――それは、何かの気まぐれだったのだろうか。
無理矢理に閉じてから、あまりに時間の経ち過ぎたアルバム。それをもう一度開いたのは、その偶然の巡り合わせだった。
「……」
それが知らない人だったとしたら、こんな空気は流れない。
霧で湿った唇が、そっと動く。
「……久しぶり、ね」
鼓膜に染み込むような、優しい声だった。ぞくりとするほど。
心臓を握り締められる感覚と戦いながら、必死に言葉を探した。
「いま、さら……なにを……」
驚くくらい、粘着質な声。ねばねばと喉に張り付いて、上手に言えない。長いこと酷使してきた喉が、ぐう、と音を立てた。
「どうしてそんな顔をするの? まあ、確かに」
「やめて」
声と同じで、優しい顔。それがやたらと癪に障る。言葉を無理矢理叩き切るように遮ると、目の前の彼女は少しだけ眉を動かした。怒ったようには、見えない。
「もしかして、まだ」
「……むしろ、どうしてそんな顔ができるのよ……」
似たような言葉で疑問を返す。ぐつぐつと煮えるような思いが溢れそうになって、寸での所で飲み込んだ。感情的にはなりたくない。
負けを認めるわけにはいかなかった。自分の中ではまだ、喧嘩は終わっていないのだから。
「だって、あれからかなり経ったし……色々、あったからね」
しかし相手はというと、どこか懐かしむような顔だ。それがまた、腹が立つ。
あれから何年経ったのか。百年か、二百年か、もっとか。少なくとも、人間の知り合いは誰一人残っていない。それだけの長きに渡って、ずっとずっと煮詰めてきたこの感情。
こんな所でそれをぶつける機会が訪れるとは、神も仏もあったものだとこうして口を開いたのに。余裕の笑みで挨拶も先を越され、今こうして己の爆発しそうな想いすら、冷ましてしまおうと言うのか。
認めない。そんなの認めない。
「色々だなんて、そんな小さい言葉で片付けようというの? 私は……私はねぇ……」
「でもさ」
――ああ、またか。またしても遮られた。手足をもがれたような感覚を覚えながら、仕方なく言葉を待った。
相手の顔は、少し濃くなった霧のせいであまり見えない。だけど、唇がそっと開くのは分かった。美しさすら覚える。
「私は、何とか……またどっかで、お話できたらいいなって。だって、あのままお別れなんて、寂しすぎるじゃない」
何一つ、荒い言葉も語気も用いていないのに、彼女の言葉が鋭く胸を抉った。呼吸が乱れる感覚が、ちょっぴり懐かしい。
「さ、寂しいって……あなた、本気で言ってるの?」
「どうしてそう思うの?」
「だ、だって! ……だって、私は……わたし、は……」
喉に詰まった言葉を取り除くように、咳払い。だけど咳は出なかった。
目の前の彼女は未だ、穏やかな顔でこちらを見ていた。その顔には、欠片ほどの怒りも、恨みも、軽蔑もない。それが逆に言葉を鈍らせる。
いつか、いつか言ってやろうと思って溜め込んだ言葉達が、今口から出ることもなく腐ろうとしている。頭を振って、必死に口を開けた。
「……私は! あなたに、あんなにひどいことを言って……あなたも言い返して、それで……毎日一緒だったのに……それきり……」
「……」
「絶対に許してくれないだろうから……だから、私も許さないことにしたの。ずっと、ずっと……仲直りなんて、してやるもんかって」
あれからずっと、笑う気になれない。だけど、涙も出ない。
「……そう」
彼女の言葉は、それだけだった。瞬時に、煮詰め続けた想いが再び沸点に達する。
「そうって何よ! 一人だけなんでもないような顔して! 言えばいいでしょう!? あんたなんか、大嫌いだって!!」
大声なんて、何百年ぶりに出しただろうか。いつも苦しかった喉に更なる負担がかかり、今度こそ咳が出た。
「げほ、げほっ……ぐっ」
「大丈夫?」
温かい感触が背中に走る。苦しかった呼吸が段々と楽になっていく。背中に、彼女の手が乗っていた。
「や、やめてっ……」
昔のように自らを癒したその手を払い除ける力は、あまりに弱々しかった。
「私の、ことば……」
「うん、聞いてた。えっと、その……なんていうか。ごめんなさい」
「……は?」
「私のせいで、ずっと悩んでたみたいだから。謝らなきゃ、気が済まないわ」
呆然としてしまった。何故謝る必要がある。何故、ここまで言われて恨み節の一つも出てこない。
――何故、そんなにも優しい顔が出来る。
「……やめてよ……やめてよ、そんなの……」
「なんか、勘違いしてるみたいだから……言うけど。私、その、全然……恨んだりだとか、嫌いだとか、そういうの、ないの。むしろずっと、なんで会いにいかなかったのかなって」
「そん、なの……」
「嘘じゃないわ。だって今も同じだから。あなたの中じゃ、私がどうなってるのかは分からないけど……少なくとも、私は。私は、自分が悪いって思ってた」
――何を言っているんだ。
彼女の紡ぐ言葉のひとつひとつは、自分にとってすれば到底信じられない。
絶対に嫌われていると思っていた。きっかけなんて覚えてない。幾千もの言葉のナイフを放るだけ放って、無我夢中で飛び出して。そのままずっと、会わずじまい。昨日までの甘く優しい日々を全て捨て去り、心の奥底へ封印したあの日。
だったらと、自分の方も嫌ってやった。もしどこかで会ったなら、もう一度同じ数の罵倒をぶつけてやる。喧嘩はまだ終わってない。
そう、思っていたのに。彼女は優しい顔を――あの日々と何も変わらない、好きで好きでたまらなかったあの顔をしている。
「だから……んん、なんて言ったらいいのかしら……」
彼女は困った顔になり、左右に視線を散らしながら必死に探している。目の前の相手に、赦してもらうための言葉を。
「なんで……どうしてよ……?」
結局のところ、喧嘩を続けていたのは自分だけだった。相手はとっくに、自分のことを赦してしまっていた。
――何もかもを赦してしまう優しさ。その前では、とても言えない。
自分が、それからどうしていたのか。
――後悔して、後悔して、来る日も来る日も涙に暮れて。
碌に食事もとらずやせ細った自分を心配してくれた従者に八つ当たりを繰り返し。
それでも付き従おうとする彼女を無視しながら、全てを忘れようと自分の部屋に閉じこもって。
心も態度も棘だらけの自分にわざわざ歩み寄っては、怪我をしていった者達に冷たい視線を送り。
年の単位が付く程の時間をかけて立ち直った自分に対して、誰一人として怒りもせず取り囲んで喜んでくれた者達にまた涙して。
そんな日々を思い返しては、何故心配してくれた家族達にと逆恨みの刃を延々研ぎ続け。
そして今、とうとう再会したその相手。積もり積もったネガティブな言葉の数々を束にして、その人形のように綺麗な横っ面を張り飛ばしてやろうと考えていた。
そんなの、言えない。
「……」
そして、訊けない。自分がどろどろの感情を溜め込んでいたその百年単位の長い時間。
『あなたは、それから何をしていたの?』。
「うん……その、ね。あなたはもう、私なんて……き、嫌い、かも知れないから。だから、言わない方がいいのかも知れないけど」
「!!」
迷いながらのその言葉だけで、分かった。彼女が何を言い出そうとしているのか。
当然だ。あれだけ長い間一緒にいたパートナーなのだから。
当然だ。本当は今でも、彼女のことが――
「や、やめて……」
弱々しいその言葉を、目の前の彼女は首を横に振ることで跳ね退ける。
「ううん、もう我慢できない。ごめんなさい、言わせて」
「だめよ」
「私……わたし、昨日までずっと。ううん、今の今までずっと思ってた。それが、やっと叶って嬉しいの。だからね……」
「やめてったら!!」
「――今でもあなたが好き! ずっと会いたかった……パチュリー……」
世界に、無数のヒビが入っていく。綺麗なガラスを砕くように、曇って、濁って、滲んでいく。
純粋すぎるその告白は、彼女の――パチュリー・ノーレッジの中にあった何かを、ぶつりと断ち切った。
「――やめてって……言った、のにぃ……」
限界は、呆気なく訪れた。どばっと溢れた涙が、もう二度と濡れることはないと思っていた頬を伝っていく。
言うつもりだった言葉の数々が、心の中で砕ける音がした。
「……ごめん、なさい……あなたの気持ちも考えないで……」
霧と、涙と。曇りガラスのようになった世界の真ん中で、彼女はまたしても謝っていた。
やめてくれ。誰に訊いたって、彼女が悪いと思う者はきっといない。
「二度と会えないかも知れなかったから。だから、こんな所でもう一回あなたに会えたのが、嬉しくて……そのあと何を思われたって、言わなきゃ絶対、後悔するって……」
「そんなこと、言わないで」
自分自身で心底驚くほど、明朗とした声が出た。それはきっと――己に嘘をつき続けた日々に、ようやくピリオドを打てたから。
本当に、本当に言いたい言葉を、やっと言えそうだったから。
「……ぜ、ぜんぜん、かわって、ないのね……いつもそうだった。あなたはそうやって、わ、私を……甘やかして、ばっかり……」
「……パチュリー……」
「あ、あなたから……もう一回、名前を呼んでもらえるなんてね」
先と一転、すっかり涙で濁った声を震わせて、己の奥底からひとつひとつ、言葉を掬い上げていく。
躊躇いなく、心の奥底に封印した筈の箱を紐解いた。途端に心の隅々まで溢れ出る、懐かしい思い出達。彼女の前では、素直に笑える自分がいた。自分のあらゆる行動に、笑顔を返してくれる彼女がいた。
何をしても笑って許してくれるあの優しさに、またしても負けてしまった。だけど、それで良かった。
(喧嘩は……やっぱり、私の負け)
ふぅー、と長い息をついて、顔を上げた。涙を浮かべながらも、その表情はとても明るい。そして今、その名前を呼ぶことで、この悪夢のような悲しい日々に、別れを告げることにした。
「結局、あなたには勝てないのね。認めるわ……私も大好きよ、アリス」
――さようなら、『それから』の私。
その白旗宣言を、彼女は――アリス・マーガトロイドは、ゆっくりと目を細めて聞いていた。同じように、その目には涙が光っている。
「……ありがとう」
「私の台詞、もってかないでよ」
「よ、よく分からないけど、私の勝ちなんでしょう? なら、賞品にもらっていくわ」
「ああ、やっぱりダメ……アリスには敵わない」
「そんなの、引き分けでいいじゃない」
「だからよ」
あの頃の日常だった、こんなどうでもいいような会話が、泣きたいくらいに愛おしい。叶うのなら、いつまでも続け。
けれどそうもいかなくて、パチュリーはため息と共に呟いた。
「……でも、そろそろかしらね」
「ええ……続きは、またあとでね」
「うん」
互いに頷くと、揃って何もない――正確には、霧が立ちこめてよく見えない、一見何もなさそうな方向を見やる。
「――今さ、この仕事やってて本当に良かったって……心の底から思ってるよ」
不意に、霧の中から声が聞こえた。無論、二人のどちらでもない。目を凝らせば霧の向こうに、その第三者の物であろう、背の高い輪郭が見えた。
こつ、と足音のような音が響いたのを合図に、二人は顔を見合わせる。
「じゃあ、行きましょうか」
「あ、その……最後に、いい?」
「どうしたの?」
揃って歩こうとしたところにそう言われ、アリスは足を止めた。
少しだけ言い辛そうに口ごもった後で、パチュリーは何かを飲み下すように、ぐっとタメを作ってから口を開く。
「あなた……それから、一度でも泣いたことはあったの?」
それは、ずっと溜め込んだ挙句どこかへ投げ捨ててしまった、沢山の言葉の代わりになる質問だった。
するとそれを聞いたアリスは、ゆるりと首を横に振る。
「あなたらしくもないわ、パチュリー。その質問は非効率的よ」
「?」
珍しく懐疑的なパチュリーを見て、彼女は何故かとても嬉しそうに、ゆっくりと笑みを浮かべながら言った。
「そこは、こう言わなくちゃ――『それから、泣かない日はあったの?』ってね」
――そして彼女は、笑いながら泣いていた。優しい笑顔のまま、ぽろり、ぽろり、と涙をこぼすアリス。
「……答え、聞きたい?」
本当は早く、その涙を止めてあげなければならないのに。どうしても、その泣き顔に見とれてしまう自分がいる。
否定の返事の代わりに、パチュリーはそっと手を差し伸べた。
「ほら、いつまでも泣いてないで。人を待たせるなんて、それこそあなたらしくもない」
当然、その手を取ってくれると思っていた。ほんの短い距離だけれど、またあの時のように手を繋いで歩けると。
アリスは少しだけ考え、そっと手を――正確には、両腕を伸ばした。そして、その手の温もりを待ち続けているパチュリーの手を素通りし――
「……!」
「えへへ。行きましょう……ね?」
――伸ばしたままの、彼女の腕を捕まえて胸元まで抱き寄せた。
息を呑むパチュリーに、アリスは悪戯っぽく笑った。ぎゅっと力を込められると、融け落ちそうなくらいに柔らかく、温かい。小さく頷いて、彼女はアリスを引っ張るようにして歩き出した。
距離にして、ほんの十数歩。その短すぎる旅路が、それから何百年も開きっぱなしだった心の穴をあっと言う間に埋めていく。視線を少し横に向けるだけで見える笑顔。腕から伝わる体温。本当はずっとずっと、欲しくてたまらなかったもの。
やがて二人は、揃って足を踏み出した。
「……行こうか」
輪郭しか見えない、誰かの声がまた聞こえた。すぐに動き始める、霧に覆われた周りの景色。
その時だった。
「あ……」
不意に聞こえたアリスの声が、幸せに浸るばかりだったパチュリーの意識を呼び戻した。横を見れば彼女は下を向いていて、その視線を更に追うと――いつか彼女が一番お気に入りと言っていたブーツのつま先が、見えなかった。
まるで霧に溶けて流れていくように、つま先が、踵が、ゆっくりと色を失って、雲散霧消していく。
(ああ、これまでか……ううん、十分。むしろよく保った。頑張ったわね、私もアリスも)
パチュリーもため息をついた。下を向いたその目は、もう見えなくなった自分のつま先の輪郭をなぞるように足下の木目を見つめている。
急に、腕が寒くなった。アリスが腕を解いたのだ。しかし彼女は離れることなく、改めてパチュリーの両手を正面から握り締める。
もう、足首から下がない。
「ねぇ……」
「うん」
何かを尋ねようとしたらしい彼女の言葉を遮り、パチュリーはそっと指を絡めるようにしてその手を握り返す。
軽く手を引くと、更に距離が縮まった。密着した胸から、相手の鼓動が聞こえそうなくらい。
息のかかる距離で、アリスの目を見つめる。吸い込まれそうな、澄み切った蒼の瞳。彼女もまた、パチュリーの目をじっと見つめ返した。
霞と消えた、胸から下の身体。そして今、互いに握り締めた指先すらも溶けていく。それにも気付かないくらい、ひたすらに見つめ合った。
何度生まれ変わっても、その瞳の色を忘れないように。
「……」
どちらからともなく、ゆっくりと顔を近付けて――朧月に映る影が、そっと一つに重なった。
(まー、あのお方なら二人を引き裂くような野暮はしないさ。ここで時間切れみたいだから、続きは向こうでゆっくりやんなよ)
『もう一人』から『ただ一人』になりつつある彼女は、頬をほんのり朱に染めながらも見て見ぬ振りを貫いた。
「……おつかれさま」
誰にともない呟きが、川のせせらぎに掻き消える。
二人だった『影』を乗せた小舟は、音もなく進んでいき――やがて、霧に溶けて見えなくなった。
なんだろう、スッキリとした死ネタ、みたいな。
こういうのも、嫌いじゃあないな。
どっちがどっちの台詞を言っているのか分かり辛いところがあったのが少し残念。
ふわりと溶けていくようなラストが好きです。
あなたとわたしの『これから』が、どうか素敵なものになりますように。
二人の「これから」は一生、続くものであってほしいです。
しかしあの死神もたまにはいいことしますね。
少し見直しましたよ。
良い作品でした。