手痛いミスだった。
「あ、美鈴――」
声をかけてから間違いに気づいた。恥ずかしさここに極まり。
廊下を曲がろうとしていた赤髪の少女は、咲夜の呼びかけに気づき、くるりと振り返った。
満面に意地悪い笑みをたたえながら。
後ろ手を組みながら咲夜に近づいてくる。足が地面を蹴るたびに『ランラン』という音が聞こえてきそうなほどの軽い足取りだ。
「咲夜さん、こんにちわ」
上目づかいで挨拶をされる。
咲夜はつんと澄ました顔で応えた。瀟洒に大事なのは、間違えてもいえいえ言葉の綾です的なオーラを放出し続けることだ。
「間違えちゃいますよね。私も美鈴さんも赤髪ですし」
そう言って、赤髪の少女――小悪魔はにんまりと笑った。だてに名前に悪魔を冠していない。いやらしく揚げ足を取ってくる。
このままではこちらの分が悪い。ならば話題変換が妥当であろう。
咲夜の脳は高速回転で答えをはじき出し、ずぐさま言葉を口にした。
「あなたが図書館の外にいるなんて珍しいわね」
ここは紅魔館のエントランスホールに続く廊下だ。図書館とは逆方向である
小悪魔は笑みを薄めて、代わりに寂しさを口もとににじませた。
「そうでもないんですけどね。でも確かに、図書館以外の場所では咲夜さんにあまり会いませんね」
咲夜は歩き出した。小悪魔も並んでついてくる。
なんてこったい。
時でも止めて振り切ってしまおうか。いやしかし、話している途中にいきなり消えられるのはすごく傷つく、と美鈴がつい先日言っていた。咲夜さんは私の心にもナイフを投げるのですか、と。
比喩表現はよくわからなかったけど、まあ、与えるダメージが大きいということを言いたいのだろう。ならここは耐えるか。
「これから人里に行くんです」
小悪魔が言った。「紅茶の葉っぱを切らしちゃって」
行き先が一緒だった。咲夜は相手に気づかれないようにため息をついた。
「そうなの? 私もよ。夕飯の材料を買いにね」
廊下の窓から外を見る。ちぎれ雲を引きつれた太陽はまだ南の空にいる。きっと時間はお昼の一時を少し過ぎたくらいだろう。
だけど、食材は早いうちに買わなければ売り切れてしまうのだ。
「今夜はなんですか?」
「あなたはなにがいいの?」
「甘いにんじんと目玉焼きの乗った特大ハンバーグ!」
子供か。
小悪魔の目はきらきらと輝いている。だけど「考えとくわ」と答えた途端、表情を暗めた。
子供か。
「――目的地が同じなら、一緒に行きませんか?」
エントランスホールが見えてきたとき、小悪魔が言った。
「そうねぇ」
「行きましょ行きましょ!」
嬉々として咲夜の体を揺すってくる。
これはなにを言っても無駄かもしれない。それに断ったら、さっきの美鈴との見間違いを誰かに言われてしまうかもしれない。
ならば――
「――わかったわ」
小さくうなずいた。小悪魔には荷物持ちでもやってもらおう。
「ならレッツゴーです!」
小悪魔は満面の笑顔で咲夜の手をにぎり、駆け始めた。転びそうになったところで慌てて足を踏み出し、相手のスピードに合わせた。
大変な日になりそうだな――。咲夜は本日二回目のため息を吐いた。
門を通るとき、小悪魔が美鈴に「さっき咲夜さんが私を美鈴さんとまちが」とまで言ったところでさすがに拳骨を落とした。美鈴はきょとんとしていた。
◆ ◆ ◆
正直にいえば、咲夜は小悪魔と一緒に出かけたくなかった。
気まずいのだ。
なにせ、咲夜と一番つながりの薄い紅魔館の人物は小悪魔なのである。
レミリアは主。美鈴に面識のある仕事仲間。妖精メイドは直属の部下。フランドールは主の妹。パチュリーは主の親友。門番隊は仕事仲間の部下。
そして――小悪魔は、主の親友の使い魔である。
血縁でたとえるなら、みながみな二親等以内なのに、小悪魔だけは三親等なのである。
加えて、彼女とは紅魔館のなかでも会うことがほとんどない。会話をした回数など数えられてしまう。
そんな人物だからこそ、咲夜は嫌だったのだ。
会話なぞ続けられる自信はない。重い空気がふたりを取り巻くことが目に見えていたのだ。
なのに――
「ほら咲夜さん、あっちからいい匂いがしますよ!」
なぜ彼女は、万年来の友達のように腕を組んでいるのだろう。
半ば引きずられるような形で小悪魔の歩く方向についていく。
「お饅頭ですね! うわ、揚げてる! 美味しそうです! 実は私、ご飯まだなんですよ!」
それはさっき聞いた。三回は聞いた。もしかしたら四回目かもしれない。
「あっちはなんでしょうね」
また引きずられていく。誰か助けて……。
小悪魔と歩いた人里までの道中で、会話がやむことなどほとんどなかった。
ずっとしゃべり通しである。もちろん、小悪魔が。
咲夜はときおり相槌を打つ程度だったが、彼女はずっとずっとじゃべっていた。
本の整頓がすっごく面倒くさいこと。レミリアはこっそり外の世界の恋愛小説を借りること。フランドールに貸した絵本がいまだに返ってこないこと。つくった紅茶に砂糖ではなく塩を入れてしまって、パチュリーからを本気で怒られたこと――。
人間が十年間でついやす言葉を、小悪魔はわずか数十分で消費したように思えた。それだけ止まらなかったのだ。
でも、咲夜が一番驚いたところはそこでない。
話しているあいだ、小悪魔がずっと笑顔だったことである。
どうしてそんなにうれしそうなのだろう――。
咲夜は疑問に思うと同時に、少し嫉妬していた。
はたと小悪魔が足を止める。今度はなんだと恐ろしい気持ちで彼女の視線の先を追った。
ひとりの少女がいた。年は十に満たないような女の子。両手で顔をおおうようにして泣いていた。
「……迷子ですかね」
小悪魔がぽつりと言った。
「でしょうね」
少女はSOSを泣き声に変えて発信し続けていた。しかし、通りすぎる人々は少女に憐憫のまなざしを向けるものの、SOSに応える者はいない。
突然のことだった。小悪魔が咲夜から腕を解いて、マフラーを揺らしながら少女へと歩いていったのだ。まるでそこにしか道がないかのような毅然とした歩き方だった。
咲夜は遠くでぼんやりと見ていた。
小悪魔は少女のところに辿りつくと、かがんで視線を合わせた。そして、少女の被りもののようなおかっぱ頭を優しく撫でた。
ふたりがなにかを話している。少女がこくりとうなずくと、小悪魔が相手の首にマフラーを巻き、手をぎゅっとにぎってこちらに歩いてきた。
「――すみません、咲夜さん」
小悪魔が苦笑いを浮かべる。少女は頬と目もとを赤々と染めている。
「どうするの、その子?」
咲夜が平らな声で言った。「迷子なんでしょ?」
「はい。だから一緒に親を探してきます」
「そう」と短く返事をし、「なら、私はあそこのベンチで待ってるわね」と小悪魔に背を向けて、そそくさとベンチに向かって歩き出した。
茶屋の前のベンチには誰も座っていなかった。咲夜が座る。ひんやりとした冷たさがお尻に伝わる。
さっきの場所に目を向けると、もうそこには少女と小悪魔がいなかった。
ふーと息を吐く。白色のそれはたちまちのうちに霧散した。
――手伝ったほうがよかったかな。
今さらの気持ちが湧いてくる。でも、そんな良心的な気持ちが湧いてきたこと自体が驚きだった。
小悪魔の行動が理解できなかったのだ。
あの少女は泣き続けていた。きっとお母さんとはぐれてしまったに違いない。
しかしここは人里だ。妖怪に襲われることもなければ、そんなに広いわけでもない。迷子が契機に死別することも一生の別れになることもないだろう。しばらくしたら母親が現れるのだ。
なのになんで――
咲夜は自分の態度が冷淡であることは知っている。『助ける』の反対は『冷たい』なのだ。
それでも、理由を求めて動けなかった彼女である。
往来を眺める。咲夜は首に巻いていたマフラーをゆるめた。そこで、少女に目をやりながらも通りすぎた人々のことを思い出した。
咲夜は北風のように冷え切った笑みをこぼした。悪魔が人助けをして、人間が無視をする。
この世界に温かいものなんてあるのだろうか……?
◆ ◆ ◆
鼻のてっぺんを赤くした小悪魔が現れたのは、時計の長針が十回ほど動いたときだった。
彼女は袋も抱えていた。たぶん茶葉も買ったのだろう。
「無事、送り届けたの?」
「はい」
そう言って小悪魔が笑った。と思ったら、急に腕をつかまれて咲夜はぎょっとした。
「あっちにクレープ屋さんがあったんです」
ぐいっと引っ張って立たせた。「一緒に食べましょう」
ずんずんと進む。もう咲夜に選択権はなくなっていた。
ぎゅっとつかまれた右腕には小悪魔の温かさがある。
クレープ屋の前につくと、彼女は胸を張った。
「好きなのを頼んでいいですよ。今日は私が奢りますから」
「いいわよ。申し訳ないわ」
「いいんです。さっき待たせてしまいましたから」
このあともふたりは問答をくり返した。しかし結局、小悪魔の「奢らせてくれないと私を見間違いたことをみなに公表する」という脅し文句によって問答は終結したのだった。
「なににしますか?」
咲夜はメニューを見つめる。こうやって買い食いすることなどないから、ついつい迷ってしまう。
眉を八の字にしながら「うーん」とうなる。小悪魔は楽しそうに笑っていた。
咲夜は唇をとがらした。
「なに笑ってんのよ」
「真剣に悩んでいる姿が女の子みたいです」
身長はこちらのほうが高いのだ。それにハンバーグくらいで大喜びしないのだ。なのに女の子と言われるのは心外だった。
「じゃ、じゃあキャラメルで」
つんとしながら口を開く。すると、小悪魔が「じゃ、同じもので」と言った。
店員が愛想よくうなずくと、さっそくつくり始めた。生地はできているらしく、あとはトッピングをするだけらしい。
「……ところで、あなた奢る分のお金持ってるの?」
「もちろんですよ」
小悪魔が鼻高々にポケットからがま口を取り出した。なかに指を入れて硬貨を数え出す。
「……あっ」
彼女が声をもらすのとクレープが出てきたのはほぼ同時だった。
咲夜は苦笑しながら自分の財布を取り出した。
「す、すいません」
うなだれながらベンチに座る小悪魔。さっきまでの快活さはどこにもない。それでも片手でクレープをしっかり持っているさまはなんだか面白かった。
隣の咲夜が言った。
「そんなに気落ちしないの」
「でも……奢ると言った手前、お金がなくてむしろ奢ってもらうなんて、恥ずかしいです……」
寒い風にあてられて紅潮した頬は、羞恥でいっそう赤みを増していた。
咲夜はなだめながらクレープにかじりつく。生クリームの甘みとキャラメルのほろ苦さが口に広がった。
「クレープ美味しいわよ。食べましょう」
「はい……」
小悪魔も力なくかじり出す。しかし口に含む量が少なすぎて、『ついばむ』という表現のほうが似合っていた。
らしくないなぁ。
咲夜はつまらなそうな顔をする。この子は笑っていないといけないのだ、と心の片すみで思った。
よし、と決意してメイド服のポケットに手を入れた。
「小悪魔」
「なんでしょう?」
小悪魔が顔をあげる。その瞳は深いふかい穴ぼこのように暗かった。
咲夜がポケットから出したのは愛用の懐中時計と一枚のコイン。懐中時計を相手に渡した。
目を丸くしながら訊ねてくる。
「ど、どうしたんですか?」
「いいから持ってなさい。私は懐中時計がないと時を止められないの。つまり、これから私は生身の人間としてあなたにお披露目するわ」
そう言って、コインを相手に見せた。表には異人の横顔。裏には数字が刻まれている。
「宣言するわ。このコインで表が出たとき、あなたは絶対に笑顔になっている」
自信に満ちみちた声で言った。顔には余裕の笑みが貼りついている。
小悪魔がくすりと笑う。
「自信たっぷりですね。でも、笑わなかったらどうするんですか?」
「それはありえないわね」
「じゃあ裏が出ちゃったら?」
「それもないわ」
さすがの自信に小悪魔も真剣な顔になった。
咲夜がコインをはじく。左の手の甲と右の手のひらでキャッチする。小悪魔はそこを注視していた。
右の手をどかす。すると、
「……えっ?」
と、小悪魔が驚嘆の声をもらした。
そこにコインはなかった。咲夜は両手を相手に見せる。裏も表も。しかしコインはなかった。
出し抜けに、咲夜は小悪魔の胸ポケットに手を伸ばした。
半分に割れたコインが出てきた。
小悪魔が目を剥いた。おずおずと自分のポケットをまさぐる。
そこで咲夜が困った顔をした。きょろきょろとあたりを見回し、もう半分を探し始めた。
しかし次に納得したように手を打った。右手で小悪魔の持っているクレープの紙を優しくにぎる。
右手を離し、相手の前でゆっくりと開く。
コインの半分があった。
小悪魔は自分のクレープをしげしげと眺めた。
咲夜はふたつのコインのかけらを右手でにぎり、ぐっと一回力を入れた。
甲を上にして、右手をベンチの上で開く。
ちゃりんと音を立てながら、ベンチに元通りになったコインが落ちた。
咲夜はうやうやしくお辞儀をした。
「すごい! すごいですね!」
小悪魔が頬を上気させながら拍手をしている。あまりにも大きな音なので人々が何事かと見てくる。それが少し恥ずかしかった。
「最初にも言ったとおり、これは能力を一切使っていないわ」
「とってもカッコよかったです!」
なおも笑顔で褒め続ける。彼女の声には熱がこもっている。
咲夜も頬をほんのり赤くしながら言った。
「だから言ったでしょ。あなたは笑顔になるって」
ベンチの上のコインは表だった。
◆ ◆ ◆
クレープをすっかり食べおえた小悪魔が言った。
「美味しかったですね」
口の端にクリームがついていた。咲夜がハンカチでぬぐうと照れくさそうに笑った。
「そうね」
「今度、紅魔館でもつくってくださいよ」
「いいけど、期待しないでちょうだい。たぶんこんな美味しくはできないわ」
「そんなことないです。咲夜さんの料理は全部美味しいです」
不思議だな、と咲夜は思う。最初はマイペースなこの子に閉口したのに、今では会話すると心がふわりと温かくなる。笑顔を見ているだけで幸せの一かけらが胸に沁みていくようだ。
小悪魔という少女には、そういう力があるに違いない。
しばしの無言ののち、
「――あの子、どうしてるかな」
と、小悪魔がぽつりと言った。
人里に落ちたその呟きを拾う者は、もちろん咲夜以外いなかった。
「お母さん見つかったんでしょ? なら心配することないじゃない」
「もちろん心配はしてないんですけど。なんだか気になりまして」
「変なの」
「変ですか」
「ほどほどに変ね」
「ならまだ普通ですね」
彼女の言葉はどんどんこぼれ落ちていく。咲夜は必死に拾うのだけど、言葉はなぜか重みを増していく。そのうち拾えなくなるんじゃないかという危惧を胸に抱いた。
「あなたにも親とかいるの?」
咲夜は言った。ふわりと浮かんだ考えが口から出ていた。
小悪魔がいつもの笑みでこともなげに答えた。
「いませんよ。パチュリー様に喚び出されて初めて生まれた存在なんです、私は。だから血のつながった人はいません」
「……ごめんなさい」
「謝らないでくださいよ。気にしていませんから」
小悪魔が快活に笑う。確かにその笑いは、慰めの情も卑屈さもなかった。
「あなたはよく笑うわね」
「知らないのですか? あったかいものをたくさん持っている人は笑うんですよ」
「へえ、小悪魔はなにを持ってるの?」
「家族です」
咲夜は怪訝な顔をした。小悪魔は、自分の渡したびっくり箱を開けた人を見たような、得意げな顔だった。
「でもさっき、血のつながった人はいないって……」
「はい。だけど家族はいるんです」
小悪魔は言葉をつむぐ。
「パチュリー様に喚ばれて、紅魔館にやってきました。頭には生活の最低限のことしか詰まってなくて、毎日毎日が発見でした。
まあ、世間からしてみればどうでもいい発見ばかりでしたけどね」
パチュリー様は無口で、お嬢様は傲慢で、妹様は怖くて、美鈴さんは愛嬌があって、咲夜さんはしっかりしていて、妖精メイドは抜けてて、門番隊は熱血で――。
咲夜と小悪魔は目を合わせてふふっと小さく笑った。
「いっぱい人に囲まれて育ちました。
だけどわからないこともあった。わからないことのほうが多かった。抽象概念がそうです。それのひとつが、『家族』でした。
何度も言うように、私は血縁関係が誰ともありません。だから、きっとこの紅魔館でどこか孤独を感じながら生きるしかないのだろうとずっと思っていました」
あの異変が起こるまでは――。
喧騒が遠くなって、小悪魔の声が近くなった。
「お嬢様の起こした『紅霧異変』。あのとき、みんながひとつの目標に向かって頑張ったんです。館内に侵入した巫女と魔法使い撃退を目指して。
なにくそと躍起になって、体面なんて気にしないで、でも最後はみんな負けちゃって。
負けちゃったあとのこと、私は生涯忘れません」
咲夜は目をつむり思い返す――。
『お疲れ』
紅魔館のメンバーがそろった部屋で、レミリアが言った。
みながみな、負けたというのに満足そうだった。傷だらけになりながら満たされていた。
『ひとつだけ、訊きたいの』
レミリアが全員の顔を見回す。
『みんな、紅魔館は好き?』
その瞬間、部屋にいる全員が顔を見合わせた。
そして――
照れくさそうに笑ったんだ。
「――すべてが愛おしくなりました。みんなを抱きしめたくなりました。
だから、私はいつでも笑えるんです」
小悪魔が言った。笑っていた。
咲夜は今日を振り返る。接点がないと思っていた小悪魔が親しげだったこと。どうでもいいことを嬉々として語っていたこと。
ごめん――。
咲夜は声に出さずに謝った。
ごめん。そして、大好きだ。
「……でも、こういうのって単純ですかね」
小悪魔がちょっぴり寂しそうに言った。「家族って、もっと違うんでしょうね」
その言葉は、拾えないくらいの重さだった。だけど拾ってあげなきゃいけないんだ。
咲夜の口が動かない。どうして、どうして……。
小悪魔が立ちあがった。うーんと伸びをする。そして、咲夜の腕をつかんだ。
「さあ、行きましょう! 夕飯の買い物がまだでしょう?」
彼女の顔にはいつもの笑顔。
咲夜はふがいなかった。
これでいいのか?
自問する。これでいいのか?
このまま、引っ張ってもらうだけでいいのか?
唇をぎゅっと噛みしめた。
そのときだった。小悪魔が止まった。
「――あっ、お姉ちゃん!」
舌足らずの声。とてもうれしそうだった。そちらを見る。
目の前には、さっきの迷子になっていた少女がいた。隣には大人の女性が立っていた。少女の母親だろう。ふたりはしっかと手をつないでいる。
「先ほどはどうも。ご迷惑をかけました」
母親が頭をさげた。小悪魔は慌てて頭を振る。
「い、いえ、そんな大それたことは……」
満面の笑みの少女が小悪魔の足に飛びついた。彼女はかがんで頭を撫でてあげた。
咲夜はつくねんと立っている。自分は外側なのだろうと考えていた。
「さっきはありがとうね」
「大丈夫だよ。でも今度からお母さんと離れちゃいけないよ」
「うん。それとね、あの揚げてあるお饅頭美味しかった。ありがとう」
小悪魔は少女の髪の毛を梳くように撫でている。
そういうことか、と咲夜は合点した。だからクレープを買うお金がなかったのか。
どんだけ人にものを奢るんだ。そのがま口のなかのお金はあなたのものだというのに。
小悪魔がすっと立ちあがった。そして、ぺこりと母親に頭をさげる。
母親はしとやかな笑みを浮かべていた。
「ふたりとも仲がいいのですね」
「きっとこの子は物怖じしない子なんでしょうね」
「違いますよ。小悪魔さんとお隣のメイドさんのことです」
いきなりお鉢の回ってきた咲夜は驚いた。小悪魔もきょとんとしている。
「だっておふたりさん、腕を組んでいたじゃないですか」
頬が熱くなる。恥ずかしいところを見られてしまった。
なんか言おうかと咲夜が口を開いたとき、
「姉妹なんですか?」
と母親が言った。
どうして、と思った。顔だって全然違うし、髪の色も違うし、種族だって違うんだ。なのに、なんで姉妹なのだ。
ほんと、どうしてだろうね。
なんで小悪魔はそんなうれしそうな笑顔を浮かべているんだろう。なんでそんな欠けていたものが満たされたような顔をしているんだ。
彼女と目が合った、幸せそうな笑い顔だった。
――そうね。あなたは、あったかいものをたくさん知っているものね。
だから迷子のこの子を助けたんだ。
咲夜は少女を向いた。そして、視線を相手と合わせるためにかがんだ。
少女が少しこわばった顔をする。その瞳は、長い年月をかけて清澄な川の底で洗われたように澄んでいた。
私もきっと、小悪魔みたいに笑えたら、この子を抱きしめてあげられるのだろうな――。
咲夜はおずおずと手を伸ばして、少女の頬に触れた。少女はくすぐったそうな笑みをこぼした。
思わず泣きそうになった。少女の頬がたまらなく温かったのだ。
親子が去っていく。母親は頭をさげた。少女は手を振っていた。
咲夜と小悪魔は手を振り返した。
姿が見えなくなるまで見送ったあと、ふたりは顔を見合わした。
「可愛かったですね」
「ええ、ほんと」
くすりとどちらからともなく笑った。
「――さあ!」
咲夜が突然声をあげた。そして、小悪魔の腕をつかんだ。ずんずんと引っ張って進んでいく。
「ちょ、ちょっと、咲夜さん……」
「ほら行くわよ。夕飯の材料を買いに。今日は紅魔館でパーティーを開きましょう。妖精メイドも門番隊も休みをもらって宴をしましょう」
そう言うと、小悪魔はしばらくぼんやりしていたが、「いいですね」と深くうなずいた。
今日は、みんなで楽しむのだ。飲んで踊って騒いで。よそのものに邪魔はさせない。
きっと、こういうのを『一家団らん』というのだろうな。
「夕飯に目玉焼きの乗ったハンバーグもつくるわよ」
「ハンバーグ!」
がぜん目が輝き出す小悪魔。じゅるりとよだれをすすった。
往来を横切りながら、
「……それと、たぶんね」
と、咲夜が言った。相手の目を見ながら言葉を続ける。
「私が姉で、あなたが妹ね」
「……はい!」
小悪魔が今日一番の笑顔を見せた。
ふたりは人里を突き進む。
咲夜はすれ違う人々に自慢したかった。
――今日ね、あったかいものを見つけたんだ。
「あ、美鈴――」
声をかけてから間違いに気づいた。恥ずかしさここに極まり。
廊下を曲がろうとしていた赤髪の少女は、咲夜の呼びかけに気づき、くるりと振り返った。
満面に意地悪い笑みをたたえながら。
後ろ手を組みながら咲夜に近づいてくる。足が地面を蹴るたびに『ランラン』という音が聞こえてきそうなほどの軽い足取りだ。
「咲夜さん、こんにちわ」
上目づかいで挨拶をされる。
咲夜はつんと澄ました顔で応えた。瀟洒に大事なのは、間違えてもいえいえ言葉の綾です的なオーラを放出し続けることだ。
「間違えちゃいますよね。私も美鈴さんも赤髪ですし」
そう言って、赤髪の少女――小悪魔はにんまりと笑った。だてに名前に悪魔を冠していない。いやらしく揚げ足を取ってくる。
このままではこちらの分が悪い。ならば話題変換が妥当であろう。
咲夜の脳は高速回転で答えをはじき出し、ずぐさま言葉を口にした。
「あなたが図書館の外にいるなんて珍しいわね」
ここは紅魔館のエントランスホールに続く廊下だ。図書館とは逆方向である
小悪魔は笑みを薄めて、代わりに寂しさを口もとににじませた。
「そうでもないんですけどね。でも確かに、図書館以外の場所では咲夜さんにあまり会いませんね」
咲夜は歩き出した。小悪魔も並んでついてくる。
なんてこったい。
時でも止めて振り切ってしまおうか。いやしかし、話している途中にいきなり消えられるのはすごく傷つく、と美鈴がつい先日言っていた。咲夜さんは私の心にもナイフを投げるのですか、と。
比喩表現はよくわからなかったけど、まあ、与えるダメージが大きいということを言いたいのだろう。ならここは耐えるか。
「これから人里に行くんです」
小悪魔が言った。「紅茶の葉っぱを切らしちゃって」
行き先が一緒だった。咲夜は相手に気づかれないようにため息をついた。
「そうなの? 私もよ。夕飯の材料を買いにね」
廊下の窓から外を見る。ちぎれ雲を引きつれた太陽はまだ南の空にいる。きっと時間はお昼の一時を少し過ぎたくらいだろう。
だけど、食材は早いうちに買わなければ売り切れてしまうのだ。
「今夜はなんですか?」
「あなたはなにがいいの?」
「甘いにんじんと目玉焼きの乗った特大ハンバーグ!」
子供か。
小悪魔の目はきらきらと輝いている。だけど「考えとくわ」と答えた途端、表情を暗めた。
子供か。
「――目的地が同じなら、一緒に行きませんか?」
エントランスホールが見えてきたとき、小悪魔が言った。
「そうねぇ」
「行きましょ行きましょ!」
嬉々として咲夜の体を揺すってくる。
これはなにを言っても無駄かもしれない。それに断ったら、さっきの美鈴との見間違いを誰かに言われてしまうかもしれない。
ならば――
「――わかったわ」
小さくうなずいた。小悪魔には荷物持ちでもやってもらおう。
「ならレッツゴーです!」
小悪魔は満面の笑顔で咲夜の手をにぎり、駆け始めた。転びそうになったところで慌てて足を踏み出し、相手のスピードに合わせた。
大変な日になりそうだな――。咲夜は本日二回目のため息を吐いた。
門を通るとき、小悪魔が美鈴に「さっき咲夜さんが私を美鈴さんとまちが」とまで言ったところでさすがに拳骨を落とした。美鈴はきょとんとしていた。
◆ ◆ ◆
正直にいえば、咲夜は小悪魔と一緒に出かけたくなかった。
気まずいのだ。
なにせ、咲夜と一番つながりの薄い紅魔館の人物は小悪魔なのである。
レミリアは主。美鈴に面識のある仕事仲間。妖精メイドは直属の部下。フランドールは主の妹。パチュリーは主の親友。門番隊は仕事仲間の部下。
そして――小悪魔は、主の親友の使い魔である。
血縁でたとえるなら、みながみな二親等以内なのに、小悪魔だけは三親等なのである。
加えて、彼女とは紅魔館のなかでも会うことがほとんどない。会話をした回数など数えられてしまう。
そんな人物だからこそ、咲夜は嫌だったのだ。
会話なぞ続けられる自信はない。重い空気がふたりを取り巻くことが目に見えていたのだ。
なのに――
「ほら咲夜さん、あっちからいい匂いがしますよ!」
なぜ彼女は、万年来の友達のように腕を組んでいるのだろう。
半ば引きずられるような形で小悪魔の歩く方向についていく。
「お饅頭ですね! うわ、揚げてる! 美味しそうです! 実は私、ご飯まだなんですよ!」
それはさっき聞いた。三回は聞いた。もしかしたら四回目かもしれない。
「あっちはなんでしょうね」
また引きずられていく。誰か助けて……。
小悪魔と歩いた人里までの道中で、会話がやむことなどほとんどなかった。
ずっとしゃべり通しである。もちろん、小悪魔が。
咲夜はときおり相槌を打つ程度だったが、彼女はずっとずっとじゃべっていた。
本の整頓がすっごく面倒くさいこと。レミリアはこっそり外の世界の恋愛小説を借りること。フランドールに貸した絵本がいまだに返ってこないこと。つくった紅茶に砂糖ではなく塩を入れてしまって、パチュリーからを本気で怒られたこと――。
人間が十年間でついやす言葉を、小悪魔はわずか数十分で消費したように思えた。それだけ止まらなかったのだ。
でも、咲夜が一番驚いたところはそこでない。
話しているあいだ、小悪魔がずっと笑顔だったことである。
どうしてそんなにうれしそうなのだろう――。
咲夜は疑問に思うと同時に、少し嫉妬していた。
はたと小悪魔が足を止める。今度はなんだと恐ろしい気持ちで彼女の視線の先を追った。
ひとりの少女がいた。年は十に満たないような女の子。両手で顔をおおうようにして泣いていた。
「……迷子ですかね」
小悪魔がぽつりと言った。
「でしょうね」
少女はSOSを泣き声に変えて発信し続けていた。しかし、通りすぎる人々は少女に憐憫のまなざしを向けるものの、SOSに応える者はいない。
突然のことだった。小悪魔が咲夜から腕を解いて、マフラーを揺らしながら少女へと歩いていったのだ。まるでそこにしか道がないかのような毅然とした歩き方だった。
咲夜は遠くでぼんやりと見ていた。
小悪魔は少女のところに辿りつくと、かがんで視線を合わせた。そして、少女の被りもののようなおかっぱ頭を優しく撫でた。
ふたりがなにかを話している。少女がこくりとうなずくと、小悪魔が相手の首にマフラーを巻き、手をぎゅっとにぎってこちらに歩いてきた。
「――すみません、咲夜さん」
小悪魔が苦笑いを浮かべる。少女は頬と目もとを赤々と染めている。
「どうするの、その子?」
咲夜が平らな声で言った。「迷子なんでしょ?」
「はい。だから一緒に親を探してきます」
「そう」と短く返事をし、「なら、私はあそこのベンチで待ってるわね」と小悪魔に背を向けて、そそくさとベンチに向かって歩き出した。
茶屋の前のベンチには誰も座っていなかった。咲夜が座る。ひんやりとした冷たさがお尻に伝わる。
さっきの場所に目を向けると、もうそこには少女と小悪魔がいなかった。
ふーと息を吐く。白色のそれはたちまちのうちに霧散した。
――手伝ったほうがよかったかな。
今さらの気持ちが湧いてくる。でも、そんな良心的な気持ちが湧いてきたこと自体が驚きだった。
小悪魔の行動が理解できなかったのだ。
あの少女は泣き続けていた。きっとお母さんとはぐれてしまったに違いない。
しかしここは人里だ。妖怪に襲われることもなければ、そんなに広いわけでもない。迷子が契機に死別することも一生の別れになることもないだろう。しばらくしたら母親が現れるのだ。
なのになんで――
咲夜は自分の態度が冷淡であることは知っている。『助ける』の反対は『冷たい』なのだ。
それでも、理由を求めて動けなかった彼女である。
往来を眺める。咲夜は首に巻いていたマフラーをゆるめた。そこで、少女に目をやりながらも通りすぎた人々のことを思い出した。
咲夜は北風のように冷え切った笑みをこぼした。悪魔が人助けをして、人間が無視をする。
この世界に温かいものなんてあるのだろうか……?
◆ ◆ ◆
鼻のてっぺんを赤くした小悪魔が現れたのは、時計の長針が十回ほど動いたときだった。
彼女は袋も抱えていた。たぶん茶葉も買ったのだろう。
「無事、送り届けたの?」
「はい」
そう言って小悪魔が笑った。と思ったら、急に腕をつかまれて咲夜はぎょっとした。
「あっちにクレープ屋さんがあったんです」
ぐいっと引っ張って立たせた。「一緒に食べましょう」
ずんずんと進む。もう咲夜に選択権はなくなっていた。
ぎゅっとつかまれた右腕には小悪魔の温かさがある。
クレープ屋の前につくと、彼女は胸を張った。
「好きなのを頼んでいいですよ。今日は私が奢りますから」
「いいわよ。申し訳ないわ」
「いいんです。さっき待たせてしまいましたから」
このあともふたりは問答をくり返した。しかし結局、小悪魔の「奢らせてくれないと私を見間違いたことをみなに公表する」という脅し文句によって問答は終結したのだった。
「なににしますか?」
咲夜はメニューを見つめる。こうやって買い食いすることなどないから、ついつい迷ってしまう。
眉を八の字にしながら「うーん」とうなる。小悪魔は楽しそうに笑っていた。
咲夜は唇をとがらした。
「なに笑ってんのよ」
「真剣に悩んでいる姿が女の子みたいです」
身長はこちらのほうが高いのだ。それにハンバーグくらいで大喜びしないのだ。なのに女の子と言われるのは心外だった。
「じゃ、じゃあキャラメルで」
つんとしながら口を開く。すると、小悪魔が「じゃ、同じもので」と言った。
店員が愛想よくうなずくと、さっそくつくり始めた。生地はできているらしく、あとはトッピングをするだけらしい。
「……ところで、あなた奢る分のお金持ってるの?」
「もちろんですよ」
小悪魔が鼻高々にポケットからがま口を取り出した。なかに指を入れて硬貨を数え出す。
「……あっ」
彼女が声をもらすのとクレープが出てきたのはほぼ同時だった。
咲夜は苦笑しながら自分の財布を取り出した。
「す、すいません」
うなだれながらベンチに座る小悪魔。さっきまでの快活さはどこにもない。それでも片手でクレープをしっかり持っているさまはなんだか面白かった。
隣の咲夜が言った。
「そんなに気落ちしないの」
「でも……奢ると言った手前、お金がなくてむしろ奢ってもらうなんて、恥ずかしいです……」
寒い風にあてられて紅潮した頬は、羞恥でいっそう赤みを増していた。
咲夜はなだめながらクレープにかじりつく。生クリームの甘みとキャラメルのほろ苦さが口に広がった。
「クレープ美味しいわよ。食べましょう」
「はい……」
小悪魔も力なくかじり出す。しかし口に含む量が少なすぎて、『ついばむ』という表現のほうが似合っていた。
らしくないなぁ。
咲夜はつまらなそうな顔をする。この子は笑っていないといけないのだ、と心の片すみで思った。
よし、と決意してメイド服のポケットに手を入れた。
「小悪魔」
「なんでしょう?」
小悪魔が顔をあげる。その瞳は深いふかい穴ぼこのように暗かった。
咲夜がポケットから出したのは愛用の懐中時計と一枚のコイン。懐中時計を相手に渡した。
目を丸くしながら訊ねてくる。
「ど、どうしたんですか?」
「いいから持ってなさい。私は懐中時計がないと時を止められないの。つまり、これから私は生身の人間としてあなたにお披露目するわ」
そう言って、コインを相手に見せた。表には異人の横顔。裏には数字が刻まれている。
「宣言するわ。このコインで表が出たとき、あなたは絶対に笑顔になっている」
自信に満ちみちた声で言った。顔には余裕の笑みが貼りついている。
小悪魔がくすりと笑う。
「自信たっぷりですね。でも、笑わなかったらどうするんですか?」
「それはありえないわね」
「じゃあ裏が出ちゃったら?」
「それもないわ」
さすがの自信に小悪魔も真剣な顔になった。
咲夜がコインをはじく。左の手の甲と右の手のひらでキャッチする。小悪魔はそこを注視していた。
右の手をどかす。すると、
「……えっ?」
と、小悪魔が驚嘆の声をもらした。
そこにコインはなかった。咲夜は両手を相手に見せる。裏も表も。しかしコインはなかった。
出し抜けに、咲夜は小悪魔の胸ポケットに手を伸ばした。
半分に割れたコインが出てきた。
小悪魔が目を剥いた。おずおずと自分のポケットをまさぐる。
そこで咲夜が困った顔をした。きょろきょろとあたりを見回し、もう半分を探し始めた。
しかし次に納得したように手を打った。右手で小悪魔の持っているクレープの紙を優しくにぎる。
右手を離し、相手の前でゆっくりと開く。
コインの半分があった。
小悪魔は自分のクレープをしげしげと眺めた。
咲夜はふたつのコインのかけらを右手でにぎり、ぐっと一回力を入れた。
甲を上にして、右手をベンチの上で開く。
ちゃりんと音を立てながら、ベンチに元通りになったコインが落ちた。
咲夜はうやうやしくお辞儀をした。
「すごい! すごいですね!」
小悪魔が頬を上気させながら拍手をしている。あまりにも大きな音なので人々が何事かと見てくる。それが少し恥ずかしかった。
「最初にも言ったとおり、これは能力を一切使っていないわ」
「とってもカッコよかったです!」
なおも笑顔で褒め続ける。彼女の声には熱がこもっている。
咲夜も頬をほんのり赤くしながら言った。
「だから言ったでしょ。あなたは笑顔になるって」
ベンチの上のコインは表だった。
◆ ◆ ◆
クレープをすっかり食べおえた小悪魔が言った。
「美味しかったですね」
口の端にクリームがついていた。咲夜がハンカチでぬぐうと照れくさそうに笑った。
「そうね」
「今度、紅魔館でもつくってくださいよ」
「いいけど、期待しないでちょうだい。たぶんこんな美味しくはできないわ」
「そんなことないです。咲夜さんの料理は全部美味しいです」
不思議だな、と咲夜は思う。最初はマイペースなこの子に閉口したのに、今では会話すると心がふわりと温かくなる。笑顔を見ているだけで幸せの一かけらが胸に沁みていくようだ。
小悪魔という少女には、そういう力があるに違いない。
しばしの無言ののち、
「――あの子、どうしてるかな」
と、小悪魔がぽつりと言った。
人里に落ちたその呟きを拾う者は、もちろん咲夜以外いなかった。
「お母さん見つかったんでしょ? なら心配することないじゃない」
「もちろん心配はしてないんですけど。なんだか気になりまして」
「変なの」
「変ですか」
「ほどほどに変ね」
「ならまだ普通ですね」
彼女の言葉はどんどんこぼれ落ちていく。咲夜は必死に拾うのだけど、言葉はなぜか重みを増していく。そのうち拾えなくなるんじゃないかという危惧を胸に抱いた。
「あなたにも親とかいるの?」
咲夜は言った。ふわりと浮かんだ考えが口から出ていた。
小悪魔がいつもの笑みでこともなげに答えた。
「いませんよ。パチュリー様に喚び出されて初めて生まれた存在なんです、私は。だから血のつながった人はいません」
「……ごめんなさい」
「謝らないでくださいよ。気にしていませんから」
小悪魔が快活に笑う。確かにその笑いは、慰めの情も卑屈さもなかった。
「あなたはよく笑うわね」
「知らないのですか? あったかいものをたくさん持っている人は笑うんですよ」
「へえ、小悪魔はなにを持ってるの?」
「家族です」
咲夜は怪訝な顔をした。小悪魔は、自分の渡したびっくり箱を開けた人を見たような、得意げな顔だった。
「でもさっき、血のつながった人はいないって……」
「はい。だけど家族はいるんです」
小悪魔は言葉をつむぐ。
「パチュリー様に喚ばれて、紅魔館にやってきました。頭には生活の最低限のことしか詰まってなくて、毎日毎日が発見でした。
まあ、世間からしてみればどうでもいい発見ばかりでしたけどね」
パチュリー様は無口で、お嬢様は傲慢で、妹様は怖くて、美鈴さんは愛嬌があって、咲夜さんはしっかりしていて、妖精メイドは抜けてて、門番隊は熱血で――。
咲夜と小悪魔は目を合わせてふふっと小さく笑った。
「いっぱい人に囲まれて育ちました。
だけどわからないこともあった。わからないことのほうが多かった。抽象概念がそうです。それのひとつが、『家族』でした。
何度も言うように、私は血縁関係が誰ともありません。だから、きっとこの紅魔館でどこか孤独を感じながら生きるしかないのだろうとずっと思っていました」
あの異変が起こるまでは――。
喧騒が遠くなって、小悪魔の声が近くなった。
「お嬢様の起こした『紅霧異変』。あのとき、みんながひとつの目標に向かって頑張ったんです。館内に侵入した巫女と魔法使い撃退を目指して。
なにくそと躍起になって、体面なんて気にしないで、でも最後はみんな負けちゃって。
負けちゃったあとのこと、私は生涯忘れません」
咲夜は目をつむり思い返す――。
『お疲れ』
紅魔館のメンバーがそろった部屋で、レミリアが言った。
みながみな、負けたというのに満足そうだった。傷だらけになりながら満たされていた。
『ひとつだけ、訊きたいの』
レミリアが全員の顔を見回す。
『みんな、紅魔館は好き?』
その瞬間、部屋にいる全員が顔を見合わせた。
そして――
照れくさそうに笑ったんだ。
「――すべてが愛おしくなりました。みんなを抱きしめたくなりました。
だから、私はいつでも笑えるんです」
小悪魔が言った。笑っていた。
咲夜は今日を振り返る。接点がないと思っていた小悪魔が親しげだったこと。どうでもいいことを嬉々として語っていたこと。
ごめん――。
咲夜は声に出さずに謝った。
ごめん。そして、大好きだ。
「……でも、こういうのって単純ですかね」
小悪魔がちょっぴり寂しそうに言った。「家族って、もっと違うんでしょうね」
その言葉は、拾えないくらいの重さだった。だけど拾ってあげなきゃいけないんだ。
咲夜の口が動かない。どうして、どうして……。
小悪魔が立ちあがった。うーんと伸びをする。そして、咲夜の腕をつかんだ。
「さあ、行きましょう! 夕飯の買い物がまだでしょう?」
彼女の顔にはいつもの笑顔。
咲夜はふがいなかった。
これでいいのか?
自問する。これでいいのか?
このまま、引っ張ってもらうだけでいいのか?
唇をぎゅっと噛みしめた。
そのときだった。小悪魔が止まった。
「――あっ、お姉ちゃん!」
舌足らずの声。とてもうれしそうだった。そちらを見る。
目の前には、さっきの迷子になっていた少女がいた。隣には大人の女性が立っていた。少女の母親だろう。ふたりはしっかと手をつないでいる。
「先ほどはどうも。ご迷惑をかけました」
母親が頭をさげた。小悪魔は慌てて頭を振る。
「い、いえ、そんな大それたことは……」
満面の笑みの少女が小悪魔の足に飛びついた。彼女はかがんで頭を撫でてあげた。
咲夜はつくねんと立っている。自分は外側なのだろうと考えていた。
「さっきはありがとうね」
「大丈夫だよ。でも今度からお母さんと離れちゃいけないよ」
「うん。それとね、あの揚げてあるお饅頭美味しかった。ありがとう」
小悪魔は少女の髪の毛を梳くように撫でている。
そういうことか、と咲夜は合点した。だからクレープを買うお金がなかったのか。
どんだけ人にものを奢るんだ。そのがま口のなかのお金はあなたのものだというのに。
小悪魔がすっと立ちあがった。そして、ぺこりと母親に頭をさげる。
母親はしとやかな笑みを浮かべていた。
「ふたりとも仲がいいのですね」
「きっとこの子は物怖じしない子なんでしょうね」
「違いますよ。小悪魔さんとお隣のメイドさんのことです」
いきなりお鉢の回ってきた咲夜は驚いた。小悪魔もきょとんとしている。
「だっておふたりさん、腕を組んでいたじゃないですか」
頬が熱くなる。恥ずかしいところを見られてしまった。
なんか言おうかと咲夜が口を開いたとき、
「姉妹なんですか?」
と母親が言った。
どうして、と思った。顔だって全然違うし、髪の色も違うし、種族だって違うんだ。なのに、なんで姉妹なのだ。
ほんと、どうしてだろうね。
なんで小悪魔はそんなうれしそうな笑顔を浮かべているんだろう。なんでそんな欠けていたものが満たされたような顔をしているんだ。
彼女と目が合った、幸せそうな笑い顔だった。
――そうね。あなたは、あったかいものをたくさん知っているものね。
だから迷子のこの子を助けたんだ。
咲夜は少女を向いた。そして、視線を相手と合わせるためにかがんだ。
少女が少しこわばった顔をする。その瞳は、長い年月をかけて清澄な川の底で洗われたように澄んでいた。
私もきっと、小悪魔みたいに笑えたら、この子を抱きしめてあげられるのだろうな――。
咲夜はおずおずと手を伸ばして、少女の頬に触れた。少女はくすぐったそうな笑みをこぼした。
思わず泣きそうになった。少女の頬がたまらなく温かったのだ。
親子が去っていく。母親は頭をさげた。少女は手を振っていた。
咲夜と小悪魔は手を振り返した。
姿が見えなくなるまで見送ったあと、ふたりは顔を見合わした。
「可愛かったですね」
「ええ、ほんと」
くすりとどちらからともなく笑った。
「――さあ!」
咲夜が突然声をあげた。そして、小悪魔の腕をつかんだ。ずんずんと引っ張って進んでいく。
「ちょ、ちょっと、咲夜さん……」
「ほら行くわよ。夕飯の材料を買いに。今日は紅魔館でパーティーを開きましょう。妖精メイドも門番隊も休みをもらって宴をしましょう」
そう言うと、小悪魔はしばらくぼんやりしていたが、「いいですね」と深くうなずいた。
今日は、みんなで楽しむのだ。飲んで踊って騒いで。よそのものに邪魔はさせない。
きっと、こういうのを『一家団らん』というのだろうな。
「夕飯に目玉焼きの乗ったハンバーグもつくるわよ」
「ハンバーグ!」
がぜん目が輝き出す小悪魔。じゅるりとよだれをすすった。
往来を横切りながら、
「……それと、たぶんね」
と、咲夜が言った。相手の目を見ながら言葉を続ける。
「私が姉で、あなたが妹ね」
「……はい!」
小悪魔が今日一番の笑顔を見せた。
ふたりは人里を突き進む。
咲夜はすれ違う人々に自慢したかった。
――今日ね、あったかいものを見つけたんだ。
それにしても咲夜さんの手品、どうやったんだろう…?人間に出来る技なのかな?
今年の投稿、楽しみにしてますぜ。
目線が優しいお話しでした。
笑顔が人を幸せにする、まさにそんなお話しで私も幸せ!
ステキでした
しかし、天使のような悪魔だなあ。
ほっこりしました
この作品における咲夜の生い立ちもちょっと気になった。