでもねえことを言いやがるものである。
「それだけは絶っっっっ対にお断りします!! お断りします断固!!」
早苗は両腕を斜め下に突き出した。左手にあるボタンをガードしたのだ。
「なんだよー、ケツの穴の小さい奴だなあ。今さら変わらないって。尻子玉抜くぞ?」
「嫌です! 何が悲しくて他人、いや人じゃないけど、他者の目のあるところで……! 嫌だったら嫌です! いくらなんでも常識にとらわれなさすぎでしょう、あなたたち!」
問答無用で妖怪をシバき倒しておいての言であることは留めおかれたい。
「んもー。これじゃあテストが終わらないわ」
にとりが困り果てたその時、個室の扉が開いた。
「駄目よ」
小脇に本を抱えて入ってきたパチュリーが開口一番に言った。背後の小悪魔はもはや解脱の域に達した穏やかな表情で椅子を抱えている。見た目より力持ちであるらしい。
何が駄目なのか、などと反問しなかった。
「ぱ、パチュリーさんが試せばいいじゃないですか!」
「不安だもの。あなたは経験者なのでしょう? ならば十全に安全快適であると示すのが義務よ。古人の歩んだ道があってこそ、私たちは今を歩くことができるのだから」
こういう所はいかにも幻想郷の住人である。
「さ、早くなさい。お礼に幾らでも本を借りていってくれていいから。こちらの準備は万端なのよ」
「万、端……? ま、まさか……」早苗はパチュリーの下腹部を指差した。
震える指先が意味することを汲みとり、パチュリーは頷いた。
「ええ、はいてないわ」
目眩がした。
「紅茶もたっぷり飲んできたわ」
「訊いてません!!」
にとりの目がぎらりと輝いた。隙を見逃さなかった。
「ほい、それじゃあスイッチオン」
「ぎゃー!」飛び上がることもできず、早苗は悶える。便座の上で。
「あ、こっちは冷水のバルブだった。ゴメン」ぺろりと舌を出す。
「わざとですよね!? 絶対わざとですよね!?」
パチュリーはじゃれあう二人を冷静に観察していた。やがて得心がいったのか頷いた。
「ふうん。どうやら大丈夫なようね……ではこれから私は研究に入るから、誰も邪魔しないように。小悪魔も必要な時以外は入らないで」
パチュリーはいそいそと丸テーブルの設置を始める。
「そうそう。工事、ありがとう。満足だわ。請求書は咲夜に渡してちょうだい」
「あいあいよー。これからも河城工務店を御贔屓にっ」
パチュリーはさっそく便座に腰かけ、おさまりの良い位置を探した。やがて見つけた。
ウム、と満足げに頷き、片手を上げて早苗に謝意を示した。
「あなたもありがとう、早苗。あなたは私の恩人よ。困ったことがあったらいつでも頼って。読書していない時ならいつでも駆けつけるわ」
「ドウイタシマシテ……」
年がら年中トイレに籠っている者になど誰が頼るか、と早苗は思った。
☆ # ☆ # ☆
美鈴に同情されつつ紅魔館を後にした早苗は、とぼとぼと湖畔のほとりを歩いた。空を飛ぶ気力が沸かなかった。
手には高校で学習する程度の数学について記された本が持たれている。小悪魔が菩薩の笑みと共に渡してくれたものだ。彼女はどんな葛藤を乗り越えてあの境地に達したのであろうか。たかがトイレにまつわるひと騒動に過ぎないのだが。
溜息をついた。一瞬だけ心が完全な無防備になった。
背後から、声がかかった。
「――困るわねえ」
心臓が跳ね上がった。
こんな心の隙に付け入るタイミングで声を掛けてくる存在など、片手で数えられる程度しかいない。
「八雲、紫さん……」振り返りながら早苗は呟いた。
胡散臭い笑顔を頬に張り付けて、隙間妖怪が空間の裂け目から顔を出していた。少女趣味な衣装とあどけなさを残す容貌に反して、仕草や表情は狡猾な老婆のそれ。白い手袋に包まれた手で宙に頬杖を突き、早苗を見下ろしている。
「あんまり外の文化や常識を持ちこまないでくれるかしら。結界が歪むから、藍が苦労するのよぉ?」
隙間の両端に結ばれたリボンが左右に広がった。
ぬるり、と紫が抜け出た。そのまま隙間に腰掛け、クラゲのような傘を差す。
「私は、私が正しいと思うままに生きているだけです」
紫はつまらなそうな顔で視線を泳がせ、傘をくるくると回した。
「それが困るのだと言っているのだけど。ものわかりが悪いのね、あなた」
隙間から覗く無数の眼球がぎょろりと早苗を向く。粘性の害意が早苗をねぶった。
生理的な嫌悪感を覚え、早苗は地に視線を反らした。ぎょっとした。その先にも隙間が口を開け、紫と眼球が顔を覗かせていた。存在自体がいんちきとはよく言ったものだ。
「あなたはねえ、異分子なのよ。あちらの世界の住人にもなりきれず、こちらの世界の住人にもなりきれない。霊夢とはまた違った二極性を内包しているの」
見上げてくる紫に唾を吐きたくなる衝動を早苗は抑えた。そんな早苗の情動を見透かしてか、紫はにやにやと笑った。
「非想天則の時には御咎めもなかったくせに、よく言いますね」
紫は扇を口に当ててクスクスと笑った。
「あらあら、知らないの? 徐々に幻想入りしているのよ。あなたの愛するブルースも、松田優作も、熱血ヒーローも、巨大ロボットも、ね。私が言いたいのはそういうことではないの」
「そんな……だって、私は確かに見たことが……」
「記録に存在しなくなることが幻想入りの要件ではないの。人々から忘れられることが幻想入りの要件なのよ。あなたの氏神様から聞かなかったのかしら? どうせあなたでは理解できないからと、はなから諦められているのかもしれないわね?」
「……おふたりを引き合いに出すことは許しませんよ」
手にした御幣をさっと構える。
「あら怖い」片眉をそびやかせる。
紫は地面の隙間を閉じ、再び中空へと腰かけた。柔らかなスカートがゆらゆらと揺れた。パンツが見えていれば指摘して辱めてやれたのに、と早苗は苦々しく思った。
「現代に居られず、過去からは突き放され、神にもなりきれず、人にも戻られず、幻想に馴染めず、現実からは逃げだし……いかにも中途半端ねえ、あなたは」
ぶつり、と頭の血管が切れる音を早苗は聞いた。確かに聞いた。
頭に来た。腹が立った。何故ここまでこき下ろされねばならないのか。
ねちねちと嫌味ばかり言っている。喧嘩を売りたいのならそう言えばいいのだ。早苗は喜んで買うだろう。間違いなく負けるだろうが。
叶うことならあの青っ白い顔に拳の一つでも見舞ってやりたかった。
だが早苗のプライドがそれをさせなかった。
何か言い返してやらねば気が済まない。怒りで沸騰した思考は全く論理的でなく、ただ八雲紫の存在を感じたがままに形容した。
「あなたに言われたくはありません。どっちつかずの妖怪のくせに」
紫は、きょとん、と虚を突かれた顔になった。それから、にんまりと邪悪な笑顔になった。心からの笑顔だと直感できた。
「あらあらうふふ。うふふふふ。面白いわね、あなた。私が思っていたよりも度胸が据わっているのか、力量も見定められない未熟者ゆえか、それとも単なる無知ゆえかしら?」
「お言葉をお借りします。全部だと思いますよ。なにせ中途半端ですからね、私は!」
「あはっ、あははははは! これは一本取られたわね、あははははは!」
紫は涙を浮かべ、ケラケラと苦しそうに笑った。笑われている早苗からすれば不快以外の何物でもなかった。どうして笑われているのかが分からないから尚更腹立たしい。
「そうねえ。どうせあなた如きでは何も成し得ないでしょうから、藍にもう少しの間だけ頑張ってもらうことにしましょうか。まったく、飽きることがないわね、この現の世は」
紫が隙間を大きく開き、その中へと入った。
「じゃあね。せいぜい頑張りなさい」
隙間のリボンがチャックのように間隔を狭め、隙間を閉じる直前で止まった。
忘れ物でもしたかのように首だけ出した。
「あ、それと。そのままだと脳溢血で死ぬわよ、あなた。永遠亭で診てもらいなさい」
「え?」
今度こそ白い手袋がバイバイと振られ、水面下へ沈むように消えた。
血管は確かに切れていたらしい。
☆ # ☆ # ☆
その晩。
レミリアから言伝を授かった咲夜はパチュリーの寝室を訪れた。レミリアの言伝は他愛もないもので、最近暇だから一緒に茶でも飲もうというものだった。パチュリーは「いまちょっといいところだから、それに飽きたら」とだけ返した。いつもは無愛想な図書館の主が妙に上機嫌であったのが気になったが、瀟洒な従者は無粋な質問をしなかった。
「それではパチュリー様、おやすみなさいませ」
深々と頭を下げ、寝室を後にした。
書庫の天井へと飛ぼうとして、止めた。覚え知らぬ空間を察知して咲夜は首を傾げた。
「あら……何かしら」
寝室にほど近い場所に、小さな部屋が出来ていた。
「そういえば、先日からパチュリー様が河童を呼んで何やら工事をされていましたわね」
空間の管理は咲夜の仕事である。
ノックを三回。返事は無い。静かにノブを捻って入る。
意外なものを目にした咲夜は思わず口元に手をやった。
「あら、トイレ」
まだパチュリーしか使用していない、新品同様のトイレが美しく鎮座していた。ほのかにラベンダーの香りがした。不快な臭いは一切させない、河童の技術である。
ぶるり、と咲夜は震えた。
もちろん図書館の闇に潜む面倒な魔道書の邪悪な気配を感じたのではなく、必然的かつ不可避な生理現象が呼びさまされたのだ。
トイレを見れば何故か催してしまうものである。
「ちょっと失敬……」
個室に入り、扉を閉める。鍵がかけられないのが不満だが、周囲に誰かの気配はない。
念のために時間を止めた。これでアインシュタイン的に誰も入ってこられない。
「さて、と」
しばらくの間、霧の湖の幻想的な映像にルーネイトエルフを併せて御視聴ください。
終わった。
左手に何か箱状の物体が触れた。青いボタンがひょこりと飛び出していた。
「ボタン……?」
押した。ボタンがあれば押してしまうものである。
モータが駆動する不気味な音が響いた。
突然のことに、不覚にも咲夜は硬直してしまった。時間の支配が解けた。
人が最も無防備になるひとときであり、咲夜は人間である。無理からぬことだった。
お湯が出た。
「きゃああああああああああぁぁぁーっ!?」
紅魔の大図書館に、瀟洒な悲鳴が響き渡った。
☆ # ☆ # ☆
――蛇足。
パチュリーがその後、便座の局所的な圧迫による床ずれに悩まされたのは言うまでもない。
トイレで本を読むのはやめましょう。
紅魔館の大図書館。眩暈がするほど高い天井に、書棚が伸びている。ちらちらと瞬くランプの明かりを頼りに、より明るい方へと早苗は歩く。そこに主がいるはずだ。
書庫の中を飛ばなかったのは、美鈴のアドバイスによるものだ。飛んで入ると泥棒と勘違いされて攻撃されるから、とのことだった。とんだとばっちりである。
歩いているうちに気づく。見上げた書棚のどこにも梯子が無い。妖(あやかし)が利用する書庫である証だ。その書庫の合間を、黒い影がさっと通り過ぎた。早苗は足を止める。
早苗の眼前に、幼い容貌をした赤髪の少女が舞い降りた。白いシャツの上から黒い上着をはおり、深紅のネクタイを締めている。頭部と背からは蝙蝠の羽。紅魔館の司書、小悪魔だった。
「山の神社の巫女さんですね。こんにちは」
「こんにちは。ええと……」
「小悪魔、と呼んでいただければ結構ですよ。この通り、小さいので」にっこりと笑い、赤髪をかきわけて生えている蝙蝠の羽を両手で動かす。「どのようなご用件でしょうか?」
「はい。こちらの本を借りたいので、パチュリーさんにご挨拶をと思いまして。美鈴さんにお話をして通して頂きました」
おおー、と小悪魔が驚く。
「美鈴さんから聞いていましたけれど、本当に常識人なんですねえ。外の世界の巫女さんはみんなそうなんですか?」
「さあ、どうなんでしょう」と早苗は苦笑した。
「あ、でもいっとき妖怪退治に励んでいらっしゃったんでしたっけ。トチ狂った山の巫女が問答無用で殺しに来る! って噂になってました」
「う……それは忘れたい過去です」
「ご所望の本がありましたら私にお申し付けくださいね。ここの蔵書の配置についてはたぶん、パチュリー様より私の方が詳しいですから」
先導する小悪魔につき従って歩くこと五分。
紫色の魔女が、足が細く捻じれた椅子に腰かけて読書に没頭していた。典雅な装飾が施された机には、クラゲのような形状の傘を被せたランプがあった。
驚かせないよう、徐々に気配を明確にして早苗は魔女へと近づいた。
「こんにちは、パチュリーさん」
十秒待ったが返事は無かった。視線で問うと、小悪魔は首をすくめて苦笑した。
「すみません、いつもこうなんです。近くで爆発でも起こらないと気付かないんですよ」
そこまで没頭しているとは。無理やり読書の世界から引き離したら、間違いなく機嫌を損ねるだろう。
「これから起こしますので、少し待っていてください」
「起こす……」しっくりと当てはまるが、妙な表現である。
小悪魔が笑って去り、早苗とパチュリーが残された。
日光と労働を知らない細い指が、五秒に一度ほどの頻度でページをめくっていた。大きな菫色の瞳にはびっしりと埋まった活字が映されている。彫像めいて髪の毛の先すら揺れない中で、瞳と頭脳だけが忙しなく働いていた。
ほどなくして小悪魔が戻ってきた。手にした銀盆にはティーセットが並べられていた。
「お茶をどうぞ、パチュリー様」
湯気が魔女の鼻先に届いた。活字を追っていた眼球が驚いたようにきょろりと動き、それからパチュリーは顔を上げた。
「ああ、ありがとう……あら?」
と、そこで初めて早苗の存在に気づいたようだった。
「いらっしゃい。山の巫女ね。東風谷早苗、だったかしら?」
「はい。こんにちは、パチュリーさん。勉強のために本をお借りしたいんですが、いいでしょうか? こちらには外の世界の本もあったことを思い出しまして」
パチュリーは紫色の髪を揺らし、穏やかに微笑んだ。
「殊勝な心がけね。挨拶に来るところまで含めて、どこかの紅白や白黒とは大違い」
「あはは。大学を卒業したくらいの知識はつけておきたいなと思いまして」
「ダイガク……学府のことかしら?」
「ええっと、ですね」
説明した。
パチュリーはゆっくりと紅茶を口に含みながら、興味深そうに早苗の話を聞いた。
早苗も紅茶を貰った。ベルガモットの強い香りがした。
「そう……外界には素晴らしいシステムがあるのね。知識を広範に流布するという点については、魔術師の方針とは少し違うけれど」
「そう、ですか?」
何かとアクが強い幻想郷の住人のこと。個性をないがしろにするつまらないシステムだと一蹴されるのではないか、と早苗は思っていた。
「ええ。基礎の学習から始めて独自の研究に至るまでを手引きする、というのはなかなかできることではないわ。きっと教師の誰もが崇高な使命感を持っているのね。尊敬するわ」
必ずしもそうではないが、と早苗は思ったが口にはしなかった。
「体系的に学問を学ぶことは非常に重要なことよ。独学ではしばしば自分が好む部分しか吸収しないから。だから魔理沙は駄目なのよ」
「駄目……なんですか?」
頷いてパチュリーは紅茶を飲み乾した。小悪魔がお代わりを注ぐ。
「温故知新という言葉を知っているわね? 古人が積み上げてきたものを吸収し、自らの些細なアレンジをそっと積む。それが魔術師としてあるべき姿であり、誇りなのよ」
「ははあ。哲学はあまり良く分かりませんが……知識を流布しない、というのは?」
「あなたの奇跡と同じよ。ありがたみが減るわ」
「あ、そんな理由ですか……」少し拍子抜けした。
「もちろん一番の理由ではないけれど。そんな暇があったら自分の研究に時間を使いたいのよ。せっかく捨虫の法で不老になったのだから、時間がもったいないじゃない」
不老であれば時間が有り余るものだと思っていたが、そうでもないらしい。
「パチュリーさんって、ずっと本を読んでいると聞き及んでいたんですけれど、実験とかもされているんですね。少し意外です」
「していないわよ?」
「え?」
「どうして実験などしなければいけないの?」
「へ? だって、研究といえば実験……」
「理論は頭の中にあるわ。ならばそれに従って呪文を唱えればいいだけ。簡単なことよ」
早苗は言葉を失う。天才とはこういう存在のことをいうのか。
なお、過去に水橋パルスィの正体を突き止めるのに時間がかかってしまい、魔理沙に役立たずと言われたことを早苗は知らない。
「あの娘は独学に頼りきりだから。でもまあ、頑固な彼女らしいし、一度痛い目を見れば、誰かに教えを乞うようになるでしょう」
それはどうだろう、と早苗は思う。パチュリーは魔道の究明が目的であるようだが、魔理沙にとって魔術は手段に過ぎないのではないか。
早苗の表情から類推したのか、パチュリーはティーカップを静かに下ろしてから言った。
「まあ、人の持つ可能性とやらを見せてもらうのも悪くはないわね」
パチュリーはそう締め括って、お代わりを飲み乾した。
「……っと、少し席を外すわね」
「どちらへ?」と小悪魔。
「小用よ」
パチュリーはあっけらかんと言った。
入れ換わりに早苗も厠へ行った。洋風の便所が懐かしかった。
戻ると、パチュリーが長い髪を弄って待っていた。もう少し話す気がある、ということだろう。
早苗はパチュリーの対面へと座る。
「おかえりなさい。紅茶は好きだけれど、トイレが近くなるのが憂鬱ね。手を洗って拭くのも億劫だわ。でも洗わないと不潔だし、丁寧に手を拭かないと本が湿るし。困ったものね」
「ああ、そうか……幻想郷にはウォシュレットが無いんですよね。悲しいです」
あの快適さを味わってしまったら、そう簡単には戻れないものである。
「うぉしゅれっと?」主従が二人して首を傾げる。息が合っていた。
「ええとですね……」
早苗はウォシュレットの機構と使用感をパチュリーと小悪魔に説明した。
始めは眉をひそめて聞いていたパチュリーだったが、
次第に目を丸く見開き、
すぐに菫色の瞳を白目が縁どるまでになり、
やがて深い悔悛となり、
ついにはうつむき、
わなわなと震え始めた。
「と……いう、わけなんです、が……?」早苗は困惑して首を傾げる。
「そ……んな……」前髪が垂れていて表情が窺い知れない。
「あの……?」
早苗がおそるおそる下から覗き込むと、隠されていた真実を悟ったかのような、愕然とした表情をしていた。
「そんなに、そんなに素晴らしいものがあっただなんて!!」
ガッツポーズと共に勢いよく立ち上がった。椅子が倒れた。
「えっ」と早苗。
「どうして……どうして思いつかなかったのかしら。いいえ、分かっているわ。書物の知識だけではいけないということ。実生活や実体験から学ぶべきことがあったということよ。百聞は一見にしかず、とはよく言ったものだわ。古人の洞察は私などより遥かに優れているわね」
言っていることがめちゃくちゃである。
本人が気づいていないからたちが悪い。
「つまり、早苗。
あなたの言う『水が流れてお湯が吹き出す椅子』に座っていれば、読書に没頭しつつ紅茶を嗜みながら用を足すことができるというわけでしょう!?」
「パチュリー様!?」ポットを取り落した。
「更には拭く手間すら要らないということだから、ページをめくる手を止めなくてもいいということね!?」
「あの、いえ、一応、その、ボタンを押す必要が」
「そんな簡単な仕事なんて、小悪魔にやらせればいいのよ。水音がしたら飛んできなさい」
「い、嫌ですよそんなの! 何か尊厳というか、悪魔として大事なものを失う気がします!!」
「主の命に従わずして何が従者よ! 咲夜を見習いなさい! 契約したからには――ゲホゲホゲホッ! ぐ、ゴッホゴッホゴッホ、ウオエッヘエッヘエッヘ……ッ!!」
むせた。みっともなくむせた。どうしようもなくむせた。
涙目になりながら、キッ、と小悪魔をきつく睨んだ。百年を生きた魔女の威厳など、どこにも無かった。
「小悪魔。谷の河童に連絡しなさい。可及的速やかによ。山の巫女の名前を出しても構わないわ」
「私は構いますよ!?」でも完成したら守矢にも一台欲しいなあ、と早苗は思った。
「うう……嫌だぁ……」
ぐずる小悪魔に業を煮やしたパチュリーが魔道書のページに手を掛けた。
小悪魔は「ひっ」と怯え、泣きべそをかきながら上空へと羽ばたき、姿を消した。
「あ、あの……私は帰りまーす、ね? 本はまた後日――」
こっそり逃げ出そうとした。襟首を掴まれた。
「駄目よ」
「えーん」
「これはデリケートな問題なの。ええ、とてもね。あなたの協力なしには到底成しえない偉大なる事業なのよこれは。
具体的には位置とか」
「お、お尻の位置なんて、河童のみなさんだって同じですよー!!」
早苗の絶叫は館内に幾重も反響した。
図書館ではお静かに。
☆ # ☆ # ☆
何だか妙な化学変化の引き金を引いてしまった。
とある化学実験を常温にて行ったという論文があって、その通りにやってみたけどうまくいかず、色々と試してみた結果、四十度という環境下で反応することが判明して、憤りながら著者の国籍を見てみたらインド人だった、という笑い話があったな、と早苗は脈絡もなくそんなことを考えた。もちろん現実から逃避しているだけだったのだが。
パチュリーの脳内物質が奇っ怪で斜め上な化学変化を起こした結果、早苗は河童が製作したぴかぴかの便器に座っている。今まさに、ノズルが伸びて温水が噴射されている。
温水の温もりを尻に感じる。これの良さを理解しない人間もいるというが、早苗には信じられない。ウォシュレットは人類の英知と文化の結晶に他ならない。何度味わっても素晴らしい。とても快適だ。
隣にスパナを持った谷河童の娘がいなければ、の話であるが。
「どうだい? 水圧とかは適当かい?」
「ええ、素晴らしいお仕事です」早苗は涙ながらに言った。世の無常を儚む涙だ。
技師のにとりは頬を染めてはにかみ、照れくさそうに帽子を掻いた。
「いやあ、まさか感激で泣かれてしまうとは。私も盟友のためにひと働きできて嬉しいよ」
太腿に大きな手拭いを掛けて隠しているとはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしい。
にとりによれば河童の技術の粋を凝らして作った便座は全自動洗浄機能つきであり、用を足した後にボタンをひとつ押すだけで水洗、洗浄、乾燥までをこなしてくれるのだという。さらにはマイナスイオンを発生する機能もあり、加えて脱臭と空気洗浄機能と音楽再生機能と龍神の天気予報と避雷針機能も付いているのだとか。余計な機能を付けすぎて失敗するパターンだと早苗は判断した。これは間違いなく流行らない。
便座が上げられないことについて早苗が疑問を呈すると、にとりは逆に不思議そうな顔をして「んんー……? それってここで必要あるのか?」と言った。
もっともな話だった。
にとりは生き生きとした表情でスパナをくるりと回した。
「それじゃあ、小の方も調整するよん」とんでもねえことを言いやがるものである。
「それだけは絶っっっっ対にお断りします!! お断りします断固!!」
早苗は両腕を斜め下に突き出した。左手にあるボタンをガードしたのだ。
「なんだよー、ケツの穴の小さい奴だなあ。今さら変わらないって。尻子玉抜くぞ?」
「嫌です! 何が悲しくて他人、いや人じゃないけど、他者の目のあるところで……! 嫌だったら嫌です! いくらなんでも常識にとらわれなさすぎでしょう、あなたたち!」
問答無用で妖怪をシバき倒しておいての言であることは留めおかれたい。
「んもー。これじゃあテストが終わらないわ」
にとりが困り果てたその時、個室の扉が開いた。
「駄目よ」
小脇に本を抱えて入ってきたパチュリーが開口一番に言った。背後の小悪魔はもはや解脱の域に達した穏やかな表情で椅子を抱えている。見た目より力持ちであるらしい。
何が駄目なのか、などと反問しなかった。
「ぱ、パチュリーさんが試せばいいじゃないですか!」
「不安だもの。あなたは経験者なのでしょう? ならば十全に安全快適であると示すのが義務よ。古人の歩んだ道があってこそ、私たちは今を歩くことができるのだから」
こういう所はいかにも幻想郷の住人である。
「さ、早くなさい。お礼に幾らでも本を借りていってくれていいから。こちらの準備は万端なのよ」
「万、端……? ま、まさか……」早苗はパチュリーの下腹部を指差した。
震える指先が意味することを汲みとり、パチュリーは頷いた。
「ええ、はいてないわ」
目眩がした。
「紅茶もたっぷり飲んできたわ」
「訊いてません!!」
にとりの目がぎらりと輝いた。隙を見逃さなかった。
「ほい、それじゃあスイッチオン」
「ぎゃー!」飛び上がることもできず、早苗は悶える。便座の上で。
「あ、こっちは冷水のバルブだった。ゴメン」ぺろりと舌を出す。
「わざとですよね!? 絶対わざとですよね!?」
パチュリーはじゃれあう二人を冷静に観察していた。やがて得心がいったのか頷いた。
「ふうん。どうやら大丈夫なようね……ではこれから私は研究に入るから、誰も邪魔しないように。小悪魔も必要な時以外は入らないで」
パチュリーはいそいそと丸テーブルの設置を始める。
「そうそう。工事、ありがとう。満足だわ。請求書は咲夜に渡してちょうだい」
「あいあいよー。これからも河城工務店を御贔屓にっ」
パチュリーはさっそく便座に腰かけ、おさまりの良い位置を探した。やがて見つけた。
ウム、と満足げに頷き、片手を上げて早苗に謝意を示した。
「あなたもありがとう、早苗。あなたは私の恩人よ。困ったことがあったらいつでも頼って。読書していない時ならいつでも駆けつけるわ」
「ドウイタシマシテ……」
年がら年中トイレに籠っている者になど誰が頼るか、と早苗は思った。
☆ # ☆ # ☆
美鈴に同情されつつ紅魔館を後にした早苗は、とぼとぼと湖畔のほとりを歩いた。空を飛ぶ気力が沸かなかった。
手には高校で学習する程度の数学について記された本が持たれている。小悪魔が菩薩の笑みと共に渡してくれたものだ。彼女はどんな葛藤を乗り越えてあの境地に達したのであろうか。たかがトイレにまつわるひと騒動に過ぎないのだが。
溜息をついた。一瞬だけ心が完全な無防備になった。
背後から、声がかかった。
「――困るわねえ」
心臓が跳ね上がった。
こんな心の隙に付け入るタイミングで声を掛けてくる存在など、片手で数えられる程度しかいない。
「八雲、紫さん……」振り返りながら早苗は呟いた。
胡散臭い笑顔を頬に張り付けて、隙間妖怪が空間の裂け目から顔を出していた。少女趣味な衣装とあどけなさを残す容貌に反して、仕草や表情は狡猾な老婆のそれ。白い手袋に包まれた手で宙に頬杖を突き、早苗を見下ろしている。
「あんまり外の文化や常識を持ちこまないでくれるかしら。結界が歪むから、藍が苦労するのよぉ?」
隙間の両端に結ばれたリボンが左右に広がった。
ぬるり、と紫が抜け出た。そのまま隙間に腰掛け、クラゲのような傘を差す。
「私は、私が正しいと思うままに生きているだけです」
紫はつまらなそうな顔で視線を泳がせ、傘をくるくると回した。
「それが困るのだと言っているのだけど。ものわかりが悪いのね、あなた」
隙間から覗く無数の眼球がぎょろりと早苗を向く。粘性の害意が早苗をねぶった。
生理的な嫌悪感を覚え、早苗は地に視線を反らした。ぎょっとした。その先にも隙間が口を開け、紫と眼球が顔を覗かせていた。存在自体がいんちきとはよく言ったものだ。
「あなたはねえ、異分子なのよ。あちらの世界の住人にもなりきれず、こちらの世界の住人にもなりきれない。霊夢とはまた違った二極性を内包しているの」
見上げてくる紫に唾を吐きたくなる衝動を早苗は抑えた。そんな早苗の情動を見透かしてか、紫はにやにやと笑った。
「非想天則の時には御咎めもなかったくせに、よく言いますね」
紫は扇を口に当ててクスクスと笑った。
「あらあら、知らないの? 徐々に幻想入りしているのよ。あなたの愛するブルースも、松田優作も、熱血ヒーローも、巨大ロボットも、ね。私が言いたいのはそういうことではないの」
「そんな……だって、私は確かに見たことが……」
「記録に存在しなくなることが幻想入りの要件ではないの。人々から忘れられることが幻想入りの要件なのよ。あなたの氏神様から聞かなかったのかしら? どうせあなたでは理解できないからと、はなから諦められているのかもしれないわね?」
「……おふたりを引き合いに出すことは許しませんよ」
手にした御幣をさっと構える。
「あら怖い」片眉をそびやかせる。
紫は地面の隙間を閉じ、再び中空へと腰かけた。柔らかなスカートがゆらゆらと揺れた。パンツが見えていれば指摘して辱めてやれたのに、と早苗は苦々しく思った。
「現代に居られず、過去からは突き放され、神にもなりきれず、人にも戻られず、幻想に馴染めず、現実からは逃げだし……いかにも中途半端ねえ、あなたは」
ぶつり、と頭の血管が切れる音を早苗は聞いた。確かに聞いた。
頭に来た。腹が立った。何故ここまでこき下ろされねばならないのか。
ねちねちと嫌味ばかり言っている。喧嘩を売りたいのならそう言えばいいのだ。早苗は喜んで買うだろう。間違いなく負けるだろうが。
叶うことならあの青っ白い顔に拳の一つでも見舞ってやりたかった。
だが早苗のプライドがそれをさせなかった。
何か言い返してやらねば気が済まない。怒りで沸騰した思考は全く論理的でなく、ただ八雲紫の存在を感じたがままに形容した。
「あなたに言われたくはありません。どっちつかずの妖怪のくせに」
紫は、きょとん、と虚を突かれた顔になった。それから、にんまりと邪悪な笑顔になった。心からの笑顔だと直感できた。
「あらあらうふふ。うふふふふ。面白いわね、あなた。私が思っていたよりも度胸が据わっているのか、力量も見定められない未熟者ゆえか、それとも単なる無知ゆえかしら?」
「お言葉をお借りします。全部だと思いますよ。なにせ中途半端ですからね、私は!」
「あはっ、あははははは! これは一本取られたわね、あははははは!」
紫は涙を浮かべ、ケラケラと苦しそうに笑った。笑われている早苗からすれば不快以外の何物でもなかった。どうして笑われているのかが分からないから尚更腹立たしい。
「そうねえ。どうせあなた如きでは何も成し得ないでしょうから、藍にもう少しの間だけ頑張ってもらうことにしましょうか。まったく、飽きることがないわね、この現の世は」
紫が隙間を大きく開き、その中へと入った。
「じゃあね。せいぜい頑張りなさい」
隙間のリボンがチャックのように間隔を狭め、隙間を閉じる直前で止まった。
忘れ物でもしたかのように首だけ出した。
「あ、それと。そのままだと脳溢血で死ぬわよ、あなた。永遠亭で診てもらいなさい」
「え?」
今度こそ白い手袋がバイバイと振られ、水面下へ沈むように消えた。
血管は確かに切れていたらしい。
☆ # ☆ # ☆
その晩。
レミリアから言伝を授かった咲夜はパチュリーの寝室を訪れた。レミリアの言伝は他愛もないもので、最近暇だから一緒に茶でも飲もうというものだった。パチュリーは「いまちょっといいところだから、それに飽きたら」とだけ返した。いつもは無愛想な図書館の主が妙に上機嫌であったのが気になったが、瀟洒な従者は無粋な質問をしなかった。
「それではパチュリー様、おやすみなさいませ」
深々と頭を下げ、寝室を後にした。
書庫の天井へと飛ぼうとして、止めた。覚え知らぬ空間を察知して咲夜は首を傾げた。
「あら……何かしら」
寝室にほど近い場所に、小さな部屋が出来ていた。
「そういえば、先日からパチュリー様が河童を呼んで何やら工事をされていましたわね」
空間の管理は咲夜の仕事である。
ノックを三回。返事は無い。静かにノブを捻って入る。
意外なものを目にした咲夜は思わず口元に手をやった。
「あら、トイレ」
まだパチュリーしか使用していない、新品同様のトイレが美しく鎮座していた。ほのかにラベンダーの香りがした。不快な臭いは一切させない、河童の技術である。
ぶるり、と咲夜は震えた。
もちろん図書館の闇に潜む面倒な魔道書の邪悪な気配を感じたのではなく、必然的かつ不可避な生理現象が呼びさまされたのだ。
トイレを見れば何故か催してしまうものである。
「ちょっと失敬……」
個室に入り、扉を閉める。鍵がかけられないのが不満だが、周囲に誰かの気配はない。
念のために時間を止めた。これでアインシュタイン的に誰も入ってこられない。
「さて、と」
しばらくの間、霧の湖の幻想的な映像にルーネイトエルフを併せて御視聴ください。
終わった。
左手に何か箱状の物体が触れた。青いボタンがひょこりと飛び出していた。
「ボタン……?」
押した。ボタンがあれば押してしまうものである。
モータが駆動する不気味な音が響いた。
突然のことに、不覚にも咲夜は硬直してしまった。時間の支配が解けた。
人が最も無防備になるひとときであり、咲夜は人間である。無理からぬことだった。
お湯が出た。
「きゃああああああああああぁぁぁーっ!?」
紅魔の大図書館に、瀟洒な悲鳴が響き渡った。
☆ # ☆ # ☆
――蛇足。
パチュリーがその後、便座の局所的な圧迫による床ずれに悩まされたのは言うまでもない。
トイレで本を読むのはやめましょう。
今や見掛けないことの方が少なくなってきたあれは人類を堕落へと導く魔機の一つですな。
紫の皮肉を受け流せるようになって初めて幻想郷の住人になれるのかもしれませんね
私は無理ですね。3秒後に首吊ってますからきっと。
ところで紫さん。嫌味を言うのはいいけど見てたのなら動きんしゃいw
あの機能は最近だとデフォルトでついてるのか、ついてない方が珍しいですねぇ。
ゆかりんは除くとして、幻想郷の住人だと誰でも初めてはびっくりするだろうなw
プロジェクトXかなにかでウォシュレットの開発秘話見た記憶があるのですが、
ほんと先人には頭が上がりませんね
>>3さん 僕も首吊る自信があります。
>>4さん やりおる。
>>5さん ネタが懐かしすぎて吹いた。
>>8さん どうもどうも。
>>13さん 刻●は禁制事項です。動かない大紫。
>>15さん うちには無いのだ(´;ω;`)
>>19さん 咲夜さんドS(瀟洒) パンツはいてください
>>20さん 紫の発言書いててぶん殴りたくなりました。
そういえばTOTOは自分ところの男女の社員が実験台だとか
しかしこれでパッチェさん真面目なのが良い
>>32さん 河童は尻に水鉄砲受けても平気ですゆえ早苗を実験台にしたのですな。
……ってかそうであってほしい。言い回しみてブチきれそうになりましたから。
あと個人的に、さなパチュは好きw
>>37さん メタメタにされている紫さんを見たければ祈祷少女まぢかる☆さにゃえちゃんがおすすめです(ステマ
何を失敗したって、作品シリーズの一番最後の作品であるこの作品から読んでしまったことです。
作品そのものは面白かったです。